光の王国5 ファ・ラーナの聖墓  序 〜エモン・レーナ〜  緑の萌える草原と、なだらかな丘陵。  空は晴れて気持ちのいい風が吹いているが、上空は風が強いらしく、ちぎれた雲がかなりの速さで流れていた。  なんとものどかな光景だ。  ただしそれは、丘の麓を歩いている騎馬の軍勢を除けば、の話である。  千騎近くはいるだろうか。  その進路上には、それほど高くはない山々の連なりが見えている。  軍勢を率いて先頭を行くのは、茶色い髪と日焼けした肌を持つ長身の若者。  名を、エストーラ・ファ・ティルザーという。  エストーラも、その後ろに続く者たちも、みな一様に緊張した面持ちをしている。  周辺の部族との、小競り合いのような戦なら幾度も経験しているが、今回の戦は特別だった。  前方から、こちらに向かって全速力で駆けてくる騎馬の姿を認めて、エストーラは馬を止めた。  馬を駆っているのは、長い銀髪をなびかせた美しい娘。  背に、長い剣を背負っている。  今年でまだ十七歳なのだが、同世代の男たちとさほど変わらない長身と凛々しい顔立ちのために、もう少し年長に見える。 「エストーラ!」  少女はエストーラの目の前で馬を止めて叫んだ。 「ストレイン帝国の奴ら、予想通りカルザの谷に向かってるよ。多分、八〜九千騎はいるね」  その数字を聞いて、エストーラはやや難しい表情を見せる。 「思ったより多いな…。それで、雲の流れはどうだ、クレイン?」 「大丈夫。あたしらが向こうに着く頃には嵐になる」  その少女――クレイン・ファ・トームはどこか嬉しそうに応える。 「そうか…。なら、予定通りやるしかないか」 「当然。帝国の連中には、一歩だってこのモアの地は踏ませやしない。たとえ相手が何万騎いたって、ね」  クレインの強気な発言に、エストーラの口元がかすかにほころんだ。  この二歳年下の従妹は、彼よりもずっと激しい性格をしている。  部族の長の跡継ぎとして、時には慎重な行動をとらなければならないエストーラと違い、彼女を束縛するものは何もない。  同じ年頃の他の娘たちと違って、村で織物や家畜の世話などをすることもなく、男たちと一緒になって剣を背負い、馬を駆っている。  エストーラは、自分の思うまま自由に生きるクレインが少しうらやましい。  まだ十九歳の若者にとって、病気の父に代わって部族を率いるという責務は少々重すぎた。  しかし、投げ出すわけにはいかない。  コルザ川を越えて、大陸南部への侵攻を始めたストレイン帝国からこの地を護るためには、何倍もの敵に対しても一歩も引くわけにはいかないのだ。 「サルトア・ヴィたちの部隊は配置についているか?」 「もちろん。後はあたしらが行くだけだよ」  エストーラはうなずいた。  彼我の戦力差は歴然としているが、それでも今回はつけいる隙がないわけでもない。  はるか北の地から遠征しているストレイン軍は知らないだろうが、初夏のこの時期、この辺りの山地では、朝のうちは晴れていても午後から突然の嵐になることがある。  今日がちょうど、そんな天候だった。  エストーラたちは二千騎の軍勢をふたつに分け、突然の嵐に混乱するストレイン軍を挟撃する作戦を立てていた。  予想では、嵐が来るちょうどその時刻に敵は狭い谷間を通過しているはずで、奇襲にはまたとないチャンスだった。 「さ、急ごう。チャンスは短いんだから、早く向こうに着いていないと…えぇっ?」  エストーラを促して進軍を始めようとしたクレインは、不意に、驚きの声を上げた。  クレインが指差す方向に目をやったエストーラも、そして周囲の男たちも、同じように驚愕の表情を見せる。 「な…なんだ、ありゃあ…」  どこからかそんな声が聞こえる。  その声にはやや怯えたような様子があった。  彼らの右手にある丘の上に、一頭の竜がいた。  竜はそれ自体かなり珍しい存在であるが、しかも、その竜は全身が黄金色の鱗で覆われていた。  この地方で見られる竜は青銅色の鱗をしているのが普通で、そこにいた者たちは誰も、こんな黄金色の竜など見たことがない。  その竜は、じっと彼らを見つめている。  それだけでも充分に驚きに値する光景であったが、さらに驚くべきことに、その足元に一人の人間の姿があった。  普通、竜は人間に近付こうとはしない。  彼らは人間を遙かに凌駕する、この世で最強の存在であるが、人間の社会に干渉することはないのだ。  そしてまた、人間も竜の側に寄ろうなどとは思わない。  竜は人間に干渉しようとせず、人間から干渉されることを嫌う。  竜の機嫌を損ねることは、人間にとってあまりにも危険なことであった。  たとえどれだけの大軍を持ってしても、人間はただ一頭の竜すら倒すことが叶わないのだから。 「な…なによ、あれ」  クレインが珍しく不安そうな声を洩らす。  もちろん、その問いに答えられるものなど誰もいない。  エストーラもまた驚き、そして怯えてもいたが、しかし彼は長としての責任を果たさなければならなかった。  竜はただ黙ってこちらを見ているだけだったが、このまま無視して進むわけにはいかないように思われたし、かといってストレイン帝国の軍勢が迫っている以上、いつまでもここで時間を費やすわけにもいかない。 「よし、私が行ってみよう」  馬は怯えて竜に近付こうとはしないので、エストーラは馬を下りて徒歩で丘を登り始めた。 「あ、あたしも行くよ!」  少し遅れて、クレインも後に続く。  さらに何人かがそれに続こうとしたが、それはエストーラが制止した。  あまり大勢では、向こうに警戒心を抱かせるかもしれない――と。  敵意がないことを示すため、エストーラは剣も馬の上に残してきた。  そんなものは必要ない。  万が一のことがあったら、竜相手にはどうせ剣などなんの役にも立たないのだ。  エストーラとクレインは、ゆっくりと丘を登っていく。  竜も、その足元の人影も、なんの動きも見せない。 「若い女…みたいだね」  クレインが小さくつぶやく。  近付くに従ってはっきりと見えてきたその人影は、確かに女のようだった。  この地方では珍しい漆黒の髪は、腰まで届く長さがある。  身につけている衣服も黒一色のため、竜の陰にいると遠くからではよく見えなかったのだ。  その表情まではっきりと見て取れる距離まで近付いて、エストーラは足を止めた。  恐らくクレインと同じくらいの年齢…まだ十代の後半くらいだろう。  鋭い目で、真っ直ぐにこちらを見ている。  その瞳も、髪の色と同じ漆黒だ。  まるで闇夜のような、吸い込まれるような、黒。  なにを考えているのかわからない。  感情が読みとれない。  しかし向こうはこちらの心の奥まで見透かしているような、そんな瞳だった。  エストーラもまた、真っ直ぐにその少女を見つめた。  少女の背後にいる巨大な竜も目に入っていなかった。  しばらくそんな状態が続く。  意を決してエストーラがなにか言おうとした瞬間、向こうが先に口を開いた。 「私は…エモン・レーナ」  ややハスキーな声で、静かにそう言った。 「あなたたちの戦いに、力を貸してあげるわ」  それが、後のトリニア国王エストーラ・ファ・ティルザーと、その妻エモン・レーナの出会いであった。  そしてこの日は、大陸の歴史上初めて、人間同士の戦いに竜が加わった日でもあった。  戦いの後、エモン・レーナはエストーラやクレインをはじめとする何人かの者に、竜騎士の力を授けた。  やがてエストーラは近隣の部族と手を結び、反ストレインを掲げる連合軍を結成する。  後の、トリニア王国連合である。  この当時のストレイン帝国は大陸の七割を支配する史上最大の帝国で、それに刃向かうには、エストーラたちの軍勢はまだあまりにもささやかなものでしかなかった。  トリニアの勢力がストレインと肩を並べるほどになるには、それから十年近い歳月が必要だったのだが、それを長いと見るか短いと見るかは人それぞれだろう。  それは、奈子たちの時代より千五百年あまり昔のことであった。  一 三月のうさぎ  まだ、道路脇に積もった雪は人の背よりも高い。  それでも、三月になると新しく降る雪よりは解ける雪の方が多くなる。  それが、北海道の三月の風景。  そうしてやっと、人は長い冬の終わりを感じる。  三月の上旬といえば、関東ならもう桜が咲き始めていることだろう。  桜イコール春、それが一般的な日本人の感覚かもしれないが、しかし札幌で桜が満開になるのは五月の上旬、まだ二ヶ月も先の話だった。  すなわち、北海道の桜は初夏の訪れを告げる花である。  北国の春は雪解滴の音とともに始まる。  しかしそれでも、三月といえば卒業のシーズンであることは日本全国共通だ。  そしてこの日、札幌市南区奏珠別にある私立白岩学園中等部でも、卒業式が行われていた。  友達同士、あるいは仲の良かった後輩との別れを惜しむ生徒たちの姿。  卒業式の後、校内のあちこちで見られる光景だ。  そんな生徒たちの群れの中に、ひときわ多人数の女生徒の集団があった。  その中心で、セーラー服の少女たちに囲まれているのは…、  女生徒たちの憧れの的。  白岩中のヒーロー。(決して、アイドルではない)  いうまでもなく、松宮奈子である。 「松宮先輩、たまには遊びに来てくださいね」 「私のこと忘れちゃヤですよ」  口々に、そんなことを言う少女たち。  感極まって泣いている者もいる。 「お前らちょっと大げさじゃない? これきり会えないわけでもないのに…」  奈子が呆れたように言う。  奈子の進学先は私立白岩学園高等部。  すなわち、いまいる中等部の校舎の隣であり、直線距離にして百メートルも離れていないばかりか、渡り廊下でつながってすらいる。 「その気になれば休み時間だって会えるじゃん。そんな大げさに、泣くほどのことかね?」  という奈子の疑問はもっともといえばもっともだ。 「いや…せっかくの卒業式ですから、ちょっとそれらしく盛り上げようかと」  二年生の一人が笑って言う。。  つまり、これは『感動的な卒業式ごっこ』だった。  やれやれ、とをすくめた奈子は、  「高等部に可愛い女の子がいても、浮気しちゃダメですよ」  からかうようなその台詞の主を睨み付ける。  視線の先にいるのは、宮本由維。  奈子の幼なじみで、後輩で、親友で、かつ恋人(自称)である。  高等部の新入生のうち、中等部出身者は全体の三分の一ほどでしかなく、残り三分の二は他の中学の出身で、初めて見る顔ということになる。  だから、由維の心配ももっともなことといえなくもないが、奈子にはひとつ引っかかる点があった。 「何故、そこで女の子に限定するんだ?」 「え? だって…ねぇ?」  由維は周囲の女の子たちに同意を求める。  そこにいた十数人の少女たちは、全員そろってうんうんとうなずいた。  ただ一人、奈子を除いて。 「と、ゆ〜ことです」 「ちょっと待て、お前ら!」  男子生徒に恨まれるほど女の子にモテる奈子だが、男子との間の浮いた話はこの三年間でひとつもなかった。 「多数決で決まったことですから」 「やかましいっ!」  そんな、姦しい集団の外で、やや戸惑ったように立っている一人の男子生徒がいた。  ずいぶんと前からそこでなにか言いたげにしているのだが、なかなかそのきっかけがつかめずにいる。  まあ、並の神経の男では、この集団に割り込む度胸はあるまい。  しかしやがて意を決すると、大きく深呼吸をしてから叫んだ。 「松宮先輩、お話があります!」  それまできゃあきゃあとさえずっていた少女たちが水を打ったように静まったかと思うと、一斉に声のした方を向く。  十数人の女子の注目を浴び、その男子生徒は少したじろいだ。  そこにいた女の子たちの過半数は、その男子生徒を知っていた。  二年A組、斉藤紀明。  真正面から顔を見合わせることになった奈子にとっても、よく見知った顔だ。  男子空手部の二年生で、三年生が引退した後の新主将。  中学二年生としてはかなり良い体格をしている。  百七十五センチを越えていると聞いたことがあるから、奈子より十五センチ近く背が高い。  精悍な顔つきで、まあハンサムといっていいだろう。  女の子たちがささっと左右に分かれて作った道を、斉藤は真剣な表情で奈子に近付いてくる。  その緊迫した雰囲気を、女の子たちは息を飲んで見守っている。  奈子の目の前まで来た斉藤は、もう一度小さく深呼吸すると、手に持っていたものを差し出した。  白い、飾り気のない封筒。 「松宮先輩、これ、読んでください」  驚きの声を上げたのは、奈子ではなくて周囲の女生徒たちだった。 「どうして男子がここに…?」  そんな、驚愕混じりのささやき声が聞こえる。 (なぜここで驚くんだっ? アタシが男子にモテたらそんなに意外かっ?)  とは思ったが、それは口には出さずにいた。  どうせ、みんなまた首を縦に振るに決まっている。  奈子は封筒を受け取りながら、斉藤の顔を見た。 (年下ってのも悪くないか…?)  顔はなかなかいい。  たしか、斉藤はけっこう女子に人気があったはずだ。  奈子の男性の好みの第一条件は「強い男」なのだが、斉藤はまだ発展途上とはいえ、三年生が抜けた後の空手部では文句なしに最強、将来性は十分だった。 (うん、悪くない。しかし…そっか…斉藤の奴…それならそうと、早く言えばいいのに)  顔がにやけそうになるのを必死にこらえて、奈子は封筒に目を落とす。  と… 「…え?」  横にいた女の子が、奈子の手元を覗き込んだ。 「…果たし状…?」  女の子たちは互いに顔を見合わせ…、  十秒後、一斉に吹き出した。 * * * 「なんで、こんなことになっちゃったのかなぁ…」  空手着に着替えた奈子は、絶望的な表情で天井を仰いだ。  ここは、学校の格技場。  普通なら卒業式の日に使われることなどないはずの場所だが、いまは試合場を一面残して、あとはギャラリーで満員だった。  それだけならまだしも… 『さあ、世紀の一戦! 日本最強の女子中学生対中学空手の次代の星。白岩中格技場から実況生中継でお届けいたします! 会場は既に満員となっておりますので、どうぞお近くの校内モニターでご観戦ください』  何故、放送部がビデオカメラまで持ち出して中継なんかしているんだろう?  それだけならまだいい。  いや、よくないけど…  しかもその上… 『実況はわたくし、放送部二年の神奈川直美。解説はおなじみ、格闘技研究同好会の前会長、三田昭夫先輩。そして特別ゲストとして空手部顧問の吉原先生にお越しいただいています』 「止めろよ、教師ならさ!」  奈子がゲスト席の吉原に向かって叫んだ。 「生徒の自主性を重んじる教育、それが白岩学園の精神だ」  吉原は悠然と椅子に座っている。 「ホンネは?」 「中学最強の女子の技が男子に通じるのかどうか、一人の空手家として興味がある!」  やっぱりね…。  奈子はがっくりと肩を落とす。  結局のところ、この学校の関係者は生徒も教師も、本質的にお祭り好きなのだ。  校長や理事長はさすがにここにはいないが、どうせモニターで中継を観ているに決まっている。 「松宮先輩、がんばって〜!」  女の子たちの黄色い声援が聞こえる。  かと思うと、 「斉藤! 男の意地を見せてみろ!」  そんな、男子の声も多い。  会場の雰囲気は、プロレスやK―1と大差ない。  観客にとっては単に面白いイベントでしかないのだ。  奈子と、斉藤紀明にとっては『決闘』であったとしても。 (なんで、こんなことになっちゃったのかなぁ…)  少し離れたところでウォーミングアップをしている斉藤を見る。  すべての元凶はあいつか――?  いや、違う。  奈子はかぶりを振った。  いちばん悪いのは、あいつだよ…。  放送席の横のVIP席に座っている、茶髪で小柄な女の子。  奈子がきつい目で睨んでも、その少女はまるで気付いていないといった様子でにこにこと笑っていた。 『さて、突然の決闘と相成ったわけですが、いったい原因はなんなんでしょう、三田先輩?』  試合開始までの間を持たせようと、放送席ではそんな話題を持ち出した。  奈子が、いちばん触れて欲しくなかったことだ。 『それなんですがね…実は』  自他共に認める格闘技オタクの三田が、わけ知り顔で話し出す。 (三田ぁ、てめぇ後で殺す!)  奈子は心の中で三田に向かって中指を立てる。 『そもそもの発端は、斉藤くんが一年C組の宮本由維ちゃんに交際を申し込んだことなんですね』  観客の間から「おぉ〜!」と歓声が上がる。 「いいぞ〜、斉藤!」 「この命知らず!」 「抜け駆けすんじゃね〜!」  何人かの男子が無責任にはやし立てる。 『それは…勇気がありますね〜。いろいろな意味で』 (ど〜ゆ〜意味だよっ?)  奈子の癇にさわったのが、直美が心からそう思っているらしいということだ。 『そうですね。普通に考えればいい返事がもらえる確率はほとんどありませんし、なによりこの学校でいちばん危険な人物を怒らせる可能性もあるわけですから』  三田の言葉に観客の多数がうなずいたことが、さらに奈子を怒らせる。 『それに対する宮本ちゃんの返事がなんと、「いいよ、奈子先輩に勝てたらね」だったというからさあ大変!』 『なるほど、それで斉藤くんは松宮先輩に決闘を申し込んだというわけですね?』 『それだけでも称賛に値する勇気ですね』 『先生はどうお考えですか、このことについて?』 『男子たるもの、惚れた女のために闘うくらいの覇気が必要だな』 「吉原先生、あんたそれでも教師〜?」  ついに奈子が耐えきれずに口を挿む。 「教師に向かってあんたはないだろう、松宮?」 「だったら教師らしくしてよ。お願いだから、さ」  奈子としては、もう笑えばいいのか、泣けばいいのかわからない。  唯一の救いは、卒業式に出席するために珍しく札幌に帰ってきていた両親が、式が終わると同時にとんぼ返りで東京に戻っていたことだろう。  女の子を奪い合って校内で決闘し、それが全校放送されたなんて両親に知られたら…。  考えただけで怖い。  このときの奈子には、ギャラリーの中にちらほらと混じっている父兄の姿は見えていなかった。  いよいよ試合開始、ということで場内の興奮はさらに高まる。  審判を務める男子空手部の元主将・高杉が二人を手招きする。 『さあ、間もなく試合開始ですが、三田先輩はこの勝負の行方をどう予想しますか?』 『松宮は確かに中学女子日本一ですが、斉藤くんが身長で十五センチ、体重で二十キロ弱上回っていますからね〜。打撃格闘技でこの差は大きいですよ』  三田がもっともらしく解説する。 『ポイントで勝負がつく公式試合ならともかく、今回は時間無制限、KOまたはギブアップのみの特別ルールです。パワーとスタミナで勝る斉藤くんが有利なのは否めないでしょう。二年生とはいえ昨年秋の新人戦では全道大会準優勝、十分な実力があります。僕の予想では七対三で斉藤くん有利ですね』 『なるほど、先生の予想は?』 『まあ、常識的に考えればこの体格差でしかも男子と女子、火を見るよりも明らかな勝負なんだが…』  吉原は面白そうににやにやと笑っている。 『なにしろ北原極闘流の女子選手の強さは、そんな理屈など通用しないからね』  吉原や斉藤、そして高杉は、日本有数の空手団体、聖覇流に所属している。  北原極闘流はもともと聖覇流から別れた団体で、今でも交流は多い。  男子の大会では層の厚さで聖覇流の優位は動かないのだが、女子はここ数年、北原極闘流が圧倒的な強さを見せていた。 『高等部の北原美樹先輩とか?』 『そう、そして松宮は北原のお嬢さんの愛弟子だからね。より実践的な闘いほど強さを発揮する。このルールなら六対四で松宮…かな』 『なるほど…さあ、いよいよ試合開始です! 勝負の行方は、そして由維ちゃんをものにするのはいったいどちらかっ?』  高杉の「始め!」の合図と同時に飛び出したのは斉藤の方だった。  一気に間合いを詰め、その勢いを殺さずに体重を乗せて左右の突きと中段の回し蹴りを叩き込む。  奈子はそのラッシュを腕でブロックするが、彼我の体重差のためにバランスを崩す。 『おおっと、これは予想外。先手をとったのは斉藤くんです!』 「ああん、どっちを応援したらいいんだろう?」  列の一番前で観ている女生徒の一人が困ったような声を上げる。  そのまわりの女の子数人が、その子を睨む。 「どっちって…あんた松宮先輩を応援しないの?」 「え〜、だって…さあ」  女の子は小さくなって答えた。 「もし松宮先輩が負けたら、宮本は斉藤くんと付き合うことになって、そ〜なると松宮先輩はフリーってことになるんでしょう?」 「あ、そっか…」  そ〜ゆ〜考え方もあったか…と、そこにいた女の子たちはそろって考え込んでしまう。 「でも…さ」 「ねぇ…?」 「うん…」 「松宮先輩が負けるところなんて、見たくないよね…」  結局、それが結論となる。  そしてその間、試合場では誰も予想しなかった展開を見せていた。 『いったい、誰がこんな展開を予想したでしょう? 松宮先輩、防戦一方です! 斉藤くん、息もつかせぬ猛攻!』  試合が始まってからずっと、攻めているのは斉藤だけで、奈子はほとんど攻撃らしい攻撃を見せていない。  しかもそれは相手の疲れを待って隙をつくといった作戦ではなく、斉藤の攻撃を受けるのが精一杯で反撃する余裕がないように見える。  さすがにクリーンヒットはほとんどないが、動きの速い奈子にしては珍しく、相手の攻撃をほとんどかわせずに辛うじてブロックしているといった雰囲気だった。 『これはいったい…? 先手必勝、防御のひまがあったら反撃しろ、が極闘流の信条のはずなんですがね。ましてや「頭より先に拳から生まれてきた」といわれるほど手の早い松宮が…』  斉藤有利、という予想をした三田にも、これはさすがに意外なようだ。  吉原にも、審判をしている高杉にも、そしてギャラリーにも戸惑いが見られる。 『やはり、男子が相手ということで勝手が違うんでしょうか、先生?』 『いや、松宮は男子相手の組み手なんて慣れているはずだ。「男相手に勝てないなら、空手なんて何の役にも立たない」が北原のお嬢さんの信念だからな…』 『じゃあ、これは松宮先輩の作戦?』 『それにしてもおかしいな。防御に徹する作戦なら、相手の攻撃はまともに受けずに受け流さなければならない。ほら、斉藤の突きをかわせずに腕でブロックしているだろう? 斉藤の方がパワーは上なんだから、あんな受け方をしていてはすぐに腕が動かなくなってしまう』  奈子のことをよく知っている人間ほど、奈子らしからぬ闘いに違和感を感じていたのだが、その点でいちばん戸惑っているのは、実は奈子本人だった。  何故だろう、いまいち気合いが入らない。  そのせいか動きにキレがない。  何故? 負けてもいいと思っているから?  ううん、そんなことはない。  勝ってしまっていい闘いなのかどうか、という問題についてはかなり疑問があるが、なんであれ負けることは嫌いだ。  なのにどうして、こんなに、闘いに集中できないんだろう。  斉藤の上段回し蹴りを避けきれずにブロックした奈子は、バランスを崩して大きくよろけた。  その隙を狙って斉藤はボディへのフックを連打。  奈子を応援する女生徒の一部から悲鳴が上がるが、それは辛うじて肘で受け止める。  だが、ガードが下がったのを見て、斉藤はすかさず上段の回し蹴りを放った。  これまで斉藤の攻撃を受け続けてボロボロになっていた腕はこの動きについて来れず、ガードが間に合わない。  まずいっ!  そう思う間もなく顔面にまともに蹴りが入り、奈子の身体は大きく飛ばされた。  しかし審判は、ダウンではなく場外と判定する。  観客のあちこちから溜息が漏れる。  数秒間倒れていた奈子は、やがてふらつきながらも立ち上がった。  口元の血を、道着の袖で拭う。  やれやれ、なんてことだ。  このアタシが、さ。 「おかげで、やっと少し本気になってきたよ」  奈子の口元にかすかな笑みが浮かんだ。  まったく、なんてことだろう。  いままで本気になれなかった理由がやっとわかった。  斉藤の技が、怖くなかったからだ。  殺気がないから。  確かに、奈子を倒そうという気迫は本物だ。  しかし、それは試合で奈子に勝とうということであって、真に命を懸けた闘いではない。  やれやれ…  奈子は苦笑する。  いつの間にか、殺気のない相手には本気になれなくなっていたなんて。  危険な闘いばかり経験しすぎたためだろうか。  大丈夫か? と問う審判を無視して、奈子は場内に戻った。  今日、初めて見せる危険な笑みを浮かべながら、斉藤を睨み付ける。  そう、こいつは敵だ。  由維にちょっかいを出した…。  斉藤まで一メートルほどの距離まで近付いて、観客には聞こえないほどの小さな声で言った。 「ひとの女に手ぇ出して、まさかただで済むとは思ってないだろうね?」  斉藤の背筋に、ぞくっと冷たいものが走る。  生まれて初めて、本当の殺気というものを感じた。  審判が試合を再開するが、斉藤は自分から仕掛けるのをためらう。  本気になった奈子は、その一瞬の躊躇を見逃しはしなかった。  ドォン!  バスドラムを力いっぱい叩いたような音が響く。  一瞬、二人の動きが止まる。  ゲスト席の吉原が慌てて立ち上がった。 「馬鹿っ! こんなところで『衝』を使うなんて…!」  奈子の右拳が、斉藤の鳩尾にめり込んでいた。  斉藤の顔からは、完全に生気が失せている。  奈子が右手を引くと、斉藤の身体がぐらりと傾いた。  しかし、奈子の目からはまだ殺気は失せてはいない。 「松宮、待てっ!」 「奈子先輩、ダメッ!」  そんな、吉原と由維の制止よりも先に、奈子は左肘を顔面に打ち込んだ。  そのまま両手で斉藤の頭をつかみ、顔面に膝蹴りを叩き込む。  斉藤の身体は一回転して、床の上に仰向けに倒れた。  そのまま、ぴくりとも動かない。  完全に意識を失っている。  顔が、血で真っ赤に染まっていた。  しん…  城内が静寂に包まれる。  教室のモニターでそれを見ていた奈子の親友、亜依が小さくつぶやいた。 「あのバカ…やりすぎ」  奈子は、どこか満足げな表情で斉藤を見下ろしている。  真っ先に我に返ったのは、やはり顧問の吉原だった。 「やりすぎだ、馬鹿!」  奈子に向かってそう怒鳴りながら、駆け寄って斉藤の容態を見る。 「死んじゃいないよ、いちおう手加減したもの」  奈子の口調はまるで人ごとだ。 「松宮…お前どういうつもりだ?」  審判を務めていた高杉に保険室へ連絡するよう指示すると、吉原は立ち上がった。 「お前なら、ここまでやらなくても勝てただろうが!」 「だって先生、これは試合じゃないよ。決闘だもの」  奈子は、吉原を睨み付けるようにして言った。 「ひとにケンカを売るなら、それくらいの覚悟で来るべきだよ」  この闘い、公式の記録では無効試合とされたが、斉藤はそれからしばらくの間、決して奈子と由維には近寄ろうとしなかった。 * * *  卒業式は午前中で終わったのに、奈子が家に帰ったのはもう夕方だった。  しばらく職員室で説教されたあと、後輩の女の子たちと昼食を食べて、ゲームセンターとカラオケボックスをはしごしていたからだ。  夕方になってようやく由維と二人きりになってから、奈子はずっと、どこか不機嫌そうだった。 「奈子先輩…先刻からなんか怒ってます?」  夕食の準備をするために、セーラー服の上にエプロンをつけながら由維が訊く。 「…わかってるっしょ?」  奈子がぶっきらぼうに応えると、由維は小さく溜息をついた。 「嫉妬ですね。斉藤さんに告白されたとき、すぐに断らなかったから」 「そんなんじゃない!」 「わかってます。冗談ですよ」  由維が悪戯っぽく笑うと、奈子はますますむっとした顔になる。 「なんであんなこと言ったの? 斉藤と付き合う気なんてこれっぽちもなかったくせに!」 「まあ、奈子先輩が斉藤さんに負ける可能性なんて、最初からありませんでしたしね」 「だったら、何故!」  奈子にはその答えはわかっていた。  実のところ、最初からわかっていたのだ。  奈子ひとすじのはずの由維が、何故あんなことを言ったのか。 「ただ、見たかっただけなんだな。アタシが、由維のために闘うところを…」  そう言うと、乱暴にソファに腰を下ろす。  由維は悪びれた様子もなく、にこにこと笑っている。  口の前で、両手を合わせて。 「ひとの女に手ぇ出して、ただで済むとは思ってないだろうね…」  由維のつぶやきに、奈子の顔がさぁっと青ざめた。  斉藤以外の誰にも聞こえないように言ったはずなのに。 「保健室に様子を見に行ったとき、斉藤さんが教えてくれたんですよ〜」 「あ、あの野郎! 今度会ったらマジで殺す!」 「嬉しいな。こうでもしないと、奈子先輩なんにも言ってくれないんだもの」 「あ…あのさ…」  由維は心底嬉しそうだが、奈子は心底うろたえていた。  正直言って、なんであんなことを言ってしまったのか、自分でもわからない。  気付いたときには、口にしてしまっていたのだ。  まさかそれを、よりによって由維に知られてしまうとは…。 「そんなことのために、斉藤をたきつけたの? いまさら、言葉が必要なの? アタシと由維の間に…さ」  キスだって何度もしているのに…とは口に出さなかったが。 「好きな人からの愛の言葉って、生きていく上で必要なビタミンなんですよ。恋する女の子にとっては、ね」  由維はそう言ってけらけらと笑う。 「わがままな奴」  奈子が呆れたように言う。 「女の子って、わがままな生き物なんですよ」  由維も奈子の隣に腰を下ろした。  奈子にぴったりと寄り添って、肩のあたりに頬をすり寄せ、 「…ね?」  大きな瞳で、上目づかいに奈子を見た。 「もぉ…」  奈子は由維の肩にそっと手を回す。  そして、ゆっくりと唇を重ねた。 「ん…」  由維はぴくりと身体を震わせ、唇の隙間から舌を入れてくる。  最近やっとディープキスに慣れてきた奈子は、以前のように慌てずに、しばらく由維の好きなようにさせておく。  内心、 (こんなこと、慣れちゃっていいのかなぁ…)  とは思っていたのだが。  しばらくそのまま互いの唇と舌の感触を楽しんでから、奈子は由維から離れた。 