炎のたからもの・番外編

ブルゴーニュの紅玉、モーゼルの黄金


 雪が降っている。
 別に珍しいことじゃあない。二月の札幌なんて、雪の降らない日の方が珍しいくらいだから。
 十二月から翌年の三月まで、札幌の街は雪に覆われる。山のふもとにある奏珠別の街は、特に雪が多い。
 その夜、私――東野美里は、一人で街を歩いていた。
 二月十四日の夜。ススキノあたりならば今夜はアベックで賑わっているのだろう。けれどここは郊外の住宅地、それも街はずれとなれば人通りもない。
 踏み固められた雪の上にうっすらと積もった新雪に、私の足跡だけが刻まれてゆく。
 高校三年の二月といえば、普通なら受験で忙しい時期だ。だけど白岩学園の大学に推薦入学を決めている私は、もうやることがない。
 進路さえ決まってしまえば、高三の冬なんてひどく退屈なものだ。同じ学年の友達は、まだ受験の終わっていない者が多いから、遊び相手にも不自由する。まあ、受験がなくても、バレンタインデーの夜に女友達と遊ぼうという女子高生は、少数派かもしれないけれど。
 やがて進路上に、小さな喫茶店が見えてきた。
 私のお気に入りの店。『みそさざい』という、小鳥の名を持った店。
 別に、ここが今夜の目的地というわけではない。たまたま通り道にあったというだけのこと。
 …いや。
 それは正しくないな。
 家から『目的地』までの最短コースなら、みそさざいの前は通らない。私は少しだけ遠回りをしていた。もちろん、意図的に。
 今夜は、ここに来たい気分だった。



 店に入ると、雇われマスターの晶さんが、カウンターの中で本を読んでいた。
 私に気付くと、本を置いて顔を上げる。静かに微笑んで。
 晶さんは、長い黒髪の美人で、大人っぽい雰囲気を持った人だ。自称二十二歳と言っているけれど、二〜三歳サバを読んでいるのはまず間違いない。
 いつも、静かな笑みを浮かべている。それはどことなく神秘的で、そして暖かみのある微笑みだ。
「いらっしゃい」
「相変わらず、暇そうだね」
 私は、店内を見回した。
 客は誰もいない。
 いつもはいるはずの、バイトの女子大生の姿もない。彼女の男遊びの激しさは有名だから、きっとバレンタインの夜は大忙しなのだろう。
 だとすると、晶さんには恋人はいないのだろうか。これほどの美人、いない方が不思議という気もするけれど。
 でも、そのおかげで今夜もみそさざいは営業していたわけだ。独り身の晶さんに乾杯、なんて言ったら怒られるかな。
 ここは、普段からあまりお客さんのいない店だ。
 特に、いて欲しくないときには決して他の客はいない店。
 ここは、そういう場所なのだ。
 だから、気に入っている。
 私は、カウンターの真ん中くらいの席に座った。
「どうして、こんなところにいるの?」
 晶さんが訊いてくる。
「せっかくのバレンタインなのに、デートじゃないの?」
「相手がいないっしょ」
 私は苦笑する。苦笑する以外に、リアクションのしようもない。
 しかし、晶さんの追求はそれで終わらなかった。
「さおりちゃんは?」
 いきなり、核心を突かれる。しょっちゅう、さおりと一緒に来ているのだから当然といえば当然だ。晶さんは私の性癖を知っていることだし。
「一応、これから家に行く約束はしてる」
 私は、仕方なく白状した。さおりが、手作りのチョコレートを用意して待っているはずだ。本命チョコではないけれど、義理チョコでもない。そんな、微妙な気持ちが込められたチョコレート。
 さおりの手作りチョコは、ふたつ存在するはずだった。
 私のためにひとつ。そしてもうひとつは、仲のいいクラスメイトの男の子のため。
 クラスメイトなら学校で渡すことができるから、ということで、夜は私との約束だ。さおりは料理が上手だから、本当は夕食もご馳走になりたかったんだけど。今日は夕方、どうしても外せない用事があって、少し遅くなってしまった。本当なら、急いでさおりの家へ行かなければならないところだった。
「だったら何故、ここで道草を?」
 晶さんの疑問はもっともだ。だけど私自身、どうしてなのかうまく言葉にできない。
 言葉というのは、心を表現するひとつの手段ではあるけれど、万能ではない。心のすべてを言葉に置き換えることは不可能なのだ。
「なんて言ったらいいのかな…」
 私は言葉を探していた。心の中では様々な想いが絡みあっていて、とても一言で言い表すことはできそうにない。どんな言葉を選んでも、それは完璧な答えではない。それでも、答えの一部分ではあるはずだった。
「…決心が、つかないんだ」
「さおりちゃんを押し倒す決心?」
「そうじゃなくて!」
 思わず叫んだ。
 まったく、晶さんてば。
 いきなりなんてことを言うんだろう。そんなことできるわけがない。私にとってのさおりは、そういう対象ではない。
 ではいったい何だ、と訊かれると困ってしまう。私とさおりは、ちょっと変わった関係といえるかもしれない。
 中学二年と高校三年、単なる友達というには少し歳が離れている。
 かといって恋人というわけでもない。確かに、私の前の恋人は女性だったけれど。別に、同性なら誰でもいいわけではないし、多分さおりには同性愛の趣味はないだろう。
 姉妹のようなもの…それが一番近いかもしれないが、だけどちょっと違う。
 つまり、なんだかよくわからないまま、しょっちゅう一緒にいるというわけだ。
「さおりと一緒にいるのは楽しいよ。だから…怖いんだ」
「…怖い?」
「あいつのこと、忘れてしまいそうで…」
「あぁ…そういうこと…」
 晶さんは小さくうなずいた。『あいつ』のことを知っているから。


