光の王国3 黄昏の堕天使 一章 獣の旅路  そこは、山中の深い森の中を通る一筋の細い道だった。  普段はほとんど通る者もいないのだろう、ちょっと見には、獣道と間違えてしまうような荒れた道だ。  太陽は既に西の山陰に沈み、辺りには夕闇が立ち込めつつある。  リリ、リリ……  控えめに響いていた虫の音が、草を踏む足音と同時に静まりかえった。  足音の主は、すぐに姿を現した。  急速に明るさを失いつつある森の中を、急ぎ足で歩く一つの人影。  背はあまり高くなく、フードの付いたマントのために顔は隠れている。  かなり暗くなった森の中を、明かりも持たずに歩いていたその人影は、ふと、その歩みを止めた。  息を殺して、何やら周囲の気配を探っているように見える。  そぅっと、腰のベルトに差した短剣に手を掛ける。  普通の人間なら何も気付かなかっただろうが、彼女ははっきりと自分以外の存在を感じ取っていた。  頭上からいきなり、大きな黒い影が飛びかかってくるのと、彼女が短剣を抜くのは、ほとんど同時だった。  相手を目で確認するより先に、短剣を握った手をその影に叩き付ける。  ギャンッ!  甲高い獣の悲鳴が上がり、影は数メートル飛び退いて着地した。  それは、体長二メートルくらいの、豹に良く似た獣。  鼻の辺りから、血を流している。  彼女は止め金を外してマントを足元に落とすと、短剣を構え直した。  やや茶色がかった瞳の鋭い目で、獣を睨み付ける。  獣は喉の奥で低い唸り声を上げながら、目の前の敵を見つめていたが、やがて、くるりと踵を返して森の奥へと走り去っていった。  草を踏む軽い足音が遠ざかる。  その足音が聞こえなくなって、彼女はほっと息を洩らした。  短剣の血を拭き取って鞘にしまう。その場に腰を下ろすと、そのまま仰向けになった。  樹々の梢の隙間から、幾つかの星が瞬いているのが見えた。 「まだ……四日……か」  寂しげな声で、小さくつぶやく。  そう、彼女――松宮奈子――がこの世界に来てから、四日が過ぎていた。  自分でこちらへ転移したのは初めてのため、出現場所がどこになるのか不安だったが、幸いそこは最初にファージと出会った街、ルキアの近くだった。  奈子が最初にこの世界に来た時に、一週間ほど滞在していた街だから、ある程度事情はわかっている。 『タルコプの街に住むソレア・サハ・オルディカという占い師を訪ねるように――』  それが、ファージが奈子に遺したメッセージだった。ならばまずは、その言葉に従うべきだ。  ルキアの街で、食料など、旅に必要な物を買い込んだ。お金は、以前ファージから相当な額の金貨を貰っていたので問題はない。  地図を買って調べたところ、ルキアからタルコプへ行くには二通りの道があるらしい。  一つは、街道を通っていく方法。街道は大きな道で迷う心配もないが、山地を大きく迂回していくため、徒歩では半月以上かかる。  もう一つは、街道が迂回している山を越えていく道。この場合、必要な時間は街道の半分以下だ。  奈子は、この道を選んだ。  一刻も早く、タルコプの街に着きたかった。  事情のわからない異世界で、誰も頼れる者もなく一人きりでいる時間は、少しでも短くしたかった。  だが、この山道はひどい処だった。  獣道同然の荒れ果てた道で、奈子はしばしば道を見失った。  森の中には危険な動物も多く、肉食獣に襲われたのも先刻が初めてではない。  山道に入ってからというもの、奈子の神経は自分でも信じられないくらい鋭く研ぎ澄まされていた。小さな野ネズミの動きさえ、はっきりと感じ取れる。  自分にこんな感覚があるとは驚きだったが、そうでなければ、とっくにこの森の中で獣達の餌になっていたはずだ。 「今日は、ここで野宿……かな?」  ぽつりと言って、奈子は起きあがった。  ベルトに付けたポーチの中から、向こうの世界から持ってきた一巻きの釣糸を取り出す。その端を樹の枝に結んで、周囲の樹々の間に糸を張り巡らした。  それが終わると今度は小さな鈴をいくつか取り出し、糸に結び付ける。  そうして、円形に張り巡らした糸の中心にある大きな樹にもたれかかり、マントで身体を包んだ。  幸い今は夏だから、こうして野外で寝ていても寒いことはない。  この辺りの気候がどんなものかは詳しく知らないが、少なくとも、奈子が住んでいた札幌よりは暖かいようだ。  空を見上げると、東の山陰から明るい月が昇りかけていた。  西の空には、細い三日月がかかっている。  初めて見た時は驚いたが、この世界には三つの月がある。だから空を見上げれば、大抵いつでも月が見えるのだ。  しばらく空を見つめていた奈子は、やがてそっと目を閉じた。  考えてみると、こっちに来てからぐっすりと眠った記憶はない。少しうとうとしては、すぐに目を覚ます。それを朝まで繰り返すのが常だった。  敵の襲撃に備えて鈴を付けた糸を張り巡らしてはいるが、実際にはそんな物がなくても、生物が近付けばその気配ですぐに目を覚ました。  野生動物の睡眠とは、きっとこんなものなのだろう。  一頭の獣になりたい――奈子は思った。  敵を倒すための、鋭い爪と牙を備えた獣に。 (人の心を持ったまま人を殺せるほど、アタシは強くない……)  復讐のためには、心は不要だった。  夢と現実の狭間を漂うような眠りからはっきりと覚醒すると、辺りはもう明るくなっていた。  空はきれいに晴れ渡っている。谷間には朝靄がかかっているが、山の陰から太陽が昇りかけているので、間もなくそれも消えてしまうことだろう。  遠くで盛んに、小鳥の鳴く声がする。  奈子は張り巡らせた釣糸を回収すると、カロリーメイトとポカリスェットで簡単な朝食を済ませた。  さて出発しようかとマントをたたみ始めた時、背後――ルキアの街の方――から人の気配がした。  振り向くと、若い男女がこちらへ歩いてくる。この山道に入ってから人間と出会うのは初めてだったので、奈子は少し驚いた。  手を止めて、二人を観察する。  男の方は二十歳くらいで、身長は百八十センチくらい。ちょっとクセッ毛の金髪。  腰から長剣を下げている。  顔は美しさと精悍さを兼ね備えて、かなりハンサムだった。  奈子の世界でなら、二枚目俳優かモデルとしても通用しそうだ。正直に言って、かなり好みのタイプだった。  女の方は、多分奈子と同年代――十代半ばくらいで、腰まで届くストレートの金髪。背は、男の肩にやっと届くくらい。  こちらも人目を惹く美少女だ。  奈子は、二人が兄妹か、少なくとも親戚だろうと推測した。髪の色も目の色も同じで、顔もどことなく似ている。  二人とも妙に急いでいる。やや疲れた表情からすると、ろくに睡眠も取らずに夜通し歩いていたのだろうか。  近くまで来て道端の奈子に気付いた二人は、一瞬驚いた様子だったが、そのまま何も言わずに早足で通り過ぎていった。  二人の姿が見えなくなるまでそのまま見送っていると、女の子の方が、何度かこちらを振り返るのが見えた。 (あからさまに、訳アリって感じ……)  奈子はそう思ったが、考えてみれば特別な理由もなしにこんな道を通る者もいない。  よほど急いでいるのか、人目を避けているのか。  この道の利用者の統計を取ったら、きっと、お訪ね者と間諜と密輸業者がトップを争うことになるに違いない。 「駆け落ち……かな?」  しばらく考えて、ふと思いついた。  兄妹か従兄妹かは知らないが、近い血縁関係にある二人が愛し合ってしまい、親や親戚の反対にあって家を飛び出した――そんなところだろうと想像する。  妙に急いでいるのも、背後を気にするのも、追っ手を心配してのことだろう。 (由維だったらやっぱり『恋愛に血のつながりなんて関係ありません』とか言うのかな)  以前、「恋愛に性別なんか関係ない!」と言い切った後輩のことを思い出し、慌てて頭を振った。 (今は、向こうのことを思い出してちゃダメだ。泣きたくなるから……)  二人の姿が見えなくなったところで、奈子も歩き出した。  まだ陽が登ったばかりなので涼しく、頬を撫でる風が気持ちいい。  柔らかな草を踏みしめながら歩いて行く。  数百メートル歩いたところで、ふと、道端に咲いている数輪の小さな花が目に留まった。  葉は無く、高さ十センチくらいの茎の先端に、美しい花が咲いている。  奈子は何気なく手を伸ばして、その一輪を摘み取った。  花はきれいな星型をしていて、まるで宝石のオパールのような不思議な色をしている。見る角度を変えると、光の加減で花弁の色が変化した。 「へぇ、きれいな花……」  この花弁の色、自然のものとは思えない。  香りも確かめようと、鼻を近付けた時。 「――?」  遠くから、女の子の悲鳴が聞こえた。  奈子は耳を欹てる。  何人かの男の声。そして、金属がぶつかり合う音。  奈子は咄嗟に走り出した。  数百メートル走って、人の姿を見つけた。  鬱蒼と繁っている樹々がちょっと疎らになった処があり、そこに先刻の男女がいる。  そして周囲を、二十人近い武装した男達が取り囲んでいた。  そのうちの数人が、剣を抜いて金髪の男に切りかかっているが、男の方も、女を背後に庇いつつ、自分も剣を抜いて相手の攻撃を受け止めている。  奈子は立ち止まって暫し考え込み、それからごく自然な態度で歩き始めた。  歩きながら、二人を取り囲んでいる男達を観察する。  最初は、野盗の類かと思った。しかし揃いの武装や統制の取れた動きは、むしろどこかの軍隊のように思われる。  考えてみれば、まともな旅人などほとんど通らないような道には盗賊もいるはずもない。  三十メートルくらいまで近付いたところで、男達も奈子に気が付いた。  リーダーと思しき男が何か合図をすると、後ろに控えていた二人の男が剣を抜き、集団から離れて奈子の進路に立ちふさがる。  奈子は構わず、二人の目の前まで歩いていった。 「今、取り込み中だ。離れていろ」  剣を構えながら、男達の一人が言う。  奈子は無視して歩を進める。 「おい、聞こえないのか? 止まれと言って……」  男が奈子の肩に手を掛けようとした瞬間、右拳が男の鳩尾にめり込んだ。 「ぐっ……」  男が腹を押さえて前屈みになったところで、すかさず左フックを顎に叩き込む。  顎が砕ける音がした。 「き、貴様っ、何を……」  もう一人の男が剣を振りかぶる。奈子はそれが振り下ろされるより速く相手の懐に飛び込むと、剣を持っている手を自分の右腕で抱え込んだ。  そのまま身体を捻って相手の腕を伸ばし、肘の関節を極める。左手の掌底でその肘を打った。  伸ばされた関節は、意外なくらい脆い。肘が折れる鈍い音は、男の悲鳴でかき消された。  関節を極めていた手を離すと、男は、あり得ない方向に曲がった腕を押さえてうずくまる。  奈子は、苦悶の声を上げている男を無視して歩き出した。  その場の全員が、驚いた表情で奈子を見つめている。襲われていた二人も、そして、二人を襲っていた男たちも。  自分に集まる視線を無視して、奈子は進んでいった。 「何者だ、貴様……?」  男たちのリーダーと思しき男が口を開く。 「……それはこっちの台詞だよ。こんなところで何をしているの? たった二人を二十人で取り囲むなんて、まっとうな人間のすることじゃないよね?」  奈子は、からかうような調子で言った。 「貴様には関係ないことだ。それとも、この二人の関係者か?」 「別に、そういうわけじゃないけど。関係ないって言うんだったら、通してくれない? アタシは急いでるの」 「な……!」  男たちの間から、意表を付かれたような声が上がる。多分、奈子を二人の仲間だと思っていたのだろう。 「ふむ……。そうだな、通してやれ」  リーダーらしき男は、ちょっと考えてから答えた。 「しかし隊長……」  奈子に近いところにいた男の一人が、抗議の声を上げる。その男は既に剣を抜いていた。 「いいから、通してやれ、と言ってるんだ」  隊長と呼ばれた男は、一語一語、区切るように言った。 (隊長……ねぇ。ふぅん……)  奈子は心の中でつぶやいた。山賊、盗賊の類が、リーダーを隊長と呼ぶとは考えにくい。やはり、軍隊かそれに近い組織なのだろうか。  前にいた三人の男は渋々といった面持ちで隊長の言葉に従い、左右に別れて道を開ける。  しかし、奈子が男たちの間を通り過ぎた瞬間、一人が動いた。  奈子の胴を薙ぐように、水平に剣を振る。  だが、そこに奈子の身体はなかった。何が起こったのか理解する間もなく、その男は側頭部に強い衝撃を受けて失神した。  男が倒れると同時に、奈子が立ち上がる。  残った二人の男にも、目の前で何が起こったのか理解できなかった。  奈子は、上体を前屈させて剣を避けると同時に、右手を地面について身体を支え、左足を蹴り上げたのだ。 『逆回し蹴り』と呼ばれる特殊な蹴りである。奈子の世界でもそれほどポピュラーな技ではないのだから、高度な徒手格闘技が存在しないこの世界では、初めてで見切ることは困難だろう。  奈子は立ち上がると、隊長を冷やかな目で見つめた。 「物分かりのいい振りをして、油断したところを後ろから切りつけさせるとは……、随分と男らしい戦法ね?」 「貴様だって、始めからやる気だったのだろう? でなければあれをかわせるはずがない」  相手は悪びれる様子もなく応える。お互い様だ。  奈子だって最初から、あの二人を見捨てて通り過ぎるつもりはなかった。事情は知らないが、弱いものいじめを見過ごせる性格ではない。 「妙な小娘だが……、お前達では無理だ、下がっていろ」  後半は、奈子の近くにいた二人の男に向けられた言葉だ。じりじりと前に出てきていた男が動きを止める。 「隊長、私がやりましょうか?」  それまで隊長の横で黙っていた、目付きの鋭い男が言った。 「そうだな。ナムシク、お前に任せるか。残りの者は、二人の始末を急げ!」  奈子たちのやりとりを呆気に取られたように見ていた十数人の男たちは、隊長の言葉で我に返った ようだ。当初の目的であった二人に向き直る。  そして、ナムシクと呼ばれた男ひとりが奈子に近付いてくる。  この男、体格はそれほど大きいわけではないが、目付きが鋭く、構えに隙がない。 (こいつ……強いな)  並の相手と手強い相手、その違いは気配でわかる。  ナムシクは剣の柄に手を掛けながら、徐々に間合いを詰めてくる。  三メートルくらいまで近付いたところで。 「ラィ・アル!」  突如、叫んだ。魔法の呪文だ。  奈子の左右に、長さ三十センチほどの光の矢が、十数本出現する。  慌てて後ろに飛んで魔法を避けるが、これで先手を取られてしまった。奈子の体勢が崩れた隙に、ナムシクが飛び込んで剣を抜いた。  さすがにこれをかわすのは不可能だ。奈子は腰の短剣を抜き、辛うじて剣を受け止める。  ギィンッ!  金属がぶつかり合う音が響き、奈子の手から短剣が落ちる。ナムシクの剣は予想以上の鋭さと重さで、短剣を持っていた手が痺れてしまったのだ。  短剣を拾っていては、次の攻撃をかわせない。 「くっ!」  奈子は短剣を諦め、一歩踏み込んで貫手でナムシクの喉を狙った。  だが、正確に喉仏を狙った奈子の左手は、突然目の前に現れた、直径三十センチくらいの光る円盤に遮られた。 (魔法の……楯?)  奈子の一瞬の驚愕を見逃さず、ナムシクは再び剣を振る。  幸い間合いが近かったため、刃が顔に触れる寸前に、剣を持ったナムシクの右手を押さえ込むことができた。  しかし次の瞬間、奈子の右胸に焼けるような痛みが走った。  一瞬、身体から力が抜ける。 「な……っ?」  奈子の胸に、短剣が深々と突き刺さっていた。それを握っているのはナムシクの左手だ。右手の剣はフェイントだったのだ。  ナムシクの顔に、残忍な笑みが浮かぶ。刺さった短剣を軽く捻って、一気に引き抜いた。 「うあぁぁっっ!」  激痛に奈子の顔が歪み、開いた傷口から鮮血が飛び散る。  胸を押さえてその場に膝をついた奈子を、さらに蹴りが襲う。  鉄板が縫いつけてある固く重い靴でまともに顔面を蹴られ、奈子の身体は一回転して地面に叩き付けられた。  後頭部を強く打って、意識が遠くなる。首の骨が折れなかっただけでも運が良かった。  口と鼻から、血が滴っている。  立ち上がろうとしたが、身体が痺れて言うことを聞かない。  倒れている奈子の目に、あの二人の男女が映った。  四、五人の男たちに囲まれているが、金髪の男は女を背後に庇いながら、剣で相手の攻撃を捌いている。ちょっと見ただけでも、かなりの使い手とわかった。おそらく、一対一なら周囲の男たちの大半は問題にもならないだろう。  だが、所詮は多勢に無勢。おまけに女を庇いながらでは、防戦一方になるのも仕方がない。深手ではないが、いくつか手傷も負っているようだ。  このままでは長く持つまい。もっとも、それよりも奈子の最期の方が先と思われた。 「小娘のくせに、剣も魔法も使わずによくやる。本当ならもう少し楽しみたいところだが、今は忙しいのでな……」  ナムシクが剣を振り上げる。 (アタシ、ここで死ぬのかな……)  奈子はぼんやりと考えていた。  無理すれば身体は何とか動きそうだったが、あの剣をかわせるとは思えない。  不思議と、恐怖は感じなかった。  ただ、この世界へ来た目的も果たせずに死ぬのが少し悔しいだけだ。  その時。  少し離れたところから、男の声が聞こえた。 「死にたくなければ、俺を雇わないか? 嬢ちゃんよ」 (え……?)  どこから聞こえた声だろう。奈子は頭を巡らして、声の主を探した。ナムシクを見ると、なにやらあらぬ方向を向いている。  力を振り絞って上体を起こしナムシクの視線を追うと、道の上に赤毛の男が立っていた。  背はかなり高い。百九十センチ近くはある。  無駄なく鍛えられた身体をしていて、背中に大きな剣を担いでいた。  厚手の皮の鎧と薄汚れたマント、そして無精髭という姿から察すると、旅の剣士といったところか。年齢は二十五から三十の間だろう。 「何だ、お前は?」  最初に口を開いたのはナムシクだった。  奈子のことは無視して、その男の方へ向き直る。 「俺は、エイシス・コット、傭兵だ」  男は、ナムシクではなく奈子に向かって言った。  ナムシクなど眼中にないといった雰囲気で、にやにや笑いを浮かべている。 「どうだ、俺を雇わないか? かなりヤバそうな状況だから、相場の二割増しってところで手を打つが?」  ナムシクの目が離れた隙に、奈子はふらつきながらも立ち上がった。ナムシクとの距離を空ける。  動いたために、胸の傷の出血がひどくなる。  何が起こったのか理解出来ないといった面持ちでエイシスと名乗った男を見つめ、それから、ふと思い出したように背後を振り返り、あの二人がまだ無事でいるのを確認した。  周囲の男達は、一瞬呆気に取られていたようだが、隊長が何か指示を出したのか、数人がエイシスを取り囲むように移動してくる。 「どうする?」  やや下品な印象を受けるにやにや笑いを浮かべたまま、エイシスが問いかけてくる。  剣を構えてじりじりと間合いを詰めていくナムシクも、周囲を取り囲む男達も、まったく気にしている様子がない。 「……自信は、あるの?」 「なきゃ、声なんか掛けねーよ」  不思議と、助かったという思いはなかった。むしろ、邪魔をされたという気持ちが強い。  しかし。 「……いいわ。あんたを雇う。あの二人を助けてあげて」  奈子は背後の男女を指さして、小さな声で言った。 「……二人? あんたは?」  エイシスが驚いたように言う。 「アタシは……、自分の身は自分で護れる。いや……そうでなきゃならないんだ」  応えながら、奈子は一枚のカードをエイシスに向かって放った。 「相場ってのがどのくらいか知らないけど、これで足りる?」  エイシスはそのカードを器用に空中で受け止めると、小さく呪文を唱えて内容を確認した。短く口笛を吹く。 「こいつは豪勢だな。よし、商談成立だ」  エイシスは面白そうに言うと、初めてナムシクの方に向き直った。 「聞いての通りだ。俺が相手になる」  エイシスがそう言うのと、ナムシクを含む五人が一斉に飛びかかるのは同時だった。  