光の王国7 金色の瞳(前編)  序章 金色の髪の少女 〜王国時代〜  鮮やかな金色の髪を揺らして、ひとりの少女が通りを駆けていた。  顔には満面の笑みを浮かべて、軽やかな足どりで。  歳の頃は十五〜六歳。身体つきはやや小柄だが、その割には発育の良い胸が揺れている。  腰近くまで伸ばした長い金髪が風になびく。やや赤みすら帯びた、濃い色の髪だ。  大きなはしばみの瞳は、喜びに満ちあふれている。  その顔はどちらかというと子供っぽく、身に着けている王立士官学校の制服とは妙に不釣り合いだった。  少女が走っているのは、街の西部の、貴族の屋敷が連なる区画。石畳の舗装がされた広い通りだ。  この区画に屋敷を構えられるのは上級の貴族に限られており、建ち並ぶ屋敷はどれも立派な建物ばかりだった。  その中でも特に歴史を感じさせる造りの建物に、少女は入っていく。広い庭にたくさんの樹が植えられた、落ち着いた雰囲気の屋敷だった。  門番をしている若者に手を振りながら、走る速度を少しもゆるめずに玄関に飛び込んだ。  そこで廊下の掃除をしていたメイドと衝突しそうになり、軽い身のこなしで避けて止まる。  一瞬驚いた様子のメイドだったが、こんなことは慣れっこなのか、静かに微笑んで頭を下げた。 「お帰りなさいませ、お嬢様」 「ね、お祖父様は? お祖父様はどこ?」  瞳を輝かせて、少女は訊く。 「中庭ですわ、お嬢様」  その答えを最後まで聞かずに、少女はその場から走り去った。  後ろ姿を見送っていたメイドはふっと小さな笑みを漏らすと、中断した掃除を再開した。  よく手入れされた芝生の緑が鮮やかな中庭。  枝をいっぱいに広げた樹々が初夏の日差しをさえぎって、気持ちのいい木陰をつくりだしている。  小さな丸テーブルと椅子が二脚置かれており、そのひとつに座って、膝の上で本を広げている老人がいた。  七十は過ぎているだろうか。髪は真っ白で、顔には深い皺が刻まれている。  軽く目を伏せて、一見、眠っているようにも見えた。 「お祖父様!」  少女が庭に駆けだしてくる。  老人の前で立ち止まると、息を整えて言った。 「いいお知らせがあります」  喜びと、誇りに満ちあふれた表情。 「私、ついに青竜の騎士の候補に選ばれたんです!」 「ほう…」  老人がゆっくりと顔を上げた。 「来週、最終試験がありますわ」 「相手は誰かね?」 「サントワ家の、エイシード・ファン。こう言ってはなんですが、正直なところ私の敵ではありません」  自信たっぷりに、少女は断言した。  試験に合格することを、微塵も疑ってはいなかった。  それだけ、自分の能力には自信があった。 「お前ならきっと、青竜の称号を受けられるだろう」  老人の口調は、いつもと変わりない。  しかし、その目元はわずかに笑っているようにも思えた。 「試験の時も自分を見失わず、レイシャ家の娘である誇りを忘れずに戦いなさい」 「ええ、もちろんです。お祖父様」  少女は素直にうなずいた。  祖父のことを、心から尊敬していた。  祖父のおかげで、ここまで来れたのだ。  真っ先に知らせて、喜んでもらいたかった。 「お前なら、いずれ青竜の称号を受けるのは間違いないと思っていたが、こんなに早くとは…」  嬉しそうに目を細めて言った。 「お前は、素晴らしい娘だよ、ファーリッジ」  一章 オホーツクの海辺  海から吹きつける強い風に、髪がたなびく。  まだ八月の上旬というのに、オホーツク海を渡る風は冷たかった。  国道二三八号は北海道の北東部、オホーツクの海岸に沿って網走から稚内までを結んでいる。  なだらかな海岸線がどこまでも続く、単調な道。  その中ほどにある、この地方では比較的大きな港町の近くを、奈子と由維は自転車で走っていた。  由維は小さなリュックと釣り竿を背負っている。  時折、車が二人を追い越していく。  国道にしてはそれほど交通量の多くない道だが、夏休み中ということで地元以外のナンバーも多い。  やがて、漁港が見えてきた。  二人はちらりと顔を見合わせると、そちらへ進路を変える。  五分とかからずに、防波堤の基部に着いた。  風が強い。  大きな波が打ち寄せている。  横の方に目をやると、近くの砂浜は数十メートル沖まで真っ白だ。  空は曇っているが、雨が降るほどの天気ではない。  防波堤の上を、自転車に乗ったままゆっくりと進んでいく。強い風にあおられないようにバランスをとりながら。  波は高いが、防波堤を乗り越えるほどでもなかった。  先端近くまで来て、二人は自転車を降りる。 「すごい風ですね〜、奈子先輩」  髪を押さえながら由維が言う。 「ホント。海なんて鉛色してるし、とても八月とは思えないね。石狩や小樽の海とは大違い」  二人が住む札幌近郊の海岸であれば、この季節は大勢の海水浴客で賑わってるはずだ。  ここにはもちろん、海で泳ごうなどという物好きはいない。  たとえ波がなかったとしても、とても泳ぐのに向いた水温ではないからだ。  気温も、今日は二十度を下回っているだろう。 「これじゃ泳げませんね。いちおう水着も持ってきたのに」 「由維、あんた死ぬ気?」  由維は笑いながら、ここまで背負ってきた持ってきたルアーフィッシング用の釣り竿をつなぎ、リールを取り付ける。  糸の先に、ブラーと呼ばれる短冊形の鉛に釣り針をつけた仕掛けを結んで、餌の代わりに、匂いと味を付けた樹脂製の疑似餌を針に刺す。  奈子は防波堤の上に直に座って、そんな様子を見ていた。  ここは、札幌から車で六時間ほどはかかる、オホーツク海沿岸の街。二人は、由維の両親と一緒にキャンプに来ていた。  夏休み恒例、宮本家の家族キャンプ…のはずだったのだが、由維の姉の美咲が参加しなかったので、代わりに奈子が誘われたのだ。  小さい頃から家族同然の付き合いがあるから、いまさら遠慮することもない。  キャンプ場はここから少し離れたところで、二人は車に積んできた自転車で、サイクリングがてら釣りに来たというわけだ。 「晩ゴハンのおかず、釣れるといいんですけどね〜」  楽しそうに言いながら、由維は仕掛けを防波堤の隙間に沈めた。  リールをフリーにして、底に着くまで糸を送り込む。 「そううまくいくかな?」  半信半疑の面持ちで奈子は言った。  その言葉が終わらないうちに、竿先がググン、と引き込まれる。 「来た来たぁ!」  歓声を上げながら、由維はリールを巻く。  竿全体が大きく曲がっている。  ピシャッ!  水面で魚が暴れ、水しぶきが上がる。 「それっ!」  竿を大きくしならせて、由維は獲物を取り込んだ。 「わぁい! 大っきい!」  コンクリートの上でびたんびたんと跳ねまわっている魚に飛びかかって押さえつける。 「クロゾイ、ゲットぉ!」  得意げに獲物を持ち上げてみせた。  三十センチ近いクロゾイ。  奈子も口元をほころばせる。 「やるじゃん。刺身が美味しいんだよね〜、それ」 「へへへ〜、毎週TVで『釣〜りんぐ北海道』見てますもん」  リュックに入れてきたひも付きの網に魚を入れ、活かしたまま海に沈めておくと、由維は再び竿を手に取った。  奈子は竿を出さずに、ぼ〜っと考え事をしていた。  少し前にあった、空手の大会のことだ。  ふと右手を見る。  テーピングの巻かれた手。小さなものではあるが、骨にひびが入っていた。  本来なら、奈子の前に立ちふさがるほどの相手はいないはずだった。  中学時代に一度も勝てなかった先輩のめ〜めこと安藤美夢は、高校では階級が違う。  なのにその美夢が、奈子と同じ階級でエントリーしてきたのだ。  自分本来の階級である軽量級には、手応えのある敵がいないからという理由で。  決勝はこの二人の対戦となった。  当然のことだった。  異世界での幾多の実戦を経験してきた奈子の実力は、高校女子のレベルをはるかに凌駕するものとなっていたし、美夢はもともと十年に一人の天才といわれた才能の持ち主だ。  決勝の試合場で、奈子は美夢と向かい合った。  いままで、一度も勝てたことがない相手だった。  軽量級でもっとも小柄であるにもかかわらず、その実力はずば抜けている。  確かに筋力やスタミナという点では、他の選手に劣るだろう。  しかし美夢には、それを補ってあまりあるスピードと、そして間合いの見切りがあった。  それは、天性の才能だった。  空手のような素手の打撃技では、突きや蹴りが本来の威力を発揮する範囲はきわめて狭い。  ほんの少し当たるポイントがずれただけで、その威力は大きく削がれてしまう。  それ故に、たとえ瓦やブロック、あるいは氷柱などを砕く力を身につけても、動く人間を一撃で倒すのは容易ではないのだ。  それを美夢は、いとも簡単にやってのける。 自分の技が最大の威力を出す間合いを瞬時に見切り、確実にその間合いで打撃をヒットさせてくる。  タイミングさえ完璧なら、体重と筋力の不足はさほど問題ではない。  もともと北原極闘流の技は、己の力を百パーセント破壊力に転換することを真髄としている。  相手に一瞬の隙をついて繰り出される美夢の打撃は、防御不可能とまでいわれていた。  奈子は考える。  どうやって闘えばいいのだろう。  いまの奈子の力を持ってしても、美夢の攻撃をかわすのは至難の業だ。  あの北原美樹でさえ、「美夢の蹴りを防御できるかどうかは五分五分」とまで言っていたのだ。  自分から仕掛けるしかない。  しかし生半可な攻撃など、いとも簡単にかわされるに違いない。  だとしたら…  開始の合図と同時に、奈子は前に出た。  美夢の間合いに入る寸前で、左の正拳突きを繰り出す。  奈子にとっても遠すぎる間合い。これはフェイントだった。  美夢は難なくかわして…  それは賭けだった。  奈子の拳をかわした美夢が、いちばんの得意技である右の上段回し蹴りで反撃してくる、と。  そう読んでいた。  相手の動きを見てからでは遅い。  美夢の動きを捉えるより先に、奈子は右腕をフック気味に振った。  拳に鋭い痛みが走る。  奈子のこめかみを直撃するはずだった上段蹴りを、拳で受けとめていた。  骨まで響く痛みに、一瞬顔をしかめる。  しかし痛かったのは美夢も同じだろう。  ほんの一瞬動きが鈍った美夢に対し、前に出ながら左右の突きを連打する。  手の痛みなど気にしていられない。  間髪入れずに鳩尾を狙った前蹴り。  クリーンヒットする。  美夢の身体が曲がる。  とどめは左の正拳。  しかし美夢はぎりぎりのところで奈子の拳をかわすと、その腕をつかんできた。  その前の前蹴りが効いているのか顔をしかめてはいるが、そのまま腕を絡ませて肘を極めると、奈子の腕に体重を預けてくる。 (立ち関節――?)  北原極闘流は、空手といいつつも投げや関節、寝技も認められた総合武術だ。  とはいえ、やはり打撃技が中心なのは間違いないし、美夢の場合は特にその傾向が強い。  それだけに、この反撃は予想外だった。  奈子の身体が傾く。  このまま倒れれば、腕は完全に極められてギブアップするしかない。  一瞬の躊躇も許されなかった。  自由な右手の親指、人差し指、中指の指先を揃え、くちばしのような形を作る。  そのまま手首のスナップをきかせて、鋭く揃えた指先を、ほとんど密着した態勢の美夢の、胃を狙って打ち込んだ。  小さなうめき声がもれる。  それでも美夢は腕を放さず、奈子を寝技に引き込んだ。 「くぅぅっっ!」  倒れながら、奈子はもう一度揃えた指先で、袖をつかんでいる美夢の手の甲を打つ。  鍛え抜かれた指先と手首を持つ者だけが可能とする、現代的なスポーツ空手ではまず使用されない技だった。  手の甲は、人体の中で鍛えることのできない部位のひとつ。  ここを尖った固いもので強打されれば、手の骨など簡単に骨折する。  美夢の手から一瞬力が抜けた。  その隙を逃さず、奈子は美夢の腕をふりほどいて立ち上がった。  そして――  美夢はそのまま、立てなかった。  腹を押さえたまま、うめき声を上げている。  審判の右手が、高く挙げられた。  奈子は、信じられないものを見るような目で、足下に倒れる美夢を見おろしていた。  すぐには、信じられなかった。  あの、め〜め先輩に勝てたなんて。  本当に、自分はそれだけ強くなれたのか。ひょっとして、あのときたまたま美夢が体調を崩していただけではないのか。  そんな気さえしてくる。  しかし、たしかに勝ったのだ。  そうでなければならない。  自分は、ただの高校生ではない。  マイカラスの騎士の称号を持ち、そして、人を殺したことすらあるのだから。  生半可な相手に負けるなど、許されないことだった。  それがたとえ、安藤美夢であろうと、北原美樹であろうと。  自分と同じ、血に染まった拳を持つ美樹ともう一度闘ってみたい――奈子はそう思った。  奈子はぼんやりと、外海を見ていた。  波が高い。  小さな漁船が波間に揺れている。  ひとりで器用に船を操りながら、網を揚げている。  時折、大きな銀鱗が光る。  カラフトマスだろうか? サケにはまだ少し時期が早いはずだ。  防波堤の際には、日本海では見かけない大きなクラゲが、たくさん打ち寄せられている。  頭から触手の先まで、五十センチはありそうだ。 (たとえ波がなかったとしても、これじゃ泳げないな…)  それが人にとって有害なクラゲかどうかはわからなかったが、まあ試してみない方が無難だろう。  八月上旬なのに泳げない海。  暖かい日本海側で生まれ育った奈子には、カルチャーショックだった。  この季節にこの気温、この風、この波。そもそも海の色がぜんぜん違う。 (札幌とは、ぜんぜん別の世界みたい…)  わざわざ次元を超えなくても、異質な世界はいくらでもあるんだな…と、奈子は妙な感心をした。  同じ北海道でさえ、日本海側とオホーツク海側ではこれだけ違うのだ。  空を見上げる。  雲が、速い速度で流れている。  