最終話 飛行夢 〜そらとぶゆめ〜

By 北原 樹恒


〜 1 〜


 彼は、小さい頃から病院が嫌いだった。
 まだ五歳か六歳の頃、彼の目の前で母親が息を引き取って以来、病院の白い壁と薬品の匂いは、彼にとって忌むべきものだった。
 母親はまだ三十になっていなかったはずだ。
 だから、若い女性が病院のベッドに横になっている姿を直視することはできなかった。

「高橋さん…、どうしてあんな無茶をしたんだ?」
 加藤は言った。
 千春と目を合わせず、窓の外を見ながら。
 窓からは、北海道大学農学部付属植物園が見える。
「無茶? そうかなぁ?」
 意外なくらいあっけらかんとした口調で千春は応える。
「その、包帯だらけの姿が無茶じゃなくて何だと言うんだ」
「でも、痕は残らないって先生が言ってたよ。ふふ、よかった。これでも一応、嫁入り前の女の子だもんね」
「…だったらあまり無茶するなよ」
「無茶…かなぁ?」
 腕を包帯で固められているためややぎこちない動作で、千春は上体を起こす。
「安加流ちゃんがいつもやってることじゃない」
「鈴木ちゃんは特別だよ…」
「そう、特別よね」
「高橋さん…?」
 加藤はゆっくりと振り返った。
 声が、一オクターブ低くなる。
 千春は、真っ直ぐに彼の目を見つめていた。
「そう、あの子は特別よ。でも、どうしてあの子だけが特別なのかな?」
「…いつ、気付いたんだ?」
「ずいぶん前から。安加流ちゃんと知り合って、色々話をして、一緒に魔物退治をして…。大切にしている魔法書を見せてもらったとき、確信した」
「見たのか、あの本を」
 千春は小さく頷く。
「見たというか、見えなかったというか…私には、白紙にしか見えなかった。加藤さんも見たんだ。加藤さんだってホントはわかっていたはずじゃない。なのに、気付かないフリをしていた」
「…」
 顎に手を当ててしばらく黙っていた加藤は、また窓の外に視線を移す。
「それを気付かせるために、わざわざあんな危険なことをしたのか?」
「それほど危険ではないわ。でも、それは理由の半分」
「半分?」
 加藤は、窓の外を見たまま聞き返した。
「残りの半分は、嫉妬…かな?」
「嫉妬?」
 心底意外そうに、加藤は千春に向き直る。
 頬に手を当てた千春が、悪戯な笑みを浮かべていた。
「ねぇ加藤さん、私と安加流ちゃんと、どっちが好き?」
 時計の秒針がきっかり一周する間、二人は黙っていた。
 千春は真っ直ぐに、加藤を見つめる。
 加藤は少し困ったような表情で、視線を逸らす。
「え〜と…」
 さり気ない振りを装って、実際にはかなりぎこちない動作で時計を見た加藤は、さも、いま思い出したというふうに言った。
「そういえば、今日は午後から会議があるから、これで失礼するよ」
「もう少しいればいいのに。午後から安加流ちゃん達もお見舞いに来てくれるって言ってたから」
「…君は、意外と性格悪いな」
 そう言い残して加藤は病室を後にした。
 千春は、小さく苦笑いする。
「男って、都合が悪くなるとすぐ逃げるんだから」



〜 2 〜


 三月も半ばになると、北海道も随分と春めいてくる。
 といっても、それは東京などでいう春とはまったく違う。
 春、というより、冬の終わりというのが正しいだろう。
 まだ、雪はたっぷりと積もっている。
 ただ、陽射しがだんだんと暖かみを帯びてきて、降る雪よりも解ける雪の方が多くなると、北海道の人達は春の訪れを感じるのだ。
 野山に積もった雪が完全に消える頃には、もう夏が目前である。

