序章 黄昏の刻〜千年前〜 「全軍、前へ」  彼女はただ一言、それだけを命じた。  隣に立っていた長身の副官が、大きな声で指揮官の命令を全軍に伝える。  ほとんど間をおかず、彼女が率いる二万の兵は、一糸乱れぬ陣形で前進を始めた。彼女が立っているなだらかな丘の上からは、兵の動きを手に取るように把握できた。  前方では、敵軍が慌てて陣形を整えようとしている。その左手には、大陸でも有数の大河コルザ川が滔々と流れており、下流へ目を移すと、敵トリニアの王都マルスティアがある。   陽は、既に大きく西に傾いている。普通ならば、これから戦端を開く時刻ではない。  彼女は、喉の奥でくっくと笑った。  敵軍の慌て振りがはっきりと見える。 「甘いな。このくらいで慌てるようでは。夜討ち朝駆けだけが戦ではあるまい」 「レイナ様、戦闘も始まらないうちから勝った気になって笑うのは、少々早すぎるのでは?」  彼女の隣に立っていた副官のトゥートが眉をひそめる。  彼が心配するのも無理はない。  レイナ・ディ・デューンが率いるストレイン帝国の軍は約二万。対して眼前のトリニア軍は五万を越えている。  無論、必勝を期すために様々な策を練ってはあるし、彼もその一端を担っている。が、だからといって全く不安がないといえば嘘になる。  しかし、レイナは己の勝利を微塵も疑っていないようだった。  レイナは、女騎士の中でも決して大きな方ではない。長身のトゥートの横に立てば、背はその肩にも届かない。だが、人の目に映るレイナは、それより遙かに大きかった。  全身にみなぎる気迫と自信。  強い光を持った鋭い目。  そして何より、最強の騎士としての誇り。  それらが、彼女を他の誰よりも大きな存在としているのだ。  レイナが「勝つ」と言えば、その言葉を疑う者はこの軍にはいない。 「馬鹿なことを言うな。実際に戦ってみるまで勝敗がわからないような奴を『無能』と呼ぶんだ。ほとんどの戦いは、始まった時には既に勝敗は決しているんだよ。刃を交えるのは、相手にその事実を知らしめるためでしかない。それとも……」  レイナは横目で心配性の副官を見た。 「トゥート、お前は敵に私以上の指揮官がいるとでも言うのか。ん?」 「そんなことはありませんが、しかし……」 「心配は要らん、見ろ」  レイナに促されて、トゥートは前線に目をやる。  最前線は二キロほど先だが、鷹にも劣らない、といわれる彼の目は、はっきりと戦況を捉えることができた。  そこでは両軍の先鋒同士が激しくぶつかり合っていた。敵の陣形は早くも崩れつつある。  今日のこの時刻の攻撃のために昨日から準備していたストレイン軍と、戦闘開始は翌朝と踏んでいたトリニアの軍、序盤ではその用意の差がはっきりと現れたようだ。  それに何より、トリニア侵攻開始より三ヶ月、連戦連勝で勢いづいているレイナの軍勢と、建国以来五百年、初めて王都で敵を迎え撃つトリニア軍とでは、開戦前から士気に雲泥の差があった。 「明日は、噂に名高いトリニアの王都、光の都マルスティアをゆっくりと見物できそうだな」 「……ですが、トリニアが竜を投入してくれば、戦況はまだわかりません」 「その前に終わらせる。連中、うまいこと陽動に引っかかってくれたからな。竜騎士が戻ってきた頃には、王都は我々の手に陥ちている、というわけだ」  もっとも……、とレイナは付け加える。 「私としては、その前に戻ってきて欲しいところだ。半ば伝説と化している青竜の騎士、ぜひ手合わせしてみたい。竜騎士を倒したことはあるが、あの時は竜を駆ってはいなかった」 「私はごめんですね」  トゥートは肩をすくめた。 「どうせなら楽に勝てる方がいいです。トリニアの竜騎士なんて、考えただけで鳥肌が立ちますよ」  副官の弱気な言葉に、ふっとレイナは笑みを洩らす。その言葉が決して本心ではないことを、彼女はわかっていた。  トゥートは、見た目は背だけがひょろりと高い優男だが、いざ戦いとなれば安心して背中を任せられる男だった。  そもそも無能な者、臆病な者が、ストレイン帝国の竜騎士の中で一、二を争う実力の持ち主であるレイナ・ディ・デューンの副官でいられる筈がない。 「トリニアの先鋒は、一刻と持たなかったな」  総崩れとなった敵の前線部隊を見て、レイナが目を細めた。 「作戦通り、このまま兵を進めますか?」 「当然だ。日没まで時間がない、一気に敵を蹂躙しろ」  末端まで指令が行き届いている軍は、陣形を変え、敵の本陣へと突入していった。 * * *  この世界は、二つの大陸と、大小無数の島々で成り立っている。  大陸の一つは南極付近に位置し、人間は住まない。  そしてより大きな、人が住むただ一つの大陸は、コルシアと呼ばれていた。  それは、この世界の古い言葉で『大地』を意味する。  コルシアの中央部には、大陸を南北に分断する巨大な山脈が聳え、その西側には広大な不毛の砂漠が広がっている。  山脈の東側も、高緯度の最北部は気温が低すぎるために居住には向かず、実際のところ、人間が住む土地は大陸の三分の一程度でしかない。  それでも、人間が支配するには広すぎる大地であった。狭義では、この人が住む土地を指してコルシアと呼ぶ。  有史以来、大陸には無数の国が栄え、そして滅びていった。  初めてコルシアの過半を支配下に置いたストレイン帝国、そして、後にストレインを凌駕する大勢力となったトリニア王国連合、これらの国が栄えていた約七百年間は、後に『王国時代』と呼ばれるようになる。  それは高度な魔法技術と、竜騎士が栄華を誇った時代。  コルシアの歴史の中で、もっとも力と光に満ち溢れていた時代。  しかしトリニアとストレインの全面戦争により、光の時代は終わりを告げた。  コルシアの全土を焦土と化すほどの凄惨な戦いと、それに続く長い冬。  人口は激減し、王国時代の偉大な知識も力も失われ、そうして、いつ果てるとも知れない闇の時代が訪れた。  そして――  それから千年。  王国時代の繁栄には及ぶべくもないが、少なくとも、滅亡の危機は去った時代に。  コルシアとは少し異なる世界からやってきた、一人の少女の物語が始まる―― 一章 美夢 「奈子ってば、柄にもなく緊張してるのぉ?」  そんな声と同時に、いきなり背後から胸を掴まれた。  思わず、悲鳴を上げて飛びあがる。 「め、め、め〜め先輩っ、いきなり何するんですかっ!」  振り返った奈子の前で、髪の長い、小柄な少女がくすくすと笑っていた。 「なんだか、すごく固くなってるからさ、緊張を解してあげようと思って、ね」 「だからって……、他に方法があるでしょっ? そもそも、緊張するなって方が無理なんですよ。初めての全国大会なんだから……」  そう、今日は総合空手協会主催の、日本選手権の日。奈子は中学女子の部の北海道代表として、ここ東京武道館に来ていた。  試合場は少年部から大人まで、大勢の選手でごった返しており、客席も、応援の門下生や一般の観客でほぼ満員状態だ。  これほど大勢の前で試合をした経験のない奈子にとっては、それもまたプレッシャーをいや増す一因となっている。 「だいたい、め〜め先輩のせいなんですからね。アタシが全国大会初出場なのは」 「そうやって、人のせいにするのは良くないなぁ。私に勝てなかった奈子が悪い」  奈子の前に立っている小柄な少女、め〜め先輩こと安藤美夢は、顔の前で人差し指を小さく左右に振った。  美夢の身長は百五十センチに満たず、体重は三五キロ弱。高校一年生の女子としてもかなり小柄でだ。奈子と並ぶと美夢の方が歳下に見える。  おまけに腰まで届くほどの、昨今の女子高生には珍しいストレートの黒髪に、優しく可憐な顔立ち。  それは『お人形さんのような』という形容詞がぴったりで、空手の試合場などにいるのは実に場違いな雰囲気だった。  だが、奈子の一年先輩のこの安藤美夢こそ、昨年まで中学女子の部で無敵を誇った選手なのだ。  二年生の時に全国優勝して以来二年間、公式戦無敗。もちろん、奈子もこれまで一度も勝てたことがない。  つまり、奈子は今まで地区予選で美夢に負け続けていたために、実力は全国クラスといわれながらも、これまで全国大会出場の機会に恵まれなかったのである。今年、美夢が高校に進学して、やっと奈子に出番が巡ってきたというわけだ。  美夢は今大会、高校女子軽量級の優勝候補筆頭に挙げられている。 「まぁ、初体験は緊張するのも無理ないけど、そんな大したものじゃないよ。終わってしまえば、なんだだこんなものか、って呆気ないくらい」 「め〜め先輩が言うと、なんか違う意味に聞こえますね?」  なんとなく下ネタっぽく聞こえるのは気のせいだろうか。 「とにかく、そんなカチカチになってちゃ勝てるものも勝てなくなるって。心配しなくても、奈子は十分に強いんだから」  美夢は気楽に笑って奈子の背中をぽんぽんと叩くが、それでも一向に緊張は解けない。 「そうだ。美樹さんの『絶対に勝てるおまじない』って、試してみる? 効果抜群だよー」 「え?」  奈子は一瞬、美夢の言葉が理解できずに首を傾げた。  美夢が言う美樹さんとは、北原極闘流の創始者の孫娘で女子空手界の女王、北原美樹のことだ。奈子もずいぶんと世話になっている。 (あの超実戦主義の北原先輩が、試合に勝つためにおまじないなんかに頼る……?)  北原美樹とおまじない。奈子の頭の中で、この二つの単語はどうしても結びつかない。  きょろきょろと周囲を見回していた美夢は、試合場の隅に美樹の姿を認めて大きく手を振った。  それに気付いた美樹がこちらへ歩いてくる。 「どうした? め〜め」 「奈子がね、初めての全国大会で緊張しててねー。このままじゃ実力が出せそうにないからさ、ほら、例のヤツ」  美夢が悪戯っぽく笑って片目を瞑る。  美樹は「ああ」と小さく頷いた。奈子の方を向いて言う。 「わかってると思うけど、我が北原極闘流はこの二年間、女子の部の全階級制覇を続けている。ここは当然、三連覇を狙うつもりだ。つまり……」  そこで一旦言葉を切った。  その微妙な間がどれほどの効果を上げるか、充分に計算しての行動だろう。 「負けたら、殺す」 「――っ」  目が、本気だった。  どう見ても、これ以上はないというくらいに本気だった。  ごくり……と咽を鳴らして、奈子は唾を飲み込んだ。冷や汗が一筋、頬を伝う。 「そ……そんな、余計にプレッシャーかけるようなこと言わないで下さいよ!」 「何がプレッシャーだ。敗北とはすなわち死、実戦なら当たり前のことだろ?」  特に気負った様子もなく、ごく自然に美樹は言う。  海外で傭兵をしていた父親に格闘技を習った彼女にとっては、それが常識なのだろう。物心つく前からそう教えられてきたと、奈子は以前聞かされたことがある。 「死にたくないか?」 「当たり前です!」 「死ぬのは、怖いか?」 「怖い……です」 「じゃあ、勝て」  それだけ言って、美樹は去っていった。  あとには、呆然としている奈子と、面白そうに笑っている美夢が残される。 「……絶対勝てるって、こういうこと……ですか?」  やや怯みながらも怒ったように訊く奈子に対して、美夢は笑いながらうんうんと頷いた。まったく悪びれる様子もない。 「これで、勝つしかなくなったっしょ?」 「もし負けたらどうするんですかっ!」 「その時はその時」  美夢はあっさりと言った。 「死ぬのがヤなら、勝つしかないね。それとも、美樹さんを返り討ちにするとか?」 「そっちの方が難しいじゃないですか!」 「じゃ、頑張って優勝しようね」  はあ、と大きく溜息をついて、奈子は肩を落とした。  まさか、こんなことになるなんて。 「命を懸けた闘いなんて、簡単なンだよ。所詮、自分一人の問題なんだから。奈子もそろそろ、誇りを懸けた闘いってのを、経験するべきじゃない? ほら、もうすぐ出番だよ」  背中が掌で軽く押された。  試合場では、既に一回戦が始まっている。  係員が奈子の名を呼んだ。 「頑張ってね、奈子」  美夢の掌が、背中をぽんぽんと叩いている。 「勝ったら、キスしてあげるから」 「いりませんっ!」  少々倒錯した趣味があるという美夢の申し出をきっぱりと断ってから、奈子は自分の試合場へと向かった。  とにかく、勝つしかないのだ。  一回戦の相手は、咬竜会の山根睦美。  奈子と同じく今年中学三年生で、二年生の時から全国大会に出ている強者だ。 (どーして、こんなことになっちゃったかなぁ)  審判の『始め』の声を聞きながら、心の中で嘆息した。  『向こう』での闘いならいざ知らず。  自分の世界の、たかが空手の試合が、どうして生死に関わることになるのだろう、と。 (たかが、空手の試合……?)  自分の言葉に「あれ」と首を傾げる。 (そうか……)  奈子はうなずいた。  考えてみれば、これはたかが中学生同士の、空手の試合でしかない。  向こうの世界で奈子は、正真正銘命がけの闘いを繰り広げてきた。  剣を持った荒くれ共。  獰猛な肉食獣。  異世界から召喚された魔獣。  手練れの傭兵。  そして、強大な力を持った魔術師……。  自分一人の力ではないとはいえ、そんな闘いをくぐり抜けてきたのだ。 (それと比べれば……)  こんな試合、楽な闘いのはずだ。  相手は、奈子と同い歳の少女でしかない。  武器を持っているわけでもない。魔法を使うわけでもない。ちょっと空手が上手いだけの、ただの中学生だ。 (楽な闘いじゃないの……)  そう思うと、急に気が楽になった。  肩の力が抜けて、身体が軽くなったように感じる。  意識が、集中していく。  相手の動きは、はっきりと見えていた。  野生の獣に比べれば、ずっと遅い。  向こうの世界の戦士に比べれば、隙だらけだ。 (中学生なんて、こんなもんだっけ?)  睦美の順突きを余裕を持って躱し、膝裏を狙って下段蹴りを叩き込む。  相手の体勢が大きく崩れたところで、近い間合いからボディアッパーの二連発。  それで終わりだ。  審判の右手がさっと上がり「一本!」の声が響いた。 * * *  数時間後。  決勝を終えた奈子は、更衣室でTシャツを替えて試合場に戻った。この後表彰式があるので道着はそのままだ。  試合場では既に、高校生や一般の試合が始まっている。  美樹や美夢はどこだろうか、と場内をきょろきょろと見回していた時、不意に背後から名前を呼ばれた。美夢や美樹ではない。男性の声だ。。  聞き覚えのあるその声に、奈子の頬が朱く染まる。 (大丈夫……だよね? もう大丈夫……普通に、話せるよね?)  自分に言い聞かせながら、ゆっくりと振り返る。 「……高品先輩、お久しぶりです」 「やったな、松宮。見てたぞ。一回戦から決勝までオール一本勝ちじゃないか」  百八十センチ以上ある逞しい体格の青年が、笑いながら奈子の頭に手を乗せる。  以前は奈子と同じ道場にいて、この春から東京の本部で指導員をしている高品雄二だった。 「先輩が、鍛えてくれたお陰です」  高品に触れられると、鼓動が早くなるのが自分でもわかる。奈子は、それが表情に出ませんように、と願った。 「いいセン行くだろうとは思ってたけど、まさかこれほどとはな。今なら、安藤や美樹ちゃんにも勝てるんじゃないか?」 「まさか……」  思わず苦笑いする。奈子にとって、あの二人だけは別格だ。 「それより、先輩の方はどうですか? 今回は、無差別級でのエントリーですよね?」 「おお、もう絶好調だよ。今年こそ、無差別級のタイトルを聖覇流から奪い取ってやる。女子が無敵なのに、男子がいつまでも二位に甘んじてるってのはカッコつかないからな」  もうじき試合だから、と高品は去っていった。  黙ってその背中を見送る。 「……やっぱりまだ、ドキドキする……。でも、普通に話せるようになったよね? うん、大丈夫」  心臓の鼓動を確かめるように左胸を押さえ、奈子はつぶやいた。  以前から、高品のことが好きだった。  実を言うと、今年のバレンタインに生まれて初めての告白をした相手だ。  ただし、その告白は初めから結果がわかっていた。高品には、学生時代から付き合っている恋人がいることを、奈子は知っていた。  ただ、けじめを付けたかっただけ。春になったら東京へ行ってしまう高品と、何も言わずに離れ離れになりたくなかった。  当時はいろいろとあったが、今日こうして、普通に先輩後輩として言葉が交わせたことが嬉しかった。 (今にして思えば……恋と言うより、憧れに近いものだったんだろうな)  小さい頃、八巻建志やフランシスコ・フィリョに憧れていたのと似たようなものだ。ただ、彼らよりずっと身近な存在だったために、恋愛の対象となっただけ。 (まあ、あれはあれで本気だったんだけど……、思い出すとちょっと恥ずかしいけどね)  それでも、いい想い出には違いない。思春期の女の子ならみんな通る道だろう。  あまり知られていないが、実のところ奈子は意外と惚れっぽい。好みのタイプは『強くてカッコいい男』。  今一番のお気に入りはマイカラス王国のハルティ王子だったが、それは口が裂けても人には言えない秘密だった。 「ちゃんと、男の人を好きになるンだもの、アタシはノーマルだよね。そりゃあ由維は可愛いし、キスした時はドキドキしたけどさ……」  台詞の後半はあまりノーマルとは言い難いのだが、自分ではそのことに気付いていなかった。 * * *  ようやく美樹を見つけたとき、彼女は美夢の試合を見ていた。  美樹は格闘技界では有名人で、こういう場所ではファンに取り囲まれてもおかしくないのだが、今は一人だった。  美樹の周囲に、常人には近寄りがたい殺気が漂っている。腕を組んで、厳しい目で試合場を見つめている。  試合の日には、いつもこうだった。  こんな時は、奈子でさえ近寄りがたい。美樹のことを全く怖がらないのは、女子では美夢くらいのものだろう。 「北原……先輩?」  奈子は、少し離れたところからそっと声をかけた。  気付いた美樹が側へ来いと目で促すので、ほっと息をついて隣に立った。。 「どうやら、生き延びたようだな」  目は試合中の美夢に向けたまま、美樹が言った。 「この歳で死にたくありませんから」 「悪くない試合だったな。うん、ずいぶん強くなったよ」  悪くない、これは美樹にしては最高の褒め言葉だった。  たとえ勝ったとしても、試合内容が悪ければ美樹を怒らせる可能性もあったのだ。奈子は、内心ほっと胸をなで下ろした。 「め〜め先輩は?」 「いま三回戦だ。勝つよ、今回の軽量級にあいつの敵はいない」  奈子も、美夢の試合に目を移した。  相手は、美夢よりふた回りくらい大きい。もっとも、いくら軽量級といっても美夢が小さすぎるのだ。  この大会のルールでは、女子軽量級は体重四八キロ以下となっている。三五キロしかない美夢はリミットよりも十キロ以上軽い。  選手の多くは四五キロ以上あるのだから、美夢はダントツで最軽量選手だった。  本来、このハンデはかなり大きい。  百キロ級の選手で十キロ差ならそれほどでもないだろうが、女子軽量級では体重の二割以上の差になる。例外はあるが、基本的に打撃格闘技では身体の大きい者、体重の重い者が有利だ。  リーチが長く、打撃に威力があり、耐久力が増す。  そのことを理解している美夢の対戦相手は、リーチの差を生かして、離れた間合いから突きと蹴りのコンビネーションで攻めたてていた。一見、美夢は防戦一方のようだ。  美夢は相手の重い攻撃を受けるのが精一杯で、反撃に移れずにいる……ように見えた。 「あのバカ、遊んでやがる」  美樹が苦笑する。  それは奈子も気付いていた。美夢は、奈子との練習試合でもよくこんな真似をする。奈子なら勝てる時に確実に勝とうとするが、美夢は試合そのものを十分に楽しんでから相手を仕留めるのだ。己の技量に絶対の自信があるからこそ、できることだった。  今だって追い込まれているように見えてるが、美夢は実は無傷、飄々と相手の攻撃を受け流しているだけだ。 「……奈子は、何のために空手をやっているんだ?」 「え?」  不意に、美樹が訊いた。  あまりに唐突だったので、一瞬それが自分に向けられた質問と気付かなかった。  何のために……?  奈子は最近、自分に対して何度かその質問をする機会があった。 「最近……それがわからなくなってきてるんです」  正直に答えた。  闘うことの意味。  闘いの中で人の死を目の当たりにして以来ずっと考えてきたが、答えは見つかっていない。 「ふうん……。ま、誰にもそういう時期はあるよな」  美樹は何となく、そんな奈子の答えを予想していたようだ。 「北原先輩にも?」 「ま、な」 「それで……、北原先輩は答えが見つかったんですか?」 「さあ、どうだろう」  美樹は首を傾げた。  別にとぼけている様子はない。それが本心なのだろう。 「はっきりしているのは、奈子も自分で、自分なりの答えを見つけなきゃならないってことだ。一つだけ言っておくけど、闘いってのは、きれい事じゃない。格闘技なんて所詮、人を傷つけるため、殺すための技なんだから。心身の鍛練とかなんとか、そんなこと言う奴がいるけど、私に言わせりゃ空手で精神を鍛えるなんて非効率すぎる」  美樹はそんな辛辣な台詞を吐いた。 「精神修養なら、山寺で座禅でも組んでた方がよっぽどいい。悟りってのは、その道を極めた者だけが得られるんだよ。闘いから何かを悟るためには、いったいどれほどの人を傷つけ、殺さなきゃならないものやら……。あ、終わった」  不意に美樹が顔を上げる。奈子も慌ててその視線を追った。  試合場では、美夢が場外ラインぎりぎりまで追いつめられていた。自分からこれ以上下がれば、減点となってしまう。  相手は、ここで決めようと猛烈に攻めたてる。  これまでか……と。美樹と奈子と、そして本人以外の誰もがそう思ったに違いない瞬間、美夢の姿が消えた。  いや、本当に消えたわけではない。ほんの五十センチほど、横へ移動しただけだ。  それが予備動作のない、あまりにも速い動きのために、闘っている相手には一瞬消えたように見える。  そして、目標を見失った相手の目が再び美夢を捉えるより早く、得意の上段回し蹴りが叩き込まれていた。  相手の身体は一撃で崩れ落ち、審判の手が上がる。一瞬遅れて、わっと歓声が沸き起こった。 「まったく……遊んでないでさっさと終わらせろよな。今日は後がつかえてるんだから」 「め〜め先輩って、ホント、楽しそうに試合してますね」  試合後の礼を済ませる美夢は、特にはしゃぐわけでもなく、いつものようににこにこと笑っている。 「私にも、アイツだけは何考えてるのかわかんね。でも、あのタイプは敵に回すと怖いよ。きっとあの表情のまま、人を殺せるんだぜ。あんな外見のくせに、詐欺だよな」  美樹は肩をすくめた。 「そういえば、今日はあのちっこいの、応援に来てないのか?」 「ちっこいの……って、由維?」  そんな名前だっけ、と美樹がうなずく。  由維はいつも、奈子の試合には応援に来ている。必ず、手作りのお弁当を持って。  札幌〜東京の距離など、由維の愛情の前にはものの数ではないように思えるのだが、今日に限っては由維は来ていない。 「ホントは、来るって言ってたんですけどね」  しかし昨日から熱を出して寝込んでいて、親から外出を禁じられたのだという。 「夏風邪か、あいつらしいと言えば、らしいな」  美樹の言葉に、奈子もぷっと吹き出す。  由維が、優勝祈願の水ごりをしていて風邪を引いたことは、奈子も知らなかった。 二章 マイカラスの夜  奈子を包んでいた光が徐々に薄れ、視界が回復してくる。  そこは、見覚えのある地下室だった。  石が剥き出しになっている床には複雑な魔法陣が描かれている。  部屋の中には、幾つかの本棚と戸棚。  本棚にはなにやら難しい本(そのうち何割かは、奈子には読めない文字で書かれていた)、そして戸棚には薬品の瓶が、それぞれぎっしりと並べられている。  あとは、飾り気のない机が一つに、椅子が一脚。 