25


 夏休みも残り少ない、ある日。
 あたしは生まれて初めて、男の子とデートしていた。
 きっかけは、親友の真澄の紹介だった。「彼氏の友達が、ハトのこと紹介して欲しがっているんだけど、どぉ?」と。
 こうしたお誘いは珍しいことではない。これまでにも何度かあったけれど、いまいちピンと来るものがなくて断っていたのだ。
 今回、承諾した理由はひとつ。ちょっと、生活を変えた方がいいのではないか、このままではよくないんじゃないか……そう思ったから。
 このままでは、あたしも同性愛にのめり込んでしまいそうな、そんな不安があった。
 以前のように公美さんを拒めなくなってきたり、聖さんのことが気になったり。
 だんだん、同性に惹かれてきている自分に気付いてしまった。
 よくない傾向だ、と思う。笙子みたいに「相手が女性だって構わない」と開き直ることは容易ではない。今時の健全な女子高生としては、やはりちゃんと、同じ年頃の男の子とお付き合いするべきじゃないだろうか。
 いつまでも食わず嫌いはよくない。とりあえず手始めは真澄の紹介で、真澄とその彼氏も同行してのWデートだった。



 名前は、近藤正樹くんという。真澄の彼氏、平沢くんのクラスメイトだそうだ。うちの学校の近くにある男子校の二年生。
 あたしは、ひどく緊張していた。
 真澄に連れられて待ち合わせ場所へ向かう時から、心臓はドキドキ、掌にじっとりと汗をかいていた。
 別に緊張するほどのことではないと、いくら自分に言い聞かせてもダメ。今時、奥手すぎると言われるかもしれないけれど、男の子とデートなんて初めてなのだ。
 近藤くんの第一印象は、すらりと背が高い人。
 バスケ部だそうだ。
 男の子の評価基準というのはいまいちよくわからないけれど、多分、なかなか格好いいんじゃないかと思う。「近藤くんって格好よくてモテるらしいよー」と真澄は言っていたが、決して誇大広告ではないようだ。
 爽やかな笑顔、っていうんだろうか。雰囲気は軽すぎず堅すぎず、比較的親しみやすいタイプかもしれない。少なくとも、顔を合わせた瞬間に回れ右したくなるようなことはなかった。
 ちょうどお昼時だったので、まずは四人でハンバーガーショップで昼食。それからゲームセンター、そしてカラオケ。
 高校生らしいデートコース、っていうんだろうか。公美さんとのデートみたいに、高級フレンチも高いワインもお寿司も縁がない。だけど本来、普通の女子高生としてはこちらがあるべき姿であり、ロマネ・コンティ付きのフルコースをご馳走してもらえるあっちが異常なのだ。
 かなり時間が経っても、あたしの動悸は治まる様子がなかった。緊張のあまり息苦しくなって、うまく喋れないくらいだ。自分でも、ここまで男の子に免疫がないとは思わなかった。
 真澄と彼氏の沢田くんは、あたしたちに見せつけるようにべたべたしている。他に人目のないカラオケボックスの中では、ほとんど抱き合うようにしていたくらい。あたしがあんなことをしたら、心臓が破裂してしまうかもしれない。
 そろそろ晩ご飯にしようか……という頃になると、本格的に具合が悪くなっていた。カラオケボックスの中って、あまり空気がよくないせいかもしれない。
 外に出た時には、吐き気すらこみ上げてきた。緊張のためだけとは思えない。なにか悪いものでも食べただろうか。
「ハトちゃん、なんだか顔が青いけど大丈夫?」
 隣を歩いている近藤くんが訊いてくる。
 手をつないで前を歩いていた真澄と沢田くんが振り返る。
「うん……平気」
 そう、答えようとした。
 けれど突然の激しい嘔吐感に襲われて、声が出なかった。額に脂汗が滲み、目の前が暗くなる。
 立っていられなくて、あたしはその場にうずくまった。
「あれ、美鳩ちゃん?」
 失神しそうになるあたしの意識をつなぎ止めたのは、そんな、聞き覚えのある声だった。
 公美さんだ。友達なのか、それとも恋人なのか、同世代の女性と並んで歩いている姿が目に入った。
「どうしたの? 顔が真っ青よ」
「ちょっと、吐き気が……」
 口を押さえながら、なんとかそれだけを答える。公美さんの手が肩に触れた。
「あんまり、大丈夫そうじゃないわね。……車で送っていってあげようか?」
 込み上げてくる酸っぱいものを堪えながら、あたしはうなずいた。体調不良の原因はわからないけれど、どう考えてもこのままデートを続けていられそうな状態ではない。
 公美さんは真澄たちと二言、三言話して、真澄が通りがかったタクシーを停めてくれた。真澄や近藤くんへの挨拶もそこそこにタクシーに乗せられる。隣に公美さんが座るのと同時にドアが閉まり、タクシーは走り出した。
 あたしは、ゆっくりと深呼吸した。座っているせいか、いくらか楽になってきた。
 公美さんが、タクシーに乗る前に自販機で買ったらしいスポーツドリンクを渡してくれた。その冷たさが喉に心地よくて、吐き気は急速に治まっていった。
「ふぅ……」
 大きく息をつく。
 身体が少し楽になると、急に眠たくなってきた。今日は一日緊張して、精神的に疲れてしまったから。
 中身が半分くらい残ったペットボトルを公美さんに返して、あたしは訊いた。
「……いいの? デートだったんでしょ?」
 一緒にいた女性を後に残して、公美さんはあたしと一緒にタクシーに乗ってしまった。これって、まずいのではないだろうか。
 しかし公美さんは、なんだか嬉しそうに訊き返した。
「あ、妬いてくれるの?」
「……ばか」
「変に気を回さないの。彼女は担当の編集さん。仕事の打ち合わせをしてたの。私は美鳩ちゃん一筋よ」
 ちょん、と人差し指で頬を突つかれる。
「……うそばっかり」
 あたしはそれ以上話す気力もなくて、公美さんに寄りかかるようにしてうつらうつらしはじめた。
 疲労感で身体が重かったけれど、吐き気はすっかり治まっていた。



