第五話 KIMELLA

By 北原 樹恒



 一 十二月の午後、河原で僕は
     夏の風景を思い出していた


 いくら北海道とはいえ、十二月上旬頃の積雪はまだ大したものではない。
 本格的な根雪になるのは、十二月の下旬からだ。
 そんなわけで、札幌の中心部を流れる豊平川の河川敷にも、うっすらと雪が積もっているだけだった。
 そして、
 その日の午後、ここは戦場だった。
 空中に閃光が走り、立て続けに爆発が起きる。
 灼熱の炎が、芝生の上に積もった雪を蒸発させる。
 魔物の咆哮が周囲に響く。
 ついでに、
「かと〜さ〜ん、私、もう疲れたよ〜」
 そんな弱音を吐いているのは、北海道に十七人しかいない特一級魔術師の一人、鈴木安加流である。
「気の抜けるセリフ吐いてないで、もう少し頑張ってくれよ」
 北海道民の平和を護る正義の公務員(自称)、魔法調査室副室長の加藤元が諭すように言う。
「だって…お腹も空いたし…」
「これが片付いたら、なんでも好きなもの奢ってやるから」
「ん〜、頑張る〜」
 安加流はまた魔物に向き直り、ライトニング・ボルトの魔法の紋章を描く。
 だが、紋章から放たれた雷光はその魔物の翼を掠めただけで、致命傷にはほど遠い。
「またハズレか、このド下手くそ!」
 背後から、学校の先輩、相模原芹菜の声が響く。
 芹菜は、年下の恋人である松本昌実と二人掛かりで魔物と戦っていた。
 芹菜と昌実は、たまたま安加流が加藤からの呼び出しを受けたときに近くにいて、面白半分についてきたのだ。
「まったく、安加流はともかく、オレ達みたいな一般市民を巻き込むなんて!」
「僕は止めたのに、面白いから見に行こうって言ったのは芹菜さんですよ」
 今日、彼ら四人が戦っている魔物は、ワイバーンだった。
 外見は、前足が翼に変化した小型の竜といったところだが、実際のところ、それは単に空を飛ぶことができる大きなトカゲに過ぎない。
 一つの都市を消滅させるほどの破壊力と、不死身の身体を持った異質の存在『竜』に比べれば、二級魔術師の芹菜や三級魔術師の昌実でも何とか相手をできる程度の、中級の魔物だ。
 但し、
 それは、相手が一頭だけの場合。
 今、彼らの周囲には、五十頭以上のワイバーンが舞っていた。
 遠くから見れば、ゴミ捨て場に群がるカラスのような光景かも知れないが、近くで見ればそれぞれが十メートル近くもある魔物なのだ。
 その数の多さと素早い動きのために、安加流達は苦戦を強いられていた。
 これでも、もう二十頭は倒している。
 竜と違って、ワイバーンは強力な攻撃魔法を命中させれば確実に倒すことができる。
 しかし困ったことに、そう簡単には命中しない。
 その巨体からは信じられないほど素早く飛び回るワイバーンを攻撃するのは、想像以上に難しい。
 安加流はお世辞にも運動神経が良い方ではなく、攻撃のタイミングがどうしてもワンテンポ遅れてしまう。
 命中率だけなら、芹菜の方がよっぽどいい。
 安加流の最強の無差別攻撃魔法『ティルトウェイト』も、爆発に巻き込まれるのは一頭かせいぜい二頭だ。
 安加流は仕方なく『数撃ちゃ当たる』戦法に切り替えることにした。
 『マジックミサイル』である。
