月羽根の少女  プロローグ  六月の朝の柔らかな光がカーテンの隙間から射しこみ、くしゃくしゃになった毛布の上に、光と影のまだら模様を描いていた。  外はよく晴れているようだが、まだ気温はそれほど上がってはいない。 「ふわ…ぁ…」  大きな欠伸をしながら、さおりは身体を起こす。  わずかに茶色味を帯びたセミロングの髪は寝ぐせだらけだった。 「もう、朝か…」  半分眠ったような目をしてつぶやく。  正確には、朝というよりも昼に近い。  昨夜は遠慮なしの夜更かしをしてしまった。  今日は、さおりの通う中学校の創立記念日。  そして明日は土曜日だった。  つまり、 「えへへ〜、今日から三連休か〜」  無意識のうちに、顔がにやけてしまう。  しかも、今回はただの三連休ではない。 「ママは旅行で留守だし、思いっきり羽が伸ばせるぞ〜」  別に母親のことが嫌いなわけではない。  それでも十四歳の女の子なら、たまには親の目を気にせず、好き勝手にすごしたいと思うものだ。 「んん〜っ」  大きく伸びをして、ふぅっと小さく息を吐き出す。  …と、  バサッ!  背後でなにか、大きな布でも広げたような音がした。 「ばさ?」  首をかしげ、後ろを振り向く。  羽根だった。  純白の、翼。  まるで朱鷺か白鷺のような…。  部屋いっぱいに広がっていた。  幸か不幸か、ベッドの上で身を起こしたさおりの正面には、全身を映せる大きな鏡があった。  鏡に、さおりが映っていた。  背中から羽根をはやしたさおりが。  そう、さおりの背から翼が生えていた。 「羽根をのばせるって、比喩的な意味だったのにな…。なにもホントに羽根なんか出さなくたって…」  どこか他人事のようにつぶやきながら、自分の背中を見る。  間違いなく、さおりの背から生えていた。  そのことを確認して、  その事実がようやく飲み込めたところで、 「う〜ん…」  さおりは、そのまま気を失った。  第一夜 (どうして、こんなことになっちゃったかなぁ…?)  西陽が射し込むキッチンで、さおりは声に出さずにつぶやいた。  ここでさおりが問題にしているのは、今朝の羽根のことではない。  背後を振り返ると、居間のテレビの前で、ゲームに興じている男の子の姿が見える。  神山 徹(とおる)。  さおりのクラスメイトだ。  親が留守でひとりきりの家に彼氏を呼ぶなど、十四歳の女の子としてはあまりほめられたことではないだろうが、しかし、徹は別にさおりの恋人でもなんでもない。  クラスメイト――特に仲がいいというわけでもない、ただのクラスメイトだ。  なのにどうしてこの家にいて、さおりがふたり分の夕食の支度をしているのか。  それは、こんな理由からだった。  自分の背中に羽根が生えていることのショックで気を失い、意識を取り戻したときにはもう夕方近かった。  そのときはもう、背中に羽根はなかった。  しかし、  絨毯の上に散らばった数枚の羽毛が、あのことが夢ではないと証明していた。 「これって…いったい…」  呆けたようにつぶやき、頭を押さえながら立ち上がったとき、ぐぅ、とおなかが鳴った。  自分のおなかを見おろす。  考えてみれば、今日はまだなにも食べていない。  いくらずっと寝て…いや、失神していたとはいえ、おなかが空くのも仕方がない。 「こんな時でもおなかが空くなんて、あたしって意外と神経ふといのね…」  鏡の前でパジャマを脱ぎ、背中になんの痕跡も残っていないことを確認する。 「これなら、問題ないかな」  そうして、夕食の材料を買いに近所のスーパーへ出かけたところで、偶然に徹と出会ったのだ。  特に親しいというわけでもないが、顔を会わせれば挨拶くらいはする。 「月城(つきたち)、なにしてんの?」 「夕飯の買い物」  そんな、ありきたりの会話までは問題なかった。 「もしかして、月城が自分で作んの?」  という徹の言葉から、雲行きがあやしくなってきた。  うなずいたさおりに向かって言った、 「へぇ、月城って料理できるんだ」  という台詞にカチンとくる。 「あたし、こう見えても料理は得意なんだからね!」  口をとがらせて言い返す。  しかし、「こう見えても」と自分で言ってしまうあたりが悲しい。  本人あまり自覚はないのだが、さおりの外見は、どことなく不器用そうな印象を与えるらしい。  いまだって、徹はさおりの言葉をまるで信じていない様子だ。  だから、ついムキになって言ってしまった。 「なによ、ウソだと思うなら自分の目で確かめればいいっしょ! 目の前で作ってあげるから、ウチに来なさいよ!」  かくして、さおりはふたり分の夕食を作ることになったのである。  けっして鈍くも不器用でもないさおりだったが、少々おっちょこちょいであることは自分でも否定できなかった。 (う〜ん、やっぱりマズイかなぁ)  スパゲティを湯の中に入れながら、さおりは考える。  ついついあんなことを言ってしまったが、考えてみると今夜は家にひとりきりなのだ。  親のいない、女の子ひとりの家に、彼氏でもない男の子を上げるなんて…。 (いや、彼氏ならいいってワケでもないんだけど)  ちなみに、彼氏いない歴十四年のさおりである。 (自意識過剰…考えすぎよね。神山だって、ぜんぜん気にしてないみたいだし)  もう一度、居間を振り返る。  ゲームに夢中になっている徹の姿は、どう見ても女の子の家に上がって緊張しているようには見えなかった。 「へぇ…」  食卓についた徹が、驚きと感心の入り混じった声を上げる。 「思っていたより、ずっとウマイじゃん」  結果からいうと、さおりの料理は好評だった。  ちなみに今夜のメニューは、ベーコンとマッシュルームのスパゲティ、鶏肉と野菜のスープ、そしてポテトサラダ。  デザートにはコーヒーゼリーを用意した。  料理には自信があったが、念のため失敗の少ないメニューを選ぶあたり、意外と用心深い性格である。  徹は、そんなさおりのしたたかさには気付かずに、旨い旨いと料理を平らげる。  おかわりまで要求する徹の姿を見て、さおりはなんだか嬉しくなった。  自分の作った料理を、美味しいと食べてくれる人がいる。  そんな、考えようによっては当たり前のことが、さおりにとっては新鮮な経験だった。  さおりが夕食を作ること自体は珍しいことではないが、そうしなければならないということは、つまり母親の仕事が忙しいということである。  とても、今日のようにゆっくりと味わって食事をする雰囲気ではない。  子供の頃からそれが当たり前だったので、別段気にもしていなかった。  父親のいない家庭を不幸だと感じたこともない。  だけど――  今夜は、なんだかとても幸せな気分だった。  食事が済むと、徹が食器を洗ってくれた。  そんなことしなくてもいいと言ったのだが、「家の手伝いで慣れてるから」と、なかば強引にさおりの仕事を奪う。  一見がさつそうに見える徹がそんなことをするとは、少し意外だった。  徹の厚意に甘えて、その間居間でくつろいでいたさおりは、声を出さずに笑う。  今日はひとりきりで羽がのばせると思ったけど、こうして、誰かが一緒にいてくれるのもいいかもしれない、と。 「さ〜終わった。セガラリー2≠フ対戦やろ〜ぜ?」  洗い物を片付けて居間に戻った徹は、すぐさまゲーム機のスイッチを入れた。  さおりはくすっと笑うと、床に置いてあったコントローラーを拾い上げ、ひとつを徹に渡す。  さおりも人のことは言えないが、徹はかなりのゲーム好きらしい。 「言っとくけど、あたしゲームも上手いよ?」 「そんな台詞は、俺様の腕を見てから言うんだな」  ふたりはすぐにゲームに熱中する。  セガラリー2に始まって、バーチャファイター3、ぷよぷよ、そしてオラトリオ・タングラムとふたりの戦いは続く。  勝率は六対四の割合でさおりが上だった。  よほど自分の腕に自信があったのだろう、徹のあ然とした顔に、さおりはくすくすと笑う。 「あ、やべ。もうこんな時間か」  そろそろゲームにも疲れてきた頃、徹が壁に掛けた時計を見上げた。  既に、午後九時を回っている。  健全な中学生が、女の子の家にいるにしては遅すぎる時刻だと思ったのかもしれない。  あわてて立ち上がった。 「俺、そろそろ帰るわ」 「あ…うん」  さおりも立ち上がって、玄関まで送っていく。  楽しい時間が過ぎるのは、どうしてこんなに早いんだろう、と思いながら。 「ところで…」  靴を履きながら、徹がふと気付いたように言う。 「月城の家って、なにか鳥を飼ってる?」 「え、ううん。どうして?」  さおりが首を左右に振ると、徹は床を指差した。 (…!)  一瞬、さおりは声を上げそうになる。  徹の指の先には、一枚の羽毛が落ちていた。  純白の羽根…。  それがなんであるかは、一目瞭然だった。  徹と遊んでる間に、すっかり忘れていたこと。 「あ、あ、え〜と…そう、お布団。羽毛布団がちょっとほころびてて、さ…」  あわててその羽根を拾い上げ、冷や汗を隠しながら言い繕う。  徹は別に気にしたふうでもなく、「それじゃ」と玄関を出ていった。  扉が閉まると同時に、さおりはふぅっと大きく息を吐く。  と同時に、 「あ、そうそう」  閉まったばかりの扉が開いた。  不意をつかれて、さおりは飛び上がらんばかりに驚く。 「な、な、なに?」  声が裏返っている。 「メシ、うまかったよ。ごちそうさん」  それだけ言うと、徹は扉を閉める。  あとには、汗びっしょりで赤い顔をしたさおりが残された。    * * * 「あ〜、びっくりした。バレるかと思っちゃった」  翼のことは、絶対に知られるわけにはいかない。  たとえ母親にだって、相談できるようなことではない。  自分の部屋に戻ったさおりは、鏡の前に立った。  いつも通りの、見慣れた自分の姿が映っている。  しかし、  目を閉じて、背中に意識を集中する。  今朝の、あの姿を思い浮かべる。  