By 北原 樹恒
一 愛があれば
「えっとぉ…」
「これって…」
安加流と祐子は、それだけ言うとお互い顔を見合わせた。
なんて言えばいいんだろう…
二人の表情が、そう語っている。
彼女らの前には、一人の少年が立っていた。
話の始まりは、昨日のこと、
先日の不幸な事故(笑)で夏休み中の補習がなくなったため、安加流は親友の谷村祐子と二人で札幌の街に遊びに来ていた。
大通りの近くの本屋にいたところで、不意に、後ろからぽんと肩を叩かれる。
振り向くと、そこに背の高い女性が立っていた。
「あ…芹菜さん」
「よお、今日は買い物か?」
「まぁ、そんなとこです」
横で怪訝そうな顔をしていた祐子が、安加流の袖をくいくいと引っ張り、耳元で囁く。
「ちょっと安加流ちゃん、あんたいつの間に芹菜先輩とそんなに親しくなったの?」
「え? この間…ちょっとね」
「ひょっとして安加流ちゃんも、そっちの人?」
「そっちの…って?」
三年の相模原芹菜は『女の子が好き』だというのが校内でのもっぱらの噂である。
取り巻きの女の子も多い。
「ち、違うってば! そんなんじゃないのっ!」
店の中にいることも忘れて、安加流が大声を上げる。
周囲の客達が何事かとこちらを見たので、芹菜は慌てて二人を引っ張って店の外に出て、そのまま本屋の前にあった喫茶店に入る。
席に着いた芹菜は、アイスコーヒーを三つ注文してから、安加流の頭をこつんと叩いた。
「まったく、なんて声出すんだよ」
「だぁって、祐子ちゃんが変なこと言うんだもの」
「変なこと?」
「え? いえ…何でもないんですよ、芹菜先輩…」
祐子は引きつった笑いを浮かべて必死に誤魔化そうとする。
安加流に言ったことを、まさか本人の前で言うわけにもいかない。
「ふ、ん…まあ大体見当はつくけどね」
「い、言ってませんよ私…。芹菜先輩がレズだとか、安加流ちゃんも先輩の毒牙にかかったのかな、とか。そんなこと言ってません!」
大げさに手を振って言い訳する祐子を、安加流は呆れ顔で見つめる。
「祐子ちゃん…思いっきり言っちゃってるってば」
「あ…!」
慌てて口を押さえる祐子。額に冷や汗が浮かぶ。
「あ、あの…?」
芹菜の、氷のような眼差しに気付いた祐子の顔から、すぅっと血の気が引いていく。
一年生の間では「芹菜先輩を怒らせると長生きできない」という噂すら流れているのだ。
「ご、ごめんなさい芹菜先輩。私、全然そんなつもりじゃないんです。ごめんなさ〜い。乱暴なことしないで、お願い。私まだ処女なんですぅ〜」
「あのな…」
周囲の客の視線を気にしながら、芹菜は深い溜息をついた。
「おい安加流…こいつの誤解、なんとかしてくれよ」
「でも…ホントに誤解なのか、私も確信が持てないし…」
もう一度溜息をついて、芹菜は話題を変えることにした。どうやら、いくら言っても無駄と気付いたらしい。
「もう…どうでもいいや。それより安加流、お前明日ヒマか?」
「え…特に用事はないですけど…」
「だったら、海に行かないか。オレこの間免許取ったから、ドライブがてら…さ」
「海…ですか?」
安加流と祐子が顔を見合わせる。
「まあ、いいですけど…三人で?」
「ん…いや…、もう一人、増えるかも知ンない」
芹菜が珍しく、ほんの少し照れたような表情を見せる。それで安加流はピンときた。
「ひょっとして、例の彼氏…ですか?」
「えぇっ?」
祐子は驚いて、安加流と芹菜を交互に見る。
「芹菜先輩に彼氏がいるの?」
芹菜の顔色を伺ってから、小さく頷く安加流。
「彼氏って、まさかひょっとして…男ですか?」
