第二話 炎を持つ少女

By 北原 樹恒


一 札幌を歩く


 鈴木安加流の家は、港と運河とガラス工芸、ついでに石原裕次郎記念館の街、小樽市の外れにあり、札幌市中央区にある高校へ通うのはそれなりに大変だった。
 すなわち、家からJR函館線の銭函駅までバスで約十五分、そこから札幌駅まで電車で三十分強、札幌から地下鉄南北線に乗って次の大通り駅まで行き、東西線に乗り換えて二つ先の西十八丁目駅で降りる、という具合である。
 待ち時間も含めると一時間以上は優にかかるし、特に地下鉄は大通りでの乗り換えのため、距離の割には時間がかかってしまう。
 だから、というわけでもないのだが、その日、安加流は札幌駅から地下鉄に向かわずにそのまま外に出た。
 ここしばらく雨続きだったのだが、今日は久しぶりに青空が広がっている。
 しかし七月下旬にしては気温は低めで、外を歩いていても暑いというほどではない。
「なんか、久しぶりに気持ちのいい天気ね〜。時間は十分にあるし、歩いて行こうかな」
 小声で呟く安加流だが、歩いて行く気になった本当の理由は違う。
 昨夜久しぶりに体重計に乗ったら、いつの間にか二kgも増えていたからだ。
 念のためスリーサイズも測ってみたのだが、こういう場合、増えて欲しい部分は増えてなくて、増えて欲しくない部分だけが着実に成長しているのが常である。
 とにかくカロリーは消費しなければならない、どうせなら多少遠回りでも歩くのに気持ちのいいコース、ということで、札幌駅から真直ぐ南へ大通りまで行き、そこから大通公園の中を歩いて行くことに決めた。
 ここで、札幌の地理に詳しくない人のために説明しておくと、札幌中心部は道路が碁盤の目状になっていて、住所は座標で表すことができる。
 すなわち、Y軸は南北の線で、大通り公園を原点として、そこから北へ向かうと北一条・北二条…、南へ向かうと南一条・南二条…となる。
 同様にX軸は東西の線で、北へ向かって流れる創成川を原点とし、西へ行くと西一丁目・西二丁目…、東へ向かうと東一丁目・東二丁目…という案配だ。
 ちなみにJR札幌駅は北六条西三丁目で、安加流が通う私立徳星学園高校は南四条西十八丁目にある。一条・一丁はそれぞれ百mちょっとだから、学校までは結構な距離だ。
 札幌駅前通りを大通りに向かって歩く途中、本屋で『ララDX』という少女マンガ雑誌を買う。しかし、それをバッグに入れたところで、ミスを犯したことに気付いた。
 ――荷物になるから、帰りに買えば良かった。
 そう思っても後の祭り、安加流は小さく溜息をつくと、少し重くなったバッグを持ち直して歩き出す。
 大通公園に入ったところで、進路を西に向ける。
 今日は久しぶりに良い天気で、今は夏休み中のため、大通公園の噴水の周囲には、小さな子供や観光客の姿が多い。
 何気なく後ろを振り返ると、大通公園の東の端にそびえるテレビ塔が目に入る。
 三分の一スケールの東京タワーといえば、札幌を訪れたことがない人にもイメージが掴めるだろうか。
 テレビ塔は現在、あの『異変』以前よりも遙かに有名な観光名所となっている。
 何故なら、そこには半年前から、直径五十m近い、巨大な『繭』がくっついているからだ。
 それは昨年、札幌市街に多大な被害を与えた巨大なイモムシ型の怪物の、成れの果てである。
(なぁんか、昔の怪獣映画とかで見たような光景だなぁ…)
 少しだけ呆れたように呟く。
 現在の北海道が大変な状況であるにも関わらず、人々が悲嘆に暮れることもなく、平常心を保って生活している理由の一つがこれだ。
 北海道を襲った『異変』は何というか、どことなくユーモラスで、いまいち真剣味が足りないのである。
 恐ろしい竜や屍食鬼などと対決している時も、安加流は半ばゲーム感覚だ。
 もう一度巨大な繭を見つめる。
 それは、昨日もそうだったように、微動だにせずテレビ塔にくっついている。
 きっと、明日もそうだろう。
 それは確かに生きているらしいのだが、いつ羽化するのかは誰にもわからない。
(取り敢えず、今日は平和だよね…)
 何となく空を見上げる。
 雲一つない、どこまでも晴れ渡った空。
 暑過ぎない、適度な気温。
 遊びに行くにはもってこいの日だ。
 なのに…
「…どうして、私は補習なんて受けなきゃいけないのっ?」
 空に向かって叫ぶ。
 その原因は学校を半壊させて停学になった自分にある、ということは取り敢えず棚に上げる安加流だった。

