今日から新学期。
久しぶりの学校。
だけど、夏休み前とはひとつ違うことがある。
学校へ行っても、もう聖さんはいない。一昨日、成田空港まで見送りに行った。
次に会えるのは、ずっと先のことだろう。もしかしたらお正月には一時帰国するかもしれない、とは言っていたけれど。
一番仲のよかった友達がいない教室。
ひとつだけ、使われない机がある教室。
そのことを考えるだけで、憂鬱な気分になってくる。あたしは溜息をつきながら、久々の朝の電車に乗った。
「おはよ。久しぶり」
いきなり、耳元でささやく声。
肩に置かれる手。
背中がぞくぞくする。
いつものように微笑んでいる公美さん。だけど、それに対するあたしの反応は少し違っていた。
わざと不機嫌そうな表情を作って、そっぽを向くか嫌みのひとつでも言う――それがいつものあたしの態度。
なのに今朝はどうしたわけかそれができなくて、顔が真っ赤になって、黙ってうつむいてしまった。
何故だろう。公美さんの顔を見るなり、あの、聖さんと過ごした夜の記憶が鮮明に甦ってきたのだ。
あたしに触れる聖さんの手の感触、唇の感触、重なり合う肌の感触。あまりにも生々しいその記憶に、顔が熱く火照ってしまう。
赤い顔を見られたくなくて、あたしは公美さんに背中を向けた。
「どうしたの?」
不自然な反応を訝しく思ったのか、背後から公美さんが訊いてくる。あたしは首を左右に振った。
「……なんでもない」
「なんでもない、って雰囲気じゃないけど」
「……ホントに、なんでもない」
どうしてだろう。
公美さんの顔がまともに見られない。
どうして、だろう。
どうしてこんなに後ろめたくて、罪悪感を覚えるのだろう。
まるで、浮気をした後で本命の恋人と会ったような気分。実際にそんな経験があるわけじゃないけれど、なんとなくそんな気がした。
どうして。
公美さんなんて、恋人でもなんでもないのに。
むしろ、聖さんの方が本命っていってもいいのに。
どうしても、公美さんの顔を見ることができなかった。
公美さんはいつものように、あたしの背後にぴったりとくっついてくる。
だけど最初に肩に触れたきり、触ってこない。
ただ、そこに立っているだけ。
背中に公美さんの体温を感じながら、あたしはかすかな物足りなさを感じていた。
別に、痴漢されたいわけじゃない。だけど、あって当然のはずのものがないというのは、やっぱり拍子抜けしてしまう。
そんなことを考えていると、不意に耳元でささやかれた。
「美鳩ちゃんの浮気者」
びくっ!
一瞬、全身が強張った。
反射的に振り返って、目が合ってしまった。
しまった、と思った時にはもう遅い。頬がかぁっと熱くなる。あたしはそのままうつむいた。
「聖子ちゃんに電話で自慢されちゃったわ」
「あ……」
聖さんってば、どうして。
もう、おしゃべりなんだから。
今は太平洋の向こうにいるはずの人を、ちょっとだけ恨んでしまう。
「美鳩ちゃんってば、すっごく積極的で激しかったそうじゃない? 私の時は抵抗するくせに」
どことなく拗ねたような、子供っぽい口調だった。
「あ、あの……」
「しかも、タチもやったんだって? 私にはなんにもしてくれないのに」
ねちねちと続く公美さんの嫌味。冗談めかした物言いではあったけれど、結構しつこい。
「ご、ごめんなさい」
あたしはいたたまれなくなって、まだ降りる駅じゃなかったけれど、ちょうどドアが開いていたのをいいことに電車から飛び降りた。
公美さんが追ってくるかと思ったけれど、そんな気配はない。
背後でドアが閉まる。
走り出す電車を見送りながら、なんだか泣きたくなってきた。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
今朝のあたしは、いったいどうしてしまったんだろう。
ひとつ、大きな溜息をつく。