「今日はここまで」  由維の唇に人差し指を当てて。 「そろそろご飯にしてよ。アタシもうお腹ペコペコ…」 「うん」  由維も別に不平は言わずに、立ち上がってキッチンへ向かった。 「何分くらい?」  由維の背中に向かって訊ねる。 「ん〜、三十分くらい、かな?」 「じゃあ、アタシちょっと走ってくるから」  そう言って奈子も立ち上がる。  夕食前の軽い運動は奈子の日課だった。 * * *  奈子はトレーニングウェアに着替えて外に出た。  道路にはまだ雪が残っていて走りにくいが、そんなことはどうでもいい。  走ってくる、というのは由維から離れる口実に過ぎなかった。  とりあえず、ぷらぷらと歩いて近所の公園へと向かう。 (やばかったなぁ…先刻は)  由維とキスしているとき、奈子は何度その先に進みそうになったことか。  最近たまに、キスだけでは我慢できなくなってしまう。 (実はアタシって、すごくエッチなのかなぁ…)  まだ十五歳なのに、こんなことでいいんだろうか。  公園のフェンスにもたれかかって、はぁっと大きく溜息をついた。  どうしてだろう。  そりゃあ、由維のことは大好きだ。  単純な友情とか恋愛感情とか、そんな言葉だけでは表せない、大切な存在だ。 (でも女同士だし…)  奈子は最近まで「自分はノーマルだ」と信じ込んでいたため、同性と抱き合ったりキスしたりということにはどうしても後ろめたさを感じてしまう。  にもかかわらず、  気持ちいいのだ。  由維をぎゅっと抱きしめて、唇を重ねるという行為が。  そして  そして…  もっと気持ちのいいことを、したいと思ってしまう。 (さすがに…それはまずいよなぁ)  キスだけならまだ冗談で済むけど…さすがにその先は。  どうしてだろう。  ファージとのキスだったら、それほど強い衝動を感じないのに。 (まぁ、まったく感じないわけではないんだけど…)  もぉ、どうしたらいいんだろう。  このままだと、いつか由維のことを襲ってしまいそうだ。  由維の気持ちを無視して。  由維は…、キスだけで満足している。  それに、いまのところその先は考えていないようだ。  以前、奈子が何度か冗談で手を出したとき、由維はそれを拒んだ。  別に、それイヤなわけではなく、漠然とした恐怖感があるだけのようではあるが。 (アタシのこと、さんざん挑発しておいて、いざその気になったら怖じ気づくんだもんな〜。ずるいよなぁ…)  由維にとっては、奈子のそばにいることが幸せであり、いまのところそれ以上のことは望んでいないのだった。 (まだ十三歳だしね…その方が自然か)  不自然なのはきっと自分の方だ、と奈子は思う。 「奈子、こんなとこでなにやってンの?」  不意の声に驚いて、奈子は飛び上がるようにして振り返る。  すぐ後ろに、大きなゴールデンリトリーバーを連れた、奈子と同世代の女の子が立っていた。 「亜依…」 (ふ、不覚。このアタシが背後を取られて気付かないとは…)  よほど深刻に悩んでいたらしい。  そこにいたのは、同じクラスの沢村亜依。  奈子とは一年生のときからのクラスメイトだ。 「犬の散歩?」 「うん」  亜依はうなずいたが、クラスでいちばん小柄な亜依と、体重四十キロはありそうなゴールデンの組み合わせでは、傍目には亜依が犬に引きずり回されているようにしか見えない。  どう考えても力では犬の方が上だろう。 「いっそのこと、橇でもつないで、それに乗れば楽なんじゃない? まだ雪は残ってるんだし」 「それも考えたけどね〜。でも、いちおう年頃の女の子としましては、札幌市内の住宅街で犬橇ってのはちょっとね…」 (マジだな、こいつ…) 「ところで奈子…」  亜依がいきなり話題を変える。 「昼間のアレ、すごかったね〜」  奈子は思わず頭を抱えた。 「い、言わないでよっ。自分でもちょっとやりすぎたかなって思ってるんだからさっ!」  赤い顔で叫ぶ。 「まぁ、いいンじゃない? 自分の恋人にちょっかい出されたら、誰だって怒るのが普通でしょう?」 「こ、恋人って、あのね〜! アタシは別にレズってわけじゃ…」 「うん、それは知ってる」  亜依はあっさりと奈子の言い分を認めた。 「レズじゃなくて、奈子ってば両刀だもんね?」 「亜依っ!」 「やきもちじゃないんなら、どうしてあそこまでするの? 斉藤くんを病院送りにする必要はなかったと思うけど?」 「そ、それは…」  奈子は結局、この意見にうまく反論することはできなかった。  亜依の足元では、ゴールデンが退屈そうに欠伸をしている。 「でも、ホントすごかったよね。自分より大きな男子を一撃だもの。どうしたらあんなに強くなれるんだろ?」 「強く…か」  奈子は独り言のようにつぶやく。 「人はどうして強くなりたいって思うんだろう?」  亜依はきょとんと、奈子の顔を見つめた。 「どしたの奈子、急にマジになっちゃって」 「ん…別に。ただ、ちょっとやりすぎたかなって反省してんの」  奈子はそこにしゃがむと、ゴールデンの背をなでた。  お返しとばかり、ゴールデンはその大きな舌で奈子の頬をべろりと舐める。 「ひょっとして奈子、落ち込んでる?」 「落ち込んでるっていうか…、時々、わかんなくなるんだ。どうして格闘技なんてやってるんだろう、強くなってどうするっていうんだろう…って」  ふぅん…とつぶやいた亜依は、不意に、なにかを思い付いたような顔になる。 「いいこと、教えてあげようか? 元気が出るかもよ」 「いいこと?」  奈子が顔を上げた。 「どうして奈子が、女の子にモテるのか」  奈子は、こいついきなり何を言い出すんだろう…といった表情を見せる。 「格好いいからとか、強いからとか、胸が大きいからとか、いちばんの理由はそんなことじゃないんだよ」 「三番目のは、同性の場合あんまり関係ないんじゃ…」  犬をなでていた手を止めて、奈子は立ち上がった。 「奈子といるとね、すごく安心できるんだ」 「安心?」  亜依の言わんとすることがすぐには理解できずに、奈子は訊き返す。 「例えばさ…いま突然、あたしが通り魔にでも襲われたとしたら、奈子は助けてくれるでしょ?」 「当然じゃない」 「そう…当然だよね、奈子にとっては。当然のように助けてくれる。あたしを護るために戦ってくれる」  亜依は真っ直ぐに奈子の顔を見て、にこと微笑んだ。  男だったら放っておけないような笑顔で。 「奈子は、大切な人のためなら少しも迷わずに、自分の命を懸けてでも戦ってくれる。奈子にはそんな信頼感があるの。だから、みんな奈子の大切な人になりたいって思うのさ」 「そ…そうなの?」 「だから、奈子が強くなろうとするのは、人を傷つけるためじゃない、大切な人を護るためなんだよ」  どこまで信じていいんだろう?  でも、亜依の無邪気な顔を見ていると、そうかなって思ってしまう。 「少しは、迷いが解消できたかな?」 「うん…」 (そういえば以前、ハルティ様にもそんなことを言われたっけ…)  ときどき、自分に自信が持てなくなるときがある。  だから人にそう言ってもらえると、なんとなく安心できる。 「落ち込んでちゃダメだよ。あたしは、元気な奈子が好きなんだから」 「へ?」  気が付くと、亜依の顔がすぐ目の前にあった。  避ける間もなく、ちゅっと唇が触れる。 「あ、あ、亜依〜! いきなりなにすんのよっ!」  顔中真っ赤にした奈子が、手で口を押さえて叫ぶ。  亜依はぺろっと舌を出した。 「元気づけてあげたんだから、お礼してもらわなきゃね」 「あ、あんたもそっちの趣味だったのっ?」 「三年間同じクラスで、今さらなに言ってンの。まさか、気付いてなかったの?」 「あ、アタシ、亜依だけはノーマルだと思ってたのに〜。あぁ〜親友に裏切られた〜!」  わめき散らす奈子を無視して、亜依の足元に寝そべったゴールデンは大きな欠伸をしていた。 * * *  予定より十五分くらい遅れて、奈子は家に戻った。  家の中からは美味しそうな匂いが漂っている。  エプロン姿で出迎えた由維は、ふと、不思議そうな表情で奈子を見つめた。 「…また、浮気してましたね?」 「な、なによいきなりっ?」  困ったことに、それがある意味事実だから奈子は思いっきり狼狽する。  由維は自分の頬を指差した。 「ほっぺたに口紅がついてますよ」 「え! うそっ?」  慌てて頬に手を当てて、はっと気付いた。  亜依にキスされたのは、頬じゃない…。  しまった! 「ふぅん…やっぱりね」  由維がジト目で睨んでいる。 (うう…またやっちゃったよ。アタシってばかなりマヌケ…)  以前にもこんなことがあったっけなぁ。  いったい何度目の失態だろう。 「他の女の子の匂いがするから、もしかしたらって思ったら…」  由維は料理の腕が抜群なだけあって、嗅覚も鋭い。 「あ、いや、あの、これは…その…」  なにかうまい言い訳はないかと、いまさら考えたところで後の祭り。  完っ璧に墓穴を掘ってしまった。  由維は泣き出すだろうか、それとも怒るだろうか。  奈子は恐る恐る由維の顔を見たが、 「ま、いいや。ご飯にしよ」 「へ…?」  拍子抜けするくらいあっさりとした口調で言うと、由維は居間へと戻っていく。  別に、気にもしていないという素振りで。  それとも、もうこんなことは慣れっこなのか。  しかし、 (…! これは…本気で怒っているなぁ…。近いうちになにか埋め合わせしないと…)  夕食の味噌汁を一口飲んだ奈子は、目に涙を浮かべながら思った。  由維の様子は普段となにも変わらないのに、いつの間にか奈子の味噌汁には、ねりワサビがたっぷりと入れられていたのだ。  二 四十六億年の旅 『仕事で四〜五日留守にします』  ソレアの屋敷を訪れた奈子が見つけたのは、奈子に宛てた、美しい筆跡で書かれたメモだった。  ソレア・サハ・オルディカはこの地方では名の知られた占い師である。  その屋敷には遠くの街からも客が訪れ、また他国の貴族や、時には国王などからの呼び出しを受けることもある。  ソレアが屋敷を留守にするのはそれほど珍しいことではない。 「な〜んだ、ソレアさんいないのか。せっかく久しぶりにこっちでのんびりできると思ったのに…」  奈子の卒業式は終わったし、一年生の由維はまだ三学期の授業が残っている。  だから、奈子はしばらくこちらで過ごそうと思って来たのに、いきなりこれである。  考えてみると、落ち着いてこちらに来るのも久しぶりだ。  なにしろ出席日数が足りなくて、年が明けてからは補習続きの毎日だったから。  奈子はぶつぶつと文句を言いながらお湯を沸かし、ティーポットと自分用のカップを持って二階に上がる。  ソレアの家に滞在しているとき、最近の奈子は書斎にいることが多い。  本来、勉強と名の付くものは好きではないしあまり得意でもないのだが、それでもこの世界について書かれた書物を読むのは面白かった。  まったく未知の世界の地理や、歴史や、文化。  そう、特に歴史は興味深いものだ。  ソレアの書斎には何千冊もの蔵書があり、奈子に読めるものに目を通すだけでも時間はいくらあっても足りない。  たまには、一人というのもいいかもしれないな、と奈子は思う。  ソレアはともかく、ファージがいたらゆっくりと本を読ませてなどもらえないから。  もちろん、ファージとじゃれ合ってるのも、それはそれで楽しいのだが。  書斎に入った奈子はポットとカップをテーブルに置くと、テーブルの上に置かれていた地球儀をなにげなく指で回した。  直径三十センチ近いそれは、陸地を金で、海洋を白金でかたどった美しいもので、ソレアの話では今から千百年ほど前、王国時代の後期に作られたものらしい。  高価な素材を使っていることから、学術的な目的ではなく装飾品として作られたと思われるが、それにしても十分すぎるほどに精密な細工だった。  山脈の起伏まで再現されたそれは、奈子の世界の精密な地球儀と比較しても遜色はない。  いわゆる『科学』はそれほど発達していないこの世界でも、人は魔法学的な手法によってこれだけの測量を行うことができたのである。  奈子は地球儀をくるくると回す。  地形は、奈子の世界とまったく違う。  大きな大陸は二つだけ。  赤道よりやや北に位置する『人の大地』コルシアと、南極付近にある『氷の大地』グラクトス。  大陸は二つだけだが島の数は多く、グリーンランドに匹敵すると思われる大きな島もいくつかあった。 「異世界、なんだなぁ…」  奈子はぼんやりとつぶやく。  こうして星全体を外から眺めていると、ここが奈子の知る地球ではないということが実感できる。  いくらここが異世界――剣と魔法の世界とはいえ、「世界は平らで大洋の果ては滝となっている」などということはないのだ。  いっそ、そうであれば少しは気が楽なのに…。  ときどき、奈子はそんな風に考える。  ここが、まったくのお伽話の世界なら、少しは気が楽だったのに。  だけどここは奈子の住む世界とほとんど変わらない物理法則に支配された、実在する世界であり、人々の営みも現実のものである。  そう、現実だった。  奈子が人を殺したことも。  奈子の世界とほとんど変わらない、四十数億年の歴史を持つこの惑星。  こちらの言葉で『ノーシル』と呼ばれる。  今は使われていない古い言葉で、――真の、大いなる大地――そんな意味だ。  奈子はこれまで、この世界の歴史――特に王国時代の歴史について書かれた本を何冊も読んできたのだが、最近見つけた本はちょっと違っていた。  それは人の歴史ではなく、ノーシルの誕生、そして生命の発生と進化、そんな四十六億年にわたる歴史をわかりやすくまとめた本。  『四十六億年の旅』そんな、金文字のタイトルが読める。  王国時代の末期に記されたというその本を、書架から取り出して頁を開いた。 * * *  今から四十七〜八億年前。  そこにあるものは、ただ、希薄なガスだけだった。  その大半が水素、残りはヘリウム、そして炭素や酸素、珪素や鉄はほんの少し。  宇宙空間に漂う、一様な星間物質の雲。  それは、遠い昔にその最期を迎えた星々の名残。  きっかけは、外からもたらされた。  ごく近くで――といっても数光年程度の距離のところだが――ひとつの大きな星がその一生を終えたとき、この空間の時計が廻りはじめた。  大きな星は死ぬとき、想像を絶するほどの大爆発を起こす。  その衝撃は広大な宇宙の隔たりを越えて、ここに漂っていたガスの雲に波紋を起こした。  一様な薄いガスの中にむらが生じ、ガスの濃くなった部分はそれ自身の重力によってさらに周囲のガスを寄せ集め、より密度の高い、より大きな固まりへと成長していく。  そうしてどんどん大きく、重くなっていた固まりの中心が、鉄よりも鉛よりも重くなったとき――  ついに、星の中心に火が点った。  現在も天空に輝く、太陽の誕生である。  太陽が輝きはじめた頃、その周囲の残っていたガスも次第に小さな固まりにまとまりつつあった。  こうして、太陽を巡る十三の惑星と、無数の小惑星が誕生した。  その、内側から数えて三番目の惑星こそが、遠い未来に『大いなる大地』と呼ばれる星なのである。  誕生から数千万年がたった頃、ひとつの異変がノーシルを襲った。  当時、太陽系内にはまだ不安定な軌道を描く惑星も多く、そのうちのひとつ、ノーシルの半分ほどの大きさの天体が衝突したのである。  砕け散ったその天体はやがてノーシルを巡る軌道に集まり、ノーシルに最初の、そして最大の月『ホル・チュ』が誕生した。  この衝突はまた、ノーシルの内部にも大きな変化をもたらした。  衝突の衝撃が引き金となって大規模な地殻の変動が起こり、無数の火山が噴火して灼熱の溶岩と火山ガスを吹き出した。  溶岩は地表に起伏を作り出し、火山ガスに含まれる水蒸気は、やがて地表が冷えはじめると雨となって降り注ぎ、広大な海を作り出した。  こうしてノーシルは、太陽系内で唯一、液体の海を持つ惑星となった。  それは高温の硫化水素の海であったが、しかしそれこそが、ノーシルが他の惑星と異なる運命をたどるために必要なことだったのである。  様々な有機物が溶けこんだ硫化水素の海。  その中で起きていた気まぐれな化学反応が、ひとつの新しい分子を生み出した。  その分子は、ただ一つの点において他の分子とは違っていた。  周囲の海水に溶けこんでいる有機物を結合し、自分自身の複製を作り出すことができたのである。  その奇妙な特性のため、その分子はまたたく間に増えていった。  分子の複製を作る能力は、まだ粗末なものでミスも多かったが、それ故に分子は無数の変種を作り出す結果となった。  変種の中のほんの一握りが、原型よりも優れた性質を持っていた。  より速く、より精密な複製を作れるようになった分子。  それはもう化学反応ではなく――生命活動というべきレベルに達していた。  ノーシルの誕生からわずか一億年、煮えたぎった硫化水素の海の中で最初の生命が誕生したのである。  小さなひとつの分子に過ぎなかった最初の生命は、長い時間をかけてゆっくりと変化していった。  より大きな、複雑な、そして複製ミスの少ない強固な分子となり、それがやがてタンパク質の被いをまとうようになる。  そのゆっくりとした進化のためには、無限に等しい時間をかけることができた。  『生命』と呼ぶのもおこがましいほどの些細な存在ではあったが、彼らには、時間だけはいくらでもあったのである。  さらに数億年が過ぎた頃、生命にとって最大の革命が起こった。  それまでの生物は、周囲の海水に溶け込んでいる有機物を取り込んで生命活動を維持していたのだが、無機物と太陽光線から有機物を作り出すことができるようになったのである。  光合成を行うことのできる生物は、それまでの生物よりもはるかに優れたもので、またたく間にその数を増やしていった。  そして、光合成の副産物として排出される物質が、海と、大気の環境を大きく変化させた。  硫化水素の海は、いつしか水とナトリウムを主成分とし、二酸化炭素と水蒸気の大気も、窒素と酸素に変わっていった。  ノーシルに、青い空と青い海が生まれたのである。  酸素は、それまでの生物にとっては有害な、劇薬にも等しい物質である。  このとき酸素に対応できなかった生物の多くが死滅し、生き残ったわずかなものは、酸素のない深海へと逃げていった。  しかし、酸素によってこれまでよりもはるかに大きなエネルギーを得られるようになった生物たちは、その進化の速度を速めていった。  いまから八億年ほど前の時代、海は無数の生命に満ちあふれていた。  その多くは、現存する原始的な藻類の祖先である。  しかし、当時の陸上に生命の気配はなく、荒涼とした岩肌が広がっているだけの死の世界であった。  穏やかな海の中は藻類の楽園。  このままでは、生命がこれ以上の進化を遂げることはなかったかもしれない。  しかしある日、突然に変化が訪れた。  巨大な隕石――といっても、月ができたときの衝突に比べたらはるかに小さなもの――がノーシルに激突したのである。  大気中に巻き上げられる大量の土砂と水蒸気が、ノーシルの穏やかな気候を激変させた。  世界規模の大嵐が起こり、巨大な竜巻が大量の海水を吸い上げて大地に叩き付ける。  その中にいた藻類はほとんどが死滅したが、ほんのわずかに、不毛の大地で生き延びたものがあった。  生命はついに、海から陸へと広がったのである。  そしてこの時、海の中にもひとつの変化が起こった。  隕石が巻き上げた大量の塵が成層圏を漂い、太陽光線が海中まで十分に届かなくなったのである。  弱い太陽光線の下では充分に光合成を行えない生物の中に、他の生物からエネルギーを横取りするものが現れた。  単細胞生物ではあるものの、それはまぎれもなく『動物』であった。  それから数億年の間はまた穏やかな時代が続き、生物たちはゆっくりと進化してその数を増やしていった。  しかし、外見上大きな変化のなかったこの時代、生物たちの内部では着実に次のステップへの準備が進んでいたのである。  遺伝子は、徐々にその複雑さを増していた。  この時代に存在した生物はせいぜい百種類くらいのものだったが、その遺伝子はすでに何百万倍もの可能性を秘めていた。  必要なのは、きっかけだけだった。  それは、海底から噴出した多量のメタンガスという形で与えられた。  大気中に放出されたメタンの温室効果によって、ノーシルの平均気温が数度上昇したことが引き金となり、生物たちは爆発的な進化をはじめた。  細胞核の中で十分に進化していた遺伝子は、その無限の可能性を試しはじめたのである。  生命の誕生から三十億年の間に誕生した生物はほんの百種類程度にすぎなかったが、それが、わずか一千万年ほどの間に十万種を越えるまでに数を増やした。  この時代に、現存する全ての生物の原型が生まれ、そしてその何倍もの数の生命が、後世に子孫を残すことなく消えていった。  世界中に満ちあふれる何百万種の生命、ノーシルが真の『生命の惑星』となったのはこの時代以降といってもよい。  三億年くらい前の時代、海の生物の主役は、多様にそして高度に進化した魚類であった。  海は魚の王国となっていた。  それに対して、陸上はいまだに植物だけの静かな世界であったが、それもいまや時間の問題であった。  陸近くに棲む魚の一部は、陸上でも生活できる両生類に近い性質を持ちはじめていた。  動物の前には、新たな世界が広がっていた。  生物は、きっかけを与えられればものすごい勢いで進化し、増えていく。  地上に上がった動物は、両生類から爬虫類に進化し、かつてなかった巨大生物へと変化していった。  一億年前、地上は巨大爬虫類の世界であった。  そして、七千万年前――  巨大爬虫類の進化が頂点に達したちょうどその時期、また、ノーシルの外から変化が訪れた。  現在のコルシア大陸、バーパス地方に落下した巨大隕石である。  成層圏まで巻き上げられた大量の塵は、簡単に落下せずに空を覆った。  この星に、かつてない長い冬の時代が訪れた。  巨大化しすぎたために環境の急激な変化についていけなくなっていた巨大爬虫類は、この異変に対応できなかった。  地上に再び陽の光が戻ったとき、そこには巨大爬虫類の姿はなかった。  この異変を生き延びたのは、巨大爬虫類の陰で密やかに生きていた哺乳類たちだった。  哺乳類が、新たな地上の支配者となったのである。  冬の時代が終わり、哺乳類は温暖な気候の中で繁栄を続けていた。  その中の一種、霊長類はとりたてて優れた種ではなかったが、他の動物にはない二つの特徴を備えていた。  長い指を持った器用な手と、体の割に大きな大脳である。  それまで熱帯雨林の樹上で暮らしていた、もっとも進化した霊長類が、気候の変化で森を追われ草原で暮らしはじめた。  それが、画期的な二足歩行のきっかけであった。  身体を支えるという重労働から解放された前足は、器用さを増した『手』となった。  手と指で複雑な作業をすることが、脳の発達を促した。  森を追われた猿は、そうしてついにヒトへと進化を遂げたのである。  それまでの動物の進化とは、すなわち遺伝子がより優れた形質へと変化することであった。  しかし、多くの環境の変化の中で作り上げられた二重螺旋の遺伝子は、極めて強固なものであり、その変化はじれったいほどゆっくりとしか進まない。  ヒトは、遺伝子を変化させない進化の道を選んだ。  知能の発達、である。  強固なDNAと異なり、大脳のシナプスは瞬時にその構造を変化させる。  その情報は遺伝子のように子孫に受け継がれることはないが、『言葉』と『文字』がその代わりを果たした。  他のどんな生物よりも速く進化できるようになったヒトは、必然的に地上の支配者となった。  もともと小さな群で生活していたヒトは、やがてもっと大きな集団を作るようになり、集落から村、街、そして都市を築いていった。  コルザ川下流域で見つかった遺跡は、そうした都市のもっとも古いものであり、今から十万年以上前のものと考えられている。  その時代、既に都市を築くほどの文明が存在していたのだ。  しかし、そのような古代文明と現在との間には、数万年の空白の時代があった。  そうでなければ、現在の文明は遙かな高みに達していたはずである。  十万年前、どのような災厄がノーシルを襲ったのか――それについては実のところよくわかっていない。  何故なら、当時の痕跡がほぼ完全に破壊され尽くしているからである。  その時代の地層を調べても、徹底的な破壊の痕が見られるだけで、そのとき具体的に何が起こったのかは伺い知ることができない。  もっとも有力な説は、七千万年前に巨大爬虫類を絶滅させたのと同じような隕石の衝突であるが、これとて確証があるわけではない。  はっきりしていることは、およそ十万年前にノーシルは大きな災厄に見舞われ、ノーシルの全生命は絶滅寸前に追い込まれたということと、その後数万年間もの不毛の時代が続いた後、ようやく回復に向かい始めたということだけだ。  現存する全ての生命は、この災厄を生き延びたわずかな生き物たちの子孫である。  人間たちが築いていた文明も失われた。  人間の進化は一万年以上、すなわち原始時代まで逆行することとなった。  生き残ったほんの一握りの人間たちは、数万年の時間をかけて、再び一からやり直さなければならなかった。  人間が再び大きな文明を築くようになったのは数千年前、この星が歩んできた四十数億年の歴史を比べたら、つい先日のことと言っても過言ではないのである。 * * * 「ふぅ…」  奈子は大きく息をつくと本を閉じた。  既に時刻は夕方近く、ティーポットはいつの間にか空になっている。  ずいぶんと読書に熱中していたらしい。  この本は、これまで読んだことのあるこちらの世界の本とはずいぶん違っていた。  奈子は時折、自分の世界の本を読んでいるような錯覚にとらわれる。  それくらい、記述が…科学的なのだ。  それはもちろん、王国時代の高度な魔法学によって得られた知識なのだが、これだけの厚さの本の中に、魔法や神々に関する記述が全くないのが不思議だった。  奈子の世界とは違い、この世界は魔法が支配し、神々と呼ばれる存在も、その実体がなんなのかはわからないが、少なくともその力は実在しているのだ。  それなのに、この世界や生命の成り立ちには、魔法も神々も関与していないというのだろうか?  奈子の世界と同じように、この世界も物理法則によってのみ支配されているというのだろうか?  この世界の魔法は、決して人間の知恵の産物ではないはずだ。  人間以外の哺乳類や、爬虫類や鳥類でも魔法を使える生物はいる。  植物は動物のように自らの意志で魔法を使うことはないが、オルディカやノルゥカルキといった、強い魔力を持つ草木は何種類も知られていた。  この世界において魔法とは、当たり前のように存在する力ではなかったのか。  いったい、この惑星の四十数億年の歴史のどこで、この力は生まれたのだろう。  いま読んでいた本の記述が全て正しいとすると――  この本には、十万年前までの歴史が記されている。  だとすると、考えられることは一つ。  この世界において、魔法も、神々も、十万年よりも新しい歴史しか持たないのだ。 「…まさか、ね」  いくらなんでもそんなことはあるまい。  こんど機会があったら、もう少し新しい時代について書いてある本を探してみよう。  あるいは、ソレアやファージに訊いてみるか。  今日はもう、これから新しい本を探して読むには頭が疲れている。  ソレアは今日中には戻らないようだし、一度帰って出直すことにしよう。  奈子は立ち上がった。  自分の世界に戻るために、魔法陣のある地下室に向かいながら、明日はどこへ行こうかと考える。  ソレアがしばらく留守にするのなら、一人でどこかへ冒険に行くのもいいかもしれない。  この世界の中での通常の転移魔法は使えない奈子だが、向こうからこちらへ移動する際には、必ずしもここへ来る必要はない。  目的地さえしっかりとイメージできれば、他の場所への転移も可能なのだ。  例えば、ハルティやアイミィに会いに、マイカラス王国へ行くというのはどうだろう。  それはなかなかいい考えのように思われた。  こちら側で、ファージとソレアの次に親しい人間はこの二人だ。  最近補習で忙しかったこともあって、二人にもしばらく会っていない。 「マイカラスなら前にも一人で行ったことがあるし、何とかなるか…」  それとも他にどこか、行ってみたい場所はなかっただろうか?  これまでにも、ソレアやファージが暇なときにはいろいろな場所へ連れていってもらっていた。  王国時代の遺跡や、あるいは現在の大陸で栄えている都市など。  その中でもう一度行ってみたい場所はあっただろうか。  あるいは、その他にも…。  しばらく考えて、ひとつ思い付いたことがあった。  以前、本で読んで強く興味を引かれたにも関わらず、まだ行ったことがない場所。  ソレアから、近付くことを固く禁じられている場所。  そんな場所があったことを思い出す。  聖跡――  それは、伝説の竜騎士エモン・レーナの墓所。   今から千五百年前、トリニア国王エストーラ・ファ・ティルザーの妻であり、黄金竜の騎士であった人物。  その生い立ちは謎に包まれ、『戦いの女神の化身』と呼ばれた竜騎士。  この世界で最初の竜騎士であり、竜騎士の力をこの世にもたらした者。  それが、エモン・レーナ。  ストレイン帝国との戦の最中、親友に裏切られて命を落としたと伝えられるエモン・レーナの墓所は、大陸のはるか西、中央山脈のふもと近くにあるという。  その場所は一般には知られていないのだが、一部の魔術師や歴史家たちの間では公然の秘密なのだそうだ。  当然、ソレアやファージはそれを知っている。  その話をしてくれたとき、ソレアはさらにこう付け加えた。 「聖跡は危険な場所よ。エモン・レーナの神聖な墓所を荒らす者がないようにと、不死の番人がそこを護っている。聖跡の中へ入って、生きて戻った者はいないわ」  興味本位で近付いたりしちゃ駄目よ――ソレアはそう言ったのだが、駄目と言われるとよけい行ってみたくなるのが人情というもの。  