光の王国8 レーナの御子 序章 北都の女王〜王国時代末期〜  その少女の顔立ちは、母親によく似ていた。  だから紹介されなくとも、一目見た時からその子が何者であるかはわかっていた。考えるまでもないことだ。  まだ十歳を少し過ぎたくらいの年齢のはずだったが、落ち着いた物腰のためか、もっと年長に見える。黒く澄んだ大きな瞳からは、知性の高さがうかがえた。  外見で母親と大きく違うのは、腰まで伸ばした長い黒髪で、これは父親ゆずりだろう。その髪故に、その少女は実の母親よりも、むしろ彼女に似ていた。  隣に立つ女性――フェイシア・ルゥ・ティーナに促され、少女は彼女の前へと進んでくる。ほんの少し気圧されたような表情を見せたが、しかしその態度は、年齢を考えれば実に堂々としていた。  母親の教育の賜物か、それともフェイシア・ルゥによるものだろうか。いずれにしても、並の子供ではなさそうだ。近隣諸国から怖れられる、この北の邦アンシャスの女王レイナ・ディ・デューンの前に出れば、大の大人だって萎縮して縮こまってしまうというのに。  前へ進んできた少女は、立ち止まると真っ直ぐにレイナを見た。二人の視線が正面からぶつかる。一呼吸分の間をおいて、少女は意を決したように口を開いた。 「初めまして、叔母様。レイナ・ヴィ・ラーナ・モリトです。まだ未熟者ですが、よろしくご指導をお願いします」           * * *  今でも思い出すことができる。  彼女の剣が、ユウナ・ヴィ・ラーナの身体を貫いた時のことを。  その剣は、硬い竜の鱗ですら易々と切り裂くことができる。人間の身体くらい、なんの抵抗もなく両断できるはずなのに。  その時の手応えは、今でも手に残っていた。  対するユウナの剣は、彼女の首に触れたところで止まっていた。ユウナ自身がそこで刃を止めたのだ。でなければ、竜の角から削り出したといわれるその魔剣は、一瞬早くレイナの命を奪っていたことだろう。  譲られた勝利。彼女の人生の中で、ただ一度きりの。  ユウナ・ヴィ・ラーナは静かに微笑んで、優しい瞳で彼女を見つめていた。           * * * 「どういうつもりだ? フェイシア・ルゥ・ティーナ!」  侍女を呼んで、ユウナ・ヴィの娘レイナ・ヴィ・ラーナを下がらせた後で、レイナは一人残ったフェイシアを怒鳴りつけた。 「どういう、って?」  静かな口調で訊き返す。美しい銀髪を長く伸ばしたこの魔術師は、レイナの前に出ても少しも臆したところがない。彼女をフルネームで呼ぶのは、本気で怒っている時だということを知っていても。 「何故、あれをここに連れてきた?」 「当然ではなくて? あの子にとって、あなたは大切な叔母ですもの。あなたにとっては姪、そしてたった一人の肉親。紹介するのが当たり前でしょう」  微笑みすら浮かべて語るフェイシアを、レイナは黙って睨みつけている。 「できれば、ここで育ててもらいたいわね。今ではこの国が、大陸中で一番安全な場所でしょうから」 「お前の側にいれば、危険などあるまい」  レイナは忌々しげにつぶやく。 「でも私では、竜騎士の教育はできないわ。トリニアのラーナ・モリトの血と、レイモスのダーシアの血。トリニアの王家が滅びた今、大陸に残る最高の竜騎士の血筋よ。もったいないじゃない」 「だからって!」 「大戦を生き延びた竜騎士は少ない。あなたは間違いなく、現在の大陸で最強の竜騎士よ」  フェイシアはそこまで言うと、何か思いついたかのように小さく笑った。 「…いいえ、大戦前から最強だったわね」 「…今さら、竜騎士の力などなんの役に立つ? 大陸が滅びた後で」 「わからない。だから、血を残すのよ。絶えた血筋を甦らせることはできない。それが不要とわかるまでは、残す努力をするべきだと思わない?」 「私は竜騎士の力も、魔法も、この世界には不要だと思っている。今さら、新たな竜騎士を育てる気もない」 「でも、あなたの姪よ」  なにげないその一言が、レイナの心には重くのしかかった。しばらく黙ったままフェイシアを睨みつける。そして、 「私は、あれの母親を殺したんだぞ!」  一語一語、区切るように、強い口調で言った。 「知らなかったのでしょう?」 「いいや、知っていた。信じてはいなかったがな。実の姉と知りながら、この手でユウナ・ヴィを殺したんだ」  当時からその事実を知っていたフェイシアは、今さら表情も変えなかった。 「信じていなかったのなら、知らなかったも同じよ」  あっさりと応える。 「…あの子は知っているのか?」 「いいえ、今はまだ。急いで知らせることでもないわ」 「いずれは、知ることになる」 「その時のことを怖れているの? あの子が復讐に来るかもしれない、と」 「まさか」  レイナは鼻で笑った。 「あのチビが私と戦えるようになるまで、何年かかる? 私は、それまで生きてはいないだろうな」 「誰が、あなたを殺せるって?」  今度はフェイシアが笑う番だった。  レイナ・ディ・デューンは、紛れもなく大陸最強の竜騎士だ。いったい誰が、彼女を倒せるというのだろう。 「同じ竜騎士…墓守を名乗る連中さ。竜騎士の力を否定しながら、奴らは、力を捨てようとはしない。馬鹿な連中だ」           * * * (ここは、どこだろう?) (アタシは…誰?) (アタシは…アタシは…奈子。松宮奈子) (ここは…アタシの家?) (いいや、違う。ここはソレアさんの家だ) (そう、アタシは昨日から、ソレアさんの家に泊まっていたんだっけ)  目を開けて、しばらくぼんやりとしていた奈子は、ゆっくりと考えてから身体を起こした。 「ヘンな夢を見たな…」  頭を振りながら、小さくつぶやく。  レイナ・ディ・デューンとユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトが実の姉妹だって?  そんな馬鹿な。  確かに二人とも、同じ時代の人間ではある。今から約千年前…王国時代末期を代表する竜騎士だ。  しかしレイナ・ディ・デューンはストレイン帝国の竜騎士。そしてユウナ・ヴィ・ラーナは敵対するトリニア王国の竜騎士ではないか。  それが、姉妹? 二人ともそれぞれの国で、その力を高く評価されていた騎士だった。  二人が初めて出会った戦場で、レイナはユウナの婚約者であったレイモス王国の王子を殺し、彼女自身にも深手を負わせた。その後も二人は、トリニアとストレインの最終戦争において、好敵手として何度も死闘を繰り広げていたはず。  そして最後には…レイナが自らの剣で、ユウナを殺した。 (姉妹…? あの二人が…)  そんな話、聞いたことがない。奈子が読んだことのある王国時代の歴史書には、書いていなかった。  しかし、これまでの経験でよくわかっていた。現存する書物が、必ずしも歴史の真実を記しているわけではないということを。  奈子は本能的に、この信じがたい話が真実であると悟っていた。  それとは別にもうひとつ、気付いたことがある。  夢の中でレイナと話していた銀髪の女性。フェイシア・ルゥと呼ばれていた。  奈子の知り合いの、フェイリア・ルゥ・ティーナとよく似ていた。  そういえばフェイリアと初めて出会った時に、話したことがある。 『フェイリア・ルゥ、フェイシア・ルゥ…一字違いだよね。ひょっとして、ご先祖様とか?』 『そうらしいわ。詳しい家系は知らないけれど』  フェイシア・ルゥ・ティーナといえば、あの時代の高名な魔術師だったはず。ユウナ・ヴィ・ラーナとは親しく付き合っていたという。 (フェイリアなら、何か知っているかな…?)  ベッドから降りた奈子は、頭を強く振って夢の残滓を振り払った。  あまりにも、現実感のありすぎる夢だった。  レイナ・ディの夢は、以前にも何度か見たことがある。その時と同じだ。  夢があまりにもリアルな時、目覚めてしばらくの間、身体と精神とで『現実』の認識にずれが生じて、混乱してしまうことがある。  現実感のありすぎる夢は、時として危険を伴う。どこまでが現実で、どこからが夢なのかを見失ってしまうから。 (リアルすぎる夢は…それを見ている間は、現実なんだ)  目に見えるもの、手に触れるもの。  それを人は『現実』と呼ぶ。  しかし、それらはすべて脳が認識したものでしかない。  人間の脳に、神経からもたらされるのとまったく同じ電気パルスをなんらかの手段で送り込んだとしたら、人はそれを現実と認識するだろう。人間には、その人為的な信号を真の『現実』と区別する術はない。  人間にとって、いや、高度な神経系を持つすべての生物にとって、現実とは脳による認識でしかないのだ。  見えるもの、聞こえるもの、手に触れるもの。それが本当にそこに存在するのか、それとも脳が造り出した幻影に過ぎないのか、確かめることはできない。  存在とは、知覚されること。  チェスの駒だ。すべては、赤の王の夢でしかない。 (奈子、あんたにとっての現実とは何?)  自分に問いかけてみた。 「わかりきったことを」  微かな笑みを浮かべる。カーテンを少し開けて、隙間から外を見た。今日はいい天気だ。昨夜の雨はいつの間にか上がって、庭の樹の葉がきらきらと光っている。  奈子はカーテンを閉めると、傍の椅子の背に掛けておいた服を手に取った。 「由維と、そして、あの子のために闘うこと。誰がなんと言おうと、これだけはアタシにとって現実さ」           * * *  ソレアはいつも早起きで、奈子が一階に下りると既に、朝食の仕度をしていた。奈子はこれでも、普段よりは少し早めに起きたのだが。 「おはよう。今朝は早いのね」 「…ちょっと、ね。変な夢を見て、目が覚めちゃった」 「夢?」 「うん…」  後に続く言葉を濁して、奈子は食卓に着いた。そのまま朝食を食べ始め、思い出したように口を開いたのは、もう食事を終えようとしている頃だった。 「ね、ソレアさん?」 「なぁに?」 「レイナ・ディとユウナ・ヴィが姉妹だったって…、ホント?」  そう訊くと、ソレアは不思議そうな表情で奈子の顔を見つめた。二、三度、ぱちぱちと瞬きをして。 「…ええ、そうよ。一般に知られた話ではないけれど」  そう言ってから説明を始める。  トリニア王国の全盛期、トリニアの青竜の騎士は最強の存在だった。  当時、竜騎士の強さを計る物差しは『血統』だった。竜騎士という存在は、ストレイン王国で最初に誕生したといわれているが、トリニアの竜騎士はストレインの竜騎士よりも、より『純粋』で『優れた』血筋であると考えられていた。事実、一騎打ちではトリニアの竜騎士が勝利する例が多かったのだ。  トリニアの竜騎士の方が優れた血を持っている以上、このままではストレインはトリニアには勝てない――後ストレイン帝国の時代、そう考えた者が存在した。 「まさか…」 「そう。そこでトリニアの優れた竜騎士の家から、幼い子供を攫っていったの。その子の名はレイナ。ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトの双子の妹よ」  では、やはりあの夢は事実だったのだ。 「レイナ・ヴィ・ラーナ・モリトというのは?」  奈子はさらに訊く。ソレアはもちろん、その答えを知っていた。 「……ユウナ・ヴィ・ラーナの一人娘。彼女の婚約者だった、レイモスの王子リュー・ティア・ダーシアとの間に生まれた…ね。二人が結婚する前に、リューはレイナ・ディによって殺されたのだけれど、ユウナ・ヴィはその時すでに身籠もっていたのよ」 「ユウナの婚約者…リュー・ティアは、黒髪だった?」 「ええ。肖像画では、長い黒髪の美男子よ。当時、若い竜騎士の中ではトップクラスの力の持ち主といわれていた」 「…そう」  朝食を終えて立ち上がると、奈子は何か考え込むようにしながら自室に戻った。  ソレアはどこか暗い、思い詰めたような表情でその背中を見送っている 「…あまり、いい傾向とは言えないわね。剣は手放したのに、影響が強すぎるわ。…何故?」  扉を閉めて奈子の姿が見えなくなると、小さな…本当に小さな声でつぶやいた。 一章 母、帰る 「やぁっっ!」  気合いとともに、由維が拳を打ち込んでくる。スピードの乗った、きれいな順突きだ。  しかし奈子は余裕を持ってそれをかわし、突き出された腕に自分の右腕を絡めながら、右足を後ろに引いた。  腕を引っ張られる恰好になった由維は、突きの勢いも手伝って、前のめりにバランスを崩す。  その瞬間、奈子の足がドンッと床を踏み鳴らした。いつの間にか、胸には奈子の左手が押し当てられている。  さほど力が込められているようには見えない掌底だったが、軽い由維の身体は簡単に宙に浮いた。床に落ちるとそのままごろごろと転がる。 「い…痛った〜い! 少しは手加減してくださいよぉ!」  床の上で俯せになった由維が顔を上げる。既に涙目だ。 「これでも手加減してるんだから。もっともっと強くなってもらわないとね」  奈子は腰に手を当て、笑いながら言った。  二人がいるのは、北原極闘流の道場。今日は奈子が、由維を特訓しているのだ。  理由は簡単。由維を『向こう』へ連れていくことに決めたから。  最低限、自分の身を守れるようになってもらわないと困る。向こうでは、いつどこで危険な目に遭うかもわからないのだから。  本当なら、そんな危険な場所に連れていくべきじゃないのかもしれない。だけど、一緒にいたい。我が儘ではあるけれど。  奈子にいいようにあしらわれている由維だったが、実際のところ、運動神経はかなりいい。空手の腕前だって、中学女子としてはかなりのものだ。  とはいえ、それはあくまでも一般的なレベルでの話であり、奈子や安藤美夢の中学時代に肩を並べるようなものではない。奈子は自分を基準に考えてしまうため、由維の力にはまだまだ不満なのだ。 「め〜め先輩くらい強ければ、安心できるんだけど…」  などと言うが、十年に一人の才能の持ち主といわれている美夢と比べる方が無理があるだろう。 「私だって、ずいぶん強くなったんですよぉ。これでも、中等部の軽量級じゃ一番なんだから」 「とはいってもなぁ…。この分じゃ、今年は極闘流の全階級制覇は無理かも。美樹先輩、怒るだろうなぁ」  去年、初めての全国大会で固くなっていた奈子に「負けたら殺す」と言っていた美樹を思い出す。あれは目が本気だった。  奈子や美夢がそれぞれの階級で優勝するのはほぼ確実だから関係ないように思うかもしれないが、中等部の選手が負ければ「お前らの指導が悪いからだ」と、とばっちりが回ってくるのは目に見えている。  そういう本人は高校を卒業した後、道場そっちのけで外国を放浪しているそうで、今は消息不明だった。 「大丈夫ですよ。私は勝ちますから」 「イマイチ不安だなぁ」  なにしろ、中学部の大会は体重別ではないのだ。いくら運動神経がよくても、由維は小さすぎる。 「め〜め先輩だって、私とそんなに変わらない身長なのに、中学時代も無敵だったじゃないですか」 「あんた、め〜め先輩より小っちゃいじゃん」  いずれにしても、参加選手中で最軽量なのは間違いないだろう。 「え? 私がどうかした?」  突然割り込んできた声に、二人は同時に道場の入口を見た。ちょうど、小柄な少女が入ってくるところだった。 「め〜め先輩」  奈子と由維の声が重なる。  め〜めこと安藤美夢、奈子の一年先輩だ。そして、北原極闘流の…いやフルコンタクト空手の女子軽量級で、日本最強の選手といってもいい。  しかし外見だけを見れば、美夢はとても空手選手とは思えない。身長百五十センチ弱、体重三十五キロ。小柄で痩せていて、透き通るような白い肌に、腰まで伸ばした長いストレートの黒髪。  まるで日本人形のような容姿だ。これで、最近まで奈子ですら手も足も出なかった強豪なのだから、ほとんど詐欺といってもいい。 「二人ともずいぶん練習熱心ね。今日は休みだというのに」  他に人がいないので、美夢は更衣室へ行かずに着替えはじめる。 「め〜め先輩こそ」 「きっと、奈子は来ていると思ったからね」  道着の帯を締めながら、美夢は奈子を見て目を細める。瞳の奥に、なにやら危険な光を感じた。 「言っとくけど、夏の大会で受けた屈辱は忘れたわけではないわよ」 「え…?」 「負けたまま引き下がったら、それこそ美樹さんに怒られちゃう。だから…」  バシィッ!  次の瞬間、体重の乗った回し蹴りが、奈子の脇腹にめり込んでいた。不意打ちをまともに喰らった奈子の身体は、くの字に曲がる。 「め〜め先輩!」  由維が悲鳴を上げる。 「これはハンデね。私はウォーミングアップもしてないんだし」  人形のような静かな笑みを浮かべたまま、美夢は言った。  奈子は悲鳴すら上げられなかった。一瞬、呼吸が止まった。  倒れそうになるのを辛うじて踏みとどまり、第二波を避けるために後ろへ跳んだ。 「…さすがめ〜め先輩。美樹先輩の愛弟子はえげつないコトするねぇ」  脇腹を押さえて、呻くように言う。蹴られた部分がずきずきと痛む。肋骨が折れていないのが奇跡のようだ。体重は軽いくせに、美夢の蹴りはやたらと重い。衝撃が内臓にまで響いている。 「あなたも美樹さんの後輩なんだからわかるでしょう。一度負けた相手には、次は何としても勝たないと」 「それを言ったらアタシ、め〜め先輩には公式戦だけで五回くらい負けてるけど…」  そう言いながら、奈子は呼吸を整える。 「そんなの、知ったことではないわね」  今度は普通に構えた美夢が、間合いを詰めてくる。  奈子も構えを取った。自分からは仕掛けない。そんなことをすれば、美夢の術中にはまるだけだ。相手が仕掛けてくる、その一瞬を待つ。  動いたのは同時だった。二つの拳がすれ違う。  奈子はもう一方の腕で美夢の突きを受け流すと、一歩前に出て密着した体勢から肘を打ち込む。腕でそれをガードしながら、美夢は横に回り込んで下段蹴りを狙う。  端で見ている由維が瞬きひとつする間に、二人の間にはいくつもの技の応酬が行われていた。目にも止まらぬ速さで、次々と攻撃が繰り出され、そしてお互いにそれをかわし、あるいはブロックする。  コマ落としのカンフー映画のような、一瞬も途切れることのない連撃だ。なにしろ、女子空手では頂点を極めた二人がなんの手加減もなしに闘っているのだ。  その攻防は一見、互角に見える。しかし由維の目には、やや奈子有利と映った。  スピードではやはり、軽量級の美夢が速い。しかし奈子もその動きに遅れてはいない。そしてなんといってもパワーが違う。体格面で奈子は、美夢はもちろん美樹よりもはるかに恵まれている。その打撃は、ガードの上からでも美夢にダメージを与えることができた。  とはいえ、美夢には一撃必倒の回し蹴りがある。先刻はボディだったからなんとか耐えられたが、頭に喰らえば奈子でも一撃でKOされる。一瞬も油断はできない。  ところが、しばらく続いていた突きと蹴りの息詰まる攻防は、突然終わった。美夢が大きく後ろに飛び退いたのだ。  二メートルほどの間合いを空けて、二人の動きが止まる。  ふっと美夢の身体から力が抜けた。構えを解くと、ばつが悪そうに笑って片手を上げる。 「ごめん、アレ始まっちゃった。今日はこれまでね」  奈子と由維が同時にコケた。そんな二人を後目に、美夢は手洗いの方へと歩いていく。 「あ、私もトイレ!」  先に立ち直った由維が、美夢の後を追っていった。 「あ、ゆ、由維ちゃん」  扉を開けると、美夢は鏡の前に立っていた。由維が入ってきて、一瞬狼狽したように見える。その目に、涙が光っていたように思った。 「…逃げたんですか?」  由維は単刀直入に訊いた。 「失礼ね」  美夢が怒ったような素振りを見せる。それが本気でないことは一目瞭然だったが。 「生理は本当よ。私は軽い方だから、試合にはあまり関係ないけど」 「じゃあ…」 「…強く…なったね。もう、私じゃ勝てないかな」  俯き加減に、悲しそうな声で言った。その目から、今度こそ涙がこぼれる。 「め〜め先輩だって、十分強いじゃないですか」  由維は慰めるように言った。  確かに今では奈子の方がやや強いようだが、美夢の強さだってずば抜けている。ただ、この一年間の奈子の成長が尋常ではないだけだ。  そもそも身長で二十センチ弱、体重も二十キロ近く奈子の方が上回っているのだから、それで互角の闘いができる美夢こそ化物と言ってもいい。  こんなことで泣く美夢の気持ちが、由維にはよく理解できなかった。由維はこうした、美夢や奈子、あるいは美樹のような「強さに対する執念」がない。 「め〜め先輩は十分強いですよ。私とあまり変わらない体格なのに、どうしてそんなに強いんですかぁ?」  由維はそれが知りたかった。強さに対する執念はなくとも、由維はもっと強くならなければならなかった。  奈子を護るために。  いつも奈子の傍にいるために。  向こうの世界での闘いを通して、少しずつ壊れていく奈子の心。その傷を癒すのは、由維でなければならなかった。  他の者であってはならない。  そのためには、もっと強くなる必要があった。 「由維ちゃんは運動神経もいいし、技も切れるけど…精神的な問題、ね」  備え付けのペーパータオルで涙を拭って、美夢が応える。 「やっぱり…?」 「人間って、大きく二種類に分けられるの思うの。人を傷つけられる者と、傷つけられない者…いや、他人の痛みを、自分の痛みよりも強く感じる者、と言うべきかな。私や美樹さんは前者よ」  自分が自分が傷つき、殺されるくらいなら、相手を殺すことを選ぶ。なんの躊躇いもなく。  何があろうとも、自分が傷つくのは嫌だ。そのためなら、どれだけ他人を傷つけようとも構わない。  だけど、それができない者もいる。  自分の痛みよりも、他人の痛みを強く感じる者。殴られる痛みよりも、殴る痛みに耐えられない者。 「世の中には、自分を犠牲にして他人のためにつくす人たちもいる。確かに立派な行いかもしれないけど、結局は価値観の違いでしかないのよ。他人が苦しむ姿に、何よりも強い痛みを感じる。その痛みを和らげるために助ける。結局は自分のためじゃない? 私はそれよりも、自分が傷つけられることが一番辛い。ただそれだけの違いよ」  それだけ言うと、美夢は由維を置いてひとりで出ていく。由維は慌ててその後を追った。 「奈子は、どちらなのかな…」  美夢は由維の顔を見ずに、独り言のようにぽつりとつぶやいた。           * * * 「あ〜、まだ痛むわ」  コーヒーカップの底に残った最後の一口を飲み干しながら、奈子は呻いた。美夢に蹴られた脇腹は、一時間以上たってもまだずきずきと痛む。いくらなんでも、肋骨を折られてはいないと思うが。 「隙があるからですよ」  クリームソーダのストローをくわえた由維が応える。  ここは、道場と奈子の家の中間にある喫茶店『みそさざい』。奈子たちが練習帰りに時々立ち寄る店だ。  他に客はいなくて、雇われマスターの晶がカウンターの中で文庫本を読んでいる。  彼女は長い黒髪の、少し神秘的な笑顔が特徴の美人だ。年齢はよくわからない。二十代なのは確かだが、二十二歳という自称は、かなりサバを読んでいるのもまた確かだ。なにしろ去年も一昨年も「二十二歳」と言い張っていたのだから。  それほど広くない店内だが、三人しかいないとがらんとした印象を受ける。いつもは陽気なバイトの女子大生がいるのだが、今日は姿が見えない。  …と思っていたら。 「ごめ〜ん、晶さん! 遅れちゃった〜!」  奈子たちが帰ろうとした時、ばたばたと飛び込んできた。「寄せて上げなくても余裕でDカップ」の自慢の胸が、大きく揺れている。赤いメッシュの入った金髪という派手な髪をしているが、化粧が薄いためにごく自然な雰囲気を醸し出していた。 「一時間も遅刻よ、どうしたの?」 「だぁって、オトコが放してくれなくってさ〜」  その女子大生、柊由奈は悪びれずに笑うと、エプロンを取り出した。 「下着を着けてないのは、そのせい?」 「え?」  苦々しげな表情の晶に言われて、由奈は自分の胸を見下ろした。広く開いた胸元から深い谷間が見えるその胸は、ノーブラだった。 「あはは〜、時間ぎりぎりまでヤッてて、慌てて服着たから」  由奈は屈託なく笑う。 「時間ないから一度だけって言ったのに、立て続けに三回もするんだもんな〜」 「どうせあなたが『もっともっと』ってせがんだんでしょ」 「あ、わかる?」 「わかるわよ。いつものことだもの」  独り者の晶は眉をひそめた。 「…相変わらずですね、由奈さん」  奈子と由維は、二人のやりとりを呆れ顔で見ていた。店を出たところで由維がつぶやく。  由奈の男遊びの激しさはこのあたりでは有名だし、由維の姉の美咲は由奈と仲がいいから、その武勇伝は山ほど聞いている。 「…エッチって、そんなに気持ちイイのかなぁ?」  由維はそう言って、上目遣いに奈子の顔を見た。 「なぜそれをアタシに訊く?」  奈子は不快そうに応える。 「だって、エイシスさんとエッチしたんでしょ? 気持ちよかった?」 「そ、そ〜ゆ〜恥ずかしいことを往来で訊くな!」 「でも、興味ありますもん」 「…そりゃあ、気持ちよくないって言ったらウソになるけどね…」  奈子は赤い顔をして、小さな声で言った。           * * * 「ね〜え、由維?」 「え? きゃああっ!」  家に帰るなり、奈子は由維をソファに押し倒した。 「そんなに興味あるんだったら、あんたもそろそろ経験してみない?」  じたばたと暴れる由維を押さえつけ、顔中にキスの雨を降らせる。 「ん…だめぇ…」  抗議の声を無視して、由維のシャツをたくし上げた。お臍のすぐ上にキスをして、そこから上に向かって唇を滑らせる。 「やぁ…もぉ…」  由維は身体をよじらせるが、本気で嫌がっている様子ではない。調子に乗った奈子は、ブラジャーをずらしてその下の控え目な膨らみを舌でくすぐる。 「や、やあっ!」  抵抗が少し激しくなる。奈子も最初は冗談のつもりだったのだが、調子に乗っているうちに、だんだんその気になってしまった。 (このまま、最後までしちゃおっかな?)  ちらりとそんなことを考えた時。 「…なにやってんのっ! あんたはぁっっ!」  そんな声と同時に、目の中に火花が散った。  後頭部に強烈な衝撃を受け、一瞬意識が遠くなる。ちらりと、花畑の風景が見えたような気がした。 「う……ぐ…ぅ」  後頭部を押さえて身体を起こした奈子は、ソファの傍に立っている人物を見て絶句した。  それはぱっと見二十代後半〜三十歳くらいの女性。整った顔立ちで、やや気の強そうな美人だ。 「……っ!」 「み、美奈さん!」  奈子が何も言えずにいるうちに、由維が先に我に返った。真っ赤になって飛び起きる。 「か…母さん!」  血の気の引いた顔で、奈子はようやくそれだけを口にした。  そう、その女性の名は松宮美奈、奈子の実の母親だ。