光の王国7 金色の瞳 (後編)  六章 復讐の序曲  剣が、ファージの胸を貫いていた。  心臓を、正確に。  その剣を握っているのは、奈子の手だった。  限りなく鋭く、限りなく強靱な刃。  無銘の剣――千年前の竜騎士レイナ・ディ・デューンが用いたという、大陸最強の魔剣。  奈子の顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。  人形よりも無機的な顔で、ただ剣を握っていた。  しかし、奈子は感じていた。自分の手の中にある呪われた剣が、このファーリッジ・ルゥ・レイシャという存在に、本当の意味で致命的な傷を負わせたということを。  その刃は薄く、身体の傷は小さなものだ。  だが、剣に秘められた力は、ひとつの命を――不死身とさえいわれていたこの少女を支えていた魔力そのものを、ずたずたに切り裂いていた。  無銘の剣は、凄まじいまでの魔力を備えていた。「この程度の魔法をいくら食らったところで、私は死なないんだ」――そう言った少女を殺すのに充分すぎるほどの力を。  物理的な力ではない。それは命そのもの、魂そのものを破壊する力だった。  奈子の肩をつかんでいた手から、ふっと力が抜ける。  その美しい金色の瞳から、光が消えていく。  ゆっくりと、とてもゆっくりと。  ファージの身体は、その場に崩れるように倒れた。  周囲に、赤い染みが信じられない速さで広がっていく。  奈子の手から、剣が落ちた。  刃も、柄も、赤く濡れている剣。  人形のようだった顔に、少しずつ表情が戻ってくる。 「あ…」  足元に倒れている少女を見る。  その目が、大きく見開かれた。 「…な…によ…これ…」  自分の手を、顔の前に持ってくる。  血に染まった手。 「い…」  ぶるぶると手が震えていた。  記憶が甦ってくる。  声が聞こえる。あの女の声が。  倒れた奈子の耳元に唇を寄せ、歌うような声でささやいている。  心の奥底にまで染み通るような、不思議な響きを持った声だった。 『あなたに、お願いがあるのよ。それは、あなたにしかできないことなの…』  美しい…そう、ぞっとするくらい美しい声がささやいている。 『ファーリッジ・ルゥを殺しなさい。あなたの、剣で』  奈子の意識の中に、その声が浸み込んでくる。 『あなたにしかできないことよ。その剣でしか、ファーリッジ・ルゥは殺せない…』  声は、何度も繰り返す。  何度も、何度も。  奈子の心の奥底にまで、入り込んでくる。 『ファーリッジ・ルゥを殺しなさい…』  いつしか奈子の意識は、その声に支配されていた。  奈子はわずかに顔を動かした。ソレアと目が合う。  彼女もまた、突然の出来事に言葉を失って立ちすくんでいた。  それでようやく、奈子は自分がなにをしたのかを理解した。  両手で顔を覆う。 「い…い…、いやああぁぁぁっっっ!」  奈子の絶叫が、屋敷の中に響き渡った。   * * *  ソレアの屋敷を訪れようとしていた二人は、いきなり中から飛び出してきた人影とぶつかった。 「ナコ…?」  その名を呼ぶ二人の声が重なる。  男の声と、女の声。  赤い髪の、身体の大きな男。  長い銀髪の、凛とした表情の美女。  エイシスとフェイリアだった。  しかし奈子は二人に一瞬も注意を払わず、そのまま走り去ってしまう。  顔を見合わせた二人は、すぐに、なにがあったのかを理解した。呼び鈴を鳴らしもせずに、屋敷の中に飛び込む。  廊下を走る。居間の扉は開けっ放しだった。  部屋の中に入り…  そして、息を呑んだ。  そこにあったのは、ほぼ予想通りの、しかし、そうならないことを祈っていた光景。  床の上に、金髪の少女が倒れていた。  傍らに、血に濡れた剣が落ちている。  周囲の絨毯が、真っ赤に染まっている。  調べるまでもなく、少女が事切れていることはわかった。  生命の気配がまるで感じられない。  見開かれたままの金色の瞳が、光を失っていた。  ソファに、ソレア・サハが座っている。  蒼白な顔をして、両手で頭を抱えていた。  その手がかすかに震えている。  そして唇も。 「…どうして…どうして…、どうしたらいいの…」  茫然とつぶやいてる。  二人がそこにいることなど、まるで気付いてもいない。  エイシスが、室内の光景から顔をそむけた。 「…間に合わなかったか」  フェイリアは無言で、この惨状を見つめている。  ひどく、難しい表情をしていた。 「俺の…せいか?」 「…ええ、そうよ」  ゆっくりとエイシスの方に顔を向けたフェイリアは、きっぱりと言った。  責めるような目をしていた。 「本当にナコのためを思うのなら、言うべきだった。ちゃんと警告するべきだった。ファーリッジ・ルゥを狙う者がいること、そして、そのためにどんな手段を用いようとしているのかを」  厳しい口調だった。  エイシスがなにも言えずにいるうちに、さらに言葉を重ねる。 「ナコのためを思って? 知らない方が幸せだと思った? 笑わせないでよね。無知なこと以上の不幸なんかないわ。すべてを知った上で、自分がどうしたらいいのか考えるべきなのよ。あの子にはそれができるわ」  腰に手を当てたフェイリアは、自分よりも頭ひとつ背の高い男に向かって、鋭い言葉を投げつける。 「格好いいこと言って、結局あの子のことなにもわかっていないのね。あなたも、ハルティ・ウェルもそうよ!」 「フェア…」 「…なにをぼさっとしているの? やることがあるでしょう?」  フェイリアの口調は、まるで子供を叱る母親だ。実際、フェイリアの方が年上だし、エイシスが十三歳の頃からの知り合いだから、恋人というよりも姉と弟のような関係なのかもしれない。 「やること…?」 「さっさと連れ戻してきなさい!」  今さっき入ってきた扉を指差した。  誰を、とは言わなかったが、その相手はひとりしかあり得ない。  エイシスが外に飛び出していく。  ため息混じりにそれを見送ったフェイリアは、ソレアの方に向き直ると、顔に手をかけて強引に上を向かせた。 「…できれば、少し事情を説明してもらえないかしら?」  その口調に、優しさはみじんも感じられなかった。質問というよりも、詰問するような口振りで。 「フェイリア…ルゥ…?」  ソレアは、虚ろな、焦点の合わない瞳をしてつぶやいた。今になってようやく、そこにいる人物に気付いたらしい。 「…どうして、あなたがそこまで取り乱すの? こんなこと慣れっこではなくて? 私、ファーリッジ・ルゥは不死者だと思っていたのだけど、違ったのかしら」  その言葉に、ソレアは少しだけ驚いた表情をした。  しばらく黙ってフェイリアの顔を見ていたが、やがて、隠しても無駄と悟ったのか、ゆっくりと口を開く。 「…ええ、そう。その通りよ、普通ならね。でも…でも、今回は事情が違う…」  ふわりとした動作で立ち上がると、静かに息を吸い込んだ。  床に落ちている剣を指差す。 「…無銘の剣なのよ。黒の剣を別にすれば、大陸最強の魔剣…」  そこでいったん言葉を切ると、きっとフェイリアの顔を見る。 「竜騎士の魔法すら歯牙にもかけない、最強の武器! この世のあらゆるものを滅ぼすことができる武器! 相手がたとえ竜騎士だろうと、竜だろうと!」  残りの言葉を一気に吐き出したソレアは、力尽きたように座り込むと、また頭を抱えた。 「なにより…」  嗚咽混じりにつぶやく。  それに続く言葉には、さしものフェイリアも驚きを隠せなかった。 「…あの剣は、ファージを殺すために作られたのよ…」   * * *  あれからまる一日が過ぎていた。  とはいえ、いまの奈子には時間の感覚など残っていない。  彼女は、森の中を歩いていた――彷徨っていた、という言い方が正しいだろうか。  草木の茂った森の中を、夢遊病者のように歩いていた。  服は汚れ放題で、手足にはいくつもの切り傷、擦り傷があった。  ときどき、石や木の根につまずいて転ぶ。それで手や足、あるいは顔を擦りむいても構わずに、ただのろのろと立ち上がって、また歩き出す。  自分がなにをしているのか、まったく自覚していない様子だ。  その目には、まるで意志の光が感じられなかった。  心を持たない自動人形のように、足を引きずって歩いているだけ。  疲労も、痛みも、なにも感じずに。  片手には、短剣を握っていた。  奈子がいつも使っている、大振りの短剣。  その刃には、わずかな血が付いていた。  もちろん本人は、そんなことに気付いていないのかもしれないが。  どこへ行く、という目的があったわけでもない。  そんなことを考える心は、残っていなかった。  彼女の心を占めるのは、ただひとつのことだけ。  そして――  そんな奈子を追う、二人の人間がいた。  やがて、森を抜けて少し開けた場所に出た。  薄暗い森に慣れた目が一瞬眩んで、足が止まる。  そこに、彼女を待っていたかのように立つ人影があった。  奈子の姿を認めて、その人影はかすかな笑みを浮かべる。 「待っていたわ、ナコ・ウェル。迎えに来たのよ」  名高い歌姫にも劣らぬ、美しい声だった。  しかしその声には、優しさというものがまったく感じられない。  冷水よりも、氷よりも冷たい声。  声の主は背の高い、二十歳くらいの女性だった。  ややくすんだ赤い髪を、肩のあたりで切りそろえている。  腰には剣を差し、騎士らしき身なりをしているが、しかし、一般に騎士の証とされる左手の腕輪は見あたらない。  奈子はもちろん、その人物に見覚えがあった。  だからといって、なにか反応を示すわけでもない。  ただゆっくりと歩いていって、その女の前で立ち止まった。 「…なんだ、剣は置いてきてしまったの。肝心なところで役に立たないのね」  女は奈子よりもいくぶん背が高い。  奈子の髪をつかんで、乱暴に上を向かせる。 「まあいいわ。ファーリッジ・ルゥが死んだ以上、剣なんていつでも手に入るし」  唇が触れるくらいに顔を近づけて言った。  奈子の虚ろな目には、その顔すらも見えているのかどうか定かではない。 「それより、あなたを連れて帰らないとね。アルと約束したもの。生きたまま手足を切り落としたあなたをプレゼントするって」  女は剣を抜くと、奈子の腕に当ててすっと引く。  あとには赤い筋が残り、じわりと血が滲んできた。 「どう、素敵でしょう? 考えただけでぞくぞくするわ。あなたの血は、とても綺麗な色をしている」  自分でつけた傷に、舌を這わせた。流れる血を舐め取って、笑みを浮かべる。  狂気を感じさせる笑みだった。  それでいてなお、美しい表情だった。  奈子は、なんの反応も示さない。  女は、肩に手をかけた。まるで奈子をエスコートするかのように。  そして歩き出そうとしたとき、不意に、周囲の梢がざわざわと鳴った。今日は、風などほとんど吹いていないのに。  女ははっと顔色を変えると、奈子を突き飛ばし、自分もその場を飛び退いた。  一瞬遅れて、その場所を無数の稲妻が襲う。  同時に、森の中から飛び出した影があった。  それは、女と奈子の間に立って、大きな剣を構えた。  奈子を背中に庇うようにして。 「…今度はぎりぎり間に合ったな。こいつは返してもらうぞ」  女に剣を突きつけてエイシスは言った。  かなり長い距離を走ってきたのか、顔には汗が滴り、赤い髪が何本か額に張り付いている。  女はほんの少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに納得したように、ぽんと手を叩いた。 「あなた、エイシス・コットね。噂は聞いてるわ。ひょっとしてこの子、あなたの彼女?」 「…ああ」  エイシスは、奈子が正気だったら殴られそうなことを言った。  だが、いまはそんな細かいことを訂正している場合ではない。 「でも、駄目よ。アルがその子のことを気に入ってるからね」 「力ずくで連れていくか? できると思っているのか?」  低い声で言った。  エイシスの顔から、いつものにやにや笑いは消えている。 「言っとくが、俺は怒ってるぞ。楽には死なせないからな」 「お姫様を護る騎士ってわけね。かっこいいわぁ」  からかうように言う。  女はまるで面白がっているようだった。エイシスが放つ殺気など、気にもとめていない。 「あなたには感謝してるわ、エイシス・コット。あなたが教えてくれたおかげで、墓守を始末できたんだもの」 「貴様…」  エイシスは唇を噛む。呪文を声に出さずに、精霊の召喚をはじめた。  そうした下準備がなければ、精霊魔法は威力の点で上位魔法にかなわない。  精霊が呼びかけに応え、周囲の梢がざわめく。 「四大精霊の魔法…」  女は興味深そうにつぶやいた。  魔力の源となる精霊とは、実体を持たない存在だ。生命体であるのかどうかすら定かではない。  それは確かに存在するにも関わらず、大きさというものがない。  それ故に、物質の限界に束縛されずに次元の狭間を自由に移動することができ、そこからエネルギーを引き出せるのだ。  自然界に存在する精霊を利用するのではなく、強制的に精霊を召喚してより大きな魔力を導く魔法は、きわめて珍しいものだった。  魔法に関する知識の中では珍しく、王国時代よりも後に生まれたものだという。失われた知識、竜騎士の強大な上位魔法に代わるものとして。  それを駆使する者は、エイシスやフェイリアを含めても大陸中でせいぜい二十人というところだろう。 「やるわねぇ…」  女は短く口笛を吹いた。 「ここで戦ってもいいんだけど、せっかくの四大精霊の魔法、観客もいないところじゃちょっと盛り上がりに欠けるわね」  その身体が、すぅっと消えていく。 「またの機会にしましょう。アルには少し我慢してもらって。もっと相応しい舞台を考えておくわ」  そう言い残して、女の気配は完全に消えた。  エイシスは、それでもしばらくは警戒を解かなかった。  仮にあの女がアルワライェと同等の能力を持っているとしたら、引き上げたと見せかけて転移による奇襲を仕掛けてくる可能性もあった。  しかし、どうやらそんな気配はない。  大きく息を吐き出すと、召喚した精霊を解放する。  突風でも吹いたかのように、梢がざぁっと鳴った。 「おい、大丈夫か?」  エイシスは振り返ると、人形のように表情のない顔で立っていた奈子の、肩をつかんで揺さぶった。  その頭が、がくがくと揺れる。 「何故…」  どこを見ているのか、焦点の合わない目をしたまま小さな声でつぶやいた。 「え?」 「何故、助けたの?」  奈子の目は、エイシスを見ていない。  いつもの強い意志の光が失われた虚ろな目をして、独り言のように言う。 「何故って、お前…」  エイシスはこのときになってようやく、奈子の様子が普通ではないことに気がついた。 「ようやく、死ねるところだったのに…どうして、邪魔をしたの?」  奈子は小さく身体を振って、肩をつかんでいた手を振りほどくと、一歩後ろに下がった。  先刻からずっと手に持っていた短剣を両手で握りしめる。  そして…  その剣先を、こともあろうに自分の喉に押し当てた。 「お、おい…」  エイシスが前に出ようとすると、奈子は同じだけ後ろに下がる。 (こいつ…)  エイシスははっとした。  奈子の首筋にも、手首にも、いくつもの傷がある。  木の枝や棘でつけられた他の傷とは明らかに違う、鋭利な刃物の傷が。  短剣を握った手が、ぶるぶると震えている。  かなり力が入っている証拠だ。 「死のうとしたの! 何度も、死のうとしたのに…」  奈子の目から、涙が溢れる。  刃が押し当てられた部分から、一筋の血が流れた。 「なのに…どうしてもこれ以上手が動かないの!」  涙で顔をぐしゃぐしゃにして、奈子は叫んだ。  かなり危険な状態だ、とエイシスは感じた。目に、狂気の色が浮かんでいる。  しかし、こうなることは予想するべきだった。  一年前、憎んでいた仇を殺したときでさえ、あれだけ傷つき、ショックを受けていた奈子が。  しかも今回は、親友を自らの手で殺したのだ。たとえそれが己の意志によるものではないとはいえ、手を下したのは自分だった。  あれから一日、いままで生きていたことすら奇跡に近い。 「お願い…この剣の柄を、押してくれない? ほんのちょっとだけでいいの…」  泣きながら懇願する奈子。しかしその口元は、かすかに笑みすら浮かべていた。 「ね…お願い」 「馬鹿なことをするな!」  一瞬の隙をついて、エイシスは短剣を奪い取ろうとした。  手首をつかんで無理やり手を開かせようとするが、常軌を逸した奈子の力は不自然に強い。  力まかせに強引に短剣をもぎ取る。  その反動で、奈子の身体は草の上に転がった。 「どうしてよっ! …お願いだから死なせてよ! お願いだから…」  地面に転がったまま、嗚咽を上げる。  草をぎゅっとつかんで、地面に顔をこすりつけるような格好で。 「アタシ…殺しちゃった…この手で…ファージを殺しちゃった…」  短剣を奪ったときに切ったのか、奈子の手から血が流れている。  血の赤と、草の緑が奇妙なコントラストを描いていた。 「ふ…ふふふ…」  急に泣き声が止んだかと思うと、奈子は笑い出した。  エイシスはぞっとする。もちろんそれは正常な笑いではない。狂気がもたらす笑い…泣いているよりもたちが悪い。 「…アタシの手は、血に染まってるの。こんな汚れた手じゃ…もう由維を抱きしめることもできないの…」  顔を上げる。  虚ろな目が、エイシスを見ている。  正確にいえば、エイシスの手にある短剣を。奪い返す隙をうかがっている。  思わず、エイシスは二、三歩下がった。 (くそ…どうすればいい?)  どうすれば、奈子を元に戻せるのか。 「…本当にファーリッジ・ルゥが死んだと思っているのか? 墓守が…不死者とすら言われているファーリッジ・ルゥがお前ごときに殺されると思っているのか?」  嘘をついてもいい。とにかくこの場をなんとか切り抜けなければ…。 「エイクサム・ハルだって、アルワライェ・ヌィだって、ファーリッジ・ルゥを殺したつもりでいた。でも、あいつは生きていたんだ」  ファージは実は死んでいない…そう、思わせようとした。  もちろん嘘だ。彼自身、自分の目で確かめた。  普通の剣なら、心臓を貫かれたところで彼女は生きていたかもしれない。ファーリッジ・ルゥの力なら、心臓が破壊されても血流を維持し、死ぬ前に傷を修復することすら可能だったかもしれない。  王国時代の竜騎士に匹敵するほどの力があれば、可能だったかもしれない。しかし無銘の剣の魔力は、それを許さなかった。  だが、奈子はそこまで気付いていないはず…。  そう考えた。 「…死んだわ」  しばらくエイシスを見つめていた奈子は、ぽつりとつぶやいた。 「ナコ…」 「レイナの剣だったのよ! そりゃあ、目に見える傷は小さいかもしれない。でも、はっきりと感じたわ! もっと根本的な部分で、あの剣はファージをずたずたに切り裂いたの! 竜の命ですら一撃で奪う剣なのよ!」  一気にそれだけ叫ぶと、また声が小さくなる。 「…あのとき初めて、心の底からあの剣が怖いと感じた。悦んでいたわ。あの剣…悦んでいたの。意志を感じた…他の誰でもない、ファージの命を望んでいた…。そのために…作られたんだって…」  両手で顔を覆ってすすり泣く。  エイシスも、なにも言えずにいた。  奈子の言うことを、すべて理解できていたわけではない。錯乱した頭が生み出した幻想だ、と思っていた。  ソレアとフェイリアが交わした言葉を、このときの彼はまだ知らなかった。  しばらく無言で、うずくまって泣いている奈子を見おろしていた。  どうすればいいのだろう。  たとえ強引に連れ帰ったところで、なにも解決しない。  このままでは、奈子の精神はそう長くは保たないだろうと思われた。  なにか、支えになるものが必要だった。  どんなことでもいい。奈子に生きる力を与えてくれるものなら。 「…俺のせいだ」  エイシスはぽつりとつぶやいた。  奈子は、なんの反応も見せない。 「俺は知っていた…ファーリッジ・ルゥが狙われていることを。この間、暗殺を依頼されたことは話したな? その標的ってのが、ファーリッジ・ルゥだ。断ったけどな」  奈子がゆっくりと顔を上げた。まだ、なんの表情も浮かんでいない。  少しは驚くかと思ったのだが、そんな様子はない。 「…そうだと思った」  驚いたのはエイシスの方だった。  だが、すぐに気付く。ひとりで彷徨っている間に、その結論に達したのだろう。  ことが起こった後なら、少し考えればわかることだった。  しかし、このことは知らないだろう。 「…依頼主が訊いた。ファーリッジ・ルゥを殺すのは不可能だと思うか、とね。俺は答えたよ、手はある――ってな」  ぴくり。  奈子の肩がかすかに震えた。  まっすぐに、エイシスの顔を見る。  エイシスは小さく深呼吸すると、言葉を続けた。 「俺はそれしか言わなかった。だが相手は俺が思っていた以上に、多くのことを知っていたんだ。かなり調べたんだろう」  ただ強いだけでは、ファージは殺せない。  墓守は不死者だ――そんな噂すらあるくらいだ。  少しくらい傷つけたところで、殺すことはできない。墓守には、想像を絶する魔力の裏付けがあるから。  そして… 「その上、ファーリッジ・ルゥは絶対に隙を見せないんだ。俺やフェイリアはもちろん、ソレア・サハに対しすら、決して気を許してはいなかった。お前は気付かなかっただろうが…」  かすかに、ほんのかすかに、奈子の顔に驚きが浮かんだ。  そう、奈子は気付いていなかった。  だがそれこそが、ファーリッジ・ルゥを殺すことが難しいという最大の理由だった。  誰にも、心を許さない。  誰にも、隙を見せない。  しかし――  唯一の例外があった。 「一人だけ…たった一人だけ、ファーリッジ・ルゥを確実に殺せる人間がいた。心を開くただ一人の相手で、しかも、彼女の魔力を凌駕する武器を持った人間が…な」  ファーリッジ・ルゥを殺す方法…それを考えたときに、辿り着いた答えだった。 「不用意な一言だった。あれだけで答えを見つけるなんて思いもしなかった」  そう、たしかに不用意だった。  それは認めなければならない。  奈子は、彼のことを恨むだろうか。  それでもいい。  怒りも、憎しみも、ときには生きる力となり得る。 「ファーリッジ・ルゥを殺す方法はある…俺がそう言っただけで連中は気付いた。多分それ以前から、お前の存在を知っていたんだ。お前が、無銘の剣を持っていることすら知っていたんだろう。そう、アルワライェなら知ってるはずだったな」  奈子が、ゆっくりと立ち上がった。  エイシスの前へと進んでくる。 「あんたが…」  口を開くと同時に、いきなり飛びかかった。  バランスを崩して倒れたエイシスに馬乗りになると、思い切り顔を殴りつける。 「お前のせいだっ! お前が…お前が余計なことを言ったから!」  立て続けに何発も殴り、エイシスの手から短剣を奪って振り上げた。 「殺してやるっ!」  短剣は、エイシスの左肩に深々と突き刺さった。  小さくうめき声を上げたエイシスは、短剣を握った奈子の手首をつかむ。 「殺してやる…殺してやる…! お前を殺して、アタシも死ぬ…」  エイシスの服に、赤い染みが広がっていく。 「そうだな…」  傷の痛みに顔をしかめながらも、いつものにやにや笑いを浮かべて言った。 「お前と心中するのも、いいかもな…。だが、それだけでいいのか?」  奈子は、まだ力を緩めない。 「俺の責任だ…、そしてお前にも責任がある…。だが、もう一人、ファーリッジ・ルゥの死に責任を負わなければならない人間がいるはずだ。そうだろう? そうでなきゃ不公平だ」  奈子の目がかすかに光る。  流れ出した血で、エイシスの手が滑った。  奈子は力ずくで短剣を引き抜くと、もう一度振りかぶる。  一瞬動きを止めて、それから渾身の力で振り下ろした。  短剣は、根本まで埋まった。  エイシスの頬をかすめて、その横の地面に。 「誰よ…」  奈子がつぶやく。  相変わらず、狂気の色が浮かんだ目。  しかしその顔からは、はっきりと怒りの感情が読みとれた。  奈子にとっては怒りこそ、闘う力の源なのだ。 「誰なのよ…ファージを殺そうとしたのは…」  エイシスは気づかれない程度に、かすかに安堵の息をもらした。  少なくとも少しの間、二人とも生きながらえたことを悟ったから。  