月羽根の少女 〜炎のたからもの〜 〜 1 〜  最後に見たものは、天使だった――  その時、私は死にかけていた。  …少なくとも、本人はそのつもりだった。疲労困憊して身体を動かすこともできず、空腹はとうの昔に限界を超えている。  だから、天使だと思った。  どうやら、お迎えが来たらしい、と。  天使は大きな純白の翼を広げ、丸い月をバックにして、夜空を滑るように飛んでいた。  綺麗な翼。それは、夜空に浮かぶ宝石のよう。  月の光を受けて、真珠色の光沢をまとっている。  天使は、十代前半の女の子の姿をしていた。  私は小さく微笑んだ。疲れきっていたから、実際に口が動いたかどうかはよくわからない。  それにしてもおかしな話だ。  私は別に、クリスチャンってわけではないのに。  首に掛かっている十字架は、いまでは単なるアクセサリだ。昔通っていた幼稚園が、たまたまカトリック系だったというだけの話。そもそも、家は浄土真宗だし。  …ああ、そうか。  あいつの家は、クリスチャンだったっけ。  迎えに来て、くれたのかな?  そう思うと、なんだか幸せだった。  深く息を吸い込むと、草の匂いがする。  倒れる直前は意識が朦朧としていたから、自分がどこを歩いていたのかも定かではない。確かなのは、定山渓から奏珠別まで続く山々のどこかだということ。  私は、草むらの中に倒れている。  森の樹々は、このあたりではややまばらになっていて、空がよく見えた。  ちょうど視界に大きな月が映っていて、その前を横切るように飛ぶ天使の姿があった。  もう、動けない。  このまま、死んでしまえばいい。  このまま、眠るようにして。  この大地の、この森の一部になってしまいたい。  死ぬことに対する恐怖は、まったく感じなかった。  むしろ、安堵。  もう泣かなくてもいい。  もう苦しまなくてもいい。  こんな、胸が締めつけられるような思いをしなくてもいい。  それは、私にとって唯一の救い。  悲しみよさようなら。  そして私は望み通り、眠るように意識を失った。      * * *  しかし人間というものは、そう簡単には死なないらしい。  それも、死にたいときに限って。  死を望まない人間は、時としてあっけないくらい簡単に死んでしまうというのに。  どれくらい時間が過ぎたのかはよくわからないが、私はまた目を覚ました。  残念ながら、死ぬことはできなかった。  目を開けると…  天使がいた。  仰向けに倒れている私の顔を、間近から覗き込んでいる。  先刻、空を飛んでいた天使だ――と思った。  それが勘違いだと気付くまでには、何秒かの時間を必要とした。  普通の、女の子だ。  背中に羽根なんてないし、普通の人間の服を着て、手には某大手スーパーの袋を抱えている。  見たところ、私よりいくつか年下のようだ。中学生くらいだろうか。  倒れている私の傍らにしゃがんで、不思議そうに見おろしている。 「…どうして、こんなところで寝ているんですか?」  女の子が聞いた。ややあどけなさを感じる声だった。 「別に、寝てるわけじゃ…」  私は仰向けになったまま、小さな声で応えた。大声を出すほどの元気はない。 「具合が悪いんですか? 大丈夫? 救急車を…」  ポケットから携帯電話を取り出そうとしている。慌てているせいで、ストラップが引っかかってあたふたしているが。 「いいよ。大丈夫だから…」  私は言った。救急車なんか呼ばれて、騒ぎになるのはごめんだ。  できれば放っておいて欲しい。しかし、どうもそういうわけにはいかないようだ。 「でも…」 「疲れて…、お腹が空いて動けないだけ」  仕方なく、本当のことを言った。  女の子は一瞬驚いたような――そしていくらか呆れたような――表情を浮かべた。それから、手に持っていたスーパーの袋をがさごそと漁る。 「はい、どうぞ」  そう言って差し出したのは、ペットボトルに入ったスポーツドリンクと、ケーキの箱。  私は相手の顔をちらと見て、 「…いらない」  ぶっきらぼうに断った。 「でも…」 「いいから、放っといてよ」  いらぬお節介だ。私は一人になりたいのに。 「それじゃあ、やっぱり救急車ですね」  また、携帯電話を手に取る。 「いいよ。やめてって言ってるっしょ」 「救急車がイヤなら、食べてくださいね」  この子ってば、親切そうなふりして私のこと脅迫してるんじゃない?  私はなんとか上体を起こすと、女の子の顔を睨みつけた。向こうは意に介さず、にこにこと微笑んでいる。  どうやら本気みたいだ。救急車に乗るか、差し出されたケーキを食べるか。どちらかを選ぶしかないらしい。 「…わかったよ。お節介め」  仕方なく、私はケーキとスポーツドリンクを受け取った。  それは、チョコレートケーキとアップルパイだった。  悔しいけれど、美味しかった。  食べて少し休憩すると、身体にいくらか力が戻ってきた。これなら、もう少しは動けそうだ。  女の子はその間ずっと、隣で私のことを見ていた。空になった箱とペットボトルを、ちゃんと袋にしまってから聞いてくる。 「歩けますか? あたしの家、すぐそこなんだけど…。よかったら、もっとちゃんとしたご飯もありますよ?」  すぐそこ…? そんな馬鹿な。  そう思って周囲をよくよく見ると、今いるのは登山道の入口からすぐの所だった。私はどうやら、ゴール直前で倒れていたらしい。もっと山の中だと思っていたのに。少しばかり歩きすぎたようだ。  すぐそこは奏珠別の街外れにある公園で、十分も歩けば住宅地に出る。 「…歩けますか?」  心配そうな顔につられて、ついうなずいてしまう。  どうやら向こうは、私を残して立ち去る気はまるでないようだ。 「今夜は家にあたし一人だから、気を使わなくてもいいですよ」  そう言って立ち上がると、私の手を取った。  この子にとっては、私を家に連れていくことは決定事項らしい。