ただし世間一般では、芸名の「夏川」という姓の方が通りがいい。  ちなみに、年齢は不詳だ。娘相手にもサバを読むので、奈子も正確なところは知らない。三十代半ばくらいだとは思うが、外見はまだ二十代で通用する。高校生の娘がいるなんて、彼女のファンでも知らない人が多いだろう。由維も「おばさん」などと呼ぶと張り倒されるので、「美奈さん」と名前で呼んでいる。  美奈の職業は女優だった。日本では珍しく、アクションのできる本格派女優として知られている。まだ無名だった頃に出演した、香港のアクション映画がヒットして以来の人気女優だ。  学生時代に中国拳法を習っていたのが幸いした。奈子の格闘技好きな性格は、母親の影響に依るところが大きい。  美奈は腕を組んで、恐い顔をして二人を見下ろしていた。なまじ美人なだけに迫力がある。格闘技に関してはもちろん今の奈子の方が強いが、それでも美奈には頭が上がらない。『母親』というのは問答無用で強い存在なのだ。  そう考えると、今の状況はものすごくまずいかもしれない。なにしろ由維を押し倒して、服を脱がせているところだったのだから。二人が単なる幼なじみや友達以上の関係であることは、母親は知らないはずだった。 「まったく! ちょっと目を離すとこうなんだから!」  奈子を睨みつけてきつい口調で言う。 「他人様の娘さんに手を出して! それも無理やり! 最低ね、あんた!」 「いや…これは、その…」  しどろもどろに応える。いったいどう言い訳すればいいものやら、見当もつかない。身内で奈子と由維の関係を知っているのは、由維の姉の美咲だけだった。 「しかもベッドにも行かずにこんなところで! 昼間っから! だいたいあんた、ちゃんと避妊の用意はしてるの?」 「へ…? 避妊…?」  奈子は素っ頓狂な声を出す。何か論点がずれてはいないだろうか? 「やっぱり何も考えてないのね。由維ちゃんは結婚前の女の子、それもまだ中学生なのよ? 万が一のことがあったらどうするの!」  美奈は一方的にまくし立てる。 「…万が一って…あの、あ…アタシたち、女同士…なんだけど…?」 「へ…?」  今度は美奈がきょとんとする番だった。 「まさか、母さん…」 「は、ははは…。ほら、たまにしか顔を会わさないし…ねぇ?」  ジト目で睨む奈子を、笑って誤魔化そうとする。奈子は叫んだ。 「自分の子供の性別を、本気で忘れるなぁっっ!」  しかしそれで引き下がる美奈ではない。奈子以上の声で怒鳴り返してくる。職業柄、声量では向こうが上だ。 「なに言ってんの、あんたが悪いんじゃない! 女の子を襲うような『娘』なんて、持った憶えはないわっ!」  開き直って叫び、奈子の頭を拳で殴る。 「なにすんのよ! 痛いじゃない!」  奈子も負けじとやり返す。 「顔は殴らないでよ、あたし女優なんだから!」  そんな親子喧嘩の合間に、由維は慌てて服を直していた。  松宮家では、母親が帰ってきても食事の仕度は由維の仕事だった。美奈はお世辞にも料理が上手ではない。奈子よりはマシ、という程度だろうか。実をいうと、料理は父親の方が上手い。  で、由維がいつものように夕食の仕度をしている間、奈子と美奈は居間でテレビを見ていた。  野球中継である。ちなみに奈子はダイエーファンで、美奈は西武ファンだ。この二チームの対戦だとまた喧嘩が起きるので、チャンネルは巨人―阪神戦になっている。もっともこの場合、松井秀喜ファンの奈子と、高橋由伸ファンの美奈の間で、やっぱり喧嘩になるのだが。 「ところで奈子、あんた前よりも髪が黒くなったんじゃない?」  画面がCMに変わったところで、ふと思いついたように美奈が言った。 「え、そお?」  奈子は長い前髪を摘んで、目の前に持ってくる。焦げ茶色の髪は、特に変わったようには見えない。 「やっぱり、大きくなると母親に似てくるのかしら」  今は明るい色に染めてはいるが、美奈の髪は本来真っ黒だ。茶色味を帯びた奈子の髪は、父親の遺伝である。 「自分ではわかんないけどな。由維も何も言わないし」 「毎日見ていたら気付かないわよ。ところで由維ちゃんといえば…」  美奈は急に声を落とし、耳元でささやいた。 「あんた、由維ちゃんのことが好きなの? 恋愛対象として」 「え?」  奈子の声が裏返る。 「そ、それは…」  先刻うやむやに誤魔化したことを蒸し返されて、奈子は慌てた。なんと答えればいいのだろう。 「まあ、あんたの性格からして、同性を好きになるのも不思議じゃないけど」  美奈はあっさりと言う。そう簡単に納得されると、それはそれで悲しいものがある。 「…少しは驚いてくれたって」 「で、どうなの?」 「……」  何秒間か間を置いてから、奈子は心を決めた。自分に嘘をつくことはできない。 「…好きだよ。世界中で一番好き。いけない?」 「別に、悪いとは言わないけど」  美奈には驚いた様子もない。娘が同性愛者だと聞かされた母親が、こんなに冷静でいいのだろうか。 「由維のいない生活なんて、考えられないよ」  奈子は思い詰めた表情で言葉を続けた。  今となってはもう、由維と離ればなれになって生きていくことなど考えられない。それは友人、幼なじみ、恋人、姉妹、親子…それら全部を合わせたよりも強い絆。  水よりも空気よりも当たり前に、身近に存在するもの。存在しなければならないもの。  今ではもう、自分を誤魔化すことはできない。 「別に、同性愛が悪いとは思わないわ。ただ…」  美奈にだってそれはわかっていた。自分の娘にとって、あの可愛らしい幼なじみがどれほど大切な存在なのか。  奈子が小さい頃はともかく、ある程度大きくなってからは、仕事が忙しくてあまり構ってやることもできなかった。東京のマンションで生活する時間が長くなってからはなおさらだ。向こうで一緒に暮らそうと考えたこともあるが、奈子は頑として奏珠別を離れることを嫌がっていた。  兄弟でもいれば、また事情は違ったのかもしれないが、奈子は一人っ子だった。一人娘の相手をする時間も十分ではないのに、とても二人目を産み育てる時間的余裕などなかった。  その代わりとなったのが由維だ。  親友で、妹代わりで、時には母親代わりでさえある。  奈子が全面的に信頼し、甘えることのできる相手。  いつしか、単なる親友とか幼なじみなどという言葉で言い表せない関係になったとしても、むしろ当然のことだろう。  美奈から見れば、ここ一、二年で奈子はずいぶん変わった。本人は気付いていないかもしれないが、たまにしか顔を会わせない分よくわかる。  この一年で背もずいぶん伸びて、たくましくなって。だけど以前より、むしろ雰囲気は女らしさを増したような気がする。  そして、そういった外見のことだけではなくて、精神的な変化はもっと大きい。その変化に自分自身が戸惑って、不安定になっているようにも見える。  由維の存在が、そんな不安定な奈子の心を支えていた。精神の平衡を保つために。  去年くらいから、奈子が何か秘密を抱えていることにも美奈は気付いていた。由維だけが、その秘密を共有しているらしいことにも。  昨年の夏、奈子は一ヶ月近く失踪していた。その間どこで何をしていたのかについては、いまだに固く口を閉ざしているけれど。  だけど、由維がついている限りは大丈夫だろう、と。  美奈はそう思っていた。 「ただね…」  それでも美奈は、眉間にしわを寄せて言った。 「ただ、ひとつだけ言っておくけど、無理やり襲うのは止めなさいよね」 「だから…、あれは冗談だって!」 「冗談で襲うなんて、本気でするよりもっとたちが悪いわよ。ところであんた、彼氏はいないの?」 「いるわけないじゃん。アタシには由維がいるもの」 「でもあんた、もうバージンじゃないでしょ?」  突然の核心をついた台詞に、奈子は思わず固まった。うわずった声で訊き返す。 「ど、ど〜して? 由維が何か言った?」 「まさか、由維ちゃんは何も言わないわよ。でもね、いくら留守がちだからって、これでも母親なんだからね。子供が思っている以上に、親はよくわかっているものなのよ。あんたも親になればわかるわ」 「う…」  夕食の仕度を終えた由維が二人を呼びに来るまで、奈子は何も言えずに真っ赤になって俯いていた。 二章 殺意の女神  一面の、血の海だった。  そこは、王国時代の古い遺跡のひとつ。コルザ川上流域の、俗に『中原』と呼ばれる広い平野の外れにあり、トカイ・ラーナ教会が発掘を行っていた。  ただし、それについてはもう過去形で語るしかない。教会が発掘を再開するまでには、しばらく時間を必要とすることだろう。  今、そこは戦場だった。教会に属する騎士たちが『敵』と戦っている。形勢は、圧倒的に彼らに不利だった。たった一人を相手に、騎士たちは次々と倒れていく。  紅い輝きを放つ刃が閃く。  血飛沫が舞う。  攻撃魔法の閃光が交差する。  床には死体が折り重なり、紅い染みが広がってゆく。  そして――  死体を踏みつけて、鮮やかな金髪をなびかせた少女が立っていた。 「雑魚ばっかりかと思ったけど…」  ファージの声は妙に楽しそうだった。金色の瞳が、生き残った者たちを見回す。  二十人以上いたはずの騎士たちは、既に片手で数えられるまでに減っていた。しかしそれだけに、ここまで生き残った者はそれ相応の力を持っていた。 「なかなかやるじゃん」  彼女の打ち込みを辛うじて受けとめた騎士に向かって、ファージはいつものように残忍な笑みを浮かべた。どうやらこの男が、一番の使い手らしい。 「墓守の力は確かに恐ろしい、が…」  男も口元に微かな笑みを浮かべる。それは、まだ勝算のある表情だった。 「知っているぞ。ソレア・サハがいっしょにいない時、貴様の魔力はひどく制限される。もうカードも使い果たしたろう。決して勝てない闘いではない」 「ふん…」  ファージは鼻で笑う。 「ずいぶんと調べたみたいだけど、まだまだ認識不足だね」 「負け惜しみを」 「だと思うんなら…」  ファージの手から、紅い光の剣が消えた。傍らに落ちていた、両手用の長剣を拾って構える。脚を前後に大きく広げて、低い姿勢を取った。 「魔法なしで相手してやろ〜か?」 「思い上がるなっ!」  男はファージに斬りかかった。体格差を活かし、体重を乗せた剣を真上から振り下ろす。  魔力では確かに敵わないかもしれないが、剣での勝負なら事情は違う。こういう場合、下手な小細工はしない方がよい。自分の有利である、体格と力の差を最大限に利用すればいい。  そう考えての、力まかせの打ち込みだった。  ファージの剣がそれをまともに受けとめようとした…と見えたのだが、男はなんの手応えも感じなかった。  まるで、スルリとすり抜けたかのように。 「な…?」  いつの間にか、ファージは背後にいた。  男の腹から、ボタボタと血が落ちる。 「な…んで…いつの間に…」  男が倒れた。残った者たちは、みな一様に驚愕の表情を浮かべている。彼らの目にも、ファージの動きは捉えきれなかった。一見ゆっくりとした動きだったが、瞬きひとつする間に、相手の剣を受け流し、すれ違いざまに胴を薙ぐ…それだけのことをやってのけたのだ。  これまで、見たこともない剣技だった。 「見たことないでしょ?」  からかうような口調でファージが言う。 「これが、トリニアの騎士剣術だよ。見た目が地味で、私は好きじゃないんだけどね。竜騎士になるためには必修だったし」  それは、他国を圧倒したトリニアの剣技。大陸史上最強の竜騎士クレイン・ファ・トームによって編み出されたという。  本来ならば、ファージには不要の技だった。彼女は他を圧倒する、強大な『力』を持っているから。それに剣の技に頼っていては、いくらファージでも、あの「トリニアの剣姫」イルミールナには勝てなかっただろう。  それでも、子供の頃から教え込まれた技は、身体が憶えている。 「ま、たまには使わないと、錆びついちゃうし」  ファージは再び剣を構える。口元に凄惨な笑みを浮かべて。  勝負は一瞬だった。ファージの足が床を滑るように動く。  次の瞬間には、さらに三つの死体が増えていた。もう、ファージの他に生きている者はいない。 「さて…」  その光景を満足げに見回したファージは、床に落ちていた誰かの腕――ファージが切り落とした――を拾って壁に向かった。           * * *  隣で、男が青ざめた顔をしている。もともと血色のよくない顔だから、そうしているとまるで死人のようだ。  アルワライェ・ヌィは、怯え、狼狽えている壮年の男の顔を愉快そうに見ていた。男がまとっている法衣を見れば、その地位の高さがうかがえる。その割には小心者だな――と。  しかし、何十という死体が折り重なる光景を前にしては、アルワライェのように平然と笑っていられる者の方が少数派だろう。 「…なんということだ…全滅、か。これだけの兵がいながら?」 「当然だろう。相手を誰だと思っているんだい?」  応えるアルワライェの声音は、対称的に楽しそうだった。  そう、楽しかった。彼はこの状況を楽しんでいた。  強大な力を持つことを定められた生まれであるアルワライェにとって、敵対する国の騎士相手の戦いなど、退屈極まりないものだった。なんの苦労もなしに勝てる戦いには興味も湧かない。  だから、自分と渡り合える力を持つ敵の存在は、彼を興奮させた。嬉しそうに笑みを浮かべ、奥の壁を見る。微笑んだ口元から、白い歯が覗いた。 『次は、お前の番だ』  壁には大きく、そう書かれていた。  ただそれだけが書かれていた。  褐色がかった字で。  それは、酸化して変色した血の色だった。  誰が書いたのか。誰に宛てて書いたのか。考えるまでもない。 「ファーリッジ・ルゥ…、あいつを殺せば、今度こそ彼女と戦える。本気の、ナコ・ウェルと…」  どこか夢見るような表情で、アルワライェはつぶやいた。           * * *  奈子はもちろんそんな出来事を知らない。 「だから、目障りなのよ! なんでアタシの前に現れるわけっ?」  ソレアの家でいつものように、赤毛の大男をげしげしと足蹴にしていた。 「今日は、ファージに用があって来たのに…」 「ファーリッジ・ルゥがいたら、俺がここにいられるわけがないだろう?」  ファージを本気で怒らせていながら生きながらえている、大陸でも数少ない人間の一人であるエイシスは、意外と元気そうに身体を起こした。最近ようやく、ダメージの少ない殴られ方蹴られ方がわかってきた。 「ファージは留守にしているわ。今、ちょっと仕事が忙しくて…」  奈子とエイシスのやり取りはいつものこと…と、落ちついてお茶を飲んでいるソレアが説明する。 「仕事が…ね」  奈子は意味ありげにつぶやいた。  ソレアの表情から察するに、それは、墓守としての仕事。つまり、また誰かを殺しているということだ。 「ファージに用って?」 「それは…、えっと…後でね」  ちらりとエイシスの方を見て、奈子は言葉を濁した。それでソレアも、おおよそどんな用件か察したらしい。  今日、ファージに相談したかったこと――それは、由維をこちらへ連れてくることだった。  理論的は問題ないはずだったが、二人での転移に技術的な問題が起きないかどうか、詳しく訊いてみようと思っていたのだ。  しかし、ファージがいないのでは仕方がない。次の機会にしよう。 「それはともかく、今夜は泊まっていきなさいな。エイシスが、いいワインをたくさん持ってきてくれたのよ」  そんなソレアの誘いに、奈子は小さくうなずいた。 「…とは言ったものの、まさかこうなるとはね…」  数時間後――もう真夜中だ――いくらか赤い顔をしたソレアが、誰に言うともなしにつぶやいた。幾分、呆れたような表情で。 「エイシスはともかく、ナコちゃんが…ねぇ」  テーブルの上には、ワインの空き瓶が四本と、まだ半分くらい残っている瓶が一本置かれていた。ソレアが飲んだ分は一本の半分くらいだから、残り四本は奈子とエイシスで空けたことになる。  しかも二人は、まだ現在進行形で飲み続けていた。 「ナコちゃんがこんなザルだとは思わなかったわ」  ソレアは肩をすくめる。 「あなたたちに付き合ってると、こっちの身が持たないから。私は先に寝るわね」 「は〜い、お休み〜」  赤い顔をした奈子が陽気に手を振る。顔は真っ赤だが、まだまだ元気そうだ。 「…ソレアさんて、お酒弱いね〜」  自分の寝室へ引き上げるソレアの背中を見ながら、奈子はエイシスに向かって言った。 「女としては普通だろ。お前が飲み過ぎなんだよ」  エイシスが応える。こちらは、わずかに顔が赤くなっている程度でしかない。 「え〜、そんなことないよ〜? だってもう酔っぱらってるもん、アタシ」  それを証明するかのように、けらけらと笑いながら、エイシスの胸板をばんばんと叩いている。 「あ〜あ、由維もいればもっと楽しいのにな〜。早くこっちに連れてきたいなぁ」 「ユイってのは、誰だ?」 「んふふ〜、アタシの、こ・い・び・と。言ったことなかったっけ?」 「名前を聞くのは初めてだぞ。でも、なんだか女みたいな名前だな」 「だって女の子だも〜ん。ふたつ年下の、可愛い女の子。料理がすごく上手でね〜」 「…お前って、ホントにそっちの趣味だったのか?」  エイシスが目を丸くする。どことなく呆れたような表情で。 「ファーリッジ・ルゥと妙に仲がいいのは知ってたが…」 「ファージといえば…、ずいぶんとひどい目に遭ったそうじゃない?」 「お前のせいだろうが!」  エイシスの語気が荒くなる。  あれはつい先日のこと。奈子に手を出したことを知られて、半殺しの目にあった。しかもそれがフェイリアとリューリィにまでバレて、三人がかりで痛めつけられたのだ。 「アタシのせい? 自業自得でしょ」 「あれは、合意の上だったろ〜が!」 「そ〜かなぁ。かなり強引だった気もするけど」 「そんなことはないぞ」 「い〜じゃん。気持ちイイことするには、それなりの代償が必要ってこと」  奈子は、自分もさんざん感じていたことは棚に上げた。 「だからって、自分の命を引き替えにするのはちょっと…な」 「だったら、もうアタシとはしたくないんだ?」 「いや、それはしたいぞ」  即答する。当然である。 「じゃあ…する?」  言われたエイシスは、驚いて奈子の顔を見た。目を細めて笑っている様子は、なんとなく機嫌のいい猫を思わせる。 (こいつ…酔ってるな)  エイシスは、心の中でつぶやいた。  それは間違いない。しらふの奈子は、間違ってもエイシス相手にこんなことを言いはしない。 「どうしたの、黙っちゃって。したくないの?」  動きの止まったエイシスに、奈子の方から抱きついた。耳元に唇を寄せてささやく。 「そりゃあ…したい、が…」 「じゃあ、しよっか? でも、こんなとこファージに見られたら、今度こそ殺されるかもね」 「…せめて、命だけは助けるように口添えしてもらえんか?」 「命だけは…ね。うん、いいよ」  そう言いながら、唇を重ねる。自分から舌を絡める。  エイシスも心を決めて、奈子をソファに押し倒した。 「ダメ…ここじゃ。ソレアさんに聞こえちゃう」  早々と服の中にもぐり込んできた手を押さえて、悪戯な笑みを浮かべた。エイシスの首に腕を回す。 「…ベッドまで連れてって」  そうせがまれて、エイシスは軽々と奈子を抱き上げた。 (なんで、こんなコトになっちゃったかなぁ)  正直なところ、エイシスに負けず劣らず、奈子も戸惑っていた。 (酔ってるなぁ…アタシ)  知らず知らずのうちに、飲み過ぎてしまったらしい。気付いた時には、口が勝手にあんなことを言ってしまっていた。どうしてだろう。いつの間にか、そんな気になっていた。  やっぱり飲み過ぎだ。酔って気持ちよくなってくると、なんとなくエッチなことをしたくなってしまう。  過去にはそれで、由維や亜依を押し倒したこともある。ファージとだって、最初は酔った勢いだった。 (しかし、ここまで見境ない性格だったとは…)  わずかに残った理性が呆れている。 (アタシってば、やっぱりエッチなのかなぁ…)  残念ながら、否定はできそうにない。  エイシスのことが好きだなんて認める気はさらさらなかったが、彼とのセックスが気持ちよかったことは事実だ。  奈子は決して男性経験が豊富なわけではない。エイシスが二人目の男だった。  初めての時はひどく緊張していたし、痛かったしで、気持ちよかったかどうかなんて憶えてもいないが、エイシスに抱かれた時のことははっきりと憶えている。  すごく気持ちよかった。何度も何度もいかされてしまった。  頭の中が真っ白になるような感覚。  酔って理性を失った心が、火照った身体が、あの快感を求めている。 (う〜ん…、ま、いっか。いまさら反省しても手遅れだし…)  エイシスもすっかりその気になっているようだ。  今度からはあまり飲み過ぎないようにしよう、と決心して、とりあえず今夜は、このまま流されることにした。エイシスとは以前にも何度かしているのだし、別にいまさら、無理に拒む理由もない。  寝室へ入ると、エイシスは奈子を放り投げた。ベッドの上で身体が弾む。 「もぉ!」  乱暴な扱いに、奈子は唇をとがらせた。その台詞を無視して、エイシスの身体が覆いかぶさってくる。  二人の唇が重なる。ゆっくりと舌を絡め合う。お互いの味を確かめるように。  奈子は、エイシスの背中に腕を回した。たくましい、大きな身体だ。  エイシスは慣れた手つきで、奈子の服を脱がしていく。奈子は恥ずかしそうに身じろぎした。  大きな手が、奈子の胸を包み込んだ。力強い大きな掌が、奈子の胸を弄ぶ。 「は…ぁん…」  切なげな吐息が漏れる。  エイシスの唇が、少しずつ下へと滑っていく。  首筋から、胸へと。 「あ…はぁ…」  乳首を強く吸われると、無意識のうちに声が漏れる。  気持ちいい。身体中、すごく敏感になっている。どこを触られても、声を上げてしまいそうだ。 「あ…いっ…」  乳房に歯を立てられる。噛みながら、乳首の先端を舌先でくすぐっている。  そして少しずつ、噛む力が強くなっていく。 「や…い…痛ぃ…あぁっ!」  奈子が我慢できなくなるギリギリまできつく噛んで、急に力を抜いた。噛み切られそうな鋭い痛みが急に失せて、じんわりと痺れるような鈍い痛みが乳房全体に広がる。 「はぁ…あ…」  それは快感として受けとめられる、ギリギリの痛みだった。さすがにエイシスはその加減をよくわかっている。これまで、数え切れないほどの女性を相手にしてきた経験によるものだろうか。 「もぉ…もっと優しくしてよ…」  何度も胸に歯を立てるエイシスに向かって、奈子は拗ねたような声を出す。 「なに言ってんだ。感じてるくせに」 「うるさい、バカ!」  赤面して口をとがらせるが、あまり強いことは言えない。エイシスの言葉はまぎれもない事実だったから。  胸への執拗な愛撫だけで、すっかり感じてしまっている。太股をすりあわせると、溢れるほどに濡れているのを感じる。  奈子は、胸の上に置かれていたエイシスの手を掴むと、自分の下腹部へと導いた。 「…胸だけじゃヤ…指…入れて…」 「今日はずいぶんと積極的だな。どうしたんだ?」 「あぁっ!」  リクエストに応えて指を滑り込ませながら、エイシスが訊く。しかし奈子は応えない。いや、応えられない。  エイシスにしがみついて、切ない悲鳴を上げている。 「あぁ…あん…あん…あ…」  声を上げながら、自分で腰を動かしている。体内深くに挿入されたエイシスの指から、より強い快感を搾り取ろうとするかのように。 「いいっ…いいのぉ…あ…あぁ…」  本当に、今日はいったいどうしてしまったのだろう。  自分でもわからない。これまでなかったくらいに感じている。そして、身体がより強い刺激を求めている。 (溜まって…ンのかな)  ちらっと、そんなことを思った。  最後にエイシスとしたのは一月以上も前だし、ファージともしばらく機会がなかった。最近は毎日のように由維が泊まっていってるから、ひとりエッチもしていない。 (だからって…。アタシ、そんなにエッチなのかなぁ…)  あまり、認めたくはないけれど。 (ううん、今日は特別、お酒のせいよ。こんなの…ホントのアタシじゃない…)  お酒のせい、という言い訳が、奈子から最後の自制心を奪っていった。  自分から唇を重ね、貪るようなキスをする。  何度も、何度も。  本人に自覚はないかもしれないが、はっきり言って酔った奈子はキス魔だった。 「ねぇ…」  潤んだ瞳でエイシスを見上げ、それからもう一度しがみつくと、耳元でささやいた。 「もう、我慢できない…来て…ねぇ…」 「今日のナコは、すごくエッチだな」  楽しそうに言いながら、エイシスは手早く服を脱ぐ。 「…エッチな女の子は、嫌い?」 「嫌いなわけないだろ。いつもこうだといいのに」 「ダ〜メ。それじゃあ、ありがたみがないもん」  奈子は、裸になったエイシスに抱きついて、自分から身体をすり寄せる。エイシスの太い脚に自分の両脚を絡ませて、性器を擦り付けるように動かす。 「あ…ん」  切ない吐息が漏れる。 「…今日は酔ってるから特別なの。今日だけ特別。だから…今日はいっぱい…していいよ」  以前「一晩に五回もするなんて、ほとんどケダモノよね!」などと言ったのと、同じ口から発せられたとは信じがたい言葉だ。エイシスは小さく吹き出した。 「していいよ? いっぱいしてください、の間違いじゃないのか?」 「あ…あんっ!」  奈子の一番敏感な部分を、焦らすように指で弄びながら言う。 「はぁっ…あっ…やぁっ…焦らさないで…」 「どうなんだ?」  指が引き抜かれる。奈子は反射的にエイシスに抱きついた。 「して! いっぱい…いっぱい、うんと感じさせて!」 「よしよし、可愛い奴だ」  エイシスは軽く頭を撫でると、本格的に奈子の中へと入ってきた。  奈子の身体が仰け反る。 「ん……あ…あぁん……あ」  もう何度も経験しているのに、この、挿入時の感覚には慣れることがない。  どう表現したらいいのだろう。  鈍い痛み。膣口を乱暴に押し広げて、それは侵入してくる。苦しいくらいの圧迫感がある。  それでも、それが体内で動くたびに、快感が全身を貫く。 「ああっ、あぁっ、あーっ!」  頭の中が真っ白になる。  もう、何もわからない。  ただ、エイシスから与えられる快感を貪るように。  悲鳴のような喘ぎ声を上げて。  エイシスに、力一杯しがみついていた。背中に、爪を立てていたかもしれない。  そうやってしっかりと掴まっていないと、自分がどこにいるのかもわからなくなりそうだった。           * * * (あ〜あ…、またやっちゃったよぉ…)  翌朝、意識の戻った奈子は、目を開ける前に大きな溜息をついた。  隣に、大きな温もりを感じる。  昨夜のことは、思い出すのも恥ずかしい。いっそ憶えていなければいいのに。  困ったことに、途中まではしっかりと憶えていた。  