「よし、成功」  周囲を見回し、自分の身体をぽんぽんと叩いて、なにも問題がないことを確認した奈子は、満足そうに呟いた。  なにしろ自力でこの世界へ転移するのはこれがまだ二度目、上手くいく自信などまるでない。おっかなびっくりの転移なのだ。  転移魔法はもっとも高度な技術の一つで、誰にでもおいそれと出来るものではない。しかも奈子の場合、空間ではなく次元も移動しなければならないのだ。  無論それは奈子一人の力では不可能で、それを可能にしているのが、ファーリッジ・ルゥがくれた魔法のカードだ。  異世界の人間である奈子は、それ故にこの世界では強い魔力を持つが、その制御の仕方を学んでいないため、カードの助けなしには魔法らしい魔法は使えないのだった。  奈子は地下室から出て、階段を昇る。  そっと、居間の扉を開いた。  室内では、ソレア――ソレア・サハ・オルディカ――が一人でソファに座って、お茶を飲んでいた。こちらに背を向けている。 「あの……こんにちわ」  ためらいがちに声をかけると、ソレアは弾かれたように立ち上がって奈子の方を振り返った。 「ナコ……ちゃん?」  突然の来客に驚いたのか、手からカップが滑り落ちそうになり、慌ててテーブルの上に置く。 「ナコちゃん、本当に来てくれたのね。会えて嬉しいわ」  ソレアはぎゅっと奈子を抱きしめ、それから、頭をそっと撫でた。 「元気そうね。安心した」 「なんとか……元気でやってます」  まるで母親に甘えるように頬ずりする。ソレアは、この世界での奈子の保護者だ。 「とりあえず座ってお茶でも……と言いたいところだけど。大変、もうこんな時間なのね。ナコちゃん、こっちに来て」  ソレアは、奈子の手を引いて二階へと連れて行く。そこは、奈子がこの家に滞在した時に使っていた寝室だ。 「着ている物を全部脱いで」  何の前置きもなく、部屋に入ると同時にそう言われた。  奈子はびっくりして、服の胸元を手で押さえる。無意識のうちに、二、三歩後退った。 「服を脱げって……ソ、ソレアさんまでそっちの趣味? しかもこんな明るいうちから……」 「え?」  こちらに背を向けてクローゼットを開けていたソレアが振り返る。 「ナコちゃん……何か誤解してない?」  やや呆れたような口調で言う。 「すぐに出かけなきゃならないから、着替えてって言ってるの」 「は……?」  一瞬、戸惑った奈子だが、やがて自分の勘違いに気付いてかぁっと赤くなった。 「や、やだなぁソレアさんったら……。それならそうと先に言ってくれればいいのに」 「なに言ってるの。ナコちゃんが勝手に勘違いしたんじゃない。それに『こんな明るいうちから……』なんて、ひょっとして暗くなってからならいいの?」  ソレアがからかうように言うので、奈子の顔はよりいっそう赤くなる。 「そんなわけないじゃないですか。あれはちょっと言葉のはずみで……」 「とにかく、時間がないから急いでこれに着替えて」  奈子の言葉を遮って、ソレアは言った。ビロードのような光沢のある、黒い生地の服を手渡す。前に一度だけ、奈子はこの服を着たことがあった。 「これって……騎士の礼服?」  黒い生地に、金と銀の糸でマイカラス王国の紋章が刺繍されている。マイカラスの騎士団が、公式の行事などで着る礼服だ。  マイカラスは小国だが、古い歴史のある国だった。トリニア王国時代の竜騎士の伝統を受け継ぐ騎士団は、少勢ながらも最強の戦闘集団として近隣の国々にも知れ渡っている。この漆黒の制服は、マイカラス国民の憧れの的だ。  マイカラス王国で起こったクーデターの際、王子ハルティ・ウェルとその妹アイミィの命を救った功で、奈子は騎士の資格を授与されていた。もっとも、この礼服に袖を通したのは、その授与式の一度きりしかないのだが。  服を手にしたままぼんやりしている奈子をよそに、ソレアは手早くベルト、短剣、マントといった、公式の行事で身に付ける装備を並べていった。 「あの、ソレアさん? これって……?」  奈子にはまだ、事情が飲み込めていない。  そもそも騎士の礼服など、普段着として着るものでもない。  随分と急いでいるようだが、いったい何処へ行くというのだろう? 「ほら、急いで。これからすぐにマイカラスへ行かなきゃならないの」 「マイカラス王国へ? それって、正装しなきゃいけない用事なんですか」 「ああ、そういえば肝心なこと言ってなかったわね。今日はハルティ様の即位の式があるのよ。ナコちゃんは、騎士ではあっても臣下ではないから、出席しなきゃならない義務はないけれど、正式に招待されているし、行くのが礼儀でしょうね。それに、行きたいでしょう?」 「もちろん! 行きますよ」  奈子は大きく頷いた。ハルティの即位の式だなんて、絶対に見たい。もっと早くに教えてくれればいいのに。 「ぎりぎりまで待ってもナコちゃんが来なかったら、無理矢理こちらへ呼び寄せるって、ファージは先にマイカラスへ行ってるの。ほら、こちらから呼ぶ場合は、魔法陣とか……準備がいるでしょう?」  なるほどと頷いて、奈子は着替えを始めた。  礼服といっても、それはそのまま実戦に出られる作りになっている。基本デザインは、腰までの深いスリットの入ったワンピース。この世界で女性の戦士が普通に着るものだ。  生地は柔らかくて肌触りが良く、非常に軽い。しかし魔力を帯びた植物の繊維で織られたその布は、ちょっとしたナイフ程度では切ることも出来ず、火を近づけても簡単には燃えない。  腰には厚い革のベルトを締め、ハルティから贈られた王家の紋章入りの短剣を差す。  さらに、薄い金属板と革を張り合わせた胸当てと、金属製の小手を着け、騎士の証である白銀色の腕輪を左手首に填める。 「せっかくだから、少し、お化粧しようか?」 「え?」  奈子の返事も待たず一方的に椅子に座らせると、引き出しから何種類かの化粧品を取り出し、奈子に化粧を施しはじめた。  奈子はまだ中学生だし、そもそもおしゃれにはあまり興味がないから、口紅をつけるのも初めてだった。 「さ、出来た」  化粧を終えたソレアは奈子を立たせ、最後にマントを着せかけた。  マントには、赤地に青い竜を描いた、マイカラスの騎士団の紋章が付いている。それはもともと、千年以上も前にトリニア王国の竜騎士の象徴であった『紅蓮の青竜』と呼ばれる紋章を模したものだ。 「よし完璧。格好いいわよ、ナコちゃん」  奈子の身支度を終えたソレアは満足げにうなずくと、奈子を姿見の前に立たせた。 「う……わぁ」  鏡の中の自分を見て、驚きの声を上げる。 「これが……アタシ?」 「ナコちゃんは美人だし、スタイルもいいから、こういう格好が似合うわね」  確かに、騎士の正装をした奈子は、自分でも惚れ惚れするくらい格好よかった。衣装がもう少し派手なら、ちょっと宝塚っぽいかも知れない。  もともと実際の年齢より上に見られることの多い奈子だが、化粧のためかさらに大人びて見える。 「そっか……。へへ……カッコいいな」  奈子は、嬉しそうに姿見の前でくるりと一回転する。 (由維にも見せてやりたいな、このカッコ……。あの子ならなんて言うだろ)  ひょっとしたら、褒めるより先に抱きついてくるかも知れない。  そんなことを考えて、ふふっと小さく笑った。 「さあ、それじゃあマイカラスへ行きましょう」  いつの間にか、ソレアも服を着替えていた。  ソレア本人の着替えは呪文一つで済むからあっという間だ。  それはいつものシンプルなローブではなく、白いローブの上にレースを何枚も重ねたようなもの。  ソレアの髪は腰の下まである美しい銀髪で、服の生地も真珠のような光沢があるため、まるで身体全体が光に包まれているように見える。  お伽噺の妖精みたい……と奈子は思った。 「たまには、おしゃれしなくちゃね。さ、行きましょう」  奈子を促して、地下室へと降りる。  ソレアの屋敷があるタルコプの街からマイカラスの王都まで、まともに行けば十日以上の道のりだが、ソレア得意の転移魔法を使えば、それこそ瞬きするくらいの時間しかかからなかった。 * * * 「久しぶり、ナコ! 会いたかったー」  転移が完了すると同時に、奈子よりやや小柄な、金髪、金瞳の少女が抱きついてきた。 「ファージ、久し……」  しかし再会の挨拶すら、最後まで言わせてはもらえなかった。ファージが、逃げる隙も与えずに唇を重ねてきたからだ。しかも、一方的に舌を絡めてくる。 「ん……んっ……」  三十秒ほどじたばたと暴れて、奈子はやっとファージを引き離すことに成功した。真っ赤になって叫ぶ。 「い、いきなりなにするの! 何度も言うけど、アタシはそっちの趣味はないって!」 「だって、久しぶりにナコに会えて嬉しかったんだもん」  ファージが当たり前のように言う。 「あのねファージ、ナコちゃんは、明るいうちからこういうことするのは恥ずかしいんだって。夜まで待とうね」 「違うって言ってるっしょっ!」  からかうように言うソレアを睨み付ける。 「まったく、久しぶりだってのに、ちっとも感動の再会になりゃしない」 「まぁまぁ、そう怒らないで。ファージも悪気があるわけじゃないんだし。それより、王宮へ急ぎましょう、遅れると失礼になるわ」  ソレアが二人を促して、魔法人のある部屋を出る。  そこはマイカラスの王宮ではなく、王都にあるソレアやファージの知り合いの魔術師、ラムヘメスの屋敷だった。ここにはソレアたちが使える転移用の指標があるので、容易に、しかも確実に転移を行うことができる。そもそも、王宮の敷地内には結界が張られていて、普通は外部から直接転移することはできないのだ。  三人は、連れ立って外に出た。  以前来たときとは街の雰囲気がずいぶん違うので、奈子は驚きの声を上げた。  通りは人であふれ、様々な出店や、路上で見せ物をしている大道芸人などもいる。あちこちで、お祭りで使う爆竹が鳴っている。 「ずいぶん賑やかだね。まるでお祭りみたい」  奈子が知っている王都はクーデターの戒厳令下で、兵士以外の人通りもほとんどなかった。 「まあ、お祭りみたいなものでしょう? 新王の即位は、おめでたいことには違いないわ」 「マイカラスは小国だもの。王の即位なんて、滅多にない大イベントだよ。国内だけでなく、他国から来ている旅行者も多いし、街の人にとっては商売のチャンスでもあるしね」  なるほどファージの言う通り、明らかに外国人とわかる服装をしている者も少なくない。 「観光客や行商人の他に、近隣の国々の王や有力貴族の使者も多いよ。表向きは、新王の即位を祝うためだけど」  含みのある台詞に、奈子はファージを振り返った。 「表向き?」 「本当の目的は、新しい王の値踏みってこと。隙あらばマイカラスを侵略しようって考えている国もあるかもよ」 「そんな、まさか……」 「隙を見せたらそこを攻められる。それが世の常でしょ? 今回のクーデターの真相は、関係者以外知らないもの。マイカラスではクーデターが起こるほど国政が乱れている、って思われても仕方ないよ」 「ハルティ様にとってはここが正念場よね。マイカラス全土をしっかりと掌握していて、他国が攻め入る隙などないってことを見せつけないと」  奈子はなんとなく沈んだ気持ちになった。このめでたい日に、そんなことまで考えていなければならないなんて。 「でも、マイカラスに好意的な人は、また別な下心を持って来ているかも知れないわね」  奈子の気持ちを察したのか、ソレアがわざと面白そうに言った。 「別な……?」 「ハルティ様が優れた人物で、マイカラスの前途が安泰なら、自分の娘を嫁がせよう……とかね」 「あ……」  そうか。  言われてみれば、そういうこともあるかもしれない。 「ハルティ様はあの通り美形だし、まあ政略結婚に顔は関係ないけれど。今、二十二……三歳だっけ? とにかく、もう結婚してもおかしくない歳よね。王位を継いだら、妻を娶って跡継ぎを作らなきゃならないでしょうし」 「ま、ハルティのあの顔なら、親の意向は無視して、自分から嫁ぎたいっていう娘も多いんじゃない? 騎士としての腕も一流だし」  二人の言葉を聞きながら、奈子は前回、別れ際にハルティの妹のアイミィが言った台詞を思い出していた。 (いや、まさか……。いくら何でも自意識過剰だよね)  そうこうしているうちに三人は、王宮の正門へとたどり着く。そこは前回、エイシスの魔法で倒壊していたはずだが、もうすっかり修復されていた。  招待状を見せるまでもない。門番は無論、マイカラスを救った英雄の顔を覚えていて、これ以上はないというくらいの丁寧な対応だ。三人は顔パスで門を通る。  奈子にとっては、ずっと年上の門番が、自分に対して敬語を使うのが何だかおかしかったが、一般の兵士にとって正騎士など雲の上の存在だ。 「ナコ・ウェル様、姫様がお会いしたいとのことです。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」 「姫様が……?」  奈子はちらっとソレアたちを見た。 「私達たちちょっと用事があるから……。ここの宮廷魔術師にも挨拶しなきゃならないし。いいから、一人で行ってらっしゃい。後で会いましょう」  小さく頷いて、奈子は案内役の兵士についていった。  城の建物も、クーデターの際にかなり被害を受けたはずだが、こうして見る限りその傷跡は全く残っていない。  奈子は、先刻のファージの言葉を思い出した。 (そっか……隙を見せちゃいけないんだ。即位の式の時に、半壊した王宮なんて見せられないもんね)  きっと、最優先で修復したに違いない。  魔法の助けを借りているとはいえ、大きな土木機械もないこの世界で大したものだ。 「ナコ・ウェル様をお連れいたしました」  ハルティの妹、アイミィの部屋まで奈子を案内してきた兵士が、扉をノックする。中から、まるで小鳥のさえずりのように美しい声で返事がある。 「ナコ様、お久しぶりです!」  部屋に入った瞬間、奈子はまたしても不意をつかれた。いきなり、アイミィが抱きついてくる。 「姫様……お元気そうで、なによりです」  さすがにファージの時とは違って、キスはされなかった。ほっと安堵の息を漏らしながら、奈子は応える。  アイミィは不満そうに口を尖らせた。 「姫って……ナコ様、そんな他人行儀な呼び方はやめて下さいって言ったでしょう?」 「だって……」  奈子は、アイミィにだけ聞こえるように小声で言った。 「二人きりならともかく、他の人がいる場所で王妹殿下を呼び捨てってわけにもいかないでしょう?」  案内してきた兵士だけではない。室内にはアイミィの侍女もいる。奈子は一応マイカラスの騎士であり、人前で一国の王女を友達扱いするわけにもいかなかった。 「それに、姫様だってアタシのことナコ様って呼んでるじゃないですか」 「え? それは……だって……」  アイミィの頬がぽっと朱く染まる。  何となくイヤな予感がした。 「だって、今日のナコ様って、とても格好いいんですもの。騎士姿がお似合いで……素敵です」  うっとりした目でこちらを見つめるアイミィの仕草に、奈子は天を仰いだ。 (アイミィは、アイミィだけはまともだと思っていたのにー。あーもぅ、アタシってば罪な女!)  ほとんどやけくその独白だった。自分に『そーゆー趣味』はないはずなのに、どうしてか周囲にはそんな女の子たちが集まってくる。  それでもアイミィは、由維やファージのように直接的な行動に出ないだけマシと言えた。 「ナコ様、どうぞお掛けになって。今、お茶とお菓子を運ばせますから」  平和的だ。これがファージだったら、椅子ではなくベッドに押し倒されかねない。  お茶を楽しみながら、アイミィはいろいろと奈子のことを訊きたがったが、それはなんとか誤魔化して、奈子は自分がいない間のマイカラスのことなどを話題にする。 「お兄様も、ナコ様に会うのを楽しみにしているのですが、さすがに式の前は忙しくて……。多分、夜にはゆっくりできると思いますよ」  ハルティに会うのは、奈子も楽しみだった。何といっても、見てるだけでも目の保養だ。  美形で、強くて。しかも自分に好意を持ってくれているらしいのだから、強い男が好みの奈子としては、胸の高鳴りを押さえきれない。勿論、由維に対して多少の罪悪感も感じてはいるのだが。 「姫様、そろそろお支度をしませんと……」  放っておくといつまでも話に夢中になっていそうなアイミィに、侍女がそっと声をかける。 「あら大変、もうそんな時間なの? それでは、ダルジィさんを呼んできて下さいな」  侍女に呼ばれてやってきたのは、奈子と同じく騎士の礼服を身にまとった、背の高い女性だった。  長く美しい銀髪をポニーテールにしていて、鋭い目が印象的だ。  ダルジィ・フォア・ハイダー。代々マイカラスの騎士を務める名家ハイダー家の長女で、剣の腕前はマイカラスの騎士の中でもトップクラスといわれている。  奈子は直接言葉を交わしたことはないが、特徴あるその容姿のため、彼女のことはよく覚えていた。 「ダルジィさん、私はこれから式の準備がありますので、その間、ナコ様を案内してあげて下さいな」  アイミィの言葉に小さく頷いたダルジィは、奈子を促してアイミィの部屋を出た。奈子もその後に続く。 「お前……ナコだっけ? 歳はいくつだ?」  廊下を早足で歩きながら、ダルジィが訊いてくる。 「今年、十五になります」  奈子の答えに、ふんと小さく鼻を鳴らす。 「私が騎士に任じられたのは、十七の時だ。それでも若すぎると反対の声があったものだが……」  どうも友好的な口調ではない。 「いくら陛下の推薦とはいえ、十五にもならん小娘が騎士とはな」  明らかに奈子を見下したような、挑発的な口振りだ。  この言葉にはさすがに奈子もかちんときたが、なにしろ相手は先輩である。ぐっと堪えて黙っていた。 「この国は確かに小国だが、それでも騎士団は長い歴史のある精鋭だ。そこへ、こんな小娘が名を連ねるなど、笑い話もいいとこだ」 「別に、歳は関係ないでしょう」  城内で騒ぎを起こすのもまずいし、ここは大人しくしていようと思っていたにも関わらず、気付いたときには言い返してしまっていた。  もともと奈子は、喧嘩を売られて黙っているタイプではない。頭に血が昇れば、相手が先輩だろうとお構いなしだ。 「それとも、マイカラスの騎士団とは、古い伝統に縛られた石頭の集団ですか?」  ダルジィの眉がぴくりと動く。元々きつい目を、さらに吊り上げた。 「口だけは一人前だな。ならば、お手並み拝見といくか」  二人いつの間にか、城の中庭に出ていた。そこは、剣や馬の訓練を行う練兵場になっている。 (なぁんだ、このヒト最初からやる気だったんじゃない。典型的な新人いじめってヤツね)  よくいるんだよな、こーゆー先輩。  奈子は、口に出さずに呟いた。  ダルジィがカードの中から二本の剣を取り出し、一本を放って寄越す。奈子はそれを受け取ると、素早く鞘から引き抜いた。  無論、真剣ではなく模擬戦用の刃引きの剣ではあるが、まともに当たれば怪我は免れないだろう。 「果たして、マイカラスの騎士を名乗るに相応しいかどうか、な」 「ガキに負けて泣くんじゃないよ、オバさん」  奈子も挑発するように言った。既に、先輩に対する礼儀などは地平線の彼方へ消え去っている。  最後の一言は、ダルジィの怒りに火を点けるには十分だったようだ。実際のところ、ダルジィはまだ二十二、三歳でしかない。女であれば、おばさん呼ばわりされて黙っていられるわけがない。  ザッ。  土煙を上げて、ダルジィが地面を蹴る。  低く構えた剣が、斜め下から奈子の脇腹を狙う。 (……速い!)  奈子は辛うじてその打ち込みを受け止める。  火花が散り、硬い金属がぶつかり合う、耳障りな音が響いた。 「くぅっ」  奈子は歯を食いしばった。  ダルジィの剣は速く、そして重い。  腕が痺れるのを感じながら、間合いを取ろうと後ろに下がるが、ダルジィは攻撃の手を休めない。素早く剣を持つ手を替えながら、左右どちらからでも自在に打ち込んでくる。  奈子は、両手で剣を支えてそれを受け止めるのが精一杯だった。  とても反撃する余裕などない。 (こ、こんなの反則よっ! 考えたら、向こうは剣のプロじゃない!)  奈子の剣術は、あくまで現代の日本で習ったものでしかない。こちらでの一流の剣士と比べたら、遙かに見劣りする。  今だって、ダルジィが比較的受けやすい角度で攻撃しているから、なんとか防いでいられるのだ。さすがにダルジィも、全力を出しているわけではないらしい。  と、それまで息つく暇も与えずに連撃を繰り出していたダルジィが、ぴたりと手を止めた。剣を大上段に構える。 (――っ! まさか……)  次の瞬間、剣が振り下ろされる。  それは人間の目に見える速度ではなかった。  奈子の目には、ダルジィの手と剣が消えたようにしか見えなかった。それでも、身体だけは無意識のうちに反応した。  耳のすぐ横で、鼓膜が痛くなるほどの金属音が響く。  ダルジィの剣が、そこにあった。右肩に触れる数ミリ手前で、奈子が構えた剣の柄に当たって止まっている。  これを受けられたのは、ほとんどまぐれだった。コンマ一秒遅ければ、鎖骨を折られていたに違いない。  二人の動きが止まる。奈子の背中に、冷たい汗が流れた。 「……この程度か」  ダルジィが嘲笑を浮かべる。 (こんな、こんな一方的にやられて、引き下がるわけには……)  そう考える頭とは別に、勝手に身体が動いた。奈子は自ら剣を手放すと、剣を持っていたダルジィの手首を掴んだ。同時に、その腕に自分の左腕を巻き付け、肘の関節を極める。 「な……?」  ダルジィは腕を振りほどこうとするが、完全に極められた腕は動かすこともできない。  腕を極めたまま、奈子は右足を高く蹴り上げた。  立ち関節で相手の動きを封じての上段蹴り。  類い希な運動神経と柔らかい身体を持っていなければ十分な威力は出せないが、しかしそれができるならば、身動きできない相手への上段蹴りは一撃必殺の破壊力を持つ。  側頭部を強打されたダルジィは、奈子が腕を放すとそのまま地面に膝を着いた。 「この……」  首を押さえて、ダルジィが呻く。 「不思議な技を使う、と陛下が仰っていたが……こういうことか」  幾分ふらつきながらも立ち上がったダルジィは、刺すような視線で睨み付けた。奈子も負けじと睨み返す。  奈子は決して、自分が勝ったとは思っていない。ダルジィは明らかに、奈子の腕試しのつもりで手加減していたのだから。  それでも一方的にやられたのではなく、最後に一矢報いたことで溜飲を下げていた。 「盛り上がっているところ悪いんだけどね……」  睨み合う二人が第二ラウンドを始める寸前、不意に低い男の声が割り込んできた。  二人が同時に横を向くと、いつからそこにいたのか、騎士の正装をした大男が立っている。 「もう、式の始まる時間だぞ、ダルジィ。いつまでも持ち場を離れているんじゃない」 「ケイウェリ……」  ダルジィが男の名をつぶやく。  奈子も、その男のことはよく知っていた。  ケイウェリ・ライ・ダイアン。  マイカラスの騎士の一人で、若手の騎士の中ではリーダー格の男だ。  ダルジィもさすがに彼の言葉には従わざるを得ないようだ。もう一度奈子を睨み付けると、ぷいと背を向けて足早に去っていった。  ケイウェリはその様子を面白そうに見つめている。 「まあ、彼女も悪気があるわけじゃないんだ。新入りにはかならずあれをやるんだよ」  奈子の傍に立って、ケイウェリは言った。  彼は背が高い。  身長は百九十センチ近くあり、筋肉質で体重も百キロはあるだろうか。プロレスラー並の体格だ。  すぐ横に立つケイウェリの顔を見ようと思ったら、百六十センチちょっとの奈子は首が痛くなるほど見上げなければならない。 「あの……」 「君もなかなかやるね、ナコ・ウェル。ダルジィに膝をつかせるなんて、そうそうできることじゃない」 「……ひょっとして、ずっと見てたんですか?」 