 三年生は卒業してしまったし、一、二年生もあとは春休みを待つだけというこの時期は、学生にとってももっとものんびりした時期だった。
 学校全体が、半分眠ったような空気に包まれている。
 しかし… 
「まだ、冬まっただ中って顔をしてる奴がいるな」
「芹菜先輩、どうしたんですか?」
 安加流と祐子が校門を出ると、そこに昌実を連れた芹菜が立っていた。
「ちょっと近くまで来たんでね、久しぶりに一緒に飯でも…と思ったんだけど。その様子じゃあ、加藤さんとは相変わらずか」
「そうなんですよ。おかげで安加流ちゃんてば落ち込んじゃって」
 あれから一月以上経つが、その間、加藤からの呼び出しは一度もない。
 札幌での魔物の出没は減少しているわけではなく、むしろその逆なのだが。
 そして、安加流はこの一ヶ月どことなく元気がない。
「別に、加藤さんなんて関係ないもん」
 安加流が口を尖らせる。
「ほぉ」
 芹菜の表情が、急に険しくなった。
「じゃあ、どうしてそんなに落ち込んでるんだ? ほら、言ってみろよ」
 そう言って、片手で安加流のコートの襟を掴んで締め上げる。
「ん? どうした? 言えよ」
「芹菜さん…苦し…」
「芹菜さん、それじゃあ言いたくたって言えませんよ」
 さすがに見かねて、昌実が止めに入る。
 しかし、芹菜は力を緩めない。
「オレはな、こ〜ゆ〜うじうじした奴を見てると、無性に腹が立つんだよ」
「そんな無茶な…」
 祐子と昌実は、困ったように顔を見合わせた。
「加藤さんのこと好きなんだろ? ん?」
「…でも…だって…」
「好きか、嫌いか、を訊いてンだよ」
 芹菜はさらに力を込める。
 目に涙を浮かべた安加流は、ほとんど聞き取れないような声で言った。
「…すき…です」
「よし、決まり!」
 芹菜はにやっと笑って安加流を放す。
「告白タイムだ。加藤さん呼び出そうぜ」
「ちょ、ちょっと待って。そんないきなり…それに、こんなトコじゃ…」
「そ〜だな、さすがに学校の前はマズイか。よし、大通公園に行こう!」
 じたばたと暴れる安加流を引きずって、芹菜は地下鉄駅へと向かって行った。


「ね…、やっぱりやめません? 今日は…ほら、天気も良くないし…」
「よく晴れてるじゃないか」
 ずるずる…
「今朝、新聞の星占い欄見たら、蠍座の運勢って最悪なんです〜」
「そうか? 今日発売の『まんがライフ』の星占いでは愛情運は五つ星だったぞ」
 ずるずるずる…
「…今日はやっぱりやめましょ? 明日…、明日は必ず、ね?」
「明日もまたそう言うのか? 今日こそは逃がさないぞ。さ、ここまで来たら覚悟を決めるんだな」
 ずるずる…
 結局安加流は、大通公園まで引きずられきてしまった。
 もちろん、祐子と昌実も一緒にいる。
 騒いでいる安加流達とは少し距離を置いて、他人のフリをしてはいるが。
「ど〜してそうなんだよ、お前はっ! さっさと言っちまった方が楽だろ〜が!」
「だって…私、芹菜さんみたいに美人じゃないし…」
「女の顔なんて、化粧でいくらでも化けられるって」
「まだ高校生で、加藤さんから見たら子供だし…」
「い〜じゃないか。男なんて、みんな女子高生が大好きなんだから」
「それに…胸もちっちゃいし…」
「あ〜、もう! イライラする!」
 芹菜は安加流の鞄を取り上げると、中から携帯電話を取り出す。
 緊急時にいつでも連絡が取れるようにと、加藤から渡されたイリジウムだ。
「どうせ、加藤さんの番号は先頭に登録してあるんだろ、ホラ」
「せ、芹菜さ〜ん…」
 電話を取り返そうとする安加流を片手で押さえて、芹菜は話し始める。
「あ、加藤さん? オレ、相模原。安加流がさ…大っ事な話があるって言うんだけど…今、時間いい? じゃ、大通りの九丁目にいるからさ…うん」
 それだけ言うと、芹菜は電話を切って安加流に返した。
「さて、お膳立てはしてやったぞ。オレ達は退散するから、あとは一人でなんとかしな」
 安加流一人残して、芹菜、昌実、祐子の三人はその場を立ち去る。
 どうせ、物陰から様子を伺っているに違いないのだが。
「あ、それから…」
 最後に、芹菜は脅すように言う。
「もし逃げたり、肝心なこと言わなかったりしたら…わかってるだろ〜な?」
 わかりたくはなかったが、この半年ちょっとの間に、芹菜の性格はいやというほど思い知らされてきた。
 安加流は、涙目で小さく頷いた。