だが、男たちの剣がエイシスの身体に触れることはなかった。  四人の男たちは、まるで見えない壁にでも衝突したかのように跳ね飛ばされる。  そして。  いつの間に抜いたのか、奈子には見えなかった。エイシスの大きな剣が、ナムシクの身体を貫いていた。  跳ね飛ばされた男たちは、地面に倒れてぴくりとも動かない。  動揺した様子の周囲の兵士たちから、驚嘆の声が上がる。  エイシスは、ナムシクの身体から剣を引き抜くと、ゆっくりと歩き出した。 「さて、まだやるかい? こいつが一番の使い手だったんだろう?」  ナムシクの死体を剣で指す。  エイシスの言葉に、兵士たちは緊張の面持ちでじりじりと後退った。  ただ一人、隊長だけがその場に踏みとどまっていたが、明らかにエイシスに気圧されている。 「……、貴様っ!」  隊長が剣に手をかけるのと同時に、エイシスが片手を上げた。 「雷よ!」  エイシスの手から放たれた青白い雷光が、隊長の身体を吹き飛ばす。  それをきっかけに。  残された兵士たちは一斉に背を向けて逃げ出した。  その様子を、エイシスは満足そうに、二人の男女は呆然として見ている。  そして奈子は、  目の前が暗くなって、崩れるようにその場に倒れた。 * * *  奈子が意識を取り戻すと、目の前に癖のある金髪が見えた。  人の体温を感じる。  数秒経って、やっと、あの金髪の男に背負われているのだと気付いた。  横に、その妹らしき金髪の少女。そして前には、エイシスとかいう傭兵が歩いている。  奈子がなにか言おうとした時、横の女の子が奈子に気付いた。 「あ、気がつきました? 怪我は、大丈夫ですか?」  その言葉で、エイシスも金髪の男も足を止める。 「降ろして……。もう、大丈夫だから」  地面に降りると、膝に力が入らなくて一瞬よろけた。それでもなんとか踏みとどまる。  辺りを見回すと、いつの間にか夕方になっているらしい。空が朱く染まっている。  胸の傷は少し痛んだが、どうやら塞がっているようだ。誰かが魔法で治療してくれたのだろうか。  服には、乾いた血がべっとりとこびりついている。  相当出血したためか、全身がだるい。それでも、なんとか歩くことは出来そうだった。 「……ちょうどいい草原もあるし、今日はここで野営するか」 「……そうですね」  エイシスの言葉に、金髪の男もうなずく。明らかに、奈子の身体を気遣っている様子だ。  男たち二人は薪を拾いに行き、奈子と女の子がその場に残された。 「あの……、今のうちに、着替えた方がよろしいのでは?」  男たちの姿が見えなくなったところで、女の子が言った。  確かに、その通りだ。奈子はその言葉に従った。  血で汚れた服を脱ぎ、カードの中から着替えを取り出す。 「あ……危ないところを助けていただき、ありがとうございました」  女の子が頭を下げる。 「アタシじゃない。礼は、あの傭兵に言いなよ」  奈子は、なんとなく不機嫌だった。 「でも……あなたが助けてくれなければ、きっとエイシスさんが来る前に、私たちは捕まっていました。それに、エイシスさんを雇ってくれたのも、あなたです。私たちは今、お金もあまり持っていませんし……。本当に、お礼の言いようもありません」  奈子は無言で、女の子の様子を観察した。  歳は多分同じくらい。背は、奈子よりも少し低い。  瞳は淡いグリーン。美しいストレートの金髪は腰まで届いている。  全体に上品な雰囲気が漂っていて、良家のお嬢様といった印象だ。そういえば、着ている服も上等そうな仕立てになっている。 「あんた……、名前は?」 「え……あ、すみません、アイミィ・ウェルと申します。そして、兄がハルティ・ウェル」  やっぱり兄妹か、と奈子は小さく頷いた。 「あの……失礼ですが、あなたは?」  アイミィと名乗った女の子が聞き返す。 「奈子……、ナコ・マツミヤ」  奈子がそう答えた時、エイシスと、アイミィの兄ハルティが戻ってきた。  腕一杯の薪を抱え、さらにエイシスは兎に似た小動物をぶら下げている。 「いいもん捕まえたぜ。これで、晩飯がちょっと豪勢になるな」  言いながら、積み上げた薪に魔法で火をつけた。 「さて、落ち着いたところで、きちんと自己紹介しておくか」  食事が終わり、四人が焚火を囲んでいたところで、エイシスが口を開いた。  辺りは、すっかり暗くなっている。 「俺は、エイシス・コット・シルカーニ、傭兵だ。本当は、マイカラスへ向かう途中だったんだがね」 「マイカラス……?」  奈子が首を傾げる。聞き覚えのない地名だ。 「ルキアの西にある小国だよ。今はどことも戦争をしていないし、王が内政に力を入れているから、小さい割には豊かな国だな」  エイシスはそう言いと、ハルティの方を見た。  ハルティはその視線の意味を察して、口を開く。 「私は、ハルティ・ウェル、そして妹のアイミィ・ウェル。タルコプの北の、ノミルの街に向かうところです」 「で、先刻の連中は……?」  エイシスの問いに、ハルティは口を閉ざしてうつむいた。 「ま、俺は金で雇われているだけだから、別にどうでもいいがね。この娘は、一応あんたらの恩人だろう?」  奈子を指さして言う。 「別に、アタシは人の事情なんてどうでも……」  言い掛けた時、それまで黙っていたアイミィが口を開いた。 「……私たちは、マイカラスから来たんです。私の名は、アイミィ・ウェル・アイサール。マイカラスの……」 「王女……か?」 「え……?」  エイシスの呟きに、奈子は驚きの声を上げる。 「じゃあ……、お兄さんって……」 「マイカラスの第一王子、ハルトインカル・ウェル・アイサール殿下……だな」  エイシスに言われ、ハルティが仕方なくといった風に小さく頷く。 「マイカラスの王子と王女が、こんなところを二人だけでうろついていて、あんな連中に襲われているとなると……」  一瞬考えて、エイシスが言った。 「クーデター、か?」  ハルティとアイミィの顔に緊張が走る。 「何故それを……」 「マイカラスへ向かう途中だと言っただろう? マイカラスのレクトン・ソル・ターサル候が、兵を集めているという情報があってな。マイカラスみたいな平和な小国で、有力な貴族が私兵を集める理由なんて、そういくつもあるわけじゃあない」  エイシスは、相変わらずのにやにや笑いを浮かべながら言った。 「……その通りです。父も母もレクトン・ソルの手の者に殺され……、私たちだけが何とか脱出できたのです。でも、ここで追っ手に見つかって……」 「まあ、アイサール家の正当な跡継ぎが生きているうちは、レクトン・ソルも枕を高くして眠れんだろう。てことは……」  エイシスは、顎に手を当てて何か考えている。 「あんたら二人をレクトン・ソルに突き出せば、二、三年は遊んで暮らせる……か?」  アイミィの顔が青ざめ、ハルティは緊張した面持ちで、傍らに置いた剣をちらりと見た。  奈子は無言で立ち上がった。ゆっくりとエイシスに近付くと、いきなり顔面を狙ってローキックを放つ。  しかし、目にも止まらぬその蹴りを、エイシスの太い腕はがっちりと受け止めていた。 「おいおい、冗談だって。もう金も受け取ったし。金をもらった以上、仕事には責任を持つさ。この商売、信用第一だからな」  相変わらずにやにやと笑いながら応えるエイシスを、微かに目を細めて見て。  右手をその顔に向かって突き出した。 「オサパネクシ、エクシ・アフィ・ネ」  呪文と同時に、奈子の手の中に青い炎に包まれた剣が現れた。  その剣先は、エイシスの鼻先に突き付けられている。さすがのエイシスも、やや驚いた様子だ。 「この剣……。お、おい……」 「つまらない冗談を言うな、アタシは今、機嫌が悪いんだ」 「あの日か?」  エイシスのからかうような口調に、奈子は反射的に剣を突き出した。 「……冗談の通じん奴だなぁ」  ぎりぎりのところでその剣を躱したエイシスが苦笑する。頬に、うっすらと紅い筋が走っていた。 「あの……ナコさん、そのくらいで……」  アイミィが見兼ねたように声をかけると、奈子はやっと剣を引いた。 「そう言えば、俺はまだお前の名前を聞いてないぜ?」 「別に、必要ないっしょ?」  剣をしまいながら応える。 「今回は、一応お前がスポンサーだからな。雇い主の名前くらいは知りたいよなぁ?」  奈子は数秒間エイシスを睨んで、それから、小さくつぶやいた。 「ナコ。ナコ・マツミヤ……」 「……? 変わった名前だな。『神々の御名』は?」  エイシスが不思議そうに訊く。  『神々の御名』とは、ミドルネームのように見える部分、ファーリッジ・ルゥ・レイシャの『ルゥ』、エイシス・コット・シルカーニの『コット』などだ。  この大陸の古くからの風習で、家系や誕生日によって決まる、その人の守護神にちなんだ名がつけられることになっている。  ちなみに、『ルゥ』は真理を司るファレイアの神ルーィンのことで、古い魔導師の家系に多い名だ。  この世界では、他人は名前と御名で呼ぶのが普通である。  神々の御名は何百種類もあって、学者でもなければその全てを覚えている者もいないだろうが、それらは必ず三音節以内という共通点がある。つまり『マツミヤ』は御名ではあり得ない。 「アタシは異国の出身だから……」  奈子はそう誤魔化した。  ごく僅かではあるが、大陸の南部を中心に、神の御名を持たない民族もいると聞いたことがある。 「アタシは、ナコ・マツミヤ。タルコプの街の、ソレア・サハという人を尋ねる途中……」  奈子は、エイシスの方を見ずにそう言った。 「まだ、眠らないのか?」  真夜中を過ぎた頃、エイシスが不意に口を開いた。  焚火はまだ小さく燃えており、パチパチと音を立てている。  ハルティとアイミィはマントにくるまって眠っていて、火の側に座ったエイシスが、時々、思い出したように薪をくべている。  奈子は、少し離れた樹の幹に寄り掛かって目を閉じていた。しかし眠ってはいない。 「あんたが起きているからね、エイシス・コット」  目を閉じたまま応える。 「やれやれ、先刻のことをまだ気にしてるのか? 冗談だって言っただろう?」  奈子は黙っている。 「いい加減信用してくれよ。怪我もしてるんだし、眠らなきゃ身体が持たないぞ」 「あんたは眠らないの?」 「俺は護衛だからな。それに俺は、二日や三日は眠らなくても平気だし」 「アタシも平気。だから気にしないで」 「いいや、気になるね」  エイシスは手にした小枝を二つに折り、火にくべながら言った。 「お前には、色々と興味を引かれるね、ナコ」  目を開いた奈子は、訝げな表情でエイシスを見た。  エイシスが、いつものにやにや笑いを浮かべながら奈子を見ている。 「例えば、それほど裕福そうにも見えないのに、あんな大金をポンと出すこととか」 「……あのお金は友達から貰った物だし、この国のお金の価値ってのがよくわかってないだけよ」 「剣も魔法も使わずに、奇妙な体術で闘うこととか」 「あれは……アタシの生まれ育った地方に古くから伝わる、闘いの技術……」 「かといって、剣を持っていないわけじゃない。あの剣……」  エイシスはそこで一旦言葉を切った。 「炎の魔剣オサパネクシ、だろ? 王国時代より後の作としては、最高の魔剣と言われている……。百年くらい前から行方がわからなくなっていたはずなんだが、一体どこで手に入れたんだ?」 「そんな凄い剣なの? あれ……」  奈子は驚いて、逆に訊き返した。 「あれも友達から貰った物だし、剣の由来については何も聞いていない……」 「そして、その、誰も信用しない、誰にも心を開かないといった態度……」  面白そうに言うエイシスに対し、奈子は怒ったような顔になった。 「なによ、あんたには関係ないっしょ。放っといて」 「死んだのか。その、友達とやら。で、その仇を追っていると?」  奈子の表情が、一瞬だけ強張った。きつい目でエイシスを睨みつける。 「あんた、傭兵なんかやめて占い師にでもなったら? その方がよっぽど儲かるんじゃない?」  奈子の言葉と同時に、焚火にくべた枝がパチッとはじける。  エイシスが手に持っていた枝で焚火をかきまぜると、火の粉が舞い上がった。  しばらく黙ってその火を見つめていたエイシスが、再び口を開いた。但し、顔は焚火に向いたままだ。 「昔、お前と似た女がいたよ。腕のいい魔術師でね、いい女だったな」  奈子は、言葉の意味がわからないといった表情でエイシスを見つめた。いきなり、何を言い出すのだろう。 「小さい頃に両親を殺されて、ずっと、その仇を追っていたんだそうだ。魔術も、そのために身につけた……」  炎に照らされたエイシスの表情からは、いつものにやにや笑いが消えていた。どこか、寂しげな笑みを浮かべている。 「初めて会った時は、今のお前そっくりだった。自分以外の全てが敵といった雰囲気で、研ぎ澄まされた抜き身の剣みたいに、触れれば切れそうだったよ」 「……で、その人は……?」 「さあな……。止めたんだけど、結局行っちまった。当時俺はまだガキで、引き留めるにも彼女を助けるにも、力が足りなかった。きっと、もう生きちゃいないだろうな……」  それきり、エイシスは黙ってしまった。  奈子も黙って、エイシスを見つめている。言うべきことが何も思いつかなかった。  近くの草むらで鳴く虫の音が、急に大きくなったような気がした。  エイシスがそれきり何も言わないので、奈子は目を閉じた。  虫の声と、焚火の音だけが聞こえている。 「眠ったのか?」  しばらく経って、エイシスが小声で尋ねた。  返事はない。奈子は黙って、目を閉じている。 「そっか……」  微かに笑みを浮かべて、エイシスがつぶやいた。 「多分、ろくに寝てなかったんだろう? 今夜くらいはゆっくり眠るといいさ」  結局その夜、奈子は夜が明けるまで一度も目を覚まさなかった。 二章 ソレア・サハ  奈子たち四人がタルコプの街に着いたのは、二日後の夕方だった。  途中、もう一度レクトン・ソルの私兵による襲撃があったが、これはエイシス、ハルティ、奈子の三人であっさりと撃退した。  もっとも、奈子とハルティはいなくても結果は同じだったに違いない。エイシスの実力は、その大口通りのものだった。  タルコプは、周囲を山に囲まれた、ルキアよりも少し小さな街だ。  街道からも大きな街からも離れた辺境であることが幸いして、長らく戦火に巻き込まれていない平和な街らしい。 「その代わり、面白い物も儲け話も無いけどな」  エイシスは笑って言った。  ハルティとアイミィは、タルコプからさらに北にあるノミルという小国――アイサール家の親戚がいるらしい――を目指す予定だったのだが、その前に、自分たちもソレア・サハを訪ねると言う。 「ソレア・サハ・オルディカといえば、名高い魔術師で、占い師ですから。私達がこれからどうすべきか、何か助言が得られるのではないかと思いますし」  そうハルティは言った。  奈子にも異存はなかった。たった二日間だけの付き合いであっても、取り敢えず顔見知りが一緒というのは心強い。  大通りから少し中に入った路地にあるソレアの家は、街の人に尋ねるとすぐに見つかった。どうやら、遠国からわざわざ訪ねてくる客も多いらしい。街の人も、その質問には慣れた様子だった。  ソレアは一人暮らしだそうだが、それにしては大きく、なかなか立派な屋敷だ。  先頭に立った奈子は建物の様子を少し観察し、それから扉のノッカーに手を伸ばした。  奈子の手が触れる直前。 「どうぞお入りなさい。鍵は開いていますから」  扉の向こうから聞こえた女性の声に、奈子はビクッと手を引っ込める。  怪訝そうな表情でエイシスやハルティたちと顔を見合わせ、おそるおそるといった様子で扉を開けた。  そこには、二十歳過ぎと思われる、美しい女性が立っていた。  背が高く、腰の下まで伸ばした髪はきれいな銀髪だ。絹と思しき生地の、ゆったりとしたローブをまとっている。  深い碧の瞳が、神秘的な雰囲気を際立たせていて、奈子は一瞬、見とれて言葉を失った。 「……ソレア・サハ……?」  最初に口を開いたハルティの問いに、女性は小さく頷いた。 「マイカラスのハルトインカル・ウェル殿下と、アイミィ姫ですね。お待ちしておりました」  そう言って静かに微笑む。  奈子たちは驚いて、またお互いに顔を見合わせた。 「あ、あの……、私たちが来ることを……?」 「勿論、知っていましたよ」  ソレアは平然と応えると、四人に中へ入るようにと促した。  奈子たちは呆然とした表情で、それでも、ソレアの後に続く。  豪華な、しかし派手すぎない造りの客間に通されると、テーブルの上には、熱いお茶を注いだカップが並べられていた。 「エイシス・コット、あなたも楽にしてください。ここは、安全ですから」  ソレアは、固い表情で立っているエイシスに向かって言った。  もっとも奈子が見る限り、エイシスは警戒していたというより、屋敷の立派さに戸惑って、緊張していたようだった。  王族のハルティとアイミィなら別に気にしないだろうが、見るからに傭兵といった雰囲気のエイシスには、こういう場はあまり似合わない。 「すみませんが、ここで少しお待ちくださいな。私は、この方とお話がありますので……」  ソレアは、奈子を指して言った。  客間の奥にある扉を開け、奈子を手招きする。  奈子とソレアが部屋から出ていったところで、残された三人は椅子に腰を下ろした。 「驚いたね。占い師なんて、どれほどのものかと思っていたが。ホンモノだよ、ありゃあ……」  奈子とソレアが出ていった扉を見つめながら、エイシスがつぶやく。  カップを口に運んだハルティは、感心したように言った。 「淹れたて……ですね。私たちが来ることだけではなく、ここに到着する時刻まで、わかっていたというわけですか」 「これまで、自称占い師ってのは山ほど見たが……」 「ええ。これほどの力を持った人は初めてです」  しきりに感心する男二人には構わずに、アイミィはテーブルの上の自分のカップを見ながら、何か考え込んでいた。 「……どうして、三つなんでしょう」  独り言のようなその言葉に、二人はアイミィの方を見る。何を言いたいのかわからないといった表情だ。 「私たちは四人で来たのに、お茶が三つしか出ていないじゃないですか」  テーブルの上を指さして言う。  確かに、カップは三つしかない。 「でも、ナコさんとは何か別に話があったみたいだし……」 「いや、そういえば妙だな」  エイシスがもう一度、奥の扉の方を見た。 「気が付きました? ソレア・サハは、ナコさんだけ一度も名前を呼んでいないんです」  奈子が通されたのは、立派な家具が並んだ他の部屋とは明らかに造りの違う地下室だった。  絨毯を敷いていない石の床には顔料で複雑な魔法陣が描かれており、壁際に置かれた戸棚には様々な瓶や、分厚い本が並んでいる。  何か、魔法の研究に使っている部屋だろうか? と考えた。  部屋の中には一つだけ椅子が置いてあり、ソレアはその椅子に奈子を座らせた。 「これで、落ち着いて話が出来るわね」  ソレアはそう言うと、短い呪文を唱えた。  手の中に杖が現れる。長さは二メートル近く、瘤がたくさんある奇妙な木の杖だ。  杖を手にすると急に、ソレアの表情が急に厳しいものになった。 「さあ、話してもらいましょうか。あなたは一体何者で、何が目的なのか」  その口調が余りに厳しいので、奈子は驚いた。先刻までの優しげなソレア・サハとはまるで別人だ。 「あ、あの……」 「今日、マイカラス王国のハルティ王子と、その妹君が訪ねてくることはわかっていたわ。護衛に、エイシス・コットという傭兵がいることもね。私の力はいくつかの制約を受けている代わりに、占いや、予言に関しては並の魔術師より秀でているのよ」  そこでソレアは一度言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。 「でも、私はあなたのことを知らないわ。今日の来客が四人だなんて、そんなはずはない。あなたは一体、何者なの?」  ソレアの声には、怒りと、いくらかの怯えがブレンドされているようだった。  どうやら、自分の力が及ばなかった奈子を警戒しているらしい。 