自分から、積極的に誘ってしまって。  それも一度だけじゃない。あんなに激しく。何度も、何度も。  その途中から、記憶がなくなっている。失神してしまったのだろうか。 (…やりすぎたかなぁ)  少し、ヒリヒリする。 (やっぱり、飲み過ぎはよくないな…)  まるで、自制心が働かなくなってしまう。まだ十代なのだから、お酒を飲むのは控えないと。 「う…ン…」  伸びをしながら、目を開く。  そして、ベッドの傍らに立つ人影に気付いた。  最初に目に入ったのは、濃い金髪。  金色の瞳が、奈子を見下ろしていた。 「ファ、ファージ!」  奈子の叫び声に、エイシスの身体がビクッと震えた。慌てて身を起こす。 「今度、ナコに手を出したら、ただでは済まないって…言ったよね?」  静かで、それでいてひどく危険な声音だった。 「え…いや…これは…その…」  エイシスの全身から、冷や汗が吹き出す。 「そんなに、死にたいんだ」 「あ…いや…」  この危機的状況に、エイシスは奈子に助けを求めた。耳元でささやく。 「おい、なんとか言ってくれよ」 「…えっと」  奈子はちらりとエイシスを見て、それからファージに視線を移す。  …と、いきなりガバッとベッドに伏して、泣き真似をはじめた。 「エイシスってばひどいのよ! アタシに無理やりお酒を飲ませて、酔って抵抗できないのをいいことに…」 「ナコ! てめえ!」  エイシスの顔が青ざめる。これはとんでもない裏切りだ。 「一晩中あ〜んなことや、こ〜んなことを…」 「…そう」  ファージは半眼になってつぶやく。その手の中に、紅い光が生まれた。  それを見た奈子は、そそくさとベッドから脱出した。ついでに、下に落ちていた自分の服を拾う。  ファージの手の中の光は、長く伸びて剣の形となった。それは、血の色をした刃だった。 「仇はとってあげるからね、ナコ」 「ナコ! 憶えてろよ!」  エイシスの声は幾分震えていた。 「死ぃねぇぇっっ!」  ファージの叫び声とともに、爆発音が響く。  巻き込まれないうちに、奈子はさっさと寝室から逃げ出した。そのまま立ち去ろうとしたが、 「あ…忘れてた」  ふと思い直して部屋をのぞき込む。 「ファージ、あのさ…、死なない程度…にしておいてね」  それだけ言い残して、寝室を後にした。 「……約束は守ったからね、エイシス」  そう、小声でつぶやいて。  食堂では、ソレアがいつものように朝食の支度をしていた。寝室から断続的に響いてくる爆発音に顔をしかめている。 「ファージが来たのね」  席に着いた奈子に確認した。 「ん…」  ソレアの魔法ならば、壊れた家を直すのも容易なはずだ。が、家具に人一倍愛着を持っているソレアにとっては、あまり歓迎できる状況ではない。 「それにしても…」  言いながら、深皿にスープをよそって奈子の前に置く。笑いをこらえているような表情で、奈子の顔を見ながら。 「ナコちゃんって、ずいぶん激しいのねぇ。私の部屋まで聞こえてたわよ」 「え、うそっ?」  奈子とソレアの寝室は、かなり離れている。まさか、ソレアに聞こえるほどの大声を上げていたとは…。  奈子は、真っ赤になって俯いた。 三章 美しき戦士たち  それは、金曜の夜のこと。  北海道の秋は、夜になるとずいぶんと気温が下がる。それでも、掌にお互いの温もりを感じているので寒さは気にならない。  奈子と由維は夕食の後、奏珠別公園の展望台へと向かった。いよいよ、由維を連れて向こうへ行こうというのだ。  月の綺麗な、静かな夜だった。展望台への坂道は、エンマコオロギをはじめとする秋の虫たちの声だけが響いている。  小さな公園となった展望台は、奏珠別の街の夜景を見下ろせる場所なのだが、夜に人がいることはほとんどない。水銀灯の冷たい光が、周囲をぼんやりと照らしていた。 「なんだか、ドキドキしますね〜」 「それはいいんだけど…そのカッコは何?」  興奮気味の由維に向かって、奈子は呆れ顔で訊いた。  奈子はいつものように、ジーンズに薄手のブルゾンという姿。公園の茂みの陰で向こうの服に着替えるのが常だった。  それに対して由維の服装は…。  セーラー服、だった。  赤いミニスカートで一部男性に人気の、白岩学園中等部の制服だ。 「知らないんですか?」  自分の服装になんの疑問も持たない様子で由維が応える。 「女の子が主役の異世界乱入ファンタジーでは、学校の制服を着なければならないんですよ」 「誰が決めた、そんなこと」 「それに、セーラー服は女子中学生の戦闘服ですから」 「……ま、いいけど」  奈子は肩をすくめた。向こうへ着いたら、由維のサイズに合う服を買ってやらなければなるまい。 「じゃあ、行こっか?」  ポケットから、一枚のカードを取り出す。転移魔法のカードを。  由維はこくんとうなずいて、奈子に抱きついた。 「しっかり掴まってて」 「うん」 「シカルト トゥ シルカ…」  奈子の唇が、転移魔法の呪文を紡ぎ出す。手の中のカードが一瞬の閃光を放って消滅し、白い霧のような光が二人を包み込んだ。  呪文に呼応するかのように、光はどんどん強くなってゆく。           * * * 「…で、ここ、どこなんです?」  由維が訊いた。  もっともな質問だ。  しかし、それを訊きたいのは奈子も同じだ。  今回の目的地は、いつものようにソレアの家だった。それが一番確実に転移できる場所なのだ。  だが、いま二人がいるのは、大きな街の中だった。  ソレアの屋敷があるタルコプのような田舎町ではない。もっともっと大きな街。相当な都会だ。  奈子にも見覚えのない街並みだった。  マイカラスの王都も問題にならない大きな街。これに匹敵するほどの都会といえば、ハレイトンの王都か、トカイ・ラーナ教会の総本山があるトゥラシくらいしか行ったことはない。しかしこの街はそのどちらでもない。  気温は高めだ。かなり南の地方なのだろうか。 「…ゴメン、失敗したみたい」  奈子は素直にミスを認めた。  転移魔法はひどく繊細なものだ。ちょっとしたきっかけで、まったく違った場所へ移動してしまうことも珍しくない。特に奈子の場合は、最近少なくなったとはいえ、それでも五〜六回に一回は失敗してしまう。 「…今日は一日、この街で過ごすしかないか」  ファージやソレアならともかく、奈子の転移は何度も続けて行うことができない。少なくとも十数時間の間隔を置かねばならず、事実上一日一回と制限されているのだ。  明日までは、帰ることもできない。 「奈子先輩も初めての街なんでしょう? とりあえず、観光しよ」  由維が気楽にに言う。彼女にとってはタルコプだろうとそれ以外の街だろうと、物珍しい初めての土地に変わりはない。 「そうだね…」  奈子もうなずいた。実際のところ、他に選択肢はないのだ。  街の中は人通りが多い。  時折、由維のことを不思議そうに見る人もいる。なにしろセーラー服を着ているのだから当然のことだ。しかし、交易の盛んな街なのか、様々な人種、様々な衣装の人が歩いているので、心配したほどには目立っていないようだった。  二人で、街の中を歩き回る。街の名前すらわからないというのは困ったものだが、かといって通りすがりの人に「ここはなんて街ですか?」などと訊くのも不自然すぎる。適当に歩きながら、ヒントを探すしかないだろう。 「あれ、何かわかります?」  円形の建物を指差して、由維が訊いた。大きな建造物で、どことなく野球場に似ていなくもない。 「あれは…闘技場、じゃないかなぁ。ハレイトンの街で、似たような建物を見たことあるよ」 「闘技場? 古代ローマにあったような?」 「そう。もっとも、貴族の楽しみのために奴隷を闘わせるというよりは、もっと競技として完成されたものだけど」  奈子は以前、ファージに連れられてハレイトンの王都を訪れた時に、見たことがある。  闘技者は傭兵が多いらしい。勝者は少なからぬ賞金を得られるから、平時の稼ぎ場所としてはうってつけなのだろう。特に腕の立つ者は、正規軍の騎士に取り立てられることも珍しくない。  傭兵の他にも、若い騎士たちが腕試しとして参加することも多いという。だから、試合のレベルはかなり高い。古代ローマのような、凄惨な「見せ物」ではないようだ。とはいえ試合は賭けの対象にもなっていて、市民にとっては楽しい娯楽であるのだが。 「誰でも入れるんですか? ちょっと見てみたいなぁ」 「ハレイトンの闘技場は、誰でも入れたよ。ちょっと行ってみる?」  城内から歓声が聞こえてくるところを見ると、今も試合が行われているのだろう。二人は、闘技場へと入っていった。  野球場か陸上競技場にも似た、屋根のない円形の建物は、思っていたよりも広い。観客も一万人近くらい収容できそうだ。その客席はほぼ満員である。  二人が入った時、ちょうど試合が行われているところだった。観客たちが熱狂している。 「うわぁ、すごい! ねぇ、あれ! 女の人ですよ」  由維が興奮した声を上げる。  確かに、試合場で対峙している二人のうちの一方は、若い女性だった。両手に剣を持って、二刀流の使い手らしい。相手は見るからに力自慢といった、屈強な男だ。  それを見て、奈子も少し驚いた。女性の騎士がさほど珍しくないこの世界でも、傭兵や闘技場の闘士となれば話は別だ。  しかも、この女戦士が強い。自分よりもはるかに大きな男を圧倒している。  二人とも、赤い光の剣を持っている。といっても、ファージが使うような魔力が結晶した剣ではない。普通の剣に似た柄から、ややピンクがかった赤い光が伸びている。見た目はまるでライトセーバーだ。  それが、こうした試合で用いられる剣であることを奈子は知っていた。魔力に反応して熱と光を発する鉱物が柄の中に組み込まれていて、光の刃のように見えるのだが、それは実体を持っていない。  通常の攻撃魔法と比べても力が抑えられていて、よほどのことがなければ命を落とすようなことはない。もちろん、まともに当たれば怪我は免れないのだが。  奈子の世界でいえば、真剣ではなく木刀での闘いといったところだろうか。 「魔法も使っていいんですね」  飛び交う光の矢を見て、由維がつぶやく。 「当然でしょ」  この世界では当たり前のことだ。『戦士』や『魔術師』といった職業が定められているロールプレイングゲームとは違う。ここでは剣と魔法は独立したものではなく、二つが組み合わされて戦いの技術となっているのだ。  女戦士は、青白い光の魔法の矢を立て続けに放ち、相手の体勢を崩す。その一瞬の隙に間合いを詰め、剣を振った。  男は最初の打ち込みは辛うじて受けとめたものの、もう片方の剣に対応するのは間に合わなかった。  胴をまともに打たれる。  脚へもう一撃。  とどめに肩口めがけて、剣が袈裟斬りに振り下ろされる。  男が倒れ、歓声が場内を包み込んだ。  観客たちが口々に叫んでいる「エリシュエル」というのが彼女の名前なのだろう。すごい人気だ。  それも無理はない。年齢は、奈子よりも少し上だろうか。背格好は同じくらいで、なかなかの美人だ。目つきは鋭いが、クレインやダルジィに比べれば、いくらか少女らしい可憐さがある。  エリシュエルは軽く手を上げて観客の声援に応えると、何事もなかったかのような表情で引き上げてきた。  ちょうどその通路の横に、奈子と由維は立っていた。すぐ傍をエリシュエルが通り過ぎようとする。あれだけ激しい闘いの直後なのに、ほとんど汗もかいていない。 「カッコイイですね〜、クールな感じで。奈子先輩と、どっちが強いかな?」  由維は日本語で話しているのだから、言っていることがわかったわけではないだろうが、エリシュエルはぴたりと足を止めた。  真っ直ぐに、奈子の顔を見て。  こちらへやってくる。  近くで見ると、背は奈子よりもわずかに低いだろうか。細身なのはどちらも同じだが、胸が小さい分、向こうの方が小柄に見える。  それでも、全身から放つ気は相当なものだ。研ぎ澄まされた、鋭い刃物を思わせる雰囲気を持っている。  エリシュエルは鋭い目で、奈子を不躾にじろじろと見て言った。 「お前、名はなんという?」 「え…? 奈子…ナコ・ウェル」  奈子は戸惑いながらも応えた。エリシュエルの口元に、微かな笑みが浮かぶ。 「ナコ…か。では、ここで私と闘え」 「……は?」  いきなりのことで、一瞬なにを言われたのかわからなかった。傍らの由維が、奈子の服をくいくいと引っ張る。 「この人、なんて言ってるんですか?」 「なんか…私と闘えって、言ってるみたい」  そう通訳すると、たちまち由維が目を輝かせた。 「奈子先輩、この闘技場で闘うの? うわ〜カッコイイ! 私、応援しますね」 「ちょ、ちょっと由維…」 「まさか、逃げはしないでしょう? その銀環が飾りではないというのなら」  エリシュエルは、奈子の左手を指差した。手首に光る銀の腕輪は、マイカラス王国の騎士の証だ。 (あ…これのせいか…)  奈子は理解した。奈子が騎士であることに気付いて、腕試ししてみたくなったのだろうか。同世代の女騎士なんて、それほど多くはない。興味を惹かれるのもわかる。  奈子は、エリシュエルを見た。  強そうな相手だ。ファージやクレインのような正真正銘の竜騎士は別格としても、先ほどの闘いを見る限り、あの「マイカラスの戦姫」ダルジィにも匹敵するかもしれない。同世代の女子でこれほどの相手、そうそういないだろう。  闘ってみたい…正直なところ、奈子もそう思った。  突然のことなので戸惑いはしたが、結局のところ、奈子も闘うことが好きなのだ。 「いいよ、やってやろうじゃん」 「よし、話をつけてくる」  エリシュエルは、この闘技場の運営委員と思しき男たちのいる方へと歩いていった。  隣にいる由維が、妙にはしゃいでいる。意外なところで奈子の試合が観られて、嬉しいのだろう。 「奈子先輩、お金貸してくれません?」  いきなり、由維が言った。 「なぜ?」 「決まってるじゃないですか。奈子先輩に賭けるんですよ」  確かに、闘技場での試合はすべて賭けの対象になっている。 「あの人、すごい人気みたいだから、奈子先輩が勝てば大儲けですよ、きっと」 「あんたね…」  由維の要領のよさに呆れながらも、奈子は一掴みの金貨と銀貨を渡してやった。           * * * 『お集まりの皆さんに、素晴らしいお知らせがあります!』  闘技場の中心に進み出た初老の男性が、観客へ向かって大きな声で呼びかける。豊かな髭を蓄えたこの男が、闘技場の運営責任者であるという。  何千という観客の視線が集中する。 『予定されていた今日の試合はすべて終わりましたが、最後にもう一試合、特別試合を行います。この闘技場で不敗を誇る「戦場の舞姫」エリシュエル・ディンに、新たな挑戦者が現れました!』  その言葉に観客がどよめく。どうやら多くは、エリシュエルの試合が目当てで来ているらしい。それが一日に二試合も観られるということで、喜びの声が上がる。 『挑戦者は、はるかな東方の地マイカラスよりやって参りました。マイカラスといえば小国ながらも、トリニアの伝統を色濃く残す騎士団の強さは大陸中に知られております。今年になってからも、兵数にして五倍の敵を見事に撃ち破った精鋭揃い。  そのマイカラスの騎士団の中でもっとも年若い身でありながら、一、二を争う実力の持ち主。そして国王ハルトインカル・ウェル・アイサールの危機を何度も救ったマイカラスの若き英雄が、武者修行の旅の途中、このアルトゥルの地に立ち寄ったのであります!』  観客に与える効果を充分に計算して、男は一呼吸分の間を取る。 『ご紹介しましょう。マイカラスの美しき女豹! ナコ・ウェル・マツミヤ!』  奈子は思わず赤面する。  相当に脚色の入った紹介だ。彼は、奈子がマイカラスの騎士であることしか知らないはずなのに。しかし「騎士団の中でもっとも若い」「国王の危機を救った」という部分はあながち間違いでもない。  それに、この紹介のおかげで観客の盛り上がりはすごい。促されて闘技場に足を進めた奈子が、エリシュエルとさほど変わらない年齢の少女であったことも、観客たちを驚かせた。  奈子はかすかに肩をすくめる。  空手の全国大会の決勝だって、こんな熱狂的な盛り上がりを見せることはない。  まるで、プロレスのリングではないか。あの大げさな紹介は、多少面映ゆい。  とはいえ、向こうにも事情というものがあるのだろう。奈子の実力と実績が、エリシュエルに引けを取らないものであると観客に思わせなければ、賭けが成立しないのだから。  そのこととは別に、表情には出さなかったが、奈子もひとつ驚いていた。  今の男の台詞の中にあった「このアルトゥルの地」という言葉。  では、ここはアルトゥル王国なのだ。  早まったかな、と。ちらりと、そんなことを思った。  アルトゥル王国といえば、大陸南西部の広い地域を支配する大国だ。その軍事力は強大で、大陸中でも一、二を争う。兵の質も高いと聞いている。  奈子は以前、アルトゥル王国の赤旗将軍と名乗る男と闘ったことがあるが、確かに強かった。その時は無銘の剣の力で、なんとか切り抜けはしたが。  そんな国の闘技場で不敗を誇るというエリシュエルの実力も、生半可なものであるはずがない。「戦場の舞姫」という通り名を持つということは、闘技場だけではなく、実戦でも実績があるということだ。 (通り名といえば…)  先刻の「マイカラスの美しき女豹」というのには参った。由維が、この世界の言葉を理解できないのは幸いだった。聞かれていれば、しばらくはからかいのネタにされるだろう。 (…ま、とにかくやるしかないか)  そう、心を決める。  歓声がいっそう大きくなった。エリシュエルが場内に入ってきたのだ。  先ほどと同じく、両手に試合用の剣――魔光剣というのだそうだ――を持っている。  それは奈子も同じだ。向こうが用意してくれた何種類かの魔光剣の中から、やや短めのものを二振り選んだ。  奈子は滅多に長剣を使わない。使えなくはないが、空手の技が制限されるのが嫌なのだ。だから剣を相手にする場合、両手に大型の短剣を逆手に持つのが常だった。これなら、武器を持ったまま殴ることもできる。  二人は、十メートルほど離れて向き合った。真っ直ぐに見つめ合う。  エリシュエルは、静かな笑みを浮かべている。これから始まる闘いを待ち望んでいるかのように。  そう思った直後に気付いた。自分も、知らず知らずのうちに同じような笑みを浮かべているではないか。  なんだかんだいっても、闘うことが好きだ。 困った性格だけど…。  そんな自分は、嫌いじゃない。  奈子は、軽く息を吸い込んだ。魔光剣が輝きを増す。  立会人が手を上げる。「始め!」の声と共に、二人は同時に動いた。  大きく腕を振る。それぞれ、青白い光でできた魔法の矢を撃ち出す。  奈子は七本の矢を放射状に放った。一度広がった矢は、再び集まってエリシュエルを狙う。  それに対してエリシュエルは、五本の矢を扇状に放った。奈子の左右への動きを封じようというのだろう。  奈子は真っ直ぐに前へ出た。直撃コースにある矢を、防御結界を張ってまともに受けとめる。  エリシュエルは迫ってくる矢をぎりぎりまで引きつけて、一気に剣で薙ぎ払った。  その一瞬の隙に、奈子は間合いを詰める。  エリシュエルの剣が襲いかかる。奈子は左手の短剣で受けとめて、そのまま前に一歩踏み出す。  相手の剣は標準的なものよりもやや長めだから、奈子としては接近戦に持ち込みたい。それに、剣や魔法の間合いの内側に入り込めば、それは奈子にとって絶対的有利の距離だ。  エリシュエルが戸惑いの表情を浮かべる。奈子が、この世界の常識では有効な攻撃手段のない間合いまで入ってきたから。  拳を相手の腹に当てる。腰を落とし、全身の力を一点に集中して突き出す。  北原極闘流の奥義『衝』だ。  エリシュエルの身体が後ろに吹き飛ぶ。 (いや…浅い!)  傍目には、奈子の突きで飛ばされたように見えるが、それにしては手応えがなさ過ぎる。自分で後ろへ飛んだのだ。  徒手格闘が一般的ではないこの世界で、驚いた反射神経だ。  それでもダメージがまったくないということはないだろう。奈子は追撃しようとするが、エリシュエルは魔法でそれを牽制する。  目の前で放たれた魔法の矢を、奈子はサイドステップでかわす。同時に、こちらも魔法で反撃する。白い閃光が、相手の防御結界と衝突して弾ける。  エリシュエルが剣を構える。その打ち込みを受けとめながら、もう一方の剣を繰り出す。しかしその刃は、エリシュエルの長剣に阻まれる。  あれだけ長い剣を扱いながら、その速度は短剣を持つ奈子に引けを取らない。  魔光剣の光の刃がぶつかり合い、火花が散る。  立て続けに二撃、三撃。  エリシュエルの強烈な打ち込みに、奈子は必死に耐える。  下がるわけにはいかない。接近戦にこそ勝機があるのだ。  真横からの攻撃を、身を沈めてかわす。そのまま片足を軸に回転し、相手の脚を払った。いわゆる水面蹴りだ。  エリシュエルがバランスを崩した隙に踏み込んで、中段の回し蹴りを放つ。 「ぐぅっ!」  相手の動きが一瞬止まる。続けてローキックで脚を狙う。  それがまともに入った…と思った瞬間、奈子の身体が地面に転がった。左胸――鎖骨のすぐ下あたりに、強烈な衝撃を感じた。至近距離から強力な魔法を喰らったのだと気付いたのは、倒れてからのことだった。  攻撃に意識が集中するあまり、防御結界が疎かになっていたようだ。  倒れた奈子を、魔法の矢が追う。奈子は地面を転がってかわす。  その勢いを利用して、地面を蹴って跳び上がった。空中で奈子は、一度に撃てる限りの魔法の矢を放つ。  二十数本の矢の雨に、さすがのエリシュエルも追撃の手を止めて回避と防御に専念した。  その数秒間に、奈子は自分の身体をチェックする。  先刻の魔法はかなり痛かったが、それでも防御結界を破るまでにエネルギーの大半を費やしたらしく、痛みの割に外傷は大したことはない。ただ、まともに胸に当たったので一瞬息が止まった。 (さすがに、強いな…)  呼吸を整え、体勢を立て直す。  エリシュエルも剣を構え、今度は少しずつ間合いを詰めてくる。  お互いの呼吸を計り、時折小技で牽制を繰り返す。  三メートルくらいまで近付いたところで、一気に距離を詰めた。赤い光の刃同士がぶつかり合い、火花が散る。  普通の人間ならば目にもとまらない速度で、激しい剣戟が繰り広げられる。攻撃魔法を放つ余裕すらない。魔法は、防御結界に集中させる。  奈子は、徐々に押されつつあった。  剣同士の闘いではやはり不利だ。  奈子の専門はあくまでも徒手格闘である。素手の闘いならば打撃に限らず、投げでも関節でもこなすが、剣となると少し勝手が違う。  最近、暇を見てはファージや、あるいはマイカラスのケイウェリやダルジィに剣の手ほどきを受けてはいるが、エリシュエルのような一流を相手にしてはそうそう通じるものでもない。  それに、徒手格闘を前提として短剣を使っている奈子と、標準よりも長い剣を使うエリシュエルとでは、間合いからして違う。  奈子の闘い方のくせを憶えたのか、エリシュエルは必要以上に間合いを詰めなくなった。常に長剣ぎりぎりの間合いか、もっと距離を空けて魔法で攻撃してくる。  スピードでは向こうが上なのだから、遠距離の闘いに徹せられると打つ手がない。  これが、空手の大会ならば話は違う。軽量級チャンピオンの美夢のようにスピードで奈子を上まわる相手はいるが、向こうだって手足の届く距離に入ってこなければ攻撃できないのだから。  魔法の撃ち合いでも奈子は劣勢に立っていた。純粋な魔力の比較では奈子が勝るだろうが、魔法の技術や攻撃のコンビネーションの点ではまだまだ未熟だ。  今のところ、天性の格闘センスでなんとか持ちこたえている状態だった。 (くそ、苦しくなってきたな…)  奈子は小さく舌打ちする。こっちの世界での実戦も、これまで何度も体験してはいるが、こうしただだっ広い闘技場での一対一の闘いは、また勝手が違う。  一度、エリシュエルが離れた。遠距離から、立て続けに魔法を放つ。直線曲線、様々な軌道を描いた光線が襲いかかってくる。  横に跳んでかわそうとした奈子の足元で、小さな爆発が起こった。足を取られてバランスを崩す。  奈子は地面を転がって、続く魔法の矢を避けた。機銃掃射のように、次々と青色の光が地面に突き刺さる。 (ちっ、こうなったら…)  一瞬の隙に地面を蹴って立ち上がると、奈子はそこで動きを止めた。  防御結界に、すべての力をそそぎ込む。  避けもせず、反撃もせず、ただエリシュエルの攻撃にタイミングを合わせ、意識を集中して防御に徹する。  次々と飛来するエリシュエルの魔法は、防御結界を破ることはできなかった。  守りだけに集中していれば、この程度の小技は怖くない。魔力だけなら、奈子の力はエリシュエルを凌駕する。  こうなれば、エリシュエルの行動も大きく制限される。攻撃後に大きな隙ができることを覚悟の上で、強力な攻撃魔法を使用するか、それとも接近して剣でとどめを刺すか。  エリシュエルは後者を選んだ。  対魔法用の防御結界では、試合用の魔光剣とはいえ、剣での攻撃を完全に防ぐことはできないのだ。  時折、魔法を放って奈子の動きを牽制しながら、間合いを詰めてくる。  奈子は、慎重にその距離とタイミングを計っていた。  五メートル、三メートル、二メートル…。  エリシュエルの剣が動くのと同時に、奈子は力を解放した。  最大限まで強度を上げた防御結界を構成していた魔力を、そのまま、狙いもなにもなしに放出する。  エネルギーを一点に集中させた攻撃魔法に比べれば、相手に与えるダメージは微々たるものだ。それでも、魔力の強さだけなら桁外れの奈子にとっては、これはこれで有効な攻撃手段になる。少なくとも、相手の体勢を崩して隙を作るには充分だ。  狙い通り、エリシュエルは放出された魔力の奔流をまともに浴びて、大きくバランスを崩した。そこに奈子が飛び込む。  右の手刀で相手の手首を打ち、剣を落とさせる。同時に、顎を狙った下からの掌打。続けて腹への膝蹴りへと技をつなぐ。 「このっ!」  エリシュエルが叫ぶ。  相手を掴んで顔面への膝でとどめを刺そうとした奈子の身体が、突然炎に包まれた。  奈子は慌てて後ろに飛び退く。大丈夫、燃え移ってはいない。  距離が空いたところで、二人の動きが止まった。  二人とも、肩で息をしている。  お互い油断なく、相手の次の出方を探る。  …と突然、試合場に銅鑼の音が響き渡った。 「…あ!」  二人は同時に顔を上げる。  それは、時間切れの合図だった。           * * *  夜空に、三つの月がかかっている。  それぞれ少しずつ大きさの異なる、三つの月。 