 それほど待つ必要はなかった。
 五分ほどで、加藤のチェロキー――魔法調査室のではなく加藤個人の車――が姿を見せた。
 安加流の鼓動が早くなる。
 奥手な安加流は、これまで告白なんてしたことも、されたこともない。
 なんて言ったらいいんだろう…。
 いや、それ以前に、
 加藤と話をするのは一月ぶりだ。
 しかも、最後に言った台詞は「加藤さんなんて大嫌い!」だった。
(うぅ…最悪…)
 きっと、怒っているに違いない。
 だから、この一ヶ月一度も連絡がなかったんだ…。
 こ、こんな状況で告白なんて…
 も、イヤ! 逃げちゃいたい!
 こちらへ歩いてくる加藤を見ながら、それでも安加流が逃げなかったのは、単に芹菜が怖かったからでしかない。
「やあ、久しぶり。元気だったかい?」
 いつものように、加藤は言った。
 そう言えば、以前、三日ぶりに会ったときも同じことを言った。
(加藤さんて、他に挨拶のバリエーションはないのかな…って、それどころじゃない!)
「あ…あの…」
「大事な話って、何だい?」
 加藤の様子は、特にいつもと変わらない。
 別に、怒っている様子もない。
 しかし、だからといって、安加流の気が楽になるわけでもなかった。
「あ…あの…つまり…その…」
(う…、言えないよぉ…)
 逃げ出したくなってちらりと横を見ると、公園の滑り台の陰に隠れている芹菜と目が合った。
 その目を見て…逃げるのは諦めた。
 まだ死にたくなかったから。
「安加流ちゃん?」
「あ、…あの、…」
(…やっぱりダメ! それに…私なんて…どうせ言ってもムダだも…え?)
「あ!」
 視界の隅に意外な人物を見つけて、安加流は小さく声を上げた。
 その視線を追って、加藤が振り向く。
 一瞬前までそこに立っていた少年、安加流や千春を助けたあの少年は、その一瞬の間に姿を変えていた。
 一頭の大きな竜の姿に。
「…! 竜…いつの間に」
 魔物の気配には極めて敏感なはずの加藤は、驚きの声を上げる。
 安加流が気付いたとき、それは確かにあの少年だった。
 それが、瞬き一つしている間に、巨大な竜へと変化していた。
 そして…
 その竜は明らかな攻撃の意志を見せていた。
 唸り声が遠雷のように響く。
 周囲の空気が、まるで帯電しているかのようにぴりぴりと肌を刺した。
 竜の炎の前兆。
 安加流の反応は素早かった。
 ポケットから二本のケミカルライトを取り出すと、最強の防御結界の紋章を描いた。
 紋章が完成した瞬間、竜の口から閃光がほとばしる。
 鋼をも一瞬で溶かすほどの高熱が安加流達を包み込んだ。
 溶鉱炉の中でも身を守れる防御結界の中にいてさえ、肌が灼けるような熱を感じる。
 この相手には勝てないことを安加流は知っていた。
 今、相手にしているのは、この世界で唯一、自分を傷つけることができる存在なのだから。

「何で、あいつが安加流ちゃんを攻撃するのっ? それっておかしいじゃない!」
 何十メートルか距離を置いて、竜の炎を避けていた祐子が叫ぶ。
「そんなこと、分かりきってるさ!」
 芹菜は吐き捨てるように言った。
「安加流が、それを望んでいるからだ」

 それでも、安加流の結界は辛うじて竜の炎を防ぎきった。
 それはもしかすると、加藤が重ねて結界を張っていたためかも知れない。
 安心してふっと息をついた瞬間、竜がいきなりその身を翻した。
「…!」
 丸太のような竜の尾が安加流を襲う。
 竜の炎に対抗するため耐熱に特化した防御結界には、これを受け止める力はなかった。
「安加流ちゃん!」
「安加流!」
「安加流さん!」
 四人の叫び声は、もう安加流の耳には届いていなかった。