「……い、いえ、別にアタシは、怪しいものじゃ……」  しどろもどろに弁解しようとするが、しかしソレアの表情は厳しいままだ。 「十分過ぎるくらい怪しいわね。私の力は、そんな半端なものではないのよ。私のテリトリー内で私が予想できない出来事が起こるなんて、そう滅多にあることじゃないわ」 「あの、私は……」 「言っておきますけど、変な気は起こさないように。この部屋にいる限り、たとえあのファーリッジ・ルゥだって、私を傷つけることは出来ないんですから」  ソレアの台詞の中に突然出てきた懐かしい名に、奈子は一瞬戸惑った。 「あ、アタシは、ファージ……ファーリッジ・ルゥに言われて、ここに来たんです!」 「ファージに……?」  ソレアが疑わしげに言う。その口調には、奈子の言葉を信じた気配は微塵もない。 「あの子がここへ人を寄越すなら、前もって連絡があるはずだけど?」 「それが……」  奈子は言い淀んだ。  言うべきことははっきりしているのだが、その言葉がなかなか口に出せない。 「あなたがファージの知り合いだと言うのなら、その証拠を見せてちょうだい」 「証拠……?」  奈子は一瞬考え、そして一つの品物に思い当たった。  手を伸ばしてその名を呼ぶと、手の中に一振りの剣が現れる。  この世界の平均的な剣よりもやや長めの、僅かに反りのある片刃の剣。 「この剣、ファージから貰った物なんですけど……有名な剣らしいんですけど、ご存じではありませんか?」  剣を見たソレアの目が、大きく見開かれている。 「……オサパネクシ?」  それは問いかけではなく、確認の言葉だった。  奈子が小さく頷くと、ソレアは信じられないといった表情で、剣を手に取った。 「まさか、あの子がこれを手放すはずが……。あなた、これを一体どこで手に入れたの?」 「だから、ファージに貰ったんですってば!」 「そんなはずが……。一体、ファージは今どこにいるの?」  その質問は、鋭い矢のように奈子の心に突き刺さった。  一番大切な、そして一番辛い一言を言わなければならない。 「ファージは……死にました」  瞬間、部屋の温度が何度か下がったような気がした。一瞬、ソレアの動きが止まる。 「死ん……だ?」  ソレアが、引き吊った笑いを浮かべて言った。 「ちょっと……、なに馬鹿なこと言ってるの? あの子が死ぬわけないじゃない」 「だけど……本当なんです」  奈子が答えると、ソレアの引き吊った笑みは、突然、怒りの表情に変わった。 「ふざけるのもいい加減になさいっ! 一体誰があの子を殺せるって言うのっ?」  奈子の言葉を認めたくないのか、ソレアはむきになって叫ぶ。 「たとえ竜と闘っても、あの子が死ぬなんてあり得ないわ! だってあの子は……」 「だけど! ……本当なんですっ!」  叫んだ奈子の目から、涙がこぼれた。  こっちに来てからずっと堪えてきた涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を伝って落ちる。 「本当に……、ファージは、ファージは……」  それ以上、言葉を紡げなかった。ぎゅっと唇を噛む。  そんな奈子を黙って見つめていたソレアは、やがて少し落ち着いた口調で言った。 「わかったわ。詳しく話してちょうだい。何があったのか……。最初から、全て」  その言葉に促され、奈子は話し始めた。発端からこれまでの全てを。  自分が、別の世界の人間であること。  ファージの魔法の実験に巻き込まれ、この世界に来てしまったこと。  ファージと共に、異世界からやってきた魔獣と闘ったこと。  その魔獣の力を利用して、奈子が元の世界に戻れたこと。  ファージに呼ばれて、再びこの世界へやってきたこと。  二人で神殿の遺跡へ行ったこと。  そこでエイクサム・ハルという魔導師と出会ったこと。  エイクサムの魔法でファージが殺され、奈子も傷を負ったこと。  一度は元の世界へ戻ったものの、ファージの仇を討つためにこの世界へやってきたこと。  そしてファージが遺したメッセージに従い、ソレアに会いに来たこと。  ソレアは黙って聞いていたが、奈子の話が終わると小さな声で訊いた。 「そのファージの腕輪、いま持ってる?」  奈子は、腕輪をソレアに渡した。  考えてみれば、初めからこれを見せれば話は早かったかも知れない。この腕輪には、ファージが奈子に宛てたメッセージが遺されているのだ。  ソレアは、受け取った腕輪を念入りに調べている。  ファージの腕輪は金で出来ていて、大きな青い宝石――サファイヤだろうか――がはまっていた。 「そうか……」  しばらく腕輪を見つめていたソレアが急に、優しい、しかしどこか悲しげな表情でつぶやいた。 「あなたの言ったことは本当ね。ごめんなさい、疑ったりして。この世界の人間でないのなら、私の力が及ばないことがあっても仕方ないわよね」 「あ、あの……」 「ごめんなさいね。なまじ未来のことがわかるだけに、予想外の出来事が起こるとつい取り乱してしまうのよ。ナコちゃん……だったわね? なにも心配しなくていいわ。ファージがああ言った以上、私が出来る限り力になってあげるから」 「あ、ありがとうございます!」  奈子は立ち上がって、大きく頭を下げた。 「それでナコちゃんは、これからどうしたいの? 私に出来ることなら、何でも力になるわ」 「アタシに、魔法を教えてください」  奈子は、強い口調で言った。これはずっと考えていたことだ。 「闘いの技術は、一応身につけています。でも、エイクサム・ハルを倒すためには魔法の知識が必要です。少なくとも、あの男の魔法を防げるようにならないと……。ファージは言ってました。この世界ではアタシにも魔法が使えるはずだって。練習さえすれば……」 「……そうね、それは私の専門だし、全面的に協力出来るわ。そして……、無事に仇を討ったとして、その後は?」 「え?」  その質問に、奈子は途方に暮れたような表情になった。  ファージの仇を討つ。今の奈子にはそれが全てだった。  その先のことなんて。 「先のことなんて全然考えて……」  言いかけて、一つ大切なことを思い出した。 「……いえ、元の世界に戻るための、魔法の研究をします。ファージが研究していた転移魔法を」 「それは……、エイクサム・ハルを倒す以上に困難なことかもしれないわよ? ファージが長い時間をかけて、未だに完成していないのだから。一体何年かかるか……」 「それでも、やります。やるしかないんです。きっと戻るって、約束しましたから」 「約束? 誰と?」 「アタシの……」  そこで、奈子は暫し考え込んだ。  アタシの、何だろう?  只の後輩……とはちょっと違う。  幼馴染み?  親友?  それとも恋人? (冗談じゃない。アタシはノーマルだっ!) 「……大切な人です。少なくとも、ファージと同じくらいに」  その言葉で、ソレアが小さく微笑んだように見えた。 「最後にもう一つだけ。あなた、後悔はしていない? 死んだ人間のために、自分の生まれ育った世界、家族、友人、恋人、そういったものを全て捨てて……。帰れない可能性の方がずっと大きいのに。自分で、馬鹿なことをしたとは思ってない?」  奈子は目を伏せて、ぎゅっと唇を噛んだ。  しばらく間を置いて、小さくつぶやく。 「……まったく後悔していないと言ったら、嘘になります」  それだけ言って、言葉を切った。  肩が、微かに震えている。 「……でも、ここへ来なければ、きっと……もっと後悔したと思います。同じ後悔するなら、自分に恥ずかしくない生き方をしたい……。逃げたくありません」  奈子の目は、涙で濡れていた。  それでも、その口調からは強い決意が感じられる。  ソレアは満足そうに頷いた。 「素敵ね、ナコちゃん。ファージが、あなたを頼りにした理由がわかるような気がするわ。私も、あなたのこと気に入った」  そう言って、泣いている奈子の頭を優しく撫でてくれる。 「私もあなたとファージのために、出来るだけのことはするわ。これからは私が、この世界でのあなたの家族で、親友よ」 「ソレアさん……」  奈子は、ソレアにしがみついて大声で泣き出した。  そんな奈子をそっと抱き締めて、ソレアは哀れむような表情を見せる。 「ファージの馬鹿……。こんな子を巻き込むなんて……」  ソレアが小さくつぶやいた言葉は、泣きじゃくる奈子の耳には届かなかった。  奈子が泣き止んだのは、しばらく経ってからのことだった。  鼻をすすりながら、それでも無理に笑顔を作る。 「ごめんなさい、もう大丈夫です」 「泣きたい時は、思う存分泣いた方がいいわ。でも、落ち着いたのなら上に戻りましょうか。そろそろ、お客さんたちも待ちくたびれているでしょうから」  ソレアが扉に手を掛け、地下室から出ようとした時。 「その前に、一つ教えてください。ファージは何故殺されたんですか?」  奈子は訊いた。  ソレアの動きが止まり、扉に掛けた手を離して振り返る。 「ファージとエイクサム・ハルは、敵同士って雰囲気じゃありませんでした。それなのに何故……。ソレアさん、なにか心当たりはありませんか?」 「そうね……」  ソレアは唇に指を当てて、考え込むような素振りをする。 「どう説明すればいいかしら……。あなたが神殿の地下で見た大広間は多分、ストレイン帝国の時代の、ランドゥの神殿跡ではないかしら。ランドゥの神々を祭るための、魔法陣の役目を果たす施設……」 「でもファージは、あれはファレイアの神殿だって……」 「それは地上部分の話でしょう? 王国時代、古くからのランドゥの神殿はそのほとんどが破壊されるか、封印されたの。多分、トリニア王国の人々は、ランドゥの神殿の力を封じるために、その上にファレイアの神殿を築いたのでしょう」  ストレイン帝国で崇められていたランドゥの神々、トリニアで信仰されていたファレイアの神々、この二つは長く対立してきた宗教だ。 「ストレインやトリニアの時代、いわゆる王国時代には、今よりも遙かに優れた魔法技術があった。遠い昔に失われた、強大な竜騎士の魔法。王国時代の遺跡には、そうした力の秘密が隠されているの。エイクサム・ハルは、その力を今の世に甦らせようとしているに違いないわ」  奈子は、拳にぎゅっと力を込めた。 「じゃあ……その力を、独り占めするため?」 「……それもあるだろうけれど。エイクサム・ハルがランドゥの遺跡を調べて力を手にするためには、ファージが邪魔だったのよ。ファージや私はファレイアの神の御名を持つことからもわかるように、古くはトリニア王国の魔導師の家系。ファレイアの教義では、ランドゥは暗黒神で邪神よ。私たちは、ランドゥの力を封印しなければならない立場にあるの」 「そんな……。トリニアとストレインの戦争って、千年も前の話でしょ? それなのに何故?」  驚きと怒り、そして悲しみが微妙にブレンドされた表情で、奈子がつぶやいた。  千年も前に滅んだ国のために何故、いま人が死ぬのか。死ななければならないのか。  奈子には理解できない。 「たとえ何千年経っても、王国時代の大いなる力を利用しようとする者がいる限り、ファレイアの名を頂く私たちにはそれを阻止しなければならない義務があります。ナコちゃんがそれを理解するには、時間がかかると思うけれど……」 「理解できません、アタシには。どうしてそんなことのために、ファージが死ななきゃならなかったのか……。竜騎士の力って、そうまでして手に入れたいものなんですか? ファレイアとか、ランドゥの神々って、一体なんなんですか?」 「……力は、神々からもたらされた。王国時代の末期、その力は世界を一度滅ぼしかけた。そして……」  言いかけて、しかしソレアは途中で言葉を切った。 「……多分、いくら口で説明したところで、すぐには理解はできないでしょうね。あなたも、ここで長く暮らせば少しずつわかってくるわ。一つだけ覚えておいて、人は、力を求めるものだって事を」  そう言って、ソレアは地下室の扉を開けた。 「さあ、もう戻りましょう。いずれにせよ、エイクサム・ハルとの決着をつけるのは、まだ先の話よ」  奈子は慌てて、階段を登っていくソレアの後に続いた。 * * * 「それにしても、よりによってマイカラスでクーデターとはな」  テーブルの上に肘をついて――あまり行儀の良いことではないのだが――エイシスが言った。 「マイカラスの王と言えば、慈悲深くて、民にも慕われていると聞いていたけどね」  ハルティとアイミィは黙っている。  ソレアはすっかり冷めてしまったお茶を入れ直していて、奈子がそれを手伝っていた。  水を入れたポットに向かってソレアが呪文を唱えると、それはたちまち熱い湯に変わる。 「単に欲に目が眩んだだけとも思えないしな……。マイカラスは土地こそ広いが大半は砂漠、経済的、軍事的には所詮小国だ。力づくで王位を簒奪したところで、大した儲けになるとも思えんが。前王の人気と、儲けを考えたら、割の合わん賭けだぜ?」  ソレアは黙って、五つのカップにお茶を注ぎ分ける。  奈子がそのカップをテーブルに運び、ハルティ、アイミィ、エイシスそれぞれの前に置くと、自分もアイミィの隣の席に着いた。  カップを口に運びながら、ちらりと奈子の方を見たアイミィは、奈子の目が少し赤くなっていることに気が付いた。まるで、つい先刻まで泣いていたかのように。  アイミィは不思議そうに見つめるが、奈子はソレアの方を向いているので視線には気付かない。 「……それとも、なにかレクトン・ソルに恨まれるようなことでもあったのか?」 「父は、他人の恨みを買うような人ではありません!」  エイシスの言葉に対し、アイミィが大声で反論する。 「そうです。父が悪政を行っていたためにクーデターが起きたのならともかく、私にはそうは思えません」  ハルティも口を開く。 「ならば、私には王の子としての責任と義務があります。国にはまだ、私に味方してくれる者もいることでしょう……」  ハルティの言葉が終わらないうちに、突然、奈子が立ち上がった。  椅子がガタンと大きな音を立て、ハルティとアイミィが、びっくりして奈子を見る。 「……そうよ、闘うべきだわ。理由もわからずに殺されるなんて、そんな理不尽なこと、許しちゃいけない。闘うべきだよ!」  力強く言うと、拳でドンッとテーブルを叩く。 「ね、そうでしょ? アタシも一緒に闘うわ。いいでしょ、ソレアさん?」  少しの間、黙って奈子を見つめていたソレアだが、やがて小さく頷いた。 「そうね、ナコちゃんがそうしたいのなら。勿論、私も手伝います……」 「エイシスも?」  奈子が、エイシスに視線を移す。 「俺が? 何故? 俺が請け負ったのは、二人をノミルまで護衛することだぜ?」 「何故……って、あんた、こんなこと許しといていいの?」 「興味ないね。俺は、金で請け負った仕事をするだけの傭兵さ。ついでに言えば、必要以上にヤバイ仕事には手を出さないのが長生きの秘訣ってもんだ」 「あんたって……」  奈子の眉が吊り上がる。今にもエイシスに殴りかからんばかりの形相だ。  険悪な二人の様子を見て、ハルティが口を挟む。 「……無論、事が成った暁には、望むだけの報酬をお約束しますが」 「俺は基本的に、前金なしでは仕事を受けないんだがね。それにこの仕事は、何かヤな予感がするんだよな」 「それなら、私が前金を払いましょう。それならいかが?」  そう言ったのはソレアだ。四人は揃ってソレアの方を見る。 「ソレアさん、どうして……」 「あんたに、そうまでする義理があるのか?」  ソレアは、静かに微笑んで言った。 「……お願い、エイシス。ナコちゃんの力になってあげて」 「……」  奈子が何か言いたそうに口を開いたが、結局、そのまま黙ってしまった。 「まあ、あんたがそう言うんなら……」  エイシスは、ちょっと困ったように頭を掻いた。 「仕方ない。美しい女性の頼みを断っちゃ、男が廃るからな」  ハルティとアイミィの顔がぱっと明るくなるが、対称的に、奈子は面白くなさそうにつぶやいた。 「アタシの言うことは聞かなかったクセに」 「ガキに興味はない……」  言い終わらないうちに、バシッという音がしてエイシスが鼻を押さえた。  指の間からぽたぽたと落ちた血が、真っ白いテーブルクロスに染みを作っている。それを見たソレアが顔を顰めた。 「誰がガキよっ!」 「……何だ、それ?」  エイシスは鼻血を拭きながら、目の前に突き出された奈子の拳を見つめた。裏拳で殴られたのだが、あまりにも速い動作に何が起きたのか理解できていない。  ハルティとアイミィは、きょとんとした顔で二人を見ている。 「最初に見た時から不思議だったんだが……。一体何なんだ、お前の技……?」  奈子はその質問を無視して腰を下ろした。まだ少しお茶が残っているカップを口に運ぶ。 「……まあ、いいか」  エイシスが小さく溜息をつく。 「それより、最初の問題だ。マイカラスの国王は民の信頼が篤い。そこでクーデターを起こしたところで、成功の可能性は高くはない。そんなリスクを背負ってまで、クーデターを起こした訳は何だ? マイカラスを手に入れたとして、レクトン・ソルは何を得ると言うんだ? あんたの力なら、それくらいのことは見通せるんだろう?」  エイシスは、ソレアに向かって言った。  ソレアは数秒間考え、それから口を開いた。 「何も得るものはありません。少なくとも、レクトン・ソルにとっては」 「レクトン・ソルにとっては……。では、他の者にとっては得るものがあると? レクトン・ソルの背後に、黒幕がいると言うのですか?」  ハルティが驚きの声を上げる。  ソレアはハルティを見て、それから他の全員を見回した。 「マイカラスは古い国よ。王家の血筋は千年以上も昔、トリニアの時代まで遡ることが出来る。そこには古い知識が残されている。古い知識は、すなわち力。それを必要としている者にとっては……」  ソレアは、真っ直ぐに奈子を見つめて言った。 「マイカラスには、ランドゥの神殿があるわ。トリニアの時代に封印された、それ故に王国時代末期の戦争による破壊を免れた神殿が」 「ランドゥの神殿? そんなものが?」  エイシスは驚いて、ハルティの方を見た。エイシスと目の合ったハルティが、微かに頷く。 「ええ、北のはずれの方に、王国時代以前の古い遺跡があります。でも、あれが封印されたランドゥの遺跡ということは、アイサール家の者しか知らないはずですが……」 「……ランドゥの神殿……まさか……エイクサム・ハル……?」  奈子はその名を、絞り出すようにつぶやいた。  握り締めた拳が、小さく震えている。 「……あいつが、マイカラスにいるって言うの……? あいつらが、黒幕……?」  奈子の問いに、ソレアは静かに頷いた。 「エイクサム? 誰だ?」  エイシスが首を傾げる。 「魔術師……よ。とても強い力を持った、ね」 「あんたよりも?」 「おそらく。エイクサムたちが遺跡で『竜騎士の血』を手にしていれば、今の私の力を遙かに凌駕するはずです。その力で貴族たちを操り、マイカラスを手中に納めようとしている。正確に言えば、目的はマイカラス王国ではない、マイカラスに遺された遺跡と、その遺跡に関する知識、外部の人間には洩らされることのない知識なのです」 「なんてこった……」  エイシスが珍しく、深刻そうな表情でつぶやいた。 「ただでさえ分の悪い喧嘩だと思っていたが、よりによって、竜騎士の力を受け継ぐ魔術師とは……」  ハルティやアイミィも、暗い表情になる。 「勝算はあるのか? 相手にそれだけ力のある魔術師がいるとなると、こっちもそれなりの戦力が欲しいところだが」  エイシスが、腕組みをして言った。 「そういやソレア。あんたの知り合いに、凄い力の魔術師がいるって噂を聞いたことがあるが……。ほら、外見は十五、六の小娘のくせに、竜騎士の魔法も使えるって奴。そう、ファーリッジ・ルゥとかいう……」  エイシスの言葉は、耳障りなガチャン! という音で遮られた。  手を滑らせてカップを落とした奈子が、引き吊った表情をしている。  エイシスの鼻血に続いてお茶の染みが広がったテーブルクロスを見て、ソレアが諦めたように言った。 「……これはもう駄目ね。取り替えましょう。