神の子と呼ばれた竜騎士の墓所、そこを護る不死の番人、なんとも幻想的な話ではないか。  奈子はまだ十五歳、自制心よりも好奇心が勝る年頃だった。 「中に入らずに、遠くからちょっと見てみるくらい、いいよね?」  奈子はソレアの書斎に戻ると、書架から聖跡の場所を記した地図を取り出した。  三 ファ・ラーナの聖墓  奈子の身体を包み込む光が薄れ、周囲の風景が見えてきたとき、困ったことに地面は足の下数メートルのところにあった。 「きゃ…」  短い悲鳴を上げて落ちる奈子。  地面に叩き付けられる衝撃に備えて身体をこわばらせたが、次に感じたのは地面や草原にしては妙に柔らかな感触と、「ぐぇっ!」というカエルのような声だった。 「え…?」  上体を起こしてきょろきょろと辺りを見回す。  濃い緑の風景。  ここはどうやら、森の中を通る道のようだ。  奈子の尻の下に、ちょうど車につぶされたカエルのような格好で、男がうつぶせになってのびている。  そして、周囲には数人の人影があった。  一人は若い女性。  二十代前半くらいだろうか。  淡い色の、長い金髪が特徴的な美人だ。  そして、彼女を取り囲むように四人――奈子の下敷きになっているのを除いて――の男たち。  こちらは、はっとするほど美しい女性とは対照的に、その人相といい、各々が物騒な武器を手にしていることといい、どう見ても堅気の人間とは思えない。  彼らが直前までなにをしていたのかは推して知るべしだが、いまはみな一様に、いったい何が起こったのか…という表情で奈子を見つめている。 「え〜とぉ…」  さて困った。  こ〜ゆ〜ときは、どうしたらいいんだろう?  奈子を見つめる男たちの目つきが、徐々に険しくなってくる。  どうやら、笑ってごまかす――という雰囲気ではなさそうだった。 「あ〜、えと…、どうやら、お邪魔だったみたいですね〜」  へらへらと笑いながら地面に手をついた奈子は、いきなり、バネがはじけるように飛び上がった。  そのまま、一番近くにいた男の顔面に、ソバット風の後ろ回し蹴りを叩き込む。  突然の出来事に、男たちの反応が一瞬遅れた。  その隙にもう一人の男との間合いを詰めると、剣を持っている方の手首を左手でつかみ、右手で男の顎に掌底を打ち込む。  男の身体が大きくのけぞったところで、鳩尾への肘打ちと脇腹へのボディフックの連発。  とどめは全身のバネを使って、もう一度顎を狙ったアッパーカット。  男の身体は一瞬宙に浮き、そのまま後ろに倒れた。 「て、てめぇ、いきなり何しやがるっ!」  残る二人のうち、先に我に返った方が剣で斬りつけてくる。  ガキィッ!  奈子は、腰に差した短剣を抜いてその刃を受け止めた。  さらに空いた手でもう一本の短剣を抜くと、男の剣を持った手に斬りつける。  この短剣はファージに頼んで特注で作ってもらったもので、短剣といっても刃渡りは三十五センチほどあり、鉈に劣らない肉厚がある。  奈子はいつも、その短剣を二本、腰のベルトに差していた。  大振りの短剣を逆手に持ち、武器を持った相手の攻撃を受け止めながら反撃する――北原極闘流で『双牙竜』と呼ばれる技だ。  古流武術の影響が濃い極闘流には、徒手格闘の他に、このような武器を用いた戦闘術もある。  現代の日本では実際に使う機会などまずないし、道場でも普通は教えない技なのだが、個人的な興味から練習しておいたものが役に立った。  この世界では剣による闘いが一般的なのだから、全くの素手ではやはり辛いものがある。  奈子は普通の長剣も使えなくはないが、この方がより空手の技を生かした戦い方ができるのだ。  奈子は手の筋を切られて剣を落とした男の股間を蹴り上げ、男が膝をついたところでこめかみに回し蹴りを叩き込んだ。  これで、残るは一人。 (これは勝てそうだな。ひとつ、アレを試してみるか…)  いきなり現れた正体不明の小娘にたちまち三人の仲間を倒され、残った男は警戒した様子で剣を構えている。  と突然、 「ショウ・ウェブ!」  男の手からリンゴ大の光球が放たれた。  それを予想していた奈子は、右手の短剣を投げ捨てながらぎりぎりで魔法をかわす。  そのまま踏み込んで顔面を狙った掌底を放ったのだが、踏み込みが浅かったのか、その手は相手にはわずかに届かない。  しかし、 (よし、今だ!)  奈子は右手に意識を集中する。  ドンッ!  目に見えない衝撃波が、男を大きくはじき飛ばした。 「やった!」  初めて実戦で魔法を使うことができて、奈子の顔がほころぶ。  ここ何ヶ月か、奈子は暇を見てファージやソレアから魔法による戦闘術を習っていた。  理論上は、この世界にいる限り奈子にも魔法が使えるはずだったし、まったく魔法が使えないというのは、この世界ではいろいろと不自由だった。  もっとも奈子の攻撃魔法などまだまだ未熟なものなので、こうした空手の技とのコンビネーションを練習していたのだ。  地面に倒れている男たちを一瞥した奈子は、先刻放り投げた短剣を拾うと、呆気にとられて立ち尽くしている女性に向かって言った。 「さ、今のうちに逃げよう!」 「え…あ、そうね」  我に返った女性の手を引き、奈子は走り出した。 * * * 「とりあえず、こ〜ゆ〜ときは女の味方をしておけばいいと思ったんだけど…、アタシ間違ってないよね?」  しばらく走ったところで、恐る恐る訊いた。  そう、奈子はなんの事情もわからないままに男たちをぶちのめしてしまったのだ。  これでもし、奈子の早合点だったら目も当てられない。  いくら、あの男たちに致命傷を与えてはいないといっても。  その女性は、当然のことながら体力的には奈子より劣るようで、激しい呼吸を繰り返していて返事ができずにいた。  そもそも体力お化けの奈子が辛くなるまで走り続けていたのだから、それに付き合わされた方はたまったものではない。  奈子はその間に相手を観察した。  年の頃は二十代前半。  見た目だけならソレアよりも少し上…という印象を受けたが、ソレアは実際には二十九歳だというし、この世界の女性の年齢は外見だけでは判断できない。  背は奈子よりやや高く、淡い色の長く伸ばした金髪が美しい。  少し、ソレアに雰囲気が似てるかな…と奈子は思った。  そのときになって気付いたのだが、長い剣を背負っている。  この世界の標準的な長剣よりも十五〜二十センチくらい長めだ。  意外だった。  雰囲気といい、長いローブ風の衣服といい、とてもこんなものを持つような人物には見えなかった。 (これはひょっとして、余計なお世話だったかな。でも五対一じゃ…う〜ん、でも…)  奈子が少し不安になり始めた頃、女性はようやく息を整えて微笑んだ。 「ええ、間違ってないわ。ありがとう、助けてくれて」  はっとするような笑顔だった。  自称ノーマル、の奈子が思わず赤くなるほどに。 「でも、事情も聞かないうちにいきなり襲いかかるなんて、ずいぶんと大胆なことするのね?」  その言葉に責めているような雰囲気はない。  むしろ面白がっているようだった。 「だって…まともにやったら四対一ってのはちょっと辛いっしょ? 多少卑怯でも、不意打ちでイニシアチブを取るしかないもの」  複数の相手と闘うときは必ず先手をとり、相手が反撃の体勢を整える前に可能な限りの戦力を削ぐこと――奈子の先輩であり女子空手界の女王、北原美樹の教えだ。 「そうね、確かにその通りだわ」  相手も納得してくれたようなので、奈子は安心する。 「あ、私はフェイリア・ルゥ。フェイリア・ルゥ・ティーナよ」 「アタシ…奈子。ナコ・ウェル・マツミヤ」  この世界では、奈子は必ず、ハルティからもらった『ウェル』の名を名乗るようにしていた。  ナコ・マツミヤだけでは、ここではあまりにも不自然な名になる。  それに、運命の女神を表すウェルの名は、現在ではマイカラスの王家にだけ残るもので、とても貴重な、高貴な名だ。  要するに、奈子のお気に入りなのだ。 (フェイリア・ルゥ…? ルゥといえばたしか、知識を司る女神…だっけ。魔術師の家系に多い名だって聞いた記憶があるけど…?)  身近なところでは、ファージがその名を持っている。  本名はファーリッジ・ルゥ・レイシャ、だ。  それはともかくとして、フェイリア・ルゥ・ティーナという名前に、奈子は既視感を覚えた。 「フェイリア・ルゥ…ティーナ? どこかで、聞いたような気が…?」 「千年くらい前、王国時代の末期にフェイシア・ルゥ・ティーナという高名な魔術師がいたわ。それと混同しているのではなくて?」  フェイリアの言葉に、奈子は「ああ、そうか」とうなずく。  ソレアの書斎で読んだ本の中に、そんな名があったはずだ。  ソレアから魔法の講義を受けているときにも聞いた気がする。  それにしても… 「フェイリア・ルゥ、フェイシア・ルゥ…一字違いだよね。ひょっとして、ご先祖様とか?」 「そうらしいわ。詳しい家系は知らないけれど」  フェイシア・ルゥといえば、トリニア王国に仕えていた高名な魔術師だったはず。  その末裔でフェイリア・ルゥ…? 「じゃあ、フェイリア・ルゥも魔術師なの?」  奈子の予想通り、答えはイエスだった。  仕事柄ひとりで旅をすることが多く、その途中で野盗に襲われたのだそうだ。  なんとなく面白そう…それだけの理由で、奈子はしばらくフェイリアと一緒に行動することにした。  都会の夜に慣れた奈子にとって、この世界の夜はとても静かだ。  それが、森の中での野宿となればなおさらのこと。  聞こえるのは虫の音と、遠くで鳴く梟の声。  そして、ぱちぱちとはぜる焚き火の音。  そんなとき、不意にフェイリアが言った。 「そういえばあなた、いきなり空から降ってきたりして、いったい何をしていたの?」  奈子は思わず、飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。  そういえば出会ってから半日の間、奈子は自分のことをほとんど話していない…というか、そもそも話せないことが多すぎるのだ。  うっかり口を滑らせて、自分の素性がばれたら大変なことだ。  そんなことがないように気をつけること――ソレアやファージに繰り返し言われている。 (あれ? でも…)  どうして、ばれたらいけないんだろう?  そりゃあ確かに「この世界の人間ではない」というのは大事かもしれないけど…なにがなんでも隠さなければならないというほどのものなのだろうか? (まぁ、あの二人が秘密にしろって言うんだから、その通りにするけどね…)  ただ、そのためにハルティやアイミィに嘘をつかなければならないことが少し辛いのだ。  しかし、とりあえずいまは無難にごまかすしかない。 「え、いや…それが…、転移魔法に失敗して…」 「あらあら…」  フェイリアが笑う。 「それで、本当は何処へ行こうとしていたの? こんなところでのんびりしていていいの?」 「実は、聖跡に行こうと思っていたんだけどね…」 「聖跡…?」  フェイリアがぴくっと眉を上げる。 (あ、マズ…)  その表情を見て、奈子はふたつの失言に気付いた。  ひとつは、転移魔法は極めて高度な技で、それができるのはほんの一握りの専業魔術師だけということ。  本来なら、奈子のような魔法もろくに扱えない小娘の手に負えるものではない。  奈子の周りにいるのが、転移魔法など当たり前のようにこなすファージやソレアなのでつい失念してしまうのだが、彼女たちはこの世界でも規格外といってもいいほどの力のある魔術師だ。  そしてもうひとつは、現在、聖跡の正確な場所を知る者もごくわずかだということ。  聖跡という名やエモン・レーナの伝説は誰でも知っているが、聖跡の位置はトップシークレットだ。 「あ…あの、え〜と…」 「転移の失敗…聖跡…ふぅん?」  うろたえる奈子を見て、フェイリアは含みのある笑みを浮かべた。  奈子の額に冷や汗がにじむ。 (うぅ…これじゃあアタシ、どう見ても怪しい奴だよ…)  フェイリアは明らかに、奈子がただの十五歳の少女ではないと気付いたようだった。  まあ、それをいったら…武装した大の男四人を一瞬で倒したところから、既に普通の女の子の範疇をかなり逸脱している。 「聖跡って、あの聖跡よね? いったい何をしに?」  フェイリアの顔は笑っているし、口調もごく普通なのだが、どこか、有無をいわせない迫力があった。  ただでさえ嘘の下手な奈子のこと、ここは話せる範囲で正直に答えるしかない。 「ええと…その、なんとなく興味があって…。観光、みたいなもの?」  我ながら、馬鹿な発言だと思う。  これではフェイリアは納得しまい。  しかし意外なことに、フェイリアはそれ以上深く追求してこなかった。  ただ、こう言って笑っただけだ。 「それにしても、すごい方向感覚ね。ここは聖跡から四千四百テクトは離れているわよ」 (あぅ…)  思わず赤面する。  奈子の見当では一テクトはおよそ○・七キロだから、目的地から三千キロ以上の大外しだ。  いくら、転移魔法においては物理的な距離が意味を持たないとはいえ、これはひどい。  しかも、たどり着いた場所は聖跡となんの関係もない、奈子にとっても見知らぬ場所だし、転移の座標を狂わせる王国時代の魔法的な遺跡があるわけでもない。  魔法に関しては初心者とはいえ、これは大失態というほかはなかった。  もっとも、行き慣れたソレアの家やマイカラスの王宮が目的地の時でさえ、三〜四回に一回は目標を外す奈子だから、仕方のないこと…といえなくもない。 (それにしても、三千キロってのは新記録…)  以前、ソレアの家に行こうとして、王国時代の都市マルスティアの遺跡に出てしまったことがあったが、それでさえ二千五百キロほどでしかないし、あの時はそこへ行ってしまうだけの理由があった。  それが今度は、理由もなしに三千キロ…あれ?  三千キロ…四千四百テクト?  そのときやっと、奈子はフェイリアの発言が持つ重大な意味に気付いた。 「フェイリア・ルゥ…あんた、聖跡の場所を知ってるの?」  四千でも四千五百でもなく、四千四百テクトとはずいぶんと正確な数字ではないか?  フェイリアはすぐには答えず、ふふっと笑った。 「まだ、眠くはない? ナコ・ウェル」  いきなり、そんな関係のないようなことを訊いてくる。  奈子は小さくうなずいた。 「じゃあ、面白い話をしてあげましょうか。ちょっと長い話だけど…」  そうして、フェイリアは話し始めた。 * * *  その話を聞いた時、ディック――ディケイド・ファ・ハイダー――は、まず自分の耳を疑い、それから、冗談を言っているのだろうと思った。  しかし、彼の前に立っている少女、フェイリア・ルゥ・ティーナの目は真剣だった。  十年前、フェイリアの両親が死んだ時、当時七歳だったフェイリアは親戚であるハイダー家に引き取られた。  以来、実の兄妹のように育てられた二人だが、ディックも今では二十一歳、フェイリアのことを『妹』とは思っていない。  もっとも、フェイリアが彼のことをどう思っているのかはわからないが。  ある日の午後、フェイリアから大事な話があると呼び出されて村の近くの森までやって来たのだが、そこで聞かされた話はあまりにも意外なものだった。  ディックは、フェイリアの言葉の意味を飲み込むために数瞬の間を置き、それからやっと口を開いた。 「…聖跡へ行くだって? とんでもない!」  思わず言った本人も驚くくらい大きな声を出してしまったが、それも無理はない。 「聖跡がどんなところか知らない訳じゃないだろう? それをフェア、お前一人で行くだなんて…。俺はおろか、親父だってあそこへは近付いたこともないんだ。冗談じゃない!」 「ちょっと…、そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない。少しは私の話も聞いてよ!」  ディックにつられて、フェイリアの声も自然と大きくなる。  その声に驚いたのか、近くの茂みから数羽の小鳥が慌てて飛び去った。  ここは、村から少し離れた森の中にある、小さな泉のほとり。  どんなに大声を出しても、二人の話を聞いているのは森に棲む鳥や獣だけだろう。  それ故にフェイリアは、秘密を打ち明けるのにこの場所を選んだのだ。  村の中でこんな話をしていて、もしも他の者に聞かれでもしたら、そしてそれが養父の耳に入ったりしたら、聖跡へ行くことなど許してもらえるはずがないのだから。  聖跡へ行く――この計画をフェイリアはいままで誰にも言わずにいたのだが、それでもやはり黙って村を出るわけにもいかないので、『兄』であるディックに打ち明けたのだ。  ディック兄さんなら私に味方してくれるかもしれない――そんな淡い期待もあったのだが、ディックの反応はフェイリアを失望させるものだった。  勇敢な剣士であり魔術にも通じているディックや、その父エルケイアにとっても、聖跡は忌避すべき禁断の地であった。  聖跡――それは、伝説の竜騎士エモン・レーナの墓所といわれている遺跡である。  千年前まで、大陸で最大の勢力を誇っていたトリニア王国。  その礎を築いた王・エストーラ一世の妻で、黄金竜を駆る竜騎士エモン・レーナ。  しかしエモン・レーナは、彼女の親友で、トリニアの騎士団のリーダーであったクレイン・ファ・トームの裏切りにより、敵対していたストレイン帝国の軍に殺されてしまう。  クレインはその罪によって死刑となったが、さらに彼女の魂は呪いをかけられて、永遠にエモン・レーナの墓所を護り続ける番人となることを命じられたのである。  数百年の時が流れ、トリニア王国が滅びた後も、クレインの魂は依然として呪力に支配されて墓所を護り続けていた。  稀に、墓荒らしの盗賊や腕自慢の剣士といった連中が墓所に侵入することがあったが、生きて還った者は無論いない。  いつの頃からか墓所は聖跡と呼ばれるようになり、今はもう誰も近づく者もない不毛の荒野の中で、聖跡だけが昔の姿を保っているのだという。 「黄金竜の騎士であるエモン・レーナは、アール・ファーラーナ――戦いの女神の化身――と呼ばれるほどの強大な力を持っていた。そして、その力は彼女の肉体が滅びた後も失われることはなく、亡骸とともに聖跡に封印されているという伝説があるわ」  フェイリアの言葉に、ディックの眉がぴくりと動いた。  アール・ファーラーナ――トリニアの神話では、太陽神トゥ・チュと大地の女神シリュフの娘で、戦いと勝利の女神とされている。  トリニアの時代、王国が危機に陥ると、女神が人間の戦士の姿で現れ、国を救うと信じられていたのである。 「エモン・レーナの力…」  ディックがつぶやく。 「ねぇ兄さん、聖跡の周囲って今は不毛の荒野になっているけど、どうしてその中で聖跡だけが昔のままの姿で残っていられると思う? 千年以上もの間、クレインの魂を支配し続けている呪力は、何処からきていると思う? 全ては聖跡に眠るエモン・レーナの、いえ、戦いと勝利の女神の力なのよ」  熱のこもった口調で語るフェイリアを見ながら、ディックは漠然とした不安を感じていた。  いったい、何を考えているんだ。  お前は何をしようとしている…?  そして、その答えは一つしかあり得なかった。 「私は、その力を手に入れたいの。アール・ファーラーナの大いなる力を、私のものにしたいのよ!」  フェイリアは、きっぱりと言った。  真っ直ぐにディックの目を見つめて。  強い意志が感じられる瞳で。 「だけど…何故だ。何故そうまでしなきゃならないんだ? 今だってお前は最高の魔術師なのに、それでもまだ不満なのか! 王国時代のエモン・レーナやレイナ・ディ・デューンのように、この大陸を征服しようとでも言うのか!」  最後の方は、ほとんど怒鳴り声になっていた。  フェイリアは少し悲しそうな顔をしたが、それでもディックから視線をそらさずに言った。 「…私は、父さんと母さんの仇を討ちたいの」  それは、十年前のある嵐の夜だった。  その日、フェイリアは親の使いで、一人で親戚のハイダー家を訪れていた。  雨はちょうどフェイリアが着いた頃から降り始め、夕方には嵐となったので、結局フェイリアはそのまま泊まっていくことになった。  その夜の嵐はそれまで誰も体験したことがないほど烈しいもので、村では十五人の死傷者が出た。  ただし十五人とは、フェイリアの両親を数に入れなければ、の話だ。  フェイリアの両親は、嵐の犠牲者ではなかった。  家は嵐でもほとんど損傷を受けた様子はなく、扉と窓には鍵がかかっていた。  しかし、家の中に残っていたのは『昨日までは人間だった肉片』でしかなかった。  明らかにそれは人間の仕業ではなく、鍵がかかっていた以上、獣がやったことでもない。  そうなると考えられるのは、魔物の仕業ということか。  だが、フェイリアの父はこの地方でもっとも強い力を持つといわれた魔術師だ。  それに、村には結界が張られていて、魔物が侵入できる筈はない――そう主張する者もいたが、彼らは単純な事実を見落としていた。  フェイリアの父ほどの魔術師を殺せる魔物に対して、結界などなんの役にも立たないということを。  あるいは認めたくなかっただけなのかもしれない。  結界をいとも簡単にうち破り、最高の魔術師を殺せるだけの力を持った魔物の存在を。  この事件の当時、ディックは十一歳だったが、一つだけ鮮明に覚えていることがある。  それは、フェイリアの瞳だった。  両親の死を目の当たりにして彼女は少し怯えていたが、ディックの知る限り、フェイリアは葬儀の間じゅう一度も人前で涙を見せたことがなかった。  おそらく、誰もいないところでは泣いていたのだろうが。  そうして、じっと、子供には見るに耐えない両親の死体を見つめていた。  恐ろしいほど真剣な瞳で――  その表情には、両親の死に対する悲しみよりも、両親を殺した相手に対する怒りの方がより多く含まれているように思われた。  一人遺されたフェイリアはハイダー家に引き取られたが、間もなく、ケリアの森に住む高名な魔術師ジェリアナースの元に弟子入りし――多分彼女は、その時既に自分の手で両親の仇を討つことを決心していたのだろう――異常ともいえるほどの熱心さで様々な魔術を学んでいった。  もともとフェイリアの家は古くからの魔術師の家系で、素質にも恵まれていたのだろう。  彼女は師匠も驚くほどの早さで多くの魔術を修得し、十五歳の時には一人前の魔術師となっていた。  フェイリアはその後も、家にはたまにしか帰らずに大陸の各地を旅して歩いた。  そうして、王国時代の魔法書を探し求めたのである。  大陸には王国時代の遺跡が数多く存在し、その多くはトリニア王国の都市の跡である。  戦争で破壊されたもの。  人口の減少で都市としての機能を維持できなくなり、放棄されたもの。  そして、魔物に征服されたもの…。  バーパスやハレイトン等、王国時代の都市で現在でも人が住んでいるところもないわけではないが、そういった都市にしても、かつての繁栄の面影は何処にもない。  ましてや放棄された都市にいたっては見る影もなく、歴史上最大の都市といわれたトリニアの王都マルスティアでさえ、今は近づくものもない廃墟であり、トリニアの騎士団の発祥の地であるモアなどは、西方の砂漠から入り込んできた流砂の中に埋没し、今ではその場所を知る者すらいないという。  フェイリアは、王国時代の魔法に関する資料を探すためにそうした廃墟を訪れた。  王国時代の大いなる魔法は長い戦乱の中でほとんどが失われ、ほんの一部分が現在まで伝えられているに過ぎない。  古代の上位魔法を見つけだすこと、それがフェイリアの目的だった。  しかしディックの両親は、フェイリアがこうした旅をすることにあまり良い顔をしなかった。  魔物の支配地と化したコルシアを旅することはあまりにも危険であったから。  ディックもフェイリアの旅には内心反対であったが、その理由は少し違っていた。  確かに、古代の遺跡には様々な獣や魔物等が巣喰っていたが、フェイリアの魔法の前にはそれほど危険な存在とは思えなかった。  時にはディックもフェイリアの旅に同行することはあったが、彼が剣の腕前――村の若者ではかなう者のない――を披露する機会など滅多になかった。  その前に、フェイリアの呪文が全てを一瞬のうちに片付けてしまうから。  しかし、魔物と闘っている時のフェイリアの様子には、ディックを不安にさせるものがあった。  魔物との闘い――それは闘いですらはなく、一方的な虐殺のことも多かったのだが、フェイリアは怯えて逃げだそうとする魔物に対しても決して容赦せず、常にそこにいる全ての魔物を醜い肉片に変えていった。  そんな時のフェイリアの表情…それは普段ディックが見慣れている優しい笑顔ではなく、どこか、背筋がぞくっとするような不気味な笑みを浮かべていた。  フェイリアは魔物を殺すことに悦びを感じている――ディックはそう思っていた。  これは、復讐なのだ。  もっとも残酷な殺され方をした、彼女の両親の…。  その恨みが、あのような歪んだ形で現れるのだろう。  フェイリアの魔物に対する宿怨と、強大な魔力に対する欲望は、他人には理解できないほどの強さがあった。 「父さんと母さんを殺した奴を探し出すため、そしてそれを殺すため…、私にはもっと大きな力が必要なの。聖跡にはそれが存在する…」  フェイリアが、静かな口調で言った。 「どうしても、か?」 「ええ、どうしても。私は聖跡へ行かなきゃならないの」  ディックも、もうフェイリアを説得するのは無理だと感じていた。  それでももう一度念を押してみる。  同時に、彼は一つの決心をしていた。 「よし、わかったよフェア。それなら俺はもう止めない。その代わり、俺も一緒に…」 「駄目よ、兄さん。それはいけないわ!」  フェイリアが慌ててディックの言葉をさえぎる。 「兄さんはハイダー家の跡継ぎ、つまり、いずれは村の長になる身だもの。それなのに聖跡へ行こうなんて、危険すぎるわ、絶対に駄目!」 「言ってることが矛盾してないか? その危険な聖跡に一人で行くと言ってるんだぞ、お前は…。わかってんのか?」 「わかってるわよ! わかってるからこそ、兄さんを巻き込みたくないの!」 「わかってるなら、行くのは止めるんだな。どうしても一人で行くと言い張るのなら、俺は腕づくでも行かせない」 「そんなこと、させない!」  フェイリアの表情が微妙に変化し始めていることに、ディックは気付いた。  そして、周囲の森の様子が先刻までとは違っていることにも。  うるさいくらいだった鳥や虫の鳴き声がいつの間にか止み、森は不気味なほどの静寂に包まれている。  フェイリアは両手の指を組んで複雑な印を結ぶと、決して大きくはない、しかし良く通る声で唱え始めた。 「風よりも速きもの  炎よりも熱きもの  大地よりも広きもの  そして、清水よりも清きもの。  我が言葉に応え、我の元に集え…」  やがて、周囲の草木が、風もないのにざわざわと揺れ始めた。  四大精霊の魔法…?  ディックの顔がこわばる。  フェイリアが、魔力の源となる精霊を召喚しているのだ。 「誰にも邪魔はさせない。たとえ兄さんにだって」  まるで魔物と対峙している時のような瞳で、口調で、フェイリアは言う。  彼女は本気だった。  十年間、兄妹のように暮らしてきたディックに対してその恐るべき魔力を行使しようとしているのだ。 「フェア、お前…自分が何をしているのかわかっているのか?」 「ええ、わかっているわ。言ったでしょう? たとえ兄さんだって、邪魔はさせないって」 「フェア!」 「さあ、黙って私を行かせてくれるの? それともやっぱり腕づくで止める? 私はどちらでも構わないわ」  フェイリアの声には、まったくためらいがなかった。  ディックは思わず剣の柄に手をかけたが、まさか本当にそれを抜くわけにはいかない。  確かに、この距離ならフェイリアの呪文よりもディックの剣の方が早いだろう。  しかし、それはフェイリアを傷つけることを意味しており、そして、ディックにそんなことができる筈はないのだ。  だが、聖跡へ行くことを許せば、フェイリアを永遠に失うことになるかも知れない。  そんな考えがディックの頭をよぎったが、それでも、彼にできる選択は一つしかなかった。 「わかったよ、フェア。行けよ」  そう言った瞬間、突然凄まじい突風が二人を包み込み、ディックは思わず目を閉じた。  フェイリアが、召喚した精霊を解放し、それが本来あるべき世界へと送り返したのだ。  風はほんの一瞬で止み、ディックが目を開けて最初に見たのはフェイリアの笑顔だった。  それは、先刻までの狂気を孕んだ笑みではない。  普段の、まるで妖精のような優しい笑顔だった。  とりあえず、今のところは最悪の事態は避けられたらしい――  ディックはほっと溜息をついた。  陽はもうかなり西に傾いていて、朱く照らされた大地に二人の影が長く伸びている。  二人とも、もう聖跡のことは口にしなかった。  フェイリアは、いつもと同じように無邪気に笑っている。  つい先刻、ディックに対して魔法を使おうとしたことなどまるで覚えていないかのように。  しかしディックは、そんなフェイリアの様子に漠然とした不安を感じていた。  フェイリアの心の奥底には、彼女自身も気付いていない闇の部分がある――と。  先刻までのフェイリア、魔物と闘っている時のフェイリア、あれこそ闇に支配された彼女なのだ。  いや、そういった心の中の闇は誰でも持っている。  しかし…  フェイリアの心の中の闇は、彼女の魔力と同様、比類ない強大なものに違いなかった。  フェイリアは、自分の中の闇に気付いていないのだろうか。  もしかしたら、その存在を知りながら、敢えて利用しようとしているのではないか。  両親の復讐のために――  本当にそうだとしたら、それは非常に危険な賭けだ、とディックは危惧する。  考えることに集中するあまり、彼は自分がいつの間にか立ち止まっていたことに気付かなかった。  フェイリアが数歩進んだところで振り返る。  夕日に照らされた長い金髪が風になびき、それはまるで燃え上がる炎のように美しかった。 