すると…  目を開けると、純白の翼を生やしたさおりがそこにいた。 (やっぱり、夢じゃなかった…)  衣服の存在を無視したように現れる羽根が不思議だったので、振り返って背中を鏡に映してみる。  それは間違いなくさおりの背中から生えているのだが、注意深く観察すると、翼の根本の一〜二センチくらいがすぅっと半透明に透けていて、服を素通りしているのがわかった。  どうやらこの翼、さおりの背中と物理的につながっているわけではないらしい。 「不思議…。まるで魔法みたい」  自分の意志で動かすことだってできるというのに。  もっとも、部屋の中ではこの大きな翼をいっぱいに広げることもできない。 「もしかして、これ…飛べるのかな?」  ふと、思いついた。  でなければ、いったいなんのための羽根だというのか。 (消えて…)  強く念じると、翼はまるで背中に吸い込まれるように消えていく。  どうやら、さおりの思い通りに操ることが可能らしい。  だとしたら、本当に飛べるのかもしれない。  試してみても、損はない。 「…よし!」  うなずいて、さおりは家を出た。  さおりが住む奏珠別の街は、札幌の郊外にある比較的新しい住宅地である。  山あいに拓かれた街のため、いまでも周囲は自然そのままの山々に囲まれていた。  街外れにある奏珠別公園まで、さおりの家から歩いて十分くらいである。  そこはハイキングコースや登山道の入口にもなっていて、少し登ると、街を見おろすことのできる小さな展望台があった。  昼間はそれなりに訪れる人のいるこの場所も、夜にわざわざやってくる人はいない。  だから、好都合だった。  明るい月が出ていたので、夜道を歩くのに不自由はない。  真円にはちょっと足りない月。  多分、明日が満月だろう。  さおりはひとりで、奏珠別公園の展望台へとやってきた。  他に人はいない。  無人のブランコや滑り台が、少し不気味だった。  公園の柵に寄りかかって、さおりは街を見おろす。  たまに散歩にくることもある場所だが、もちろんこんな時刻に訪れるのは初めてだ。  思っていたよりも、街の夜景はきれいだった。  背後に広がる深い森からは、梟かなにかの鳴き声と、たまに、キタキツネの叫び声が聞こえる。  さおりはもう一度、用心深く周囲を見回した。  誰もいない。  間違いない。  そのことを確認して、  深く息を吸い込むと、目を閉じて両腕を広げた。  バサッ  軽い音を立てて、翼が現れる。  純白の翼は月の光を反射して、まるで真珠のような光沢がある。 「きれい…」  思わず、自分の羽根に見とれてしまう。  初めて、いっぱいに翼を広げた。  思っていたよりもずっと大きい。  片側だけで五メートル以上の長さがある。  これだけ大きなものなのに、重さはまったく感じなかった。  それどころか、  こうして翼を広げていると、なんだか身体が軽くなったように感じる。 (翔べる…)  さおりは確信した。  空で輝く月を見上げて。  トン、と地面を蹴る。  ふわり…  まさに軽い羽毛のように、さおりの身体は宙に浮かんだ。  恐る恐る、ゆっくりと羽ばたくと、すぅっと空に昇っていく。 (翔んでる…ホントに翔んでるよ、あたし…)  墜ちる不安は感じなかった。  羽ばたきの力で浮いているのではなく、この羽根を広げていると、まるで体重がなくなったかのように感じるのだ。  十メートルくらい昇ったところで、水平飛行に移る。  最初は、本当にゆっくりと。  人が歩くくらいの速度で。  そうして、旋回や上昇、下降を試してみる。  思い通りに飛べることがわかって、徐々にスピードを上げていく。  駆け足程度から、全力疾走並みに。  慣れてくると、自転車を力一杯こぐよりもずっと早く飛べるとわかった。  耳元で、風がヒュウヒュウと鳴る。  とても、気持ちよかった。  うんと高度を上げて、街の上空に出る。  家の灯りや、道路の街灯。  月が明るくてあまり星が見えない分、まるで足下に星空があるようだった。 「すごい…すごい…」  空を飛ぶ――その初めての体験に、さおりは夢中になっていた。  重力を無視して、自由に空を翔る。  楽しくて仕方がない。  飛びながら、さおりはくすくすと笑っていた。  気持ちいい。  月の光を全身に浴びながらの空中散歩。  なんて、幻想的な光景だろう。  さおりは夢中になって、月が西の空に傾くまで飛び続けた。  明け方近くなってさすがに少し疲れてきて、それでようやく地面に降りる。 (…でも、この羽根っていったいなに? あたしって何者?)  そんな疑問が浮かんだのは、家に帰ってからのことだった。  第二夜  ピンポーン 「……」  ピンポーン 「……ん…」  ピンポーン 「ん〜、誰よ…こんな朝早くに…」  玄関のチャイムの音で起こされたさおりは、不機嫌そうな声でつぶやいた。  目をこすって枕元の時計を見る。 「…朝早く…じゃ、ないか…」  もう、とっくに正午を過ぎていた。  ベッドに入ったのが明け方近くだから仕方がない。  さおりはベッドから降りると、壁に掛かっているインターホンの受話器を取った。 「ふぁい、どなた?」  まだ半分眠っている声だったが、次の瞬間にはたちまち目が覚める。 『あ、俺。神山だけど…』  インターホンからそんな声が聞こえてきたからだ。 「えっ? あ、あの、ちょっと待って!」  受話器を置いたさおりは、大あわてでパジャマを着替える。 (え? え? どうして、神山が?)  申し訳程度に顔を洗い、急いで玄関へ向かった。  一度大きく深呼吸をして、心を落ち着けてから扉を開ける。 「なんだ、こんな時間まで寝てたのか」  玄関の外では、徹が馬鹿にしたように笑っている。 「…どうしたの?」  まだ状況が把握できていないさおりは、いきなり、紙の箱を手渡されて戸惑った。  近所にある喫茶店の名前が入った箱。 「昨日の晩メシのお礼。みそさざいの手作りチョコレートケーキ」 「え、あ、ありがと」  戸惑いを隠せずに手の中のケーキの箱を見ているさおりに向かって、徹は一枚のCD―ROMを突きつけた。 「で、こっちが本題。昨日のリターンマッチにきたぞ。今度は鉄拳3≠ナ勝負だ!」    * * *  結論からいえば、やっぱりゲームはさおりの方が上手かった。  夕方近くまで対戦を繰り返して、ようやく徹は敗北を認める。 「くっそ〜、勝てん!」  コントローラーを放り出し、さおりが入れたコーヒーを手に取る。  さおりは笑いながら、徹が持ってきたケーキを頬ばった。 「美味し。あたし、ここのケーキ大好き」 「そぉ? それはよかった」  女の子の家に来るときの手みやげなんて、なにがいいかわかんないから…と徹は言った。 「そういえば…」  コーヒーカップを口に運びながら、やや遠慮がちに訊いてくる。 「昨日から気になってたんだけど、月城の家って、家族は?」  一日だけなら気にならなくても、二日続けてさおり一人きりとなれば、徹が不思議に思うのも当然だろう。 「ママは取材旅行だって。月に一度くらい出かけるの。まあ、半分遊びなんだけどね」 「取材?」  さおりの方を見て聞き返した徹は、その背後にある本棚に気がついた。  見覚えのある文庫本が、何冊も並んでいる。  背表紙に書かれた著者名は… 「月城…?」  徹も持っている本だった。 「月城のお母さんて、ひょっとして、小説家の月城みさと?」  さおりがうなずく。 「え〜、マジ? マジ? 今度、サインもらってくれよ!」 「え、まさか…」  少し驚いたような表情を見せるさおり。 「神山って、ママの小説のファン?」  うんうんと、徹が大きく首を振る。 「男のくせに、こんなの読むの?」  意外だった。  月城みさとが書いているのはいわゆる少女小説、ジュニア向けのファンタジーが中心だ。  男性読者が皆無とまではいわないが、読者の大半が女の子なのは間違いない。 「いい本は、性別に関係なくいいんだよ!」  徹はむきになって反論する。  やっぱり意外だった。  どちらかといえば、あまり読書などするタイプには見えない。  さおりの持っていた徹のイメージでは、ゲームをしているか、あるいは外でスポーツをしているのが似合っていた。  さおりはもちろん母親の本はすべて読んでいるから、なおさら、月城みさとの小説と徹の間にはギャップを感じる。 「変なシュミ」 「いいじゃんか、別に」  少し照れたように言い返してくる。 「ま、いいけどね…」 「そうか…月城みさとがこんな近所に住んでいたなんて知らなかったな〜。どうしてもっと早くに気付かなかったんだろう」  月城なんてそう多い姓ではないし、月城みさとが札幌在住であることも知っていたのに。  それが、クラスメイトの月城さおりと結びつくとは考えもしなかったのだ。 「お母さんが月城みさと…。で、お父さんは?」 「いない」 「え?」 「パパはいないの。あたしが生まれる前に離婚したらしいし、会ったこともない」  内容の深刻さの割には、さおりはあっさりと答えた。  しかし徹は、深く考えずに口にした質問が引き出した答えに思わずたじろぐ。  もしかしたら、すごく悪いことを訊いてしまったのかもしれない、と。  男くささがまるで感じられない家だということは、少し考えてみればわかることだったのに。 「あ…ゴメン」 「気にしなくていいよ、別に」  実際、さおりはなにも気にしていない様子だった。  ものごころついてからの離婚と違い、さおりは生まれてからずっと父親のいない環境で育ってきた。  それが当たり前のことであり、父親というものの記憶がないから、自分の家庭環境について特に感傷的になったこともない。  しかし徹はなんとなく居心地が悪くなったのか、わざとらしく時計を見ながら立ち上がった。 「あ、もう晩メシの時間だ。俺、帰らないと」 「あ…うん」  なにか言いかけたさおりだったが、途中で口をつぐんで、徹を玄関まで送っていく。  本当は、「晩ごはん食べていったら?」