アシランペ・エン」  ソレアがクロスに手を掛けて呪文を唱えると、次の瞬間それは新しい布に変わっていた。 「ファージ、ファーリッジ・ルゥは今……ちょっとね……。力を借りることは出来ないの」  テーブルクロスを替えながら、ソレアは出来るだけ何気なく言ったつもりだったが、エイシスとハルティ、そしてアイミィの三人は、急に俯いてしまった奈子の様子を不思議そうに見つめていた。 三章 マイカラスの闘い  深夜、この家の誰もが寝静まった頃。  明かりもつけずに部屋の中を歩くひとつの人影があった。  暗闇の中でも目が見えているのだろうか。きょろきょろと周囲を見回すと、扉のひとつに向かう。  足音はまったく立てない。  その人影が、扉に手を掛けた瞬間。  突然、明かりが灯り室内を照らしだした。  それは、真っ黒い装束に身を包んだ男。  顔を隠しているので、年齢などはわからない。左手に、短剣を握っている。  暗闇に目が慣れていた男は、突然の明かりに驚き、目を細めて周囲を見回した。  そして、背後に先刻まではいなかったはずの、髪の長い女性が立っていることに気がついた。 「この、ソレア・サハの家に忍び込むとは、いい度胸ですね。誰の差し金かしら?」  腕組みをしたソレアが、静かな口調で言う。  男は何も応えない。 「私には人を傷つけることは出来ませんが、幸い今夜は、そういうことが得意な方も滞在していますよ?」  ソレアがそう言って笑うのと同時に、男は大きな窓の方へ走り出そうとした。が、その試みは未遂に終わる。  窓の方へ一歩足を踏み出したところで、見えない壁にぶつかったかのように立ち止まった。  自分の意志で止まったのではない。脚が動かないのだ。 「な、何だ?」  覆面で顔を隠しているので表情は見えないが、それでも男が驚いているのがわかる。 「人を傷つけることは出来ませんが、捕まえることくらいは出来ますのよ」  さも可笑しそうに言うソレアの背後で、扉が開いた。 「こんな夜中に、何やってるんだ?」  扉からエイシスが顔を出す。その手には大きな剣が握られている。  続いて、男が開けようとしていた扉が開き、奈子が姿を現した。 「何かあったの?」  エイシスは、ソレアと、黒装束の男を交互に見た 「……夜這いか?」 「どうやったらこの状況で、そんな発想が出来るんですか?」  エイシスの後ろにいたハルティが、小声で言う。 「私はこんな人、好みではありませんよ。それに、目的は私ではないようですし」  とソレア。 「もうここまで手が回ったのか。王子を暗殺するにしても、たった一人で忍び込むとは、俺たちもなめられたものだな」 「そうね、もう少し数を揃えてくるかと思ったけど……」  ソレアはそこで言葉を切り、あっと声を上げた。奈子の方に向き直る。 「ナコちゃん!、姫様を一人にしちゃ駄目!」  奈子も、その言葉の意味をすぐに理解した。慌ててアイミィと二人で寝ていた寝室の方へ引き返す。 「あなた……囮にされたわね?」  ソレアが、男に向かって言った。  奈子が、短い廊下を一瞬で走り抜けて寝室へ戻ると、つい先刻までアイミィが寝ていたベッドは空になっていた。  そして、眠っているアイミィを腕に抱えて、一人の男が立っている。  寝室の入り口に背を向けていた男がこちらを振り返った時、奈子は思わず驚愕の声を上げた。 「……リューイ・ホルト?」 「おや、お前は……。妙なところで会うな」  男はやや驚いたように言った。  間違いない。ファージを殺したエイクサムの仲間の魔術師だ。 「……やっぱり……マイカラスのクーデターには、あんたたちが関わっていたの?」  リューイは口の端を軽く上げて笑った。 「折角エイクサムに助けてもらった命だ。詰まらぬことに首を突っ込まない方がいい」  それだけ言うと、アイミィを抱えたままリューイの姿がすぅっと消えていく。 「ま、待てっ!」  奈子が慌てて短剣を抜いて飛びかかるが、一瞬遅い。短剣は空を切っただけだった。 「おい、どうした。何があった?」  エイシスとハルティが部屋に入ってくる。  そして、空のベッドを見て目を見張った。 「ごめんなさい……。アタシがここを離れたばっかりに……」  奈子が涙目でそう言うのと、ソレアが部屋に入ってくるのが同時だった。 「どうしたの?」  ソレアの質問に、エイシスが両手の掌を上に向けた。 「……遅かったみたいだ。そっちは?」 「やられたわ。帰りがけに、始末していった……。まあ、どっちにしろあの男は何も知らなかったでしょうけど」 「……ごめんなさい……ごめんなさい……」  泣きながら繰り返す奈子の肩に、ハルティがそっと手を掛ける。 「いえ、ナコさんの責任ではありません」  そう言うハルティの顔も、心持ち青ざめていた。 * * * 「何故、連中は姫様を攫ったのかな?」  路の上の小石を蹴りながら、奈子は言った。 「それはやっぱり、ハルティ殿下を誘き出すための人質でしょう? 王子に直接手を出すより、簡単でしょうから」  ソレアが答える。  アイミィが攫われた翌日、四人はマイカラス王国の王都へとやってきた。  ハルティはここではあまりにも顔を知られているので、王都に住んでいるソレアの知り合いの家に隠れている。エイシスはその護衛だ。  女二人だけの方が怪しまれない、ということで、奈子とソレアが王都の様子を偵察している。勿論、アイミィが捕らわれていそうな場所を探すために。  マイカラスがいくら小国とはいえ、王都ともなるとそれなりに大きな街だ。ルキアやタルコプなど比べ物にならない。  大きな石造りの建物が並び、主な通りは、石畳の舗装がされている。  しかし街の規模の割には、通りを歩いている市民の数はそれほど多くはない。その代わり正規軍の兵士や、傭兵らしき連中の姿が目につく。 「前王は民衆に人気があったから。クーデターは起こしたものの、レクトン・ソルもその後が大変でしょう」  周囲には聞こえないように、ソレアが小声で言う。 「それも、姫様を攫った理由の一つかしら」 「どーゆーこと?」 「確か、レクトン・ソルは数年前に奥さんを亡くしているはずよ。王子を亡きものにした後で残されたアイサール家の娘を妻にすれば、親アイサール派の人たちだって、公然と刃向かうことは出来ないでしょう?」 「そんな!」  奈子の眉が吊り上がる。 「冗談じゃない! そんなこと、絶対に許さないわ」 「ナコちゃん、声が大きい」  ソレアは、奈子の唇に人指し指を当てる。 「大丈夫よ。ハルティ王子が生きているうちは、姫様も無事でしょう。ナコちゃんも、あまり責任を感じないで」 「でも……」 「大丈夫」  ソレアがもう一度繰り返す。  ソレアの言葉には、なにか、人を安心させる不思議な力があるようだ。奈子の不安が薄らいでゆく。 「それよりも、問題はリューイ・ホルトが敵にいたってことよね」  ソレアが一層声を落としてつぶやく。それにつられて、奈子の声も小さくなる。 「やっぱり、エイクサムもいる?」 「いる、と考えた方が自然でしょう」  二人が通りの角を左に曲がると、大きな屋敷が視界に入った。 「ここが、レクトン・ソルの屋敷よ」  見ると、門の周囲には、多すぎる位の兵士たちが警備している。 「ナコちゃん、今は騒ぎを起こしちゃ駄目よ」  門の前を横切る時、奈子の表情が険しくなっていることに気付いたソレアが耳元で囁く。奈子は顔を顰めた。 「わかってる。わかってるから、耳に息かけないで」 「感じやすいんだ?」  その言葉に、奈子は思わずソレアから一歩離れる。 「そ、ソレアさんって……。ソレアさんまで、そっちの人?」  奈子の慌て振りが可笑しいのか、ソレアはくすくすと笑った。 「私は別に……。ファージとは違うわ」 「……って、ファージってやっぱり……?」 「別に女の子専門って訳じゃないけどね。七対三くらいで、女の子のほうが多かったかな」 「七対三って……、そんなにたくさん?」  奈子は呆れたような表情を見せる。そんな話は聞いていなかった。 「そういえば、ナコちゃんの剣……」  ソレアはふと、思い出したように言った。 「ファージが昔、好きだった男の子の形見だって知ってた?」 「えぇっ?」  意外な言葉に思わず大声を上げたが、レクトンの屋敷の門からはもう離れていたので、特に気に止める者もいない。 「だ、だって、あの剣をくれた時、ファージは何も言わなかったよ? そんな大切な物を……」 「そうね、私も驚いた。ファージはその男の子のこと、本当に好きだったらしいから。きっと、ナコちゃんのことも同じくらい好きで、そして信頼していたのでしょう」 「それで……その男の子とは?」  奈子は何気なく聞いたのだが、ソレアは、一瞬言葉に詰まった。 「……死んだわ、ずいぶん昔に。魔物からファージを護ろうとして、殺されたって聞いてる」 「そんな……」  奈子は、俯いてつぶやいた。 「アタシってば、その同じ剣を持ちながら、ファージを護ることも出来なかった……」 「ナコちゃん……」 「アタシって……」  奈子の目に涙が浮かぶ。 「泣かないで、あなたは悪くないわ。ナコちゃんは今、ここにいる、ファージのために。それだけで十分よ」  ソレアは奈子の肩に手を置く。 「それに、今は泣いている場合ではないでしょう。私たちには、他にやらなければならないことがあるのよ」 「……ん」  手の甲で、滲んできた涙を乱暴に拭う。  角を曲がってレクトンの屋敷が見えなくなったところで、二人は一旦立ち止まった。 「あれだけ近付いても、屋敷の中に姫様が捕らわれているかどうか、わからなかったわ。かなり強力な結界が張られているわね。これでは中に転移も出来ないわ」 「エイクサムやリューイの力?」 「そうね……」  ソレアは口に手を当てて考え込む。 「私が知っているあの二人の力は、こんなに強くないはずなんだけど……。これが王国時代の力……かしらね」  少し悔しそうだ。 「どうするの? 王宮の方も行ってみる?」 「そうね、結界があるのは王宮も一緒でしょうけど、一応行ってみましょう」  二人はまた歩き出す。  今度の目的地は、レクトンの屋敷から一キロちょっと離れたところにある、マイカラスの王宮だ。アイミィが捕らわれているとしたら、このどちらかだろうというのが、四人に共通した意見だった。  あまり人目に付かないように、裏道を選んで歩いていく。  それでも幾度か兵士たちと擦れ違ったが、特に怪しまれている様子はない。これが、見るからに傭兵然としたエイシスが一緒だったら、事情は違っていただろう。 「ソレアさん、ソレアさんの占いの力って、とても、強いものなんですよね?」  不意に、奈子が言った。 「だったら、これから起こることも、わかるんですか? 私たちの計画がうまくいくかどうか、レクトン・ソルを捕らえられるかどうか、そして、エイクサム・ハルを倒せるかどうか……」 「そうね、普段なら、かなりのことがわかるわ。でも、今は駄目……」  ソレアは、小声で答えた。  「ナコちゃんが関係者だから。私の占いの力では、ナコちゃんの未来はわからない。ナコちゃんが私たちの未来に影響力を持つ因子である限り、私自身のことも、王子や姫様のことも、未来はわからないの」  第一、占いとか予言というものは万能ではない、それは無数の未来の中から可能性の一つを提示するに過ぎない――ソレアは、そうも付け加えた。 「さあ、もうすぐ、王宮が見えるわ」  だが、ここを抜ければ王宮の近くに出るという路地で、奈子とソレアは三人の兵士に進路を塞がれた。 「お嬢さん方、こんなところで何をしているのですか?」  言葉遣いは丁寧だ。が、兵士たちの鋭い目には、明らかに二人に対する疑惑の色が浮かんでいる。  奈子が慌てて後ろを振り返ると、そちらも四、五人の兵士が立ち塞がっていた。 「どうも先刻から、何かを探っているようですが……、二人とも、王都の人間ではありませんね? あなた方は何者で、ここで何をしているのですか?」  年の頃三十歳くらいの、精悍な顔つきの兵士が、一歩前へ出て尋ねた。  他の者達は、剣の柄に手を掛けている。  奈子も思わず腰の短剣に手を伸ばしそうになったが、ソレアがそれを止めた。 「心配しなくていいわ。私に任せて」  静かに微笑んでそう言うと、ソレアは正面の兵士に向き直った。  数秒間、何も言わずにじっとその兵士を見つめる。 「別に、怪しい者ではありませんわ。目的はあなた方と同じですから」 「何ぃ?」  兵士たちが、怪訝そうな顔をする。 「レクトン・ソルに従う振りをしながら、実は彼らより先に行方不明の王子と姫を保護するために捜索している……、違いますか?」 「な、何故それを……」 「バカッ、黙っていろ」  兵士の一人が思わず声を上げ、同僚に窘められる。 「どうやら、詳しく話を聞く必要がありそうですね。一緒に来ていただけますか?」  大人しくついて来なければ、ただではおかない。そんな表情をしながらも、ソレアの前の兵士は静かな口調で言った。 「ええ、いいですよ。あなた方に指示を出しているのは、ニウム・ヒロ様でしょう? あの方に会わせていただければ、きっと疑いは晴れるでしょうから」  ソレアが口にした名前に、兵士たちの間にまた動揺が走った。 「あなた……、魔術師ですね。それも、相当な力を持った……」  ソレアは、無言で頷いた。 * * *  周囲を屈強な兵士たちに囲まれて二人が連れて行かれたのは、街の外れにある立派な屋敷だった。  大人しくついていっていいものかどうか、奈子は不安だったが、ソレアが黙っているので従うほかはない。  屋敷の客間に通される。待っている間にソレアにいろいろと尋ねたいこともあったのだが、見張りが付いているので迂闊なことは口にできなかった。  やがて、体格の良い初老の男性が姿を現すと、ソレアはにっこりと微笑んで立ち上がった。  その男性は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに親しげな笑みを浮かべる。 「お久しぶりです。ニウム・ヒロ様」 「おお、ソレア・サハ殿ではないか。何故貴女がここに?」  二人は顔見知りなのだろうか。奈子と見張りの兵士は、事情がわからずにきょとんとしている。  その様子に気づいたソレアとニウムが、それぞれ事情を説明する。 「この方はニウム・ヒロ様といって、長年この国の騎士団で、剣術の指南役を務めている方よ」 「この女性は、お前も聞いたことがあるだろう、かの高名な魔術師ソレア・サハ・オルディカ殿だ」 「あの、お知り合い……ですか?」  奈子と兵士が、異口同音に尋ねる。 「以前、儂が戦でレイアカルアへ遠征した時、随分と世話になってな。なにしろソレア・サハ殿の占いの力は、大陸でも指折りだからの。ところで、マイカラスへは何用で参ったのかな?」 「それは、言うまでもないでしょう?」  それだけで、ニウムは納得した顔になった。 「ふむ、なるほど。……しかし、政治には極力関わりたくないと言っていた貴女が何故?」 「それが、そうも言ってられなくなりました。実は、ハルティ殿下は私達が保護しています」 「な、何ですとっ?」  ニウムは驚き、椅子から腰を浮かしかける。 「そして今回のクーデターには、私とこの子、ナコの仇が関わっているらしいのです」 「ふぅむ……」 「そういうことですので、力を貸していただけますね?」  椅子に深く座り直して、ニウムは頷いた。 「これは大変なことになった。詳しく話を聞かせていただこうか……」 * * *  一時間ほど後、ニウムの屋敷を出た奈子とソレアは、王宮の間近までやってきた。 「駄目ね。やっぱりここも強力な結界が張られているわ」  ソレアが嘆息混じりにつぶやいた。 「でも……」  と奈子が言う。 「少なくとも、レクトン・ソルはここにいるみたいですね」  王宮の周囲を、レクトンの屋敷よりも遥かに多い兵士たちが護っていた。 「そうね。どうする?」 「どうするもこうするも、予定通りやりましょうよ。結界が張られているのは予想してたことなんだし」 「できれば、エイクサムたちがいるかどうかを確認したいところだけど……」 「どうせあいつらとも、いつかは闘わなきゃならないんだし、いつだって同じですよ」  奈子はそう言って、大勢の兵士達が固めている門の方へ歩いていく。 「正直に言って、今はまだあいつらとやりあいたくないの」 「アタシじゃ、勝てませんか?」  奈子が振り返る。ソレアはすぐには答えない。 「……わからないわ。ただ、ひとつだけ言っておくけど、決して無理をしちゃ駄目よ。生きてさえいれば、何度でもやり直せるんだから」 「ソレアさん……、アタシの先輩みたいなこと言ってる」 「先輩?」 「アタシに闘い方を教えてくれた先輩の口癖。たとえ今日負けても、生きていれば、明日勝つことも出来る、って」 「でも、それが真実でしょう?」  ソレアの言葉に大きく頷いて、二人は門に向かって歩いて行った。  現在、王宮の門は開かれている。  その門を平然とくぐろうとする二人を、警備の兵士たちが止めた。 「何だ、お前達は?」 「ここを通しなさい」  ソレアが強い口調で言う。 「何だと? 一体誰の許しを得て……」 「私には、誰の許しも必要ありません」  兵士たちの制止を無視して、門の中に足を踏み入れる。 「おい、待て……」  兵士の一人がソレアの肩を乱暴に掴み、数人が剣に手を掛ける。  だが、ソレアは平然と言った。 「ここを通しなさい」  同時に、兵士は掴んだ肩を放す。  周囲の兵士たちも、剣に掛けた手を下ろして道を空けた。 「では、通りますよ」  ソレアはごく自然に歩いていく。その後に、幾分不安そうな奈子が続く。  二人を、兵士たちは無表情に見送っていた。 「魔法で人の心を操ることが出来るって、こういうこと? エイクサムも、こうしてレクトン・ソルを操ったの?」  門から十分に離れたところで、奈子が囁いた。 「そうよ」  ソレアは直接城には向かわず、敷地内にある小さな建物のひとつを目指した。どうやら、庭師が道具類を置いている物置小屋らしい。 「すごく難しい魔法だって言ってなかった?」 「そうよ、魔法というのは、自分の体内に働きかけるのが最も容易で、逆に、他人の体内や精神に働きかけるのが最も困難なの。そこは相手の抵抗力が、最も強く働く場所だから」 「それなのに、あの人数を一度に操れるの?」  奈子の質問に対して、ソレアは黙って手を開いて、持っていたものを見せる。 「これって……」  そこには、十数枚の魔法のカードが握られていた。 「と、いう訳よ」  ソレアが微笑む。 「カードには、魔力を補う物と、魔法を制御する能力を補う物の二通りがあって、これは前者の方。これによって、自分が制御出来る最大限の力を行使することができるわ」 「ファージもたくさんのカードを持っていたけど、一体この魔法のカードって、どうやって作るんですか?」 「植物の中にはいくつか、魔法的な力を持つものがあってね、例えば私の杖はオルディカという樹で作られていて、持つ者の魔力を増幅し、逆に自分へ向けられた魔力を削ぐことが出来る。カードは、そんな植物の一種、トゥルニの樹から作った紙に、耐火、耐水の加工を施したものよ。……さて、この辺りでいいかしらね」  物置の影に隠れると、ソレアは杖を取り出した。地面に魔法陣を描き始める。 「これだけ強い結界を張られると、外から転移魔法で侵入するのはまず不可能だけど、術者が結界の中にいれば事情は違ってくるわ」  魔法陣を描き終わると、その中心に杖を突き立てて、呪文を唱える。  一瞬、魔法陣が光に包まれ、光が消えるとそこに二人の男が立っていた。ハルティとエイシスだ。 「無事に、王宮の中に入り込めたわ」  辺りを見回している二人に、ソレアが告げる。 「……の、ようだな。我ながら無謀な作戦と思ったんだが……意外と上手く行くもんだ」  感心したようにエイシスが言う。奈子は呆れた。 「言い出しっぺがそういうこと言っていいの?」 「ちょっとくらい無謀な作戦の方が、意表を突いてていいのよ」 「じゃあ、手はず通りに行くか。俺が正面で騒ぎを起こして、城内の兵士達を引き付ける。その隙に、あんたら三人が、抜け道を通って王の間を目指し、レクトン・ソルを討ち取る。