第一話 西十八丁目の魔女

By 北原 樹恒


 大通り駅を発車した地下鉄は、何故か急に速度を落とし、次の西十一丁目駅に着く前に停車してしまった。
 ざわつく車内に、車掌のアナウンスが流れる。
『え〜、前方の線路を、スライムの群が塞いでおりますので、緊急停車しました。早急に駆除いたしますが、復旧には三十分ほどかかる見込みです。お急ぎの方は、駅係員の指示に従い、1番出口をご利用ください。』
 ――やれやれ、またか。
 ――今月に入って三度目だな。
 どこからともなく、溜息混じりにそんな声が聞こえてくる。
 開いたドアから、乗客達が次々と線路に降りた。JRや交通局の『○○分で復旧』が当てにならないことは周知の事実であるし、それでなくても通勤・通学ラッシュのこの時間帯、のんびりと三十分も待っていられる人はそう多くない。
 そして、鈴木安加流(あかる)もそんな『先を急ぐ乗客』の一人だった。
「何で、よりによって今日…?」
 安加流は不機嫌そうに呟く。
 普段なら、これ幸いと自主休校にでもするところであるが、何しろ今日から一学期の期末試験、間違っても遅刻するわけにはいかない。
「スライムのせいで地下鉄が止まって遅刻しました…。ううん駄目、『だったら走ってこい!』って言われるのがオチ。」
 安加流は、若いくせに頭が固くて融通の利かない担任の顔を思い浮かべた。
「こんなことなら、中間をもう少し真面目にやっておけば良かったかな…」
 中間試験の成績が良くなかった安加流には、もう後がなかった。
 すなわち、夏休みが補習で潰されるかどうかの瀬戸際なのである。
「まあ、急げばまだ間に合うよね…」
 大通りから、安加流の通う高校がある西十八丁目までは地下鉄で二駅、歩くのが辛い距離ではない。
「おはよ〜。安加流ちゃんもこの電車? 参っちゃうよね〜、試験の日にコレなんて…」
 真っ暗な線路沿いに、大通り駅の方へ歩き出してまもなく、背後から陽気な声が聞こえてきた。
 振り向くと、クラスメイトの谷村祐子が立っている。
「ゆ〜こちゃんも?」
 安加流はほっと息を洩らす。
 遅刻の危機が去ったわけではないのだが、道連れがいると何となく心強い。
「安加流ちゃんがいて良かった〜。地下鉄の線路って、ちょっと不気味だもんね〜」
「そぉ?」
 安加流がそう答えるのと同時に、前方から、悲鳴らしき声が聞こえてきた。線路脇を歩いていた人の列が、ぴたりと停まる。
 悲鳴はすぐに止み、辺りは不気味な静寂に包まれた。
「何…? 今の…」
 祐子が、安加流の陰に隠れるようにしながら、青ざめた顔で呟く。
「…何となく想像はつくけど、あんまり考えたくない。」
「戻ろっか?」
 祐子はそう言って、今来た路を振り返る。
 既に何人か、怯えた表情で電車の方へ戻り始めていた。
「でも、さ…、そうしたら間違いなく遅刻しちゃうよ?」
「私は、成績よりも命が惜しいの! ほら…」
 祐子が、唇に人差し指を当てる。
 耳を澄ますと、真っ暗な線路の向こうから、あまり聞きたくない類の音が聞こえてきた。そう、ピチャピチャ、ガリガリという、新鮮な肉や、骨を囓る音。
 祐子は、今にも泣き出しそうな表情になる。
「私は、夏休みの方が大切なの。この夏こそ、素敵な彼を見つけるという壮大な計画があるんだから、補習なんかで休みを潰されるわけにいかないもの。」
 安加流はそう言うと、祐子の手を取って歩き出そうとする。
「向こうにいるのが何であれ、食べてる間は他の獲物に手は出さないでしょ? 今は安全だもの。行こうよ?」
「ヤダ、ヤダ、私絶対イヤ! 安加流ちゃんてば、どうしていつもそう冷静なの?」
 祐子は頑として動こうとしない。
 安加流は小さく溜息をつき、スカートのポケットから、長さ十cmくらいの、小さなプラスチックの棒を取り出した。それは、緑黄色の蛍光を放っている。
「仕方ないなぁ。わかった、コレを使おう。」
 それは、中空になった内部に充填されている薬品の化学反応によって発光する、アウトドア用の小さな照明で、ケミカルライトと呼ばれている。
 元々は手元を照らす明かりや、屋外での目印、或いは魚釣りの集魚用の明かりとして、アウトドアショップや釣り道具店などで売られていたものだが、現在では『それ以外の用途』が普及したことによって、コンビニやキヨスクでも当たり前のように入手できる。 
 安加流は、ケミカルライトを手に持って、ちょうどチョークで黒板に文字を書くような仕草をする。
 暗闇に映える緑色の蛍光の残像が、いくつもの曲線を組み合わせた不思議な図形を描き出した。
 安加流が描いた軌跡は、もちろん目には見えないが、安加流はその図形に意識を集中し、小さく呟く。
「ファイア・ボール…」
 同時に、安加流の目の前、ちょうどケミカルライトを動かしていた空間に、朱く輝く火球が出現し、前方に向かって凄い勢いで飛び去った。
「祐子、目を閉じて…」
 言い終わらないうちに火球が飛び去った方向で朱い光が閃き、一瞬遅れて轟音と爆風が二人を包み込んだ。