たまに、その切れ目から陽が射し込む。  次に、いま自分が座っている防波堤を見る。  奈子が座っている場所のすぐそばに小さな割れ目があって、そこに小さな花が咲いていた。  ほんの小さな、か細い草。  いじけたような小さな黄色い花。  名前は知らないが、道端でもよく見かける雑草だった。  もっとも、ここに咲いているのは普段見かけるものよりずっと小さい。 (こんなところで…)  土なんてほとんどない。  風に飛ばされてきたわずかな砂が、コンクリートの割れ目に溜まっているだけ。  養分だってほとんどないだろう。  それでも、どこからか風に乗ってやってきた種が、ここで育ち、花をつけているのだ。  海からの強い風が吹きつけ、気温も低いこんな厳しい場所で。  ときには波もかぶるだろう。  それでも、たしかに生きている。  見ているうちに、なんだか涙が出そうになった。  生きることの厳しさ。  そして生命というものの強さ。  それを、見たような気がした。 「奈子先輩…?」  三尾目の獲物、二十五センチくらいのハゴトコを取り込んだところで、由維が振り返った。  ずっと無言なので、不思議に思ったのだろう。  奈子の顔を見て、それから、奈子が見ていたものに気づいた。 「花…こんなところに」  コンクリートに手をついて花を覗き込み、それから奈子の顔を見上げた。 「なんだか、素敵ですね」  そう言うと奈子の隣に移動してきて、ぴったりと身を寄せる。  風は冷たいけれども、由維が触れた部分はとても暖かかった。  奈子は小さく笑うと、由維の頭に腕を回してぎゅっと抱きしめた。  身体の芯が、ぽっと暖まる。  もう一度、テーピングの巻かれた右手を見る。  美夢の蹴りを受け止めて、ひびの入った拳。  何度も、血に塗れた拳。  だけど…  それでも、由維は自分のことを好きでいてくれる。  それが救いだった。  由維に少し体重を預ける。 「由維…」 「なに?」  少しだけ間をおいて、 「…好きだよ」  そう言うと、由維の頬が少しだけ朱くなった。         * * *  夕方近くなってキャンプ場へ戻る途中、海岸に建つ近代的な建物が目にとまった。  道路脇に、案内板が立っている。 「…水族館?」  奈子も行ったことがある小樽水族館のような、大きな施設ではない。  それよりもずっと小さな建物だ。  それでも夏休み中のせいか、駐車場は六割ほど埋まっている。  このまままっすぐ帰っても夕食には少し早い。  ふたりは、なんの気なしに寄り道することにした。  まだ新しい施設らしい。  大きくはないが、きれいで清潔な建物だ。  館内は子供連れが多い。  奈子と由維は入場券を買うと、手をつないで中に入った。  展示されているもののほとんどは、なじみの深い北の海の魚。  魚屋でよく見かける魚、食べたことのある魚が多くて、かえって親しみがもてた。  サケ、マス。  ソイやカジカ、イワシやニシン。  タラの仲間。  カレイにヒラメ。畳ほどもあるオヒョウの標本に驚きの声を上げたり。  凶悪な顔のオオカミウオとにらめっこしたり。  先刻見たクラゲもいた。  海の魚の他に、イトウやオショロコマなど、北海道固有の淡水魚も展示されていた。  生物の展示だけではない。  オホーツク海らしく、流氷ができるメカニズムの説明があったり。  その横には、ひと抱え以上もある本物の流氷が展示されていたり。  ローカルな内容ではあるが、けっこう楽しい。  売店には、 「…ほたてチップ?」  などという、妙なお菓子も売っていた。 「見た目はポテトチップと変わんないけど…」  パリ…  一枚試食してみる。 「味はどっちかというとおつまみ系ですね〜」  順路に従ってひとつひとつの水槽を見ていって、やがて、出口が近づいてくる。  最後の部屋に、床から天井までつながった、円柱形の水槽があった。  大人ふたりで手が届くくらいの直径だ。  周囲に数人の観客がいる。  奈子たちも近づいてみた。  中にいたのはクリオネだ。  北の海に棲む、貝殻を持たないくせに貝の仲間。  見た目はどちらかというと、羽根の生えた小さなウミウシといった感じだ。  ライトアップされた幻想的な水槽の中を、数十匹のクリオネが漂うように泳いでいる。 「へぇ…私、生きてるクリオネ見るのって初めて」  由維が嬉しそうに言う。  そんな声を聞きながら、奈子は鈍い頭痛を感じていた。 (なんだ…?)  妙な既視感がある。  この水槽に? 何故?  突然の頭痛に顔をしかめながら、そうっと手を触れてみた。  ガラスほどには冷たさを感じない、硬質アクリルの手触り。  そうすると、いっそう頭痛がひどくなった。  なにか…、なにかを思い出しそうな気がする。  なにか、忘れていた大切なことを。  そう…なにかを見たはずだ。  こんな場面に、覚えがある。  こんな…円柱形の…光。 「――っっ!」  いきなり突き刺すような激痛を感じて、奈子は頭を抱えてしゃがみ込んだ。         * * * (いったいなんだったんだろう…)  寝袋の中で、奈子は考えていた。  人里離れた夜のキャンプ場は、ひどく静かだった。  時折、キタキツネの叫び声が聞こえるくらいのもの。  あとは、隣に寝ている由維の静かな寝息。  昼間の頭痛は、ロビーのベンチで少し休んだだけで嘘のように治ってしまった。  そのままキャンプ場に戻って何事もなかったかのように過ごしていたのだが、どうにも気になった。 (いったい…?)  いくら考えてもわからない。  なにか、向こうの世界に関することだろうとは想像できた。  しかし思い出せない。 (今度向こうへ行ったときに、ソレアさんにでも相談してみるか…)  そんな結論に達して、奈子は考えるのをやめた。  テントの中には由維とふたりきり。  由維の両親は、隣のテントだ。  奈子の隣に、由維が寝ている。  ほとんど密着した状態で。  このメーカーの寝袋は、ファスナーでふたつをつなげて、大きなひとつの寝袋として使うこともできた。  このあたりは、夏でも夜の気温はかなり下がる。  それだけに、由維の体温が心地よい。  別に、エッチな意味ではなくて。  ただ、由維に触れているととても落ち着く。  やっぱり、恋愛感情とは少し違うのかもしれない。  これまでに何度もキスしたり、それ以上のことをしようとしたりもした。  でもそれは、考えてみると性的な『欲情』とは少し違う。  ただ、由維に一番近い存在であることを確かめたかった。  その証がほしかった。  お互いに、他の誰よりも大切な存在であること、それは確かなことだった。  二章 墓守  奈子が目を覚ますと、もう夜が明けていた。  ぽ〜っとした表情で天井を見上げて、自分がいま、どちらにいるのかを考える。  夏休み中は頻繁に行き来しているので、つい混乱してしまうのだ。  横を見ると、鮮やかな金髪の少女がすやすやと寝ていた。  向こう、だった。  ソレアの家だ。 (まさか…)  いやな予感がして、奈子はばっと飛び起きる。  自分の身体を見て、安心したように大きく息を吐いた。  大丈夫、今日はちゃんと寝間着を身に着けている。  ファージと一緒に寝るときは油断ができない。  以前、寝る前に一緒にワインを飲んでいて、翌朝気がつくと全裸で抱き合って寝ていたことがあった。  身体中キスマークだらけで。 (とりあえず一安心…)  別に、ファージとそういう関係を持つことに抵抗があるわけではないが、由維に見つかると後が面倒なのだ。 「ん…」  ファージのまぶたがぴくりと動く。  ゆっくりと目を開いた。  猫のような金色の瞳が、こちらを見ている。 「…おはよ、ナコ。ねえ、今日はヒマ?」  手で顔をこすりながら、ファージは身体を起こした。         * * *  そこは、廃墟だった。  荒野の中に遺る、破壊され尽くした都市の跡。  ところどころに雑草が生えている他は、生きものの気配はない。  王国時代の末期…いまから千百年近く前に戦争で破壊され、そのまま放棄された都市だという。  奈子とファージは、廃墟の中を歩いていた。  原形をとどめた建物はほとんどなく、瓦礫が山となっているが、大きな通りを選んでいけばそれほど歩きにくくもない。  考えてみると、こうしてファージと二人で遺跡を調べに来るのも久しぶりだった。 「ここには、なにがあるの?」  奈子は訊いた。  朝食のあと、ほとんどなんの説明もなしに連れてこられたのだ。  まあ、ファージのそうした行動はいつものことだから、いまさら気にもならない。 「…別に、なにも」  ファージがつまらなそうに応える。 「なにも…?」 「古くから知られている遺跡だから、いまさらなにもない…はずなんだよね」 「じゃあ、どうして…」 「最近、ここで大々的に発掘を行った連中がいるらしいんだよね。いまさらなにも発見がないのはわかっているはずなのに」  ファージは立ち止まると、腕組みをして首を傾げた。  どうにも、腑に落ちないといった表情だ。 「発掘って、誰が?」  奈子は周囲をぐるっと見回してから、ファージの方を振り返った。 「トカイ・ラーナ教会」 「トカ…なんだって?」  初めて耳にする単語を訊き返す。 「王国時代より後に広まった、ファレイア系の宗派だよ。いまの大陸で最大の勢力を誇る教会だね」  ファージもゆっくりと周囲に目をやる。 「なにを探っているのか知らないけど、ほっとくわけにはいかないでしょ。私の立場上」 「…!」  その口調は何気なかったが、奈子は敏感に反応した。  ファージが自ら『墓守』について触れる発言をするのは初めてだった。  王国時代の遺跡の発掘につきあわされたことは、過去何度もある。  しかしその時は、ファージの個人的な興味で王国時代の失われた知識を求めているものだと思っていた。  三ヶ月ほど前に、フェイリアから『墓守』のことを聞かされるまでは。  いまから千年前、大国間の全面戦争でこの大陸そのものが滅亡の危機に瀕した時代。  未来を憂えて、強大な魔法の知識を封印しようと考えた者たちがいたという。  長い戦争とそれに続く暗黒の時代の中で、王国時代の大いなる知識はほとんどが失われてしまっていた。  過去の遺跡の中から、そうした知識を復活させるものがいないように監視する者たち。  過去の知識を受け継ぎ、封印のためだけにその力を用いることを許された者たち。  『墓守』と呼ばれる、そうした者たちが存在するという。  フェイリアは、ファージとソレアがそうした墓守の末裔であると考えているらしかった。  もちろん二人とも、自分からはなにも言わないが。  だから、奈子もそれについて訊ねてみたこともない。  ファージがそれらしきことを口にするのは、これが初めてだった。  奈子がフェイリアから墓守について聞かされていることは、ファージも気づいているのだろう。  だけど、お互いそのことに触れようとはしない。  それが、暗黙の了解だった。  いままでは。 「ファージ…?」  ちらりと奈子の方を見て、ファージはかすかに笑った。  なんとなく、いつもの表情と違う。  普段、奈子といるときの無邪気な笑いでもなく、敵と対峙したときの残酷な笑みでもなく。  あえて言うなら、自嘲…だろうか。 「フェイリア・ルゥの言うことがすべて正しいわけじゃないけどね」  それだけ言うと、ファージは歩き出した。  口をつぐんで、足下にあった石のかけらを蹴飛ばす。  いまはこれ以上のことを話すつもりがない、という意思表示だった。  仕方なく、奈子も質問をあきらめてファージのあとを追った。  廃墟は、どこまでも続いていた。  半分土に埋まった瓦礫の山ばかり。  千年以上も前の廃墟なら、完全に土中に没していてもおかしくないのでは…奈子はそう思って訊こうとしたが、ファージの表情を見て思いとどまった。  いつになく真剣な表情で、じっと廃墟を見つめている。  なにか、声をかけるのもためらわれる雰囲気があった。  奈子の前で見せたことはほとんどない、暗い表情だ。  どことなく怒っているようにも、あるいは泣いているようにも見えた。  下唇を噛んで、ぎゅっと拳を握っている。  いったいどうしたというのだろう、ここが、そんな重要な遺跡だというのだろうか。  しばらく、廃墟よりもファージの様子に気を取られていた奈子だったが、それでもやがて気づいた。  建物がみな、一定の方向に壊れている。  街の中心でとてつもない大爆発があって、その爆風で破壊されたのだろうか。  だとすると、いまふたりは爆心地の方に向かって歩いているようだった。  進むにつれて、瓦礫の山も目につかなくなる。  それは、瓦礫も残さないほどの破壊があった証だった。  やがて奈子が目にしたのは…。  直径二百メートルほどの、緩やかなすり鉢状の地形だった。  黒い地面は滑らかで、固い。  しゃがんで、手を触れてみた。  土や石というよりも、ガラスのような手触りだった。想像を絶する高温に熔かされた岩石だろう。  ファージは、無言で歩いて行く。  奈子も立ち上がって続いた。  すり鉢の底に着くと、ファージは立ち止まって振り返る。 「ここが、爆心地。竜騎士の魔法のただ一撃で、都市がひとつ、消滅したんだ」  感情のこもらない、台本を棒読みするような声で言った。 「竜騎士の…魔法…」  確かに、それしか考えられない。  王国時代後期の高度な技術による建築物は、何事もなければ千年後の現在までほとんど無傷で残る。  この大陸に、ひとつの都市をここまで徹底的に破壊する力は現存しない。それを可能とするのは、王国時代の竜騎士の力だけだ。 「ここは、いつ頃からこうなの?」 「トリニアの暦で…四百三十年頃かな」 「四百三十年…?」  奈子は、あれ…と思った。予想外の答えだった。それでは計算が合わない。  この都市は、トリニア王国と後ストレイン帝国の、いわゆる終末戦争で破壊されたものだと思っていた。  