「…そのギャグはこの前安加流がやったって」
芹菜は今日三度目の溜息をついた。
その夜、祐子は安加流の家に泊まることにした。
芹菜が、祐子を迎えに行ってから安加流の家へ来ると、ひどく遠回りになってしまうからだ。
「芹菜先輩の彼氏って、どんな人なんだろう? 芹菜先輩につり合う相手って言うと、やっぱ背が百八十センチくらいあって、スポーツマンとか、武道家とか…?」
祐子は布団の上に寝そべって、頬杖をついている。
安加流がドライヤーで髪を乾かしているので、祐子の声は自然と大きくなる。
「さぁ…、私もそこまでは聞いてないし」
「ん〜、なんか楽しみ」
そして翌朝、約束の時間より五分くらい早く、芹菜の運転する黒いスポーツカーが安加流の家の前に停まった。
安加流と祐子は、好奇心いっぱいの表情で出迎える。
「わぉ、WRXじゃん、かっこい〜」
祐子が嬉しそうに言うが、安加流には車の名前などさっぱりわからない。
運転席から、タンクトップにジーンズという姿の芹菜が降りてくる。
ワンテンポ遅れて、助手席のドアが開き…
その瞬間、安加流と祐子は言葉を失った。
「えっとぉ…」
「これって…」
安加流と祐子は、それだけ言うとお互い顔を見合わせる。
なんて言えばいいんだろう…
二人の表情が、そう語っている。
芹菜は、やや照れたような表情で黙っている。
「コレって…つまり、アレ?」
「アレって…アレのこと?」
「あまりにも予想外って言うか…」
「でも、らしいと言えば、らしいのかも…」
なにやらこそこそと怪しげな会話を交わしている二人の肩に、芹菜が手を置く。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ、ん?」
顔は一応笑っているが、こめかみの辺りに血管が浮いている。
お互い顔を見合わせて小さく頷き合った安加流と祐子は、声を揃えて言った。
「芹菜さんって、ショタだったんですか?」
次の瞬間、芹菜の蹴りが安加流の顔面に命中していた。
「見たまま、ホントのこと言っただけなのに、本気で蹴るなんて〜」
鼻の頭をすりむいた安加流が口を尖らせる。
そう、助手席から降りてきたのは――
一.せいぜい中学一年生か、下手すると小学生。
二.華奢な体つき、細い手足。
三.短パンがよく似合う。
四.やや長めの、柔らかそうな髪。
五.女の子みたいな可愛らしい顔立ち。
六.屈託のない笑顔。
――という、完全無欠な『ショタ』だった。二人が唖然としたのも無理はない。
芹菜は百七十センチの長身で、どちらかといえば大人っぽい雰囲気を持つ。
その恋人が、目の前にいる身長百五十センチあるかないかの華奢な美少年というのは、二人の想像を遙かに超えていた。
「えっと、はじめまして。僕、松本昌実っていいます」
まだ声変わりもしていない声で自己紹介する。
「あ、ははは…ど〜も、はじめまして…」
安加流は、それだけ言うのが精一杯だった。
「えっと、芹菜先輩…この子が、ホントに?」
「ん〜まあ、一応オレの彼氏ってわけだ。愛があれば歳の差なんて…って言うしな」
「愛があるのはいいとしても、問題は歳の差だけじゃない気もするんですが…」
「そうか? やっぱり男は年下に限るぞ」
芹菜は、背後から昌実を抱きすくめる。
「ヘンにすれてなくて可愛いし、こ〜ゆ〜まだ何も知らないような男の子を調教するのって、そそられるよな〜」
そう言って昌実の耳に唇を寄せ、ふっと息を吹きかける。
昌実は、真っ赤になって俯いた。
「これこれ、この反応、たまらんね」