Q.ある朝目を覚ますと、そこは、魔物や怪物の徘徊する世界でした。どうしますか?
A.顔を洗って朝食を食べ、それから学校(または会社)へ行きます。

 ――二年前のあの日、安加流には朝食を食べる時間はなかったのだが、とにかく、世間の多くの人達は、普段通りに行動することを選んだ。
 目の前の現実が信じられなかったと言うより、あまりの予想外の出来事に、パニックに陥る余裕すらなかった、他にどうしていいのかわからなかった、というのが実際のところだろう。ある朝突然、北海道全域がお伽噺やゲームの如く、怪物や魔物の棲む世界になっていたのだから無理もない。
 大物は竜やキメラ、ワイバーンから、小物はオーク、コボルド、スライムまで、とにかくロールプレイングゲームに出てくるような怪物達が、そこら中を徘徊していたのだ。
 目の前の現実を無視して、普段通りに生活しようとした人達に多数の犠牲者が出たところでやっと、人々は何が起こっているのかを認識し始めた。
 最初に警察が、少し遅れて自衛隊が行動を起こしたが、それは然したる成果を上げることもなく、単に犠牲者を増やしただけに終わった。
 そのため、一度はパニックも起こりかけたが、しかしやがて、人々は(少なくとも表向きは)平穏な生活を取り戻した。
 『魔物を倒す術』が見つかったからである。



「安加流ちゃん…、ホントに資格持ってるの?」
 髪や、制服についた埃を払いながら、祐子がジト目で見る。
「何よ、信じてないの? この間祐子ちゃんにも見せてあげたじゃない。限定解除の免許…」
 安加流は口をとがらせて反論するが、祐子の不審の表情は変わらない。
「だってね〜? トンネルの中で爆発系の『紋章』はヤバイってこと、今どき小学生でも常識じゃない。」
 周囲にいた他の乗客(もちろん、みな一様に埃まみれで、一部、髪が焦げている人もいる)が、揃ってウンウンと頷く。
「そんなこと言ったって…ねぇ、仕方なかったっしょ? 何だか、凶悪そうな奴だったから、一撃でやっつけるとなると、それ相応の…」
 安加流は必死に言い訳するが、祐子の表情は、『一番凶悪なのはあんたや』と(何故か関西弁で)ツッコミを入れていた。