二 闇で蠢くもの

 安加流は、一人で教室にいた。
 他に誰もいない。
 先生も。
 不幸な事故(笑)で期末試験を受けられず、一緒に補習を受けることになった親友の祐子も。
 仕方ないので、机の上に問題集とノートをひろげ、来る途中に買ってきたマンガを読み始める。
 決して『自習しよう』などと思わないところが、安加流らしいと言えばらしいかもしれない。
 しかし先生も祐子もなかなか姿を見せず、雑誌を半分以上読み終えた頃にやっと教室へやってきたのは隣のクラスの担任、広木先生だった。
「鈴木さん、いま山本先生から連絡があって、今日は学校にたどり着けそうもないから補習は中止ですって」
「たどり着けそうもないって…何かあったんですか?」
 安加流はマンガのページを繰る手を止めて、教室の入り口に顔を向ける。
 とっくに三十路は過ぎている筈だが、歳の割には若く見える広木が、驚いたような表情を見せた。
「知らないの? 今朝から豊平区の方は大変なのよ。もの凄い量のスライムが下水道から溢れ出して、地下鉄もバスも全部ストップしてるの」
「はぁ…」
 安加流はぼんやりと返事をしながら、道路も地下鉄も埋め尽くすほどのスライムとはどれほどのものなのだろう、と考える。
(前に、ロサンゼルスで火山が噴火して、街が溶岩で埋め尽くされるようなSF映画があったっけ。あの溶岩を緑色に置き換えれば、大体イメージを掴めるかなぁ…)
 その想像があまりにもリアルで、思わず気持ちが悪くなった。
「というわけだから、今日は帰ってもいいわよ」
「…じゃあ、私が今日わざわざ学校まで来たのは、全くの無駄ってことですか? 小樽から一時間以上かけてきたのに…」
 うんざりしたように言うと、広木はからかうような口調になる。
「学校へ来たことを無駄にしたくないというのなら、私が代わりに課題を出して上げましょうか?」
「え? あ、いや、広木先生の手を煩わせるのも何ですから…帰ります」
 慌てて問題集とノートを片づけ始める安加流を見て、広木はくすくすと笑いながら去っていった。
「スライムかぁ…、憂さ晴らしに、ちょっと行ってみようかな」
 限定解除の一級魔術師免許を持つ安加流は、魔物退治のためであればほぼ無制限に魔法を用いることができる。
 この間のように学校を半壊させても、法的に罰せられることはない。まあ、校則で停学にはなるかもしれないが。
 ――交通が完全に麻痺するほどのスライムとなれば…、滅多に使う機会のない超大規模無差別破壊魔法も使えるかもしれない。
 そんな考えを胸に教室を出ようとした瞬間、突然、校舎が大きく揺れた。
「じ、地震? それとも…」
 反射的に、ポケットから魔法に使うケミカルライトを取り出そうとするが、真下から突き上げるような大きな揺れで転んでしまい、手からライトが落ちる。
「きゃああっ!」
 廊下の窓ガラスが大きな音をたてて割れ、破片が周囲に飛び散る。
 安加流は床に座り込んだまま、両手で頭を覆った。
 更に数枚の窓ガラスが立て続けに割れ、壁や床にひびが入り、そして――
 周囲の床が、突然崩れ落ちた。