よだれを流さんばかりの芹菜の様子に、安加流と祐子はただ呆れて見ているしかできなかった。
四人を乗せた黒のWRX――芹菜のお兄さんの車――は、国道三三七号線を走る。
目的地は、小樽市の外れにある海水浴場、小樽ドリームビーチだ。
札幌からも近いため、夏の間は大勢の海水浴客で賑わう。
安加流の家からはすぐ近く、車で十分ちょっとの距離でしかないが、お世辞にも安全運転とは言えない芹菜の運転だと、道が空いていれば五分くらいで着くかも知れない。
車の助手席には安加流、祐子と昌実が後部座席に座っている。
車に乗り込むやいなや、祐子は昌実を質問責めにしていた。
「ね、昌実くん、ホントに芹菜先輩と付き合ってるの?」
「え? ええ、そうですよ」
年下ということもあるが、もともと丁寧な言葉遣いをする性格らしい。
昌実は行儀良く頷く。
「いったい、どうやって知り合ったの?」
「え…? その…道を歩いていて…えと…」
顔を朱くして、言い淀む昌実。
芹菜が後を続ける。
「道を歩いててぶつかったんだよな。で、因縁つけてカツアゲでもしようと思ったら、好みのタイプだったんで、無理やり家まで連れてきて、そのまま既成事実を作ったってワケ」
「それって…」
呆れ顔で祐子は呟いた。
昌実は真っ赤になって俯いている。
「ほとんど犯罪じゃないですか。既成事実って…えぇっ?」
驚いた祐子が、運転席の方へ身を乗り出す。
「どうしたの祐子ちゃん?」
芹菜の台詞をいまいち理解していないのか、安加流はきょとんとしている。
「つまり、芹菜先輩と昌実くんはもうエッチしちゃったってこと」
「え? えええええぇぇぇっ!」
安加流の大声に、芹菜は両手をハンドルから離して耳を塞いだ。
車は大きく蛇行するが、幸い対向車はいなかった。
「芹菜さん、いけないんですよ、高校生がそんなことしちゃ! 第一、知り合ってすぐにそんな…」
芹菜の耳元でキャンキャンと喚く。
「…今どき何言ってンだよ。安加流お前…いつの生まれだ?」
「安加流ちゃんのお父さんって、とても厳しい人なんですよ。で、こうなっちゃったわけ。十六年も生きてて、一度も男の子と付き合ったこともないんだから」
「だってだって…、ねぇ昌実くんはそれでいいの?」
「はぁ、いいんじゃないですか? 芹菜さんはとても綺麗だし、カッコイイし、僕は幸せですよ」
昌実はにこにこと笑っている。
昌実、祐子、芹菜の顔を順番に見回した安加流は、信じられないといった表情で呟く。
「みんな…何かおかしいよ。絶対ヘン!」
「ヘンなのは安加流ちゃんの方だって」
「箱入り娘、ってヤツか。今どき珍しいもの見たな」
「絶滅寸前ですよね。レッドデータブックに載せたいくらい」
「だって…」
呆然としている安加流を乗せたまま、車はドリームビーチへと向かう。
二 ドリームビーチの魔女
夏休み中とはいえ、平日の午前中ということで、海水浴場はまだそれほど混んではいなかった。
服の下に水着を着てきた安加流達は、さっそく砂浜に駆け出す。
安加流の水着は比較的おとなしいデザインのワンピースだが、芹菜は女同士でも目のやり場に困るような派手なハイレグビキニ。
祐子もワンピースだが、露出度は安加流よりもずっと多い。
「水着になったら、芹菜さんの隣に立ちなくない…。胸がないのがよけい目立っちゃう」
長身でモデル並のスタイルの芹菜と、背は人並みでも胸にはコンプレックスのある安加流が並ぶと、その差は歴然としている。
「い〜や、ぜんぜん目立たないよ。芹菜先輩の横に立ったら、安加流ちゃんの胸なんて、目立つどころか『存在すら気付かれない』ってヤツね」
