23


 学園祭のあと数日、公美さんと会わなかったのは幸いだった。
 思い出しただけで赤面してしまう。あの日は学校の屋上で、まるで恋人同士でもあるかのように抱き合ってしまった。
 ほとんど抵抗らしい抵抗もせずに、公美さんの愛撫に身を委ねてしまった。
 とても気持ちよくて。
 少なくとも、している間だけは「もっとして欲しい」と思っていた。
 あんなに感じてしまって、ついに指を奥まで入れられて。中指だけだからよかったものの、危うくバージンをあげてしまうところだった。
 あまり、いい傾向とはいえなかった。少しずつ、公美さんの愛撫を受け入れることに対する抵抗が少なくなっている。
 もう、ほとんど既成事実といってもいい。
 どんなに常識はずれの出来事だって、毎日続けばそれが当たり前になって慣れてしまう。
 このままではいけない。
 どこかで断ち切らないと、ずるずると最後まで流されてしまいそうだ。
 だから。
 うちの学校が、学園祭の後すぐに夏休みに入るのはラッキーなことだった。あの後、朝の電車では一度会っただけで終業式を迎えた。これでもう、九月まで朝の電車に乗ることはないのだから。



 夏休みに入ったばかりのある日。
 街へ買い物に出て、本屋でふとワインの本が目に入った。なんとなく興味を引かれて、手に取ってみた。重くて分厚い本に手こずりながら、ページを繰っていく。
「え……と、フランス……ブルゴーニュ……、ボンヌ・マール……だっけ」
 初めて公美さんと食事をした日、ご馳走になったすごく美味しいワイン。
 あたしが生まれた年のワイン。
 載っているだろうか。
「……あった」
 説明文を読む。
 ――ドメーヌ・コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエ。シャンボール・ミュジニー村に本拠を置く名門。
 ボンヌ・マール。深みのある外観と、クレーム・ド・カシスのような濃縮された果実のアロマが感じられるグラン・クリュ――
 一九八○年代の物は、どれも二〜三万円の値が付いていた。小売価格がこれなら、レストランで頼めばもっと高いのだろう。
 やっぱり、すごいワインだ。
 あの味を思い出して、思わず溜め息をついた。
 それからふと思い付いて、ロマネ・コンティを探してみる。
 ――ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ。世界でもっとも敬意を集める生産者。このドメーヌのワインに対しては、どの生産者、どのワインもひれ伏すしかない。
 その中でも最高峰が、かのロマネ・コンティ。
 熟成を十分に経たワインは、コルクを開けた瞬間から永い眠りから覚めて清々しい香りが広がり、一度グラスに注ぐと周囲を取り巻く全ての状況を変えてしまう。クジャクの羽が口の中で広がるような感覚のワイン――
 ちなみに値段は、年によって十数万円から七十数万円。
「やっぱり、すごいなぁ。公美さんにおねだりすれば、ご馳走してもらえるかなぁ……」
 一瞬そんなことを考えて、慌てて頭を振る。
 確かに、ご馳走してはもらえるだろう。だけど「タダで」ではない。
 あたしのバージンと引き替えに……なら、公美さんはきっと喜んでご馳走してくれる。
「でも、いくらバージンとはいえン十万円以上ってのは……世間一般の援助交際の相場より高いよね……って、だからっ! そんなつもりはないって!」
 あたしは本を置いた。これ以上美味しそうなワインを見ていたら、危険な考えになりそうだった。
 やっぱり初めては、ちゃんとした素敵な恋人とするべきだ。間違っても、同性愛者の痴漢なんかにあげちゃいけない。
「そういえば……」
 公美さんは最近、何をしているんだろう。
 夏休みに入ってからは当然会っていないし、なんの連絡もない。メールで呼び出されたりするかと思っていたんだけれど、そんな気配もない。
 あたしがいないから、他の女の子を襲っている? だけど今は夏休みだから、他の獲物もいないだろう。部活や夏期講習で電車に乗る女子高生もいるだろうけれど、その電車は普段ほどには混まないはずだ。痴漢するには差し障りがあるに違いない。
「結局、その程度の気持ちってことよね。聖さんはちゃんと、頻繁にメールや電話くれるのに……って、だからっ! 違うって!」
 なんだかここ数日、情緒不安定気味だった。
 公美さんに迷惑していたことは間違いないんだけれど、それが日常になりつつあったから、急に会わなくなると調子が狂ってしまう。
「もう、忘れちゃえばいいんだって。あんな奴のこと」
 そう自分に言い聞かせて、歩き出そうとした。
 その時。
「あ、美鳩さん?」
 不意に、背後から声をかけられた。可愛らしい、女の子の声。
 振り返ると、一冊の本を抱えた長い髪の美少女が立っている。あの、菱川笙子だった。
「あ、久しぶり。今日は買い物?」
「ええ、これを買いに」
 持っていた本の表紙をこちらに向ける。
「あっ、美作百合子の新刊! 今日発売だったっけ?」
「ええ、しかも……」
 笙子の手に、小さな紙切れが現れる。そこに書かれていた文字を読んで、
「ええぇっ!」
 不覚にも、大声を上げてしまった。近くにいた他のお客さんが、何事かとこちらを見る。
『新刊発売記念・美作百合子サイン会 整理券』
 ――と。
 美作百合子は、笙子が大のお気に入りの作家である。女の子同士の恋愛物が中心という、少々特殊な作風ではあるが、その美しくて優しい文章はあたしも大好きだった。
 同性の恋人を持つ笙子が、あたしが同性愛に偏見を持っていると思い込んで、美作百合子のデビュー作を貸してくれたのがきっかけで読むようになったのだ。その後も、笙子から既刊をすべて借りて読んだ。同性愛の是非はともかくとして、この作家の本が面白いのは事実だった。
「うわぁ、いいなぁ。よーし、あたしも買っちゃおう!」
 壁に貼られていたポスターを見ると、サイン会は十日ほど先の日曜日だった。その日、特に他の予定はない。
 あたしは平積みされていた新刊を手に取ってレジに向かい、笙子と一番違いの整理券を手に入れた。