 もっとも初歩的な攻撃魔法ではあるが、たくさんのミサイルを散らして撃つこともできるし、ライトニングボルトと違って多少の目標追尾能力もある。
 その代わり、威力が弱い。
 ワイバーン相手では、十発くらい当てたところでびくともしない。倒すためには、百発単位の命中弾が必要だった。
 安加流は紋章を描き続け、毎分千発以上のマジックミサイルを打ち出す。
 芹菜は冗談半分にそれを「人間ファランクス」と呼んでいた。
 それにしても、これは疲れる。
 魔法そのものには術者のエネルギーは消費しないが、意識を集中し、手を動かして紋章を描き、さらに呪文を唱え続けなければならない。
 その上、攻撃にばかり集中するわけにもいかない。
 ワイバーンの鋭い爪と、口から吐き出す炎による反撃を、防御結界で防がなければならないからだ。
 こういった事情で、安加流は一時間以上の間、一瞬も休むことなく魔法を使い続けているのだった。
「もぉ、イヤ! どうしていつも私ばかりこんな苦労しなきゃならないのっ? 魔術師は私だけじゃないでしょ!」
「今日は、他の人たちはみんな野幌のトロル退治に行ってるからね。中央区には他に一級魔術師は残っていないんだ」
「もぉ! 今日はいつもみたいにチョコパフェやピザくらいじゃ誤魔化されませんよ。もっといいものご馳走してもらわなきゃ」
「ああ、フランス料理だろうと寿司食べ放題だろうと連れてってあげるよ。これが片付いて生きてたら、の話だけどね」
 加藤が、やや真剣な口調で言う。
 もっとも、安加流が魔物に負けるところなど彼には想像できなかったが。
「それより鈴木ちゃん、ライトの光量が落ちてるぞ。気を付けて!」
 魔法の紋章を描くためのケミカルライトは約六時間発光し続けるが、時間が経つにしたがって少しずつ光量は弱くなる。
 どういった理由かはわからないが、封を切ったばかりの明るいライトの方がより効果があることが知られていた。
「あん、もう、こんな時に!」
 安加流はライトを放り捨てると、ポケットからまだ封を切っていない新しいライトを取り出す。
 そこに、一瞬の隙が生まれた。
「鈴木ちゃん、危ないっ!」
 バルカン砲の如く撃ちまくっていたマジックミサイルが止んだ瞬間、二頭のワイバーンが安加流に襲いかかった。
 加藤が放ったライトニングボルトが、一頭の身体を貫く。
 だが、もう一頭は間に合わない。
 牛くらい簡単に掴み殺すことのできる爪が、安加流に迫る。
「…!」
「安加流っ!」
「安加流さん!」
 芹菜と昌実が、青い顔で叫ぶ。
 安加流はぎゅっと目をつむった。
 だが、ワイバーンの爪が安加流を引き裂こうとした瞬間、赤い光の槍がワイバーンを貫いた。
 ワイバーンは、その一撃で崩れるように倒れる。
「な…?」
 見ると、その一頭だけではなかった。
 そこにいた数十頭のワイバーン全てが、光の槍に貫かれて動きを止めていた。
「え…?」
 安加流が恐る恐る目を開けると…
 目の前に、一人の少年が立っていた。
 歳は高校生くらいだろう。髪を伸ばしているためか、やや中性的な雰囲気をまとっている。
 日本人離れした白い肌と、脱色したものではない自然な栗色の髪からすると、生粋の日本人ではないのかも知れない。
「あ…」
「久しぶりだね、大丈夫だった?」
 安加流に手を差しのべた少年は、そう言って静かに微笑んだ。