「最初からね」  人なつっこい笑みを浮かべて言う。びっくりするような大男だが、この笑顔のお陰であまり威圧感は感じない。 「彼女のことだ、絶対やるだろうと思っていたからね。ハイダー家は確かに名家だが、ダルジィは特にプライドが高いんだ。弱いヤツが騎士団にいるのは許せないって。それにほら、君の場合は騎士になった経緯が特別だから……正直言って、僕らはみんな君に興味があるんだよ」  奈子を城内へと案内しながら、ケイウェリは言った。 「全く素性の知れない女の子が、いきなり騎士に取り立てられるというんだから。しかも、その娘はまだ十四歳というじゃないか、気にならない方がおかしいだろう?」 「それで……、ケイウェリ様の目には、アタシはどう見えますか?」 「君は、不思議な娘だね。僕はまだ、評価を定められるほど君のことをよく知らない。でも、ダルジィによれば合格だそうだ」 「え?」 「先刻、彼女を本気にさせたろう?」  悪戯っぽく言って、片目を瞑って見せる。 「ダルジィが本気になるってことは、正騎士に相応しい力を持っているということさ。さて、僕らも行くとしよう。式の間は僕の傍にいるといい、それならダルジィもちょっかいは出せないから」  ケイウェリは奈子の背中を、ぽんぽんと軽く叩いた。 * * * 「せっかく遠くから来ていただいたのに、なかなかお話もできなくてすみません」  マイカラスの新しい王、ハルトインカル・ウェル・アイサールはそう言うと、小さく頭を下げた。  ここはハルティの私室。室内にいるのは、奈子とハルティの二人だけ。  時刻はもう夜更けだ。  即位の式と、それに続く宴はつつがなく終わった。  奈子は幾度か、ダルジィが睨んでいるのに気付いたが、奈子の側には常にケイウェリかファージがいたのでトラブルはなかった。多分、ダルジィを見る時の奈子も、同じくらいにきつい目をしていたことだろう。  式の間は無論ハルティに近寄ることもできず、やっとこうして話ができたのは、夜もずいぶん更けてからのことだった。 「ナコさんには、あんな式は退屈ではありませんでしたか?」 「いいえ陛下、とっても興味深かったです。こういった場に出るのは初めてなので」  奈子は、やや固くなって答えた。どうしてもハルティの前では緊張してしまう。  なにしろ相手は非の打ち所のない美形で、しかもこの国の王様なのだ。 「陛下はやめてください、今更……」  ハルティが苦笑する。それを見て「やっぱり兄妹だな」と奈子は思った。アイミィと同じことを言っている。 「すみません、なんか緊張しちゃって……。この前は、アタシもいろいろ混乱してたから気付かなかったけど、冷静になってみるとアタシなんかが騎士としてお城の中にいるなんて、なんだか場違いな感じだし……。ほら、アタシはしょせん平民ですから」 「そういえば、ナコさんはどちらの出身なんです?」  不意にそう尋ねる口調は何気ないものだったが、奈子は思わずぎくりとした。手に持っていたお茶のカップが、カチャリと音を立てる。 「え……と、その……」 「……考えてみると、私はナコさんのことを何も知らないんですね。出身も、家族も、これまでの経歴も……」  奈子は返答に窮した。  自分の正体については、ソレアやファージから固く口止めされているし、そうでなくとも簡単に説明できることではない。 「あなたが、ごく普通に育った街の娘などではないことだけはわかります。ナコさんには、随分と変わったところが多いですから。恐らく、遠い外国の方なのだろうと思っているのですが……」  ハルティは言葉を切って立ち上がると、ゆっくり歩いて奈子の背後に回る。 「どうして、秘密にしているのですか?」  口調は穏やかで、問いつめるような雰囲気はない。それでも、奈子は身体を強ばらせた。曖昧に誤魔化すことができないような雰囲気が漂っている。 「あ、あの……」 「あなたは正直な人ですね、嘘がつけない。隠し事をしようと思ったら、黙っているしかない」  両肩に、背後からハルティの手が置かれる。反射的に、身体がぴくりと震えた。 「でも、あなたはずるい人だ。あなたはその気になれば、私についてどんなことでも知ることができる。でも、私はナコさんのことを何ひとつ知らない」  耳元に息がかかった。  ハルティが口を寄せてささやいている。奈子の頬が朱く染まる。 「私は、ナコさんのことを何も知らない。私が、どれほど歯痒い思いをしているかわかりますか?」 (ハ……ハルティ様ってばずるい! その顔で、その声で、しかもこんな体勢でそんなセリフなんて!)  ハルティの体温を背中に感じて、奈子は心の中で叫んだ。心臓の鼓動が、信じられないくらい激しくなっている。 (考えてみれば、今、ハルティ様の部屋で二人っきりなんだ。これってひょっとして、嬉しい……じゃない、まずい状況?)  肩に置かれていた手が静かに移動する。その手は奈子の頬に当てられ、そっと上を向かされる  ハルティの顔が、すぐ近くにあった。 「ナコさん……」 「あ……」 (こ、このシチュエーションは……! でも、ハルティ様とならいい……かも)  奈子は、黙って瞼を閉じた。他にどうしていいかわからなかったから。  できることは、ただ成り行きに任せることだけ。 (ひょっとして、キスだけじゃすまなかったりして……。うわぁ、どうしよう。ゴメンね、由維……って、どうして由維に謝んなきゃなんないのっ! いや、でも……)  緊張のあまり、頭の中がパニックになる。  目を閉じていても、ハルティが近付いてくるのがわかる。  唇が、微かに触れたかという瞬間。 「何をしてらっしゃるの、お・に・い・さ・ま?」  その台詞の一語一語には、サボテンよりも太く鋭い棘があった。  表情を凍りつかせたまま、ハルティがゼンマイ仕掛けの人形のようなぎこちない動作で後ろを振り向く。  奈子も、そっと目を開いた。  手を腰に当てて立っている少女の背後に、燃えさかる炎が見えたような気がした。口元は笑っているが、こめかみには青筋が浮いている。 「ど……どこから生えたんだ? アイミィ……」 「そんな、人を雨期のキノコみたいに。そこのカーテンの陰にひそんでいただけですわ」  アイミィが指差した窓には、厚いカーテンが掛かっている。確かに、その後ろに立っていれば室内からはまず気付かれない。 「……で、私の邪魔をしたというわけか? よりによって一番いいところで……」 「だから、邪魔をしたんです。まったく危ないところでしたわ。あと一瞬遅ければ、私のナコ様の唇が奪われていたかと思うと……。お兄様ったら、女性に手が早いんですもの、油断も隙もありませんわね」 「誤解を招くような言い方をするな! まるで私が美しい女性と見ると、片っ端から手を出しているみたいではないか!」 「あら、違うと仰る?」  アイミィは畳みかけるように言った。 「そうね、ナコ様にも聞いていただこうかしら。お兄様の華々しい経歴について」  言葉遣いは丁寧だし、口元には微笑みすら浮かべている。が、二人の間には火花が飛び散っていた。  奈子はひとり蚊帳の外、呆然と兄妹のやりとりを見つめている。 「……どうやら、兄に対する礼儀というものを教えてやる必要がありそうだね、アイミィ」 「できるものならやってご覧なさい。私も王家の娘、女たらし如きに負けはしませんわ」  数秒間、黙って見つめ合っていた二人は、どちらからともなく壁に近付き、そこに飾られている剣を手に取った。普段は装飾だが、万が一の時は護身のための武器になる。 (アタシ……まだまだこの二人のこと、よく知らなかったみたい……)  奈子はぼんやり、そんなことを考えた。  ただの美形ではない、ただのお嬢様ではない。  これまで抱いていたイメージが、ガラガラと崩れていく音が聞こえる。しかしむしろ、奈子にはこちらの方が親しみが持てた。 (この二人も、普通に兄妹ゲンカなんてするんだ……って、落ち着いている場合じゃないっ!)  普通の兄妹ゲンカどころの騒ぎではない。  二人は今まさに、真剣を抜こうとしているのだ。奈子がケンカの原因なのだから、黙って見ていていいはずがない。 「あ、あの、アイミィもハルティ様も落ち着いて……えっ?」  ドォォォ……ン……  慌てて止めに入ろうとした奈子の言葉は、突然城内に轟いた重々しい爆発音でかき消された。 「な、なにっ?」  続いてもう一度、二度。  低い爆発音が響き、強固な石造りの建物がびりびりと震える。  最初に行動を起こしたのはハルティだった。瞬時に王の顔に戻り、部屋の扉を開けて叫ぶ。 「何事だ、誰か様子を見て来い」  それに応えて侍従が廊下を駆けていくのと入れ違いに、一人の兵士が慌てた様子でやってきた。 「申し上げます。城内に賊が侵入した模様で、現在、警備にあたっていた者が追っております」 「賊は何人だ? 何者かはわからないのか?」  目の前に跪いて報告する兵士に、ハルティが問いかける。 「は、まだそこまでは……」 「そうか。では、賊を追うのと同時に、手の空いている者は西館の警備に回せ。来賓の方々が多数滞在しているからな、万が一のことがあったら大変だ」 「はっ」  そのやりとりを見ていた奈子は、不意に、言い様のない不安感に襲われた。  何故、そんなことをしたのか理由を問われても言葉では説明できない。虫の知らせ、とでもいうのだろうか。  奈子がハルティを半ば突き飛ばすようにして兵士との間に割り込むのと、兵士の手の中に銀色の刃が閃くのとはほぼ同時だった。  一瞬後、右腕の肘の少し上の辺りに、鋭い痛みが走る。それでも奈子は動きを止めず、意外な邪魔者のために標的を仕留め損なって驚いている兵士の顔に、全体重を乗せた蹴りを叩き込んだ。  兵士は転がるように壁に叩き付けられ、後頭部を激しく打って気を失う。  ハルティとアイミィが事態を理解するには、何秒間か必要だった。  気絶して倒れている男。  緊張した面持ちの奈子。  そして……奈子の右腕に突き立った手裏剣。 「な、ナコ様っ!」 「な……、この男も賊の一味か! 見かけない顔とは思ったが。いや、それよりナコさん、怪我は……」 「いえ、大したことありません」  腕の傷を押さえ、痛みに顔をしかめながらも、奈子は平静を装って答えた。  ハルティの喉を狙って投げつけられた手裏剣は小さな物だし、とっさに腕の筋肉を硬直させたので、かすり傷……とは言えないが骨には届いていない。 「ナコさんには、また命を救われてしまいましたね。すぐ医者を呼びます」 「平気ですよ、こんな……」  こんな小さな傷。  そう言おうとした言葉は、しかし途中で途切れた。  突然、心臓が締め付けられるような感じがしたかと思うと、呼吸が息ができなくなった。一瞬後には目の前が真っ暗になり、意識が遠くなっていく。  意識を失う最後の瞬間、奈子の名を呼ぶハルティとアイミィの声を聞いたような気がした。 「ナコさんっ!」  ハルティは慌てて、倒れかかった奈子の身体を抱き止めた。顔から、血の気が失せている。  すぐに事態を理解した。  毒だ。  暗殺が目的ならば、武器には毒を塗ってある可能性が高い。 「アイミィ、急いで医者を……いや、西館にソレア・サハがいるだろう、すぐに呼んできてくれ!」  暗殺に用いられる強力な毒の中には、並の医者や魔術師では治療できない物も多い。しかしソレアならば、治癒の能力は大陸中でも指折りだ。  ハルティは、そこに一縷の望みを託した。 * * *  マイカラス王国の歴史は、千年ほど前まで遡ることができる。  当時、マイカラスはトリニア王国の砦のひとつだった。  トリニアとストレインの泥沼の戦争の末期、戦闘で手酷い損害を受けたひとつの部隊が、前線からマイカラスの砦へと退却してきた。  指揮を執っていた将軍は、ここで戦力を立て直した後、また前線へと戻るつもりでいたのだが、結局それは実現しなかった。  その前に、彼が仕えていた国が消滅したから。  戻るべき国は既になく、彼らの多くはそのままこの土地で暮らすことになった。  それが、マイカラス王国の起源である。  マイカラスは決して豊かな土地ではない。  西に聳える山脈が海からの風を遮るため極端に雨が少なく、国土の半分以上は乾燥地帯にある。  乾期でも水が涸れない唯一の川の流域を除けば、乾燥に強い数種類の根菜類などがわずかに栽培されているに過ぎない。  国内には小さな銀山があり、それがほとんど唯一の産業といえたが、その産出量もたかが知れている。  だが、それがマイカラスにとっては幸運だった。  山脈と砂漠に囲まれた国土は、直接国境を接する国も少ない。  なんとか生きていくことはできるが、近隣の国々がうらやむほどには、危険を冒して侵略しようと思うほどには豊かではない。  それが、マイカラスだった。  王国時代の後の暗黒の時代、無数の国が生まれ、そして滅びていった時代に、大きな戦争に巻き込まれることもなく今日まで変わらぬ姿で在り続けたのはそのためだ。  それ故に、昔の砦を土台にして築かれた、一度も戦火に巻き込まれたことのない王宮には、他所では遙か昔に失われてしまった、古い書物などが残されている。  その中には、それを見る者によっては計り知れない価値を持つ物も少なくなかった。  王宮の地下で、ファージは足音を立てないように慎重に歩いていた。  この辺りは、城の土台となった古い砦がそのまま残っている。  奥に、彼女が目的とする部屋があった。  普段なら、そこは封印されて見張りが立っている筈だったが、先刻の騒ぎのためか今は誰もいない。  上で何があったかは知らないが、これは好都合だ。そうファージは思った。まさか、奈子がハルティに言い寄られていたり、傷を負っているなどとは夢にも思わない。  今なら、結界に小さな穴を開けても気付かれる可能性は少ないだろう。  王家の者以外は見ることの叶わぬ、王国時代の書物。大いなる力の秘密を記した物が、そこにはあるかも知れない。  最初の爆発が起こる前から、ファージはここに忍び込む方法を探っていた。そして、チャンスはやってきたのだ。  一番奥の扉を開き、中を覗いた。  普段は誰も入ることのない部屋。  床には埃が厚く積もり、大きな書架がいくつか置かれている。  小声で呪文を唱えると、ファージの身体が僅かに宙に浮かぶ。そのまま、普通に歩くのと変わらない足取りで部屋の中へと入っていった。これならば、埃の上に足跡も残らない。  書架に並ぶ書物の背表紙を眺めながら、ゆっくりと歩く。他所では滅多に見つからない稀覯本も見受けられる。 「へぇ、『赤竜の書』が完全な形で残ってるんだ。それに『トリニア正史』の初版か……」  取り敢えず一通りは見ておこうと、興味の引かれた本も手に取らずに、ファージは奥へと進む。  そして。  そこに、先客がいた。  一瞬、驚いたような表情でファージの顔を見たその先客は、人なつっこい笑みを浮かべると、それまで熱心に読みふけっていた本を手に持ったまま、一言「やあ」と言った。  若い男だった。  まだ、少年の面影が残るその顔つきからすると、二十歳にはなっていないだろう。中肉中背で、外見にはこれといった特徴はない。この地方では珍しい、鮮やかな赤毛を除いては。 「何よ、あんた」  ファージは、内心の動揺を表に出さないように注意して尋ねた。  ここは、本来誰も立ち入ることの許されない場所の筈だ。  では、この男はいったい何者だろう?  ちょっと見には、どこかの学院の学生といった雰囲気だ。  この城の人間ではない。  ならば考えられることは一つ。ファージと同じ目的の持ち主ということだろうか。 「僕は、アルワライェ・ヌィ。初めまして。君は……? いや、言わないで、当ててみせるから」  アルワライェと名乗った若者は、友達となぞなぞ遊びをしている少年のような口調で言った。自身の髪の色にも似た赤銅色の瞳が、好奇心で輝いている。 「この部屋に興味を持ち、ここの結界を破って侵入できるだけの力の持ち主。その美しい黄金色の髪と瞳。そして、今夜マイカラスにいる人物……」  顎に手を当てて考えていたアルワライェは、手の中の本を書架に戻し、別な本を取り上げた。 「君、ファーリッジ・ルゥだろう? ほら、この本に……」 「キル・アィ!」  ファージは、アルワライェに最後まで言わせずに呪文を唱えた。細い光の矢が無数に現れ、アルワライェに襲いかかる。  だが、それが身体を貫く直前、アルワライェの姿がすぅっと消えた。  転移魔法だ。 「逃げた……か、なかなか素速いね。ひょっとして、先刻の爆発音もあいつの仕業か? いったい何者だ?」  あの男は、何を調べていたのだろう?  ファージは、アルワライェが立っていた場所へ向かって歩き出そうとした。  ……が。  最初の一歩を踏み出したところで、ファージの動きが止まった。電流にでも打たれたかのように、身体がびくりと震える。 「……っ!」  悲鳴を上げそうになったが、声が出なかった。  ファージの首の後ろ、ちょうど延髄の部分に、深紅の光でできた短剣が深々と突き立てられていた。  意識を失うまで、一秒とかからなかった。短剣が引き抜かれると、ファージの身体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。 「誰が逃げたって? 失礼だなぁ」  アルワライェは、ファージの傍らにしゃがみ込んだ。手の中の光の短剣が、ぱっと弾けるように消える。  ファージの顔を覗き込む。  首の後ろと口から血を流し、見開かれた目は瞳孔が大きく開いている。首に手を当てて、脈も取ってみた。 「意外と簡単だったね。墓守ともあろう者が……、もう少し手強いかと思ったけど」  小さくつぶやいて立ち上がる。 「さて、騒ぎにならないうちに引き上げるか」  そう言うと同時に、今度こそ本当に、アルワライェの身体が消えていった。 「ちくしょう……やってくれるじゃない」  ファージが忌々しげにつぶやいたのは、それから三十分ほど後のことだった。  首の痛みに顔をしかめながら身体を起こし、手の甲で口の回りに付いた血を拭う。  微かに、目眩がする。  まだ、身体が本調子に戻っていない。予想外のダメージだった。  あの、アルワライェの魔力が結晶化した短剣が、普段のファージを凌駕しかねないほどの力を持っていたということだ。  床に座り込んだまま、大きく深呼吸する。 「ったく、新しく作ったばかりのドレスなのに、血はなかなか落ちないんだぞ……」  ドレスを気にしている場合ではないのだが、そんな呑気な台詞を吐いたファージは、実際には内心それほど落ち着いていたわけでもなかった。 (いったい、何者だ……? 転移の時、まったくく気配を感じなかった)  並の力ではない。本来、転移魔法はもっとも検知しやすい魔法のひとつなのだ。  ファージは唇を噛んだ。  あれほどの魔術師を、これまで知らなかったとは。 (今までどうして見落としてたんだ? まだまだ世界は広いってことか……。でも、私を殺した報いは受けてもらわないとな)  ファージは立ち上がる。  そろそろ戻らないと、奈子が不審に思うかもしれない。 (ナコやハルティが一緒の時でなくてよかったよ。また、言い訳が大変だもんね)  延髄を剣で貫かれても生きている自分の身体について、奈子たちに説明することはできない。  ややふらつきながらも、ファージは歩いてその部屋を出ていった。 * * * 「すると、連中の真の目的は私の命ではなく、地下の古文書だったというわけか……」  腕を組み、難しい表情をしたハルティが呻くように言った。  その場にいるのは、全部で七人。  ハルティとアイミィ。  ソレアと、ソレアの手を借りてベッドの中で上体だけ起こしている奈子。  襟の回りを血で汚したままのファージ。  そして、騎士団のケイウェリとダルジィ。  ソレアの治療が早かったため、奈子は大事に至らずに済んだ。もしも少し遅れていたら、命の危険すらあったのだが。  事情を聞いたファージは、厳しい目でハルティを睨み付ける。  ケイウェリやダルジィの前なので、口に出しては何も言わなかったが、ファージの言いたいことはハルティにはよくわかっていた。  アイミィも、彼の横でずっと同じ目をしていたから。  すなわち『あんたが側についていながら、ナコに怪我をさせるなんて!』と。  だからハルティは、素直にファージとソレアに謝罪した。幸い奈子が無事だったので、ファージもそれ以上なにも言わない。  ファージは、自分のことについては全てを話したわけではなかった。 爆発音の後、不穏な気配を感じて地下に降りてみたところ、侵入者と遭遇し、傷を負わされて取り逃がしてしまった。かすり傷だから大したことはない――と。  ソレアは全てお見通しだが、他の者はそれで一応納得したようだった。  そこで問題となったのが、賊が何を目的としていたのかということだ。ファージは地下から持ってきた、アルワライェが読んでいた本を取り出した。 「これ、だよ」  ソレアがその本を受け取り、ぱらぱらとページを繰る。一瞬、驚いたように目を見開き、それからハルティを見た。 「陛下は、この本をご存じですか?」 「いいえ、私も、あそこへはほとんど足を踏み入れたことがないのですよ。地下のあの区画は永遠に封印する、代々そういうことになっているのです」 「そう……」  微かに呟いたソレアは、隣にいる奈子に視線を移した。まだ幾分顔色が悪いが、一応普通に動けるくらいには回復している。大事をとってベッドに寝てはいるが。 「ナコちゃん、レイナ・ディのことは知ってる?」 「レイナ・ディ……デューン? 王国時代の、ストレイン帝国の竜騎士だっけ?」  レイナ・ディ・デューン。  王国時代末期の、もっとも名の知られた竜騎士の一人だ。奈子も以前、本でその名を読んだことがあった。  しかしレイナは、有名な割には謎の多い人物でもある。  ストレイン帝国の竜騎士で、二万以上の兵を率いる将軍でもあった彼女は、やがて、敵国トリニアに内通しているとの嫌疑をかけられて、処刑寸前にストレインを出奔している。  そして後に、大陸の北部に自分の王国を築くことになるのだが。 「その時代、もうトリニアもストレインも力を失い、無数の小国に分裂していたわ。レイナ・ディは、それらの国々を制圧し、再び大陸を統一しようとしていたといわれている。当時既に失われていた『大いなる力』の助けを借りてね。結局、その計画を実行に移す前に彼女は病気で命を落としたとされているんだけど……」  他の者なら今更聞くまでもない話なのだろうが、奈子のためにソレアは丁寧に説明した。奈子の事情を知らないハルティら四人が、やや不思議そうな表情をしている。 「それで、その古い本には何が……?」 「レイナ・ディの墓所は、今までどこにあるのかわからず、様々な説が唱えられているわ。でも……」  そこで一旦言葉を切ったソレアは、その場の全員を見回した。それからまた、手の中の本に視線を戻す。 「これはどうやら、レイナ・ディの墓所の場所を知る手掛かりになりそうね」 三章 王都、陥落  血の色をした太陽が西の岩山の陰に没した頃、戦の勝敗はほぼ決していた。  戦闘はまだ続いているが、数の上では遙かに敵を凌駕するトリニア軍の戦線は分断され、孤立した部隊がまとまりのない散発的な反撃を行っているに過ぎない。  既にストレイン軍の先鋒は、トリニアの王都マルスティアへ侵入していた。  本来、王都を護る軍勢はトリニア一の精鋭であるが、現在はレイナとトゥートが画策した陽動作戦のために、主力が王都を離れていた。その隙に一気に王都を攻め落とそうというのが、レイナの目論見だった。  正直な話、レイナ自身は今回のマルスティア攻略にはあまり乗り気ではない。本国からの命令に、仕方なく従っているだけだ。  現在、トリニアの国力はストレインを大きく上回る。緒戦の勝利は相手の不意をついただけであり、トリニア軍が態勢を立て直して本格的な反攻に出てくれば、これまでのような簡単な戦いではなくなることを、レイナはよくわかっていた。  