七章 仇敵  大陸を西から東へ分断するように滔々と流れる大河、コルザ川。  遠い昔から変わらずに流れている。  その上流部に、その都市はあった。  トゥラシ。  中原と呼ばれるこの地方では最大の、そして大陸中でも十指に入る大都市だった。  街の中心にある丘の上に建つ、ひときわ大きな神殿が目を引く。  実際には、街の中心に神殿があるのではなく、神殿の建つ丘を中心に街が築かれたというのが正しい。  現在の大陸で最大の勢力を誇る、トカイ・ラーナ教会の総本山。  その丘は、アルンシルと呼ばれていた。   * * *  初めて訪れる街に戸惑いながら、奈子はひとりで通りを歩いていた。  しかし、たとえ知り合いと出会っても、それが奈子とは気づかないかもしれない。  普段の女剣士風の服ではなく、普通の街娘が着るようなスカートを身につけ、左手にいつもはめている腕輪もはずしている。その上、金髪のかつらで髪型まで変えているのだ。  いまエイシスは傍にいない。  敵の目をごまかすためには変装だけでは足りない。別々に街に入った方がいいという判断からだった。  街に入ったあとで、ある宿で落ち合うことにしていた。 『ファーリッジ・ルゥを狙ったのは、トカイ・ラーナ教会だ。アルワライェが関わっているとなれば、まず間違いない』  そう、エイシスは言った。  教会とはいえ、アルトゥルやハレイトンといった大国と肩を並べるほどの大勢力である。その実体はきれい事だけではすまされない。  公にできないことなど、いくらでも隠されている。  この地方の十カ国において、教会の力は絶対的だ。真の支配者は国王ではなく、トカイ・ラーナの教皇であるというのは、公然の事実だった。  中原十カ国の実体は『トカイ・ラーナ帝国』といっても過言ではない。  対立する他の教会や布教を認めない国への工作…それは時には強硬手段に訴えることもある。  戦争…というのはわかりやすい手段だが、それとは別に「表には出ない」戦いもあった。  そういった、特殊な任務を生業とする人間が存在する。  アルワライェ・ヌィはそういった人間のひとりだと、エイシスは考えていた。  以前、アルワライェに雇われていたことがあるから、いくらかは彼のことも知っている。  もちろんアルワライェは自分の身分を明らかにしたりはしなかったが、それでもある程度は見当もつく。  それに、エイシスにファージの暗殺を依頼してきた男、言葉のわずかな訛りから、中原の出身であることはわかった。そして、教皇の名を出したときに見せた、かすかな表情の変化。  あれもおそらく教会関係の人間だ。  だとしたら、ファージの仇はこの街にいるはずだった。教会の「裏の人間」は大陸中に散らばっているが、アルワライェほどの力を持った者なら、教会中枢部の直轄のはずだ。他に手掛かりはない。  そうして、二人はトカイ・ラーナ教会の総本山のあるトゥラシへとやってきた。  二人だけで、だ。  あれから、一週間が過ぎていた。  奈子が、ソレアの屋敷に戻ることを固く拒んだためだ。  だから、エイシスはフェイリアと連絡を取ることもできなかった。それはつまり、トゥラシまで一気に転移することができないということだ。  エイシスは奈子を連れてタルコプの隣街へ行き、そこで馬を手に入れた。あとは馬と、コルザ川を遡る船を利用して、一週間かけてここまで来たというわけだ。  しかし考えようによっては、かえって良かったのかもしれない。  直接トゥラシに転移したら、相手にこちらの存在を宣伝するようなものだ。ある程度力のある魔術師ならば、近くで行われた転移を察知するのは容易なことだから。  アルンシルでは、トゥラシに入り込む不振人物を常にチェックしているに違いないのだ。  徒歩の方が相手の裏をかく可能性はあった。こちらにはソレアもフェイリアもいるのに、まさか一週間もかけてまともに旅してくるとは思うまい。  一週間という時間は、奈子にとっても良かったかもしれない。  少なくとも見た目は、ずいぶんと落ち着いてきた。もちろん、まだ完全に正常とは言い難いが。  目つきが、尋常ではない。  自分でもわかっている。きっと、もう完全に以前の通りには戻れまい。  あの瞬間から、自分の中でなにかが狂ってしまった。  奈子の剣がファージを貫いたあの瞬間から…。  この一週間の間にも、死のうとしたことが何度かあった。  頭で考えての行動ではない。突然、発作的に身体が動いてしまうのだ。  そのたびにエイシスが止めてくれてはいたが、どこか「余計なことを…」という思いがなかったわけでもない。  考えてみると、あの男とこれだけ長く一緒に過ごしたのも初めてだった。  その間、二人きりになれた夜は、いつもエイシスに抱かれていた。  奈子の方から望んだことだった。  ひとりで眠ることができなかった。  肉体的な快楽に身をゆだねている間だけは、忘れていられた。  夢も見ないくらいに疲れていなければ、眠ることができなかった。  目を閉じると、血溜まりの中に倒れるファージの姿が浮かぶのだ。  生気の失せた金色の瞳が、虚ろな目でこちらを見つめていた。   * * *  見られている…。  後をつけられている…。  奈子は感じていた。  トゥラシの街に入ってしばらくたった頃から、常に誰かの視線がつきまとっている。  試しに、狭い路地をでたらめに歩いてもみた。  はっきりと姿は見せないが、確かに、誰かが尾行している。  頭は錯乱気味であっても、感覚はかえって鋭くなっていた。  誰だろう。アルワライェだろうか。それともあの女か。  それにしてはやり方がまだるっこしい気がする。  どちらも、こっそりつけてくるよりは、堂々と目の前に姿を現す方が似合う性格だ。自分たちの力に絶対の自信を持っているのだから、隠れる必要もあるまい。  だとしたら…?  路地を出て、また大きな通りに戻った。  その方が、いきなり襲われる危険は少ないだろう。  通りを歩いていると、ガラス細工を扱う店が目に入った。  奈子はその店に入る。  手鏡を選んでいるふりをして、背後を映してみた。  それらしい人影は、二人いた。  一人は、ごく普通の商人風。  もう一人は、アルンシル巡礼のために遠くからこの街を訪れた信者――トカイ・ラーナ教会の聖地であるこの街には、そういった人間の姿も多い――のようだった。  つまり、この街を歩いていてもっとも普通の、不自然なところがない姿というわけだ。 (ふたり…か)  もう一人くらいはいるような気がしたが。  とにかく間違いない。  奈子を監視している。  正体がばれたのだろうか? いや、だとしたらもっと直接的な手段に出るように思われる。  おそらく、どことなく怪しい、と思われている程度なのだろう。  大陸最大の勢力を誇るトカイ・ラーナ教会は、それだけに敵も多い。  他国の間諜、工作員の類には目を光らせているはずだ。  いくらさりげない風を装っても、やはりこの世界では、奈子はどことなく不自然な立ち振る舞いをしてしまう。目を付けられてもおかしくはない。  あの二人は外部からの侵入者を監視し、必要とあれば排除する、教会の『裏側の人間』なのだろう。 「…やるか」  店を出た奈子は、口の中でつぶやいた。  いつまでも後をつけられるのは面白くない。  それで疑いが晴れるのならいいが、あまり期待はできないだろう。  ならば先手必勝だ。人気のない路地に誘い出して叩きのめしてやろう、と考える。  あるいは、うまくいけば連中からなんらかの手掛かりを得られるかもしれない。  アルンシルについては、一般の信者にも開放されているごく一部を除き、内部の情報はほとんどない。  それだけでも得られれば…。  人目に付かない場所を探して、奈子が歩き出すのと同時に、 「リューナ、リューナじゃないですか!」  そんな声と同時に、いきなり肩を抱かれた。  男の声だ。若者…と言うほどでもないが、それほど歳を取ってもいない。三十歳前後くらいだろうか。 「久しぶりですね、お兄さんは元気ですか?」  人違いだ…そう言いかけて男を見た奈子の顔が、驚愕に凍りついた。  平均よりもやや背が高い。鼻筋の通った美しい顔立ちをして、長い金髪を腰まで伸ばしている。  長い前髪が顔の半分を隠していたが、間違いない。  その顔に見覚えがあった。  忘れるはずがない。  忘れられるはずがない。 「エ…」  思わず叫びそうになった奈子を、男はぎゅっと抱きしめた。  そして、耳元でささやく。 「大きな声を出さないで。私と話を合わせてください。あなた、狙われていますよ。ナコ・マツミヤ」  それだけ言うと、奈子を放した。  さも親しげに微笑む。 「よかったら、うちに寄っていきませんか? いいお茶があるんですよ」  まだ事情がよく飲み込めていない奈子は、曖昧な表情でうなずいた。   * * * 『止めなさい、もう、死んでいます』  それは決して大きな声ではなかったのだが、何故か、はっきりと耳に届いた。  狂ったようにリューイを殴り続けていた奈子は、振り上げた拳を止めて顔を上げる。  大広間の隅に、二人の男が立っていた。  一人は体格の良い三十代の剣士、ハイディス・カイ。  そしてもう一人は、もう少し若く、長い金髪の魔術師。 『エイクサム・ハル…』  その名を口にしながら、奈子は、振り上げた手をゆっくりと下ろした。 『もう、いいでしょう? とっくに、死んでいますよ』  エイクサムは、何処となく、悲しそうな声で言った。 『し…んだ?』  まるで知らない単語を口にするかのように、奈子はつぶやいた。自分の下で、ぐったりとなっている男を見下ろす。  その顔は原型を留めないほどに潰され、周囲には血溜まりが広がっている。  握りしめた拳をそぅっと開くと、その手もべっとりと血に塗れていた。 『しんだ…、リューイ・ホルトは死んだ。そう…アタシが、殺した』  無機的な声で呟く。  再びエイクサムの方を向いて立ち上がろうとしたが、胸を貫いた剣の痛みに顔を歪めた。  服は、自分の血とリューイの返り血とで、真っ赤に染まっている。  少しでも身体を動かすと傷が広がり、鮮血が流れ出す。  奈子は、それでも立ち上がった。  やや上目使いに、じっとエイクサムを見据える。 『リューイ・ホルトは死んだ…。そう、アタシが殺した。次は…あんたの番だ』 『ナコ…、あなたにはわからないでしょうが、この世界は、力を必要としているのですよ。滅びつつあるこの世界を救うための、大きな力が…』  エイクサムは、不思議な表情を見せていた。  悲しみ? それとも憐れみ?  少なくとも、いまの奈子には理解出来ない表情だった。  奈子は、ゆっくりと歩き出した。エイクサムに向かって。  脚に力が入らない。一瞬でも気を抜けば、倒れてそのまま立ち上がれないように思えた。  慎重に、一歩一歩、ゆっくりと足を運ぶ。 『遠い昔…王国時代には、力があった。その力が、世界を支えていた。戦乱の中でその力が失われて以来、人間は、ゆっくりと滅びの道を歩みつつあるのです。人が住める土地は年々狭くなり、生まれる子供も減っている。ランドゥであろうと、ファレイアであろうと、世界に再び活力を与えるための力が必要なのです』  真剣な表情で訴えるエイクサムを、ハイディスは、何故か怒ったような顔で見つめていた。 『ナコ、わかってください。ファーリッジ・ルゥは、王国時代の伝統に縛られ、ランドゥの力を認めようとはしない。他に方法はなかったんです。ナコ…』  奈子は、何も応えない。ただ、少しずつエイクサムとの距離を縮めていくだけだ。  彼女が歩いた後には、一筋の血の帯が残り、そして、一歩ごとに歩みは遅くなる。 『この世界がどうなろうが、知ったこっちゃない。ファレイアとか、ランドゥとか、アタシには関係ない。よその世界のことなんか、どうでもいいんだ。ファージはアタシの友達だった。それだけだ…』  抑揚のない声で、そう呟いた。 『ナコ…』 『いい加減にしろ、エイクサム!』  突然、ハイディスが大声を上げて剣を抜いた。 『今更、何故この娘を殺すことをためらう? 前にも言った筈だ、生かしておけば、後で厄介なことになると。そして、リューイは殺された。今更なにを躊躇う? まさかお前…、この娘を…?』 『まさか』  微かに苦笑したエイクサムだが、すぐに真剣な表情に戻る。  少し考えて、 『…いや、そうかも知れませんね。最初に会った時から、私はあの瞳に魅せられていた。でも、その結果リューイが死んだのなら、私はけじめをつけなければなりません。ナコ…』  エイクサムはもう一度奈子に語りかけた。 『これが最後です。考え直す気は、ありませんか? 理解し合うことは、出来ませんか?』  奈子は黙っている。  しかしその目が、言葉よりもはっきりとエイクサムの問いに答えていた。 『…では、お別れです』  奈子の周囲に、三十個以上の青白い光を放つ光球が現れる。  竜を倒すための、竜騎士の魔法。  ファージが得意としていた魔法。 『ランドゥの、力…』  奈子は他人事のようにつぶやく。  先刻のリューイの魔法とは桁が違う、強大な力を感じていた。  不思議と、何の感情も湧かなかった。  エイクサムに対する憎しみも、死に対する恐怖も。  リューイの死を認識した時、すべてが燃え尽きてしまったかのようだった。  奈子を取り囲んだ光球から、一斉に光線が放たれる。  自分に迫ってくるその光を、じっと見つめていた。  時間が、とてもゆっくりと流れているように感じる。  やがて、光は奈子に集中し、視界が真っ白になる。  一瞬、激しい衝撃と痛みを感じ、その後は、なにもわからなくなった。   * * *  それが、その男と会った最後だった。  エイクサム・ハル・カイアン。強い力を持った魔術師で、かつてファージを殺し、王国時代の力を現代に甦らせようとしていた。  奈子はファージの敵を討つために彼を追い、そして、仲間であるリューイ・ホルトを殺した。  その後のことは、ファージやソレアから聞いていたに過ぎない。  生きていることは知っていたが、まさか、こんなところで再会するとは夢にも思わなかった。  一年前、エイクサムはファージを殺そうとしていた。  そして今またファージが殺されたとき、この男と再会する。  これはただの偶然なのだろうか。それとも、エイクサムもこの事件となにか関わりがあるのだろうか。  気を許すことはできなかったが、きちんと話をする必要がありそうだった。  敵意は感じられない。奈子はとりあえず、おとなしくエイクサムについていくことにした。  エイクサムの家は、街の中心部から少し離れた閑静な住宅街の一角にあった。  それほど大きくはないが、しっかりとした造りの、感じのいい建物だった。  入口で奈子は一瞬躊躇したが、それでも、エイクサムに促されるまま中に入る。応接間に通され、いい香りのするお茶が出された。 「どうぞ、毒など入っていませんよ」  笑いながら言う。奈子も別に心配はしていなかった。そんなことをするタイプとは思えない。 「今回も、あんたの仕業なの?」  お茶を一口飲むと、奈子は単刀直入に聞いた。ややこしい駆け引きは彼女の得意とするところではない。 「いったいなんの話ですか?」  穏やかな口調でエイクサムは訊き返した。その表情は、とぼけているようには見えない。 「そもそも、なぜあなたがこの街にいるのですか、ナコ?」  そう言って、まっすぐに奈子の顔を見る。探るような目をして。  奈子は黙っていた。どう言っていいのかわからない。  まだ、この男が敵なのか味方なのか、それすらもわからない。下手なことは言えなかった。 「あんたは、ここでなにをしているの? やっぱり、教会の人間なの?」  真っ先に確認すべきことはそれだった。たとえエイクサムが今回の事件に無関係だとしても、教会の関係者であれば今の奈子にとっては敵になる。 「いいえ。私は教会とは無関係、ただの個人営業の魔術師ですよ」  エイクサムは笑って答えた。 「そんな質問をするということは、あなたは教会と敵対しているわけですか? 先刻は教会の人間に尾行されていましたね」 「それは…」 「ナコ・マツミヤ…いや、いまはナコ・ウェルでしたっけ」  そう言われて、奈子は驚いて顔を上げた。 「知ってるの?」  エイクサムと知り合った頃の奈子は、まだ「ウェル」の名を持っていない。ハルティからこの名を与えられたのは、あの事件が終わった後だ。 「今度会ったら殺す…と、ファーリッジ・ルゥに言われてましたからね、遠く離れたこの街で、静かに暮らしていたわけです。だけど、目も耳も塞いでしまったわけではない。その気になれば、情報を得ることはいくらでもできます」  確かにその通りだ。  マイカラス王国のことを少し調べれば、ナコ・ウェルの名はすぐにわかる。クーデターの際にハルティとアイミィの命を救い、最年少の騎士となった奈子は、マイカラスでは有名人だ。 「今のあなたは、一年前と同じ目をしていますね。憎悪に満ちた、獣の瞳…」  びくっと奈子の身体が強張る。 「なにがあったのか、話してはもらえませんか?」  エイクサムはあくまでも静かに言う。  その顔をまっすぐに見つめた。  やはり、敵意は感じられない。むしろ、奈子を慈しむような表情に見えた。  どうしてそんな気になったのだろう。それはわからないが、奈子は話しはじめた。  今回の件だけではなく、この一年間にあったことも交えて。  なぜか、エイクサムが敵とは思えなかった。  いや、それを言えば一年前だって、彼に悪意はなかったのだ。  彼なりにこの大陸の行く末を憂い、その結果、最良と思われる行動を選択したに過ぎない。  ただその価値観が、ファージとは相容れなかったというだけだ。  だから、今のエイクサムは敵ではない。  そう考えて、奈子は話したのだ。  さすがに、驚いていた様子だった。 「…無銘の剣が千年ぶりに見つかったという噂は聞いていましたが、まさかあなたが…」  エイクサムは今でもかなりの事情通ではあったが、それでも奈子の身に起こったことをすべて知っているわけではない。  レイナの墓所のこと。  聖跡のこと。  マイカラスとサラートの戦のこと。  そして、今回の事件のこと。  話し終えた頃、お茶はすっかり冷めていた。  エイクサムは席を立って、新しいお茶を淹れてくれる。 「よく、これだけのことを話してくれました。では、私も少しお返しをしましょう」  今度は、エイクサムが話を始める。  ファージに敗れてからこの街に落ち着くまでのことを簡単に話すと、話題はトカイ・ラーナ教会のことに移った。  エイクサム自身は教会に属しているわけではないが、それでも、ときには仕事を依頼されることもある。それだけの力と深い知識を持った魔術師なのだ。  だから、教会内部の事情にも通じていた。 「アルワライェ・ヌィ・クロミネルは、たしかに教会の人間です。教会の裏側の…ね。出身とか、詳しいことは不明ですが、かなり重要な地位にいて、おそらくは大陸でも有数の力の持ち主。そして…」  そこでエイクサムは言葉を切り、奈子の顔を見た。 「アィアリス・ヌィ…それが、ファーリッジ・ルゥを殺した女の名です。名前でわかると思いますが、アルワライェ・ヌィの双子の姉です。アルワライェ以上に表に出ない人物なので、私も直接会ったことはありません」 「アィアリス・ヌィ・クロミネル…」  奈子は、その名を心に刻み込む。  決して忘れてはならない名。その名を持った存在をこの世から抹殺するまでは。  エイクサムは少しの間、剣呑な目をした奈子を見ていたが、やがてまた口を開く。 「アィアリス・ヌィは…、アール・ファーラーナです」 「え…えぇっ?」  奈子は思わず大声を上げた。  アール・ファーラーナ――戦いと勝利の女神。古い神話に出てくる、太陽神トゥチュと大地の女神シリュフの間に生まれた娘。時として人間の娘の姿でこの世に現れ、世界を救うと信じられていた。  それ故にトリニアの時代、エモン・レーナやユウナ・ヴィ・ラーナといった優れた力を持った女騎士は、アール・ファーラーナの化身と呼ばれていたのだ。  もちろんそれは、伝説の中の存在でしかない。  だが… 「本物…なの?」 「そうですよ」  エイクサムは笑ってうなずく。 「ただし、教会にとっては…ですけどね」 「どういう…こと?」 「力の象徴が必要なんですよ。人心をひとつにまとめるために」  エイクサムの説明はこうだ。  トリニア王国において、アール・ファーラーナと呼ばれた騎士たちは、いずれも常勝不敗と讃えられた名将ばかりであった。  アール・ファーラーナは、戦いと「勝利」の女神なのである。  自軍を率いるのがアール・ファーラーナとなれば、兵たちの士気は大いに上がるであろう。  士気の優劣は、戦の勝敗を左右する重要な要素だ。  近年、大国間の緊張は高まりつつある。トカイ・ラーナ教会は近い将来、アルトゥル王国やハレイトン王国といった強国と衝突することになるはずだ。  そのとき、教会の軍勢を率いるのがアール・ファーラーナであったとしたら…。  味方の士気は大いに上がり、逆に敵兵は怖じ気づくであろう。  ただ一人の女性の存在が、戦の行方を決めることになるかもしれなかった。 「でも…、それならどうして、アィアリスの存在を表沙汰にしないの?」  アィアリス・ヌィはほとんど表に出ない存在だという。教会としては、むしろ積極的に宣伝するべきではないか?  奈子は疑問をそのまま口にする。 「まだ、その時ではないから…ですよ」  エイクサムは軽く笑った。  トカイ・ラーナ教会、ハレイトン王国、アルトゥル王国といった大勢力の軍勢がぶつかれば、血で血を洗う激しい戦いになることは目に見えている。  その最中、突如として現れた美貌の騎士が、圧倒的な力で敵を蹴散らし、トカイ・ラーナ教会を勝利へと導く。  そうして初めて、アール・ファーラーナの存在を現実のものとして、大陸中に認めさせることができる…そんなシナリオだという。  確かに、ただ口先だけでアール・ファーラーナを名乗ったところで、味方はともかく敵が本気にするはずもない。それなりの説得力が必要だった。 「でも、それって…」 「…そう。たとえ偽物だとしても、相当な力を持っていなければこんな計画は立てられません。大陸中の人間が、アール・ファーラーナだと認めるだけの力がなければ…ね」 「それだけの力を…持っているというの? あの二人は…」 「おそらくは。私も、彼らが本気を出したところなんて見たことありません。しかし教会内部では、王国時代の竜騎士にも匹敵する…と考えているようです」 「まさか…」  奈子の声はかすかに震えていた。これから、その二人と戦わなければならないのだ。  竜騎士の力がどれほど圧倒的なものであるか、よく知っていた。  エモン・レーナの墓所、聖跡で見せられた過去の戦争の光景。何千、何万という兵をただ一騎で蹂躙する竜騎士。  奈子自身、最強の竜騎士と謳われたクレイン・ファ・トームと刃を交えたこともある。奈子がどれほど本気を出したところで、クレインは遊び半分であしらうことができるのだ。 「ナコ。あなたは…アィアリス・ヌィと戦うつもりですね?」  奈子はうなずいた。いまさら隠す必要もない。 「アルワライェは大陸中を飛び回っていますが、アィアリスは普段アルンシルの最奥部にいると思われます。外部の人間が入り込むことはまず不可能でしょう」 「あなたはなぜ、そんなことを話してくれるの? どうしてアタシに協力的なの? アタシのこと、恨んではいないの? アタシがリューイを…殺したんだよ」  奈子は訊く。  それとも、これも罠なのだろうか。しかしそうは思えなかった。  エイクサムは、優しさと知性の感じられる笑みを浮かべている。別に、美形だから信用するわけではないが。 「…少し長い話になります。軽く食べるものでも用意しましょう」  エイクサムは立ち上がると、奈子を食堂へ招く。新しいお茶を入れ、テーブルにミートパイとシチューの皿を手際よく並べた。  まさか自分で作ったのだろうかと思ったが、聞けば通いのメイドがいるという。  二人は席について、食事を始めた。エイクサムが話を再開する。 「…自分で言うのもなんですが、私は子供の頃から勉強が好きでしてね」  特に魔法に関して。  魔法への関心は、やがて必然的に大陸の歴史への関心につながる。多くのことを学んだが、学べば学ぶほど、新たな疑問も湧いてくる。 