――なんだろう…
 何か、冷たく湿ったものが、顔に触れている。
 何だっけ…この匂い。
 そうだ、土の匂い、湿った土の匂い。
 私、こんな処で何してるの?
 どうして、土の上で寝てるんだろう。
 あれ、制服のままじゃない、汚れちゃう!
 …え? どうして制服のまま土の上に寝て…あ、地震!
 そうだ、地震で学校が崩れて、私も一緒に落ちちゃったんだ――
 意識がはっきりしてくるにつれて、記憶も戻ってくる。
 安加流は慌てて身体を起こした。
 目の前にオレンジ色の光があり、周囲をぼんやりと照らしている。
 それより向こうは、全くの闇だ。
「…ここは?」
 小さく呟くと、不意に人の声がした。
「目ェ覚めたか?」
 言葉遣いはちょっと乱暴だが、安加流と同世代と思しき女の子の声だ。
「え?」
 目が慣れてくると、光を挟んで反対側に、一つの人影が座っているのが見えた。
 安加流と同じ徳星学園のセーラー服、髪はショートカット。そして、その顔には見覚えがあった。
「…え…と、相模原…先輩?」
「なんだ、オレのこと知ってンの?」
「…有名ですから」
 安加流は何気なくそう答えてから、しまった、と口を押さえる。
 三年の相模原芹菜は、校内ではかなりの有名人である。が、どちらかといえば良くない噂で有名なのだ。
 いわゆる問題児である。
 遅刻・サボリは当たり前、停学になったのも一度や二度ではないし、一年生の時に先生を病院送りにしたという噂すらある。
 一応バスケ部なのだが、すぐに試合中にケンカをするので、技術は部内でもトップクラスなのに補欠になっている、とも言われている。
 安加流はこの春に入学したばかりで、芹菜に関する噂が本当かどうかも知らないし、これまで直接話をしたこともないが、とにかく怖い雰囲気を持った先輩であることは事実だ。
「有名って言ったら、お前の方が上だろ? 一年の、鈴木…あかり、だっけ?」
「…安加流です」
「そうそう、安加流だ安加流…、この間のアレは凄かったもんなぁ」
 確かに、数少ない(そして校内では唯一の)一級魔術師であり、先日、校門の前で竜と戦って校舎を半壊させた安加流は、今ではすっかり有名人だった。
「あ…あれは…不可抗力ですぅ…」
「どうせなら、もう少し派手に壊してくれれば夏休みの補習も潰れたのに」
 笑ってそう言う芹菜は、安加流が同じことを言って先生に殴られたことを知らない。
「相模原先輩も、補習だったんですか?」
「芹菜…でいいよ、呼びにくいだろ? ま、オレは毎回のことだからね、補習なんて」
 芹菜は自分のことを『オレ』と呼ぶが、彼女にはそれが違和感なく似合っている。
「ところで…」
 安加流は周囲を見回した。
「いったい、何があったんですか? いきなり校舎が崩れて、気が付いたらここにいたんですけど…」
「さあ…」
 なげやりな調子で答える。
「オレも同じようなもんだよ。で、側にお前が倒れてたってわけだ。どうやら、学校の下にこのトンネルがあったせいで、地面が陥没したらしいな」
 周囲を見ると、崩れた土に混じって、鉄筋コンクリートの破片が散らばっている。
 二人がいるトンネルはかなり広い。地下鉄のトンネルよりも大きいくらいだ。
 こんなものが校舎の直下にあったのでは、いきなり崩れるのも無理はない。
「でも、学校の下に鍾乳洞があったなんて、大発見ですね〜」
「馬鹿か、お前」
 間髪入れずに芹菜はきっぱりと言い切る。
「鍾乳洞ってのは石灰岩の土地にできるもんだぞ。泥炭の石狩平野にンなもんあるわけねーだろ」
 安加流はきょとんとした顔で芹菜を見つめる。
「…芹菜さんって、不良のわりに頭いいんですね」
「誰が不良だ!」
 安加流は黙って、芹菜を指さす。
「あのな…」
 反論しようとした芹菜は、途中で諦めたように溜息をついた。
「ま、いいや。それより、早いとこ上にあがろーぜ。この辺はすっかり埋まってるけど、少し歩けばどっか出口があるかもしれないし」
 立ち上がり、安加流に向かって手を差し伸べる。
「ほら、立てるか? どっか怪我とかはないか?」
「えと…、大丈夫みたいです」
 芹菜の手に掴まって立ち上がった安加流は、スカートの土を払い落とす。
 背中やお尻の汚れは、芹菜が少々乱暴にではあるが叩き落としてくれた。
「…どっちに行きましょう?」
「どっちでも同じ、適当に行ってみりゃいいさ」
 そう言うと、安加流の手を引いて歩き出す。
 安加流は、ちょっと顔を赤らめて芹菜を見た。