「…どうかしたの?」 「いや…、何でもない。」  フェイリアは訝げにディックを見つめている。  ディックは何となく視線を逸らした。 「兄さ…いや、ディケイド…」 「ん…?」  ディックは、おやと思う。  一緒に暮らすようになってから、フェイリアが彼を名前で呼んだことなどほとんどない。 「そんなに心配しないで。私は死なないわ、きっとここに帰ってくる」  フェイリアの言葉に気負いは感じられない。  しかし、その瞳には強い意志が秘められている。 「私…あなたのことが好きよ。たまに、夢見ることがある。あなたと結婚して、子供を産んで…幸せな家庭を築くの」  正直、そんな生活に憧れる。  だけど  だけど… 「でもね、私にはまだ、やらなければならないことがあるの」 「…ああ」  ディックは小さくうなずいた。  もう、彼女を止めることはできない。  だとしたら、彼にできることは待つだけだ。  ディックは、彼女を信じることにした。  この、美しい金髪の少女、愛しいフェイリア・ルゥ・ティーナを。 * * * (ええ…と、それじゃあ…フェイリア・ルゥは…えぇえっ?)  混乱した頭で、奈子は考える。  訊きたいことはいくらでもあった。  話を終えたフェイリアは、静かに目を伏せている。 「あんた…聖跡へ行ったことがあるのっ?」  いまの話は、もう何年も前のことだ。  フェイリアが聖跡へ行くために村を出たのなら、とっくに…。  なんという偶然だろう。  聖跡への転移に失敗して、そこで聖跡へ行ったことがある人間に出会うとは。  いや、もしかすると偶然ではないのかもしれない。  転移魔法の作用は、それくらい不安定なものだ。  それにしても…あれ?  ちょっと待てよ…? (聖跡の中に入って、生きて還った者はいないんじゃなかったっけ?)  少なくとも、世間の常識ではそうなっているはず。  だとしたら、これは大変なことだ。 「実を言うと、昼間の連中は野盗なんかじゃないわ。そのフリをしていただけ。最初から私が狙いよ」  不意にフェイリアが口を開いた。 「私が、聖跡から生還した数少ない人間の一人だから――」  奈子は絶句する。  やはりそうだったのだ。  王国時代の強大な魔法技術の秘密を求めて、聖跡へと赴いた魔術師――。  いったい、フェイリア・ルゥはそこで何を見たのだろう。 「最近はどこの国も、王国時代の遺跡の発掘に力を入れているわ。またあちこちで戦争が始まっているから、他国を凌駕する力が必要なのよ」  なるほど、それで聖跡の秘密を知るフェイリアが狙われたのか…奈子はうなずく。 「最近、千年近くも行方がわからなかったレイナ・ディの剣が見つかったという噂もあるしね」 「へ、へぇ…」  その言葉は不意打ちだった。  奈子は声が裏返りそうになるのを必死にこらえて平静を装ったが、それでも冷や汗を隠しきれない。  竜騎士レイナ・ディの剣――通称、無銘の剣は、いま奈子が持っている。  だけどそれを人に知られるわけにはいかない。  ソレアやファージに釘を刺されている。  王国時代の竜騎士の剣、それは計り知れない価値を持つ。  その存在を他人に知られたら、いろいろとやっかいなことになるのは明らかだ。  奈子がレイナの剣を持っていることを知っているのは、いまのところソレアとファージ、そしてマイカラス国王ハルティ・ウェルをはじめとする数人だけだった。 「レ、レイナの剣のことはいいとして…、その…フェイリアは聖跡の中に…?」  奈子は、話題をレイナの剣から聖跡に戻そうとした。  聖跡の話に興味があったのも事実だ。 「もちろん行ったわ。聖跡こそ、王国時代の最大の力が封印されている遺跡ですもの」 「そ…それって大変なことじゃない!」  奈子は興奮して叫ぶ。 「でも、そんな大変な話をどうしてアタシに? 先刻初めて会ったのに」  本当なら、あまり人に知られてはいけないことではないのか?  事実、昼間の男たちに襲われたのもそのことが原因なのだろう。 「それはね…」  フェイリアが目をすぅっと細める。  口元に、かすかな笑みを浮かべて。 「ナコ・ウェル。あなた、何もわけが分からずに殺されるのは嫌でしょう?」 「…え?」  奈子には、フェイリアが何を言わんとしているのかわからなかった。  でも、なんだかすごく物騒なことを言われたような気が…?  奈子の顔に、緊張の色が浮かぶ。 「あ、あの…?」  含みのある笑みを浮かべているフェイリアに、一瞬殺気を感じたのは気のせいだったろうか?  フェイリアがゆっくりと立ち上がる。  傍らに置いてあった剣を手に。  反射的に奈子も立ち上がり、そして、気が付いた。  そこにいるのが、彼女たち二人だけではないということに。  周囲の森のそこかしこから、人の気配を感じる。 「これは…?」 「駄目ね、あなたちょっと鈍いわよ」  狼狽して周囲を見回す奈子に向かって、フェイリアは言う。  本当に、どうして気付かなかったのだろう。  物音こそほとんどしないが、いまはこれほどはっきりと、多数の人間の存在を感じるというのに。  いままでフェイリアの話に気を取られていたためだろう。  気付かないうちに、取り囲まれていたのだ。 「こそこそしてないで、話があるなら出てきたらどう?」  フェイリアの言葉は、周囲の森に向けられたものだ。  その言葉に応えるように、武装した男たちが姿を現した。  五人や十人ではない。  ざっと見ただけでも四〜五十人はいる。 「これが、昼間の連中の本隊よ。こりない奴らね」  見るからに追い剥ぎかなにかのようだった昼間の男たちと違い、今度の連中はもっと統制のとれた、軍人のようだった。  だとすると、昼間のあれはカモフラージュなのだろう。 「私が何故狙われているのかもわからないのに、戦いに巻き込まれるなんて嫌でしょう? だから、あなたには話したの」  ああそうか、先刻の台詞はそういう意味だったのか、と少し安心する。  奈子は一瞬、フェイリアが敵になるのではないかと感じたのだ。  それにしても…  これはかなり、まずい状況ではないだろうか。  四〜五十人の兵士たちが二人を幾重にも取り囲み、徐々にその包囲の輪を狭めてくる。  困惑した様子の奈子をよそに、フェイリアは静かな笑みすら浮かべてその様子を見つめていた。  一人の男が前に進み出てくる。  周囲の兵士の様子や身に付けている物から推測するに、かなりの地位の人物らしい。  どこかの正騎士だろうか。  年齢は二十五〜六歳くらいだろう。  見たところ職業軍人にしては背は人並みだし、体格はむしろ痩せている。  しかし、その目つきは獲物を狙う猛禽のように鋭い。 「初めまして、フェイリア・ルゥ」  よく通る声で、男は言った (あ、結構いい声…)  奈子が緊張感のない感想を洩らす。 「私は、サイファー・ディン。昼間は私の部下が失礼をしました。改めてお願いですが、我々に同行してはいただけませんか? 少々、お話を伺いたいのですが」  サイファーと名乗ったこの男、口調は丁寧だが表情を見ればその本心は火を見るより明らかだった。  否と言えば力尽くでも――である。 「話? 私は、あなた方が知りたいようなことなんて何も知らないわ」 「そんなことはないでしょう」  フェイリアがきっぱりとはねつけても、サイファーは意に介する様子もない。 「聖跡に隠された秘密なんて私は知らないし、知っていても言うと思って?」  フェイリアの口調には、どうも相手を挑発しているような響きがある。  奈子ははらはらしながら二人のやりとりを見ていた。 「素直に話していただければ、余計な手間はかからないし、お互い怪我もせずに済むんですがね。もちろん、相応の謝礼もしますし?」  ふん、と鼻を鳴らし、相手を小馬鹿にしたような笑みを浮かべるフェイリア。  二人の間に緊張が高まってゆく。  奈子は、風が頬をなでるのを感じた。  どことなく、不自然な風だ。  フェイリアを中心に渦を巻いている。  口元には笑みを浮かべながらも、サイファーを睨み付けているフェイリアの横顔を見て、奈子ははっと気付いた。  周囲に、何かぴりぴりとした『力』の存在を感じる。  まるで、そこだけ空気の密度が高くなっているような。  この雰囲気…知ってる。  精霊魔法だ。  フェイリアが、魔力の源となる精霊を召喚しているのだ。  些細な魔法ならこんな準備は必要ない。  自然界に普通に存在している精霊の力だけで事は足りる。  それ以上の数の精霊を召喚することによって大きな力を行使する…『四大精霊の魔法』と呼ばれている珍しい能力だった。 「フェイリア…?」  不安げな奈子に向かって、フェイリアはささやいた。 「ねぇ、ナコ・ウェル? もう一度私を助けてくれる気はある?」 「…五十対二なんて、無茶だと思う」  奈子は素直な意見を述べた。  奈子一人では十人を相手にするのも無理だろう。 「いいえ、その男だけでいいわ。残りは私がやるから。この中で手強いのは彼だけよ」  フェイリアの口調には、あまり緊張感は感じられない。  しかし奈子としては、その意見に素直に賛成はできなかった。 「いちばん強い奴の相手をアタシにやらせるのっ?」 「じゃあ、私の代わりに、その他大勢をまとめて相手にする方がいい?」  フェイリアがからかうように言う。  これでは、究極の選択だ。  奈子は第三の選択を提案してみた。 「…大人しくついていくっていう選択肢はないの?」  無論、それに対するフェイリアの答えは予想していたとおりのものだったが。 「それは無理ね。聞きたいことを聞き出した後は、生かしてはおかないでしょう。秘密は独り占めしたいでしょうから。それでもよければ?」 「…つまり、やるしかないってこと?」  奈子は、腰の短剣の柄に手をかけながら言った。 「そうね。迷惑かけちゃうわね」  奈子にとっては悲しいことに、その台詞は全然すまなそうに聞こえなかった。  フェイリアはむしろ状況を楽しんでいるようにすら見える。  そして、それまで手に持っていた長剣を鞘から抜いた。  それは鋼というよりはまるで磁器のような、純白の刃だった。 「どうやら、交渉決裂のようだな。仕方ないが、力づくで連行させてもらう」  サイファーも腰の剣に手をかけた。  それを合図とするかのように、周囲の兵士たちもそろって抜刀する。  奈子は、フェイリアとサイファーの間に入った。  結局はフェイリアの言うとおりにするしかないらしい。  徒手格闘を主とする奈子より、魔術師であるフェイリアの方が大勢を相手にするには向いているのだ。  フェイリアが強力な魔法を用いるためにはこの男が邪魔だというのなら、奈子が抑えておくしかない。  サイファーは姿勢を低くして、右手を剣の柄にかけている。  それはまるで… (居合い?)  まさか…と思いつつも、左手はいつでも短剣を抜けるようにしておく。  これまで見たことはないというだけで、この世界にも抜刀術がないとは言い切れない。  突然、サイファーが左手を大きく振った。  その手の中から、青い光が三本、矢のように飛び出す。 (避けきれない…!)  奈子は一瞬も躊躇しなかった。  放射状に放たれた三本の光の矢のうち、直撃するのは真ん中の一本だけだ。  あとの二本はそれぞれ左右をかすめる軌道にある。  それで多少の傷を負ったとしても、この際無視するしかない。  真っ直ぐ奈子の胸をめがけて放たれた光の進路を塞ぐように、奈子は右腕で胸をブロックする。  奈子はこの世界では『異質な』存在であり、それ故に魔法に対する耐性が一般人よりも高い。  それほどの魔法でなければ、意識を集中することでダメージをかなり軽減できるはずだった。  しかし、  光の矢を腕で受け止めた瞬間、奈子は短い悲鳴を上げた。  腕に、小さな短剣が突き刺さっている。 (やられたっ!)  単なる魔法ではなかった。  短剣を、魔法のエネルギーで包み込んで投げたのだ。  魔法と思って防御すれば短剣で傷を負うし、短剣のつもりで盾や武器で受け止めれば魔法を防ぎきれない。  顔や喉にでも命中しない限り、この攻撃そのものによるダメージなど致命的なものではないだろうが、相手に隙を作るには十分だった。  奈子の一瞬の驚愕の隙をついて、サイファーが間合いを詰める。  剣の間合いに入った瞬間、居合いの達人にも匹敵する速度で剣を抜いた。  硬い金属がぶつかり合う音が響く。  奈子が左手で抜いた短剣が、胴を薙ごうとしたサイファーの剣を受け止めている。  ぎりぎり、剣が奈子に触れる数ミリ手前だった。  間に合ったのは奇跡に近い…と自分でも思う。  その攻撃があることを予測していなかったら、今頃まっぷたつだった。  しかし、サイファーの攻撃はそれで終わらなかった。  なにも持っていなかったはずの左手に、突然剣が現れる。  奈子は後ろに飛び退く。  その肩に、焼けるような痛みが走った。  血飛沫が飛び散る。  その後を追うように、また光をまとった短剣が放たれる。  たたみかける攻撃にバランスを崩しながらも、奈子はサイドステップで短剣をかわす。  しかし、その動きを読んでいたかのように、青い、灼熱の光線が奈子の腹部を直撃した。  その衝撃で奈子の身体は数メートル吹き飛ばされ、地面に転がる。 (まずい…!)  ダメージは小さくなかった。  それにしても、なんという動きだろう。  奈子もスピードには自信があったが、この相手は桁違いだ。  この動きで立て続けにこんな多彩な攻撃を繰り出されたら、かわしきれるものではない。  相手に先手をとられたのが痛かった。  動きで上回る敵にこれだけ矢継ぎ早に攻撃されては、一度防戦にまわると反撃の糸口がつかめない。 (まずい…)  サイファーが剣を構える。 (とどめに来る気だ…)  奈子はまだ、地面にうずくまっている。  かすり傷とはいえないが、ただちに命に関わるというほどの怪我でもない。  速度を重視するために、一撃の威力を犠牲にしているのだろう。  しかし、それでもすぐには立てなかった。  呼吸を整える時間が欲しい。  もちろん相手は、そんな余裕を与える気など毛頭ない。  サイファーが飛び込んでくる。  両手に剣を構えている。  右か、左か。  たとえそれがわかったところで、今の奈子にはそれをかわす力はない。 (このままじゃ…)  殺される!  心臓が、きゅうっと締め付けられるような感覚だ。  それでいてなお、血が騒いでいる。  命ぎりぎりの緊張感に、興奮している自分がいる。  目にも止まらぬはずのサイファーの動きが、ひどくゆっくりと見えた。  身体は動かなくとも、考える時間だけはあった。  何かできないか…。  立てなくても、あの攻撃をかわせなくても。  手くらいは動かせないか。  手くらいは…。 「…!」  短い悲鳴が上がった。  奈子ではない、男の声だ。  サイファーの手から剣が落ちる。  剣が、サイファーの肩を貫いていた。  肩当てと胸当てをつなぐ、金属製の留め金を砕いて。  厚い鋼の肩当てごと。  奈子の手の中に、剣があった。  その刃は向こうが透けて見えるほどに薄く、それ故に、並の剣が刃こぼれするほど硬い竜の鱗ですらも、やすやすと切り裂く。  通称、無銘の剣――  千年前の時代の伝説の竜騎士、レイナ・ディ・デューンの剣。  数ある竜騎士の魔剣の中でも、最強と謳われる剣。  奈子はひょんなことから、この剣を受け継ぐこととなった。  ファージやソレアから、人前で使ってはいけないと言われていたが、こうするしかない。  普段は、魔法のカードの中に封じてある剣を使うしか…。  一見、剣を持っていないと見せかけて、次の瞬間には魔法で剣を呼び出す――先ほどサイファーが用いたのと同じ戦法だ。  一瞬の沈黙の後、サイファーは信じられないといった表情で肩を押さえて飛び退く。  指の隙間から、血が流れだしていた。 「油断した…」  口元に、自嘲気味の笑みが浮かぶ。 「はっ!」  大きく息を吐いて奈子は立ち上がった。  大丈夫…意識を集中すればまだ動ける。  サイファーに向かって剣を構えて、そのときはじめて周囲が妙に明るいことに気付いた。  先刻までの、ささやかな魔法の明かりと月明かりだけではない。  森が、炎に包まれていた。  奈子とフェイリアを取り囲んでいた数十人の兵士たちが、炎に巻かれている。  中心に、フェイリアが立っている。  紅蓮の炎に照らされて、その美しい金髪もまた燃えさかる炎のように見えた。  フェイリアが手にした剣をかざすと、燃えさかる炎はまるで操られるかのように、生き物のように兵たちを飲み込む。 (すっごい…今度から、エイカって呼んでやろ)  その様子を横目で一瞥した奈子は、ふと、以前由維に勧められて読んだファンタジー小説のヒロインを思いだした。  とにかく、これで… 「形勢逆転?」  奈子はにやっと笑うと、サイファーに斬りかかった。  サイファーは剣でそれを受け止めようとしたが、なんの抵抗もなくその刃を切り落とされて驚愕する。  地面に転がって剣を避け、牽制に光の短剣を投げて奈子から距離をとる。 「くぅ…」  サイファーは、腕に鳥肌が立つのを感じた。  ほんの一瞬のこととはいえ、近頃これほどの恐怖を感じたことはない。  彼の状況判断は一瞬だった。  自分は手傷を負っているし、武器も尽きた。  部下も、かなりの数が炎に巻かれ、怯えて戦意を失っている者も少なくない。 「退けっ! 退却だ!」  その声を待っていたかのように、兵士たちがばらばらと逃げ出す。  サイファーはそれを見ると、最後の置きみやげとばかりにもう一度魔法を放った。  今度は奈子も余裕を持って、剣でそれを受け止める。  レイナの剣は切れ味が鋭いだけではない。  王国時代の最高の魔剣は、およそどんな魔法攻撃もその刃で受け止め、無効にしてしまえるように思えた。  しかし奈子は魔法の強い光に目が眩んでしまい、ぎゅっと瞼を閉じる。  一瞬後、奈子が目を開けたときには、サイファーの姿は見えなくなっていた。 「ふぅ…」  大きく息をついて地面に座り込んだ奈子は、フェイリアに気付かれないうちにと剣をしまう。  そのときになってやっと、受けた傷の痛みを思い出した。 「い…痛ったぁ…」  闘っている最中は精神を集中していることと、アドレナリンの濃度が高まるために忘れているのだ。 (くぅぅ…ちょっち、マジ、きついわ…コレ)  肩と腹の傷を押さえて、奈子はうずくまる。  腕の傷だって、まだ出血している。 (早いとこ、手当てした方がいいな…)  いや、その前に。  フェイリアは?  涙を浮かべた目で、奈子はフェイリアを探す。  彼女は少し離れたところに立っていた。  剣を一振りすると、燃えさかっていた炎はそれに応えるようにたちまちのうちに消える。  そうして、フェイリアは奈子の方を振り向いた。  かすかな笑みを浮かべて。 「あなたって、思っていたよりずっと強いわね。ただのアクセサリかと思っていたけど、その腕輪…ひょっとして本物?」  フェイリアが言っているのは、奈子が左手首にはめている銀の腕輪のことだ。  それは、マイカラス王国の紋章が刻まれた、騎士の証。  マイカラスに限らずどこの国でも、それが奈子のような成人もしていない娘に与えられることは希有だ。  ただの女の子のアクセサリだと思ったフェイリアの判断は妥当だろう。 「本物だよ。一応…ね」  傷の痛みをこらえながら、奈子は無理に笑みを浮かべる。 「…フェイリアこそ、すごい魔法じゃない。精霊魔法でこれだけのことができる魔術師なんて…」  滅多にいない。  これなら、ファージにも匹敵するかもしれない。  しかも精霊魔法で。  ファージの力は極めて強力なものだが、もともと精霊魔法よりも戦闘向きとされる上位魔法を使うことが多い。  精霊魔法では威力不足が否めないからだ。  上位魔法で、しかも魔力の不足をカードで補うことも多いのだから、ファージの力が強いのは当然のこと。  精霊魔法でそれに匹敵する力を持つとなると、フェイリアの力はとんでもないことになる。  …あ、そういえば知り合いに一人いたっけなぁ。  強力な、精霊魔法の使い手が。  奈子はふと、あの赤毛の傭兵のことを思い出す。  あれ、待てよ…。  そのときなにか、奈子の記憶に引っかかることがあった。  ――なんだっけ? 「天と地の精霊、力を司る者たちよ――  我が呼びかけに応え、我の元に集え」  奈子が記憶の引き出しを探っていると、フェイリアが再び呪文を唱え始めた。  魔力の源となる精霊が、フェイリアの周囲に集まりだす。 「フェイリア…?」  奈子は怪訝そうな表情をする。  まだ、敵が残っているのだろうか?  しかし、奈子はなんの気配も感じないし、フェイリアも周囲に注意を払っている様子はない。  彼女の目は、真っ直ぐに奈子を見ていた。  ザザ…  自然にはあり得ない密度まで精霊の力が高まり、周囲の樹々の梢がざわめく。  フェイリアが、これまでにない鋭い目をしていた。 「ナコ・ウェル、あなたの――無銘の剣を譲ってもらえないかしら?」  殺気のこもった笑みを浮かべて、フェイリアは言った。  やはり、見られていたのか――  奈子の額から汗が噴き出す。  ほんの一瞬のことだったのに、あの剣の正体を見破られてしまうとは…。 「じ、冗談でしょう?」  奈子は戸惑いがちに言う。  この剣は、簡単に人に譲れるようなものではない。  そのくらい、フェイリアにだってわかっているはずだった。  それでいてなお、剣を譲れという。  それはつまり… 「何故あなたが無銘の剣を持っているのか…そんなことはこの際どうでもいい。私にはあの剣が必要なのよ。ずっと探していたわ。何年も、何年も――」 「だからって、あげられるわけがないじゃない。これはアタシにとっても大切な物だもの」  傷の痛みに耐えながら、奈子は身体を起こした。  このまま、最悪の事態に突入する可能性も否定できない。  すぐ、動けるようにしておく必要があった。 「あなたの都合なんて、知ったことではないわ。剣を渡しなさい。死にたくなければ…ね」  フェイリアはまったく動いていないのに、奈子は何かが顔に触れたような気がした。  手を触れてみると、頬が切られて血が流れている。 「フェイリア!」  不可視の『力』の動きを感じた。  フェイリアの周囲から、殺気をはらんだ魔力が放たれる。  精一杯の力で、奈子は跳んだ。  一瞬前まで奈子が立っていた地面から、炎が吹き上がる。  風が渦を巻き、炎を煽る。  その風はまた、目に見えない無数の刃と化して奈子の身体を切り刻んだ。 「…!」  一瞬、フェイリアと目が合う。  間違いない。  殺す気だ。  なんの躊躇もなく。 (そんな…)  傷ついた身体にむち打って、奈子は走り出した。  この場は、とりあえず逃げた方がいい。  足なら奈子の方がずっと速いのだから。  背後から、かすかな声が聞こえた。 「この森の中で、私から逃げられると思って? 苦しみが長くなるだけよ」  それでも、奈子は走るしかなかった。  森の中を走り続けた。  怪我のためか、気が急くわりにはなかなか進まない。  地面が妙に柔らかく、足が取られるようだ。  空気がなんとなく濃密で、身体にまとわりつくように感じる。  それはまるで、水の中で走っているような。  それでも逃げ続ける。  フェイリアが放った魔法の矢が、機銃掃射のように追ってくる。  横に跳んでそれをかわそうとした奈子は、不意にバランスを崩して倒れた。  なにかに足首をつかまれたようだった。  見ると、そこにかたまって生えていたシダに似た植物が、足にからみついている。  その草を取ろうとして、奈子は小さく悲鳴を上げた。  ただの草にしか見えないそれが、まるで意志を持った手のように奈子を捕まえているのだと気付いたから。  恐怖に駆られて、力任せにそのシダを引きちぎる。  立ち上がるために地面に手をつくと、今度はその手に周囲の草がからみついてきた。 「ひっ!」  これではまるでオカルト映画だ。  顔を引きつらせながら立ち上がった奈子は、大きな樹々が目の前に密集して進路を塞いでいることに気付いた。  ほんの一瞬前まで、そんなところに樹など生えていなかったはずなのに。 「…な、なによ! これ!」  奈子は方向を変えて走り出した。  周囲の樹はざわざわと枝を揺らし、奈子の進路を妨害する。  棘の生えた樹の枝が、顔や手を傷つける。  奈子は、それでも足を止めなかった。  本人は意識していないが、もしかしたら走りながら悲鳴を上げていたかもしれない。 (これが…)  樹々の間に、わずかな隙間を見いだして走り続ける。 (これが…)  走ってさえいれば、フェイリアは追いつけない。  そのことだけを唯一の救いとして。 (これが、精霊魔法の力なのっ?)  上位魔法は普通、魔力を物理的なエネルギーに変換して目標を攻撃する。  それは単純明快で、直接的な効果をもたらす。  同じことを精霊魔法でやろうとしても、フェイリアのように精霊を異世界から召喚しない限り、絶対的なエネルギー量が足りない。  それが、精霊魔法よりも上位魔法が戦闘に向いている理由であり、それ故に『上位』魔法なのだ。  だが、いま奈子を襲っているこれは、まるで次元の違うものだった。  単純なエネルギーの比較では、確かに上位魔法が上だろう。  しかしこれは、まったく別の――力だった。  樹も、草も、土も、そして空気も。  この森のすべてが、フェイリアに味方している。  この森のすべてが、奈子の敵だった。  無機物からも、奈子に対する敵意を感じる。  フェイリアの意志がのりうつったかのように。 (こんなの…)  奈子は泣きながら走る。  なにがあっても、足を止めることはできない。  この森から逃げなければ…ただそれだけを思いながら。  ここにいる限り、世界が奈子の敵なのだ。 (こんなの、勝てるはずがない…!)  不意に、樹上から大きな黒い影が飛びかかってきた。  力まかせに奈子を地面に引きずり倒す。  それは、豹によく似た獣。  左肩に鈍い痛みが走る。  奈子に覆い被さった獣は、奈子の肩に牙を突き立てたまま、首を大きく左右に振った。  牙が深く喰い込み、肉が食いちぎられそうになる。  悲鳴はもう声にならなかった。  なんとか押しのけようとしても、力で野生の獣にかなうはずもない。  ゴリッ!  肉食獣の強靱な顎が、奈子の鎖骨を噛み砕いた。 (う…わぁぁぁっっっ!)  奈子は無我夢中で、右手の人差し指と中指をそろえて、獣の目に突き入れた。  ぐちゃ…血の混じった生温かい粘液があふれ出す。  甲高い叫びを上げて、口を離す獣。  それでも奈子は指を抜かない。  指を曲げて、中の組織を掻き出すように手首をひねる。  上になったまま暴れる獣の長い爪が、奈子の服と皮膚を引き裂く。 (…剣よ!)  指を引き抜くと同時に、強く念じる。  奈子の手の中に、剣が現れた。  獣の、断末魔の咆哮が響く。  それもすぐに止み、森の中は一瞬静寂に包まれた。  ずるっ…死体となった獣の下から奈子が這い出し、よろよろと立ち上がった。  自分が殺した獣を見下ろす。  奈子の手も、顔も、そして身体中、べっとりと血で汚れていた。  獣も、目の周りと首の周りが真っ赤に染まっている。  どこまでが自分の血で、どれが返り血なのかもわからない。 (どっちでも同じか…)  獣の血と奈子の血が混じり合っている。 「…アタシも、獣だよな…こんなの、年頃の女の子のカッコじゃないよ…。は…はは…」  いつだったか、望んだことがある。  獣になりたい、と。  血に飢えた、一頭の獣に。  奈子の闘いには、人の心など邪魔でしかなかった。 「はは…は…は…」  乾いた笑い声を上げながらよろよろと歩きだした奈子は、まだ、手に血塗れの剣を握ったままなのを思い出す。 (…そう…だ)  無銘の剣の力を借りれば、フェイリアにだって勝てるはずだ。  こんな、傷だらけになって逃げ回らなくたっていいんだ。  ――だけど、レイナの剣の力は強すぎて、アタシには加減ができない…。 (だったら…いっそのこと…)  ――殺してしまおうか。  そんな考えが当たり前のことのように浮かぶ自分にショックを受ける。  ――冗談じゃない。  そんなこと…できるわけがない。 (だけど…)  だけどフェイリアは、自分を殺そうとしている。  正当防衛ではないか?  それは人を殺す理由にはならないのか? (いや、ダメだ、そんなこと…)  きっと…  たとえ誰が許しても、  たとえ由維が許してくれても、  きっと、自分を許せなくなる。  奈子は剣をしまった。  フェイリアに対して、決してこれを抜かないと誓って。  そして、またよろよろと歩き出した。  何処をどう歩いたのかも定かではない。  ただ、進まなければならないという衝動に従って歩き続ける。  いつの間にか、森は静まり返っていた。  もう樹も、草も、奈子の歩みを妨げない。  朦朧としていた奈子がそのことに気付いたとき、  そこから先に道はなかった。  深い谷底へつづく断崖絶壁。  これ以上進むことはできない。 (やれやれ…)  奈子は絶望的な気持ちで谷底を見下ろした。  月明かりではとても底までは見えない。  ただ、足元に真っ暗な空間が広がっているだけのように見える。 (…罠だったのか…)  森の樹々がどんなに邪魔をしても、必ずどこかに抜け道があった。  最初から、奈子を行き止まりに誘い込んでいたのだ。  案の定――  振り返ると、そこにフェイリアがいた。  どうりで、いつの間にか追ってくる姿が見えなくなったはずだ。  彼女はここで待っているだけでよかったのだ。 「ずいぶん遅かったのね。待ちくたびれたわ」  フェイリアはこれ見よがしにあくびなどしてみせる。 「もう逃げられないわ。道はないし、第一、その力も残っていないでしょう。 どう、気は変わらない?」  奈子は黙ってフェイリアを見つめた。  これからどうしたらいいのかわからないが、剣を渡してはいけないことだけは確かだった。 「それにしても、ひどい格好ね」  傷だらけ、血塗れの奈子を見て、フェイリアは笑う。 