「…やがて、未来のことに思いをはせるようになりました」  人間は、大陸は、そしてこの星はこの先どうなるのか。  千年前の戦争の傷はまだ癒えていない。戦争で焼き尽くされた荒野はいまも生き物を寄せつけず、残された土地をめぐって国々は争いを繰り返し、人はゆっくりと、滅びの道を歩みつつある、と。 「力が必要だと思った。王国時代の強大な力を手にいれ、トリニアやストレインに匹敵する大帝国を築き上げれば…。戦をなくし、秩序を取り戻せば…とね。破壊の力は、また再生の力にもなる。荒野をよみがえらせることも可能だ、と」  エイクサムは苦笑を浮かべる。 「まあ、その結果があれなわけです」  奈子もつられて口元をほころばせた。 「少し考えを変えました。近年、どこの国も王国時代の知識の発掘に躍起になっています。その結果、たしかに魔法技術は向上しています。そのために…最近の戦争は、より激しいものとなりつつあります」  千年前の竜騎士には及ばないにしても、近年、それに近い力を持った騎士たちが出現している。アルワライェ・ヌィがいい例だ。  トカイ・ラーナ教会に限らず、ハレイトンにしてもアルトゥルにしても、国内最高の騎士や魔術師の力は、数十年前では考えられないレベルにまで達しているという。 「結局、力は力を呼ぶんです。その対立には終わりというものがない。そのうちに私は、力を得ることよりももっと興味を引かれることが出てきました」  王国時代の歴史と、そして墓守のこと。 「完膚無きまでに負けて、それで興味が湧いた。ファーリッジ・ルゥとは、いったい何者なのだろう、とね。たとえば…ナコ、あなたは、魔剣オサパネクシを持っていましたね?」  奈子はうなずいて、「今はもうないけど…」と付け足した。  それは、最初にこの世界へ来たときに、ファージにもらった炎の魔剣。王国時代より後の作としては、最高の剣といわれた業物だ。  しかし十ヶ月くらい前、レイナ・ディの墓所でアルワライェと闘ったときに折られてしまっている。 「あの剣は、長い間行方がわからなくなっていました。調べてみたところ、信頼できる記録に残っている最後の所有者は…ある地方貴族の息子で、パートリッジ・ルゥ・コーチマンという若い騎士。一見女性のような、美しい姿をした人物だったそうです。いまから百年以上も前の話ですが」 「はあ…」  奈子は曖昧にうなずいた。 「その人物は、若くして命を落としています。なんらかの争いに巻き込まれたようで。その後、剣の行方はわからなくなっています。彼の恋人が持っていったと言われてもいますが…」  どくん!  急に、心臓が大きく脈打った。  続きを聞くのが怖くなってきた。なにか、ひどくいやな予感がする。 「その恋人というのは、十五〜六歳の美しい少女だったそうです。鮮やかな金髪の持ち主で…ね。彼女をかばって、敵の刃の前に身を投げ出したとか」  言いようのない衝撃が、奈子の身体を貫いた。一瞬、背筋が凍るような寒気を覚えた。  これだけならば、昔話にはありがちな美談でしかない。しかし、奈子は聞いたことがあった。ソレアが話してくれた、あの剣にまつわる話を。  オサパネクシは、ファージをかばって死んだ恋人の形見だ、とソレアは言った。ただしその時は、それがいつ頃の話なのかまでは確認しなかったが。 「…名前…は?」  震える声で、奈子は訊いた。  多分、その答えは知っている。本当は聞きたくない、聞くのが怖い。  だけど、聞かなければならなかった。 「その…恋人の…名前…」 「本名はわかりません。調べてわかったのは、愛称だけ。聞きたいですか? あなたは、もう答えを知っているのではありませんか?」  奈子の手から力が抜けた。フォークが床に落ちて音をたてる。 「墓守に関する古い資料は、驚くほど少ない。無理もないことです。墓守と出会って、生き長らえたものは皆無ですから。墓守は常に噂の中にしか存在しない」  奈子は、落としたフォークを拾おうともせず、じっと俯いていた。  握った拳を膝の上に置いている。その拳が、じっとりと汗ばんでいた。 「数少ない情報には、共通点があります。常に女性です。それも若い女性、二十歳より上という話は聞いたことがありません。そして、鮮やかな美しい金髪。あとひとつ特徴的なのは…」  もう、聞くまでもなかった。  以前から、薄々感じていたことではあった。  しかし、それを認めるのには抵抗があった。 「金色の瞳…です。きわめて珍しい…というか、普通、そんな瞳を持った人間はいません」  エイクサムは最後に、ただひとりを除いて…と付け加えた。  それが意味することは、あまりにも途方のない話だった。 「だって…だって…」  頭が混乱して、なにを言えばいいのか分からない。 「墓守の一族…、よく、そんな話を聞きます。遺跡を封印する使命を代々受け継ぐ、王国時代の竜騎士の末裔…」  それはおとぎ話ではあるが、大陸中で広く信じられている話だった。  墓守と呼ばれる者が存在することは、まず疑いようもない。しかし… 「だけど、それは代々受け継がれるようなものではなかったんです。墓守は初めから…」 「…一人しかいなかった?」  絞り出すように、それだけ言うのが精一杯だった。他に、なにも言えなかった。  あまりにも途方もない話だったが、しかしなぜか、それが真実であると感じていた。 「ファージは…ファージは…千年も前の人間なの…?」  そんなことがあり得るのだろうか。ファージが、トリニアの時代の竜騎士だったなどと。  竜騎士がどれほど常人離れした力を持っていたとはいえ、決して不老不死ではあり得ない。奈子が知る限り、その寿命は一般人とそれほど差はないはずなのだ。 「確証はありません。しかしいくつかの状況証拠は、そのことを示しています。ただ、王国時代の資料をいくら調べても、彼女に該当する竜騎士は存在しません。はじめから裏の世界の存在だったのか。それとも、歴史からその存在を抹殺されたのか…」  エイクサムはそこで言葉を切った。 「墓守について私が知っていることはこれだけです」  そう言って席を立つ。  奈子ももう食事どころではなかった。エイクサムの後について、居間に移動する。  外はもう薄暗くなっていた。エイクサムが魔法の明かりを灯す。  奈子は黙っていた。頭が混乱している。  考えなければならないことが、多すぎた。 「少し、違う話をしましょうか」  エイクサムがわざと軽い調子で話題を変える。 「…あなたのことです」 「あ、アタシ?」  ギクッ  奈子の身体がかすかに緊張する。 「ナコ。あなたは、いったい何者ですか?」  なんの駆け引きも前振りもなく、ストレートに訊いてきた。  そして、奈子の回答を待たずに言葉を続ける。 「不思議な人だ。出身も、これまでの経歴も一切が不明。ソレア・サハの屋敷やマイカラスの王宮にいないときは、どこに暮らしているのかもわからない…」  奇妙な格闘術を使う。  一流の騎士にも匹敵する戦闘能力を持つ。  きわめて強い魔力を持ちながら、魔法の技術は子供にも劣るほど未熟。  知能は十分に高いのに、特に歴史や地理に関してはひどく無知だ。  エイクサムは、奈子の奇妙な点をひとつひとつ数え上げていく。 「…そして、弱冠十六歳の少女でしかないあなたが、レイナ・ディの剣を受け継いだ」 「…ずいぶん、調べたんですね」  奈子に言えたのは、それだけだった。それだけ言うのにも、声が震えないように精一杯の努力をする必要があった。  この男はいったいどこまで知っているのだろう。 「王国時代の歴史を調べるのと同じくらい、興味深い存在です」  エイクサムは笑って応える。 「最初に会ったときから、気になっていました。あなたには、人を惹きつける不思議な魅力がある。そういえば、マイカラス国王にも気に入られてるみたいですね」  その不意打ちに、奈子の頬がわずかに赤くなった。それを隠すかのように俯く。  エイクサムは小さく笑みを浮かべただけで、ハルティのことにはそれ以上触れず、話を続けた。 「私は、あなたによく似た女性を知っています。といっても、千五百年くらい昔の、歴史上の人物ですけど」  そこで一呼吸の間をおくと、テーブルの上に肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。 「彼女は美しい姿をしていて、不思議な力を持っていた。なぜか地理のこと、歴史のこと、そして一般常識について、ひどく無知な部分があった。出身も経歴も一切が不明。大陸では聞かない、奇妙な名を持っていた。  彼女はある辺境の小国の王子と出会い、やがて結ばれた。その国は急速に勢力を伸ばし、まもなく大陸最大の帝国となった…」  エイクサムは淡々と言葉を連ねる。「歴史上の人物」といったが、まるで自分で見てきたかのような口振りだ。  奈子は、ひどく緊張していた。どこかで聞いたことのある話のような気がする。しかしそれがどこだったかは思い出せない。  まっすぐに奈子の目を見ていたエイクサムは、ただ一言、その人物の名を告げた。 「エモン・レーナ」と。  奈子の腕に、ざわっと鳥肌が立った。 「トリニアの王、エストーラ・ファ・ティルザーの妻。最初の竜騎士。大陸の歴史において、最大の謎を秘めた人物。古い神話に出てくる、戦いと勝利の女神アール・ファーラーナの化身と信じられていた。…どうです?」 「どうって…なにが…」  よくない予感がする。しかし、エイクサムがなにを言いたいのか、まだ理解できていなかった。 「偶然と呼ぶには、不自然なほどの共通点がありませんか?」 「な、いきなりなにを言い出すのっ?」  奈子は叫んだ。  あまりにも非常識な話だ。話が飛躍しすぎている。 「アタシとエモン・レーナが? それこそ、ただの偶然だよ! アタシ、そんな大それたものじゃない。ただの…」 「ただの、十六歳の女の子…ですか?」  エイクサムはさも愉快そうに笑った。言うべき台詞を先に言われてしまった奈子は、黙ってうなずくしかない。 「君はいったい何者だ。…竜を従えて現れたエモン・レーナに向かって、エストーラが最初に言った台詞です。なんて答えたか、知っていますか?」  知っていた。奈子も本で読んだことがある。  トリニア建国の時代を書いた歴史書には、必ずのように書かれているエピソードだ。  奈子は、ゆっくりとうなずいた。 「見ての通り、十六歳の女の子です。――そう言ったそうですね」  からかうようなエイクサムの口調に、奈子の顔がかっと赤くなる。 「じゃあなに? アタシが女神の化身で、エモン・レーナの再来だとでもいうの? 戦乱の世を治めて、ハルティ様に天下を取らせるとでも? 冗談にもほどがあるよ…」  台詞が終わらないうちに、奈子は笑い出していた。もう笑うしかない。  なにを言い出すのかと思ったら、まったくとんでもない話だ。想像力が豊かすぎるとしか言いようがない。  しかし、エイクサムは本気だった。 「別に、女神の化身ではなかったかもしれませんよ」 「え?」 「ただ、ちょっと強い力を持っただけの女の子が、その力故に大陸の歴史に巻き込まれた――とは考えられませんか?」  エイクサムは静かに微笑んでいる。自分の説にずいぶんと自信があるらしい。  奈子は困ってしまう。なにしろ、この世界に来るまでは本当に、ちょっと空手が強いだけのただの女の子だったのだ。そもそもこの世界に来たのだって、きっかけは偶然でしかない。エイクサムの考えは、まったく見当はずれとしか思えなかった。 「まあ、エモン・レーナが『ただの女の子』でないのは確かでしょうけどね。少なくとも、この大陸で普通に生まれ育った者でないことは間違いありません。ところでナコ…」  エイクサムは笑みを浮かべていた。からかうような…というよりも、悪戯を企んでいる子供の表情に近い。 「最後に会ったとき、あなたは面白いことを言いましたね。憶えていますか?」 「え?」  なんの話だろう。心当たりはない。  しかし、エイクサムはまだ切り札を隠し持っていたのだ。 「この世界がどうなろうが、知ったこっちゃない。ファレイアとか、ランドゥとか、アタシには関係ない。よその世界のことなんか、どうでもいいんだ――と」  奈子の表情が固まった。一瞬、全身の血が凍りついたように感じた。  なんという失言。すっかり忘れていた。そんなことを口にしていたのか。  まあ、あのときは精神状態が普通ではなかったから、うっかり口を滑らしていたとしても不思議はない。  奈子の顔から血の気が引いた。 「…あ、あの…」 「その言葉がなにを意味しているのか…。実に面白い話だとは思いませんか?」  奈子にとっては面白いどころではない。うまい言い訳はないかと考えても、何も思いつかない。  まさか、こんなところで秘密を知られてしまうなんて。  しかし意外なことに、エイクサムはそのことについてそれ以上追求しなかった。  ただ、意味ありげな笑みを浮かべただけだ。 「まあ、それはいいとして…」  ティーカップの底にわずかに残ったお茶を喉に流し込むと、「ところで…」と話題を変える。 「あなたはこれから、ファーリッジ・ルゥの敵を討つため、アルンシルに潜入しようとしている…そうですね?」 「え…、ええ」  急に話題が変わったので戸惑ったが、奈子の正体についてこれ以上あれこれと詮索されるよりはいい。  奈子は、小さくうなずいた。彼女の目的なんて、エイクサムは最初から分かっていたはずだ。いまさら隠すまでもない。 「…それ、少し延期する気はありませんか?」 「なぜっ?」  思わず大声を上げる。  ここまで来て、なにを言い出すのだろう。エイクサムの真意が分からない。  もちろん奈子は、その言葉に従う気などこれっぽちもなかった。  しかし 「先にやるべき事があると思います」  そう、エイクサムが言った。 「やるべきこと?」 「聖跡へお行きなさい」 「聖跡…?」  それは、エモン・レーナの墓所。最強の竜騎士クレイン・ファ・トームの亡霊に護られた、禁忌の地。  そこから生きて帰った者はいないといわれる…ただし、それが事実ではないことを、奈子は知っていた。 「これは推測に過ぎませんが、ファーリッジ・ルゥと聖跡には、深い関わりがあるように思えます。それを見極めてからの方が、いいと思います。あそこの番人に、起こったことを知らせるべきでしょう」 「でも…」  簡単には承服できなかった。  せっかくここまで来たのに。敵は、すぐ目の前にいるというのに。 「ここまで来たんだから、アルワライェとアィアリスを殺すのが先」 「でも、復讐を果たしたら、あなたは死ぬつもりでしょう」 「――っ!」  その言葉に、はっとエイクサムを見る。  見抜かれていたのか。そこまでは話していなかったのに。  そう。エイクサムの言うとおりだった。  実際、何度も自ら命を絶ちそうになりながら、「仇の息の根を止めるまでは…」との思いでここまで来たのだ。 「死ぬのはいつでもできます。生きてる間に、できる限りのことをするべきでしょう」  奈子は、無言で俯いた。 「個人的な希望として、あなたには少しでも長生きしてもらいたい。聖跡へ行ってみて、それから、その後のことを決めて下さい」  エイクサムは窓の外を見た。 「聖跡のあたりはまだ明るいでしょう」  聖跡は、このトゥラシの街よりもずっと西にある。 「私が、送っていきます」 「あ、でも…」  奈子はまだためらっていた。しかしエイクサムは勝手に話を進める。 「行くなら、早い方がいい」  その手に、オルディカの樹でできた魔術師の杖が現れる。杖を小さく振ると、奈子の周囲を、複雑な紋様の光の輪が取り巻いた。  転移魔法の魔法陣だ。エイクサム自身は魔法陣の外にいる。 「あなたは?」 「私が行っても、聖跡には入れません」  そうだった。  聖跡は、恐ろしい力を持った番人――大陸最強の竜騎士と呼ばれたクレインの亡霊によって護られているのだ。  正確にいえば、中に入ることは誰にでもできる。ただし、生きて帰ってきた者はない。  もちろん何事にも例外はある。なんの気まぐれか、クレインが見逃した者もわずかながら存在した。例えば奈子やフェイリア・ルゥのように。  とはいえ、エイクサムにその幸運を期待するのは無謀だろう。彼の判断は正しいといえる。 「あ、ちょっと待って」  奈子はあわてて言った。既に呪文の詠唱がはじまっている。 「人と会う約束があるの。『青い鴉亭』って酒場を知ってる?」  エイクサムがうなずく。 「そこで、エイシス・コットっていう傭兵と…。伝言を頼める?」 「ええ、わかりました。心配せずに、行ってらっしゃい」  その言葉と同時に、奈子の身体は完全に光に包まれた。一瞬、目も眩むばかりに輝きを増すと、次の瞬間にはすぅっと消えていく。  その時には、奈子の姿もその場から消えていた。   * * *  玄関の扉が乱暴に開かれたのは、その直後だった。  どかどかと大きな音をたてて、数人の兵士が駆け込んでくる。 「なんですか、挨拶もなしに」  エイクサムは冷静に言った。  兵士たちのリーダーと思しき男が、前に出る。 「ここに、ナコ・ウェルという娘がいるだろう?」 「誰ですか、それは」  白々しくとぼけてみせる。 「誤魔化しても無駄だ。見ていた者がいる」 「私が連れてきたのは、古い友人の妹です。ナコなどという人は知りませんね」  エイクサムのからかうような口調に、兵士が眉を吊り上げる。  この男たち、街の治安兵の制服を着ているが、中身は別物だろうとエイクサムは考えた。  そうでなければ、奈子のことを知るはずがない。 「第一、もう帰りましたよ」 「貴様、逃がしたな!」 「人聞きの悪い。遅くなったから、家まで送ってあげただけです」 「よくもぬけぬけと…」  男がエイクサムの襟首をつかもうとすると、 「…やめなよ」  背後から、若い男の声がした。  兵士たちより少し遅れて入ってきたその男は、エイクサムの前に立つ。  赤い髪と子供っぽい表情が特徴の、二十歳くらいの若者。  アルワライェ・ヌィ・クロミネル。  エイクサムの表情がわずかに緊張する。 「もう帰ったんだって? 家に?」  親しげに聞いてくる。エイクサムはうなずいた。 「ええ」 「残念だな。会いたかったから、急いで来たのに」 「それは残念でしたね」 「…で、どこに帰ったんだって?」 「それはもちろん…タルコプの街でしょう?」  アルワライェは、少しの間無言で、エイクサムの顔を見る。  お互いに笑みすら浮かべているが、ふたりの間には緊張した空気がただよっていた。 「…帰るぞ」  やがてアルワライェは小さく肩をすくめると、兵士たちに向かって言った。 「は…しかし、この男はこのままにしておいてもいいのですか?」  兵たちが問う。 「こいつを連行したって無駄さ。少なくとも今日のところはね」  アルワライェは、忌々しげに言ってエイクサムを見た。 「喰えないヤローだね、あんた」 「褒め言葉と思っておきますよ」  出ていく兵士たちを見送りながら、エイクサムは静かに笑った。  八章 金色の瞳 〜王国時代〜  青竜の騎士――それは、トリニア王国における最高位の称号だ。  竜を駆ることを許された、本当の意味での竜騎士。  その数は現在、トリニア及びその同盟国を合わせても三十名に満たない。トリニア王国連合の青竜の騎士の定数は三十二だから、ここ数年は常に定数割れの状態が続いていることになる。  しかし今は平時であり、それが問題になることもない。それだけの力を持たない者を、竜騎士として認めるわけにはいかないのだから。  青竜の騎士になるには、家柄も身分も関係なく、必要なのはただ己の力のみ。とはいえ、竜騎士の血をまったく受け継がない者にその力が発現することはあり得ないため、必然的に、代々の竜騎士の家系から輩出されることが多かった。  青竜の騎士を選ぶための試験は、毎年行われる。それに挑戦するのは、有力貴族の子弟や、士官学校の生徒たちがほとんどだ。  いくつもの予備試験が行われ、候補者が絞られる。その予備試験すら、合格するのは至難の業だった。  事実、ここ五年間はひとりの合格者もいない。しかし今年は珍しく、二人の人間が最終試験まで残った。  トリニアでも有数の名家、サントワ侯爵家の長男エイシード・ファン。  今年二十二歳になる若者で、騎士と呼ぶに相応しい、よく鍛えられた体躯の持ち主だ。周囲の評価も高い。  そしてもう一人は、ずいぶん前に引退した竜騎士ヴェストフ・ツォイ・レイシャの養女、ファーリッジ・ルゥ。  まだ十六歳になったばかりの少女だ。若すぎるという声も多いが、その力は間違いなく他の竜騎士候補たちを圧倒していた。  最終試験は、この二名によって行われる。  その方法は、当人同士による一対一の決闘。  それはひどく野蛮で危険な、しかしもっとも確実な方法だった。  戦って、勝ち残ったものでなければ意味がない。竜騎士は、戦うための存在なのだ。  普段なら一万人以上の観客を収容できるこの闘技場だが、今日いるのは七名のみだった。  ファーリッジ・ルゥとエイシード・ファン。そして五名の立会人。彼らはみな、正規の竜騎士だ。  立会人たちは闘いの行方を見届けると同時に、闘技場全体を結界で覆い、外部に被害が及ばないようにする役目もある。  竜騎士並みの力を持つ二人がまともにぶつかり合えば、闘技場はおろか街にも大きな被害を及ぼしかねない。それを回避するためだ。  そしてこの結界にはまた、決闘する者たちの身を守る目的もあった。使用される武器も立会人が魔法を施したもので、よほどのことがない限り、致命傷を負うことはない。  若い二人が、闘技場の中心に立った。  立会人の代表、初老の騎士フェイドーア・サイルが二人に剣を渡す。  残りの四人は、それぞれ東西南北に別れ、最前列の席に着いていた。既に結界が闘技場を覆っている。 「トリニアの騎士として、青竜の騎士として、その名に恥じない闘いをするように」  最後にそう言って、フェイドーアも試合場から出た。  あとには、青竜の騎士の座を目指す二人だけが残される。  ファーリッジとエイシードは、剣を構えてお互いに向かい合った。   * * * 「なんだかなぁ…」  立会人五人の中で、ただ一人の女性であるイルミールナ・コット・ギガルは、他の四人を見回して嘆息した。  これが公正な試験といえるだろうか。明らかに意図的なものを感じる人選だった。  偏りがある。  トリニアほどの大国の中では、貴族や騎士たちの間に派閥が生まれるのも必然であり、それぞれの派閥は自分たちの勢力を伸ばそうとするのも当然だ。  そして今回の立会人は、五名のうち三名までがサントワ家寄りの人間だった。フェイドーアは遠縁の親戚である。  もう一人は、表向きはどの派閥にも属してはいないが、どちらかというと長い物には巻かれろというタイプの人間で、実際のところはサントワ派といってもいい。  これはもう、誰かが裏で手を回したのは間違いない。  青竜の騎士を輩出することは、その一族にとって大変な名誉であり、国内での発言力も増す。久しぶりの竜騎士を、自分の派閥から出したいと思うのは当然であろう。  立会人の中では唯一、イルミールナだけがサントワ家とはなんの関わりもないが、それは彼らが精一杯公正なふりをした結果だ。  いくらなんでも、五人全員をサントワ派で固めてしまっては、モリト家やラーナ家、ダーシア家といった他の有力貴族が黙ってはいまい。サントワ派ではない騎士の中で、もっとも邪魔にならない人間を選んだということだろう。  イルミールナはまだ若い上に、ギガル家は古くからの騎士の家系ではない。故に、国の中枢での発言力などほとんどないに等しかった。  彼女の父親は、刀鍛冶だ。  腕はいい。竜騎士のための優れた魔剣を数多く手がけている。  その功績が認められたことと、娘のイルミールナが竜騎士となったことで、爵位を与えられたのだ。  そして、ファーリッジ・ルゥのレイシャ家は…。  当主のヴェストフ・ツォイは高齢のために既に引退しているが、一応は竜騎士の家系だ。  しかしファーリッジ・ルゥは養女であり、レイシャ家の血は受け継いでいない。彼女は、ヴェストフ・ツォイの古い友人で、病気で死んだ魔術師の娘という話だった。  若い頃はトリニアの宮廷魔術師だったそうだが、サントワ派に与しなかったために、地位を追われることになったらしい。そんな政争があった当時、イルミールナはまだ小さな子供で、そのあたりの事情など詳しくは知らない。  