二 KIMELLA


 それは、二年半くらい前の六月、
 つまり『異変』の最初の日の話――

 家を出たときに目にした物を気のせいにして、安加流は学校へと急いでいた。
(なぁんか、変な夢見ちゃったなぁ。最近ゲームのやり過ぎかも)
 途中でちらと見かけた、緑色のスライム状の蠢くモノも、見なかったことにした。
 安加流が通う中学校までは、家から徒歩で二キロ弱くらいの距離である。
 町の東端を流れる川に沿った道は、人通りも少ない砂利道なのだが、ここを通って国道五号線沿いにある乳製品工場の脇に抜けると、少し近道になる。
 その、工場の手前にある空き地に『それ』はいた。
 安加流は立ち止まって二、三度瞬きすると、眼鏡をハンカチで拭いてかけ直す。
 しかし、それはやっぱりそこにいた。
 これまでと同じように見ない振りをして通り過ぎてもいいのだが、そのためには、それのすぐ脇を通らなければならない。
 かといって、ここでいきなり廻れ右をするのも避けたかった。何かリアクションをしてしまうと、全て現実であると認めてしまうことになるから。
 それは、小型のダンプカーほどの大きさがあった。
 そして、三つの頭を持っていた。
 といってもキングギドラではない。
 ライオンと、山羊と、そしてよりによって竜の頭。
 RPGマニアの安加流には、馴染み深い存在だった。
「え〜と…」
 安加流は困ったように周囲を見回す。
 誰もいない。
 自分と、『キメラ』の他は。
 誰かいれば良かったのに…、安加流は思った。
 そうすれば、これが、ゲームのやり過ぎで寝不足の頭が生み出した幻かどうか確かめられたのに、と。
 三つの頭の、合計六つの目が安加流を睨んでいた。
 リアクションに困った安加流は、やや引きつった笑みを浮かべながら右手を差し出して言った。
「…お手」
 当然のことだが、反応はない。
 ここでキメラがお手なんかしたら、それはそれで不気味な光景ではあるが。
「え〜と…」
 安加流はもう一度周囲を見回す。
「じゃ、そゆことで…」
 そう言ってその場を立ち去ろうとしたとき、キメラが低い唸り声をあげた。
 どの頭の声かはわからないが、多分、山羊ではないだろう。
「あの…」
 安加流は、キメラの顔色を窺うように言った。
「ひょっとして、怒ってる?」
 返事の代わりに、キメラは丸太ほどもある前足を振り上げた。
 爪の一本一本は、鎌のように鋭い。
(え…ちょ、ちょっと待って!)
 呑気な安加流でも、自分がいま非常に危険な状況にあることは理解できた。
 しかし、身体が動かない。
 某RPGの例でいえば、キメラの与えるダメージは九〜五十四。レベル1の戦士のヒットポイントは五〜八だから、当然安加流などひとたまりもない。
「や、ヤダ! 誰か…」
 キメラの前足が安加流めがけて振り下ろされる瞬間、赤い光の槍が、キメラの身体を貫いた。
 どう、と地響きを立ててキメラの巨体が倒れる。
「え?」
 一体何があったの…、と安加流が周囲を見回すと、背後に、一人の少年が立っていた。
 歳は安加流より少し上、たぶん高校生くらいだろう。髪を伸ばしているためか、やや中性的な雰囲気をまとっている。
 日本人離れした白い肌と、脱色したものではない自然な栗色の髪からすると、生粋の日本人ではないのかも知れない。
「あの…」
「危ないところだったね、怪我はなかったかい?」
 優しげな笑みを浮かべて、少年は言った。
「あ…あの、えと…、あなたが助けてくれたんですか? ありがとうございます」
「この辺りは物騒だからね、これをあげる。きっと役に立つよ」
 少年は、一冊の本を差し出した。
 それを受け取った安加流は、表紙を見て目を丸くする。
 『魔法教本』そんな文字が読めた。
「あの、これって一体…」
 そう言って安加流が顔を上げたときには…、
 少年の姿はなかった。
 そして、足元に倒れていたはずのキメラの姿も。
「夢? また…」
 だが、安加流の手の中の本だけは、紛れもない現実だった。

  * * * * *

「…とゆ〜ことがあったんですよ、中学の時」
「ちょっと待て鈴木ちゃん、その話は初耳だぞ。そんな大事なこと、どうして今まで黙っていたんだ」
「あれ、言ってませんでしたっけ? 話したと思ってたけど…」
「いや、聞いてないね。だいたい…」
「特上カルビ、三人前追加ね!」
「あ、牛タンもお願いします」
 いきなり話の腰を折られた加藤は芹菜と昌実を睨み付けるが、食べるのに忙しい二人は一向に気付かない。
「…どうでもいいけど、よく喰うな君達は」
 溜息混じりに加藤は言った。
 安加流と加藤、そして芹菜と昌実の四人がいるのは、ススキノにある焼き肉屋。
 ワイバーンが片付いた後、約束通り加藤のおごりで食事をしているというわけだ。
 安加流を助けた少年は、ちょっと目を離した隙に何処かへ姿を消していた。
「その、貰った本、今度見せてもらえないかな?」
「いいですよ、今持ってますから」
 安加流は鞄から、黒い表紙の本を取り出して加藤に渡す。
「入門書ですから、今さら見る必要もないんですけどね。お守り代わりに持ち歩いているんです」
「ふ…ぅん…」
 本のページを繰っていた加藤が、戸惑ったような表情を見せる。パラパラと最後まで目を通して、本を安加流に返した。
「本当に、この本で魔法の勉強を?」
「そうですよ。その頃、他に魔法の入門書なんてなかったし」
「そりゃそうだろうな。不思議とは思わなかったのかい? 魔物が出現した最初の日に、どうしてあの少年が魔法を使えたのか」
「…そう言えば不思議ですね」
 箸をくわえたまま、安加流が答える。
「こっち、中ジョッキ二つ追加!」
「…おい、君達はまだ未成年だろ」
 いつの間にやら、芹菜と昌実の前には空になったジョッキが置かれていた。
「保護者同伴ならいいンじゃないの?」
 僅かに頬を赤く染めた芹菜が言う。
「そんなワケないだろう!」
 昌実は顔中真っ赤になって、けらけらと笑っていた。