そう言って祐子は笑う。
彼女の場合、身長こそ安加流より数センチ低いが、出るべきところは少なくとも人並みには出ている。
「あ、祐子ちゃんてばひど〜い」
安加流が頬を膨らませて拳を振り上げるが、祐子はそれを無視して昌実の方に向き直った。
「ところで昌実くん、どうしてTシャツ着たままなの?」
「だって、日に焼けちゃうじゃないですか」
「は?」
首を傾げる祐子。
「…昌実くんって、少し焼いた方がいいんじゃないかなぁ」
もともと華奢な昌実だが、女の子が羨むほどの色白な肌が、それをいっそう際だたせていた。
これで日焼けでもしていれば、少しは男の子っぽく見えるのだろうが。
「だって芹菜さんが、色白で華奢な男の子の方がいいって…。あ、芹菜さん、後で背中に日焼け止め塗って下さいね」
「こうやって、オレ好みの男になろうと日々努力してんだよ、嬉しいよな」
芹菜は昌実の頭に手を乗せ、すりすりと頬ずりする。
それが嬉しいのか、昌実はえへへ…と小さく笑った。
「なんか…努力の方向が思いっきり間違ってるような気がしますけどね」
どんなにいちゃついていても、やっぱり恋人同士とは思えない二人を、安加流は呆れ顔で見ていた。
北海道の海は、夏でもそれなりに冷たい。
特に午前中はまだ海水が暖まっていないので、安加流と祐子は沖へ行かず、波打ち際に寝そべって波と戯れていた。
腰まで届く安加流の髪が、まるで海草のように波に揺れている。
砂浜にいる芹菜は、昌実の背中に日焼け止めを塗りながら、脇腹をくすぐったり、あるいはもっと敏感な部分をつついたりして、昌実の反応を楽しんでいる。
「出がけは色々あったけど、今日は平和だね〜。安加流ちゃんと一緒にいて、こんなに平和なのって初めてかも」
「とびっきりのトラブルメーカーだもんな、こいつ」
「あ〜、二人ともひど〜い」
安加流は両手をついて上半身だけ起こし、芹菜の方に向き直る。
「あれはみんな魔物のせいじゃないですか〜」
「確かに、きっかけは魔物に違いないが、あの破壊活動が『みんな魔物のせい』か?」
「そ〜です! あれは、ほら…何て言いましたっけ? そう、正当防衛」
きっぱりと言い切る安加流に、芹菜は「だめだこりゃ」とでも言いたげに肩をすくめる。
ま、別にいいけどね、そう言いながら周囲を見回す。
「取り敢えず今日は魔物が出そうな様子もないし」
「海で出てくる怪物って言うと、やっぱりシー・サーペントとかジャイアントクラブとかかな? ヒットダイスはけっこう大きいよね」
祐子も、安加流同様にロールプレイング・ゲーマーだ。
「う〜ん…、私、シーサーペントよりカニの方がいいな。最近食べてないし…」
「そういう問題じゃないでしょ、安加流ちゃん」
「そういえば、そろそろお腹空きませんか? 僕、お弁当作ってきたんですよ」
そう言って昌実が傍らのバスケットに手を伸ばすのと同時に、沖の方から悲鳴が聞こえてきた。
四人が一斉に、悲鳴のした方を見ると、沖で泳いでいた人達が何やら騒いでいる。
その中心では、何か、赤っぽい大きな物体が動いていた。
「なに…あれ?」
祐子は、近くにあった安加流の腕にしがみつく。
「あれは…ほら、あれよ」
それが何か、安加流にはわかっているのだが、あまりにも非現実的なその光景に、うまく言葉が出てこない。
「カニ…だな」
と芹菜。腕を組んで、首を軽く傾げる。
「カニ…ですね」
隣に立って相づちを打つ昌実。
そう、それは確かに巨大なカニ。甲羅の幅は十メートル以上あり、人間の一人や二人は両断できそうなハサミを振り回して暴れている。
