光の王国2 復讐の序曲 一章 宮本 由維 八月上旬の、ある日曜日。 札幌市豊平区にある北海道立総合体育センター――通称きたえーる――では、日本総合空手協会主催の、北海道大会が開催されていた。 試合場ではちょうど、中学女子の部の決勝が行われているところだ。 決勝に進出した選手の一人は、古流武術の流れを汲む黒川道場の、広井裕子。そしてもう一人は言うまでもなく、北原極闘流北海道支部の松宮奈子である。 裕子は、奈子の周りを軽快なフットワークで周りながら、徐々に間合いを詰めてくる。 対して奈子はじっと動かず、相手の動きを観察していた。 相手の動きを目で見てから反応したのでは遅い。目に頼らず、肉体ではなく気配の動きを感じ取らなければならない。 攻撃を仕掛けてくる瞬間には必ず、身体が動くよりも先に気の流れに変化が生じるものだ。 研ぎ澄まされた奈子の神経は、その変化をはっきりと感じとることができた。 (来る!) 考えるより先に、身体が反応する。 一歩踏み込んで、裕子が繰り出そうとした蹴りを片手で抑え込み、渾身の中段突きを打ち込む。 裕子はその突きを手で払ったため、上段のガードに隙が生じた。 瞬間、奈子は身体を翻し、上段の後ろ回し蹴りを放つ。 完璧なタイミングだった。 奈子の踵がこめかみを直撃する。祐子の頭部がぐらりと揺れ、一呼吸の間を置いてゆっくりと崩れ落ちるように倒れていった。 「一本っ! それまで!」 主審の手が上がる。 試合を見守っていた極闘流の門下生や指導員たちの間から、わっと歓声が上がった。 「奈子先輩、すごーい! かっこいー!」 試合後の礼を終えて戻った奈子を、後輩の女の子達が取り囲む。 「よし。いい試合だぞ、松宮。この調子なら全国大会も期待できるな」 と、満足そうに言うのは、道場の師範代の早川。その台詞は、取り巻きの女の子たちにもみくちゃにされている奈子の耳には届いていない。 しかし。 「大したもんだな、奈子。ちょっと見ない間に、よくここまで強くなったもんだ」 少し離れたところから聞こえたその声は、決して大きなものではなかった。それでも、きゃあきゃあと騒いでいた女の子たちが、一斉にしんと静まり返る。 「……北原先輩。見ててくれたんですか?」 声のした方を見た奈子は、驚いたように、そしてちょっと嬉しそうに言った。 壁に寄り掛かって立っていたのは、北原極闘流の創始者の孫娘で、女子空手界の女王と呼ばれている北原美樹だった。 周囲の女の子たちが、急に黙ってしまったのも無理はない。 なにしろ、プロレスラーに喧嘩を売って圧勝したとか、三十人相手のストリートファイトに無傷で勝利したとか、まだ高校三年生でありながら、伝説には事欠かない人物である。 奈子にとってさえ近寄り難い雰囲気を持っているのだから、他の後輩たちではなおさらだ。 「いつ、こちらへ?」 夏休み中は東京の本部道場へ行っていた筈だけど……、と思いながら尋ねた。 「つい先刻着いたところ」 奈子に近付きながら、美樹は答える。 そして耳元で、周囲には聞こえないように小声で付け加えた。 「試合の様子を見てきてくれって、頼まれたんだ、高品さんに」 「え……?」 予想外の台詞に、奈子の頬がぽっと朱く染まる。 「愛弟子の闘いぶりが気になるんだろ。美夢が高校の部に移ったんだから、優勝は決まってるって言ったんだけどね、私は」 この春大学を卒業して本部道場の指導員になった高品雄二は、奈子の憧れの先輩で、さらにいえば片想いの相手でもある。北海道にいた頃は、よく稽古をつけてもらっていた。 「おやおや、朱くなっちゃって。意外と可愛いところもあるんだ?」 「べ、別に……アタシはそんな……」 からかうような美樹の言葉を、必死に否定する。しかし言葉とは裏腹に身体は正直で、耳まで真っ赤になってしまう。 「でも真面目な話、ちょっとの間に、こうも変わるとは……」 美樹は何か考えるような表情になり、小声で言う。 「何があった?」 「は?」 「とぼけんなよ。以前の奈子とは、雰囲気が全然違うもの。いくら稽古を積んだところで身につくものじゃない。命のやりとりの中でだけ、会得できるものだよ」 美樹の表情は厳しいが、責めるような口調ではない。 「べ、別に……。ちょっと、まあ、いろいろ……」 奈子は曖昧に言葉を濁した。 「そういえば、一週間くらい失踪していたそうだけど……、その時?」 「……はい」 自分ではあまり自覚がないのだが、異世界での命を賭けた闘いは、奈子に大きな影響を与えているらしい。 「でも、本当に強くなったな。近いうちに、一度手合わせしてみたいね」 そう言い残して、美樹は試合場から去って行った。 * * * その日、奈子が家路についたのは、夜の九時過ぎだった。 大会の後、奈子の祝勝会という名目で、道場の女の子たちと喫茶店やカラオケボックス、ゲームセンターなどをはしごしていたためだ。 近所に住んでいる後輩、宮本由維と二人で、地下鉄駅からの道を歩いていく。 「由維……」 「はい?」 ゲームセンターで、奈子とツーショットのプリクラを撮りまくっていた由維は、ご機嫌な表情でこちらを見た。 「アタシ、そんなに変わったかなぁ?」 「え……? 奈子先輩はいつだって、カッコ良くて素敵ですよー」 ニコニコと笑いながら、由維は答える。 こいつに訊いたアタシが馬鹿だった、と小さく溜息をついた。 「でも、試合の時の奈子先輩はカッコいいんだけど……、前よりも迫力があって、なんか恐いみたい」 「恐い?」 「えっとぉ。試合や組手の時の雰囲気が、ちょっと、北原先輩に似てるような気がするんですぅ」 なるほど、と奈子は思う。 確かに、北原美樹の空手には、背筋が凍るような殺気がある。 あれでも、昔に比べたらずいぶん性格は丸くなったんだけど……と道場の先輩は言っていたが、奈子はその当時のことはよく知らない。 「でも、ちょっと恐い雰囲気がまた素敵というか……。私、奈子先輩のこと、ますます好きになっちゃいました」 頬を赤らめた由維の言葉に、奈子は頭を抱えた。 自分では理由がわからないのだが、由維に限らず同性の後輩には妙な人気がある。 「そういう台詞は、あんまり女同士で言うものじゃないと思うんだけど……」 「男同士ならいいんですか?」 「いや、あのね、そうじゃなくて……」 どう言えばいいんだろう? 言葉を探す奈子に対し、由維はきっぱりと言い切った。 「恋愛に、性別なんて関係ありません」 「思いっきり関係あると思うぞ、アタシは」 奈子自身には同性愛の趣味はない。恋愛観はいたってノーマルだ。少なくとも、本人はそのつもりでいる。ただ、周囲が放っておいてくれないだけだ。 しかし、ちょっと困った性格の由維ではあるが、決して悪気があるわけではないから、奈子としても余り邪険にはできない。幼稚園に入る前からの付き合いでもあるし。 「だって、友情って、基本的に同性の間で成立するものですよね。そして日本では、結婚は異性でなければならないでしょ。だったら、その中間にある『恋愛』は、性別不問でいいじゃないですか」 「……そーゆーものなの?」 「そーゆーものです」 その言葉には一片の迷いもない。 このままこの話題を続けていたら、強引に説得されてしまいそうだ――奈子がそんな不安を抱いた時、幸いなことに二人は由維の家の前に着いた。 「じゃ、おやすみ」 奈子よりも二十センチ近く背の低い由維の頭に、ぽんと手を乗せる。 「はい、おやすみなさい」 そう言いながら由維は軽く上を向き、目を閉じた。 二人の間にしばし、気まずい沈黙が流れる。 「……なんの真似?」 「おやすみのキス……待ってるんですけど?」 奈子は思わず、自分のこめかみに手を当てる。 そしてまた沈黙。 やがて目を開けた由維が、軽く首を傾げた。 「恥ずかしがらなくても、今なら誰も見てませんよ?」 小さく首を傾げて言うと、背伸びをして両腕を奈子の首に回してくる。 「いや、あの、恥ずかしいとかじゃなくて。それ以前の問題……」 そうこう言っている間にも、由維の顔が近付いてくる。 (うう……。これは、可愛いぞ……) 大きく、潤んだ瞳。 微かに開かれたピンク色の唇。 (どうしてこの娘、一年生のくせにこんなに色っぽいのっ!) 奈子自身はあくまでもノーマルだ。自分ではそう思っている。しかし、由維が時折見せる表情に、どきっとすることがあるのも事実だった。 奈子は、由維の身体を離そうとするが、華奢な外見の割に意外と力は強い。 そして、二人の唇が、触れようとした瞬間、 突然、白い光に包まれた。 あまりの眩しさに、由維もたまらず目を閉じる。 やがて光が消えて由維が目を開けた時、そこに奈子の姿はなかった。 