しっかりと手をつないでいるのは、私が逃げないようにという配慮だろうか。  どうやら、この子の家で晩ごはんを食べることになりそうだ。  でも――  家に帰るよりはマシかもしれない。 「あたし、さおりです。月城さおり。白岩中の二年生」  歩き出してすぐに、女の子は自己紹介した。  こんな、月のきれいな夜に出会った相手の名前が月城とは、奇妙な偶然だ。 「…東野美里。高等部の三年」  向こうが名乗った以上、私も黙っているわけにはいかない。最小限のことだけを言う。 「うちの学校の先輩だったんですね。あたしのママも、みさとっていうんですよ。偶然ですね〜」  無邪気な、あるいは無防備なといってもいいような笑顔を浮かべている。  この頃になってようやく、その女の子――さおりを観察する余裕が出てきた。  背はやや小柄、百五十センチくらい。肌は白くて、手足も細い。  その割にあまりひ弱な印象を受けないのは、元気な笑顔のためだろうか。無防備なその笑顔は、やや天然ボケ入っているように見えなくもなかったが、まあ可愛いといえるだろう。  やや茶色がかったセミロングのストレートヘアは、脱色しているのではなくて元々こういう色らしい。サラサラ、ふわふわとした柔らかそうな髪で、ちょっとだけ、触ってみたいと思った。      * * *  ビーフシチューにつられて、というのは理由にならないだろうか。  実をいうと、さおりについていくことにした一番の理由は、晩ごはんのメニューがビーフシチューだから、だった。  好物なのだ。  奏珠別公園からすぐのところにある家に着くと、さおりはてきぱきと晩ごはんの仕度をはじめた。キッチンで忙しく動き回りながら、ときどき私の方を振り返る。 「…どうして、あんな所に倒れてたんですか?」 「ん…ああ。別に、なんでもない」  居間のソファに座ってぼんやりとしていた私は、曖昧な返事をした。 「別にって、そんな…」 「…奏珠別から定山渓まで、飲まず食わずで縦走できるかどうか試してたんだ」  ガチャッ! と、キッチンから大きな音が聞こえた。なにやら、さおりが手を滑らせたらしい。 「ここから定山渓まで…往復ですか? 飲まず食わずで? 何十キロあると思ってるんです。死にますよ、普通」  鍋を手に持ったまま、わざわざ居間まで来て言った。 「死にやしないさ。普通なら」  かなり苦しい行程なのは事実だけど。きっといいダイエットになるだろう。もっとも、もともと余分な脂肪が少ない上に、ここしばらく食事も睡眠もろくにとっていない私には少々辛かったが。 「山登り、好きなんですか?」  またキッチンへ戻ったさおりが聞いてくる。 「ああ。好きだったね、昔から」  小さい頃から山の麓に住んでいたから。毎日、近所の男の子たちと野山を駆け回っていた。  山はいい。  自然の中にいると、心が落ちつく。  風に揺れる葉擦れの音。鳥のさえずり。沢を流れ落ちる水音。  心が、空気に溶けこんでいくように感じる。溶けた心は風に乗って、森全体に広がっていく。  身体と、精神のすべてが、自然と一体化する感覚。それがたまらなく好きだった。      * * *  お腹が膨れると、なんだか眠くなってきた。  ビーフシチューとチキンピラフ。イカと海草のシーフードサラダ。  それが、晩ごはんのメニューだった。  美味しかった。もちろん空腹だったせいもあるだろうけれど。それを差し引いても、中学生の料理としては見事なものだろう。  そう言ってやると、さおりは「えへへ…」と嬉しそうに微笑んだ。屈託のない笑顔だ。  それにしても、私はここで何をしているんだろう。  食事の後、ソファに座ってぼんやりと考える。さおりは、食器を洗っている。  なんだかよくわからないうちにここに連れてこられて、晩ごはんをご馳走になっている。数時間前には考えもしなかったことだ。  そして遺憾ながら、ごはんは美味しかったし、こうしてのんびりとくつろいでいることも心地良かった。  私は特に何をするでもなく、ぼんやりとしていた。背後から、食器を洗う水音が絶え間なく聞こえている。  ふと、本棚が目に入った。居間に本棚、というのはちょっと意外な気もするが、まあ他人の家のインテリアに文句を付ける気もない。  なにげなく背表紙を眺める。どうやら、ティーン向けの文庫が中心らしい。さおりの趣味だろうか。  どんな作家が好きなのかな…。そう思って見てみると、並んでいる本の多くが同じ作家のものだった。 「月城…みさと?」  さおりと同じ姓。私と同じ名前。  そういえば先刻「あたしのママも、みさとっていうんですよ」って言っていた。 「さおりの、母親…?」  へぇ…。さおりのお母さんって、小説家なんだ。  適当に一冊、手に取ってみた。またソファに座ってページを繰る。  それは、妖精の少女が主人公のファンタジー。こういう話は嫌いじゃない。  しかし読んでいるうちに、疲れのためにだんだん眠くなってきた。      * * *  いつの間にか、眠っていたらしい。  それほど長い時間ではないが、久しぶりに、夢も見ずにぐっすりと眠っていたようだ。  目が覚めると、ソファで寝ている私の上に、毛布が掛けられていた。  そして傍らにさおりが座って…クッションにもたれて静かに寝息を立てている。  居間の蛍光灯はついていないが、今夜は月が明るく、室内はぼんやりと白く照らされていた。壁に掛けられた時計を見ると、もう真夜中過ぎだ。  私は起きあがる。  さおりを見ると、気持ちよさそうに眠っている。可愛らしい、無防備な寝顔だ。  起こすのも悪い気がして、このまま帰ることにした。一言、メモでも残しておけばいいだろう。  自分に掛けられていた毛布を、今度はさおりに掛けてやろうとする。  その時に、ふと思い出した。  あの時、意識を失う直前に見た、月をバックに飛ぶ天使の姿を。  さおりに似ていた気がする。  