By 北原 樹恒
一 札幌、初秋――
初秋の大通公園。
今日は天気が良く、ぽかぽかと暖かい。
大通西八丁目の芝生の上に、一人の男が寝ていた。
歳は二十代後半〜三十くらい、外国ブランドのスーツを着たまま、芝生に横になっている。
一見眠っているようだった男は、不意に目を開けて空を見つめた。
青い空。
ところどころぽっかりと浮かぶ白い雲。
視界の隅を掠めて飛ぶのは、公園に棲み着いている鳩。
他に何も見えない――
いや、
竜だ、竜が上空を飛んでいる。
かなり高いところにいるのだろう、いくら目を凝らしても肉眼では見えない。
だが、一級魔術師である彼は、その巨大な魔獣の気配を感じ取ることができた。
…まあ、いいか。男はまた目を閉じる。
今日は平和な日だ。
今朝、茨戸(ばらと)霊園に屍食鬼が出現して自衛隊が出動したが、さしたる被害も出さずに鎮圧することができた。それ以外、これといった事件は起こっていない。
竜が上空を飛んでいるからといって、それがなんだというのだ。
相手が高度一万メートル以上を飛んでいるのなら、地上に被害を及ぼす可能性はほとんどないし、そもそも、高空を飛行する竜に対して人間は無力だ。ミサイルだろうと戦闘機だろうと、竜を迎撃することなどできないのだから。
無敵にして不死身の魔物。
人間にはどうすることもできない。
魔法、それは人間が魔物と闘うための唯一の力。
しかし、最高の魔術師であっても、竜を相手にしては勝つどころか無傷でいることすら難しい。
――ただ一人の例外を除いて。
男は小さく溜息をついた。
魔法か…。
この力は、いったいどこから来るのだろう?
男は自問する。
そのことを考えない日はない。しかし、決して答えの見つからない問いだ。
我々の知る科学の法則内で、それを説明することは可能だろうか?
その力の源は…?
人間が摂取する、一日に二〜三千キロカロリー程度のエネルギーでは、核兵器にも匹敵する強力な攻撃魔法の破壊力は説明できない。
では、どこか外部から力が供給されるのだろうか?
いったいどこから?
紋章と呪文、それが魔法にどのような作用を及ぼすのか…
「加藤副室長、こんなところにいたんですか? 捜しましたよ」
いつの間にかうとうとしかけていた男は、若い女性の声で目を覚ました。
用件は聞かなくても見当がつくので、無視してそのまま寝ていたい気分だったが、立場上そういうわけにもいかない。
「安部くんか、大通り公園にいるって書いておいたろう?」
加藤、と呼ばれた男は渋々目を開ける。
「今度から、何丁目にいるかもちゃんと書いておいて下さいね。そもそも、加藤さんがちゃんと端末を持っていてくれれば、わざわざ八丁目まで歩いて来なくたって良かったんですから」
加藤の秘書、安部春江は丸顔のぽっちゃり型で、美人というより可愛いタイプ。実際の年齢より若く見られることが多いが、外見に似合わず口調は厳しい。
「電話で昼寝の邪魔をされるのは、嫌いなんだよ」
相変わらず横になったまま、加藤は言う。
「ここはスペインじゃないんですから、一時になったらちゃんと仕事して下さい。それに、アルマーニのスーツで芝生に寝っ転がるのもやめた方がいいですよ」
「高級品だからといって、肩肘張るのは良くない。さり気なく着るのが粋なんだよ」
ふぅ、安部は小さく溜息をついて、肩をすくめた。
加藤の下に配属されたばかりの頃は多少とまどったが、こんなやりとりも最近では日常の一部だった。
「残念ですが、昼寝の時間はありません。自衛隊から協力要請です。それも、緊急の」
安部は、手に持っていたファイルから一枚の紙を取り出して加藤に渡す。
「要請? 向こうから? いつもは縄張りを荒らすなと文句言うくせに…」