 もちろん、こんな距離で芹菜を見るのは初めてだ。
 バスケ部ということもあり、芹菜はかなり背が高い。たぶん百七十cm位はあるだろう。
 目つきはややきついものの、かなりの美人…というより、どちらかといえば美形というか美少年顔というか、そんな表現の方がしっくりくる。
 更に言えば、全体としてはスマートなのに、胸は大きい。自分の胸に少々コンプレックスを持っている安加流としては、羨ましいことこの上ない。
(なんか…カミサマって不公平…)
 芹菜を見、それから自分の胸を見下ろした安加流は、何だか悲しくなる。
「どうかしたのか?」
 安加流が小さく溜息をついたのに気付いて、芹菜が振り返る。
「別に…ただ、ちょっと…羨ましいなって」
「羨ましい?」
 何を言ってるのかわからないといった表情で安加流を見る芹菜だが、その視線が安加流の胸で止まり、ああ、と頷いた。
「別に、気にすることでもないじゃん。こんな、ただの脂肪のかたまり」
 口ではそう言いつつも、芹菜は見せつけるように胸を張る。少なく見積もってもDカップはありそうだ。
「それに芹菜さんって美人だし、背も高いし、バスケは上手いし…、とってももてるじゃないですか。なんか、世の中って不公平だなって…」
「もてるったって…、女子校じゃ後輩にいくらもててもあんまり嬉しくないぞ」
 そう、このタイプの常として、芹菜は下級生(の女の子)にもてる。校内には、ファンクラブまであるほどだ。
 性格がきついので一部の生徒からは畏れられているが、逆に「お姉さまにいぢめてほしい!」などという、少々倒錯した趣味の持ち主も少なくない。
「嬉しくないって…芹菜さんって、…れず…じゃなかったんですか?」
 その言葉に驚いたのか、芹菜はつまずいて土の壁に顔から突っ込む。
 ぶるるっと、濡れた犬のように顔を振って土を払い落とし、安加流を睨み付けた。
「何でそうなるんだっ!」
「だって…みんなそう言ってるし、それに、これ…」
 安加流の視線の先では、芹菜がしっかりと安加流の手を握っていた。
「あ、いや…これは…だな…」
「あの…芹菜さん、私…あんまりそういう趣味はないし…」
「いや…」
「女子校ってそういう人も多いらしいですけど、やっぱり不自然だと思うんですよね」
「そうじゃなくてな…」
「私、恋人はやっぱり男の人の方がいいなって思うんですけど…」
「そうじゃないんだ! 少しは人の話を聞けっ!」
 大声で怒鳴ると、両手で安加流の肩をしっかりと掴む。
「芹菜さん…あ、あの…」
 安加流は真っ赤になってうつむいた。
 何か言おうと口をぱくぱくさせるが、言葉がなかなか出てこない。
「あのな…、よく聞けよ」
「…あ…やっぱりダメです。私、芹菜さんって素敵な人だと思うけど、それはつまり私もそうなれたらいいなっていう憧れみたいなもので…恋愛感情じゃないと思うし、それに…私…ファーストキスは…男の人の方が…」
「オレは、暗い処が苦手なんだよ!」
「ダメッ! お父さんに怒られちゃう…、え?」
 すっかり『聞く耳持たないわ』モードで盛り上がっていた安加流が、芹菜の言葉を理解するにはしばらく時間が必要だった。
 きっかり三十秒、呆然と芹菜の顔を見つめる。
「暗い処が…?」
 安加流の問いに頷く芹菜。
「…怖いんですか?」
「…そうだよ、悪いか?」
 しぶしぶ頷く芹菜の顔をまた三十秒間見つめ、そして…
 安加流は、いきなり吹き出した。
 お腹を抱え、地面を転げ回って、息も絶え絶えに爆笑する。
 ツボにはまってしまったのか、その笑いは本気で怒った芹菜に顔を踏みつけられるまで続いた。
「…そうかぁ、芹菜さんってレズじゃなかったのか」
 笑いすぎたための涙を拭きながら言う。
「まだ言うかお前はっ!」
 安加流の後頭部を拳で軽く小突く。
「オレはこう見えてもノーマルだ!」
「みんな、表向きはそう言うんですよね」
「ノーマルだ、と言ってるだろ」
 半ば本気で首を絞められた安加流は、断末魔の鶏のような声を上げた。
「一応、彼氏だっているんだからな」
「ええええぇっっ!」
 予想もしなかった芹菜の台詞に、安加流は全身で力一杯驚きを表現する。
 芹菜に彼氏がいる…? そんな噂は校内で一度も聞いたことがなかった。
 もちろん、『彼女』の噂なら何度も聞いているが。
「…彼氏って、男の人ですか?」
「彼氏が女のわけがあるかぁっ!」
「いや、芹菜さんならあり得るかなって…」
 次の瞬間、安加流は背後から蹴飛ばされ、顔からトンネルの壁に突っ込んだ。