いずれにせよ、サントワ家にとってはファーリッジ・ルゥが竜騎士になることはなんとしても阻止したいところだろう。たとえエイシードの件がなかったとしても、だ。  中立ならまだしも、自分たちの政敵となる竜騎士を増やすわけにはいくまい。  そんな事情で選ばれた、今回の立会人たちだった。  イルミールナは小さくため息をついた。  もっとも、それほど気にすることはないのかもしれない。  この闘いの決着が、判定でつくことなどまずあり得ない。周囲の立会人たちの思惑がどうであれ、結局は当人同士の力で勝負はつくのだから。  だから、モリト家やラーナ家も、表立って異論を唱えはしなかったのだろう。  イルミールナは、試合場の二人に目を移した。今まさに、闘いが始まろうとしているところだ。  エイシード・ファンとファーリッジ・ルゥ。二人がどの程度の力を持っているか、おおよそのところは知っていた。  公平に見れば、力はファーリッジの方がやや上だろう。とはいえ、相手を圧倒できるほどの差ではない。どちらが勝つか、予想は難しかった。  公正であるべき立会人にはあるまじきことかもしれないが、  イルミールナは同じ女性として、そしてサントワ家に権力が集中することに反発を覚える者として、内心ファーリッジを応援していた。  そのくらいは許されてもいいだろう。他の四人はエイシードの味方なのだから。   * * *  ファーリッジは、剣を斜め下に構えた。この変則的な下段の構えは彼女の癖だ。  ふっと小さく息を吐き出すと同時に、地面を蹴って一瞬で間合いを詰める。  キィンッ!  剣と剣がぶつかり合う甲高い音が響き、二人の間に火花が散る。  最初の打ち込みが受け止められるのは計算のうち。ファーリッジは飛び退きながら、立て続けに三本の魔法の矢を放った。エイシードの防御結界がそれを跳ね返す。  さらに続けて魔法の矢を放ち、それを牽制に使って、再び死角から間合いを詰めようとする。しかしファーリッジの目の前に突然炎の壁が出現し、その進路を塞いだ。  横に飛んで炎を避けたファーリッジを、エイシードが放った火球が追う。ファーリッジは剣で炎を薙ぎ払った。  それと同時に、エイシードの周囲の地面が爆発する。閃光が試合場を包みこみ、魔法の余波で結界がビリビリと震えた。  とはいえ、正規の竜騎士四人の手による防御結界が、竜騎士予備軍の二人の力で破られることはあり得ない。だからこそ当人たちはなんの遠慮もなく、全力を出して戦えるのだ。  その結界はさらに、二人の力をいくらか抑えてもいた。そうでなければ、これだけの力を持った者同士の戦いでは、確実に死者が出てしまう。  ファーリッジ・ルゥは少しばかり戸惑っていた。小さく舌打ちする。  本来の力が出ない。  試合場を包む結界によって力を抑えられているし、手にしている剣もそのための魔法がかけられている。  そういう決まりだから仕方がないが、どうにも勝手が違うことは否めなかった。  竜騎士を選ぶための戦いとはいえ、それによって優秀な人材を失うことを恐れてのことだろう。  ばかばかしい、と思う。  結局のところこの措置は、弱い側の命を守るためのものだ。  力の劣る者が生き残ってどうするというのだ、と。  ファーリッジは、ひどく腹を立てていた。  思う通りの力が発揮できないことに対して。そして、この程度の相手をさっさと始末できずにいる自分に対して。  エイシード・ファンなど、彼女にしてみればなんということのない相手のはずだった。  なのに、試合が始まってからずっと、ファーリッジはむしろ押され気味なのだ。  納得がいかない。 (どうしてよ…!)  力を抑制されたこの場所で、エイシードはどうしてこれだけの動きができるのか。ファーリッジを襲う魔法は、むしろ普段より力を増しているようにすら思えた。  懐に飛び込んで剣を振る。エイシードは難なくそれを受け止める。  ファーリッジが知っているエイシードの動きよりも速い。  なにか…変だ。  なにかが…。  一瞬、試合の行方を見守っている、立会人の一人の顔が視界に入った。 (まさか…!)  まさか。  一瞬の驚愕。そこに、わずかな隙が生まれた。  ファーリッジの。はしばみの瞳が見開かれた。唇の端から、一筋の朱い液体が流れる。  エイシードの剣が、ファーリッジの身体を貫いていた。 「――っ!」  そんなはずはない。力を抑えられたこの剣が、ファーリッジの防御結界を破って身体を貫くなど…。  あり得ない!  ファーリッジの口から、血が溢れ出す。 「レイシャの血を引いているわけでもない、どこの馬の骨とも知れない小娘が竜騎士になろうだなんて、図々しいにも程がある」  エイシードの口元に、歪んだ笑みが浮かんでいた。  それで、すべてを悟った。  ファーリッジの手から剣が落ちる。 「そう…いうこと…」  エイシードが剣を引き抜く。血が飛び散った。  立会人の一人が、血相変えて立ち上がるのが見えた。  他の者たちは…  笑みすら浮かべている。 (…そういうことか)  薄れゆく意識で考える。  レイシャ家の養女であっても、しょせん自分は「どこの馬の骨」だったわけか…。  そうか…。  ファーリッジの中で、なにかが砕け散ったように感じた。 「ふ…ふふ…ふ…」  唇から、小さく笑いがもれる。  エイシードの顔を見上げた。突然笑い出したファーリッジを見て、怪訝な表情を浮かべている。  まっすぐにエイシードを見る。  その瞳は…  はしばみの瞳の奥が、金色の光を放っていた。   * * * 「ファーリッジ・ルゥ!」  イルミールナは立ち上がって叫んでいた。  なんということだろう。  まさか、フェイドーアたちがここまで露骨なことをするとは思っていなかった。  結界も、剣も、すべて細工されていたのだ。  後でイルミールナがそのことを訴えたとしても、当のファーリッジが死んでいては誰も不正を証明できまい。  ここまで露骨なことをするとは…  前代未聞だった。サントワ家とは対立するラーナ家もモリト家も、まさかここまでは予想していなかっただろう。  イルミールナは思わず、試合場の中に駆け込もうとした。  そのとき…  見ていた者には、一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。  ぐらりと傾いてそのまま倒れるかに見えたファーリッジが、エイシードの顔に手をかけた。  次の瞬間。  遠目には、空中に紅い花が咲いたかのように見えた。花火のような紅い飛沫が周囲に飛び散る。  頭部を失ったエイシードの身体が、ゆっくりと倒れた。  ファーリッジが顔を上げる。  少し前までと、なにかが違っていた。  胸から血を流しながら、口元に引きつった笑みを浮かべている。  そしてその瞳が、金色の光を放っていた。  金色の瞳で、そこにいる五人を順に見回す。  鮮やかな金色の輝きは、人間のものとは思えなかった。豹のような肉食獣…あるいは、そう、竜のような。 「ファーリッジ・ルゥ! 貴様…」  我に返ったフェイドーアが駆け寄る。 「いったいどういうつもりだ。エイシードを…」  言葉は、そこで途切れた。  ゆっくりと、  ひどくゆっくりと、その身体が崩れ落ちる。  ファーリッジの手に、剣が握られていた。  赤い、光の剣。  純粋な魔力の結晶が、刃の形を取ったもの。その力は、最高の魔剣にも匹敵する。  ファーリッジはなんの躊躇いもなく、その剣を倒れたフェイドーアの背中に突き立てた。  剣から手を離し、腕を上げて胸の前でボールでも持っているかのような形を作る。  両手の間に、小さな、光る点が生まれた。よく見なければ気付かない、針の先ほどの光点。  ファーリッジの口元に笑みが浮かぶ。  手の中の光は、その輝きを急速に増していた。 「…っ! やめなさい、ファーリッジ・ルゥ!」  なにをしようとしているのか。それに気付いたイルミールナが叫ぶのと同時に、光が弾ける。  次の瞬間、闘技場全体が真白い閃光に包まれていた。   * * *  街の人々ははじめ、地震かと思った。しかしすぐに、街の外れから立ち昇るキノコ雲に気付く。  そちらに気を取られていたため、通りにいきなり現れた人影に注意を払う者は少なかった。 「どういう…こと…?」  血塗れの身体で、イルミールナはつぶやいた。  バランスを崩してよろけつつも、背後を振り返る。一瞬前まで彼女がいた闘技場を。  転移は、ぎりぎりで間に合った。ひどい火傷を負ったが。  脱出できたのはおそらく彼女だけだ。エイシードもフェイドーアも既に事切れていたし、他の三人は爆発に巻き込まれたようだった。  そこには、なにもなかった。わずかな瓦礫が残っているだけ。  巨大な闘技場の建物が、跡形もなく消滅して、黒いキノコ雲がむくむくと空に昇っていた。  イルミールナは力尽きたように、その場に座り込んだ。もう、立っているのも辛い。  肉体的なダメージはもちろんだが、青竜の騎士である彼女にとっては致命傷というほどでもない。それ以上に、精神的なショックが大きかった。  見ているものが信じられない。  いったいなんだったのだろう、あの力は。  フェイドーアがファーリッジの剣に斬られたときでも、まだ闘技場を覆う結界は有効だった。結界の中で、あれだけの力を行使できるはずがない。  あそこにいたのは全員、正規の竜騎士だったというのに。その結界ごと、闘技場全体を破壊するだなんて。  並みの竜騎士を遙かに凌駕する力だった。  常軌を逸している。  あの、十六歳の少女が。  あまりにも桁外れだ。  もしかしたら、四百年以上も昔の、今では伝説として語り伝えられている竜騎士、エモン・レーナやクレイン・ファ・トームにも匹敵するかも知れない。  ほんの、十六歳の少女が…。  街の中に、ざわめきが広がりつつあった。  イルミールナは、傷の痛みに顔をしかめながらも立ち上がる。  いずれにしても、このまま放っておくわけにはいかなかった。  九章 狂気の剣  夕陽は、血の色をしている――。  奈子はそう思った。  それは限りなく純粋な、深い赤。  鳥肌が立つほどに美しく、そして、恐ろしい。  大きな太陽が、間もなく西の地平線に隠れようとしている。  空は東の方から徐々に灰色の影に覆われ、気の早い星が瞬きはじめていた。  一本の草すら生えていない赤茶けた地面に、長く伸びた影が黒々と横たわっている。  奈子の位置からは、その建物は逆光になっていて、黒い塊のように見えた。なにもない荒野の中で、そこだけ石畳の舗装がなされている。  もし空から見おろすことができれば、それは直径百メートル強の正八角形をしているはずだった。その中心に、王国時代の神殿風の建物がある。  建物自体はそれほど大きなものではない。ここは、地下の広がりの方がはるかに大きいのだ。  奈子は、建物に向かってゆっくりと歩いていった。  周囲に、動くものはなにも見えない。動物も植物も、生きているものはなにもない。  風も吹いていない。完全な静寂に包まれた世界。  奈子の足音と息づかいだけが響く。  ここを訪れるのは、およそ五ヶ月ぶりだった。  以前来たときと、なにも変わっていない。内陸にある上に赤道に近いこの地では、季節の変化もほとんどない。  聖跡――いまから千五百年前の時代の竜騎士、エモン・レーナの墓所。  最初の竜騎士、闘いの女神の化身が眠る地。  普段は、近付く者もいない。  大陸の歴史上、最強と呼ばれる騎士の亡霊に護られた、禁忌の地。  それは、大陸の歴史を見守り続ける。  永遠なるもの。  千五百年前から変わらずにここにあり、そしてきっと千年後もそうなのだろう。  おそらく、ここにはすべての答えがあるのだ。  大陸の歴史、竜騎士の力の秘密、そしてランドゥやファレイアといった神々について。  しかしいまの奈子にとって、それはたいして重要なことではない。  奈子は、一人で立っていた。  影がどこまでも長く伸びている。  しばらくそこにたたずんでいたが、聖跡にはなんの変化も見られない。別に、聖跡の番人の出迎えを期待したわけでもないが。  日が沈むと、風が吹きはじめた。静かに、音もなく流れる風が奈子の頬を撫で、髪を揺らす。 「…頭…痛い」  眉間にしわを寄せてつぶやくと、奈子は頭を押さえた。  頭の奥に、鈍い痛みがあった。ここに来たときからずっと。まるで、脳の中心が痛みを訴えているような気がする。妙な話だ。人間の脳には痛覚などないというのに。  何度か、深呼吸をする。  そして思い出した。そうだ、あのときの痛みと同じだ。  この前、由維と水族館へ行ったときに感じた頭痛。あのときほど鋭い痛みではないが、同じものに違いなかった。 (なんなんだ…いったい)  脳の中に腫瘍か出血でもあるというのか。  いいや、違う。そんな物理的な痛みではない。  これはもっと…そう、心理的なものだ。  なんだろう。なにかを忘れている。  前にここに来たとき、いったいなにがあっただろうか。  聖跡の中に入る前、出てきた後のことはちゃんと憶えている。  しかし、聖跡の中のことは…。  ところどころ、ぽっかりと記憶に穴が空いていた。  忘れている。なにかを忘れている。  失われた記憶…。大切なもの。それはおそらく、聖跡の番人によって封じられたのだ。  だとしたら、それを知るために再び聖跡へ入ることを、クレインは許すだろうか。  でも、行かなければならない。  ここへ来てわかった。  エイクサムに言われたからではない。  奈子は、ここへ来なければならなかったのだ。  建物の壁に、ぽっかりと黒い穴が開いている。聖跡の地下へと続く通路が。  足を踏み入れようとした奈子は、自分がまだトゥラシで変装したときのままの姿であることに気付いて、着替えることにした。  変装のためのかつらを取り、町娘風の服も脱いだ。幸いここでは、人目を気にする必要はなかった。どうせ誰も見ている者は誰もいないのだから、着替えのためにいちいち物陰に隠れなくてもいい。  誰も見ていない…? そうだろうか。  きっと、聖跡の番人は見ているに違いない。しかし隠れても同じことだ。  大陸中どこにいても、聖跡の目が届かない場所などない。ここには、この千五百年間のすべての歴史が記憶されているのだから。  まあとりあえず、聖跡の番人が女性だというのは幸いだったかもしれない。  奈子はカードの中から、いつも着ている腰までのスリットの入った、動きやすい服を取り出した。  左手首に騎士の腕輪をはめ、腰のベルトに二振りの短剣と、五本の小さな投げナイフを差す。  最後に、一部分だけ長く伸ばした髪を、邪魔にならないように朱いリボンで結んだ。由維にもらったリボン――この世界での闘いでボロボロになっては、そのたびに新しいリボンをもらって。この一年間で、これが五代目だった。  これが奈子の普段の格好であり、そして闘いに赴くときの姿であった。  不意に、目に涙が滲んできた。  由維に会いたい――と、そう思った。  だけど…  今はそんなときではない、そう思い直す。  この件に決着をつけない限り、今の自分には由維を抱きしめる資格などないのだ。   * * *  奈子の目の前に、聖跡の地下へと続く通路が口を開けている。  扉も、もちろん鍵もない。その気になれば誰でも入れる。ただし、出てきた者は皆無だが。  入口に立って、奥を見た。中は真っ暗で、なんの気配も感じない。 「クレイン!」  奥に向かって奈子は叫んだ。石造りの通路に、声が反響する。 「知りたいことがあるの! 大切なこと! 入らせてもらうよ!」  こだまが消えると、あとには静寂だけが残る。  一応は断りを入れておいた。無意味なこととわかってはいる。こんなことで聖跡への不法侵入が許されるなら苦労はない。  聖跡は過去千五百年の間に、何百あるいは何千という侵入者の命を奪っているのだ。  財宝目当ての墓荒らしたち。好奇心旺盛な学者。そして竜騎士の力の秘密を求めた国家規模の発掘。  いったいどれほどの血が流れたことだろう。五ヶ月前にも、三百人の命がここで失われているのだ。  奈子は、通路を進んでいく。それは緩やかな下りになっていて、知らず知らずのうちに地下へ下りることになっていた。  中は真っ暗だ。以前来たときは先行者がいたため、明かりが残されていたのだが。  奈子は呪文を唱え、魔法の明かりを灯す。オレンジ色の光が、黒っぽい石の通路を照らし出した。  奈子の足音が反響する以外、なんの音もない。  頭痛は相変わらず続いているが、それほどひどいものではない。  通路は時折曲がりながら、どこまでも続いている。  奈子はあてもなく歩いていた。入り組んだ聖跡の内部の構造など、一度入ったくらいで憶えられるものでもない。そもそもあの時は、クレインが作りだした死体の山を目にして取り乱し、闇雲に走り回って迷ってしまったのだ。  そのときの光景を思い出す。  為す術もなくクレインになぶり殺しにされる、アルトゥル王国の兵士たち。  血の海となった床。  立ちこめる、錆びた鉄の臭い。  何十人もの死体が折り重なっていた。彼らだって本来はアルトゥル王国の精鋭、近隣諸国の兵が震え上がるほどの猛者揃いだったはずなのに。  それほどまでに、竜騎士の力は圧倒的なものだった。その力が失われた現在では、どれほど優れた騎士だろうと魔術師だろうと、竜騎士にかなうはずもない。  そもそもトリニアの時代においても、クレイン・ファ・トームは最強の名を恣にした竜騎士なのだ。その力は、闘いの女神の化身エモン・レーナをも凌ぐといわれるほどの。  今の時代の兵が何千人いたところで、クレインに立ち向かうことなどできるはずもない。  聖跡の中で見せられた、過去の幻影の記憶が甦る。  竜を駆るクレインとエモンの姿。  それは心奪われるほど美しかった。しかしそれは、限りなく危険な美しさだ。  竜の炎に焼かれる、何百という兵士。  竜騎士の魔法によって消滅する砦。  あまりにも惨たらしい戦いだった。  それだけの力が存在した時代の、最後の戦争…トリニア王国連合と後ストレイン帝国の戦い。それは、大陸の…いや、この星の環境すら変えてしまった。  核兵器にも等しい、人間には過ぎた力…。  不意に、思い出した。  王国時代末期の竜騎士、レイナ・ディ・デューンと交わした言葉を。 『自分たちの住む世界を滅ぼして、それでもまだ戦うことを止めないんだ、人間は。結局、人間には過ぎた力なのかも知れないな、この、魔法というやつは…。  先人から受け継いだこの力、人間には分不相応だったんだ。いっそ、魔法なんてない方が、平和だったとは思わんか?』 『…それでも、戦争はなくならないと思います。魔法が使えず、剣を取り上げたとしても、人間は戦うことを止めません。拳で殴り、歯で噛みついて…、きっと、戦い続けます』 『そうだな…しかし、そんな戦いで世界が滅びることはあるまい? どんな動物だって戦いはする。大人しい草食動物だって、発情期には雌を奪い合って争うんだ。  だが、それで世界が滅ぶことはあるまい? それは、分相応の力で戦うからだ。人間だけだ、種も、世界も滅ぼしてまで戦うのは。人間だけが、不自然に大き過ぎる力を手にしてしまった。竜騎士として、二十年間戦い続けた私が言うことでもないけどな…』  それは、もう一年近くも前、レイナの墓所の中で交わされた言葉。それはもしかしたら夢だったのかもしれないが、奈子は現実だったと信じている。  きっと、墓所に残されたレイナ・ディの残留思念のようなものだろう。それが、奈子に無銘の剣を譲った。もっとも、その意図は未だにわからないが。  どこまでも続く地下の回廊。  奈子は歩き続ける。  奈子以外に、生きているもの、動くものの気配はない。この前は、クレインが死体から作りだした魔物の、あまり嬉しくない出迎えを受けたのだが。今回はそれもない。  もしかしたら、黙認してくれているのかもしれない。そう思うと少し希望が湧いた。  出来ることなら、あの無敵の竜騎士とは二度と闘いたくはない。聖跡の番人も、その下僕の魔物も姿を現さないのは、救いだった。  そんなことを考えながら、どのくらい歩いただろう。もう時間の感覚もなくなる頃、奈子は見覚えのある場所に出た。  周囲はこれまでと同じ、黒い石造りの通路。そして正面には、金属製の重々しい扉があり、その上にひとつ、魔法の灯りが周囲を照らしている。  背後を振り返ると、真っ黒な通路がどこまでも続いていた。  そう、確かに以前、ここに来たことがある。  封印された記憶が、少しずつ甦ってくる。  あの時、この扉を開けて中に入った。  そして…  そして…  先刻から続いている頭痛が、ひどくなったように感じだ。それはつまり、 (ここが、ゴールか…)  ここに、答えがある。  奈子は扉に手をかけた。  ズキン!  頭の痛みに顔をしかめる。  それでも扉を開けようとして、ふと思いとどまって自問する。  本当にいいのだろうか。いったい、この中になにがあるというのだろう。  本当に見てもいいものなのか。後悔するのではないか?  知らない方がいいことなのかもしれない。  急に、見るのが怖くなった。  まだ、中でなにを見たのか思い出せない。それでも、無意識のうちにそれを確認するのを怖れているようだった。 (本当にいいの?)  自分に問いかける。 (…いい)  そう答える。  知らなければならない。そのためにここまで来たのだから。  以前、ソレアに言ったではないか。「知らない方がいいことなんてない」と。  奈子は、ゆっくりと扉を開けた。  力を込めて押すと扉はかすかに開いて、隙間から淡い朱い光が漏れてくる。  ちらっと中を覗いて、動くものの気配がないことを確かめると、奈子は中へ入った。  広い部屋だった。小さな体育館くらいはある。  これまで歩いてきた通路とは造りが違っていた。聖跡の他の部分は、黒い石を組み合わせて造られている。しかしこの部屋は違った。  壁はもっと明るい灰色をしていて、継ぎ目がまったく見当たらなかった。  まるで溶接された金属…いや、金属らしい光沢はない。むしろ、陶器のようにも見えた。  床も天井も、同じ材質らしい。  天井は高い。奈子の身長の三倍以上はあるだろうか。  部屋全体が、やや紫がかった赤い光に照らされている。 (そうだ、この部屋だ…)  ここで、すごく大切なものを見た。  それは…  部屋の中央部には、床から天井まで届く直径一・五メートルほどの赤い光の柱が三本立っていた。それが、他に光源のない室内をぼんやりと照らしている。  三本の柱は、十メートル強の間隔で正三角形の頂点となるように配置されていて、その三角形の重心に、一抱えほどもあるなにかの結晶――水晶のような――が浮かんでいた。  奈子は扉の前に立ち、息を殺して室内を見渡す。  やはりなんの気配もない。 (そうだ、あの時と同じだ…)  以前来たときも、こうやってここで室内の様子を調べた。それから、あの光の柱を調べに行ったのだ。  慎重に周囲に気を配りながら、一番近くにある柱に近付いていった。  それがネオンランプのような自ら発光する中空の管なのか、それともレーザーのような実態を持たない純粋な光なのか、間近で見てもよくわからない。 (そう、そしてこの中に…)  頭痛はいよいよひどくなり、そして、記憶が戻ってくる。  目の前にある光の柱の中に、人影が浮かんでいる。  それは、髪の長い長身の女性。  全裸で、光の中に浮かんでいる。まるで水の中を漂うように。  美しい女性だった。見事なプロポーションと、足元まで届く長い銀髪が特徴的だ。  奈子は、その女性のことを知っていた。  クレイン・ファ・トーム。  聖跡の番人。  今から千五百年も前の時代の、最強の竜騎士。  ここにあるのは、その精密な立体映像だ。  目を凝らすとわかる。クレインの身体を透して、ほんのわずかに向こうが透けて見える。  これは、ホログラムのような立体映像なのだ。  しかしそれがわかったところで、「なんの目的で」という根本的な疑問は解決しない。  そうっと、手を伸ばしてみる。あの、クリオネの水槽でそうしたように。  光の一番外側に触れたところで、それ以上手を進めることはできなくなった。  ガラスやアクリルのような固体の感触ではない。なんらかの力が、外部からの侵入を拒んでいた。  