と言いたかったのだ。  でも、言えなかった。  なんだか恥ずかしかった。 「それじゃ、また」  そういって出ていく徹を、少し残念そうに見送っていた。  六月の北海道は、夜の訪れが遅い。  夕食が済むと、暗くなるのを待って、さおりは昨夜と同じ奏珠別公園の展望台へ向かった。  また、飛んでみるつもりだった。  昨夜の空中散歩は、とても楽しかったから。  今日もいい天気で、東の山の上に大きな月が昇っていた。  今夜は、満月。  公園内に他に誰もいないことを確認して、翼を広げる。  昨日さんざん飛び回って、翼の扱いにも慣れた。  最初の頃に比べると、ずいぶん思い通りに羽根を操ることができる。  さおりは地面を蹴った。  身体が宙に浮く。  空を飛ぶことは、気持ちよかった。  ゲームなんかより、何倍も楽しい。  まるで、この夜空全部を独り占めしているようなものだ。  たんぽぽの綿毛よりも軽やかに、そよ風の中を漂う。  小一時間ほど夜空の散歩を楽しんで、小休止のために地面に降りた。  念のため羽根をしまって、ベンチに腰掛ける。  と突然、背後から声をかけられた。 「月城…? こんなとこでなにやってんの?」  びくぅっ!  一瞬身体が硬直し、それから弾かれたように振り返る。  徹だった。  大きなアイヌ犬をつれた徹がそこにいた。 「か、か、神山?」  心臓がばくばくいっている。  裏返りそうになる声を必死に抑えた。 「なにやってんの? こんな時間に、こんなトコで?」 「な、な、なにって、その…」  なにか言い訳はないか、と周囲を見回し、最後にちらりと空を見た。  大きな月が目に入った。 「あ、あ、あの、散歩よ。ほ、ほら、月がきれいだから…」  どもりながらそう答えると、徹はぷっと吹き出す。 「月城って、意外とロマンチストなんだ」 「い、意外とはよけいよ! これでも、ファンタジー作家・月城みさとの娘よ?」 「はは、そうか」  徹は軽く笑うとさおりに背を向けて、公園の中を走り回っている飼い犬の姿を追う。  他に人がいないから、引き綱を外していたらしい。 (あ〜、びっくりした。心臓に悪いわ〜)  さおりは安堵のため息をつく。  緊張がとけると同時に、急に、鼻と背中がむずむずとした。 「…っくしゅん!」  バサッ!  くしゃみと同時に、羽根が飛び出す。 (え? わ〜、ダメッ! 戻って、早く!)  さおりはあわてて羽根をしまう。  間一髪のところで、徹が振り向くのに間に合った。 「いま、なにかバサッて音が…」 「き、き、きのせいよ、気のせい」  無理に笑ってごまかす。 「月城、くしゃみなんかして…寒いんじゃないの?」  六月とはいえ、北海道の夜はかなり涼しい。 「え、あ、そ…そうかもね。薄着だし…。じゃ、あたしそろそろ帰る…」  なんとかごまかして、この場を立ち去ろうとした。  しかし、徹に背を向けて歩き出そうとした瞬間、 (あ…ダメ! お願い…おさまって…)  願いは通じなかった。  口を押さえたり、鼻をつまんだりする余裕もなく、 「は…っくしゅん!」  ぶぁさっ!  二度目のくしゃみと同時に、また、羽根が広がった。 「え?」  徹が不思議そうな声を上げる。  さおりの動きが止まった。 (…見つかった! どうしよう、見られちゃった!)  両手で顔を覆う。  身体ががたがたと震えて、羽根をしまうことすらできなかった。  大きな翼はいっぱいに広げられたまま、月明かりに白く浮かび上がる。 (…どうしよう、…どうしよう)  頭がパニックになって、なにも考えられなかった。 (見られちゃった、見られちゃった)  背中に羽根を生やした姿を。  ふつう、羽根を生やした人間なんていない。  それを見た徹がどんな反応をするか、容易に想像できた。 (どうしよう…どうしよう…どうすればいいの…)  徹はなにも言わない。  沈黙が、かえって怖かった。  この沈黙が破られるときが。  さおりは背を向けているので、徹がどんな顔をしているのか見ることができなかった。  振り返ることもできなかった。  徹の顔を、見るのが怖い。  脚ががくがくと震え、膝に力が入らなくなって、さおりはその場にぺたんと座り込んだ。  顔を覆った手はそのままに。  血の気の失せた、真っ青な顔をしていることは自分でもわかった。  背後から、足音が近づいてくる。  一歩、二歩、三歩。  さおりのすぐ後ろで止まる。 (どうしよう…やだ…どうしよう…)  涙があふれそうだった。  びくっ!  翼になにかが触れて、さおりの身体が小さく痙攣する。  一瞬遅れて、それが徹の手だと気付いた。 「す…」  いっそう、震えが大きくなる。  …と、 「すっげ〜! かっこいい!」 「…え?」  パニックに陥っていたさおりは、一瞬、徹がなにを言っているのかわからなかった。  それくらい、予想外の台詞だった。 「すげ〜! な、これ、ホンモノ? だよな? うわ〜、すげ〜なぁ…」 「…え?」  なんだか、予想していたのとずいぶん違う反応…みたいな〜?  妙にはしゃいだ徹の声が、まるで幻聴かと思われた。 「なぁ、なぁ、これ、ホンモノの羽根? これってホントに飛べんの?」  好奇心に目を輝かせた徹が、さおりの前に移動してくる。  それでも、さおりにはまだよくわかっていなかった。 (ふつう、こ〜ゆ〜状況って…)  もっとこう、気味悪がったり、あたしのこと化け物扱いしたりしないかなぁ?  徹の反応は、このどちらにも当てはまらない。 「な、な、飛べるんだろ、これ?」 「とべる…けど…」 「飛んで見せてくれよ!」  顔全体、身体全体で期待を表して徹が言う。  さおりはなんだかよくわからないまま、のろのろと立ち上がった。  恐る恐る徹の顔を見て、それから、翼をいっぱいに広げた。  月の光を反射して、羽毛がきらきらと輝く。  ふわり…  さおりの身体が宙に浮いた。  ゆっくりと一回羽ばたいて、地面から二メートルくらいのところで止まる。 「うわ〜、すげ〜、ホントに浮いてるよ。なあ、こう、公園の周りをぐるっと一周してみてよ!」  さおりはその言葉に従った。  翼をはためかせ、展望台の周囲を一周して徹の前に着地する。 「すげぇ、すげ〜や!」  徹は目を輝かせ、さおりの羽根と、空を交互に見る。 (なんて、無邪気な…)  徹の反応に半ば呆れながらも、なんだか救われた思いのさおりだった。  この羽根を見て、他になにか言うことないの?  そう聞きたい気もしたけれど、しかし、羽根について聞かれたところで、さおりにもなにも答えられない。  だから、少しほっとした。 「…あのさ…頼みがあるんだけど…」  はしゃいでいた徹が、急に、言いにくそうな口調になる。 「なに?」 「その…え〜と、俺をかかえて飛べないかな? 空を飛ぶって、どんな感じなのかなぁって」  やや照れたように、徹は言う。 「神山を? あたしが?」 「あ、やっぱりダメ? そうだな、重いもんな…」  ちょっとがっかりしたような徹を見ながら、さおりは考える。 「きっと…飛べると思う。あれって、翼の揚力だけで飛んでいるわけじゃないみたいだから…」  言いながら、徹の背後に回る。 「ん〜と、こう、かな?」  背中側から徹の胴に腕を回し、腹の前でしっかりと指を組んだ。 「いくよ?」 「あ、ああ」  翼が広がると、徹は身体が軽くなったように感じた。  ふわふわと、  海の中にでもいるような。 (ああ、なるほど…)  それで、納得する。  さおりの言った「翼の揚力だけで飛んでいるわけではない」とはこういうことか、と。  翼がほんの少し動いただけで、ふたりの足は地面から離れた。  風の中を漂うように。  最初はゆっくりと、そして少しずつ速く昇っていく。 「うわぁ…」  徹は歓声を上げた。  気付いたときには、もう、地面から三十メートルほどの高さにいた。  学校の屋上よりもずっと高い。  しかし、不思議と恐怖感はなかった。  身体がとても軽くなったようで、さおりに持ち上げられているというよりも、一緒に飛んでいるように思える。  ゆっくりと高度を上げながら、さおりは公園の周囲を、円を描くように飛翔する。  その円がだんだんと広がって、ついには奏珠別の街の上空に出る。 「すごい…や」  徹は、なんとかそれだけを口に出した。  驚きと感動で、他に言葉が思い浮かばなかった。  風が、静かに頬をなでている。  足下に、街の灯りが広がっている。  空には、月と星。  山の頂よりも高く昇っていたので、ここには、空を覆い隠すものはなにもない。  建物も、樹も、山も。  完璧な空が広がっていた。 「すごい…」  もう一度つぶやく。  さおりは、徐々に速度を上げていた。  そうして、いきなりの急旋回や急降下、宙返りで徹を驚かす。  徹の背後で、くすくすと笑う声がした。 「楽しい?」 「うん、すっごく!」  答えながら、首を回して背後のさおりを見る。  さおりの顔は、驚くほど近くにあった。  それで気がつく。  いままで、空を飛ぶという初めての体験に夢中になって、まったく意識していなかったことを。  彼はいま、さおりに抱きかかえられている。  女の子と密着しているのだ。  どくん!  急に、鼓動が速くなった。  耳元に、さおりの息がかかる。  そして、背中に感じる体温と、この柔らかな二つの感触は…。 (月城って、見た目よりも…。意外と、着やせする方?)  そう思うと、顔がか〜っと熱くなる。  女の子が、こんなに柔らかなものとは知らなかった。  そして、こんなにいい匂いがするなんて。  さおりの髪から漂うほのかなトリートメントの香りは、どんな香水よりも強く徹の鼻をくすぐる。  背中を向けているため、さおりに顔を見られることがないのは幸いだった。  さおりは、気づいていない。  飛ぶことに夢中になっているようだ。  しかし徹は、もう空からの眺めを楽しむどころではなかった。  思春期の少年の全神経は、その背中に集中していた。  