 ――誰がそれを発見したのかは知られていない。
 怪物が突然現れたのと同じように、『魔法』もまた、いつの間にか人々の間に広まっていた。
 現実の魔法は、『呪文(スペル)』よりもむしろ『紋章(シンボル)』が主体であった。
 最初に広まったスタイルは、紙や地面の上に紋章(その形は使用する魔法や、術者によっても異なる)を描き、短い呪文によってその力を発動させるというものだった。
 しかし、このスタイルは、すぐに廃れていく。いきなり怪物に襲われた時に、悠長に紙とペンを取り出して、紋章を描く暇などないのが普通だったから。
 魔法の研究が進むにつれて、
 ――紋章は、必ずしも目に見える形で描かれている必要はない。
 ――光によって描いた紋章は、もっと簡単な形で、より強い力を発揮する。
等の発見があり、それによって魔法は、ペンライトや懐中電灯で紋章を描く『光と紋章(ライト・アンド・シンボル)』と呼ばれる形式に変わっていった。
 そして更に、光源も電球から、化学反応を利用したケミカルライトが主流になっていく。
 ケミカルライトは使い捨てだが、いちいちスイッチを入れる必要もないため、急の事態に対応し易かったし、一本で半日くらいは光り続けるから、電池式のライトを点けっぱなしで持ち歩くよりコストも安い。そして何より、電気の明かりよりも魔法の効果が高かったことが最大の理由である。
 現在では『ライト・アンド・シンボル』こそが北海道民の日常生活を守る術であった。
 本屋には、魔法の入門書や解説書が並び、N○K教育テレビでは『今日の魔法』なる番組も放映されている。ちなみにテキストは一冊四七○円(税込)だ。
 昨年から魔術師の国家試験も始まったが、何しろ魔法の研究はまだ始まったばかりで、試行錯誤の状態である。
 魔術師の能力は、今のところ本人の才能に大きく依存していた。