「ずいぶん器用な逃げ方しますねぇ。奈子先輩……」 ぼんやりとした表情で周囲を見回すと、由維は小さな声で呟いた。 二章 再会 奈子が目を開けると。 すぐ目の前に、見覚えのある濃い色の金髪と、金色の瞳があった。 周囲の風景はいつの間にか夜の住宅地から、真昼の、深い森の中に変わっている。しかし奈子が置かれた状況は、先刻までとさほど変わらない。 相手の腕は奈子の首に回され、唇は今にも触れ合わんばかりの距離にある。 (一難去ってまた一難……てゆーの?) 思わず天を仰いで、自分の運命を呪う。 「……久しぶり、ファージ。再会は嬉しいけど……一体これは何のつもり?」 「また、言葉が通じなかった時のために」 金髪の少女は、にっこりと微笑んで答えた。 それは紛れもなくファージ――ファーリッジ・ルゥ・レイシャだ。 半月くらい前、次元転移の魔法の実験に失敗して、奈子を異世界に引きずり込んでしまった魔導師。 最初、言葉が通じなかった二人は、ファージの魔法――唇の接触によって、テレパシーのように思考を直接伝える――で会話をしていた。 しかし、奈子が精神的負担の大きいその魔法をひどく嫌がったため、ファージは別の魔法で、この世界の主要言語であるアィクル語の知識を、奈子の脳に擦り込んだのだ。 「残念でした。ちゃんと覚えているよ、こっちの言葉は」 奈子は流暢なアィクル語で答える。 しばらくそのまま見つめ合っていた二人は、やがて同時に吹き出した。 「ははは……。また会えるなんて思ってなかった。どうしたの、一体……?」 「ふふ……。ちょっと、ナコに会いたい事情ができてね。魔法で呼び寄せたんだ」 「じゃあ、魔法で自由に次元を越えることができるようになったの?」 前回は、ファージの魔法では奈子をうまく元の世界に帰すことができず、強力な魔力を持った魔物の力を利用して、なんとか帰ったのだ。 「ううん、まだ自由に行き来するってわけには。でも、これのお蔭でナコを呼ぶことはできるようになったの」 ファージは自分の耳につけた、紅い宝石のピアスに触れた。 同じものが奈子の耳にもついている。前回の別れの時、ファージから記念に貰ったものだ。 「この、ピアス……?」 奈子も自分のピアスに触れる。 「この『紅い石』には不思議な性質があって、一つの原石から削り出された石は、遠く離れていてもお互いに魔法的に引き付け合うの。それを利用して、転移魔法の指標に使われているんだ。石の導きに従えば、遠く離れた場所にも正確に転移することができるってわけ」 「じゃあ……ファージ、初めからそのつもりで、このピアスをアタシにくれたの?」 「えへへ……。あの時は確信はなかったけど、次元転移にも応用できるんじゃないかなって、思ってた。で、試してみたらこの通り」 少し照れたような表情でファージは言った。 「……で、転移魔法はまだ不完全なんだけど、この石の力を借りれば、ナコをこの世界に呼ぶことはできるわけ」 なるほど……とうなずきかけた奈子は、一つの問題に気が付いた。 「で、どうやって帰るの?」 「え?」 「二つの石は引き合う性質があるから、アタシはここに来ることができた。でも、この世界に来たアタシは、どうやって元の世界に帰るの?」 ファージはきょとんとした表情で奈子を見ている。 「ま、まさか……」 あまり聞きたくない気もする。が、それでもおそるおそる尋ねてみた。 「そこまで考えてなかった?」 「え……えへ……、転移魔法が完成するまで、またこっちで暮らすってのは……ダメ?」 「ファージ!」 奈子は思わずファージに掴みかかった。 「この前、無事に帰れたのだって偶然みたいなものなのに、どうしてくれるのっ!」 ファージの襟首を掴み、力一杯に揺さぶる。頭の横で結んだ金髪が、大きく前後に揺れた。 「じ、冗談だって。ちゃんと帰れるから、興奮しないで」 首を締められながら、それでもファージは笑って応える。 「え……?」 「ナコと別れた時、この石と同じものをこっそりあの場所に埋めておいたの。だから、ナコはいつでも二つの世界を行き来できるよ」 「お……脅かさないでよ。どうしようかと思った……」 奈子はほっと安堵の息をつく。それから、ふと思い付いた。 「じゃあ、ファージがアタシの世界に来ることもできるの?」 「それが、どうもうまくいかないんだ」 「どうして? アタシが行き来できるなら、こっちの世界からだって同じことができるんじゃない?」 「うーん……そうだなぁ。崖の上と下、って言えばわかりやすいかな」 ファージは奈子にも理解できる比喩で、次元転移が片道である理由を説明してくれた。 つまり、高い垂直な崖があって、奈子の世界はその上に、ファージの世界は下にあるようなものだ、と。 上にいる人間が下に降りることは比較的簡単だ。しっかりしたロープを結びつけておけば、それを辿って戻ることもできるだろう。しかし下の人間が、なんの手掛かりもない崖を登ることは容易ではない。 「ふーん。つまり、この紅い石がそのロープの役目なのね?」 「そーゆーこと」 「……で、どうしてアタシをここに呼んだの? なにか事情があるんでしょ?」 「ん。この近くに、王国時代の神殿の遺跡があって、それを調べるのに、手を貸して欲しいの」 ファージが言うには、その遺跡自体はかなり以前から知られていたものなのだが、最近になって、今まで知られていなかった地下室の存在を示す古文書が見つかったのだそうだ。王国時代の魔法技術の資料を探して旅をしているファージにとって、これは見過ごすことができない情報である。 「古い時代の遺跡って、物騒なところも多いからね、腕の立つ戦士がいた方がいいなぁって」 「それがなんでアタシなの? ファージの方がずっと強いじゃない」 ファージが剣を使えるかどうかは知らないが、魔術師としての力は相当なもののはずだ。 「やっぱり、背後を護ってくれる人がいないと不安だし」 「だからって、わざわざ他の世界から魔法も使えない平凡な女の子を連れてくる? 剣士くらい、こっちの世界で調達したらいいでしょ?」 「平凡な……どこが?」 奈子の反論を、ファージは笑って受け流した。 「それに……。もう一度ナコに会いたかった……じゃ、ダメ?」 「え……?」 「私、ナコのことが好きだし、ナコなら信頼できると思ってる。だから、力を貸して欲しいの。お、ね、が、い」 大きな金色の瞳が、縋るように、真っ直ぐに奈子を見つめている。 なんとなく、由維のことを思い出した。 (なんでアタシの周りって、こんなんばっか……) 奈子はこんな目に弱い。 我侭を言われても、つい許してしまう。 「だめ?」 ファージは潤んだ瞳で、やや上目遣いに奈子を見ている。 これは反則だった。 「……わかった。でも、一度家に戻っていいっしょ? こっちの世界の服とか貰った剣とか、持ってこなきゃならないし」 やっかいごとに巻き込まれた、という気がしないでもなかったが、少しわくわくしたのも事実だった。 また、冒険の始まりだ。 * * * 「これでよし、と」 荷物を取ってきた奈子は、こちらの世界の服に着替え、腰のベルトに短剣を差した。 剣は邪魔になるので、魔法のカードの中にしまったままにしておく。必要となれば、呪文一つでいつでも取り出すことができる。 女戦士の服に、剣。隣にいるのは、金色の瞳の魔術師。奈子は、自分がファンタジー小説の主人公にでもなったような気がした。 「あ、これ、渡しておく」 準備を終えた奈子に、ファージが二枚のカードを差し出す。 「何これ?」 「次元転移魔法の呪文を封じ込めたカード。これがあれば、万が一私とはぐれてもナコ一人で帰れるから」 そう言って、カードの使い方を説明してくれる。呪文を封じ込めた魔法のカードの使い方は難しくない。魔法の知識がない奈子でも、問題なく使うことができる。 「まあ、使わないに越したことはないけど……。それで、その遺跡っていうのは、ここから遠いの?」 「歩いて十分くらいかな」 「どうせなら、着いてから呼んでくれれば楽だったのに……」 奈子はぶつくさ文句を言いながら、ファージの後について歩く。 まるで、熱帯のジャングルにでもいるようだ。しかしこの森は、広大な砂漠の中の大きなオアシスに過ぎないらしい。 しばらく行くと、森の中に、石造りの大きな建造物が見えてきた。 「これがそう? ずいぶん大きいのね」 奈子は感心したように言う。 神殿という言葉で、奈子は古代ギリシャの遺跡のようなものを想像していたのだが、眼前に広がるそれは、歴史の教科書に載っていたアンコールワットの遺跡に似ているように思われた。