上体を起こし、受け取った紙に目を通していた加藤の表情が、急に硬くなる。
「なるほど…これじゃウチに回ってくるわけだ。自衛隊には、一切手を出すなと言っておけ。無駄な怪我人を出すだけだ。現場を中心として、国道三九号と二七三号を封鎖。それから、ヘリの用意」
一転してきびきびとした口調で加藤は指示を出す。だが、安部は意外なほど冷静な声で答えた。
「全て、手配済みです」
五秒ほど、呆けたような表情で安部の顔を見つめる。
「あ、そ…」
せっかくの気合いが空回りした加藤は、何となく気まずい表情になる。
「優秀な部下を持って幸せだよ、僕は。お陰でのんびり昼寝を楽しめると言うものさ」
「だ〜か〜ら〜、寝ないで下さいってば!」
安部は、また横になろうとした加藤の、スーツの襟を掴んで無理矢理引き起こす。
「一番大切な仕事が残っているでしょう? 加藤副室長にしかできないことです」
やや、皮肉めいた笑みを浮かべた安部は、普通の携帯電話より一回り大きいイリジウムの端末――本来、加藤が常に持ち歩いていなければならない――を彼の手に押しつけた。
加藤は心底イヤそうな表情で、手の中の衛星電話と、安部の顔を交互に見つめ、人差し指で自分を指さす。
「僕が?」
「加藤さんはそのために高いお給料貰ってるんでしょう? アルマーニを普段着にするためには、相応の仕事をしてくださいね」
「そのためって…、別にこれが僕の本業じゃないと思うんだけど…」
電話機のボタンを押し、一番先頭に記憶させてある番号を呼び出してから、加藤は腕時計を見た。
「ちょうど、午後の授業が始まったばかりだな…」
十分後、加藤は札幌中心部の上空を飛ぶヘリの中にいた。
隣には、二十歳過ぎのOL風の女性が座っている。
その女性の名は高橋千春(二十三歳、某広告代理店勤務、恋人ナシ)。現在、十七名しかいない特一級魔術師の一人である。
「加藤さん、着きましたよ」
窓の外を除いていた千春が言うと、腕を組んで目を瞑っていた加藤は薄目を開けた。
着陸するつもりなのか、ヘリは高度を下げている。
加藤も、千春の肩越しに外を見た。
ヘリが降りようとしているのは、街中にある学校の校庭。そこに、セーラー服の女生徒が一人立っているのが見えた。
ローターが巻き起こす風のため、片手でスカートを、もう一方の手で長い髪を押さえている。
「何だか、不機嫌そうですよ」
「…最近、僕は嫌われているみたいでね」
ヘリが着陸し、加藤は校庭に飛び降りる。
「やあ、久しぶり。元気そうだね」
出来るだけ愛想良く挨拶したのだが、
「三日前に会ったばかりです。それに…」
答える少女の口調には明らかに棘があった。
「授業中に呼び出すのはやめて下さいって言ったじゃないですか。加藤さんのばかぁ!」
やや上目遣いに加藤を睨んでいるのは、いうまでもなく、最年少の特一級魔術師、かの鈴木安加流(あかる)である。
北海道を徘徊する魔物と闘う戦力は、大きく分けて三つある。
ひとつは自衛隊、もう一つは北海道警察の部隊。どちらも魔術師の資格を持つ隊員を中心に構成された部隊で、日夜、北海道民の安全を脅かす魔物との戦いを繰り広げている。
そして三つ目が魔法調査室。『異変』後に急遽設置された国の機関だ。
その本来の目的は『異変』の原因究明と、魔法・魔物に関する調査などだが、実際のところ、魔法調査室こそが魔物に対する最強の戦力であった。
魔法調査室は本来、自衛隊や警察のような大規模な実戦部隊は持たない。
しかし、民間の特一級魔術師は魔法調査室への協力を法律で義務づけられており、十七人の特一級魔術師のうち実に十人が民間人なのである。
その十人の中でも、最近は安加流と千春の出動が極端に多い。安加流の学校や千春の職場がたまたま魔法調査室本部のすぐ近くにあったというのは、二人にとっては不幸な偶然であった。