「で、この後どうする? 僕の車で送ってやってもいいけど」
 店を出たところで、加藤が安加流達に訊いた。
 そろそろ忘年会シーズンということで、週末のススキノは人通りが多い。
「野暮なこというなよ、おっさん」
 すっかりできあがっている芹菜の言葉に、加藤はむっとする。
「誰がおっさんだ。僕はまだ二十代だぞ」
「もう秒読みのくせに。オレと昌実は用事があるから、さ」
 芹菜の腕には、足下がややおぼつかない昌実がしがみついていた。
 何やら意味深な芹菜の笑みに、加藤は事情を察する。
「用事って、南八条方面で『ご休憩』ってヤツかい?」
「そ〜ゆ〜コト」
 芹菜がふふっと笑う。
「まったく、高校生のくせに何やってるんだか」
「若者にそんな説教するようじゃ、やっぱりおっさんだよ。じゃ、な」
 芹菜と昌実は、腕を組んで南へと歩いて行く。その後ろ姿を見送っていた安加流が言った。
「何か変だと思ったら、逆なんですね」
「逆?」
「腕の組み方」
 ああ、と加藤は頷いた。
 普通のアベックとは逆に、女の芹菜の方が腕を差し出している。
 百七十センチ近い長身の芹菜に対し、まだ中学一年生の昌実は百五十センチにも満たないから、バランスとしてはこれで正しい。
「ところで、加藤さん?」
「ん?」
 駐車場に向かって歩きだそうとしたところで、安加流が訊いた。
「南八条って、何のことですか?」
 一瞬、加藤は返答に詰まる。
 安加流にからかわれているのかとも思ったが、表情を見る限りどうやら本気で訊いているらしい。
「子供は知らなくていい」
「あ〜、そういうこと言うから芹菜さんにおじさん扱いされるんですよ。昌実君なんて、私より年下じゃないですか」
「…鈴木ちゃんは知らなくていい!」
 ススキノの繁華街から少し南に行った南八条〜九条あたりは、いわゆるラブホテル街なのだが、安加流はそのことを知らないのだろう。
 今どき、こんな女子高生もいるんだな、と加藤は妙なことに感心した。


 ススキノから安加流の家まで、車では四十分くらいかかる。助手席に座った安加流が時計を見ると、既に九時を過ぎていた。
(遅くなっちゃった。また、お父さんに怒られるな…)
 そんなことを考えながら、安加流は大きな欠伸をした。
 カーオーディオのスピーカーからは、上野洋子の澄んだ歌声が流れている。
 加藤は、何も言わずにハンドルを握っていた。
 頭の中では、今日の出来事を整理するのに忙しい。
 彼の本来の仕事は、魔物退治ではなく、この異変と、魔法の正体を解き明かすことだ。
 安加流を助けた少年と、安加流の魔法書。この二つが、重要な鍵を握っていると思われた。
 異変から二年半の間に起こった数々の事件、それは大きなジグソーパズルの、一つ一つのピースだ。全てのピースを正しく組み合わせれば、そこに答えがあるはずだ。
 だが、それは完成図のわからない大きなパズルだった。
「なあ、鈴木ちゃん。あの本のことなんだが…」
 星置の町で赤信号で止まったときに、加藤が口を開いた。
 だが、返事はない。
 横目で見ると、安加流は静かに寝息を立てていた。
 起こそうと左手を上げかけて、やっぱり思いとどまる。
 あの本のことでどうしても確認したいことがあったのだが、何となく、それを訊くのはためらわれた。
 先刻は芹菜達がいたので、二人きりになったときに訊こうと思っていたのだが…。
「…ま、いいか」
 加藤はオーディオのボリュームを下げ、安加流の家までの残り数キロを、今までより少しゆっくりと車を走らせた。