〜 3 〜


 ここは…病院?
 意識の戻った安加流が最初に気が付いたものは、白い天井と、白衣を着た三十歳くらいの男性。そして、薬品の臭いだった。
「気が付いた? 気分はどう?」
 お医者さんにしてはずいぶん若い人だな、と安加流は思う。
 この医師と、隣に立っているぽっちゃりとした若い看護婦にはどこかで会ったことがあるような気がしたが、それがどこかは思い出せなかった。
 どうして私、病院のベッドに寝ているんだろう…?
 記憶があやふやで、何かを思い出すのがひどく困難だった。
「あの…ここって、病院…ですよね?」
「覚えてないのかい?」
 その言葉がきっかけとなったように、不意に記憶が甦ってきた。
 最後に覚えているのは…通学途中、横断歩道にいる自分と、赤信号を無視して迫ってくる軽トラック。
「交通事故…でしたっけ?」
 自信なさげな安加流の言葉に、医師が頷く。
「怪我はそれほどひどくないけど、頭を打っていたからね…記憶ははっきりしてる? 自分の名前はわかる?」
「鈴木、安加流…」
 頷きながら答える。
「歳は?」
「十…三、中二」
 何故か一瞬「十六歳」と答えそうになって、慌てて言い直した。
「…あの、私、どのくらい意識がなかったんですか?」
「事故に遭ったのは一昨日だよ」
 一昨日…?
 ということは、丸二日。
(たった二日…?)
 何故「たった」などと感じるのだろう。
 自分が、二日分よりもずっと多くの記憶を持っているように思えた。
「何か、変な夢を見てた気がする…。でも、思い出せないや」

* * * * *


「鈴木ぃ、怪我はもういいの? いつから学校に出てくんの?」
 安加流が退院したことを聞きつけて、近所に住んでいる同級生の祥子が訪ねてきた。
「うん、もうすっかり平気。月曜にもう一度病院に行くから、火曜日から学校に行くつもり。でも…」
「でも?」
「すぐに期末テストでしょ? サイアク〜。いっそ、夏休みまで入院してたかったな」
「なにのんきなこと言ってンの」
 祥子は苦笑する。
「私あの時、絶対鈴木が死んだと思ったよ。ぼーんと十メートルくらい飛ばされてさ。病院でもなかなか意識が戻らないって聞いたから、すごい心配したんだよ」
「ごめんね、心配かけて」
 安加流が静かに微笑む。
「でもね、意識が戻るまでの間、実は夢を見ていたの。すごく変わった…ステキな夢」
 目覚めた直後は曖昧だった夢の記憶も、時間が経つにつれて次第に鮮明に甦っていた。
 夢とは思えないくらいリアルに。
「夢って、どんな?」
「あのね…」
 安加流は話し始めた。
 二年半分の長い夢の思い出を。