周囲が森ということも、その印象を強めている。 「王国時代の建築技術は、ずっと進んでいたからね」 ファージには道がわかっているのか、大きな遺跡の中の入り組んだ道を、迷うことなく歩いていく。 そこは神殿と言っても単一の建物ではなく、複数の建造物からなる、ちょっとした街のような造りになっていた。 部分的に崩れているところがあるものの、全体としては保存状態は良く、とても千年以上前に建設され、長い冬の時代と幾多の戦乱を越えてきたものとは思えない。 何より驚いたのは、石造りと思われるこの遺跡の表面に、風化の痕がまったく見られないことだ。高度な魔法技術を誇ったトリニアの時代に建てられたものだから、おそらく、ただの石ではないのだろう。 「神殿って言うけど、ここは何を祭っているの?」 「トリニア王国で信仰していたのは、太陽神トゥチュや、大地の女神シリュフを中心とする、ファレイアと呼ばれる神々。ここもファレイアの神殿の一つよ」 質問に答えたファージは、さらに続ける。 「対して、ストレイン帝国の信仰は『虚無より生まれ出ずるもの』ランドゥの神々。ファレイアの教義では、ランドゥは世界に破滅をもたらす暗黒神だけど、逆にランドゥの教えでは、ファレイアの神々はランドゥの下僕に過ぎない。トリニアとストレインは、信仰の上でも対立していたのよ」 宗教問題が戦争を引き起こすのは、この世界も一緒らしい。奈子は少し悲しく思った。 「それにしても、こんな古い遺跡に一体何があるっていうの?」 「それを調べに行くんでしょ? 言い伝えによれば、最初の竜騎士エモン・レーナは、トゥチュとシリュフの間に生まれた娘、闘いと勝利の女神アール・ファーラーナの化身。彼女が、何人かの人間に『竜騎士の力』を授けたというわ。後の王国時代の竜騎士は全て、エモン・レーナ本人か、彼女から力を授けられた者たちの子孫。ファレイアの神々こそが、竜騎士の力の源なの。竜騎士の力の秘密に迫るには、王国時代のファレイアの神殿を調べないわけにはいかないもの」 「竜騎士の力、ねぇ……」 奈子は、辺りを見回しながら嘆息した。 「竜騎士竜騎士って大騒ぎするけど、それが一体どれほどのものだっていうの」 すべては大昔の伝説ではないか――と。その言葉に、ファージはむっとしたような表情を見せる。 「ナコは全然わかってない。たとえ一万の兵がいたって、最高の称号『青竜』を持つ竜騎士一人を倒すことは出来ないんだよ。竜騎士の力って、それほど圧倒的なものなの」 「……それで、竜騎士の秘密を解き明かし、その力を手に入れたとして、それで一体どうするの? 王国時代の魔法技術の大半が失われたこの時代にそんな力を持てば、文字通り世界最強ってことよね? 世界征服でもするの?」 皮肉めいた口調で訊く。 「私は……」 言いかけて、ファージは口を閉ざした。 少し考えて、逆に問いかけてくる。 「それじゃあナコは、何のために闘いの技術を学んでいるの?」 今度は、奈子が返答に窮する番だった。 何のために武道を学んでいるのか。以前から時々考えている命題であるが、いまだに明確な答えは出ていない。 「ナコ。人は、力を求めるものだよ。ストレインやトリニアのような強大な帝国も、そうして生まれたんだ」 「力を求め続けて……。最後に残ったのが、これ?」 奈子は、周囲の遺跡を見渡した。 王国時代の偉大な魔法技術によって、千年経ってもほぼその原型を留めている神殿。しかしそれを築いた人々は、今はもう何処にもいない。 「千年後に残ったのが死に絶えた廃虚だからといって、千年前の人々の行いが、無駄なことだったと思う?」 「それは……。そんなことはない……と思う……けど……」 奈子は、それきり黙ってしまった。 わからない。 これは、そう簡単に答えの出る問題ではないように思われた。 二人は無言のまま、遺跡の中心部にあるもっとも大きな建物に入って行った。 中は真っ暗だが、すぐにファージが魔法の明かりを作り出したので歩くのに不自由はない。 通路は石造りで、一抱えもありそうな石が隙間なく組み合わされている。 奈子が見る限り、石と石の間には、紙一枚ほどの隙間もなさそうだった。王国時代の建築技術の高さが伺える。 「ねえ、こういうところって、やっぱり、怪物とかが棲んでいるの?」 真っ暗な遺跡の通路には、不気味な雰囲気が漂っている。由唯に借りて最近はまっているロールプレイングゲームのダンジョンを思い出して、奈子は不安げに訊いた。 なにしろここは『剣と魔法の世界』で、魔術師や、恐ろしい魔物が実在するのだ。 「怪物や魔物? んー、その遺跡にもよるけど、ここは大丈夫」 「そっか、よかった……って、いるところには、いるわけね」 一応、胸をなで下ろす。 しかし。 「ここは、それほど手強い奴はいない筈だから」 という言葉に、足が止まった。 「……いるの?」 「いるよ。当然じゃない」 ファージは平然と言う。当たり前だ、と言わんばかりに。 「当然、って。そんなあっさり言われても……」 ちょっと困る。ここでの常識がどうであれ、こちらは、魔物も魔術師も、ゲームか物語の中にしか存在しない世界の出身なのだから。 しかしファージは、そんな奈子の都合などお構いなしだ。 「ここのように強い魔力の残る遺跡には、魔物たちが寄って来るんだよねー。なんていうかな……夜の灯りに集まる虫みたいなもの?」 「魔物、って……この間、ルキアの街で闘ったような?」 たった一頭で、街をひとつ壊滅させそうになった魔物を思い出した。腕に鳥肌が立つ。 「だから、そこまで手強い奴はいないって」 ファージは笑って応えながらも、最後にからかうように「多分」と付け加えた。 「……もしかして、アタシを怖がらせて楽しんでる?」 「いや、ホントのこと」 通路の奥を指差しながら、ファージが応える。そちらに視線を向けた奈子の身体が、一瞬硬直した。 何かが、動いている。 蠢く影が三つ、こちらへ近付いてくる。 大きな生き物だ。その姿は……。 「……なに、あれ? トカゲ?」 確かにそれは、トカゲに似ていた。但し大きさが尋常ではない。奈子が近所の山で見たことのある掌に乗るようなトカゲと比べれば、ミミズとニシキヘビほども違う。 「この辺に多い、魔物の一種。ま、トカゲの親戚には違いないね」 「魔物……って……」 外見はどう見ても大トカゲだ。奈子の世界でも東南アジアかアフリカにでも行けば、このくらいのサイズのトカゲはいるかもしれない。 しかし、それが口をぱっくりと開いた瞬間に納得した。口の中に並んだ牙がやたらと長い。しかも、姿形は爬虫類のくせに妙に素速い。 「あれは、ナコに任せたから」 ファージがぽんと、奈子の背中を叩く。 「いや……任せたって言われても……」 大トカゲと闘った経験なんてない。過去、牛や熊と闘った空手家はいたが、果たしてトカゲと闘った物好きはいただろうか。 (そういえば、コモドオオトカゲの牡同士って、レスリングみたいに組み合って闘うんだっけ。全長三メートルだもんなぁ。全盛時のカレリンだって勝てないぞ……) 幸い……というべきか、目の前の相手はコモドオオトカゲほど大きくはない。せいぜい一メートル半くらいか。 「ねぇ、ファージ……」 やっぱりファージがやっつけてよ……と言おうとして魔物から視線を逸らした瞬間、先頭の一匹が顔めがけて飛びかかってきた。今まで床の上を這っていたとは思えない跳躍力だ。 人間の頭を丸飲みできそうなほどに開いた口が、迫ってくる。 「いやぁぁぁっ!」 反射的に、右の拳をフック気味に叩き込んだ。続けて、真下から突き上げるようなボディアッパー。 魔物の身体がまだ宙にあるうちに、その後を追うように奈子は石の床を蹴った。 腹への空中二段蹴り。 バレー部員が羨む跳躍力を持つ奈子ならではの技だ。 そのまま、仰向けに落ちた魔物の頭に、全体重をかけて膝を落とす。ぐしゃりと、骨が潰れる感触が伝わってきた。 考えるまでもなく、勝手に身体が動いた。繰り返し繰り返し練習してきた動作を、身体は無意識のうちに再生する。 自分が何をしたのか気付いたのは、飛び散った青い体液を見た後だった。。 吐き気がこみ上げてくる。 「うぇぇ……なにこれ」 「さっすがー。でも、次が来るよ」 ファージは少し下がったところに座って、すっかり観客と化している。 その声ではっと気付いた奈子は、弾けるように立ち上がった。 背後から飛びかかってきた魔物に、振り返りざま裏拳を叩き込む。 やや遅れて前から来たもう一匹には、つま先が突き刺さるような前蹴り。 しかし床に落ちた二匹は、何事もなかったように起き上がってくる。