三 とぎれとぎれのサイレント・ナイト


「パーティ?」
 安加流のクラスメイト、谷村祐子が首を傾げた。
 安加流がこっくりと頷く。
「てことは、タダ飯、タダ酒?」
 これは芹菜。
 ワイバーンの事件から、何日か後のことである。
「でも、いいの? 安加流ちゃんはともかく、関係ない私達まで魔法調査室のパーティに参加して?」
「パーティっていっても、魔調の職員と、協力魔術師だけの忘年会みたいなものだから、友達も連れてきて構わないよって、加藤さんが言ってた」
「来週の土曜日か…。場所は?」
「後楽園ホテル…って、何処だっけ?」
「大通り西八丁目だろ? 後楽園ホテルとは豪勢だな」
 美味しい物に目がない芹菜が舌なめずりする。
「そういうことなら、昌実も呼ぼうかな」
「あ、だったら私も飯山さんを誘お」
 飯山さん、というのは、最近できたばかりの祐子の彼氏だ。四歳年上の大学生で、安加流も二、三度会ったことがある。
「…てことは、私だけ一人?」
 安加流が拗ねたように言う。
「安加流だって、ちゃんと相手がいるだろ。ちょっと歳は離れてるけど、顔はまあハンサムだし、背も高いし、何より高給取り」
「え? ち、ちょっと、何の話?」
「とぼけんなって。なあ?」
 芹菜に話を振られて、祐子も相づちを打つ。
「そうそう、何たってエリートだもん。ブランド物のスーツを着こなして、少なくともルックスはいいよね」
 やっと、二人の言っている意味が分かったのか、安加流が真っ赤になる。
「な、何言ってんの二人とも! そんなワケないじゃない! 私、加藤さんのことなんて何とも…」
「誰も、加藤さんなんて言ってないぜ?」
 そう言うと、芹菜と祐子は声を揃えて笑った。