幻覚だったのだろうか。まあ、そうだろう。きっと、意識を失った後に見た夢と混同しているのだ。  だけどなんとなく、さおりの背中に手を伸ばしてみた。  起こさないように気をつけて、そっと、背中に触れる。  滑らかな曲線を描く背中。もちろん、そこに羽根が生えている形跡なんてあるはずもない。  当たり前だ。私はいったい何を考えているのだろう。  自分のしていることが可笑しくて、口元をほころばせながら、さおりに毛布を掛けてやった。  明日は、満月だろうか。  外に出ると、真円に近い月が空のいちばん高いところにあって、白い柔らかな光が夜の住宅街を静かに照らしていた。  ひんやりとした空気。  八月でも、さすがに夜中になると風は涼しくて気持ちがいい。  家に帰ると、こんな時刻だというのに親は起きていて、遅くなったことを少し咎められた。  いくらか鬱陶しく感じながらも、それも仕方のないことだと思う。  きっと、心配していたのだろう。  …あんなことがあったばかりなのだから。 〜 2 〜  私は、道に迷っていた――  翌日の午後のことだ。  昨日一度歩いただけの道だし、それも夜だったから、すぐには見つからなくても仕方のないことだろう。曖昧な記憶を頼りに住宅地を歩き回る。  暑い真夏の午後ということで、屋外に人の姿はほとんどない。山の方から響いてくるセミの声だけが、熱い空気を満たしている。  探している家がなかなか見つからなくて、私はだんだん不安になってきていた。  不安、というのも変な言い方だが、その時なにを考えていたかというと、実は、民話などに出てくる「迷い家」のことだった。  一夜明けてみると、昨夜の出来事にいまいち現実感がなくて、だから、もしかしてすべては幻だったのではないか、とか。まあ、そんな馬鹿なことを考えていたというわけだ。  だから、やがて見覚えのある家と「月城」と書かれた表札を見つけたときは、思わず安堵の息をもらした。  玄関の前で小さく深呼吸して、呼び鈴を鳴らす。  …応答はない。  もう一度。  …留守なのだろうか。  諦めて立ち去ろうかと思ったとき、インターフォンから眠そうな女の子の声が聞こえてきた。 『ふぁい…、どなたぁ?』  寝起きと思しき様子だが、間違いなく昨夜の女の子、さおりの声だ。 「あ、あの…。東野、だけど…」 『えっ?』  さおりは一瞬、大きな声を出した。 『あ、はいはい! いま行きます!』  最後の「す」の発音と同時にインターフォンが切れると、ドタドタと階段を駆け降りるような(実際その通りなのだろう)音が響いてくる。  その音がすぐ目の前で止まった。ガチャガチャと鍵を開ける音がして、扉が開く。 「美里さん!」  さおりが、嬉しそうに笑っていた。その髪に寝ぐせがあることを、私は見逃さなかったが。 「あ…これ。昨日のお礼」  私は、来る途中に買ってきたケーキの箱を差し出した。 「え? あ、ありがとうございます」  にっこりと笑ってケーキを受け取ったさおりだったが、すぐにぷぅっとふくれてみせる。 「ひどいじゃないですか。黙って帰っちゃうなんて」 「ごめんごめん。あんまり気持ちよさそうに寝てたから、さ。起こすのも悪いかなって」 「…とにかく、上がってお茶でも飲んでってくださいよ」  さおりは私の手をつかんで、否応もなしに家に引っ張り込んだ。 「私が来たとき、何してたの?」  私を居間のソファに座らせ、キッチンで飲み物の用意をしているさおりに向かって聞いてみた。  もちろん質問の答えはわかっている。ちょっと悪戯心を起こして、からかってみただけだ。  案の定、さおりは一瞬言葉に詰まり、ゆっくりと、考えながら応える。 「…夏休みの宿題」 「な〜んて。寝てたくせに」 「ど、どうしてわかるんですか?」 「あんな寝ぼけた声出して、どうしてわからないと思うの?」  私は思わず吹きだした。さおりは真っ赤になって、唇を尖らせている。 「宿題をやろうと思ってたのはホントですよぉ。ただ、ノートを開いたら、とたんに眠くなって…」 「何やってたの?」 「数学と…理科」 「手伝ってあげようか?」  アイスコーヒーのグラスを受け取りながら、私は言った。  つまり、私は理系科目が得意なのだ。  それから夕方までさおりの宿題に専念して、だいたい目途がついたところでさおりが聞いてきた。 「夕食、食べていきますよね?」 「え? ああ、もうそんな時間。…迷惑じゃない?」 「全然」  さおりは首を振った。 「一人よりも二人の方がごはんも美味しいし。なにか、食べたいものあります?」 「別に、なんでもいいよ」  ご馳走になるのに、メニューに注文を付けるほど厚かましくはない。それに、食べ物の好き嫌いはほとんどないし。 「好きなもの言ってください。あたし、こう見えても料理は得意だから」 「…じゃあ、銀鮭のムニエルと、シジミの味噌汁」 「いいですね。じゃあ、行きましょ」  さおりが立ち上がる。 「行くって、どこへ?」 「買い物。そこのスーパーまで」 「だったら、私が行ってくるよ。待ってて」  さおりを制して、私も立ち上がった。作ってもらうんだから、買い物くらいは私が行かなきゃ申し訳ない。  しかしさおりは、玄関に向かおうとした私の腕をつかまえて、にこっと笑った。 「一緒に行こ?」  その無邪気な笑顔に、私は思わずうなずいていた。      * * *  昼間から、いや昨日からずっと気になっていることがあったので、食事中に思い切って聞いてみた。  つまり、さおりの家族のことだ。とりあえず母親が作家だというところまではわかっているが、昨日も今日も、家にはさおり一人きりなのはどうしたわけだろう。  どうやら、兄弟はいないらしいし。 「ママは今、取材旅行なんですよ」 「へぇ…、さすがは作家だね。じゃあ、お父さんは?」 「え? え〜と、うちは母子家庭でして…」 「あ…ご、ごめん! 