 晴れ渡った空。
 静かな海。
 ザザ…、ザザ…
 小さな波が、途切れることのない音を立てている。
 この辺りは海水浴場ではないし、まだ夏休み前の平日ということで、砂浜に人影はない。
 遠くの堤防の上に、釣り糸を垂れている老人が一人いるだけ。
 安加流は靴とソックスを脱ぐと、それを手に持って水の中に足を入れた。
 まだ、少し冷たい。
 スカートをたくし上げて膝のあたりまで水に入った安加流は、肩越しに後ろを見る。
「ふふ…気持ちいいよ。お姉ちゃんも来れば?」
 今は病院の帰り。
 姉の水城が大学を休んで車を出してくれた。
 帰り道、安加流のわがままでちょっと寄り道をして海岸に来たのだ。
「そんな、子供みたいに」
 ジーンズ姿の水城は、流木に腰を下ろして煙草に火をつける。
 ふぅっと大きく煙を吐き出してから、
「ねえ、安加流」
 思い詰めたような表情で言った。
「あれは、本当に事故だったの?」
 足で砂を掘ってアサリを探していた安加流は、その言葉で動きを止めた。
 ややぎこちない動作で、ゆっくりと水城に向き直る。
 水城は、真っ直ぐに安加流を見つめていた。
 安加流も、じっと水城を見て、
「どういう…こと?」
 そう、訊き返す。
 その声が微かに震えていたことを、果たして水城は気付いたかどうか。
「言った通りの意味よ。あんた、避けようとしなかったそうじゃない。本当に事故だったの? …自殺…じゃなくて?」
 安加流は、両手にぎゅっと力を込める。
「事故…だよ。ホントだよ! どうして私が自殺なんて…」
 安加流は俯いた。
 その言葉には、だんだん力がなくなる。
 いくら誤魔化したところで、水城だけは安加流の悪夢を知っているのだから。
「違う…よぉ」
 こぼれ落ちた涙を、手の甲で拭う。
「本当に?」
 そう言ったのは、水城の声ではない。
 はっとして安加流が顔を上げると、そこに水城の姿はなく、一人の少年が立っていた。
「本当に?」
 少年はもう一度繰り返す。
「本当…だよ。一瞬…迷ったのは事実。だから、避けられなかった。でも…本当に死にたかったわけじゃない…と思う」
 安加流は、涙声で言った。
 いつの間にか、少しずつ風が吹きはじめていた。
 安加流の長い髪が風になびき、波がスカートの裾を濡らす。
 それでも、安加流は海の中に立っていた。
 じっと、砂浜に立つ少年を見つめながら。
 一羽の鴎が、風に乗って空に浮かんでいる。
 安加流も、少年も、しばらくそのまま黙っていた。
「…で、決めた?」
 少年の問いに、安加流は小さく頷いて応える。
「私、やっぱり…向こうに帰っても…いい?」



〜 4 〜


「ふわあぁぁ…」
 安加流が、目を開けてまず最初にしたことは、大きなあくびだった。
「…よく寝た」
「なに寝言を言ってんだ、このバカ!」
 いきなり、額をぺしっと叩かれる。
「痛ぁい! 芹菜さん、怪我人に何するんですか」
「怪我人ならもう少しそれらしくしてろ。なんだったら、もっと怪我人らしくしてやろうか?」
「…遠慮します。それで…あの…」
 ベッドに横になったまま、安加流は周囲を見回す。
 どうやら、ここは病室らしい。
 ベッドの周りには芹菜の他、祐子や昌実、千春の姿もある。
 そしてもちろん、加藤も…。