しかし、両国の戦争が始まったのは四百八十年頃だ。 「そんな時代に大きな戦争があったの? トリニアの最盛期じゃない」  まだ、後ストレインがトリニアに対抗するほどの力を持たなかった時代。  トリニアに敵らしい敵は存在しなかったはず。 「…戦争というか…、内乱…かな」  ファージが言いにくそうに答える。 「内乱?」  四百三十年頃に?  そんな出来事があっただろうか…と考える。  奈子もトリニアの歴史書は何冊か読んでいるが、どうも記憶にない。  もっとも、奈子の読書は大半が斜め読みだから、見落としていても不思議ではないのだが。 「それにしても、千年以上前に廃墟になったにしては、ずいぶんきれいに残ってるね」  奈子は足の下の地面を蹴った。 「もっと、土砂に埋まってるかと思ったけど」 「ここは、何度も発掘の手が入っているから」  ファージが言うには、この街は過去何度となく発掘が行われているのだという。  その結果、街全体がきれいに掘り出されているのだ、と。 「だから、いまさら新しい発見があるとも思えないんだけどね。連中、いったいここでなにを発掘してたんだ…?」  腕を組んで、片手を顎の下に当てる。 「ずいぶん大々的な発掘を行っていたらしいし…。トカイ・ラーナ教会が、いまさら些細な遺物に興味を持つとも思えないけどな…」  王国時代の失われた知識を求めるのはどこの国も同じだが、なかでもアルトゥル王国、ハレイトン王国、そしてトカイ・ラーナ教会がもっとも遺跡の発掘に力を入れているという。  現在の大陸における三大勢力だ。  いずれも、大陸の覇権を狙っていることに変わりはない。 「こいつらはね、王国時代の力、知識について既にかなりのことを知ってるんだ。墓守だって万能じゃない。私たちが封印しきれなかったものも少なくないからね」 「ファージ…」  奈子は驚いてファージを見た。  いまはっきりと『墓守』について認めた発言だった。 「…フェイリア・ルゥから聞いたんでしょ? 王国時代の知識を封印する『墓守』のこと。おおよそのところは、彼女の言ってたとおりだと思う」 「…でも…でも…、ファージも王国時代の知識を求めていたじゃない。初めて会ったときに、次元転移の魔法とか研究していたでしょ? 封印する立場のファージが、どうして?」  それは、彼女の立場と矛盾するのではないか。  奈子の疑問に、ファージは淡々とした口調で答えた。 「個人的興味。墓守である以上、私の力はひどく制限されているからね。もっと強い力がほしいって思うのは、当然でしょ」 「だって、墓守はその目的にしか力を用いちゃいけないんでしょう?」  自分の興味などで、失われた知識を求めていいはずがない。 「私が、好きで墓守なんてやっていると思う?」  ファージは皮肉な笑みを浮かべて、奈子の顔を見た。  光を放っているのでは、と思うほど鮮やかな金色の瞳が、奈子を見つめていた。 「じゃあ…」  奈子は混乱していた。  好きでやっているわけではない。  では、ファージは無理矢理その役目を負わされているというのだろうか。  だとしたらいったい、誰の命令で?  誰が、ファージにそれを強制することができるというのだろう。 「ファージ…」  ファージは黙って、奈子を見つめている。  なにか、思い詰めた表情に見えなくもない。 「…あのね、ナコ」  ファージが口を開きかけたとき、急に陽が陰ったように感じて、奈子は空を見上げた。  だが、空には雲ひとつない。快晴だ。 「なに? いまの…」  確かに、なにかを感じたのだが。  なにかの、力が働いた。 「…そういうこと。やってくれるじゃない」  ファージはつぶやくと、唇をぺろりと舐めた。 「なに?」 「こういうこと」  突然、目の前で光がはじけた。  奈子は反射的に手で顔を覆う。  続けざまに二度、三度。  周囲の空気がびりびりと震えている。  魔法による攻撃だった。  何者かが、奈子たちを狙撃している。  それでも、身体にはなんの怪我もなかった。  ファージの防御結界が、ふたりを完全に護っていた。  ファージは悠然と周囲を見回す。  魔法の矢は四方八方から降りそそいでいる。  敵はひとりやふたりではない。 「やれやれ、こういうことか」  ファージは肩をすくめた。  奈子もおそるおそる顔を上げる。  ファージが防御に徹している限り、その結界を破れる者がいるとは思えない。とはいえ、矢というよりは槍といった方がいいような魔法の光が、絶え間なく自分に向かって飛んでくる光景というのはどうも心臓によくなかった。 「…大丈夫?」  思わず声が不安げになる。 「大丈夫だよ。逃げられないけどね」 「え?」 「先刻感じたのは、転移封じの結界だよ。逃げ道をふさいで包囲して、なぶり殺しにするつもりらしい」  あっさりとした口調で、物騒なことを言う。 「…じゃあ、まさか…」 「囮だったんだ。連中の狙いは、私を始末することさ。最近、立て続けに発掘の邪魔をしてやったから腹に据えかねたらしいね。墓守を誘い出すためのガセネタだよ」  奈子たちは、爆心地…クレーターの底の部分にいた。  その周囲が、ぐるりと取り囲まれている。  魔術師だけではない。剣を持った兵士たちが隊列を整えていた。  魔法で防御結界を破れないようなら、直接攻撃しようという考えらしい。 「二百…ってとこか」  周囲を取り囲んだ兵士たちを見て、値踏みするように言う。 「結界を破ってる時間はないだろうな…」 「…どうするの?」 「ナコはひとりで逃げて。この程度の結界じゃ、ナコの転移は妨害されないから」  通常の空間転移と奈子の次元転移、基本的な原理は一緒だが、多少性質が違う。  一般的な転移封じの結界では、奈子の転移は影響を受けない。 「でも、ファージひとり残して逃げるなんて…」 「私は、平気だから。ただ、ナコには見られたくない」  ファージが、腰につけたポーチからなにかを取り出す。  それを見た奈子は、ファージの「見られたくない」ものがなんであるか理解した。 「…戦うつもりなの?」 「戦いにもならない」  ファージは手に持っていた数十枚のカードをばっと放り投げた。  魔法のカードはふたりの周囲にバラバラと散らばる。 「ナコ、帰った方がいいよ」  油断なく周囲に注意を払いながら、ファージはもう一度言った。  魔法攻撃ではらちがあかないと思ったのか、敵が包囲の輪を狭めてきていた。 「ファージ…」 「ナコには、嫌われたくない」 「…」 「早く、時間がない」  一番近い敵までの距離は、もう五十メートルもない。  しかし奈子は、ゆっくりと首を振った。 「アタシ、帰らない」 「ナコ!」  ファージが顔色を変える。 「アタシ、ファージのこと好きだから、ファージのすることから、目を背けちゃいけないと思う」 「…きっと後悔するよ?」  まっすぐに奈子の顔を見て、決心を変えるつもりがないとわかると、ファージは小さくため息をついた。  もう間に合わない。  ファージが無理矢理奈子を転移させようと思っても、防御結界を張りながら同時に転移魔法を用いるほどの余力はない。 「どうなっても、知らないからね!」  投げやりに叫ぶのと同時に、ファージの足元に散らばったカードが一瞬の閃光と共に消滅した。  代わって敵兵の頭上に、直径一メートルほどの青白い光を放つ球体が、数十個出現する。  魔法に関しては素人同然の奈子でもはっきりとわかる、桁違いに大きな力の流れだった。 「ファージ、これは…!」  奈子が声を上げた瞬間、その光球から、青い光線が地上に向けて次々と放たれた。  あたり一面、青白い光に包まれる。  悲鳴も上がらなかった。  奈子は以前にも見たことがある。  この魔法…王国時代、竜を倒すために用いられたという魔法。  あの光は、直撃すれば竜の身体ですら貫くという。  並の人間の防御結界など役に立たない。  直撃された人間の身体は、炭も残さずに消滅する。そして、残った周囲の組織が燃え上がるのだ。  その惨劇は、そう長くは続かなかった。  数十条の光線が放たれ、すべての光球が消滅するまでに要したのは、ほんの数秒というところだろう。  あとには…  ずたずたになった死体と、くすぶって煙を上げている黒いかたまり。  それが、地面のあちこちに散らばっていた。  生存者の気配はない。  いつの間にか、ふたりを封じ込めていた転移封じの結界もなくなっていた。  ファージの言った通りだった。  確かにこれは、戦いと呼べるようなものではない。  見られたくない、と言っていたのがわかる気がする。  ファージの力は圧倒的だった。  奈子はちらりとファージの顔を見る。  彼女は、満足げな笑みを浮かべていた。  瞳が、爛々と輝いている。  まるで、楽しんで人を殺しているような表情。  流れる血に興奮しているかのように、自分が作りだした死体を見つめていた。  奈子には、とても直視できなかった。  吐き気がこみ上げてくる。  あわてて口を押さえた。  口の中に、酸っぱ苦い味が広がる  奈子はしゃがみ込んだ。  無惨な死体、ということであれば以前にも目にしている。  聖跡の中で、クレインに殺されたアルトゥル王国の兵士たち。  同じく聖跡の中で見た、王国時代の戦争の幻影。  それに、ダルジィがとどめを刺したサラート王国の将軍。  だからといって、慣れるものでもない。  気を失いそうになる。  悲鳴を上げたくなる。 「…だから、見られたくないって言ったのに」  うずくまって嘔吐する奈子を見て、ファージはぽつりと言った。  確かにその通りだ。  普通なら、他人に見せられるものではない。  こうまでしなくても、これだけ力の差があれば、もっときれいな戦いだってできるだろうに…一瞬そう思った奈子だったが、すぐに考えを改める。  奈子にも、責任はあるのだ。  ファージが反撃に転じるとしたら、それまでのような強固な防御結界は張っていられない。  奈子の安全を守るためには、一瞬で敵を殲滅しなければならなかったのだ。 「奈子には見せたくなかった。…でも、これが私なんだ」 「ファージのこと…嫌いに…なったり…しない…」  苦しそうに息をしながら、奈子は言った。  それは本心だった。  ファージにはもともと、戦うこと、敵を殺すことを楽しむようなところがある。  ときとしてひどく残酷な。  そんなファージの性格は、以前から気づいていたことだった。  それに、ファージにとって彼らは明確な敵である。  奈子の世界、平和な日本とは違う。  ここは、こういう世界なのだ。  頭では理解できる。  だから、この光景を見せられたからっていまさら嫌いになったりはしない。  とはいえ、死体の山をまともに見せられては、身体が勝手に反応してしまう。 「…ただ…これは…ちょっと…」  条件反射的にこみ上げてくる吐き気までは抑えられない。 「じゃあ、これは始末しようか」  嘔吐を続ける奈子を見かねて、ファージが言った。  呪文を唱えかけて…  最初の一声を発した瞬間、言葉がとぎれる。  一瞬前まで、なんの気配も感じなかった。  その瞬間だけ感じた、強い力の気配。それはすぐに消えた。  そして…  赤い魔法の光が、ファージの胸を貫いていた。 「…まだ、いたのか…」  ファージの顔から一瞬、表情が消える。 「ファージ!」  奈子は立ち上がった。  光はすぐに消え、ファージのちょうど心臓の位置から、赤い染みが広がっていく。  信じられない速さで。 「ファージ!」  傾きかけたファージの身体を支える。  しかし驚いたことに、 「大丈夫」  ファージはにっこりと笑って言った。  決して強がっている様子ではない。  口の端から血が流れているというのに。 「こんなことじゃ死なないから」  ファージの身体から、一瞬だけ力が抜ける。  奈子の腕に体重を預けて。  同時に、強い魔力の動きを感じた。  それは、ファージの中からというよりも、どこか外部からの力の流れ。  そして、ファージは顔を上げた。  自力でしっかりと立ち、手で胸の血を拭う。  破れた服の下から覗く肌には、傷ひとつ見えなかった。 「ね?」  驚愕のあまり、奈子はしばらく声も出せなかった。  陸に上がった鯉のように、ぱくぱくと口だけを動かす。 「ね、って…。こんなことじゃ死なないって…、普通、死ぬよ?」  自分の目で見ていても、奈子には信じられなかった。  確かに見たのだ。  誰が放ったものかはわからないが、相当に強力な魔法が、ファージの心臓を貫いていた。  なのに… 「この程度の魔法をいくら食らったところで、私は死なないんだ」  ファージは平然と言った。 「そんな…」  そのとき、はっと思い出した。  以前にも、こんなことがあった。  一年前にも。 「…じゃあ…じゃあ、前に、エイクサムたちに殺されそうになったときも…実は…?」  ばつの悪そうな表情で、ファージは奈子の問いを肯定した。 「…死んだふり、してた。ま、あのときはもっと強力な魔法だったから、いまほど簡単じゃなかったけどね」 「ファージ!」  奈子は思わず怒鳴り声を上げる。 「あの頃のナコがこんな光景見たら、もっと驚いてたでしょ。それに私のことを詳しく説明するわけにもいかなかったし」  気まずい表情で弁解するファージを、混乱した思いで見つめていた。 「いまのナコは…なんて言うのかな、あの頃よりもずっと、この世界に深く関わってる。だから…、私のことも少しだけ話してあげようかなって」  その通りだった。  もっともっと知らなければならないことがある。  そう、感じた。  訊きたいことは、たくさんあるように思える。  だけど、なにから訊けばいいのだろう。  とりあえず… 「たとえ王国時代の竜騎士だって、心臓を刺されたら死ぬもんだと思ってたけど」  ファージの、血塗れの左胸を指差す。 「普通は、ね」  ファージは悪戯っぽく笑った。  