「こんな光景を見ると、ホントに異世界なんだな〜って実感しますね」  窓から身体を乗り出して空を見上げていた由維が、うっとりとつぶやく。 「初めて見た時は、死ぬほど驚いたけどね」  奈子が応える。一年ちょっと前、初めてこの世界へ迷い込んだときのことを思い出していた。見知らぬ土地に迷い込んだ奈子は、夜空に輝く三つの月を見て、パニックに陥ったものだ。  ここは街の中にある、比較的上等な宿だった。地方からやって来た騎士や、裕福な商人がよく利用するらしい。  本来なら、いくらマイカラスの騎士とはいえ、奈子のような小娘が泊まれるところではない。しかし、闘技場でエリシュエルと好勝負を繰り広げたことが主人の耳にも入っていたらしく、大層な歓迎ぶりだった。  二間続きの上等な部屋に、素晴らしい食事。  もちろん宿代も安くはないのだが、今夜は由維のおごりだ。  熱戦を終えて、疲れ切った奈子が戻った時、由維は妙にご機嫌だった。  奈子が渡した額の、何倍もの金貨が詰まった袋の口を開いて、得意そうに見せる。 「…あんた、どうしたの、これ?」  そういえば、奈子とエリシュエルの勝負で、奈子に賭けると言っていた。  よくよく考えてみれば、由維はこちらの言葉を話せない。まあ、要領のいい由維のことだから、言葉が通じなくても身振り手振りでなんとかなったのかもしれないが。  とはいえ、試合は引き分けだったのにこれはどうしたことだろう。 「えへへ…」  由維がほんの少しだけ、気まずそうな笑みを浮かべた。 「引き分けに賭けた人って、ほとんどいなかったらしいんですよ。おかげで大儲け」 「引き分け? どうして? アタシの応援してたんじゃないの?」 「そりゃあ応援はしてましたけどね、それとこれとはまた別問題。奈子先輩は確かに強いけど、あの人もすごく強そうだし、ここは相手の土俵だし、簡単には勝てないかな〜って。でも、奈子先輩が負けるとも思えなかったんで、だから引き分け。掛け率もよかったし」  確かに、ああいった闘技場での勝負が、引き分けで終わることは極めて珍しい。  賭けは圧倒的にエリシュエルの人気だっただろうが、それだけに大穴狙いで奈子に賭けた客もいることだろう。しかし、あの状況下で引き分けに賭ける酔狂な客はそうそういまい。 「儲かったから、今夜はなにか美味しいもの食べましょうよ。私、おごりますよ」 「元手はアタシの金じゃん」  正確に言えば、それはファージにもらったものなのだが。  とまあ、試合の後、そんなことがあったのだ。で、闘技場の偉い人をつかまえて宿を紹介してもらったというわけである。  それにしても、由維の要領のよさには呆れてしまう。  万が一、こっちに一人で置き去りにされても、こいつなら平気かも…と。  ちらりと、そんなことを考えた。           * * *  そんなことがあってから一週間後。  二人は、また一緒にこちらへ来ていた。 「あんまり、こんなこと言いたくないんですけどぉ…」  由維の視線が痛い。 「…なに?」  何気ない調子で応える奈子のこめかみを、一筋の冷や汗が流れ落ちる。 「ひょっとして奈子先輩って、すごく、魔法が…ヘタ?」  普通なら面と向かっては言いにくいことを、きっぱりと言うあたりが由維らしいといえばらしい。  しかし、奈子は何も言い返せなかった。  言い返せるわけがない。 「…で、ここ、どこなんです?」  由維は、一週間前と同じ台詞を口にした。 「…さあ」  奈子は肩をすくめる。  やっぱり、奈子の方がそれを訊きたかった。  先週はアルトゥル王国で一泊して帰った。で、祝日も含めて三連休の今週、今度こそソレアの家へ行こうとしたのだ。  その結果は…  また、見知らぬ街だった。  由維の口調が、やや軽蔑を含んだものであったとしても仕方がない。  確かに奈子は転移が下手だが、二連続で失敗などというのは珍しい。  やっぱり二人一緒ということで、いつもとは加減が違うのか。あるいは、由維に抱きつかれているから精神集中が乱れているのか。 「いや、まあ…。また、知らない街を観光できると思えばいいじゃない」 「タルコプだって、私にとっては知らない街ですよ」  由維が口を尖らせる。早くソレアに会いたがっているのだ。  なにしろ今の状態では、由維はこちらの言葉をろくに話せないから、不自由で仕方がない。奈子が初めてファージと出会った時と同じように、魔法の力で、アイクル語を話せるようにしてもらおうと思っているのだ。  あれはかけられる側にとっては泣くほど痛い魔法だが、ソレアならファージほど乱暴にはしないだろう。後で聞いたところでは、ファージのように一瞬でやろうとせずに、少し時間――といってもせいぜい数分間なのだが――をかければ、ほとんど痛みはないということだった。 「奈子先輩はいいかもしれないけど、私は不便なんですよ、いろいろと」 「まあ、来てしまったものは仕方ないじゃん。明日までは戻れないんだし…」  そんなわけで二人は当てもなく、街の中をうろついていた。  ここも、相当に大きな街だ。  建物の大きさや洗練度ではアルトゥルの王都の方が上だろうが、人の多さや賑やかさという点ではこちらに軍配が上がる。  近くに大きな川が流れているのだろうか。街の中にも無数の運河が走り、荷物を山と積んだ艀が浮かんでいる。 「ところで、お腹空きません?」  しばらく街の中を見て回ったところで、由維が訊いてきた。 「ん〜、そうだね」  太陽の位置からすると、こちらでは午後二〜三時といったところだろうか。しかし、朝に家を出てきた奈子たちにとっては、そろそろ昼食の時間だ。 「そこのお店なんて、どうです?」  由維が、近くにある小さな宿を指差した。こういった宿の例に漏れず、一階は酒場を兼ねた食堂になっている。  ちらりと覗いてみると、食事には中途半端な時刻だというのに、客は意外と多い。このあたりでは人気の店なのかもしれない。 「これだけ人気があるってことは、きっと美味しいんですよ」  そう言って、由維が先に入口をくぐる。奈子も後に続いた。  こぢんまりとした店だ。雰囲気は悪くないが、壁や柱のあちこちに、剣で斬りつけたと思しき傷跡が残っている。まあ、こういった店では酔って喧嘩する客も多いのだろうと、特に気にもせず空いている席に着いた。  すぐに、奈子より一つ二つくらい年上の少女が注文を取りに来る。この宿の娘だろうか。薄いそばかすのある可愛らしい顔で、以前記憶喪失になった時に世話になった、ウェンタラの村のチャイカに少し雰囲気が似ていた。 (そういえば、あれから会ってないな…。今度、行ってみようか)  自力でたどり着くのは難しいだろうが、ソレアかファージに頼めば連れていってもらえるだろう。  そんなことを考えながら、おすすめの料理をいくつか注文した。運ばれてきた料理は、おすすめだけにどれも美味しい。  そろそろ食べ終わるかという頃、一瞬、店の中がざわめいた。  店内の男たちが皆、嬉しそうに入口を見ている。ちょうど、一人の少女が店に入ってきたところだった。 「う…わぁ…、綺麗な人…」  入口に背を向けて座っていた奈子は、そんな由維のつぶやきに後ろを振り返った。  思わず、息を呑む。  男たちが騒ぐのも、由維が見とれているのももっともだ。そのくらい、美しい少女だった。  歳の頃は奈子と同じくらいだろう。美しい金髪を腰まで伸ばし、瞳は深い緑。そして肌は透き通るように白い。  一瞬、どこのお姫様かと思ったが、着ているものはこの街で普通に見かける街娘のものだ。買い物でもしてきたのか、野菜や肉の入った大きなかごを抱えて、まぶしいくらいの笑顔を見せている。 「はぁ…」  思わずため息が出る。こんな、裏通りの宿にいるような娘には見えない。  料理を運んで厨房から出てきた先刻のそばかすの少女が、その美少女に気付いて明るい声で言った。 「あら、お帰りなさい、リュー」 「――っっっっ!」  奈子は、思わず口の中のものを吹き出すところだった。慌てて口を押さえる。  一瞬で、疑問が氷解した。  あの美少女は何者なのか。  ここはなんという街なのか。  同時に、額から汗が噴き出す。 「どうしたんですか?」  奈子の不審な行動に、由維が首を傾げる。 「…な、なんでもない。早く食べて、出よう。お、大きな街だし、急がないと今日中に全部見て回れないよ」 「私、デザートも食べたいんだけどな〜」 「そんなの後でいいっしょ。さ、早く」  大慌てで由維を急かす。  まずい。  なんだかよくわからないけれど、非常にまずい。  そんな気がした。  彼女に、こちらの正体を知られてはならない、と。  まったく、なんという偶然だろう。転移のミスで訪れた街で、たまたま食事に入った店で、彼女に会うなんて。  この街は、大陸西部にある、交易で栄える自治都市ハシュハルドだ。  彼女は、リューリィ・リン・セイシェルに違いない。  ハシュハルド一と評判の美少女。  そして――  あのエイシスの恋人だ。  別に、奈子が負い目を感じる必要はないはずだったが、ついこの間エイシスとあんなことをした直後にリューリィに会うというのは、あまりにも気まずい。  これまで直接会ったことはなかったが、フェイリアやエイシス、あるいはファージから話は聞いている。彼女も結構嫉妬深く、怒らせると怖い性格らしい。  悪いのは主にエイシスとはいえ、リューリィの立場から見れば、奈子もエイシスの浮気相手の一人ということになる。そうと知ったリューリィがどんな反応を示すか、試してみる勇気はなかった。  状況が飲み込めずに首を傾げている由維を引っ張るようにして、奈子は早々に店を出た。  通りを一本越えたところで、ふぅっと大きく安堵の息をつく。 「いったい、どうしたんですか?」 「この街…」  奈子は絞り出すように言った。 「…ハシュハルド、だ」  その一言で、由維も事情を察したようだ。 「てことは、あの綺麗な人が例の、リューリィ・リン?」 「…だろうね」 「ふぅん…」  意地の悪い笑みを浮かべて言った。 「それで、慌てて逃げ出したんだ? そりゃそ〜よね〜。愛人が本妻と出くわしたら、気まずいですもんね〜」  由維の顔は笑っているが、言葉の端々には棘がある。 「誰が愛人よ! あんた、やっぱりエイシスとのこと怒ってるっしょ?」 「別にぃ。怒ってなんかいませんよ〜?」 「やっぱり怒ってるじゃん」 「怒ってませんよ〜、だ!」 「ウソ、怒ってる。何度も謝ったじゃん!」 「だから、怒ってませんって!」  痴話喧嘩のような…というか、痴話喧嘩以外のなにものでもない言い合いを続けながら、二人は通りを歩いていく。  ――と。 「…あれ?」 「む…?」  ちょうどすれ違った、一人の男と目が合った。  やや痩せ気味のその男の顔、どこかで見覚えがある。  向こうも同じ印象を受けたのか、奈子の顔をじっと見ている。  誰だろう。  見たところ、職業は傭兵のようだ。ハシュハルドのような交易の盛んな都市では、隊商の護衛を務める傭兵の姿も珍しくないという。  しかし、奈子の知り合いで傭兵といえばあのエイシスくらいしかないし、この男の姿はエイシスとは似ても似つかない。  背は人並みでやや痩せ気味、それでも弱々しい印象を受けないのは、その鋭い目のせいだろうか。獲物を狙う猛禽のような、隙のない目つきだった。  腰にはやや細身の、長い剣を差している。 (誰だっけ…。でも、ハシュハルドで会う可能性のある知り合いなんて…リューリィと、エイシスと、フェイリアと…。ん? フェイリア…?)  フェイリア・ルゥ。それが、答えを引き出すキーワードだった。 「あ、ああぁ〜っっ!」 「き、貴様は…!」  思わず、相手を指差して叫んでしまった。  向こうも同時に思い出したらしい。 「確か、ナコ・ウエルとかいったな…? マイカラスの!」 「あんたは…」  奈子はそこで口ごもった。  男を指差したまま、ぱくぱくと口を動かす。 「…名前、憶えてないんですね?」  由維が鋭く指摘する。 「貴様ぁっ! さてはこの私のことを忘れたな?」  この、妙にプライドの高そうな口調には覚えがあるのだが。 「えっとぉ…テムジンじゃなくって、ライデンでもなくって…」  もう一息で正解にたどり着きそうなのに、それが出てこなくてもどかしい。 「ひょっとして、サイファーって言いたいんですか?」  由維が突っ込む。 「…っ! そう、サイファー・ディンだ! アルトゥル王国の!」  ようやく思い出した。  サイファー・ディン・セイルガート。  年齢は二十代半ばくらいだが、アルトゥル王国の赤旗将軍とやらの肩書きを持っていて、なかなかの凄腕だ。  サイファーと出会ったのは…そう、奈子が初めて聖跡を訪れた頃だった。  聖跡の発掘を目論むアルトゥル王国は、聖跡からの生還者であるフェイリアを追っていたのだ。  奈子はその時たまたまフェイリアの側についていたので、この男と刃を交えることになった。あの時はひどい傷を負わされたが、レイナの剣のおかげで奈子の優勢勝ち、といったところだろうか。  その後、聖跡でクレインに半死半生の重傷を負わされいたところを助けてやったりもした。  会ったのは、その二度きりだ。  それにしても、どうしてこの男がこの街にいるのだろう。  第一、この傭兵まがいの服装は…。 「どしたの、その格好。まさか、騎士を首になった?」 「そんなわけあるかぁっ! これは任務で、ちょっと変装を…あ!」  サイファーが慌てて口を押さえる。つまり、言ってはいけないことを口走ってしまった、というわけだ。 「変装…?」  奈子の目が嶮しくなる。  そういえば、フェイリアを追っていた時も、部下に野盗の変装をさせていた。 「また、何か悪巧みでもしてるの? アルトゥル王国の騎士が、変装してハシュハルドに潜入しているなんて、穏やかじゃないよね?」  アルトゥル王国は六〜七年前に一度、ハシュハルドに攻め込もうとしたことがある。ハシュハルドは自治都市だが、交易で栄える豊かなこの地を狙う国は多い。  その時、この街を護ったのは…。 「なんですって? アルトゥルの騎士っ?」  不意に、背後からそんな声が聞こえた。  奈子とサイファーの間に、一人の少女が飛び込んでくる。 「ハシュハルドに何の用? あなたたち、またこの街を狙っているの?」  長い金髪をなびかせて、凛とした口調で少女が問う。手に持った長剣を、サイファーに突きつけて。 「リューリィ…」  彼女は、鋭い瞳でサイファーを睨んでいた。リューリィは奈子よりも小柄だが、なまじ綺麗な顔をしているだけに迫力がある。  全身から、怒りのオーラを発していた。 (そういえば…)  ふと、奈子は思い出した。  リューリィは、幼い頃に故郷の村を戦争で失っている。そして、アルトゥル王国の前回のハシュハルド侵攻は、彼女がこの街に来てまだ間もない頃のことだった。  その時リューリィは、泣きながらエイシスに懇願したのだ。  この街を護ってくれ、と。  もう、戦争で大切な人が死ぬのは嫌だから、と。  そんな彼女が、街中でアルトゥル王国の騎士を見かけて冷静でいられるわけがない。 「いったい何が目的? 返答次第では、ただでは済まないわよ!」  剣を突きつけて、リューリィは叫んだ。  サイファーの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。まるで、この状況を面白がっているかのように。 「綺麗な顔して、威勢のいいお嬢さんだ。だが、騎士に喧嘩を売るにはちと力不足ではないかな?」 「そんなの、やってみなきゃわからないでしょう!」 「やめなさい、リューリィ!」  思わず、奈子は叫んでいた。  このままでは、リューリィが危ない。  リューリィが一応剣を使えることは、フェイリアやエイシスに聞いて知っている。若い頃は名の知られた傭兵だったという、養父の手ほどきらしい。  そして、フェイリア直伝の精霊魔法の使い手でもある。その実力は十六、七歳の少女としては大したものだろう。  そう、それはあくまでも「女の子としては大したもの」というレベルでしかない。  奈子やダルジィとは違う。  並の剣士相手ならともかく、一流の騎士相手に通じるとは思えない。  そしてサイファーは、間違いなく、戦闘技術に関しては超一流だった。  クレインやファージのような規格外は別としても、エイシスやマイカラスのケイウェリ・ライを相手に、互角の闘いができそうだ。  しかしリューリィでは、そこまでの相手の力量を読みとることはできない。あるいは、わかっているのかもしれないが、頭に血の上った今のリューリィでは冷静な判断は下せない。  サイファーは、確かに一流の騎士だった。  任務となれば、決して私情は挟まない。相手が女の子であろうと、必要があれば容赦なく斬るだろう。  その右手が、剣の柄にかかる。居合いは彼の得意技のひとつだ。  リューリィにかわせるとは思えない。 「ちょっと、止めなさいよ」  奈子は仕方なく、リューリィを背中に庇うようにして二人の間に割り込んだ。リューリィが傷つけられるのを、みすみす見逃すわけにはいくまい。 「邪魔するんじゃないわよ!」 「いいから、あんたは下がってなさい」  前に出ようとするリューリィを、無理やり押しとどめる。  片手は、腰の短剣をいつでも抜けるようにしておく。 「…本当に、あんたたちはハシュハルドを狙っているの?」  油断なくサイファーの動きを注視しながら、奈子は問う。 「近隣で、この街を狙っていない国などないだろう」  サイファーは当たり前のように言った。 「やっぱり…」  リューリィがつぶやく。 「もっとも、今すぐどうこうしようというわけじゃない。私たちは…な」 「どういう意味よ?」  今度は奈子が訊く。 「…お前にもまったく関係のない話でもないな、教えてやろう。トカイ・ラーナ教会が、ハシュハルドに手を出そうとしている」 「トカイ・ラーナ教会がっ?」  思わず大声を上げた。  ハシュハルドよりももう少し東の、中原と呼ばれる地方を支配するトカイ・ラーナ教会。それは奈子にとって宿敵といってもいい。  殺しても収まらないほどに憎い、あの赤毛の姉弟の顔が浮かぶ。 「これ以上、あの連中に勢力を伸ばされては困る。そこで、様子を探りに来たわけだ」 「本当に、あの連中が…?」 「まだはっきりしたところはわからん。この街で教会の下っ端は何人か見かけたが、その程度ならいつものことだ。アルワライェ・ヌィはまだアルンシルにいるというし、今すぐ動くつもりはないのかも知れん」 「…どうして、そう簡単に教えてくれるの? 何か企んでいるんじゃないの?」  そう訊いたのはリューリィだ。 「その様子からして、貴様ら、教会の動きも妨害してくれるんだろう?」  サイファーが笑って応える。  確かにその通りだ。  リューリィも、彼女の養父のウェイズも、この街ではかなり顔が利く。このことが知れ渡れってハシュハルドが守りを固めれば、教会も簡単には動けなくなるだろう。  そこまでは納得できたが、奈子にはもう一つ疑問があった。 「先刻、アタシにもまったく関係のない話ではないって言ったよね? どうして?」  まさか奈子と、アルワライェやアィアリスとの間にあったことを知っているとは思えないが。 「今さらなに言ってる。貴様、マイカラスの騎士だろう?」  くだらないことを訊くな、とでも言いたげな口調だった。 「教会がマイカラスに食指を動かしていることなど、周知の事実だぞ」  なるほど。数ヶ月前の、サラート王国のマイカラス侵攻も、背後で手を引いていたのはトカイ・ラーナ教会だ。そのことを言っているのだろう。  奈子のこと、墓守のことを知られているわけではないとわかって少しほっとする。 「まあ、油断はしないことだ。ハシュハルドが教会の手に渡ると、こちらとしてもひどく困ったことになる」 「勝手な都合だね」 「お互い様だ。情報を教えてやったのだから、感謝して欲しいものだな」  剣の柄にかけていた手を外すと、サイファーは奈子たちに背を向けて歩き出した。一瞬、リューリィが追おうとしたが、奈子はそれを制する。 「あ、そういえば…」  ふと、思いついたことがある。奈子はサイファーの背中に向かって呼びかけた。 「あんた、エリシュエルって女のこと知らない?」  ぴくりと、サイファーが立ち止まる。ゆっくりと振り返った。 「何故、その名を?」  やっぱり知っていたのか、と奈子はうなずく。  同じ国の騎士で、どちらも一流の腕を持つ者同士。知っていて当然だろう。  それに…。 「この間、会ったよ。アルトゥルの闘技場で」  そう言うと、サイファーは何故か顔をしかめて小さく舌打ちした。 「あいつめ…私が国を離れているのをいいことに、またそんなことやっていたのか。まったく、セイルガート家の娘としての自覚が足りん!」 「…え? まさか…」  自分から訊いたことなのに、奈子も驚いた。予想以上の答えだった。 「エリシュエルは、私の妹だ」 「…なんと、まあ…」  ひょっとして部下とか、親戚とかの近い関係ではと思ったが、まさか兄妹とは。  道理で、どこかで見たような闘い方だと思った。スピードを生かして多彩な攻撃をしかけるエリシュエルの戦法は、以前闘ったサイファーにそっくりなのだ。 「あんたさぁ…、妹にアタシのこと、話したことある?」 「そういえば、そんな話もしたかな」 「それでか…」  それで納得がいく。  いくら奈子が騎士とはいえ、ただ試合を見物していただけの見ず知らずの相手に勝負を挑むなんて、何かおかしいと思っていた。  向こうは、奈子のことを知っていたのだ。  そういえば彼女がちょうど横を通り過ぎた時、由維が奈子の名を呼んでいた。「ナコ」という固有名詞の発音は、日本語でもアルトゥル語でも変わらない。  あの大会役員が妙に奈子のことに詳しかったのも、エリシュエルが自分の知っていることを伝えたからだろう。観客を盛り上げるためのでまかせではなかったのだ。 「闘技場で会ったということは、まさか、あいつと闘ったのか? どっちが勝った?」  サイファーが訊く。  妹が闘技場で闘っていることを快く思っていなくても、やはり興味があるらしい。好奇心に満ちた笑みを浮かべている。 「時間切れ引き分け。強いよ、あいつ」 「そりゃあそうだ。エルは小さな頃から私が鍛えたんだからな」  そう言うサイファーの顔は、なんだか得意そうだった。 (意外とこいつ…シスコン?)  なんとなく、そんな気がした。 「…妹に会ったら、よろしく。今度は勝つ、って言っといて」 「エルもきっと、同じことを思ってるさ」  片手を軽く上げて、サイファーは去っていく。  その背中を見ながら、奈子は考えていた。 (トカイ・ラーナ教会が、ハシュハルドに…? 今すぐ攻め込んでくるわけじゃないにしても、気を付けた方がいいな…。今度ファージやソレアさんに会ったら、忘れずに伝えないと。いや、フェイリアの方がいいかな?) 「…奈子先輩、奈子先輩」  シリアスに考え込んでいる奈子の服を、由維が引っ張る。 「何よ、人がシリアスに決めてるのに」 「大事なこと、忘れてますよ?」  指差す方向に、恐い顔をした美少女が立っていた。奈子を睨んでいる。  そういえば、この問題が残っていた。  そもそも、どうしてリューリィがこの場に現れたのか。それは考えるまでもない。  会うのは初めてでも、向こうも奈子の存在を知っているのだ。  食堂での不審な行動。左手に填めた騎士の腕輪。「もしかしたら…」と思わせる材料には事欠かない。  奈子のことを追ってきたのだろう。 「あ…え〜と…」  どう見ても友好的とはいえない表情だ。無言でこちらを睨めつけている。  怒っている顔さえ魅力的なあたりは、さすがハシュハルド一の美姫というべきだろうか。 「じゃ、ま、そゆことで…」  奈子は笑って誤魔化すと、由維の手を引いて立ち去ろうとした。  その背中に、 「ちょっと待ちなさいよ」  エゾムラサキウニよりも棘だらけの言葉が投げつけられる。  奈子はびくりと止まった。 「なにも、こそこそ逃げることないんじゃない。ナコ・ウェル・マツミヤ?」  ゆっくりと、奈子のフルネームを発音する。美しい声なのに、なんだか異様に怖い。 「は…はひ…」  ぎこちない動作で振り返る。仕方ない。これでは逃げるわけにもいかない。  リューリィは、頭のてっぺんから足の先まで、じろじろと奈子を観察する。 「別に、逃げなくたっていいでしょう? いろいろと話したいこともあるし、お茶でも飲んでいきなさいよ。…ひょっとしたら、毒入りかもしれないけどね」  最後の一言、あながち冗談に聞こえない。  なにしろ奈子を追ってくるのに、わざわざ剣を持ってくるような性格なのだ。 「いや、でも…あの…」  奈子は、かなり本気で怯えていた。喧嘩で負けるとは思わないが、まさかリューリィと闘うわけにはいかない。  とにかく、嫉妬に燃える女性は怖いものだ。いまだに剣ではダルジィに勝てないのも、きっとそれが理由だろう。ハルティに密かな想いを寄せているダルジィは、ことあるごとに奈子を目の敵にする。  怒っている時のリューリィは、どことなくフェイリアに似ていた。怒らせた時の怖さでは、彼女の右に出るものはほとんどいない。ファージやクレインのような残酷さとは、また違った怖さがある。  どうやら、逃げるわけにはいかないらしい。  ちらりと由維を見る。 「いいじゃないですか、ついていきましょうよ」  由維はどこまでもお気楽だ。 「…いいよ、じゃ、少しだけ」  奈子は仕方なく、リューリィの後に続いて宿へ戻っていった。  リューリィは無言だが、背中から怒りのオーラを発している。 「いよいよシュラバですね〜」 「…で、あんたはどうしてそんなに楽しそうなの?」 「見てる分には楽しいじゃないですか、まるで恋愛ドラマみたい。『この泥棒猫!』なんて台詞が生で聞けるなんて」 「…冗談じゃない」  男を巡る争いの当事者になるなど、奈子の本意ではない。しかも、それがよりによってエイシスとは。 (美形のハルティ様ならともかく、なんであんな男のためにアタシがこんな目に…)  絶望的な気分で天を仰ぐと、空はどこまでも晴れ渡っている。澄みきった、深い青だ。 (今日のハシュハルドの天候は晴れ。ただし夕方から一時、血の雨が降るでしょう…か)  奈子は小さく肩をすくめた。  しかし、そんな奈子の予想は当たらなかった。宿に戻ると、意外な人物がそこにいたからだ。 「お帰り、リューリィ。どこ行ってたの…あら?」  腰まで届く長い金髪の女性がリューリィを出迎えた。奈子を見て不思議そうな声を上げる。 「どうして、ナコがここにいるの?」 「フェア姉!」 「フェイリア!」  二人の声が重なった。 「珍しい組み合わせだわね。リューのその様子からすると…第一ラウンドはもう終わったのかな?」  この台詞を聞いて、奈子はがっくりと肩を落とした。  