同い年の女の子の柔らかな感触は、空を飛ぶことよりも刺激的だった。    * * *  どのくらい飛んでいたのだろう。  徹のぼうっとした頭には、時間の感覚はなかった。  ふたりが出会ったときにはまだ東の空にあった丸い月は、もう天頂まで昇っている。  ふと我に返ると、公園のベンチに座っていた。  隣にさおりが座っている。  ややうつむき加減に、自分の足先あたりの地面を見ている。  その背に、もう翼の姿はない。  さおりの横顔を、ぼんやりと見ていた。  綺麗だ…と、そう思った。  ずっと、こうしてさおりを見ていたい、と。  不意に、さおりがこちらを向く。  反射的に、徹は視線をそらした。  足下で寝ている、彼の飼い犬を見る。 「遅くなっちゃったね。帰ろうか」  静かな声でさおりは言って、立ち上がる。  明るい十五夜の月がつくり出すさおりの影が、徹にかかった。 「え…あ、うん。そうだね…」  徹はあわてて、ベンチの足に結んだ犬の鎖をほどく。 「あ…、月城!」  あわてているので、なかなか鎖がほどけない。  公園の出口に向かって歩き出していたさおりの背中に向かって言う。  立ち止まったさおりが振り返った。 「家まで送ってくよ。もう遅いし」 「…うん」  戸惑いがちに、それでもほんの少し嬉しそうな笑みを浮かべたように見えたのは、徹の気のせいだろうか。  ふたりと一匹は、並んで歩き出した。  公園の展望台からの下り路。  公園からさおりの家までの、住宅街の中の路。  ふたりは、ほとんど口をきかなかった。  気まずい沈黙ではない。  言葉を交わす必要を感じなかった。  歩きながら、徹は横目でちらりとさおりを見る。  視線に気付いたさおりが徹を見て、小さく微笑んだ。  ふたりとも、それで十分だった。    * * * 「送ってくれてありがとう。おやすみなさい」  家に入ろうとしたさおりは、そのときはじめて気付いた。  徹と、手をつないで歩いていたことに。  一瞬目があったふたりは、あわてて手を離す。  ふたりとも、意識していなかった。  いつの間にか、ごく自然にそうしていた。  赤い顔をしたふたりは、気まずそうに視線をそらす。 「あ…ありがとう。おやすみ」  真っ赤な顔で、うつむいたまま言って、さおりは玄関に向かう。 「あ、あのさ!」  その背中に向かって、徹が声をかけた。  一呼吸ぶんの間をおいてから、さおりは振り返る。 「…なに?」 「あの…さ、あ、明日…また遊びに来ても…いい、かなぁ?」  照れながら、人差し指で頬をポリポリと掻く。  ほんの一瞬、驚きと喜びが微妙にブレンドされた表情を見せたさおりは、すぐに微笑んでうなずいた。 「…うん、待ってる」  徹の顔がほころんだ。 (手…つないじゃった…)  自室に戻ったさおりは、ベッドの上にぽんと身体を投げ出すと、傍らにあった大きなクッションを抱きしめた。  そのクッションに、顔を埋める。  誰もいないのに、真っ赤な顔を隠そうとするかのように。 「神山と、手…つないじゃった」  名前の部分にほんの少し力を込めてつぶやく。  いつまでも、動機がおさまらない。  小学生の頃ならともかく。  異性を意識するようになってから、男の子と手をつないで道を歩いたことなんてない。  いや、手をつなぐどころか。 「やだ…どうしよう…」  手をつなぐどころか、徹との空中遊泳の間、ずっと彼のことを抱きしめていたのだ。  気付いたのは、飛んでいる最中だった。  徹は空を飛ぶという初めての体験に夢中になっていたし、急に降りるというのもなんだか不自然で、仕方なくそのまま何事もないふりをしていた。  だけど、恥ずかしくて。  徹の顔もまともに見れなくて。  もしかしたら、胸が当たっていたかもしれない。  そう思うと、顔から火が出るほど恥ずかしい。 (だ、大丈夫よね。あたし、それほど胸が大きい方じゃないし…。だけど…) 「どうしよう…明日、どんな顔をして会えばいいの…?」  恥ずかしくて、徹と顔を合わせられない。 (…でも)  でも…会いたい。  心のどこかで、そう思っている。  どうしてだろう。 (あたし、ひょっとして…)  ひょっとして…。 「神山のこと…好き…?」  声に出してみると、その確かな想いが胸を貫いた。 (そんな…まさか…)  まだ、よくわからない。  いままで、特に親しかったわけでもない。  単なるクラスメイトのひとりだった。  大勢のときならともかく、ふたりきりで親しく話したのはたぶん昨日が初めて。  なのに、 (それなのに、いきなり好きになったりするかなぁ…?)  わからない。  わからない。  十四歳の女の子らしい感情として、恋愛に憧れたり、すてきな恋人がいればいいなと思ったりはする。  だけど、アイドルや映画俳優に憧れることはあっても、これまで、身近な異性に特別な感情を抱いたことはない。  だから…。  徹に対するこの感情が本当に恋なのか、さおりにはよくわからなかった。 (だけど…)  徹と話をしたり、一緒にゲームをするのは楽しかった。  それは間違いない。  明日も遊びに来ると言ったとき、確かに嬉しいと感じた。  それは間違いないことだった。 (月城って、かわいいな…)  さおりの家からの帰り道。  徹の足どりは、どことなくスキップでもしているようだった。  知らず知らずのうちに、顔がにやけてしまう。  いままで、気付かなかった。  クラスの女子の一人、以上の認識を持ったことはなかい。  成績はいい方、  背はクラスの中では低め、  どちらかといえば大人しい、あまり目立たない性格。  それが、さおりに対する印象。  それだけだった。  だけど… (なんだか、いままで思っていたよりもずっと可愛いや…)  さおりとは一年生のときから同じクラスだったはずなのに。  たった二日間で、いままで知らなかったたくさんのことに気がついた。  よく笑う。  笑うと、もともと細めの目が一本の線になる。  そうして、口の左側にだけ小さなえくぼができる。  料理が上手で、  それ以上にゲームが上手くて、  他に趣味は読書とビデオ鑑賞。  好きな俳優はハリソン・フォードとブルース・ウィリス。  話をするとき、口の前で両手を合わせて、首をほんの少し傾げるのが癖。  それから… (小柄で痩せて見えるわりには、けっこうグラマーなこととか…)  先刻の、背中に当たった柔らかな感触を思い出して徹は赤面する。  異性というものを意識するようになってから、同世代の女の子とあんなに接近したことはない。  もちろん、手をつないで歩いたことも。 「へへ…」  さおりの動作のひとつひとつを思い出すだけで、なんだか楽しくなってくる。 (月城って、可愛いな…)  これまで、あまりは話もしたことがない相手なのに…。  好きになってしまった。  きっとそうだ。  そうでなければ、こんなにも、頭の中がさおりのことでいっぱいになるはずがない。  明日も会えることが、嬉しくて仕方がない。 「よーし、明日は見たがっていたビデオを持ってってやろ。あと新作のゲームも…」  また、さおりの手料理を食べられたらいいな、と思う。  そして、また一緒に空を飛べたら… (空を…?) (あれ?) (ちょっと待てよ?)  そのときになって、はじめて気付いた。 「んん〜?」  腕を組んで、もう一度よく考えてみる。  考えて、  考えて…、 「月城って…」  ようやく、妙なことに気がついた。  そう、そのときはじめて気付いたのだ。 「なんで羽根なんか生えてるんだ…?」  全日本のんき選手権、などというものがあったら、今夜の徹は間違いなく優勝したに違いない。  しばらく腕を組んで考え込み、ようやく達した結論は、 「ま、いいか。かわいいし」だった。  第三夜  鼻歌混じりに、徹は食器を洗っていた。  さおりの家のキッチンで。  徹は約束通り、昼過ぎにさおりの家を訪れた。  今日はちゃんとさおりも起きていて、午後はずっとふたりでゲームをしたり、ビデオを見たりしていた。  そして夕方近くになって、さおりがはにかみながら言った。 「よかったら…」  ほんの少し、照れたように。 「…ごはん食べていかない?」  もちろん、徹はうなずいた。  ただし、最初からそれを期待していたとはおくびにも出さなかった。 (美味しかったなぁ、月城の手料理)  今日のメインディッシュは、じっくり煮込んだビーフシチュー。  もちろんレトルトではなく、手作りの。  夕方になってから作り始めて間に合うメニューではない。  つまり…  徹が来る前から、用意していたということだ。  ゲームの最中、何度か一時停止をかけてキッチンへ行っていたのはこのためだろう。 (俺のために作ってくれた料理…)  そんなことを考えただけで、熱が上がりそうだった。  もちろん、後片付けは自らすすんでやってることだ。  ただし、さおりがわざわざ、洗い物の数が少ないメニューを選んだことまでは気付いていなかった。 (月城って、料理うまいよな。きっと、いい嫁さんになるな…)  洗剤のついたスポンジと皿を手に持ったままそんなことを考え、そして、自分の考えに思わず赤面する。 (え〜い! 気が早い! 付き合ってもいないのに…)  だけど、  本当にそうなったらいいな、と。  そんな妄想にひたっていたため、皿の数が少ない割には、洗い物が片づくまでにはずいぶん時間がかかってしまった。 「終わったぞ。さ〜続きを…あれ?」  徹が居間に戻ると、ソファの上で横になって、静かに寝息を立てているさおりの姿があった。 「いけね、時間かかりすぎたか」  ひとりでゲームをしているうちに眠ってしまったようだ。  デモ画面が表示されたままで、手にはコントローラーを持っていた。  昨夜遅くまで眠れなかった上に、今朝は早起きして料理の下ごしらえをしたために寝不足だったなどとは、もちろん徹は知らない。 (さて、どうしよう…かな)  さおりは気持ちよさそうに眠っている。  