奈子はふぅっとため息をついた。なにも変わっていない。  光の中のクレインの映像は相変わらず美しく、神秘的で、そして謎に包まれていた。  これがなんであるのか…おぼろげながら理解できたような気がする。  同じような光の柱は、あと二本ある。  左手にある光柱の中は空だ。何もない。  どうして空なのか。その理由もなんとなく想像できるが、今はどうでもいいことだった。それはもう、過去の問題だ。  より重要なのは、右手にある三本目の柱。  その中にも人影らしきものが浮かんでいるのが見える。  ゆっくりと近づいていく。それがなんであるか、もう、思い出していた。  それでも足が震える。掌がじっとりと汗ばむ。  心臓の鼓動が激しくなる。  五ヶ月前に見たあの光景は、あまりにも衝撃的だった。むしろ、今まで記憶を封じられていたことが幸せだったかも知れない。  小さく深呼吸をして、意を決して進んでいく。  三本目の柱の中にも、全裸の女性の姿があった。  クレインよりもずっと若い。見たところまだ十代半ばの少女だ。  奈子よりも少し背が低い。  歳のわりに胸は大きく、それでいてウェストは細い。肌は白く、腰の曲線が艶めかしい。  奈子は、この裸体を違う場所で見たことがあった。それも一度や二度ではない。  髪は赤みがかった濃い金髪で、背中の中ほどまである。普段は縛っているので、それほど長く感じないのだが。  そして…  いちばん特徴的なのは、その瞳だった。  ガラス玉のような、焦点の合わない作り物めいた瞳がこちらを見つめている。  それは…鮮やかな金色の瞳だった。 「――っ!」  わかっていたことではあるが、それでも事実を目の当たりにして、奈子は小さく息を呑む。  光の中に漂っているのは――  ファージ…ファーリッジ・ルゥ・レイシャの姿だった。 「ファージ…」  光柱に手をついて、小声で名前を呼んだ。  もちろん、反応があるはずもない。これは実体ではない。細部まで完璧に再現された立体映像でしかないのだ。  ひとつだけ、五ヶ月前とは違うところがあった。  大きな違いだ。  光の中に浮かぶファージの、その左胸の部分が崩れたようになって、ぽっかりと大きな穴が開いていた。 (…………)  もしかしたら、これを見るまでは淡い期待を抱いていたかも知れない。  しかし、その希望は失われた。  これが…無銘の剣の力だった。 「捜し物は見つかったか? レイナ」  その声にはっと我に返って、後ろを振り返った。  いつからそこにいたのだろう。すぐ背後に、背の高い、長い銀髪の美しい女性が立っていた。 「……クレイン…」  クレイン・ファ・トーム。聖跡の番人だ。  奈子の驚いた顔を見てが笑みを浮かべる。 「…あ、アタシはレイナじゃないわ。わかってるんでしょう、それくらい」 「今はナコ・ウェル…だったか」  そう言って小さく肩を震わせる。笑っているのだ。 「な…何がそんなにおかしいのよ! 笑ってるヒマがあったら、客に茶の一杯でも出したらどう?」  聖跡に侵入したものは決して許さないといわれる、恐るべき力を持った番人に対する台詞としては、ずいぶんな暴言だった。しかし、こんな小馬鹿にしたように笑われるのは我慢がならない。  怒るかと思ったが、クレインは意外なことにそんな奈子の様子を可笑しそうに見ているだけだった。 「あいにくと、ここには生者のための食べ物も飲み物も用意していない。それよりも、もっと面白いものがあるぞ。見ていくか?」  その言葉に奈子が応える間もなく、突然、周囲は闇に包まれた。   * * *  木が疎らに生えた高い丘の頂上に立って、彼女は下を見おろしていた。  纏っている服は血に染まり、刃物で切られたと思しき傷がいくつもある。しかしファーリッジはそれを気にもとめず、ただ丘の下を見おろしていた。  丘を取り囲んでいる騎兵は、千騎ほどもいるだろうか。 「ふん…たかが千騎…」  感情のこもらない声でつぶやく。  彼女の金色の瞳だけが、獲物を狙う肉食獣のように爛々と輝いていた。  兵たちは、こちらを警戒しながら徐々に包囲の輪を狭めてくる。  ファーリッジは、唇の端を引きつらせたような笑みを浮かべる。口の中で呪文を唱えかけて、しかしそれを中断すると、ふと空を見上げた。  なにかが、近付いてくる。強大な力を持ったなにかが。  突然、青白い灼熱の光がファーリッジの立っていた場所を引き裂いた。その場に生えていた草は炎を上げることもなく消滅し、土塊が朱い溶岩と化す。  一瞬遅れて、衝撃波がその場を襲った。 「青竜の騎士…か…。やってくれる」  もうもうと土埃の舞う中、ファーリッジはゆっくりと立ち上がった。  その左腕が、焼けただれておびただしい血を流している。防御結界を張りながら飛び退いたのだが、一瞬遅れてかわし損なったのだ。  竜の炎は、生半可な結界では防ぐことができない。  頭上を通り過ぎた竜が戻ってくる。風を切り裂いて、その速度にはどんな鳥も足元にすら及ばない。  それでも、今度はファーリッジにも余裕があった。意識を集中する。  鼓膜を破るほどの破裂音と同時に、また、竜の炎がファーリッジをを襲った。あまりの高熱に、周囲の空気が爆発的に膨張して発する音だ。  衝撃波が地面を裂き、土埃を舞い上げる。  それでも、ファーリッジはその場に立っていた。彼女の結界は、竜の炎を完全に防ぎきっていた。  頭上を通り過ぎて飛び去る竜の後ろ姿に向かって、それぞれが杉の木ほどもある巨大な光の槍を立て続けに放った。  微妙に角度を変えて目標を襲う槍は、とても避けられないように思えたが、竜は、信じられない機動でその全てをかわす。  それは、鳥だろうと蝙蝠だろうと、竜以外のどんな生物にも不可能な動きだった。竜は、この世界のどんな生物よりも速く、俊敏に、そして高く飛ぶことができた。  第一波を全てかわされたファーリッジは、二十本以上の魔法の槍を同時に放つ。しかし竜は、それすらも易々とかわしてみせた。だが、それは彼女も予期していたこと。計算のうちだった。  全ての槍をかわしきった竜と兵士は、水平飛行に戻ったところで、前に浮かぶ小さな光に気付いた。  それは、指先よりも小さな点。しかし、眩い光を放っていた。  彼らが不審に思うよりも早く。  ――光が弾けた。  地上の兵士たちは、自分の目を疑った。  無敵を誇る竜が、目の前でずたずたになって墜落してゆく。  それは、常識では考えられない光景だった。  いくら竜騎士並みの力を持っているとはいえ、竜を駆る正騎士が、竜を持たない相手に敗れるなど。四百年以上続くトリニアの歴史の中でも、そんな話は聞いたことがなかった。  息絶えた竜の巨体が森の樹をなぎ倒し、地響きを立てて墜落する。  その音で我に返った兵士たちは、我先にと逃げ出していた。  あってはならないことだった。青竜の騎士が敗れるなどということは。  トリニアの竜騎士こそは大陸最強…国民は誰もがそう信じていた。いや、敵国の兵ですらそう信じて、トリニア軍を怖れる者が少なくないのだ。  それなのに、たった一人で、竜も持たずに青竜の騎士を倒せる人間が、この世に存在していいはずがない。  化け物だ――誰もがそう思った。  兵士たちが恐怖に支配されて逃げ出したのも当然のことだった。  しかし…  そこから無事に逃げおおせた者は、ただの一人も存在しなかった。   * * * 「ふぅ…」  イルミールナ・コット・ギガルはため息をついた。  この憂鬱極まりない任務に唯一の救いがあるとしたら、それは、久しぶりに父親に会えたことだろう。  竜騎士の仕事というのもこれでなかなか忙しい。実家に戻るのは一年ぶりだ。  ファーリッジ・ルゥの逃走先と思われる街に、イルミールナの父親が住んでいるというのは幸運な偶然といえた。  とはいえ、それもあまり慰めにはならない。この後やらなければならないことを考えると、気が重い。  ファーリッジ・ルゥの逮捕。あるいは、生かしたまま捕らえるのが困難であれば処刑。  実際のところ、無傷で捕らえるのは不可能だろうと、イルミールナですら思っていた。  その目的のため、イルミールナを含む五人の竜騎士がこの街へ来ている。前代未聞だった。たった一人のために、五人もの竜騎士が駆り出されるなどということは。  ファーリッジ・ルゥは、既に竜を駆る騎士を倒していた。念には念を入れるというのもわからなくはない。  しかし…  再びため息をつく。  確かに、竜騎士四人を殺害して逃走したことは重い罪だ。しかし、元はといえば悪いのはフェイドーアたち、サントワ派の騎士たちだった。なのに、ファーリッジの言い分などまるで聞こうともしない。  もちろんイルミールナは試合場でのことを話した。しかし、対戦相手のエイシードと、他の四人の騎士が死に、闘技場が消滅した今となっては証拠がない。  そして、最初に差し向けられた追っ手は返り討ちにあった。一人の竜騎士と一頭の竜、そして多くの兵の命が失われた。  だからといって、ただファーリッジを処刑すればいいというものでもあるまい。まだ、話をする余地が残されていてもいいはずだ。  しかし、そんな雰囲気ではなかった。仲間を殺されて、他の竜騎士たちもいきり立っている。 「はぁ…」  いったい今日何度目のため息だろう。もう数え切れない。 「怖れているんだよ。竜騎士たちも、王宮の連中も」  父親のディングが言った。その言葉に、イルミールナが顔を上げる。  ディングは、刀鍛冶だった。それも、国内に数えるほどしかいない、『竜騎士の魔剣』を鍛えることのできる名匠だ。  もっとも、今ではほとんど引退同然で、新たに鍛える剣は年に一振りほどでしかない。竜騎士の剣を作るには、途方もない体力と精神力、そして魔力を消耗するのだ。  イルミールナに母親はいない。彼女が小さい頃に病死している。父親が唯一の肉親だった。  一人娘が竜騎士として王都マルスティアへ赴任して以来、ディングはこの屋敷でわずかな使用人と弟子と共に暮らしていた。 「怖れている…? ファーリッジ・ルゥを、ですか?」  問い返すと、ディングは小さく首を振った。  怖れているのはファーリッジ・ルゥという個人ではない、と。 「自分たちを超える力が存在することを怖れている。竜騎士は最強の存在であるが故に」  トリニアの竜騎士こそがこの世で最強の存在。長い間、そう信じられてきた。トリニア国内だけではなく、この大陸中で。  その神話が、トリニアの繁栄をもたらした。光の帝国、と讃えられるほどに。  その信仰が崩れ去ることを怖れている。それはすなわち、トリニアの繁栄の終焉を意味することになる。生身でいとも簡単に竜騎士を倒せる者の存在を、許すことはできないのだ。 「それならむしろ、ファーリッジの罪を赦し、青竜の称号を与えるべきではありませんか?」  イルミールナは言う。 「そうすれば、ファーリッジは最強の騎士として、エモン・レーナやクレイン・ファ・トームの再来と讃えられ、トリニアの竜騎士こそが大陸最強という事実を、諸外国にも見せつけることができるでしょうに」 「確かに。ファーリッジ・ルゥが竜騎士であれば、そうもできただろう」  ディングは重々しい声で言った。 「しかし、あれは竜騎士の血を引いてはいない」 「え?」  イルミールナは思わず大きな声を上げた。驚きに目が見開かれる。  そんなはずはない。竜騎士の血を引かない者が、竜騎士に匹敵する力を持てるはずがない。  トリニアよりも前の時代、人間の魔力は現在よりもはるかに劣るものだった。エモン・レーナが竜騎士の力をもたらしたことによって、すべては始まったのだ。  以後、トリニアの竜騎士はすべて、エモン・レーナ自身、あるいは彼女から力を授けられた者の末裔であるはず。そして、竜騎士の強大な力を研究することにより、他の人間たちの魔法技術も向上してきたのだ。  わずかでも竜騎士の血を受け継いでいなければ、あの、人智を超えた力が得られるはずがない。第一、どうしてディングはそんなことを知っているのだろう。 「…お父様は、ファーリッジ・ルゥのことをご存じなんですか?」 「ああ。あれの…父親とは親しかったからな。もう二十年近くも昔のことだが…」  当時のことを思い出しているのか、ディングは遠い目をして応えた。 「あいつは…狂っていた。少なくとも、最後に会ったときは」 「お父様…?」 「イルム。お前は、ドールというのを知っているか?」  何故いきなりそんなことを聞くのか。訝しみながらもイルミールナはうなずいて応える。 「人間が生み出した、魔法生物のことでしょう」  ドール――それは、自然界に存在する生物に、魔法的に手を加えて人工的に生み出した魔物。一般に、天然の魔法生物よりも強い力を持つ。  過去、数多くのドールが造り出された。あるものは純粋に魔法技術の研究のために、あるものは生命の起源を探るために、そしてより多くものは、戦争の道具として。  ドールというのは、そういった生物の総称だった。 「二十年くらい前までは、ドールの研究はずいぶんと盛んだった。国が力を入れて後押ししていたからな」  その最終目的は、最強の生物を生み出すこと。そう、竜を越える力を持った存在を。  その理想にかなり近づいた成果もあった。亜竜と呼ばれるドールがそれだ。しかし、それでもオリジナルの竜を越えることは出来なかった。やがてドールの研究は停滞し、多くの魔術師が手を引いていったが、それでも研究を続けた者もいた。  その男も、その一人だった。  宮廷魔術師の地位を追われ、田舎に引きこもって研究を続けていた男。  その屋敷を訪れたときのことを思い出すたびに、ディングは身の毛もよだつ思いがした。  研究室の棚に、無数に並んだ大きなガラス瓶。薬品と標本。そして…中で蠢く実験体。  正常な感性の持ち主であれば、あまり長居はしたくない場所だった。  ひときわ大きな容器の中にいる物を目にしたとき、目を疑った。  周囲のグロテスクな実験体に比べれば、それはごく当たり前の、見慣れたものだった。しかしそれ故に、ある意味この部屋でいちばん不気味な存在だった。  薬品で満たされたガラス容器の中で、どう見ても人間の赤ん坊としか思えないものが浮かんでいた。  恐る恐る近づくと、その気配を感じたのか赤ん坊が目を開けた。  ディングは思わず、一歩後ろに下がった。  大きなその瞳は、人間のものではなかった。  金色に輝く瞳。それはまるで肉食獣のような…いや、それは、まさしく竜の瞳だった。 「あれは…人間ではないよ。狂った魔術師が生み出した、地上最強の魔物だ」  そう言うと、壁に掛かっていた一振りの剣を手に取り、イルミールナに差し出した。 「人間ではない。だから、なんの躊躇いもなしに人間を殺すことができる。儂らだってそうだろう? 人間を殺すことに比べたら、獣を狩ることの罪悪感など無きに等しい」  イルミールナは黙って剣を受け取る。それを鞘から抜いてみて、感嘆の声を上げた。  それは並の剣ではなかった。彼女がいま携えている剣も、父の手による竜騎士の魔剣だったが、いま渡された剣はまるでものが違う。  これほどの力を秘めた剣を、彼女はいままで見たことがなかった。父の作品の中でも、おそらく最高の品だろう。 「お父様、これは…」 「おそらく、それくらいの剣が必要となるだろう。あれを、人間の娘と思ってはならない。闘うときは、情けをかけてはならない。お前の気持ちも分からないではないが、その覚悟ができないうちは闘ってはならない」  イルミールナは剣を鞘に戻すと、静かにうなずいた。   * * * 「ファーリッジ・ルゥは警告を無視して街に入ってきた。市街戦になる。竜は使えんな」  今回の作戦の指揮を執る騎士、ライアントが言った。他の四人の顔に緊張が走る。  人口の多い都市部での戦闘となれば、竜は使えないし、もちろん大規模な魔法も同様だ。剣で決着をつけることになる。  結界でファーリッジ・ルゥの動きを封じ、剣でとどめを刺すしかない。それは、イルミールナの役目だった。剣技に関してはこの五人でもっとも秀でているためだが、今回ばかりはそのことを少し恨んでもいた。  残りの四人が結界を張り、ファーリッジを封じ込める。勝機は十分だった。 「戦意を失わせて生きたまま捕獲できればいいが…、それが困難なようなら、殺せ」  ライアントは淡々と言うと、他の三人を連れて持ち場に向かう。イルミールナ以外の騎士がいることを知られない方がいい。  「逮捕」ではなく「捕獲」という言葉を使ったことに、イルミールナは気付いていた。上層部は、ファーリッジの秘密を知っているのだろうか。  ほどなくして、イルミールナの目にファーリッジの姿が映った。悠々と通りを歩いてくる。この通りは現在封鎖していて、他に人影はない。イルミールナは通りの真ん中に立って、ファーリッジを待ちかまえた。 「ファーリッジ・ルゥ。抵抗はやめて、おとなしく私達と一緒に来なさい。それがあなたのためよ」  そう言うのと同時に、他の四人による結界がファーリッジを包み込んだ。歩みが止まる。  イルミールナも範囲内にいるのだが、結界はファーリッジだけを対象としたもので、彼女は影響を受けない。 「イヤだって、言ったら?」  金色の瞳でまっすぐにイルミールナを見据え、ファーリッジは言った。挑発的な笑みを浮かべている。 「…わかっているんでしょう?」 「私を殺す? あんたたちが? はっ」  鼻で笑う。イルミールナを見下したように。 「五対一なら、勝てると思った?」  そう言うと同時に、ファーリッジの右手に赤い光が生まれる。それは瞬時に剣の形となった。あの、闘技場で見せたのと同じ力だ。 「止めなさい、ファーリッジ・ルゥ!」  そんな警告を無視して、ファーリッジは飛び込んできた。朱い剣が風を斬る。しかしイルミールナも一流の竜騎士、彼女の剣はファーリッジの打ち込みを受け止めていた。  ファーリッジは飛び退いて距離をとる。  イルミールナは内心、舌を巻いていた。魔力の強さではともかく、剣の技術では自分の方がはるかに勝っていると思っていた。しかしどうだろう、ファーリッジの剣技は、正規の竜騎士にまったく引けを取らないものだった。これでは、簡単には決着はつかないだろう。本気になる必要があった。  イルミールナは剣を構えた。先刻、父親から受け取ったばかりの剣。これまで使っていた剣とはまるでものが違う。おそらく、大陸中を探してもこれに匹敵する魔剣は三振りとあるまい。  父親は、この剣が必要になると言っていた。確かにそうかもしれない。ファーリッジの力を考えれば、少しでも優れた剣を使うに越したことはない。 「これが最後の警告よ。抵抗は止めなさい、ファーリッジ・ルゥ」  もちろんファーリッジがその言葉に従うはずもない。滑るような足捌きで間合いを詰め、剣を打ち込んでくる。イルミールナはその攻撃を剣で受け流し、返す刀で相手の足元を薙いだ。  飛んでかわしたファーリッジは、空中で身体をひねって斜め下から斬りつけてくる。イルミールナはそれをかわさず、自ら前に踏み込んで、剣の根本で受け止める。そのまま密着した体勢から、魔法を放った。  一瞬、閃光が走る。イルミールナの魔法はファーリッジの防御結界に跳ね返された。驚くべきことだ。この至近距離で、竜騎士の魔法をはじくとは。しかしイルミールナは立て続けに魔法を放つ。さすがに、この距離で続けざまに撃たれると防ぎきれないと思ったのか、ファーリッジは後ろに飛んだ。  その隙に乗じ、イルミールナは初めて自分から仕掛けた。退がるファーリッジに劣らぬ速度でその後を追う。疾風の如き動き。その渾身の打ち込みを、しかしファーリッジの剣は正面から受け止めた。  信じられないほどの力だった。これだけの魔剣とイルミールナの剣技を組み合わせれば、鋼すら両断し、竜にだって深手を負わせることができるだろうに。  ファーリッジが持つ光の剣は、彼女自身の魔力を実体化させたもの。竜騎士四人による結界の中にいるファーリッジは、その力を大きく削がれるはずなのに、それでもなおイルミールナの剣を受け止めることができるのだ。そもそも、これだけの結界の中では、並みの竜騎士では動き回ることもままならないだろうに。  その力に、イルミールナは心底恐怖した。魔力の強さ、という点ではまるで敵わない。  しかし青竜の騎士としては、竜騎士でない者に負けるわけにはいかない。それが、青竜の称号を持つ者の誇りだった。少なくとも、剣のキャリアではイルミールナの方が上なのだ。  一度下がって、距離を取った。  ファーリッジの力は確かに強い。その剣には勢いがある。それならそれで、相手の力を利用した闘い方があるはずだった。まともに仕掛けていては、強大な魔力の裏付けがあるファーリッジの守りは崩せない。  まったく、恐ろしいまでの力だった。  狂った魔術師が造りだしたという、最強のドール。  確かにそれは、竜騎士を遙かに越える力を持っていた。外見は、活発で可愛らしい十六歳の少女でしかないというのに。本人だって、これまでそう育てられてきたのだろうに。  そこでふと、疑問に思った。ファーリッジは、自分の出生の秘密を知っているのだろうか? 物心つく前にレイシャの家に引き取られ、以来ずっと普通の娘として育てられてきたはずなのだが。  おそらく、知っているのだろう。すべてではないにしても、ある程度のことは。  いったい、ファーリッジはそのことをどう受けとめているのだろう。  しかしイルミールナには、それについてじっくりと考えている余裕はなかった。  ファーリッジが飛び込んでくる。それをぎりぎりのところで見切って致命傷を避ける。ファーリッジの剣は胸を掠め、血飛沫が散った。同時に、イルミールナは剣を突き出していた。それはファーリッジの身体を貫いた。  本当は、心臓を狙ったつもりだった。ほんの少し、手元が狂ってしまった。最後の瞬間、わずかな迷いが生じてしまったのだ。  ファーリッジの身体を貫いたイルミールナの剣は、心臓をわずかに外していた。  一瞬、驚いたような表情を見せたファーリッジの瞳が輝いた。鋭い音を立てて、胸を貫いていた剣が砕け散る。 「――っ!」  破片が、イルミールナの身体を貫いた。よろけて後ろに下がる。そこを狙って、ファーリッジが斬りつける。なんとかかわした、と思った瞬間、魔法による衝撃波をまともにくらって、イルミールナは激しく壁に叩きつけられた。意識を失った身体が、その場に崩れ落ちる。 「ふん…、『剣姫』イルミールナ・コットもこの程度?」  つまらなそうにつぶやく。その手の中で、ファーリッジの剣は赤い光の塊に戻っていた。それを頭の上に掲げる。  軽い破裂音と共に光が弾けると、ファーリッジの力を抑えるためにその場を包みこんでいた結界が消滅した。  そのことを確認して満足そうに微笑むと、ファーリッジは転移でその場を立ち去った。後には、ファーリッジとイルミールナが流した血の痕だけが残っていた。  ファーリッジが転移したのは、街から逃げ出すためではない。反撃の体勢を整える時間が欲しかったのだ。  街の中心部の人気のない路地に、ファーリッジは立っていた。  胸の傷から流れる血を、左手で押さえている。足元がふらついて、背後の壁に寄りかかった。 「ふぅ…」  小さくため息をつくと、自分の手を見た。べっとりと血で濡れている。流れ出た血で、胸元が真っ赤に染まっていた。  それを見て、なぜか可笑しそうにくすくすと笑った。 「それでも、血は赤いんだよね…」  口の中でつぶやく。  ファーリッジの手に、小さな短剣が現れた。その刃を、左の手首に当てる。すっと短剣を動かすと、一本の朱い筋が残った。そこからすぐに、血が流れ出してきて地面に滴る。  下に落ちた血は、不思議なことに土中に染み込まず、まるで水銀のように地表を転がり流れる。  その流れは糸のように細く、幾筋にも別れ、周囲に広がってゆく。文字のような、記号のような、複雑な文様を描きながら。  それは、大きな魔法陣を描き出していた。  その様子をじっと見つめていたファーリッジは、ふと顔を上げた。彼女の周囲に、また、結界が張られていた。  四人の騎士が、周りを取り囲んでいる。 「抵抗は止めろ。もう逃げられん」  騎士の一人が言った。  四人とも、剣を抜いている。そして四人が同時に、異なる方向から斬りかかれるような位置に立っていた。一人や二人ならかわせても、四人の攻撃をすべてかわすのは至難の技だった。 「殺す気? 私を殺すの? 