「ここ…病院? あれから、どのくらい経ったんですか?」
「…二時間と経ってないよ」
 そう答えたのは加藤。
「それで…あの竜は…?」
「消えた」
「消えた?」
「鈴木ちゃんが気を失うのと同時に、ね」
「ふぅん、そっか…」
 安加流は目を閉じた。
 そっか…消えちゃったのか…。
 また、会う機会はあるだろうか?
「…で、具合はどうなんだい? 医者は、何も異常はないと言っていたけど」
「全然、元気ですよ。ただ、昨日寝たのが遅かったから、ちょっと眠いだけ」
 照れたように、ふふっと笑う。
「…そういえばね、いま、変な夢を見てたんですよ…」
 芹菜が、そんな安加流の髪を引っ張った。
「…ったくテメーは、人に心配かけやがって、のんきに夢なんぞ見てたのか」
「えへ…ごめんなさい。あ〜ん、痛いってば!」
「緊張したせいで喉が乾いたよ。何か買ってくるから、昌実、付き合えよ。みんなは何がいい?」
「じゃ、コーヒーを」と加藤。
「午後ティーの、ロイヤルミルクティ」これは安加流。
「お前は点滴の液でも飲んでろ!」
 祐子と千春は、
「私は…ん〜、一緒に行って選ぶ」
「じゃあ、私も」
 そう言って芹菜達と一緒に病室から出ていった。
 安加流と加藤だけを残して。
 一瞬こちらを振り返った祐子と千春が、意味深な笑みを浮かべていたのを安加流は見逃さなかった。
(あぅ…、つまり、そ〜ゆ〜こと…?)
 四人の間では、全て打ち合わせ済みだったのではないか、そんな気がしてくる。
 もし、その好意(大きなお世話という気もするが)を無にしたら…後に待っているのは芹菜のお仕置きだろう。
(でも…そんなぁ…)
 いざとなると、やっぱり決心が付かない。
「そういえば…」
 加藤が先に口を開いた。
「何か、大事な話があるって言ってたよね」
 これは、不意うちだった。
「えっ? えと…その」
 安加流の顔が、真っ赤に染まる。
「あの…、あ、え〜とぉ…」
「先刻は邪魔が入ったけど、今度は言えるだろ?」
 加藤は、笑いを堪えているように見えた。
 それはまるで、悪戯を企んでいる子供のような表情。
 まるで…
「か、加藤さん、ひょっとして…私の言いたいこと、気付いているんじゃ…?」
 さあ? と加藤はとぼけてみせる。
「言葉にしなければ、伝わらないこともあると思うよ」
 やっぱり…
「う…、か、加藤さんの意地悪…」
「その言葉は、もう聞き飽きたな。そろそろ違う台詞を聞きたいもんだ」
 そう、言わなきゃならない。
 もう逃げちゃいけない。
 でも…
 え〜い、言ってやる。
「あ、あのね加藤さん」
 …やっぱり恥ずかしい!
 思わず安加流は、頭から毛布を被って丸くなった。
「こら、安加流ちゃん」
 加藤の手が、毛布を取り上げる。
「う…あのね、加藤さん…」
 毛布の端をしっかりと掴んだまま、安加流は上目遣いに加藤を見た。
 加藤は笑いながら、安加流の次の言葉を待っている。
「…えと…その…」
 恥ずかしくて、頭が混乱して、用意していた台詞がひとつも出てこない。
 でも、何か言わなきゃ…、パニックを起こした頭で考える。
「か、加藤さんは…、胸の小さい女の子は嫌いですかっ?」
 同時に、病室のドアがガタタッと揺れた。
 まるで、ドアの外で聞き耳を立てていた人達が、思いきりコケてぶつかったかのように。