  * * * * *

「なんか、つまんない」
 ローストビーフをつつきながら、安加流は誰にも聞こえないようにぽつりと呟いた。
 パーティ会場には、魔法調査室の職員や民間の魔術師等、七、八十人の人間がいる。
 安加流達が最年少とはいえ、職員も若い人が多いから、それほど浮いているわけではない。
 ただ、芹菜と昌実、祐子と飯山がそれぞれ『二人の世界』を作ってしまっていることと、魔術師仲間で仲のいい高橋千春が来ていないことで、安加流は何となく一人になっていた。
 トイレに立った安加流は、そのまま会場に戻らず、ロビーの椅子にぽつんと座っていた。
 背後からいきなり声をかけられて驚いたのは、そんなときだ。
「そんなところで何してるんだい?」
「か、加藤さん!」
 いつの間にか、加藤がそこに立っていた。
「パーティは退屈だったかな?」
「そ、そんなことないですけど…ただ、私だけ一人だから…何となく…」
「ふむ」
 加藤は一瞬考えるような表情になった。
「それじゃあ、ちょっと抜け出さないか? 二人きりで、さ」
「えっ?」
 驚きの声を上げる安加流をよそに、加藤はクロークで安加流と、自分のコートを受け取る。
「加藤さん…?」
 加藤から渡されたコートを手に、安加流は戸惑ったような表情を見せる。
 鼓動が、早くなっていた。
(な、なんでドキドキしなきゃいけないのっ! 私、別に、加藤さんのことなんて何とも…。もう、芹菜さん達が変なこと言うから、意識しちゃうじゃない!)
「どうしたの。さ、行こう」
 加藤が、そっと安加流の肩に手を掛けた。
 安加流の身体が、ぴくりと震える。
「私だけ一人、って言ってたけど、鈴木ちゃんはボーイフレンドとかいないのかい?」
「だって、ウチ女子校だし…」
「それを言ったら、相模原君や谷村君だって同じ学校だろ?」
「う…加藤さんのいじわる…。私、芹菜さんみたいに美人じゃないし…」
 それに対して加藤が何も言わなかったので、安加流は少なからずショックを受ける。
 嘘でもいいから「そんなことないよ」くらい言って欲しかったのだが、加藤にそういう心遣いを期待するのは間違いだったかも知れない。
 後楽園ホテルを出て横断歩道を渡れば、そこは大通公園だ。
 日中から静かに降り続いている雪が、公園を真っ白に覆っていた。
 公園の樹々の枝は、電球で彩られている。冬の札幌の名物、ホワイトイルミネーションだ。
 柔らかな黄色い光が、純白の雪にきらきらと反射していた。
「キレイ…」
 安加流は、小さく呟いた。
 多分、加藤の耳には届いていないだろう。
 人の足跡もほとんどない雪を踏みしめると、サク、サク、と静かな音を立てた。
 公園の中央で加藤は立ち止まる。
「ほんと、綺麗だね」
 優しい笑みを浮かべている加藤を見て、安加流は何故か赤くなってしまう。
(き、今日の加藤さんってばなんかいつもと違う。大体、幹事役の加藤さんがパーティの最中に抜け出して、どういうつもりなんだろ)
 別に私、加藤さんのことなんて何とも思ってない。
 そう言い聞かせても、やっぱりどこかで、何かを期待している自分がいる。
「こんな風に、静かに雪の降る夜は好きだな」
 音もなく落ちてくる雪を掌で受け止めながら、加藤は言った。
「今日は、ステキな夜だと思わないかい? 明後日はクリスマスイブだし、きっと今夜、一足早くディナーを楽しんでいる恋人達も多いことだろうね」
「そ…そうかもしれませんね」
(な、何を言おうとしているの?)
「僕としては、恋人達の楽しみを邪魔したくはないんだ。鈴木ちゃん、ちょっと手を出して」
「え?」
 加藤の最後の言葉は意味が分からなかったが、安加流は反射的に掌を差し出す。
 その手の中に、加藤はぽとりと、緑黄色の蛍光を放つケミカルライトを落とした。
 何の変哲もない、魔術師なら誰でも持っている品だ。
「…加藤さん?」
「あれ、何とかしてくれないか?」
 相変わらず優しい笑みを浮かべながら、加藤は空を指差した。
 安加流が空を見上げると…何か、大きな黒い影が空を横切った。
「ワイ…バーン?」
 加藤が頷く。
 それも一頭だけではない。
 肉眼ではよくわからないが、意識を集中すると三頭の気配が感じられた。
 魔術師の能力には個性があり、例えば加藤は、魔物の気配を察知することに関しては安加流よりも遙かに鋭い。
 つまり…
「あの…加藤さん? ひょっとして、これのために外に出たんですか?」
 加藤は答えなかったが、その笑みは、安加流の問いを肯定していた。
 これだけ大物の気配なら、加藤は建物の中にいても感じ取ることができるだろう。
「せっかくみんな仕事を忘れて忘年会を楽しんでいるところに、水を差したくはないからな」
「で? 私にやれ、と?」
 加藤は、今度ははっきりと頷いた。
 なぁんだ…、安加流は小さく肩を落とす。
 別に、期待していたわけじゃない。そう強がっても、口から溜息が漏れてしまう。
 私ってば、何バカみたい。
 勝手にあれこれ想像して、期待して…。
 そんなことあるわけないのに。
 あ〜もう、恥ずかしい! 穴があったら入りたい!
 これというのも…みんな、あいつらのせいだ!
 安加流の落胆はすぐに怒りへと変わる。八つ当たりすべき対象は、頭の上にいた。
「騒ぎにならないように、爆発系は避けてできるだけ静かにね」
 そんな加藤の声を聞きながら、安加流は紋章を描いた。
 夜の闇に、ケミカルライトの軌跡が鮮やかに映える。
 紋章が完成した瞬間、安加流は呪文の変わりに心の中で叫んだ。
(加藤さんのバカッ!)
 それぞれが電柱ほどもある、三本の赤い光の槍が音もなく舞い上がり、安加流達に気付いて攻撃態勢に移ろうとしていたワイバーンを貫いた。