やはり爬虫類、痛みには鈍感なのかもしれない。 突きや蹴りで倒すのは難しそうだ。敵わないと見て逃げてくれればいいのだが、先刻の一撃はどうやら連中を怒らせる効果しかなかったらしい。 (壁に追いつめて連打を叩き込むか……。先刻みたいなニードロップは、石の床の上で自爆したらヤだし。爬虫類って、締め技にも強そうだよなぁ) 人間相手ではない闘いには、やはり戸惑いがある。 初めてこの世界に迷い込んだばかりの時に闘った、豹に似た魔物を思い出した。同じ哺乳類の分、あの時の方が闘いやすかった。少なくとも、急所は人間と大差ない。 しかし爬虫類となるとずいぶん勝手が違う。 (尻尾を切ったって、その尻尾がまだ生きてるような連中だもんなぁ……。そういえばオオサンショウウオは、身体を半分に切っても生きてるからハンザキとも呼ばれるんだっけ) 妙な知識のある奈子だったが、オオサンショウウオは爬虫類ではなく両生類であることは失念していた。 (いや、そんなこと考えてる場合じゃないか) とにかく、やりにくいことこの上ない。 先刻のように向こうから飛びかかってくれば別だが、四つん這いになったトカゲに対してこちらから仕掛けられる攻撃といえば、ローキックぐらいしかない。奈子は目の前にいる魔物の頭を狙って蹴りを放った。 「――っ!」 しかし相手も、普通のトカゲよりずっと素速い。大きな口を開けて、蹴り足にがっぷりと噛みついた。 鋭い歯が肌に食い込む。 「こ、このぉっ!」 ぐずぐずしてはいられない。このまま動きを封じられていては、もう一匹に襲われてしまう。 奈子は噛みつかれた足を高く上げて魔物の身体を浮かすと、軸足で床を蹴って、跳び蹴りの要領で喉のあたりを蹴り上げた。それでも噛みついたまま床に落ちた魔物の首を、力一杯踏みつける。 骨の折れる感触が伝わってくる。それでも魔物は噛みついた牙を離さない。むしろ、断末魔の痙攣によるものか、より深く奈子の足に食い込んでくる。 「く……ぅ……」 「ナコ、剣!」 背後からファージの声がする。 そうだ。忘れていた。 前回、ファージからもらった魔剣。魔法のカードの中に封じたまま、今も持ち歩いている。 あれを呼び出すには……。 「オサパネクシ! エクシ アフィ ネ!」 奈子は叫んだ。 その手の中に、一振りの剣が現れる。青い炎に包まれた剣が。 ファージからもらった炎の魔剣、オサパネクシだ。 しつこく食らいついて離さない魔物の頭に、刃を突き立てる。声にならない叫びを上げて、魔物は足を離した。一度大きく全身を痙攣させ、そのまま動かなくなる。 「後ろ!」 反射的に、振り返りながら剣を横に薙ぎ払う。奈子に飛びかかろうとしていた魔物の最後の一匹が、真っ二つに両断された。 それでもなお動いている魔物の頭に剣を突き立て、とどめを刺す。 「お見事ー! 鮮やかだね。さっすがナコ!」 パチパチパチ……。 結局最後まで観客だったファージが、楽しそうに拍手している。いや、一応アドバイスしてくれたからセコンドか。 「……気楽だね、あんたは」 奈子は大きく溜息をつくと、剣をしまった。 「ファージがやれば、簡単に終わったんじゃない?」 そう訊く声が、不機嫌なものになる。魔物に噛まれた足首が、ズキズキと痛んだ。歩く時、微かに足を引きずってしまう。 「まあ、確かにそうかもしれないけど。ナコにはいいウォーミングアップになったでしょ?」 「なにがウォーミングアップよ! アタシは痛い思いをして……」 ファージは苦情を無視して、奈子の足下にしゃがんだ。怪我をした足首にそっと触れる。 「ちょ……ファージ……」 触れられた部分が暖かい。いや、熱いくらいだ。 じーんと痺れたような感覚が広がる。 「まだ、痛い?」 「……いや」 ファージの手が傷に触れた瞬間、痛みは霧散していた。懐炉でも当てているような、心地よい暖かさがある。 足首を撫でている優しい手の感触が、痛みと、怒りを忘れさせてくれる。 数分後には、傷は跡形もなく消えていた。それでもファージは、奈子の脚を撫でている。 「……これも、魔法?」 「うん。怪我の治療は基本中の基本。奈子も憶えておけば? 役に立つよ」 「てゆーか。役に立つような目には遭いたくないけど……ファージ、なにやってんの?」 ファージの手が、気付かないくらい少しずつ上ってきていた。膝上十五センチのところではっと気付いた奈子が、慌てて跳び退く。 「えへへ……見つかっちゃった」 ファージがぺろっと舌を出した。 まったく油断がならない。奈子はただでさえ同性に好かれるし、ファージはどうやら同性が好きらしい。前回の別れの時、唇を奪われたことは忘れていない。 「……ったく。ファージってば」 「それにしても、一度使っただけのその剣を、よくそれだけ使いこなせるね?」 奈子の怒りを逸らすためか、ファージは話題を変える。奈子は一瞬返答に詰まった。 「……実は、その……、こんなかっこいい剣、しまっておくのは勿体ないなって、向こうにいた時、ちょっと……練習を」 「そうだと思った。なんだかんだ言って、やっぱりナコ、こーゆーの好きなんじゃない」 機嫌のいい時の猫のように目を細めて、ファージが笑う。 「う……、まあ、嫌いじゃ……ない、かな。でもこの剣、向こうで試した時は、炎も微かにしか出なかったよ?」 「当然。こっちにいる時のナコの魔力は、桁違いに強くなってるんだから。前に言ったでしょ、魔力の源は、多相次元における位置エネルギーだって」 以前、魔法の理論は一通り教わってはいる。しかし正直な話、その半分も理解してはいなかった。 「今、ナコの身体はこの世界にあっても、魔力は、ナコ本来の世界に隣接する次元から導き出されているんだよ。だから、魔力の強さだけなら、ナコは平均的な人間よりもずっと上。ただ、魔法の使い方を知らないからね……。さ、ウォーミングアップも済んだところで、お宝目指して行くとしましょーか」 二人はまた、遺跡の奥へと進んでいった。 * * * しんと静まりかえった建物の中に入って、どのくらい歩いただろうか。 通路が複雑に入り組んでいるためにはっきりしないが、多分地下三、四階分くらいは降りたはずだ。 「ねぇ、この通路はまだ続いてるの?」 いい加減歩くのに飽きてきた奈子が尋ねる。先刻の大トカゲを倒した後は退屈になるくらい平和だ。別に、どんどん魔物が出てくればいいと思っているわけではないが、拍子抜けしたのも事実だ。 「うん、まだまだ。この辺までは前に私も来たことあるし……あれ?」 ファージが、前方に何か見つけたらしい。 「なに? また、魔物?」 「違う……人間だよ。……エイクサム?」 やや驚いた様子でファージが呼びかける。見ると、一人の人間が立っていた。 二人の声に気付いて、こちらを振り向く。 「おや、ファーリッジ・ルゥじゃありませんか。珍しいところで会いますね?」 人懐っこい笑みでそう言ったのは、長い金髪の男性だった。歳は二十代後半くらいだろうか。 優しそうで美しい、そして知性的な顔立ちをしている。なかなかハンサムだ。 「ね、ファージ、知り合い?」 奈子が小声で訊く。 こんなところで知り合いに会うなんて、ファージも顔が広い。しかし考えてみれば、同じように古い遺跡を調べている知り合いであれば、こんな場所で会うのも不思議ではない。 「エイクサム・ハル・カイアン。私の同業者よ」 「同業者ってことは……魔術師?」 ファージがうなずく。 「ついでにいうと、王国時代の遺跡を発掘している学者」 なるほど。確かに、ゆったりとしたローブを身にまとい、物静かな雰囲気のエイクサムは、ファージなどよりずっと魔導師とか、賢者といったイメージにぴったりだ。 「相変わらず耳が早いですね、ファーリッジ・ルゥ。まさかあなたが、ここのことを知っていたとは。がっかりですよ、今回こそは出し抜けたと思ったんですけどねぇ」 口では悔しそうに言うが、エイクサムの表情は穏やかだ。 「エイクサムこそ。私が一番乗りだと思ってたのに……」 「あなたはあまり、マイカラスへは来ないでしょう。この辺りのことは、私の方が詳しいですから。ところで、そちらの方は? 私は初対面ですよね?」 台詞の最後の部分は、奈子を見て言ったものだ。 「私の友達のナコよ。ナコ・マツミヤ」 「初めまして、ナコ。エイクサム・ハルです」 「は、初めまして、奈子……です」 「この辺りの方ではありませんね? 雰囲気からすると、南のサイル地方の出身かな?」 「いえ……あの……」 奈子が言い淀む。こんな時は、どう説明したらいいのだろう? 困っている奈子に変わって、ファージが助け船を出してくれた。 