それまで海で泳いでいた人達は、我先にと浜へ逃げてくる。
「でも…」
いまいち納得できない、といった表情の祐子。
「…どうして、毛ガニなの?」
ドリームビーチに突如出現したジャイアントクラブ、それは紛れもなく毛ガニだった。
「祐子ちゃん、タラバの方が良かった?」
「私は花咲の方が…って、だからそういう問題じゃなくて!」
「北海道らしくていいじゃない。私毛ガニ好きだもん、美味しいし」
「ちょっと安加流ちゃん、あれ食べる気? 毛ガニったってジャイアントクラブだよ? 怪物だよ?」
「人を見かけで判断しちゃいけないって、言われたことない?」
「人じゃないっ! ちょっと芹菜さん、何とか言って下さいよ〜」
祐子は仕方なく芹菜に縋る。
が、芹菜は妙に嬉しそうな顔をしていた。
ぺろっと舌なめずりをする
「ま、いいんじゃないか。オレも毛ガニは好きだし、ちょうど昼だしな」
「…」
祐子は唖然として、ただ口をぱくぱくさせる。
芹菜はぽんと安加流の肩を叩いた。
「とゆ〜わけで安加流、後は任せたぞ。わかってると思うけどティルトウェイトは使うなよ、食べるところも残らないから」
「わかってます、こ〜ゆ〜時の魔法といえば、アレですね?」
「そう、アレだ」
「うふ…」
「ふふ…」
顔を見合わせて意味深に笑う二人。
祐子は砂浜にしゃがんで頭を抱えている。
「この中で正常なのは私だけね…、人生って、いったいなんだろう…」
他の三人は、そんな祐子の様子は気にも留めず、カニの様子を観察する。
かに道楽の看板もびっくりの巨大毛ガニは、逃げまどう海水浴客達を追って、周囲を縦横に走り回っている。
「大きいですね〜。いったい何食べたら、あんなになるのかな?」
「そういえば、これは人に聞いた話なんだけど、泊の海岸のウニは、すごく大きいんだって」
泊というのは西積丹にある地名だ。
「大きいって、どうして?」
カニも好きだが、生ウニにも目がない安加流は目を輝かせる。
「理由はいろいろ言われているけどね…。
発電所の排水で水温が高いから、とか。
とある理由でみんな怖がって捕らないから、とか。
でも一番ありそうなのは、放射…」
「芹菜さんっ!」
昌実が慌てて、芹菜の言葉を遮った。
「芹菜さん、そ〜ゆ〜危ないネタはダメですよ」
ウニの大きさとは関係ない、と思いたいが、泊には北海道で唯一の原子力発電所がある。
「まあ、それは冗談として…取り敢えず当面の獲物はあのカニだな」
「ホントに冗談なんですか? 北海○電力(株)から苦情が来たって知りませんよ」
「オレが言ったわけじゃないよ、友達から聞いた話だって」
いつの間にか他の海水浴客はみな逃げ出してしまったらしく、砂浜には安加流達だけが取り残されていた。
ジャイアントクラブ(ただし毛ガニ)は、残った安加流達に目を付けたのか、巨大なハサミを振りかざして海岸に迫ってくる。
「さて、そろそろやりましょうか」
安加流は立ち上がり、足やお尻に着いた砂を払い落とす。
ジャイアントクラブを真っ直ぐに見つめ、そして…
「あれ? え〜と…」
困惑の表情できょろきょろと周囲を見回した安加流は、恐る恐る…といった様子で芹菜の方を振り向いた。
「あの〜芹菜さん?」
「何だ? だいたい見当はつくけど、一応聞いてやるよ」
「…水着だから、ケミカルライト持ってないや」
あはは〜と笑いながら頭を掻いてごまかした。
魔術師免許を持つ者ならいつも常備しているケミカルライトだが、今日の安加流は服のポケットに入れたまま、車に置き忘れてしまっていた。