いいな? じゃ、行くぞ」  三人が頷き、エイシスと別れて城の裏庭の方を目指す。しかし数歩行ったところで、エイシスが不意に奈子を呼び止めた。 「あ、ナコ。ちょっと来い」 「なによ」  奈子は立ち止まって、首だけエイシスの方へ向けた。  側へ来たエイシスが小声で言う。 「わかってるな。今回は王子の命を護ることが最優先だし、ソレアは闘いには向かない。お前が、王子を護るんだ。それが戦士の役目ってもんだ」  お前が、のところを特に強調する。 「わかってるよ。今度は、絶対に負けない」 「それからもう一つ。あまり思い詰めるなよ。もっと気楽に生きた方が人生楽しいぞ。俺みたいに」 「あんたは気楽すぎるんじゃないの? でも、ま、この闘いが終わったら、ちょっと考えてみるよ。じゃ、アタシは行くから、あんたも気を付けて」  それだけ言うと、奈子は先に行ったソレアとハルティを追って走り出した。  エイシスは、その背中に向かって言った。 「当然だ。生き残らなきゃ、報酬にありつけんからな」  奈子は苦笑する。やれやれ、命の心配より、金の心配か。  ソレアとハルティは、少し行ったところで奈子を待っていた。 「何だったの?」 「別に、何でもない」  奈子はそれだけ言うと、二人と一緒に城の裏の方へ向かう。  しかし、心の中で、エイシスの言葉を思い出していた。 (もっと気楽に……か、確かに、その方が楽かもね)  しかし、それはこの闘いが終わってからのことだ、と思う。 (アタシは、気楽に闘うことなんて出来ない。アタシは今、獣になりたいんだ、一頭の、血に飢えた野獣に……)  「さて、そろそろやるか?」  門の近くまで戻ったエイシスは、城の建物の方を向いてつぶやいた。  門のところにいる兵士たちは外ばかり警戒していて、中にいるエイシスには注意を払わない。 (まさか、コレを使うことになるとはね……)  エイシスは、両手の指を組み合わせて複雑な印を結ぶと、ゆっくりと呪文を唱え始めた。  決して大きな声ではない。しかしはっきりと、よく通る詠唱だった。 「天と地の狭間に在るもの  力を司る者達よ  我の呼びかけに答えよ」  そこで一度言葉を切り、意識を集中して深く息を吸い込む。 「風よりも疾きもの  炎よりも熱きもの  大地よりも広きもの  流れる清水よりも清きもの  我が言葉に応え、我の元に集え……」  エイシスを中心にして、風が静かに渦を巻き始めた。  この時になってようやく、門の処にいる兵士たちもエイシスに気付いたようだ。  ある程度の魔力を持つ者なら、エイシスを中心とした不自然な魔力の流れにすぐに気付くはずだ。  そうして、城内の戦力を一人でも多く自分の処に集めること、それが目的だった。 「我は命ずる  力ある言葉に従い  汝らの力を解き放ち  数多の世界より  我の元に届けんことを  ――光よ!」  呪文の最後の一言と同時に、城門が白い光に包まれた。  天地がひっくり返るかというような轟音が周囲に響いた時、奈子達三人はちょうど裏庭の茂みの中に隠された古井戸――にカムフラージュした城内への抜け道――に着いて、縄梯子を下ろしたところだった。  爆発が起きることは予想していたとはいえ、そのあまりの大きさに三人はびくりと身体を震わせた。 「これ……エイシスの魔法? まさか、エイクサムかリューイが……」  奈子は不安そうにつぶやいた。  少しの間呆然としていたソレアが、左右に首を振る。 「いいえ、これは精霊魔法だもの。エイクサムの力じゃないわ」 「でも、精霊魔法って……」  ソレアに疑問の目を向ける。  奈子の知識では、精霊魔法は上位魔法に比べて力が劣るということになっている。  手軽に細かな制御が出来るので、生活の中では多用されているが、戦闘に用いるとなると、その名の通り上位魔法の方が力は上だ。  但し、それはあくまで一般論に過ぎない。 「四大精霊の魔法とはね……。珍しいもの、見ちゃった」  ソレアが感心したようにつぶやく。 「四大精霊の魔法……?」 「大陸中を探しても使える者は数えるほどしかいない、強力な精霊魔法よ。詳しい説明は後。それより急ぎましょう。この分なら、エイシスの方は大丈夫そうだし」  ソレアが奈子を促す。  ハルティは、既に縄梯子を降り始めていた。奈子も慌ててそれに続き、最後にソレアが降りる。  それは、実際には使われていない枯れ井戸だった。井戸の底は真っ暗だったが、ハルティが呪文で小さな光を作り出す。 「それで、抜け道っていうのは?」 「確かこの辺りに……、あった」  周囲の石を叩いて調べていたハルティが石の一つを押すと、それはぐぅっと奥に引っ込み、大人一人がやっと通れるくらいの狭い横穴が開いた。 「ここを通れば、誰にも気付かれずに王の間まで行くことが出来るはずです。この道のことは、レクトン・ソルも知りません」 「じゃあ、行きましょうか。アタシが先頭を行きますから、殿下はその後に。ソレアさん、後ろをお願い」  その提案にソレアは黙って頷いたが、ハルティが異を唱える。 「それは危険です。私が前を行くべきでしょう」 「王子……」  横穴に身体を半分滑り込ませた奈子が、振り返って言った。 「レクトン・ソルの狙いは、あなたの命なんですよ。それに、魔法を使えないアタシが後ろにいて、何の役に立つんですか。アタシは女だけど、戦士なんです。あなたに前を歩かせるわけにはいきません」 「魔法を使えない……?」  ハルティの怪訝そうな表情で、自分の失言に気がついた。ソレアも軽く眉をひそめている。  この世界では、人によって力の差はあれ、まったく魔法を使えない者など皆無なのだ。これでは、自分は普通の人間ではないと宣言してしまったようなものだ。 「ナコさんって、一体……?」 「……その話は、後。今はそれどころではないでしょう?」  奈子が内心の動揺を隠しながら言う。 「……そうですね」  あまり納得した様子ではなかったが、ハルティが一応引き下がったので、奈子は横穴を進み始めた。  石造りの横穴は、大人一人がやっと通れるくらいの幅だったが、意外と天井は高く、百八十センチほどの身長のハルティでも、ぎりぎり身を屈めずに歩くことが出来た。  長らく使用されたことがないのだろう、足元には厚く埃が積もっており、所々水も溜まっていて、かび臭い匂いが充満している。  しばらく進むと上へ昇る狭い階段がある。どうやら王宮の建物の中へと通じているらしい。  奈子は、慎重に周囲の気配を探りながら進んで行った。  その間にも何度か外で爆発音が響き、天井からぱらぱらと砂が降ってくる。奈子は、頭に積もった砂を手で払い落とした。 「派手にやってるなあ。あいつの報酬から、城の修理代を引いた方がいいんじゃない?」 「まあ、建物だけの被害なら、いいじゃないですか」  ハルティが苦笑する。 「そんな甘いこと言ってると、あいつ好き放題やっちゃうよ。……ところでソレアさん、魔法で、この先の様子とか透視できない?」  奈子が後ろを振り返って尋ねる。 「できなくもないけど……。もし城内にエイクサムがいたら、こんな処で魔法を使うと見つかってしまうわ」 「そっか……。このまま行くしか、ないか」  敵に気付かれずに中枢まで入り込めなければ、こちらに勝ち目はない。見つかる危険は冒せない。  前を向いてまた歩き出した。途中でまた何度か階段を昇る。  やがて一際大きな爆発音が響いた時、三人は、通路が行き止まりになっている処に出た。 「この向こうが、王の間です。隠し扉になっているはずです」  ハルティが抑えた声で言う。  奈子はごくりと唾を飲んだ。 「レクトン・ソルがここにいるとして……、当然、護衛とかもいるんだろうね?」 「それは当然でしょう。そしてあるいは、エイクサム・ハルも……」  ソレアの言葉に、奈子の肩がぴくりと動く。  目を閉じて、大きく深呼吸をした。 「ナコちゃん。第一の目的は王子を護り、レクトン・ソルを捕らえること。わかってるわね?」 「わかってる、わかってるよ……」  奈子は、行き止まりの壁をじっと見つめながら言った。 「でも……あいつがいたら、私は絶対に許さない……」  壁に手をつき、爪を立てる。 「私は……、エイクサムを、殺す」 「ええい、エイクサム・ハルは何をしておるのだ!」  玉座に座ったレクトン・ソルは、誰に言うとでもなく忌々しげにつぶやいた。  前王の娘アイミィを手中に納め、後は王子を片付けさえすればなにも問題はないはずだった。  そう思っていた時に起こった爆発は、今も断続的に続いている。敵はたった一人という報告だったが、にも関わらずいまだに取り押さえることができずにいる。  前王に味方する者たちを警戒して市内に多数の兵を配置し、城内の守りが手薄になっていたことを後悔した。 「まったく、あの男め……肝心な時に役に立たず、何のための魔術師だ。そもそも、あいつが持ちかけた話ではないか」  彼が一番あてにしている魔術師は、今朝から姿を見せていない。  まさか裏切られたのでは……、そんな思いが頭をよぎった時、突然、壁の一部が爆発し、ぽっかりと穴が開いた。  ハルティの魔法が壁を破壊するのと同時に、奈子とハルティは王の間へと飛び込んだ。  ソレアは後ろに控えて魔法で部屋の入り口を閉ざすと同時に、魔法で出来るだけ多くの兵士の動きを止める。  奈子は、目の前に立っていた兵士を殴り倒し、室内を見渡した。  王の間は、さすがにかなり広い。  一段高くなった玉座に着いている、やや太り気味の年輩の男がレクトン・ソルだろうか。  その傍らにローブの男が一人。その前に、立派な体格の剣士風の男が四人。  その他、周囲に十人ちょっとの兵士たちがいるが、奈子が目的とした人物は見当たらない。  奈子は小さく舌打ちすると、周囲の兵士たちは無視して、玉座の方に向かった。  壁を破る前に、ソレアは十枚以上のカードを用意していたから、この連中は任せておいてもいいだろう。それよりも、王子を護らなければならない。  王子はと見ると、奈子より先にレクトンの方へ向かっている。 「ハルティ・ウェル! まさか、王子自らこんな処まで来るとはな……」 「私には、アイサール家の跡継ぎとしての責任と義務がある。レクトン・ソル・ターサル、王の名において貴様を成敗する」  高らかにそう宣言すると、ハルティは剣を抜いた。  レクトンの近くにいた四人の剣士が、ハルティを取り囲むように散開する。  周囲にいる他の兵士たちは動かない。いや、動けないでいる。ソレアの魔法に身体を縛られているのだ。  だが、この四人にはソレアの力は及んでいない。つまり、相当の実力があるということだろう。  奈子は、四人のうち一番近くにいた男に向かって走り出した。  剣の間合いに入った瞬間、男は振り向き様に剣を抜いて水平に薙ぐ。  しかしその剣の軌跡上に、既に奈子の身体はなかった。  身を沈めて男の足元に滑り込んだ奈子は、両脚で男の膝の辺りを挟み込むと、身体を捻って男を床に引き倒す。  俯せに倒れた男が身体を起こそうとするより先にその背に乗ると、首の下に腕を差し入れ、力一杯喉を締め上げた。  人間、首を鍛えることはできても、喉は鍛えようがない。身長百六十二センチの奈子より優に頭一つ分は大きい男も、裸締めで簡単に失神してしまった。 「女の子相手に何も出来ずにやられるなんて、頼りになるボディガードをお持ちだこと」  奈子は、男の背を踏みつけながら立ち上がった。レクトンに、からかうような目を向ける。  レクトンの顔が、怒りで赤く染まった。 「そっ、その小娘を先に始末しろっ!」  レクトンの命令に従い、残った三人のうち二人が奈子に向かってくる。  唾を飛ばし腕を降り上げて命令するレクトンを見て、奈子は心の中で笑った。怒りに我を忘れて事の本質を見失うとは、大した男ではないな、と。  レクトンにとって、今は王子を始末することこそが大事なのである。それなのに簡単に挑発に乗って、戦力を奈子に向けてしまった。  ハルティも、剣の腕は一流である。ファージやエイシスのようなとんでもない相手ならともかく、ちょっと腕が立つ、程度の相手に一対一なら、滅多なことはあるまい。 (レクトンがこの程度の男って事は……、やっぱり、黒幕はエイクサムか)  心の中で呟きながら、奈子はフットワークで二人の剣士との間合いを取る。  敵の目を自分に向けたのはいいが、徒手格闘を主とする奈子には、剣を持った二人を同時に相手にするのは少々荷が重い。  特に、今のように相手との体格差がある場合、打撃で一撃で仕留めるのは難しい。  筋力で男に劣る奈子は、必然的に関節技に頼ることが多くなるのだが、複数を相手にする時の関節技は自殺行為である。  かといって、剣を抜く気もなかった。  正直な話、空手や柔術に比べると、剣の扱いにはそれほど自信がない。慣れている分、素手の方がましだ。  それに、剣では手加減が出来ない。  奈子は、仇以外の相手を殺す気はなかったし、また殺せるとも思えない。  エイクサムたちを殺すのは、ファージを殺したからだ。恨みもない人間を殺すなど、出来そうもない。  奈子は時間稼ぎに徹しようとしたが、相手の男たちは予想よりも強い。二体一で闘う時のコンビネーションを身に付けていた。  奈子が相手との距離を取ろうとすると、一人がその逃げ道を塞ぐように回り込んでくる。  かといって反撃に転じようとすれば、もう一人がすかさず奈子の背後を狙う。  ハルティの様子を見る余裕はほとんど無かった。二人は奈子に一瞬も休む隙を与えず、剣で、魔法で、交互に攻撃を仕掛けてくる。  二人とも、魔法による攻撃は大した物ではない。奈子でも簡単に防御できる程度のものだったが、牽制として上手く使っていた。  魔法攻撃を防御したり、かわすことに気を取られていると、次の剣の攻撃をかわし切れない。  今のところ、驚異的な反射神経で辛うじて深手を負わずにいるが、それでも一分と経たないうちに、奈子は数箇所から血を流していた。  奈子が剣も魔法も使わないことを悟ったのか、男たちは剣の間合いを保ちつつ、じわじわとダメージを与えてくる。  そのため奈子は、反撃の機会を見出せないまま、体力を消耗していく一方だった。  いっそ、一気に片をつけようとしてくれれば反撃の隙もできるのだが、今のところその様子はない。  このままではいけない、と、半ば相打ち覚悟で間合いを詰めようとした奈子だったが、自分で思っている以上に疲労していたのか、一瞬、足がもつれた。  目の前の相手はその隙を逃さず、大きく剣を振りかぶる。  だが、男はその剣を振り下ろすことはできなかった。  奈子が思わず目を閉じそうになった瞬間、男の身体が突然炎に包まれた。  悲鳴を上げる間もなく、その身体がまるで蝋でできているかのように、融けるように崩れていく。  奈子も驚いたが、もう一人の男はもっと驚いたらしい。一瞬先に我に返った奈子は、振り返りざま、男の鳩尾に左右の拳を叩き込んだ。  続けて、鳩尾への前蹴り、そして流れるように、とどめの後ろ回し蹴りへとつなぐ。  男はその場に崩れ落ち、ぴくりとも動かない。 「なんだ、やっぱり一対一なら強いな、お前」  突然の声に驚き、奈子はその声の主を見つめる。  額と肩口から血を流して、大きな剣を担いでいる男を。 「エイシス……いつの間に?」 「向こうの方が、大体片付いたんでね、でも、こっちももう終わりかな?」  エイシスの視線を追って奈子が振り向くと、ハルティの剣が、敵の剣士の胸を貫いていた。 「片付いた……って、一人でこの城の兵士を全部やっつけたの?」 「まさか。大広間にみんな集めたところで、出入口を崩して塞いでやったのさ。出てくるまでの間、しばらく時間稼ぎにはなるだろ? 相手は何百人もいるんだから、効率よくやらないとな。てな訳で城を少しばかり壊しちまったが、まあ、不可抗力ってことで……」  エイシスの言葉に、ハルティの口元が微かに綻ぶ。  剣に付いた血を振り落としたハルティは、レクトンに詰め寄って行った。 「これで終わりだな、レクトン・ソル」  レクトンも、傍らに立っている男も、かなり動揺している様子だ。それでもまだ、レクトンは虚勢を張るのをやめようとしない。 「な、何を言うか。まさか忘れた訳ではあるまい。こっちは、お前の妹を人質に取っているんだ。今すぐ、抵抗を止めろ」  ハルティが立ち止まる。エイシスが、その横に歩み寄った。 「殿下……」 「大丈夫だ、わかっている」  ハルティは小声で言うと、レクトンを睨み付けた。 「残念だが、その脅しは通用しない。私は王子であり、国と、国民に対して責任を負っている。時には、肉親の情より優先しなければならないものがある」 「くっ……」  きっぱりと言い切るハルティに、レクトンの顔色が変わる。 「し、しかし、妹を目前にして、同じ台詞が言えるかな? ヘルファン!」  レクトンは、傍らの男に小さく合図をする。男は小さく頷き、その身体がすぅっと消えていった。 「ナコちゃん!」 「はいっ!」  すかさずソレアが短い呪文を唱える。  一瞬、奈子の視界は真っ暗になり、身体が浮き上がるように感じた。  そして次の瞬間、奈子の身体もその場から消えていた。  視界が戻って最初に、一瞬前までレクトンの傍らにいた男の背中が目に入った。  考えるより先に身体が動く。奈子の上段蹴りは狙い違わず延髄を捉え、男は声もなく倒れた。  それから奈子は、周囲を見回す。  かなり豪華な造りの、客間のような部屋。室内に置かれた椅子に、一人の少女が座っていた。 「ナコ……さん?」 「助けに来ました、姫様……」  アイミィが、信じられないといった表情でゆっくりと立ち上がる。 「ハルティ様も無事です、御心配なく。今、レクトン・ソルを追い詰めたところです」 「ナコさんっ!」  アイミィが、奈子にしがみ付いてくる。 「すみません、アタシが姫様の傍を離れたばっかりに、危険な目に会わせてしまって……。でも、もう大丈夫です、姫様……」  そっと、両手をアイミィの肩に置く。 「怪我はありませんか?」 「ええ、昨夜からずっと、この部屋に閉じ込められていただけですから。ただ……」 「……ただ?」 「いえ、大したことではないんですが……ペンダントを……」 「ペンダント?」  そうだ。アイミィは確か、由緒ありそうな、古いペンダントを身に付けていた。それが今はない。  もしかすると……。  奈子は考える。  人質よりも、そのペンダントこそが、エイクサムやリューイの目的だったのではないだろうか? それを手に入れたから、もうレクトン・ソルに味方する必要がなくなったのでは、と。 「残念ながら、いくら待っても姫様はここへは来ませんよ」  レクトンの眼前で、ソレアが静かに言う。 「な……、一体、何をしたのだ、貴様……?」 「この城にしろ、あなたの屋敷にしろ、これだけの結界を張られると、外部の者は転移することが出来ません。例外は、結界を張った者とその仲間。つまり、あなた方が転移するのと同調すれば、私達もあなたの屋敷内へ転移することが可能になる訳です。あなたは、私たちのために自分で鍵を開けたようなものですよ。今頃はもう、姫様は救い出されているはずです。つまり……」 「レクトン・ソル、あなたは、もう、終わりということだ。大人しく裁きを受けるがいい」  ハルティがソレアの言葉の後を継いだ。  レクトンは拳をぎゅっと握り締め、唇を噛んでいる。  一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう? レクトンは自問した。  そうだ、あの男だ。エイクサム・ハルと名乗る魔術師、あの男が現れた時から、何かが狂ってしまったのだ。  「あなたには、逃げ道はありませんよ。間もなく、この城は囲まれるはずですから。国内の主だった者たちに、王子の名で、勅命を伝えておきました。逆賊レクトン・ソルを討ち取れ、とね……」 「なんだと……?」  握り締めた拳が、ぶるぶると震えている。 「あなたは、エイクサム・ハルに見捨てられたんですよ。彼は、ランドゥの神殿さえ手に入れれば、マイカラスなどに興味はなかったんです」  アイミィを連れて、部屋から廊下に出ようとした奈子は、屋敷内が騒がしくなっているのに気付いた。