  * * * * *

「いつもこういう風に、周囲に被害を与えずに片付けてくれると助かるんだけどな」
 パチパチと手を叩きながら、加藤は笑った。
 安加流のむしゃくしゃした気持ちは、まだ収まらない。
「ふん、だ!」
 手に持っていたケミカルライトを投げつけると、安加流は加藤に背を向けた。
「鈴木ちゃん…ひょっとして、怒ってる? 無理やり連れ出したから?」
(そんなんじゃない! 加藤さんのバカ! 鈍感!)
 安加流は、泣きたい気持ちになる。
 しかし、加藤の前で本当に泣くわけにはいかない。
「鈴木ちゃん…」
「うるさい!」
 叫びながら振り返ると、目の前に、加藤の掌があった。
 そしてその上に、小さな包みが乗っていた。
「え…?」
「クリスマスプレゼントというか、特一級の資格を取ってから半年、頑張ってくれたからそのお礼というか…。ま、そういうこと」
 安加流は、半信半疑の表情で自分を指差した。加藤が頷く。
「これ…私に?」
 そうっと手を伸ばして、包みを受け取る。
 赤いリボンが結ばれた、掌に乗る小さな包みだ。
「開けてごらん」
(こ、こんなもので誤魔化されないんだから。加藤さんには、色々ひどい目に遭わされてるんだし…)
 例えば、冷たい海に突き落とされたり、ワイバーンに殺されそうになったり。
「…!」
「気に入ってもらえるといいんだけど」
「イヤリング…? これ、本物の真珠? あの、これって高いんじゃないですか?」
「…いや、それほどでもないから、気にしなくていいよ」
 加藤はさり気なく言ったが、その言葉は半分嘘だった。
 安加流は、もらったイヤリングをぎゅっと握りしめる。
「さて、そろそろ戻ろうか。寒くなってきたし」
 加藤はそう言うと、後楽園ホテルに向かって歩き出す。
 しかし、今の安加流には寒さなどまったく感じなかった。
「…」
「え、何か言った?」
 加藤が振り返る。
「…ありがとうって、言ったの」

  * * * * *

「なんだかんだ言って、けっこういい雰囲気じゃん。でも、どうしてここでお礼にキスの一つもしないかね?」
「安加流ちゃんて、こ〜ゆ〜ことに免疫ないから。でも…加藤さんはどう思ってるんだろ? あの人けっこうモテそうだし、恋人とかいない方が不思議って気がするケド」
「私が訊いたときは、前の恋人とは半年くらい前に別れたって言ってたな」
「ふ〜ん…って、千春さん! いつからそこに?」
「やっと残業が終わったんでね、ちょっと顔を出しにきたの。でも、なんだか面白そうなことになってるじゃない?」
 公園のベンチの陰に、そんな会話を交わしている人影が隠れていることを、安加流は知らない。

〜 終 〜




あとがき


 キメラの綴りは、普通『CHIMERA』と書きます。
 英和辞典にも、この作品の資料に使っている某RPGのモンスターズマニュアルにも『CHIMERA』で載っているので間違いないでしょう。
 でも、この作品のタイトルは『KIMELLA』です。
 別に私が間違えたわけではありません。
 まあ、わかる人にはわかる、ということで。
 わからない人には、最終話のあとがきで種明かしをしましょう。

 さて『西十八丁目の魔女』も五話まできて、物語も核心に迫ってきました。
 今回の第二章は、序章『その日の朝』の続きになっています。
 ところで、今回はちょっとばかり今までとノリが違います。
 何しろ、北原には珍しくカップリングが男×女だし(笑)。
 でも、終わりの方はちょっと恥ずかしかったですね。
 シラフで書けるのはこの辺が限界。
 このあと最終話までは、どちらかといえばこのノリで行きます。 
 そのつもりで読んで下さい。

 第六話『ガラスの森』はこの後すぐに書き始める予定です。
 ただ、六話と七話『飛行夢』は続き物になる予定なので、七話が書き上がってから一挙公開、となるかも知れません。
 ということで、お楽しみに〜。

一九九八年二月  北原 樹恒
kitsune@mb.infoweb.ne.jp
http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/


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