それなのに、トリニア領内の橋頭堡の確保も充分でないうちに王都へ攻撃を仕掛けるなど、褒められた戦略ではない。  だから、今回は取り敢えず、もっとも楽な方法を選んだ。とにかく一度マルスティアを陥としたという事実さえあれば、レイナ自身の面目は保つことができる。 「レイナ様……」  それまでレイナの隣で黙って立っていた副官のトゥートが、不意に声をかけてきた。その声は小さく、二人の周囲を固めている旗本隊の兵士たちの耳には届かない。 「……来ました。思ったより早いですね」 「ほう……」  レイナは感心したように、北の空に目を移した。トゥートの目は人並みはずれて良く、レイナにはまだ何も見えない。  それでも、強い『力』が近付いてくるのは感じる。 「私にはまだ見えん。何騎だ?」 「まずいことになりました。四騎、います」  トゥートの表情が曇る。それに反比例するように、レイナは笑みを浮かべた。 「よし、トリニアの竜騎士のお手並み拝見といくか。行くぞ、ナゥケサイネ!」  レイナの呼びかけに応えるように、遠くから低い咆哮が響いた。ほんの、瞬きを数回する間に、二人の頭上に巨大な影が現れる。  それは、二頭の赤竜。  レイナとトゥートの騎竜だ。  赤銅色のトゥートの竜。  そして血の色をした、一際大きなレイナの竜。  ストレイン帝国の中心である北の大地の竜は、どれも赤い鱗を持っているが、個体によってその色には随分と差がある。  空中で一瞬制止した二頭の竜は、それぞれの騎士の眼前に着地した。二頭とも、首の付け根の部分に鞍が取り付けられ、その左右には大きな剣が一振りずつ括られている。 「行くぞ」  レイナが、自分の竜に飛び乗る。トゥートもそれに続く。 「四対二で勝てますか?」  その危惧も無理はない。たとえ一万の兵がいても竜を倒すことは叶わないし、竜騎士同士の一騎打ちは、勝っても負けても無傷ではいられない。  竜騎士の数の差はそのまま戦の勝敗を決める、というのが常識だった。  だが、レイナはとんでもないことを言った。 「四対二じゃない。私一人でやる」 「……! まさか!」  トゥートは心の底から驚いた。竜騎士同士の戦いは、二対一でもほとんど勝ち目はないというのに。  確かに、レイナは優れた竜騎士だ。その実力はストレイン帝国一といっても過言ではない。  だが、トリニアの青竜の騎士が決して油断のならない相手であることも、また事実だった。 「トリニアの竜は私が引き受ける。お前は地上の戦闘を支援しろ。兵数は向こうの方が多いんだ、竜の援軍が来たことで勢いづかれるとまずいからな」  レイナはこともなげに言った。  その目は本気だった。最強と謳われるトリニアの竜騎士四騎に対して、ただ一騎で立ち向かおうというのだ。  しかし、レイナの言うことにも一理ある。  今のところ、ストレインの軍はトリニア軍を一方的に攻めたててはいるが、とにかく兵数ではトリニアが大幅に上回っているのだ。これで竜の数もトリニアが有利となれば、今は敗走している兵たちも士気を盛り返して、反撃に転じてくる可能性が高い。  士気が互角で正面からぶつかり合えば、兵数で上回り、地の利もあるトリニア軍が有利なのは言うまでもないことだ。  それ故に、レイナは自分一人で敵の竜騎士に立ち向かい、トゥートには地上軍を支援させようと考えたのだ。 「しかし、レイナ様……」 「こんな面白い闘い、人にやらせられるか。私が敵の竜騎士を押さえたらお前も出ろ。行くぞ、ナゥケサイネ!」  レイナの騎竜、ナゥケサイネが逞しい脚で地面を蹴り、巨大な翼を広げる。耳元で風が呻り、一気に高度が上がる。  レイナは、鞍に結ばれたベルトで身体を固定した。これで、どんなに激しい動きでも落ちることはない。  騎竜には、手綱はついていない。  声に出して命じる必要もない。  空を駆けるとき、騎士と竜の心は一つになる。  騎士は、ただ竜に乗るのではない。  竜と融合するのだ。  騎士の心は、竜の心。  竜の身体は、騎士の身体。  騎士と竜の力が一つになり、最強の存在『竜騎士』となる。  竜騎士こそが、この世で最強の生命体。  かつてないほど、心が昂揚する。  翼を広げ、風を切り裂き、思うままに空を駆ける。  鋭い鈎爪で、牙で、そして剣で敵を八つ裂きにする。  それは、悦び。セックス以上の快感。  竜騎士であること以上の悦びなど、あろうはずがない。  強大な敵を倒すために生まれた、この世で最強の存在なのだ。  ナゥケサイネは雲に届くほどの高度まで昇ったところで、水平飛行に移った。  鷹や鷲よりも遙かに良い竜の目が、はっきりと敵を捉えている。  トリニアの象徴である青い竜。  その映像はレイナの心にも伝わる。  相手が一騎と見たトリニアの竜騎士たちは、レイナを取り囲むように大きく散開する。 「ふん、遅いな……」  小さくつぶやく。あるいはそれは、ナゥケサイネの心のつぶやきだったかもしれない。  ナゥケサイネは並の竜より一回り大きく、その翼の逞しさは比類ない。  一番近い敵に目標を定めた。一瞬にしてさらに数百メートル高度を上げると、相手が追撃の体勢に移る前に、敵に向かって一直線に急降下した。  レイナは、鞍に取り付けられた大きな剣を抜く。  大竜刀と呼ばれる刃渡り三メートル近いその剣は、竜騎士同士の戦闘のために特別に鍛えられた物だ。並の剣では、鎧よりも硬い竜の鱗を貫くことはできない。  剣を大上段に構える。相手の騎士も大竜刀を抜くが、反応が僅かに遅い。  二頭の竜が空中ですれ違う。  瞬きするよりも短いその一瞬に、レイナは剣を振り下ろす。  血が、霧状になって広がった。  騎士の身体ごとその首を両断された竜は、くるくるときりもみ状態で落ちてゆく。 「まず、一騎」  翼を広げて降下を止めたナゥケサイネは、次の敵に向かうために再び高度を上げる。  レイナは、手の中の剣を鞘に戻した。今の一撃で、大竜刀はボロボロに刃こぼれしていて、もう役には立たない。  竜の鱗は恐ろしく硬い。竜を斬るために特別に鍛えられた大竜刀に竜騎士の腕を持ってしても、一撃でこうなるのだ。  これも、一人で多数の竜を相手にできない理由の一つで、そのため鞍の両側に二振りの大竜刀が備えられている。  勝負が一瞬でつかずに何合も斬り合うことになれば、一騎の竜相手にこの二振りとも駄目にしてしまうことだって珍しくはない。  残った三騎の敵のうち一騎は、まだ遠い。  近い二騎が、前後から挟み撃ちにするように展開する。 「……来るか」  研ぎ澄まされたレイナの感覚が、敵の気の動きを察知する。  次の瞬間、空一面に、一つ一つが一抱えほどもある、青白く光る光球が無数に出現する。  その数は百個以上もあるだろうか。瞬時にはとても数え切れない。  だが、レイナはいつまでもそれを見てはいなかった。光球を確認した瞬間、ナゥケサイネがその巨体を素早く翻す。  直後、光球の一つから青い光線が放たれ、一瞬前にナゥケサイネがいた空間を貫いた。  それを合図とするかのように、他の光球から、ほんの僅かな――百分の一秒ほど――の間隔で、ナゥケサイネを狙って次々と光線が放たれる。  その、あまりの高エネルギーに周囲の大気が電離してプラズマ化し、空間は青い光に包まれる。  だが、ナゥケサイネとレイナは、目にもとまらぬ動きでその光線を全てかわしていった。その巨体からは信じられないことだが、竜はハチドリよりも俊敏に飛び回ることができるのだ。  なにしろ、竜の身体を貫くことのできる数少ない魔法だ。一発でも当たれば只では済まない。  五十発くらいは、並の竜騎士でもかわすことができる。だが百発を越えたら、かわしきることはまず不可能だ。  だから、百数十発の光線を全てかわしてナゥケサイネが眼前に現れたとき、その騎士は心底驚愕した。  それでも、身体は無意識のうちに反応し、大竜刀を抜いてぎりぎりのところでレイナの斬撃を受け止める。  こぼれた刃の破片が、ぱっと飛び散った。  ナゥケサイネの鋭い爪が、相手の翼の付け根に喰い込む。  二頭の竜は、牙が並んだ口を開き、相手に噛みつく隙を窺う。  ほんの一瞬、互いの動きが止まった。レイナの口元が綻ぶ。 「お返しだ。チ・ライェ・キタィ!」 「まさかっ?」  レイナが唱えた呪文に、トリニアの竜騎士の表情は凍りついた。  それは、トリニアの竜騎士の使う呪文。  ファレイア魔導語と呼ばれる言語で、ストレイン帝国では決して使われることのない呪文だった。同等の魔法でも、ストレインの騎士は違う呪文を唱える。  周囲に、青白い光球が三十個ほど出現した。  この場合、数はあまり重要ではない。二頭の竜は組み合って、身動きできない状態なのだから。  光球から放たれた光線は次々と、竜と、騎士の身体を貫く。  ほんの一瞬のことだった。  その青い鱗を真っ赤な血で染めて、竜は地上へと落ちていく。  だが、レイナはそれを最後まで見ていることはできなかった。レイナを挟み撃ちにしていたもう一騎が、この隙に頭上から突っ込んできたからだ。  初めて先手を打たれたレイナは、大竜刀で相手の攻撃を受け止める。しかし相手の剣は運悪く、先の戦闘で刃こぼれしていた箇所に当たり、レイナの大竜刀は鈍い音を立てて中心部から二つに折れた。  一瞬の躊躇もなく折れた剣を捨てると、レイナは腰に差していた普通サイズの剣を抜く。相手は、勝利を確信した表情で、二撃目を繰り出した。普通の剣と大竜刀では、間合いも強度もまるで違う。  だからこそ、次の瞬間騎士の表情は一転した。大竜刀の強靱な刃は、何の抵抗もなく根本近くで切り落とされていた。  折れたのではない。砕けたのでもない。  切り落とされたのだ。  滑らかな刃の断面を目の当たりにしても、彼には信じられなかった。驚愕のために動きが止まり、直後その身体は二つに両断されていた。  さらにレイナは、返す刀で竜の首に斬りつける。剣は、鋼よりも硬い竜の鱗を、溶けたチーズを切るかのようにあっさりと切り裂いた。それでいて、その薄い刃には傷一つついていない。 「認識が甘いな。竜を斬ることのできる剣は、なにも大竜刀ばかりではない」  嘲笑混じりにつぶやきながら、レイナは最後の敵を目で追った。  やや年輩と見受けられるその騎士は、さすがにすぐには斬りかかっては来ず、一定の距離を置いてレイナの周囲を旋回している。 「見事な腕だな、名は何という?」  相手の騎士が問いかけてくる。レイナもその騎士の方に向き直った。  相当の地位と力を持った竜騎士なのだろう、騎竜も見事なものだ。  ナゥケサイネにはやや及ばないものの、先の三騎よりも一回り大きな青銅色の竜。  首の回りにに刻まれたいくつもの古傷が、くぐり抜けてきた戦いの数を物語っている。 「ストレインの竜騎士マウェ・ディ・デューンの娘にして、征東第七軍の将、レイナ・ディ!」  叫ぶと同時に、レイナは相手に斬りかかる。だが、相手は紙一重のところでその剣をかわした。 「うむ、若いに似ず近頃まれに見る腕の持ち主。竜も見事だ」  感心したように、その老騎士は言う。 「儂は、トリニアの騎士シアトゥカ・シ。では、少しばかりこの年寄りに付き合ってもらうとするか」  シアトゥカは、大竜刀を身体の前に構える。さすがにその構えには年期が感じられ、隙がない。  レイナとシアトゥカは、互いに牽制するように、相手の回りを旋回した。  シアトゥカの方からは打ち込んでこない。レイナが何度か斬りかかるが、シアトゥカはレイナの打ち込みをことごとくかわしていく。  今のレイナは大竜刀でない分、どうしても間合いの点では不利だった。 「どうした、何故打ち込んでこない?」  苛立たしげなレイナの叫びに対し、シアトゥカは飄々と応える。 「貴公の『無銘の剣』相手に、まともに斬り合ったのでは剣が何本あっても足りぬであろう?」 「……、この剣の由来を知っているのか」  その声には、やや驚きの色が含まれていた。先刻レイナが倒した騎士は、この剣を知らなかったはずだ。  この剣の力とその由来を知る騎士は、トリニアにも一握りしかいないはずだった。 「伊達に歳はとってはおらぬよ。若い者より物知りでなければ、年寄りの価値などあるまい」  長く生きてる分、戦い方は知っておる――そう言って笑う。 「なるほど……な」  苦虫を噛み潰したような表情でレイナは呟いた。  シアトゥカが何を考えているかわかった。時間稼ぎをしているのだ。トリニアの兵が、無事に撤退を済ませるまでの。  もしここでシアトゥカが破れれば、ストレイン軍の二頭の竜がトリニア軍を蹂躙する。そうでなくとも、トリニアの象徴である青竜の騎士が倒されたとなれば、トリニア軍は大混乱になる。  だが、まだ竜騎士が残って頭上を守っているとなれば、兵士たちも秩序を保って退却するに違いない。  この老騎士は、三騎の竜を失った今の時点では戦況を覆すのは無理と判断し、次の戦いに備えて可能な限り兵力を温存しようとしているのだ。  シアトゥカがここにいる限り、レイナはこの場を動けないし、トゥートも常にこちらに注意を払わなければならない。 (……確かに、伊達に歳はとっていないな)  これだけ老練な竜騎士に守りに徹されると、レイナとナゥケサイネの力でも倒すのは難しい。無理な攻撃をすれば、逆に反撃の隙を与えることになる。 (トゥートをこちらに呼ぶか……? いや、じじぃに手こずって助けを呼ぶなどできるか!)  それは、レイナのプライドが許さない。  たとえ二騎であっても、この男の守りを突き崩すのは難しそうだった。  装備が完全ならばまた事情は違ってくるだろうが、大竜刀を二本とも失った今の状態では、どうにも攻め口が見つからない。 (さすがにトリニアの青竜の騎士……というべきか)  取り敢えずこの場は退くことにした。  とにかく、今日の戦闘では既に目的を達している。マルスティアを攻め落とした後、トリニアの軍が相当の戦力を保ったまま撤退することも予定のうちだった。  どうせ、近いうちに再戦することになる。ならば、別に無理をすることもない。  レイナも無理な打ち込みは止め、二頭の竜はゆっくりと互いの回りを旋回する。  トリニア軍がマルスティアから撤退するにつれてその距離は徐々に開いていき、ついには視界から消えていった。  レイナは静かに微笑んだ。やはり、トリニアにも手強い騎士はいる。  やがて、トゥートの竜が近くへとやってきた。 「敵は完全に撤退しました。マルスティアは我が軍の支配下にあります」 「すぐに伝令を出したとして、本隊の到着はいつ頃になる?」 「早くて、明日の夕刻でしょう」  他の部隊の動きも完全に把握しているトゥートは、淀みなく答える。 「ならば明日と明後日、兵には交代で充分な休息を取らせろ。三日後の朝には出発することになる」 「はい」  何故とも、何処へとも尋ねない。それは既に打ち合わせ済みだ。 「トリニアが反攻に出る前にここを離れないとな。ここではあまりにも、向こうに地の利があり過ぎる。それに本隊の馬鹿共と一緒では、勝てる戦も勝てん」  レイナの皮肉めいた笑みを、トゥートがたしなめた。 「仮にも皇子殿下に対して、馬鹿共はないでしょう」  言いつつ、トゥートも微かに笑っている。立場上一応諫めはしても、今は高空を飛ぶ竜の上。誰にも聞かれる心配はない。 「馬鹿を馬鹿と呼んで何が悪い。マルスティアを陥としました、どうぞご入城下さいと言えば、喜び勇んでやってくるだろう。私が命じられたのはマルスティアを占領するまで、後のことは知らん。たとえ馬鹿共が全滅したとしても、な」  二頭の竜は並んで地上へと向かう。  もう、夕陽の残照もほとんど残っていない。  東の空に昇った二つの月が、その明るさを増しつつあった。 四章 諍い 「奈子先輩、起きて。駅だよ」 「ん……ぁ」  由維の声に起こされ、奈子はぼんやりと目を開けた。暗かった目の前が急に明るくなる。地下鉄は、ちょうど駅のホームに入ったところだった。 「ああ……もう着いたのか……」  他の乗客に混じって、奈子と由維も電車から降りた。もう九時過ぎなので、ホームの人影もまばらだ。 (夢……か。また随分とリアルな……)  大通り駅から奈子たちの家のある西の台駅まで、二十分とかからない距離なのだが、その割にはずいぶん長い夢を見ていたような気がする。  細部まで思い出すことができる。それは、向こうの世界の、王国時代の夢。  夢の中で、奈子は竜騎士レイナ・ディ・デューンだった。  巨大な赤竜を駆って、トリニアの竜騎士と闘っていた。 (すごい臨場感……SFX映画なんてメじゃないね。あの、竜と一体化する昂揚感といったら……)  そんな夢を見た理由はわかっている。  こちらに戻ってくる直前まで、ファージやソレアからレイナ・ディや竜騎士の話を散々聞かされていたからだ。  奈子たちは、マイカラスの王宮に侵入した敵を追って、レイナ・ディの墓所へ向かうことに決めた。  奈子やファージは、自分を傷つけた相手を許す気はなかったし、ハルティとしても、自分の城で好き勝手やられてこのまま引き下がるわけにはいかない。  敵の正体は分からないが、一つだけ手掛かりがあった。  それが、レイナの墓所。  強大な力を持っていた竜騎士レイナ・ディ・デューン。その力の秘密が隠されているであろう墓所。  連中が、レイナの墓所の正確な位置を調べるために王宮の地下室へ忍び込んだのなら、必ずそこへやってくるはずだった。  さすがに国王であるハルティが自らそこへ行くわけにはいかないが、奈子とファージ、そしてマイカラスの騎士ダルジィとケイウェリがその任に就くことになった。  そこで問題となるのが、墓所の正確な場所だ。ファージが見つけた書物の記述は、謎めいた暗号になっていて、そのままでは何のことかわからない。今頃は、ファージやソレア、マイカラスの学者達が解読に必死になっていることだろう。  今のところ奈子は役に立たないし、そうそう学校を休むわけにも行かないので、一旦帰ってきたというわけだ。墓所が見つかれば、ファージが呼んでくれる手筈になっている。 「ふわぁぁぁぁ……」  駅から外に出たところで、奈子はもう一度大きく欠伸をした。強引に腕を組んできた由維が、奈子の顔を見る。 「奈子先輩、そんなに眠いの?」 「帰ってくるなり有無を言わさず連れ出したのは誰だよ。まったく……」 「私は、ちゃんと朝になってから行ったもん。今日は一緒に買い物に行く約束だったじゃない」  転移の際、数時間の時差が出ることもあって、奈子は丸一日以上寝ていなかった。向こうでいろいろあって、家に戻ってゆっくりと眠ろうと思っていたらこっちはもう明け方で、一眠りしたと思う間もなく由維がやってきたというわけだ。  家への道を歩きながら、何度も欠伸を繰り返す。  九時を過ぎた住宅街は人通りもない。 「そんなに疲れてるんだったら……」  悪戯な笑みを浮かべて、由維が言った。 「ちょっと、休んでいきましょーか?」 「え?」  由維が指差した先を見て、奈子の顔が瞬時に真っ赤になる。 「あ、あんたはっ、何考えてンのっ!」 「何って……、そりゃこの状況で考えることは一つだけでしょ?」  そこには妙に派手なデザインの建物があり、ライトアップされた看板には『ご休憩・三五○○円』の文字が書かれている。 「な、何考えてンのっ? 女同士で……」 「おねーちゃんから聞いたんだけど、こーゆーところって男同士の利用はダメだけど、女同士で入るのは構わないんだって」 「アタシは思いっきり構うわっ! だいたい何で美咲さんはそんなこと知ってんのっ?」  奈子が怒鳴るのも気にする様子もなく、由維はにこにこと笑っている。  別に、エッチなことしなくてもいいんですよ――と。 「だって、興味あるじゃないですか。好奇心旺盛な年頃だしぃ、どんなところか見てみたいなぁって。これも一つの社会勉強ってヤツ?」  その言葉を信じる気はなかった。ここでホテルに入ってしまったら、逃げ道がなくなるのは目に見えている。 「なにが社会勉強よ、あんたにはまだ早すぎる! それに第一、別に面白いものでもないっしょ。単にベッドとお風呂があるだけじゃない、あとビデオとカラオケと……。あ、でもお風呂は広くてけっこう快適だったっけ。それからさ……」  突然のことに動揺していたためか、それとも眠くて頭がぼんやりしていたためか、奈子は自分の失言に気付かなかった。  それまではしゃいでいた由維が急に黙り、険しい表情になったのを見て、はじめて自分が口にしてしまったことの重大さに気が付いた。  はっと自分の口を押さえる。 「奈子……先輩?」  由維の表情が妙にぎこちない。 「誰と、入ったんですか?」  台本を棒読みにするような、感情のこもらない声でゆっくりと訊いた。  奈子の顔から血の気が引き、冷たい汗が背筋を流れる。 「奈子先輩……」  今更「人から聞いた話」なんて言い訳は通じないだろう。 「いつ……誰と入ったんですか?」  今度の台詞には、はっきりと怒りが含まれていた。奈子に詰め寄った由維は、両手で服の襟を掴む。 「誰と入ったんですかっ!」  ここまで本気で怒っている由維を見るのは初めてだ……ぼんやりと、そんなことを思った。  怒りながら、泣いている。 「あ、あの……」 「言って下さい! 一体誰とっ?」 「……ゴメン、言えない……」  言えるわけがなかった。  これは、誰にも言えない。  永久に自分の胸の中にしまっておこうと決めたこと。  奈子自身のためにも、相手の男性のためにも。 「奈子先輩っ! どうしてっ? ひどいじゃないですかっ、教えて下さいっ!」 「……アタシが誰と何しようと、あんたには関係ないでしょ!」  顔をくしゃくしゃにして詰め寄る由維に向かって、奈子は思わず怒鳴ってしまった。  そんなことを言ってはいけないとわかっているのに。  他に言うべき言葉が見つからなくて。  つい口が滑ってしまった。 (これじゃ、八つ当たりだ……)  奈子を掴んでいた手を離し、由維は二、三歩後ずさる。 「……ひどい……奈子先輩……」  その時の由維の顔をまともに見られなくて、奈子は顔を背けた。 「……、奈子先輩の、バカァッ!」  由維はそのまま回れ右すると、一目散に走り去っていく。  反射的にその後を追おうとしたが、すぐに思いとどまった。  追いついたとしても、そこで何を言えばいいのかわからなかったから。 「アタシってば、最低……」  由維の足音が遠ざかっていく。  夜道に消えていく由維の背中を呆然と見ながら、奈子はつぶやいた。  どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。由維が傷つくのは、わかっているのに。  一人取り残された奈子は、とぼとぼと歩き出した。  九月の北海道の夜は、もう肌寒い。  心なしか、道路脇の草むらから響くエンマコオロギの声も寂しそうに聞こえる。 「アタシってば、最低ぇ……」  奈子はもう一度繰り返した。  堪えようとしても、涙が溢れてくる。  恋は盲目……とはよく言ったものだ。  絶対、後悔はしないと思っていた。  半年ちょっと前、初めて男の人と過ごした夜。  一度だけ、という約束だった。その人には、付き合っている恋人がいたから。  それでも、後悔はしない筈だった。  だけど――  そのことが、由維を傷つけることまでは考えなかった。当時から、由維の気持ちは知っていたのに。 (由維、本気で怒ってた。本気で泣いてた……)  今日、奈子は初めて半年前の自分がしたことを後悔した。  また、由維を泣かせてしまった。一番悲しませたくない相手を、泣かせてしまった。  重い足取りで、奈子は家路を辿っていた。  家に着いた奈子は、自分の部屋に入ると同時に電話に手を伸ばした。  謝ろう、今すぐに。  時間をおいたら、いっそう謝りにくくなる。  受話器を取り、ボタンを押して登録してある番号を呼び出す。  数回の呼び出し音の後、受話器の向こうから若い女性の声が聞こえてきた。 