「レディのことを、あれこれと詮索するのは失礼だよ、エイクサム」 「……それもそうですね」 それでエイクサムはあっさりと引き下がる。 「でもあなた、いい目をしている。凛々しくて……、まるで、王国時代のユウナ・ヴィや、レイナ・ディみたいですよ」 ユウナ・ヴィ・ラーナ。 レイナ・ディ・デューン。 奈子も、その名は知っていた。前回来た時に、本で読んだことがある。 どちらも王国時代末期の、有名な竜騎士の名だ。 女性の竜騎士というのは、この大陸の長い歴史の中でもそう多くはないが、いずれも後世に名の残る一流の騎士だったという。彼女らに似ているというのは、この世界では女性に対する最大の賛辞であるらしい。 「珍しいですね。あなたが、こういうところにソレア・サハ以外の人間を連れて来るなんて」 「うん!」 エイクサムの疑問に、ファージは嬉しそうにうなずいた。 「ナコは、見た目がレイナ・ディに似ているだけじゃない。ホントに強いんだから」 「それはすごい。まさにレイナ・ディ・デューンの再来だ」 「でしょでしょ。ナコって、すごい格好いいんだよ。もう、ひとめ惚れって感じ!」 「はは……」 ファージのはしゃぎっぷりに、エイクサムは苦笑する。 「本当に、珍しいですね」 エイクサムが何気ない様子で、一歩横にずれた。 その瞬間。 神殿の通路に、一条の青白い光線が走った。 「本当に珍しい」 もう一度、同じ言葉を繰り返す。 「ファーリッジ・ルゥ。あなたが、こんなに無防備になるなんて」 表情も、口調も変えずに言った。 「でも、連れがいてよかったですよ。あなたをきちんと埋葬してくれる人間が、いるということですからね。こんなところで野垂れ死にして、魔物の餌になりたくはないでしょう?」 「……え?」 奈子には、何が起こったのか理解できなかった。 ファージが、目の前に倒れている。 そして―― 石畳の通路に、紅い血の染みがすごい速さで広がっていった。 三章 敗北 「え……?」 奈子は何が起こったのか理解できずに、呆然と立ち尽くしていた。 傍には、エイクサムが静かな笑みを浮かべて立っており、足元には、血溜まりの中に倒れているファージがいる。 「ファー……ジ?」 うつ伏せに倒れているファージを見つめ、それからエイクサムを見、そしてまたファージに視線を戻す。 ファージはぴくりとも動かない。 「……ファージ……?」 やっと奈子にも、事態が飲み込めてきた。 「ファージ! ちょっと! しっかりして、ファージ!」 慌ててファージの側に屈み、ファージの身体を抱き起こす。その身体は、胸から腹にかけて血で真っ赤に染まっていた。 「ねえ! ファージ! ねえ! 目を開けて!」 何の反応も示さないファージの身体を、奈子は激しく揺さぶる。 「無駄ですよ。あれは本来、竜を倒すための魔法ですから。いかにファーリッジ・ルゥといえども、無防備ではひとたまりもありません」 エイクサムが、静かに言う。 奈子の叫びがぴたりと止んだ。 「……どういう……こと?」 ファージを見つめたまま、呟く。 「どうもこうも、言葉通りの意味です」 「誰が……、やったの?」 「ここには、私とあなたしかいません」 エイクサムの声音は、ファージが倒れる前となんの変化もない。しかし、場の雰囲気は大きく変わっていた。 「あなた……が?」 「正確に言うと、奥に私の友人がいるのですが。私が目の前で呪文を唱えたのでは、不意打ちにならないでしょう?」 「――っ!」 それを聞いてもまだ信じられなかった。否、信じたくなかった。 先刻までのファージとエイクサムは、どう見ても友人同士であったのに。 顔を上げて、エイクサムを見た。 相変わらず、優しげで静かな笑みを浮かべている。 しかしその真剣な目は、これが、嘘でも冗談でもないと語っていた。 「……何……故?」 「この遺跡の秘密を、ファーリッジ・ルゥに知られると困るんです。彼女は、墓守……こういう問題に関しては、私たちの敵ですから」 「どういうこと? 一体……?」 エイクサムが何を言っているのか、奈子には理解できない。ただ心の奥底から、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。 「あなたは知らなくていいことです、ナコ。このまま大人しく引き返して、友達を埋葬してあげるべきでしょう。そうでないと、あなたまで殺さなければならなくなる。無益な殺生は好みません」 「どういうつもり! あなた一体何を……」 奈子の言葉が終わる前に、エイクサムの身体は背後の闇に溶けるようにすぅっと消えていった。空間転移の魔法だ。 「あ……?」 口を開いたまま、暫しエイクサムがいた空間を見つめていた奈子だったが、やがて思い出したようにファージに向き直る。 「ファージ……」 血の気のない顔。 真っ赤に染まった服。 少しずつ体温が失われていく身体。 「うそ……でしょう……? ファー……ジ……」 嘘だ。 嘘だ。 こんなこと、嘘に決まっている。 奈子の目に、涙が溢れてきた。 「うそ……だよ、そんな……。つい先刻まで、笑ってたじゃない……」 涙声で呟く。 十五歳の少女の多くがそうであるように、奈子はこれまで身近で人の死を体験したことがなかった。まだ平均寿命の五分の一も生きていない者にとって、死というのはそれほど現実味を持った言葉ではない。 しかし。 今、奈子の腕の中にあるもの。 それは紛れもない、現実の『死』だった。 「どうして……、ファージ……」 溢れ出る涙のために、視界がぼやける。 そのため、最初に『それ』に気付いた時は、目の錯覚かと思った。 だが、見間違いではない。 「え……?」 ファージの身体が、だんだんと透き通るように消えていく。 「ファージ?」 ファージを抱いていた腕が、ふっと軽くなる。 カツン……。 乾いた音を立てて、ファージのピアスが床に落ちた。 ピアス、服、ブレスレット。 身に着けていたものはそのままに、ファージの身体だけが消えてしまった。 「ファージ……何処? ファージ? ファージ!」 奈子は、すっかり混乱していた。 目の前で、次々と理解を超えたことが起こる。 狼狽えながら、特に考えもなしに目の前に墜ちていたブレスレットを手に取った。 その時。 『ナコ……』 「ファージ?」 ファージの声が聞こえたような気がした。 『ナコ。ナコがこのメッセージを聞いているということは、つまり、私の身に何かが起こったということでしょう……』 声は直接、頭の中に伝わってくる。 『私の我侭でこっちに来てもらったのに、その上、トラブルに巻き込んでしまってごめんなさい。もしもこっちの世界で何か困ったことがあれば、タルコプの街で占い師をしているソレア・サハ・オルディカという女性を訪ねてください。私の古い友人で、力になってくれるはずだから……』 「あ……」 やっと気が付いた。 これはファージが万が一のために、奈子に宛てて残したメッセージなのだ。 『……でも、ナコにとって一番いいのは、そのまますぐに元の世界に帰ること……。そして私のことも、この世界のことも、忘れてしまってください。それが多分、ナコにとって一番安全です。本当にごめんなさい……。さようなら、ナコ。』 メッセージはそれで終わっていた。そして短い沈黙の後、また、最初から同じメッセージを繰り返す。 奈子はしばらくの間、呆然とブレスレットを見つめていた。 「……このまま元の世界に帰って、全て忘れろって……?」 ふと思い出して、ポケットの中を探った。数枚のカードを取り出す。 先刻受け取った、転移魔法のカードだ。これがあれば、奈子一人でも元の世界に帰ることができる。 「……それが一番いいことだって? ううん、違う。違う。そうじゃない……」 奈子は、ゆっくりと立ち上がった。 多分、ファージのメッセージの通り、このまま自分の世界に戻るのが正解なのだろう。 だが……。 厳しい表情で、通路の奥を見つめる。 「事情は、よくわからない。けど、さ……」 一つだけ、わかっていることがある。 奈子には、まだ、やらなければならないことがあった。 * * * 神殿の地下通路は、ずっと奥まで続いていた。 時々、下へ降りる階段がある。 どのくらい歩いただろうか。奈子はいつの間にか、通路の造りが変わっていることに気が付いた。 先刻までは、白っぽい石で造られた広い通路だったのに、今は濃い灰色の石で、二人が並んで歩くのが精一杯くらいの幅になっている。 造られた年代が違うのだろうか。石の組み合わせ方も異なっているようだ。 そんなことを考えていると通路は突然途切れ、広い部屋に出た。 ちょっとした体育館くらいの広さがあって、隅の方には明かりも届かない。