第六話 ガラスの森

By 北原 樹恒




 暗い夜道、
 安加流が通う中学から家へ向かう近道は街灯も少なく、夜になると真っ暗だ。
 安加流は、必死に走っていた。
 しかし、安加流はそれほど運動神経の良い方ではない。
 背後から追ってくる足音は、どんどん近付いてくる。
 安加流は肩越しにちらりと後ろを見る。
 それは、一見人間のようで、しかし、実際には異質の存在だった。
 身体は灰色の毛皮に覆われ、尖った耳と暗闇で光る目、そして耳元まで裂けた大きな口を持っている。
 人狼。
 目に涙を浮かべながら、安加流は走る。
 だが、気持ちばかりが焦って脚はなかなか進まない。
 獣の脚力を持つ魔物はたちまち追いつき、安加流の長い髪を掴んで地面に引き倒した。
「いやぁっ!」
 抵抗する間も与えず、人狼は安加流を押さえつける。
 鋭い牙が並んだ口が大きく開かれ、よだれに濡れた牙が暗闇の中できらりと光った。
「誰か! 助けて…」
 そんな叫び声も途中で途切れた。
 魔物の牙が安加流の喉に食い込む。
 安加流の口から声にならない悲鳴が漏れ、涙が溢れ出す。
 生きたまま魔物に喰われるおぞましい感触。
 全身を貫くような鋭い痛みに、安加流は意識を失った。

  * * * * *

 目が覚めると――
 痛いのは、喉ではなくて頭だった。
 ベッドから落ちたときにぶつけたらしい。
「う〜、何よ、この夢…」
 後頭部のコブをさすりながら、安加流は呻く。
 怖い夢だった。
 ぐっしょりと汗をかいている。
 全身に鳥肌が立っていた。
「なんで、こんな夢…」
 現実にはあり得ないことだった。
 特一級魔術師である現在はもちろん、新米の魔術師だった中学時代だって、安加流は魔物に傷を負わされたことはない。
 勉強もスポーツも特に秀でているわけではない安加流だが、こと魔法に関しては類い希な才能を持っていた。
 たとえ竜が相手だって負けたことはない。勝ったこともないが。
 しかし、こんな夢を見るということは、どこか心の奥底で魔物に対する恐怖心があるのだろうか。
「もぉ…、今、何時?」
 ベッドに戻って枕元の目覚まし時計を見ると、九時少し前だった。
 今日は日曜だから、いつもならあと一時間くらいは寝ている。
「怖い夢の続きを見たらヤだし、起きちゃおうかな」
 ベッドの上に座って、まだ少しボ〜っとしている頭でそんなことを考えていると、部屋のドアがノックされた。
「安加流、今なんかすごい音がしたけど大丈夫?」
 安加流の返事も待たずにドアが開き、二十歳過ぎの女性が入ってくる。
 安加流の姉、鈴木水城(みずき)だ。
 ストレートヘアの安加流と異なり、軽くウェーブのかかった髪の、安加流よりも洗練された雰囲気のなかなかの美人だ。
「またベッドから落ちた? 相変わらず寝相悪いね〜」
「うるさいなぁ、放っといてよ」
「目、覚めたんならちょうどいいや。買い物に付き合ってよ。ついでに雪祭り見に行こ。どうせ暇なんでしょ」
 暇なんでしょ、の台詞には多少の皮肉があった。つまり「デートする彼氏もいないんだから」ということだ。
 それがわかっているから、安加流は不機嫌そうな声を出す。
「買い物に付き合えって、どうせ荷物持ちでしょ? 何で私が…」
「いいじゃない、ケーキバイキングくらい奢ってあげるから」
 安加流は「絶対行くもんか」と思っていたのに、ケーキにつられてしまう自分がちょっと情けなかった。