起こすのが悪い気がするくらい。  だからすぐに起こすのは止め、徹は黙って座っていた。  さおりの寝顔を、もう少し見ていたかったということもある。  可愛い寝顔だな、と思った。  同じ年頃の女の子の寝顔を見る機会なんて、そうそうあるものではない。  なんだか、どきどきする。  うたた寝している女の子の顔を黙って見ているなんて、あまりいいことじゃないのかもしれない。  それでも、徹はさおりに見とれていた。 (きれいな脚だなぁ…、って、おい! 俺はなにを見てるんだっ!)  いつの間にか顔ではなく、短めのスカートからのびたさおりの脚に目がいっていた。  あわてて、さおりの寝顔に視線を戻す。  かすかに開いた口の奥に、白い歯が見える。  淡いピンク色の唇は、とても柔らかそうだだ。  無意識のうちに、手を伸ばしていた。  ちょっとだけ、触ってみたかった。  恐る恐る、指を伸ばす。  しかし、その指が唇に触れる寸前、 「ぅ…ん…」  さおりが寝返りをうち、徹はあわてて指を引っ込めた。  いままで横を向いて寝ていたさおりが、寝返りをうったことで仰向けになっていた。  だから… (あ…)  それまで腕の陰に隠れていた胸の膨らみが、あらわになっていた。  服の上からでもわかる、なめらかな曲線を描いている。  ゴク…  胸の鼓動が大きくなり、徹は唾を飲み込んだ。  白いワンピースに、うっすらとブラジャーが透けていた。 (…こら! どこを見てる!)  そんなとこ見ちゃいけない。  そう思いつつも、目を離すことができなかった。  どちらかといえば痩せ気味の、十四歳の女の子の胸など、実際のところそれほど大したものでもない。  しかし、同じ十四歳の少年にとって、その膨らみは抗い難い魔力を秘めていた。 (おいっ! 俺のバカッ! 何をしようとしてる!)  心の中で、自分を叱る声がする。  それでも、止められなかった。  ソファの横に座って、さおりの顔を間近からのぞき込む。  大丈夫、間違いなく眠っている。  手が、少しずつさおりの胸に近づいていく。  そぅっと、そぅっと。  どくん、どくん  心臓の鼓動は、その音でさおりが目を覚ますのではないかと思うくらいに激しい。 (わ〜っ! やめろ〜! 大変なことになるぞ!) (だけど…こんなチャンス滅多にない…) (チャンスって…眠ってる女の子に、こんなことしていいと思ってンのかっ?) (だけどホラ、こんなに可愛い寝顔してるし…) (理由になってないぃっ!) 「あ…」  心の中で激しい葛藤が繰り広げられている間にも、指は動きを止めない。  指先が触れた。  一瞬動きを止め、それから、軽く…とても軽く、押した。 (あ…柔らか…)  手の動きは、それだけでは止まらなかった。  いや、止められなかったと言うべきか。  胸の膨らみを、掌ですっぽりと包み込む。  初めての体験だった。  赤ん坊の頃の、母親の胸を除けば。 (こんなに、柔らかいんだ…。そして、温かい…)  こんなこと、しちゃいけない。  もう止めなきゃいけない。  そう思っても、既にそのきっかけを失っていた。  胸に触れた手を、離すことができない。  ――と、 「え……?」  不意に、さおりが目を開いた。  ほんの十センチほどの距離で、徹と正面から目が合う。  徹は動けなかった。  身体が凍り付いたかのように。 「…え?」  そのままさおりは、きっかり五秒間、目を瞬き、  そして―― 「きゃあああぁぁぁっっっっ――――!」  肺の中の空気をすべて吐き出した悲鳴が、徹の耳をつんざいた。  その声で硬直を解かれ、徹はあわてて手を引っ込める。  弾けるように起きあがったさおりは、部屋の隅まで飛び退くと、壁を背にして両手で胸を覆った。 「ちょ、ちょ…ちょっとっ! な、なにしてたのよっ!」 「な、な、なにって…べ、別に…その…」  真っ青になったな徹の顔に、冷や汗が滲む。 「やだ! もうっ! …信じらンないっ!」  目にいっぱいの涙を浮かべてさおりは叫ぶ。  あふれた涙が一筋、頬を伝った。  徹の胸を貫いたのは、さおりの怒りの声ではなく、その涙だった。  さおりの涙を見て、自分のしたことの重大さを悟った。  好きな女の子を泣かせることが、こんなにも辛いことだなんて。 「…いや…あの…俺は…その……」  徹はしどろもどろに弁解を試みる。  しかし、言い訳のしようなどあるはずもない。 「…ひどい! ひどいよ、こんな…信じンれない!」  さおりの目から、涙が止めどもなくあふれる。 「…ごめん」 「スケベッ! 変態っ! …、大っ嫌いっっ!」  力いっぱい叫ぶと、さおりは居間を飛び出した。 「あ…待って!」  徹が制止する間もなく、  バタンッ!  玄関の扉を叩きつける音が聞こえた。 「月城!」  徹はそのあとを追う。  あわてていたので、靴を履くのに手間取ってしまった。  さおりは靴も履かずに飛び出したらしい。  ずいぶん遅れて外に出る。  外はもう真っ暗で、さおりの姿は見あたらない。 「月城…? …まさか」  周囲を見回していた徹は、はっと気付いて空を見上げる。  一瞬、月と重なったシルエットが見えた。  大きな翼の影が。 「月城!」  さおりのあとを追って、徹は走り出した。    * * * 「たしか…こっちの方へ行ったように見えたんだけど…」  息を切らした徹がたどり着いたのは、奏珠別公園の展望台。  昨夜、さおりと会った場所だ。  月明かりの下でかすかに見えた影は、ここへ向かっているように見えた。  しかし、見える範囲にさおりの姿はない。  昨夜同様、徹の他に人影は見当たらなかった。  いや…  かすかな、音が聞こえる。  キィ…、キィ…  かすかに聞こえる、金属のこすれ合う音。  公園のブランコの音だ。  徹は音の方へと走り出す。  だが、そこにいたのはさおりではなかった。  もっと小さな。  小学生くらいの女の子が、ブランコを揺らしている。  茶色がかったショートカットの、ややボーイッシュな女の子。  住宅街からこの展望台まで、ちょっとした上り坂になっているためか、街の夜景を見下ろせる場所であるにもかかわらず、夜のこの公園に人がいるのは珍しい。  それも、小学生の女の子がひとりきりでいるとなればなおさらのこと。  とはいえ、いまの徹にはその不自然さに気付く余裕もなかった。 「ね…君」  肩で息をしながら、その女の子に話しかける。 「こっちの方に、羽…いや、中学生くらいの女の子が来なかった?」  一瞬、「羽根の生えた女の子が飛んでこなかった?」と聞きそうになったが、もちろんそんなことを言うわけにはいかない。  少女は、なにも聞こえなかったかのように、そのままブランコに乗り続けている。  何秒か待って、徹がもう一度訊ねようと口を開きかけた瞬間、少女はブランコの勢いを利用してぽーんと飛ぶと、徹の前に着地した。  上目づかいに徹の顔を見て、 「中学生くらいの女の人? 見たかもしれない。どんな人?」  にこっと笑いながら訊く。  多分、十歳になるかならないかくらいかだろう。  その割に、どことなく大人びた口調で話す。 「えと…髪がこのくらいで…白いワンピースを着ていて…そして…」  身振り手振りをまじえて説明する。  なにしろ、いちばん目立つ特徴は言うに言えないのだから。 「そして?」  そんな徹の様子を見て、少女は悪戯な笑みを浮かべた。 「たとえば、背中にこんな羽根があるとか?」 「…!」  いつの間にか、少女の顔は徹の目線と同じ高さにあった。  そして、足は地面から離れている。  月の光の下で真珠のように光る、さおりのものよりやや小振りな羽根を広げて。  少女は、宙に浮いていた。 「き、き、君は…」  あわてふためく徹を無視して、少女が片手を上げる。  まっすぐに、徹の背後の森を指差した。  街の南に連なる山々へと続いている森。  徹は後ろを振り返る。 「さがしている女の人は、森のなかだよ」  どことなく笑いをこらえているような様子で、少女がささやく。 「このまま、まっすぐいけばいいの」  見ると、少女が指差す先には登山道のような細い道があった。  その道を行けというのだろうか。 「よし! ありがと…」  森に向かって駆けだそうとした徹は、しかしはたと立ち止まった。 「君は…? いったい…?」  さおりの他にも羽根を持つ少女がいるということの重大さにようやく気付く。  徹は振り返ったが、そこにはもう少女の姿はなかった。  きょろきょろと周囲を見回していると、どこからともなく声だけが聞こえてくる。  静かな声。  森の中を吹き抜ける風を思わせる、優しい声。 「つれて帰るなら、いそがないとね…」  直接、胸の中に響くような声。 「月がしずむまで…だよ」  その声にはっとして、空を見上げる。  月は既に、天頂まで昇っている。 「ほら、いそがないと…」  その声に促されるように、徹は走り出した。  森の中の小径へと入っていく。  十六夜の月に照らされ、足元に不安はない。  しかし――  やはり、あわてていたのだろう。  そうでなければ、気付いたはずだ。  小さな子供の頃から、この公園にはしょっちゅう遊びに来ていたし、最近では飼い犬の散歩コースなのに。  森の中へ入るこんな小径の存在を、徹は知らなかった。  徹は、森の中を走り続ける。  どこをどう走っているのかもわからず、ただ闇雲に。  木の根や下草に足を取られて、何度も転ぶ。  手や顔を擦りむいても、気にもとめずに。  樹々がうっそうと繁った、深い森だった。  しかし不思議なことに、月明かりは木の葉にさえぎられることもなく、森の中を照らしている。  何十分か、それとも何時間かわからないが、森の中をさまよって、徹も気づきはじめていた。  ここが、彼の知る普通の森ではないことに。  奏珠別の近くの山では見ることのできない大木。  見慣れない形の草木。  月明かりの下で、淡い光を放つ不思議な花。  