ここで次の電車を待つ、という気分ではなかったので、あたしは駅を出て歩き出した。学校まではあと一駅、歩けない距離じゃない。
一人で歩きたい気分だった。
どんよりと曇った今日の空と、同じ色の心。
何度も溜息をつきながら、とぼとぼと歩いていく。
ぽつり、と鼻の頭に冷たいものが当たる。
雨はすぐに本降りになってきたけれど、あたしは濡れるのも構わずに、傘もささずに歩き続けた。
翌日。
あたしは、熱を出して寝込んでいた。雨に濡れて風邪をひいてしまったようだ。
外は、昨日から降り続いている雨に風が加わって、ひどい嵐になっていた。天気予報を見ると、小型の台風が速度を上げて接近しているらしい。
ビュウビュウと鳴る風の音。
がたがたと揺れる窓。
こんな状況で寝込んでいると、よりいっそう陰鬱な気持ちになってしまう。
「……美鳩、具合はどう? なにか、欲しいものでもある?」
夕方、出勤前のお母さんが、遠慮がちに部屋の扉をノックした。あたしは返事をせずに、眠っているふりをしていた。
もう一度ノックがあって、やがて、お母さんの気配は遠ざかっていった。
はっきり言って、あたしとお母さんはうまくいっていない。普段、ほとんど口もきかない。
理由はよくわからないけれど、あたしはお母さんのことが嫌いだった。お母さんも、あたしに対してどこかよそよそしい接し方をする。
卵が先か、鶏が先か。どちらから始めたことなのか。
正確には憶えていないけれど、ギクシャクしはじめたのは小学生の頃、両親が離婚した頃か、その少し前だと思う。
きっと、離婚のゴタゴタがきっかけなのだろう。その頃の記憶はあまり残っていない。
お母さんが出かけて家にひとりになると、少し気が楽になった。二人の時は、家の中に奇妙な緊張感が漂っている。
喉が渇いたので、起き上がってキッチンへ行った。食欲がなくて、今朝から食事はほとんど食べていない。スポーツドリンクだけでカロリーを補給している。
ちらっと外を見ると、雲が低く立ちこめて、夕方といってもまだ早い時刻なのに空は真っ暗だった。
街路樹が、今にも折れそうなほどに大きく揺れている。
雨粒がばらばらと窓を叩いている。
見ているだけで、怖くなってくるような光景だ。
すぐに、ベッドに戻った。
ベッドに戻って、眠ろうとした。
眠ってさえいれば、嫌なことは忘れていられる。
怖い嵐のことも、お母さんのことも、公美さんのことも、聖さんのことも。
ここ数日、あたしのテンションは下がりっぱなしだった。聖さんの転校が、予想以上に堪えていた。
昨日、聖さんのいない教室は、夏休み前とは別な空間のようだった。
仲のいい友達は他にもいる。だけどやっぱり、聖さんは特別だった。
今なら、その理由もわかる気がする。
聖さんは、「友情」ではなく「愛情」であたしと接してくれていたから。
だから、他の友達とは違っている。
聖さんと、……そして公美さんは、その点で他の友達とは違う、特別な存在だった。
いつの間にか、眠っていたらしい。
熱のせいか、ひどくうなされて、目が覚めると身体中汗びっしょりだった。すごく嫌な夢を見ていたような気がするけれど、それがどんな夢だったかは思い出せなかった。
これだけ汗をかいたのに、まだ熱は下がっていないようだった。頭が朦朧としている。
枕元の時計をちらりと見る。真っ暗な部屋の中でぼんやりと光っている数字は、もう夜の十時を過ぎていた。
外は相変わらずの嵐で、窓ががたがたと鳴っている。
あたしは頭まで布団を被って、ベッドの中で丸くなって震えていた。
どうしてだろう。
どうして、こんなに怖いんだろう。
もう、嵐を怖がるような子供じゃないのに。
震えが止まらない。
夜の嵐が、怖くて怖くて仕方がない。
風の音に、か細い嗚咽の声が混じる。いつの間にか、あたしは泣いていた。
小さな子供のように、一人の夜が怖くて泣いていた。
嫌だ。
一人でいたくない。
誰か、傍にいて欲しい。傍にいて、あたしを守って欲しい。
守って……?