しかし奈子は、その言葉にどこか悲しげな感情を感じ取っていた。 『この程度の魔法をいくら食らったところで、私は死なないんだ』  そんなファージの言葉が、なぜか「私は死ねないんだ」と言ったように聞こえていた。  三章 逃避行 「なんで、あんたがここにいるのよ? それに…ここ、どこ?」  一度家に帰った奈子が、数日後、再びこちらに転移したとき。  奈子はすぐに、久しぶりに転移に失敗したことを悟った。  着地に失敗して転び、小さな悲鳴を上げる。  転移が終わる瞬間、なにか突風にでも巻き込まれたような感じだったが。  そこは、見慣れたソレアの屋敷の地下室ではなく、屋外だった。  周囲を森に囲まれた草原の中の、古い廃墟。  王国時代の小さな神殿跡のようだった。  そして目の前には、よく見知った男が座っていた。  それで、冒頭の台詞になるわけである。  条件反射で、いつものように蹴りを入れてやろうと思ったが、ぎりぎりのところで思いとどまった。  奈子が手を下すまでもなく、目の前の男はすでにかなりひどい手傷を負っている様子だったのだ。  エイシス・コット・シルカーニ。それがこの男の名前だった。  神話に出てくる、剣の神にちなんだ名。  それに相応しく、職業は傭兵。百八十センチを超える大きな体躯と、鮮やかな赤い髪が特徴だ。  奈子としては、あまり会いたくない相手である。  なのに、何度も会ってしまう。 「なにやってんのよ、エイシス?」  顔を見るだけでも不愉快になるのだが、それでも一応は訊いてみる。  とどめを刺すのはいつでもできるだろうから、と。  意外な相手の出現にエイシスも驚いていたようだったが、 「よぉ、久しぶりだな、ナコ」  癇に障るにやにや笑いを浮かべて言った。  これもいつもの台詞だ。  いつもと違うのは、奈子が必殺のハイキックをお見舞いする以前から、額から血を流しているということだ。  額だけではない。よく見ると全身傷だらけだ。  服が血で汚れている。  剣の傷、そして魔法による傷。  傭兵という職業柄、怪我をするのは珍しいことでもないのかもしれないが、少なくとも腕だけは一流のこの男が、これだけの深手を負っているというのも不可解だった。 「とりあえず…」  奈子は腰から短剣を抜いて言った。 「楽にしてあげようか?」 「冗談言ってる場合か!」  少し怒ったように言って、エイシスは立ち上がる。奈子は半ば本気だったのだが。 「逃げるぞ」  言うなり、奈子の手をつかんで走り出した。 「え? ち、ちょっと!」  奈子にはまるで状況が理解できない。 「いったい、なにがどうなってるの?」 「あとで話す。いまはとにかく走れ! 死にたくなければな」  森の中を走るふたりの背後から、魔法の炎が飛んできて、すぐ横をかすめていった。 「…で、いったいあんた、何やったわけ?」  疲れきった表情で、奈子は訊いた。  すでに陽は沈んで、周囲は暗やみに包まれつつあった。  追っ手の目に付くからと、焚き火もできない。  奈子は、持っていたカロリーメイトで飢えをしのいでいた。  あのあと三度も、エイシスを追っている兵士たちとの戦いに巻き込まれてしまった。  ずきずきと傷が痛む。  なんとか切り抜けはしたが、無傷でというわけにはいかなかった。  もともと負傷していたエイシスはなおさらのこと。 「いったい誰に追われてるのよ。これってただごとじゃないよ?」  むっとした口調で聞きながら、奈子は目の前の男をにらみつけた。  まったく事情も分からずに、有無を言わせず戦いに巻き込まれたのだから、機嫌がいいはずもない。  追っ手は、明らかにどこかの国の正規兵だった。  その数も十や二十ではない。ちょっとした『軍隊』だった。  エイシスは傭兵だから…ひょっとして、戦争に負けて残党狩りに追われてるのだろうか。  そう思って口にしてみる。  だが、エイシスはそれを否定した。 「ある人物を暗殺するように依頼されてな…。…断ったら…依頼主が気を悪くした」  エイシスも相当疲れているのか、それとも傷が痛むのか、口をきくのも辛そうだった。  小さな声でぼそぼそと話す。 「そんなことでふつう命まで狙われる? あんたよっぽど失礼なことでも言ったんじゃない? 人を怒らすのは得意なんだから…」 「…そんなことはないさ。俺から情報が漏れることを気にしてるんだろうな…」  言いながら、エイシスは考えていた。  いったい、どこまでを話すべきだろうか、と。  奈子の性格を考えると、いまは慎重な対応が必要だった。         * * *  そこは、それほど大きくはない、しかし賑やかな酒場だった。  ひとりカウンターで酒を飲んでいると、見覚えのない男が隣に腰を下ろした。 「あんた、エイシス・コットだろう。傭兵の」  エイシスはちらりとその男の方を見ただけで、なんの返事もしなかった。  その必要はなかった。  その男の口調は、問いかけではなく確認だったから。  三十代後半くらいの、軍人風の男だった。身分は隠しているようだが、雰囲気からかなり高い地位と推測できる。 「仕事を頼みたい」  よけいな前置きなしに、男は言った。  エイシスはまた男を見て、無言で続きをうながした。 「人をひとり、始末してもらいたいのだが」  エイシスにだけ聞こえるよう、低い声で言った。 「俺に頼むと高くつくぜ?」  かすかに口の端を上げて、エイシスはにやっと笑った。  最初にこう言っておけば、報酬についての交渉がしやすくなる。  これで引き下がるようなしみったれた依頼なら、はじめから引き受ける気もない。 「並の人間には頼めん。難しい相手だ、五千万でどうだ?」  暗殺する相手の名前よりも先に報酬の額を口にするあたり、向こうはエイシスの性格をよくわかっているようだ。  しかしエイシスは、飲みかけの酒をあやうく吹き出すところだった。  内心ひどく動揺しつつも、辛うじてそれを表に出さずに応える。 「…破格じゃね〜か」  冗談を言っているのかと思った。あるいは、酔っぱらいの大ボラか。  そのくらい、常識を無視した額だった。  しかしどう見ても、この男はしらふだ。  男の表情は本気だった。  冗談でも、はったりでもないらしい。 「人ひとりにそれだけの金を出すとは…相手はハレイトンの国王か? それともトカイ・ラーナ教会の教皇とか?」  なにげない冗談のつもりだったが、男が一瞬、ほんのかすかに顔をしかめたことをエイシスは見逃さなかった。 「そんな相手ではない。それならばもっと安く済ませる方法はいくらでもある」 「まあ、そうだろうな。わざわざどこの馬の骨とも知れない傭兵を雇う必要はないか」  本当に五千万出す気があるのなら、並の暗殺者を十人雇ってもたっぷりとお釣りがくる。  単に身分が高いとか、警備が厳重だというだけのことではないのだろう。  もっと特殊な相手なのだ。  そう、例えば… 「ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。…知ってるだろう」  その名前に、カップを口に運びかけた手が止まった。  さしものエイシスも、驚きの表情を浮かべて男を見る。 「…たしかに、手強い相手だな。そのくらいはもらわなけりゃ、割は合わんか」  エイシスは止めたカップを口に運んだ。  ほんのかすかに、その手が震えていた。  緊張が高まっている。  ぴんと張りつめた空気がただよっていた。 (これは…)  下手な対応はできないな、と考えた。  いったい誰だろう。  ちょっとした国の国家予算にも匹敵する額を提示してまで、ファーリッジ・ルゥを始末しようとするのは。  彼女に恨みを持つ者、ということであれば候補は数え切れないくらいいる。  だが、報酬の額が候補を絞り込む手掛かりになっていた。  それだけの金を出せる国はそう多くはない。  本当にそれだけの金を払う気があるかどうかは別問題として、その言葉には信憑性がなければならない。  例えばマイカラスのような小国がこの額を提示したところで、本気にする者はいないだろう。  その額を信じてしまうだけの支払い能力がある国、または組織。  そう考えると、対象はおのずと絞られてくる。  ハレイトン王国、アルトゥル王国、トカイ・ラーナ教会…くらいだろうか。最近躍進著しいティルディア王国あたりでも、少々苦しいところだ。  このうち、アルトゥル王国も除外していいように思えた。  エイシスに恨みがあるはずのアルトゥル王国が、こうして彼に依頼をしてくるとも思えない。もちろん、この依頼そのものが罠という可能性も考えられなくはないが。  あるいは、六年前の恨みを忘れるほど、ファーリッジ・ルゥが邪魔になったのか。 「ファーリッジ・ルゥ…か」  エイシスは独り言のようにつぶやいた。  動機については考えるまでもない。  墓守の噂は、裏の社会では有名な話だ。  王国時代の知識、技術の収集に力を入れている大国ほど、墓守には数え切れないほどの恨みがあるだろう。  ファーリッジ・ルゥが命を狙われることなど日常茶飯事のはずだ。  実際、一年ほど前にも一度殺されかけている。  それでも平然と生きていられるのは、墓守だけが持つことのできる強大な魔力のためだ。  大陸の覇権を狙う大国にとって、それだけの力を持つ者が存在することも許せないだろう。 (それにしても、五千万か…)  スポンサーが誰かは知らないが、ついに本気になったということだ。  本気で、墓守を排除しようとしている。  千年もの間、王国時代の大いなる知識を護り続けてきた者たちを。  エイシスにとっても、心動かされる額だった。  魅力的な数字だ。一生、遊んで暮らすことができる。  しかし…  だからといって、簡単に引き受けていいことでもなかった。  一応顔見知りとはいえ、ファーリッジ・ルゥとは昨年のマイカラス王国のクーデターの後で少し言葉を交わした程度に過ぎない。  報酬の額を考えれば、彼女を殺すことなどいまさらなんとも思わない。  十代の頃からずっと、戦うこと、殺すことを生業にしてきたのだ。よほど親しい者でもない限り、顔見知りだからといって別に躊躇する必要もない。  エイシスにとってファーリッジ・ルゥは、友人ではなく単なる知り合いでしかない。  とはいえ…  ふたつ、問題があった。  ひとつ目は…ファーリッジ・ルゥは強すぎる。  直接その力を目にしたことはないが、噂はいやというほど聞いていた。  自分の力には自信がある。一対一で負けることなどまずあり得ないと思っている。  そんなエイシスでも、勝てるかどうかは即答できない相手だった。 (いっそのこと…)  フェイリアに協力を仰ぐという選択肢もあった。  彼女にとっても、墓守の存在は目の上のこぶだ。  そして、墓守と戦えるだけの力を持った、数少ない存在だった。  しかしフェイリアは、金のための殺しには決していい顔をしないだろう。  そういう性格だ。  自分の目的のためなら、人だろうと魔物だろうと、なんのためらいもなしになぶり殺しにできるというのに。  そしてもうひとつは…こっちの方がより大きな問題だった。 (俺がファーリッジ・ルゥの命を狙ったら…あいつは絶対に許さないだろうな…)  心の中でつぶやく。  ナコ・ウェル・マツミヤ。  ファーリッジ・ルゥとは親友である。  エイシスにとって『特にお気に入りの女』の三人のうちのひとりだった。  できれば、恨まれることはしたくない。それでなくても嫌われているというのに。 (いい女…だよな)  しかもリューリィやフェイリアと違い、まだ抱いてもいないのだ。ただし未遂は一度あるが。 (しかし…この俺が、女ひとりのためにこれだけの儲け話をふいにするのか?)  それだけの金があれば、女などこの先いくらでも手に入るというのに。  しかし、金では決して手に入れることのできない女もいる。  そして、エイシスが好きなのはそういった女だった。  不意に、初めて会った頃の奈子を思い出す。  仇を追っていたときの、あの目、あの表情…。  悲しみを隠した、心を持たない野獣の目。 (あの目で追われるのは、ごめんだな…)  結局、それが結論だった。 「悪いが、この依頼は受けられないな…」  そう言うと、男は少しだけ意外そうな表情をした。 「さしものエイシス・コットもファーリッジ・ルゥには勝てないか?」  幾分、挑発するような口調だった。  もちろん、いまさらそんな挑発に乗るようなエイシスではない。 「どうだろう、難しいな」  笑いながら応える。 「…そうか。残念だが、仕方がない」  男は小さく肩をすくめた。  それから、ふと思いついたように訊く。 「ところで…、ファーリッジ・ルゥを殺すのは、不可能だと思うか?」 「いいや」  この質問には、エイシスは即答した。  彼も先刻考えてみた。  正攻法では難しい。  ファーリッジ・ルゥは、魔法も剣の腕も超一流だ。その上、人を殺すことにためらいがない。  まともに闘って勝つことは難しいだろう。  だが…  ひとつだけ、勝算の高い方法があった。  しかしそれは彼にとって、考えるだけでも気分が悪くなるようなものだった。  そんなことを思いついた自分がいやになるくらい。 「手はある…はずだ」  エイシスはそれだけを言った。  予想に反して、男はその方法については訊いてこなかった。  訊いても、エイシスが答えないと思ったのだろうか。  たしかにその通りだったが。 「そうか、それだけ聞ければ充分だ」  そう言って男はかすかに笑う。  なにか納得したような表情。  まさか、エイシスと同じ考えにたどりついたはずはないが。  男は、カウンターに銀貨を置いて立ち上がった。 「手間をとらせて悪かったな。この話は忘れてくれ。ここは私のおごりだ」 「悪いな、役に立てなくて…」  エイシスの額に、一筋の汗がにじんでいた。  店から出ていこうとする男を見送るそぶりで、周囲をさりげなく見回す。  