「今月に入ってもう三回目ですよ。授業に遅れちゃうじゃないですか」
恨めしそうな声で、安加流が言う。
「まあまあ、鈴木ちゃんの進級は法律で保証されているんだからいいじゃない」
「そう言う問題じゃありません!」
安加流安加流は口を尖らせる。
「私は普通の女子高生したいのに、授業中に呼び出されて、ヘリコプターに乗って魔物退治だなんて〜」
「普通の女子高生は、通学途中に自分の学校を吹き飛ばしたりはしないと思うけど?」
「う…かと〜さんのいじわる…」
この話題を持ち出されると安加流は弱い。
安加流の魔法による数々の被害(魔法調査室の試算によると、この半年で百八三億円)は、魔法調査室によってもみ消され、安加流の『破壊活動』は大っぴらにならずに済んでいるのだから。
もともと、特一級魔術師が魔物と闘うときに周囲に被害を与えても罰せられることはないし、被害は全て国が補償してくれる。
それにしても『普通の女子高生』の安加流としては、「魔物以上の被害を与える魔術師」として有名になるのは避けたかった。校内にその名が知れ渡っているだけでも十分だ。
ちなみに、魔法による被害額ランキング第二位が千春で、彼女たちは、その悪行を表沙汰にしない見返りとして、半ば強制的に魔法調査室に協力させられているのである。
こうして、魔法調査室の副室長で自らも一級魔術師である加藤元(はじめ)は、最強の魔女二人を顎でこき使うことができるというわけだ。
「ところで、今回の相手は何なんです? 私と安加流ちゃんが二人揃ってなんて、ただ事じゃないですね?」
千春が、不安よりも好奇心がやや勝った表情で尋ねる。
いくら現在の北海道が物騒とはいえ、複数の特一級魔術師が出動しなければならない事件など、そう滅多にあるものではない。
「うん、まあね。これは…口で説明するより実際に見て貰った方がわかりやすいな。目的地は大雪(たいせつ)山だし、しばらくのんびりしてていいよ」
二 大雪湖の戦い
「もう、さっさと片づけちゃいましょ。今日は私、祐子ちゃん達と約束があるんだから、ぐずぐずしてられないんだもの」
大雪山国立公園の中にある湖の畔にヘリコプターが着地すると同時に、安加流は地面に飛び降りた。
標高の高いこの辺りでは、周囲はすっかり秋の気配だ。頬を撫でる風が冷たい。
「それで、魔物はどこに…」
と聞くまでもなかった。それは、絶対的な存在感とともにそこにいた。
「うわぁ…」
千春が、驚いたのか呆れたのかよくわからない声を上げる。
「加藤さん、いくら何でもアレはないでしょう。私達に死ねと?」
「というか…君達二人がかりでダメなら、あと何人呼んだところで結果は一緒だろう? ま、ひとつ頼むよ」
「魔調への協力が特一級魔術師の義務だからって、これは無茶です! こんなのやってられません、ねぇ安加流ちゃ…あれ?」
千春が横を向くと、五十メートルほど向こうに安加流の背中があった。隣にいるとばかり思っていた安加流は、いつの間にやら今回の目標に向かっている。
安加流の向こうには…、巨大な竜の姿があった。信じられないほど巨大な竜が。
これまでに知られている最大の竜は、頭から尻尾の先まで三十二メートルというのが記録である。しかし、今見ている巨竜は優に百メートル以上あった。
人は、二十メートル以下の普通サイズの竜でさえ倒すことが出来ずに、なんとか海へ追い払うのが精一杯だというのに。
千春が文句を言うのも無理はない。
「ちょっと安加流ちゃん、危ない…」
「こういうとき鈴木ちゃんは簡単でいいな。怒らせとけば、相手が竜だろうと何だろうとお構いなし」
「ちょっと加藤さん…」
安加流の両手が大きく広がり、魔法の紋章を描き始める。