私が人間じゃないから」  静かな声で言った。わざと感情を押し殺したような、冷たい声だった。その顔にはなんの表情も浮かんでいない。 「でも、だとしたら私は、人間の法によって裁かれる理由もない」 「死にたくないのなら、おとなしく我々と一緒に来てもらおう」  先頭に立つライアントが言った。 「イヤだと言ったら?」 「連れて帰るのは死体でも構わん」  そう言って剣を突きつける。  それまで無表情だったファーリッジの口元がほころんだ。口の端を上げて、歪んだ笑みを浮かべる。  金色の瞳が、まっすぐに四人を見つめていた。 「連れて帰る? ここで死ぬ人間が、どうやって?」  四人には、その言葉の真意を考える暇もなかった。  閃光がその場を包みこんだ。  純白の光が、一瞬後には街全体を覆うほどに広がっていた。  すべてを無に帰す力を持った光。それはまるで、地上に出現した太陽だった。  周囲の建物も、付近にいた人間も、瞬時に蒸発した。無論、ライアントら四人の竜騎士も例外ではない。  少し離れたところでは、猛烈な爆風が強固な石造りの建造物をも粉砕していた。  ほとんどの人間が、なにが起こったのかと訝しむこともできずに即死した。数万の人口を抱えていた都市が滅びるのに要した時間は、本当にわずかなものだった。  街の建物の大半を倒壊させた爆風によって、爆心地は真空状態となり、今度は逆に周囲の空気が猛烈な勢いで流れ込んでくる。その突風が、破壊の最後の仕上げをした。  爆心地に戻ってきた空気の奔流は、ぶつかり合って上昇気流となり、稲妻をまとわりつかせたキノコ雲が立ち昇る。  やがて、雨が降り始めた。汚れた黒い雨が、一帯を染めていく。  街の中心部には、なにも残っていなかった。  ぽっかりと円く、黒い地面が広がっている。緩やかなすり鉢型にえぐられ、表面は高熱で熔けて、ガラス状になっていた。  周辺には、倒壊した建物の残骸が残っていた。一部がくすぶって、煙を上げている。  爆心地からさらに離れると、ようやく人の死体が目につくようになった。しかし原型を留めているものはほとんどない。  形もわからないほどに焼け爛れているもの。  爆風でばらばらに引き裂かれたもの。  生きているものの気配はどこにもない。それは、あまりにもあっけない、滅びの光景だった。  一人だけ、滅びた街の中を歩く人影があった。  イルミールナ、だった。  全身血塗れで、汚れた雨に打たれながら、足を引きずるようにして歩いている。  街の外れまで来ると、いくらか形を残している建物も目に付くようになった。そのうちのひとつ、半ば崩れかけた父親の屋敷へと入っていく。  中に入ると、部屋のひとつは外から見るよりは原形を保っていた。壁に掛かっていた何振りもの魔剣が、ファーリッジの魔法に対する障壁として働いたのだろう。イルミールナが即死を免れたのと同じように。  この部屋にいた者は、生きている可能性が高い。そうでなければ絶望だろう。  床に倒れている父親の姿を見つけ、ほっと安堵の息をもらした。傍らに屈んで抱き起こす。  ディングは、程なくして目を開けた。 「イルム…?」  呻くようにしてつぶやくと、イルミールナの顔を見上げてかすかに笑った。ひどい火傷を負っているが、致命傷ではなさそうだった。自力で身体を起こす。  父親の無事な姿を見届け、イルミールナも小さな笑みを浮かべた。緊張していた身体から力が抜ける。  そして、 「…お父様…ごめんなさい」  そうつぶやくと、ゆっくりと倒れた。 「イルム!」  ディングがその身体を受け止める。しかしイルミールナは、二度と目を開けることはなかった。 「イルム…イルム…」  冷たくなってゆく娘の身体を抱きしめて、ディングは絶叫した。しかしその声を聞く者は、誰も残っていなかった。   * * * 「や…めて…」  奈子は、頭を押さえてうずくまっていた。  涙を流しながら。  頭の痛みは、耐え難いほどになっていた。しかし、泣いているのはそのためばかりではない。 「やめて…。もう、見せないで…、見たくない」  ぎゅっと唇を噛む。血が滲むほどに。口の端から、涎が糸を引いていた。  奈子は知っていた。この後、なにを見ることになるのか。  思い出していた。聖跡を訪れたときに目にした、もっとも凄惨な光景を。  二度と忘れられないであろう、狂気に満ちた光景を。  あんな光景をまた見せられたら、本当に狂ってしまう。  見たくない。  見たくない。  思い出したくない。  しかし、そんな奈子の願いは叶わなかった。  傍らに立つクレインが、無表情に見おろしていた。   * * *  炉は、真っ赤に熔けた金属で満たされていた。工房全体が、息の詰まるような熱気に包まれている。  扉を開けて、一人の男が入ってきた。顔は憔悴しきって、血走った目だけがぎらぎらと不気味な輝きを放っている。  男は、死体を引きずっていた。外から運んできたのだ。  炉の傍まで来て、その死体を中に投げ込む。死体は一瞬だけ炎を上げ、たちまち溶けた金属の海に沈んで見えなくなった。  それを見届けると、男は外に出ていく。そして間もなく、また死体を持って戻ってきた。  何度も何度も繰り返す。  朝から晩まで。  いつまでもいつまでも続けられる。  時間など無意味だった。  何時間、それとも何日が過ぎたのか。  無数の死体を炉に投げ込んで、ようやくその作業は終わった。  男は次に、剣を投げ込んだ。彼自身がこれまでに鍛えてきた剣のうち、屋敷に残っていた物をすべて。  竜の炎にも熔けることのないはずの竜騎士の魔剣が、たちまち炎に飲み込まれていく。  炉の中で燃えさかっているのは、常軌を逸した炎だった。陽炎が立ち昇り、空気が揺らめいて、朱く染まった室内の光景を歪ませる。それはまるで、空間そのものが歪んでいるようにも感じられた。  すべての剣を処分した後、男は、屋敷の中から別のものを運んできた。  それは、死してなお美しかった。  自分の娘を腕に抱えた男の顔に、笑みが浮かんでいる。  しかしそれは不自然に引きつった、狂気の笑みだった。 「…生まれ変わるんだ。永遠の、不滅の存在に…」  震える声で、男は言った。 「…この世でもっとも美しく、そして強きものに…」  男は、泣いていた。  口元に引きつった笑みを浮かべながら、涙を流していた。 「ひ…ひひ…ひぃ…」  男は突然、甲高い笑い声を上げた。明らかに常軌を逸した声だった。 「…そうとも、儂は狂っている…。そうでなくて、どうしてこんなことができるものか。あの、狂気に満ちた化け物を倒せるのは、それ以上の狂気だけだ…」  笑い声は止まらなかった。  笑いながら、男は、自分の娘の身体を炉に沈めた。  イルミールナの身体が溶けた金属に飲み込まれて見えなくなる頃には、笑い声はほとんど悲鳴に近いものになっていた。  狂気の炉から得られた鋼で、男は剣を鍛えていた。鋼の塊を、鎚で打ち延ばしてゆく。  一時も休むことはない。取り憑かれたように鎚を振るい続ける。  鋼は、薄く、薄く、延ばされて、鋭い刃へと形を変えていく。 「まだだ…まだだ…もっと強く、もっと鋭く…この世の全てのものを切り裂けるほど…。そうでなくては、あの魔物は倒せん…」  血走った目で、鎚を握った手から血を流しながらも、男は手を休めようとはしない。  いったい、どれだけの時間が過ぎただろう。  その剣は、だんだんと形になってゆく。  薄く、紙よりも遙かに薄く、透けるほどに薄い金属。  しかしそこに秘められた魔力は、過去の名だたる名匠が鍛え上げたどんな名剣ですら足元にも及ばない。  鎚の最後の一振りと同時に、男は初めて満足げな笑みを浮かべた。  限りなく薄く、しかしそれ故に無限の鋭さ誇る刃。強大な魔力に支えられた刃は、決して曲がらず、折れず。  それは、もっとも純粋な、敵を滅ぼすための存在だった。 「…やっぱり、お前は美しいよ。イルム…」  一振りの剣に己の全生命をそそぎ込んだ男は、やがて剣を抱えたまま、ゆっくりと倒れた。  その顔には先刻までの狂気の影はなく、この上なく幸せそうに微笑んでいた。  十章 黄昏の堕天使 「…どうして、こんなもの見せるのよっ! アタシは見たくなかった!」  奈子は泣きながら叫んだ。  立ち上がると、クレインの襟首をつかむ。  やつあたりかもしれないが、それでも言わずにはいられなかった。 「こんなもの、見たくなかったのに…」  唇を噛んで呻く。  あの、狂気に満ちた過去の幻影は、もう消えていた。奈子がいるのは先刻までと同じ、聖跡の深部にある部屋の中。 「聖跡は、大陸の歴史を記憶している。それこそ、あらゆる歴史をな」  クレインは平然と応えると、奈子の手首をつかんだ。恐ろしい握力で、襟をつかんでいた奈子の腕を締め上げる。奈子は苦痛の声を上げて手を離した。 「…これは何? いったい何のために…あんたいったい何様のつもりよっ?」  赤い痣が残った手首を押さえ、目に涙を浮かべて叫ぶ。  聖跡は単なるエモン・レーナの墓所ではなく、密かに、大陸の歴史を記録し続けている。そのことは知っていた。以前訪れたときにも、様々な過去の幻影を見せられていたから。  けれど、今回のはあんまりだった。 「記憶…だ。聖跡が持つ記憶に過ぎない。私も、ファーリッジも」 「記憶…? 幻影ってこと? これまでさんざん見せられたような?」  そんなはずはない。ファージは、実体だった。触れることができた。抱きしめることができた。その点では、普通の女の子だった。 「ハレイトンにある、レタルマ城を見たことがあるか?」 「え?」  いきなり、クレインが話題を変えた。奈子はその意図が理解できず、戸惑いながらもうなずく。  ハレイトン王国は大陸南部にある、古い歴史を持つ国だった。千五百年前、ストレイン帝国の侵略を受け、トリニアやその他の小国と手を組んで、ストレインに対抗したのだ。  レタルマ城は、ハレイトン王国そのものと同じくらい古い城だった。しかし、純白の石で表面を飾られたその城は、大陸中でももっとも美しい建築として名高い。  奈子も以前、ファージやソレアに連れられて、見物に行ったことがあった。小高い丘の上に建つ純白の城は、古い言葉で白馬を意味するその名にふさわしいものだった。 「あの城は、ストレインの侵攻で一度破壊されている。現存する建物は、ストレイン滅亡後に再建されたものだ」  奈子は首を傾げた。  クレインは何故いきなりこんな話をはじめたのだろう。まさか、奈子に対して観光ガイドを務めているつもりでもないだろうが。 「再建された城は、以前のものと寸分違わぬものだった。精密な図面が保管されていたから、まったく同じものを作り上げることができた」  その言葉に、はっとした。なにを言わんとしているのか、理解できた気がした。  思わず、背後にある光の柱を振り返る。そこにあるのは、クレインとファージの、本物と見紛うばかりに精密な立体映像だった。 「まさか…」  ファージの言葉、クレインの言葉。パズルのすべてのピースが、ぴたりとはまった気がした。  人間の身体は、数十兆個の細胞からできているという。そのひとつひとつ、いや、分子のひとつひとつまで正確にその配置を記録しておけば、まったく同じ人間を作り上げることは可能なのではないか。  魔法の力でシナプスの結合を再現すれば、記憶だって移植できる。そのことはファージと初めて会ったときに体験済みだ。  肉体を形作る細胞のすべてを、思考を司る神経結合のすべてを記録しておき、必要なときにそれを再構成することができれば…。  たとえ肉体が滅びても、聖跡にその記録がある限り、いつでも、同じものを『作る』ことができる。  それが、ファージやクレインの『不死性』の真相だった。本当の意味での不老不死というのとは少し違う。何度殺されても、以前とまったく同じ状態で甦ることができるのだ。  ファージは、千年以上前に生まれた。しかしその肉体は…。おそらく一年前、エイクサムに殺された後に作り直されたものなのだ。きっとこれまでに何度も、同じようなことがあったに違いない。生身の人間が、千年も生き続けられると考える方が不自然だ。 (だけど…)  奈子はクレインの顔を見た。相変わらず、無表情に奈子を見つめている。 (なぜ…?)  ここにある映像の秘密はわかった。しかしまだ、理解できないことがあった。  クレインがここにいる理由はわかる。エモン・レーナの願いを聞いて、聖跡の番人になることを選んだのだ。永遠に聖跡を護り続けるために、不死の存在となった。  では、ファージは?  ファージは、クレインやエモン・レーナより四百年以上も後の時代の人間だ。反逆者として、トリニアから追われていた。それがなぜ、クレインと共に聖跡に保存されているのだろう。 「なぜ…?」  奈子はその疑問を口にした。  クレインはその問いには答えず、曖昧な笑みを浮かべていた。  答える気はないのだろうか。それとも…  奈子がもう一度質問しようとしたとき、一瞬早くクレインが口を開いた。 「助けたいか?」 「え?」 「いや…、助けるという言い方は正しくないか。千年以上も前に滅んだ存在には。…あれを、再構成したいか? どうだ?」  奈子は、その言葉の意味を考える。  助ける…? 再構成…? それはつまり… 「助けられるの? ファージを、助けられるのっ?」  クレインに掴みかからんばかりの勢いで聞き返した。クレインは少しも表情を変えず、淡々と続ける。 「お前は、それを望むのか?」 「当たり前じゃない!」  考えるまでもない。奈子は即答した。  しかし。 「ファーリッジは、それを望むと思うか?」 「え?」 「千年の間生き続けるというのがどういうことか、考えたことがあるか? 死ぬことが許されずに、だ。ファーリッジが、好きで生きていたと思うか?」  クレインがかすかに、悲しみの表情を浮かべたように感じたのは気のせいだろうか。  奈子は、ファージの言葉を思い出していた。 『私が、好きで墓守なんてやっていると思う?』と。  そう言っていた。 『私は死なないんだ』と言ったときに見せた、悲しみと諦めの表情。  千年――奈子にしてみれば、想像を絶する時間だ。 「それでも、お前は望むのか?」  クレインが繰り返し訊ねる。今度は、すぐには返答できなかった。  奈子は考えていた。ファージはこのまま、永遠の眠りについた方が幸せなのかもしれない。もう、充分すぎるくらい生きてきたのだ。  幸せ…? 幸せって、いったいなんだろう。  生き物にとって、死が幸せなどということがあるのだろうか。  生きるってなんだろう。死ぬってなんだろう。  生物は、なんのために生きているのだろう。  生きることの目的とは…。  そんなものはない――と、心の奥で囁く声がした。  なにかの目的のために生きているのではない。生きること、それ自体が目的なのだ。生きているものはすべて、生き続けようとすることが当然だった。猛獣の牙も、人間の知能も、すべては少しでも生存に有利になるための、悲しいあがきだった。 (だけど…)  奈子にはまだ答えがでない。  生きていれば、それで幸せなのだろうか。死だけが救いということもあるのではないか。あの時の自分のように…。  そもそもファージの場合、『生きている』と言えるのだろうか。  もともと、『作られた』存在だった。そして今のファージは、聖跡に保管された『図面』から忠実に再現された、『作り物』でしかないのではなかろうか。  しかし、分子ひとつに至るまで原型とまったく同じなのに、それを偽物と呼べるだろうか。「まったく同じ」それはつまり、オリジナルそのものではないのか? 遺伝子だけが同じクローンなどとは訳が違う。  奈子は混乱していた。  どうすればいいのかわからなかった。  どんなに考えても、答えがでない。  どうしたらいいのだろう。 (…だいたいアタシ、考えることって苦手なんだ)  もともと、考えるより先に行動してしまうタイプである。いつも由維や亜依に「脊髄でものを考えている」とからかわれているくらいだ。  だから、深く考えるのは止めた。考えたからといって、答えが出るとは限らないから。 (もっと、簡単に考えりゃいいんだよな…)  そうしたら、たちまち結論が出た。  まっすぐに、奈子の答えを待っているクレインの顔を見た。 「…ファージはアタシの友達だもの。そばにいてほしい」  それが結論だった。  必ずしもファージのためではない。結局は自分のためだ。  だけど、確かに自分の心はそれを望んでいる。奈子の魂がそう望んでいる。 「…大切な友達だもの」 「人間でなくても、か?」  クレインがさらに訊く。奈子は一瞬、返答に詰まった。 「人間ではない、造られた存在。何万という人間を殺した、呪われた魔物。それでもお前は、ファーリッジを友と呼ぶのか?」  奈子の心に、先刻の光景が甦る。  炎に包まれる街。見るも無惨な死体。そしてイルミールナとその父親。  奈子が知っているファージも、聖跡で見た王国時代のファージも、闘っているときはどこか嬉しそうだった。敵の命を奪うことに、悦びを感じていた。  人間ではないから? だから、人間の命などなんとも思わないのだろうか?  だから、ひとつの都市を滅ぼすようなことも平気でできるのだろうか?  だけど…  だけど… 「だけど…友達だもの」  涙ぐんでそう答えたとき、ふと思い出した。 「ふ…ふふ…」  思わず、笑いがこぼれる。クレインが怪訝そうな表情を見せた。 「ふふ…。クレインは、アタシが何者か知ってるんだよね?」  笑いながら、奈子は訊いた。  知っているはずだ。ここには、大陸の歴史のすべてが収められている。王国時代から、現代まで。  奈子のことだって例外ではないだろう。  そして予想通り、クレインは静かに頷いた。 「ふふ…は…ははは…」  笑いすぎだろうか、涙まで出てきた。 「一年前にも、同じようなことがあった。アタシ、言ったんだ。エイクサムに、さ」  手の甲で涙を拭い、言葉を続ける。 「この世界がどうなろうか、知ったこっちゃない――ってね」  きっぱりと言った。 「何万人死のうが、アタシには関係ない。よその世界のことなんか、どうでもいいんだ。ただ、ファージはアタシの友達だった――って」  奈子は、ファージが元通りになることを望んでいる。  それは事実だった。  非難されるかもしれないが、見知らぬ一万人より、ファージ一人の方が大切だった。  それに、ファージがどちらを望むかなんて、ここでいくら考えても答えの出ることではない。  だから、自分の心に従うことにした。  だから、少しだけ自惚れることにした。 「ファージだって、きっと、またアタシに会えたら喜ぶよ」  クレインは一瞬、驚いた表情で奈子を見たが、やがて笑い出した。いつもの冷酷な笑みではなく、可笑しくてたまらないといった様子で。 「ひどく勝手だが、それはそれでひとつの考えだ。面白い」  クレインは言った。 「だが、責任は自分でとるんだ。ただで、というわけには行かんぞ?」 「条件があるの?」  クレインは奈子の目の前まで来ると、顔に手をかけて上を向かせた。クレインの方が十センチくらい背が高い。奈子は見上げる形になる。 「身体で、払ってもらうとしよう」  ずざざ〜っと、奈子は瞬時に三メートルほど後ずさった。 「あ、あ、あんたまでっ、そ〜ゆ〜シュミ? エモン・レーナと不自然に仲がいいと思ったら…」  額に冷や汗を浮かべて叫ぶ。クレインは平然としたものだ。 「軽い冗談のつもりだったが…。今の時代、こういう冗談は流行らんのか?」 「…あ、あんたの時代にだって、流行ってはいなかったと思うよ…」 「しかしお前は、こんなシチュエーションが好きだろう?」  クレインが笑う。奈子は反論できなかった。  冗談はこのくらいにして…と、クレインがどこからともなく剣を取り出して奈子に渡した。  奈子は受け取った剣を観察する。白銀色に輝く、平均的な長剣よりもやや短めの剣だった。通常の剣とはどこか違った魔力を感じる。 「無銘の剣の魔力は凄まじい。ファーリッジの肉体だけでなく、魔法的につながったここの記憶にまで致命的な傷を付けた」  クレインは、光の柱の中にあるファージの姿を指した。胸の部分にぽっかりと、大きな穴が開いている。それはちょうど、奈子が無銘の剣で貫いた位置だった。 「ここにある情報は、もはや不完全なものだ。このままでは修復できない」  必要な情報が失われてしまった。だから、ファーリッジ・ルゥの身体を再生することができない。  では、どうすればよいのか。  クレインが、するべきことを伝える。 「そんな…」  思わず驚きの声を上げるが、その言葉が終わらないうちに、奈子の身体は眩い光に包まれていた。   * * *  気がつくと、森の中に立っていた。  普通の転移とは、なにか少し違う感覚だった。むしろ、この世界と奈子の世界を行き来するときの次元転移に近いような気がした。  奈子は息を殺し、周囲の気配を探る。それは、すぐに見つかった。それだけの強大な魔力を、見落とすはずもなかった。  奈子は小さく深呼吸すると、その方向へ向かって歩き出した。  十分と歩かないうちに、目的のものを見つけた。それは、大きな樹の根本に座って休んでいた。  血に染まった服を着た、金髪、金瞳の少女。  ファーリッジ・ルゥがそこにいた。  奈子は思わず駆けだしそうになるところを、辛うじて思いとどまる。  そこにいるのは、奈子の知っているファージではない。奈子のことを知っているファージではない。  千年前の、正真正銘、生前のファージ。  奈子は、ごくりと唾を飲み込んだ。  これから、ファージと闘わなければならない。それが、クレインの指示だった。  考えてみれば、とんでもないことだった。大陸最強と謳われたトリニアの竜騎士をものともしないファーリッジ・ルゥ・レイシャを相手に、一人で闘わなければならない。  しかも…  奈子は、勝たねばならないのだった。 (クレインってば…、もっと穏便な方法はなかったの…?)  腕に鳥肌が立つ。寒気がした。  向こうは、本気なのだ。  ファージはすぐに、こちらに気がついて立ち上がった。もちろんここにいるファージは、奈子のことを知らない。  ファージの服は、血に染まっている。その大半が他人の血だ。怒りの色が浮かんだ金瞳で、奈子を睨め付けている。追っ手と思っているのだろう。  奈子は無言で、五メートルほどの距離をおいて立ち止まった。 「竜騎士…じゃないな。知らない顔だもんな。…緑竜?」  ファージが言った。奈子はその言葉の意味を考える。  トリニアの時代、本当の意味での竜騎士とは、青竜の称号を持つ者だけ。その数はトリニア王国連合全体でも三十名に満たない。  緑竜の騎士とは、ファージや、ファージと闘ったエイシードのような、青竜の騎士に継ぐ力を持つ、竜騎士の候補者たちに与えられる名で、実際に竜を駆るわけではない。その数は数百名にはなるから、とても全員の顔など覚えてはいないだろう。  ファージは、奈子のことをトリニアの追っ手だと思っている。しかし、騎士の制服を着けていないためにその正体を判断しかねて、戸惑ってもいるようだった。  奈子は、自分が意外なくらい落ち着いているのを感じていた。口元に、かすかな笑みが浮かぶ。  知らず知らずのうちに、笑っていた。  どうしてだろう。  どうして笑っているのだろう。 (悦んでいる…? 何故…)  これから、ファージと闘わなければならないというのに、どうして。  悦んでいる? アタシが?  違う、アタシじゃない。  アタシじゃない。  だけど――  松宮奈子ではない、もうひとつの魂が、歓喜に震えていた。  強敵と闘うことを、至上の悦びと感じていた。 「ファージを捕まえに来たわけではないわ。ただ…」  奈子の言葉が終わるより速く、ファージが動いた。光の矢が奈子を襲う。  上体をひねってそれをかわしながら、一気に間合いを詰めた。低い姿勢から、腹を狙って右の正拳を打ち込む。ファージの身体が大きくよろめいた。すかさず左右の下段蹴りで相手の足を止め、とどめの後ろ回し蹴りへとつなぐ。  ファージはぎりぎりのところで蹴りをかわすと、大きく後ろへ飛んだ。それを追う奈子は、クレインから受け取った剣を抜く。  キィンッ!  鋭い音とともに、火花が飛んだ。赤い光の剣が、奈子の打ち込みを受け止めていた。 「…妙なこと、してくれるじゃない?」  