変なこと聞いちゃって」  答えを知っていれば、こんな無神経なこと聞かなかった。迂闊だったかもしれない。家の中をよく観察していれば予想できたことだった。言われてみれば、男くささがまるで感じられない家なのに。  なんだか申し訳なくて、私は小さくなっていた。しかし、 「気にしなくていいんですよ」  さおりは屈託なく笑う。 「あたしが生まれる前に、もう離婚してたらしいですから。だから、小さい頃からずっとこう」 「…寂しくない?」  気付いたときには、聞いてしまっていた。しかしこれも、無神経な質問だったかもしれない。 「どうかなぁ。パパがいないのも、ママが留守がちなのも、あたしにとっては当たり前のことだから、よくわかんない」  そう言うさおりの表情には、とくに寂しげな様子もない。  だけど… 「あ、でもね。…誰かが一緒に夕食を食べてくれるのは、好き」  その言葉で、私は一瞬、胸がきゅっと締めつけられるような感じがした。  この子は別に、寂しくないわけではないのだ。  ただ、それが当たり前で。  だから、その感情が「寂しさ」であることに気付いていないんじゃないだろうか。  彼女の不自然なまでの人懐っこさは、人とのスキンシップを求める無意識の行動なのではないか。  不意に、涙が溢れそうになったけれど。さおりは相変わらず笑顔を見せているので、私は必死にそれを堪えていた。  私にとっては少し気まずい食卓だったけれど、さおりは楽しそうだった。  本当は、夕食後に宿題の残りを片付けるつもりでいたのだけど、お腹が膨れると、さおりも私もすっかり勉強なんかする気分ではなくなっていた。 「…ゲームでもします?」  テレビに接続されたゲーム機の電源を入れ、流行のダンスゲームのCD―ROMをセットする。もちろん、マット状の専用コントローラーもつながっている。  それにしても、私ってば何をやってるんだろう。  さおりと遊んでいるのは楽しい。それは事実だ。  こうしていれば、嫌なことを忘れていられるから。  だけど… 〜3〜  今日も、いい天気だ――  私は、当てもなく街を歩いていた。  なんとなく家にいたくなかったから。ただそれだけの理由で外へ出た。  別に今日に限ったことじゃない。今年の夏は、何も予定がない。  ただ、惰性で生きているだけ。  …どうして、生きてるんだろう。本当なら、二日前に死んでいた筈だったのに。  …………  まずい…な。  また、危ない精神状態になりつつある…みたい。  それが自分で分かっているのに。どうすることもできない。  どうすることも…?  いいや、違う。ひとつだけ、方法がある。  だけど… 「美里さ〜ん!」  私を呼ぶ声が聞こえた。その声で、私の精神は現実に引き戻される。  通りの向こうで、さおりが手を振っていた。  小さく手を上げてそれに応えると、元気一杯にこちらへ走ってくる。 「えへへ〜、ちょうどいいところで会えた!」 「なに?」 「あたし、買い物に行くところなんですけど…、一緒に行きませんか?」 「…まあ、特に予定はないけど」 「美里さんって力ありそうだから、ちょうどいいなぁって」 「私は荷物持ちかいっ?」  私はわざと怒った素振りを見せたが、さおりは少しも悪びれずに、 「今晩もまた、好きなもの作ってあげますから」  と言ってくすくす笑う。  その笑顔を見ていて、わかったような気がした。  荷物持ち、というのは言い訳なのだ。私を食事に招待するための。ひどく遠回しに「今夜もごはん食べに来こない?」と言っているのだろう。  勝手な思い込みかもしれないけれど、私はそう信じることにした。      * * *  買い物…というか、これが男女のカップルだったら、まるでデートみたいだったかもしれない。  特に用もない店を適当に見て回ったり、喫茶店でお茶したり、ゲーセンで遊んだり…。  ちょっとした気まぐれで安物の指輪を買ってあげたら、すごく喜んでいた。  その見返りとして、夕食はサーロインステーキにポタージュという約束を取り付けたのだから、まあ私にとっても損な話ではない。  それに、さおりの嬉しそうな顔を見ていると、こっちまでなんだか楽しくなってくる。  そう、私は確かに楽しんでいた。さおりと一緒にいることを。  そのことに驚きと、不安――それとも恐怖――を感じていた。  さおりと一緒にいることが楽しければ楽しいほど、胸の奥が痛い。  どうして、私なんだろう。  やや強引に私の手を引くようにして歩くさおりを見ながら考えていた。  何故、彼女が私につきまとうのか。  母親が留守で、家に一人きりで寂しかったから? それはおかしい。  この容姿と人懐っこい性格なら、きっと友達は多いだろう。昨日今日知り合ったばかりの私にこだわる理由はない。  理由はむしろ、私の側にあった。  もしかしたら、私のためなのかもしれない。ふと、そんなことを考える。  寂しいのは、さおりではなくて私の方だ。  彼女はそれに気付いているのかもしれない。それで、私に付き合ってくれているのかもしれない…と。      * * *  夜の公園は、人気がなくてしんとしている。といっても、人間が発する物音がないというだけ。キリギリスやエンマコオロギ、ウマオイといった虫達は盛んに鳴いているし、水銀灯の周りを飛び交う大きな蛾が、時々ぶつかって軽い音を立てたりもしている。  もう夜も更けていて、日中の暑さが嘘のように涼しい。  夕食の後、さおりが「散歩に行こう」と言い出して、ここへやってきた。  一昨日の夜、さおりと初めて会ったところ。  街の外れにある奏珠別公園の展望台。少し山を登ったところにあるので、街の風景を見渡すことができるのだが、昼間でもそれほど人の多くないところだ。だから、夜にやってくる物好きなんてそうそういない。  月が出ていた。  大きな、丸い月。多分、今日が十六夜。 