  * * * * *

 二月上旬といえば、北海道は冬本番。
 そして、二月の札幌といえば雪祭りである。
 会場となる大通公園には大小さまざまな雪像が建ち並び、大勢の観光客で賑わっていたし、ススキノまで足をのばせば、氷の彫刻コンクールの作品も見ることができる。
 しかしこの日、鈴木水城の本当の目的は雪祭りではなく、デパートのお菓子売場にあった。
 雪祭りが終わると、すぐにヴァレンタインデーである。
 美人で男友達の多い水城は大量のチョコを用意する必要があるので、妹を荷物持ちに連れて来たのだ。
「まったく、どうして私がお姉ちゃんのチョコの買い出しに付き合わなきゃなんないのよ」
「あんただってヴァレンタインチョコくらい買うでしょ…それとも、高校生にもなってチョコあげる相手の一人もいないの?」
「う…」
 安加流は言葉に詰まる。
 そんな安加流を見て、水城は呆れたように言った。
「まったく、我が妹ながら情けない。私があんたくらいの歳には、彼氏の二、三人はいたもんだけど」
「…どうして複数なの」
「それが女の甲斐性ってもんよ」
 雪祭り期間中ということで、地下街も人出が多い。
 安加流と水城は人混みを縫って、札幌のデパートの老舗、丸井今井へ向かう。
 地下二階のお菓子売場にはヴァレンタインの特設コーナーが設けられ、若い女性で賑わっていた。
 水城は売場の間を歩き回り、外国製のチョコをいくつも買う。
 買ったチョコは全部、安加流が持っている紙袋に放り込む。
「お姉ちゃん、こんな高そうなチョコばかり買うの?」
「何のためにデパートまで来たと思ってるの。安い義理チョコはダイエーで買うよ」
「じゃあ、これ全部本命チョコ?」
 袋の中には、既に十個以上のチョコが入っているのだが。
「あと、ホワイトデーのお返しが期待できる人には、勿論いいチョコあげるわよ」
 安加流は小さく溜息をついた。
「それよりあんたは買わないの? いくら男っ気がないからって、誰かいないの?」
「う〜ん…」
 女子校に通う安加流には、身近に仲のいい男子はいない。せいぜい、
(昌実くんに、義理チョコあげようかな…。多分芹菜さんのお腹に入るんだろうけど)
 それくらいしか心当たりがない。
 あとは、
(…どうしよう…かな)
 少し高めのチョコを手に、考え込む。
「いくら奥手のあんたでも、一人くらいあげる相手はいるんでしょ? その、イヤリングの君とか、さ」
「えっ?」
 安加流は思わず自分の耳に手をやった。
「ずいぶん、いいモノ持ってるじゃない。それ、本物のパールに十八金でしょ? 誰に貰ったの?」
「いや…あの…これは…」
 真っ赤になって口ごもる安加流を、水城は面白そうに笑って見ていた。


 さんざん悩んで、水城に冷やかされて、結局安加流は二つのチョコを買った。
 自分の二つのチョコと、水城の二十個ほどのチョコを重そうに持って歩く。
「どうする安加流、何か食べていこうか?」
 出資者である水城は、手ぶらだから身軽だ。
「うん…あ!」
 安加流が、小さく声を上げた。
 地下街の雑踏の中に、見覚えのある人影がいたからだ。
「おや、鈴木ちゃんじゃないか。今日は買い物かい?」
「か、加藤さん」
 思わず、声がうわずってしまった。
 そんな安加流の腕を、水城が引っ張って耳元で囁く。
「ちょっと安加流。誰、このいい男?」
「…加藤さん」
「魔法調査室の?」
 コンマ一秒で『よそいき』の顔になった水城は、最高の笑顔を見せる。
「まあ、お噂はかねがね伺ってます。ウチの馬鹿な妹がいつもいつもご迷惑をおかけしまして…」
「あ、お姉さんですか。いえいえ、もう慣れましたよ」
「ちょっと加藤さん!」
 安加流はむっとした表情になる。
「普通そ〜ゆ〜ときは『そんなことありません』とか言わない?」
「僕は、嘘が苦手なんだよ」
「加藤さんっ!」
 顔を赤くして怒鳴る安加流を、水城は面白そうに見ていた。
「ホントこの子ったら、魔力ばっかり強くなっちゃって。胸はぜんぜん成長しないのにね〜」
「なんでそ〜ゆ〜話になるのよ!」
「そういえば、お二人はあまり似ていませんね」
 そう言う加藤が見ていたのは、二人の顔か、それとも胸のサイズか。
 いずれにしても、安加流にとっては面白くない。
「加藤さん、今お時間はあります? よろしかったらご一緒にお茶でもいかがですか? それとも、お仕事中なのかしら」
「ちょっとお姉ちゃん」
 姉がいい男に目がないことは、安加流もよく知っている。
 今度は加藤に目を付けたのだろうか。考えてみれば、魔法調査室の副室長である加藤は、道内では有名人だ。
「ええ、いいですね。今日は別に仕事というわけではないので…」
 姉の誘いに簡単にOKする加藤の態度が安加流の癇に障る。
 安加流はぷぅっとふくれて言った。
「私、帰る! どうせ二人とも、私の悪口で盛り上がるつもりなんでしょ!」
「あら、よくわかってるわね」
「ふん、だ!」
 二人に背を向けて、安加流は小走りに去っていった。
「怒らせちゃったみたいですね」
「あの子、怒りっぽいから」
「そうですか…?」
 もう一度、安加流が走り去った方向を見て加藤は言った。
「何だか、わざと怒らせてるようにも見えましたけどね」
 その言葉に、水城は悪戯を見破られた子供のような表情を見せる。
「ちょっと…安加流抜きでお話ししたいことがあったンですよ。立ち話も何ですから、そこの珈琲屋さんにでも入りません?」