そして…  時折、周囲でなにかの気配がする。  生き物の気配。  獣や鳥ではない。  そして、さおりでもない。  なぜかそれだけはわかる。  それは、小さな声。 『ほらほら、いそがないと間に合わないわよ』  くすくすと笑う声。 『月が沈んじゃったら、手遅れだからね』  からかうような声。 『それまでに彼女は見つかるかしら』  いくつもの声。 『見つかっても、帰らないって言うかもよ』  そんな声を無視して、聞こえないふりをして。  徹は森の中をさまよっていた。  ただひとりの相手を捜して。  時折、樹々の間にちらちらと見える姿も無視して。  それは、小さな少女たち。  掌に乗るくらいの。  カゲロウのような、透明な羽根を持った。  森の中を漂うように飛ぶ、不思議な少女たち。  徹の姿を見かけると、こちらを指差して仲間同士でくすくすと笑っている。 (なんだろう…あれは…)  聞こえないふり、見えないふりをしていたが、もちろん、ちゃんと気付いていた。  常識では考えられない、この、不思議な存在に。 (妖精…? 幻想の世界の住人…)  そうして、はっと気付いた。  普通の人間に、羽根なんて生えているはずもない。  ブランコのところで会った少女も。  この、カゲロウのような少女たちも。  みな、徹が住むのとは別の世界の住人なのだ。  ファンタジー小説が好きな徹は、容易にその考えを受け入れることができた。  そして…  さおりも?  先刻の少女の言葉を思い出す。 『つれて帰るなら、いそがないとね…』  連れて帰る…?  どこから、どこへ? 『見つかっても、帰らないって言うかもよ』  不意に、不吉な予感にとらわれる。  もちろん、さおりが普通の人間であるはずがない。  むしろこちら側≠フ存在なのかもしれない。  この森こそが、さおりの世界なのかもしれない。 (まさか…)  もう、戻らない…? 「冗談じゃない!」  もうへとへとに疲れていたが、それでも徹は走り続ける。  さおりを捜して。  どのくらい走り回っただろう。  すでに時間の感覚はない。  そうして、さすがに力尽きかけた頃――  ひときわ高い樹の、梢近くの枝に座っている少女の姿を見つけた。    * * *  美しい羽根はそのままだった。  淡い光を放っているようにすら見える。  徹は、樹の下まで来て見上げる。  大きく息を吸い込むと、 「…月城」  恐る恐る、声をかけた。  なんの反応もない。  まっすぐに前を見ているだけ。  徹に気付いた素振りすらない。 「月城…」  徹は、がばっとその場に土下座した。 「ごめん! オレが悪かった! 謝るから!」  さおりは無表情に、ただ前を見ている。 「ホントにごめん! あれはほんの出来心で…もうしないから!」  さおりは、ただ黙って高い樹の枝に座っているだけ。  徹の声などまったく聞こえていないかのように。  月明かりの中に白く浮かび上がるその姿は、まるで、そのまま光の中に溶けこんでしまうかと思われるほどはかなげに見えた。 「ほんっと〜に悪かった! 頼むから、話を聞いてくれよ!」  徹は必死に訴える。  なんとしても、聞いてもらわなければならない。  戻ってきてもらわなければならない。  そうしなければ…  もう二度とさおりに会えないのではないか――そんな気がした。 「悪かったよ! でも、月城の寝顔がすごく可愛くて…つい…」  徹の顔が、ほのかに赤くなる。 「…だって、好きな女の子が目の前で無防備に寝てるんだもの。つい、いたずらしたくなって…、ゴメン、もうしない!」  ぴくり  はじめて、さおりが反応した。  ゆっくりと顔を動かし、徹を見おろす。 「月城…」  地面に両手をついたまま、徹は上を見る。  月明かりの下だし、距離もあるので、さおりの表情はよくわからない。  どことなく、怒っているようにも見えた。 「…神山って、あたしのこと好きなの?」  あまり感情のこもらない声だった。  あらたまって訊かれるとやっぱり恥ずかしく、徹の顔がいっそう赤みを増す。  しかし、ここはきちんと言わなければならない。  そう、決心する。 「好きだ。 俺、月城のことが好きだ。本当だよ!」 「どうして? あたしなんかを…?」  どこか戸惑いがちな、小さな声。 「だって、月城ってとっても可愛いじゃないか」 「…うそ」 「嘘じゃないって! ホントに、月城ってすごく可愛くて、大好きだ! 一緒にいると楽しいし、料理も上手だし…。だから…こっちに戻ってきてくれよ!」  さおりは、まっすぐに徹を見ていた。  まだ、少し怒ったような表情をしている。  それでも、その表情がいくぶんやわらいできたように見えるのは気のせいだろうか。  不意に、三十メートルはありそうな樹の上から飛び降りる。  翼をいっぱいに広げ、徹から五メートルほど離れた地面にふわりと着地した。  美しい翼を閉じると、それはさおりの背に吸い込まれるかのように消える。 「月城!」  駆け寄ろうとした徹を、手を上げて制止した。  怒っている…わけではなさそうだが、けっして愛想のいい表情でもない。 「月城…」 「もう、エッチなことしないって、約束する?」 「もちろん! あ、いや…え〜と…」  きっぱりと断言しかけて、しかし、語尾がだんだん小さくなる。  口だけで約束するのは簡単だ。  だけど、それは決して徹の本心ではない。  許してもらわなければならない、しかし、だからといってさおりに嘘をつきたくなかった。 「あ…え〜と…その、そのときは月城の許可をもらうって約束する」 「…?」  さおりは訝しげに首をかしげた。 「その…、エッチなことしたくないって言ったら嘘になる。でも、もうあんなことは絶対にしない。月城がいいって言わないかぎり、 絶対に変なことしない」  やや警戒したように、さおりは一、二歩後ずさる。 「神山って…ひょっとしてすごくエッチなの?」 「え? いや、そんなことない…と思う」  後半、なんだか自信なさげな台詞だ。  それだけでは言葉が足りないと思い、なんとかフォローしようとする。 「普通…だと思う。ほら、好きな女の子を前にして、健康な男子ならちょっとくらいそ〜ゆ〜ことも考えるのが普通だろ? でも、信じて。絶対に月城がいやがることはしない!」  身勝手な台詞かもしれない。  それでも、徹は必死に訴える。  さおりはそんな徹の様子をまだ怒ったように見ていたが、やがて、その必死なそぶりがおかしくなって、ぷっと小さく吹きだした。 「…言っとくけど、あたしまだ怒ってるんだからね」  笑いをこらえつつ、無理に怒っているふりをする。 「いくら頼んだって、ぜったいにそんなこと許さないんだから」 「わかってる、ほんっと〜にごめんなさい!」  徹はもう一度、地面にこすりつけるように頭を下げた。 「ホントに、あたしのこと好き?」 「好きだ! だから…その…正式に俺と付き合ってほしい!」  これ以上はないというくらい真っ赤な顔で徹が言う。  そして、さおりも同じくらい真っ赤になっていた。  男の子から、こんな告白をされたのは初めてだったから。  赤い顔を見られたくないかのように、さおりはそっぽを向いてわざと素っ気なく応えた。 「…考えとく。先刻のことは…今回だけ勘弁してあげる」  徹の表情がぱっと明るくなった。 「は、早合点しないでよ。神山と付き合うって決めたわけじゃないからね。ただ、考えておくって言っただけなんだから」  それでも、徹は安堵の息をついた。  ふぅっと、大きく息を吐き出す。 「わかってるよ。でも、安心した。あのまま、もう戻ってこないんじゃないかって心配したんだ」 「戻ってこないって…どうして、そんなこと思うの?」 「だって…気付いてる? ここが、俺たちの知ってる奏朱別の裏山じゃないってこと…」  徹は、さおりを捜している間に見たものの話をした。  走り回っている間に何度も見かけた妖精たち。  見たこともないほどの大木。  月明かりの下で咲く不思議な花々。  徹は確信していた。  ここは、彼がいたのとは少し違う世界だ。  塀の向こう側の世界――そんな、以前なにかの本で読んだ言葉を思い出す。  それは、ごく身近にありながら、それでいてどこか違う空間。  幻想の世界の住人たちが住む… 「…だから、月城ってホントはこの世界の住人なんじゃないのかなぁって」 「そうね、そうかもね…。あたしも見たよ。あたしと同じように、羽根を持った女の子。ひょっとしたら、ここの方があたしにはふさわしい場所なのかも…」  どこか寂しげな口調に、徹ははっとしてさおりを見た。 「月城…」 「でもね」  小さく微笑んで顔を上げるさおり。 「神山がどう考えてるのか知らないけど、あたしは、一昨日まで自分のことをごく普通の女の子だと思ってたのよ。あたしは、奏朱別で生まれ育ったんだもの。他に帰るところなんてないよ」 「そ、そうか…そうだよな」  安心したよう巣で徹は立ち上がり、ジーンズについた土や草をはらい落とす。 「じゃ、帰ろうか」 「…で、街はどっち?」 「…」  気まずい沈黙がその場をつつむ。  ふたりは顔を見合わせた。  周囲には同じような森が広がり、どこから来たのかもわからない。 「え〜と…」 「…ひょっとして…迷った?」  額に冷や汗が浮かぶ。 「あ…ははは…」 「笑い事じゃないって!」  笑ってごまかそうとした徹は、さおりにジト目で睨まれて口をつぐんだ。  …が、 「そうだ!」  不意に、ぽんと手を叩く。 「飛んでいきゃいいじゃん! 空からなら、街の方角もわかるだろ」 「そうか、神山って見かけによらず頭いいね」 「見かけによらず、は余計だよ」  口をとがらせて反論する徹は無視して、さおりは上を向いた。  目を閉じて、静かに両腕を広げる。  そして… 「…あれ?」 「どうしたの?」 「羽根が…」  さおりは自分の背中を振り返った。 「…出てこない」  どうしたというのだろう。  