アイミィが不安そうに尋ねる。 「何かあったんでしょうか?」 「心配はありません。姫様と王子に味方する者たちでしょう。表向きレクトン・ソルに従う振りをしながら、王子や姫様を助けようとしている者たちが、大勢いるんです。ただ、乱戦になる前に姫様を救い出さないと危険ですから、私たちは先に来たんです」  奈子は、廊下から逃げるのを諦めた。  屋敷内で戦闘が起こっているとなると、その中を突破したのではアイミィの身に危険が及ぶかも知れない。  持っていたカードの中から長いロープを取り出すと、その端を部屋に置かれていた大きなベッドの脚に結びつけた。  閉ざされていた窓を蹴り開けると、ロープを外に放り出す。ここは三階だが、ロープは十分地面まで届いている。 「ここから脱出しましょう。姫様は、私の背におぶさってください」  カーテンを細く引き裂き、手に巻き付けながら奈子が言う。  アイミィがそれに従うと、奈子は、やはり裂いたカーテンで、アイミィと自分の身体をしっかりと結び付けた。 「じゃ、行きますよ。ちょっとの間ですから、目を閉じていてください」  窓から身を乗り出したところで、背中のアイミィに向かって言った。  アイミィは、目を閉じて頷く。  奈子はロープを掴むと、窓の外に飛び出した。  手に巻いた布が、たちまち焦げ臭い煙を発する。  奈子としては、あまり時間をかけるわけにはいかなかった。  所詮は女の腕力、二人分の体重をいつまでも支えている自信はない。躊躇せずに、一気に滑り降りる。  手に巻いた布が焼き切れ、掌に痛みが走った瞬間、足が地面に着いた。身体を屈めて、着地の衝撃を吸収する。 「大丈夫ですか、ナコさん?」  アイミィが心配そうに尋ねる。 「へーきへーき、さ、急ぎましょう」  奈子は、アイミィの身体を結んでいた布を短剣で切ると、アイミィの手を引いて走り出した。が、建物の陰に廻ったところで、十数人の男たちとぶつかった。  全員が鎧を身にまとい、剣を手にしている。  先頭にいた初老の男が、アイミィの姿を認めて嬉しそうに言った。 「おお、姫様、ご無事でしたか。ナコ殿、ご苦労であった」 「え……? ニウム・ヒロ様、ナコさんのことをご存じなんですか?」  アイミィが、ニウムと奈子の顔を交互に見る。 「姫様を助け出すために、力を貸してもらったんですよ」  「詳しい話は後にして……、姫様、早く脱出しましょう。レクトン・ソルを捕らえるまで、取り敢えず私の家においでください。この者たちを護衛に付けますから」  ニウムは、アイミィの手を取って歩き出し、そして、立ち止まったままの奈子に気が付いた。 「さあ、ナコ殿もご一緒に」  だが、奈子は何故か、あさっての方向を見ている。そして、妙に険しい表情をしていた。 「……姫様、先に行ってください。私は、まだやることがありますから」 「ナコ……さん?」  奈子はアイミィの問いかけを無視すると、ニウムに向かって言った。 「早く、姫様を連れてここから離れて。それから、あなたも姫様に付いていてください」 「何か、あったのですかな?」  実は、奈子が歩き出そうとした時、視界の隅に、何か引っかかるものがあったのだ。  それは一瞬で見えなくなったが、決して見間違いではない。 「まだ……、ちょっと手ごわい相手が残ってたみたいです……、アタシが、相手をしますから」 「ナコ殿一人で大丈夫かな。何人か、残した方がいいのでは……」 「あなたの使命は、姫様を護ることでしょう? 一人も、戦力を割いてはいけません。これは、アタシの個人的な闘いです、一人にしてください」 「先刻言っていた、仇というやつですか?」  ニウムは、大体事情を察したらしい。半ば強引にアイミィの手を引くと、他の男たちを指揮して即座に撤退を始めた。奈子一人を残して。  アイミィはそれに逆らおうとしたが、力強いニウムの手で腕を掴まれては、どうしようもない。  さすがにあの男はよくわかっている、と奈子は思った。  今は、アイミィの安全が何よりも優先するのだ。ここにレクトンがいないのなら、これ以上の戦闘は無意味だ。少なくとも、奈子以外の者にとっては。  アイミィたちが十分に離れたのを確認して、奈子が口を開いた。 「いるんだろ? 出て来いよ」  その言葉が終わらないうちに、奈子の前に一人の男が現れる。  リューイ・ホルトだ。 「折角の人質を放っておいて、何してたんだ?」 「別に人質など、我々にはどうでもいいことだ。エイクサムが出かけていて退屈だったのでな、ちょっと様子を見に来ただけだ。レクトン・ソルは失敗したようだが、所詮、その程度の男だということ……。何だ? お前、笑っているのか?」  奈子の表情の変化に気付いたリューイが、訝げな顔をする。  「そうさ、会いたくて会いたくて仕方がなかった相手が、今、目の前にいるんだから。わかってンだろ? アタシは、アンタらを殺しに来たンだよ」  歪んだ笑みを浮かべる奈子の手の中に、一振りの剣が現れた。 四章 黄昏の堕天使 「殺す? 我々を?」  リューイは、さも可笑しそうに聞き返した。奈子は無言で頷く。 「面白い小娘だ。ここまで追ってきたのなら、我々がここで何をしているのか、気付いていない訳ではあるまい?」 「知ってるよ。ランドゥの神殿、だろ?」 「そこまで知っていて、それでも私と闘うと? 面白い。エイクサムが興味を持つはずだな」  奈子は、剣を握った手に力を込めた。  刀身が、青い炎に包まれる。  リューイの姿を見た瞬間から、迷いは完全に消え去っていた。  なにしろ、この世界へ来てから約一週間、ずっと自分に暗示をかけ続けていたようなものなのだから。  ファージの仇を殺す――ただそれだけを考えてきた。  奈子の足が地面を蹴るのと同時に、リューイは片手を上げ、短く呪文を唱えた。  手の中に青白い光が生まれ、それは光線となって奈子に襲いかかる。  奈子はそれを避けようともせず、光線は奈子の胸の中心に突き刺さった。  だが、リューイの予想を覆し、奈子は何事もなかったかのようにリューイに切りかかった。  驚愕を隠し切れない表情で、リューイはそれでも後ろに飛び退く。  奈子の剣は、リューイの胸の辺りを掠めた。  着ていたローブが裂けて血が滲む。 「な……んだと? あれを喰らって平気だと?」  リューイの魔法の直撃を受けたはずの奈子は、かすり傷も負っていない。 「さては、ソレア・サハの対魔法護符か……?」  リューイは小さく舌打ちをした。  この辺りの魔術師たちの間では、ソレア・サハの名はかなり知られている。  攻撃や破壊の魔法が一切使えない代わりに、防御や治癒の力は、並の魔術師のそれを遥かに凌駕する、と。  リューイは、奈子が、ソレアが作った対魔法用の護符を持っているのだろうと推測した。  彼が見る限り、奈子は魔法に関しては、普通では考えられないくらいの素人だ。が、剣はかなり使えるようだし、なにより、素手で人を倒す奇妙な技を持っている。  このまま闘うのは不利だと判断したリューイは、転移の呪文を唱えた。  リューイの身体が、周囲の風景に解け込むように、透き通っていく。  それを見た奈子は、慌ててリューイに飛びかかった。 「逃がすかぁっ!」  伸ばした手の先が、リューイのローブに触れる。同時に目の前が真っ暗になり、下りの高速エレベーターに乗っているような浮遊感を覚えた。  次の瞬間、周囲の風景が一変する。  そして、その風景には見覚えがあった。 「ランドゥの、神殿?」  半疑問形でつぶやく。リューイが、にやりと笑った。  そこは、奈子がエイクサムやリューイたちと闘った、神殿の地下の大広間だった。  ちょっとした体育館ほどの広さがある、石造りの大広間。周囲の床や壁には、奇妙な文字や記号が無数に刻まれている。 「この遺跡に遺された力の解析がまだ不完全でな。他の場所では、十分な力が出せないのだよ。だが、ここにいる限り、我々の力は竜騎士にも匹敵する」 「……、姫様のペンダントも、そのために必要だった?」 「知らんのか、今のアイサール家は、遠い昔にこの神殿を封印した者たちの子孫。あれは、その時の封印の鍵の一つだ。我々は、王国時代の大いなる力を完全に取り戻すために、あらゆる方法を試しているのだ」  そう言うと同時に、リューイは両手を広げた。 「フェイ・ア・ボゥ!」  奈子を取り囲むように、オレンジ色に輝く光の球が出現する。その数は、すぐには数え切れない。  緊張した面持ちで奈子が身構えるのと同時に、その光球は一斉に爆発した。  大広間全体が、灼熱の炎に包まれる。それは、鉄をも溶かすほどの高温だった。  だから、炎が消えた後そこに立っている人影を見て、リューイは心底狼狽した。 「こんなのが、竜騎士の力……だって? ウソだろ?」 「そ……んな、馬鹿な……」  目の前で起きたことが信じられないといった表情で、リューイがつぶやく。  奈子の前髪はちょっと焦げていて、腕に軽い火傷の痕がある。  だが、それだけだった。  奈子自身も驚いたのか、自分の身体を見回したが、これといった傷もないことを確認してリューイに向き直った。 「これで精一杯だと言うんなら、もういいだろ? 死ねよ、アンタ」  奈子は床を蹴って一気に間合いを詰めると、全体重をかけて剣を振り下ろした。  リューイは身を捻ってかわそうとしたが、一瞬遅く、刃はリューイの左腕に喰い込んだ。  剣先が骨を砕く感触が伝わってくる。 「これで、終わりだっ!」  一瞬の間も置かず、さらに踏み込んで、返す刀で首を狙う。  だが、リューイに向かって力一杯叩き付けた剣は、突然現れた剣にぶつかり、耳障りな金属音を立てた。 「な……?」  その剣は、宙に浮いていた。しかし、まるで一流の剣士が操っているかのように奈子の剣を受け流すと、体勢の崩れたところに切りかかってくる。  奈子は後ろに飛び退いて、間合いを取った。 「対魔法護符では、直接の攻撃魔法は防げても、これは防げまい」  左腕の痛みに顔を顰めながらも、リューイは、無事な右手を高く掲げる。  と、奈子の周囲に、新たに四本の剣が出現した。  それらの剣は、それ自身が意志を持っているかのように自由に飛び回り、次々と奈子に襲いかかってくる。  奈子は、それらの剣を超人的な反射神経でかわし、あるいは剣で叩き落としていく。が、なにしろ五本の剣があらゆる方向から切りかかってくるのだ。反撃するどころか、致命傷を負わずにいるのが精一杯だった。 「なかなか頑張るな、では、これならどうだ。スウォ・ケイ・ヘル!」  リューイの呪文に応えて、さらに五本の剣が現れた。  驚いて一瞬動きが止まった奈子の右手を、一本の剣が切り付ける。剣先は手首の辺りを掠め、手から剣が落ちた。  リューイが笑みを浮かべる。奈子は床に転がった剣を一瞥もせず、ベルトに差した短剣を抜いて、リューイに向かって投げつけた。  短剣は正確にリューイの胸を狙っていたが、剣の一本が飛んで行って短剣を叩き落とす。  そこで、奈子に襲いかかっていた剣に僅かな隙が生じた。  奈子にとっては、それで十分だった。  一跳びで五メートル以上あった間合いを詰める。左手でリューイの右手の袖を掴み、柔道の大外刈りのように脚を引っかけた。  そして、右肘をリューイの喉に押し付ける。  リューイはバランスを崩して後ろに倒れ、その瞬間、奈子は肘に全体重をかけた。  何かが折れるような鈍い音とともに、リューイの口から血の泡が溢れ出す。  奈子の口元が微かに歪んだ。  リューイに馬乗りになった奈子は、さらに拳を振り上げる。  だが、その拳を振り降ろすより早く。  リューイが操っていた剣の一本が、奈子の背に突き刺さった。  剣は奈子の身体を貫き、右胸に血の染みが広がっていく。 「き……貴様……」  リューイを睨みつけながら、奈子は声を絞り出した。  組み伏せた男は、まだ死んではいなかった。血塗れの唇が微かに動いている。 「この、死に損ないがぁっっ!」  奈子は、一度止めた拳をリューイの顔面に叩き付けた。  そしてもう一発。  奈子に襲いかかろうとしていた残りの剣がその動きを止め、乾いた音を立てて床に落ちる。  だが、奈子は殴る手を止めなかった。  やがて、リューイの顔が血に染まっていく。  そして、奈子の拳も。  それでも、奈子は殴り続けた。 「止めなさい、もう、死んでいます」  それは決して大きな声ではなかったのだが、何故かはっきりと奈子の耳に届いた。  狂ったようにリューイを殴り続けていた奈子は、振り上げた拳を止めて顔を上げる。  大広間の隅に、二人の男が立っていた。  一人は体格の良い三十代の剣士、ハイディス・カイ。  そしてもう一人はもう少し若い、長い金髪の魔術師。 「エイクサム・ハル……」  奈子は、振り上げた手をゆっくりと下ろした。 「もう、いいでしょう? とっくに、死んでいますよ」  エイクサムは、幾分悲しそうな声で言った。 「し……んだ?」  まるで、知らない単語を口にするかのように奈子はつぶやいた。  自分の下で、ぐったりとなっている男を見下ろす。  その顔は原型を留めないほどに潰され、周囲には血溜まりができている。  握り締めた拳をそぅっと開くと、その手もべっとりと血で汚れていた。 「しんだ……。リューイ・ホルトは死んだ。そう……アタシが、殺した」  小さく、無機的な声でつぶやく。  再びエイクサムの方を向いて立ち上がろうとした奈子は、胸を貫いた剣の痛みに顔を歪めた。  服は、自分の血とリューイの返り血で、真っ赤に染まっている。  少しでも身体を動かすと傷が広がり、鮮血が流れ出す。  奈子はそれでも立ち上がった。  やや上目使いに、じっとエイクサムを見つめる。 「リューイ・ホルトは死んだ……。そう、アタシが殺した。次は……あんたの番だ」 「ナコ……。あなたにはわからないでしょうが、この世界は力を必要としているのですよ。滅びつつあるこの世界を救うための、大きな力が……」  エイクサムは、不思議な表情を見せていた。  悲しみ? それとも憐れみ?  少なくとも、今の奈子には理解出来ない表情だった。  奈子は、ゆっくりと歩き出した。エイクサムに向かって。  脚に力が入らない。  一瞬でも気を抜けば、倒れてそのまま立ち上がれないように思えた。  一歩、また一歩。慎重に、ゆっくりと足を運んでいく。 「遠い昔、王国時代には力があった。その力が世界を支えていた。戦乱の中で力が失われて以来、人間は、ゆっくりと滅びの道を歩みつつあるのです。人が住める土地は年々狭くなり、生まれる子供も減っている。ランドゥであろうと、ファレイアであろうと、神々がもたらした力が必要なのです。世界に再び活力を与えるための力が」  真剣な表情で訴えるエイクサムを、ハイディスは何故か怒ったような顔で見つめている。 「ナコ、わかってください。ファーリッジ・ルゥは伝統に縛られ、王国時代の強大な魔法を現代に甦らせることを認めようとはしない。他に方法はなかったんです。ナコ……」  奈子は何も応えない。ただ、少しずつエイクサムとの距離を縮めていくだけだ。  歩いた後には一筋の血の帯が残り、そして、一歩毎に歩みは遅くなる。 「この世界がどうなろうが、知ったこっちゃない。ファレイアとかランドゥとか、王国時代の竜騎士の魔法とか、アタシには関係ない。よその世界のことなんかどうでもいいんだ。ファージは、アタシの友達だった。ただそれだけ……」  抑揚のない声で、そうつぶやいた。 「ナコ……」 「いい加減にしろ、エイクサム!」  突然、ハイディスが大声を上げ、腰の剣を抜いた。 「今さら、何故この娘を殺すことを躊躇う? 前にも言ったはずだ。生かしておけば後で厄介なことになると。そしてリューイは殺された。今さら何を躊躇う? まさか、お前……。この娘を……?」 「まさか……」  エイクサムは微かに苦笑したが、すぐに真剣な表情に戻る。  少し考えて。 「……いや、そうかも知れませんね。最初に会った時から、私はあの瞳に惹かれていた。でも、その結果リューイが死んだのなら、私はけじめをつけなければなりません。ナコ……」  エイクサムは、もう一度奈子に語りかけた。 「これが最後です。考え直す気はありませんか? 理解し合うことは、できませんか?」  奈子は黙っている。  しかしその目が、言葉よりもはっきりとエイクサムの問いに答えていた。 「……では、お別れです。ディ・ライ・ア・ボゥ!」  奈子の周囲に、三十個以上の、青白い光を放つ光球が現れた。  竜を倒すための、竜騎士の魔法。  ファージが得意としていた魔法。  これだけの力を実現するために、ファージは、何枚もの魔法のカードを必要としていたが、エイクサムは一枚のカードすら手にしていない。 「竜騎士の、力……」  奈子は他人事のようにつぶやく。  先刻のリューイの魔法とは桁が違う、強大な力を感じていた。  不思議と、何の感情も湧かなかった。  エイクサムに対する憎しみも。  死に対する恐怖も。  リューイの死を認識した時、全てが、燃え尽きてしまったようだった。  周囲を取り囲んだ光球から、一斉に光線が放たれる。  奈子は、自分に迫ってくるその光をじっと見つめていた。  時間が、とてもゆっくりと流れているように感じる。  やがて光は奈子に集中し、視界が真っ白になった。  一瞬、激しい衝撃と痛みを感じ、その後は何もわからなくなる。  意識が遠くなる直前、視界の片隅に、見覚えのある人影が映ったような気がした。 「ナコッ!」 「ナコちゃん!」  奈子の身体が光線に貫かれるのと同時に、この大広間に二つの人影が現れた。  その姿を見たエイクサムとハイディスが、凍り付いたように動きを止める。  二つの人影の一つ、背の高い銀髪の女性が、倒れている奈子に駆け寄った。  奈子の身体は焼けただれ、周囲の床が、赤く染まってゆく。 「ナコ……。間に合わな……かった?」  小柄な金髪の少女が、呆然とつぶやく。  少女はゆっくりと振り返ると、猫のような大きな金色の瞳で、エイクサムを睨めつけた。  エイクサムとハイディスは、目に映るものが信じられないといった表情で、少女を見つめたまま硬直している。 「……何故……、あなたが生きているのです?」 「生きてちゃ、悪い?」  少女は、冷たい声で言った。その目は、視線だけで相手を射殺そうとするかのように鋭い。 「……、ファーリッジ・ルゥ……」 「私のことはともかく、ナコを殺した報いは受けてもらうよ」  ファージは、ゆっくりと手を上げた。  呪文を唱えるために口を開こうとした瞬間、しかし背後からの声がそれを留まらせた。 「待って、ファージ。ナコちゃんは生きているわ。重傷には違いないけれど、命は助かる」  奈子の傍らにしゃがみ込み、容態を見ていたソレアが言う。 「まさか……、あれを食らって?」  ファージは、驚いているのか喜んでいるのか、よくわからない表情を見せた。  そのまま二歩、三歩、ソレアの方へ歩み寄る。 「この子ったら、何処で見つけたのかしらね」  ソレアは萎れかかった小さな花を摘み上げ、ファージに見せた。  きれいな星型の、萎れてもなお美しい花だった。 「……ノルゥカルキ?」  ファージが首を傾げる。ソレアは小さく頷いた。 「アプシの樹やオルディカなんか比べものにならない、自然界で最高の魔力を持つノルゥカルキの花。私も、実物を見るのはこれが二度目よ。これを持っていたお蔭で、致命傷は避けられたのね。本当に、何処で見つけたのかしら」 「そっか……、生きてるんだ……。良かった……」  安堵の息を洩らしたファージの背後から。 「何故、あなたが生きているのです?」  エイクサムはもう一度、同じ言葉を繰り返した。  奈子に気を取られて、エイクサムたちのことなど忘れていたファージが振り返る。 「あの時、あなたは確かに死んだはずだ。それは確認した。竜騎士の魔法を受けて……、何故、生きているのです」 「竜騎士の、魔法?」  嘲笑うように、ファージは唇の端を上げる。 「馬鹿にしないで。あんなちゃちな魔法で、竜騎士を殺せるはずがないじゃない」  その言葉に、エイクサムの眉がぴくりと動く。  