いったい、なにから守るというのだろう。
思考が支離滅裂だ。
頭がずきずきと痛んで、順序だてて落ち着いて考えることを邪魔している。
「やだ……いや……、お母さん……」
子供のような、情けない泣き声。いくら呼んでも、お母さんが助けてくれるわけないのに。
そう。
お母さんは助けてくれないんだ。あたしが泣いていても。
あたしがどんなに辛い思いをしていても、助けてはくれない。
だから、ここで泣いてちゃいけない。
そう、一人でいちゃいけないんだ。
「――っ!」
あたしは跳び起きると、部屋の明かりをつけた。もう一度時計を見る。
まだ、最終電車には間に合う。
大急ぎで服を着て、お財布だけを持って家を飛び出した。
家にいたくなかった。嵐の夜に一人でいるのは耐えられなかった。
外はひどい風と雨で、傘なんてほとんどなんの役にも立たなかった。風を受けて飛ばされそうになるだけだ。
徒歩数分の駅まではずっと向かい風だった。そのせいか、それとも熱のせいか、普段の三倍くらいの時間がかかった。
傘をさした意味はほとんどなくて、駅に着いた時には下着までずぶ濡れで、髪はくしゃくしゃになっていた。
駅員さんの他は誰もいない、人気のない駅。こんな夜はみんな、家でおとなしくしているのだろう。
切符を買ってホームへ出る。熱のせいで立っているのが辛くて、すぐにベンチにうずくまった。
自分の身体をぎゅっと抱きしめる。
震えている身体。
雨に濡れて寒いから?
熱のせい?
それとも、まだ治まらない恐怖感のため?
いったい、なにを怖がっているのだろう。
子供みたいに、一人でいるのを怖がっているなんて。
馬鹿馬鹿しい、と思っても、恐怖感が拭えない。
どうして?
どうして……それは考えちゃいけない、そんな気がする。
だけど、考えずにいられない。
そうだ。あたしは子供の頃もそうだった。お母さんのいない夜を怖がっていた。
どうして……?
だめ。考えちゃいけない。
思考の糸がごちゃごちゃに絡まる。
頭が痛い。
頭が痛い。
心臓が頭の中にあるみたいに、ずきんずきんと脈打っている。
あたしは、それ以上の思考を諦めた。同時に、眩い光が視界に飛び込んでくる。近づいてくる電車のライトだ。
電車の中も、ほとんどお客さんの姿はない。
貸切りのような車内で、あたしは端の席に座った。あたしを中心にシートが濡れて、黒っぽい染みが広がっていく。
電車がガタンと揺れて動き出す。
身体に力が入っていないから、あたしの身体も揺れる。そして、視界も揺れる。
外は真っ暗でなにも見えない。ただ、窓に叩きつけられる雨音が聞こえるだけ。
目的地まで二十分ほど、あたしはただぼんやりと、真っ暗な窓を見つめていた。
電車を降りて駅を出ると、外は相変わらずの暴風雨だった。
歩き出してすぐに、傘をさすことを諦めた。一瞬で壊れるか、飛ばされるか。どっちにしろ、傘をさしていたところで濡れることに変わりない。
横殴りの雨の中、あたしは走り出した。
あたしを助けてくれる人。
傍にいてくれる人。
優しく抱きしめてくれる人のところへ。
熱のせいで、風のせいで、何度もよろけて転んでしまう。
既にずぶ濡れの服が、さらに泥だらけになってしまう。
それでも構わずに走り続ける。
雨が目に入って、まともに開けていられない。それ以上に、溢れ出る涙の方が多い。
あたしは、泣きながら走っていた。
何をやっているのだろう。
家を飛び出した段階から、すでに理性的に考えての行動ではない。
本能のままに、心の命じるままに走っていったあたしは、やがて、夢遊病者のように朦朧とした足取りで、その建物に着いた。
まだ新しい、お洒落な外装のマンション。最近ちょっと古びてきた感のあるうちとは大違いだ。きっと価格も億単位なのだろう。
入口は閉まっていた。
その横にあるテンキーと、細いスリット。セキュリティもしっかりしている。
お財布の中に入れてあったカードキー、絶対に使うことなどないと思っていたキーを差し込む。熱に犯された頭で暗証番号を思い出すのには、少し時間がかかった。
よろめきながら中に入る。
身体が妙にふわふわして、歩いている感覚もなかった。
なにも考えられない。
視界が暗くなってくる。
もう、自分が何をしているのかすらわからないままにエレベータのボタンを押して――
意識があったのは、そこまでだった。
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