「きれいな月…」  さおりは、まるで月に引き寄せられてでもいるかのように、公園の柵から身を乗り出している。 「ね、美里さん」 「ん?」 「空を飛べたらいいなって、思いません?」 「え?」  私が聞き返すと、普段のさおりからは想像できないような身軽な動作で、ひょいと柵の上に立った。  こちらに背を向けて、月を見上げるようにして両手を広げている。 「こんなにきれいな月の光の中、空の散歩ができたら素敵じゃないですか」  …目の錯覚だろうか。  一瞬、さおりの背中に翼が見えたような気がした。  朱鷺か白鷺のような純白の、大きな翼。  月の光を浴びて、真珠色の輝きをまとっていた。  私は驚いて、目を瞬く。  そうしたら、翼なんてどこにも見えなくなった。  気のせいだ。ちょうど月とさおりの身体が重なったために、光の加減でそんな風に見えたらしい。 「…美里さん?」  私がぼうっとして返事をしないのを訝しんで、さおりがくるりと振り返る。  平均台よりも細い柵の上で器用なことだ。バランスを崩さずにただ立っているだけでも難しいだろうに。まるで重力を無視しているかのように、軽やかに立っている。 「…あ…え〜と…、危ないよ。そんなところに立ってたら」  いま気付いたが、柵の向こうは急な斜面になっている。落ちたら死にはしないまでも、骨折くらいはするかもしれない。 「大丈夫」  さおりは笑いながら、柵の上でぴょんぴょんと飛び跳ねてみせる。 「あたし、こ〜ゆ〜の得意なんです」 「さおり! 危ないから!」  突然、言い様のない不安に襲われた。さおりの腕をつかんで強引に引きずり下ろす。慌てていたので、つい力を入れすぎてしまった。 「や…痛い」  さおりが顔をしかめる。 「あ…ごめん」  慌てて手を離した。 「も〜、乱暴なんだから〜」 「…ごめん」 「あたし、こう見えてもけっこう運動神経いいんですよ?」  その言葉に、ぎゅっと心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。  …いつだったか、あいつも同じことを言っていた。  胸が苦しくて、立っていられなくなる。私はベンチに腰を下ろした。 「…美里さん?」  私の様子が普通ではないのに気付いて、さおりが首を傾げる。 「さおりって、さ…」  ベンチに座って俯いたまま、私は聞いた。 「恋人とか、いる?」 「え…?」  驚いたような声を上げる。顔を見ると、頬が真っ赤になっていた。 「…まだ…いません…けど?」 「そう…」  ほんの少し、口元がほころんだ。こんなことで赤くなる、さおりの純情さが可笑しくて。 「私ね、好きな人がいたんだ…」 「え?」  私は、話し始めた。  どうしてそんな気持ちになったのかはよくわからないけれど。誰かに聞いてほしかった。  …いいや、違う。誰かに、じゃない。さおりに聞いてほしかったんだ。  初めて会ったのは、中学のときだった。  なんとなく気が合って仲良くなり、ずっと親しく付き合っていた。  私と同じく山歩きが好きで、よく、一緒に山へ行っていた。  大好きだった。  一緒にいると楽しくて、そして、いちばん心が安らぐ相手だった。  肌を寄せ合う温もりの心地良さを、初めて知った。お互い、相手と触れあっていれば安心できた。  最初は友達だったけれど、いつしか自然と、その感情は「恋愛」と呼ぶべきものに変化していった。  そして、初めてのキス。  初めて一緒に過ごした夜。  この時間が永遠に続けばいいと、どれほど強く願ったことだろう。  だけど… 「この間、山の事故で死んだんだ。たまたま一人で行ったときに、急斜面で足を滑らせて…」  口に出してそう言うと、また涙が溢れてきた。  まだ、信じられない。だけど、あいつはもういない。  どこにも、いない…。 「なのにどうして、私はこうして生きているんだろう…」  涙が、止まらない。  どんなに堪えようとしても。 「あの…」  いつの間にか、さおりが目の前に立っていた。困ったように、私を見おろしている。 「…ごめんなさい。こんな時、どう慰めたらいいのか、わかんないの」 「別に、気を使わなくていいよ…」  私は泣きながら応える。 「…ただ、もう少しの間、側にいて…」  さおりが、隣に腰を下ろす。腕が触れるほど近くに。  私はさおりに縋りついて、声を上げて泣いていた。  止めどもなく溢れる涙が、さおりのシャツを濡らす。 「…初めて会ったとき…」  私の身体に腕を回して、ぽんぽんと背中を優しく叩きながら、さおりが聞いた。 「…もしかして、その…、死のうとしてました?」 「…わかんない」  私は泣きながら応えた。  誤魔化しているわけではなくて、本当にわからなかった。 「積極的に死のうとしてたわけじゃないと思うけど…」  でも、このまま死んでもいいかなって。そう思っていたのは事実だった。 「あたし…余計なこと、しました?」 「…わかんない」  どうなのだろう。そういう思いが全くないといったら嘘になる。  だけど…  私、この子に救いを求めてる。四歳も年下の女の子に。  そういえば――いつもタメ口だったからつい忘れるけど――あいつも一学年下だったっけ。  だけど…  誰も、あいつの代わりにはならない。 〜4〜  夜の山は、本来なら真っ暗なはずなのに――  今夜に限っては、月の他にもう一つの光源が、私の周囲を照らしていた。  遠くで、ヘリコプターの音がしていた。空を見上げても、それらしき灯りは見えないが。  空は月明かりで明るいが、森の中は闇に包まれている。しかしその闇の中で、オレンジ色の光があちこちで揺らめいていた。  ただよってくる煙。そして焦た匂い。  木が燃える匂いって、私はけっこう好きだ。例えば、キャンプ場での焚き火とか。  それに、木が燃えるオレンジ色の炎には暖かみがあって、見ているとなんだか安心できる。  だけどこの炎は…  私を殺そうとしている。  