「……あれ?」
 意識がはっきりすると、ベッドに寝かされている自分に気がついた。
 だけど、なにか様子がおかしい。
 はっと気付いた。ここは、あたしの寝室ではない。
「……ここ、どこ?」
「私のマンション。こっちの方が近かったから」
「く、公美さんの部屋っ?」
 いきなり大ピンチ、貞操の危機だ。だけどまだ、逃げ出すほどの元気はない。
 抵抗できない状況で公美さんの部屋に連れ込まれたなんて。
 ああ、もう。十六年間守ってきたバージンよさようなら、って心境。
「どうする? もう遅いけれど、このまま泊まってく?」
 壁に掛かっている時計を見ると、もう夜中だった。これから駅に向かっても終電にはぎりぎり間に合うかもしれないけれど、今の体調で駅まで走って、家に帰ってお風呂に入って……と費やす時間を考えると気が重い。
 とはいえ。
 このまま公美さんの部屋に泊まったら、自分からお皿の上に乗って「どうぞお召し上がりください」と言っているようなものではないか。
 でも、公美さんが弱っているあたしを襲うようなことをするだろうか。
 ……するだろうな、公美さんなら。
「……あたしの具合が悪いのをいいことに、部屋に連れ込んで変なことする気なら、本気で軽蔑するよ」
「しないわよ。弱っている美鳩ちゃんよりも、元気な美鳩ちゃんの方が可愛いもの。そうねぇ、せいぜいキスくらいかな。それ以上はねぇ……したくないといえば嘘になるけど、今夜中に上げなきゃならない仕事があってね」
 公美さんが机を指差す。見ると、パソコンの電源が入っていて、あたしも使っているワープロソフトの画面が表示されていた。
「ホントに? 絶対? 約束する?」
「今夜は約束する。その代わり、元気になったらまた遊ぼうね」
「ん……、じゃあ、泊まってく」
 あたしはうなずくと、のろのろと身体を起こした。かなり汗をかいたらしく、身体がべたべたする。
「シャワー、借りてもいい?」
「ええ、お風呂も入れるよ」
 公美さんは真新しいバスタオルと、パジャマと下着を持ってきてくれた。
 だけど。
 下着は中が透けそうなレース製で、隠す範囲が妙に狭い、セクシーな……というかエッチなデザインだった。ひょっとして、前に公美さんが言っていた「あたしに穿かせようと思って用意したエッチなパンツ」とはこれのことだろうか。
 それに、パジャマは上着だけ。
「……下は?」
 念のため訊いてみると、公美さんは笑って言った。
「女の子が、パジャマの上だけを着ている姿って可愛いじゃない?」
「……まあ、いいけど」
 パジャマの下だけよりは、上だけの方がまだましだろう。公美さんのサイズだから、あたしが着ると一応下も隠れる程度には大きめだ。
 こちらとしては、泊めてもらう立場なのだから、ちょっとくらいエッチな姿をサービスしてあげるのも仕方がない。
 あたしは諦めてバスルームへと向かった。
 一人暮らしのマンションのバスルームとしては結構広い。新しいお湯を張ったバスタブに身体を浸した。
 温めのお湯が心地よい。なにかのハーブの入浴剤の、ほのかな香りが漂っている。
 汗とともに、今日一日の疲労が流れ落ちていくような気がする。
 あたしは、ふぅっと大きく息を吐きだした。
 心臓の鼓動が、少しだけ速くなっている。まだ、完全に気を許したわけじゃない。公美さんはああ言っていたけれど、やっぱり何かされてしまうかもしれないという不安はある。
 だけど今のかすかな不安は、デートをしていた時の不快な緊張感とはまったく違っていた。
 もしかしたら、それをまったく期待していないといったら嘘になるかもしれない。
 キス、プラスαくらいのことならいいかな、なんて。
 まさか、そんなことはないと思うけれど。それでも万が一のことを想定して、つい、全身すみずみまで念入りに洗ってしまった。
 お風呂から上がって、新品のバスタオルで身体を拭いて。
 ちょっとエッチなパンツとパジャマを身に着けた姿を、脱衣所の鏡に映してみた。パジャマは少し大きめだから、胸元が広く開いて、胸の谷間がはっきりと見えてしまう。それに、パジャマの裾から伸びた脚もすごくエッチな光景だ。これじゃあまるで、誘っているみたい。
 だけど寝室に戻ると、公美さんはパソコンに向かって真面目に仕事をしていた。キーボードを叩く音だけが響いている。
 その背中を見ながら、あたしはベッドにもぐり込んだ。公美さんは一瞬だけこちらを振り返って、小さな声で「おやすみ」と言ってくれた。
「……おやすみ」
 あたしも小さな声で応えて、鼻まで毛布の中にもぐり込む。
 初めての、公美さんのベッド。そう思うと少し緊張する。
 いったいこのベッドには、これまで何人くらいの女の子が連れ込まれたのだろう。
 いったいここで、どんな痴態が繰り広げられてきたのだろう。
 考えると、興奮して眠れなくなりそうだった。その疑問を無理やり頭から追い出す。少なくともあたしの鼻には、公美さんの匂いしか嗅ぎとれなかった。
 目を閉じる。
 リズミカルなキーの音だけが聞こえてくる。
 それを子守歌に、いつしかあたしは心地よい眠りに落ちていた。