一瞬、フェイリアに取りなしてもらえるかも…と期待したのに、由維と同じく、この状況を面白がっているようにしか見えない。 「…あのね、フェイリア」 「で、この子は誰?」  疲れ切った表情の奈子を無視して、フェイリアは由維を指した。 「あ、えっと、この子は由維っていって…」 「ああ、例の、ナコの恋人?」  納得顔でうなずく。  確かにその通りなのだが、まだ、他人から「恋人」と言われることには多少抵抗がある。  だから、曖昧にうなずいた。 「ええと、まあ…ね」 「恋人?」  そこで首を傾げたのはリューリィだ。  腕組みをして、不思議そうに奈子と由維の顔を交互に見る。 「この子が? あなたの?」  それから、物言いたげな表情でフェイリアに向き直った。 「…つまり…そういうこと?」 「そうよ、言ってなかったっけ?」 「…女騎士には、そういう趣味の人が多いっていうけど…。ナコ・ウェルもそうなの?」 「どうやら、そうらしいわね」  奈子を無視して会話が進んでいる。  とたんに、リューリィの顔がぱぁっと明るくなった。満面の笑顔で、親しげに奈子の肩を叩く。 「なぁんだ、そうだったの。あたしの早とちりってわけね。あいつのことだから、きっと強引に迫ったんでしょ。ゴメンね、今度とっちめておくから」  なんだか、自己完結していようである。少々勘違いがあるような気がしないでもないが、とりあえず修羅場が避けられたのだから良しとしよう。  その時…。 「それにしても、なんて間の悪い奴…」  額を押さえて、フェイリアがつぶやく。 「よぉ、リュー。久しぶりだな」  一瞬遅れて、そんな声が四人のいる食堂に入ってきた。  四人は一斉に声のした方を見る。  赤い髪が特徴的な大男が、そこに立っていた。  陽気な笑いを浮かべて入ってきた男は、それぞれ異なった表情を見せる四対の視線に気付いて、笑顔を引きつらせたまま立ち止まった。 「あ…え〜と…、じゃあ…そゆことで」  ぎこちなく片手を上げると、関節の錆びた人形のような動作で、ギギギ…と回れ右して宿から出ていく。 「ちょっと! 傭兵っ! 待ちなさいよ!」  リューリィが叫んで剣を掴むのと同時に、エイシスはだっと走り出した。それを追ってリューリィが駆けだしていく。  奈子と由維は、ぽかんとした表情でそれを見送っていた。  しばらくたってから、 「…いつも、こう?」  呆れ顔でフェイリアを見る。 「まあ、こんな感じね」  フェイリアも苦笑している。本当に、いつものことらしい。 「ところで、ナコはどうしてここにいるの?」 「またいつもの…さ、転移に失敗した」 「相変らずね」 「で、悪いんだけどさ…。ソレアさんの家まで送ってくれないかなぁ?」  渡りに船、とばかりに奈子は頼み込んだ。  フェイリアは、強力な転移魔法が使える数少ない魔術師の一人だ。奈子と由維をタルコプまで転移させることくらい、造作もないだろう。  不安定な奈子の転移でもう一度出直してくるよりも、手っ取り早くて確実だった。 「いいわよ。どうせあの二人はしばらく戻ってこないでしょうし。ところであなた、どこから来たの?」  フェイリアの台詞の後半は、由維に向かって言ったものだった。言葉のわからない由維は、当然、きょとんと首を傾げている。 「…なんて言ったんですか?」  奈子に訊いてくる。 「ん? ただ、どこから来たのかって…あ!」 (しまった…)  奈子の顔に汗が吹き出す。  今、フェイリアはもっとも標準的なアイクル語で訊いた。普段の彼女は、いくらか大陸北東部の訛りがあるのだが。  アイクル語は、方言も含めれば現在の大陸の七割ほどの地域で使われている。フェイリアが口にした程度の簡単なアイクル語が聞き取れない人間など、この大陸にほとんどいないといってもいい。  奈子の正体に興味を持っているフェイリアに、思わぬところでヒントを与えてしまった。  油断のならない相手だということは熟知していたはずなのに。 「…ふぅん、そういうこと」  奈子が何も言えずにいると、フェイリアは意味深な笑みを浮かべてうなずいた。 「いや…あの…えっと…」  言い訳など、思いつきもしない。  ここは笑って誤魔化すしかない…と思ったが、 「まあ、いいわ。行きましょうか」  フェイリアはそれ以上追求してこなかった。オルディカの樹でできた魔術師の杖を手に取り、転移魔法の魔法陣を描きだす。 「話の続きは、またの機会にゆっくり…ね」  魔法陣が完成する瞬間、フェイリアは奈子の耳元でささやいた。 四章 リトル・ウィッチ  由維と一緒にこちらへ来るようになってから、半月ほど過ぎたある日のこと。  奈子は一人で、タルコプの街を歩いていた。  いつものように、ソレアに買い物を頼まれて…というのが表向きだが、実際のところ、買い物を口実にしてソレアの家から逃げ出してきた、というのが正しい。  今、ソレアの家は戦場だった。  連日、激しい戦いが繰り広げられている。  こうなることは、予想しておくべきだった――と後悔しても後の祭り。  つまり、由維とファージの仲が悪いのだ。  ことあるごとに、争いを繰り返している。  どっちが奈子と一緒にお風呂に入るか、とか。  どっちが食事のテーブルで隣に座るか、とか。  そんなくだらない理由だ。  当人たちは真剣なのかもしれないが、端で見ていると馬鹿馬鹿しいという他ない。 「まったく…」  ソレアは二人の仲裁をするどころか、煽って楽しんでいるフシがある。いや、二人の板挟みになって困っている奈子を見て、楽しんでいるというべきだろうか。  昨夜だって「どちらが奈子と一緒のベッドで寝るか」で取っ組み合いの喧嘩をしている二人に向かって「3Pという手もあるわよ」なんてことを言う。  おかげで奈子は二人から隠れて、物置の隅で寝る羽目になった。寝違えて首が痛い。 「あの人も、娯楽に飢えてるのかもね〜」  考えてみれば、墓守というのもストレスの溜まりそうな使命だ。  ソレアが奈子の来訪を歓迎するのも、いい息抜きになるからかもしれない。息抜きのネタに使われる方としては、たまったものではないのだが。  そんなことを考えながら通りをぶらぶらと歩いていると、 「ねえ! そこの、胸のでかいツリ目のおねーちゃん!」  不意に、そんな子供の声が聞こえた。  奈子は思わず立ち止まってしまう。  別に自分のことだと思ったわけではないが、高校一年生という年齢やウェストの細さの割に胸が大きめであることと、ややネコ目であることは事実である。  声のした方を見ると、十歳くらいの女の子が立っていた。  髪は短くて痩せていて、一見男の子のようにも見える。が、着ているものが女物だから間違いなく女の子だろう。  目が大きくて、やや気が強そう…というか、年齢からすると「腕白そう」という表現の方が相応しいだろうか。  大きな荷物を背負っていて、真っ直ぐに奈子を見ている。 「…ひょっとして、アタシ?」  仕方なく、訊いてみた。 「他に誰がいるっていうの? おねーちゃん、鏡見たことないの?」 「見たことはあるけど…さぁ…。なんというか…もう少し言い方が…」  そんな奈子の台詞は無視される。女の子は一方的に自分の用件だけをまくしたてた。 「おねーちゃん、ソレア・サハ様のお弟子さんなんでしょう?」 「え?」 「街の人がそう言ってたよ。あたしも、ソレア様に弟子入りしたいの。紹介してくれない?」 「弟子、って…」  否定しかけて、ふと思い直した。なるほど、街の人にはそう思われていたのか…と。  ソレアは大陸でも名の知られた魔術師だから、弟子入りしたいという人間も多いのかもしれない。  この世界での魔術師は一種の職人、あるいは学者みたいなものだから、弟子を取っている者も少なくない。例えばマイカラスの王都に、ソレアの知り合いのラムヘメス・サハという魔術師がいるが、彼女のところには奈子より一つ年下の女の子が弟子として住み込んでいた。  しかし、ソレアやファージ、あるいはフェイリアに弟子がいるという話は聞いたことがない。三人とも、それぞれ複雑な事情のある身の上だから、普通に後継者の育成をするどころではないのだろう。 「紹介することはできるけど…多分、無理だと思うよ?」  率直な意見を述べる。街の人たちはもちろん知らないことだが、ソレアは普通の魔術師ではない。 「そんなの、会ってみなきゃわからないじゃない。こう見えてもあたし、素質ではおねーちゃんに負けないと思うよ」 「大した自身だこと」  奈子は苦笑した。このタイプは、いくら口で言っても絶対に引き下がらない。 「いいよ、ソレアさんに会わせてあげる。でも、断られたからってアタシを恨まないでよ」 「大丈夫。ソレア様だってきっと優秀な弟子を欲しがっていると思うの。あ、あたし、ユクフェ・メィね」 「ナコ・ウェルよ」 「よろしく、先輩」  ユクフェと名乗った少女は、もうすっかり弟子になったつもりでいる。  生意気だけど、なんとなく憎めない性格だ。奈子は小さく肩をすくめると、ユクフェの手を引いて歩き出した。 「…と、ゆ〜わけなんだけど…」  奈子は、街で拾った少女――ユクフェ・メィ・サルサン――をソレアに引き合わせた。  向こうでは由維とファージの、見るもばかばかしい闘いが続いているが、とりあえずそれは無視しておく。奈子が口を出せば、状況はさらに悪化するのだ。 「ふぅん…」  ソレアは静かにうなずくと、ユクフェを真っ直ぐに見つめた。 「あなた、生まれは何処?」 「ヌッカプの村」 「ご家族は?」 「父さんと母さんと、お祖母ちゃんと、お姉ちゃんが二人」 「どうして、私に弟子入りしようと思ったの?」 「家を追い出されたから」 「追い出された? どうして!」  思わず大声を上げたのは奈子だ。  こんな小さな子を追い出すなんて、いったいなんて親だろう。  しかし、ユクフェは平然と言う。 「家を、半分吹き飛ばしたから」 「…は?」 「お姉ちゃんたちと魔法の力比べをしていて、つい勢い余って…ね」 「…はぁ?」 「なにしろあたしって、才能が有り余ってるから」  ユクフェは屈託なく笑っている。 「でも、父さんに怒られちゃってね〜。今年になって二度目だし。ちゃんとした魔術師に弟子入りして、もっと上手に力を使えるようになれ、って」  なるほど、ようやく納得がいった。  つまり、ユクフェは魔力は強いけれども、それを制御する技術が身に付いていないのだ。  しばしば暴走するユクフェの魔法に手を焼いた親は、力のある魔術師の元で修行させようと考えたのだろう。 「なるほどね」  率直に言って奈子は呆れたが、ソレアはほとんど表情も変えずにうなずいている。 「それに、腕のいい魔術師って儲かるんでしょう? やっぱり、貧乏よりはお金持ちの方がいいじゃない」 「修行は厳しいわよ。我慢できる?」 「へーきへーき。あたし、才能あるから」 「いいわ、弟子にしてあげる。今日からここで暮らしなさい」 「えっ?」  驚いたのは奈子の方だ。絶対、ソレアは断ると思っていたのに。  ソレアは確かに腕のいい魔術師だが、魔術師、占い師の姿は仮のもの。本当の姿は、王国時代の危険な知識を封印する『墓守』の末裔だ。  それが、世間一般の職業魔術師のように弟子を取るなんて。 (…、それとも…)  ふと、思いついた。  以前、クレインが言っていたではないか。  ソレアは、墓守の最後と一人だ、と。もしかしたらソレアは、ユクフェを自分の後継者とするつもりなのだろうか。 「なに?」  ソレアが、何か言いたげな様子の奈子に気付く。 「別に、なんでもない」 「いろいろ言いたいことはあるかもしれないけど、それは後で…ね。それより、今夜はパーティをしましょう。ユクフェちゃんを歓迎して」  パーティと聞いてユクフェの顔がぱっと輝く。現金な性格だ。  ソレアは、由維とファージのところへ行くと、パンパンと手を叩いた。 「ほら、あなたたちもいい加減にしなさい!」  両手で、お互いの頬をつねり合っていた二人が動きを止め、ソレアを見る。  二人とも、痛みを我慢して涙目になっているくせに、相手をつねる手は放そうとしない。 「まったく、いつまでも子供みたいな喧嘩してるんじゃないの」 「私のせいじゃない。この大平原胸が悪いんだよ」 「だ、大平原胸〜っ?」  由維が目をつり上げた。中学二年生という年齢を考えても、彼女の胸はお世辞にも発育がいいとはいえない。 「なによ、ちょっと胸が大きいからって偉そうに! 言っとくけどね、奈子先輩はこ〜ゆ〜のが好きなんだから!」 「人聞きの悪いことを言うなぁぁっっ!」  部外者を装っていた奈子だったが、思わず叫んでしまう。 「おねーちゃんって、ロリコンなの?」  真剣に訊いてくるユクフェの視線が痛い。 「あたしも襲われないように気を付けなきゃ」 「違〜う!」  奈子は頭を抱えた。  ソレアが弟子を取ったという事実。  それは目出度いことなのかもしれないが、奈子にとっては、頭痛の種がひとつ増えるということらしい。           * * *  その夜、ソレアの屋敷はかつてない賑やかさに包まれていた。  奈子と由維、ソレアとファージ、そしてユクフェの五人に加え、ソレアが呼んだのか単なる偶然かは知らないが、フェイリアとエイシスが、リューリィまで連れてやって来たからだ。  この家に、こんな大勢の人間が集まるのは初めてだ。少なくとも、奈子が知る限りは。  本来はフェイリアも「王国時代の知識を求める者」であり、ソレアたちとは対立する立場ではあるが、最近では、少なくとも奈子の見ている前では衝突することはない。奈子としては、ファージもソレアも、そしてフェイリアも好きなのだから、これはいい傾向だ。  パーティ…というか宴会は、夜中まで続いていた。  ソレアと由維、そしてこれも料理が上手なリューリィの手料理と、エイシスが持ってきた上等なワインに舌鼓をうって。  ユクフェも大喜びだ。  かなり遅い時刻になって、奈子は酔い醒ましにバルコニーへ出た。頬に当たるひんやりとした夜の空気が心地良い。  ユクフェは、さすがにもう寝室へ下がっているようだ。  リューリィが竪琴に似た楽器を弾きながら歌っていて、他の人たちはそれに聴き入っている。由維とファージも、今夜は一時休戦といった様子だ。 (リューリィって、歌もうまいんだな…)  ぼんやりと思う。  顔は文句なしに美しく、スタイルも良くて、おまけに料理も上手で、歌を歌わせれば本職の歌姫並の美声だ。  なんとも、完全無欠の美少女ではないか。 (唯一の欠点は、男の趣味が悪いこと…か)  そんなことを思いついて、一人でくすくすと笑った。  それにしても、綺麗な歌声だ。曲も美しい。  素朴で、それでいて心に染み渡る旋律。遠い昔にどこかで聞いたことがあるような、懐かしい旋律。  この大陸に古くから伝わる歌だそうだ。  奈子は、目を閉じて聴いていた。  夜風に身を任せながら。 「…どうしたの、こんなところで」  いつの間にか、ソレアが隣に来ていた。 「ちょっとね、酔いを醒ましてるの」 「今夜は、そんなに飲んでいないじゃない」 「この前が飲み過ぎだったから。少し控えてる」 「そうよね。リューリィが見ている前でエイシスに迫ったりしたら大変だものね」  ソレアがからかうように言う。 「…もう、そのことは忘れてよ」  奈子は真っ赤になって言い返した。自分でも、恥ずかしくて思い出したくないことだ。今さら蒸し返してほしくない。 「…たまには、こんな日があってもいいかもね」  しばらく黙っていたソレアが、ぽつりと言った。 「…え?」  一瞬、なんと言ったのかわからなくて聞き返す。 「この家で、こんな風に友達が…と言っていいのかな…が集まって騒ぐことがあるなんて、奈子ちゃんと出会う以前は考えられなかったわね」 「……」  奈子は黙ってソレアを見た。  いつものように、静かに微笑んでいる。その表情からは、ソレアが何を考えているのか伺い知ることはできなかった。 「以前は、ファージも滅多に顔を出さなかったし」 「…それもそうか…」  言われてみれば、普段この屋敷を訪ねてくる者といえば、今日ここにいる者を除けば「表向きの仕事」の客しかいない。ソレアやファージの友人などは会ったことがないし、恋人がいるという話も聞かない。  ファージとソレアも、奈子が間にいない時は決して仲がいいわけではない。  王国時代の知識を受け継ぎ、護る者――墓守。  普通の人間と同じような生活はできないのだろう。 「その…ソレアさん、恋人とかは…?」 「いるはずないでしょう? 物心ついた頃からずっと、墓守としての知識と技を叩き込まれてきたんだもの。普通の女の子のように友達と遊ぶ時間も、恋をする時間もなかった。おかげで、この歳になってまだ処女よ」  ソレアは自嘲めいた笑いを浮かべる。それから、ゆっくりと話し始めた。  ソレアの身の上話なんて、初めて聞いた。  物心つく以前に、母親が亡くなったこと。  それからは父親と二人で生きてきて、魔法の知識と技術を教え込まれたこと。  十六歳の時に、初めて墓守のことを聞かされ、それ以後は墓守としての教育を受けてきたこと。  同じ頃、父親に紹介されてファージと初めて出会ったこと。  その父親もソレアが二十歳の時に殺されたこと。  父親の死後は、ソレアが墓守の最後の一人だった。もっと昔は、他にも墓守の家系はあったらしいのだが。 「それが正しいことかどうか、楽しいかどうか、そんなこと考えたこともないわね。それがすべて。そう教えられてきたんだもの」 「ユクフェを、墓守の後継にするつもりなの?」  奈子は、昼間から気になっていたことを訊いた。この話を聞いた後では、ユクフェはここにいない方がいいのではないか、とも思えてくる。 「…さあ、正直なところ、わからないわ」  ソレアは隠さずに答えた。 「そうなれるだけの教育はするつもりだけど…最終的に道を選ぶのは本人ね。私には、その自由もなかった。いずれにしても、ユクフェちゃんには今のところ、ここにいる以外の選択肢はないんだし」 「選択肢がない? …どうして?」 「ユクフェちゃんの家があるヌッカプの村は、お世辞にも豊かとはいえない地よ。そんな土地で女の子ばかり三人姉妹、楽な暮らしではないでしょうね」 「あ…」  この世界、奈子の世界の中世に比べれば女性の地位は比較的高い。魔法に関しては、一般に女性の方がやや優れた能力を示すからだ。  とはいえ、農作業のような力仕事には、どうしても男手が必要になる。貧しい村で、女の子ばかり三人もの子供を育てるのは、並大抵の苦労ではあるまい。  そう考えると、ユクフェが「追い出された」と言っていたのも、あながち冗談ではないのかもしれない。 「…口減らし、ってこと…?」 「まぁ、そんなところね。女の子の場合、人買いに売られることも多いけど」 「そんな! でも、あれだけ魔法の素質があれば…」 「確かに、あの子は優れた素質を持っている。並の魔術師では手に余るほどの…ね。他に行き場所がないっていうのは、そういうことよ」  つまり、ユクフェが魔法で身を立てようにも、並の魔術師では彼女を弟子にはできないということか。 「そんな…、あんなに元気で、明るくて、生意気なのに…」 「精一杯の強がりでしょう。ね、今夜はユクフェちゃんと一緒に寝てあげてくれない?」 「え?」 「もし夜中に目を覚ました時にひとりだったら、寂しいかもしれないでしょう?」 「ああ、そうだね、そうするよ」  奈子はうなずいた。故郷を遠く離れて、見知らぬ街で迎える初めての夜。そしてユクフェはまだ十歳の女の子なのだ。ホームシックにならないとも限らない。  こんな時、人の温もりが傍らにあるだけでぜんぜん違う。奈子は経験的に、そのことを知っていた。 「ちょうどアタシも、どこで寝たらいいのか悩んでたし」 「自分のベッドは?」 「きっと今頃、由維とファージが占領してる」 苦笑いを浮かべて応える。 「後継者といえば…」  ソレアが、複雑な表情で口を開いた。 「今だから言うけれど、ナコちゃんと会ったばかりの頃、あなたをそうしようと考えていたのよ。ファージも、そのつもりであなたを寄越したんだと思ってた」 「え?」  あまりにも意外な発言に、一瞬、思考が停止する。 「素質は十分だし、この世界に何のしがらみもないし…適任でしょう?」 「だからって、そんな…」 「まあ、性格的には向いていないかもしれないわね」 「当然でしょ」  奈子は即答する。 「それに…アタシ、ソレアさんのことは大好きだけど、はっきり言って『墓守』って存在は、嫌いだな」 「…嫌い?」  ソレアが訝しげな表情で奈子を見る。その目を真っ直ぐに見つめ返して、奈子は言った。 「ソレアさんも、それにファージも、過去に縛られて生きてる。アタシはヤダ。アタシは…未来のために生きたいよ」 「……」  ソレアは無言のままだ。  ただ黙って、奈子を見ている。 「ソレアさん、自分の未来って考えたことある? 死ぬまで、ただひっそりと王国時代の力を封印するためだけに生きるの? トリニアが滅びてから千年、墓守たちはずっと同じことを続けてきた。王国時代の遺跡を封じ、その力を求める者たちと闘いながら。この先千年も、また同じことの繰り返し?」 「ずいぶんはっきりと、言いたいこと言うのね」  小さくため息をつく。 「それが性格だもの」 「少し羨ましいわ、あなたの生き方。でも…」  ソレアは視線を外すと、夜空を仰ぎ見た。今はノーシルの三つの月のうち、ひとつだけが空にあった。 「…生き方って、簡単には変えられないものよ」 「少しずつでもいいんだよ。でも、昨日と違う今日、今日と違う明日。少しずつでもなにか変えていかなきゃ、結局、なにも変わらない」  月明かりの下で静かに微笑んでいるソレアの姿は、いつになく儚げに見えた。  まるで、今にも月の光に溶けて消えてしまいそうな。 「生意気なこと言ったかもしれないけどさ…でも…」 「いいえ、その、常に前向きなあなたの性格は貴重だと思うわ。多分私たちにとっては、前だけを見て生きるには過去が重すぎるのね」  重すぎる過去。千年前に世界を滅ぼしかけた、凄惨な戦い。  奈子の世界で言えば、それは全面核戦争にも匹敵するものだ。  その大きすぎる傷痕は千年経った現在でも生々しく残り、風化することがない。  そんな世界で生まれ育ったために、どうしても過去に縛られてしまうのだ、と。  それは、奈子にもわかる。  それでもやっぱり、奈子は前を向こうとする。以前、クレインが言っていたではないか。「歴史を紡ぐのは、今を生きている者の役目だ」と。  未来へ向かって、新たな歴史を紡ぐことを諦めてはいけない。  とはいえ、ソレアにはソレアの生き方がある。  彼女がこれまで生きてきた三十年の歴史がある。  価値観がある。  それをすぐに変えろと言うのも、無理なことだろう。  だから奈子は、この話題をそれで打ち切った。 「じゃ、ユクフェのところに行くわ。お休み」 「…おやすみなさい」  ソレアは奈子の背中を見送る。  いつの間にか、居間は無人になっていた。リューリィやエイシスたちも寝室へ引き上げたらしい。 「後片付けは…明日にしましょうか」  ソファに腰を下ろして、残っていたワインを空の杯に注いだ。  奈子が寝室の扉をノックした時、ユクフェはまだ起きていた。  ベッドの上に座って、窓から外を見ていたらしい。その背中が寂しげに見えたのは、奈子の気のせいだろうか。 「ここで寝てもいい? アタシのベッド、由維とファージに占領されちゃって」 「…襲わないでね」  ユクフェが笑いながら応える。 「誤解だって」 「でも、ナコおねーちゃんってカッコイイから、襲われてもいいかも」 「なにマセたこと言ってるの」  ユクフェの頭を小突いて、奈子はベッドに入った。ユクフェも隣にもぐり込んでくる。ちょうど、ユクフェに腕枕しているような格好になった。  隣から静かな寝息が聞こえてくるまでに、そんなに時間はかからなかった。奈子に抱きつくようにして、ユクフェは眠っていた。 「まだ、起きてたんだ」  一人で居間のソファに座っていたソレアに、ファージが声をかけた。 「ファージこそ」 「…ちょっと、ナコには内緒の話があって」 「珍しいわね」  ソレアはそう言うと、テーブルの上から、まだ少し残っているワインの瓶を取った。 「飲む?」 「少し」  そう応えるファージに、ワインを注いだ杯を渡した。ファージはそれを、ゆっくりと喉に流し込んだ。  そして、本題を切り出す。 「ユイのこと、どう思う?」  ソレアは少し考えてから応えた。 「可愛い子ね。頭も良さそうだわ」 「そういうんじゃなくて」  ファージが何を言いたかったのか、ソレアにはもちろんわかっている。  わかっていて、わざとはぐらかしてみた。  黙って、ファージの顔を見る。 「どうして、今になって連れてきたんだと思う?」  本当なら、もっと早くにそうしていてもいいはずだった。  相変わらず、転移魔法でこちらの人間が奈子の世界へ行くことはできない。しかし、奈子が自分の世界の人間を連れてくることはできると、ずっと前からわかっていた。  なのに奈子はこれまで、頑として由維を連れてこようとはしなかったのだ。ソレアは以前にも「連れてきたら?」と勧めたことがあるのに。  理由は簡単だ。  この世界では、由維の身に危険が及ぶかもしれないから。  奈子ひとりでも、いつも闘いに巻き込まれ、危ない目に遭っている。そんな状況で、由維を護りきれる自信がないから。  だから、これまで連れてこなかった。  なのにどうして、今になって連れてきたのだろう。 「むしろ、前よりも危険は増しているのに…」  以前よりも危険が減ったということはない。むしろ、その逆だ。  ソレアやファージにとっては何も変わらないが、奈子にとっては危険が増していると言っていい。  ソレアたちの『敵』が、ナコ・ウェルという存在を認識している。  単なる「墓守の傍にいる女の子」ではない。無銘の剣を所有する騎士として、彼女を認識しているのだ。  その代表がトカイ・ラーナ教会だ。  しかもアルワライェ・ヌィは、奈子が持つ無銘の剣よりもむしろ、奈子本人に興味を示しているらしい。  これまでの奈子の闘いは、他人の闘いに巻き込まれたものか、自ら進んで首を突っ込んだもののどちらかだった。  しかし。  あの事件以来、事情が変わってきている。  奈子自身が『敵』の目標となることもあり得るのだ。  なのにどうして、今になって由維を連れてきたのだろう。 「だからこそ…かもしれないわね」  ソレアは独り言のように、ぽつりとつぶやいた。 「ん?」  ファージがソレアを見る。 「並の騎士を圧倒する戦闘能力と、だけど他人を傷つけることを望まない心。その矛盾を、ユイちゃんが取り除いてくれるとしたら?」 「ユイがいれば、無茶な闘いには関わらないってこと?」 「その逆よ。あの子がいれば、ナコちゃんはなんでもできる。