(なによ、加藤さんのバカ!)
 怒っているのか、泣いているのかよくわからないような表情で、安加流は早足に札幌駅へ向かう。
 振り回された紙袋が、何度も足にぶつかった。
(お姉ちゃんの前でデレデレしちゃって。そりゃ、お姉ちゃんは私より美人だけど…加藤のスケベ!)
 どうして、こんなに腹が立つんだろう。
 自分でも理由がよくわからないのに、涙が溢れてきた。


「で、お話というのは?」
 口にくわえたダヴィドフのミニシガリロに火をつけて、加藤は訊いた。
「単刀直入に訊きますけどね…」
 カチャ…、カプチーノのカップが小さな音を立てる。
「加藤さん、安加流のことをどう思ってらっしゃるんですか?」


 大勢の観光客で賑わう大通公園に、
 『それ』は突如として現れた。
 あちこちで悲鳴が上がる。
 本州からの観光客は、地元の人間のように『慣れて』はいないから。
 しかし、地元の警備体制は万全だった。
 こんなことは、日常茶飯事だ。
 警察から魔法調査室本部を経由して、加藤の元へ連絡が来るまでに二分とかからなかった。


「やれやれ、よりによってこんなときに…」
 携帯電話をしまうと、加藤は小さく溜息をついた。
 伝票を手にして立ち上がる。
「すみません、急な仕事が入ったので失礼します」
「加藤さんが呼び出されるということは、かなりの大物ですね?」
「ええ、まあ。念のため、鈴木さんも避難した方がいいですよ」
 加藤の後に続いて水城も喫茶店から出た。
「あの子を、呼び戻しますか?」
 走りだそうとした加藤の背に向かって言う。
 加藤は立ち止まって振り返った。
「…いや、僕の方から連絡してみますよ。多分、無駄とは思いますけどね」
 それだけ言うと、加藤は手近な地上への出口へと走る。
 水城は、見えなくなるまでその後ろ姿を見送っていた。

  * * * * *

 安加流が駅のホームで電車を待っていると、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
 きっと加藤だろう、と安加流は思う。
 大通公園に現れた魔物のニュースは、駅にも伝わっていた。
『鈴木ちゃん? 加藤だけど…ちょっといいかな?』
 安加流は黙っている。
(なによ加藤さんたら。こんなときだけ私を当てにして…)
『鈴木ちゃん?』
「加藤さんなんか大嫌いっ!」
 それだけ叫ぶと、一方的に電話を切った。