エピローグ


 地下鉄大通り駅の近くにある不二家の店の前、
 その、通称『ペコちゃん前』は地下鉄すすきの駅と共に、待ち合わせに利用されることが多い。
 すぐそばには本屋とCD屋があるので、早めに来ても時間を潰すことができる。
 そして安加流はこの日、少しばかり早く来すぎたようだった。
 少しだけ本屋を覗いたが、すぐに外に出てペコちゃん人形の隣に立つ。
 午後四時まではまだ十分以上ある。
 にもかかわらず、待ち合わせの相手は現れた。
 ちょっと意外だった。
 いつもは、まるで物陰でタイミングを計っているかのように時間ちょうどにやってくるのに。
「まだ四時になっていないんですから、そんなに急がなくてもいいんですよ?」
 額にうっすらと汗を浮かべて、地下街の方から走ってきた相手に向かって言う。
 目を細めて笑いながら。
「安加流ちゃんは先に来てると思ったからね」
 ハンカチで額の汗を拭いて、加藤は言う。
「実は、急な仕事が入ってしまったんだ」
 口には出さなかったが、安加流がほんの一瞬、がっかりしたような表情を見せたことを彼は見逃さなかった。
「また、なにか魔物が出たんですか? だったら私も一緒に…」
「いや、その必要はないよ。大した相手じゃないから一〜二時間で終わるだろうし。だから…ゴメン、今日の映画はキャンセル」
 今度ははっきりと、安加流は悲しそうな表情をした。
「そうですか…」
 それだけ言ってうつむく。
「その代わりといってはなんだけど、仕事が終わってから一緒に食事でもどうかな? 時間は大丈夫かな?」
 その一言で、安加流の顔がパッと明るくなった。
「はい!」
 にっこりと微笑んで頷く。
 心からの笑顔で。
「じゃあ…えっと、六時半にロビンソンの前で待ち合わせってことで…、安加流ちゃん、なに食べたい?」
「なんでもいいですよ。加藤さんの好きなもので」
 安加流がそう答えたとき、
「私、フランス料理がいいな」
「この場合やっぱり寿司だろ?」
「たまには中華なんてどうでしょう」
 加藤の背後からそんな声がした。
 一瞬の硬直の後、どことなく引きつった表情で振り向く加藤。
「君たち…どこから現れたんだ?」
 説明するまでもなく、そこにいたのは祐子、芹菜、昌実の三人である。
「たまたま通りかかっただけだよ」
「それにしてはタイミングが良すぎるような気がするが…君たち?」
 安加流に聞こえない程度の小声で囁く。
「まさかまた一緒に来る気かい? 馬に蹴られて云々ってことわざを知らないのか?」
「オレ達は加藤さんのためを思って言ってるんだぜ? いいトシしてセーラー服の女子高生と二人きりで夜のススキノなんて歩いてたら、援助交際と間違われるのがオチだろ?」
 芹菜も小声で言い返す。
「そんなに悪い男に見えるかな…?」
「見える!」
 きっぱりと言い切られて、加藤は言葉を失う。
「だからって…」
「そんなに安加流と二人きりになりたい? 二人きりになってなにをするつもりだ?」
「なにって、いや、別になにも…」
「だったら、オレ達が一緒にいたって構わないよな?」
「ったく、君たちは…」
 加藤が小さく舌打ちする。
「あの、どうかしたんですか?」
 先刻から、一人話題から取り残されている安加流が首を傾げる。
「え? あ…いや、なんでもない。それじゃ、六時半にね」
 それだけ言って、加藤は逃げるようにその場を離れていった。
 その後ろ姿を見送りながら、
「ちょっと可哀想だったかな?」
 祐子が言うが、その口調には本気で同情している様子はない。
 どう見ても面白がっている。
「いいじゃないか、恋愛は障害がある方が盛り上がるし、な。それよりメシの時間までどうする? スガイでも行くか? それともハンズ?」
「それより…加藤さんの急な仕事ってなんだったんでしょう?」
「多分ワイバーンだろ。来る途中、ニュースでちらっと見たぞ? さ、行こうぜ」
 安加流の背中をぽんと叩いて歩きだそうとした芹菜は、近くの公衆電話の横に立つ、見覚えのある人影に気付いた。
「ふ〜ん、ワイバーンはあいつの仕業か…。意外と嫉妬深いんだな」
「芹菜さん、なにか言いました?」
「いや、なんでもない」
 他の三人はその人物に気付いていないのだろう。
 芹菜も、何もなかったふりをして歩き出す。
 公衆電話の横に立つ、高校生くらいの髪の長い男に向かってそっと目くばせをしてから。

〜 終わり 〜




 あとがき

 昨年十月から約五ヶ月間に渡って連載してきた『西十八丁目の魔女』も、これで終わりです。
 今まで読んで下さった皆さん、本当にありがとうございました。
 シリーズ物のラストを書き上げた瞬間というのは、何とも言えない開放感と、そして一抹の寂しさがありますね。
 ずいぶん長く書き続けてきたような気がするのですが、よく考えてみるとまだ半年。
 全七話といっても、一話当たり約三十ページとすると二百ページちょっと。
 案外短いですね。『光の王国』は最長の一話で同じくらいありますから。
 正直言って、もう少し続けていたい気持ちもあるのですが、他に書きたい企画もあるので、いつまでも一つ処に留まっているわけにもいきません。
 だから、
 次の作品でまたお会いしましょう。



 加筆版あとがき

 実は、この最終話ってすごく評判が悪いんですよ。
 まあ、書いてる本人もちょっとわかりにくい話だと思っているし、確かに、中途半端な終わり方と思われても仕方がない。
 そんなわけで今回、最終話発表後三カ月以上もたってからエピローグを追加したわけなんですが…結局なんの解決にもなってませんね(笑)。
 作者としては、これは蛇足だったろうと思っています。今でも。
 でも、書いちゃったものは仕方ない(笑)。
 実は『西十八丁目の魔女・2』という企画もあったんですよ。
 但し、主役は芹菜&昌実で、安加流たちはワキ。
 そのうち気が向いたら書くかもしれませんね、一〜三話のようなノリで。

 それでは…


一九九八年 六月  北原 樹恒
kitsune@mb.infoweb.ne.jp
http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/


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