あの子を護るため、という大義名分さえあれば、ナコちゃんは屍の山を築くことだってできるでしょう。ユイちゃんのためなら、正気を保ったままそれができるわ」  ソレアは難しい表情で言った。 「もっとも、それがナコちゃんにとっていいことなのかどうか…。とりあえずあの子を連れてきたからといって、ナコちゃんの弱みが増えたわけではないということね」 「難しいな…」  ファージがつぶやく。 「正直なところ、ナコはこれ以上関わらない方がいいのかもしれない。あまり、危ない目には遭わせたくない。だけど…」 「こっちへ来ることを止めることもできない。一緒にいたいから…?」 「ずいぶん久しぶりにできた『友達』だもの」 「あら」  ソレアが意外そうな声を上げた。からかうような調子で。 「私は、友達じゃなかったの?」  ファージは驚いた表情でソレアを見た。ソレアがこんなことを言うなんて、思いもしなかった。  墓守にとってのファージは本来、単なる『武器』でしかない。 「私には、ソレア・サハなんて友達はいないね」  むっとした口調で、ぶっきらぼうに応える。  本心かどうかはわからないが、ソレアはほんの少し、傷ついたような表情を見せた。 「…でも、ユウア・ヴィ・ファラーデって友達はいたよ。昔…ね」  ファージがそう言うと、ソレアの口元に微かな笑みが浮かんだ。 「ねえ、ファージは、自分の将来なんて考えたことがある?」 「え?」  いきなり話題を変えられ、ファージは戸惑った。 「私たちは、いつも過去ばかり見ているわね。やっぱり、過去の歴史が重すぎるから…かしら」  ソレアが何を言いたいのかわからずに、ファージは黙って見ている。 「ナコちゃんはいつも前向きよね。その瞳は、常に未来を見ている。その身体にも、心にも、いくつもの過去の傷が刻まれているのに。振り返ろうとはしない」  その口調にはいくらかの、憧れが含まれているように感じられた。 「だけど、この世界にだってそういう人はいたわね。どれほど傷ついても、決して未来への希望を捨てなかった。執念深く…といってもいいほどの強さで、遠い未来を見据えていた」 「ユウナ・ヴィとか、レイナ・ディとか…?」 「そうね…」  静かにうなずく。 「マルスティアとアンシャスの遺跡…。もう一度、調べてみた方がいいかもしれないわ」 「レイナ・ディ・デューン…か」  ファージは独り言のようにつぶやく。 「あなたは、直に会ったことはないの?」  言われて、記憶を辿る。長い長い千年分の記憶を。  自分の脳だけでは憶えきれない情報は、聖跡が記憶している。そこから引き出せばいい。 「私はその頃、聖跡の中さ。実体も持たずに…ね」  ファージが肉体を与えられて聖跡の外に出たのは、もっと後の時代だ。 「でも、聖跡の中で一度だけ会ったことがある…かな。聖跡の外から、実力であそこまで入ってきた奴は初めてだった」 「似ていた?」  興味深げに、ソレアは訊く。誰に、とは言わなかったが、ファージには通じたようだ。 「顔は、少し…ね。ナコよりもずっと性格悪そうだった」  二人は声を揃えて笑う。 「そうだね。近いうちに北の方へ行く用事があるから、その時にアンシャスの遺跡も寄ってみるわ。マルスティアはその後…かな。なにしろ忙しすぎるよ。最近はトカイ・ラーナ教会だけじゃなくて、ハレイトンもアルトゥルも、しまいにはヴェスティア王国まで、いろいろと怪しげな動きをしているから」 「悪いけどお願いね」 「悪いけど…か、そんなこと言ったことなかったよね」  ファージは、杯を置いて立ち上がった。 「じゃ、おやすみ。ユウア」 「…おやすみなさい、ファージ」           * * * 「…古来、魔法の力は、その呪文が持つ『言霊』によってもたらされると考えられてきました。これに異を唱えたのがストレイン帝国の魔道学者ヘイトック・サムで、彼は、いっさい呪文を発せずにまったく同じ魔法の効果が得られることを、実験で証明してみせました。  ヘイトックは、魔法の発動は精神の働きにのみ依存し、呪文は精神集中を助けるだけのものあると考え、自著『精神魔法論』に記しています。この仮説は、その後五十年間にわたって、魔法論の中心として支持されてきましたが、トリニアの時代になって、ハレイトン王国の主席魔術師ルス・ルゥの実験によって覆されました。  ルスは、脳の思考を司る部分を破壊した実験動物を用い…ナコちゃん!」  何の予告もなしに、ソレアは手にしていた厚い本を、机に突っ伏して居眠りしていた奈子の後頭部に振り下ろした。  重々しい打撃音と、悲鳴が同時に上がる。 「いったぁ〜い! もう、なにすんのよ!」 「それはこっちの台詞。毎日居眠りばかりして、もう少し真面目にやったらどう?」  隣に座っている由維とユクフェが、呆れ顔で肩をすくめている。  ユクフェが弟子入りして以来、奈子と由維も一緒に、ソレアから魔法学の講義を受けるようになっていた。  こちらに来たばかりの由維と違い、一応は魔法を使える奈子だったが、きちんとした教育を受けているわけではないので、かなり我流が入っている。その上、理論面がさっぱりだからだ。  しかし奈子の授業態度は、優等生と呼ぶにはほど遠い。自分の世界でも、学校の授業はあまり真面目に聞かない方である。  常に泳いでいないと呼吸できない鮫に似て、動きを止めた途端に眠くなる体質なのだ…とは由維の弁だ。  もちろん奈子はそれに反論したが、講義の度にこんな調子ではやや説得力に欠ける。 「最近、すごく眠いんだよ。春眠暁を憶えず、ってね」  大きな欠伸をしながら応える。 「あなたの世界では秋でしょうに!」  ソレアはこの台詞だけは、ユクフェの耳に入らないように小声で言った。 「だいたい、こ〜ゆ〜講義って退屈なんだよね。アタシは別に魔法学者になりたいわけじゃないんだから、魔法の歴史とかを勉強しても意味ないもん。もっと、実践的なことを憶えたいな」 「どんなことにも、基礎は必要でしょう?」 「だからといって、剣士になるのに刀鍛冶の知識は必要ないっしょ?」 「まったく、ああ言えばこう言うんだから…」  温厚なソレアには珍しく、かなり不機嫌な様子だ。  これまで弟子を持ったことはないと言うソレアだが、教師としてはかなり熱心というか、スパルタというか。とにかく、奈子のような不真面目な授業態度は我慢がならない性格らしい。  これまで知らなかった一面を見たな…と、奈子は呑気に考えた。 「あの、ソレアさん。質問なんですけど…」  由維がそっと手を上げる。 「はい?」  ソレアは途端に笑顔になって振り返る。由維のような真面目な生徒はお気に入りらしい。  ちなみに、ユクフェも講義になると真剣になる。まあ、こちらは自分の将来がかかっているのだから、当然といえば当然だ。 「なに、ユイちゃん?」 「そもそも、魔法っていつ頃からこの世界に存在してるんですか?」 「いい質問ね」  教師の表情に戻ったソレアが答える。 「でも、はっきりとしたところはわかっていないのよ。いろいろな説があるんだけど…。昔は、人間が誕生した時から存在していた、といわれていたわ」 「でも、人間以外の動物でも、魔法が使えるものはいますよね?」 「そう。だから、この星に生命が誕生した時から普遍に存在した力だ、と。そういわれていたこともあった。だけど、そうすると矛盾があるのよね」 「矛盾?」  由維が首を傾げる。 「魚類、及びそれよりも下等な動物には、魔法を使えるものがいないのよ」 「あ…」  それに対して両生類、爬虫類、哺乳類、そして鳥類には、魔法を使える種が存在する。  だから、魔法の能力が動物に備わったのは、魚類が両生類に進化して地上へ進出した頃、二億〜三億年前のことであろう、と。  それが王国時代の通説だった。ただし、確証があるわけではない。  古代の生物が魔法を仕えたかどうかを調べるのは難しいことだ。魔法の素養の有無は、化石には残らない。 「でも、それってヘンですよね」  由維は既に、その矛盾に気付いていた。 「陸に上がった最初の両生類に魔法の能力が備わったのだとしたら、それから進化した動物すべてが、魔法を使えなきゃならないのに」  現実には、魔法を使える種はごく僅かだった。  数としては哺乳類がもっとも多いが、王国時代に人の手で作りだされた種を除いた、いわゆる「天然種」は三十種類程度でしかない。鳥類や爬虫類に至ってはさらに少ない。 「そうね。だから、もっとも革新的な仮説としては、魔法が生まれたのは僅か十万年前だ、という人もいるわ」  それは、王国時代の末期、トリニアの若い魔道学者が唱えた説だった。魔法の能力を持つ動物の遺伝子を徹底的に調べ上げ、その種が地上に出現したのは約十万年前と計算したのだという。  しかしそうなると、魔法の能力は複数の種にほぼ同時に顕現したことになる。それはそれで、弱点の多そうな学説だった。 「十万年前の出来事といえば、いわゆる『大破局』…前文明の滅亡があるわ。それと魔法の出現がなにか関係しているのではないか、とその学者は考えていたらしいけど、実際のところ何の確証もないわ」 「前文明…ね」  十万年前、この星に生まれた最初の文明。  原始時代の小さな村落での生活よりもはるかに進んで、石造りの大きな都市を築くところまで発展していたと考えられている。  しかしそれは、想像を絶する大きな災厄――おそらくは巨大隕石の衝突――によって滅び、人間たちはまた原始時代からやり直すこととなった。  現在の人間の歴史は、そうして紡がれてきたのである。 「前文明の滅亡と魔法の発生の関連については何の証拠もなくて、どちらかといえば学問というよりも、お伽話の世界ね」 「ふぅん…」  由維はどことなく不満げだった。今の説明だけでは物足りない。  昔から何かわからないことがあると、徹底的に調べなければ気が済まない性格だった。だから、こうして結論が出ない疑問があると、欲求不満に陥ってしまう。  しかし、これだけ博識で、王国時代の知識にも通じているソレアがわからないとなれば、今のところは諦めるしかあるまい。 「…じゃあ、講義の続きに戻しましょうか。トリニア暦二五五年、テンナ王国の魔術師ティアットが、魔力の強さと月に関する論文を発表しました。月と魔法になんらかの関わりがあることはそれ以前からもいわれており、月の光が魔力の源であるという古い伝承は大陸各地に残っています。  しかしティアットは、光を完全に遮断した地下室で実験を行うことによって、月光と魔力の関連を否定。この星ノーシルを巡る三つの月の配置こそが、魔力に影響を与えることを発見しました。そして、月の配置以外の条件を同じにした実験では、最悪の配置と最良の配置で、魔力の強さに約二割もの差が出ることを確かめたのです。  多層次元論が魔法理論の主流である現在では、月の重力がなんらかの影響を及ぼしているものと考えられています。月の軌道と魔力の強さの関係を表した公式は極めて難解なものなので、説明はまた別な機会にしますが…」  調子よく喋っていたソレアが、ふと言葉を切った。その眉間にしわが寄る。  由維とユクフェがソレアの視線を追うと、奈子がまた、気持ちよさそうに寝息を立てていた。 「…顔でも洗って、目を覚ましてらっしゃい!」  同時に、奈子の姿が消えた。  街はずれを流れる川の中へ、強制的に転移させられた奈子が全身ずぶ濡れで戻ってきたのは、それから二十分ほど後のことだった。 五章 アール・ファーラーナ  一国の王というのも、これでなかなか忙しい身分である。  それがたとえ小国であっても。いや、小国だからかもしれない。裕福な大国と違い、王といえど遊んでいる余裕などないのだ。  国王であっても、王宮の奥でふんぞり返っていればいいというものではないし、もちろん彼は、そんな退屈な生活はごめんだった。 「ふぅ…」  新しい灌漑用水路工事の視察から戻ったマイカラス国王、ハルトインカル・ウェル・アイサール――通称ハルティ――は、小さく溜息をついた。ここ数日、ハードなスケジュールが続いている。  国土の過半が砂漠であるマイカラスでは、水の確保は最優先事項だ。新しい水路が完成した暁には、ヴェラン地区の水事情は大きく改善される。そうすれば、新しい畑を開墾することもできるだろう。  人と、それを養う食料。この二つこそが国の礎だ。サラート王国の侵攻をなんとか退けたのだから、今度は内政に力を注がなければならない。  まだまだ、片付けなければならない仕事はいくらもあった。大きな机の上には、目を通さなければならない書類が山と積まれている。  書類に手を伸ばしたハルティの目に、ふと、執務室に飾られた豪華な花が映った。  乾燥した荒野が広がるマイカラスにおいて、生花は贅沢品である。  生活に直接関係ない部分での贅沢を好まないハルティは、わざわざ命じて花を飾らせたりはしない。ということは、城の誰かが個人的に持ってきた物だろうか。  なかなかのものだ。大輪の花それ自体も見事だが、それを飾り付けた腕前も大したものだった。  いったい誰の手によるものだろう。暫し考える。  城で働いている女たちの誰か、というのが一番可能性が高い。  なにしろ若い独身の王である。女性が放っておくはずがない。しかしたとえ国王という立場がなくても、ハルティはマイカラスでもっとも女性にもてる若者だった。  とにかく、顔がいいのだ。とびっきりの美形だ。それで剣の腕が一流で、さらに女性に優しい性格なのだから、もてない方がおかしい。  妹のアイミィはそんな兄のことを「先天性女殺し」と評している。かく言うアイミィも「先天性男殺し」の素質は十二分にあるのだが、今のところその興味はただ一人の女性に向けられているようだった。  ハルティはしばらく花を眺めて、心を和ませる。いいものだ。疲れた心を癒してくれる。  これまで彼にとって花といえば、女性に贈るものでしかなかったが、自分の部屋に花があるというのも悪くない。  そんなことを考えていると、執務室の扉がノックされた。入ってきたのは、見上げるような大男。騎士団のケイウェリ・ライ・ダイアンだ。現在のマイカラスで、最強の騎士と名高い人物だった。  ケイウェリはすぐに、飾られている花に見とれているハルティに気付いた。 「その花は気に入りましたか、陛下?」 「ああ、見事なものだね。いったい誰が持ってきてくれたんだ?」 「私です」  大男が笑って応える。 「…は?」 「私が、屋敷の庭で育てた花ですよ。今年は気候にも恵まれて見事に咲いてくれたので、陛下にもお見せしよう、と」  ハルティは無表情にケイウェリを見上げた。ハルティも平均よりは長身であるが、それでも頭半分くらい向こうの方が高い。なにしろ騎士団一の巨漢なのだ。  その上肩幅は広く、胸板は厚く、太い腕と脚のせいもあって、室内に占める体積では倍も違うのではないかという気がしてくる。  ハルティは、何か言いかけて止めるという動作を何度か繰り返した。 「…念のため訊くが、飾り付けもお前がやったのか?」 「もちろん。自分の手で育てて、自分の手で飾る。そうして初めて、花を育てるという行為は完成するわけです」 「……」  ハルティはただ無言でケイウェリの顔を見つめた。  ケイウェリの剣の腕はマイカラス一だ。なにしろ二十歳になる前から、剣聖ニウム・ヒロの後継はこの男しかいない、と周囲から高い評価を得ていた人物である。  ハルティよりも三つ年上で、以前はよく剣の稽古もつけてもらったものだ。男兄弟のいないハルティにとっては、兄のような存在でもある。  もう、ずいぶんと長い付き合いだ。 (しかし…わからん奴…)  この巨体で、小さな鋏を手に花を活けている姿を思い浮かべる。  シュールな光景だった。ハルティは自分のこめかみに手を当てる。 「まあいい」  深く考えないことにしよう。なんとなく、怖い考えになりそうだから。 「で、なんの用だい?」  ケイウェリだって暇な身ではない。用もなく、こんな時間にここを訪れるはずがない。 「これ、ですよ」  ケイウェリは意味深な笑みを浮かべると、手に持っていた書類の束を見せた。 「コアリキキ様から預かってきました」 「うん?」  悪巧みしているようなケイウェリの表情が気になるが、書類を受け取って目を通す。  一番先頭に、よく知っている人物の名が記されていた。  途端に、訝しげな表情になる。 「…なんだ、これは?」 「見てわかりませんか?」 「わかるような気もするが…念のため」 「お后候補ですよ、陛下の」 「やっぱりか…」  ハルティは、今度は大きな溜息をついた。  最近、ことあるごとにこの話題を持ち出される。  曰く、結婚して跡継ぎをもうけることも王としての務めだ、と。  その言い分はわからないでもないが、簡単にうなずくわけにはいかない理由もある。  うんざりした表情で、書類の束をめくった。国内の主な貴族の、年頃の娘はすべて網羅されているのではないかという気がしてくる。この中から気に入った娘を選べ、ということらしい。 「いや、大したものですね。さすが陛下、おもてになる」 「皮肉はやめろ」  不機嫌な声で言った。 「本人たちよりも、親の意向だろう」  リストの先頭に、ダルジィの名を見つけた。  ハルティは思わず苦笑する。なるほど、普通に考えればこうなるのか、と。  リストの先頭ということは、彼女が最優先の候補ということなのだろう。「普通に考えれば」確かにそうなる。 (これはやはり、本人の意向はお構いなしか…)  そう、ハルティは考えた。  ダルジィ・フォア・ハイダーは今年二十二歳、ハルティよりひとつ下だ。年齢的には釣り合う。  ハイダー家はマイカラス建国以前からの騎士の家系で、家柄は申し分ない。  それに、客観的に見ればダルジィは美しい。  背はすらりと高く、長く伸ばした銀色の髪、深い碧の瞳、凛々しさを感じさせる引き締まった顔。騎士団の礼服をまとったダルジィに見とれる者は数知れない。  しかし、それが問題だった。どんな豪華なドレスよりも、騎士の礼服が似合う女性というのはやはり普通ではない。  普通、王宮で開かれる宴の席では、普段は化粧っ気のない女性騎士たちも美しく着飾ってくる。そんな時でさえ、ダルジィは男たちと同じように、黒を基調とした騎士団の礼服のままだった。しかも、それがあまりにも似合いすぎていて、誰も何も言えない。 (ダルジィが、私の后候補…?)  あまりにも意外、というべきか。あの「マイカラスの戦姫」ダルジィの花嫁姿なんて、ハルティには想像できない。  そもそも彼女が、誰かと結婚したいなどと思うものだろうか。忠誠心に篤いダルジィのこと、父親のサイラートや丞相たちに言われればうなずくかもしれないが、それは本意ではあるまい。 (こんなところに自分の名前が挙がっているなんて、ダルジィは思いもしないだろうな…)  きっと身分や年齢、家柄だけで判断して、コアリキキあたりが勝手にリストに入れたのだろう…と。ハルティは、勝手にそう思いこんだ。  無意識のうちに、笑いを堪えるような表情になってしまう。  ざっとリストの最後まで目を通して、ひとつ気付いたことがあった。 「…一人、足りないのではないか?」 「そうですか?」  応えるケイウェリの口調は白々しい。笑いを浮かべた顔を睨みつける。 「何故、ナコさんが入っていない?」 「入れてほしいのですか?」 「…当たり前だ」  ハルティは正直に言った。  ナコ・ウェル・マツミヤ。  あの、不思議で魅力的な少女。正直なところ、后を娶るように言われて最初に浮かんだのは、彼女の顔だった。 「私は別に、ナコ・ウェルでも構わないと思うんですがね。そうは思わない人たちも多いということですよ」  ハルティは難しい表情で、ケイウェリを睨んでいた。 「素性のまったくわからない人間を、自分が仕える国の王妃に迎えてもいいと考える人間は、そう多くはないでしょう? 私の個人的な意見としては、ナコ・ウェルはいい子だと思いますけど、だからといって…ね」  それは、ハルティにもわかっている。  知り合って一年ほどになるが、いまだに奈子の素性は謎のままだった。  どこで生まれたのか、どんな家系なのか、これまで、どこでどのような生活を送ってきたのか。そういった話題になると、奈子はたちまち口をつぐんでしまう。  何か訳ありなのは確かだが、それがどんな事情なのかは皆目わからない。 「やはり…ナコさんも『墓守』なのか?」 「それはないと思いますがね。むしろ、逆かもしれません」 「逆?」  予想外の答えに、ハルティは不思議そうに片眉を上げた。 「ソレア・サハやファーリッジ・ルゥが墓守であることは、まず間違いないこと。その彼女たちが、近くで見守る…あるいは見張っていなければならない存在…だとしたら?」 「だとしたら…どうなる?」 「こっから先は、私の勝手な憶測ですから言いません。言えば、きっと陛下は笑いますよ」 「なんだ? 言ってみろよ」  しかしケイウェリはもったいつける。  ハルティがなおも問いつめようとしたところで、闖入者が現れた。 「お兄さま! これはどういうことですのっ?」  甲高い声が乱入してくる。声の主は、美しい金髪を長く伸ばした美少女。ハルティの妹アイミィ・ウェルだ。  王妹としてははしたない動作だが、長いスカートの裾を翻して駆け込んでくる。手には、何かの書類を持って。 「お兄さま、これはなんですのっ? 説明していただきましょう」  一瞬、アイミィの剣幕に驚いたハルティだが、すぐに平静を装って応える。 「読んだ通りのものだ。お前、今年で何歳になる?」 「十五ですわ。妹の歳もお忘れになったの?」 「王家の姫として、婚約者を決めるのに早すぎるということはあるまい?」  そう、アイミィが手にしている書類は、先ほどケイウェリがハルティ宛てに持ってきたのと同じようなものだ。 「そんなことを言ってるのではありません。問題は、その候補者たちです!」 「なにか、問題でも?」 「大切な方が抜けていますわ」 「国内で、家柄も本人の能力も申し分のない者は一通り選んだつもりだが。お前の意志だって尊重するぞ。その中から、気に入った者を選べばいい。基本的に、顔も悪くない者ばかりのはずだ」  笑みすら浮かべて滔々と述べる。側で聞いているケイウェリは、笑いを堪えているような表情だ。 「やっぱり、お兄さまの差し金でしたのね」  きっと、ハルティを睨みつける。 「差し金? 何が?」 「どうして、ナコ様の名前がないんですのっ?」 「……は?」  ハルティは一瞬、呆気にとられた。  冗談を言っているのかと、アイミィの顔を見る。  困ったことに、彼女は本気だった。これ以上はないくらいに本気だった。 「…なんの冗談だ。女同士で」  確かに、アイミィが不自然なほど奈子を気に入っているのは知っている。それに、奈子も年下の同性に好かれる質ではある。  若い娘が、同性に憧れることがあるのも知っている。  とはいえ…。 「そんな些細なこと、私たちの愛の絆の前には問題ではありません!」 「いや、これ以上の問題はないと思うが…」  二人のやりとりを聞いて、ケイウェリは声を殺してくっくと笑っている。 「ナコ様を独り占めするために、無理やり私を結婚させようというのですね。その手には乗りませんわ。私とナコ様の愛の絆の前には、そのような妨害など物の数ではありません!」 「絆…ねぇ。気のせいだと思うが」 「なんですってぇっ?」  ついにケイウェリは吹き出した。口を押さえて、その場を辞する。  廊下に出ても、背後からは二人の言い争いが聞こえていた。 (しかし二人とも、本人の意思をまったく無視してるよなぁ…)  心の中でつぶやく。  奈子は時々、ケイウェリたちに格闘術を教えに来ているから、話をする機会も多い。  だから、知っていた。  奈子は確かに、ハルティのことを憎からず思っているらしいが、しかしどうやら故郷に恋人がいるらしい。雑談の中で、彼女がちらりと漏らしたことがある。  それに彼女は、ダルジィのハルティに対する想いを知っていた。だから、これ以上ハルティに接近することはあるまい。  そのハルティは、ダルジィの気持ちなどこれっぽっちも気付いていないのだからお笑いだ。 「…ま、いいか」  誰にも聞こえないように、小さな声で言った。  正直なところ、ハルティと奈子が結婚するというのも悪くない話だとは思っている。  密かに奈子の素性を調べていたケイウェリは、少し前にエイクサム・ハル・カイアンという魔術師と出会った。昨年のクーデターの黒幕でもあった彼は、しかしケイウェリに興味深い話を聞かせてくれたのだ。もしも、その考えが真実を含んでいるとしたら…。  千五百年前、エストーラ・ファ・ティルザーはエモン・レーナを妻に娶り、その力を借りて大陸最大の王国トリニアを築いた。  もしもエイクサムが考えるように、奈子が本物のアール・ファーラーナであるとしたら、マイカラスの未来はまるで違ったものになるかもしれないのだ。 (しかし…)  それが、幸せな未来であるかどうかはまた別問題である。エストーラ王だって結局は天寿を全うすることなく、戦場で命を落としたのだ。  しかし彼が築いた帝国は、その後五百年近くに渡ってこの大陸の過半を支配し続けた。 (アール・ファーラーナ…か)  夢物語である。お伽話といってもいい。  しかし、その可能性を完全に否定することもできなかった。 「ああ、ダルジィ」  考え事をしながら城の廊下を歩いていたケイウェリは、すれ違った同僚に声をかける。 「陛下のところへ行くのかい?」 「ああ、そうだが?」  書類の束を手にしたダルジィが足を止める。無論それは、彼が持っていった書類よりもはるかに真面目な内容のものだ。 「今、陛下は取り込み中だよ。後にした方がいいと思うな」  ちょっとした親切心で、ダルジィに忠告してやる。奈子を巡って喧嘩しているハルティとアイミィの姿は、彼女にとって不快だろうから。 「そうか? では出直すとしよう」  ダルジィはなんの疑いも持たず、いま来た廊下を引き返していった。           * * * 「アール・ファーラーナ! アール・ファーラーナ!」  それまで劣勢だった軍勢のあちこちから、喚声が上がる。  何万という兵たちのすべてが、彼女を讃えている。  戦況は、たちまちのうちに覆っていた。  千騎の切り込み隊を魔法の一撃で失って、総崩れとなったティルディア王国の軍勢を、勢いを取り戻した中原十ヶ国の連合軍が蹂躙している。  ほんの半刻前までは、形勢は逆だったのだ。  歴史は浅いが最近急速に力を伸ばしているティルディア王国は、兵の練度も高い。中原では圧倒的な勢力を誇るトカイ・ラーナ教会も、劣勢を余儀なくされていた。  現在、この戦場だけに兵力を集中しているティルディア王国と違い、トカイ・ラーナ教会は、ハレイトンやアルトゥルの動きも牽制しなければならない。しかも、最近になって墓守と頻繁に衝突し、その被害も無視できなくなっているのである。  