「まだ、手当てすれば助かるわよ? いまなら特別サービス、私が傷跡も残らないように治してあげる」 「…ふん」 「それが答え? そんなに死にたいんだ?」  フェイリアの周囲に、また精霊の力が集まりはじめる。  奈子は意識のもうろうとした表情で、しかし、かすかな笑みを浮かべていた。 「…あんたの手は借りないよ。まだ、逃げ道はある…もう走る必要もないんだ」  一瞬怪訝そうな表情をしたフェイリアを無視して、奈子は廻れ右をする。  そして、そのまま崖から身を躍らせた。 「…ばかなっ!」  フェイリアは慌てて崖に駆け寄る。  下は闇に包まれ、奈子の姿は見えない。 「死ぬ気? 諦めたの…?」  フェイリアは別に気にしなかった。  それならそれで、あとで下に降りて剣を回収すればいい。 「どうせ結果は同じなんだから、さっさと剣を渡せばよかったのよ。そうすれば命くらいは助けてあげたわ」  つまらなそうにつぶやいたとき、崖のはるか下の方で一瞬なにかが光った。  それを見たフェイリアの表情が曇る。 (気配が…消えた?)  まさか、転移魔法?  そんなはずはない。  ナコ・ウェルが転移魔法を使えることは、先刻の話でわかっていた。  だから、このあたり一帯には転移などできないように結界を張っておいたのに――?  確かにフェイリアは、空間転移の魔法を封じるための結界を張っていた。  しかし当然のことながら、異なる次元への転移魔法などというものが存在するとは思いもよらなかった。 * * *  奈子の家の近くにある、奏珠別公園の林の中――  一人の少女が、雪の上に大の字に倒れていた。  周囲の雪が、朱に染まっている。  もっとも、いまは深夜だからそれを見つけて騒ぐ人間もいない。  奈子は、空を見上げて大きな溜息をついた。  今夜は月が明るくて、星はあまり見えない。  雪の上に寝ているので背中が冷たい。  それとも、失血のために寒く感じるのだろうか。 (アタシってば、向こうに行くたびに大怪我してるよな…)  奈子がいま倒れている場所を、朝になって誰かが見つけたら大騒ぎになるだろう。  半端な出血ではない。  それでも、ファージにもらった治癒の魔法のカードを使えば、命に関わるというほどではなさそうだ。  度重なる負傷の結果、そのへんの加減はなんとなくわかるようになっていた。  だからといって、傷の痛みがやわらぐわけでもないのだが。  しかしその痛みのおかげで、奈子は意識を保っていられる。  こんなところで眠ってしまったら、朝までに凍死するのは明らかだった。  傷の痛みなんて、いくらでも我慢できる。  それよりも――  いまは、心が痛かった。  涙が一筋、頬を伝う。 (どうして…)  どうして、フェイリアと争わなければならないのか。  竜騎士の剣は、確かに貴重な品だろう。  それにしても、ああも簡単に人の心を変えてしまうのか――。 (いや…待てよ…)  そういえば、妙なことを言っていたっけ。 『私には、無銘の剣が必要なのよ。ずっと探していたわ。何年も、何年も』  そうだ、そんなことを言っていた。  フェイリアは、両親の仇を討つために『力』を欲していたのだ。  レイナの剣が、彼女の求めていた力だというのだろうか。  家に帰った奈子は、まず風呂場へ行って湯船に熱い湯を張った。  血で汚れ、ぼろぼろになった服を脱いで鏡の前に立つ。  身体じゅう、傷だらけだ。 (アタシ…)  魔法で傷はふさいだとはいえ、湯船に身を沈めると熱い湯は傷にしみた。 (何やってるんだろう、アタシ…)  涙があふれてきた。  傷の痛みのためではない。  涙を隠すように、奈子は頭まで湯に潜った。 (アタシ、なんのために闘ってるんだろう。こんなに、傷だらけになって…)  何故、憎くもない相手と傷つけあわなければならないのだろう。  どうして、格闘技なんてやっているんだろう――。  空手を習いはじめたきっかけは、もう憶えていない。  おそらく、特別な理由があったわけでもないのだろう。  小さい頃から、身体を動かすことは好きだった。 (別に、格闘技でなくたっていいンじゃない…?)  陸上だって、球技だって、大抵のスポーツは得意だ。  空手なんて、やめちゃえばいい。  闘う技術を身に付けているから、こんなことになる。 (でも…)  そんなこと、できっこないのはわかっている。  どうして格闘技が好きなのかも、本当はわかっている。  勝つことが、快感だから。  自分が、他人より優れていると実感すること、それは人にとって悦びだ。  それには球技などよりも、格闘技の方がいい。  アタシに倒されて足元にはいつくばる敵の姿は、優越感をくすぐる。  だから格闘技が好き。  でも、そのことを認めるのは少し辛い。  自分が、そんなヤな人間だなんて。  それでも、人に負けるのは嫌い。  フェイリアに一方的にやられてことも、すごく悔しい。  自分が人よりも劣る人間だなんて思いたくない。  別に、自分が誰よりも強いなんて自惚れてるわけじゃないけど、でもやっぱり負けることは悔しい。  フェイリアにだって、仕返ししてやりたい。  彼女のこと、憎いわけじゃない。  でも、負けるのは嫌い…。  ややのぼせながら風呂から上がった奈子は、バスタオルを巻いただけの姿で冷蔵庫からスポーツドリンクの缶を取り出し、自分の部屋に戻った。  裸のまま、ベッドにごろりと横になる。 (なんだかなぁ…)  この倦怠感はなんだろう。  由維がいれば、少しは気も晴れるのに。  一、二年生はまだ春休みではないから、そう毎日来るわけにもいかないのだろう。 (だめだな、アタシ…)  一人でいると、すぐ落ち込んでしまう。 「もう、寝ちゃお」  奈子は裸のまま、ベッドにもぐり込んだ。  体力を使い果たしているから、すぐに眠くなる。  うつらうつらとしながら、フェイリアのことを思い出していた。  レイナの剣をほしがるフェイリアの思いもわかる。  殺された両親の仇を討つため、より強い武器が必要なのだ。  しかし、何故この剣でなければならないのか。  いったい、フェイリアの仇とはなんなのだろう。  フェイリアは、聖跡から生きて還ってきたという。  それだけの力があるのなら…。    力を求めて聖跡へと旅立ったフェイリア。  そしてサイファーたちも、聖跡の秘密を求めている。  いったい、聖跡には何があるというのだろう。 (やっぱり、聖跡へ行かなきゃ…)  最初のような、単なる好奇心ではない。  聖跡へ行かなければならない。  それも、できるだけ早く…。  まるで、目に見えない誰かがそう促しているような…。  そんな気がする。  四 聖跡の番人  その大山脈は、広大な大陸のほぼ中央を南北に走っている。  山脈より西は何処までも砂漠が広がっており、人は住んでいないという。  大陸の東半分だけが、現在、人間に与えられた土地だった。  山脈の東には深い森が広がっているが、ソレアの家から持ってきた地図を見ると、その中にぽっかりと、まるで森を丸く切り取ったような荒野がある。  地図が正しいなら、その直径は二〜三百キロはあるだろうか。  そこに、人は住んでいない。  獣も、鳥もいない。  一本の樹も、雑草すら生えていない。  完全な――死の世界。  その中心に、聖跡はあるはずだった。  奈子は一人、荒野を歩いている。  地平線の向こうに、大陸を分断する中央山脈がそびえている。  他に何も見えるものはない。  墓所をこの地に築くことは、エモン・レーナの遺志だったという。  当時はこの一帯も森が広がっていたらしいが、トリニアの王都マルスティアから千キロ以上も離れたこんな辺境の地に、なぜ…?  いまとなってはその理由はわからない。  エモン・レーナの死から千五百年が過ぎ、周囲の様子はすっかり変わってしまったが、聖跡だけは変わらずにそこにあった。  周囲に広がるのは、何もない荒野。  それなりの装備をしなければ、荒野を越えて聖跡にたどり着くことも難しいだろう。  なんの目印もなく、それでいて魔力の干渉が大きいこの地では、転移の魔法も容易ではない。  それ故に、奈子もまた少しばかり狙いを外してしまっていた。  家に戻ってから数日間はおとなしく怪我の治療と体力の回復に専念していたのだが、どうしても聖跡へ行くという衝動を抑えきれなかった。  動くのに支障がない程度に回復すると、奈子はいてもたってもいられず、またこの世界へとやってきた。  しかし、ただでさえ精度の悪い奈子の転移では、地図で見ただけの場所に正確にたどり着くのは難しかったようだ。  見渡す限り土と岩だけの荒野の真ん中に放り出された奈子は、太陽の位置と彼方に見える山脈の地形から、聖跡の方角の見当をつけて歩いていた。  それにしても、どうしてここにはこんな不毛の荒野が広がっているのだろう。  別に、雨が降らなくて砂漠化したわけではない。  実際、百数十キロ離れれば豊かな森が広がっているのだ。  地面もいまは乾いているが、土の部分を少し掘れば十分な湿り気がある。  それなのに、動物も、植物も、土の中の虫もいない。  おそらく、聖跡の魔力が何らかの影響を及ぼしているのだろう。  なんの目標物もないためどれほど歩いたのかもよくわからないが、半日休まずに歩き続けて、ようやく遠くに人工の建築物を認めた。 「聖跡…あれが、エモン・レーナの墓所…」  やっと、ここまで来た。  口元がかすかにほころぶ。  もう一息、と気合いを入れ直して歩きだした奈子だったが、やがて、小さく驚きの声を上げて立ち止まった。  すぐ目の前の地面に、足跡がある。  人の足跡と、蹄の跡。  ひとつやふたつではない。  何十、何百という集団のものだ。  真っ直ぐに、聖跡へと向かっている。  まだ新しい。  足跡の輪郭が鮮明なところを見ると、まだ数時間と経ってはいないのではないだろうか。  じっと足跡を観察していた奈子は、顔を上げて聖跡を見つめた。  誰か、奈子のすぐ前に聖跡へ向かった者たちがいる。  そして――  ここには、戻ってきた足跡はひとつもなかった。  荒野の中でそこだけ、石畳の舗装がなされている。  直径百メートルちょっとの八角形の形に。  その中心部に、王国時代の神殿を思わせる様式の建物がある。  建物そのものは、それほど大きなものではない。  以前訪れたレイナ・ディの墓所がそうであったように、ここも地上よりも地下の広がりの方が大きいのかもしれない。  レイナの墓所や、他の王国時代後期の遺跡と比べると建築技術ではやや見劣りがするが、それらよりも五百年近く古い時代のものなのだから仕方がない。  しかしそれでも、王国時代の遺跡の例にもれず、石造りの建造物にはこれっぽちも風化の痕がなかった。  いまでは失われた、高度な魔法によって護られているのだ。  この墓所は、千五百年前から変わらぬ姿でここにある。  中心部の建物を目指していた奈子は、その前に倒れている人の姿を発見して駆け寄った。  建物の中からそこまで、血のあとが続いている。  それは二十五歳くらいの男で、奈子はその顔に見覚えがあった。 「サイファー・ディン…?」  間違いない。  数日前、奈子が闘ったサイファーだ。  胸から腹にかけて、大きな刀傷がある。  この前とは違い、身に付けているものには、どこかの国か騎士団のものと思われる紋章があった。  もちろん、奈子には見覚えのないものだ。  サイファーの首に、指を当ててみる。 「…!」  まだ、生きていた。  迷わず、治癒の魔法のカードを取り出して手当てをする。  ほどなくして、サイファーは目を開けた。 「…生きてる…のか? 聖跡の中に入って、生きて外に出られたとは…。国に帰ったら自慢できるな…」  ぼんやりとした様子でつぶやいたサイファーは、そのときになってようやく目の前にいる人物に気が付いた。 「き、貴様は…何故ここにいる?」  信じられないといった様子で目を見開くが、まあそれも無理はあるまい。  もっとも、それについては奈子も同様だった。 「それはこっちの台詞よ。なんでこんなところにいるの? しかも、一人じゃないんでしょう?」  サイファーはしばらく奈子を睨んでいたが、やがて口を開いた。 「聖跡に調査隊を派遣することはずいぶん前から決まっていたことだ。聖跡についての詳しい情報を得るために、フェイリア・ルゥを追っていたのだが…。あの女も…一緒なのか?」  奈子は首を左右に振って、それから、いちばん気になっていたことを訊いた。 「いったい、聖跡の中で何があったの?」 「その前に…貴様、水を持っていないか?」  奈子がスポーツドリンクのペットボトルを渡すと、上体を起こしたサイファーはうまそうに飲み干した。 「クレイン・ファ・トームさ。聖跡の番人だよ。伝説の通りだったな…」  袖で口元をぬぐいながら話し出す。 「とんでもない強さだった。竜騎士の力が失われて千年近く、俺たちは真の竜騎士の力がどれほどのものなのか、すっかり忘れていたんだな…。兵は三百人以上もいたというのに…」  いったん言葉を切って、周囲を見回した。 「…戻って来れたのは、俺だけか。他に誰もいなかったか?」 「少なくとも、アタシは見かけなかった」  奈子は首を振る。 「今度は貴様が話す番だ。貴様は何者だ? 何故ここにいる?」  一瞬返答につまった。  さて、なんと説明すればいいのだろう。 「…そういえば、名前も言ってなかったっけね。ナコ・ウェル…よ」  奈子が左手でぽりぽりと頬をかく。  その様子を見たサイファーの眉がぴくりと動いた。  奈子の左手首に気付いたのだ。 「騎士…なのか? 貴様のような小娘が?」  小娘、と言われて奈子は少しばかりむっとした顔になる。 「その小娘にやられて逃げ出したくせに、なに言ってンの! これでもマイカラスの騎士だよ、一応…ね」  サイファーは軽く首をかしげる。 「マイカラス…、大陸東端近くの小国だったか? 小勢ながらも兵の強さはなかなかのもの…と聞いた覚えがあるが、こんな小娘が騎士だと?」 「そう言うあんたは何者よ?」  二度も「小娘」呼ばわりされて、奈子は唇を尖らせる。 「見たところ、一応騎士らしいけど?」  無論、奈子は相手を挑発してそう言ったのだが、効果てきめん、サイファーはたちまち気分を害した様子だった。 「貴様、この紋章を見てわからんのかっ!」  声を荒げて、左手首の金色の腕輪を奈子の顔の前に突き出す。  それは見事な細工で、それを持つ者の地位の高さを推測するには十分だったが、当然のことながら奈子には見覚えのない紋章だ。 「知らない、見たことない」  奈子は正直に答えた。  この世界を訪れるようになってまだ半年ちょっとの奈子は、マイカラス王国周辺以外の地理にはとんと疎いのだが、そんな事情を知らないサイファーは侮辱されたと感じたようだ。 「貴様ぁっ! アルトゥル王国の赤旗将軍である、このサイファー・ディン・セイルガートを知らんのかっ?」  サイファーは叫んで立ち上がった。 「なんだ、ずいぶんと元気じゃん」  奈子は笑う。  アルトゥル王国…さすがにその名は奈子も聞き覚えがあった。  たしか、大陸南西部の広い地域を支配する大国だ。  六年前のハシュハルド侵攻には失敗したものの、今なおその勢力は大陸有数だった。 「へぇ、これがアルトゥルの騎士団の紋章か、初めて見た。あんたってえらい人なんだねぇ」 「無知な娘だな…」  サイファーは呆れたようにつぶやき、また腰を下ろす。  そうして、訝しげな顔で奈子を見た。 「何故、助けた?」 「え?」  不意の問いに、奈子は驚いたような声を出す。  一瞬、なにを言われているのか理解できなかった。 「何故、敵である俺を助けた?」 「ああ、そのこと…」  サイファーの言わんとすることはわかったが、その答えはすぐには出てこなかった。  そういえば、何故だろう…?  奈子は困ったような顔で考える。 「殺す理由がないから…じゃダメ? アタシ、人が死ぬところを見るのって嫌いなんだ」 「そんな理由があるかっ!」  サイファーが叫ぶ。  彼にしてみれば無理もないことだった。  奈子の答えはどう考えても、戦を生業とするはずの騎士の台詞ではない。  しかしそう言われても、奈子としては困ってしまう。  多分、いまのが本心だ。  目の前に死にそうな者がいて、でも、まだ助けることができる――できるならば助けてやりたいと思うのが、人として自然な感情ではないか?  奈子だって、憎い相手を殺してやりたいと思うこともある。  そうして、実際に殺した相手がいる。  しかし、サイファーには憎むだけの理由がない。  たしかに、一度は刃を交えた相手だ。  危うく、殺されるところでもあった。  それでも憎しみがわかないのは、最後には引き分けに持ち込めたためだろうか。  いずれにしても、サイファーには理解してもらえない理由らしい。 「…ダメ? じゃあ…あんたのこと生かしておいて、聖跡の様子を聞き出したかったってことでどう? これなら理由として文句なしでしょ?」  それでもサイファーは、やや釈然としない表情を見せている。 「おかしな奴だな、貴様は」  どこか呆れたような口調だ。 「うん、よく言われる」  それは仕方がない。 「それでよく騎士になれたものだ」  呆れているのか感心しているのかわからないような口調で言う。  そのまましばらく黙って、ぽつりとつぶやいた。 「貴様、この中に入るつもりか?」 「うん…そのつもり」 「人が死ぬのを見るのは嫌いといったな? だったら止めておいた方がいい」  奈子にも、言わんとすることはすぐにわかった。  三百人からの兵が中に入り、戻ってきたのは一人だけ。 「いまや、中は屠殺場同然だ」  そう、それは容易に予想できること。  それでも、奈子は立ち上がった。 「でも…行かなきゃ。行かなきゃなンない」  建物の入り口に向かって歩きかけて、ふとサイファーを振り返った。 「体力が回復したら、あとは勝手にしなよ。アタシはもう知らんし。あ、食べ物とか…いる?」 「…必要ない」 「そう、それじゃ」  聖跡の内部へと入っていく奈子を見送っていたサイファーは、その背中に向かって叫んだ。 「おい、こんなところで死ぬんじゃないぞ! 今日は助けられたけどな、次に会ったときには決着をつけてやる!」  奈子は振り返ると、軽く手を上げて笑った。 「アタシはごめんだね。すごく痛かったもの」 * * *  奈子は聖跡の中へと足を踏み入れた。  内部は真っ暗かと思ったのだが、ところどころに魔法の明かりが灯っている。  先に入ったアルトゥル王国の兵たちが残したものだろう。  黒い石で造られた通路を、慎重に進んでいく。  今のところ、なんの気配も感じなかった。  通路を照らす明かり以外、数百の兵がここを通ったことを示す痕跡もない。  遺跡の中は、死んだように静まり返っていた。  奈子は思う。  もしかすると、すごく危険なことをしているのかもしれない。  何故、来てしまったんだろう。  ソレアからも、ファージからも、固く止められていた。  想像を絶する力を秘めた、最強の竜騎士の亡霊が護る墓所。  そこへ入り込んだ者は決して生きて帰ることはできないといわれ、事実、あの手練れのサイファー・ディンですら、いとも簡単に深手を負わされた。  どうして、ここまで来てしまったんだろう。  最初は、ちょっとした好奇心だった。  遠くから見てみるだけのつもりだった。  なのに…  どうしてここまで来てしまったんだろう。  行かなければならない。  聖跡の中へ。  誰かが、心の中で叫んでいる。  行かなければならない。  真実を、見つめなければならない。  嫌だ、行きたくない。  行ってはいけない気がする。  だけど…  誰かが、心の中で叫んでいる。  お前は、行かなければならない。  何故… 「最近ちょっと…分裂症気味かもしれないぞ、アタシ」  そんな独り言をつぶやいた奈子は、ふと壁の傷に目をとめた。  他に傷ひとつない石の壁につけられた、小さな、細い、しかし深い裂け目。  それはまるで、剣でも突き立てたような…。  不思議そうにその傷を見ていた奈子は、おもむろに腰の短剣を抜くと、力いっぱい壁に突き立てた。  ギィンッ!  耳障りな音と共に、火花が散る。  しかし、壁にはかすり傷ひとつつけられない。  普通の剣の打ち込みくらい、苦もなく受け止めることができる特製の短剣が、刃こぼれしているというのに。 「エクシ・アフィ・ネ」  奈子の手の中に、今度は無銘の剣が現れた。  暗いところでは、その刃はうっすらと光を発しているようにすら見えた。  もう一度、剣を壁に突き立てる。  王国時代の魔法で護られた、鋼よりも硬い石の壁に、剣は深々と突き刺さった。  奈子の目が大きく見開かれる。  もしかしたら…ひょっとしたら…そう思ってのことだったが、試した本人が一番驚いていた。  そうっと剣を引き抜く。  あとには、以前からあったものと寸分違わない細い傷跡が残った。  間違いない。  これは、レイナの剣でつけられた傷だ。  つまり…、聖跡が建設されてから五百年も後に、レイナ・ディ・デューンはここを訪れているのだ。  中へ入って、生きて還ったものはないといわれる聖跡。  しかし、世間には知られていないだけで、生きてここから出た者は、実は意外と多いのかもしれない。  レイナ・ディがそうだったように。  フェイリア・ルゥがそうだったように。  彼女たちはいったいここで何を目にしたのだろう。  その答えは、この奥にあるはずだった。  通路は少しずつ下りになっている。  どれくらい歩いただろう。  前方に、動くものの気配があった。  生存者だろうか?  しかし、 (…っっっ!)  それを目にした奈子は、辛うじて悲鳴を飲み込んだ。  正確に言えば、驚きと恐怖のあまり悲鳴も出せなかったのである。  それは、人に似た形をしていた。  二本の足で歩き、腕も二本。  しかし明らかに、生きた人間ではない。  それは一目でわかった。  その人影には、首から上がなかった。 「…っく…く…首っ…」  奈子としては逃げ出したかった。  剣を手にして迫ってくる、新鮮な首なし死体の相手なんてまっぴらだ。  しかし、足が動かない。  それが何であるか見当はついていた。  先ほどのサイファーに似た服を着ているところを見ると、アルトゥル王国の兵の一人らしい。  左手首には騎士の腕輪までしている。 (こ、これは…)  ここで殺された侵入者の死体を魔法で操り、侵入者に対する最初の防壁として再利用しているのだろう。 「こ…、こんなものまでリサイクルすなっ! …って、そ〜ゆ〜問題じゃないか」  奈子は、両手にそれぞれ短剣を握りながら言う。  軽口を叩くほど、余裕があったわけではない。  むしろその逆だ。  冗談めかした台詞でも口にしていないと、精神の平衡を保てそうになかった。 「う…」  死体が、手にした大剣を大きく振りかぶる。 「うわあぁぁっっっ!」  ほとんど悲鳴に近い叫びを上げながら、奈子は飛びかかった。  死体が振り下ろす剣を身体をひねってかわし、その剣を持った右腕を斬りつける。  ゴトリ…  重々しい音と共に、剣と、肘のすぐ上で切断された腕が床に落ちる。  奈子はそのまま、左右の短剣で脇腹と胸を斬りつけ、さらにひかがみを狙って下段蹴りを放った。  死体は、バランスを崩して倒れる。  奈子はその上に馬乗りになって、心臓の辺りに、両手の短剣を揃えて突き刺す。  既に死んでいるはずなのに、新たな血が噴き出して奈子の顔を汚した。  奈子は短剣を引き抜き、もう一度渾身の力を込めて叩き付ける。  それでも、死体は動きを止めなかった。  残った左腕を伸ばして奈子の首をつかむと、信じられない力で締め上げる。 「ぐ、ぅぅ…」  気管がいまにも潰されそうだった。  それでも、両手の短剣でめちゃくちゃに死体を刺し続ける。  短剣を引き抜くたびに、生臭い血が飛び散る。 「く…がぁ…ぁ」  息ができず、声にならない呻き声が漏れる。  意識が、ふぅっと遠くなりそうになったその瞬間、不意に、奈子の喉を締め上げていた手から力が抜け、ぱたりと床に落ちた。  そのまま、死体は動かなくなる。 「はぁ、はぁ、はぁ…」  しばらく床に手をついて荒い呼吸を繰り返していた奈子は、やがて立ち上がると顔についた血糊を手の甲でぬぐった。 「…悪趣味なことしやがって…、クレイン・ファ・トーム…」  奈子の瞳に、危険な光が宿っていた。  薄暗い通路は、ときどき曲がりながら続いている。  どのくらい歩いただろうか、前方に、これまでよりも明るい光が見えてきた。  奈子は足を速める。  かすかに、人の叫び声も聞こえる。  それも一人ではない。  まだ、生き残りがいるのだろうか。  先刻の例もあるから、気配を殺して近付いていく。  通路の先は、大きなホールになっていた。  中に、十人くらいの剣を持った男たちがいる。  いずれも、アルトゥル軍の兵士だろう。  中央に一人、髪の長い、長身の女性。  そして、  そして…、  その周囲には、無数の死体が折り重なっていた。  流れた血で床は朱に染まり、生臭い、吐き気をもよおす血の匂いが充満している。  奈子は悲鳴を上げそうになるのを抑え、こみ上げてくる吐き気をこらえてホールの様子を観察した。  兵士たちは怯えているようだが、それでもまだ戦意を失わず、剣を構えて中央の女性を取り囲んでいる。  その女性は、淡い銀色の光をまとった長剣を手に、周囲の兵士たちを見回していた。  床に届くほどの長い髪も、うっすらと光に包まれている。 (クレイン…ファ…)  間違いない。  これこそが聖跡の番人、クレイン・ファ・トームだ。  国を裏切り、エモン・レーナを殺した罪で死刑となり、死後も聖跡に封印されて番人となることを命じられた騎士。  トリニア国王エストーラの従妹で、エモン・レーナの親友であったはずの女性。  なのに彼女がどうして裏切ったのかは、伝えられていない。  とにかく、その力はエモン・レーナをも凌ぐといわれた史上最強の竜騎士が、いま目の前にいるのだった。  貴族の娘が普段着に着るような簡素なドレスを身にまとっているが、それは手の中の剣とは妙にミスマッチだ。  口元には笑みすら浮かべている。  そうして、鋭い目で兵士たちを見つめていた。  狼を思わせる、鋭い目。  どこか無機的で、生き物の気配を感じさせない存在でありながら、その瞳にだけは強い意志の輝きがあった。  突然、兵の一人が剣を振りかぶってクレインに飛びかかる。  それを援護するように、残りの者たちが次々と魔法で攻撃する。  しかし、その魔法の炎はクレインに届く前にひとつ残らず霧散し、剣を持ったクレインの手がかすかに動いたと思ったときには、飛びかかった男の身体は両断されて床に転がっていた。 「つまらん…な」  クレインがつぶやく。 「三百人以上もいながら、歯ごたえのある奴は皆無か…。しばらくぶりの客なのだから、もう少し楽しませて欲しいものだ。ここでは他に暇つぶしがないからな」  口から出る言葉とは裏腹に、クレインは相変わらず笑みを絶やさない。  まるで、闘うこと、人を殺すことが心底楽しいといった表情で。  クレインが一歩前に出る。  威圧されるように、兵たちがじりじりと下がる。  一瞬、風が動いたように見えた。  瞬きひとつする間に、クレインの身体は五メートル以上も離れたところまで移動している。  そして、その途中にいた三人の兵士が、先ほどの男と同じように胴をまっぷたつにされて倒れていた。  残った男たちの間から、絶望の声が漏れる。  その声の方に向き直るクレイン。  常人の目には捉えられない動きで、次の瞬間にはさらに二人の命を奪っていた。  奈子は、その光景をただ黙って見ていた。  なんという動きだろう。  速さという点ではサイファーの動きも相当なものだったが、これはまるで次元が違う。  奈子は、ただ黙って見ていた。  何もできなかった。  声を出すことも、指一本動かすことも。  そこにいるのは、人間を超越した存在だった。  歯向かうことなど思いもよらない。 (冗談じゃない、こんなの…)  奈子は、廻れ右してその場から逃げ出した。  その惨劇を最期まで見届けることなどできっこない。  もう、見ていられなかった。  怖い…。  怖くて、見ていられない。  一刻も早く、この場を離れたい。  ただそれだけを思い、いつの間にか真っ暗になった通路の中をやみくもに走り続けた。  五 記憶の万華鏡  奈子は、まったく明かりのない闇の中を走り続けた。  一寸先も見えない。  まるで墨の中にいるようなもの。  どれだけ走ったのかもわからない。  闇の中を走っているわりには、不思議とつまづいたり壁にぶつかったりはしなかったが、錯乱している奈子はそのことに気付きもしない。  何も見えない。  何も聞こえない。  自分が何処にいるのかもわからない。  しかし、ふと我に返ったとき、奈子は太陽の下にいた。 (そんな…ばかな…)  はじめは、聖跡の外に出られたのかと思った。  そうではない。  目の前の光景は、聖跡の周りに広がる荒野ではない。  畑と林の間にまばらに家が建っている、どこかの村の中だった。 (そんな…?)  畑仕事をしたり、道端で談笑している人の姿も見える。  その人たちが奈子に注意をはらう様子はない。  道端に咲く花のまわりには蝶が舞っているし、空には鳥も飛んでいる。  聖跡から走って行ける距離に、こんな風景があるはずはなかった。  しばらく呆けたような表情で歩いていた奈子だったが、やがて気が付く。  道端の花を摘もうとした手は花をすり抜け、思い切って村人に話しかけてみても、向こうはこちらに気付きもしない。  これはおそらく、幻影なのだ。  さもなければ、奈子が夢を見ているのか。  この状況ではどちらでも同じようなものだが。 (なんなんだ、いったい…)  道の向こうから、金髪の小さな女の子が歩いてくる。  大きなバスケットを両手で抱えて。 (どこかで見たことがある…ような?)  奈子は首をかしげる。  少女はもちろん奈子には気付かず、すぐ横を通りすぎていく。  数秒間考えて、ふと気が付いた。  あの顔、瞳、髪の色。  間違いない、フェイリアだ。  