席は八割方うまっていた。  こういった酒場にはありきたりの客層ばかり。  しかし…  エイシスが握りしめていた、銅のカップがぐしゃりとつぶれる。  男の足音が、背後に遠ざかっていく。  店の扉が開く音がして…  その瞬間、エイシスはあらん限りの力で、魔力の源となる精霊を召喚した。  驚いたのは、通りを歩いていた人々だった。  目の前でいきなり、酒場の建物が爆発して燃え上がったのだから。  屋根が吹き飛び、降り注ぐ残骸から人々が逃げまどう。  夜空を朱く照らして燃え上がる建物を見て、たちまち野次馬が集まってきた。  しかしその中に、裏口からそっと抜け出した人影に気づいた者はいないようだった。 「見つかってはいないと思うが…」  エイシスはそうつぶやくと、目立たない路地を選んで逃げ出した。  酒場を吹き飛ばしたのは彼だった。  逃げ出す隙を作るために。  依頼を断った瞬間から、酒場の中には殺気が充満していた。  エイシスの口から、ファーリッジ・ルゥの暗殺計画が漏れることを警戒しているのだろう。  あのとき酒場にいた客も、大半があの男の手下だろうとエイシスは考えていた。  たとえ、そうではない民間人が巻き込まれていたとしても、気にしてはいられない。  一瞬遅ければ、彼の方が襲われていた。  なによりも自分の命の方が大切だった。  混乱が収まる前に、街から逃げ出さなければならない。  そして…一応、ソレアには知らせておいた方がいいだろう。  ファーリッジ・ルゥがどうなろうとエイシスにはどうでもいいことだったが、ソレアや奈子に恩を売っておくのは悪くない。  そんなことを考えながら走っていると、進路上に、ひとりの人影が浮かび上がった。  走る速度を緩め、背負った剣の柄に手をかけてその影に近づく。 「仕事を断った上に、あれだけのことをしておきながら、黙って逃げようなんてよくないなぁ」  それは、若い男の声だった。人をからかうような調子で。  エイシスの顔から、さっと血の気が引いた。  その声には覚えがあった。 「お…」  口を開いた瞬間、暗い路地に一筋の赤い光が走った。  それは防御結界を張る暇も与えずに、エイシスの腹を貫いた。  飛び散った血と肉片が、後ろの塀をべっとりと汚す。  エイシスが膝をついた。 「お前…が?」 「本当は、僕は来ちゃいけないことになってるんだ。他に仕事があるからね。でも、あの無能どもに任せておいては、君を取り逃がすことになる。少しハンデが必要だろう」  相変わらず軽い調子でそう言うと、その人影はかき消すように消えた。  エイシスは腹を押さえたまま、低いうめき声を上げる。  額に脂汗が滲んだ。 「本気も本気…ってワケだ。あいつまで動くとは…」  苦しそうにつぶやき、塀に手をついてよろよろと立ち上がる。 「本気とはいえ…あいつにとっては…半分ゲームのようなものか…」  複数の足音が近づいてくる。いつまでもここにはいられない。  苦しそうに息をすると、エイシスはふらつきながら歩き出した。  翌日――  なんとか街を抜け出しはしたものの、それで追っ手が止むというものでもなかった。  エイシスは街道を避け、反対側の山へ向かった。  街道を通っていては簡単に追いつかれてしまうし、この方が国境に近い。  隣国は、この国とはお世辞にも仲がよくないから、国境を越えて追ってくるとは考えにくい。  傷はかなりの深手だったが、エイシスはそれでもなんとか追っ手を撃退して、山の中へと入った。  見晴らしの利かない森の中なら、少しは逃げやすくなる。  その代わり、傷ついた身体に山道は少々辛い。  追っ手の総数がどれくらいになるのか、考えたくもなかった。  少人数のグループに分かれて捜索しているらしい。  おかげで気の休まる暇がない。  追っ手の大半は並の兵士だから、見つかったときは傷ついた身体でもなんとか戦える。  しかし、無傷でというわけにもいかなかった。  時がたつにつれて傷は増え、その分、歩みは遅くなる。  頭の中で、追っ手に見つかる頻度と、山を越えて隣国に逃げ込むまでの時間を計算してみた。 「…死ぬな」  そういう結果になった。  ただこのまま逃げるだけでは望みは薄い。  なんとか、一気に追っ手を減らすか、あるいは時間稼ぎをする必要があった。  昨夜は一晩中逃げ回り、もう体力も限界だ。  受けた傷も、ちゃんとした治療が必要だった。  まだ陽は高いが、この分では夜まで持つかどうか難しい。  暗闇に紛れれば、まだ多少は逃げやすくもなるのだが。  なのに…  歩いているうちに急に樹がまばらになったかと思うと、エイシスの前には草原が広がっていた。 「やれやれ…」  絶望的な声でつぶやいた。これでは身の隠しようもない。  いったん引き返そうとしたが、背後からの追っ手の気配に気付いて思いとどまった。  もう間に合わない。背後だけではなく、左右にも気配が近づきつつあった。  進むしか選択肢はない。  普段は背負っている剣を杖代わりにしながら、残った体力を振り絞って走った。  草原の中ほどまで進んだところで、ふと、足下の固い感触に気づく。  土ではない。生い茂った草の下に隠れるように、ひび割れた平らな石が見えた。  明らかに人工物だ。しかもこの形は… 「…アリトレス派の…神殿跡?」  エイシスはつぶやいた。  アリトレス派は王国時代の初期、この地方で信仰されていたファレイア系の宗派のひとつだ。その信者は人里離れた山中の神殿で、俗世と切り離された生活を送っていたという。 「ふうむ…」  エイシスは立ち止まった。  その口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。  ようやく、運が向いてきたようだ。  背後を振り返る。  追っ手は、ちょうど森から姿を現したところだ。数十人はいるだろう。  ここでは身の隠しようがないのを知って、一気に片を付けるつもりなのだろう。 (こいつらを始末すれば、少しは楽になるな…)  エイシスは剣を抜くと、割れた石の隙間に突き立てた。  両手の指を組み合わせ、大きく息を吸い込む。 「天と地の狭間にあるもの、力を司る者たちよ…。我の呼びかけに応えよ――」  彼の魔力の源となる、精霊召喚の呪文を唱えはじめた。  その口元がゆるむ。  思った通りだった。いつもよりずっと、精霊の反応がいい。  傷ついた身体によけいな負担をかけることなく、力を行使できる。  自然を崇拝するアリトレス派の神殿は、こういった場所に建てられているのだ。  その上、神殿そのものも魔法陣代わりに作用する。  力尽きかけているエイシスが、目の前に迫った数十人の敵を始末できるとしたら、ここしかない。 「我は命ずる。  力ある言葉に従い、  汝らの力を解き放ち  数多の世界より、我の元へ届けんことを――」  一瞬、草原全体が燃え上がったかのように見えた。  金属も熔かすほどの高温に包まれる。  草原の草や灌木は、炎を上げる間もなく炭となって消えた。  そして、彼に迫っていた追っ手たちも。  草原を包んだ熱波はすぐに消え去った。いまのエイシスの体調では、長時間魔力を集中させ続けることは難しい。  身体から力が抜けて、その場に座り込んだ。  これで、いくらか時間は稼げるはずだ。  追っ手が全滅したわけではないだろうが、数はかなり減らした。  残りが追いついてくるまで、一息つける。  そう思ったのだが、次の瞬間、エイシスの顔からさっと血の気が引いた。  転移魔法の気配。  誰かが、ここに転移してこようとしている。 「まさか――」  頭に浮かんだのは、昨夜のあの男だった。  未だふさがっていない、この腹の傷を付けた男。  いまあの男に来られては、逃げようはない。  体調が万全のときでさえ、勝てるかどうか怪しい相手なのに。  だが、目の前に出現し、バランスを崩して転んだ相手はあまりにも予想外だった。  しばし、言葉を失う。 「…なんで、あんたがここにいるのよっ?」  その人物は尻餅をついたまま、何度も聞いた台詞を口にした。  今回ばかりは、エイシスの方がそれを訊きたかったが。 「ここ、どこ?」  きょろきょろと周りを見回している彼女の様子に、思わず笑い出しそうになった。 (ああ、そうか…)  彼女の転移はひどく不自然で、しかもミスが多い。  それは知っていたことだ。  フェイリアも同じことを言っていた。  そもそも転移魔法は、ひどくデリケートなものだ。  本人がきちんと目的地をイメージし、精神集中していなければまったく話にならないし、たとえ術者に不手際がなくても、近くにある強力な魔法源の干渉で、意図したのとは違う場所に出現することも少なくなかった。  今回は、神殿の魔力と彼が使った魔法の余波を受けて、転移に失敗したのだろう。  吹き出しそうになるのをこらえて、エイシスは言った。 「よぉ、久しぶりだな、ナコ」         * * * (さて…どうしたものかな…)  エイシスは考えていた。  ファーリッジ・ルゥが狙われているという事実を、奈子に話すべきかどうか。  おそらく、話さない方がいいだろう。  彼女の性格を考えれば、この話を聞いて冷静でいられるわけがない。  たぶん、知らない方が幸せなのだ。  ソレアには話すつもりでいた。一応、警告はしてやった方がいい。  もし必要ならば、彼女から奈子に話すだろう 「…ちょっと、なんとか言ったらどう?」  奈子は、見るからに不機嫌そうだった。  無理もない。  彼女にしてみれば、自分はなにもしていないのに、いきなりこんなトラブルに巻き込まれ、おまけに傷まで負っているのだ。 「悪かったな、巻きこんじまって」 「悪いわよ! まったく…」  追われているのはエイシスひとりなのだから、だったら彼を置いてひとりで逃げればよさそうなものなのに。そうしないところがなんだか可笑しい。  まあ、そんなところが彼女らしいといえなくもない。  しかし、そんな性格だからこそ、彼が追われている本当の理由を話さない方がいいように思われるのだ。 「まったく…」  またなにか文句を言いかけた奈子の顔が、不意に強張る。  エイシスも小さく舌打ちをした。 「ゆっくり休ませてもくれないのか…」  追っ手の気配が迫っていた。  ふたりは立ち上がって走り出す。  少し行ったところで、四〜五人の人影が前に立ちふさがった。  奈子は走る速度をゆるめずにそのまま飛び込んで、先頭の男の顎に掌底を打ち込んだ。  全力で走っていた運動エネルギーをまともに受けて、男の身体は大きく飛ばされる。  一瞬も止まることなく奈子は身体を回転させ、二人目の男に裏拳を叩き込んだ。男は踏まれたカエルのような奇妙な声を上げて倒れる。  そのすぐ後ろにいた男の剣を身を屈めてかわすと、そのままスライディングでもするような態勢で男の膝を蹴った。相手が倒れたところで、全体重を乗せた肘を鳩尾に落とす。  こうして奈子が三人を倒す間に、エイシスの剣が残り二人を屠っていた。  いまは、できるだけ魔法を使わない方がいい。  魔力の動きは、遠くからでも感知される。  暗闇で火を焚くようなもので、こちらの位置を知らせることになってしまう。 「さ、行こう」  立ち上がって息を整えた奈子が言う。  ふたりは歩き出した。  ポツリと、顔に冷たいものが当たった。  奈子は空を見上げる。  宵のうちは見えていた星や月が、いまはひとつもない。  見上げた顔に、また水滴が当たった。 「最悪…」  だんだん激しくなる雨の中を、ふたりはずぶ濡れで歩いていった。         * * *  ふたりは、無言で座っていた。  屋根を打つ雨音だけが響いている。  雨の中、山中をさまよっていて、偶然廃村を見つけた。  そのうちの、比較的損傷の少ない建物の中だ。  とりあえず雨だけはしのぐことができる。  乾いた服に着替えはしたが、気温はひどく低い。  既に、夜は明けていた。  結局、昨夜は一睡もしていない。  ここにたどり着くまでに、さらに二度の戦闘をくぐり抜けた。  少しでも気を緩めたら意識を失いそうなくらい、疲れ切っていた。  そして、かなり血も流した。  雨に濡れたせいか、熱もあるような気がする。  奈子は自分の身体をぎゅっと抱きしめた。  こんなにも寒いのは熱のためだろうか。それとも、血が足りていないためか。  全身に鳥肌が立っている。ひどくだるい。  ちらっとエイシスを見た。  血の気のない顔で、剣を抱くようにして座っている。  なにも言わないが、かなり具合は悪そうだった。座っている床の周りに、血の染みができている。  そもそも、奈子と会う前からかなりの傷を負っていたのだ。 「…エイシス」  ささやくような声で、奈子は言った。  追っ手に見つかることを気にしたためだけではない。もう大きな声を出す元気もなかった。 「…いったい、どうしてこんなことになったの? ちゃんと説明してよ」  ただ、暗殺の依頼を断っただけにしてはいくらなんでも不自然だ。なにかを隠していることはわかっている。  エイシスがなにもこたえないので、眠ってしまったのかと思った。 「エイシス!」  もう少し大きな声で呼ぶ。  エイシスはゆっくりと目を開けた。 「…ナコ、お前…転移魔法が使えるんだろ?」  辛うじて聞き取れるくらいの声で言う。 「使えるって言うか…まあ…、でも、あんたと一緒には無理だよ」  奈子の転移は、あくまでもこの世界と自分の世界を行き来するためのもの。それも奈子自身の力ではなく、ファージが作ってくれた魔法のカードの助けを借りて行っているのだ。  その魔法もまだ未完成で、こちらの人間を奈子の世界へ転移させることもできないのだが、もちろん、エイシスはそんな事情を知らない。 「…だったら、お前ひとりで逃げろ。とにかく国境を越えれば、なんとかなる…から」 「なに言ってンのよ。