今回は、ティルディアの戦術が見事に当たった。中原の連合軍は、全面敗走も目前の状態まで追い込まれていたのだ。  …そう、彼女が現れるまでは。  誰が信じられるだろう。  絶望的なまでの劣勢を、突然現れた一人の美しい女騎士がたちまちのうちに覆したなんて。  その魔力は、あまりにも圧倒的だった。王国時代の竜騎士にも匹敵するのではないかというほどに。  軍勢を包み込んだ光が消えた時、ティルディア軍の主力に、ぽっかりと穴が開いていた。  誰もがしばらくの間、言葉を失っていた。  我に返ったのは、トカイ・ラーナの軍勢の方が先だった。  あちこちから、同じ言葉が聞こえてくる。「アール・ファーラーナ…」と。  その声は、だんだんと大きくなってゆく。  やがて声はひとつになり、大地を揺るがすほどの大歓声となった。 「アール・ファーラーナ! アール・ファーラーナ!」  勝利を確信した兵たちが、喉も割れんばかりに声を張り上げている。  声を揃えて、彼女を讃えている。  戦いと勝利の女神――と。  肩のあたりで切りそろえた赤い髪を風になびかせ、美しい女性が片手を上げてその声に応えた。           * * *  魔術師エイクサム・ハル・カイアンは、トカイ・ラーナ教会の総本山があるトゥラシの街に住んでいる。  とはいえ、彼自身は教会とは無関係だ。  その日彼は、珍しい客を迎えていた。 「…で、どういったご用件でしょうか?」  エイクサムの口調は丁寧だった。たとえ相手が、招かれざる客であったとしても。 「わざわざ言うまでもないと思うんだけど?」  出されたティーカップを口に運びながら、赤毛の若者が笑って応える。 「まあ一応、念のためということで」  エイクサムも静かな笑みを浮かべる。  お互い、本心は顔に出さない。 「ナコ・ウェルのことさ。知ってることを全部話してくれよ。出身。現在の住まい。そしてなにより…彼女はいったい何者だい?」 「さて、何のことやら私にはさっぱり…」 「とぼけなくてもいいだろう? 僕は決めたんだ。ナコ・ウェルを手に入れるってね。無機的な黒の剣や無銘の剣なんかよりも、ずっと魅力的だ。そうは思わないか?」 「まあ、否定はしませんが」  アルワライェ・ヌィは、子供のように目を輝かせている。彼はしばしば、不思議なくらい子供っぽい表情を見せるのだ。  エイクサムは小さな溜息をついた。  一度興味を持ったものに対する集中力は、大人よりも子供の方が強い。その分、飽きるのも早いものだが、残念ながら彼は今のところ飽きた様子を見せない。  それもそうだ。まだ、目的のものを手に入れていないのだから。一度手に入れたら、すぐに飽きるのかもしれない。しかし、そんなことをさせるわけにはいかない。 「エイクサム・ハル。君はずいぶんいろいろと調べているそうじゃないか。当然、僕の知らないことも知っているんだろう? 聞かせてくれてもいいんじゃないか」 「私に調べられることなら、あなたにだって調べられるでしょう? 教会の情報網を使えば、造作もないことです」 「教会には、知られたくない」  その言葉を聞いて、エイクサムの手が一瞬止まる。  探るように、アルワライェの目を見た。 「言ったろう? 僕が、ナコ・ウェルを欲しいんだ。教会じゃない。奴らに知らせる気もない。もちろん、無銘の剣のことだって知らせちゃいないさ」  エイクサムは警戒感を強めた。  アルワライェは教会の命ではなく、自分の意志でナコ・ウェルを手に入れたがっている。  これはむしろ、彼女にとってはよくないことかもしれない。  トゥラシに住んではいるが、エイクサムの気持ちとしては奈子の味方だ。彼女の害になるようなことはしたくない。できるだけ、助けてやりたいと思う。  とはいえ、今は何を言っても、アルワライェに奈子を諦めさせるのは困難だろう。 (ここも、居心地が悪くなってきたか…)  心の中でつぶやく。  奈子と再会した時から考えてはいたが、そろそろ本気で、トゥラシを出る準備をしなければならないかもしれない。  可能性は低いが、アルワライェが自分を人質にすることも考えられた。奈子がそれに乗ってくるかどうかは別問題だが、アルワライェにしてみれば、あらゆる手を試してみても損はない。 (準備をする、時間もないか…)  エイクサムは、静かに息を吸い込んだ。彼は、ひとつの決心をしていた。 「ナコ・ウェルは…アール・ファーラーナですよ。あなたの姉上のような紛い物ではなく、正真正銘の」 「…面白い」  アルワライェがゆっくりと立ち上がった。その顔から、子供っぽい笑みが消えている。  瞳の奥に、危険な光があった。 「紛い物…と言ったな。アリスのことを?」 「ええ、そうでしょう? それは、あなた自身にも言えることですよね。紛い物で悪ければ、作り物とでも、模造品とでも」 「貴様!」  いつも笑っているようなアルワライェが、珍しく本気で怒っていた。  右手を前に突き出す。その掌の中に、紅い光が生まれていた。  しかし、それが剣の形を取るよりも一瞬早く。  エイクサムが笑みを浮かべる。彼は、持てる魔力のすべてをその場に解放した。  トゥラシの街中で起こった突然の大爆発が、周辺の人々を驚かせることになった。 六章 あたしの中の… 「奈子先輩、起きて。朝だよ」 「ん〜」  朝食の支度を済ませた由維が起こしに来るが、奈子はなかなか起きあがろうとしない。毛布を頭からかぶったまま、だるそうな声で曖昧な返事をするだけだ。  普段は寝起きのいい奈子にしては珍しい。いつも、朝食前に早朝トレーニングを済ませてくるというのに。 「奈子先輩?」 「なんだかだるくて…。少し熱っぽいし…」 「…風邪ですか?」  そう言うなり、由維は毛布をはぎ取って、いきなり奈子にキスをした。 「ん…んっ?」  驚いている奈子に構わず、舌を入れる。十秒間ほどそうしていて。 「少し、熱があるみたいですね」 「…って、どこで計ってるのっ?」  奈子が叫ぶ。 「奈子先輩が風邪引くなんて、ものすご〜く意外ですね?」 「なんだか、ひどく失礼なこと言われてるような気がするんだけど…」 「ごはんは食べられます?」 「だめ。食欲ないし、なんだか吐き気もするし…。今の風邪はお腹に来るのかなぁ…」  これも、奈子にしては珍しい。周りから「鉄の肝臓とチタン合金の胃腸を持っている」とまで言われているのに。 「病気の時は、栄養つけた方がいいんですけどね…。じゃあスープかなにか、食べやすいもの用意しますから、もう少し寝ててください」 「…ありがと」  奈子はまた毛布の中にもぐり込んだ。  由維は何かを考えるような表情で、そんな奈子の様子を十秒ほど見ていてから部屋を出る。  その時にふと、壁に掛かっているカレンダーが目にとまった。  一時間くらい経ってから、由維がまた起こしに来た。  相変わらず具合は悪かったが、風邪薬を飲む前に、少し胃に物を入れておいた方がいいだろうと、無理に起きあがる。  食卓に着くと、玉子雑炊と野菜スープが湯気を立てていた。  由維が、なんだか奇妙な表情で奈子のことを見ている。いつになくシリアスな顔だ。  奈子はスプーンを手にとって、スープを一口飲もうとしたが、その匂いを嗅いだだけで吐き気がこみ上げてきた。  思っていた以上に症状は重いらしい。  手で口を押さえて、慌ててトイレに駆け込んだ。  昨夜もほとんど食べていないから、胃液しか出てこない。  それでも、吐き気はなかなか治まらない。 「ふぅ…」  なんとか一息ついて、トイレットペーパーで口を拭ってトイレに流す。  その時になってようやく、ドアが開けっ放しなことに気付いた。  外に、由維が立っている。  不思議な表情で、奈子を見ている。 「…何?」  何か言いたいことがあるのかと思って、奈子の方から訊いてみた。 「…ちょっと、こっちに来て」  奈子を促して、由維は居間へ戻る。ソファを指差した。 「そこに座って」  まるで、これから子供にお説教しようとしている母親のようだ、と奈子は思った。二つも年下なのに、由維は時々、奈子の母親代わりのように振る舞うことがある。  奈子が腰を下ろすと、由維もテーブルを挟ん正面に座った。  じっと、奈子を見る。  どうしたのだろう。なんだか由維の様子が変だ。奈子は不安になった。 「何? いったいどうしたの? 妙に深刻な顔しちゃってさ…」 「奈子先輩…」  それは怒っているというよりは、どことなく、呆れているような口調に聞こえた。 「なによ、いったい」 「自分で、気付いてないんですか?」 「だから、なにが?」  訊き返すと、由維は小さく溜息をついた。少し間をおいて、決心したように口を開く。 「奈子先輩…。妊娠してるんじゃ、ないんですか?」 「…え?」  数十秒間、その場が凍り付いたように、二人の動きが止まった。  奈子がその台詞の意味を理解するために、それだけの時間が必要だった。  ぱちぱちと瞬きを繰り返して、由維を見る。  由維は真剣な表情で、真っ直ぐに奈子の目を見つめている。とても、冗談を言っているような雰囲気ではない。 「…に、妊娠? アタシがぁ? なに馬鹿なこと言ってンのっ?」  重苦しい空気に耐えきれなくなって、奈子はその場を笑い飛ばそうとした。  しかし、由維はぴくりとも表情を変えない。 「じゃあ、聞きますけど…」  ゆっくりと、口を開く。 「エイシスさんとエッチした時、避妊しましたか? 奈子先輩のことだから、自分の安全日だって知らないんでしょう?」 「う…」  言われるまで気付かなかった。そういえば、考えもしなかった。妊娠の危険なんて。 「それに、最後に生理が来てからどれだけ経ちました? いくら何でも、間が空き過ぎじゃないですか?」 「いや…、でも、それは…ほら、十代の頃って、けっこう不規則な人も多いって言うじゃん?」 「そうですね。普段から不規則な人なら、そういうこともあるでしょうね。でも奈子先輩は過去一年間、原子時計並に正確な周期でしたよね」 「人の生理周期をいちいちチェックするな!」  奈子は真っ赤になって叫ぶ。 「なに言ってるんですか。いつも忘れてて、私にナプキン借りてたくせに」 「う…」  由維の言う通りだ。症状が軽いせいもあって、奈子はこういったことにはひどくアバウトなのだ。  だから、言われるまで気付かなかった。ここしばらく、生理が来ていないことに。最後に来たのはいつだったろう。そういえば、夏休みが開けてからは一度もなかったのではないだろうか。 「…だからって、必ずしも妊娠とは…」 「そうですね。ここで言い合っていても埒があきませんね。はっきり決着をつけましょう」  由維は、テーブルの上にひとつの箱を置いた。ちょうど、歯磨きの箱をやや大きくしたような細長い箱で、白地にピンク色の線が描かれている。  奈子はその箱を手に取ると、書かれている文字を読んだ。 「ドゥーテスト…なにこれ?」 「知りません? 妊娠判定薬ですよ」 「に…、なんで、そんな物が家にあるの?」  まさか普段から常備してあるわけではあるまい。 「いま買ってきたに決まってるじゃないですか」  由維が言う。それで納得した。朝食の用意だけにしては、ずいぶん時間がかかっていると思ったのだ。 「はい、調べてみてください」  トイレの方を指差す。 「うぅ…でも…」  奈子は妊娠判定薬の箱を手に、ぐずぐずとしている。 「はっきりするのが、恐いんですか?」 「う…」  そう。確かにそうだ。事実を見つめるのが恐かった。  これで、はっきりしてしまう。  妊娠なんて。  由維の思い過ごしであればそれに越したことはないのだが、その可能性が極めて低いことは、自分でもわかっている。 「それとも、いきなり病院に行きますか?」 「イヤ! それはイヤ!」 「じゃあ、まずはこれで調べてくださいね」  にっこりと笑って言う。奈子は逆らえなかった。  仕方なく、立ち上がってまたトイレへ入る。  そして数分後――  瀕死のゾンビよりも血色の悪い顔で、奈子が戻ってきた。           * * * 「ど、ど、ど、どうしようっ?」 「まずは、病院じゃないですか?」  おろおろと狼狽えている奈子に対して、由維はずいぶんと冷静だった。 「あ、そ、そうだね。えっと、この近くの産婦人科って…?」 「白岩学園大の医学部付属病院でいいんじゃないですか? 奈子先輩、外科は常連さんでしょ」 「あ、そっか、そうだよね」  空手の稽古や試合では、怪我をすることも多い。白岩学園大付属病院の外科は、奈子に限らず極闘流の門下生が頻繁に利用していた。 「もう、落ちついてくださいね」  意味もなくばたばたと走り回っている奈子をたしなめる。 「落ち着けったって、無理だよ」  奈子の言うことにも一理ある。この状況下で当事者が落ちついているのは、ちょっと難しいだろう。 「えぇっと、なにがいるんだろう? 保険証と、お金と…。ねぇ、中絶ってどのくらいかかるんだろ? …って、あんたに訊いても知ってるはずないか」 「え?」  奈子の妊娠が発覚しても、これまで信じられないくらい冷静だった由維が、初めて驚いたような声を上げた。 「中絶…?」  信じられないといった表情で、目を見開く。  そのただならぬ雰囲気に、奈子も動きを止めて由維を見た。  しかしすぐに、由維は冷静さを取り戻したようだ。見開いた目が、軽く伏せられる。 「殺すの…? 赤ちゃん、殺しちゃうの?」  抑揚のない、静かな口調だった。  その表情はむしろ、泣いているようにも見えた。  泣いている…? どうして。  驚いたのは奈子の方だ。信じられなかった。  これではまるで、由維は中絶に反対しているみたいではないか。 「だ、だって…」  まさか、産むわけにはいくまい。  奈子はまだ高校生で、もちろん未婚で。  しかも相手は恋人でもなんでもなくて。その上、この世界の人間ではないのだ。  そう、相手はエイシスしか考えられない。奈子の男性経験は過去エイシスと高品の二人だけで、高品との関係はもう一年半以上も前の一度きりだ。 「あのね、奈子先輩」  由維は静かに言った。 「ひとつの命…なんだよ。奈子先輩の中にある、もうひとつの命」  奈子の隣に移動してきた由維は、下腹部にそっと手を当てる。 「…ここにいるのは、奈子先輩の血を分けた、子供なんだよ」  決して、奈子のことを責めているわけではない。ただ淡々と言う。  透き通った、純粋な瞳で奈子を見ていた。  言われて、奈子も気付いた。  自分は、ひとつの命を殺そうとしていたのだ。それも、自分の子供を。  冷静になって、そんなことができるのかと自分に問いかけてみれば――  答えは、否だった。 「だけど…でも…どうしよう?」 「産めばいいじゃないですか」  由維はあっさりと言う。 「そんな簡単に!」 「難しく考えたって、選択肢は産むか産まないかの二つしかないんですよ?」  その通りだ。しかしだからといってそう簡単に割り切れるものでもない。 「母さんにはなんて言えば…」 「正直に言っちゃえば?」 「言えるわけないでしょ!」  言えるわけがない。  異世界で、しかも恋人でもない男との間にできた子供なんて。 「じゃあ『誰が父親かわからない』ってのは?」 「もっと悪い!」  真っ赤になって叫ぶ。 「それに、産むったって、学校だってあるし…」 「あれ、知らないんですか?」  由維の瞳が輝いた。 「なにが?」 「白岩学園の校則には、ちゃんと女生徒の出産休学に関する規定がありますよ。高等部はね」 「えっ?」  慌てて、部屋から生徒手帳を持ってきてページを繰った。これまで生徒手帳なんて、持っているだけでろくに開いたこともない。  信じられないことだが、由維の言う通りだった。 「…なんて学校よ」  奈子は絶句する。 「進んでますよね〜」 「…の一言で済ましていいのか?」  かなり自由な校風の白岩学園ではあるが、いくらなんでもこれはやり過ぎという気がする。 「でもさ…、アタシに、子供の世話なんてできると思う?」 「大丈夫!」  由維は胸を張って言った。 「赤ちゃんの面倒は私が見てあげる」  嬉しそうに宣言する。  その時になってようやく、奈子は妙なことに気がついた。 「由維…あんた…」 「はい?」 「どうして、そんなに嬉しそうなの?」  考えてみれば先刻から、奈子に子供ができたことを喜び、産むことを勧めている。  普通なら、やきもちを妬いて泣きわめく場面ではないだろうか。女同士とはいえ、由維は奈子の恋人なのだから。 「だって、嬉しいじゃないですか。奈子先輩の子供ですよ? きっと可愛いでしょうね〜」 「いや、だから…どうして…」 「やきもち妬かないのかって?」  由維も、奈子の言いたいことはわかっているようだ。 「だって、どんなに好きでも、私と奈子先輩じゃ子供は作れないもの。だとしたら、奈子先輩の子供を私たち二人で育てるしかないでしょう? きっと可愛いだろうな〜」  奈子は首を傾げた。  そういうものだろうか。なんとなくずれているような気がしないでもないが。しかし、由維が納得しているのなら、それでいいのだろう。 「あ、そういえば…」  ふと思い出したように、由維が言った。 「エイシスさんにも、報告しなきゃダメですよ」 「どうして?」 「だって、父親なんですから」 「言えるわけないじゃん。アタシが? なんて?」 「そのままでいいじゃないですか。『えへ、できちゃった(はぁと)』って」  言った後でその光景を想像したのか、由維は自分の台詞に笑い転げる。 「言えるわけないっしょっ!」 「じゃあ、私が言いましょうか?」 「ヤダ! 恥ずかしい! いいじゃん、あんな奴放っといたって」 「あのね、奈子先輩」  子供を諭すような口調で言う。 「事情はどうあれ、エイシスさんはお腹の赤ちゃんの父親なんですよ。産む産まないを奈子先輩が決めるとしても、エイシスさんにはそれを知る権利があるんです」 「だって…」  いったい、あのエイシスに対して、どんな顔をしてそんな報告をすればいいというのだろう。 「私が言ってもいいんですけど、やっぱり、自分で言うべきだと思うんですよ」 「……うん」 「あとは、奈子先輩のご両親ですけど…。これはもう少し考えましょうね。どう説明するのがいいのか」 「……うん」 「早いうちに、病院も行かなきゃダメですよ」 「……うん」 「うふふ〜、楽しみだな〜。奈子先輩の赤ちゃんか〜」  由維は、奈子のお腹に優しく頬ずりする。  奈子はぼんやりと、そんな様子を見ていた。  まだ、実感が湧かない。  自分の胎内に、ひとつの命が宿っているなんて。  それが、あと一年もしないうちに一個の人間として生まれてくるなんて。 (子供…アタシの…?)  まだ信じられない。  そして…。  どうしてだろう。つい先刻まで、あんなに狼狽えていたはずなのに。  今は知らず知らずのうちに、口元に笑みが浮かんでいた。           * * *  それから一週間ほど過ぎたある日。  その日は体調が良かったので、奈子は向こうへ行ってみた。  由維は来ていない。気を利かせたつもりなのだろうか。本音を言えば、ついてきてほしかった気がする。  今回は無事にソレアの家に着いた。魔法陣のある地下室から、階段を上って居間の扉を開ける。  すると。 「なんで! あんたがここにいるのよ! よりによって今日!」  奈子は一瞬で真っ赤になって叫んだ。  まだ、心の準備が何もできていないのに。  そこにはソレアもユクフェもいなくて、よりによってエイシスがいるなんて。 「なに怒ってんだよ? ソレアとユクフェなら留守だぜ、買い物に行ってる。俺は留守番な」  エイシスが言う、 「フェイリアやリューは?」 「今日は来てない。あいつらは、俺ほど暇人じゃないし」  しかし、これはある意味チャンスかもしれない。  他に誰もいない。言うなら、今しかない。 「あ、あのね、エイシス…」  奈子はおずおずと口を開いた。 「ん?」 「あ、あの、じつは、その…」 「なんだよ、らしくないな」 「あの、だから…、えっと…」  奈子が言い淀んでいると、エイシスは不気味なものでも見るような顔になった。  恥ずかしそうに赤くなってもじもじしている奈子なんて、これまで見たことがないのだから無理もない。ベッドの中でさえ、もう少し大胆だ。 「あのっ、つまりね、え〜と…」 「あら、ナコちゃん。いらっしゃい」  なんとか言葉を絞り出そうとしていた奈子は、背後からの突然の声に、飛び上がるほど驚いた。 「ソ、ソ、ソレアさん!」  裏返った声で叫ぶ。 「今日はユイちゃんはいないの? どうしたの、そんなに真っ赤な顔しちゃって」 「な、な、なんでもない!」  両手をばたばたと振って慌てふためいて応えると、ソレアは奈子とエイシスを交互に見た。 「はは〜ん、もしかして、いいところで邪魔しちゃった?」 「う、ううん! 全然! そんなんじゃない! あ、買い物してきたの? 荷物、アタシが片づけるから!」  奈子はソレアの手から荷物を強引に奪うと、ユクフェの手を引いて台所へ向かった。 「どうしたの、あの子?」  そんな奈子の後ろ姿を見ながら、今度はエイシスに訊く。 「さあ? 今日は来るなり、あんな調子だったな。なにか悪い物でも食べたかね?」 「ふぅん…」  ソレアは何か考え込む。ほんの一瞬だけ驚いたような表情を見せて、それから意味深な笑みを浮かべた。 「今日は、ファージがいなくて正解だったかもね」  小さな声で言う。 「何か言ったか?」 「ううん。独り言」  そう言うと、首を傾げているエイシスを残してソレアも台所へ消えていった。 七章 戦闘人形 「いらっしゃい、ユイちゃん。今日はナコちゃんは?」  ソレアが訊ねる。由維は小さく肩をすくめた。 「今日もダメ。まだ、つわりが治まらなくて…」 「そう。今が大事な時期だし、無理しない方がいいわよね」  奈子の妊娠発覚以来、由維はたまに、一人でこちらへ来るようになっていた。  最初は奈子も心配していたのだが、試しに二人でくる時に由維に転移を任せてみたら、奈子よりもよほど精度がよかった。  これまでノーミスで、数回に一回の割合でミスする奈子とは大違いだ。魔法の精度に関しては、由維の方が素質がありそうだった。  奈子は最近、家で寝ていることが多い。つわりが重くて出歩けないのだ。  転移の際、たまに乗り物酔いに似た症状が出ることがあるのだが、今の奈子ではそれに耐えられそうもない。  今のところ、このことを知っているのは由維とソレアだけだ。結局、まだエイシスには言えずにいるようだし、ファージにも伝えていない。もちろん、エイシスが知らない以上フェイリアやリューリィにも言えるわけがない。  それは奈子のつわりが治まって、またこちらに来られるようになってからの問題だろう。  由維はソレアからティーポットとカップを受け取ると、書斎へと向かった。最近はここで過ごす時間が多い。  具合の悪い奈子を家に残して、由維がこちらへ来ているのは勉強のためだ。  魔法について。この世界の歴史について。  ソレアの書斎にある、貴重な書物を片っ端から読みあさっていた。 「本当に、勉強が好きなのね」  ソレアが感心したように言う。そんな由維に刺激されて、ユクフェも一生懸命勉強に励んでいるのだから、ソレアにとっては歓迎すべきことだ。  確かに由維は、もともと勉強は得意だし、好きだ。  しかし、それだけではない。  由維には、この世界のことをもっと知らなければならない理由があった。  それは、奈子のため。  今の奈子は、以前よりもずっと深く、この世界に関わっている。  最初の頃のように、訳もわからずに巻き込まれたり、遊び半分で来ているのとは違う。レイナの剣を受け継ぎ、聖跡に足を踏み入れ、少しずつ、そして着実に、この世界への影響を、さらにはこの世界からの影響を強めている。  本人が望んだことではないかもしれないが、だからといって、もう、引き返すことはできない。  だから由維は、少しでも奈子の力になりたかった。できるだけ多くのことを学んで、奈子を助けたかった。  異世界で、ただ奈子に護ってもらうだけでは駄目なのだ。  どちらかが相手に一方的に依存するのではなく、お互いを支え合って生きていきたい、と。  そう思っていた。  そうした理由で、大きな書斎を埋め尽くす本を片っ端から読みあさっていた。  その多くは王国時代の物。  それより後の時代の物もいくらかある。  一般には知られていない、失われた知識についての書物もある。なにしろここには『墓守』の知識が蓄えられているのだから。  由維には、知りたいことが山ほどあった。  まずなにより、魔法について。  その起源。力の源。そして、その力で何ができるのか。  それは、この世界を支え、支配する力だ。避けて通ることはできない。  そして次に、この世界の歴史について。  王国時代以降のことはだいたい資料が揃っているが、それでも謎は多い。例えばエモン・レーナの正体。これについては、ソレアも本当に知らないらしい。  そしてトリニアやストレインの時代はともかく、デイシア帝国よりも前の、無数の小国が乱立していた戦国時代までさかのぼると、信頼できる資料は極端に少なくなる。  それ以上古い時代、一万年以上もさかのぼるともうお手上げだ。  原始時代から文明の曙にかけての時代の情報が、由維の常識では考えられないくらいに不足している。  十万年前にこの星を襲った『大破局』の影響だ。  それは、おそらく巨大な隕石の衝突。由維の世界でそれほどの大災害が起こったのは、六千万年以上も前のことだ。恐竜絶滅の原因といわれる、ユカタン半島への巨大隕石の落下がそれだ。  この世界では、それに匹敵する大異変がおよそ十万年前に起こっている。地質学的時間から見れば、それはつい最近といってもいい。  その大事件が、現在と過去とを大きく分断している。  歴史の連続性が途切れてしまっている。  だから、十万年前に滅びた『前文明』がどの程度のものだったのか――紀元前のエジプトや中国程度のものだったのか、それとも中世くらいまで進んでいたのか――すらわからない。  知りたいのに、知ることができない。由維にとっては欲求不満がたまる。  もっと新しい時代だって、エモン・レーナや、ストレインの皇帝ドレイア・ディ・バーグといった人物の周辺は謎が多い。  古い時代の資料に関しては、ちょっとした国の王宮図書館でも及ばないソレアの蔵書をもってしても、わからないことはいくらでもあった。  一度、ソレアに訊いてみたこともある。ここで学べる以上のことは、どこへ行けば知ることができるか、と。 「ハレイトンやアルトゥルといった古い国の王宮図書館。あるいはアルンシル…トカイ・ラーナ教会の総本山。そういったところなら、少なくともここに匹敵するくらいのものはあるでしょうね」  ソレアは苦笑混じりに言った。  本来、そういった知識を封印するのが、墓守と呼ばれる者の役目である。