一昨日からずっと、意識して抑えていなければ勝手に出てくるほどだったのに。  なにも難しいことはなかった。  ただ、羽根が現れることを念じればいいだけだった。  なのに… 「どうして?」 「…わかんない」 「てことは、飛べなくなったってこと?」 「…そう…みたい」  心細げにさおりは言う。 「どうして急に…」  なにげなしに空を見上げた徹は、はっと気付いた。  公園にいた少女や、妖精たちの言葉を思い出す。 『つれて帰るなら、いそがないとね…。月がしずむまで…だよ』 『ほらほら、いそがないと間に合わないわよ』 『月が沈んじゃったら、手遅れだからね』  空を見上げる。  もう一度確かめるように、空を見渡す。  月は、すっかり西の山陰に隠れていた。  いつの間に、そんなに時間が過ぎてしまったのだろう。 「あ…なんてこった…」  思わず、その場に座り込む。 「どうしたの?」  さおりが隣にしゃがんで、徹の顔をのぞき込む。  徹は説明した。  さおりを見つけるまでに、見たもの、聞いたもののことを。 「…ここは、俺たちが住むのとはちょっと違う場所。きっと、月が出ている間だけ、道がつながるんじゃないのかな。ほら、月の光には魔力があるって、よく言うだろ」 「じゃあ…じゃあ…もう、帰れないの?」 「…かもね」 「そんな…」  青ざめるさおりの目に、涙が浮かぶ。  徹はあわてて立ち上がった。 「し、心配しなくてもいいよ。俺がついてるんだし…ふたりなら、少しは心強いだろ」 「だって…」 「大丈夫だって」  実をいえば徹も不安ではあったが、それでもまだ、女の子の前でカッコつけようとするだけの余裕は残っていた。  やせ我慢こそ男の美学! なのである。 「えっと…、あ、そうだ!」  なんとかさおりを元気づけたい、必死に考える徹は、ひとつの希望を見つけた。 「もしかしたら、明日の夜にまた月が昇ったら、帰れるんじゃないかな?」 「もし、ダメだったら?」  さおりが涙目で徹を見る。 「そのときはそのときさ。まだ可能性があるうちは、そんな悲観的な顔してちゃダメだよ」  内心、「泣いている顔も可愛い」なんてことを思ってはいたが。  でもやっぱり、さおりは笑っている顔がいちばんいい。 「神山は不安じゃないの? もしも、もう二度と家に帰れなかったら…って」 「どうしてかな、あんまり不安じゃない。きっと、月城と一緒にいるからかな」  キザな台詞を口にしてしまった、と自分でも思う。  さおりの頬がぽっと赤く染まった。 「あ、あたし、そんなに楽天的になれないよ」 「ま、いいさ。ちょっと休もうよ。俺、ずっと走り通しだったんだから」  できるだけ気楽そうに言って、すぐそばの大木の根元に腰を下ろした。  実際のところ、徹はもうくたくただった。  体力的にも、そして精神的にもずいぶん消耗している。  深刻に落ち込むだけの元気もなかったというのが正直なところだ。  ひと眠りして頭がすっきりすれば、なにかいい考えが浮かぶかもしれない。  そう考えた。 「また妖精たちに会ったら道を聞けるかもしれないし、きっと何とかなるよ」  樹の幹に寄りかかって目をつぶった徹は、眠そうな声で言った。 「ん…」  少し間を空けて、さおりも腰を下ろす。  それほど疲れていたわけではなかったが、もう夜中どころか明け方が近い時刻だ。  楽な姿勢になると、とたんに眠くなってくる。  それでも、さおりは簡単には寝付けなかった。 「…帰れなかったら、どうしよう…」 「そんなこと考えちゃダメだって。とりあえず明るくなったら、道をさがしてみようよ。それがだめなら月が昇るのを待つさ。大丈夫、きっとなんとかなるよ」 「…うん…そうだね…」  さおりも目を閉じる。  しばらくそうしていて、しかし、また目を開けて徹を見た。 「…ホントに、いいの?」  主語も目的語もなしに、いきなり訊く。 「なにが?」  うとうとしかけていた徹は、何を訊かれたのかわからずに、目を閉じたまま訊き返す。 「ホントに、あたしなんかでいいの? 特別美人ってわけじゃないし、それに、こんな羽根の生えた、変な女の子でもいいの?」  徹は目を開いてさおりを見た。  思いのほか、真剣な表情をしていた。  だから、わざとふざけた調子で応える。 「その羽根がいいんじゃないか」 「じゃあ羽根がなくなったら、なんの魅力もないってこと?」  揚げ足をとられ、徹はあわてて言いなおす。 「そうじゃなくて! え〜と、そりゃあ、月城の羽根はすごく綺麗だけど、それだけじゃなくて、その…月城自身もとっても可愛くて、だから、羽根は単に月城の魅力の一部分だというだけで、羽根がなくなっても別に…その…俺、月城のことが好きだ」  もともと徹はあまり口のうまい方ではない。  ずいぶんとまだるっこし言い方になってしまったが、それでも言いたいことはなんとか通じただろうと思う。 「…ありがとう」  頬を赤らめながらさおりが微笑んだので安心する。  やっぱり、笑っている顔がいちばん可愛いや、と。 「ね、神山…。いいこと教えてあげようか?」  やっと聞き取れるくらいの小さな声だった。 「…あのね、あたしも…神山のこと好きだよ…多分、ね」  今度は徹が赤くなる番だった。    * * *  朝の柔らかな光がカーテンの隙間から射しこみ、ベッドの上に光と陰のまだら模様をつくり出している。 「う…ん…」  コーヒーの香りが、まだ半分眠っているさおりの意識をくすぐった。  ぼんやりと目を開ける。 「ん…、あ…れ?」  身体を起こしてまわりを見回す。  自分の部屋だった。  自分のベッドの上で、ちゃんと、自分のパジャマを着て寝ている。 「あれ…?」  ぼうっとした頭で考える。  なにか、不思議な夢を見ていた気がする…と。  部屋の中を見回す。  なにも変わったところはない。  机の上の時計は、午前七時少し過ぎを指していた。  さおりは起きあがると、パジャマのまま部屋を出る。  居間には、ソファに座ってコーヒーカップを片手に新聞を広げている女性の姿があった。 「…ママ? いつ帰ってきたの?」 「おはよう、さおり。今朝の始発電車よ」  さおりの母親、月城みさとがこちらを振り返る。 「千歳空港に着いたのは昨夜なんだけどね。千歳で友達と会う約束があったから、そのまま泊まってきたのよ」 「ふ…ぅん…」 「おみやげのハスカップのパイがあるから、朝ごはんに食べたら?」 「本州に旅行してたのに、どうして千歳空港でおみやげ買ってくるかなぁ…」  いつものことなのでもう慣れっこだが、それでも少しばかり呆れたような口調で言う。  みさとはひとりで旅行に行くことが多い。  彼女は作家で、取材旅行という名目で出かけているのだが、さおりは単なる趣味だと思っている。  行く先はそのときによってさまざまなのだが、なぜか、おみやげは北海道内のものが多い。  旅先で買って持ってくるのは重いから、というのがみさとの言い分だった。  それなら宅配便で送ればよさそうなものだが、旅行のおみやげは自分で持ってきて直接手渡すのが醍醐味なのだそうだ。  それが、彼女のこだわりらしい。  食堂のテーブルについたさおりは、自分のカップにコーヒーを注ぎ、ハスカップパイを一切れ皿に取る。  パイを口に運びながら、考えていた。  昨夜の出来事を。 (あれぇ…? 夢…? まさか…でも…)  徹とふたり、森の中で迷って野宿していたはずなのに、どうして自分の家で寝ているのだろう。  なにごともなかったかのように。 (夢でも見てた? でも…いや…、いったい、どこからどこまでが夢?)  すべてが夢だった、と考えるのがいちばん自然だった。  さおりの背には、羽根なんて生えていない。  どうやっても、そんなもの出てこない。  はじめから存在しなかったかのように。  それが当たり前なのだ。  背中に魔法の羽根が生えて、それで空を飛び回っていたなんて。  常識で考えれば、そんなこと現実にあるはずがない。 (やっぱり、夢? でも…いや…う〜ん…)  フォークを口にくわえたまま、さおりは考え込む。  そこで、はたと気付いた。  徹はどうしたのだろう?  彼がなにか知っているのではないだろうか?  ひょっとしたら、眠っているさおりを徹が家まで運んでくれたのかもしれない。  可能性は低いが、あり得ない話ではない。 (学校に行ったら、訊いてみようか)  でも、もしも…  羽根のことも、なにもかも夢だったら。  そんなことを訊いたら、変なヤツと思われるのがオチ。 (でも…う〜ん…)  朝食の間も、学校の制服に着替えているときもずっと考え続けて、とりあえず普段より早めに家を出た。  いつも通りの通学路。  いつも通りの学校。  特になにも変わったところはない。  月曜の朝は、みんなどことなく眠そうだ。  これも毎週のこと。  さおりが教室に入ったとき、徹はまだ来ていなかった。  教室の入口近くに立って、徹が登校してくるのを待つ。  しかし徹はなかなか現れず、ようやく姿を見せたのは、もう朝のH・Rが始まる直前だった。  教室に入ってきた徹と、一瞬目が合う。 「あ…えと、お、おはよう」  昨夜のことを訊いてみたいけれど、どう切り出せばいいのかわからないので、とりあえず朝の挨拶だけ。 「あ…、おはよ…」  やや戸惑った様子で、徹も挨拶を返す。  それだけでは、なにもわからない。  いきなり声をかけられて戸惑っただけかもしれない。  少なくとも先週までは、徹とは特に親しかったわけでもないのだから、当然のことだろう。 (やっぱり、なにも知らないのかな…)  そう考えると、もうなにも言えなくなる。  だから、さおりはそのまま自分の席に戻った。  その日は一日、特に何事もなく過ぎた。  放課後、「街へ遊びに行こう」という友達の誘いを断って、さおりは帰路につく。  とてもそんな気分ではない。  さおりは結局、徹になにも言えなかったし、彼の方から話しかけてくることもなかった。  