その前に、ちゃんと事情を説明しなさいよ」  しばらく無言で奈子の顔を見ていたエイシスは、かすかに唇の端を上げて言った。 「…聞いたら…逃げられなくなる」  その言葉に、奈子は首をかしげる。それはいったいどういう意味だろう。  答えはひとつしかなかった。 「…アタシにも、関わりがあることなんだ?」  それしか考えられなかった。  それでいて…いや、それだからこそ、エイシスはなにも知らせずに奈子を逃がそうとしているのだ、と。  エイシスはなにも答えなかった。 「エイシス?」  もう一度呼ぶ。  しかし彼は黙って目を閉じている。 「…エイシス?」  様子がおかしい、と気づいて傍に寄る。  ひどく顔色が悪い。額に手を当てると、すごい熱だった。  ふと、エイシスの身体に目をやる。  先刻着替えたばかりなのに、かなり大きな血の染みが広がっていた。 「エイシス! ちょっと、大丈夫?」  その身体を揺り動かすと、ようやくわずかに目を開けた。 「…まあ…なんとかな。大丈夫だから…お前はひとりで逃げろ」 「なに言ってンの! こんな…」  そこまで言って、奈子はふと立ち上がった。  じっと壁を見つめて、神経を研ぎ澄まして耳に意識を集中する。  外で、追っ手の気配がする。  ついにここまで追いつかれたのだ。このままでは、見つかるのも時間の問題だろう。  足元に座っているエイシスを見た。  半ば意識を失っている。  この身体では、もう戦えまい。  奈子自身の体力も、もう長くは保たない。  既に限界に近いのだ。  奈子は考える。  なんとか、この場を逃れる術はないだろうか。  彼女ひとりで相手にできる数は限られている。  エイシスやフェイリア、あるいはファージのように強力な魔法が使えればいいのだが、魔法に関してはまだまだ未熟な奈子では、同時に二、三人を攻撃するのが精一杯だ。  本気で、転移で逃げることも考えた。  しかし、奈子の転移は日に一回と制限されている。  ただでさえ不安定な魔法、そう続けて使うことはできない。次元の狭間で迷子になる危険は冒せなかった。  そのため、奈子ひとりが転移で脱出したとして、そのあともう一度こちらに転移し、ソレアやファージを連れてここに戻れるのは早くても明日になってしまう。  それでは間に合わない。  だとしたら、あと残された選択肢は…。  奈子はぎゅっと拳を握って、もう一度エイシスを見た。  気に入らない男だ。  スケベで軽薄なところが嫌いだ。  だけど…  こんなところで、死んでいいはずがない。  唇を噛む。  もう逃げられない。  ならば、追っ手を倒すしかない。  まだ数十人はいるであろう敵を、いまの奈子の力で倒す方法は…。  ひとつだけ、あった。  だからこそ悩むのだ。  それは、奈子にあまりにも厳しい決断を迫るものだった。  しかし、他に方法はなかった。 「エクシ・アフィ・ネ…」  小さな声でつぶやく。  手の中に、一振りの剣が現れた。  その柄の感触に、背筋にぞくっと冷たいものが走る。  飾り気のない、シンプルな剣。  普通でないのは、その刃。  透けて見えるほどに薄く、それでいて決して曲がらず、折れず。  たとえ鋼鉄を切り裂いても、刃こぼれひとつしない。  王国時代の偉大な魔法技術の結晶。  無銘の剣。竜騎士レイナ・ディ・デューンの剣。  恐ろしいまでの魔力を秘めたこの剣だけが、奈子に残された選択肢だった。  これなら、たとえ数十人の敵がいても戦える。  ただし…  それは、相手を殺すことを意味していた。  無銘の剣の力は強大すぎて、とても手加減などできない。  軽く傷を負わせるだけのつもりでいても、普通の人間には致命傷となってしまう。これは、竜を倒すことのできる剣なのだ。  ふたりが生き延びるためには、数十人を殺さなければならない…。  鳥肌が立った。  恐ろしい考えだった。  そうまでして、生き延びなければならないのだろうか。  奈子ひとりなら、転移で脱出できる。  しかし、エイシスは…。  もしかしたら、それはとんでもない考えなのかもしれない。  だけど…  見知らぬ数十人と、エイシスの命。 (…、アタシは…)  奈子は、後者を選んだ。  そうするしかなかった。 (こんなヤツでも、死ねばフェイリアやリューリィ・リンが悲しむもんね…)  それが言い訳だった。そうやって、自分を納得させる。  剣を握りしめて、もう一度外の気配を探った。  少しずつ近づいてくる。  廃屋を一軒ずつ調べているのだろう。  奈子は、扉に手をかけた。 「お前…なにをしようとしている?」  意識を失っていると思ったエイシスが、不意に目を開けた。 「なんでもないよ」 「…無銘の剣を持って、なんでもない…か?」  奈子の考えなど、すべて見透かされていた。  エイシスは、ひとりで逃げろと言った 「人殺しなんて、できないくせに…」 「できるよ」  そう応えた声は、ほんの少し震えていた。 「何十人だって、殺してやる! あ、あんたが死ぬくらいなら…」  そう言うのと同時に、涙が頬をつたった。  エイシスはほんの少し驚いたような表情を見せ、そして小さく笑った。 「…な、なによ、勘違いしないでよね! あんたなんか大嫌いなんだから! ただ、フェイリアに悪いし…」  声がだんだん小さくなる。 「…これまで何度も、助けてもらった」 「…お前の気持ちはありがたいけどね」  エイシスは笑って言う。 「…無理すんなよ。感謝の気持ちなら、そんなことよりも一晩俺の言うことを聞けって」 「あ、あんたってばこんなときまで…! なによ、そんなことしか頭にないの?」  奈子は真っ赤な顔で怒鳴った。  冗談なら、もっと時と場所を選ぶべきだろう。 「第一、ここを生き延びないとそれどころじゃないでしょ!」 「…死にやしないさ。お前が約束してくれるなら」  エイシスは言った。口元には笑みを浮かべているが、いつものような人を小馬鹿にした感じではない。  妙に、真剣な口調だった。 「…なあ、ここを切り抜けられたら、抱かせてくれるか?」  奈子は一瞬言葉を失う。  あまりにも、ストレート過ぎる物言いだった。 「……、…いいよ」  なぜそう答えてしまったのか、自分でもわからない。  気がついたときには、口から言葉が出ていた。  だけど、訂正しようとは思わなかった。 「…だったら…俺がやる」 「そんな身体で…」  どうしようというの? そう言おうとした奈子をさえぎって、 「少しだけ手伝ってくれ」  エイシスは、数本の短剣を取り出した。  きれいな銀色に光る、小ぶりの短剣だった。  短剣を奈子に差し出しながら、壁の隙間からちらりと外を見る。  いつの間にか雨はほとんど止んでいて、深い霧に包まれていた。 「霧に紛れてこの短剣を…この建物を中心にして、東西南北それぞれの村の端の地面に一振りずつ、突き刺してくれ。それができたら合図するんだ」 「…短剣?」 「手抜きではあるけど、魔法陣代わりになる。いまの俺でも、残った連中を吹っ飛ばすくらいはできるさ。そのあと、国境までは肩を貸してもらう必要がありそうだが…」 「アタシが闘った方が早い」 「お前が、正気を保ったまま何十人殺せるとは思えんね」  エイシスの言葉は、鋭いところをついていた。  奈子が自らの手で殺した人間はひとりだけ。  そしてそのことは、今なお奈子の心に深い傷を残していた。 「こんなつまらん血で、お前の手を汚すな」 「…あんたはさんざん殺しまくってるくせに」 「だからこそ…さ。な、頼むよ」  奈子はエイシスをじっと見て、短剣を受け取った。  近くに敵の気配がないのを確認して、そっと外に出る。  外は深い霧に包まれていて、五十メートルも離れるとなにも見えない。  空気が、とても冷たかった。  霧に紛れ、足音を殺して奈子は村はずれを目指した。  幸い、敵はいま反対方向にいるらしい。  一本目の短剣を濡れた地面に深く刺し、それから村をぐるっと一周するように進んだ。  途中で一本ずつ、短剣を刺していく。  敵の注意は建物の方に向いているようで、奈子は気付かれない。  最後の一本が奈子の手から離れたとき、甲高い笛の音が響いた。  合図の呼子だ。見つかったのは奈子だろうか、それともエイシスか。  奈子はすかさず、炎の魔法を放った。  狙い違わず、エイシスが隠れている家の壁に当たる。  その瞬間、突風が吹いたように感じた。  本物の風ではない。  エイシスが召喚した精霊が、ものすごい勢いで集まっているのだ。  地面に刺した短剣を結ぶように、光の輪が描かれる。  奈子はその範囲からあわてて飛び出した。  凄まじい魔力の奔流だった。  一瞬後、村全体が光に包まれる。  今度こそ本物の爆風に、奈子は地面に転がった。  熱が、奈子の髪を焦がす。  やがて消えた光は、すべてを焼き尽くしていた。  周囲の霧もすっかり蒸発し、青空が見えている。  村の廃屋は燃え上がり、ふたりが隠れていたあの家だけがわずかに原型を留めていた。  敵兵の姿は残っていない。  奈子はあわてて、その家に駆け寄った。 「…エイシス、生きてる?」  倒れている男に声をかける。 「ああ…」  倒れたまま、男はかすかに笑った。 「…手を貸してくれよ」  奈子はエイシスを助け起こし、肩を貸してゆっくりと歩き出した。  国境までは、もういくらもなかった。  四章 ふたりの夜  奈子は、自分の家で風呂に入っていた。  熱い湯で満たした湯船に鼻まで浸かり、ぷくぷくと泡を吐き出す。  奈子の家の風呂は、比較的広い。  手足を伸ばせるサイズの湯船は、奈子のお気に入りだった。  もっとも、両親は仕事の都合でほとんど東京のマンション住まいだから、たまの休みで帰ってきたときくらいしか利用する機会がない。  ほとんど、奈子専用の風呂だった。  いや、正確に言えば、たまに由維とふたりで入ることもある。  顔の半分まで湯船に沈めたまま、奈子は自分の身体を見おろした。  相変わらず、生傷の絶えない身体。  また、新しい傷も増えた。  そして…  歳の割には豊かな胸の上に、傷とは別に、赤いあざがいくつかあった。  奈子はそっと、両手で胸を包みこんだ。  適度な弾力が感じられる。  まだ、あいつの手の感触が残っているような気がした。         * * *  追っ手を振りきって国境を越えてから、二日が過ぎた。  国境に近い街の宿でゆっくりと休息をとって傷の手当をし、半分死人のようだったエイシスも、もうひとりで歩くのが問題ないくらいに快復していた。  前の晩まではほとんど身動きもできなかったのに、魔法の助けを借りたとはいえ呆れるほどの回復力だ。  夕食のあと、奈子が包帯を替えてやっていると、エイシスが言った。 「ところで、約束を忘れちゃいないだろうな」  ギク!  奈子の表情が強張った。 「や、約束って、なんのこと?」  とぼけてみせるが、顔には引きつった笑みを浮かべているし、声は裏返っている。 「しらばっくれるなよ」  エイシスにいきなり腕をつかまれ、そのままベッドに引き倒された。  大きな身体が覆いかぶさってくる。 「ちょ…ちょっと! 怪我人のくせに…」 「もう治った」  暴れる奈子を押さえつけ、服のボタンに手をかける。 「ヤダ! ちょっと…」  下になった奈子が暴れるが、しょせん腕力ではかなわない。  奈子の両腕を押さえ、にやにや笑いを浮かべている。 「抱かせてくれるって、言ったよな?」 「そんなこと言ったって…」  困ったような表情の奈子は、ついその場の雰囲気でうなずいてしまったことを後悔していた。  まったく、なんて約束をしてしまったのだろう。もう少し後のことを考えて行動するべきかもしれない。  大ピンチだった。  今年の四月、記憶喪失になってエイシスにだまされたとき以来の貞操の危機だ、…といっても、奈子は処女ではないのだが。 「約束を破る気か?」 「う…」  そう言われては返す言葉がない。  仕方ない、覚悟を決めた。  間違ってもエイシスに抱かれたいわけではないが、勢いでとはいえ、一度した約束を反故にするのも性に合わなかった。 (…仕方ないな。別に初めてってわけじゃないんだし…少しの間我慢すればいいことか…)  そう、自分を納得させる。  諦めたように、抵抗をやめて腕から力を抜いた。 「…わかったわよ! もう、さっさと済ませてよね!」  言ってるうちに、顔が赤くなってきた。  しかしエイシスは、 「いいや。滅多にないことだから、じっくり楽しませてもらうぞ」  などと言う。 「ちょ、ちょっと…」  服が脱がされていく。  胸が露わになる。  鎖骨のあたりに、唇が触れた。 「ん…」  恥ずかしくて、小さく声を上げる。  エイシスの舌が、胸の上を滑る。  もう一方の胸が、大きな手に包みこまれた。  か〜っと、頬が熱くなる。  初めてではない。とはいえ、男性とこういったことをするのは慣れていないのだ。  同性相手の方がまだ経験が多い。 「まだ、残ってるんだな」  エイシスがつぶやいた。 「…なにが?」  そう訊ねると、エイシスの指が右の乳房の下に触れた。  その動作で、いったいなにを言っているのか理解した。  そこには、一年前につけられた傷が残っているのだ。 「これと同じ傷を、増やしたくなかったんだ」  珍しく優しい口調で言う。その言葉に虚をつかれた隙に、唇を奪われた。 「う…ん…」  舌が、入ってくる。  奈子はためらいがちに、それを受け入れた。  ふたりの舌が絡みあう。  やがてエイシスの口が離れると、奈子はむっとした顔で言った。 「なによ、アタシのことなんて放っといてよ! あんたには、リューリィもフェイリアもいるでしょ!」 「妬いてるのか?」 「誰がっ!」  それだけは天地がひっくり返ろうともあり得ない、と奈子は断言した。 「…まあ、リューもフェアもいい女だな。でも、お前も負けてはいないぜ? 放っておくなんてできないね」 「浮気者! 女ったらし! スケベ!」  