『はい、宮本です』 「あ、松宮です。こんばんは……」  電話に出たのは、由維の姉の美咲だった。奈子の声を知っている美咲は「ちょっと待って」と言って電話を保留にする。  しかし、三十秒くらいして保留のメロディが途切れたとき、聞こえてきたのはまた美咲の声だった。 『あの……ゴメンね。出たくないって言ってる』 「あ……」 『ひょっとして、ケンカでもした?』 「……はい、ちょっと……。あ、またかけ直します」  受話器を置いた奈子の手は、微かに震えていた。  知らないうちに、涙が頬を伝っている。  今まで、こんなことはなかった。  二人は長い付き合いだから、これまでも喧嘩くらい何度もしている。  でも、すぐにどちらかが謝って仲直りするのが常だった。  だから、こんなことは初めてだった。  謝罪の電話にも出てくれないなんてことは、一度もなかった。  ドサッ!  奈子はベッドに俯せに倒れ込んだ。枕に涙の染みが広がっていく。  やがて、声を上げて泣き出した。  どうせ、家には誰もいない。どんなに大声を出して泣いても聞かれることもない。 (アタシ、今、独りぼっちだ……)  広い家に一人きり。  仕事の関係で両親が留守がちでも、奈子は寂しいと思ったことなどほとんどなかった。  いつも、由維が一緒にいたから。  由維が傍にいてくれたから。  なのに、今は独りぼっち。  由維を、一番大切な人を、裏切ってしまったから。 「由維……ゴメン……。お願い、アタシを一人にしないで……」  声を上げて、奈子はいつまでも泣き続けた。 五章 墓跡 「なんだ、ここは……?」  奈子は、きょろきょろと周囲を見回した。  まったく見覚えのない風景だった。  いま立っているのは、石造りの大きな建造物の上。目の前には、草の一本も生えていない赤茶けた地面が広がり、数百メートル向こうには、都市の廃墟らしきものが見渡す限り広がっていた。  もう一度、周囲を見回す。  ちょっとした街のような、石造りの構造物が並んでいた。以前訪れたことのある、王国時代の神殿の遺跡にも少し似ている。 「なんなんだ、ここは……」  ぼんやりと呟きながら、近くにあった低い階段に腰を下ろす。  何が起こったかは見当がついていた。ソレアの家へ行こうとして、転移に失敗したのだ。  問題は、ここがどこかということ。  この世界で訪れたことがある土地は数えるほどだし、ここは、そのどれとも似ていない。  つまりは「ここが何処なのか、見当もつかない」ということだ。 「あーあ……踏んだり蹴ったり」  溜息をついて空を見上げた。  空はどんよりと曇っていて、時刻もはっきりとしない。  周囲に生き物の気配はない。ここも、古い遺跡の一つなのだろうか。  奈子は、ソレアの家へ行くつもりだった。  由維と喧嘩して、家に一人でいるのがいたたまれなかったから。  誰かに、傍にいて欲しかった。  それなのに、何処とも知れぬ土地でまた一人きりだ。 (何やってンだ、アタシは……)  転移に失敗した理由もわかっている。  元々、転移は非常に高度な魔法で、高位の魔術師にしか使いこなせないものだ。  転移の際には意識を集中し、転移先をしっかりとイメージしなければならない。  ちょっとした雑念が混じっただけで、目的地以外の場所に転移してしまうことも珍しくない。あるいは王国時代の神殿など、強い魔力を持つ場所の近くでも、その影響で転移の精度は下がる。  ソレアやファージから、これまで何度もそう注意されていた。  由維との喧嘩にショックを受け、自分の世界から逃げるように転移してきた奈子の精神状態では、上手くいくはずもなかったのだ。  ファージから貰った転移魔法のカードは、この世界と奈子の世界の間の、次元転移のためだけのものだ。魔法のカードと、以前ファージに貰った指標となる紅い宝石のピアス。この二つの助けで、奈子は辛うじて転移を行っているに過ぎない。  奈子自身はこの世界の中での空間転移はできないし、そのためのカードも持っていない。  ソレアの家へ行くには、一度自分の世界に戻って出直すしかなかった。  しかし。 「明日まで、このまま……か」  転移は極めて困難な魔法だ。ファージやソレアのように特別に強い力を持った魔術師でもなければ、続けて何度も行うことはできない。  魔法のカードの助けを借りて転移を行っている奈子の場合も、それは例外ではない。  自分で転移する場合、一日以上間をおくこと――ファージはそう言っていた。  無理に転移を行えば、奈子自身に負担を強いることになるし、精度はさらに下がる。一度失敗したからといってすぐにやり直すわけにはいかないのだ。 「でも……」  奈子は思った。  かえって良かったかも知れない、と。  少なくとも、頭を冷やす時間はできたわけだ。  石畳の上にごろりと横になる。少し背中が痛いが、気にするほどでもない。 『奈子先輩のバカァッ!』  由維の最後の言葉が、いつまでも耳に残っている。  由維の泣き顔が、目に焼き付いている。  ぼんやりと考える。 (一体、アタシと由維の関係って何なんだろう?)  物心ついたときから、ずっと一緒にいた。  いつも、一緒にいるのが当たり前だった。 (由維は、アタシのことが好きだ。アタシは由維のことが好きだ。でも……)  それはいったい、どういう『好き』なんだろう。  単なる友情という言葉では、説明できないような気がする。  しかし、高品に対して抱いていたような恋愛感情とも違う。 (……わかんないや)  一つだけはっきりしているのは、何としても由維に謝らなければならないということ。 「はぁ……」  深く溜息をついて、奈子は立ち上がった。  いつまでもこうしていると、どんどん気持ちが暗くなってしまう。  とりあえず気を取り直して、周囲の様子を見ておくことにした。  ひょっとしたら、ファージにいい土産話ができるかも知れない。とにかく身体を動かしていれば、嫌なことも考えずに済む。  そんなことを思いながら、奈子は歩き始めた。 * * *  一キロちょっと歩くと、周囲の地形が大体飲み込めてきた。  どうやら、周囲には広大な都市の廃墟が広がっているらしい。その中に、建造物もなく草も生えていない、直径一キロ強のほぼ円形の荒野がある。そしてその中心に、縦横数百メートルの、奈子がいる遺跡がある。 「都市のドーナツ化現象……違うか」  荒野の向こうに広がる廃墟は、相当な規模があるらしい。その更に数キロ向こうに低い山並みが連なっているが、ひょっとしたらその麓まで続いているのかも知れない。  どういった理由か、その中にぽっかりと円形の土地が開けているのだ。  何か、手掛かりになるようなものはないだろうか。  周囲を見回した奈子は、不意に、奇妙な感覚にとらわれた。  どこかで見たような風景が、目に入った気がした。しかし、それが何なのかはっきりしない。 (何だっけ……?)  奈子の周りに立ち並ぶ、建物か単なるオブジェかよくわからない構造物の数々をじっくりと見る。  以前訪れた神殿の遺跡に少し似ているが、それが既視感の原因ではない。  周囲に広がる赤茶けた大地も違う。  その向こうに見える、崩れたビルの林のような廃墟でもない。 「……!」  思わず、声を上げそうになった。  廃墟の向こう、遙か遠くに見える山並みの中に、山頂部が奇妙に尖った、特徴のある形の山があった。  その山の形に見覚えがある。  それも、つい最近。  しかし、それを見たのは――  夢の中、だった。  レイナ・ディ・デューンのマルスティア攻略の夢の中で、ちょうど夕陽が沈む位置にあった岩山。  それはほんの数時間前のことだし、不思議なリアリティがあった夢なのではっきりと覚えていた。 「じゃあ……じゃあ……。ここはマルスティアの廃墟だっていうの?」  何故、夢で見た岩山が実在するのか。  まさか、まだ夢を見ているのだろうか。  いっそ、夢だったらいいのに。奈子はそんなことを考えた。  由維との喧嘩もみんな夢だったら、と。  だが、そんなはずはない。少なくとも、いま見ている風景は現実だ。  ここが王国時代のトリニアの王都、マルスティアの廃墟だとすれば、説明が付くことも多い。  マルスティアは最盛期には百万以上の人口を持ち、大陸の歴史上最大の都市だった。周囲に広がる廃墟の規模は、他の都市では説明できない。  トリニアとストレインの戦争の末期、マルスティアは完全に破壊され尽くして、以後現在までの千年間、誰も住む者はないという。そしてここにも、人が住んでいる気配はない。  マルスティア攻略の夢を見て、それが意識の中にあったとすれば、ここへ転移した理由も納得がいく。これまで奈子は実際にマルスティアを訪れたことはないが、少なくとも地図上の位置は知っている。  唯一わからないのが、奈子がいる場所がなんなのかということだ。荒野の向こうの廃墟と違い、ここだけは破壊の跡がほとんどない。  ということは、マルスティアが廃墟になった時代より後に築かれたのだろうか。  しかしトリニアの時代より後に、ここに住んだ者はいないはずだった。  荒野の中心部に存在するこの遺跡、どうやらいわくありげな物らしい。  奈子は、詳しく調べてみることにした。  今まで遺跡と荒野の境界に沿って歩いてきたのを、九十度方向転換して遺跡の中心へと向かう。  直方体や円柱形の構造物が立ち並んで真っ直ぐには歩けないが、とりあえず中心部付近だろうと思われる処まで来た奈子は、中へ入ることができそうな建物を見つけた。  一段高い場所にあるその建物の側面には、入口が黒く開いていて、そこまで階段が続いている。  だが、なにより驚いたのは、その入り口の前に二人の人間がいたことだった。  まさかこんな処で人間に合うとは思っていなかったので、物陰からそっと様子を伺った。  二人とも男で、年齢は多分三十より下だろう。腰に剣を差していて、まるで入口の番をしているような雰囲気だ。 (とにかく、話をすればここがどこかははっきりするか……)  そう思った奈子は、二人の近くへ行くことにした。  変にこそこそせずに、ごく自然な感じで歩いていく。  階段を中程まで上ったところで、二人はこちらに気付いたようだ。明らかに驚いた様子が見て取れる。  向こうも、こんな処で他人に会うとは思っていなかったのかも知れない。 「何者だ、お前……」  男の一人が、警戒した口調で誰何する。  こんな処で、いきなり正体不明の少女が現れたのでは無理もないだろう。そう思った奈子は、敵意がないことを示すために両手を軽く広げて笑って見せた。 「いえ、怪しいものではありません。実は、転移魔法に失敗して迷い込んで……」  だが、男は最後まで聞いていなかった。  いきなり剣に手をかけると、抜き打ちざまに斬りかかってくる。 「こいつ、マイカラスの騎士だっ!」  奈子に斬りつけながら、相棒に向かって叫んだ。奈子は慌てて、一歩下がって男の剣を躱す。 (な、何っ? 何でいきなり? それにどうしてアタシが騎士だって……)  驚いた奈子の目がふと、自分の左手を見た。  もちろん今日はこの世界での普段着だったが、左手首には、マイカラスの紋章が彫られた白銀色に輝く金属の腕輪が填められている。  それは、マイカラスの騎士の証だった。 (これか……)  だが、騎士だからといってどうしていきなり襲いかかってくるのだろう。男が攻撃の手を休めないため、それをゆっくり考えている余裕もない。  胴を狙ってきた剣を、左手で短剣を抜いて受け止める。そのまま踏み込んで右手の掌底で男の顎を打った。  男がのけぞった瞬間、奈子は地面を蹴って男の鳩尾と顎へ二段蹴りを放つ。  着地するのと同時に、もう一人が手を突き出して呪文を唱えてくる。奈子は反射的に、手に持っていた短剣を男に投げつけた。  短剣を避けようとして男の気が逸れた一瞬の隙に、相手の懐へ飛び込んだ。男が放った魔法の炎が肩を掠める。  奈子は相手の襟首を強引に掴むと、そのまま顔面に頭突きを叩き込んだ。男の鼻血が飛び散る。 「ヒュッ」  短く息を吐きながら腰を低く落とし、とどめとばかりに一気に四連突きを打ち込む。手応え十分の突きに、男は倒れて動かなくなった。 「ふぅ……こいつら、いったい何者だ?」  大きく深呼吸した奈子は、倒れている男たちを観察した。  二人とも、良く鍛えられた身体をしている。  幅広の剣。革と金属板を重ねた、胸や鎖骨を守る防具。どちらもこの世界では比較的ありふれた武具だ。紋章らしきものは見あたらない。  傭兵か、それとも単なる遺跡荒らしか。  事情はよくわからないが、取り敢えず、男たちが気絶しているうちにロープで縛り上げておいた。 「アタシがマイカラスの騎士だから、襲ってきた。……マイカラスと敵対する国の兵?」  だが、現在のマイカラスは何処とも戦争状態にはない。  クーデターの残党という可能性もあるが、それにしてもマルスティアの遺跡にいる理由がない。偶然にしては出来過ぎている。  マイカラス王国。  トリニアの王都マルスティアの遺跡。  正体不明の戦士。  そして、男たちが護っていたこの建物。  手がかりになりそうなキーワードを、頭の中で反芻する。 「……まさか……ね?」  ひとつ、気になることがあった。しかし確証はない。  奈子は、遺跡の入り口へと向かった。  中を調べれば、はっきりする筈だった。 * * *  遺跡の内部へ通じる通路はけっこう広かった。幅五メートルくらいはあるだろうか。  数歩進んでから、明かりの魔法を封じたカードを取り出した。オレンジ色の光が頭上に出現し、周囲を照らし出す。  空気は乾燥していて、ひんやりと冷たい。  物音は何も聞こえない。  奈子は、周囲に気を配りながら慎重に奥へと歩いていった。  三十メートルほど進むと、下へ降りる階段があった。階段は長く、ビル四、五階分くらい降りたところでやっとまた水平な通路になる。  通路を進もうとした奈子は、不意にただならぬ気配を感じた。反射的に床に伏せる。  ヴンッ!  鈍い音と共に、頭上に紅い光が疾り、肌が灼けるような熱気が伝わってくる。  顔を上げると、通路の前方にひとつの人影が見えた。 「誰っ?」  立ち上がりながら、奈子は叫ぶ。  人影は、ゆっくりと近付いてきた。 「いやぁ、さすがはマイカラス王国の騎士。よくかわしたね」  若い男の声だった。  歳は二十歳前後だろうか。体格は中肉中背、顔には人懐っこい笑みを浮かべている。そして、鮮やかな赤毛が特徴的だ。 「何者よ、あんた」  その答えは予想できていた。それでも奈子は尋ねる。 「アルワライェ・ヌィ。君は可愛いから特別に、アルと呼んでも構わないよ。でも、本当は人の名を尋ねる前に、自分が名乗るのが礼儀じゃないかな?」  馴れ馴れしい口調で男は答えた。  姿を見た瞬間から予想していたことだったが、それでもアルワライェの名前に奈子はぴくりと反応する。 「いきなり魔法で攻撃してくるようなヤツに、礼儀もクソもあるか」 「うーん、痛いところをついてくるね? 君の言うことももっともだよ、ナコ・ウェル。でも不意打ちは戦いの基本だから」 「……、アタシの名前を?」 「そりゃあ、このところずっとマイカラスのことを調べていたし、最年少の騎士として君は有名だしね」  ああ、やっぱりそうか。  奈子は心の中でうなずいた。  間違いない。こいつが、マイカラスの王宮に侵入して、ファージに怪我を負わせた男だ。  この男がいるということは。  それで、ここがどこか確信が持てた。  やはり、そうだったのか……と。 「あんたが犯人か」 「それにしても、よくこんなに早くこの場所がわかったね。あと半日くらいは余裕があるかと思っていたけど。それとも、あの文献は以前から解読済みだったのかな?」  心底感心した様子で、アルワライェは言う。  奈子は勿論、転移のミスで偶然ここへ来たことは黙っていた。  偶然?  いや。本当に偶然なのだろうか。  しかし、今は個人的な疑問は後回しだ。目の前の男の正体と目的を暴くことが先決だった。 「いったい、何が目的なの? レイナ・ディの墓所に、何があるというの?」 「いったい何があるのか……それを調べに来たんだよ。レイナ・ディは竜騎士の中でも特に強い力を持っていた。彼女に関しては謎も多い。その力の秘密の一端でもわかれば、それは素晴らしいことじゃないか」 「それは、あんたの個人的な目的? それとも、どこかの国が動いているの? あんたはいったい、何者よ?」  矢継ぎ早に質問を発しながら、奈子はアルワライェに気付かれないよう、じりじりと僅かずつ間合いを詰めていった。 「そこまで教えるわけにはいかないなぁ。こっちにも事情がある」 「なら、力尽くで聞き出すまでさっ!」  奈子は床を蹴った。  一瞬でアルワライェの懐に飛び込むと、正拳で相手の顔面を狙う。  しかし拳が触れる寸前、アルワライェの姿はふっと消え、拳は虚しく空振りした。  と同時に、背後に気配を感じた。奈子は振り返りながら飛び退く。  目の前、ほんの一〜二センチのところに、短剣の切っ先があった。 「うんうん、大したもんだ。これはファーリッジ・ルゥもかわせなかったのに」  その口調が地なのか、アルワライェは相変わらず人懐っこい笑みを崩さない。  奈子は、背筋が冷たくなるのを感じた。  ほんの一瞬の差で、命を落とすところだった。アルワライェの戦法についてファージから話を聞いていなければ、間違いなく傷を負っていたはずだ。 (そう、これが実戦だ……)  今さらながら、実感する。  当たり前のように命のやりとりが行われる世界に、奈子はいるのだ。 「キル・アィ!」  アルワライェの手から、光の矢が立て続けに飛び出してくる。奈子は慌てて、横に飛んでそれをかわした。アルワライェは続けて魔法を放ち、追い打ちをかけてくる。 「オサパネクシ! エクシ・アフィ・ネ!」  かわしきれないと見た奈子は、普段はカードの中にしまっている魔剣を呼び出した。  アルワライェが放った光は、炎の魔剣を包む青い炎に当たって消える。 「……おや」  アルワライェが、気の抜けた声を出した。  奈子は剣を構え直す。 「イメル・ア・ク」  アルワライェの手から放たれた稲妻のような光を、また剣で受け止める。そのまま、次の魔法を放たれる前に、剣が届く間合いまで飛び込んだ。  奈子が剣を振り下ろそうとする瞬間、アルワライェはまた姿を消す。 (また後ろ? じゃない、右だ!)  何の根拠があったわけではない。  ただ、そう感じただけだ。  直感を信じ、右に向き直りざま剣を振る。  狙い違わず、アルワライェはそこにいた。 (勝った!)  奈子の剣は、相手の脇腹を貫いた……はずだったのに。  次の瞬間、膝を着いていたのは奈子の方だった。  剣を持っていた手が、妙に軽い。 (どうして……)  徐々に、下腹から灼けるような痛みが広がる。手を当てると、ぬるっとした、生暖かい感触が伝わってくる。 (どうして……アタシが勝った……はずなのに、どうして?)  見ると、手が真っ赤に染まっていた。  赤い、鮮血に濡れていた。  視界が暗くなり、身体から力が抜けていく。  奈子はゆっくりと、俯せに倒れた。  床の上に、何かが散らばっているのが見える。  銀色に輝くそれは、剣の破片だった。 (そ……んな……)  何が起こったのか、理解できない。  はっきりしているのは、自分は倒れていて、アルワライェはまだ立っているということだけだった。 「さすがにマイカラスの騎士は質が高い。まさかあれが読まれるとはね。大したもんだ、危うく殺されるところだったよ」  アルワライェは片手で脇腹を押さえながら、相変わらず笑みを浮かべて言った。  その指の間から血が流れ、脇腹から太股にかけてを赤く染めている。  相打ち、だった。  だが、アルワライェは傷つきながらも立っており、奈子は無様に倒れている。 「君はすごい素質を持っているよ、ナコ・ウェル。残念だね、もう少し長生きできれば、超一流の騎士になれたに違いないのに。じゃ、さよなら」  アルワライェの気配が消える。  周囲は静寂に包まれる。  なんの物音もしない。  奈子は、身体を動かすこともできずに倒れていた。  意識が、遠くなっていく。 (死ぬ……? 死んじゃうの、アタシ……)  もう、何も見えない、何も聞こえない。  傷の痛みも感じない。何も感じない。 (駄目……まだ……死ねない……。由維に……会わないと……) 六章 ユウナ・ヴィ・ラーナ 「馬鹿が……」  レイナは、誰にともなく呟いた。  王都マルスティアを占拠していたストレイン軍の敗色が濃厚なのは、誰の目にも明らかだった。  ストレイン軍は、まだ相当の兵数を保っている。  ストレインの兵は、トリニアの兵に劣らず勇敢だ。  だが。  指揮官の差だけが歴然としていた。  マルスティアの西、数キロメートほどのところにある岩山の山頂で、レイナとトゥートは戦況を見つめていた。  レイナの軍がマルスティアを制圧してから、六日が過ぎている。  あの戦闘の翌日、後に続くストレイン帝国軍の本隊が到着すると、レイナは予定通り三日目には自分の兵をマルスティアから移動させた。  表向きの理由は、トリニアの反攻に備えて兵を自由に動かせるようにしておく、というものだったが、占領から五日目、トリニア軍が総力を挙げて反撃に転じてきた時、レイナの軍は既に戦場にいなかった。 「このままでは、全滅しかねませんね」  戦況を観察していたトゥートが呟く。 「全く無能な奴だ。不利と見たらさっさと後退すればいいものを、面子だけを気にして無理に踏み止まろうとするから、被害を大きくすることになる。ああいう将の下に付いた兵は不幸だな」 「しかし、後で問題になりませんか?」  トゥートの心配はもっともだった。  現在、マルスティアを占拠している軍を指揮しているのは、ストレイン帝国の第三皇子。それを見捨てて自分だけが先に引き上げていたなどということが本国に知れたら、レイナも只では済まされない。  しかしレイナは気にした様子もなく、皮肉めいた笑みを浮かべた。 「知ったことか。つまらん戦いで兵を失いたくない」 「しかし、レイナ様が参戦すれば、この戦いも勝てるのでは?」 「だろうな」  そう答えたときのレイナの笑みには、付き合いの長いトゥートでも一瞬背筋が寒くなった。  自身の勝利のためには、味方さえも見殺しにできる。  それが、レイナの強さだった。  あるいは、レイナにとってはストレイン本国も「敵」なのかもしれない。 「だが、皇子がいる以上、ここで勝っても私の手柄にならん」  デューン家はストレイン帝国の名門の一つだが、レイナは血のつながりのない養女であり、国内での立場は弱い。皇子の下で戦っていたのでは、レイナがどれだけ戦果を挙げたところで、本国へは皇子の手柄として伝えられるのが目に見えている。  だから、レイナは可能な限り一人で戦うようにしてきた。いくら皇子でも、自分が参戦していない戦いの戦果まで自分の手柄にはできない。 「本国が何と言ってこようと知ったことか。私の軍が無傷なら、今回の負けなどいくらでも取り返せる。それにしても……」  レイナはもう一度、戦場全体を見渡した。 「あの馬鹿、ここまで無能とは思わなんだ。兵力は互角だろうに、こうまで一方的な戦になるとは」 「皇子殿下は、レイナ様が言うほど愚かでも無能でもありませんよ。まあ、名将は言えませんがね。……今回は、相手が強過ぎました」  トゥートが一応弁護する。自分の能力に自信のあるレイナは、どうしても他人を見下す癖がある。  レイナの能力はトゥートも認めるところではあるが、一応は将を諫めるのが副官の仕事でもある。 「強過ぎる? これがトリニアの実力だろう。緒戦の勝利は、相手の不意を付いたに過ぎん」 「五百年近くに渡って大陸を支配してきた、その歴史の力……ですか」 「何にせよ、先に兵を引き上げて正解だったな。マルスティアでは、あまりにも向こうに地の利があり過ぎる。