 私には、ひとつ年下の恋人がいた。
 それが過去形になってから、まだ半年ちょっとしか経っていない。
 同性ということで、ちょっと普通とは違うカップルだったかもしれないが、それでも私たちはとてもうまくいっていた。
 お互い、相手をとても大切に思って。二人で一緒にいるときが、一番幸せだった。
 あいつが、事故で死ぬまでは。
 突然のことだった。
 なんの心の準備もできていないのに、突然あいつがいなくなってしまった。
 私の心には、ぽっかりと大きな穴が開いてしまった。決して塞がることはないとほどの、大きな穴。
 それはあまりにも大きすぎる喪失で、私も、それ以上生きていることはできそうになかった。
 だから…死のうとした。
 さおりと出会ったのは、ちょうどそんなときだった。
 私が今ここにいるのは、さおりがお節介だったから。
 結局死ぬことができずに、こうして生きている。
 そう、生きている。
 それが問題なのだ。
 もちろん忘れたわけではない。あいつのことを考えると、悲しくて、切なくて。
 だけど…
 いつの間にか、あの頃ほどの痛みを感じなくなっているみたいで。
 決して癒えることはないと思った大きな心の傷、それもいつかは塞がってしまうのだろうか。
 それはつまり、大切な人のことを忘れてしまうということなのだろうか。
 そんなのいやだ。
 忘れたくない、忘れたくない。
 だけどさおりの存在は、私の傷を癒してしまう。
「だから…さ、さおりと一緒にいるのは楽しいけど…怖いんだ。バレンタインの夜を一緒に過ごすって、やっぱり特別な意味があるじゃない? ホントにいいのかな、って…」
「なるほど…ね」
 晶さんはかすかにうなずくと「ちょっと待ってて」と言って店の奥へ消えた。数分後、戻ってきたときには、ワインのボトルを二本手にしていた。
「そんな気分の時には、とりあえず飲みましょ」
 そう言って笑っている。そういう問題じゃないとは思うんだけど。
 ここは喫茶店だけど、夜になるとお酒も出しているのだ。商売というよりも、晶さんと一部の常連客の趣味といった方がいい。
 大きなワイングラスがカウンターに置かれる。なめらかなふくらみを持った、ブルゴーニュタイプのグラス。
 薄いグラスを指で弾くと、まるで鈴のような音がする。それが、BGMのない店内によく響く。
「ブルゴーニュ・ルージュの九七年よ」
 深紅の液体がグラスに注がれる。
 それはまるで、液体の形をした紅玉だ。どこまでもどこまでも深く、純粋な紅。
 夜の店内は照明を抑え気味にしていて、黒い木のカウンターに紅い影が落ちる。
 私はグラスの底を持って、灯りに透かしてみた。
「ブルゴーニュってことは…ピノ・ノワール? やっぱりきれいだね…」
 商売柄か、晶さんはお酒のことに詳しい。もちろんワインにも。
 まだ未成年の私は、晶さんにお酒の飲み方を教わったようなものだ。
「きれいでしょ。それに、美味しいよ」
 グラスに唇を寄せる。豊かな葡萄の果実香が鼻をくすぐる。
 これは、赤ワインにしてはあまり渋みは強くない。若々しい、爽やかな酸味を感じる飲みやすいワインだ。
 それが、私の好みの味。晶さんはよくわかっている。
「うん、美味しい」
 私は微笑んだ。
 ワインに限らず、紅茶でも、コーヒーでも、美味しいものは幸せな気持ちにしてくれる。そして、晶さんがすすめてくれるものは、まず間違いなく美味しいのだ。
 一杯のグラスを、時間をかけて空にする。
 急ぐ必要はない。一口、また一口、味を確かめるように。
 グラスの中のワインが減るのに反比例して、私は幸せになってゆく。
「じゃあ、次はこれにしましょうか」
 グラスが空になったところで、晶さんはもう一本のボトルを開けた。
 最初のボトルはまだ三分の一も減っていないのに。
 同じような形のボトルから、また深紅の液体を注ぐ。
「これは…?」
「ま、飲んでごらん」
 そう言われて、私はグラスを口へ運んだ。
 一口含んで…私は驚いて目を見開いた。
「なにこれっ?」
 思わず、大きな声を出してしまった。
「最初のとぜんぜん違う…。うまく言えないけど、すごくまろやかっていうか、なめらかっていうか…喉を滑り落ちるみたい。なのに、すごく深い味…。高いワインなの?」
「そうでもないわ」
 晶さんは笑って言うと、ボトルを私の前に置いた。
「一本目と同じく、ブルゴーニュ・ルージュよ。ただし…」
 ラベルを見せられて、私にも違いがわかった。
「これは、八九年だけど」
「八九年…」
 晶さんがコルクを見せてくれた。一本目と違って、コルクの上の部分がカビで真っ黒になっている。そして側面には確かに、一九八九年を示す焼き印があった。
「先刻のが九七年だから、これは八年長く熟成されているってことだよね? こんなに味が変わるんだ…」
 びっくりした。私はこれまで、九十年代後半の若いワインしか飲んだことがない。ワインによっては二十年、三十年と熟成させる物があるってことくらいは知識として知っているけど、そんな高級ワインは私のような子供には関係ないし。だから、十年を越えるワインを飲んだのもこれが初めて。
「最初のは若いワイン。瑞々しさがあって、爽やかな酸味が舌を刺激する。これはこれで、確かに美味しいワインよ」
「うん」
 確かにそうだ。若いからといって質が劣るわけじゃない。高いワインを飲み慣れた人たちがどう言うかはわからないけれど、私はこの味を美味しいと思う。
「そして熟成されたワイン、これもまた美味しいでしょう。熟成によって角が取れて、まろやかで滑らかな舌触りになる。味の深みは増しているのに、舌を刺激しなくてかえって飲みやすいくらい」
 晶さんは自分のグラスにもワインを注ぐ。グラスを軽く回して、香りを確かめて。
 話の途中でこんなふうに間を取るのが、晶さんのクセだ。
「想い出も、それと同じじゃないのかな?」
 その言葉に、はっとした。真っ直ぐに晶さんの顔を見た。
「本当に大切な想い出なら、そう簡単に色褪せたりはしない。ただ、胸を突き刺すような鋭さが取れるだけ。むしろ味の深みは増すのよ」
「晶さん…」
「傷が癒えることと、大切な想い出を忘れることはイコールじゃない。良質なワインじゃなければ、長く熟成させることはできないの。傷を負ったワインは、長く保存はできない。傷を負った心も同じ。そのままでは長くは保たない…と思うけど?」
「……うん」
「怖がらずに、正面から向き合いなさい」