「どこまで続いているんでしょ〜ね、このトンネル…」
 鼻の頭に絆創膏を貼った安加流が、独り言のように呟いた。
 二人が歩き始めてから、かれこれ三十分近くは経っているだろうが、トンネルは相変わらず続いており、地上に出られそうな場所はない。
「芹菜さん、大丈夫ですか?」
 安加流は、芹菜の手(もちろん、まだ手はつないだままだ)が微かに震えているのを感じた。
 一応、芹菜が作り出した魔法の灯りが周囲を照らしてはいるが、この大きなトンネルの中では気休めにしかならない。
「それにしても、芹菜さんが暗所恐怖症なんて、なんか意外ですね」
「…悪いか」
「そんなこと言ってませんよ。誰だって苦手な物はあるんだし…。私も、卒倒するほど嫌いな物ありますよ、ミミズとか…」
 まあ、普通「ミミズが好き」という女の子はいないだろう。
「その割には安加流、平気な顔で歩いてじゃん?」
「え?」
「ここは土の中だし、ほどよく湿ってるし、いかにもミミズとか出そうじゃない? ひょっとして、このトンネルも巨大なミミズの化け物が通った跡だったりして」
 脅かすように言う芹菜。
 その言葉に、安加流は泣きそうな顔で芹菜の腕にしがみつく。
「…冗談でもそんなこと言わないで下さいよ〜。想像しちゃったじゃないですか〜」
「はは、冗談だって…」
 しかし、その言葉が終わらないうちに、二人の前方から、何か巨大な生物が這うような音が聞こえてきた。
 安加流の表情が凍り付く。
「せせせせ芹菜さんが、へへへ変なこと言うから…」
「別に、オレのせいじゃないだろ…」
 そう言う芹菜の顔も、微妙に引きつっている。
 そうしている間にも、だんだんとその物音は近付いてくる。
 無言で、顔を見合わせる二人。
 周囲が暗いのではっきりとは見えなかったが、トンネルの向こうにぼんやりと、赤黒い、なにやらぬめぬめとした巨大な影が動いた瞬間、二人は回れ右して走り出した。
 足下が軟らかい土なので、足を取られて走りにくい。
「もっと速く走れよ!」
 安加流の手を引きながら芹菜が急かすが、元々安加流は運動が得意な方ではない。息を切らしながら返事をする。
「どうせ…私は…ニブ…ですよ…」
 背後に迫る超巨大ミミズは、少しずつその距離を詰めてきているらしい。
 地下鉄よりも大きなその図体なのに、人が走るより速く動けるようだ。そもそもミミズの地中での移動速度は、一般に思われているよりもずっと速い。
「安加流、お前の魔法でやっつけられないのか、あれ」
「そんな…あんな気持ち悪いヤツの相手はヤです。芹菜さんがやって下さいよ。芹菜さんだって資格持ってるんでしょ?」
「オレはまだ二級だからな、つべこべ言わずにお前がやれよ。さもないとここに置いてくぞ!」
 その言葉に仕方なく、ポケットからケミカルライトを取り出…そうとした。
 スカートの右のポケットに手を入れ、あれ、という表情で次に左のポケットを探る。そして最後に胸ポケット…。
「あ、あはは…。ライト…落としちゃったみたい。芹菜さん、貸して下さいよ」
 しかし芹菜は、先刻から二人の頭上を漂い、周囲を照らしている魔法の明かりを指して言った。
「俺はペンライト派だし、この魔法で電池切れ」
 二人は、黙って顔を見合わせた。
 『光と紋章』の魔法には必ず光源が必要で、魔法の明かりを用いて更に魔法を使うことは出来ない。つまり…
「ど〜して、予備の電池を持ってないんですかっ?」
「お前こそ、落とさないように紐つけて首から下げてろっ!」
 二人は、同時に叫んだ。
 不毛な言い合いをしている間に、怪物はどんどん二人に迫ってくる。
 安加流は、泣き顔で芹菜にしがみついた。
「私、ミミズに食べられて死ぬなんてイヤですっ!」
 それは誰だってイヤに決まっている。
「…ミミズは人間なんて食べないだろ? ま、このままじゃ間違いなく踏みつぶされて死ぬだろうけど」
「それだってイヤですっ! なんか他に明かりはないんですかっ?」
「明かりったって…あ!」
 何を思いついたのか、芹菜はスカートのポケットを探る。
 取り出したのは、ジッポのライターだった。
「これでやれるか?」
 ライターを安加流に手渡す。
「どうしてライターなんて持ってるんですか? 芹菜さんって、不良〜」
「今さら何言ってんだっ! いいからさっさとやれ!」
 巨大ミミズは、もう目と鼻の先まで迫っている。
 安加流は、慣れない手つきでライターを点火する。
 周囲が暗いので、オレンジ色の炎が映える。
「ティルトウェイトは使うなよ、こっちまで生き埋めになる」
 先日、周囲に被害を及ぼしまくった、超大規模無差別問答無用破壊魔法を思い出し、芹菜は釘を差す。
 安加流は小さく頷き、魔法の紋章を描き始める。
 『炎』を表す紋章、『光』を表す紋章…。
 炎が消える恐れがあるので、ケミカルライトのように素早く描くことは出来ない。
 ミミズの巨体が、視界いっぱいに広がる。
 ぬめぬめとした粘液に覆われ、伸縮を繰り返して進んでくる怪物。
 安加流はこみ上げてくる吐き気をこらえながら、慎重に手を動かす。
 紋章の一つ一つは、単純な幾何学模様であり、ごく初歩的な魔法以外は複数の紋章を組み合わせて使用するのが常だ。
 しかし、どの紋章をどう組み合わせればどんな効果が得られるか、ということについては、実は決まった法則がない。
 魔術師は、意識を集中したときに頭に浮かんだ紋章を描くだけだ。
 そのため、同じ魔法であっても人によって異なる紋章を使用することがあり、このことが、高度な魔法の習得をより困難にしていた。
 安加流は、意識の中に浮かぶ紋章を描き続ける。
 『太陽』の紋章、そして『力』の紋章…。
 炎の軌跡が描き出す残像によって、意識が研ぎ澄まされてゆく。
 紋章そのものはきっかけに過ぎない。
 『力』は、魔術師の意識の中から生み出されるのだ。
 怪物までの距離はもう十mもない、次の瞬間には二人は押しつぶされてしまうだろう。
 しかし一瞬早く紋章は完成し、安加流は魔法を解き放った。
「フレアブラス!」
 周囲が突然、まばゆい光に包まれる。安加流の前に、金色に輝く光球が出現した。
 それは、一般的なファイアボールの魔法で用いられる火球よりもずっと眩く、そして熱い。
 魔術師が攻撃魔法を使用するとき、その周囲は強力なシールドで護られている筈なのに、芹菜は肌が焼けるような熱を感じた。
 まるで小さな太陽のようなその光球は、次の瞬間大きく膨らみ始め、内部に秘めた膨大なエネルギーを周囲の空間に一気に放出して弾けた。