「確かに、安加流ちゃんと一緒にいると、魔物は怖くないけどね…。その代わり…」
 『爆心地』を通り過ぎ、大通り駅のホームによじ登りながら、祐子がうんざりしたように言った。
「その代わり…何?」
「クリーニング代が増えた。」
 一応埃は払ったものの、セーラー服の汚れは完全には落ちていない。
「だから…仕方ないじゃない。」
「私、仕方ないって言葉は嫌いよ。」
 芝居がかった口調で祐子が言う。それが、祐子お気に入りの、小説の主人公の口癖であることは安加流も知っていた。
 二人は、地下鉄駅の改札を抜け、西の端の出口へと向かう。そこには何故か、十数人の人だかりができていた。
「どうしたんだろ?」
 祐子が背伸びをして、前の人の肩越しに覗き込み、次の瞬間、うんざりしたような表情になる。
「安加流ちゃん…、また、遅れそうだよ。」
「何?」
「巨大ネズミ…」
 とたんに、安加流もイヤそうな顔をする。
 巨大ネズミは、その名の通り単にハツカネズミの大きな奴――巨大とは言っても立ち上がって大人の腰くらいしかない――で、特に人を襲うわけでもないから、それほど危険な魔物ではない。
 ただ、ねずみ算式に増えるために、イヤになるくらい数が多いというだけだ。
 ここでも、地上へ上る階段を、びっしりと埋め尽くしていて、数人のサラリーマンが諦めて回れ右をする。
「何度見ても…マヌケな顔してるよね、コレ。ボ〜っとして、何も考えてないってゆ〜か…。『キャラクターデザイン・九月姫』って感じ…」
 祐子がネズミ達を指さして、マニアックな台詞を吐く。
「愛嬌あって可愛いじゃない。」
「可愛い〜? 安加流ちゃんの美的感覚って、変。」
 安加流は本気だったのだが、祐子は呆れ顔だ。
「それより、廻り道してたら遅刻しちゃうよね? 安加流ちゃん…」
「な〜に? また私にやれって言うの? 先刻さんざん文句言ってたくせに。たまには自分でやればぁ?」
 安加流が拗ねたように言う。
「だって私、先週仮免の試験に落ちちゃったもん。まだ路上では魔法使えないの。」
「もぉ…、卒検ならともかく、普通仮免なんかで落ちないよ。」
 ぶつくさ言いながらも、安加流はまたケミカルライトを取り出す。
「相手の数が多いからって、ファイア・ボールは駄目だからね!」
「わかってるよ〜だ。」
 祐子に向かって舌を出しながら、安加流は光の紋章を描いた。
「マジック・ミサイル!」
 実際の処、『呪文』は魔法の効果には影響を与えない。
 大切なのは紋章であって、呪文はそれを発動させるために唱えるだけ、極端な話、どんな言葉であっても構わない。
 安加流は、自分の趣味で、ロールプレイングゲームの魔法の名前を使っていた。それが一番『その気になれるから』という理由で。
 安加流が描いたシンボルから、何十本もの光の矢が放たれ、巨大ネズミ達に襲いかかる。
 狙いが外れて、逃げたネズミもかなりいたようだが、とにかく、階段は通れるようになった。安加流は意気揚々と階段を上って行くが、祐子と、そこにいた他の人達は、なにやら複雑な表情をしていた。
「どうしたの?」
 安加流の後に続きながらも、妙に後ろを気にしている祐子に向かって、安加流が尋ねる。
「どうしたのって…安加流ちゃん、気付いてないの?」
「何が?」
「流れ弾が、周りにいた人に当たってたじゃない!」
 安加流は驚いて足を止める。
「うそ…?」
「ホント。」
「マジ?」
「マジ。」
 それでどうやら納得したらしい、安加流も考え込むような表情になる。
「それは…悪いことしちゃった…な。でも、悪いのはネズミ達よね? うん、あんな処にいるネズミが悪い! そうよね?」
「…まあ、そ〜ゆ〜事にして置いてもいいよ。私、安加流ちゃんには逆らわないことにしてるから…」
 後半は小声で呟いたので、安加流には聞こえなかったかもしれない。
 祐子の台詞は、冗談でも何でもない。祐子は、安加流のことが怖かった。
 何しろ、安加流の魔法はしょっちゅう他人を巻き込んでしまう。本人に悪気はない(と思われる)のだが、一級魔術師の魔法に巻き込まれた側はたまったものではない。
 見た目は、真面目で優等生風の安加流だが、実際には、かなり天然ボケが入っている。だから、そういう事故も仕方ないのかもしれないが、祐子としては、これでどうやって、難しいことでは定評のある限定解除の試験に合格したのか不思議でならない。
 或いは、ボケの振りをして、全ては計算してやっているのではないか、そんな気さえしてしまうのだった。