天井も高く、ここが地下だとはにわかには信じ難い。 壁や床には、何か、文字のような模様が彫られている。 そして広間の中央には、三つの人影があった。 奈子は隠れることもせず、そちらへ歩いていった。 一人は遠目にもエイクサムだとわかる。 もう一人はもっと身体が大きく、剣を帯びている。 最後の一人はエイクサムと同じようなローブをまとっているが、エイクサムよりは年輩だ。多分、四十歳くらいだろう。 奈子の姿を見て、最初に口を開いたのはエイクサムだった。 「やれやれ、やっぱりここまで来てしまいましたか。大人しく帰るように言ったでしょう?」 奈子はその言葉に応えず、エイクサムの目の前まで来て足を止めた。他の二人が動きかけたが、エイクサムが手で制止する。 「ハイディス、リューイ、手出しは無用です」 どうやら、剣士がハイディス、年輩の魔導師がリューイという名らしい。 「今からでも遅くはない。このまま立ち去ってください。無益な殺生は嫌いです」 エイクサムの言葉には、脅すような雰囲気はない。あくまでも優しい声だ。 「……お芝居かと思ってたけど、それが、あんたの地なんだ。悪い人には見えないのにね?」 引きつった笑みを浮かべて奈子が言う。 「まあ、善悪の判断なんて、人によって変わるものですし……」 「でも、アタシから友達を奪ったことには変わりない。無益な殺生は嫌い? じゃあどうしてファージを殺したの?」 奈子の声が低くなる。 「あなたには、済まないことをしたと思います。しかし……」 その言葉が終わる前に、奈子が動いた。 それは完全に、人の反射神経を凌駕した動きだった。 エイクサムの身体に、拳を叩き込む。 足首と手首の捻りを利用して、通常の突きよりもはるかに近い間合いから繰り出す縦拳。北原極闘流特有の『衝』と呼ばれる強力無比な突きだ。 タイミングが難しいため、奈子もこれまで試割り以外では成功したことがない。 しかし今回は。 奈子の拳に、肋骨が砕ける感触がはっきりと伝わってきた。 エイクサムが声にならない叫びを上げる。 とどめとばかりに顔面に肘を叩き込もうとした奈子は、背後に殺気を感じて反射的に横へ跳んだ。 一瞬前まで奈子がいた空間を、鋭い音を立てて剣先が通り過ぎる。 間一髪で剣をかわして振り向くと、剣士風の男ハイディスがいた。奈子に体勢を整える隙を与えず、間合いを詰めて剣を振りかぶってくる。 上体を傾けて相手の剣をぎりぎりでかわし、拳の間合いに入ろうとした奈子だったが。 「つっ!」 左肩に鋭い痛みが走った。 完全に見切ったつもりだったが、ハイディスの剣は奈子の予想以上に疾かったらしい。剣先は肩を掠め、血が滲んでくる。 一度体勢を立て直そうと、肩を押さえて後ろに跳び退いた。同時に、奈子を取り囲むように長さ三十センチほどの鋭い魔法の矢が数十本出現する。 相手はもう一人いることを失念していた。これはかわしようがない。 もう一歩後ろに跳びながら、奈子は両腕で頭部をガードした。意識を集中する。 魔法を使えない者でも、気の集中で相手の魔法をある程度防ぐことができる。ファージからそう教わっていた。たとえ完全に無効化出来なくとも、直撃を受けるよりはましだ。 「あぁっ!」 光の矢の数本が、同時に奈子に突き刺さった。 激痛が全身を貫く。 脚にも何本か刺さったらしく、膝に力が入らなくなって奈子はその場に倒れた。倒れた奈子の上に、青く光る光球が現れる。 「待った……、殺す必要はありません」 一瞬、死すら覚悟した奈子だったが、エイクサムの言葉に、魔術師リューイは放ちかけた魔法を解除した。光が消えていく。 「何故だ、エイクサム。お前はいつも甘すぎる」 殴られた胸を押さえながら立ち上がったエイクサムに向かって、リューイは言った。 「そうだ。この娘、只者ではないぞ。今だって、並の娘なら死んでいる筈だ。生かしておけば、後々うるさいことになるかもしれん」 とハイディス。 「ならばその時に……殺せば済むことです。今、殺す理由には……なりません」 傷が痛むのか、苦しそうに息をしながら、エイクサムが応える。 「第一、将来のことなら……心配はいらないでしょう? ……ファーリッジ・ルゥはいない。私たちは、力を手にするのですから」 「まあ、確かにその通りだが」 リューイがうなずくと、エイクサムは奈子に向き直った。 「ということです、ナコ。……今回は、見逃してあげます」 まだうずくまって、呻き声を上げている奈子に向かって言う。 「……誰が……あんたの、情けなんか……」 その声からは、まだ闘志は失われていない。しかし今は、身体も満足に動かせない状態だ。 「では……ここで死にますか? それを望むなら私は別に構いませんが……。あなたがこんなところで死んで、ファーリッジ・ルゥが悲しみはしませんか?」 「う……」 奈子は言葉に詰まった。 確かに、ファージはいつも奈子の安全を一番に気にかけてくれていた。 『今すぐ、自分の世界に帰り、全てを忘れなさい』 今回だって、わざわざメッセージを残してくれたのに。 奈子はそれを無視し、そして無様に負けたのだ。 恥ずかしかった。 自分が情けなかった。 いっそ、このまま死んでしまいたい。 しかしそれでは、ファージの思いを踏みにじることになる。 唇をぎゅっと噛みしめた。 血が滲むくらい強く。 そして、絞り出すような声で呪文を唱えた。 「……オフンパロ……サイ……レ……」 ポケットの中で、一枚のカードが閃光を発して消滅し、奈子の周囲に光の魔法陣を描き出す。 驚く男たちの眼前で、奈子の身体は白い光に包まれ、そして消えていった。 四章 たたかう、理由 雨が、降っていた。 冷たい雨。 八月の夜としては、気温はかなり低い。 奏珠別の街を見下ろす展望台。夜になると人気のなくなるこの場所に、奈子は倒れていた。 闘いで受けた傷のために、思うように身体が動かない。 出血と冷たい雨が、奈子の体力を奪っていく。 以前ファージから、怪我を治療する呪文のカードを貰っていたはず……と、何とか片手を動かしてポケットの中を探った。 やっと見つけたカードの魔法を解放すると、傷の痛みが急速に消えていく。しかしカードに封じられた魔法は傷を塞ぐためのもので、怪我によって失われた体力がすぐに回復するわけではない。何とか立って歩けるようになるまでには、それから三十分くらい休む必要があった。 いくらかふらつきながらも、奈子は立ち上がる。 目の前に、一本の樹があった。 幹に荒縄が巻きつけてあるその樹は、奈子が普段、空手のトレーニングで使っているものだ。 奈子は無言で、その樹を思い切り殴りつけた。それも、樹皮の部分を直接。 何度も、何度も。 拳から血が滲んできても、殴り続けた。 「……ちょっと強いと思っていい気になって。……肝心な時に友達を護れず、その仇も討てず……。何のための空手、何のための武道よっ! 何のための……」 その声はだんだん涙声になる。 「何のための……」 泣きながら、素手で樹を殴り続ける。 そのため、後ろから近付いてきた人の気配に気付かなかった。 「奈子先輩……」 突然の声に、驚いて後ろを振り返る。そこには、傘をさした由維が立っていた。 「やっぱり、向こうに行ってたんですね? また、ここに戻って来るんじゃないかって気がして……」 以前、由維にだけは話していた。異世界に迷い込んだ時のことを。 「また、あちこち怪我して……ひどい血。……奈子先輩……、泣いているの? いったい……?」 奈子の目から溢れる涙に気付いた由維が、心配そうに尋ねる。 「由維ぃ……」 「……いったい、何があったんですか……?」 奈子は、その問いに答えられず。 ただ由維にしがみついて、大声で泣くことしかできなかった。 * * * それから数日間、奈子は家で寝込んでいた。 怪我のダメージに加えて、雨に降られて風邪をこじらせてしまったらしい。 ひどい高熱が何日も続いた。 両親は今東京にいるので、由維が毎日看病に来てくれた。 「先輩、お粥が出来ましたよ」 湯気を立てている土鍋を持って、由維が部屋に入ってくる。 奈子はベッドに横になったまま、返事をしない。 「奈子先輩、ごはんです」 「……食べたく……ない」 やっと聞き取れるような小さな声で応える。 「だめです。ちゃんと食べないと、良くなりませんよ」 由維は、外見に似合わず強い口調で言った。 「それに、昨夜もほとんど眠っていないんでしょう? それじゃ……」 「……だって眠ると、夢を見るんだもの。同じ夢を、何度も、何度も……」 ファージが死ぬ夢。 血塗れの、冷たくなったファージ、 あたりに立ち込める血の匂い。 