 晶さんがそう言うのと、店の入口が開くのは同時だった。
 反射的にそちらを見て、思わず声を上げた。
「どうしてここに?」
 さおりがいるのだろう。
 赤いコートを着て。走ってきたのか、少し息が荒い。
 肩に軽くかかるくらいの亜麻色の髪に、少し雪がついている。
「晶さんから電話もらったから…」
 呼吸を整えながら、さおりは応えた。
「美里さんが飲んだくれてるから、迎えに来てって」
「晶さん!」
 私は叫んだ。
 先刻、ワインを取りに店の奥へ行った時に電話したのだろう。
 怒った顔で睨んでも、晶さんは気にもとめない。お気楽に笑っている。
「私のどこが飲んだくれてんのよ?」
「このまま一人で飲み続けていれば、結果的にそうなるでしょ? そうなる前にお迎えを呼んだだけ」
「美里さん、いけないんですよ。高校生がお酒なんか飲んじゃ」
「まあ、いいじゃない。少しくらい」
 さおりは、健全な中学生としては至極まっとうな反応をする。そんなさおりの前に、晶さんは小さなグラスを置いた。この人、見た目は真面目そうなのに、実は結構い〜かげんな性格だったりする。
「さおりちゃんにも、特別なワインをご馳走してあげるから」
 いつの間に用意したのか、スラリとした、やや細いボトルを手にしていた。濃いグリーンのボトル。やっぱりワインなのだろう。
「あたし、お酒なんて…」
 躊躇するさおりだったが、グラスに注がれた液体を見て、一瞬目を輝かせた。
「すごい! なにこれ?」
 私も驚いた。なにしろそれは、鮮やかな金色に輝く白ワインだったのだ。甘い香りが広がる。
「ドイツ…モーゼル地方のアイスワイン。一九七○年代のものよ。アルコール度数は低いしすごく甘いから、さおりちゃんでも飲めるでしょ」
「アイスワイン?」
 初めて聞く名前だ。アイスコーヒーやアイスティみたいに、冷やしたワイン? でも白ワインって、もともと冷やして飲むものじゃないの?
「ブドウの収穫を、十二月まで遅らせるの。すると、ブドウの実は樹になったまま凍ってしまう。この時、水分だけが先に凍るから、残った部分はより濃縮された、甘い果汁になるわけ。飲んでみる?」
 もちろん、うなずいた。そんな変わったワインを飲む機会、逃すことはできない。
 ワイングラスのミニチュアみたいな、小振りなグラスにワインが注がれる。
 金色の、少しトロリとした液体。
 よく、熟成させたウィスキーやブランデーを琥珀色と表現するけれど、あれともまったく違う。本当に金色なのだ。照明を反射して、きらきらと輝いている。
 恐る恐る、口をつけてみた。
 …驚いた。今日一番の驚きだった。
「すごい…甘い」
 シロップや蜂蜜のような甘さだ。味はいくぶん蜂蜜に似ている。だけど甘味の陰に心地よい酸味があって、甘さの割にはすごく飲みやすい。
 初めて体験する味覚だった。
「美味しい…、これがお酒なんて信じられない」
 さおりも驚いている。その顔がにやけている。美味しいもので幸せになれるのは、私と一緒らしい。たちまちグラスを空にして、お代わりをもらっている。
「すごいね…」
 私はため息混じりに言った。すごい、他に言葉が見つからない。
「ドイツの冬の寒さが作りだした、奇跡ってところね」
 奇跡、か。確かにそうかもしれない。
 この上なく幸せそうなさおりの笑顔を実ながら、そう思った。
 きっと、私も同じような表情をしているに違いない。先刻までの憂鬱な気分はどこかへ消えてしまった。
 さおりと二人で、素晴らしく美味しいワインを飲んで。
 こんな奇跡は大歓迎だ。