「ああ、生きて再び陽の光を見られるなんて…」
 地上に出たところで、祐子は安堵の息を漏らす。
「なに大げさなこと言ってるの。急がないとホントに遅刻しちゃうよ。」
 祐子の手を取って走り出そうとした安加流だったが、いきなり、柔らかい網のような物にぶつかった。
「わっ…何よ、これ?」
「蜘蛛の巣…じゃないかなぁ?」
 間一髪で衝突を免れた祐子が、安加流の頭上を見上げて呟く。
「蜘蛛の巣ぅ〜?」
 『網』が粘り付いて、体が自由に動かないのだが、それでも何とか頭を動かす。
 確かに、それは蜘蛛の巣だった。形はごく普通の蜘蛛の巣だが、但しスケールが尋常ではない。
 ビルと、大通公園の木の間に張られたそれは、直径約三十m。安加流が引っかかっている『蜘蛛の糸』の一本一本は、登山用のザイルほどの太さがあった。
「ちょっと…、これ、取れないよ?」
 身体に絡み付いた蜘蛛の巣を引き剥がそうとする安加流だが、粘着力が強い上、糸(と呼ぶには抵抗のある太さだが)に弾力があるので、少しくらい引っ張っても剥がれない。
「安加流ちゃん…。あんまり、暴れない方がいいんじゃないかなぁ。」
 何故か少し引きつった表情で、祐子が言う。
「何言ってるの? ぼんやりしてないで、手伝ってよ。」
「手伝ってあげたいのは山々なんだけどね…」
 そう言いながらも、祐子は一歩後ろに下がる。
「ほら…、これ以上遅くなると、二人とも遅刻しちゃうし…」
 また一歩後ずさる。祐子の額には、冷や汗が浮かんでいた。
「…私、まだ仮免だし…」
「ちょっと祐子ちゃん、何言ってるの?」
「安加流ちゃん、私、あなたのこと一生忘れない。さよならっ!」
 祐子は、いきなり走り出した。
「ちょ、ちょっと祐子ちゃん! 待ってよ! ねえ?」
 事態が飲み込めない安加流は、走り去る祐子の背中に向かって叫ぶ。祐子は走りながら、後ろを振り返って言った。
「私、小さい頃から蜘蛛ってダメなのっ! 私は力になれないけど、応援してるから、それじゃっ!」
「え…」
 一人残された安加流は、恐る恐る頭上を見た。瞬間、顔からさぁっと血の気が引く。
 『獲物』がかかったことを感じ取って、この巣の主が、ビルの陰から姿を現していた。器用に、糸を伝って近付いてくる。
 安加流は、ゴクリ、と音を立てて唾を飲み込む。ヒグマより大きな蜘蛛、などという代物を見たのは初めてだ。
 なるほど、これでは蜘蛛が苦手な祐子が逃げてしまうのも頷ける、と納得したところで、自分の置かれた状況に気が付いた。
「ちょっと、祐子ちゃ〜んっ! 私を見捨てて逃げないでよ、薄情者〜っ! 戻って来〜い!」
 声の限りに叫ぶが、祐子の姿はもうとっくに見えなくなっている。
 スカートのポケットから、ケミカルライトを取り出そうとするが、両手とも蜘蛛の巣に引っかかって、どんなにもがいてもポケットには届かない。
 その上、暴れたことで、よけいに蜘蛛の興味を引いてしまったらしい、蜘蛛は、その速度を速める。
(ヤダ、ヤダ、どうしよう…。やっぱり、噛まれたら痛いかなぁ…?)
 たくさんの目が並んだ顔が、少しずつ近付いてくる。毛むくじゃらで真っ黒なその姿は、特に蜘蛛が苦手というわけではない安加流でも、鳥肌が立つほど不気味だ。
(あ、そうだ! 確か胸ポケットに、予備のライトが…)
 手は使えないので、首を伸ばして何とか口でライトをくわえようとする。
「うぅ、首の筋が…痛い…」
 ライトを取り出そうと必死になっている間に、蜘蛛はすぐ目の前まで迫っていた。蜘蛛の目に、恐怖に歪んだ安加流の顔が映っている。
「もう少し…、取れた!」
 ケミカルライトを口にくわえた安加流は、そのまま首を振って、魔法の紋章を描く。
「ファイア・ウォール!」
 蜘蛛の牙が顔に触れる寸前、辛うじて紋章を描き終わった安加流は、ライトをぷっと吐き出して魔法を発動させる。
 とたんに、安加流を中心に半径二十mほどの範囲が、紅蓮の炎に包まれ、蜘蛛も、安加流を捕らえていた巣も一瞬にして燃え上がる。
 縛めを解かれた安加流は、その場にぺたんと座り込んだ。緊張のためか、足に力が入らない。
「あ…はは、はぁ。怖かったぁ。首も痛いし…」
 首の後ろを押さえながら、安加流はよろよろと立ち上がった。スカートの埃を払って、ふと思い出したように時計を見る。
「いっけな〜い! もうこんな時間? 遅刻しちゃう!」
 落ちていた鞄を拾い、安加流は駆け出した。
 学校までは、まだ一km以上ある。