その光景だけを繰り返す夢。 だから、眠るのが怖い。 「奈子先輩、そんなことじゃ……」 奈子はあれ以来、ただ横になっているだけで、ろくに睡眠も食事もとっていない。これでは身体を治すどころか、衰弱していく一方だ。 「アタシなんか、どうなってもいい……。由維も、アタシなんか放っといていいよ……」 「奈子先輩っ!」 自虐的な奈子の言葉に、由維は怒ったように大声を上げた。 「そんなの……。そんな言い方、先輩らしくない! そんなの、私の好きな奈子先輩じゃないっ!」 「……アタシには、人に好かれる資格なんてない……」 「奈子先輩!」 ファージの死のショックは、余りにも大きすぎたらしい。 身体よりも、心の傷の方が遥かに深い。 目の前で友達が殺されたのだから無理もないのだが。 奈子は、このまま立ち直れないのではないか――ふと、由維はそんなことを思った。 小さく溜息をつく。 長い付き合いの由維はよくわかっている。奈子はとても繊細な心の持ち主なのだ。 このままでいたら、本当に奈子の心は壊れてしまう。 由維は、説得の方法を変えることにした。どうやら、少しばかり荒療治をするしかないらしい。 こんな落ち込んでいる奈子を、いつまでも見ているのは辛かった。由維が好きなのは、強くて元気な奈子なのだ。 「きちんと食べて体力つけないと、ファージさんの仇が討てませんよ?」 「仇……?」 奈子は驚きの表情を浮かべた。まったく予想外のことを言われたように。 「仇って、あんた……」 「極闘流の門下生が、負けっぱなしで引き下がっていいんですか? いつか、北原先輩が言っていたじゃないですか、闘いってのは最後に立っていた者が勝ちだって。今日負けても、命があれば明日勝つこともできるって」 「……だって、勝てないよ。あんな奴……。アタシはあの時、死んだも同然……」 奈子の声には相変わらず元気がない。 「そうですか、わかりました」 対して、由維の声は力強い。声高に宣言する。 「奈子先輩が負けたのなら、私が、先輩の仇を討ちます!」 「あんた……が、仇って……。由維、何考えてんの?」 しかし由維はそれには答えず、奈子の机の方を向いた。机の上には、魔法のカードやファージのブレスレットなどがそのまま放り出してある。 「これですよね、呪文を封じ込めたカードって」 そう言うと、数枚のカードの中から一枚を引き抜いた。 「……由維、あんた、まさか……。何考えてんの、止めなさい!」 元々顔色の悪かった奈子の顔が、さらに青ざめる。しかし由維は、そんな奈子を無視した。 「えっと、転移魔法の呪文って何でしたっけ……?] 「由維!」 「……確か、オフンパロ……」 「由維っ! 止めてっ!」 金切り声を上げ、奈子がベッドから飛び起きる。 何日も寝たきりだったために一瞬足元がふらついたが、それでも由維の両肩をしっかりと捕まえた。 「由維……バカなことやめて」 泣きそうな声で懇願する。 「……ちゃんとご飯も食べるし、元気出すから。だからお願い、バカなことしないで……」 由維はにこっと笑うと、持っていたカードを奈子に渡した。安堵の息をついてカードを受け取る。 そして何気なく、そのカードに目を落として。 奈子の表情が強張った。 「由維……あんた……」 「えへへ……」 由維が悪戯な笑みを浮かべている。 「あんたはっ!」 奈子は拳を振り上げた。由維がぎゅっと目を閉じる。振り下ろされた拳は、コツンと軽く由維の頭を叩いた。 「この……バカ」 奈子が最初に異世界から帰ってきた時、由維には向こうの世界での出来事を詳しく話していた。 魔法のカードも実物を見せて、その使い方を説明している。 だから由維は間違えたわけではない。わざと、そうしたのだ。 由維が持っていたのは転移魔法のカードではなく、奈子の着替えをしまってある、物品収納用のカードだった。 (ファージの、仇……か) 由維が作ってくれたお粥を食べながら、奈子は考えた。 口で言うほど簡単なことではない。 由維も、本気で薦めているわけではないだろう。それとも、気付いていないのだろうか。 エイクサムに勝てるかどうか、という以前の問題がある 転移魔法のカードは、あと一枚しか残っていないのだ。 (家族も友達もみんな捨てて、向こうの世界へ……? そんなバカなこと……) そんなことをしても何にもならない。ファージは、もう死んでしまった。 理屈ではそう思う。 だけど―― どこか、納得していない自分がいる。 (このままじゃ、いつまでも悪夢に悩まされ続けるんだろうな……) お粥を口に運びながら、奈子はぼんやりと思った。 * * * 数日後、奈子は久しぶりに極闘流の道場を訪れた。 平日の午前中ということで、道場には誰もいない。 ただ一人を除いて。 「しばらく休んでみたいたけど、身体の方はもういいのか?」 そう訊くのは道場の先輩、北原美樹だった。 「はい、なんとか……」 道着に着替え、帯を締めながら、奈子が応える。 「じゃあ、遠慮はいらないな?」 「はい」 うなずきながら力強く応え、構えを取る。 「どっからでもかかってきな。一発でも当てられたら、帰りに『みそさざい』でスペシャルパフェをおごってやるよ」 腰に手を当て、余裕の表情で美樹が言う。『みそさざい』とは、道場の近くにある喫茶店だ。 「その言葉、忘れないでくださいよ」 言いながら、奈子はじりじりと間合いを詰めていった。 試合場で向かい合うと、美樹はすごく大きく見える。実際には奈子の方が数センチ背は高いのだが、全身から発している気が、美樹の身体をより大きく見せているのだろう。 奈子が、美樹とまともに試合をするのはこれが初めてだ。格闘技マニアの間で『女子格闘技では世界最強』とまで言われている美樹は、奈子にとってこれまで雲の上の存在だった。 この前の大会で優勝したおかげで、やっと試合をしてもらえるくらいには認められたのだと思うと、喜びがこみ上げてくる。 それにしても、美樹が持つこの迫力は一体何なのだろう。奈子は数週間前に異世界で闘った、炎を操る巨大な魔獣を思い出した。 美樹から感じる圧迫感は、あの化物と比べても遜色がない。 (この恐怖に打ち勝たなければ……) 奈子は思った。 エイクサムを倒すことなどとうてい叶わないことだ、と。 一気に間合いを詰めた奈子は右の中段突きをフェイントにして、一転、後ろ回し蹴りを放つ。 だが、美樹は蹴りをいとも簡単に腕でブロックすると、そのまま一歩踏み込んで、掌底で奈子の脇腹を狙ってきた。 それをなんとか右手で払い退けた奈子は、美樹の衿を両手で掴まえ、腹を狙って膝蹴りを繰り出す。 決まった、と思った瞬間、美樹の左腕がその膝を抱え込んだ。そして、右腕を奈子の首に回す。 気付いた時には、もう逃げられなかった。 美樹はそのまま、奈子を抱えて後ろへ反り投げをうつ。 (キャプチュード!) その技の正体を悟った瞬間、奈子の頭は床に打ちつけられた。一瞬、意識が遠くなる。 それでも身体は無意識のうちに立ち上がって、構えを取った。 同時に、美樹が懐に飛び込んでくる。姿勢が低い。 (衝?) かわしている暇はない、奈子は両腕で鳩尾をガードした。美樹は構わず、ガードしている腕の上から拳を叩きつけてくる。 ばんっ! なにかが破裂したような音が響いた。 奈子の身体が、くの字になってその場に崩れ落ちる。 ガードの上からだというのに、すごい衝撃だった。まるで、太い杭で貫かれたようだ。 奈子は海老のように身体を曲げ、両手で鳩尾を押さえて痛みに耐える。 酸っぱいものが、胃からこみ上げてきた。 「ぐ……ぅ……」 「無理に動かない方がいいよ、そのまま休んでな」 美樹の声は、何処か遠くから聞こえるように感じた。 「……やっぱり強いな……。全然、かなわないや……」 奈子が悔しそうに呟く。 「奈子も、まあ、悪くなかったけど。後ろ回しのキレとか、良かったよ。でも、膝蹴りがまずかったな。もっと腕の引き付けで相手の体勢を崩さないと、こーゆー目に遭うってこと」 「ちぇ……。やっぱり北原先輩……強いや」 しばらく黙って、少し楽になってからまた口を開いた。 「……北原先輩、もし……、もしもの話しですよ。先輩にとって大切な人が、誰かに傷つけられたとしたら、先輩はどうします……?」 「それが誰であろうと、どんな事情があろうと、そいつをぶち殺す」 美樹は一瞬もためらわずに応えた。 その言葉には、何の気負いも感じられない。ごくごく自然な口調だ。 「……で、誰の仇? 相手は誰? 手伝ってやろうか?」 「だから、もしもの話ですってば」 「もしもの話、ね……。ま、そういうことにしとこう」 美樹が笑っている。