「お、いきなり必殺技。伏せてた方がいいか?」
「あ〜もう! どうなっても知らない!」
二人が地面に伏せ、両手で頭を庇うのと同時に、目も眩むばかりの閃光が走り、地面が激しく揺れる。少し遅れて、周囲にばらばらと小石や砂が降る。
顔を上げると、竜のいた場所からキノコ雲が立ち昇っていた。
「相変わらず強烈だね。まさかこれで終わりってことはないだろうが…」
確かに、終わりではなかった。
雲の中から無傷で姿を現した竜は、一声咆哮を上げると灼熱の炎を吐き出す。
安加流はすかさず防御結界を張ってこれを防ぎながら、次の攻撃魔法の紋章を描く。
「取り敢えず、お茶でも飲んで見物してようか」
加藤はヘリの中から、魔法瓶を取り出して言った。
「何を呑気なこと言ってるんです?」
「下手に近付くと、こっちまで巻き添えを食いかねないし。ひとまず鈴木ちゃんに任せるしかないな」
安加流が立て続けに放ったフレアブラスの爆発音が山々にこだまする。竜も負けじと炎を吐いて攻撃する。
「テレビ局も呼ぶべきだったかな? これなら視聴率四十%は堅い」
折りたたみ椅子に腰を下ろし、熱いお茶をずずっとすすりながら加藤は呟いた。
「特撮映画も顔負けですね〜」
湯気を立てているカップを手に、千春も相づちを打つ。
安加流は相変わらず闘い続けている。
立て続けに閃光が走り、爆発音が響く。ノリはほとんど『ゴジラ対メカゴジラ』だ。
「注意しておくべきだったかな、国立公園内なんだから、あまり無茶するなって」
「もう手遅れって気はしますけどね」
「それにしても…」
安加流が放った数百発のマジックミサイルが、竜に当たって火花を上げている。
「彼女を見ていると、いつも不思議に思うよ。魔法の力の源は、一体なんだろうって。あれだけのエネルギーが、いったい何処から来るんだ?」
魔法の力の源、それは最も重要な研究課題の一つだった。
科学者達は、何百人ものサンプルを調べたが、いまのところ何ら有力な手掛かりは得られていない。人が魔法を使うとき、少なくともその肉体は、余分なエネルギーを全く消費していないのだ。
「だって、物を考えるのに必要なカロリーなんて、ごく僅かなものじゃない? 例えばこの岩…」
二人の前にある、一抱えほどもある岩を指差して千春は言った。
「実際にこの岩を持ち上げようと思ったら、クレーンかパワーショベルが必要だわ。でも、頭の中で考えるだけなら、私にだって持ち上げられるもの。結局、魔法ってそういうものでしょう?」
加藤は、千春の顔を見た。
「加藤さんだって一級魔術師だもの、わかってるんでしょ? 想像力こそが、魔法の源だって」
「でも、そんなことを報告書に書けると思うかい? 東京にいる、頭の固いお偉いさん達を納得させるのは無理だろう?」
「一度、こっちへ来てみればいいのよ。人間の知る科学では説明できない世界がここにあるってことを納得するために」
「まったくだ、期待するだけ無駄だろうけど…」
加藤は、空になったカップにもう一杯お茶を注いだ。
「それより加藤さん、あれ、いつまでやらせとくんです?」
竜に追われて、防御結界を張りながら逃げ回っている安加流を指差した。
スタミナの差か、形勢は安加流がやや不利なようだ。
「このままじゃ、そう長くは持ちませんよ」
「いや、実は…」
加藤はポリポリと頭を掻いた。
「どうしたものか、途方に暮れてるんだ」
「ちょっと加藤さん!」
「あんな化け物相手に、どうしようもないだろう。鈴木ちゃんが相手をしているうちに、飽きてどっかへ立ち去ってくれないかと期待してたんだけど、さすがに爬虫類は執念深い」
妙に感心した様子で加藤は言った。
竜は相変わらず、安加流を追い回している。