「はぁ、はぁ、はぁ…。も…死にそ…」
 学校までずっと走ってきた安加流は、普段の運動不足も手伝って、校門に着いたときには倒れる寸前だった。しかしその甲斐あって、ギリギリで始業には間に合いそうだ。
 …が、そこで安加流は、呆然として立ち止まった。
 校門の処に、小さな山ができていた。それが、門を塞いでいる。
「はぁ、はぁ、…な、なんで…」
 安加流は、絶望的な表情で呟く。
「何で、私がこんな目に遭わなきゃいけないの? どうして今日に限って次々と…」
 そこには、一頭の大きな竜が寝ていた。



 ――竜、誰もが知っているこの魔獣は、凶悪な怪物には事欠かない今の北海道でも、一番タチの悪い相手だった。
 百二十mm戦車砲も跳ね返す鱗、鉄筋コンクリートのビルも一撃で打ち倒す力、高い知性で人間の一級魔術師よりも強力な魔法を操り、空を飛べばジェット旅客機並の速度を出す。
 二年前、まだこの魔獣の怖さがわかっていなかった頃、札幌郊外に現れた大きな竜を駆除するために、千歳に駐屯している陸上自衛隊第七師団――日本最強の地上戦力――が出動したのだが、その結果は…、ここでは言うまい。



「どうして、どうしてよ? どうしてみんな私が学校へ行くのを邪魔するの!」
 安加流は空に向かって叫ぶ。もちろん、それに応える者は周囲にはいない。
 当の竜は、安加流の存在など気付かずに、気持ちよさそうに寝ているだけだ。
 校舎からは、予鈴が聞こえてくる。もう、裏門に廻っている時間もない。
 安加流は、ひとつの決心をした。
「そぉ、そっちがその気なら、私にも考えがありますよ。いい? 今すぐそこをどかないと、ひどいことになるわよ!」
 片手を腰に当て、竜をびしっと指さして、安加流は叫ぶ。
 校舎の窓からこの様子を見ていた生徒達は揃って「なんて無謀なこと」と思った。
「安加流ちゃん…あんまり怒らせない方がいいよ…」
 一足先に学校へ着いていた祐子が、教室の窓で呟く。
 これまで、竜に喧嘩を売って長生きした者はいない。
 しかし、朝からトラブル続きで、安加流はすっかり頭に血が上っていた。ようするに、『キレてしまった』のである。
 耳元で安加流がキャンキャン騒ぐので、竜も薄目を開ける。しかし、煩そうに安加流を一瞥すると、そのまままた寝てしまった。安加流のことなど、『眼中にない』ということだ。
 竜のこの態度が、安加流の怒りを煽る結果となった。安加流にも一級魔術師のプライドがある。
 ポケットから取り出した二本のケミカルライトを、両手に持って手を広げる。『ダブル・アクセス』と呼ばれる上級テクニックだ。
 多くの生徒達は、校舎の窓から身を乗り出して興味津々に見物している。
 しかし、祐子をはじめ、安加流と仲の良い何人かは、慌てて頭を引っ込めると、教室の隅の机の下に潜り込んだ。『これから何が起こるのか』を察したからだ。
 安加流の両手が、魔法の紋章を描き出す。
 複数の紋章を同時に重ねて描くことで魔法の威力を増す『ダブル・アクセス』は、魔法のテキストではもっとも高度なテクニックとして紹介されている。祐子達も、安加流のダブルアクセスを見るのは初めてだった。
 不穏な気配を感じ取ったのか、竜も目を開けて身体を起こす。しかし、その時には既に紋章は完成していた。安加流は、魔法を発動させる言葉を唱える。
「…ティルトウェイト!」
 瞬間、竜の身体が、真っ白い閃光に包まれた。