ファージは肩越しに後ろを振り返ると、奈子に治癒の魔法をかけているソレアを見た。 「ナコは?」 「もう大丈夫よ。でも完治するまでには、ちょっと時間が……」 「そうじゃなくって!」  途中で言葉を遮られたソレアはきょとんとファージを見つめ、それから、ああ……と頷いた。 「眠っているわ。しばらくは、目を覚まさないでしょう。見られる心配はないわ」 「……封印は、解いてくれた?」 「それも大丈夫……、でも、本当に?」 「当然でしょ」  そう言って、ファージはまたエイクサムに向き直った。 「ここがランドゥの神殿で、王国時代の力が遺されているなら、禁じ手はナシだろ。ソレア?」 「まあ……ね」  ソレアの答えは何処となく不安そうだったが、ファージはそれを無視した。 「あんな力で竜騎士を殺せるはずがない……か。つまりあれで殺せない者は、竜騎士の力を持っていると? 何を馬鹿なことを」  エイクサムは引きつった笑いを浮かべた。  ファージは何も応えない。しかし彼女の笑みは、エイクサムの問いに対する明確な肯定だった。  エイクサムは苦笑する。  竜騎士の力は、何百年も前に失われてしまったものだ。だからこそ、こうして力を甦らせようと試みているのだ。 「ならば竜騎士の力とやら、見せて貰いましょう!」  エイクサムが両手を広げると、辺り一面に、無数の、青白い光球が現れた。 「得意のカードを何枚用いたところで、あなたにはこれだけの力は行使できないでしょう?」  エイクサムの言葉が聞こえているのか、いないのか、ファージはつまらなそうに片手を上げる。  と、周囲を取り囲んだ光球は、急にその輝きを失って消えてしまった。 「……!」  驚愕のあまり、エイクサムは言葉を失う。  魔法とは、防御することはできても、強制的に解除することは本人以外できない。  それが通説だった。  天と地ほどの力の差がないかぎり、不可能なことなのだ。 「ならば、これはどうだっ!」  いつの間に近くへ来ていたのか、ハイディスが剣を抜いて躍りかかってくる。  それは一瞬のことで、ファージは指一本動かす間もなくハイディスの剣に身体を貫かれた……はずだった。  手応えがないことを訝んだハイディスが手元を見ると、刃は根元四分の一くらいを残して、すっぱりと切り落とされたように無くなっている。  そして、その剣先は、彼自身の腹に深々と突き刺さっていた。 「バーカ!」  ファージが嘲けるように笑って片手を上げる。  手の中に真紅の光が現れ、それは細長く伸びると剣の形になった。 「これが、私の剣さ」  ファージの手が一閃すると、驚きの表情を凍り付かせたまま、ハイディスの首がごとりと床に落ちた。  それから数秒経って、首の無くなった胴体が倒れる。 「少しは、信じる気になった?」  床に転がった首を踏みつけながら、ファージはエイクサムの方に目を向ける。  足に徐々に体重をかけていくと、ハイディスの首は、熟れすぎた西瓜のようにぐしゃりと潰れた。  周囲に血と脳漿が飛び散り、ソレアが顔を背ける。  エイクサムはその光景を見ながら、まったく動けずにいた。  ファージは、一言の呪文も唱えてはいない。しかし彼は、圧倒的な力の差を感じていた。  この神殿の構造を解析し、不完全とはいえ王国時代の竜騎士の魔力の一部を手にした時、彼は素晴らしい力を手に入れたように感じたものだ。  しかし、目の前にいる小柄な少女から感じられる力は、まさに圧倒的なものだった。  それに比べれば彼の力など、大海の前の潮溜まり程度に過ぎない。 「これが……竜騎士の、力……? 今の時代に……竜騎士が……」  声が、震えている。 「ま、『青竜』の称号は持っていないけどね」  ファージが手を開くと、真紅の光の剣がすぅっと消えていく。それから、ゆっくりとエイクサムに向かって歩き出した。  エイクサムは、ただそこに立ち尽くしている。 「滅びゆく世界を救うために、王国時代の魔力に縋ろうだなんて、ナンセンスもいいとこよ」  一歩一歩、ゆっくりと足を運びながらファージは言った。 「過去の偉大なる魔法の力は、忘れ去られたんじゃない。意図的に封印されたんだよ。人は、自分の力で生きることを選んだんだ。世界がこのまま滅びるにしろ、再び繁栄を取り戻すにしろ、それは人間の力と意志で行われなければならない。人は、生かされているのではなく、生きているんだから。竜騎士の力は神々から与えられたもの。今の人間には過ぎた力」 「あなたは……一体……?」 「ファレイアの……トリニアの竜騎士の力は、ほぼ完全に封印されている。だけどストレイン帝国では事情が違う。ランドゥ神によって、あるいは黒の剣によってもたらされたとされるストレインの竜騎士の力の封印は、まだ不完全なんだ。だから、私たちがいる。王国時代の末期、力を封印した者たちは、ごく僅かな竜騎士をこの地に残すことにした。監視者として、封印されていない力が甦るのを防ぐために」 「その……末裔があなただと?」  ファージは、エイクサムの目の前で足を止めた。  エイクサムの顔の前に、右手をかざす。  次の瞬間、悲鳴が上がった。  ファージの指が、エイクサムの右目をえぐっていた。  眼球をえぐり出し、神経と筋肉を音を立てて散切る。  エイクサムは絶叫するが、それでも身体は凍り付いたように動かない。 「今は、これで勘弁してやる。今は、殺さない。結果的にとは言え、あんたはナコを殺さなかったから。でも、今度会ったら必ず殺す。覚えときな」  ファージは、手の中でえぐり出した眼球を握り潰した。血の混じった半透明の液体が、指の隙間からどろりと滴る。 「何処へでも行くがいいさ。私に殺される時まで」  その言葉と同時に、エイクサムの身体が自由になった。  えぐられた目を押さえながら、それでも何とか転移の呪文を唱えるエイクサムを、ファージは無表情に見つめていた。 「何度も言うけど、私、ファージのこういうところは好きになれないわ」  踏み潰されたハイディスの頭部や、血に塗れたファージの手を見て、ソレアは眉をひそめている。 「別に、ソレアに好かれたいとは思ってない」  ファージは少し怒ったように言う。 「これさえなければ『青竜』の称号を受けていたはずなのに。殺されることも、力を封印されることもなかったのに……」  ソレアは独り言のように呟きながら、意識を失っている奈子を抱え上げた。  取り敢えず出血はおさまり、呼吸も落ち着いている。 「……たとえ人からどう思われようと、構わないよ。これが私なんだから、今さら変える気もない」 「でも、ナコちゃんがこれを知ったらショックでしょうね」 「ソレア……」  ファージの表情が険しくなる。 「ナコに余計なことを言ったら、たとえソレアだって殺すよ」 「……ま、しばらくは黙っているわ。私もまだ命は惜しいし」  ファージの目は本気だった。しかし、ソレアは特に表情も変えない。 「それよりも、早くここを破壊なさい。力の封印は、いつまでも解いてはいられないのだから」 「言われなくたってわかってる、私に命令するな!」  ファージは吐き捨てるように言う。その手の中に赤い光が生まれ、それはまた、剣の形になった。  剣を床に深々と突き立てる。両手の指を組み合わせて印を結び、呪文を唱え始めた。 「フェ リアル ファルス  ファ リエル フェルス  トゥ アィクシ コ ル サイナム……」  剣を中心に、丸い光の輪が生まれる。それは加速度的に大きく広がっていった。 * * *  夕陽は、山の陰に沈もうとしていた。  神殿の建物が朱く染まり、壮大な遺跡が作る影が長く伸びている。  突然、ちょっとした街ほどもあるその遺跡全体が、眩い光に包まれた。  光は一秒と経たないうちに消え去った。  後には、赤茶けた荒野が広がっているだけだった。遺跡も、それを包むように広がっていた森も、すべてが消滅していた。  千年以上にわたってそこで威容を誇っていた遺跡は、何の痕跡も残さずに永遠に姿を消した。  時が過ぎれば、そこに遺跡が存在したことを憶えている者もいなくなることだろう。 終章 おかえりなさい  微かに目を開けると。  見覚えのある、きれいな金髪と大きな金色の瞳が見えた。  しかしそれは、本来そこにあるはずのないものだった。 (アタシ、死んだのか……?)  また目を閉じて、ぼんやりとそんなことを考える。  すると、ここは死後の世界に違いない。先に死んだ者がいるのだから。 「ナコ、起きて。ナコ」  自分を呼ぶ声がする。  その声にも聞き覚えがあった。  それでも奈子はそのまま横になって、目を閉じていた。  全身がだるい。  身体を起こすのも、目を開けるのも、なんだか面倒くさい。  こうして眠っているのが、とても心地良かった。 (急いで起きることもないでしょう? どうせ、時間はいくらでもあるんだから)  しかし奈子を呼ぶ声は、それを許してはくれなかった。 「さっさと起きないと、目覚めのキスしちゃうぞ?」  その言葉に、奈子は慌てて上体を起こす。  何か考えがあってしたことではない、条件反射のようなものだ。  起き上がった奈子のすぐ目の前に、金色の髪と、金色の瞳を持った少女がいた。  その後ろに、静かに微笑んでいるソレア。  さらに後ろに、幾分不安そうな表情のハルティとアイミィ。  そして壁に寄り掛かって、いつものようににやにやと笑っているエイシス。 (みんな……死んだ? ……はずはないか)  奈子はただ呆然として、言葉を失っていた。 「ナコちゃん、調子はどう? あなたは三日も眠り続けていたのよ」 「ダメ……みたい。先刻から、なんかヘンな幻覚が見えてる……」 「誰が幻覚だって?」 「……幻聴も聞こえるし……」  ファージが掌で軽く、ぺしっと奈子の頭を叩いた。 「しっかりしてよナコ。私は、ここにいるよ。夢でも幻覚でもなく、ここにいるんだよ」 「ファー……ジ?」  呟きながら、ソレアを見る。  ソレアが小さく頷いた。 「うそ……、何故? だって、死んだじゃない、ファージ……」 「ま、危なかったのは事実だけどね」  ファージが、あっけらかんと言った。 「すごく高度な、特殊な魔法があるの。ひどい怪我をして、自分の力では治せない時に使う魔法が。自分の身体を仮死状態にして、特別な宝石の中に封じ込めるという……」  ファージが、自分の腕を見せた。  そこにはサファイヤに似た、大きな宝石の付いた金の腕輪が填められていた。ファージは、殺された時にもそれをしていた。  遺体が消えた時、奈子がそれを拾って……そして……。  そう、ソレアに預けてあった。 「完全な死に至る直前に、そこで時間を止めたような感じかな。力のある魔術師なら、後で宝石に封じ込められた人を治療して、復活させることができるってワケ」 「じゃあ、何? ファージの身体が消えた時、実は、その腕輪の中に封じられて……っていうか、自分で自分の身体を封じたの?」  ファージが頷く。 「じゃあ……、じゃあ、ソレアさんは知っていたの?」  奈子の問いに、ソレアはばつが悪そうに、表情だけで肯定して見せる。 「ファージも……。それならそうと、どうしてはじめに教えてくれなかったの……?」 「それは……。この魔法の蘇生率が、百パーセントじゃないから……」 「じゃあ……じゃあ、もしアタシが、ファージが死んだと思い込んだアタシが、自分の世界に帰って、二度とこっちに戻らなかったら? どうするつもりだったの?」  奈子の声は、怒気を含んでいた。  ファージも気まずい表情になる。 「……別に、それでもいいかって、思ってた……。確実な保証がないのに、ナコを危険な目に会わせるよりは……って」 「バカッ!」  奈子は、突然大声で叫んだ。 「ファージが死んだと思った時、どれだけ泣いたと思ってるのっ? こっちへ来る時、どれだけの覚悟をしたと思っているのっ? それを……実は生きてました、で済むと思ってんのっ?」  奈子は、目に涙を浮かべながら怒鳴っている。  アイミィやハルティ、そしてエイシスは、奈子が怒っている理由がわからずに驚いている。 「……出てって! みんな出て行ってよっ!」  奈子が叫ぶ。  五人は顔を見合わせて、揃って部屋から出ていった。  一人残された奈子は頭から毛布を被って、声を殺して泣き始めた。 * * *  夢を、見ていた。  そこに、自分がいた。  夢の中で奈子は、リューイを殴り続けていた。  無惨に潰され、血塗れになったリューイの顔。  奈子の拳も、顔も、服も、返り血で真っ赤に染まっている。  それでも殴り続ける。  奈子はそんな自分を、少し離れたところに立って見つめていた。  リューイは既に事切れている。  なのに、殴ることを止めない。 (止めて、止めて!)  目の前にいる、もう一人の自分に向かって叫ぶ。 (止めて、その人は、悪くない!)  それでも夢の中の奈子は、手を止めようとはしない。 『こいつは、ファージを殺した』 (違う! その人は、何も悪くない、だって、ファージは、生きているんだから!)  夢の中の自分が振り上げた拳を、力づくで抑えようとする。  リューイを殴っていた奈子が、顔を上げる。  その顔は、笑っていた。  返り血を浴びた、残忍な笑みだ。  思わず、掴んでいた手を離した。  数歩、後ろに下がる。 (や……止めてよ! どうして……どうして笑ってるの?) 『楽しいからだよ』 (違う、違う! 楽しくなんかない。人を傷つけることは、楽しくなんかないっ!) 『楽しいから……』 (違うっ! 好きでやっているわけじゃないわっ!) 『楽しいじゃない?』 (違うっ!) * * *  目を覚ますと。  陽は、すっかり高く昇っているらしい、カーテンの隙間から、強い日差しが差し込んでいた。  ぐっしょりと汗をかいている。  それは必ずしも、陽が昇って室温が上がっているためだけではない。  奈子はベッドから降りて、汗で重く湿った寝巻きを脱いだ。傍らに置かれていた着替えを手に取る。  そして、その時になって初めて、室内に人がいることに気が付いた。  壁に寄り掛かって、にやにやと笑っている男に。 「……エイシス? 人の寝室で何やっているの?」  手に持った服で胸を隠し、ちょっと怒ったように言う。 「いや、そろそろ出発するつもりなんでね、一応、別れの挨拶でも、と思ったんだが。何か、うなされてたからな」 「……それなら、さっさと起こしてよ。おかげで嫌な夢見ちゃったじゃない」 「もう、起きても平気なのか?」  マイカラスの王宮で、最初に目覚めてから三日。奈子は、ほとんどベッドの中で過ごしていた。  怪我はとても重く、ソレアの魔法でも完治には時間がかかったのだ。  その間、ハルティやアイミィは毎日見舞いに訪れていたが、ファージはあれ以来顔を見せない。 「それで……、出発するって、どういうこと?」  まだ長く立っているのが辛い奈子は、服を手に持ったままベッドに腰を降ろした。 「どうもこうも、俺の仕事は終わったからな。報酬も貰ったし。平和になっちまったら、こんな田舎に用はないよ」  そう。あれから一週間近くが過ぎていた。  レクトンをはじめ、クーデターに加担した者たちは全て捕らえられ、ハルティがマイカラス全土の実権を掌握している。  近日中に、正式に王位につくことも決まっていた。  そしてエイシスは、ハルティから約束の、いや、それ以上の報酬を受け取っていた。   元々彼は金目当ての傭兵なのだから、報酬さえ受け取ってしまえばマイカラスに用はない。 「そっか……行っちゃうんだ。……どこに行くの?」 「さぁて、まだ決めてないが……。久しぶりに、南のハレイトンにでも行くかな。金もあることだし、しばらく大きな街で遊ぶのもいいか」  ハレイトンは大陸南部にある古い王国で、またその王都の名でもある。現在のコルシア大陸で、一、二を争う大都市だ。  金さえあれば、遊ぶところには事欠かない。  どことなく下品な笑いを浮かべているエイシスを見て、奈子は小さく溜息をついた。 「……あんたって、いっつも気楽だよね」 「お前が深刻すぎるんだよ。約束したろ。この戦いが終わったら、もっと気楽に生きるって」  約束?  奈子は首を傾げて記憶を辿った。 「……そんな約束、してないよ。ちょっと考えてみるって、そう言っただけだ」 「気楽に生きた方がいいぞ。人ひとり殺したくらいで、毎晩うなされているよりは、な」  エイシスの言葉で、奈子の表情が急に険しくなった。 「人ひとり殺したくらい……、って、そんな考え方できないよ。だって……人を、殺しちゃったんだよ。あいつら……ファージを殺したから、仇を討とうと思ってた。でも、ファージは死んでいなかったのに……アタシは……」  言いながら、だんだんと涙ぐんでくる。 「アタシ、人を殺しちゃった……。そうしなきゃならない理由なんか、無かったのに……」  エイクサムたちはファージを殺したのだから、報いを受けなければならない。  それが、大前提だった。  なのに、ファージは死んではいなかった。  罪もない人間を殺してしまった。  奈子は、そう思い込んでいた。  アタシはただの人殺しだ、と。  奈子の目から涙が溢れ出した。持っていた服で涙を拭う。 「自分に対する罰のつもりなのか? その傷は」 「え?」  エイシスが、奈子の身体を見ながら言う。  その視線を追った奈子は、自分の胸が露になっているのに気付いて、慌てて両手で隠した。 「やだっ、エッチ! どこ見てんのよっ!」  エイシスが見ていたのは、奈子の右の乳房の下にある刀傷だった。  リューイを殺した時に、彼の剣に貫かれた傷。  ソレアの魔法なら、その程度の傷は数日で消すことができる。  事実、奈子が受けた他の傷はもうほとんど残っていない。  しかし奈子は、この傷だけは消すのをためらっていた。  そう意識していたわけではないのだが、エイシスの言う通り、自分がしたことに対する罰のつもりなのかも知れない。  普通の女の子なら、身体に、特に胸に大きな傷が残るのは、重大な問題のはずだった。  奈子は両手で胸を隠したまま、朱くなって俯いた。 「やっぱり、消した方がいいんじゃないか? その傷。結構いい身体してんのに、勿体ない」 「な……!」  奈子は立ち上がると、数歩、エイシスから離れた。  胸を隠している手に、思わず力が入る。 「あんた、ガキには興味がないとか、言ってなかった?」 「勿論興味はないさ。しかしあと二、三年もしたら、興味が出るかも知れないだろ?」 「あんたって、最低ぇ……」  心底軽蔑したようにつぶやく。 「そうかな? 正直で男らしいとは思わんか?」 「あんたみたいなのが男らしさの代表だとしたら、アタシは人生を儚んでしまうね」 「それは困るな……。せめてあと三年、元気に生きていて貰わんと。それで、ソレア・サハの十分の一くらい女らしくなってくれれば、結構いい女になると思うぞ」  何処まで本気か、冗談か、さっぱりわからない調子で、エイシスが言う。 「ふぅん、やっぱり、ソレアさんみたいなのが、好みなんだ? でも、アタシがホントにいい女になったとしたら、あんたなんか絶対相手にしないね」 「そう言うなよ、一晩だけでいいから」 「あ、あんた! 女を何だと思ってンのっ?」  元々かなり不機嫌だった奈子は、ついに大声を上げた。  しかしエイシスは、相変わらず飄々としている。 「男の人生にとって、最大の楽しみ……かな?」  はぁ、と奈子が大きな溜息をついた。 「あんたって……。なんか、ホント、自分の生きたいように生きてるよね」 「お前も真似してみろ。生きるのが楽になるぞ」 「アタシは……。アタシだって、自分なりに生きてるんだ。エイシスから見たら、いつまでもうじうじと悩んでいるように見えるかも知れないけど、これがアタシなんだ」 「やれやれ……それは困ったな。何とか元気づけようと思ったんだが……」  エイシスは、顎に手を当ててなにやら考えている。  奈子はちょっと意外な気がした。 「あんた……先刻から、アタシを元気づけようとしてたの?」 「それ以外、どう見えるって?」  今ごろなに言ってんだ、コイツ。エイシスの表情はそう言っていた。 「……喧嘩売ってるようにしか、見えなかったけど」  それが、率直な感想だった。 「どうも、人を慰めるってのは苦手なんでね。