「またそれーっ? なんてワンパターンなのっ! カニを食べるつもりで、逆に食べられるなんて〜!」
一人で『人生について』考えていたはずの祐子が、いきなり復活して安加流の髪を引っ張る。
昌実も、やや緊張した面持ちだ。
「大丈夫だって、こ〜ゆ〜事もあろうかと、ほら」
どこに持っていたのか、芹菜が一本のケミカルライトを安加流に放った。
安加流は受け取ったライトを不思議そうに見つめる。
「芹菜さん、コレどこに持っていたんですか? そんな様子もなかったのに…」
安加流の記憶では、敷物やお弁当のバスケットを持ってきた昌実以外、祐子も芹菜も手ぶらで車から降りたはずだ。
「ほら、オレにはこのくらいの物は挿んでおける『谷間』があるから」
誰かさんと違って…と付け足した芹菜は、ただでさえ大きな胸をさらに見せびらかすように突き出した。
目の前で揺れるそれを見て、昌実が顔を赤らめる。
そして安加流は…
砂の上に座り込んで、何やら砂に指で文字を書いていた。
「ど〜せど〜せ、私は『ぺったん』ですよ。ど〜せ…」
「ちょっと安加流ちゃん、そんなことで落ち込んでないで、さっさとあのカニをやっつけてよ!」
「いいの、胸のない女なんて生きてる価値もないんだもん。カニに食われて死んじゃえばいいの」
完全に拗ねてしまっている。
胸の大きさは、安加流の一番のコンプレックスなのだ。
「安加流ちゃ〜ん…。芹菜先輩、責任取って何とかして下さいよ!」
「う〜ん…」
腕組みをして考えている芹菜。
よし、と小さく呟くと、いつになく真剣な表情で安加流の肩に手を置いた。
「な、安加流…」
「ふ〜んだ、どうせ私は、サバ読んでもAカップの女ですよ。芹菜さんとは違いますから」
「そうやっていつまでも拗ねてると…」
芹菜の口元に、意味深な笑みが浮かぶ。
祐子と昌実は、息をのんで成り行きを見守っている。
「惚れるぞ」
力いっぱいずっこける祐子と昌実。砂浜にくっきりと顔の跡が残る。
一瞬、何が起こったのかわからずに、呆けている安加流。
「女の子の拗ねた表情って、可愛いよな」
「は?」
「特に安加流の拗ねた顔はそそるな、うん」
芹菜は右手で安加流の肩を抱き、左手を顎にかけて上を向かせる。
「ああああの、せせせせ芹菜さん…?」
「初めて会ったときから、気に入ってたんだ、お前のこと」
「ええええ〜と…、わわわ私、そっちの趣味は…ほほほら、昌実くんが見てますよ?」
昌実に助けを求める安加流だったが、肝心の昌実は無邪気に笑っている。
「あ、僕のことなら気にしないで下さい。女の人が相手の場合は浮気に数えませんから」
「とゆ〜ことだから、問題はナシ、な?」
芹菜の唇が近付いてくる。
逃げなきゃいけない、安加流は心底そう思っているのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように抵抗出来ない。
「わわわわわわかりましたっ! カニはやっつけますから、止めてくださ〜い」
唇が触れるまであと数ミリ、というところで、目に涙を浮かべた安加流が叫ぶ。
芹菜は顎にかけた手を離し、安加流の手にケミカルライトを握らせた。
「じゃ、頼んだぞ」
にやにやと笑っている芹菜を、安加流は潤んだ目で上目遣いに見る。
「う…芹菜さんのいじわる〜」
口では文句を言いながらも、手の甲で涙を拭い、ライトを持ち直して迫ってくるカニと向き合った。
「あ〜びっくりした。芹菜先輩、本気かと思っちゃった」
後ろで見ていた祐子がほっと胸をなで下ろす。
「でもそんなはずないよね。芹菜先輩には昌実くんがいるんだし…」