「わざとやったんじゃないだろーな?」
 安加流達の担任・山本が、腕組みをして、深刻な表情で呟いた。隣に安加流がいる。二人は、校門の前――今朝、竜が寝ていたところ――に立っていた。
「そんな、生徒を疑うなんてひどいっ! それに、やったのは竜です。私じゃありません!」
「寝ている竜を、わざわざ起こしたのは誰だ?」
「だって…仕方ないじゃないですか。竜が校門を塞いでいるし、裏門に廻っていたら遅刻するし…」
「…で、竜に喧嘩を売った結果が、コレか?」
 そう、安加流の渾身の魔法を受けても、竜は倒れなかった。眠りを邪魔された竜は当然のように怒り出し…そして…、
 結果から言えば、安加流は試験に遅れることはなかった。今日の試験が中止になって、明日以降に延期されたからだ。
 半壊した校舎を見上げて、山本が嘆息する。
 大きな怪我をした生徒もいなかったし、竜が暴れてこの程度で済んだというのは、むしろ幸運かもしれない。
 しかし、被害の半分は、竜と魔法の撃ち合いをした安加流によるものだった。安加流のセーラー服はぼろぼろになっているが、本人はかすり傷ひとつ負っていない。
「褒められてもいいくらいだと思うんですよね、私。竜と戦ってまで、学校に遅れまいとするなんて、愛校心の塊じゃないですか。」
 校舎へ入っていく山本に続きながら、安加流は悪びれずに言った。山本はもう一度溜息をつく。
「そうかもしれないが、今日の職員会議で、新しい校則が決まったぞ。『学校の半径一km以内で、竜を攻撃することを禁ず』ってね。」
「もうしませんよ。やっぱり、コワかったし…」
 一階廊下の掲示板の前で、山本は立ち止まった。背広のポケットから、折り畳んだ紙を取り出す。
「他にもう一つ、今日の会議で決まったことがある。」
 そう言いながら、その紙を掲示板に貼る。
 それを見た安加流が、普段は小さな目を大きく見開いた。
 そこに書かれていた文言は、次のようなものだった。
『左記の者、三日間の停学に処す…』
 そこに書かれている名前が誰のものかは言うまでもない。
「先生…これって、どういうこと?」
 安加流は、震える指で張り紙を指さす。
「見ての通りだ。本当なら一週間のところを、三日にまけてやったんだ。感謝しろよ。」
 山本が、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「停学…? 三日…?」
 安加流の言葉に、いちいち頷く山本。
「試験は…、明日から?」
 また頷く。
「じゃあ…私の成績は…?」
「竜と戦ってまで登校するくらい、学校が好きなんだろ、鈴木は…。良かったな、大好きな学校に夏休み中も通うことができて。」
「…補習?」
 安加流の最後の質問に、山本は心底可笑しそうに頷いた。
「そ、そんなぁ! こんなことなら、修理に夏休みいっぱいかかるくらい、派手に壊しとけばよかった…」
 安加流がうっかり口を滑らした瞬間、山本が手にした出席簿が、安加流の後頭部を直撃する。
「センセ…、角は…反則。」
 頭を押さえた安加流の目に、涙が浮かんだ。



エピローグ

「あのね…、あの場合、仕方なかったと思うのね?」
 額に冷や汗を浮かべながら、祐子は言った。
 口元は笑っているが、それば、微妙に引きつった笑みだ。
「私、仕方ないって言葉は嫌いよ。」
 祐子が今朝言ったのと同じ台詞を、安加流が真似る。
「祐子ちゃんが助けてくれれば、危険な目に遭うことも、停学になることも、そして何より、夏休みを補習で潰されることもなかったのよね?」
「だって…ほら、ねぇ? 安加流ちゃ〜ん、私達親友じゃない。」
「短いつきあいだったわね、祐子ちゃん。あなたのことは、一生忘れないわ。」
 安加流はそう言ってにっこりと微笑むが、その目は、やっぱり笑ってはいない。そして、手には緑色の光を放つケミカルライト…。

 その日の夕方、無事だった教室のひとつで小さな爆発が起こった。
 生徒が一人、救急車で運ばれ、安加流の停学が一週間に延びた。
 それでも、安加流は満足だった。
 入院で試験を受けられなくなった祐子が、安加流と一緒に夏休みの補習を受けることになったからだ。

――終――


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