「そんな落ち着いてないで…。このままじゃまずいですよ。安加流ちゃんも防戦一方になってるし。あ、こ〜ゆ〜のはどうでしょう?」
不意に明るい表情になった千春の説明を聞くうち、加藤は悪戯を企んでいる子供のような顔になる。
「面白い、それで行こう」
携帯端末を取り出し、何処かへ指示を出した後、加藤は両手を口に当てて叫んだ。
「おーい、鈴木ちゃん! 対策が決まったから、一度そいつを引き離して、こっちに戻ってくれ!」
三 オホーツクに消ゆ
「あの〜、加藤さん?」
安加流は、上に向かって叫んだ。
返事がないので、ヘリコプターの爆音のために聞こえなかったかと思ったが、少し遅れて加藤が顔を出す。
「なんだい?」
「どうして私一人、ロープで吊り下げられてなきゃいけないんですか?」
安加流は、ロープでヘリの下に吊り下げられていた。安加流をぶら下げたまま、ヘリは東へ向かって飛んでいる。
「さっき説明したろ? 聞いてなかったのかい?」
「聞いてましたけど、ちょっと、確認したくて…」
「あいつは鈴木ちゃんに目を付けたらしいからね。君に囮になってもらって、海まで誘導する」
「いえ、それはわかってるんですけどね…」
「けど?」
「どうして、ライトも取り上げられて、ロープで縛られなきゃなんないんですか?」
そう、安加流は長いロープでぐるぐる巻きにされていた。それでヘリから吊り下げられた姿は、まるで巨大なミノ虫だ。
「だって…」
加藤は面白そうに言った。
「そうしないと君、暴れるだろう?」
「あ、当たり前じゃないですかぁぁっ!」
安加流は声の限りに叫んだ。
竜に追い回され、息を切らせて加藤達の処へ戻った安加流は、何の説明もなしにいきなり縛り上げられたのだ。「さっき説明したろ?」と加藤は言ったが、それは安加流を縛り上げた後の話。
竜は、ヘリの後をしつこく追ってきていた。さすがに百メートルを越す巨体で空は飛べないらしく、地響きを立てて走ってくる。
ヘリは、竜と二〜三百メートルほどの間隔を開けて、低空飛行を続けていた。民家や道路に出来るだけ被害を与えずに竜をオホーツク海まで誘導できるように考え抜いたルートだ。
「どうして、普通に乗せてもらえないんですか〜?」
また安加流が訊いた。
「それだと、万が一攻撃を受けたとき、僕たちまで巻き添えを食ってしまうだろ」
「加藤さんっ!」
「まあまあ、そう怒らないで。ほら、もう少しだから」
それほど高さのない尾根を越えると、前方に海が広がっていた。自衛隊や、海上保安庁のものと思われる船が数隻浮かんでいるのが見える。
海上に出たヘリは、ゆっくりと高度を下げていく。その後を追って、竜も海に飛び込んだ。
安加流は、ほっと安堵の息をつく。
「もういいでしょ? 早く上に上げてくださいよ」
「鈴木ちゃん…」
ヘリから身を乗り出した加藤が、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「元気でね、オホーツクの海は冷たいから、風邪なんか引かないように」
「え?」
安加流がその台詞の意味するところを理解する前に、突然、安加流を吊り下げていたロープが切れる。当然の結果として、安加流は海面目指して落ちていった。
「かと〜さんの、ばかぁぁぁぁっっっ〜!」
ドップラー効果を残して、安加流が遠ざかってゆく。海面に水柱が上がり、一瞬遅れて水音が加藤の耳に届いた。
竜は、安加流が落ちるのを見ると同時に、大きな波を立てて海中に潜った。海の底までも追っていくつもりらしい。
加藤は、その様子を満足げに見ながら、無線で誰かと話している。通話を終えて千春を見た加藤は、指でOKサインを作ってみせた。
「成功だ。あいつが戻ってくる様子はない。じゃ、札幌に帰るか」