 香ばしいコーヒーの香りで目を覚ました。
 いつの間にか、朝になっていた。窓の外の日差しの強さを考えると、朝早く……という時刻ではないようだ。
「おはよう、よく眠れた?」
 椅子に座ってコーヒーを飲んでいた公美さんが、カップを手渡してくれた。机の上に、白い磁器のポットが置かれている。
 公美さんは昨夜と同じ服で、少し髪が乱れていて、目が赤かった。
 徹夜で仕事していたのだろうか。なんとなくけだるい雰囲気が漂っていて、妙に色っぽい。
 あたしは変にドキドキしてしまって、それを気取られないように、うつむいて手の中のカップを見つめた。小さな茶色の水面に、あたしの顔が映っている。
「し……仕事は終わったの?」
「うん、つい先刻ね。ね、美鳩ちゃん、今日ヒマ? どこか遊びに行こうか?」
「それより、眠った方がいいのでは……」
 徹夜で仕事していた公美さん。あたしが起きてからだけでも、もう五回も大きな欠伸をしている。こんな状態の公美さんの運転でドライブなんて、考えただけでも怖い。
「……そうだね」
 公美さんも眠そうに応える。
「じゃ、一緒に寝ようか」
「それ、『寝る』の意味が違うのではっ?」
「細かいこと気にしない」
 あたしの手からカップを取り上げた公美さんは、それをサイドテーブルの上に置いて覆い被さってきた。為す術もなく、ベッドに押し倒されてしまう。
「ちょ……ちょっと、公美さん!」
 そんな、眠いのを我慢してまであたしを襲わなくても。
「キス、してもいい?」
 耳たぶをくすぐるようにささやかれる。
「え?」
「キ、ス。ほら、昨夜は結局しなかったじゃない」
「ああ……」
 そういえば、エッチなことはしないけれどキスはするって宣言してたっけ。
 そのことは了解していたけれど、こう堂々とあらたまって訊かれては、なんだか気恥ずかしい。
 でも、まあ。
 昨夜は色々とお世話になっちゃったし。
 まあ、感謝の意味でのキスくらいなら……ね。
「……うん」
 あたしはうなずいて目を閉じた。
 間をおかずに唇が重ねられる。
 柔らかな唇の感触。
 唇を割って侵入してくる濡れた舌の感触。
 とろけてしまいそうなほどに気持ちがいい。
 胸の上に置かれた手。
 あたしの両脚を割って、敏感な部分に押し付けられている公美さんの脚。
 やっぱり、すごく気持ちがいい。
 あたしは、公美さんの身体に腕を回した。
 しっかりと抱きしめる。
 公美さんと身体を重ねることは、本当に気持ちのいいことだった。



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