授業中や休み時間に何度か目が合ったような気がしたが、それはさおりが徹の方を見ていたための偶然かもしれない。 (やっぱり…夢だったのかな…)  あんなに真剣に、好きだと言ってくれたのに。 「…夢、だよね。ホントにそんなことあるわけないもの」  落胆した表情で、声に出さずにつぶやいた。  足どりも重い。 (こんなことなら…)  みんなと一緒に遊びに行った方が、気が晴れたかな?  そんなことを考えていたさおりは、校門の手前で足を止めた。  ちらほらと下校する生徒が歩いている中にひとり、校門に寄りかかるようにして立っている男子生徒がいる。  誰かを待っているかのように。  さおりの胸の鼓動が速くなる。  いま、周囲にさおりの知り合いはない。  徹に昨夜のことを訊くなら、これが最後のチャンスだった。 (でも…)  どうやって聞けばいいのだろう。  時間が経つにつれて、あれは夢だったのでは、という思いが強くなっている。  だとしたら、そんな馬鹿なことを聞くのは恥ずかしい。 (…偶然よね。きっと、誰か友達を待ってるんだわ)  それでも校門が近づくにつれ、さおりの歩みはだんだん遅くなる。  徹がちらりとこちらを見たような気がして、思わず立ち止まった。  目が合ってしまう。  頬が、か〜っと熱くなった。 「あ、あのね」 「…あのさ」  ふたりが口を開いたのはほとんど同時だった。  一瞬、えっという表情でお互いに顔を見合わす。 「え…と…、あたしに用?」 「俺になにか…?」  また台詞がかぶって、ふたりそろって小さく吹き出す。 「神山から、言いなよ」 「月城から言えよ」  一瞬の沈黙のあと、 「…じゃあ、一緒に言おう」  さおりの言葉に徹もうなずく。  一、二の三で、タイミングを合わせて、 「一緒に、帰らない?」  ふたりで、同じことを言った。  驚いたように相手を見つめる。  赤い顔をして。  十秒くらいそうしていて、 「…いいよ」  やっぱり、ふたり同時に答えた。  口元に、かすかな笑みを浮かべて。 「じゃ、行こっか」  どちらからともなく言いだして、ふたりは並んで歩き出した。  この日はちょっと寄り道をして、一緒にお茶を飲んで帰ったのだが、さおりは結局、昨日までのことはなにも訊かなかった。  徹も、なにも言わなかった。  でも、それでもいいと思う。  徹と仲良くなれた、いまこうしていることは間違いなく現実だったから。  エピローグ  それから一月ほどが過ぎた、ある日の夕方。  学校帰りのさおりと徹は、奏珠別公園の展望台で寄り道をしていた。  街を見おろす高台にある小さな公園は、ふたりのお気に入りの場所だった。  急な坂を登らなければならないため、ここはいつ来ても人が少なく、だから、ふたりでいてもクラスメイトに冷やかされる心配もない。  今日も、いつもと同じように。  鬼ごっこをして遊んでいた小学生たちが帰ったあとは、公園にいるのはふたりだけになった。  陽が沈んであたりが薄暗くなりはじめた頃、東の山の陰から、ややオレンジ色がかった大きな月が顔を出す。  満月にはまだほんの少し足りない月。  ふたりは公園の柵に寄りかかって、昇ったばかりの大きな月と、灯りはじめた街の明かりを眺めていた。  こうして徹とふたり、他愛もない話をしている時間がさおりのお気に入りだった。  なんとなく、いい雰囲気で。  静かに流れる時間が。  ずっとこうしていられたらいいな、なんて思っていると、 「…あのさ、月城…」  ためらいがちに、徹が口を開いた。 「なに?」 「その…え…と…」  なんとなく、緊張している様子だった。  それが伝染して、さおりの鼓動も少し速くなる。  徹は大きく深呼吸して、言った。 「…キス、しても…いい?」 「…え」  どくん!  さおりの鼓動がひときわ大きくなる。  思わず、周囲を見回した。  公園の中には誰もいない。  さおりと徹の、二人だけ。  頬が、か〜っと赤くなる。  断る理由はなかった。  年頃の女の子の常として、さおりももちろん好きな男の子とのファーストキスには憧れがある。  たまに空想するその場面で、その相手はいま彼女の隣にいる少年だった。  付き合いはじめて一月という時間が長いのか短いのか、それはわからなかったが、それでも断る理由はなかった。 「ん…」  口ではっきり「いいよ」と答えるのもなんだか恥ずかしかったので、さおりは身体を徹に向けると、軽く上を向いて目を閉じた。  徹の手が肩に触れた瞬間、ぴくっと身体が震える。  徹の体温が近づいてくるのを感じる。 (うわぁ…、なんか、すごくドキドキする…)  特に理由のない不安が半分、そして期待が半分、といったところ。  しかし… (あ、ヤダ、どうしよう…)  こんな大事な、素敵な場面で、おマヌケな話だったが。  くしゃみが出そうだった。 「くしゃみが出そうだから、ちょっと待って」なんて言えるはずがない。  せっかくのいい雰囲気が台なしだ。 (なんとか、我慢しないと…)  無駄な抵抗だった。 「…っ、くしゅんっ!」  びくっと、徹の動きが止まる。  あと数センチで唇が触れそうなところだったのに。 「…ご、ごめんなさい」  あわてて口を押さえながら、さおりは謝る。  どっちにしろ、いい雰囲気はぶちこわしに違いなかった。  徹は、驚いたように目を丸く見開いている。 「…あの、急に鼻がムズムズして…我慢しようとしたんだけど…。ごめんなさい! わざとじゃないからね!」 「いや…それはいいんだけど…」  徹に気を悪くした様子はない。  しかし、なんともいえない奇妙な表情でさおりのことを見ている。 「くしゃみはどうでもいいんだけど…さ、それ…?」 「え?」  さおりの背後を指差している。  首をめぐらして、徹が指差すものを見ようとして…。  驚きのあまり、息をのんだ。 「うそ…」  純白の、大きな翼が広がっていた。  一月前となにも変わらずに。  昇ったばかりの月の光を受けて、真珠色の輝きをまとっている。  さおりは両手で口を押さえて、徹に向き直った。  驚きと、戸惑いと、そして喜びの入り混じった表情。  二人そろって、そんな顔をしていた。 「これって…」  しばらく、そのままお互いを見つめ合って、 「はは…」 「ふふ…」 「あは…ははは…」  ふたりは同時に笑い出した。  はじめは遠慮がちに、やがて抑えきれなくなって、お腹を抱えて爆笑する。  目に涙すら浮かべながら。  他に誰もいない夜の公園に、二人の笑い声だけがいつまでも響いていた。    * * *  同じ頃、さおりの家では――  自称「ティーンの少女たちの間で大人気の小説家」月城みさとが仕事の手を休めて部屋の窓から月を眺めていた。  口元に、静かな笑みを浮かべている。 「きれいな月ね、…先月と一緒」  なにか面白いことを思いだしたかのようにくすくすと笑い、自分の手を見た。  彼女の指は、一枚の小さな羽毛をつまんでいた。  それは、月の光の中で真珠のような輝きを放つ、純白の羽根だった。                 ―おわり―  あとがき  こんにちは、北原樹恒です。  久しぶりの、シリーズものではない読み切り『月羽根の少女』いかがでしたでしょうか?  なんとゆ〜か、書いている本人も「背中がむず痒くなるような」話でした(笑)。  はっきり言って、書いてて恥ずかしかったです。  私の作品にしては珍しく、血塗れの戦闘シーンも、女の子同士のからみもないし(爆)。  いやホント、こ〜ゆ〜話をしらふで書くのは大変です。  特に、第三夜の後半あたり。  かえって、『殺意の女神』みたいな話の方がまだ照れずに書けますね(笑)。  そんなわけで、この作品の1/3くらいは酒を飲みながら書きました。  私はもともと酒好きですが、最近はワインにはまっています。  いまのお気に入りは、ドイツのアイスヴァインやベーレンアウスレーゼ等の甘口の白と、ブルゴーニュの赤。  週末ごとに一本ずつくらい消費しています。  もう、ワイン代が大変で(笑)。  ところで、この作品の原題は『羽少女』となってました。  ハネショウジョ≠ニカタカナで書くと、まるでバッタかカマドウマの仲間みたい(笑)。  それじゃあんまりなので『月羽根の少女』と改題したんです。  そういえば結局、さおりの羽根の正体については最後まで明かされませんでしたね。  別に忘れていたわけでも、考えていないわけでもないのですが、ストーリィの展開上、書かなければならない必然性がなかった、ということで。  この作品のテーマは「羽根」ではなくて「十四歳の少年少女の純愛物語」ですから(笑)。羽根は単なる小道具のひとつ。  読んでいてもあまり気付かないかもしれませんが、実はこの作品、舞台設定は近未来です。  どの辺が近未来かというと、『オラトリオ・タングラム』や、『鉄拳3』が既にドリームキャストに移植されてるあたり(笑)。  それにしても、早く『オラタン』と『ゲットバス』が移植されませんかね? そうしたらドリームキャスト買うのにな〜。  では最後に、恒例の「今後の予定」ですが…  次回作は、みなさんお待ちかね(?)、光の王国の第六話『銀砂の戦姫』を予定しています。  第五話で出番のなかったファージやハルティも登場します。お楽しみに。  公開時期は…まだ未定。(まだ書き始めてもいないんですよ)  このあと、4コマ版『午後三時のTeaParty』の最終回も描かなきゃならないし。  実は最近、小説と4コマまんがの二足のわらじが辛くなってきてます。  でも、4コマを楽しみにしている読者もまだまだいますしね…。  では、また次回作でお会いしましょう。               一九九九年一月 北原樹恒               kitsune@mb.infoweb.ne.jp                   創作館ふれ・ちせ      http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/