子供の頃のフェイリア・ルゥだ。  まだ七〜八歳といったところだろう。  両手で抱えた大きなバスケットを持てあますように、ちょこちょこと歩いてゆく。  母親の言いつけで、親戚のハイダー家へ荷物を届けにいくところだ――何故か、奈子にはそれがわかった。  不意に、周囲の光景が家の中へと変わる。  フェイリアと、ハイダーのおばさんと、従兄で四歳年長のディケイド。  外は雨になっていて、強い風も吹きはじめていた。 「今日は泊まっていきなさい」とおばさんが言い、フェイリアもうなずく。  そんな光景を、奈子は見ていた。  奈子は、もう気付いていた。  これは…過去の幻影だ。  そう、フェイリアの両親が殺された日の…。  また、違う景色が広がった。  真夜中の、村はずれ。  外はひどい嵐で、横殴りの雨が叩き付けるように降っている。  もちろん、それを見ている奈子にはなんの影響もない。  その、激しい嵐の中を歩く人影があった。  二十代半ばくらいの女性だ。  剣士らしき服装で、この嵐を気にする様子もなく平然と歩いている。  長い、漆黒の髪が大きく風にたなびいている。  その女剣士は、真っ直ぐに一軒の家へ向かっていった。  フェイリアの家へ。  真夜中のことだから、扉は閉ざされて閂が掛けられている。  女剣士は一瞬の躊躇もなく腰の剣を抜いた。  重い木を金属の枠で補強した扉は、音もなくまっぷたつになって倒れる。  恐ろしい切れ味の剣だった。  奈子の持つ、無銘の剣に匹敵するかもしれない。  それは、漆黒の刃だった。  中世の暗殺者は、暗闇で剣が光らないようにその刃を黒く塗ったというが、それとは違う。  闇に溶け込むような色でありながら、その剣には確かに金属の光沢があった。 (もともと、黒い色の金属…?)  これまでにこの世界の様々な剣を見たが、こんな色の刃は初めてだった。 (それにしても、この女…。いったい何をしようと…?)  考えるまでもないことだった。  フェイリアの両親は、嵐の夜に何者かに殺されたのだ。  家の中に入った女剣士は、フェイリアの両親に剣を突きつけていた。 「レイナ・ディの墓所がどこにあるのか知っているだろう? 教えてもらおうか」  フェイリアの父親の誰何の声を無視して、女は言った。  感情のこもらない声だった。  長い、漆黒の髪に黒い瞳。  この地方では珍しい。  女性にしては背が高い。  百七十センチはあるだろう。  顔はたしかに美しかったが、それはどこか作り物めいた、無機的な美しさだ。  その目は、どこまでも鋭く、そして冷たかった。  見つめられただけで、身体の芯まで凍りつきそうな錯覚におちいる。 「いったい、お前は何者だ? 何故そんなことを訊く?」  フェイリアの父の声も、やや震えているようだった。  この女には、なにか、見る者を不安にさせるような雰囲気がある。 「レイナ・ディの、無銘の剣を探している。レイナ・ディの墓所の正確な位置、知っているのだろう?」 「そんなことを訊くために、こんな夜中に人の家に無断で入ってきたというのかっ?」  フェイリアの父は高名な魔術師で、王国時代の歴史に詳しい。  こういった用件の客が訪れることは稀にあるが、しかし今回の来訪者はあまりにも無礼であり、そして不自然だった。 「礼儀知らずな輩の相手をする気はない、と言ったら?」 「死んでから後悔することになるだけだ」  その台詞と同時に女の横の空間に出現したものを見て、フェイリアの父は驚きの声を上げた。  それは、鋭い牙が何列にも並んだ、巨大な怪物の口。  まるで、竜かなにかのような…。  その光景を見ていた奈子は、思わず目を閉じた。  このあとに起こることを見たくなかった。  フェイリアの両親は、巨大な魔物に喰い殺された姿で発見されたのだ。  そんなもの、見たくない。  しかし、どんなにしっかりと目を閉じても、両手で目を覆っても、その光景を消すことはできなかった。  直接、頭の中に伝わってくるように。  顔を手で覆って泣き叫ぶ奈子の目の前で、フェイリアの両親は、ただの血と肉の塊となっていた。  もしかすると、気を失っていたのかもしれない。  いつの間にか、目の前に広がる幻影はまったく別の光景になっていた。  何もない荒野。  これはおそらく、聖跡の周囲に広がる荒野だ。  だだっ広い荒野の中、  白っぽい岩と土だけの大地を歩く二人の人間の姿があった。 「やれやれ、行けども行けども岩ばかり。いったいいつになったら聖跡に着くんだ?」  不平たらたら、といった様子で文句を言うのは、まだ十代前半と思しき黒髪の少年。  その身体には不釣り合いな長剣を背負っている。 「歩くのが嫌なら帰ればいいでしょう。別に私が連れてきたわけではないわ。あなたが勝手についてきたのよ、アークス?」  その台詞の主は、少年よりも三〜四歳年長の少女。  長い、淡い色の金髪が、荒野を渡る乾いた風になびいている。  奈子は、この少女には見覚えがあった。  フェイリア・ルゥだ。  奈子が会った現在のフェイリアよりも五〜六歳は若く見える。  十七〜八歳といったところか。  ということは…  これは、フェイリアが村を飛び出して、聖跡に向かったときの光景なのだろう。  一緒にいるのは、従弟のアークス・ファ・ハイダーだろうか。 「ちぇ、冷たいこと言うんだな。フェア姉のことが心配で、わざわざついてきたっていうのに」  アークスは口を尖らせる。 「どうせ、兄さんの言いつけでしょう? ついてくるなって言ったのに、まさかあんたをお目付役にするとはね…」  諦めたような、呆れたような口調のフェイリアだった。  これで、奈子にはだいたいの事情が飲み込めた。  フェイリアから聞いた話では、彼女は一人で聖跡に行くつもりで、ついてくると言った従兄、ディケイドを固く止めたという。  しかしディケイドは、フェイリアを一人で聖跡に行かせたくなかった。  そこで、フェイリアには内緒で、弟のアークスに後をつけさせたのだろう。  無論、まだ半人前のアークスに、フェイリアを護る護衛の役目を期待しているわけではない。  むしろ、その逆だ。  口ではなんと言っても、フェイリアがこの従弟を可愛がっていることは端で見ている奈子にもわかる。  アークスが一緒では、フェイリアもあまり危険なことはできない。  きっと、ディケイドはそんなことを考えたのだろう。  なかなかの策士だった。  真っ赤な夕陽が地平線に沈みかける頃、二人の行く手に聖跡の建物が見えてきた。  疲れ果てていたアークスも、これを見て足を速める。  二人が聖跡に着いたとき、周囲は既に真っ暗になっていた。  鳥の声も虫の音もない聖跡の夜は、とても静かだ。  しかしアークスの耳は、かすかな、人のすすり泣く声のような音を捉えていた。  知らず知らずのうちに、腕に鳥肌が立つ。 「フェア姉…あれ、なんの声だ?」  フェイリアは、目を伏せてじっとその声を聞いている。 「きっと…聖跡の番人、クレイン・ファ・トームが嗚咽の声でしょう。永遠に聖跡を護らなければならない、己の呪われた運命を嘆く声…」  アークスの耳元でささやく。 「もっとも…ね」  不意に、フェイリアの顔に笑みが浮かぶ。  からかうような調子で。 「あれは、嬉し泣きだという説もあるわ。新たな獲物がやってきたことが嬉しくて嬉しくてたまらない…そんな泣き声」 「新しい獲物って…まさか、おれ達?」  フェイリアがうなずくと、アークスの顔色がさっと青くなった。 「あら…怖いの?」  フェイリアはくすくすと笑う。  アークスの顔がかっと赤くなる。 「ば…バカ言え! たとえどんな魔物が相手だろうと、おれの剣にかかれば…」  そう虚勢を張って、背負っていた剣を抜く。  まるで磁器のような光沢を持つ、真っ白い刃。  しかしその長剣は、それほど体格が良いわけではない少年にとっては、少し長すぎるように思われた。 「相変わらずはったりだけは一流だけどね…」  からかうような、それでいてどこか哀しげな口調でフェイリアは言う。 「アークスはここで留守番よ」 「な…!」  その言葉は、少年にはまったく予想外のものだったようで、次の言葉が出てくるまでに数秒間を要した。 「……何故っ?」 「危険だから」  フェイリアはあっさりとしたものだ。 「足手まといになるだけよ。今回の相手はいままでとは違う、桁違いに強いもの」 「フェア姉は、いつもおれを半人前扱いするんだな!」  アークスが怒るのは無理もない。  この年頃の少年は、子供扱いされることをひどく嫌う。 「実際、半人前だもの。仕方ないわ」 「フェア姉がなんと言おうと、おれはついて行くよ。一人で行かせたんじゃ、あとで兄貴にどやされちまう」  アークスは強い口調で言った。  聖跡の番人が怖くないと言ったら嘘になる。  しかし、いくら姉がアークスなど足元にも及ばない力を持っているとしても、一人で聖跡に入らせるなど思いも寄らないことだった。  兄の思惑はともかく、彼としては一応、フェイリアを護るためについてきたつもりなのだ。 「別に、これ以上なにも言う気はないわ」  アークスの前を歩いていたフェイリアが振り返った。 「いや…あと一言だけ、ね」  そう言うなり、素早く呪文を唱える。  しまった…、アークスがそう思う間もなく、彼の身体は指一本動かせなくなる。  どんなに力んでみたところで、身体は石のように固まって動かない。  唯一自由になるのは口だけ。  アークスにできるのは、ただ叫ぶことだけだった。 「ちくしょ〜! これだから魔術師ってヤツは嫌いなんだ〜!」 「私が戻るまで、そこでおとなしく待ってなさいね〜」  悪戯な笑みを浮かべてそう言い残し、フェイリアは聖跡の中へ向かう。  背後ではまだアークスがなんだかんだと彼女の悪口を叫んでいるが、もうそんなものは気にも止めない。  ここから先は、彼女一人の戦いだ。  フェイリア自身、無事に帰れる自身などまったくない。  そんな場所に、この、生意気だけど可愛い弟を連れて行くつもりは毛頭なかった。  夜とはいえ、外は月明かりでそれなりに明るかったが、聖跡の内部は闇に包まれていた。  フェイリアは、明かりの呪文を唱えて先へ進む。  物音ひとつしない。  先刻までかすかに聞こえていた泣き声は、いつの間にか止んでいた。  なんの気配もない。  聖跡の中の空気は、ひんやりと冷たい。  カビや埃の匂いすらない。  聞こえるのは、彼女自身の足音だけ。  だが、それも当然のことだ。  ここには、生きているものは誰もいないのだから。  死んだ場所。  時の静止した場所。  千数百年前から変わらぬ姿を保ち続ける聖跡――  しかし、ここへ入り込んだ人間が皆無というわけではなかった。  その証が、通路の向こうから音もなく近付いてきている。  白骨化した、剣士の死体。  三百年以上前に滅んだ、ある王国の紋章が入った鎧をまとっている。  手には、大きな錆びた剣。 「ふん、芸のないことね」  フェイリアは怯える様子もなく、つまらなそうに鼻を鳴らした。 (こんな雑魚を差し向けるとは、舐められたものね…)  オルディカの樹で作った魔術師の杖を高く掲げ、フェイリアは呪文を唱える。 「天と地の狭間にあるもの、  力を司る者たちよ――  我、フェイリア・ルゥの命に従え。  魂を持たぬ古の者、  炎を以て在るべき姿へ還せ――」  呪文の詠唱が始まるやいなや、剣を持った白骨は歩を速めてフェイリアに迫る。  しかし、上段に構えたその剣が振り下ろされるより早く、フェイリアの前の空間に突如生まれた炎が、旋風のように巻いて死体を包み込んだ。  炎の中で死体の形は崩れ、たちまちのうちにわずかな塵へと姿を変える。  炎が消えたあとに残った灰を踏みにじりながら、フェイリアは挑発するように叫んだ。 「こんなつまらないことしてないで、姿を見せたらどう? 一応、仮にもトリニアの竜騎士だったんでしょう、プライドはないの?」  フェイリアの声が、石の壁に反響する。  それに応えたのは、高い嘲笑の声だった。 「元気のいいことだな。エモン・レーナの墓所を土足で汚す者よ――」  声のした方に向き直ると、小さな炎が宙に浮いていた。  それが一瞬、大きく燃え上がったかと思うと、次の瞬間には人の姿となった。  長い銀髪をたなびかせ、フェイリアに鋭い視線を向けている。 「…クレイン・ファ・トーム…」  伝説にある通りの、最強の竜騎士の姿がそこにあった。 「久しぶりの客だな…」  どこか嬉しそうな口振りだった。 「名乗るがいい。墓標に刻む名が必要になる」  フェイリアは一瞬、身体中の血が凍るような気がした。  そこにあるのは、圧倒的な力だった。  確かに人の姿をしてはいるが、そこには生きているものの気配はない。  ただ、恐るべき力だけが存在していた。  それは、力を持った人間、ではない。  人間の形をした力――だった。 (まさか…これほど、とは…)  フェイリアは唇を噛む。  自分の力には自信があった。  伝説の竜騎士相手でも、何とかなるのではないか…内心そう思っていた。  とんでもない思い上がりだ。  ほんのちょっと、人より優れた魔術の才能があるからといって、自惚れていたのだと思い知らされる。  竜騎士の力が失われ、竜が滅んで数百年――。  人は、それがどれほど恐ろしい力を持った存在であったのかを忘れてしまっていた。 「どうした、怖じ気づいたか?」  相手の心を見透かしたように、クレインが嘲う。  その言葉で、恐怖に染まっていたフェイリアの瞳に光が戻った。  そうだ、こんなところで終わるわけにはいかない。  エモン・レーナの力の秘密を手に入れなければならないのだ。  両親の仇を討つために。  誰よりも強くなるために――。 「天と地の狭間に在るもの  力を司るものたちよ  我の呼びかけに応えよ  我は命ずる  力ある言葉に従い  汝らの力を解き放ち  数多の次元より  我の元に届けんことを――」  フェイリアを中心として、風が音もなく巻きはじめる。  クレインは、その様子を面白そうに見つめていた。 「フェイリア・ルゥ・ティーナの名において命ずる。  我の前に立ちふさがるすべてのものに  滅びの審判を下さんことを」  最初の一撃がすべてだった。  いまなら、クレインはこちらの力を舐めている。  クレインを倒すチャンスは一度だけだ。  小さく息を吸い込み、真っ直ぐにクレインを見据える。  クレインはなんの行動も起こしていない。  最初は、こちらの好きにさせようというのだろう。  絶対の自信の現れだ。 (でも…その自信が命取りよ)  竜騎士はたしかに想像を絶する力を持つが、決して不死身の存在ではなかった。  その肉体は、しょせん人間のものでしかない。  倒せる、いまなら…。  フェイリアは、一気に力を解放した。 「炎よ!」  クレインの身体を、灼熱の炎が丸く包み込む。  それは既に、炎と呼べるレベルを超えていた。  周囲の壁は王国時代の魔法で護られているはずなのに、それが熔ける間もなく蒸発する。  その炎は、聖跡の地下に出現した小さな太陽だった。  空間そのものを燃やしながら、すべてを無に帰していく。  人間の身体など、灰も残らない。  …はずだった。  しかし、 「ふむ、ちょっと…暑かったか?」  その声は、たしかにクレインを包み込んだ球状の炎の中から聞こえた。  己の勝利を確信していたフェイリアの表情が、驚愕に歪む。 「これなら、もっと薄着で来るべきだったかもな」  そんな台詞と同時に、炎はなにかに吸い込まれるかのように消えていった。  そして、クレインは先ほどとなにも変わらずにそこに立っている。 「そ…んな…」  自分の見ているものが信じられなかった。  たとえ結界を張ったところで、耐えられるような熱ではなかったはずだ。 「なにも驚くことではあるまい?」  当たり前のことのように、クレインは言う。 「こんな、児戯に等しい技でこの私を倒そうというのか? 青竜の騎士であるこの私を」  これが、竜騎士というものだ――そう、クレインは笑った。 「信じられないと言うのなら、もう少し竜騎士の力というものを見せてやるか」  簡単に死んでもらってはつまらんぞ…と、これ以上はない不吉な言葉だった。  フェイリアは、周囲でかすかに空気が動いたように感じた。  次の瞬間、 「っ…!」  周囲の空気が、無数の刃と化してフェイリアの身体を切り裂いた。  血飛沫が舞い、フェイリアの身体がぐらりと傾く。 「倒れるのは、まだ早いな」  クレインの手の中に光が集まり、銀色の球体をつくり出した。  その光は、十数本の細くて長い針と化してフェイリアを貫き、倒れかかった彼女の身体をそのまま背後の壁に縫い止めた。  肺を貫かれ、フェイリアの口から血が泡となって溢れる。  続けて、なにか不可視の力が身体の中を通り抜けたように感じ、フェイリアは絶叫した。  その力は肉体を傷つけることなく、直接、彼女の『命』をずたずたに切り裂いた。  それは、『死の力』と呼ばれる、現在では失われた魔法だった。  本来、魔力を直接に人の命に対して作用させることは不可能に近い。  そこは、外部からの魔力に対してもっとも強い抵抗力が働く部分だから。  そのため、戦闘に用いられる魔法とは、魔力を熱や、雷や、衝撃波といった物理的な力に変換して目標を破壊することを目的とする。  しかし、クレインの力はそんな理屈を無視して、直接フェイリアの魂を苛んでいた。  それは、圧倒的な力の差の証。  身体を壁に縫い止めていた光の針が消えると、フェイリアの身体はその場に崩れ落ちる。  痛いとか、苦しいとか、  既にそんな次元ではなかった。 「人は皆、苦しみながら死んでいく。哀しいものよな…」  言葉とは裏腹に、クレインの顔には笑みすら浮かんでいる。  高く掲げた右手の中に、一振りの剣が現れた。  銀色の光をまとった、美しい長剣。 「そろそろ、楽にしてやるか」  クレインが静かに近付いてくる。  フェイリアはもう、指の一本すら動かすことができない。  自分に意識があるのかどうかすら、定かではない。  彼女にできるのは、ただ、殺されるその瞬間を待つことだけ。  少なくともそれで、この苦しみからは解放される。  別に、死にたいわけではなかったが、どうせ結果が同じなら、いつまでも苦しみたくはなかった。  そんなフェイリアの意識を現実に引き戻したのは、彼女を呼ぶ少年の声だった。 「フェア姉っ!」  叫び声と同時に、クレインとフェイリアの間に、赤い炎が走った。  クレインが顔を声の方に向ける。  フェイリアはもう目も見えなかったが、声の主が誰かはわかっていた。 (…ア…クス…)  なんということだろう。  あれほど言っておいたのに、結局彼はフェイリアを追ってきてしまったのだ。  来ちゃ、駄目。  逃げなさい、すぐに。  そう言いたかったが、声を出す力すら残っていない。 (こんなことなら…もっと…強い結界を張っておけば…)  いまさら悔やんでも仕方がない。  あの弟の性格を考えれば、結界が解けると同時に彼女を追ってくることなど予想できることだったのに。  なのにどうして…。 (まさか…) 「なんだ、お前は」  興味なさげに、クレインが訊ねる。  アークスは答えずに、背負っていた剣を抜いた。 「フェア姉には手を出すな。今度はおれが相手だ!」  剣を握る手に力を込めると同時に、磁器を思わせる白い刃が深紅の炎に包まれる。  鮮血の色をした炎に照らされ、アークスの頬を流れる汗がまるで血のように見えた。 「竜の剣、か。子供がそんな玩具を振り回すと怪我するぞ」  クレインは剣を持ったまま、アークスに向き直る。 (やめて、やめてっ!)  薄れゆく意識の中でフェイリアは叫ぶが、それは叶わぬ希望だった。  竜の剣、と呼ばれるその剣は、古くからハイダーの家に伝わる名剣だったが、アークスの腕前で使いこなせるようなものではない。  フェイリアを歯牙にもかけないクレインに、アークスが勝てる可能性など万に一つもなかった。 (やめて…アークスを…殺さないで…)  無駄と知りつつ、フェイリアは心の中で叫び続ける。  どうして、アークスを聖跡に連れてきてしまったのか。  どうして、あんな簡単に解ける結界しか張らなかったのか。  認めたくはなかったが、その理由はわかっている。  どこか、心の奥底でそれを望んでいた。  アークスが、側にいてくれることを。  いざというときに、力になってくれることを。  それが、大切な弟を危険にさらすこととわかっていながら。 (自分勝手な…私…)  その代償が、これだ。  大切な肉親を、失うこと。  唯一の救いは、アークスの死をこの目で見ずに済むということだろう。  それよりも、彼女の命が尽きることの方が先なのは間違いなかった。  ……  ………  フェイリアが目を開けて最初に見たものは、白みはじめている空だった。  雲が、墨を流したような模様を描いている。  そして、黒髪の少年が彼女の顔を心配そうに覗き込んでいる。 「ア…クス…?」  二、三度瞬きして、見ているものが幻影ではないと確認する。 「大丈夫…?」  アークスがささやく。  どうやら、夢でも幻でもないらしい。 「どうして…?」  思うように動かない身体で、それでもなんとか首を少し動かして周囲を見ると、そこは聖跡の外だった。  石畳の舗装の上に毛布を敷いて、フェイリアはその上に寝かされている。 (何故…?)  何故、自分とアークスはここにいるのだろう。  どうして、あの聖跡から生きて出られたというのか。  まさか、アークスがクレインを倒したはずはあるまい。 「…何故? アークス…?」  フェイリアの問いに、少年は小さく首を振る。 「…わかんない。でも、クレインが見逃してくれたんだ。――私の気が変わらないうちに、その女を連れて出ていけ――って」  彼自身、何が起こったのか理解できていないようだ。  アークスの話を聞いても、フェイリアにはにわかには信じられなかった。  クレインは、そんな甘い性格ではない。  これまで、聖跡に侵入して生きて還ったものはいないはずだった。  何故、自分たちは見逃してもらえたのか…。  わからない。  わからない。  だけど… 「ありがとう…。アークスに助けられたわね」  フェイリアはそっと、弟の手を握った。  奈子は、その光景をずっと見ていた。  彼女は傍観者でしかない。  何もできない。  ただ、眼前に繰り広げられる光景を見ているだけ。  不意に、フェイリアとアークスの姿が消えた。  そこに広がっていた聖跡の風景も。  すべて、闇に融けるように消えていった。  奈子は、暗闇の中に取り残される。  なにも見えない。  なにも聞こえない。  無にも等しい闇の中で、奈子は考える。  先刻から続くこの幻影は、いったい何なのだろう。  それは、何年も前の、過去の風景だ。  いったい、誰が、なんの目的でそんなものを見せているのか。  そもそも、自分はいったい何処にいるのだろう。  ここは、本当に聖跡の中なのか。  いったい… (なにも、不安に思うことはない)  誰かが、耳元でささやいた気がした。 (ただ、黙って見ていればいい) 「誰?」  しかし、奈子の声に応える者は誰もいない。  幻聴だったのだろうか?  完全な闇の中。  なにも見えず、なにも聞こえず。  自分がどこにいるのか、立っているのか横になっているのかもはっきりしない。  こんな状況では、自分の独り言と他人の声の区別もあやふやになる。 (ひょっとしてアタシ、おかしくなっちゃったのかなぁ…)  聖跡に入ってから、あまりにも衝撃的な光景を目にしすぎた。  自分の正気にすら自信が持てない。  いったいどこまでが現実で、どこからが幻影だというのだろう。  自分は本当に聖跡へやってきたのだろうか。  もしかして、それすらも夢ではないのか。  もしかして…  すべては、夢なのではないだろうか。  この、異世界での冒険のすべてが。  ファージのことも、ソレアのことも、ハルティやアイミィや、エイシスのことも。  本当の自分は、家のベッドの中で寝ぼけているのかもしれない。  まさか…  まさか、そんなことはあるまい。  奈子は苦笑する。  アタシはそんなに想像力の豊かな人間ではない、と。 (気弱になっちゃダメだ。もっと、意識をしっかり持たないと…)  自分に言い聞かせる。  奈子の目には、また、新たな光景が映し出されていた。  そこは、戦場だった。  何千、何万という兵士たちが、激しい戦いを繰り広げている。  奈子は、その光景を空から見おろしていた。  戦いは地上だけではなく、空の上でも行われていた。  巨大な竜を駆る、騎士たち。  奈子の眼前で、四頭の赤い竜が、一際大きな黄金色の竜を取り囲んでいた。 (エモン・レーナ…)  奈子はつぶやく。  五百年近いトリニアの歴史の中で、黄金色の竜を駆る騎士などただ一人しかいない。  戦いと勝利の女神、エモン・レーナ。  だとするとこれは、トリニアの建国間もない頃の、トリニアとストレインの戦いなのだろう。 (それにしても、四対一なんて…)  いくらエモン・レーナが強い力を持っているからといっても、この状況では苦しいだろう。  本来、竜騎士同士の戦いは、相当な力の差がなければ二対一でも勝つことは難しい。  ストレイン帝国の四人の竜騎士は、執拗にエモン・レーナを攻めたてる。  なにしろ、トリニア王国の象徴的な存在であるエモン・レーナを追いつめているのだ。  ここでエモン・レーナを討ち取れば、トリニアに与える打撃は大きなものになる。  エモン・レーナの出現以来、大陸の勢力図は一変していた。  それまで大陸全土を支配する勢いだったストレイン帝国は、エモン・レーナの夫エストーラを王とする新興国トリニアとの戦いに相次いで破れ、その領土は最盛時の三分の一にまで衰退している。  すべては、この女騎士から始まったのだ。  ストレイン帝国軍がエモン・レーナ一人に戦力を集中するのも無理のないことだった。  エストーラ王率いるトリニア王国軍の主力と相対する軍勢からも竜騎士を割き、エモン・レーナの別働隊にぶつけたのだ。  作戦は成功した。  開戦時、トリニアの竜が二騎だったのに対し、ストレインが投入した竜は六騎。  ストレイン軍も被害を出したが、副官を失って四対一となってからはさしものエモン・レーナも防戦一方だった。  ストレインの騎士たちは勝利を確信する。  ついに、あのエモン・レーナを倒せるのだ、と。  しかし、その幻想は長くは続かなかった。  なんの前触れもなく出現した雷のような光に貫かれ、一騎の竜が甲高い叫び声を上げて墜落していった。  何事が起きたのかと驚く騎士たちの前に、一騎の竜が現れる。  まるで山上の湖のような、深い、蒼の鱗。  トリニア王国の竜だった。  その竜を駆るのは、長い銀髪を風になびかせた美しい女騎士。 「クレイン・ファ…」  騎士の一人が、怯えたようにつぶやく。  それは、不吉な名だった。  エモン・レーナやトリニア王エストーラをも凌駕する力を持つという、トリニア最強の竜騎士。  クレイン・ファ・トームの名は、ストレイン帝国の人間にとっては死神にも等しいものだった。 「遅いぞ、こら」  疾風のように出現したクレインに向かって、エモン・レーナが拳を振り上げてみせる。 「援軍を待たずに一人で先走ったくせに、なに言ってる」  クレインが怒鳴り返す。  二人は、顔を見合わせて笑った。  彼女たちは、最高の、そして最強のコンビだった。  一人が、二人になったとき、この戦いの決着はついていた。  奈子は、溜息をついてその光景に見とれていた。  エモン・レーナとクレイン・ファ・トームはあまりにも強く、そして、竜と共に空を翔る姿はあまりにも美しかった。  そして、また、恐ろしくもあった。  人間がこれほどの力を持つということが。  幻影はその後、いくつもの違った戦場を映し出した。  竜騎士の力は、時には何千という兵士を、時にはひとつの都市をも一瞬で消滅させた。  圧巻は、ストレインの帝都ミレアスの最期だった。  大陸最大の都市といわれたミレアスが灼熱の光に包まれ、あとには、なにも残らなかった。  都市のあった場所は巨大なクレーターと化し、奈子の奈子の記憶が確かなら、千五百年後の現在、そこは大きな湖となっているはずだった。  怖い…  奈子は暗闇の中で、ぎゅっと自分の身体を抱きしめる。  いつまでこんなことが続くのだろう。  どれだけ、人が死ぬところを見なければならないのだろう。  ひとつ、気付いたことがある。  これまで見てきたのは、すべて、人が傷つき、死んでいく光景だ。 (こんなの…もう、十分だよ。もう見たくない!)  こんなこと、もう耐えられない。  そう、奈子は思った。  しかし、もっとも凄惨な光景はこの後だった。 (どこ、ここ…?)  今度の幻影はいきなり屋内から始まったので、一瞬、それが何なのかわからなかった。  少し考えて、これは中世の鍛冶屋の仕事場だろうと推測する。  煮えたぎる金属で満たされた炉。  ふいご、鎚、金床のような、奈子にも見覚えのある機具。  まだ柄のつけられていない剣。  そんな中に、人の姿があった。  しかしそれは… (…!)  奈子はそこで、信じられないものを見た。  思わず口を押さえる。  炉の横に、山と積み上げられた人間の死体。  どれもこれも、原型をとどめないほどに焼けただれている。  そして、一人の男が、その死体をひとつずつ炉の中に投げ込んでいた。  髪に少し白いものが混じった、初老の男。  その男もまた、身体にひどい火傷を負っていた。  顔は憔悴し、目だけが血走ってぎらぎらと輝いている。  男は狂ったように、死体を投げ込み続ける。  いや、間違いなく狂っているのだ。  そうでなければ、こんなことできるはずがない。  奈子はたまらず外に出た。  外の光景を一目見て、小さく声を上げる。  そこは、破壊され尽くした街だった。  以前はかなり大きな街だったに違いない。  それがすべて廃墟と化している。  建物はことごとく崩れ、動くものは何もない。  まだあちこちで煙が上がり、通りには無数の死体が散乱していた。  