  * * * * *

「…やっぱり怒ってるなぁ」
 耳を押さえて顔をしかめながら、加藤は呟いた。
「なに怒らせるような事したんです?」
 やや呆れたような表情で、千春が言う。
「さあ…ね。とにかく、鈴木ちゃんが当てにならない以上、僕達だけでやるしかないな」
 二人の前を、悠々と竜が歩いている。
 特一級魔術師といえど、竜に立ち向かえる者はほとんどいない。
 安加流は呼んでも来てくれないだろう。
 そう判断した加藤は、先に、安加流に次ぐ力を持った特一級魔術師、高橋千春を呼びだしておいた。
「観光客の避難はほぼ完了したし、新川通りを封鎖したから、何とか海まで誘導しよう。頼むよ」
 こちらから積極的に攻撃しない限り、竜は滅多に暴れたりしない。
 ただ、人がいようと建物があろうとお構いなしに、好き勝手に歩き回って被害を出すだけだ。
 だから、威嚇攻撃をしながら海に誘い出すというのが、竜への一般的な対処法だった。
 竜を倒す試みは、これまで一度も成功したことがない。
「海まで誘導…か。倒せないんですよね、竜だけは。私も、安加流ちゃんでも」
「…そうだな」
「ここしばらく、竜が街中に現れた事なんてなかったのに、今日に限ってどうしたのかしらね」
「さあ…、奴らの考えていることなんて、人間にはわからないよ」
「そうかな?」
 千春が、コートのポケットから両手を出す。
 それぞれの手に、ケミカルライトが握られていた。
「わからなくもない…気がする。私には、ね」
「え?」
「加藤さんは離れてて。危ないから」
 千春は、竜の方へ数歩足を進めた。
 両手を広げ、魔法の紋章を描き出す。
「加藤さんて見かけによらず、意外と女の子の扱いが下手…だよね」
 言いながら、両手で同時に紋章を描く。
 複数の紋章を重ねて描くことで魔法の威力を増す高等テクニック『ダブルアクセス』だ。
「何の話だ一体…おい! その魔法は!」
 加藤の顔から血の気が引く。
「止めろ! 危ない!」
 そう叫んだつもりだったが、一瞬遅い。
「ティルトウェイト!」
 安加流だけが使えるはずの最強の攻撃魔法が、竜の身体を包み込んだ。
 爆風に煽られ、加藤がよろめく。
「馬鹿なっ! 何をするんだ!」
 我を忘れて加藤が叫ぶ。
 威嚇ではない。
 直撃だった。
 爆発の閃光と爆煙の中から無傷で姿を現した竜の、目の色が変わっている。
 それは、攻撃の意志がある証だった。
「高橋さん! 何を考えているんだ」
 竜の攻撃を無傷で防ぎきれるだけの魔術師なんて、この世にたった一人しかいないのに。
「加藤さんは離れてて!」
 竜が、大きく息を吸い込む。
 千春の両手が、防御結界の紋章を描き出す。
 竜の口から、光の塊が飛び出した。
 それは、竜の炎と呼ばれる。
 実際には単なる炎ではなく、想像を絶する高エネルギーによってプラズマ化した大気が輝いているもので、その高温に耐えられる物質は地球上には存在しない。
 防御結界に当たって分散したエネルギーの奔流が、公園の樹々を一瞬にして炎に変える。
「無理だ…」
 加藤が呟く。
 千春の防御結界では、竜の炎を最後まで受けきることはできない。
 結界が破られれば…人間の身体など、炭も残らない。
 竜の炎が途切れるまで、あと三秒…二秒…駄目だ、もう持たない…。
 加藤は思わず目を閉じた。
 一瞬後に起きるはずの惨劇は見るに耐えなかった。

  * * * * *

 電車の座席に座り、窓の外を流れる景色を見ながら――
 安加流は、静かに泣いていた。

  * * * * *

「そんな…馬鹿な…」
 喉の奥から絞り出すような声で、そう言うのが精一杯だった。
 それは、信じられない光景だった。
 喉を、赤い光の槍で貫かれた竜は、スローモーションのようにゆっくりと倒れていった。
「…高橋さん!」
 一瞬遅れて我に返った加藤は、倒れている千春に向かって駆け出した。
 周囲の雪に、点々と血の染みがついている。
「高橋さん!」
 千春の身体を抱き起こす。
 ひどい火傷を負っていて意識はないが、息はしっかりしている。
 加藤は即座に救急車の手配をし、電話を切った後ではじめてその人影に気付いた。
「君だったのか…」
 その少年はあまり日本人ぽくない容貌だったが、雪祭りシーズンの札幌は外国からの観光客も多いから別に目立たない。
「二ヶ月前にも助けてもらったよな。礼を言うよ。だけど…」
 その少年は、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、ゆっくりと歩いてくる。
「君は、一体何者なんだ?」
 少年は何も答えない。ただ…
 責めるような目で、加藤のことを見ていた。

  * * * * *

 JR銭函駅で電車を降りると、目の前はすぐに海だ。
 冬の日本海は、重い色をしている。
 安加流は、持っていた紙袋から包みを一つ取り出すと、海に向かって力一杯放り投げた。

〜 続く 〜




あとがき


 新記録ぅ〜!
 え、何がって?
 シリーズ中で一番短いとはいえ、実質二日で書き上げたんですよ、コレ。
 以前は『一日に十行しか書けない奴』だった私もずいぶん成長したものです。
 でも、作品の質はなかなか進歩しませんね。はは…。

 それにしても、今回ちょっとシリアスです。
 もう少し明るく楽しい話にしたかったのに。
 ま、クライマックスだからこのくらい許されるかな。
 とゆ〜事で、
 次回、いよいよ最終回です。
 西十八丁目の魔女・最終話『飛行夢』。
 お楽しみに〜。

一九九八年二月  北原 樹恒
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