まるで、奈子に何があったのか見透かされているようだ。 横になっている奈子の隣に、美樹が腰を下ろした。どこか、遠くを見ているような目をしている。 「私が、アメリカで生まれ育ったのは知ってる?」 「はい、聞いたことあります」 「私の父さんは、傭兵だった……」 奈子は驚いて、顔を美樹の方へ向けた。 美樹が自分のことを話すところなんて、これまで見たことがない。元々、口数の少ない人だ。 「物心つく前から、闘い方を教わっていた。空手の他、ナイフの使い方、銃の撃ち方。私にとって闘うことは、食べることや歩くことと同じくらい、当たり前のことだった」 一体、美樹は何を話そうとしているのだろう、 「父さんが死んだのは、私が十五の時。父さんの昔の仲間で、武器商人をしている男に裏切られて、殺されたんだ」 今度こそ本当に、心底驚いた。 そして、美樹がこの後なにを言おうとしているのか、何となく予想できた。 「その男は日系人で、日本で会社を経営していた。私が日本に来たのは、祖父がこっちにいるからじゃない。その男を追って来たんだ」 奈子は上体を起こした。真っ直ぐに美樹を見つめる。 「それで……」 その男はどうなったんですか? 奈子は、その言葉を飲み込んだ。 美樹が十五歳の頃といえば、もう三年も前のことだ。 「これ以上は、内緒だ。ここは法治国家、日本だからね」 美樹は笑って言う。 無論、その後のことは聞くまでもなかった。 「人を殺すなんて、誉められることじゃない。でも私は、闘いを否定することはできない。それは私の人生を否定することになるから。人からどう思われようと、それが私なんだ」 その言葉は奈子に語りかけるというより、むしろ独り言のように聞こえた。 「闘い続けるということは、敵を増やすということ。それ自体は別に気にもしないけど、それが原因で、私以外の誰か……私にとって大切な人が、危険な目に会うとしたら……」 美樹は、そこで言葉を切った。 微かに口を開いて、次の言葉を探しているように見える。 「だから私は、強くなることにしたんだ、誰よりも強く。世界中の人間が、北原美樹を怒らせるのは得策ではない、と思い知るまで」 「…………」 ちらりと、奈子の方を見る。 「闘いってのは、始めたら中途半端で止めることはできないんだ。それだけの覚悟がないのなら、闘うべきじゃない」 最後の言葉を言いながら、美樹は立ち上がった。柄にもなく、喋りすぎてしまった、という表情だった。 ほんの少し、顔が朱い。 「まあ、あんまり深く考える必要もないけどね。理屈じゃなくて、自分が今、何をしたいのかってこと」 それだけ言うと、美樹は道場から出ていった。 後に残った奈子は、ぼんやりとその後ろ姿を見送っていた。 (それが、北原先輩の強さの秘密……? それにしても……) 美樹は何故、こんな話をしたのだろう。 奈子の身に起こったことを、知っている筈はないのに。 それとも、何か気付いているのだろうか。 (ちょっと似ているな……。父親の仇を討つために、一人アメリカから日本へ……か) しかし、異なる部分もある。 たとえ太平洋を隔てていても、それは、同じ星の上の国だ。 だが―― 奈子が仇を追っていくのは、正真正銘の異世界だった。 終章 旅立ち その日の早朝。 奈子は、居間のテーブルの上に手紙を置いて家を出た。 手紙の文面はずいぶん悩んだのだが、どうにも上手くまとまらず、結局、極めてシンプルなものとなった。 『しばらく旅に出ます。いつか、きっと帰りますので、心配しないでください――奈子――』 例によって両親が留守なのは幸いだった。 今、両親の顔を見たら、決心が鈍ってしまうかも知れない。 玄関を出たところで、一度、家を振り返った。生まれてから今日まで、十五年間暮らしてきた家。 しかし今は、感傷に浸っている時ではない。奈子は歩きだした。 穿き古したジーンズにTシャツ、持ち物は小さめのリュック一つというラフな姿で。 必要な荷物は全てカードの中に封じ込めてあるから、荷物は少ない。 『旅の時には必需品ね』 初めて会った時、ファージがそう言っていたのを思い出す。 まだ早朝のため、人通りはほとんどない。たまに、犬の散歩をしている人がいるくらいだ。 由維の家の前に差し掛かった時、奈子はもう一通の手紙を取り出した。 それを、郵便受けに入れようとして、やっぱり思いとどまる。 今、由維と顔を会わせるのは辛い。 きっと、泣いて止めようとするに違いない。 だけど、逃げちゃいけない。 会っておかなければ、きっと後悔する。 別に急ぐ必要はないので、由維が起きてくるまで待つことにした。 そして、意外なことに。 それほど待つ必要はなかった。 五分としないうちに、由維が玄関から姿を現した。 「由維……」 「やっぱり、今日、行くんですね」 それは質問というより、確認の口調だった。 「どうして……由維?」 「毎日奈子先輩の様子を見ていれば、なにか変だってわかりますよ。それに保存食とかミネラルウォーターとか、買い込んでるし……」 「バレバレ……ってわけか」 奈子は肩をすくめた。 「私も……」 由維がためらいがちに言う。 「私も連れていって」 その言葉に、奈子が硬直する。 「……今、なんて言った?」 「私も一緒に連れてって!」 由維の目は本気だった。 目に涙を浮かべて抱きついてくる。 「これっきり、奈子先輩に会えないなんて嫌っ! 私も一緒に行く!」 奈子はやや困惑した表情で、胸に顔を埋めて泣きじゃくる由維の肩を優しく抱いた。 「そんなこと、できるわけないじゃない……」 「だって……。今度向こうへ行ったら、もう帰って来れないんでしょう? そんなの嫌っ! 私も連れてって!」 奈子は、由維の肩にかけた手に力を込めた。微かに手が震えている。 今までずっと、冗談半分にじゃれついているものと思っていた。 だけど由維は、由維なりに本気なのだ。 (由維と一緒なら……) ずっと心強い。一瞬、そんな考えが頭をよぎる。しかし、理性が辛うじてそれを押し止めた。 「それは……駄目。由維は、ここで待っていて」 「え……?」 由維が顔を上げる。 「由維が待っていてくれるなら、アタシは、たとえ何年かかったって、きっと戻る方法を見つける……。だから……、待っていて」 由維に……というよりも、自分自身に言い聞かせるような口調だった。 「奈子先輩……」 「アタシは、必ず帰ってくる。だから……ね?」 「……きっと、きっとですよ」 由維はもう一度、奈子にぎゅっとしがみついた。 いつもの、奏朱別公園の展望台。 奈子は、早朝のこの場所が気に入っていた。 朝靄に煙る奏朱別の街を見渡すことができる。 奈子が生まれ、育った街。 宮本由維と出会い、北原美樹と出会い、高品雄二と出会った街。 その街並みを見ながら、転移魔法のカードを取り出した。 目から、一筋の涙がこぼれる。 (感傷も、涙も、もうこれで最後……) 手の甲でごしごしと涙を拭い、カードを高く掲げて呪文を唱えた。 (アタシには、まだ、やらなければならないことがある……) 〈第三話『黄昏の堕天使』に続く〉 第二版あとがき とゆーわけで、第二話『復讐の序曲』第二版をお届けします。『光』全話修正プロジェクトの第二弾。元々、CD―ROM収録用に始めた書き直し作業ですけど、第一部は二部以降のストーリィと矛盾していた内容などもあるので、最終話公開までに第三話『黄昏の堕天使』までを書き直して『ふれ・ちせ』でも公開する予定です。 それにしても……。いま読むと下手ですね~(笑)。なんとゆーか、自分で読んでて恥ずかしくなります。第一部の作品を読み返すのは久しぶりなので。 文章は下手だし、陳腐な技法が多用されてるし。いや、私の小説は今でも決して上手くはないですけど、それでも四年間で少しは成長しているようです。 今回の改訂は、以前の第一話書き直しに比べるとストーリィ面の変更はそう多くはありません。第二部以降との矛盾点を直して、文章を全部見直したくらい。 本気で直そうとすると、まったく違ったストーリィになっちゃいますから。このくらいが妥当なところでしょう。 本当は、第一話の時みたいに序章を追加しようと思ったんですよ。『光』の本編はどれも、昔話の序章で始まって、奈子×由維で終わる、というパターンなので。だけど、この話に追加する適当なエピソードが見当たりませんでした。 この調子で第三話も書き直して、そうしたらいよいよ最終話の公開です。お楽しみに。 二○○一年四月 北原樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/