絶え間なく続く悪口を無視して、エイシスは奈子の身体を撫でまわした。  時々悪口が止んで、奈子がぴくっと身体を震わせる。  やがてその手は、スカートの中にまで入ってきた。  奈子はその手を押さえると、睨みつけるようにして言う。 「ひとつ言い忘れてたけど、アタシ、恋人いるんだからね」 「俺の他に?」  エイシスは眉を軽く上げ、ほんの少し驚いた様子を見せた。 「あんたが、いつアタシの恋人だったって言うの?」 「俺はそのつもりでいたが…」  勝手な言い分に、奈子は怒るより先に呆れてしまった。 「まあ、そいつが俺よりいい男ってことはないだろ?」  そんな根拠のない自信には呆れてものも言えないが、しかし否定もできない。  奈子の最愛の相手が、いい「男」でないことは事実だったから。  もしここで「相手は女の子だ」などと言ったらどんな顔をするだろう。  一瞬その誘惑にかられたが、なんとなく「ああ、やっぱり」と納得されそうな気がしたので黙っておいた。 「あ…」  話に気を取られて手から力が抜けた隙に、スカートと下着も脱がされた。  全裸で、ベッドに横たわっていることになる。  奈子は思わず顔をそむけた。  いくらなんでも、恥ずかしかった。  せめて明かりは消してほしいと思ったが、そう言ったところで、奈子を困らせるために嬉々として明るいまま続けることだろう。  エイシスの指が、敏感な部分に触れる。  思わず、声が漏れる。 「気持ちいいか?」  やけに楽しそうに、エイシスが訊いてくる。  奈子はぎゅっと唇を噛んだ。  身体が、愛撫に反応してしまっている。  それが恥ずかしく、そして悔しかった。 (どうしてよ? アタシ、こんなヤツ嫌いなのに…)  こんな男に惹かれているだなんて、考えたくもない。  とはいえ、それはそれで問題だった。  それでは、好きでもない男に抱かれて感じていることになる。  それもまた受け入れがたいことだ。 (ヤダもう! どうなってんのよ、アタシってば?)  指の動きに合わせて、こらえようとしても唇の隙間から小さな声が漏れてしまう。  息が、荒くなってくる。  身体が熱っぽくって、そして…。  絶対に認めたくはなかったけれど…。  濡れて、いた。  気持ちイイ。  認めたくはないけれど。 「そろそろ、いいかな」  エイシスの大きな身体が覆いかぶさってくる。  押しのけようとしたが、手に力が入らなかった。 (あ…)  指以外のものが、そこに触れた。 「あ、あぁっっ!」  奈子はぎゅっとシーツを握りしめた。  うめき声を上げる。  少しだけ、鈍い痛みがあった。 「――っっ!」  奈子の中に、侵入してくるものがある。  無理やり押し広げて、ゆっくりと、しかし着実に奥へ進んでくる。 「は…ぁ…、ぅ…ん…」  抑えようとしても、声が漏れてしまう。  言いようのない圧迫感と異物感。  自分の身体の中に、自分以外の存在が入り込んでいる。  初めてではない。ではないが…男性を受け入れるのはまだこれが二度目だった。  初体験はもう一年半も前。  その後の経験といえば、ファージや自分の指だけ。  それに比べると、いま奈子の中にあるものは、信じられないくらい大きく感じた。  少しだけ痛くて。  だけど気持ちイイ。 「は…ぁ…」  いちばん深い部分まで行き着いて、それは動きを止める。  奈子は小さく息を吐き出した。 「…きついな。いい締まりしてるな、お前」  エイシスが耳元でささやく。 「な…っ!」  その、あまりにもあからさまな台詞に、恥ずかしくてなにも言い返せなかった。  恥ずかしい。恥ずかしくて…痛みはもうほとんど感じないのに、涙が出てきた。  涙目で、相手を睨みつける。  エイシスは笑っていた。 「その表情、そそるなぁ」  そう言うと、身体を動かし始める。 「あっ…あ…ん…」  エイシスの動きに合わせて、奈子の唇から声が漏れる。  どんなに歯を食いしばっていても。  少しずつ、少しずつ、動きが激しくなっていく。 「やっ…ダメ…、そんな…もっと、やさしく…あぁっ!」  奈子の声も、だんだん大きくなっていく。  やがてそれが悲鳴に近いものになったとき、奈子の腕はエイシスの身体をしっかりと抱きしめていた。  それはどのくらい続いたのだろう。  奈子はぐったりと放心したように、ベッドに横になっていた。  息が少しだけ荒い。  身体が、じっとりと汗ばんでいた。  隣に寝ていたエイシスが、奈子の頭を抱えるようにして、こめかみにそっとキスする。  その、余裕のある笑みがなんだか悔しかった。 「…言っとくけどね」  むっとした口調で奈子は言った。 「約束だから仕方なく、だからね。アタシ、あんたのことなんか大っ嫌いなんだから。勘違いしないでよ!」  それを聞いて、エイシスはのどの奥でくっくと笑う。 「手強いなぁ」  それだけ言うと、また奈子の上に覆いかぶさってきた。 「ちょ…ちょっと、なにすんのよ! もう約束は済んだでしょ?」 「一回だけ、と約束した覚えはないぜ?」 「あ、こら、ばかっ! やめてよ! いやぁっ!」  エイシスはそんな苦情には耳を貸さず、暴れる奈子の足首をつかんで強引に脚を開かせた。         * * * 「…まったく、なに考えてンのよ!」  翌朝、宿を出てからずっと、奈子は文句を言い続けていた。  その口調も表情も、これ以上はないというくらいに不機嫌で、やたらとご機嫌なエイシスとは対照的だった。  エイシスは鼻歌など口ずさんでいる。 「あんたがどう思ってたか知らないけどね、アタシ、男の経験なんてほとんどないんだから! まだ十五歳だよ」  奈子は高校一年だが、二月生まれだ。  エイシスをきつい目で睨んでいる。その頬は少し朱い。 「…だから?」  エイシスはのほほんと訊き返す。 「そんな女の子相手に、ふつう一晩に五回もする? ほとんどケダモノよね。信じらンない!」  奈子がいくらわめいても馬耳東風。これっぽちも気にする様子はなかった。  相変わらずのにやにや笑いを浮かべている。 「ちょっと! なんとか言ったらどう?」  ようやくエイシスは奈子の方を見ると、ぼそっとつぶやいた。 「感じてたくせに」  か〜っと、奈子の顔がまっ赤になった。  怒りと、そして恥ずかしさのために。  エイシスの言葉は、事実だった。  奈子にとってはこれ以上はないくらいの屈辱だったが、しかし事実だった。  なにか言い返したくても、言葉が見つからない。  一晩中、明け方近くまで抱かれ続けていた。  しまいに奈子は泣き出してしまったが、それでもやめてはくれなかった。  そして…  口とは裏腹に、奈子の身体はしっかりと反応していた。  エイシスの愛撫に、感じていた。  何度も、イカされてしまった。  だから、エイシスの言葉に反論できなくて、 「あ…あんたなんか、山の中でのたれ死んでればよかったのよっ!」  渾身の右フックを顎に叩き込んでエイシスを張り倒すと、奈子はそのまま自分の世界へと帰ってきてしまった。         * * *  ちゃぷ…  熱い湯にのぼせるくらい長い間、奈子は湯船に浸かっていた。  思わず、頭を抱えてしまう。  ああ、もう、どうしてあんなことしてしまったんだろう。  由維に会わせる顔がない。 『奈子先輩て、倫理観とゆ〜か、貞操観念とゆ〜か…が欠如してますよね〜』  ふと、いつかの由維の台詞を思い出した。  確かにその通りだ、と自分でも思う。  どうして、こんなことしてしまったんだろう。 (せめてハルティ様ならともなく、よりによってエイシスなんかと…)  いや、そういう問題じゃない。 「由維に、謝らなきゃ…な…」  最近の由維は妙に寛大だから、許してはくれるだろう。  だけど…  本当はどう思ってるんだろう。  顔では笑っているけど、実は、奈子が見ていないところでは泣いているのではないか。  いっそ、黙っていた方がいいのだろうか。  …いや、ダメだ。  ちゃんと言わなきゃならない。 (これは不可抗力だったんだって。本当に愛してるのは由維だけだよって)  ああ、もう、なんでこんなことになっちゃったんだろう。  思い出すのも恥ずかしい。  なのに…昨夜の出来事が、頭から離れない。  明け方近くまで、それは続いた。  しまいには、抵抗する気力もなくなっていた。  いろいろな姿勢をさせられて。  動物みたいに四つん這いにさせられたり、上に乗せられたり…。  それどころか…。  それどころか…。  ああ、もう考えたくもない!  く、口で……なんて。 「…やっぱり、殺す」  奈子は湯の中に顔を沈めて、ぶくぶくと泡を吐き出しながらつぶやいた。  目が、危険な光を帯びている。 「絶対に殺す! あの男、今度会ったら刀のサビにしてやる!」  ざばっと立ち上がった奈子は、無銘の剣は決して錆びたりしない、ということを失念していた。  くら…  熱い湯に長く入っていたのにいきなり立ち上がったため、奈子は立ち眩みを起こしてしまう。  のぼせてふらつきながら風呂から上がり、脱衣所の鏡の前に立った。  あまりにも長く湯に浸かっていたせいで、治りきっていない傷が赤く浮かび上がっていた。  今回受けた新しい傷はやはり目立つ。ソレアに治してもらった方がいいだろうか。  左肩の傷も大きい。三ヶ月ほど前、マイカラスに侵攻したサラート王国の将軍と戦ったときのもの。  そして…  胸や内股に、傷とは違う赤いあざがいくつかあった。 「…あのヤロ〜、こんなにキスマークつけて…。由維に見られたらどうすんのよ」  いちばん大きな傷は、右胸の下にあった。  一年前の傷。  奈子が殺した相手に、剣で貫かれた。  そっと手で押さえる。 『これと同じ傷を、増やしたくなかったんだ』  そう、エイシスは言った。 (なによ、キザなこと言って…)  それは身体に残る傷のことではない。  心に深く残った、決して治らない傷。  こうやって向こうの世界を訪れている限り、いつかまた、同じ傷を受けることになるだろう。  鏡を見ながら、奈子はじっと考える。  そんなことが、許されるだろうか。  だけど…。  奈子は、行かなければならないのだ。  五章 無銘の剣  一晩自分のベッドで寝ると、奈子は翌日すぐにソレアの屋敷を訪れた。  特に用があったわけではない。  ただ、家にいて由維と顔を会わせるのが気まずかっただけだ。  由維に会えば、きっと顔に出てしまう。  いつかは由維にも話さなければならないだろうが、まだ心の準備が出来てはいなかった。 「あら、いらっしゃい。ナコちゃん」  ソレアは家にいた。奈子の顔を見て、いつものように微笑む。 「もっと早くに来るかと思ってたけど…、また、失敗した?」 「え…まあ…ね」  奈子は曖昧な笑みを浮かべてごまかした。  その様子に不自然なものを感じたのだろう。ソレアはわずかに目を細めて訊いた。 「なにかあったの?」 「え、いや…別になにも…」  引きつった顔で応える。ソレアはおおよそなにがあったか気付いていたのかもしれないが、それ以上追求はしなかった。 「まあいいわ。それより、ちょうどいいときに来たわね。もうじき、ファージも来る約束なのよ」 「ファージが?」  ソレアの屋敷を訪れても、ファージはいつでもいるわけではなかった。どこを飛び回っているのか、ここにはいないことの方が多い。 「お昼までには来るって言ってたから、もうじきね。ナコちゃん、悪いけどおつかいに行ってきてくれない? その間に、昼食の準備をしておくから」 「うん、わかった」  ソレアから買い物のメモを受け取ると、奈子は街に出た。  買い物は特にややこしいものではなかった。  いつものようにパンとミルクとワイン、そしていくつかの野菜を買って帰ろうとする。  その途中、見覚えのある人影が奈子の視界をちらっと横切った。 (…、誰だっけ?)  確かに覚えはある。しかし、どこで…。  その人影を目で追う。  中肉中背の、平均的な体格をした男の背が見えた。  しかし、その髪の毛が特徴的だった。  鮮やかな赤毛。それに見覚えがあった。  奈子が知る中に、これほど鮮やかな赤毛の持ち主はふたりしかいない。  ひとりは、あのエイシスだ。  しかしエイシスは百八十センチを優に越える大男だから、後ろ姿でもひと目でわかる。  そしてもうひとりは… (まさか!)  後ろ姿で、顔は見えない。  人違いかもしれない。  髪の色を除けば、これといって特徴のある容姿ではない。  しかし…。 「アルワライェ・ヌィ…」  その名前を、小さくつぶやいた。  腕に、鳥肌が立った。  以前、王国時代の竜騎士レイナ・ディの墓所に関する情報を求めて、マイカラスの王宮に忍び込み、ファージに怪我を負わせた男。  奈子が出会ったのはレイナ・ディの墓所の中で、その時はひどい怪我を負わされ、大切な剣を折られた。  無銘の剣を手にした奈子に片手を切り落とされて逃走したはずだったが…。  最近では、マイカラスとサラートの戦争にも関わっていた形跡がある。  強大な魔力を持った、正体不明の人物だ。  王国時代の失われた知識や力を求めていることは間違いなさそうだが、所属も、経歴も、本名も一切が不明だった。  もしあれが本当にアルワライェであるなら、いったいこのタルコプでなにをしているのだろう。  ソレアの屋敷があるこの街を歩いていることが、ただの偶然とは思えなかった。  なにか、また、良からぬことを企んでいるに違いない。  奈子は、あとを追うことにした。  気付かれない程度に距離をあけて、  男はやがて、大通りを外れて路地に入った。  奈子もそのあとに続く。  向こうは、尾行に気付いた様子はない。  このあたりの道は詳しいのか、入り組んだ路地を少しも迷わずに歩いて行く。 (いったい、どこへ行こうとしてるんだ…?)  アルワライェがなんの目的でここにいるのか、見当もつかなかった。  やがて、建物の間の幅数十センチほどの隙間を通り抜けると…。 「え…?」  