「…だからって、飲み過ぎなんだよ」
 私はつぶやいた。
 赤い顔をして、気持ちよさそうに眠っているさおりを背負って。
 今日、ひとつわかったことがある。
 さおりはお酒に弱い。
 甘さに騙されて、何杯もお代わりするから。
 それでも、普通にお酒の飲める人ならなんてことのない量だ。極甘のドイツワインは、アルコール度数も低い。ビールよりも少し高い程度でしかない。
「ま、仕方ないでしょ。これまでお酒なんてほとんど飲んだことないんだろうし」
 店の前まで見送りに出てきた晶さんが笑っている。少しも悪びれた様子がない。こんなになるまで飲ませた、自分のせいとは思わないのかな。
「バレンタインデーだからね。特別に、美里ちゃんにプレゼントよ」
「プレゼント?」
「そう。無防備なさおりちゃんをプレゼント。でも、ホテルなんかに寄らずに、ちゃんと送って行きなさいよ」
「あ、あのね〜!」
 晶さんは静かに笑っている。一部のファンが「聖母のような」などと評する微笑み。
 だけど、聖母なんて言いすぎだと思う。どちらかといえば…妖精とでも言うべきだろう。褒め言葉じゃなくて。そう、人間をからかうのが大好きな、悪戯好きの妖精の笑顔。


 来るときに降っていた雪もいつの間にか止んで、空には月が輝いていた。
 街は一面の銀世界。それが月明かりに照らされて、夜中とは思えないくらい明るい。
 人通りはまったくない。
 積もったばかりの新雪に、私の足跡だけが刻まれてゆく。
 気温はかなり下がっているようだけど、別に寒いとは思わなかった。
 さおりの体温を感じているから。
 そして…
 もともと小柄なさおりだけど、背中に感じる重みは、見た目よりもずっと軽かった。



あとがき>>
目次に戻る

(C)Copyright 2000 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.