「いやぁ、芹菜さんは本気だったと思いますよ」
「え?」
「だから、芹菜さんって拗ねてる女の子とか、苛められて泣いている女の子とかが大好きなんですよ。僕も何度か女装させられたことありますよ」
「あの…それって、笑って言うようなこと?」
祐子にしてみれば、気軽に人に話すようなことではないと思うのだが、昌実は相変わらず屈託のない笑みを浮かべている。
「そりゃ最初は戸惑いましたけど…。でもね谷村さん、僕、セーラー服が似合うんですよ」
「笑って言うなぁぁぁっ!」
思わず祐子が絶叫する。
しかし昌実と芹菜は動じる様子もない。
「いいじゃないか、似合うもんなぁ」
「僕も、自分にあんな才能があるとは知りませんでしたね」
「才能…じゃないと思う…」
二人の言葉に、祐子はまた頭を抱え込んでしまった。
この間、安加流は一人、真剣な表情で魔法の紋章を描いている。
炎の紋章、
光の紋章、
太陽の紋章、
そして力の紋章…
「フレア・ブラス!」
安加流の前に出現した、およそ大抵の魔物を焼き滅ぼすことの出来る超高温の火球が、カニに向かって飛んでいく。
しかしそれはカニに命中せず、手前で海面に落ちて、水飛沫と同時に水蒸気が吹き上がる。
「あ、安加流ちゃんの下手くそ〜! どこ狙ってンの!」
祐子が安加流に掴みかかる。
もう、紋章を描き直している時間の余裕はない。
「いや、あれでいいんだ」
「え?」
興奮している祐子をよそに、芹菜は冷静に火球が落ちた海面を指さす。
「あ…」
海が、沸騰していた。
そして数分後…
巨大毛ガニは見事に茹で上がった。
エピローグ
「私、もうダメ…、もう食べられない…」
安加流は砂浜にごろりと仰向けになった。
先にリタイヤして寝そべっていた祐子が、首だけ安加流の方に向ける。
お腹を押さえながら、苦しそうに口を開く。
「安加流ちゃん、そうしてると胸よりもお腹の方が出てるよ」
「うるさ〜い!」
そう言う安加流の声も、何だか元気がない。
「私、もう一年くらい毛ガニは見たくない」
「私は、一生分の毛ガニを食べたような気がする…」
安加流は顔を横に向けた。
そこには、巨大なカニが横たわっている。
まだ、ほぼ原形を留めてはいるが、ハサミが片方ない。
「この大きさだと、四人いてもハサミひとつ分も食えないな」
「いくら何でも、もう食べられませんね〜。僕、カニミソも食べたかったんですけど」
芹菜と昌実はまだ食べ続けているが、さすがにペースは落ちている。
二人の横には、カニのハサミがふたつに割られて置かれている。
騒ぎが収まって、ちらほらと他の海水浴客も戻ってきてはいるが、このカニを食べようなどという物好きはこの四人以外にはいないようだ。
「なんかこう、デザートが欲しいよな。塩味のものばかり食べてるから」
「海と言えば、やっぱりスイカですよね?」
安加流が身体を起こす。
「安加流ちゃん、もう食べられないんじゃなかったの?」
「デザートは、入るところが違うの」
「スイカか…」
芹菜が立ち上がる。
「なあ、そう言えば、来る途中にスイカ畑があったよな?」
「だめですよ芹菜さん、人の畑から勝手に盗ってきたりしちゃ」
「いや、その必要はないみたいだぞ」
腕組みをして陸の方を見ていた芹菜がそう言ったとき、悲鳴が聞こえてきた。
「え?」
安加流や祐子も慌てて飛び起きる。
芹菜の視線を追うと――、
直径二十メートルはあろうかという、緑と黒の縞模様の球体が、逃げまどう人々を押し潰しながら、ごろごろと転がってくるところだった。
――終わり――