そこは行き止まりで、小さな空き地になっていた。  男の姿はない。 「え…? 確かにここに…」  いや、あれが本当にアルワライェなら、転移魔法が使えるのだから、袋小路で姿を消してもおかしくはない。  しかしそれなら、最初から目的地まで転移すれば済むことのはず。 (転移…?)  それで思い出した。  アルワライェが得意とするのは、極短距離の転移で相手の背後をとる戦法だ。 「まさかっ!」  ばっと振り返った瞬間――  いきなり、額に手が当てられた。 「――っ!」  衝撃が頭を貫く。ちょうど、極闘流の奥義『衝』を頭部に受けたような感じだ。  奈子の身体は、その場に崩れ落ちた。  意識はあったが、身体がまったく動かない。  全身が麻痺しているようだった。  倒れた奈子を見おろしている人物が視界に入る。  赤い髪…しかし、アルワライェではなかった。 (女…?)  それは、二十歳くらいの女性だった。  騎士を思わせる身なりをしている。  美しい、整った顔立ちだった。  アルワライェに比べるとややくすんだ色の髪を、肩にかかるくらいの長さで切りそろえている。  女は、微笑んでいた。  確かに美しかったが、どこか、ぞっとするような残忍さが感じられる表情だった。 「初めまして。ナコ・ウェル・マツミヤ」  声も美しかった。どことなく嘲るような口調であるのに、それでも聞き惚れてしまうような澄んだ声だ。  女は、仰向けに倒れている奈子の傍らに屈み込んだ。 「会いたかった。あなたに、大切な話があるのよ」  奈子はなにも言えなかった。身体が麻痺していて、声を出すこともできなかったのだ。  ただ、女の顔を見上げていた。  まったく見知らぬ人物だった。向こうも「初めまして」と言っていたのだから、それは間違いないだろう。 「あなたには、アルの腕の怨みがあるんだけど…今日はその話じゃないの」  そこに出てきたひとつの単語が、奈子の記憶を刺激する。 (アル…アルワライェ?)  そういえばレイナ・ディの墓所で出会ったとき、「アルと呼んでもいいよ」と言ってはいなかったか。  この女性が、あの男の関係者であることは間違いなさそうだった。  奈子と因縁があることを知った上で、アルワライェの幻影を見せておびき出したのではないだろうか。  だが、なんのために?  この女性は、いったい何者なのだろう?  見当もつかなかった。 「とびきりの美女、というほどでもないけれど、まあ悪くはないわね」  女は、奈子の顔を観察するように見て言った。 「でも、この瞳は素敵ね。意志の強さが感じられる…見つめていると、ぞくぞくしてくるわ。アルが気に入るのもわかるわね」  しばらく奈子の髪を指でもてあそんでいた女は、やがて、奈子の額に手を当てる。 「あなたに、お願いがあるのよ」 (お願い…?) 「それは、あなたにしかできないことなの…」  耳元に唇を寄せ、歌うような声でささやく。  心の奥底にまで染み通るような、不思議な響きを持った声だった。         * * *  奈子がソレアの屋敷へ戻ると、もうファージは来ていた。  奈子の顔を見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。まるで、飼い主にじゃれつく仔犬のようだ。  そんなファージを見て、奈子の口元にもかすかな笑みが浮かんだ。  微笑んで、そして…。  右手がかすかに動いた。  口の中で小さく、ある言葉をつぶやく。 「ファージ! 駄目っ!」  突然、ソレアが叫んだ。普段のソレアからは想像できないような金切り声で。  警告は間に合わなかった。  いつものように奈子に抱きつこうとしたファージの身体が、寸前で止まる。  一瞬硬直して、震える手が奈子の肩をつかんだ。  ファージの顔に、驚きの色が浮かんでいた。  なにが起こったのかわからないといったような。  しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐに、すべてを理解した表情になる。  大きな金色の瞳に、奈子の姿が映っていた。  かすかに開いた唇が動く。しかしそれは声にはならない。舌が震えている。  なぜか、小さく微笑んだように見えた。  ぽたり…  ふたりの間に、赤い滴りが落ちる。  最近替えたばかりの新しい絨毯に、赤い染みが広がった。  剣が、ファージの胸を貫いていた。  心臓を、正確に。  その剣を握っているのは、奈子の手だった。  限りなく鋭く、限りなく強靱な刃。  無銘の剣――千年前の竜騎士レイナ・ディ・デューンが用いたという、大陸最強の魔剣。  奈子の顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。  人形よりも無機的な顔で、ただ剣を握っていた。  しかし、奈子は感じていた。  自分の手の中にある呪われた剣が、この、ファーリッジ・ルゥ・レイシャという存在に、本当の意味で致命的な傷を負わせたということを。  その刃は薄く、身体の傷は小さなものだ。  だが、剣に秘められた力は、ひとつの命を――不死身とさえいわれていたこの少女を支えていた魔力そのものを、ずたずたに切り裂いていた。  無銘の剣は、凄まじいまでの魔力を備えていた。「この程度の魔法をいくら食らったところで、私は死なないんだ」そう言った少女を殺すのに充分すぎるほどの力を。  物理的な力ではない。命そのもの、魂そのものを破壊する力だった。  奈子の肩をつかんでいた手から、ふっと力が抜けた。  その美しい金色の瞳から、光が消えていく。  ゆっくりと、とてもゆっくりと。  ファージの身体は、その場に崩れるように倒れた。  周囲に、赤い染みが信じられない速さで広がっていく。  奈子の手から、剣が落ちた。  刃も、柄も、赤く染まっている剣。  人形のようだった顔に、少しずつ表情が戻ってくる。 「あ…」  足元に倒れている少女を見る。  その目が、大きく見開かれた。 「…な…によ…これ…」  自分の手を、顔の前に持ってくる。  血に染まった手。 「い…」  ぶるぶると手が震えている。 「ひ…ぃ…」  わずかに顔を動かした。ソレアと目が合う。  彼女もまた、あまりにも衝撃的な出来事に言葉を失って立ちすくんでいた。  そうしてようやく、奈子は自分がなにをしたのかを理解した。  両手で顔を覆う。 「い…い…、いやああぁぁぁっっっ!」  奈子の絶叫が、屋敷の中に響き渡った。 《金色の瞳・後編に続く》  あとがき  まだ終わってないから、「なかがき」とでも言うべきでしょうかね?  とゆ〜わけで『金色の瞳・前編』です。  『銀砂の戦姫』のあとがきで予告したとおり、前後編になってしまいました。読者の方々が驚いているか、怒っているか、ちょっと気になるところですが…。  理由は二つあります。  ひとつは、一回にまとめると過去最長の『ファ・ラーナの聖墓』以上の長さになりそうだったこと。そうなるとさすがにPCで読むのは辛いかな、と。  そしてもうひとつ。そもそも私が連載ではなく一話丸ごとの書き下ろしにこだわるのは、私の作品はその方が面白いからです。  あまり時間をかけず、最初から終わりまで一気に読むのがお奨めの読み方。  しかし今回に限り、ここで切った方が面白いだろう、と。いちばん続きが気になる箇所ですから。 「なんでこんなところで終わるんだ〜!」とやきもきしながら後編をお待ちください(笑)。  後編の公開がいつになるか…それは、皆さんの声援にかかっています(と、読者に感想メールを強要する私)。  まだ途中なので、内容に関する詳しい解説は後編のあとがきに譲りますが…作者として気になるのは、三〜四章に対する読者の反応ですね。  ついに、こうなっちゃいました。エイシス×奈子な展開は、主として女性読者には人気あるのですが、百合ネタ好きの男性読者には許せないかもしれませんね〜。  ちょっと面白いのは、同じ百合好きでも女性の場合、エイシスファンは多いしエイシス×奈子も認めてる人が多いこと。  男性読者の場合、エイシス個人のファンはいても、カップリングとなると奈子×由維、奈子×ファージが圧倒的な支持を受けます。エイシスやハルティについては「余計なやつ」とか「邪魔だ」とか…もう散々な言われよう(笑)。 「由維という本命がいるのに、どうして他の相手とこ〜ゆ〜ことするのか」とお怒りの方もいるかもしれませんが、奈子ってのはそ〜ゆ〜性格なんです。  惚れっぽくて、その場の雰囲気に流されやすくて、しかもセックスをあまり特別なことと考えてないフシがある。この辺の性格は、知り合いのある女の子に影響受けてます。別に、奈子のモデルってわけではないですが。  実は『銀砂の戦姫』ではハルティとも一線を越える構想もあったのですが、六話でハルティ、七話でエイシスとなると、さすがにちょっと…ね。  今後の展開の都合上エイシスは外せなかったので、ハルティ様にはガマンしてもらいました(笑)。  奈子×由維は健在ですけど、今回はキスシーンすらなしです。しばらくは健全路線で行こうかと思いまして。  女の子同士の場合、ただ身を寄せ合ったり、手をつないだりしてるだけの方が好きなんですよ、私。そんなわけで、一章の港のシーンが今回いちばんのお気に入りです。  ちなみに、あのシーンの舞台は架空の街ですが、オホーツク海沿岸に実在するいくつかの街をモデルにしています。八月の気温や海の状態に関する描写はほぼ事実で、港のシーンは主に北見枝幸がモデルです。  そして作中に出てくる「ほたてチップ」も実在するお菓子です。ちょっと名前を変えてますが、正しくは「ホタテチップス」だったかな。たしか紋別のお菓子だったと思ったけど、JR札幌駅でも入手可能です(一九九九年五月現在)。味は…お菓子というよりおつまみですね。  それにしても…今回はファージがメインの話のはずなのに、彼女の出番が少ないですね〜。  まともに出てきたのは、序章と二章だけ。これじゃまるでエイシスが主役みたい。  後編のファージの出番も、ほとんどが生前の話。いいんでしょうかね、こんなことで。  …というところで、最後に次回予告をしておきましょう。  次回はもちろん『金色の瞳・後編』…と言いたいところですが、その前にインタルードが一話入る予定。  ただし、いつものインタルードとは違い、奈子がこんなコトやってる間の、由維と亜依のお話です。「由維×亜依のお話」ではないのでお間違いなく(笑)。このエピソードは、もしかしたら後編の中に組み込まれるかもしれませんが。  そして問題の後編は…早くて七月、遅くて八月下旬〜九月上旬でしょうか。  今度はちゃんと完結します。間違っても『中編』なんかにはならない…といいな(笑)。  では、待ちきれない方のために後編の下書きをちょっとだけ紹介しましょう。(完成した作品とは異なる場合があります) 【六章『復讐の序曲』より】  奈子は立ち上がると、エイシスの前へとやってきた。 「あんたが…」  口を開くと同時に、いきなり飛びかかる。  バランスを崩して倒れたエイシスの上に馬乗りになると、思い切り顔を殴りつけた。 「お前のせいだっ! お前が…お前が余計なことを言ったから!」  エイシスの手から、短剣を奪い取って振り上げた。 「殺してやるっ!」  短剣は、エイシスの左肩に深々と突き刺さった。  小さくうめき声を上げたエイシスは、短剣を握った奈子の手首をつかむ。 「殺してやる…殺してやる…! お前を殺して、アタシも死ぬ…」 【七章『金色の瞳』より】 「レイシャの血を引いているわけでもない、どこの馬の骨とも知れない小娘が竜騎士になろうだなんて、片腹痛いんだよ」  エイシードの口元に、歪んだ笑みが浮かんでいた。それで、すべてを悟った。 「そう…いうこと…」  エイシードが剣を引き抜くと、ファーリッジの胸から血が飛び散る。  立会人のひとりが、血相変えて立ち上がるのが見えた。他の者は…笑みすら浮かべている。 (そういうことか…) 「ふ…ふふ…ふ…」  無意識のうちに、唇から小さく笑いがもれた。エイシードの顔を見上げる。  はしばみの瞳の奥が、金色の光を放っていた。 【八章『仇敵』より】 「墓守について、私が知っていることはこれだけです」  その話を、奈子は青ざめた表情で聞いていた。  もう、食事どころではなかった。ふたりは席を立って居間に移動した。 「少し違う話をしましょうか」  ずいぶんと暗くなってきていた。男は居間の明かりを灯す。 「あなたのことです」 「アタシ?」 「ナコ、あなたはいったい何者ですか」  ストレートに訊いてきた。 【九章『黄昏の堕天使』より】  思わず、笑いがこぼれた。クレインが怪訝そうな表情を見せる。 「ふ…ふふ…」  突然、思い出してしまった。思い出したら、笑いが止まらなくなった。 「ふふ…は…ははは…」  可笑しくて、可笑しくて、涙も出てきた。  どことなく、常軌を逸した笑いだった。 「はは…一年前にも、似たようなことがあった。アタシ、言ったんだ。エイクサムに」  奈子は涙を手で拭った。 「この世界がどうなろうが、知ったこっちゃない、ってね」  きっぱりと、そう言い切った。 「何万人死のうが、アタシには関係ない。よその世界のことなんか、どうでもいいんだ。ただ、ファージは、アタシの友達だった」         * * *  己の手で親友の命を絶った奈子の運命は?  そして、ファージに隠された秘密とは?  光の王国7『金色の瞳・後編』鋭意執筆中!  お楽しみに。                一九九九年六月  北原樹恒                 kitsune@mb.infoweb.ne.jp                     創作館ふれ・ちせ        http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/