取り敢えず怒らしとけば、落ち込んでるよりは元気そうに見えるだろ?」 「あ、あのねぇ……」  呆れて、しばらく何も言えなかった。  小さく深呼吸して。 「……何であんたが?」 「頼まれたんだよ。王子と、姫様に。お前が落ち込んでて可哀相だからって」  エイシスは、ぽりぽりと頭を掻く。  その様子を見て、大体の事情を理解した。  エイシスが、自分の損得抜きで動くはずはない。 「つまりアタシを元気づければ、それなりの報酬が約束されてるってことね?」  エイシスが、おや、という表情を見せる。 「わかった? やっぱり」 「ずいぶん慣れた。あんたの性格には」 「じゃあ話は早い。せめて、王子や姫様の前では、元気な姿を見せてやってくれないか? フリだけでもいいからさ。な、頼むよ。俺の稼ぎのために」  奈子は呆れ、そして思わず吹き出した。 「……あんたって、変」 「……そうか?」 「……変、すっごく、変」  可笑しくて、涙が出てきた。  本当に可笑しくて笑うのは、考えてみれば久しぶりだった。 「……いいよ。取り敢えず、フリだけはしてあげる」  涙を拭きながら、奈子は言った。  心の傷が、癒えたわけではない。  アタシは人殺しだ。その想いは、今も重くのしかかっている。  それは変わらない。  しかし――  奈子の中で、何かが少しだけ、変わり始めた。 * * *  マイカラスの王宮の中庭には、大きな池がある。  奈子は、この場所が気に入っていた。  周囲にはたくさんの樹が植えられ、まるで森の中にいるような気分になれる。  池では、鴨を小さくしたような姿の水鳥が数羽泳いでいて、水面に楔形の波を立てている。  時々、池の魚が丸い波紋を作る。  水面近くを羽虫が飛んでいると、それを狙って小さな魚が跳ねた。  奈子は池の縁に腰掛けて、そんな光景を見ているのが好きだった。  ぼんやりと水面を見つめていると、背後から草を踏む軽い足音が聞こえてきた。 「ナコ・ウェル様……」  首だけで振り返って声の主を確認すると、奈子はゆっくりと立ち上がった。 「姫様、その呼び方、止めてくださいよ。柄じゃないですから……」 「それなら……、私のことを姫と呼ぶのも、敬語を使うのも、止めてくださいね?」  少し朱くなっている奈子の側まで来て、アイミィがにっこりと微笑んだ。 「でも……、姫様を呼び捨てにするなんて……できませんよ」 「では私も、救国の英雄で、私たち兄妹の命の恩人であるナコ・ウェル・マツミヤ様を、呼び捨てになどできません」  口調は真面目だが、アイミィの顔は笑っていた。奈子も思わず苦笑する。 「敬語なんて止めてください。王女と騎士、そんな関係じゃなくて、私はナコ様と……、友達になりたいんです」 「……。はい、わかりました、」  奈子は一旦言葉を切って、小さく息を吸った。 「……アイミィ……さん」 「はい、ナコさん」   一瞬の沈黙の後、二人は同時に吹き出した。 「うふふ……。ナコさん、怪我はもういいんですか?」 「ん……。もう、すっかり平気」  怪我は、もうほとんど完治していた。あとは体力が回復するのを待つだけだ。  傷跡も残っていない。  ただ一つ、胸の傷だけを除いて。  奈子は結局、この傷は消してもらわないことに決めた。  自分がしたことを、忘れないために。  まだ若いのだから、もしかしたら、この傷跡もいつか消えてしまうのかも知れない。  その頃には心の傷も、忌まわしい記憶も、忘れてしまうのかも知れない。  しかしいずれにせよ、それは遠い未来の話だ。 「ナコさん……、怪我が治ったら……故郷へ、帰るのですか?」 「え……、ん、そのつもり」  奈子がこの世界へ来てから、どのくらい経ったのだろう。  もう、半月以上になるのは確かだ。  最近無性に、家が、自分の世界が、懐かしい。 (一生帰れないかも知れない。そう覚悟してこっちに来たはずなのに……。一月と経たずにホームシックか……)  情けないな。心の中でつぶやく。  だけど、会いたくて仕方がない。  両親や、友達や、そして……。 「えっと……」  アイミィが、ためらいがちに口を開いた。  これ、言っちゃってもいいのかな――そう前置きして。 「実は……兄様は、ナコさんにこの国に残って欲しいと、そう思っているんですよ。その……」  アイミィはそこで言葉を切り、顔を朱らめた。 「……王妃……として」  驚いて足を滑らせた奈子が池に落ちそうになり、アイミィが慌てて手を差し伸べる。 「お、お、おうひ〜?」  アイミィはこっくりと頷く。 「お、王妃って……?」 「知りませんか? 国王の妻のことです」 「そうじゃなくてっ! なんでアタシが……」  奈子は真っ赤になって叫んだ。  気が動転して、言葉がまともに出てこない。  同性にはもてる奈子だが、実のところ、まともな男女交際にはほとんど免疫がなかった。 「兄様、ナコさんのことが好きだったんですよ。多分、初めて会った時から。ナコさんて雰囲気が、ちょっと伝説の竜騎士レイナ・ディに似ていて恰好いいですし」 「だ、だって……だって、いきなりそんなこと言われたって……。それに、仮にも一国の王が、アタシみたいな……」  奈子は、いよいよ耳まで朱くなる。  アイミィは、そんな奈子の様子を面白そうに見ている。 「マイカラス王国の騎士、ナコ・ウェル・マツミヤ様ですよ。マイカラス国王、ハルトインカル・ウェル・アイサールの妃として、身分に不足があるとは思えませんが?」  笑いながら言った。  マイカラスの騎士の身分、  アイサール家の、ウェルの名。  それが、今回の事件の報酬として、奈子がハルティから贈られたものだった。  元々奈子はエイシスと違い、現金や財宝にはほとんど興味がない。  だから、この贈物はとても気に入っていた。 『これは、アイミィと、私を護ってくれたことに対するお礼です』  ハルティはそう言った。  奈子が、リューイを殺したことでひどく傷ついていることを知っているから。  敵を倒したことに対してではなく、命を護ってくれたことに対する報酬なのだ、と。  その心遣いは、涙が出るほど嬉しかった。  後でソレアが教えてくれたのだが、奈子に対するお礼で頭を悩ませていたハルティにこれを勧めたのは、エイシスなのだそうだ。  金にしか興味無いようなあの男が? 奈子にはちょっと意外だった。 「ひょっとして、『浮いた分の金、俺によこせ』とか言ってなかった?」  そう尋ねると、ソレアは笑って頷いていたのだが。  そんなことを思い出していると、アイミィがナコの顔を覗き込んできた。 「ナコさん。兄様のこと、嫌いですか?」 「いや、そんなことはないけど……」  アイミィの問いに、奈子はそう答えた。もっと正直に言うと、ハルティはかなり好みのタイプだった。  顔は文句なく二枚目だ。  体格もいい。  剣を持たせれば、奈子よりもずっと強い。  アイミィではなく、面と向かって本人の口から聞いていたら、断れなかったかもしれない。 「……それとも故郷に誰か、恋人とか、将来を誓った方が?」 「……! い、いないいない。そんなの……」  一瞬、頭に浮かんだ顔を、慌てて振り払う。 「……ただ、さ……、急にそんなこと言われても、心の準備が……。それにアタシの国では、十五歳じゃ、まだまだ結婚なんて早いもの。考えたこともないし……」 「そうなんですか? それなら、今すぐとは言いません、考えておいてください。また、来て下さるんでしょう?」 「え……」  奈子は一瞬、返答に詰まった。  アイミィから視線を反らし、池の方を見る。  相変わらず、水鳥がのんびりと泳いでいた。 「……うん、また、来るよ。いつか……」  その答えに、アイミィが嬉しそうに微笑んだ。 * * *  ソレアの家の居間で、  ファージはソファに座り、不機嫌そうな顔でお茶を飲んでいた。  乱暴にカップを置くのと同時に、ソレアが入ってくる。 「機嫌、悪そうね?」  ソレアは戸棚から自分のカップを取り出し、ポットからお茶を注いだ。  そのカップを持って、ファージの隣に座る。 「……あれ以来、ナコちゃんのお見舞いにも行かないし」  ファージは黙っている。 「ファージには、理解できないでしょうね。ナコちゃんがどうして怒ったのか」  お茶を一口飲んで、ソレアが言った。 「あなたみたいに、何も感じずに人殺しができる人には、わからないでしょう? ナコちゃんがどんな思いで闘ってきたのか」 「うるさいな……」  ソレアの方を見ずに、ファージはつぶやく。 「ナコちゃんみたいな子を、巻き込むべきじゃなかったのよ。この世界でファージの側にいる以上、人の死に関わらずにはいられないもの」  ソレアはそう言って、ファージに向かって手を差し出した。 「だから、没収」  ファージはソレアを睨み付ける。手を出したまま、微かに微笑んでいるソレアを。  やがて小さく舌打ちをして、ベルトに付けた小さなポーチから数枚のカードを取り出し、ソレアに渡しす。 「ナコちゃんがもうすぐこっちに来るから、ちゃんと送ってあげなさいよ」  受け取ったカードをポケットにしまいながら、ソレアは言った。 「……そういえばナコちゃん、あんな説明で納得したのかしら?」 「あんな説明って?」  訊き返しながら、ファージはカップの底に残ったお茶を飲み干す。 「ファージが生きてた理由」  ああ……と頷いて、ファージは立ち上がった。ポットの処へ行き、空になったカップにお茶を注ぐ。 「大丈夫でしょ。ナコは、魔法のことなんてなにもわからないんだし」 「本当のこと、言う気はない?」 「言ったって、それが何を意味するのか、今のナコにはわからない」  それだけ言うと、ファージはお茶に蜜を一さじ入れてスプーンでかき混ぜる。一口味見をして、蜜を少し足した。 「もういいでしょ、ソレア。私だって、無条件で受け入れてくれる友達がほしいんだ」 * * *  すっかり傷の癒えた奈子は、久しぶりに、ソレアの屋敷に戻ってきた。  自分の世界に帰るために。  ハルティとアイミィは名残惜しそうだったが、再会を固く約束してきた。 (ファージに会うのも久しぶり……)  奈子がファージに会ったのは、マイカラスの王宮で最初に気付いた時だけだった。以来ファージは、マイカラスに顔を見せていない。 (アタシ、ファージに謝らなきゃ……)  ソレアに連れられて地下室への階段を降りながら、奈子は思った。 (ファージは何も、悪くないもんね……)  ソレアが、地下室の扉を開ける。  最初にソレアの家を訪れた時に、連れてこられた地下室。  部屋の床一杯に大きな魔法陣が描かれているが、最初にここへ来た時とは違う模様だった。その模様には見覚えがある、転移魔法の魔法陣だ。  そして、部屋の中にファージが立っていた。  しかし、入ってきた奈子の方を見ようとはしない。 「ファージ……、この間はゴメン。ひどいこと、言っちゃって……」 「いいよ、別に、もう……」  奈子と目を合わせないまま、ファージは応える。 「じゃ、ナコ、魔法陣の中心に立って」 「え……、あ、うん」  事務的なファージの口調に戸惑いつつも、奈子は魔法陣の中に入った。  奈子が中心の小さな円の中に立つと、ファージはすぐに指で印を結び、呪文を唱えようとした。 (どうして……? どうして何も言ってくれないの?)  奈子は驚いてファージを見る。 「シカルト トゥ……」  ファージが呪文を唱え始めた瞬間、奈子は思わず叫んでいた。 「待って、ちょっと待って、ファージ!」 (言わなきゃ、アタシが、言わなきゃ……)  奈子は、ファージの側へ歩いていった。 「なに?」 「あの……さ」  躊躇いながらも、奈子は言った。 「アタシ、そのうち……また、遊びに来てもいいかな……、こっちに、さ」 「え……」  ファージが、驚いたように顔を上げる。 「ハルティやアイミィとも約束したし。ファージやソレアさんにも、また会いたいし……」 「ナコ……」  ファージははっきりと、嬉しそうな表情を見せた。  そして、ちらりとソレアの方を見る。  仕方ないわね……。ソレアの目はそう言っていた。 「……あのね、ナコちゃん。正直言って私は、ナコちゃんがまたこっちに来るのは、反対なの」 「ダメ……ですか?」 「この世界は、決して平和な処ではないわ。また、今回みたいな目に遭うかも知れないわよ? 辛くない?」  そう言いながらも、ソレアはポケットからカードを取り出してファージに渡した。 「いいんです。アタシ、逃げたくありません」  奈子ははっきりと言った。 「このまま二度とこの世界に来なければ……、全ては夢の中の出来事と同じ。でも、そうじゃない。全部、現実なんです。アタシが人を殺したことも……。その事実から目を背けるのは、卑怯だと思います。だからアタシは、ここへ来なければならないんです」  そこで奈子は言葉を切り、少し考え込んだ。 「……いや、違うな……。そんな理由は言い訳でしかない。会いたいんです。アタシ、ファージやソレアさんや、アイミィやハルティ様に、また会いたい。いけませんか?」 「ナコ……」  ファージの目には、涙が滲んででいるようだった。  奈子の手に、ソレアから返して貰ったカード――転移魔法のカードを握らせる。 「……また、会えるよね?」 「うん、必ず」  力強く応えると、奈子は魔法陣の中心に戻った。 「自分の家でしばらく休んで、少し落ち着いたら、さ。……また、来るよ」 「うん……」  ファージは涙を拭くと、今度こそ呪文を唱え始めた。 * * *  自分の世界に戻ると、また、夜だった。  どうして戻る時はいつも夜なんだろう。奈子は首を傾げる。  まだ、真夜中にはなっていないらしい。  奏朱別公園の展望台からは、街の明かりが見渡せた。  空は晴れていて、丸い月が辺りをぼんやりと照らしている。  しかし三つの月が輝く向こうの夜に比べれば、こちらの夜空はひどく暗く感じる。 (早く会いたいな……父さんと母さんに。家にいるかな……。怒ってるかな? 怒ってるよね)  奈子が簡単な書き置きを残して家を出てから、半月以上が過ぎていた。  学校も、もう夏休みは終わって新学期が始まっているはずだ。 (早く会いたいな……、由維……)  奈子は、自分の手を見た。 (あの子には、言わなきゃならない。何もかも……)  由維は、どう思うだろう。  軽蔑するだろうか?  この手が血に塗れていても、好きでいてくれるだろうか?  由維に会いたい。そう思いつつも、会うのが恐かった。 (大丈夫。あの娘は、きっと。全てを聞いても、それでもにっこり笑って、おかえりって言ってくれる。そうだよね、由維……)  だからこんなにも、由維に会いたいのだ。  奈子は歩き出した。  思わず走り出しそうになる気持ちを抑えて。  展望台から降りる道に差し掛かった時、下から登ってくる人影を見つけた。 「……、奈子、先輩……」  由維が、そこにいた。  一瞬、信じられないといった表情で奈子の名を呼んだ由維は、次の瞬間走り出して、奈子に抱きついてきた。 「奈子先輩だ。本当に、奈子先輩だぁ……」  それが夢でも幻でもないことを確かめるかのように、奈子の身体に回した腕にぎゅっと力を込める。  どうして、由維がここに?  その疑問の答えは、考えるまでもなかった。  奈子が還ることを信じて、毎日のようにここへ来ていたに違いない。 「奈子先輩だぁ。帰ってきて、くれたんだ……」  由維の声が、だんだん、涙声になる。  奈子はなにも言えなかった。  口を開いたら、自分も泣き出してしまいそうだった。  だからなにも言わず、そっと由維の小さな身体を抱いた。 「奈子先輩……」  顔を上げた由維は、涙を手で拭い、小さく鼻をすすった。  そして。 「……おかえりなさい」  にっこりと微笑んで、そう言った。  一番、聞きたかった言葉だった。  奈子の目から、涙が溢れそうになった。 「おかえりなさい、奈子先輩」  もう一度繰り返した由維は、背伸びをして、両腕を奈子の首に回した。 「奈子先輩……」  目を閉じた由維の顔が、近付いてくる。  その意図は明白だ。  しかし、今度は逃げなかった。  別に、宗旨替えしたわけではない。  ただ――  友情とか、愛情とか。  男とか、女とか。  そういった区別はこの際置いといて。  とにかく。  奈子は、由維のことが好きだった。  由維も、奈子のことを好きでいてくれる。  だから、由維がそうしたいのなら……。 (まぁ、キスくらい好きにさせてもいっか……)  そう、思った。  そうして、二人の唇が触れた。  初めて触れる由維の唇は、とても柔らかかった。  奈子も、由維の身体に手を回そうとして。  しかし次の瞬間――  奈子は慌てて由維の身体を突き放すと、口に手を当てて叫んだ。 「……し、し、舌を入れるなぁぁっ!」 あとがき 「今まで、あとがきなんてなかったのに、何故第三話だけ?」  はい、いいところに気が付きましたね。  実は『光の王国』は、 第三話をもって「第一部・完」となります。 「ちょっと待て。これで終わり? 伏線やら謎やら、山ほど残ってるんじゃない?」  その通りです。誰も、これで終わりなんて言ってません。  むしろこれからが本番。今、第二部の構想を練っている最中です。  このシリーズの第一話〜二話あたりは、けっこうノリだけで書いてしまったような部分があって、その分、第三話では苦しみました。  で、ここらでちょっと間をおいて、何を書くのか、何を書きたいのかをじっくり考えてみようと、そう思ったわけです。 「第二部の展開はどうなるのか?」  一つはっきりしているのは、二話〜三話で出てきた伏線や、詳しく説明されないままになっている部分が、かなり明らかになるだろうということ。 ファージとソレアの秘密、竜騎士、この世界の歴史、ランドゥやファレイアの神々、等……。  しかし、そんなことよりも私が書きたいのは、奈子と周囲の人間達との関係。  由維×奈子、ファージ×奈子、ハルティ×奈子、この関係がどうなっていくのか、作者としても興味津々です(笑)  本編第四話『レイナの剣(仮)』は、年内に発表できるかどうか微妙、といったところでしょうか。  その前に、設定資料集とか、番外編的な短編をいくつか書こうと思っていますので、そちらもよろしくお願いします。 一九九七年九月 北原 樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/ 第二版あとがき  ようやく、長い間直したいと思い続けていた第一部(一〜三話)の書き直しが終わりました。  大きく書き直した第一話に比べると、二〜三話は修正量は少なかったのですが、その割に辛い作業でした。  やってて面白くないんですよ。  どうしてだろう、と考えてみて、二〜三話が作品として面白くないからだと気がつきました。  やっぱり『光の王国』が本当に面白くなってくるのは、第二部(四話〜)以降だと思います。四話『レイナの剣』でそれ以降の『光』のスタイルが確立されていますしね。  そういえば、三話は最初の執筆時も一番難産だった作品です。当時は、長い作品を書くのに慣れていないからだと考えていましたが、そうじゃないんですね。ストーリィが面白くなくて、展開に無理があるからだったんです。  いっそのこと、今回ストーリィも全面的に直そうかと思ったのですが、さすがにそんな時間はないし、一度書いた話をまったく変えてしまうのもどうかということで見送りました。  まぁとにかく、これで第一部の書き直しが終わったので、最終話を公開することができます。四話以降の書き直しは最終話公開後、CD―ROMに収録するために行います。一〜三話は初版が(今となっては)読むに耐えない出来なので、最終話公開前に直したかったんです。  最終を公開した時に、初めて『光』を読むという人も出てくるでしょうから、第一部だけで見捨てられると困るなぁ、と(笑)。『金色の瞳』まで読んでも面白いと感じないのであれば、その人は『光』とは合わない性格なんでしょうけどね。 二○○○年五月 北原 樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/