怒りの表情も露わに、ファージが言う。  この世界では、徒手による格闘術は一般的ではない。わけのわからない攻撃でダメージを受けたことに戸惑いつつ、腹を立てているのだろう。  二人の動きが止まった。剣を持つ手だけが、かすかに震えている。体格差を考えれば奈子の方が力がありそうだったが、実際には、押されているのは奈子だった。  一度間合いを取るか、それとも蹴りでファージの体勢を崩すか、一瞬迷う。それが、命取りになった。  ファージの光の剣が、突然はじける。その破片は無数の鋭い針となって、奈子の身体を貫いた。倒れる奈子に追い打ちをかけようとする。奈子は地面を転がりながら、ベルトに差していたたナイフを投げ、ファージがそれをかわしている隙に立ち上がって剣を拾った。 「まだまだこれからだよ、ファージ」  奈子は笑みすら浮かべて言った。全身に傷を負ったが、痛みは感じなかった。痛みが気にならないくらい、精神が高揚していた。 「ファージ…?」  そう呼ばれた少女が、首を傾げる。 「それって私のこと? 気安く呼ばないでよね」  むっとした様子で言う。その手に、再び赤い剣が現れた。今度はファージの方から斬りかかってくる。  奈子はその打ち込みを受け流し、返す刀で反撃する。完璧なタイミングだったはずだが、ファージはその刃をほんの数ミリのところで見切ってかわした。同時に、真下から跳ね上がるような変則的な軌道で、ファージの剣が襲いかかってくる。かわしきれないと見た奈子は、ファージの膝を蹴ることで剣筋をそらした。刃先が頬を掠め、赤い筋が残る。  下から上へ剣を振り上げたため、ファージの脇ががら空きだった。奈子はほとんど密着するくらいまで踏み込むと、掌底で左胸を狙う。そこは、イルミールナの剣による傷が残っているはずだった。  しかしファージは、流れる風のような動きでそれをかわす。空振りした奈子は、勢いを利用してそのまま回転し、後ろ回し蹴りを放った。  狙ったのはファージの身体ではなく、その手。剣を持った手だった。柄を蹴られた赤い剣が宙に飛ぶ。  ファージは一瞬、飛ばされた剣を目で追った。コンマ一秒が生死を分けるこの闘いの最中、致命的なミスといえた。奈子は躊躇しなかった。渾身の衝でファージの戦闘力を奪おうと飛び込む。  しかし、その拳はファージには届かなかった。拳がファージの身体に触れる寸前、一筋の光が、奈子の身体を貫いていた。奈子は衝撃で三メートルほど飛ばされて転がる。 「く…ぅ」  奈子はそれでも、剣を放さなかった。呻き声を上げながら、剣を握った手を地面について起きあがろうとする。片手で腹の傷を押さえると、ヌルリとした暖かい感触が伝わってきた。  脚から力が抜けていく。それでもなんとか立ち上がることはできた。  息を整え、真っ直ぐにファージを見据えた。 「なによ、その目は」  ファージは不快感を露わにして剣を構えた。奈子の表情に、戸惑いを覚えている様子だ。  無理もない。奈子は、これまでの追っ手とは根本的に違う。  殺意、使命感、そしてファージに対する怖れ。  他の者たちが見せたそういった感情を、奈子は持っていない。  強いて言うならば、悲しみ。その瞳は、深い、深い悲しみだけを湛えていた。  ファージが、ゆっくりと近付いてくる。その手には剣が握られている。  しかし奈子は、もうまともに動けなかった。脚に力が入らず、立っているのがやっとだ。  奈子は覚悟を決めた。チャンスは一度しかない。 「お前はいったい何者? なんでそんな目で見るのよ!」  叫びながら振りかぶった剣が振り下ろされる。  その剣は、奈子の防御結界を突き破り、右の鎖骨を断ち切り、しかしそこで止まっていた。  金色の瞳が見開かれる。  信じられないといった表情で。  本来ならば、奈子の身体は両断されるはずだった。ファージの魔力が結晶化した赤い剣は、並みの竜騎士が持つ魔剣よりもよほど鋭い切れ味を持つ。青騎士でもない人間に、防げるはずがないのだ。  しかしその一瞬だけ、奈子の防御結界が剣の力を凌駕していた。それでも肩の傷は深く、血が噴きだしているが、それは致命傷ではない。  そして、奈子の剣が――  ファージの胸を貫いていた。 「…ごめん」  奈子は小さな声で謝った。 「ごめん、ファージ。でも、こうするしかないんだ…」  それが聞こえていたかどうかはわからない。ファージの身体はゆっくりと倒れた。  奈子はその傍らに膝をつくと、胸に手を当てて傷の様子を確かめる。  大丈夫。剣は、ぎりぎり心臓を外している。ファージはまだ生きていた。  奈子は、ふぅっと安堵の息を漏らした。 「…憶えていてね、アタシのこと」  そう言うと、急に涙があふれ出してきた。傷の痛みのためではない。それよりもずっと、心が痛かった。 「クレインのバカ…。アタシにこんなことさせないでよ…」  涙声でつぶやく。  親友の身体を剣で貫く感触なんて。一度だって堪らないことなのに。  涙が止まらなかった。  不意に、周囲の景色が歪む。涙のせいかと思ったが違う。光る霧が、奈子を包んでいた。  その光がだんだん強くなる。 (転移…? また)  取り囲む光が消えたとき、奈子は廃墟にいた。  あの、都市だ。ファージが滅ぼした…。  まだ、それほど時間は過ぎていないように思える。 (また…幻影だ…)  今までの、ファージとの闘いは現実だった。どうやったのかは知らないが、クレインは奈子の身体そのものを千年前に送り込んで、ファージと対決させた。  転移魔法は空間を越え、次元を越える。ならば、時を越えることも不可能ではないのだろう。おそらく、聖跡の力だけがそれを可能とするのだろうが。  今度は、これまでさんざん見てきたような、聖跡が記憶している過去の光景だった。奈子の意識だけがそこにあって、実体はない。  ここでは、奈子は傍観者だった。なにも干渉できずに、ただ、過去に起こったことを見ていることしかできなかった。   * * *  廃墟と化した街の中を、二人の男が歩いていた。  トリニアの騎士団長、ヴェルジュレス・ヴィ・ラーナと、彼の副官だ。  ヴェルジュレスは四十代の半ばで、がっしりとした体格をしている。彫りの深い顔には、悲痛な表情が浮かんでいた。 「なんということだ…」  瓦礫の山と化した街を見渡し、重々しく呟いた。あまりの凄惨な光景に、傍らを歩く部下も言葉がない。 「これが…ファーリッジ・ルゥの力か…」  一人のドールが引き起こした破壊の光景は、二人に大きな衝撃を与えていた。これは明らかに、竜騎士の力を越えている。  一人の狂った魔術師が、竜騎士を越える力、大陸で最強の存在を作り出してしまったのだ。  二十年ほど前までは、ドールの研究は盛んだった。先王がそれを奨励していたから。  しかし期待したほどの成果が得られなかったことと、生命を弄ぶような行為に非難が集まったために、やがて衰退していった。  元はといえば、トリニアの国策だったのだ。 「その結果が、これ…か」 「しかし、罪は罪です。たとえどんな理由があれ、こんなことが許されるはずがありません」 「そうだ。しかし、ファーリッジ・ルゥだけの罪ではない。…だが、いまさら言っても遅いな。死んだ者は返らん」  二人は、ギガル家の屋敷跡までやってきた。工房の中で、息絶えている男を発見する。 「ギガル殿…」  ヴェルジュレスはもちろん、ディングとは面識があった。トリニア最高の刀匠。彼の剣もこの男の作だ。  ディングが抱きしめるように持っている剣に気付き、それを手に取る。瞬間、ヴェルジュレスの顔が強張った。 「これは…」 「どうしました、将軍?」  副官の問いを無視して、ヴェルジュレスは剣を見つめた。額に脂汗が滲む。その表情はどこか、怯えているようにすら見えた。 「ギガル殿…なんということを…」  震える声で呟いた。彼は瞬時に、それがどんな剣かを理解していた。剣に込められた、恐ろしいまでの執念が伝わってくる。 「…このようなものは、封印せねばならん。いいか、この剣のことは他言無用だぞ」  副官は、事情がまったく飲み込めずにいながらも頷いた。 「それよりもファーリッジ・ルゥだ。その後の足どりは?」 「コルトン・シラルの隊が追跡を続けています。ベルトランの隊は…全滅です。」  その報告に、ぴくりと眉が動いた。これで、竜騎士の被害は十一名になる。この数字は、トリニアの存亡にも関わる問題だった。  彼は、ひとつの決心をした。   * * *  王国時代、聖跡の周囲は深い森に包まれていた。それが、千年後との一番大きな、そして唯一の違いだった。  この辺り一帯が荒野と化したのは、トリニアと後ストレイン帝国との最終戦争で、大陸の気候そのものが大きく変化してしまった後だ。  一頭の大きな竜が、森の上空を飛んでいた。青銅色の鱗の、トリニアの竜。聖跡の上で大きく円を描くと、近くに着地した。首の付け根につけた鞍から、ヴェルジュレスが飛び降りる。  彼は躊躇いもせずに聖跡の中へ入ると、少し行ったところで立ち止まった。たとえトリニアの騎士団長といえども、これ以上奥へ進むことは許されていない。  やがて、彼の前に小さな光が現れる。夜の海に浮かぶ夜光虫を思わせるような、小さく、ちらちらと瞬く光。  それがだんだん数を増やして集まっていき、人の形となっていく。  それは、若い女性の姿。背が高く、美しい銀髪を長く伸ばしている。目つきは鋭いが、その顔は確かに美しかった。 「クレイン・ファ・トーム…」  ヴェルジュレスはその名を呼んだ。今から四百年以上も前の時代の竜騎士。そして聖跡の番人。  この時代ですら、彼女の存在は伝説だった。実際に会ったことのある者など、ヴェルジュレスを含めても五人に満たない。 「この私になにか用か?」  無表情に、抑揚のない声で言った。いつも通りのクレインの反応だ。 「白々しいことを言わんでいただきたい。いま王国になにが起こっているのか、全部知っているのだろう。私が、なんのためにここに来たのかも」 「トリニアの竜騎士も堕ちたものよな」  クレインは嘲るように言った。 「自分たちで手に余る魔物を造り出しておいて、その始末に死者の手を借りようとは」 「まったく面目ないことだ…。だが、他に方法はない」 「私は聖跡に封じられた身。いったいどうしろと?」 「意地の悪い言い方を。貴女に頼みたいことはひとつしかない。私が身代わりとなって、聖跡の束縛を引き受ける。私でも半日くらいは耐えられるだろう。その間に、ファーリッジ・ルゥを…殺してくれ」 「ほう、自分の命を削るようなことをするか」 「私が送った騎士たちが死んだ。私だけがのうのうと生きているわけにはいくまい」 「……まあ、いいだろう。退屈していたところだ。久しぶりに、いい運動ができそうだな」  クレインはそう言うと、心底楽しそうな笑みを浮かべた。   * * *  そこは、コルザ川が作ったコルシア平原の南部に広がる草原だった。  樹が、疎らに生えている。  ファーリッジ・ルゥは、一本の樹の根本に座っていた。  これまでの疲労と、闘いのダメージが蓄積している。身体を休めながら、ぼんやりと考えていた。  自分の身に起こったこと。  これからのこと。  いったいどうなるのだろう。自分はこの先、何をしたいのだろう。  特になにも、思いつかなかった。  例えば、ストレイン帝国に亡命するというのはどうだろう。トリニアと敵対するストレインなら、彼女を受け入れてくれるのではないだろうか。  それは現実的ではあったが、何故かその考えには少しも心を動かされなかった。  トリニアのことを恨んではいるが、これまでトリニアの騎士として教育を受けてきたファーリッジは、ストレインに身を寄せる気にもなれなかった。  では、いつまでもトリニアの追っ手と戦い続けるのだろうか。いつか、この身が滅ぶときまで。  ――それもいいかもしれない。  トリニアの竜騎士が滅びるのと、自分が死ぬのとどちらが先か。 「ふ…ふふ…」  そんな考えに、思わず笑いがこぼれた。  それから、ふと思い出した。  あの変わった少女のことを。  最初はトリニアの追っ手だと思ったが、違うのだろうか。ファーリッジを倒しておきながら、どうしてとどめも刺さずに姿を消したのだろう。どうして、あんなに悲しい目をしていたのだろう。  妙に気になった。  まったく知らない人物だった。なのに、妙に親しげで。ファーリッジには及ばないにしても、竜騎士並みの力を持っていた。  いったい何者なのだろう。  草の上に寝そべってそんなことを考えていたファーリッジは、不意に身体を起こした。  いつの間に転移してきたのか、少し離れたところに一人の女性が立っていた。  長身で、長い銀髪をなびかせた女騎士。鋭い目でこちらを見ている。  竜騎士であることは間違いない。それも、とびきり強い力を持った。その女性からは、並はずれた力を感じる。  しかし――  ファーリッジが殺した者も含めて、トリニアの竜騎士は二十九名しかいない。その中に、この女に該当する容姿の持ち主はいなかった。  それでも間違いなく、トリニアの青竜の騎士だ。その服には、赤地に青い竜の紋章――『紅蓮の青竜』と呼ばれる、竜騎士のみが着けることを許された紋章が描かれている。 (また、正体不明の追っ手か…)  心の中でつぶやきながら立ち上がる。  相手が声の届く距離に近づいたところで訊いてみた。 「お前、いったい何者?」  女は立ち止まらず、ゆっくりと歩きながら唇の端を上げた。 「呆れたな。竜騎士になろうとしていた者が、この私を知らぬのか?」  軽蔑したように、呆れたように言う。  ファーリッジは考えた。  いったい誰だろう。あの口振りからすると、かなり高名な騎士であるはず。しかし見覚えはない…いや。  どこかで見たことのある顔だ。直接会ったことはないが。本の挿絵か、それとも肖像画か…。  女性にしてはかなりの長身。長い銀髪。鋭い目と不適な笑み。そして、並の竜騎士を大きく凌駕する力の持ち主。  記憶の中に一人だけ、該当する騎士がいた。しかしそれは、こんなところにいるはずのない人物だった。 「…まさか」  そうつぶやいた声は、震えていた。女が笑う。 「やっと気付いたか」 「…クレイン・ファ・トーム。聖跡の番人…?」  聖跡の伝説、エモン・レーナとクレイン・ファ・トームに関する言い伝えは、トリニアの人間ならば子供でも知っている。しかしもちろん、実際にその姿を見たことがある人間などいるはずもない。  ファーリッジの顔が蒼白になる。全身から汗が噴き出す。それでも、虚勢を張ることだけは忘れなかった。 「…実在したの。四百年以上も前の亡霊が、いったいなんの用?」 「聞くまでもなかろう」  そう言って笑うクレインの手に、銀色の光が現れる。それは長い剣の形となった。ファーリッジの赤い剣と同様、クレインの魔力が剣の形で実体化しているのだ。  確かに、聞くまでもなかった。やることはひとつだけだ。  ファーリッジは腕を振って、魔法の矢を放った。扇状に放たれた無数の赤い光がクレインを襲う。  しかしクレインはわずかな動きで光をかわし、それが難しいようなら剣ではじき飛ばした。  ファーリッジにとってこの一撃は牽制だ。これでクレインを傷つけられるなどとは思っていない。クレインが気を取られている間に距離を詰め、至近距離から雷光を放つ。  それをかわすクレインの動きは見えなかった。気がついたときには、気配は背後にあった。  ファーリッジは後ろを確かめもせずに、大きく前に跳んだ。背中ぎりぎりのところで、風を斬る鋭い音がする。地面を転がりながら呪文を唱えた。  人間の頭大のオレンジ色の光がいくつも、クレインの周りに出現すると同時に爆発した。炎が周囲を包んで視界を奪っている隙に、ファーリッジは間合いを取って呼吸を整える。すぅっと息を吸い込むと、次の魔法に意識を集中する。 「チ・ライェ・キタイ!」  眩いほどの青白い光を放つ球体が数十個、クレインを取り囲んだ。それぞれの光球から、ほんのわずかな時間差で、青い光線が放たれる。  次々と放たれる青白い光。それはトリニアの竜騎士が竜を倒すために用いる魔法で、生身の人間がかわすことはまず不可能。そしてそれぞれの光線が、竜に致命傷を与え得るだけの破壊力を秘めていた。  しかしクレインは、死の光線が降り注ぐ中、平然とファーリッジに向かって歩いてきた。竜を貫くほどの魔法を、クレインの防御結界は完全に跳ね返していた。 「そ…んな…」  愕然とつぶやくその声はかすれていた。自分の目で見ても、信じられるものではない。  クレイン・ファ・トームこそが史上最強の竜騎士――多くの歴史書はそう伝える。だからといって、こんなことがあり得るはずもない。  クレインは余裕のある表情で近づいてくる。ファーリッジはぎゅっと唇を噛んだ。その手に、赤い光の剣が現れる。  ファーリッジの方から先に動いた。渾身の力で剣を振る。小細工などない。向こうの方が経験は上なのだ。技術的な駆け引きでは敵うまい。強大な魔力にものをいわせて、剣ごと、結界ごとクレインを両断するつもりだった。  しかしクレインの剣は、易々とその斬撃を受けとめた。流れるような動きでファーリッジの剣圧を受け流す。腕が伸びきって一瞬動きが止まったところに、今度はクレインの剣が襲いかかる。目の前で、きらりと銀色の閃光が瞬いたようにしか見えなかったが、一瞬遅れて、ファーリッジの肩から血しぶきが舞った。  大きく後ろに飛び退こうとする。身体が空中にあって無防備になるその瞬間、クレインが放った銀色の光がファーリッジの身体を貫いた。大きくバランスを崩しながらも、なんとか倒れずに着地する。ここで倒れたら一巻の終わりだ。  クレインが飛び込んでくる。その動きはまさに銀色の疾風だ。 (右? 左?)  目で見ていてはクレインの剣の動きは追いきれない。打ち込みの方向を予測して防ぐしかない。  右から来る、と思った剣が突然消えた。次の瞬間、その刃は左から襲いかかってくる。反応がわずかに遅れた。  痛みは、感じなかった。  どさりという音とともに、ファーリッジの左腕が地面に落ちた。その上に、ぼたぼたと血が滴る。  ファーリッジは茫然と、立ち尽くしていた。  右手に握っていた剣、逆を衝かれながらもなんとかクレインの斬撃を受け止めたはずの剣は、根本から折られていた。  そして喉元には、白銀色の刃が突きつけられている。  ぴくりとも、動けなかった。 「少しばかり、プライドが傷つけられたぞ」  驚いたことに、そう言ったのはクレインの方だった。  ファーリッジに剣を突きつけたまま、鋭い目をして、残忍な笑みを浮かべている。 「真っ二つになると思ったが、よくも腕一本で凌いだものだな。そんな真似ができる奴は二人しかいなかった。エモン・レーナと、そしてドレイア・ディ・バーグ、四百年前のストレインの皇帝だ」  クレインの目が、かすかに細められる。 「その力に免じて、すぐには殺さずにいてやろう。もう少し生きているがいい」  突然、クレインの剣がはじけたように見えた。それは無数の、糸のように細い光の筋となって、ファーリッジの身体に突き刺さった。 「ぐ…あぁっ!」  まるで身体中を針金で貫かれ、縛り上げられたようなものだ。全身から血を吹き出しながら、ファーリッジはのたうち回った。細い光は、しかし鋼線よりも強靱に、ファーリッジの身体を締め上げる。あちこちで皮膚が破れて新たな血が飛び散った。 「あ…ぅぅ…、あぁっ!」 「これは捕虜を拷問するには一番なんだがな。一度エモン・レーナの前でやったら禁じられてしまった。あいつ、あれで意外と神経が細い…」  面白そうにそう言ったクレインは、途中で言葉を切ると、おやっという顔になった。ファーリッジの目から、まだ戦意が失われていなかったからだ。  ファーリッジは苦痛に喘ぎながらも、殺意に満ちた目でクレインを睨んでいた。瞳の光も失われていない。  許せなかった。こんな一方的に負けることが、許せなかった。  人間ではない代わりに、力では誰にも負けないと、そう思っていた。それだけが唯一の救いだったのに。 「くそぉ…くそぉ…」  瞳の金色がより強くなる。その瞳で、真っ直ぐにクレインを見ていた。  クレインの目の前に、ぽつんとひとつ、光る点が現れた。針の先ほどの小さな、しかし眩い光を放つ点。  クレインの口元がほころぶ。  その瞬間、光がはじけた。  灼熱の光球は、一瞬で数テクトの大きさにまで広がる。その範囲内にあったものは、炎を上げる間もなく素粒子に分解されて消滅した。それより外側の広い範囲で、熱線が草原を炭に変え、爆風が樹々を薙ぎ倒した。  それは、ひとつの街を破壊し尽くし、数万人の命を奪った力と同じものだった。その力が、クレイン一人に向かって放たれた。  手応えはあった。光が消えたとき、そこには何もなかった。大きなクレーターの中心に、ファーリッジだけが横たわっていた。遙か遠くで、クレーターを囲むように煙が上がっているのが見える。  クレインの姿はなかった。ファーリッジを束縛していた光も消えた。 「ふ…ふふふ…」  笑いがこみ上げてきた。身体を起こしながら、ファーリッジは声を上げて笑う。  あの、クレイン・ファ・トームに勝ったのだ。エモン・レーナの親友、大陸史上最強の竜騎士と謳われたクレインに。 「あは…ははは…はははははは…」  笑いが止まらない。いつまでも笑い続ける。  なにもない荒野に、笑い声だけが響いていた。 「あは…はは…は…?」  笑うファーリッジの視界に、妙なものが映った。最初は目の錯覚かと思ったが違う。  どこからともなく、ちらちらと光る粒子が集まってくる。それはどんどん数を増やし、集まって人の形になる。  ファーリッジの目が見開かれた。それは紛れもなく、いま殺したばかりのクレイン・ファ・トームの姿だった。  信じられるはずもない。クレインの身体は、原子はおろか素粒子のレベルにまで分解されたはずだ。 「なかなかのものだな、この四百年間、これほどの力を持った者はいなかった」  軽い調子でそう言ったときには、光も消え、すっかり元の姿になっていた。身に着けていた服まで元のままだ。 「な…ぜ…」  絞り出すように、それだけ言うのが精一杯だった。ファーリッジが行使することができる、最大の力を用いたのだ。もう、彼女にできることはなにも残っていなかった。 「私は不滅だ。聖跡ある限り、な」  クレインは、ファーリッジの目の前までやってきた。その手に、白銀色の剣が現れた。  ファーリッジは動かなかった。動けなかった。なにをしても、すべての抵抗が無駄だと感じていた。  それは、生まれて初めて感じる絶望だった。  左胸に突き立てられた剣が、ゆっくりと身体を貫いていく。冷たい刃の感触を感じながら、ファーリッジはただ黙って立っていた。剣先が彼女の心臓を貫き、その動きを止めるのを、まるで他人事のように感じながら。 「だが、なかなか面白い。このまま捨てるには惜しいな。いずれ使い道もあるだろう」  クレインがそんな独り言をつぶやいたとき、ファーリッジ・ルゥは既に息絶えていた。   * * *  奈子が我に返ると、元の場所にいた。  あの、聖跡の地下だ。  目の前に、クレインが立っている。  奈子の手には、血で濡れた剣が握られていた。ファージの胸を貫いた剣が。  奈子は黙って、剣をクレインに渡した  言いたいこと、訊きたいことは山のようにある。しかし、いったい何から言えばいいのか分からなかった。まだ、自分の頭の中も整理できていない。  何度か大きく呼吸をして、今回見た幻影の中に現れなかった人物のことを訊いた。 「…ソレアは? ソレアはいったいどういった立場にいるの? ファージや聖跡と、どんな関わりがあるの?」  ここにはソレアの姿はない。光の柱の中にあるのは、クレインとファージだけ。つまりソレアは不死の存在ではないということだ。 「あれが、本来の墓守だ。代々、力と知識を受け継ぐ者たちの末裔…あれが最後のひとりだがな。墓守の目的は、王国時代の力の復活を阻止すること。ちょっとした気まぐれで、ファーリッジを戦士として与えてやった」  墓守は、戦う力を封じられているから…とクレインは言った。  言われてみればそうだ。ソレアはきわめて強い力を持つ魔術師だが、人を直接傷つけたり、殺したりすることはできなかった。彼女自身は、破壊のために力を用いることはできないのだ。  ファージは墓守ではなく、墓守に与えられた『武器』だった。  