私は草の上に座って、炎を見つめていた。  少しずつ近付いてくる炎を見ながら、私は考えていた。  これから、どうしようか。  もう、考える時間はあまり残されていない。  選択肢は二つ。  このまま、ここに座っているか。  それとも、今すぐ逃げ出すか。  別に、死ぬためにまた山へ来たわけではない。ただ、一人でいろいろと考えたいことがあっただけだ。  それなのに、こんな時にこんな目に遭うなんて…。  もしかして、これが運命なのだろうか。  …それもいいかもしれない。  死にたがっている私が、耳元でささやく。  本当なら、三日前に死んでいたはずなのだから。  それが少し遅くなっただけだ、と。  もう泣かなくてもいい。  もう苦しまなくてもいい。  こんな、胸が締めつけられるような思いをしなくてもいい。  私は立ち上がって――炎に引き寄せられるように――足を一歩踏み出した。  悲しみよさようなら。 「…私が死んだら、あの子は泣いてくれるかな…」  それだけが、少し心残りだった。 「…イヤです」  突然、背後で声がした。そして、草や枯れ枝を踏む音。私は驚いて振り返る。  振り返って、それが空耳ではないことと、声の主を確認して、もう一度驚いた。 「…さおり! どうしてこんなところにいるの?」  そこに、さおりが立っていた。  ミニのワンピースにサンダル。とても山歩きをするような格好ではない。  さおりは、泣きそうな顔をしていた。 「…死んじゃ、イヤです」 「どうして…どうしてここにいるの?」 「昼間、美里さんの家に電話したら、山登りに行ったって…。それで夕方、テレビで山火事のニュースをやってて…なんだかイヤな予感がして…」 「それだけのことで、わざわざこんなとこまで来る?」  奏珠別からここまで、山道を歩いて私の脚でも二時間はかかるというのに。さおりはどうやって来たのだろう。 「なんて危ない…」  ただでさえ、夜の山歩きは危険だ。しかも山火事の最中に。  偶然会えたからいいようなものの、もし私と会えなかったら、今頃どうなっていたか。 「とにかく、早く帰りなさい。ここは危ないから!」  もう、火の手はすぐそこまで迫っている。急がなければ、逃げられなくなってしまう。  しかし、さおりは首を横に振った。 「…ヤです」 「さおり!」 「…美里さんも、一緒です」  泣きそうな目で、しかし真っ直ぐに私を見ている。 「私のことはいいから! 早く逃げなさい!」  そんな言葉を無視して、さおりは私の隣に腰を下ろした。 「美里さんも一緒じゃなきゃ、あたしも帰りません」  いつもは素直で可愛いくせに。今日に限って妙に強情だ。 「私のことは放っておいて! さおりには関係ないじゃない!」  思わず、そう叫んでしまった。  さおりは、泣いているような、それでいてどこか怒ったような表情を見せる。 「…じゃあ、あたしのことも放っといてください。美里さんには関係ないことです」 「さおり!」  パンッ!  軽い音が響いた。  私の手が、さおりの頬を叩いた音。  さおりは赤くなった頬を手で押さえて、涙ぐんでいる。 「あ…ごめん」  …自己嫌悪。  さおりはなにも悪くないのに。私の勝手な我が儘でしかないのに。 「ずるい…ずるいよ」  さおりの目から、涙がこぼれた。 「あたしだって、美里さんが死んだら悲しいのに…。それなのに、勝手に死のうだなんて」 「…ごめん」 「どうして、そんな簡単に死のうだなんて思うんですか? 生きてさえいれば…」 「生きていれば、楽しいこともある。どんなに辛い記憶だって、いつか、時が癒してくれる…。そんなこと、わかってるよ」  私は言った。 「だったらどうして…」 「それが…怖いんだ。あいつのこと、忘れたくない。思い出になんか、したくない。記憶はいつか風化してしまうから…。それが、怖いんだ」  一番大切な人のことも、一番大切な想いも、いつか忘れてしまうだろう。  それが、怖い。  私が忘れてしまったら、あいつは、本当にどこにもいなくなってしまう。  この大切な想いを永遠のものにするためには…、生きていることを止めるしかない。生きている限り、どんな想いもいつか色褪せてしまうから。 「…でも、ヤダ」  隣から、嗚咽混じりの声がする。 「美里さんが死んじゃ、やだ」  さおりは地面に座って、膝を抱えている。 「あたし、きっといっぱい泣くもの。好きな人が死ぬなんて…やだ」 「…ごめん、さおり」 「…どうしても?」 「……、ごめん。帰りたくない」 「……わかりました」  さおりは「ふぅ」と小さく息を吐き出した。 「じゃあ、あたしもここで死ぬってことですね」 「さおり!」  私は驚いてさおりを見る。 「…だって、一人じゃ帰れないもの。真っ暗だし、道もわかんないし」 「じゃあ、どうやってここまで来たの?」 「……」 「さおり?」 「…来るときは夢中だったから。火事場の馬鹿力ってヤツ? 文字通り」  泣いているのに、口元だけが少し緩んだ。 「あたしがここで死んだら、美里さんのせいですね。十四歳の若さで死ぬなんて、ああ、なんて可哀想なあたし…」  わざとらしくポーズを取りながら、芝居がかった台詞を口にする。 「これから死のうって人間を、脅迫する気?」 「…だって、ヤなんだもん。美里さんが死ぬなんて、考えたくないもん。お願いだから…」  さおりがしがみついてくる。  私にしがみついて、泣いている。 「お願いだから、死なないで。あたしと一緒に帰ろう?」 「さおり…」 「やだ…死んじゃやだ。お願い…」  私の服をぎゅっと掴んで、胸に顔を埋めて、わんわんと泣いている。  なんて真っ直ぐな、純粋な気持ちだろう。  こんな想いをまともにぶつけられて、平然としていられるほど私は強くない。  さおりの泣き顔を見るのは、とても辛いことだった。  まったく泣き止む様子はない。顔中くしゃくしゃにして泣き続けている。  