やや引きつった笑いを浮かべている千春と、その隣でくしゃみをしている少女に向かって加藤は言った。
* * * * *
「かと〜さんの、ばかぁ…」
頭からバスタオルを被り、鼻をぐすぐすと鳴らしながら、安加流は言った。
髪の先から、まだぽたぽたと滴が落ちている。
「私、本当に怖かったんだからぁ…。千春さんの転移魔法で回収してくれるなら、ちゃんと最初からそう言って下さいよ〜」
「敵を騙すにはまず味方からってね。おかげであの竜は海の底まで鈴木ちゃんを追っていて、そのまま領海外へ立ち去ったらしい」
「今日の恨みは、一生忘れませんからね」
安加流は微かに涙ぐんだ目で、加藤を睨む。千春はそんな様子を見ながら、どことなくばつの悪そうな笑みを浮かべていた。
「お、着いたか」
外をちらりと見て、加藤が呟く。ヘリは、高度を下げ始めていた。
安加流や千春も外を見るが、そこには見慣れた札幌の街並みではなく、広大な森が広がっている。
「ここ、札幌じゃないんですね?」
「恵庭(えにわ)の自衛隊演習場だよ・ちょっと、真っ直ぐ札幌市内に帰れない事情があってね。ここからは車を用意してあるから」
「事情?」
安加流達は首を傾げるが、加藤はそのことについては何も説明せずにヘリから降りる。
近くに、魔法調査室のランドクルーザーが停まっている。
時刻はもう夕方だ。西の空が、朱く染まっていた。
「お疲れさま、ごくろーさん」
そう言いながら、加藤はさっき取り上げたケミカルライトを安加流に返す。安加流の目が微かに光った。
――こんな目にあったんだもの、
ちょっとくらい仕返ししたってバチは当たらないよね――と。
だが、殺気のこもった笑みを浮かべる安加流が紋章を描き始めるより先に、加藤が何気ない口調で言った。
「実は、先刻の作戦だけどね、考えたのは高橋さんなんだ」
「え?」
「…!」
一瞬、千春の表情がこわばる。安加流は、ゆっくりと千春の方を向いた。
「千春…さん?」
「加藤さんっ! それは内緒って言ったじゃないですかっ!」
「う〜ん、でも、僕も死にたくないからね」
「加藤さんっっ!」
「千春さん…、そう、千春さんのせいだったんですね? 私がこんな目に遭ったのは…」
「いや…あの…私の話も聞いて!」
ケミカルライトを持った安加流の両手が大きく広げられる。千春も慌てて自分のライトを取り出した。
それを見た加藤は、すぐさま止めてあった車に乗り込む。
「よし、出せ。全速でここから離れろ!」
「でも…あの二人はあのままでいいんですか?」
運転席の安部が後ろを指差して訊く。
「好きにさせとけばいいさ。周囲に被害が出ないようにここに降りたんだから。ほとぼりが冷めた頃、迎えの車をやるよ」
「わかりました」
タイヤを鳴らして、ランドクルーザーは急発進する。
数秒後、激しい衝撃波が車体を揺さぶった。加藤がサイドミラーを覗くと、キノコ雲が立ち昇っている。
「ま、高橋さんなら死ぬこともないだろ」
私闘を繰り広げる魔女二人を後に残し、車は国道三六号を札幌へ向かって走っていった。
―― 終わり ――
あとがき
『西十八丁目の魔女』もこの話でシリーズの半分を過ぎました。
名前のある主要キャラは今回の加藤と千春でほぼ出揃い、これから話はクライマックスに向けて盛り上がって…行くかなぁ? 何だか、このまま淡々と終わりそうな気もするけど(笑)。
魔法の正体は何か? 北海道を襲った異変の原因とは? 今回出番のなかった祐子や芹菜は復活するのか? 数々の謎を秘めて、次回第五話はクリスマスの話です。例によって季節外れだけど。『とぎれとぎれのサイレント・ナイト』お楽しみに。
一九九八年一月 北原 樹恒
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