たとえ勝ったとしても、被害は大きかった」  先にマルスティアを離れたレイナの軍は、遙か後方の砦へと向かっている。たとえ今すぐにストレイン軍が総崩れとなり、トリニアが追撃部隊を出したところで、追いつくことはできない。  レイナとトゥートだけが、戦況を見届けるためにここに残っていた。竜騎士である彼女たちだけなら、何があっても脱出できる。 「良い将だ、兵の動かし方に無駄がない」  戦場を観察していたレイナが、珍しく感心したように言う。それは無論、敗走を続けるストレイン軍ではなく、敵のトリニア軍に対する評価だ。 「トリニア軍の総大将は、ユウナ・ヴィらしいです」 「ユウナ……。ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトか? 名家の令嬢のくせに、よくやる」  半ば感心したように、半ば呆れたように、レイナは呟いた。 「わずか十八歳で最高位『青竜』の称号を与えられ、勝利の女神の化身とまで呼ばれる騎士です。その剣技はトリニア一。その上かなりの美人とか……。どうです、勝てますか?」  トゥートが、意地の悪い笑みを浮かべてレイナの表情を伺う。 「美人かどうかで戦の勝敗が決まるのか?」  やや呆れたように、レイナは言った。 「それに、勝てるか、とは私に訊いているのか? 言葉に気をつけろ。機嫌の悪いときなら首が飛んでいるぞ。一体誰が、私に勝てるというんだ」  レイナは副官を睨みつける。 「私の首がまだつながっているということは、今日は機嫌がよろしい、と?」 「あの馬鹿が負けるところを見られたんだ、そう悪い気分じゃない。アンコールができないのが残念なくらいだ」  二人は声を上げて笑い、どちらからともなく立ち上がった。 「そろそろ決着は付いたみたいですし、引き上げましょう」  この場所は、戦場を見渡すには都合が良いが、竜が降りるには足場が悪いため、少し離れたところで待たせている。マルスティアに背を向けて歩き出そうとした二人は、その時初めて、そこにいるのが自分たちだけではないことに気がついた。  いつから、いたのだろう。レイナもトゥートも、全く気配を感じなかった。  そこにいたのは二人。  一人は三十歳くらいの男。  黒い髪に黒い瞳を持ち、身長こそトゥートよりやや低いが、よく鍛えられた均整のとれた体格をしている。  もう一人はレイナと同世代、二十代半ばと思しき美しい女性。夕陽に照らされた銀髪が朱く染まっている。  硬い表情の男とは対照的に、静かな笑みを浮かべていた。  二人とも、トリニアの騎士の制服を身にまとい、剣を腰に差している。  レイナは眉をひそめた。  背後を取られていながら、まるで気付かなかったとは。  いったい何者だろう。  いったい、いつからここにいたのだろう。 「レイナ様、あの女……」  レイナにだけ聞こえるように、トゥートがつぶやいた。レイナも小さくうなずく。  女が着けているマントに、答えはあった。  一度見たら忘れない、その刺繍。  血の色をした赤地に、青竜の紋章。  トリニア国民にとっては羨望の的であり栄光の象徴。  敵にとっては恐怖と死をもたらすもの。  それが『紅蓮の青竜』と呼ばれるその紋章だった。 「青竜の、騎士……」  トゥートが呻くようにつぶやく。  女のマントの留め金に、もう一つの答えが見つかった。  トリニア建国以来の竜騎士の家系、名門中の名門ラーナ家の紋章が彫られた銀の留め金。 「はじめまして……ではないわね。レイナ・ディ」  女の方が口を開いた。  何の気負いも感じられない、ごく自然な口調だった。 「ユウナ・ヴィ……」  喉の奥から絞り出すような声で、レイナはその名を呼んだ。  間違いない。ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト。トリニアの青竜の騎士だ。  相手が何者かはわかった。しかし、「はじめましてではない」とはどういう意味だろう。  レイナは記憶の糸を手繰る。  トリニア侵攻以来、レイナがユウナ・ヴィとまみえたことはない。  レイナの軍がトリニアに侵攻を開始した頃、ユウナ・ヴィは北の果てのアンシャス王国に滞在していたはず。  しかし、ユウナの顔にはどこか見覚えがあった。  今回の戦役よりもずっと昔のことだろうか。  更に記憶を遡る。  多分、まだ十代の頃なら顔を合わせていた可能性もある。駆け出しの騎士で、どこか辺境の戦場に派遣されていた頃だ。  最近まで、ストレインとトリニアが直接戦火を交えることはなかったが、近隣の小国の戦争に援軍を派遣することはしばしばあった。いわばトリニアとストレインの代理戦争だ。  そういった戦場のどこかで出会っていたのかも知れない。 「あそこで戦っているはずの貴様が、何故こんな処にいる?」  レイナは、眼下に広がるマルスティアを振り返った。そこに展開している五万以上のトリニア軍を指揮しているのが、このユウナ・ヴィのはずだ。 「レイナと同じ理由じゃないかしら。ここは、戦場全体を見渡せる特等席だもの」  ユウナはにこにこと笑いながら言う。その、妙に馴れ馴れしい様子が癇に障った。 「そんな理由のわけがあるまい?」  確かに、全体の戦況は把握できるかも知れない。しかしこんな遠くからでは、兵を指揮することはできない。 「うーん、そうねぇ……」  ユウナは唇に指を当て、考え込むような仕草をする。 「じゃあ、レイナに会いたくてわざわざやってきた、っていうのはどうかな? 兵は引き揚げても、あなたはきっとどこかで見ていると思ったから」 「ふざけるなっ!」  無意識のうちに、レイナは剣の柄に手を掛けていた。ユウナに飛びかかろうとするのを、トゥートが押し止める。 「あら、ふざけてなんかいないわ」  それまで腰掛けていた岩の上に立ち上がり、ユウナは言った。 「レイナに会ってみたかったというのは本当。興味があったわ。九年前は全く歯が立たなかった相手に、ようやく互角以上の戦いが挑めるようになったんだもの。マルスティアの戦場で会えると思ったのに、あなたはさっさと引き揚げちゃうし」  ユウナの顔から、それまでの子供っぽい笑みが消えた。騎士としての表情になる。  今にもユウナに飛びかかりそうなレイナの腕を押さえながら、トゥートはふと思った。この二人はよく似ている、と。  レイナは腰までの黒髪。ユウナは背中の中程までの銀髪。  獲物を射るような鋭い目をしたレイナに比べると、ユウナの方が幾分優しい顔つきをしている。  そういった違いはあるものの、それでも二人はよく似ていた。  歳の頃も、背格好もほとんど変わらない。  そして何より、内面から滲み出る雰囲気がそっくりだった。  一見、ユウナの方がずっと優しげで礼儀正しく見える。だが、レイナとの違いは、殺気を表に出しているか内に秘めているか、でしかない。 「レイナは覚えていないのかしら? あなたは私の婚約者を殺し、私にも瀕死の重傷を負わせたのよ」 「何だって?」  叫んだのはトゥートだった。思わずレイナの顔を覗き込む。レイナは難しい顔をして、自分の記憶を探っているようだった。 「九年前……というと、アネプトゥの戦場? そういえば、そんなこともあったかもな……」  レイナもやっと思い出した。彼女が初めて、大きな手柄を立てた戦いだ。あの時倒した何人もの騎士の中に、この顔があったように思う。 「それで、執念深く復讐に来たというわけか?」 「別に……」  ユウナは、立っていた岩の上からとんと飛び降りた。 「別に、今更なんとも思っていないわ。昔のことだもの。本当に、ただ顔を見に来ただけよ。行こう、フレイム」  ユウナは、これまで一言も発していない男の腕を取った。男の方が小さく呪文を唱え、二人の姿が消えていく。  最後の瞬間、ユウナの声が聞こえた。「今度は戦場で……」と。  レイナは力一杯、トゥートの手を振りほどいて叫んだ。 「何故、止めたっ!」 「勝てませんから」  拍子抜けするくらいあっさりと、トゥートは答えた。振り向いたレイナは、鋭い視線だけで相手を射殺せそうな表情をしていた。 「何だと?」 「レイナ様とユウナ・ヴィの力は恐らく互角。しかし、私はあの男には勝てません」  そう言って肩をすくめる。 「そんなに強いのか?」 「レイナ様は、ユウナ・ヴィしか見ていなかったのでしょう? 竜騎士の紋章は付けていませんでしたが、ユウナ・ヴィに匹敵する力の持ち主です。あの男、見た目通りの存在ではありません」 「ちっ」  忌々しげに唾を吐いたレイナは剣を抜いて、先刻までユウナが立っていた岩に叩きつけた。硬い竜の鱗さえもやすやすと切り裂くその刃は、大きな岩を真っ二つに両断する。 「いったい何なんだあの女……。くそ、何だか妙な奴だったな。あれが勝利の女神の化身だと?」 「何かまだ、下心がありそうでしたね、過去の因縁以外に……。ひょっとして、ストレイン軍にも美しい騎士がいると聞いて、どっちが上か確かめに来たのかも知れませんよ。噂以上に美しい女性でしたね」  茶化すように言うトゥートの喉元に、レイナの剣が突きつけられた。 「ふざけるのもいい加減にしろよ、トゥート?」 「いえ。別にふざけているわけでは……」 「あんな女より、私の方が数段上に決まっている。そうだろう?」  トゥートは吹き出しそうになったが、喉仏に触れる冷たい切っ先を感じて、慌てて真面目な表情を作った。 「仰る通りで……」  太陽は今まさに、西の山陰に沈もうとしていた。 七章 レイナの剣  まだ、生きているのだろうか。  それともこれが、死後の世界というものか。  ぼんやりとした頭で考える。  意識が朦朧として、記憶が曖昧だ。  いったい、何があったのか。  ここはどこで、何をしているのか。  どこまでが現実で、どこからが夢なのか。  ……わからない。 (慌てなくてもいい。ゆっくりと、一つずつ順番に思い出して……)  自分に、そう言い聞かせる。  思い出せることから、一つずつ。  千年前のマルスティアでの戦闘を見ていて、トリニアの竜騎士ユウナ・ヴィに出会ったこと……あれは夢だ。  では、レイナの墓所の遺跡でアルワライェと闘ったことは?  由維と喧嘩して、泣いたことは?  ハルティの即位の式に出席したこと。  空手の日本選手権で優勝したこと。  更に記憶を遡る。  由維とキスしたこと。  ファージの敵を討つため、人を……殺したこと。 (夢じゃない……。そう、夢じゃない)  みんな、現実だ。  少しずつ、意識がはっきりしてくる。  石造りの天井が見える。  冷たい石の感触が、背中に伝わってくる。  身体も、少しは動かせそうだ。  一度、深呼吸する。  そうして身体を起こそうとした奈子は、下腹の痛みにうっと顔をしかめた。  アルワライェにやられた傷に手をやる。  傷は塞がっていた。  服にべっとりと付いた血糊が、赤黒く固まっている。  傷に響かないようにゆっくりと上体を起こし、そのまま床に座り込んだ。  周囲を見回すと、床には血の痕の他に、たくさんの金属片が散らばっている。 「あぁ……」  意識と記憶は、ずいぶんとはっきりしてきた。  少し離れたところにある血の痕、あれはきっとアルワライェのものだ。  そして、この散らばる金属片は――  奈子は自分の手元を見た。  刃を折られた剣の柄が落ちていた。 「オサパネクシ……折られちゃったんだ……」  あの瞬間、何があったのかはよくわからない。  だが、アルワライェに致命傷を与える前に剣は折られ、同時に奈子自身も、恐らくは魔法による攻撃を受けたのだ。 「どうして……助かったんだろ」  致命傷だったはずの傷は塞がっている。まるで、魔法で治療したかのように。 (……魔法?)  ふと思い付いて、自分のポケットを探った。  魔法のカードが、何枚か減っていた。治癒の魔法を封じたカードだけが。 (失血が致命的になる前に、半分無意識のままカードを使ったのか……?)  そうとしか考えられない。  大量の血を流したためか、全身がだるい。  意識も少しぼんやりする。  それでも、命は助かったのだ。 「……そうか、助かったのか」  涙が溢れ出してきた。  しかしそれは、嬉し涙ではななかった。  手の中の、折れた剣に目をやる。 「剣、折られちゃった……ファージに貰った、大切な剣なのに……」  初めてこの世界に来た時、魔獣と闘うためにファージから渡された剣。  その後も、何度も何度も命を救われた剣。  だけど、この剣は。 「ファージの、恋人の形見なのに……」  奈子と知り合うずっと以前、ファージを守るために命を落とした男性の持ち物だったという。  ファージは何も言わないが、ソレアから聞かされた話だ。 「弱い……よぉ……」  溢れ出る涙が止まらない。 「何で、こんなに弱いんだろ、アタシ……」  これで、由緒あるマイカラスの騎士だなんて。  馬鹿みたいだ。  いったい何をやっているのだろう。  剣は、騎士の魂だというのに。 「これじゃ、ファージにもハルティ様にも、合わせる顔がないよ……」  奈子は、拳を床に叩き付けた。  涙が床に落ちる。  ぎゅっと唇を噛んだ。  血が滲むほど、強く。  ひどい屈辱だった。耐えられない。  もう一度、床を殴る。 「こんなアタシ、何の価値もない。いっそのこと……」  死んでしまえばよかった。  無様に生き恥を晒すくらいなら。 「……あのまま、死んでしまえばよかった」  奈子は、のろのろと立ち上がった。 「そうだよ……そうだよ。何のために、生きてるっていうんだ……弱いヤツは、死ねばいい……。そうだ……」  そう。  奈子が死ぬか、それとも―― 「……あいつが死ぬか、だ」  奈子の目が、妖しく光った。 「……殺してやる」  溢れていた涙が、ぴたりと止まる。 「殺してやる……今度こそ、殺してやる」  口元が引きつって、不自然な笑みを浮かべる。  壁に手を付きながら、奈子はゆっくりと歩きだした。 「……殺してやる……殺してやる……」  ただ、それだけを繰り返しながら。 * * *  奈子の精神状態は、普通ではなかった。  本当なら、一度引き返して、ファージたちと合流して出直すべきなのだが、今の奈子にはそんな考えは全く浮かばない。  アルワライェを殺す。ただそれだけを考えていた。それはちょうど、ファージの仇を討つことだけを考えてエイクサムを追っていた時に似ていた。 「殺してやる……今度こそ……」  何度も何度も、その言葉をつぶやいて。  何処をどう歩いてきたのかよくわからないが、気が付くと、通路の前方に扉があった。  扉の前に、数人の人影が立っていて、奈子は一瞬体を固くする。しかしよく見ると、それは生きた人間ではなかった。  青銅のような金属でできた像だ。  通路の両側に四人ずつ。  六人が男。二人が女。  いずれも、剣を持った戦士の姿をしている。  レイナ・ディの墓所を護るといった意味があるのだろうか。  通路の真ん中に立っていると、八人に睨まれているように感じる。 「あれ……?」  像の一つに見覚えがあるような気がして、奈子は近付いた。  背の高い、やや痩せ気味の男性の像だ。 「トゥート……?」  間違いない。  夢の中に出てきた、レイナ・ディの副官だった竜騎士だ。  しかし、その像は夢で見たトゥートよりも、ずいぶん歳を取って見えた。夢の中では三十前の青年だったはずだが、この像は四十歳前後と思われる。 「あ、でも、それでいいのか」  本で読んだ話では、レイナは三十代半ばで病のために命を落としたという。そしてトゥートはレイナより何歳か年上だった。 (ふぅん……)  奈子は芸術のことなどわからないが、ここに並ぶ像は、奈子の世界の基準でも見事なもののように思われた。 「死んだ後も、こうして腹心の部下たちが護ってくれてるわけだ。……あれ?」  像を詳しく観察していて、ふと気付いた。  トゥートが腰に差している剣は、本物だ。  恐る恐る手を伸ばし、それを抜いてみる。  その剣は、千年も前の物とは思えない、研いだばかりのような輝きを放っていた。 (さすが、王国時代の逸品)  王国時代の遺跡などに、ほとんど風化の痕が見られないことは奈子も知っていた。高度な魔法の力で保護されているためだ。 「少しの間、これ、借ります。……アタシの戦いのために」  剣を手に、奈子はトゥートの像に向かって小さく頭を下げた。  それから、前方の扉の方に向き直る。  この像が護っているということは、きっとこの奥が墓所の中心部に違いない。  そう考えて、扉に手を掛ける。  と、扉の向こうに、人の気配を感じた。  頭で考えるより先に、反射的に金属製の扉を蹴り開ける。  剣を振りかざして中に飛び込もうとして。  しかし、奈子は呆然とそこに立ち尽くした。  一瞬、目に映ったものが信じられないといった表情で。  それが夢でも幻でもないと確認して、奈子はゆっくりと訊いた。 「……なんで、あんたがここにいるの?」 * * * 「まさか、マルスティアの中とはね……」  ソレアは、やや呆れたような口調でつぶやいた。  どうりで、今まで誰も見つけられなかったはずだ。  戦争の末期、激しい戦場となったマルスティアは、以後、近付く者もいない。  都市は破壊され尽くし、大地は有毒な瘴気に覆われ、戦争に用いられた魔物が徘徊する禁忌の地。それが、現在のマルスティアだった。千年経った今でも、人が住める土地ではない。  まさかそんな場所に、レイナ・ディの墓所があるとは誰も思わないだろう。  もっとも、そんな土地にどうやって墓所を築いたのかは依然謎だったが。 「ま、行ってみればわかるか」  ソレアは、お茶のカップを口に運んだ。  今いるのは、自分の家の居間。ここが一番落ち着く。  とその時、 「ソレアッ!」  いきなり乱暴に扉が開かれ、ファージが飛び込んできた。 「ちょっとファージ、その扉は樫の最高級品なのよ。もうちょっと丁寧に扱ってよね」  家具や食器に人一倍愛着を持っているソレアは、嫌な顔をする。 「それどころじゃないっ! ナコが、いないんだ」 「いない? どういうこと?」 「こっちへ呼ぼうとしたのに、捕まらないんだ」  レイナの墓所の位置がわかったので、ファージは、奈子をこちらへ呼ぶために地下室へ行っていた。そこには、転移の指標となる魔法陣がある。 「ファージの次元転移に引っかからない。ということは……」 「もう、こっちに来てるんだよ。自分で転移しようとして、失敗してここに来られなかったんだ」 「ちょっとファージ、落ち着いてよ……苦しいから」  興奮したファージは、いつの間にかソレアの襟首を掴んでいた。 「落ち着きなさい、座標の固定に失敗したって、全くランダムな場所に出るわけでもないでしょう? この世界で、ナコちゃんとの縁が深い場所。ここでなければマイカラス、それともルキアの街……」 「私、マイカラスへ行ってくる! ソレアはナコの気配を捜して!」  言うが早いか、ファージは部屋を飛び出していく。  ソレアも腰を上げた。  地下室に降り、魔法陣の中心に座って目を閉じる。 (さて……何処にいるかしらね……)  転移魔法に失敗した場合、多くはその人に縁のある場所に出ることが多い。意識のどこかに、その場所のことがあるからだ。  それ以外では、強い魔力を持った土地。その魔力が、転移魔法に干渉することがある。  後者だとすると、見つけ出すのは難しい。なにしろ可能性のある場所が多過ぎる。  しかし前者であれば、この世界で奈子が知っている土地はそれほど多くはない。  最初に滞在した街ルキア。  二度目の時に訪れた神殿の遺跡。  ソレアの屋敷のあるタルコプの街。  それからマイカラスの王都。  徐々に意識を広げて、奈子の気配を探ってゆく。だが、それらしき反応はない。一番可能性が高いと思われたマイカラスの王宮も無反応だ。 (他に、ナコちゃんに関わりのある場所、それとも人物……)  土地だけでなく人物に範囲を広げても、候補はそんなに多くない。 (そういえば……あの男もいたわね)  ソレアは、一つの可能性に思い当たった。 * * *  そこは、ちょっとした広さの部屋だった。特に何も置かれてはおらず、正面に、更に奥へ続く通路が見える。 「……なんで、あんたがここにいるの?」  奈子はもう一度繰り返した。自分の前に立つ男に向かって。 「それはこっちの台詞……と言いたいところだが、それほど不思議でもないか。お前も一応マイカラスの騎士だもんな、ナコ」  奈子の癇に障るにやにや笑いを浮かべながら、男は言った。 「なんであんたがこんな処にいるのっ? エイシス!」  奈子は叫んだ。  目の前の男の名は、エイシス・コット・シルカーニ。  職業はフリーの傭兵。マイカラスのクーデターの際、奈子たちに雇われて一緒に戦った男だ。  その体格に相応しい大剣を片手で操り、強力な精霊魔法の使い手でもある。  腕は間違いなく一流だ。しかし性格には、少なくとも奈子にとっては多少の問題があった。  金に汚く、好色でちゃらんぽらん。それが奈子が抱いている印象。どちらかといえばストイックなタイプが好みの奈子としては、腕は認めるものの、どうにも虫の好かない相手だった。 「それにしても、どうしてソレアやファーリッジ・ルゥは一緒じゃないんだ? 本来なら、マイカラスの騎士団が揃って来たっておかしくないだろうに。何故一人でこんな処に?」 「いいから、先にアタシの質問に答えろよっ!」  こめかみに青筋を立てて奈子は叫ぶ。しかしエイシスは相変わらず飄々とした態度だ。 「そんなに頭に血を昇らせるなって。それでなくても、血が足りてないんだから」 「な……」  何故、そんなことを知ってるんだ? 奈子はその言葉を飲み込んだ。  確かに、着ている服は血塗れだ。だが、それが返り血ではなく奈子の血だと、どうしてわかるのだろう。  それに何故、こんな処で会っても驚かないのか。  不意に、一つの回答が浮かぶ。  考えたくないことではあるが。 「あ、あ、あんたが……手当してくれたの?」  エイシスは黙って、相変わらずにやにやと笑っている。  それが、答えだった。  奈子はぎりぎりと唇を噛む。  どうして、よりによってこんな男に命を救われるのだろう。 「どうして……?」  絞り出すような声で訊いた。 「やっぱ、知り合いが死ぬのはあまり気分のいいもんじゃないだろ。特に、将来有望な美少女の場合は」 「むさ苦しい男だったら、見捨てるとでも言うのっ?」 「かもな」  エイシスには全く悪びれる様子がない。 「命の恩人に対して、他に何か言うことはないのかな? ん?」 「誰がっ!」  命の恩人どころか、親の仇でも見るような目で、奈子はエイシスを睨んだ。  本当に、むかつく男だ。  もういい。こんな奴を相手にしている場合ではないと、エイシスを無視して奥へ進もうとした。  その手を、エイシスが掴まえる。 「何処へ行く気だ?」 「離せよっ! アタシは追ってる奴がいるんだ。あんたなんかに関わってるヒマはない!」  だが、エイシスの大きな手は、しっかりと奈子の腕を掴まえて離さない。 「悪いことは言わん、大人しく帰るんだな。どうしてもと言うんなら、軍隊でも連れてくることだ」 「あんた、いったい……」 「俺は、仕事でここにいるんだよ。遺跡の調査の護衛、ということでね。部外者を通すわけにはいかない、わかるだろ?」 「仕事……?」  その言葉に、奈子は振り返る。 「まさか、あの男に雇われてるってこと? どうして? あの男はマイカラスの……」 「マイカラスの敵、か? しかし、俺の敵じゃない。この前は、お前とハルティが雇い主だった。今はアルワライェが雇い主。金払いはなかなかいいよ」 「……そう」  奈子が小さくうなずくと、エイシスは手を離した。 「わかったなら、帰れよ。なんなら出口まで送ってやるぞ?」 「つまり、今のあんたはアタシの敵ということだ。……そういうことだよね?」  奈子は、手に持っていた剣を構えた。目つきが尋常ではなかった。  