私は、小さな溜息をついた。  女の子の涙って、卑怯だ。  今日は、死ねない…。  そう思った。  私が死ぬのは勝手だけれど、この子を巻き込むわけにはいかない。  確かに、さおり一人で無事に帰るのは難しいだろう。この子は、助けないと…。  とりあえず今は、さおりを連れて逃げるしかなさそうだ。  それで、どうしても生きているのが辛かったら…。  また、別な機会にしよう。  この子が見てる前で死ぬなんて、出来そうになかった。  さおりの泣き顔は、反則だった。  死ぬのはいつでもできるから。  もう少しだけ、この子のために生きててみよう。 「…わかった」  しがみついて泣いているさおりを抱いて、耳元でささやいた。 「さおりを連れて、一緒に逃げるよ。それでいいんでしょう?」 「ホントに?」  さおりが、がばっと顔を上げる。 「うん。さあ、行こう」 「美里さん…」  私は立ち上がった。さおりの手も引いて立たせてやる。  もう、炎は間近まで迫っている。もしかしたら、帰りの登山道にも火が回っているかもしれない。  さおりが来たときでもギリギリだったのだから。これは、本気で逃げる気でもかなり危ないかも。  そうは思ったが、もちろん口には出さない。  しかしさおりもなんとなく不穏な雰囲気を感じ取ったのか、不安そうな顔をする。 「ちょっと、危ないかな…」 「美里さん…」 「…なんてね。大丈夫、私に任せて」  ポケットから取り出したマグライトを点灯すると、さおりの手を握った。 「走るよ。足元に気を付けて」 「はい!」  私たちは炎に背を向け、山道を走りだした。  ふもとを目指して。  しっかりと、手をつないで。  実際のところ、私にも自信があったわけではない。  無我夢中だった。  道に迷いかけたり、煙に巻かれそうになったり。何度も危ない目に遭った。  どこをどう走ったのかもよくわからない。  憶えているのは、お互いの息づかい。体温。かすかな汗の匂い。そして、しっかりとつないだ手の感触。  どのくらい走っただろう。  ようやく、奏珠別の街の灯りを目にしたときには、もう真夜中だった。      * * * 「あ…はは…は」 「えへ…へ…」  なんとかさおりの家へ帰り着いた私たちは、お互いの顔を見て笑い出した。  ひどい格好だ。  顔中…いや身体中、煤だらけ、泥だらけ。  それでも、生きて帰れただけ良しとしよう。  さおりの髪に付いていた木の葉の切れ端を、摘んで取ってやった。  軽い食事をして一息ついたところで、さおりがお風呂を沸かしてくれる。確かに、この汗と泥と煤を洗い流せば、いい気持ちだろう。  さおりの家のお風呂場は意外と広かったので、二人で一緒に入ることにする。さおりは恥ずかしがっていたけれど、私が、少し強引に誘ったのだ。  脱衣所で服を脱いでいると、一枚の小さな羽根がはらりと床に落ちた。私の目には、さおりの服から落ちたように見えたが。 「なに、これ?」  私は羽根を拾い上げる。 「あ…、べ、別に。なんでもないです!」 「そぉ?」  それは、特に変わったところのない鳥の羽根に見えた。純白の美しい羽根だ。山の中で転んだときにでも付いたのだろうか。  なんとなくその羽根を捨てる気になれなくて、洗面台の上に置いてお風呂に入った。  熱い湯の中で手足を伸ばすと、とても気持ちがいい。身体の芯まで、暖かさが伝わってくるようだった。 「ひどい顔だね、さおり」  少し遅れてさおりが入ってきた。手の平でお湯をすくって、煤で汚れたさおりの頬を少し乱暴に洗ってやる。 「美里さんだって」  さおりも、同じことをやり返してくる。 「やったな、こら」 「美里さんが先にやったんですよ〜」  私たちは子供のように、湯船の中でじゃれ合って遊んでいた。      * * *  お風呂から上がって服を着た私は、ふと悪戯心を起こした。  まだバスタオル一枚でもたもたしていたさおりの背中を、人差し指でつついてやる。 「ひゃんっ!」  妙な悲鳴を上げて飛び上がる。その拍子に、身体に巻いていたバスタオルがはらりと落ちた。 「や…なにするんですか! 美里さんのエッチ!」  慌ててタオルを拾って前を隠したさおりが、顔中真っ赤にして抗議する。そんな様子を見て、私はくすくすと笑っていた。  さおりはどちらかというと小柄で、腕も脚も、そしてウェストも細い。その割に出るべきところは一応人並みに出ている。わかりやすくいうと、色気には欠けるがまあ悪くないプロポーション、というところ。  私は別に、さおりの裸体が見たくてこんな悪戯をしたわけではない。ただ念のため、もう一度確認しておきたかっただけだ。  そしてもちろん、さおりの背中には翼なんて見当たらなかった。 「…今晩、泊まっていきます?」  バスタオルを握りしめたままのさおりが聞く。 「…いや、今日は帰る。家で、心配してるだろうし」  少し未練はあったけれど。  でも、きっと親も山火事のニュースを聞いて、心配しているはずだ。  その代わり… 「明日、ヒマ? 遊びに来てもいい?」  そう聞くと、さおりは満面の笑みをたたえた。まさしく天使の微笑みだ。 「じゃあ、晩ゴハンはごちそう作りますね」 〜終章〜  私は、大切なことを打ち明ける決心をしていた――  翌日の午後、約束通り私はさおりの家を訪ねた。  玄関のチャイムを鳴らすと、やっぱりさおりは寝ていて、半分閉じたような目と、寝ぐせだらけの髪で私を出迎える。  それでも、口元はにこにこと笑っていた。  表には出さなかったけれど、私の顔を見てほっとした様子だった。昨夜の私は、つまり自殺未遂をしでかしたわけだから、やっぱり心配していたのだろう。さおりの気持ちも分かる。 「いつまで寝てるんだよ。この寝ぼすけ」  私は笑って、さおりの背中をつつく。さおりはまた「きゃん!」と可愛らしい声を上げた。  