もちろんファージの力は、その大半が封印されている。墓守であるソレアだけが、その封印を緩和することを許されていた。その必要があるときだけ、竜騎士に匹敵するファージの力を解放することができた。  それでも、竜騎士を遙かに越える『最強のドール』としての力は封じられたままだ。それは永遠に解き放たれることはない。なにしろ、ストレイン帝国との戦争を除けば、トリニア王国に最大の被害を与えた魔女の力なのだから。  そういった説明を聞いて、奈子は納得した。ファージとソレアが、付き合いの長そうな割には決して仲が良くないことを。  ファージがいつも、魔法のカードを大量に持ち歩いている理由も理解できた。一度に何十枚ものカードを使いこなす人間は、奈子が知る中ではファージしかいない。普通の人間は、いくらカードで魔力を補ったところで、それだけの力を制御することはできないから。  封じられているのは、ファージの魔力のみ。それを制御する力は生前のままだ。カードで魔力を補えば、ほぼ無制限にその力を増すことができる。制御力にはいくらでも余裕があるのだから。 「カードに魔力を蓄えるというのも、元はといえばあいつが考え出したことだ。五、六百年くらい前だったかな。あいつはどうにも反抗的で、暇さえあれば私に復讐することばかり考えている」  クレインは言った。その口調にファージを責めるような様子はなく、むしろ愉快そうだ、と奈子は思った。  奈子がクレインに返した剣は、いつの間にか彼女の手の中でぼんやりとした白銀色の光の塊になっていた。それは空中を漂っていき、ファージの姿が収められた光の柱に吸い込まれる。大きな穴の開いた胸の部分で形を変え、欠損部を復元していった。 「お前に、失われた情報を手に入れてきてもらったというわけだ」 「ファージは復活できるのね?」 「そうだ、腕を前に」  奈子は言われるとおり、両腕を前に差し出した。その上に、ちらちらと光る細かな粒子が現れ、徐々にその数と密度を増していく。  霧のような光の粒子はだんだん濃密になり、やがて、人の形を取り始めた。  それは懐かしいファージの姿。完全な姿が再現されると、いきなり奈子の腕に重みがかかる。 「ファージ…」  名前を呼ぶと、不意に、涙があふれ出してきた。堪えようとしても止まらない。 「じきに目を覚ます。その前に連れて行け。外への道順は…もうわかるだろう?」 「…どうして? ここにいてはいけないの?」 「先刻も言った通り、私とそれとは、お世辞にも仲がいいとは言えないからな」  考えてみればその通りだ。ファージにしてみれば、クレインは自分を殺した相手なのだ。ファージの性格からして、仲良くできるはずもない。  そう納得して、ファージを抱きかかえたまま部屋を出ようとしたところで、 「忘れ物だ」  そう、クレインに呼び止められた。  振り返ると、クレインが一振りの剣を持っていた。一瞬、奈子の顔がこわばる。  それは、無銘の剣だった。  ファージを刺したとき、そのままソレアの家に置いてきたはずなのに、どうしてここにあるのだろう。 「…でも…その剣は…」  奈子の声はかすかに震えていた。  それは、ファージを殺すことができる剣。  その目的のために、狂気の中で生まれた。  無数の死体から生み出された、呪われた剣。 「…いらない。もう、いらない」  奈子は首を横に振った。  これからもこれを持ち続けることは、辛い。  この剣を力はあまりにも大きすぎる。また、誰かを殺してしまうかもしれない。  そんなこと、したくない。 「だから…聖跡に封印しておいて。ここなら安全でしょう?」 「武器を持たなければ、殺さずに済む…か。根本的な解決とは言えんな」  クレインが微かに笑う。 「いいの」 「どうしてもと言うのなら、預かってもいいが…無駄だと思うぞ? これは、お前の剣だからな」 「アタシの…剣?」  わずかに眉をひそめて、奈子は訊き返した。 「これくらいの剣になると、剣の方で所有者を選ぶものだ。過去、無銘の剣に選ばれたのはレイナしかいない」  クレインは手の中の剣を見おろしながら答える。 「まあいい。必要になるときまで、私が預かっておこう」 「お願い」  うなずいて歩き出そうとした奈子だが、ふと立ち止まる。 「まだ、訊きたいことがあるんだけど…」  でも、クレインは答えてくれるだろうか。  もしかしたら、明かしてはならない秘密なのかもしれない。  それでも、一応訊いてみた。 「…聖跡は、なんのために造られたの? 単なる墓所なら、こんな仕掛けも、歴史を記憶する必要もないんじゃない? いったいなにが目的なの?」  実際のところ、答えをそれほど期待していたわけではなかった。クレインは少し考えている様子だったが、やがて口を開いた。 「…聖跡は、見守るためのもの。エモン・レーナの墓所であり、揺りかごでもある。いまはただ見守るだけ。それ以上でも、それ以下でもなく、歴史への干渉は許されていない」  クレインは、暗記している文章を読むような調子で、淡々と語る。 「…実際のところ、今となってはさしたる目的などない。ただ存在するだけ。歴史を紡ぐのは、いまを生きている者の役目だ」 「じゃあ、なぜファージの件に干渉したの? あなたが関わらなければ、違った結末になっていたんじゃない?」  見守るだけなどと言いながら、実際のところ、あの時トリニアを救ったのはクレインだ。 「違った結果…例えばもっと凄惨な結果に。そして、お前がファーリッジに会うこともなかった」 「それは結果論だよ。あなたが関わった理由ではない」  さらに追求すると、クレインには珍しく、ばつの悪そうな表情を見せた。そんな顔をすると、クレインもとたんに人間くさく見える。  それで、彼女も決して人間味をすべて失ってしまったわけではないとわかる。 「…暇つぶしだ。私だって気まぐれを起こすこともある」 「あと、もうひとつ。あなたはなぜ…」  途中まで言いかけて、しかし奈子は口をつぐんだ。 「…やっぱり、いい。いろいろと教えてくれて、ありがと。やっぱり、辛いことでも知らないよりは知っていた方がいいもの」  静かに微笑んで、一度は外に向かおうとした奈子だったが、最後にもう一度振り返った。 「…また、来ても…いい?」  おそるおそる訊ねる。本来ならば、聖跡はそう気軽に訪問できる場所ではない。 「まあ、…たまにはいいかもな」  クレインも小さく笑った。奈子は満足げにうなずくと、今度こそ外へ向かって歩き出した。  最後にひと言、「またね」と言い残して。  終章 夜明け、そして旅立ち  外は、夜だった。  正確に言えば、もう夜明けが近い。東の空が白み、風が静かに吹きはじめている。  聖跡に着いたときはまだ夕方だったのに。結局一晩、聖跡の中で過ごしたことになる。  奈子は、ファージを腕に抱いたまま座っていた。ファージは全裸だったので、マントでくるんでやる。はたしてファージが風邪を引いた場合、聖跡はそれを治せるのだろうか…などと、どうでもいいようなことを考えながら。  マントの生地を通して、ほのかに体温が伝わってくる。その温もりが、涙が出るほど嬉しかった。  千年――奈子にしてみれば、それは想像を絶する時間だった。ファージはその間、いったいなにを考えて生きてきたのだろう。己の運命を、いったいどう受け止めてきたのだろう。 (…でもファージって、肉体的には十六歳でも、精神年齢は千歳以上ってことよね? とてもそうは見えないけどなぁ)  再生の際、記憶は残るはずだが。精神的な成長も元に戻ってしまうのだろうか? でもまあ、そんなことはどうでもいい。その年齢に相応しく(?)老成したファージなんて、あまり嬉しくないから。  ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。この不思議な響きの名を持つ少女と知り合ってから、いつの間にか一年以上たっていた。  この一年、さまざまなことがあった。ファージと出会ったことで、奈子の人生は大きく変わってしまった。辛いこと、悲しいこと、傷ついたことも多い。  それでも、後悔はしなかった。この世界に迷い込んで、ファージと出会ったことを、よかったと思う。  きっかけは偶然だったにしろ、いま自分がここにいるのは、自分で選んだ結果なのだ。  先刻の、クレインの言葉を思い出す。 『歴史を紡ぐのは、いま生きている者の役目だ』  そう、自分はいま生きているのだから。  先のことなんてわかりはしない。  自分の心を信じて、その時その時を生きていくことしかできない。それでいい。  ファージの出生の秘密とか、王国時代の出来事とか、そんなことはどうでもいい。ここにいるのは、一年前に知り合った親友でしかない。  それでいい。ファージだって…そう、生きているのだから。  ぴくっ  ファージの睫毛が揺れた。  ゆっくりと目が開かれる。  大きな金色の瞳が、ぼんやりと奈子を見ていた。奈子は心底、その瞳が美しいと思った。 「ナコ…?」 「ファージ…」  ファージはのろのろと上体を起こすと、奈子にぎゅっと抱きついた。 「…痛かったぞ」  耳元でささやく。 「…ごめん」  奈子も小さな声で言った。 「いきなり、あんな武器使うんだもんなぁ」 「…ごめん」 「…さすがの私も、あれだけはダメ。天敵なんだ」 「…ごめんね」  奈子も、腕に力を込めてファージを抱いた。 「ナコには、二度も殺されかけたんだね」 「…憶えてるの?」  驚いて顔を上げる。千年以上も前のことだというのに、憶えているのだろうか。 「…思い出した。いま、思い出した。初めて会ったときから、なんだか見覚えがあるような気がしてたんだ」  ファージの両手が奈子の顔を挟む。ゆっくりと顔が近付いてくる。  唇が重なる。  かなり長いことそうしていて、やがて唇を離したファージは、奈子の胸に顔を埋めるような姿勢になった。 「…友達が、欲しかったんだ。ただ、心を許せる友達が」 「…友達なのに、こんなことするの?」 「だってナコ、キスが好きでしょ」 「あんただってそうじゃない」  それから二人は、声を揃えて笑った。  夜明けの荒野に、静かな笑い声がふたつ、響いていた。  ファージのいまの言葉を聞いたとき、先刻の疑問の答えがわかったような気がした。クレインと別れるとき、奈子は訊こうとしたのだ。 『なぜ、ファージを不死の存在としたのか』と。  でも、訊くまでもないことだった。「反抗的で…」とか言いながら、クレインはどこか楽しそうだった。  それまでの四百年以上の間、彼女はひとりきりだったのだ。 「ファージ…」 「ん?」 「許して…くれる?」 「そうだね…」  ファージは考えながら応える。 「今夜、一緒に寝てくれるなら」  笑ってそう言った。 「ひとつ確認しておきたいんだけど…」  奈子はおそるおそる訊く。  答えを聞くのが怖いけれど、訊いておかないと後でもっと困ったことになりそうだった。 「寝かせてくれるんでしょうね?」 「…さあ、どうかな」  金色の目を細めて、ファージはくすくすと笑っていた。   * * *  夕陽は、やっぱり血の色をしている――。  そう、奈子は思った。タイルで舗装された歩道を歩きながら。  正面に、大きな夕陽が見えている。  こうしてゆっくり奏珠別の街を歩くのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。結局、夏休みの後半はほとんど向こうで過ごしていたようなものだ。ちなみに、夏休みの宿題がほとんど手つかずだということは、すっかり忘れている。  昨夜、家に帰ったのは明け方だった。すぐにでも由維に会いたかったが、さすがにその時刻に電話するわけにもいかない。仕方なくそのまま寝てしまったのだが、目が覚めたときはもう夕方近かった。  由維のPHSに電話すると、街に出かけているというので、外で待ち合わせることにした。その方が、帰ってくるのを待つよりも早く会える。  走り出したくなる気持ちを抑えて公園の中を歩いていた奈子は、かなり離れたところから由維の姿を見つけていた。   * * *  公園の真ん中にある大きな噴水の縁に腰掛けて、由維は脚をぶらぶらと揺らしていた。  どことなく、不機嫌そうな顔をしている。  本当なら、顔中がにやけてしまいそうな状況だった。十日以上も音信不通だった奈子が、無事に帰ってきてくれたのだから。  だけど由維はそんな喜びを無理に抑えて、不機嫌な顔を作っていた。 (なんの連絡もなしに二週間近くもいなくなっちゃうんだから…。私、夜も眠れないくらい心配したのに。謝ったくらいじゃ許してあげないんだから)  そう、自分に言い聞かせていた由維は、聞き覚えのある足音に顔を上げた。  奈子が、そこにいた。走っていって抱きつきそうになるのを必死にこらえ、ぷぅっと膨れてみせる。 「どこ行ってたんですか、奈子先輩。せっかくの夏休みなのに、私のこと放って!」  奈子が、静かに微笑んだ。由維に限らず、奈子に憧れる後輩の女の子なら誰でも、たちまちとろけてしまうような笑顔で。 (…っ、だめだめ、あの笑顔に騙されちゃ! 今日は簡単には許さない…)  自分も笑い返しそうになって、緩みかける顔の筋肉を引き締める。しかしそれと同時に、駆け寄ってきた奈子に抱きしめられた。一瞬前の決意がもろくも崩れそうになる。 「由維…」  奈子は、力いっぱいに由維を抱きしめていた。なんの手加減もなしに。 「奈子先輩、痛い…」  そんな由維の声にも構わずに。なんだか、いつもの奈子と違う、と感じる。 「二人きりになれるところ、行こう」  真剣な表情で言われて、由維は耳まで赤くなる。しかし、 「…奈子先輩のエッチ」 「そ〜ゆ〜意味じゃないってっ!」  そう叫んだときの奈子はいつもどおりの様子だったので、少しだけ安心した。  結局、奈子の家へ戻ることにした。それがいちばん手軽に、そして確実に二人きりになれる場所だったし、奈子の様子がなんとなくいつもと違うので、家にいるのがいちばんいいと思ったのだ。  街を歩いているときも、地下鉄に乗っている間も、二人はあまり口をきかなかった。ただ手をつないで、お互いの温もりを感じていた。 「そろそろ晩ゴハンの仕度しなきゃ。奈子先輩、なに食べたい?」  家に着くと、由維はそう言ってキッチンへ行こうとしたのだが、いきなり背後から、奈子に抱きしめられた。 「奈子先輩…」 「そんなの、後でいいから」  力強い、奈子の腕。おそらく偶然なのだろうが、手が、由維の胸の上にあった。  鼓動が速くなるのを感じる。やっぱり、いつもの奈子とは様子が違う。 「痛い…」  呼吸をするのも苦しいくらいに強く抱きしめられている。 「…いや?」  そう訊かれて、由維は首を横に振った。痛いし、苦しいけれど、どちらかといえば、もうしばらくそうして欲しかった。  それでも奈子は、ほんの少しだけ力を緩めてくれた。  背中全体で、奈子の体温を感じる。  奈子の吐く息が、耳をくすぐる。 (こんなコトされたら、ヘンな気分になっちゃうよぉ…)  それが嫌なわけはない。むしろ、喜んでいるくらいだ。ここに奈子がいるという幸せな事実が実感できる。  でも、それを受け入れてしまうと、自分の心に歯止めが効かなくなりそうで怖かった。いくつかの理由から、まだ、奈子との最後の一線を越えるつもりはなかったが、もしも今、このまま寝室へ連れて行かれたりしたら、拒めないような気がした。  しかし奈子はじっと動かず、ただ黙って由維を後ろから抱きしめている。やがて由維は、奈子が、声を殺して泣いていることに気付いた。  背中が、奈子の涙で濡れている。 「…なにか、あった?」  前を向いたまま、小さな声で訊く。 「……」  奈子は三十秒くらい黙ってたが、ぽつりと「いろいろ」とだけ答えた。  それ以上は訊かなかった。その必要はない。二、三日して心の準備ができれば、きっと奈子の方から話してくれるに違いなかったから。  そっと奈子の腕に触れると、すっと力が抜けた。解放された由維は、振り返って正面から奈子の顔を見据えた。  涙で潤んだ瞳に、由維が映っている。  由維は奈子の両頬に静かに手を当てると、そっと唇を重ねた。  久しぶりに感じる、柔らかな感触。  また、腕が身体に回される。今度は先刻のように乱暴ではなく、優しく包み込むように。  大きくて弾力に富んだ、奈子の胸が押しつけられる。 (…これって…ちょっと気持ちイイかも)  由維も、奈子の身体に腕を回した。全身で、奈子を感じていたかった。  かなり長い間そうしていて、ようやく唇を離すと、奈子が耳元でささやいた。 「由維…」  返事の代わりに、由維も奈子の耳元に唇を寄せ、軽く耳たぶを噛む。奈子はくすぐったそうに身をよじらせた。 「今度…一緒に行こう」  そう言われたとき、一瞬なんのことかわからなかった。いったいどこへ…。  それは、ひとつしかあり得ない。  少し驚いた表情で奈子を見て、それから、ただ小さく「うん」とうなずいた。 あとがき  …長いって。  とゆ〜わけで、ようやく『金色の瞳・後編』をお届けすることができます。  それにしても長かった。前後編合わせると原稿用紙三百八十枚以上。過去最長の『ファ・ラーナの聖墓』でも三百二十枚強ですから、前後編に分けたのは正解でしょう。でも前編百四十枚に対して後編は二百四十枚で、ちょっとアンバランス。しかも途中から文体まで変わっちゃってるし。  それはさておき、これで第二部『竜騎士編』も終わりですから、今回はあとがきも少し長めでいきます。『光』本編のあとがきはしばらく書けないので、どうかお付き合いください。  今回はタイトルの通り、ファージが主人公です。  前編はほとんど奈子とエイシスの話になっていたので、どうなるのかと心配しましたが、後編はファージの出番もたっぷり。ただしほとんどが生前ファージ。  でも、本当にファージが主人公と言っていいんでしょうかね? なんか、イルミールナとかクレインが美味しいところ持ってってないかい?(笑)  まあとにかく、これでファージの謎はほぼ明らかになったわけです。「ファージ=千年前の竜騎士」説は、すでに第六話時点で一部の読者に見抜かれていましたけどね。でも「年増」と呼ぶのはどうかなぁ。生まれは千年前でも、いまの身体は十六歳時点のものを正確に再現してるわけですから。実年齢千歳、肉体年齢十六歳? う〜ん…。  でも精神年齢は…? とても千年も生きてるようには見えませんね。ひょっとして「記憶溢れ」でも起こしてるのか?(笑)  そういえばファージやクレインの不死化の方法って…。志麻ケイイチ氏の『神々は記憶の海に沈む』を読んで、思わず「しまった!」って叫んじゃいましたよ、私ゃ。  そして今回、無銘の剣誕生の経緯も明らかになりました。剣を鍛えるシーンは『ファ・ラーナの聖墓』でも少しだけ書いてありましたけど。  え? まるで「獣の槍」だって? それは言わない約束よ(笑)。  でも、トリニアで作られた剣が、どうしてストレインの竜騎士であるレイナの手に渡ったのか…詳しく書くと長くなるので割愛。実は、あの剣を拾った騎士ヴェルジュレスは『レイナの剣』に登場したユウナ・ヴィ・ラーナのご先祖にあたります。曾祖父だったかな?  この辺の詳しい話は、そのうち機会があれば外伝とかで書きましょう。  それにしても『金色の瞳・前編』を読んだ読者の多くは、「後編は奈子vsアィアリスの闘いと、ファージ復活の物語になる」と思ったのではないでしょうか? 第六章『復讐の序曲』を読んでもそう思いますよね、普通。  思いっきり読者を裏切ってます、私。アィアリスやアルワライェはどこ行った、って感じ。  しかし考えてみると、これまでの『光』でも、まともに敵のボスキャラ(いわゆるラスボスってヤツ?)を倒して終わった話ってほとんどないんじゃないでしょうか? そもそも「ボスキャラ」と呼ぶべき相手がいない話もけっこうありますしね、『ファ・ラーナの聖墓』とか。  これってひょっとして、この手のライトファンタジーアクションにはあるまじき展開では? と、書いてる本人たまに不安になります。読者はもっと、「主人公が幾多の困難を乗り越え、強大かつ凶悪なボスキャラを倒す」という、ありがちではあるが爽快な展開を期待しているのかもしれない、と。  でも私、そ〜ゆ〜の嫌いなんですよ。そんなわけで『光の王国』の基本テーマは「異世界の歴史探訪と、奈子と由維の愛情物語」です(笑)。そこのところ、ご理解ください。  今回もまた、後半はほとんど昔話です。奈子はただそれを見たり聞いたりしているだけ。これでいいのか、主人公。  もともと、王国時代の竜騎士たちの物語の方が、先に存在していたんですね。高校生の頃から温めてきた企画で、タイトルは『ラーナ戦記』といいます。  ユウナ・ヴィが主人公で、ライバルであるレイナ・ディとの戦いを中心に、トリニアとストレインの最終戦争と両国の滅亡を描いた物語。これをベースに、ライトファンタジーにありがちな(笑)「異世界乱入モノ」にしたのが現在の『光の王国』というわけ。  だから『光』で書かれている昔話の大半は、この『ラーナ戦記』の断片なのです。  ところで今回、亜依の出番がありませんでした。最近、人気急上昇なのに。  出番がないといえば、ハルティやアイミィをはじめとするマイカラス王国の面々もそう。基本的に彼らは、舞台がマイカラスじゃないと出てこれませんから。次回も危ないかも。  フェイリアとエイシスは完全にレギュラー化しちゃいましたね。最初はこんな予定じゃなかったのに。きっと次回も出てくるでしょう。でも、あまりエイシスの出番が増えると、一部(それとも大多数?)の「特殊な趣味の読者」(笑)が文句言うからなぁ…。  今回は由維の出番も少な目ですね。終章だけだから。  『光』本編の第一章は、必ず奈子×由維の百合シーンから始まることになっているのです(そう、意図的にパターン化しているんですよ)が、今回は六章からのスタートなのでそれもなし。だから今回、本編の百合度がちょっと低め。そこで、エピローグを少しエッチにしてみました。  『金色の瞳・前編』のあとがきで「しばらくは健全路線で…」なんて言ってたのはいったい誰でしょうね(笑)。  前編のあとがきでは、もうひとつウソついてます。インタルード5『眠れない夜のために』は「由維×亜依のお話ではない」って言い切ってますね。これも大ウソ。確かに、「由維×亜依」ではなくて「亜依×由維」でしたけど(笑)。  いや、書き始めるまでは確かにそんなつもりはなかったんですよ。きっとこれは、小人さんが勝手に書いたのでは…。  これから先の百合度については…、予告しない方が身のため?  奈子×由維で思い出したけど、由維は奈子のことを「奈子先輩」って呼んでますよね。これ、なんとかならないでしょうか?  恋人としてはちょっとよそよそしいかな〜、と思ってるんですよ、最近。  ちなみに小さい頃は「奈子ちゃん」と呼んでいたらしいですが。(『銀砂の戦姫』一章参照)  でもいまさら「奈子ちゃん」ってのもね〜。「奈子」って呼び捨てにするのもちょっとイメージ違うし…。  やっぱり、アレでしょうかね?  そう、アレ。 「お姉さま」って(爆)。  では最後に、これからの予定を書いて終わりましょう。  次回作は… 「ごめんなさい!」  先に謝っておきます。『光の王国』本編はしばらく(数ヶ月)お休みします。インタルードや番外編は書くかもしれませんが。  今回で第二部『竜騎士編』が終わり、第三部へと進むわけですが、その前にのんびりと、他の作品を書いて英気を養おうかな、と。第三部の構想も、もう少し練り直したい部分がありますし。  そんなわけで、第八話『レーナの御子』は多分来年になるでしょう。  今年後半の予定は…まず、『月羽根の少女』の新作『炎のたからもの』が企画進行中。健全純愛モノの前作とはうって変わって、健全百合モノになる予定。その合間に『マリア様がみてる』二次創作の『ポケットの中の十字架』の続き。そして『コバルト・ロマン大賞』とか『電撃ゲーム小説大賞』とか…(笑)。時間があったら『たたかう少女2』も書きたいけど、ちょっと難しいかな。  では、また、次の作品でお会いしましょう。 一九九九年八月 北原樹恒 kitsune@mb.infoweb.ne.jp 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/