さすがに、エイシスも緊張した表情になる。 「おい、ナコ……」 「アタシは、アルワライェを殺す。邪魔するなら、あんただって殺してやる!」 「殺す、って言ったのか? お前が?」 「そうさ! みんな殺してやる、アタシの邪魔をするなっ!」  奈子の剣幕に、エイシスは眉をひそめた。  いったい何があったのだろう。  これは、エイシスが知っている奈子ではない。  以前、人を殺したショックに打ちひしがれていた少女とはまるで別人だ。 「おい、ちょっと待て……」  奈子は最後まで聞いていなかった。  いきなり、エイシスに斬りかかってくる。  エイシスは後ろに飛び退くが、奈子はそれを追って続けざまに剣を振り回す。 (馬鹿な……)  別に好かれているとは思っていなかったが、本気で斬りつけられるほど嫌われる覚えもない。  だが、奈子の剣には明らかな殺意があった。  全く手加減なしだ。  奈子の三度目の打ち込みを、エイシスは背負っていた大剣を抜いて受け止めた。もう、素手でかわせる状態ではない。  奈子の剣の腕は決して一流とはいえなかったが、かといって遊び半分であしらえるほど未熟でもない。何より、本気の相手は怖い。  奈子は、息もつかず立て続けに剣を打ち込む。もう、型も何もあったものではない。  奈子の攻撃はことごとくエイシスの剣に受け止められてしまうのだが、それでも奈子は剣を振り続けた。  風を切る音。  剣がぶつかり合う音。  そして二人の荒い呼吸だけが響く。  何とか、傷つけずに止める手はないか。そんなエイシスの考えが、それが隙を作る原因になってしまった。  奈子は見抜いていた。エイシスに、自分を傷つける気がないということを。  そして、そこにつけ込む気でいた。闘いは、甘さを見せた方が負けなのだ。  剣だけでは勝てないことはわかっている。いくらなんでも腕が違い過ぎる。だが、奈子には奈子の武器があった。 「ふっ」  一瞬間を置いて息継ぎをした奈子は、渾身の力で剣を打ち込んだ。  耳障りな金属音を立ててその斬撃を受け止めたエイシスの剣は、奈子の手から剣を弾き飛ばす。  その瞬間、エイシスに油断が生まれた。奈子はそれを狙っていた。  遠距離で魔法。  中距離で剣と魔法の複合技。  そして至近距離では剣中心の闘い。  それがこの世界の白兵戦の基本だった。魔法の防御に自信のある者は、相手の剣を奪えばそれで勝利を確信してしまう。  だが、奈子にはこの至近距離から、もう一つ武器があった。それも、剣よりも素早く繰り出せる武器が。  エイシスだって奈子の技を知らないわけではないが、慣れていない分どうしても反応が一瞬遅れてしまう。この世界には、奈子が使うような高度な徒手格闘術は存在しないのだ。  エイシスの懐に飛び込んで、奈子は拳を繰り出した。  北原極闘流の奥義、衝。  格闘家としては小柄だった極闘流の創始者が、自分より大きな相手を倒すために編み出した必殺の拳。  全身で生み出した運動エネルギーを、一点に集中して打ち込む。  バンッ!  何かが破裂したような音が響き、二人の間に閃光が走った。  弾き飛ばされた奈子の身体が、壁に叩き付けられる。 「つ……」  エイシスは微かに顔をしかめると、自分の脇腹を押さえた。  それからゆっくりと膝をつき、歯を喰いしばって全身を貫くような痛みに耐える。  口の端から、一筋の血が流れていた。 「……っの、バカ野郎が……。思わず、本気でやっちまったじゃねーか……」  横目で、奈子の方を見る。壁に叩き付けられた時に頭を打ったらしく、倒れたまま動かない。まさか、死んではいないだろうが。  一瞬のことだったので、手加減をする余裕もなかった。それに、本気でなければ彼の方が無事では済まなかった。  激痛で、呼吸をするのも辛い。肋骨が何本か折られたようだ。 「……ったく。強過ぎんだよ、オメーは……」  意識のない奈子に向かって、エイシスはつぶやいた。 * * * 「え……?」  気が付くと、城の廊下らしき場所に立っていた。  厚いガラスが填められた大きな窓がちょうどすぐ側にあり、外の風景が見える。  外は真っ白だった。数メートル先も見えない猛吹雪だ。  城内の空気も冷たい。  ガラスに映った自分の姿を、奈子は不思議そうに見つめた。  自分では絶対に着ることのない、ひらひらのスカートに大きな白いエプロン。まるで、どこかのメイドのような姿だ。  熱いお茶の入ったポットとティーカップを乗せた銀のトレイを持っているところを見ると、本当にメイドなのだろう。 (夢……だな。また、夢の続きだ……)  そう納得した。  奈子はまた歩き出す。お茶を持っていかなければならない。 (でも、何処へ……?)  それはわからない。しかし、足は勝手に動いていく。夢の中の自分はわかっているのだろう。 (何か、変な夢……)  夢を見ながら、それが夢であることを認識しているということはたまにある。しかし、何かがおかしい。 (ま、いいや)  最近の夢は、どこか変わったものばかりだ。  奈子は、ひときわ立派な扉の前で足を止めた。  軽く、扉をノックする。  中からの返事を待って扉を開けた。。 「レイナ様、午後のお茶をお持ちしました」 (……!)  自分の台詞に、驚いた。  予想外の名前。まさか、この向こうにいるのは――。  驚愕が顔に出ないように気を付けて、奈子は室内に入った。  そこは広い部屋で、窓際に、こちらに背を向けて一人の女性が立っている。  奈子はテーブルにトレイを置いた。  ポットからカップにお茶を注ぎ、ティースプーンに半分の蜜を溶かす。  濃いめのお茶にスプーン半分の蜜、それが、この城の城主の好みだった。  そう、この城の城主。 「レイナ様、お茶が入りました」  意識せずとも、口が動いた。外を見ていた女性が、こちらを振り返る。  レイナ・ディ・デューン。  間違いなかった。 (やっぱり、夢の続きか……。あれから随分たったんだな)  前に夢で見たレイナは二十五、六歳だったが、今、目の前にいる女性は三十台の半ばだ。  それでも、まだ充分に美しかった。強い意志の感じられる鋭い瞳は変わっていない。 「今日は寒いので、少し熱めにしておきました。火傷をなさいませんようお気をつけ下さい」  普段の奈子なら舌を噛みそうな言葉が、何故かすらすらと出てくる。  レイナは奈子の顔を見て微笑むと、カップを手に取った。 「まだ、秋の十日というのに、この吹雪か……」  カップの縁が唇に触れる直前、小さな声でつぶやく。  秋の十日。奈子の世界の暦でいえば、九月の中旬に相当する。この当時レイナが治めていた土地が大陸の北部とはいえ、これは異常なことだった。 「トリニアもストレインも、大陸が焦土と化すまで戦い続けて、その結果がこれだ」  レイナはやや自嘲気味に言った。  そう。この時代、もうトリニアもストレインも存在しない。都市は消滅し、数え切れない人間が死んだ。  生き残った人間は、ごく僅かだ。  戦争の最後で用いられた、恐ろしい魔法の後遺症が、この吹雪だった。  核戦争後の『核の冬』の話は、奈子も聞いたことがある。それと似たようなものらしい。  この冬は何年も続き、戦争を生き延びた人の多くが飢えと寒さで死んでいった。  長い長い冬の時代。暗黒の時代。  大陸の歴史の中で、もっとも暗い時代に、奈子はいるのだった。 「この城にはまだ蓄えもあるが……今年の収穫が望めないとなると、またあちこちで戦が始まるな」  充分な蓄えのない国は、よそから奪うしかない。  レイナの言葉は奈子に聞かせるためというより、むしろ独り言のように聞こえた。 「自分たちの住む世界を滅ぼして、それでもまだ戦うことを止めないんだ、人間は。結局、人間には過ぎた力なのかも知れないな、この、魔法というやつは……。  先人から受け継いだこの力、人間には分不相応だったんだ。いっそ、魔法なんてない方が平和だったとは思わんか?」  最後の一言だけ、レイナははっきりと奈子に向かって話しかけた。真っ直ぐにこちらを見て、奈子の返答を待っている。 「……それでも、戦争はなくならないと思います」  奈子は答えた。 「魔法が使えず、剣を取り上げたとしても、人間は戦うことを止めません。拳で殴り、歯で噛みついて……。きっと、戦い続けます」  きっとそうだ……と、奈子は思った。彼女自身が、人間は素手で戦えることの証だった。  過去、武器を取り上げられた民衆は、素手で闘う技を身に付けた。手を鎖でつながれた奴隷は、足だけで闘う技を考え出した。  生きている限り、人は争うことを止めようとはしない。 「そうだな……」  奈子の答えを、レイナは面白そうに聞いていた。 「しかし、そんな戦いで世界が滅びることはあるまい? どんな動物だって戦いはする。大人しい草食動物だって、発情期には雌を奪い合って争うんだ」  レイナはそこで一旦言葉を切り、カップに残ったお茶を飲み干した。 「だが、それで世界が滅ぶことはあるまい? それは、分相応の力で戦うからだ。人間だけだ。種も、世界も滅ぼしてまで戦うのは。人間だけが、不自然に大き過ぎる力を手にしてしまった」  お茶をもう一杯、とカップが差し出される。奈子はそれを受け取って、ポットからお茶を注いだ。 「竜騎士として、二十年間戦い続けた私が言うことでもないけどな。戦い続けて、勝ち続けて。全ての敵を倒せば、平和が訪れると思っていた。その結果がこれだ……」  それきり、レイナは黙ってしまった。外を見ながら、何も言わずに二杯目のお茶を飲み干す。 「レイナ様……」 「お前、名は何という?」  じっと、何かを考え込んでいるようだったレイナが、不意に口を開いた。  この人は、自分の侍女の名前も知らないのだろうか。そんな疑問を抱きながらも奈子は答える。 「奈子……、ナコ・ウェル・マツミヤと申します。レイナ様」 「ナコ……か。よし、ナコ、お前にこれをやろう」  レイナは、傍らに置いてあった剣を無造作に掴むと、奈子に向かって放った。反射的にそれを受け止める。 「……! レイナ様、この剣……」  それは、レイナがいつも身に付けていた剣だった。  あの、トリニアの老騎士が『無銘の剣』と呼んでいた、竜の鱗をも簡単に切り裂く剣だ。 「私にはもう必要ない。だが、これからのお前には、これが必要になるだろう。わざわざ遠くから来てくれたんだ、持っていくがいい」  レイナは、優しく笑っていた。若い頃には、決して見せることのなかった表情だった。 「レイナ様、あ、あの……」 「遙かな未来を担う、異界の戦士の行く末に光のあらんことを……」 「……!」  奈子は目を見開いた。  何だって?  今、なんて言った?  遙かな未来? 異界の戦士? 「レ、レイナ様……」  奈子の言葉を遮って、レイナは奈子の肩に手を掛けると、額に軽くキスをした。 「自分を信じて、正しいと思う道を行きなさい」  優しく、耳元で囁く。  その瞬間、奈子の視界は真っ白になり、何も見えなくなった。 * * * 「アタシ……気絶してた?」  頭を押さえながら、奈子は身体を起こした。  意識が戻って最初に目に入ったのは、部屋の中央に膝をつき、脇腹を手で押さえているエイシスの姿だった。口元に、血を拭った痕がある。 「ほんの、短い時間な」  妙にぶっきらぼうに、エイシスは答える。 「そっか……」 (また、夢でも見てたかな?)  今回は、どんな夢だったのかよく覚えていないけれど。  床に座り込んだまま、奈子は自分の怪我の様子を調べた。  エイシスの魔法を受けたのがちょうど右胸の下あたりで、服が破けて血が滲んでいた。どうやら、肋骨も折れているようだ。内臓のダメージはわからない。  壁に叩き付けられたに肩を強く打ったらしく、左腕が上がらない。脱臼まではしていないようだが、しばらくはまともには動かせまい。  あとは、後頭部に大きな瘤。触ってみると、手に少し血が付いた。 (大丈夫、まだ……闘える)  無事な右手で身体を支え、よろよろと立ち上がる。  傍らに、先刻エイシスに弾き飛ばされた剣が落ちていた。  少し考えて、その剣を拾う。  大きく一つ深呼吸をして。 「どうする? もう一度、やる?」  エイシスの方を見た。 「バカ野郎が……」  エイシスは忌々しげにつぶやく。 「死ぬぞ、今度こそ……」 「うん、そうかも知れない。でも……この闘いだけは、どうしても譲れないんだ。そういうことって、あるっしょ?」  奈子は、エイシスの前へ歩いて行った。エイシスも立ち上がり、奈子を見下ろす。 「あんたも、どうしても譲れないって言うんなら仕方ない、決着つけようよ。でも、そうじゃないんなら……お願い、行かせて」  奈子は、真っ直ぐにエイシスを見つめた。真剣な表情だったが、どこか、微かな笑みを浮かべているようにも見えた。  、困ったように奈子を見ていたエイシスは、やがて、ぽつりと言った。 「馬鹿が……」 「ありがと……助けてくれて。感謝してる。お陰で、もう一度闘える。アタシは死なないよ、生きて還って、どうしても会わなきゃなんない人がいるから」  奈子は一歩下がると、にこっと笑った。  それから回れ右して、奥の通路へと向かう。その背中に、エイシスの言葉が投げかけられる。 「感謝してるんなら、態度で示せってんだ。一発やらせてくれるとか、な」  通路に入りかけていた奈子が、ぴたりと止まった。しゃがんで、足下に落ちていた石のかけらを拾うと、振り向きざまに投げつけた。  エイシスは、ひょいと首を傾げてその石をかわす。と、もう一つの石が額にコツンと当たった。初めから、二個の石を持っていたらしい。 「このスケベ! 変態! やっぱあんたとは、一度きっちり決着付けなきゃなんないみたいだね。首根っこ洗って待ってな!」  吐き捨てるように言うと、奈子は奥へと向かおうとして、ふと思い出したように振り返った。  エイシスの脇腹の傷を指して訊く。 「その傷、痛む?」 「痛てーよ。ちびのくせに馬鹿力だな」 「アタシはちびじゃない、あんたがでかすぎるんだろ」  そして今度こそ、真っ直ぐに奥へと向かっていく。  その後ろ姿をエイシスが見送っていた。 「なんか、先刻までとは随分違うな……頭でも打ったか?」  しかしこちらの方こそが、彼が知っているナコ・マツミヤだった。 * * * (だんだん、わかってきた……)  奈子は心の中で呟いた。  何がと尋ねられても、多分口では上手く説明できない。  だけど、少しずつわかってきた。  あれは夢、でも、夢じゃない。  奈子は自分の右手を見た。  一振りの剣を握っている。  それはいつの間にか、先刻拾ったものとは違う剣になっていた。 (そう、夢じゃなかった……)  それは、夢の中でレイナから渡された剣。  二十年近くに渡って、レイナが愛用し続けた『無銘の剣』。  その刃は、金属とは信じられないくらいに薄い。向こうが透けて見えるほどだ。  だが、その薄い刃は強い魔力に支えられ、決して折れず、曲がらない。  そして、その薄さ故に、どんな物でも切り裂くことができた。  これだけの魔剣でありながら、どんなに調べても、何処にも何の銘もない。  誰が造ったのかも伝えられていない。  それ故に、無銘の剣と呼ばれる。  これこそが、竜騎士レーナ・ディ・デューンの剣だった。  その剣が、どうして奈子の手の中にあるのか。  夢の中で受け取ったものが、どうして実際にここにあるのか。  それは、深く考えないことにした。  そんなことはどうでもいい。  重要なことはただひとつ。  確かにこの剣は、これからの奈子の闘いに必要なものなのだ。 * * *  通路は突然開け、奈子は広間に出た。  本当に広い。小さめの体育館くらいはある。  床は、白と黒の大理石が美しい市松模様を描いており、天井と壁には、植物を模したと思われる彫刻が彫られている。  この広間の一番奥に、一段高くなった場所があった。  玉座、だ。  直感的に、奈子はそう思った。  そして――  こちらに背を向けて、玉座を調べている男の姿がある。  赤い髪の男。  アルワライェ・ヌィといっただろうか。  奈子は、真っ直ぐに歩いて行った。しんとした広間に、乾いた足音が響く。 「エイシスか? 何かあったのか?」  奈子に背を向けたまま、アルワライェが訊く。  何も応えず、奈子は足を進めた。  返事がないのを訝しんだアルワライェが振り返る。 「……」  一瞬見せた驚きの表情はすぐに失せ、先刻と同じ人懐っこい笑顔を浮かべた。 「やぁ、生きてたんだ。元気だったかい?」 「おかげさまで……」  奈子も平然と応える。 「ここまで来たということは、あのエイシス・コットに勝ったということか。大したものだね」  大げさに手を広げるジェスチュアで感心してみせるアルワライェだが、奈子はその台詞を無視した。実際には、エイシスに勝ったわけではない。エイシスは、アルワライェとの契約に反したことになるからだ。 「随分と熱心に調べ物をしていたようだけど、何か見つかった? 大いなる力の秘密とやらは、あったの?」  奈子は、やや皮肉めいた口調で訊く。  アルワライェの返事はわかっていた。  ここは、この遺跡は、そんな目的のために築かれたのではないのだ。 「いいや。特に、これといったものはないね」  予想通り、アルワライェは肩をすくめてみせる。 「レイナ・ディの墓所。かなり信憑性の高い情報だから期待していたんだけどね。ひょっとしたら、ここも本物じゃないのかな。レイナの墓所といわれている遺跡は、大陸中に十カ所以上あるからね」 「人の城にまで忍び込んで、散々騒ぎを起こして、ぼったくりの傭兵まで雇って何の収穫もナシ? あんた馬鹿じゃないの?」 「王国時代の遺跡探しなんて、大抵こんなものさ。百のうち一つが本物なら、残り九十九が無駄足だって構わない」 「馬鹿みたい」  奈子はもう一度繰り返した。できれば、この男を怒らせたい。そうすれば、少しは付け入る隙もできる。 「今回は運がなかった、それだけさ。でもこれで、君と争う理由もなくなったわけだ。僕は帰るよ」  それじゃ、と奈子に向かって手を振る。  その時。 「ただで帰れると思っているの?」  奈子の目が鋭く光った。剣を握った右手に、ぎゅっと力を込める。 「あんたに闘う理由がなくても、アタシにはあるんだ。アタシのプライドをずたずたにした報い、まさか五体満足で帰れるとは思ってないでしょーね?」  不思議そうな表情でこちらを見ていたアルワライェは、やれやれ、と小さく首を振った。 「プライドなんてそんな、腹の足しにもならない物のために」  奈子はふと、この男がエイシスを雇った理由がわかったような気がした。  この二人、どことなく物の考え方が似ている。何処で知り合ったのかは知らないが、きっと、たちまち意気投合したことだろう。 「可愛い顔して怖いこと言うね、君は。仕方がない、今のうちに殺しておこうか」  その言葉が終わらないうちに、奈子は床を蹴った。アルワライェが、ほんの一瞬だけ殺気のこもった表情を見せていた。  奈子が剣を振る。その刃が触れる寸前、またアルワライェの姿が消えた。  だが、奈子も今回はそれを予期していた。  僅かに身を屈め、高く跳躍する。奈子の垂直跳びの記録は、同じ学校のバレー部やバスケ部の選手を大きく上回る。  一瞬遅れて、アルワライェが姿を現す。その手を狙って、奈子は剣を振り下ろした。ところが、アルワライェは短剣を持っていない。  そのことに気付いた時には、もう遅かった。  奈子の動きはアルワライェの予想外だったはずだが、アルワライェの行動も前回とは違っていた。  アルワライェの手の先から、放射線状に細い光が幾筋も飛び出す。光の幾本かは、奈子の脚を貫いた。  ジャンプして空中にいなければ、胴体を貫かれていたはずだ。 「……くっぅ」  着地の衝撃で脚に激痛が走る。それでも奈子はなんとか踏みとどまって、剣を構え直した。 「……貴様ぁ!」  アルワライェの顔が、怒りで歪んでいる。これだけはっきりと、感情を表に出すのを見たのは初めてだ。 「よくも……よくも……この小娘が……」  アルワライェの右腕は、肘の下あたりで切り落とされていた。鮮血が流れ滴っている。  奈子は口元に、引きつった笑みを浮かべた。 「いいね、その顔。そーゆー表情を見たかったんだ。少しは、先刻のアタシの屈辱もわかった?」  軽口を叩きながらも、奈子は相手を冷静に観察していた。  アルワライェには、先刻までのへらへらとした様子は微塵もない。絶対の自信があった攻撃を躱され、予想もしなかった深手を負わされ、完全に頭に血が昇っている様子だった。  次の攻撃は、もっと直接的なものになるに違いない。  奈子はそう読んでいた。 「死にやがれっ!」  アルワライェの左手から、青白い光が放たれる。  それを予期していた奈子は、僅かに上体をひねって顔を狙ってきた魔法をかわす。なびいた髪が、じゅっと音を立てて蒸発した。  奈子はそのまま、相手に向かって大きく踏み込んだ。  剣を突き出す。  レイナの剣は、何の抵抗もなくアルワライェの肩を貫いた。  しかし同時に、アルワライェが微かに笑った。まるで般若面のような、不気味な笑みだった。 「……!」  突然の激しい衝撃に脇腹を打たれ、奈子は床に転がった。  衝撃と痛みで、息ができない。 「馬鹿が。貴様ごときがこの僕に勝てると思っているのか? いい気になるな!」  奈子には、何が起こったのかわからなかった。  何故。  アルワライェは正面にいたのに、いきなり側面から攻撃を受けたのだ。  床に転がって苦しみ悶える奈子の目に、一つの物体が映った。 (手、アタシが切り落としたあいつの腕!)  切り落とされた腕を媒体にして、魔法を放ったのだ。 「腕一本切り落としたくらいで、勝ったつもりになっていたのか?」  アルワライェが再び、狂気に満ちた笑いを浮かべる。奈子は、身動きができなかった。 「僕の右手の償いはしてもらうよ。すぐに殺しはしない。生きたまま手足を引き千切ってやる!」  アルワライェは、奈子の手から落ちた剣を拾い、それを振りかぶった。  思わず目を閉じる。  しかし、剣は振り下ろされなかった。代わりに、アルワライェが怪訝そうな声を上げる。 「この剣……?」  アルワライェは眉をひそめ、手の中の剣をまじまじと見ていた。 「貴様、この剣を何処で……」  この言葉が終わらないうち、手から剣が落ちる。彼の手は、赤い光の矢に貫かれていた。 「な……っ?」  顔を上げると同時に、更に数本の光がアルワライェの身体を貫いた。鮮血を噴き出し、身体がぐらりと傾く。 「チ・ライェ・キタイ!」  遠くで、叫んでいる声が聞こえる。奈子にとっては懐かしい声が。  周囲に、青白い光球が出現した。  アルワライェの顔が、はっきりとわかるくらいに青ざめる。 「ちぃぃっ!」  次の瞬間、竜をも貫く光が、アルワライェ目掛けて放たれた。同時に、アルワライェが消えていく。灼熱の光線は、石の床に深い穴を穿った。 (あぁ……助かった……)  急に緊張が解けて、奈子の身体から力が抜けていった。  意識が遠くなって、そのまま眠ってしまいたくなる。  ぱたぱたと、こちらへ駆けてくる足音が聞こえた。 (ファージ……来てくれたんだ……)  あれは、ファージの声だった。ファージの魔法だった。 (ホントに、いつもぎりぎりなんだから……)  ぼんやりとそんなことを考えていた奈子の耳に、全く意外な声が飛び込んできた。 「立てよ、少しでも騎士としての誇りがあるなら、そんな無様な姿を晒してんじゃない」  その声で、たちどころに意識が戻る。  奈子は反射的に飛び起きた。全身を襲う痛みに、思わず叫び声を上げそうになるが、ぐっと歯を喰いしばって声の主を睨む。 「ふん、プライドだけは騎士か」  皮肉めいた口調。  その声の主は、長身で銀髪の女騎士。 「ダルジィ・フォア……」  どうして今日は、ムカつく奴にばかり助けられるんだろう。そう、奈子が思った時。 