エピローグ

 徳星学園の教師・山本は、難しい顔で腕組みをして、足下に開いた大きなすり鉢状の穴を見下ろしていた。それはまるで火山の噴火口のように、煙を上げている。
 やがて、穴の中から女の子の声が聞こえてくる。だんだんはっきり聞こえてくると言うことは、声の主は穴を登ってきているのだろう。
「この…ど下手くそっ!」
「…そこまで言うことないじゃないですか〜、怪物はちゃんとやっつけたんだし…」
 まるで男子のような言葉遣いと、声だけ聞けばおとなしい清純派。山本はその声の主を二人ともよく知っている。
「こっちまで一緒に退治されるとこだったわっ!」
「芹菜さんの言うとおり、ティルトウェイトは使ってませんよ」
「威力は一緒じゃねーか。どうしてライトニングとか、そ〜ゆ〜周囲に被害を及ぼさない魔法を使わないんだっ!」
「だって…そんなのつまンない…」
 その台詞が終わらないうちに、何かを蹴飛ばすような音と、それに続いて人間が土の斜面をずるずるとずり落ちていくような音が聞こえてきた。
 いったい何があったのか、ここまでの会話で山本は大体理解した。
 まあ、周囲の状況から予想していたことと大差はない。
 深く溜息をついた山本は、背後を振り返る。
 スライムの猛攻をくぐり抜け、やっとたどり着いた彼の職場は、瓦礫の山と化していた。
 校庭やグラウンドのあちこちに、山本の足下にあるのと同様の大穴が開き、まだぶすぶすと煙を上げている。
 この分では、復旧には夏休みいっぱいかかるだろう。
「しばらくそこで埋まってろ! 札幌の平和のために!」
 ややハスキーな声の少女が叫んでいる。
 山本はその意見にうんうんと頷いた。

――終――


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