さおりが淹れてくれた濃い目のコーヒーを一口飲んだ私は、バッグの中から一冊のアルバムを取り出してさおりに渡した。 「これは?」  さおりが首を傾げる。 「一昨日話した、私の恋人の写真」 「…見てもいいんですか?」  アルバムを手に持ったまま、さおりが聞く。 「うん。さおりには見てほしい。知っていてほしいんだ」  そう言うと、さおりは遠慮がちにアルバムを開いた。  ゆっくりとページを繰って… 「…………」  だんだん、表情が引きつってくる。 「あ…あの…」  戸惑った表情で、アルバムと私を交互に見る。 「…恋人って…言いました…よね?」 「うん」  そんなさおりを見て、私はくすくすと笑う。  もちろん、どうしてさおりがこんな反応を示すのかはよくわかっている。 「美里さんて…美里さんて…」  いま開いているページには、下着姿の女の子が二人、ベッドの上で肩を寄せ合って笑っている写真が貼られていた。当然、そのうちの一人は私だ。 「…まさかと思ってたけど……や、や、やっぱり…そ、そ〜ゆ〜人?」  強張った笑顔と、震える声。ウブで、しかもノーマルな恋愛観の持ち主であるさおりには、ちょっと刺激が強かったかも。  さおりの顔を両手で挟むようにして押さえ、唇が触れそうになるくらいに顔を近づける。 「あ、あ、あ、あ、あの…」 「さおりが泣くっていうから、死ぬのやめたんだからね。責任取ってよね」 「せせせせ責任って、責任って…あの…」  うろたえてる、うろたえてる。そのリアクションが可笑しくて、可愛らしくて、そのまま、ぎゅっと抱きしめた。 「…そばに、いて。私のそばにいて」  さおりの耳元でささやく。  誰も、あいつの代わりにはなれないけれど。  だけど、さおりがそばにいてくれたら、少しは悲しみに耐えられそうな気もする。とりあえず、もう少し生きてみようって、思う。  それでも、どうしても傷が癒えないようなら、その時のことはまた考えればいい。  いまは、死ねない。  いま私が死んで、この子の心に傷が残るのは嫌だ。この子を傷つけたくない。この子は、傷つけたくない。  自分が傷ついてるからって、他人を傷つけていいはずがない。 「えっと…あの…あの…」  さおりの笑顔は、相変わらず引きつりまくっている。どう応えていいのか、戸惑っている。  私は、抱きしめていた腕を緩めると、手をさおりの両肩に置いた。  さおりが戸惑いながらも口を開く。 「あの、えっと…。と、とりあえず、お友達から…ってことで…いいですか?」  その台詞に、思わず吹きだしてしまった。自分でなにを言ってるのかわかってるのだろうか。実はけっこう、素質あるのかもしれない。 「いいよ」  そう言うと同時に、さっと一瞬だけ、さおりと唇を重ねた。 「え…?」  なにが起こったのかわからずにきょとんとしていたさおりの顔が、かぁっと赤くなった。  顔中から汗を噴きだして、酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくと動かしているが、言葉にはならない。  この反応を見ると、多分、きっと、ファーストキスだったんだろう。  あとがき  どこが『月羽根の少女』やねん――  作者自身がそう思っているくらいだから、きっと読者のみなさんも同じ思いでしょう。  とゆ〜わけで「砂吐き話」月羽根の少女の第二弾『炎のたからもの』をお届けします。  第二弾といいつつも、厳密には前作の続編ではありません。同じ設定の別な話としてお読みください。  最初の構想段階では、ちゃんとした続編だったんです。徹の出番も、さおりが翔ぶシーンもちゃんとあって。前作のラストシーンから約一月後、たまたまさおりと徹が喧嘩をしているときに美里と知り合って、さおり・徹・美里の三角関係とゆ〜ラストになるはずだったのに。必要最小限の部分だけを残してそれ以外をばっさり切り捨てたら、こんな話になっちゃいました。  それにしても、オール一人称というのは辛いですね。やっぱり私は三人称の方がいいや。  一人称に慣れてないんですよ。私の作品で一人称というと、短編の『道道一号線物語』と『チョコレート娘』くらいですから。  最初の下書きはいつも通りの三人称で書いていたのですが、この話に限ってはやっぱり一人称の方がいいだろうと、全部書き直しました。  さて、このシリーズの第三弾はどうしましょう?  アイディアはいくつか考えてありますが、書くとしてもずいぶん先になると思います。その時は多分、徹も美里も登場して、さおりの争奪戦を繰り広げるはず。母親が留守にするたびに貞操の危機を迎えるさおり。次回は大丈夫でしょうか?(笑)  それと、そろそろ「羽根」の秘密も明かさなきゃなりませんね。ま、機会があれば書く、ということで。  そうそう、まったく違う第三弾の構想もありました。一作目がウブな少年少女の純愛、二作目が百合だったので、三作目は近親モノはどうだろうか、と(爆)。その場合、ヒロインはさおり以外の羽根少女で、「姉×弟」ネタになるはずでした。  当然、このネタはボツになりましたよ。どう考えても十八禁ですから(笑)。  では最後に次回作の予告を…。  次回はお待ちかね、『光の王国』です! と言っても、実は短い番外編。エイシスが主人公で『金色の瞳』の少し後の話になります。たぶん九月中には公開できるはず。  長編の予定はしばらくありません。…本当はないわけじゃないんだけど、それは『ふれ・ちせ』公開用ではなくて、某新人賞応募用の作品なので。  それでは、また次回作でお会いしましょう。                 一九九九年九月 北原樹恒                 kitsune@mb.infoweb.ne.jp                     創作館ふれ・ちせ        http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/