「ナコ、無事で良かったー」  いきなり、背後から抱きつかれた。  ちょうど、怪我をしている脇腹にその手が当たり、奈子は悲鳴を上げる。 「っ……! そこは……あんまり……無事じゃないっ」 「なにさ、このくらい。心配かけた罰!」  苦悶する奈子をよそに、ファージは抱きしめる腕に更に力を込めた。悲鳴はもう声にならない。 「おいおい。助けに来た人間が、とどめを刺してどうする」  聞き覚えのある男の声に首を巡らすと、騎士の一人ケイウェリもそこにいた。ケイウェリが呪文を唱え、とりあえずの応急処置をしてくれる。 「良かった、心配したんだから……」 「あ、ありがと、ファージ……ごめんなさい」  ファージの顔を見た瞬間、思い出した。  謝らなければならないことがある。 「ファージ……ごめんなさい……アタシ、謝らなきゃならない……実は……」  言いかけた奈子の口を、ファージは自分の唇を重ねて塞いだ。困ったことに、今の奈子には抵抗する体力が残っていない。 「ん……く……」  何とか身体を離そうとして悪戦苦闘する奈子を、ダルジィは呆れ顔で、ケイウェリは苦笑しながら見つめている。 「いいの。そんなことより、ナコが無事だっただけで」  ややしばらくして奈子を離したファージは、おもむろにそう言った。奈子はまだ、何も話していないのに。 「ファージ……?」 「来る途中、これ、拾った」  そう言って、ポケットから取り出した小さな金属片を見せる。 「ファージ……ごめん……」 「ううん」  ファージは首を左右に振った。 「……だって、ずっと昔に死んじゃった奴だもん。いま生きてるナコの方が何倍も大事。それに、思い出ならこれで十分」  ファージは、小さな破片をポケットにしまって小さく笑った。 「ところでナコ……」  まだ気まずそうにしている奈子を見て、ファージの方から話題を変えてくる。 「敵は、入り口で縛られてた二人と、今のあいつだけ?」 「え? う、うん」  奈子は、とっさに嘘をついてしまった。  どうやって抜け出したのかは知らないが、エイシスはファージたちとは出会わなかったらしい。  それなら、黙っていた方がいい。  金で雇われただけとはいえ、今回のエイシスはマイカラスの敵ということになってしまう。  奈子が言わなければ、誰もそれを知る者はない。 「大切な剣を折られ、敵の首領は取り逃がす、か。まあ、お子様じゃこのくらいが精一杯か」  これ以上はないというくらい嫌みたっぷりの声に、奈子はぴくりと反応する。 「取り逃がしたのはあんたも同罪だろ、オバさん。文句があるなら、もっと早く来たらいいだろ。神経痛が痛くて走れなかったか?」 「毛も生え揃ってないような小娘がよく言うね?」 「スレた年増は嫌みも下品だね。毛に白髪が混じってるようなババァよりはマシ」  火花を散らして睨み合う二人。  口元は笑っているが、二人とも目には殺意が溢れている。  どちらが先に手を出すか、そのタイミングを計るように、手が小刻みに震えていた。まさに一触即発だ。  巻き添えを喰ってはたまらないと思ったのか、いつの間にかファージとケイウェリは二人を遠巻きにしている。 「何なのあの二人……。言い返すナコもナコだけど、ダルジィも大人気ないというか……ねぇ?」 「まあ、ねぇ」  そう応えるケイウェリは、何となく、笑いを堪えている様子だった。 (げに恐ろしきは、女の嫉妬かな……) 「何か言った?」 「いいや、別に」  ケイウェリはそう言って、小さく肩をすくめてみせる。  多分彼だけが、ダルジィが奈子を目の敵にする真の理由を知っていた。 終章 奈子と由維 「ったく、あの女ってば、ムカつく!」  奈子は手近にあったクッションを投げつけた。 「ナコちゃん、あんまり動かないで。傷の手当をしてるんだから……」 「だってあのババァったら……」 「ババァは言い過ぎでしょう?」  奈子の肩の傷に薬を塗りながら、ソレアは言った。 「ダルジィ・フォアはまだ二十二、三歳のはずよ?」 「ピチピチの十五歳、のアタシから見たら十分オバさんだよ」 「あら」  ソレアの指が直に傷に触れる。奈子は小さく声を上げた。 「二十三のダルジィがオバさんなら、私は何なのかしら?」  普段通りの優しい笑顔のまま、奈子の傷を押さえる手に力を込めた。 「いっ……痛い! ソレアさん、痛いってば!」 「あら、何か言った? 年のせいか、最近耳が遠くって」 「え? だっ……だって! え? ソレアさんって、いくつ?」  目に涙を浮かべながら奈子が訊くが、ソレアは答えない。禁断の答えを口にしたのは、別の声だった。 「今年で二十九……だっけ?」  と、ソファに横になったままお茶を飲んでいたファージ。  いきなりその手の中のティーカップが割れて、顔をびしょ濡れにする。お茶が気管に入ってしまったのか、ファージは激しく咳き込んだ。 「二十九……ええぇぇぇぇっっ?」  奈子は、ソレアのことを二十歳そこそこくらいに思っていた。どうやっても、二十五を越えているようには見えない。 「なぁに、その声? 何か不満でも?」 「騙されちゃダメだよナコ。ソレアくらいの魔術師なら、見た目の歳くらいいくらでも誤魔化せるんだかムギュッ」  顔面にクッションの直撃を受けて、ファージがひっくり返る。 「はい、手当は終わり。でもナコちゃん、気を付けてよ。今回もこの前も怪我ばっかり。ひとつ間違ったら大変なことになるわよ?」 「……はい」 「いいじゃないの、結局こうして無事だったんだから。終わり良ければ全て良しってね」  ファージは、クッションを指の先でくるくる回して遊んでいる。 「それに、貴重な宝物も手に入れたんだし」  宝、とは言うまでもなく、『無銘の剣』レイナの剣のことだ。 「ね、あの剣……どうしたらいいのかな?」 「別に、ナコがそのまま持ってりゃいいじゃん」 「でも……」  トリニア王国の時代の竜騎士の剣。  現存する物はごく僅かで、値段の付けようがないほどの価値を持つ。中でも、レイナ・ディの剣となればなおさらだ。  レイナの死後、千年近くの間行方のわからなかった剣が、今は奈子の手の中にある。  夢の中で、レイナから渡された剣。  無論、奈子はあれがただの夢とは思っていない。あの一連のレイナ・ディの夢には、何か意味があるはずだった。 「千年の時を越えて、レイナ・ディから直接賜った物なのだから、大切に持っていなさい。きっと、あなたの役に立つわ」 「それにしても……何故、アタシが?」  何故奈子が、剣を譲られたのか。それを説明できる者はここにはいない。 「きっとナコ、レイナに気に入られたんだよ」  奈子の隣に移動してきたファージが、けらけらと笑う。 「レイナは美少女、美少年好きで有名だったらしいよ。王国時代の女騎士にはそういう趣味の人が多かったそうだけど。ところでナコ、今晩はゆっくりしていけるんだよね?」 「え?」  ファージが、必要以上に身体をすり寄せてくる。  そういえば、今回はファージと二人でゆっくり話をする暇もなかった。  だけど。 「あ、いや、アタシ今日は急いで帰らなきゃなんないの、ゴメン……」 「あら、でも夕食くらいは食べていけるんでしょう?」 「ゴメン、ソレアさん。アタシすぐに帰んなきゃ」  ファージがひどく残念そうな顔をする。  でも、ゆっくりしている場合ではない。  まだ、やらなければならないことがある。  それはとても大切なことだった。 * * *  奈子が家に戻ると。  留守番電話にメッセージがあることを告げるランプが点滅していた。  急いで再生ボタンを押す。  仕事先の母親からの伝言が二件。  そして、三十秒間何の声も入っていない伝言が一件。  それでテープは止まった。 (由維……)  最後の沈黙は由維に違いない。  いつもなら奈子の携帯にかけてくる由維だけど、何故かそう確信した。  受話器を取って、由維の家の番号を押す。  一回目の呼び出し音で、すぐに相手が出た。 「あ、あの、松宮ですけど……」 『……』  返事はない。しかし、受話器の向こうから微かな息づかいが聞こえる。 「由維、由維でしょ? お願い、話を聞いて」 『……今……そっちに行く』  感情を押し殺した冷たい声と共に切れた電話に、奈子は少なからずショックを受けた。 (由維……まだ怒ってる……)  当然だ。  小さく溜息をつく。  許される筈のない裏切り。  だけど。  だけど……。 (由維のいない家は……広すぎる……)  謝らなきゃならない。  簡単に許してもらえるとは思わないけれど。  それでも、許してもらわなければならない。  奈子には、由維が必要なのだ。  三分と経たないうちに、階下から玄関が開く音が聞こえた。  由維だ。  由維は、この家の合鍵を持っている。  小さな足音が、ゆっくりと階段を上ってくる。  奈子の鼓動が早くなった。  キィ……と小さな音を立てて、奈子の部屋のドアが開いた。 (由維……)  そこには瞬きもせず、じっと自分を見つめる冷たい瞳があった。奈子の掌がじっとりと汗ばむ。  由維の目を見た瞬間、いくつも用意していた謝罪の言葉が、一つも出てこなくなった。  いくら謝っても、どうにもならない。  そう感じた。  由維は何も言わず、静かに近付いてくる。  奈子は、ただ立ち尽くしていた。 「奈子先輩……」  由維の言葉を聞くのが、怖いと感じたのは生まれて初めてだった。いったい、この後に続く言葉は何なのだろう。 「奈子先輩…………隙ありっ!」  さっと手を伸ばして両手で奈子のシャツの襟を掴んだ由維は、柔道の小内刈りの要領で奈子の足を払った。  突然のことに何が起こったのか理解できない奈子は、バランスを崩して後ろのベッドに倒れ込んでしまった。由維が、そのまま上に馬乗りになる。 「……っ?」 「えへへ……もう逃げられない」  ぺろっと小さな舌を出して、由維は笑った。 「……えっと……由維?」  由維が、笑っている。  いったい、何が起こったのだろう。なんだか不自然な笑みだ。 「あの後、色々考えたんですよ、私。結局、私がぐずぐずしてるから、他の男に先を越されるんですよね。で、出た結論が……」  先刻とは違う意味で、続きを聞くのが怖かった。  由維が何を考えているのか、わかったような気がした。 「待ってても埒があかないって。私の方から、奈子先輩を押し倒しちゃえばいいんだって」 (あああぁぁぁっっ、やっぱりぃっ!) 「いくら奈子先輩だって、もう逃げられませんよ」  奈子の上に馬乗りになった今の体勢は、総合格闘技でいうところのマウントポジション、上になった者が絶対有利の体勢だ。よほどの技量がない限り、下から抜け出すことは難しい。 「あ、あのね、由維……」  奈子は、無駄だと思いつつ由維を説得しようとした。が、それはやっぱり無駄だった。  上になった由維がいきなり、唇を重ねてくる。 「ん……んん……」  それは、これまで経験した中で一番激しく、濃厚なキス。 (ち……ちょっと……由維……)  いったい、女の子同士のキスはこれで何度目だろう。  奈子がやや諦め顔になる。  本音を言えば、由維の機嫌を取るためにはこのくらい仕方がないと、帰ってくる前から覚悟はしていた。まさか、ここまで激しくとは思わなかったが。 (でも、これで許してくれるんだよね? 由維……)  それならば、  それなら、キスくらい何度でも。  しかし次の瞬間、奈子は自分の認識の甘さを思い知らされた。  由維の手が、奈子のシャツのボタンを外し始めている。 (……! いくら何でも、そ、それはシャレになんないって!) 「私、今日という今日は本気だから」  由維の目が据わっている。  これ以上はないというくらい、本気の目だった。 「いや、あのね? ちょっと……」 「抵抗したら、無理やり犯しますよ?」 「ここまでのは無理やりじゃないとでも?」 「えーい、うるさい!」  シャツのボタンを半分ほど外した由維は、奈子の胸の谷間に唇を押しつけた。 「ちょっ……ダメ……」  これ以上は、本当にまずい。  このままでは本当に、一線を越えてしまいかねない。  ついうっかり、その気になってしまいそうだ。 (だめだよ……由維……ダメ……)  正直なところ、本気を出せばこの体勢から逃れることも難しくはない。  しかし、そうしていいものかどうか、奈子は迷っていた。  もし、ここで本気で由維を拒んだら、もう二度と、許してはもらえない――そんな気がした。  でも、だからといって。 (女同士でこんなこと、いいはずがない……) 「奈子先輩……」 「……あっ」  由維がぺろりと、奈子の胸を舐めた。無意識のうちに声が出る。 「そろそろ、観念しました?」 「いや……そういうわけじゃない……けど……」  だけど、抵抗するわけにもいかない。そんなジレンマに陥っていた。 (誰か、助けてー)  無駄と知りつつ、心の中で叫ぶ。  驚いたことに、その祈りは通じた。  また、奈子の服を脱がす作業を再開していた由唯が、突然動きを止める。 「ん……?」  軽く、首を傾げて。 「……! ヤダ! もう、こんな時に!」  怒ったような、泣いているような、あるいは恥ずかしがっているような。  そんな複雑な表情で叫ぶと、由維はベッドから飛び降りた。何事かと驚いている奈子を置いて走って部屋から出ていく。 「何……? 何があったの?」  奈子はのろのろと身体を起こす。どこかで、ばたんとドアが閉まる音がした。 「なんか知らんけど、助かった……」  ほっと息をつくと、立ち上がって壁に掛けた鏡を覗く。 「あーあ、由維の奴ぅ……」  見ると、胸の間にくっきりと朱いキスマークが残っていた。遠くからでもかなり目立つ。 「明日は何曜日だっけ……まさか体育はないだろうね?」  鏡の横に掛けてあるカレンダーと、机の前に張ってある学校の時間割を交互に見る。残念ながら、ここではツキははないようだった。 「しゃーない、体育はズル休みだ」  このまま人前で着替えをしたら。  ちょっとまずい。  女の子同士の着替えは、意外とこういうことに目ざといのだ。  溜息をつきながらシャツのボタンを留めて。 「ん?」  そこでふと気が付いて、もう一度カレンダーを見た。  頭の中で、簡単な暗算をする。  そして、ぷっと吹き出した。 「はは……なんだ、そうだったのか……」  由唯が突然逃げ出した理由がわかって、堪えきれない笑いが、くっくと唇の端から漏れた。 * * *  見るからに不機嫌そうな表情で部屋に戻ってきた由維が見たのは、お腹を抱えて笑っている奈子の姿だった。 「うるさい! 笑うな!」  ぷぅっとふくれっ面になって、奈子の足を軽く蹴飛ばす。 「ははは……ごめんごめん。これで許して」  奈子は由維の肩に手を掛け、ちょんと軽く、唇が触れ合うキスをする。  それから、少しだけ心配そうに訊いた。 「大丈夫? お腹痛くない?」  仏頂面の由唯は、黙って首を左右に振る。  由維は小柄で、小学生に見られることもままあるけれど。  それでもやっぱり、思春期の女の子だったのだ。 あとがき  (ネタバレを含むので本編の後に読んでね)  いやーやっと終わった。  『黄昏の堕天使』を抜いて、これまでで一番の長編です。  ……って、実はまだ完成してはいないんですけどね。取り敢えず第一稿ができたということで、ハイなうちに後書きも書いてしまおうという魂胆(笑)。この後に待つのは、気の滅入るような校正の作業だけだし。  でも今回、長い割には結構すんなり書けました。『黄昏……』のときは、一日に数行しか書けない日も多かったのですが、今回は常に枚単位で書き続け、ピーク時には一日に三十枚近くも書いてました。自他共に認める遅筆の私としてはまさしく快挙! 何しろ、ピークがちょうど正月休みでしたから。  さて、ちょっと内容の解説とかもしましょうか。  主人公は今回も受難の日々です。もー心身共にボロボロ。でも、ボロボロになりながら闘ってこそ主人公ですよね。奈子は基本的にヒロインではなくてヒーローですから。  そして今回も、この作品の名物(?)女の子同士の絡みも健在です(とゆーか更にパワーアップ!)。第二章のハルティのお陰で、まともな男女モノになるかと期待したんですが、やっぱりこの人、最後は影が薄い。終章の冒頭に登場させる予定もあったんだけど、冗長になるのであっさりカット。次回こそ頑張ってね。次回登場時には、妹アイミィとのどつき漫才を展開する予定(嘘)。  所詮私のキャラって、シリアスになりきれないのね。  今回ページが増えたとはいっても、過去のレイナの話にページを割いたため、ハルちゃんに限らず、レイナと奈子以外のキャラは「あんたいったい何しに出てきたの?」という状況です。七章のエイちゃんだって何の必然性があってあそこで出てきたのやら。  これらはみんな「次回以降のための伏線」ということで納得して下さいね。  重要キャラのくせに出番が少ないといえば、筆頭はファージですね。『異界の戦士』以外はほとんどちょい役です。何しろこいつ、強過ぎるんですよ。裏の事情を知りすぎてるし……。  最近の主な役割は、殺されること(笑)。今回もしっかり死んでくれます。一体何者なんでしょうね、この人。「私は三人目……」って?(爆)。  実は今回、最初の構想では奈子とファージは最初から一緒に遺跡へ行く予定だったんです。でもそれだと、奈子をピンチにするには、遺跡の中で二人を引き離す工夫をしなければならない。それがどうも上手くいかなくて、やっぱり奈子には最初から一人で闘ってもらうことにしました。  今後、物語が佳境になれば必然的にファージの出番も増えることでしょう。  次に存在意義のないキャラといえば、一章に登場した美樹とめ〜めに尽きます。美樹は『復讐の序曲』四章以来の再登場ですが、何しろこの二人「向こう側」の話には全く関係しませんから。  彼女らも一緒に向こうの世界に行って『美少女戦隊もの』になるという噂は全くのデマ(笑)。このキャラは、私の他の作品から持ってきたお遊びです。  ちなみに、め〜めという愛称は、名前の美夢が変化したもの、というのが公式の設定ですが、真実は逆。め〜めという愛称が先にあって、それに合った名前を考えたのです。め〜めの由来は……大きな声では言えませんが……女女です。つまり女×女、こいつもその趣味のキャラなんですねー。奈子危うし。  そういえばこのシリーズ、迫られるのは常に奈子なんですよね。いわゆる総受け? この路線は今後も続くでしょう、きっと。 「北原の作品は何故みんなそっちに話が行くのか」と訊かれることがあります。いいじゃないですか。世の中、男×男ネタばかり書く人も多いんですから、逆がいたって(笑)。  さて、第四話でのお気に入りといえば、断然ダルジィです。  今回は顔見せだけだったけど、もっと活躍させたかったです。エイシスと並んで『こいつを主役にして番外編を書きたいキャラ』の筆頭。  ところで、ダルジィ、銀髪、ポニーテール、ツリ目、これでニヤリとしたあなたは往年のパソコンゲーマーですね?  そうです、モデルはアレです。外見はそのまんまアレと思って下さって結構です。さすがにサイコパワーは使いませんが、この世界の住人なので魔法で勘弁して下さい(笑)。  ……で、何を言っているのかわからない、という方のために説明しますと、その昔『第四のユニット』(データウェスト(株))というパソコン用アドベンチャーゲームがあったんですよ。(最初の作品はもう十年以上前になるんですね)  FM―TOWNS専用というレアな作品も含めると、このシリーズはこれまで7作制作されていて、今でもデータウェストのホームページでソフトの紹介を見ることができます。  一部ではかなり人気があったゲームなのですが、ダルジィとはそのキャラの一人で、シリーズの2作目で主人公のライバルとして登場し、シリーズ後半では仲間になるという、なかなかお約束な人です(笑)。  『第四のユニット』シリーズでは私はこの娘がお気に入りだったんですよ。特に三作目『デュアル・ターゲッツ』での再登場シーンなんて最高、主人公なんて目じゃねーぜ! ってなわけで、思わず自分の小説に使ってしまいましたとさ。  どうせなら、敵として出した方が面白かったかなぁ……。ちょっと後悔。  では最後に、今後の予定。  『インタルード』シリーズの二作目を近いうちに書きます。  当然、更に百合度アップ(このまま行くとインタルード3くらいで十八禁か?)。  今の予定では二月中頃ですね。  その他、奈子の出てこない「向こう側」での外編のネタがいくつかあります。本編のサブキャラ、エイシスやダルジィをメインにして。  現時点で企画が具体化しているのは、この時代より数年前のエイシスの話。インタルード2の後に書く予定です。  本編の第五話は……早くても夏頃かなぁ? 下手すりゃ秋にずれ込むかも。何しろその前に『西十八丁目の魔女』シリーズを完結させなきゃならないし。  『光の王国』シリーズは長く書き続けていく予定ですので、どうぞ気長にお付き合い下さい。 一九九八年一月十日  北原 樹恒 kitsune@mb.infoweb.ne.jp 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/ 第二版あとがき  いつ終わるのか知れない『光』全話再推敲作業ですが、ようやく第四話まで来ました。  このペースでは、年内に最終話まで終わらせるのは難しそうです。  今回、ストーリィの変更はほとんどありませんが、その割には文章の修正量は多かった気がします。  微妙な言い回しの修正も含めれば、オリジナルの文の六割以上は手を入れているのではないでしょうか。  これだけ長いシリーズになると、文章の「クセ」が各話毎に異なっているのも仕方のないことですけどね。特にこの当時、私の小説歴はまだ短くて、「キタハラ流の文体」というものが確立されていませんでしたから。  で、本作『レイナの剣』ですが、これはキタハラ自身かなり気に入っている作品で、読者の人気も高いようです。  これまでにも何度か書いていることですが、『レイナ』でこれ以降の『光の王国』のスタイルが確立されたと言ってもいいでしょう。  すなわち、序章は奈子が出てこない向こうの世界の話(主に昔話)。  一章と終章は、奈子と由唯の百合シーン(笑)。  そして本編の随所に、過去のエピソードを織り交ぜる、と。  これ以降の本編は、すべてこのスタイルになっています。  もう一点、『レイナ』がこれ以前の作品と異なるのは、「最終話までの道筋が決まってから書いた最初の作品」であるということです。  このシリーズをどんな風に進めて、どうやって終わらせるかというのは、第三話執筆中にようやく決まったことでして、一〜三話は終点がわからない状態で書かれたものなんですね。だから伏線等も不十分だった、と。(この点は、改訂版で改善されていますが)  もちろん、この当時考えていたラストと実際の最終話はかなり違いもありますが、それでも骨格の部分は変わっていません。  つまり、構想段階からエンディングが見えていて、そこへ向かって進み始めた最初の作品なのです。  そうした意味でも、『レイナの剣』はシリーズ中で重要な位置にある作品でしょう。  で、最近新作を発表していないキタハラの今後の予定ですが……。  現在、まだ『ファイナルファンタジーX』プレイ中のため、執筆作業が滞っています。  ですが今回、『光の王国』がアスキーの『TECH Win』誌のCD―ROMに収録されるというので、途中だった『レイナの剣』修正作業を慌てて終わらせました。明日からまた、FFXに戻ります(笑)。  で、新作の予定ですが、『たたかう少女4・キャット・ファイト』を一応少しずつ書き進めてはいます。まだ、いつ公開できるかはわかりませんが。  それでは、また新作でお会いしましょう。 二○○一年八月三十日  北原 樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/