 その後もしばらく、平和な夏休みが続いた。
 公美さんに襲われることもなく、聖さんや真澄たちと遊びに行ったり、笙子と会ったり。
 痴漢されない生活が、日常となりはじめた頃。
 久しぶりに、公美さんと会った。
 朝……と呼ぶにはやや遅い時刻。
 それでもベッドの中でだらだらと惰眠を貪っていると、携帯の着メロが鳴った。
 こんな早くに(実際には早くないけど)誰だろう、と思って見ると、液晶には公美さんの名前が表示されている。
 一瞬、無視してしまおうかとも考えたが、指が反射的に着信ボタンを押してしまっていた。
「……はい」
『やっほー! 美鳩ちゃん、お久しぶりー』
 陽気な声が聞こえてくる。
『天気もいいし、これからドライブにでも行かない? 今、家の前まで来てるんだけど』
「え?」
 慌てて居間に移動して、ベランダから下を見た。
 マンションの前に、赤いオープンカーが停まっている。その運転席で、こちらを見上げて手を振っている女の人がいた。
『こんな天気のいい日に、家にこもってるなんて不健康だよ』
「……でも公美さんと一緒にいるのは、不健全だと思う」
『あはは、うまいこと言うね。座布団一枚』
 相変わらず、なにを言っても全然堪えてない。
「でも、今日はダメだよ。友達と約束してるもん」
 これから、聖さんたちとプールに行く予定。
『えー、そんなぁ。久しぶりのお休みなのにー』
 心底がっかりしたような、公美さんの声。最近会わなかったのは、仕事が忙しかったからなのだろうか。
 あたしは小さく溜息をついた。
 非情になりきれない自分が恨めしい。
「明日なら……」
 と言いかけて、ふと気付いた。明日は笙子と一緒に出かける約束をしている。
「……も予定があるから、えっと、明後日なら空いてるけど?」
『ホント? ホントに? じゃあ約束ね。明後日の十時に迎えに来るから』
「……念のため言っておくけど、日帰りだからね! ホテルとか、まったく人気のない場所とかはダメだから!」
『…………』
 沈黙の向こうに、微かな舌打ちの音がしたのを聞き逃さなかった。やっぱり、危ないところだった。
「……ったく。約束だからね! それじゃ」
 あたしは乱暴に電話を切って自分の部屋に戻った。
 携帯を机の上に放り出し、ベッドにごろりと横になる。
 少しだけ、胸の鼓動が速くなっていた。
「……あ」
 電話を切ってから思い付いた。
 あたしが出かけるまでにはまだ時間があるから、コーヒーくらい淹れてあげればよかったかも。
「……って、なに考えてンの!」
 そんなことをしたら、またソファの上で色々なことをされてしまったに違いない。
 キスされたり。
 胸を揉まれたり。
 あそこを触られたり。
「……」
 公美さんの、指の感触の記憶が甦ってくる。下半身が、じわっと熱くなってきた。
 無意識のうちに、手がパジャマの中にもぐり込む。
「あ……、ん」
 指が動き始める。
 公美さんの指を、これまでにされた様々なことを思い出しながら、真っ昼間だというのにあたしはひとりエッチをはじめてしまった。



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