その死体をついばむはずの野犬やカラスの姿すらない。  なんという光景だろう。  奈子の知識の中でこれに一番近いものをあげるとしたら、歴史の教科書で見た、原爆投下直後の広島や長崎の光景だろうか。  きっと、大きな戦争があったのだろう。  王国時代の戦争なのは間違いない。  それより前でも後でも、ひとつの都市をここまで破壊し尽くせるほどの力は存在しない。  気は進まなかったが、奈子はもう一度先刻の建物の中に戻った。  この辺りでは、この男が唯一の生者らしい。  狂った男は、剣を鍛えていた。  死体を焼いて溶かした鋼で。  何かぶつぶつとつぶやいている。  魔法の呪文だろうか。  この世界で剣を作るときは、魔法の助けを借りるのが普通だ。  男はときおり、呪文以外にも独り言をつぶやいた。 「まだだ…まだだ…もっと強く、もっと鋭く…この世の全てのものを切り裂けるほど…。そうでなくては、あの魔物は倒せん…」  鳥肌が立つような、不気味な声だ。  血走った目で、鎚を握った手から血を流しながら剣を鍛える。  どれだけの時間が過ぎただろう。  その剣はだんだんと形になってゆく。 (…)  認めるには抵抗があった。  しかし、奈子はその剣を知っていた。  男が鎚を打ちつけるたびに、鋼は引き延ばされてゆく。  薄く、薄く。  限りなく薄く。  それでも、恐ろしい魔力に護られたその剣は、曲がることも、折れることもない。  かつては、竜騎士の一人がその剣を持っていた。  千年の時を経て、その剣はいま奈子の手の中にある。  狂った男が無数の死体から造り出した、呪われた剣。  その剣には、銘が残っていなかった。  残せるはずがない。  こんな…こんな剣に、銘をつけられるわけがない。  それ故に、剣は遠い未来まで『無銘の剣』と呼ばれ続けた。  それは紛れもなく、竜騎士レイナ・ディの剣であった。  いったい、この街で何があったのだろう。  どうして、男はこのような狂気の剣を鍛えているのだろう。  レイナは、どういった経緯で剣を手に入れたのだろう。  しかし、その疑問に答えてくれるものはいなかった。  ああ、そうか。  不意に、奈子は悟る。  記憶…だ。  これらの幻影は全て…  ここにあるのは、聖跡が建設されてからこれまでの、大陸の歴史なのだ。  でも、誰が、何のために…? * * *  ぼんやりと、視界が戻ってくる。  黒い、石造りの通路。  今度は幻影ではない。  間違いなく、聖跡の中だ。  目の前に金属製の重々しい扉があり、その上にひとつ、魔法の明かりが周囲を照らしている。  背後を振り返ると、真っ黒な通路がどこまでも続いている。  いったい、どこをどう歩いてここまで来たのだろう。  あれから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。  そして、外に戻るにはどうしたらいいのだろう。  奈子はとりあえず、目の前の扉を調べてみることにした。  扉には、鍵はかかっていない。  力を込めて押すと扉はかすかに開いて、隙間から淡い赤い光がもれ出てくる。  広い部屋だった。  部屋の中央部に、天井まで届く直径一・五メートルほどの赤い光の柱が三本立っていて、その光が他に光源のない室内をぼんやりと照らしている。  三本の柱は、十数メートルの間隔で正三角形を描くように配置されていて、その中心に、一抱えほどもあるなにかの結晶――まるで水晶のような――が浮かんでいた。  部屋の入り口に立った奈子は、息を殺して室内を見渡す。  なんの気配もない。  誰もいない。  しかしここは、明らかになにか特別な場所だ。  恐る恐る足を踏み入れる。  慎重に、周囲に気を配りながら、いちばん近くにある柱に近付いていった。  それが、ネオンランプのような光を発する中空の管なのか、それともレーザーのような実体のない純粋な光なのか、ここからではよくわからない。  近付くにつれて、その光の中にぼんやりと、影のようなものが見えることに気が付いた。  奈子は少し歩を速める。  柱のすぐ前まで来て、それが人影であるとわかった。 「…!」  思わず、小さく叫んでしまう。  それは、髪の長い女性の姿だった。  全裸で光の中に浮かんでいる。  まるで、水の中を漂っているかのように…。  それが誰か気付くまでには、少し時間が掛かった。  特徴のある、鋭い目を伏せていたためだ。  しかし、足元まで届くほどの長い銀髪は――  紛れもなくクレイン・ファ・トームの姿だった。  女性としてはかなり長身で、手足もすらりと伸びた、見事なプロポーションだ。 「どういう…こと?」  奈子はそうっと手を伸ばしてみた。  光のいちばん外側に触れたところで、それ以上手を伸ばすことはできなくなる。  ガラスやアクリルのような固体の感触ではない。  しかし、何らかの力場が外部のものの侵入を拒んでいるようだった。  柱の中のクレインは、ぴくりとも動かない。  まるで作り物であるかのように。  まったく、生命の兆候が見られない。 「いったい…あれ?」  目を凝らして観察していて、奇妙なことに気付いた。  クレインの身体を透して、ほんのかすかに、向こうが透けて見える。 「…!」  それでわかった。  ここにあるものは、実体ではない。  それは、クレイン・ファ・トームの精密な立体映像だ。  先刻までの夢のような幻影とは違う。  間違いなく、奈子は自分の肉眼でこの光景を見ている。  それは、まるでホログラフのような、クレインの映像だった。 「何故…どうして?」  光の柱の中に浮かぶ、クレインの姿。  それにどんな意味があるのか、いまの奈子には想像もつかない。  そういえば…  同じような光の柱はあと二本あることを思い出した。  最初に、左手にある柱に近付いてみる。  その柱の中には、何もなかった。  ただの、光の円柱が床から天井まで伸びているだけだ。 (ここにも、なにかあると思ったのに…)  奈子はやや拍子抜けして、三本目の柱に向かう。  近付いていくと、その中にも人影らしきものが見えた。  急に、心臓の鼓動が速くなる。 (何故だろう…)  行ってはいけないような気がする。  でも、いまさら引き返すわけにはいかない。  奈子は深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、意を決して足を進めた。  そこに見えているのも、やはり全裸の女性の姿らしい。  クレインよりもずっと若い、見たところまだ十代半ばの少女だ。  背も低い。  高い位置に浮いた形になっているので正確には比べられないが、奈子よりも少し小柄ではないだろうか。  歳の割に胸は大きく、メリハリのあるプロポーションだ。  いちばん長い部分で背中のなかほどまである濃い色の金髪には、いまひとつまとまりがない。  クレインの映像と違い、この少女は目を見開いている。  しかし、その目に生気は感じられない。  ガラス玉のような、焦点の合わない作り物めいた瞳がこちらを見つめている。  その瞳は…  それは… 「い…いやあぁぁぁっっっっ!」  それが誰であるか気付いたとき、奈子は両手で顔を覆って悲鳴を上げていた。 「な…何よこれ…。どうして、こんな…」  そんな奈子のつぶやきは、ほとんど泣き声になっていた。  自分が見ているものが理解できない。  いや、理解したくない。 「いや…いやだ、こんなの…」  それが何なのか、知ってはいけない気がする。  知ってしまったら、奈子の中でなにかが壊れてしまう。  奈子は、その場から逃げ出すように、じりじりと後ずさった。  それでも、視線は目の前の光の柱に釘付けになったまま、逸らすことができない。  そんなもの、見たくないのに! 「ここは、何人も立ち入ることの許されない、エモン・レーナの墓所。それを土足で汚すことは許されぬ罪…」  不意の、背後からの声に、奈子ははじかれたように振り向く。  部屋の入口に、背の高い、長い銀髪の女性が立っていた。  口元に残忍な笑みを浮かべ、鋭い目で奈子を見つめている。 「…クレイン…ファ…」  奈子には、ただそれだけをつぶやくのが精一杯だった。  紛れもない、先刻までアルトゥル王国の兵士たちをなぶり殺しにしていた聖跡の番人。  クレイン・ファ・トームがそこにいた。 「覚悟はできておろうな?」  クレインの手の中に、剣が現れる。  銀色の光をまとった、細身の長剣。  今日だけでも、何百人もの命を奪った…。  クレインが目をすぅっと細める。 (殺される…)  奈子はそう直感した。  謝って済むような状況ではない。  クレインは、聖跡へ足を踏み入れたものを決して許さない。  フェイリアやレイナのようなごく少数の例外もいないわけではないが、自分がその一人になれるとは思えなかった。  だけど…  ただ、手をこまねいて殺されるのを待つわけにはいかない。  息絶える最後の瞬間まで、闘うことをあきらめてはいけない。  そう、自分に言い聞かせる。 「これって、いったい何? 聖跡って一体なんなの? ただの、墓所ではないんでしょう?」  奈子は叫ぶが、それは答えを期待した問いかけではなかった。  ただ、ほんの何秒か時間を稼ぎたかっただけ。  その間に奈子は、呪文を声に出さずに防御結界を張る。  ソレアが、最初に教えてくれた魔法。  奈子がまず憶えたかったのは攻撃魔法だったのだが。  しかしソレアはそれを許さず、 「ナコちゃんの戦い方って、いつも危なっかしくって見てられないわ」  そういって防御の魔法を第一に教えた。  自分の身を守ることさえできれば、剣だろうと素手だろうと、奈子の戦闘力は水準に達しているのだから、と。  奈子の初歩的な魔法が竜騎士相手に役に立つかどうかは疑問だったが、とにかくできるだけのことはしなければならない。  おそらく、半端な結界ではクレインの攻撃を防ぐことはできまい。  そこで奈子は全身を防御することをあきらめ、首、胸、脊髄などの急所に力を集中して、不可視の魔法の盾を作り出す。  クレインの攻撃をなんとか致命傷にならない程度にそらして、その隙をついて反撃する。  それが、奈子の選んだ戦術だった。  無茶なことやってるな…自分でもそう思う。  勝てるはずもないのに。  相手は、トリニア王国五百年の歴史の中でも最強といわれていた竜騎士なのだ。  だけど…  だけど…  なにもせずに死ぬのはいやだ。 「なにか言ったらどう、クレイン・ファ・トーム?」  挑むような口調で言う奈子の手に、剣が出現する。  無銘の剣、竜騎士レイナ・ディの剣。  そう、あの呪われた剣だ。  しかし、奈子自身の力はクレインの足元にも及ばないだろうが、その武器には竜騎士を倒すだけの力があるはずだった。  当てることさえできれば…。  緊張した面持ちで、奈子は剣を構える。 「アタシが勝ったら、聖跡の秘密、話してもらうよ」  クレインは、そんな挑発的な奈子の様子をどこか面白そうに見ていた。 「笑止。跳ねっ返りの小娘が騎士の真似事とは…」  クレインは何故か笑いをこらえているようで、その台詞はどこか不自然だった。  まるで、芝居の台本でも読んでいるかように。 「…?」  しかし、そんなことを気にしている場合ではない。  奈子は、なすすべもなくクレインに殺された兵士たちの姿を思い出す。  ほんの一瞬でも隙を見せたら、自分もああなってしまうのだ、と。  クレインは、下段に剣を構える。  動いた、と思った次の瞬間には、クレインは奈子の背後にいた。  奈子には、風が頬をかすめていったようにしか感じなかった。 「そんな…」  その一瞬で、喉を護っていた魔法の盾が消失していた。  気管から頸動脈にかけて、うっすらと赤い筋が走っている。  喉に触れた手が、血で赤く染まっていた。  まったく見えなかったわけではない。  優れた動体視力を持つ奈子の目は、自分の横を通り抜けていったクレインの姿を捉えてはいた。  しかし、  それはとても、人間が反応できる速度ではなかった。  まるで風だ。  一陣の、銀色の疾風。  ――銀の風のクレイン――  それが、彼女の生前の通り名であったことを思い出す。  クレインは、手の中で剣を弄んでいる。 「どうした、もう諦めたか?」 「誰がっ!」  奈子は血塗れの手を服で拭うと、剣を握りなおした。  相手の攻撃を受けてから反撃にうつる、などという考えは捨てるしかなさそうだった。  クレインの動きは、とても奈子が反応できるようなものではない。  いまだって、クレインが手加減していたから生きていられるのだ。  はじめから、奈子自身ではなく防御結界だけを狙っていた。  力の差を見せつけるかのように。  クレインがその気になれば、奈子なんていつでも殺せるのだ。 (だったら…)  先に仕掛けるしかない。  防御がまったく通用しないのなら、こちらから攻撃するしかない。  レイナの剣の力を信じて。  奈子は小さく息を吐き出して、一気に飛びかかった。  剣の届くぎりぎりの間合いで、上から袈裟掛けに斬りつける。  しかし、その時にはもう、そこにクレインの姿はなかった。  背後に殺気を感じた奈子は、そのまま立ち止まらずに前に飛び、前まわり受け身の要領で床を転がる。  一瞬前まで奈子が占めていた空間を、銀色に輝く刃が通り過ぎていった。  奈子は間を置かずに立ち上がる。  やはり、クレインは強い。  まともに行ったのでは、奈子のスピードではまるでかなわない。 (それなら…)  奈子は左手で、腰の短剣を抜いた。  その短剣が、青白い光に包まれる。  あの、サイファー・ディンが使っていた技だ。  奈子の魔法でも、このくらいのことはできる。  いや、むしろ、魔法だけの威力ではまだまだ一人前とはいえない奈子にとっては、この方が有効な戦法かもしれない。  奈子は魔法の光に包まれた短剣を投げつけた。  はたしてクレインはそれをかわすか、それとも剣で叩き落とすか…。  それは賭けるしかない。  奈子は後者に賭けた。  かわすとしたら左右どちらに動くか、もう一度賭けをしなければならなくなる。  今回、ツキは奈子にあった。  クレインはその銀の剣で、胸元を狙って飛んでくる短剣をはじき飛ばす。  その一瞬の隙に、奈子は剣が届く間合いまで詰め寄り、渾身の力で斬りつけた。  クレインの右手が動く。  キィンッ!  硬い金属同士がぶつかり合う音が響いた。  どんな、硬い鋼をも易々と切り裂くことができるはずの、無銘の剣。  竜をも一撃で屠る、レイナ・ディの剣。  しかし、クレインの剣はしっかりとその刃を受け止めていた。  傍目には、剣同士がぶつかり合った、当たり前の光景でしかないのだが、無銘の剣の威力を知っている奈子には衝撃だった。 (そ…んな…)  この剣だけが、頼りだった。  剣を届かせることさえできれば、魔法だろうと剣だろうと、クレインの守りをうち破ることができる、と。 「そんなにショックか? 確かに、素材の強度だけならとてもその剣を受け止めることなどできぬが、な」  その、クレインの言葉でようやく気が付いた。  奈子の刃を受け止めているのは、剣そのものではない。  剣を包んでいる、銀色の炎。  竜騎士の強大な魔力が、無銘の剣の恐るべき刃を抑えているのだ。 (そんな…そんな…)  これでは、まったく手も足も出ない。  奈子がそう思った瞬間、突然、クレインの剣を包んでいた炎が無数の銀色の破片となって飛び散った。  そのひとつひとつが鋭利な刃物と化して、奈子の身体を貫く。  悲鳴を上げる余裕すらなく、  奈子の身体は床に転がった。  身体中の神経をずたずたに切り裂かれる痛み。  それは、呻き声を上げることすら許してはくれない。  痛みのあまりショック死してしまわないことの方が不思議だった。  身体中から、力が抜けていく。  指一本、動かすことができない。  ひどく出血しているのは感じる。  視界が、急に暗くなってゆく。  それでも、聴覚だけはまだ働いていた。  幻聴でないとすれば、それは笑い声だった。 (笑い声…?)  クレインが笑っていた。  これまでの残酷な笑みとはまったく性質の違う、可笑しくてたまらないといった笑い声。 「どうした、腕が落ちたな。レイナ・ディ?」  それはまるで、友達に話しかけるような口調。 (…え?)  薄れつつある意識の中で、奈子は疑問の声を上げる。  今…なんて言った? (レイナ…ディ? アタシをレイナと間違えているの?)  何故…  レイナの剣を持っているから?  そういえば、奈子はこれまでも「レイナ・ディに似ている」と言われたことはある。  レイナの肖像画というのを見せてもらったことがあるが、たしかに、どことなく雰囲気が似ていないこともない。  しかし…  決して、見間違えるほど似ているわけではない。  レイナ・ディは、ここを訪れたことがある。  聖跡の入り口にあった剣の傷がそれを証明していた。  だとしたら、クレインとレイナは会ったことがあるのだろうか。  奈子とレイナは、本人と会ったことがある者が間違えるほど似ているわけではない。  第一、レイナ・ディ・デューンは今から千年年近くも前の人物ではないか。 (時間の感覚がないのかな…クレインも、生きた人間ではないから…?)  遠くなってゆく意識の中で奈子はぼんやりと考える。  不思議と、死の恐怖は感じなかった。 * * *  秋も深まった頃、トリニアの軍勢は王都マルスティアへと凱旋してきた。  今度の戦いで、宿敵ストレイン帝国の衰退は決定的となったといってもいい。  長い遠征から戻った軍勢を、マルスティアの市民が出迎える。  人々は口々に、国王エストーラを、エモン・レーナを、そしてクレインを讃えていた。  当然、城では戦勝の宴が盛大に催されたが、そういったことに興味のないクレインは、早々にマルスティアの外れにある自分の屋敷へと戻った。  他の将たちの屋敷がほとんど城下にある中で、クレインだけがずいぶんと外れたところに家を構えている。  田舎育ちのクレインには、賑やかな街の中よりも畑や林に囲まれた郊外の方が暮らしやすかったのだ。  トリニア王国の将軍という地位に比べると、クレインの屋敷はむしろ質素といってもいい。  ストレイン帝国との戦争の中で両親を亡くし、肉親といえば今年十三歳になる弟が一人だけというクレインには、大きな屋敷など不要なものだった。  自分と弟のアルシェイン、そして数人の使用人が住むにはこれで十分である。  屋敷に着いたクレインは、中に入る前から屋敷の様子がおかしい事に気付いていた。  クレインが帰ると、いつもならアルシェインが真っ先に飛び出してくる。  しかし今日、屋敷は静まり返っていた。  門の周りにも、庭にも、誰もいない。  屋敷に入っても、人の気配がなかった。 「アルス! フェイミン! 誰もいないの?」  クレインの声に応える者はいない。  訝しみながら居間に入ったクレインは、テーブルの上に置かれた一通の手紙を見つけた。  見覚えのない封蝋が押してある。  湧き起こる不安を押しとどめながら封を切って手紙を開いたクレインの顔色が、さっと青くなった。  手紙を握りしめた手が、かすかに震えている。  しばらくの間そのまま立ち尽くしていたクレインは、やがて手紙を手の中でくしゃくしゃと丸めた。  手紙は突然炎に包まれ、それは床に落ちる前に灰も残さずに消える。  これでいい――  クレインは、口の中でつぶやいた。  これで、このことを知る者は誰もいない。  翌朝、クレインは夜が明ける前に起きだしてきた。  思い詰めたような表情で武具を身につけ、馬を引き出す。  ちらりと屋敷を振り返って馬にまたがろうとしたとき、こちらに駆けてくる一頭の馬に気付いた。  クレインにはすぐに、それが誰かわかった。  トリニアの人間には珍しい、漆黒の髪をなびかせていたから。  小さく舌打ちをする。  いま一番、会いたくない相手だった。 「おはようクレイン。今朝はずいぶん早いのね?」 「…あんたもね、エモン」  王都のはずれにあるこの屋敷にこの時刻に着くとは、いったいいつ王宮を出たのだろう。  仮にも王妃の身分でありながら、供の者もつけずにたった一人でこんな街外れまでやってくるとははなはだ非常識なことではあるが、この相手にそんな常識は通用しないことはよくわかっている。  第一、黄金竜の騎士エモン・レーナにどうして護衛が必要だというのだ。 「そんなものものしい格好で、狩りにでも行くの? 戦から戻ったばかりだというのに」  武装したクレインを見て、エモン・レーナが問いかける。  クレインが曖昧にうなずくと、エモン・レーナは笑顔を浮かべた。 「ちょうどよかったわ。クレインを誘いに来たの。久しぶりに二人きりで遠乗りにでも行かないかって」  そのお気楽な申し出をクレインは断る。  そんな気分ではないから、と。  エモン・レーナはそれ以上しつこくはしなかった。 「だったら、一人で行くとするかな。ライパシル山の方にでも…」 「やめろっ!」  エモン・レーナが口にした地名に、思わず動揺を顔に出してしまった。  慌てて口をつぐんだクレインを、エモン・レーナはじっと見ている。 「…知って、いるのか?」  クレインの声は震えていた。  声だけではない、腰の剣を握りしめた手だってかすかに震えている。 「まさか、この私に隠し事ができるなんて思ってはいないでしょうね? 一緒に行こう。アルシェインを助けるために」 「駄目だっ! お前は来るな!」  クレインは叫んだ。  エモン・レーナを来させるわけにはいかない。  アルシェインを誘拐した連中の真の目的は、彼女なのだ。  トリニアとストレインのすべての竜騎士の中で、ただ一人、クレインだけがエモン・レーナを凌駕する力を持っていた。  クレインだけが、トリニアの象徴エモン・レーナを倒すことができる。  そこに目を付けた敵が、弟の命と引き替えに取引を持ちかけてきた。  弟を助けたければ、エモン・レーナを殺せ――と。  無論、そんな取引に応じられるわけがない。  エモン・レーナはトリニアの王妃であり、クレインの従兄であるエストーラの妻であり、そしてクレインの親友である。  考えるまでもないことだ。  クレインにとってどれほど弟が大切であっても、エモン・レーナを犠牲にはできない。  だからクレインは、誰にも知られずに一人だけで行くつもりだった。  弟を救いに。  もしそれが叶わずアルシェインが死ぬようなことがあれば、自分も生きてはいない覚悟で。 「わかってるだろう、エモン。連中の狙いはお前なんだぞ?」 「だから、私が行けば確実でしょう? 私を連中に引き渡しなさい。アルシェインはあなたにとってかけがえのないものだもの」 「ち…ちょっと待て、エモン!」  クレインは慌ててエモン・レーナを押し止めた。 「たしかに、アルスはたった一人の弟だ。でも、だからってお前を危険な目に遭わせるわけにはいかないだろう」  クレインの表情はいつになく真剣だった。  両手をエモン・レーナの肩に置き、必死に説得を続ける。 「アルスがかけがえのない弟なら、エモンだって大切な親友だ。それに、お前はこの国の王妃で、私は国のために闘う竜騎士だ」 「ねえ、クレイン?」  肩を押さえる手をそっと払いのけ、エモン・レーナは微笑んだ。  深い、漆黒の瞳で、真っ直ぐにクレインを見つめる。  もう、十年になるわね。  あなたたちと出会ってから。 「ああ、そうだな。もうそんなになるか」  私は、竜騎士の力、竜騎士の血をあなたたちに与えた。  あなたたちはストレイン帝国と戦う力を手に入れて、十年かかってここまで来た。 「そうだ。すべては、お前のおかげだ」  この国で、私がやるべきことはもうないわ。  これからのトリニアには、私の力は必要ない。  私が、あなたやエストーラのためにしてあげられることは、もうないの。 「エモン…お前、なにを言っているんだ?」  私は、もうここにいるべきではない。  十年前、あなた方の前に姿を見せたことが正しかったのか。  いまでもわからない。  だから、これからは見守るだけ。  ずぅっと、遠い未来まで。  また、私の力が必要となるときまで。 「エモン…?」  アルシェインを助けてあげる。  それが、私が一人の人間として、クレインにしてあげられる最後のこと。 「エモン、この十年間、私だけが一度も訊ねなかったことがあるよな?  一度だけ、訊いてもいいか?  お前は、何者なんだ?  本当に、神の子…戦いと勝利の女神なのか?」  ねぇクレイン? あなた、アルシェインを救うためなら自分の命を捨ててもかまわない? 「当然だ! それより、質問に答えろよ!」  いずれ話してあげる。  急ぐことはないわ。  時間は、いくらでもあるもの。  アルシェインを助けてあげる。  その代わり―― * * *  深い森の中で、フェイリアは巨大な魔物と闘っていた。  全身傷だらけで、もともとは白いはずの服が赤く染まっている。  これは…二十歳くらいのフェイリアだろうか。  外見は現在とそれほど変わらない。  長い金髪が、炎で赤く照らされている。  周囲の森は、炎に包まれていた。  フェイリアの魔法ではない。  彼女を追って巨大な怪物の口からほとばしる炎が、森の樹々を瞬時に灰に変えていった。  その、漆黒の鱗に覆われた魔物の姿は、まるで竜のようであった。  無論、本物の竜のはずがない。  竜は、いまから何百年も前にすべて滅びた。  それに、漆黒の鱗の竜など存在しない。  本物の竜はこれよりもさらに一回り大きいし、その目にはもっと高い知性が感じられる。  これは、竜を真似て人が造りだした魔物――亜竜、だった。  王国時代の魔術師が造りだした人造の魔物。  その末裔は千年後の今もわずかながら生き残り、人間たちの脅威となっている。  竜は、この世界において最強の存在であった。  亜竜の力はそれには劣るとはいえ、人間がそうやすやすと立ち向かえるようなものではない。  王国時代の強大な魔法が忘れ去られて久しいこの時代、人間がたった一人で亜竜と闘うなど、およそ無謀なことといえた。  事実、フェイリアの魔法は亜竜にさしたるダメージを与えることはできず、しかし亜竜の攻撃は確実にフェイリアを傷つけている。  それでも、フェイリアは一人で闘い続ける。  一人…いや、フェイリアは一人ではなかった。  彼女のそばに、十二〜三歳くらいの少年がいた。  歳の割には体格のいい、赤毛の少年だ。  少年が、血塗れの手に一本の木を握っている。  長さ二メートルほどの、槍のような形状の木。  その幹には小さな鋭い棘が無数に生えていて、先端はまさに槍のように鋭く切り落としてある。  少年が、その即製の槍をフェイリアに渡す。  フェイリアは槍を高く掲げて呪文を唱え、魔物に向かって投げつける。  槍が深々と突き刺さるのと同時に、フェイリアはまた呪文を唱えた。  それが、最後の力を振り絞った魔法であることは見ていてもわかる。  無数の雷が、避雷針に落ちる落雷のように、魔物に刺さった槍に集中し、魔物の身体を体内から破壊した。  魔物の身体はぐらりと傾き、深い谷底へと落ちていく。  魔物の最期を確認したフェイリアもまた倒れる。  少年が駆け寄って助け起こすと、フェイリアは小さく微笑んだ。 「やったわね、エイシス…」 * * * (え〜とぉ…)  目を開けて、最初に見えたのは夕暮れの空だった。 (ここ、どこだ…)  自分が何処にいるのか、何をしていたのか、記憶が曖昧だ。  なんだったっけ…  思い出せない、思い出さなきゃ。 「あ、気が付いたようね」  それは、澄んだ、美しい声。  しかしどこか冷たい雰囲気があった。  ゆっくりと頭を動かして、声のした方を見る。  美しい女性だった。  少し離れたところに腰を下ろし、無表情にこちらを見ている。 (誰だっけ…)  知っている顔のはずだったが、すぐには名前が出てこない。  そう、つい先刻まで、この顔を見ていた気がする…。  ――! 「フェイリア・ルゥ!」  思わず大声で叫んで上体を起こそうとした奈子は、身体のあちこちの痛みに声を上げた。  その瞬間、一気に記憶が甦ってくる。  そうだ、聖跡だ。  聖跡の中に入って、そして、いろいろなものを見た。  聖跡の番人、クレインに殺される兵士たち。  聖跡を訪れたフェイリア。  そして、遠い昔、王国時代のエモン・レーナとクレイン…。  記憶が甦ってくる。  聖跡の中で迷って、その間に様々な幻影を見せられた。  聖跡の中でのすべてを憶えているわけではない。  いくつか、記憶が飛んでいる部分もある。  だが、気付いたときにはクレインが目の前にいて…。  いや、その前に何かがあったような気がする。  とても大切なこと。  聖跡の中で目にした光景に、ひどく衝撃を受けたような気がするのだが、それが何であったのか思い出せない。  思い過ごしかもしれない。  あまりにもいろいろなものを目にして、記憶が混乱している。  はっきりと思い出せるのは…そう、クレインとの闘いからだ。 (そうだ、アタシ、クレインと闘ったんだっけ…)  そして、なすすべもなく負けた。  負けた…はずなのに、こうして生きて、聖跡の外にいるのは何故だろう?  意識を失って、そのあと何があったのだろう。  目を覚ます直前まで、夢を見ていたような気がする。  エモン・レーナとクレインの姿。  そうだ、あれが、エモン・レーナの死にまつわる真実なのだ。  エモン・レーナはクレインの弟を救うために犠牲となり、その代償として、クレインは聖跡――エモン・レーナの墓所の番人となった。  聖跡を、永遠に護り続けるために。  そして聖跡は、大陸の歴史を見守り続ける。  エモン・レーナの力を封印したまま…。  それが、エモン・レーナの死の真相だった。  世間に伝えられている、「クレインはトリニアを裏切ってエモン・レーナを殺した」というのは大嘘だ。  だけど、それを知る者はほとんどいない。  ごくわずか、聖跡から生きて外に出ることができたわずかな人間――クレインが見逃してくれた者だけが真実を憶えている。  いまならわかる。  何故、クレインがフェイリアとアークスを殺さなかったのか。  殺せるはずがない。  クレインにとって、『弟』はなによりも大切なものなのだから。  では、自分はなぜ生きているのだろう。  それだけは、いくら考えてもわからなかった。  わからないといえばもう一つ、どうしてフェイリアがここにいるのだろう。  奈子は、素直にその疑問を口にした。 「あなたを追ってきたのよ、ナコ・ウェル。きっと、ここに来ると思っていた」  当たり前のことのように、フェイリアは答える。 「そんなに、レイナの剣が欲しいの?」  本当は、そんなこと訊くまでもない。  聖跡の中で、あの光景を見てしまっていたから。  フェイリアが真っ直ぐにこちらを見ていた。 「あなたも見たでしょう、あの、黒の剣を」  奈子はうなずく。  黒の剣といえば…フェイリアの両親を殺した女剣士が持っていた剣に違いない。 「両親の仇を討つ――ずっとそのことだけを考えてきたわ。そのためには、力が必要だった」  聖跡には、竜騎士の力の秘密が遺されている――その伝説を信じて、ここまでやってきた。  フェイリアも奈子と同じように、ここで様々な過去の光景を目にし、そして、仇の姿を見た。 「以来、ずっとあの女を捜し続けてきた。何年もの間…ね」  それは、恐ろしいまでの執念だった。  でも、奈子にもその気持ちは少しだけわかる。  フェイリアの旅に較べればずっと短いものとはいえ、奈子もまた仇を追っていたときがあったから。  しかし、それとレイナの剣がどうつながるのだろう。  単に力を求めるだけなら、この剣でなくてもいいはずだった。  フェイリアの魔力はおそらく大陸でも有数のものだし、それに、彼女が持っている剣だって…。  奈子は、不意に思い出した。  サイファーたちと闘ったとき、フェイリアが持っていた剣のことを。  その剣はいまも彼女の傍らに置かれている。  それは、特徴のある剣だった。  見た目には金属というよりも磁器のような、白い刃。  奈子は、聖跡の中でもそれを目にしていた。  フェイリアが、従弟のアークスと共に聖跡を訪れたとき。  重傷を負ったフェイリアを助けにきたアークスが持っていた剣が、たしか同じものだった。  あれ…?  そういえば、どうしてその剣をフェイリアが持っているのだろう。  奈子の視線に気付いたのか、フェイリアはちらりと剣に目を落とした。  一瞬、複雑な表情を見せる。  奈子には、それが悲しみの顔に見えた。 「私は、仇を追い続けていた。従兄弟のディケイドやアークスも私を助けてくれた。そして、ついにあいつと闘う日が来た」  口調は淡々としているが、間違いない、その瞳は深い悲しみをたたえている。 「だけど…ディケイドも、アークスも、もういない。二人とも殺された…あいつに」 「…!」  奈子は、なにも言えなかった。  なんということだろう。  両親の仇であるばかりか、実の兄弟同然に育った二人の従兄弟の仇でもあるのだ。  しかも、ディケイドはフェイリアの恋人ではなかったか。  呆然としている奈子の前で、フェイリアはいきなり服の前をはだけた。 「あ…!」  奈子の目を引きつけたのは、真っ白い肌でも、大きくてしかも形の良い乳房でもない。  フェイリアの胸から脇腹にかけて、ざっくりと刀傷が残っていた。  それは、致命傷となってもおかしくないほどの大きな傷だ。 「フェイリア…」 「わかる? 私がこうして生きていられるのは、ディケイドとアークスが自分の命と引き替えに私を助けてくれたからなの」  服を直しながらフェイリアは言う。  奈子は、なにも言えなかった。  なにを言えばいいのかわからなかった。 「この剣…」  フェイリアは傍らの剣を手に取る。 「竜の剣…王国時代の最高の魔剣のひとつ。かの、竜騎士ユウナ・ヴィ・ラーナの剣だったものよ」  ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト、それはレイナ・ディと同じ時代のトリニアの竜騎士。  剣技にかけてはトリニア一と謳われた竜騎士の剣が現存していたとは…。  奈子は、ぽかんと口を開けていた。  まったく、驚きのタネは尽きないものだ。 「竜の剣を持ってしても、あいつには勝てなかった。あの、黒の剣は恐ろしい力を持っている。それに対抗しうるものがあるとすれば、それはあなたが持つ、無銘の剣だけよ」  それが答だった。  どうしてフェイリアがレイナの剣、無銘の剣にこだわったのか。  竜騎士の剣を持ってしても、勝てない敵がいる。  竜の剣は、その名の通り竜に匹敵する力を持つといわれる魔剣だ。  それを凌駕する剣は、レイナの剣しかあり得ない。 「それで…か…」  フェイリアが、奈子を殺そうとした理由。  両親と、弟同然の従弟と、そして恋人を殺した仇を倒せる、唯一の武器。  それを手に入れるためなら、フェイリアはどんなことでもするだろう。  殺されかかったことを怒っていないわけではないが、それでも、フェイリアの思いはわからなくもない。  もしも奈子が同じ立場だったら…フェイリアと同じことをしたかもしれない。  許してもいいかも知ンない…奈子はそう思った。 「ひとつ訊いてもいい? どうしてアタシを助けたの?」  奈子の怪我は、魔法であらかた治療されていた。  それをした者は、フェイリア以外に考えられない。  何故だろう。  本気で、奈子を殺そうとしていたフェイリアなのに。  奈子はクレインに致命傷を負わされていたのだから、剣を奪うのは簡単なはずなのに、剣はいまも奈子が持っている。 「恩を売って、剣を譲ってもらおうと思って」 「うそつけ」  フェイリアは笑っている。  奈子はもちろん、そんな言葉は信じない。 「アタシを殺して剣を奪おうとしたくせに。あんたがそんな甘い性格のわけないじゃない」  奈子の辛辣な口調にも、フェイリアは気を悪くした様子はなかった。 「あの後ね、ちょっと反省した。長年捜していた剣が目の前に現れて、少し頭に血が昇っていたのね。よくよく考えたら、無銘の剣を手に入れるために、なんの罪も恨みもない相手を殺すなんて…」  あの女がしたことと同じだ、と。  そんなことをしたら、ディケイドもアークスも、決して自分を許さないだろう。 「それが理由のひとつめ。もうひとつは…」  フェイリアはちらと横を見た。  そこには、聖跡の入り口がある。 「クレインがあなたを生かして帰したから。クレインがあなたを生かしておこうと決めたのに、その意に反することはできないわ。彼女を怒らせるようなことはしたくないもの」  なるほど、フェイリアもクレインの恐ろしさは身にしみてわかっているはずだった。 「そういえば、何故クレインはアタシを見逃したのかな?」  先刻から、いくら考えてもわからない疑問。  しかし、フェイリアも首を横に振った。  あの人の考えなんて、まるで計り知れない――と。 「ナコ・ウェル…」  フェイリアは立ち上がると、深々と頭を下げた。 「この間は本当にごめんなさい。私、どうかしていたわ」  奈子はちょっと赤くなった。  こうやって正面から謝られると、かえって戸惑ってしまう。 「…言っとくけど、剣は渡さないよ。でも…」  なんだか照れくさくて、奈子はフェイリアと視線を合わせずに、そっぽを向く。 「あんたの気持ちもわかる。アタシも、友達の仇を追って…殺したことがある」  仇討ちなんて、考えてみれば非生産的なことだ。  そうしたところで、死んだ者は帰ってこない。  だけどそれは、第三者の意見でしかない。  奈子にしろフェイリアにしろ、そうしなければ収まりのつかない、獣の心を持った人間なのだ。 「だから…さ、今度あんたが仇と闘うときは、アタシが力を貸してあげ…る」  言い終わらないうちに、いきなりぎゅうっと抱きしめられた。  フェイリアの豊満な胸が顔に押しつけられて、ちょっと息が苦しい。 「許して…くれるの?」 「アタシも、助けてもらった。おあいこだもの」 「私たち、友達になれるかな? 似たもの同士…さ」 「なれるよ、きっと」  友達なんだから、力を貸すのは当たり前だ――。  奈子がそう言うと、フェイリアは目に涙を浮かべながら微笑んだ。 「じゃあ、あなたが危ないときには、私が助けてあげる」  しばらくお互いの顔を見つめていた二人は、どちらからともなく笑い出した。  これで、この件は片付いたのだ。  闘いのその日まで。 「ところで…さ」  奈子には、もうひとつ気になっていたことがあった。  目を覚ます直前に見ていた夢――それとも、あれも幻影だろうか――を思い出したときに気が付いた。  フェイリアは、亜竜と闘っていた。  その横に、鮮やかな赤毛の少年がいた。  どうして、すぐに気付かなかったのだろう。  フェイリア・ルゥという名に憶えがあったのも当然だ。  知り合いの傭兵、エイシスが以前話していたではないか。  彼の故郷の村が亜竜に襲われて多数の死者を出したとき、旅の女魔術師が村を救ってくれた、と。  フェイリア・ルゥ・ティーナ…その魔術師の名だ。  フェイリアはエイシスの魔法の師匠であり、初恋の相手でもあったのだ。  そういえば、エイシスと会ったのは奈子がファージの仇を追っているときだった。 (あいつ、こんなことも言っていたっけ…) 『昔、あんたと似た女がいたよ。腕の良い魔術師でね、いい女だったな』 『小さい頃に両親を殺されて、ずっと、その仇を追っていたんだそうだ。魔術も、そのために身につけた…』 『初めて会った時は、今のあんたにそっくりだった。自分以外の全てが敵といった雰囲気で、研ぎ澄まされた抜き身の剣みたいに、触れれば切れそうだったよ』  なるほど、たしかにあのときの奈子とは似ていたかも知れない。 (あれ? だとするとおかしいな…。いや、そういえばソレアさんも…)  奈子はフェイリアの顔を真っ直ぐに見た。  第一印象では二十四〜五歳、美しい顔立ちをしている。  初めて会ったときに雰囲気が少しソレアに似ていると感じたが、それは髪型や着ているもののためで、優しげなソレアよりもずっと意志の強さを感じさせる目をしていた。  しかし、二人には大きな共通点があったのだ。 「フェイリアってさ…実は見た目よりずっとババアでしょ?」  パ――――ンッ!  言うなり、思いっきり頬を張られた。  フェイリアが、鬼の形相をしている。  奈子は頬を押さえながら、しかし笑って言った。 「力のある魔術師は、見た目の歳なんていくらでも誤魔化せるんだってね? エイシスより年上なんだから、どう考えても三十ン歳…」 「なによ、いきなり失礼な子ねっ! いいこと? 女の本当の魅力は三十をすぎてから…、え? エイシス…?」  このときのフェイリアの、ぽかんとした表情は傑作だった…と、後に奈子はフェイリアと会うたびに思い出して笑い、そしてそのたびにフェイリアを怒らせていた。  終章 〜再会〜  ソレアの屋敷に着いて、奈子が居間の扉を開けると――。  なかば予想したことだったが、赤い髪と、広い背中が目に入った。  エイシス・コット・シルカーニ。  行く先は風まかせ、気ままな傭兵稼業…のはずだったが、最近はちょくちょくソレアの家に姿を見せる。  女好きのエイシスのことだから、きっとソレアが目当てなのだろう。 「いらっしゃい、ナコちゃん」  テーブルをはさんで座っているソレアがにっこりと笑うのと同時に、エイシスがこちらを振り向いた。 「久しぶりだね、エイシス。元気だった?」 「あ…? ああ…」  奈子が最上の笑顔を見せると、エイシスは思いっきり戸惑った表情になる。  どこか、奈子を見て怯えているようにも見えるが、まあそれも無理はない。  なにしろ、「久しぶり、元気だった?」などという普通の挨拶を、奈子の口から聞いたことなどこれまで一度もない。  「久しぶり」の代わりに「なんで、あんたがここにいるのよっ?」、「元気だった?」の代わりに後頭部への蹴り、というのが奈子のエイシスに対する挨拶の典型だった。  しかも、しばらく前に奈子を怒らせて半殺しの目に遭ってる彼としては、愛想のいい奈子などというものは、なにかとんでもないことを企んでいそうで、むしろ不気味でしかない。 「どうしたの? ヘンな顔して?」 「いや…お前、またどこかで頭でも打ったか?」  エイシスはすでに逃げ腰だ。  ソレアもまた、奇妙なものでも見るような表情をしている。 「ナコちゃん…?」 「実はね、お客さんを連れてきたんだ。あんたに会わせようと思って」  これ以上はないというくらい上機嫌な奈子に、エイシスは警戒心を解かない。  この笑顔には絶対なにか裏がある、と。 「入って」  奈子が後ろを振り返る。 「久しぶりね、何年ぶりかしら?」  扉を開けて入ってきた人物を見て、エイシスの動きが止まった。  絶句して立っているエイシスのそばへ行ったフェイリアは、彼の腕や肩をぽんぽんと叩く。 「大きくなったわね〜。本当に」  自分より三十センチ近く長身の傭兵を見上げて、嬉しそうに笑った。  フェイリアと初めて会った頃のエイシスはまだ十二〜三歳の少年で、いまは百九十センチ近い大男なのだから、フェイリアの言葉は文字通りの意味だ。 「フェ…フェア…なのか? 本当に…?」  いまだに自分の目が信じられないといった表情で、エイシスはぎこちなくつぶやく。  最後にフェイリアに会ったのはもう何年も前だったし、なにより、フェイリアはもう死んだと思っていたのだ。  それが、いま自分の目の前に立っている。  以前とほとんど変わらない姿で。  すぐに信じろという方が無理だろう。 「フェア…そうか…生きていたのか…」  喜びと戸惑いが微妙にブレンドされた表情を見せるエイシス。 (もっと喜ぶかと思ったけど…?)  奈子はちょっと不思議に思う。  いつも、不適なにやにや笑いを浮かべているエイシスからは想像できない顔だ。  しかし、すぐに納得する。 (これって…照れてるんだ)  まだ子供で、フェイリアに甘えていた頃の自分を思いだして、恥ずかしがっているのだ。  内心、嬉しくて嬉しくて仕方がないのに、素直になれない。  本当なら、すぐにでもフェイリアに抱きつきたいところだろうが、大人になった自分を見せたくて、なんとか冷静なふりをしようとしているのだ。 「え…と、ま、その、まずは座れよ。いまお茶でも…って、オレの家じゃないんだけど…」  奈子は吹き出しそうになった。 (こいつってば、意外と可愛いところもあるんじゃない)  あの不敵なエイシスが、こんなしどろもどろになって慌てているなんて、めったに見られる光景ではない。  これだけでも、わざわざフェイリアをここまで連れてきた甲斐があるというものだ。  ソレアはまだ、いまいち事情が飲み込めていない様子だったが、とりあえず奈子とフェイリアにお茶を淹れてくれる。 「ところで…誰?」  奈子にだけ聞こえるように、ソレアがささやく。 「エイシスの、初恋の人」 「ああ、あの。フェイリア・ルゥ?」  奈子も小声で答え、立ったままカップを受け取った。  そして、ソファに腰を下ろして話している二人の様子を眺めながらカップを口に運ぶ。  フェイリアがいろいろと、エイシスのことを訊いている。  エイシスは戸惑いがちに、曖昧な返事を繰り返している。 (もう少し、いじめてやろうかな…?)  奈子は、ひとつの悪戯を思い付いた。  なにしろこんなチャンスは滅多にない。 「そういえばさ〜、エイシス?」  奈子はティーカップを持ったまま、壁に寄りかかるようにしている。  口元に笑みが浮かんでいる。  しかしそれはどう見ても、悪意に満ちた笑いだ。 「…なんだ?」 「ハシュハルドの街で、リューリィには会えたの?」  ビクッ  エイシスの動きが凍りついたように止まる。  顔から、血の気がさぁっと引いていく。  まさか、こんなところでその名前を出されるとは…。  リューリィ・リン・セイシェルは、遠く離れたハシュハルドの街に住む、今年十六歳になったばかりの少女である  そして、エイシスとはちょっとした因縁があった。  六年前、ハシュハルドが敵国に攻められたとき、リューリィはエイシスに頼んだのだ。  この街を救って欲しい、と。  その報酬は、彼女自身。  当時はまだ十歳の女の子だったが、十六歳になったら身体で払う、という約束だった。 「きっと、綺麗になってたんでしょうね〜? ハシュハルド一の美女って評判なんでしょ?」  一瞬、背後に殺気を感じて、エイシスはゆっくりと振り返った。  フェイリアの目を見ると同時に、冷や汗が頬を流れ落ちる。 「ふぅぅぅん、そんな娘がいたんだ?」  フェイリアの目は、冷たかった。 「昔は『俺はフェイリアのためなら死ねる!』とか言ってくれたのにねぇぇ? そうよね、エイシスだって、私みたいなおばちゃんより、ぴっちぴちの若い女の子の方がいいわよね〜」 「いや、それは…その…そうじゃなくて…つまり…、ナコッ! てめえ!」  フェイリアの冷たい視線に耐えかねたエイシスは、奈子に責任転嫁しようとする。 「自業自得でしょ、ば〜か!」  突き放すように言うと、奈子は背を向けて居間から出ていってしまった。  まだ、半分くらい残っているティーカップを持ったまま。  エイシスはソレアに視線を移した。  この危機的状況から彼を救ってくれる者がいるとしたら、ソレアの他にはいない。  困ったように、エイシスと、奈子が出ていった扉を交互に見ていたソレアだったが、 「え…と、あ、そうそう! 夕食の買い物に行かなくちゃ!」  見え透いた言い訳を口にして、奈子の後を追う。  あとには、エイシスとフェイリアだけが残された。  もう、逃げ場はない。 「ねぇ、エイシス?」  ゼンマイ仕掛けの人形のようなぎこちなさで、エイシスは振り返った。  フェイリアは微笑んでいる。 「さぁ、ゆっくりと話し合いましょう。久しぶりの再会なんだし、話すことはたくさんあるわ。昔の思い出。この八年間のお互いのこと。そして…」  フェイリアは微笑んでいる。  ただし、こめかみには血管が浮いているし、口元はかすかに引きつっていた。 「そして、ハシュハルドに住む女の子のこととか…ね?」  今夜は、エイシスの人生の中でもっとも長い夜になりそうだった。  エイシスを見捨てて居間から抜け出した奈子は、二階にあるソレアの書斎にいた。  特になにをするでもなく、ぼんやりと窓の外の夕焼けを眺めている。  机の上に置かれた地球儀が、長い楕円形の影を落としている。  少し遅れて階段を上ってきた足音に奈子が振り向くと、書斎の入り口にソレアが立っていた。 「フェイリア・ルゥと何処で知り合ったの?」  ソレアには珍しく、きびしい口調だった。  奈子はそれに答えることができず、視線を逸らす。  聖跡へ近付いてはいけないと、ソレアからもファージからも固く止められていたのだ。 「聖跡へ行ったのね?」  それは、質問ではなく確認。  奈子は、小さくうなずいた。 「…ごめんなさい」  唇の間から、かすかな声が漏れる。 「なにを見たの?」 「なにって…その…いろいろと…」  ほんの一瞬だけ視線を向けると、ソレアは、真っ直ぐに奈子を見つめていた。  それはまるで、奈子の心の奥まで見透かしているような瞳。  めったに見せることのない、きびしい表情だった。  奈子が、ソレアのこんな顔を見たのは過去に一度だけだ。  初めて会ったとき、まだソレアが奈子の素性を疑っていたときのこと。 (ソレアさん…どうしてこんなに怒っているの…?)  そりゃあ、勝手に聖跡へ行ったことは悪かったけど、なんとか無事に帰ってきたんだし、もういいじゃない。  奈子はそう思う。  表向き、生きて帰ったものはいないといわれている聖跡から、こうして帰ってきたんだから、むしろ喜んでくれたっていいはずだ。 (あれ…?)  ソレアの様子は、なにかおかしい。  普通なら、伝説の聖跡へ行ってきたとなれば、その話を根掘り葉掘り聞きたがるのではないか?  先刻のソレアの台詞…「なにを見たの?」は、聖跡の中になにがあったのかを知りたがっている雰囲気ではなかった。  それはまるで…  聖跡の中で、奈子がなにか見てはいけないものを見てはいないか、確認するような…。  だとしたら… 「ソレアさんやファージって…聖跡へ入ったことがあるの?」  ソレアはその問いには答えなかった。  ただ、こう言っただけだ。 「あなた…少し深入りしすぎたわね」  一瞬、殺気を感じたように思ったのは気のせいだろうか。  しかしソレアはすぐに、いつもの優しい笑顔に戻る。 「どうしたの、そんなに怯えて。口封じに殺されるとでも思った?」  まさかその通りだと答えるわけにもいかず、奈子は黙っていた。 「私たちが、そんなことするはずないじゃない」  ソレアはふふ…と小さく笑うが、奈子にとっては笑いごとではない。 「ただ…気をつけてよね。過ぎた好奇心は危険よ。知らなくていいことまで、知ってしまう」  それだけ言うと、ソレアは書斎を出ていった。  夕食の支度があるから、と。 「もちろん、今夜はナコちゃんも食べて行くわよね?」 「…うん、そのつもり」  それから、奈子は少し考えて、階段を下りていくソレアに向かって言った。 「知らない方がいいことなんて、ないよ。なにも知らないことが、いちばん不幸なんだ」 * * *  自分の世界に戻った奈子は、家に帰らずに真っ直ぐ由維の家へ向かった。  考えてみれば、卒業式の日以来、由維には会っていない。  あの『ワサビ入り味噌汁』のあと、ちゃんと謝ってもいないのだ。 (あのあといろいろと、ごたごたしてたもんなぁ。でも…一週間もほったらかしってのは…)  非常にまずい。  今度は、ワサビくらいでは済まないだろう。  奈子は、二階にある由維の部屋を見上げた。  部屋には明かりがついている。  道端の雪を丸めて小さな雪玉を作り、窓にぶつけた。  パシャッ  小さな音を立てて、くだけた雪玉が飛び散る。  三十秒ほどたって、奈子がふたつ目の雪玉を投げようかと思いはじめたとき、窓が開いて小柄な人影が身を乗り出した。 「由維…アタシ」  由維にだけ聞こえるように、ささやくように言った。  と同時に、 「あ、危な…!」  いきなり、由維が窓から飛び降りた。  奈子は窓の下に駆け寄ろうとしたが、由維は驚くほどの身軽さで、全身のバネで衝撃をころして静かに着地する。  一見ニブそうに見える由維だが、実のところ運動神経はかなりいい。  奈子の前に立った由維は…ぷぅっとふくれていた。  それはまるで下関のフグだ。 (あ…やっぱり怒ってる…)  奈子は顔の前で両手を合わせる。 「ごめん、由維。ちょっと…向こうでまたちょっとした事件があってさ…」 「また、どこかで浮気してたんじゃないでしょうね?」  由維は疑わしげに奈子を見上げる。 「し、してないしてない!」 (今回はファージに会えなかったし…) 「ホントに?」 「ホントホント」 (フェイリアは美人だけど、アタシは年下の方が好きだし…)  まさか胸の内を見透かされてるわけではないだろうが、由維はいまいち納得していない様子だった。  口を尖らせて文句を言う。 「せっかく春休みだってのに、奈子先輩ってば向こうに行ってばっかり。ちっとも遊んでくれない」 「春休みって…一年生はまだ学校じゃん?」 「三月後半の授業なんて、誰も聞いてませんよ。期末試験も終わったし」  由維が、奈子の腕にぎゅっと抱きついてくる。  服の上から見ただけではほとんどわからないような胸のふくらみも、そうするとはっきり感じられた。  薄いセーターを通して、胸の感触が伝わる。 (ふぅん…由維も少しは成長してんだねぇ…)  その新鮮な驚きに、奈子の頬が少し赤くなる。 「えっと…じゃあ、さ…」  奈子はそっと由維の身体に腕をまわし、耳元でささやいた。 「明日、学校サボれる? デートしよっか?」 「…う〜ん」  奈子の胸元に顔をうずめるような姿勢のまま、由維は考えるような素振りを見せる。 「…どうしてもって言うんなら、付き合ってあげてもいいですよ?」  そんな由維の強がりに、奈子は小さく笑った。  片手を由維の頬に当て、上を向かせる。  二人は、鼻が触れ合うほどの距離で見つめ合った。 「…どうしても。アタシ、由維とデートしたいの」  由維を抱いた手に力を込める。  上を向いたまま、由維はまぶたを閉じた。  なんの迷いもためらいもなく、奈子は唇を重ねる。  唇と唇、舌と舌が触れ合う感触が心地よい。  と、その時、  青白い閃光が一瞬、二人を照らした。  そして… 「お二人さ〜ん、近所の人に見られないように気をつけてね〜?」  頭の上から、陽気な声が聞こえてくる。  開けたままにしていた窓から、由維の姉の美咲が二人を見おろしていた。  その手に、大きなストロボをつけたカメラがあるのを見て――  由維を抱きしめたまま、奈子は固まってしまった。  そして由維は――  奈子に抱きしめられたまま、何故か小さくVサインを出していたりする。  あとがき  う〜ん、長い!  四百字詰め原稿用紙で三二○枚以上。  過去最長の『レイナの剣』を一気に百枚近くも抜きましたね〜。  書き下ろしオンライン小説でこれだけ長くなると、読者の皆さんが途中で力尽きていないか心配になるのですが、いかがでしたでしょうか?  ああ、あとがきを読んでいるということは、無事に読み終わったんですね。  え? あとがきを先に読んでる?  それはいけませんね〜、この先一部ネタバレを含みますので、どうぞ本編からお読みください。  いや…そもそもこのシリーズってどのくらい読者がいるんでしょう? 「新作が出るたびにちゃんと読んでるって人、手を上げて?」  …少ないですね(泣)。  しかし…よくよく考えてみると、『光の王国』の本編って久しぶりです。  『レイナ』は一月公開だったから、なんと約九ヶ月ぶり!(このあとがきは、十月一日に書いています)  間に『チョコレート娘』と『リューリィ・リン』があったので、そんなに間が開いているようには感じなかったのですが、待ちくたびれた方がいたとしたら申し訳ないことです。  なにしろ『光』は原則として書き下ろしのみなので、どうしても間隔が長くなるんですよ。  では、ちょっと作品解説などをしましょうか。  あ、その前に、先に謝っておきます。  ファージのファンの方、ごめんなさい!  ついにやっちゃいました。  今回ファージの出番ナシ。  いずれ、彼女メインの話を書く予定なのでご容赦を。 〈序 エモン・レーナ〉  『レイナの剣』同様、序章は昔話から始まります。  いまからおよそ千五百年前、黄金竜の騎士エモン・レーナと、後のトリニア国王エストーラの出会い。  エモン・レーナはこれまでも何度か名前が出てきているはずですが、本人は今回が初登場です。 〈一 三月のうさぎ〉  『不思議の国のアリス』の有名なシーン、「気狂いお茶会」の出席者といえば、帽子屋、三月うさぎ、そしてヤマネです。  なんでも、雄のウサギは三月になると発情期を迎えて気が狂ったようになるそうで、そこから「三月うさぎのように気の狂った」という慣用句が生まれたそうな。 (あ、これはイギリスの話ね。日本のウサギがどうなのかは知りません)  で、なぜこの章のタイトルが「三月のうさぎ」なのかというと…。  ちょうど三月の話だし、それにほら、奈子がちょっと発情気味でしょ?(笑) 〈二 四十六億年の旅〉  この章は、NHKスペシャル『生命〜四十億年はるかな旅〜』のサントラをBGMにしてお読みください(笑)。  なんとゆ〜か、『剣と魔法もの』ファンタジーにあるまじき内容ではないでしょうか。  でも『剣と魔法が支配する異世界』だからといって、世界が象や亀の上に乗っていたり、カミサマが六日間で創ったりするんじゃあまりにも安易でしょ? 〈三 ファ・ラーナの聖墓〉  『黄昏の堕天使』も『レイナの剣』も、クライマックスの章タイトルがそのまま作品タイトルになっているのですが、その理屈でいくと今回のクライマックスはこの章でしょうか。  奈子だけに焦点を当てればそうかも知れませんね。  第五章の奈子はほとんどただの傍観者ですから。  書いてる本人はこの章がいちばん気に入ってます。  やっぱり、「奈子いじめ」は楽しいです(笑)。  ところで、このタイトルは「ふぁ・らーなのせいぼ」と読むのですが、パソコンはなかなか正しく漢字変換してくれません。  「ファ・ラーナの聖母」ならまだしも、「ファ・ラーナの歳暮」なんて変換された日には…(笑)。 〈四 聖跡の番人〉  実は、下書き段階では存在しなかった章。  第五章が長くなりすぎたので、前半部分を分割したのでした。 〈五 記憶の万華鏡〉  『レイナの剣』も昔話が多かったけど、今回はそれ以上。  しかも、『レイナ』と違って複数の時代の話が入り乱れているから始末が悪い。  多分読んでるうちに混乱してきたのではないでしょうか?  プロなら絶対許されないことだけど、私はアマチュアなので好き勝手やらせてもらいます(笑)。  ま、これから先はだんだん現代の話が中心になってくるはずなので、今回だけご勘弁を。 〈終章 再会〉  『リューリィ・リン』に続き、今回もエイシスは受難の人です、ざま〜みろ(笑)。  いえ、別に、エイシスが女性読者に人気があるから妬いてるとかじゃなくて…。  そして、ラストの締めはいつも通り由維×奈子のからみです。  そういえば由維って、たいてい一章とエピローグにしか登場しませんね。  その割に読者の人気は高いみたいですが。  最後に今後の予定を…。  次回作は一応、番外編『殺意の女神』を予定しています。  インタルードじゃなくて、まっとうな(?)番外編ね。  本編のストーリィとはあまり関わりのない、奈子の冒険を書こうかと考えています。  その次は…本編第六話『金色の瞳』を予定していたのですが、第七話『銀砂の戦姫(仮)』と順序を入れ替えるかも…。  『殺意の女神』は九九年初め頃、その次は五月頃を予定しておりますので、どうぞお楽しみに。  それでは、また、次の作品でお会いしましょう。 一九九八年十月 北原 樹恒 kitsune@mb.infoweb.ne.jp 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/