しかし彼らの目を逃れたものが、少なからず存在するのも事実だった。 「あと、マイカラスの王宮も、数は少ないけれど価値のある書物が残っているわね」 「聖跡…は?」  聖跡、それはエモン・レーナの墓所。不死身の竜騎士に護られ、大陸の歴史を見守り続ける謎の遺跡だ。  由維は、まだ行ったことがない。 「あそこは…それ自体興味深い存在ではあるけれど、書物の形で情報を保管しているわけではないし。第一、誰でも入れるわけじゃないし」  聖跡の番人は、何者の侵入も許さない。一般にはそう言われている。しかし何事にも例外はある。例えば奈子やフェイリアのような。 「ソレアさんは入ったことあるの?」 「これまで、二度…クレインには会ったことがあるわね。墓守の後継として、一応挨拶もしなきゃならないし。あまり歓迎はされなかったけれど」 「歓迎されない? 墓守なのに?」 「クレインは本来、墓守とも距離を置いているのよ。ファージの一件を除けば、彼女はただ聖跡を護って、大陸の歴史を見守っているだけなの。だからユイちゃん、一人で行ってみようなんて考えちゃ駄目よ」 「わかってますよ。そのうち、奈子先輩に連れてってもらおうっと。あと、マイカラスにも」  そう言ってから、由維は少し考え込んだ。 「ハレイトン王国や、トカイ・ラーナ教会が持っている資料、なんとか見ることはできないかな?」 「無茶なこと言わないの」  ソレアが苦笑する。 「国の最高機密よ。王宮の中でも一握りの人間しか触れることができないような。それを部外者…よりによって墓守の関係者に、見せてくれるはずがないじゃないの」 「それもそうですよね〜」  そう言ってうなずく由維は、やっぱりどこか残念そうだった。 「じゃあ私は、ユクフェちゃんの勉強を見てくるから。何かあったら声をかけて」 「はーい」  ソレアが出ていって、由維は一人で書斎に残った。  そこへ、いつの間にこの家へやってきたのか、ファージが顔を出す。 「な〜んだ、ユイだけか。今日もナコはいないの?」  つまらなそうに口をとがらせる。 「残念でした」  由維は、本からちらりと顔を上げて応えた。 「ちぇっ」  奈子がいない時は、由維とファージも取っ組み合いの喧嘩なんかしない。別に、仲良しというわけでもないが。  結局のところ、奈子の気を引きたいがための喧嘩であって、二人きりの時にやっていても体力の無駄でしかない。 「最近、あまり来てくれないんだもんな〜」 「い、いろいろ忙しいんですよ、奈子先輩も」  由維は曖昧に誤魔化した。  ファージは奈子の身体のことを知らない。当分は内緒にしておこうと、ソレアと相談して決めた。そうしなければ、エイシスの命が危ないから、と。 「あ〜あ、仕方ない」  ファージは溜息をつくと、いきなり由維に抱きついてきた。驚いた由維の手から本が落ちる。 「な、なにすんのっ?」 「ナコと間接抱っこ」  笑って応える。 「最近、ナコに抱きついてないし…」  ぎゅっと腕に力を込める。 「こら〜っ!」  由維がいくら暴れても、ファージ相手に単純な腕力で敵うはずがない。竜騎士候補だったファージと違い、由維は筋力の点では普通の「ちょっと元気な女の子」でしかない。 「ん〜、ナコの匂いがする」  ファージは、由維の胸に顔を押しつけるようにして言った。偶然かわざとかは知らないが、唇が敏感な部分に触れている。 「もぉ、やめてよぉ!」 「せっかくだから間接抱っこだけじゃなくて…」  ファージの顔が胸から離れた、と思った瞬間、いきなり唇を奪われた。  抗う隙を与えずに、舌が差し入れられる。 「んっ、ん…」  腕をしっかりと掴まれて、抵抗することもできない。  それに… (ちょっと…気持ちイイかも…)  目をつむると、なんだか奈子にキスされているような気がする。舌の使い方が、少し似ているように思えた。  考えてみれば、奈子とファージは何度もキスを重ねているのだ。当然、奈子よりもファージの方が経験豊富だろうから、奈子のキステクニックはファージに教わったのかもしれない。  濃厚なキスは数分間続いた。奈子とだって、これほど激しくしたことはない。その間、ファージの手は腰やお尻に回されていた。  目を開くと、宝石のような金色の瞳が由維を見つめている。  まるで、魂が惹き寄せられるような眼差しだ。  しばらくたってようやく解放されたが、脚に力が入らなくて、虚ろな表情でその場に座り込んだ。 「んふふ〜、ごちそうさま。けっこう美味しいね、ユイも」  ファージが笑う。由維は意識が朦朧として、言い返す気力もない。 「さて、じゃあ仕上げは…」 「…え?」  ぼんやりとした頭でも、殺気を感じた。 「間接エッチだ!」  ニヤリ。  ファージが、危険な笑みを浮かべて言った。 「うわぁぁぁん、ファージのバカ〜ッ!」  そんな叫び声に続いて。  ばたばたと走る足音。  扉がばたんと閉められる音。  そして、扉に鍵をかける音が聞こえてきた。  その時、ソレアはユクフェに勉強を教えていたところで、二人して顔を見合わせる。 「なに、今の?」 「ユイおね〜ちゃんの声だね」  二人が首を傾げていると、そこにファージが姿を現した。 「えへへ〜、泣かせちゃった。冗談のつもりだったのに」 「ファージ、あなた何をしたの?」 「んふ、ちょっとね〜」  ファージは、ぺろりと舌を出して笑った。             * * * (もう、昼か…)  居間のソファに横になって、奈子はぼんやりと考えた。  今日は、由維はいない。  一人で向こうへ行っている。  特に危険はあるまい。同じファージのカードを使っているのに、由維の転移は奈子よりもはるかに精度が高いのだから。  向こうで奈子がトラブルに巻き込まれるのは、そのほとんどが転移をミスして変な場所に出たことがきっかけだ。真っ直ぐにソレアの家へ行けば、危険な目に遭うことはまずない。  一人で危険な場所へは行かないように、よく言い聞かせてあるし、ソレアやファージにも監視を頼んである。  まあ、由維一人でも大丈夫だろう。  由維は勉強好きで好奇心が強いから、疑問をそのままにしてじっとしていられないのだ。奈子が向こうへ行けないのは、完全に自分の不注意だから、由維が行くのを止めるわけにもいかない。 (それにしても、子供…か)  やっぱり、信じられない。  自分が、母親になるなんて。  だけど、それが現実なのだ。  横になって目を閉じ、そっとお腹に手を当てる。  確かに、感じることができる。まだ三ヶ月くらいなのに。  自分の中にある、もう一つの命の存在がはっきりと感じられる。あるいは、魔法の力によって感覚が鋭敏になっているのかもしれない。 (名前、どうしようかな…)  気の早いことを考える。男の子だった場合、女の子だった場合。 (どっちにしても、将来は格闘家だよな…)  勝手に、子供の進路まで考える。  奈子とエイシスの子供であれば、体格も素質も申し分あるまい。しかし別に他のスポーツ選手でも構わないはずなのに、格闘技にこだわるあたりが奈子の趣味である。 「奈子、お粥ができたよ」  奈子がぼんやりと考え事をしていると、そんな声が聞こえた。 「…いつもすまないね」  お約束として、そう応える。 「それは言わない約束でしょ」 「…ぷっ」  二人して、同時に吹き出した。  相手はもちろん由維ではない。奈子の具合が悪いのに由維が留守だと聞いて、亜依が来てくれたのだ。彼女も、奈子が一人では満足に食事も作れないことを知っている。  もっとも亜依はまだ、奈子の身体のことは知らない。今のところ、ただの風邪と誤魔化している。いずれは、打ち明けなければならないだろうが。 「だけど奈子、ホントに具合悪いの?」 「え? ど〜して?」  具合が悪いのは本当だ。身体はだるくて熱っぽいし、まだつわりも治まってはいない。 「だって、ぜんぜん具合悪そうな顔してないよ? なんだかすごく幸せそう。それに、奈子って最近きれいになったよね」 「え、そ、そう?」  奈子は朱くなって、頬に両手を当てた。           * * *  翌週の週末も、由維は一人で向こうへ行こうとしていた。  金曜の夜、奈子のところに顔を出した後、奏珠別公園の展望台へ向かう。 (今日は、何を調べようかなぁ。やっぱり…)  知りたいことは山ほどあるが、いま一番の疑問は、あの世界の『神』についてだった。  奈子が初めて向こうへ行った頃から、由維はその世界のことについて、奈子が知っていることはすべて聞かせてもらっていた。  しかし、奈子の知識もごく限られたものでしかない。話を聞いて想像していたことと、実際に見たことでは、ずいぶんと違っていることもあった。  正直なところ、由維は初めの頃、もっと簡単に考えていた部分があったのだ。  奈子が話してくれた、二種類の神について。  ファレイアの神々と、ランドゥの神々。  ファレイアの主神トゥチュは太陽神だ。それに対してランドゥは、闇の中から生まれた神である。  神話によれば、二つの神は太古から対立を続けているという。だから由維は、それこそファンタジー小説やロールプレイングゲームによくあるような「光と闇の闘い」だと考えていたのだ。  剣と魔法の支配する世界。光の神と暗黒神の闘い。ファンタジーの王道ではないか。  しかし、どうも様子が違う。  トリニアをはじめ、コルザ川より南部の地域では、古くからファレイアを信奉していた。ストレイン等、北の国々はランドゥを崇めていた。  そうした国々では、対立する神は邪神である。奉ずる神の違いが、古くから戦争の原因にもなっていた。トリニアとストレインの対立も、元を辿れば宗教戦争的な意味合いが強い。  しかしそんなことは、由維の世界でもよくあることだ。  権力者にとって、信仰心に訴えることは民衆を操るもっとも有効な手段の一つだ。あの世界でも、それは共通している部分がある。トカイ・ラーナ教会などはその典型ではないか。  面白いことだ。  闘いの女神の化身、アール・ファーラーナの存在が信じられている世界。  竜騎士の力は、神々から授けられたものと信じられている世界。  なのに由維がいくら調べても『神々』の存在を実体として捉えることはできなかった。由維の世界と同じく、神とはひどく抽象的な存在でしかないのだ。  魔法が存在する故に、神の存在も現実のものとして受け入れてしまいそうになるが、もしかしたら違うのかもしれない。  エモン・レーナは確かに謎の多い人物だ。そして、千五百年前に彼女が実在したことはまず間違いないだろう。  だがそれをいったら、イエス・キリストだって実在の人物なのだ。しかし彼が起こしたとされる奇蹟の数々は、熱心なクリスチャン以外にとっては眉唾でしかないだろう。  神という言葉は便利なものだ。どんな疑問も不条理も、神に責任を負わせることができる。  しかし由維が学んだ範囲内においては、結局あの世界の歴史も、人間が紡いできたものなのだ。  あの世界は、別に神様が創ったわけではない。宇宙そのものを創造したのが神であるなら話は別だが、仮にそうだとしても、神がその世界に干渉したのはビッグバン以前のことだろう。  もしも神というものが実在するとしたら、それは物理の法則を決め、創世のスイッチを入れて「後は好きにしなさい」と言うだけの存在に違いない。  ノーシルと呼ばれるあの星は、四十億年以上昔に、由維が知るものと同じ物理法則に従って誕生した。  そして、地球とよく似た、しかし少しだけ違う歴史を歩んできた。  魔法という不可思議な力を除けば、二つの世界の間にそれほど大きな違いはない。  もしかしたら、魔法だっていずれは科学的に説明できるのかもしれない。 (科学的に…か)  そんな考え方は、ある意味偏見かもしれない。科学万能の社会に住む者の。しかし真理を追究する術は、必ずしも科学だけとは限らないだろう。  向こうの世界は、いわゆる科学技術、機械技術に関してはこの世界での中世レベルにも劣るかもしれない。しかし、文化や知識のレベルはその時代よりもずっと高い。  王国時代の知識は、特に自然科学の分野に関しては極めて高いレベルにあった。それは科学的な手法によるものではなく、魔法学の研究によって得られたものである。  彼らは、多くのことを知っていた。その豊富な知識には、由維も驚かされた。  例えば星のこと、宇宙のこと。  トリニアの時代には既に、自分たちの住む世界が、ノーシルという一個の星であることが知られていた。  それが、太陽を巡る惑星であることも。  銀河の存在を知り、宇宙には、同じような銀河が無数に存在することも。  ノーシルの誕生から現在までの歴史も。  いずれも、非常に高度な知識を保有していた。  そして、生命のこと。  生物の身体が細胞から作られていること。  細菌やウィルスの存在。  そして、生命の源が遺伝子…DNAであることさえ。  もしかしたら、遺伝子を操る技術はこの世界を越えているかもしれない。  王国時代、ドールと呼ばれる様々な魔法生物が人為的に創りだされていた。王国時代の後期には、それは単なる掛け合わせによる品種改良ではなく、異なる種の遺伝子の結合、あるいはまったく一から合成された遺伝子によって生み出されるようになっていた。  王国時代のドールの中で、一般に最高傑作と呼ばれているのが亜竜だ。それは竜に似ているが、竜の遺伝子のクローンではない。竜を目標に、一から作られた人工の生命だった。  由維は亜竜を、そしてもちろん竜も見たことはないが、それがどれほどの力を持った生物であるかは聞いている。  そして…。  ドールの真の最高傑作は、あの少女だろう。  ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。  人の形を取り、竜騎士を越える力を持った魔物。  ソレアが、こっそり教えてくれた。  ファージは、人間の遺伝子を操作して強大な力を持たせたものではない。まったく異なる遺伝子を元にして、人の形を取るように手を加えたものなのだ、と。  そう聞いても信じられなかった。  実際に会ったファージは、とても人間くさくて。  話していても楽しい相手だった。  あれで恋敵でなければ、もっと仲良くしたっていい。  ファージの遺伝子がどのように創りだされたのか、正確なところはわかっていないという。  彼女を生み出した魔術師は、早くに亡くなっていた。表向きは病死ということになっているが、実際には自殺だったらしい。自分の屋敷に火を放って、自身もその中で焼け死んだのだ。  その時、彼が行っていたドールの研究に関する資料も、すべて失われたという。  唯一残ったのは、炎などでは殺すことのできない存在、後にファーリッジ・ルゥと名付けられることになる赤ん坊だけだった。 『私が調べたところでは…』  ソレアが言っていた。 『ファージの遺伝子は、むしろ竜に近いわね。竜の持つ魔力をさらに強力にして、それを人間の形にしたもの…というのが一番近いのではないかしら』 (竜…ね)  本物の竜は、向こうの世界でももう見ることができない。トリニアとストレインの最終戦争後間もない時期――今から千年近く前――に絶滅してしまった。  戦争で失われた竜も多いが、竜はもともと数も少なく、繁殖力も弱い生物だったという。  そのため、高い知性と強大な魔力を持ってはいるが、その巨体が災いして、戦争が引き起こしたノーシルの環境の急変に対応できなかったのだろう。 (人よりも、竜に近い生き物…か。そうは見えないよなぁ…)  人なつっこくて、ちょっと乱暴で、やきもち妬きな女の子。  そして、かなりエッチでテクニシャン…。  不意に、先週のことを思い出した。顔が真っ赤になる。  いきなりキスされて、無理やり、それ以上のこともされそうになって…。 (奈子先輩以外の人に、あんなコトされて感じるなんて、私ってば…)  もちろん奈子には話していない。奈子は自分のことは棚に上げて、由維の浮気にはすぐ嫉妬するのだ。 (これじゃあ、奈子先輩が少しくらい浮気しても怒れないよなぁ)  溜息をつく。 (今日はファージはいないといいなぁ。顔会わせにくいもん)  そんなことを考えながら、転移のカードを取り出して呪文を唱える。淡い光が、由維の身体を包み込んだ。           * * * 「……奈子先輩じゃあるまいし」  思わず、そんなことをつぶやいた。奈子に聞かれたら怒られそうな台詞だ。  そこは、真っ暗な場所だった。周囲は何も見えないが、足の下には堅い、平らな石の感触がある。  由維は呪文を唱えて、小さな魔法の明かりを灯した。それで周囲を照らしてみる。  かなり広い、石造りの部屋だった。地下室だろうか、窓は一つもない。ただ、扉が一つあるきりだ。 「やっちゃった…」  そう。由維は今回、初めて転移に失敗したのだ。ファージのことやなんかを考えていて、精神集中が不十分だったのだろうか。 「どこ…ここ…?」  人の気配は感じられない。  奈子が転移に失敗した時は、王国時代の遺跡に出ることが多かったという。しかし、どうやらここは違うようだ。  今は人の気配はないが、時々、人間が訪れている様子があるし、床には埃もほとんどない。  部屋の中には特にこれといったものはない。となると、扉を開けて外に出てみるしかなさそうだ。  ほんの少しだけ扉を開き、隙間から外を覗いてみる。  どうやら、通路のようだ。同じような石造りの壁が続いている。壁の所々に魔法の明かりが灯っていて、ぼんやりと明るい。  向こうから、人がやってくる気配がした。由維は慌てて顔を引っ込める。ほんの小さな隙間から、様子をうかがった。  通路を歩いてきたのは、二人の中年男性だった。法衣らしきものをまとっている。何か小声で話しているが、はっきりとは聞こえない。  しかし、その中に一つだけ、明瞭に聞き取れた単語があった。「アルンシル」と。  思わず、声を上げそうになった。  別にこの世界で、教会や神殿は珍しいものではない。宗教者らしき人間が歩いていたとしても、気にすることでもない。  しかし…。  もしも、由維の懸念が的中していたら。  ここが、トカイ・ラーナ教会――それも、一般の信者は立ち入ることができない総本山の奥部『アルンシル』だとしたら。  大変なことになった。 (なんで、こんなところに…)  確かに、転移をミスした時は、魔法的な影響の濃い場所に出ることが多いという。しかしアルンシルともなれば、大国の王宮並に強固な結界が張られているだろうに。うっかりミスで迷い込めるような場所ではない。  そう考えてから気が付いた。  奈子や由維の次元転移は、通常の空間転移に比べると、対転移結界の影響を受けにくいのだ。 (だからといって、マズイよなぁ。いくら、こっちに来る前に宗教のことを考えていたからって。こんな、神様のお膝元に…)  そういう雑念が、転移には一番よくないのに。  今回は、精神集中が足りなかったかもしれない。 (どうしよう…どうしよう…)  膝ががくがくと震えていた。  好ましからざる事態、というべきだろう。  トカイ・ラーナ教会は、奈子やソレア、ファージにとっては『敵』だ。その関係者となれば、見つかった時ただでは済まないだろう。  下手をしたら、殺されるかもしれない。 (殺…される…?)  身体から力が抜けて、へなへなと座り込んだ。  由維は今、ひとりきりで敵地の真ん中にいるのかもしれないのだ。  絶望的な気持ちになる。  由維や奈子は、最低でも十数時間の間を置かなければ、次の転移はできない。  それまで、逃げ出すこともできない。  ここに、ひとりきりでいなければならない。  奈子はいない。ソレアも、ファージも。 (怖い…)  全身が震え出す。  これまで、考えたこともなかった。自分の命が危険にさらされるなんて。  そう、今はひとりきりなのだ。  こんなこと、これまでなかった。  物心ついてからこれまで、いつだって奈子が傍にいてくれた。  いつだって奈子が護ってくれた。  その安心感があるから、由維は、なんの不安もなしに行動することができたのだ。  だけど、ここには奈子はいない。 (奈子先輩…)  由維は、膝を抱えるような姿勢で床に座った。  もう、二度と会えないかもしれない。ほんの数分前まで、そんなこと考えもしなかったのに。 (奈子先輩…助けて…)  涙が出てきた。  怖くて、不安で仕方がない。  自分がこんなに臆病な人間だったなんて。  いいや、そうだった。臆病で、泣き虫なのだ。小さい頃から。  そんな弱さを護ってくれたのが、奈子だ。  奈子に護られているという安心感があればこそ、どんな大胆な行動だってとれた。  だから、少しでもお返しがしたかった。  なんでもいいから、奈子の役に立ちたかった。  奈子にとって、大切な存在になりたかった。  その想いは叶ったのに…やっぱり自分は、相変わらず弱虫なのだ。 (私、どうなっちゃうの…。助けて、奈子先輩…)  自分が今アルンシルにいることを、なんとか知らせることができれば。直接奈子に通じなくてもいい。ソレアでも、ファージでも、あるいはフェイリアでも。  そうすれば、きっと奈子が助けに来てくれる。何があっても、ここがどこであっても。 (魔法…)  そう、魔法だ。魔法を使えば、テレパシーのように遠く離れた相手と話をすることだって不可能ではない。  とはいえ、由維は実際にその魔法を試したことはない。  それに、ここが本当にアルンシルだとしたら、強固な結界に覆われているはずだ。その中で下手に外へ通じる魔法など使ったら、自分の存在を周囲に宣伝するのも同然だった。  奈子に知らせるよりも先に、見つかってしまう可能性が高い。それでは話にならない。 (あ…!)  そこで、大変なことに気が付いた。  ここがアルンシルであった場合、そうでなくとも、トカイ・ラーナ教会に属する大きな教会であった場合、もしも見つかって捕らえられてしまったら、どうなるだろう。  由維が、奈子やソレアたちの関係者であると知られたら…。きっと、すぐに殺されはしない。そして、人質として利用されることだろう。  由維が人質になったとしたら、奈子は絶対にやってくる。  自分の身にどんな危険があるとしても、躊躇するはずがない。  奈子がすべてを引き替えにしてでも由維を助けようとすることは、容易に想像できた。 (…ダメ、そんなこと。今の奈子先輩を、そんな危険に巻き込むなんて…)  奈子のお腹の中には、赤ちゃんがいる。とても、闘えるような状態ではない。  本来ならこんな時は、由維が奈子を護ってやらなければならないのに。 (…そうよ、泣いている場合じゃないの)  由維は、手の甲で涙を拭った。  ここで泣いていても何も解決しない。  奈子を護らなければならない。  そのために、いま自分にできることをしなければ。  まずは、ここからなんとかして逃げ出すことだ。  そう決心して、立ち上がった。  まだ、脚が少し震えている。  怖いのは誤魔化しようもない。  だけど、何か行動を起こさなければならない。  いつまでも、小さい頃と同じ泣き虫ではいられないのだ。 (さて、これからどうしよう)  もう一度転移で帰るには、明日まで待たなければならない。それは時間がかかりすぎる。  先刻の二人の男以外、人の気配は感じられない。あまり人が来ない場所なのだろう。  どこかに隠れて、明日までじっとしているべきだろうか。  それとも、外への通路を探した方がいいだろうか。教会から出れば、ソレアやファージとも連絡を取りやすいだろう。 (まずは…もう少し、周囲の状況を知ることよね)  適切な行動を選択するためには、まず十分な情報を集めなければならない。そもそも、ここが本当にアルンシルであるかどうかも、まだわからないのだ。  情報収集をせずに憶測だけで行動したとしたら、うまくいくかどうかはまったくの運任せになってしまう。できるだけ多くの情報を分析して、少しでも成功の確率が高い行動を選ばなければ。  幸い人の気配もないし、ここから出て周囲を探ってみよう。そう、決めた。  もしかしたら、意外と出口は近いかもしれないし、ここよりももっと適切な隠れ場所が見つかるかもしれない。 (万が一誰かに見つかったら…)  念のため、その時のことも考えておかなければならない。  どうするのがいいだろうか。 (…巡礼に訪れた信者の…娘ってのはどうかな?)  トカイ・ラーナ教会の聖地であるアルンシルは、大陸各地から多くの信者が巡礼に訪れるという。  アルンシルの奥部に入れるのは、ごく僅かな高位の神官だけらしいが「親とはぐれて迷い込んでしまった」というシナリオなら、けっこう信憑性はあるのではないだろうか。 (それとも、もしも相手が若い男だったら、色仕掛けってのは……)  そう考えて、自分の身体を見下ろして。 (……無理か)  冷静かつ的確な判断を下した。  やっぱり、子供っぽい顔つきやスタイルを逆手にとって、何もわからない子供のふりをした方が似合っている。  由維はもう一度扉を開けて、顔を出してみた。  所々に灯っている明かりでぼんやりと明るいが、遠くまで見渡せるほどではない。通路は左右とも、少し行ったところで直角に曲がっているようだ。  じっと、耳を澄ましてみた。  何も聞こえない。  心を決めて、通路に滑り出た。  さて、どちらへ行ったらいいだろう。左右とも同じような通路が続いている。  少し考えて、左手…先刻の二人の男たちがやってきた方を選んだ。こちらに何があるかは知らないが、右へ行けばあの男たちがいるのは確実なのだ。  足音を立てないように、慎重に進んでいく。  最初の角を曲がった。その先も真っ直ぐに通路が続いている。  由維が出てきたところ以外には、扉は見当たらない。しかし石造りの回廊は所々に窪みがあって、小柄な由維ならなんとかもぐり込めそうだ。通路が薄暗いことが幸いして、万が一誰かが来た時はここに身を隠せば、やり過ごせる可能性が高そうだった。  ほんの少しだけど、希望が湧いてきた。  微かな気配も見落とさないように、周囲に気を配りながら足を進める。  通路はかなり古いものだ。埃や塵はほとんど積もっていないが、そう頻繁に人が通っている様子もない。  ひんやりとした湿った空気から、やはりここは地下なのだろうと考えた。  ほとんどなんの変化も見られない通路を、ゆっくりと進んでいく。しばらく行って、いくつかの角を曲がったところで、正面に大きな扉が出現した。  由維は扉に張り付くようにして耳を押しつけ、中の気配を探る。  物音は聞こえない。  そうっと、扉を押してみた。  かなり重かったが、ほとんど音も立てずに開く。中をのぞき込んだ。  部屋のようだった。これまで歩いてきた通路と同じくらい薄暗いが、それなりに広そうだ。  慎重に、中へ入ってみる。  がらんとしていた先刻の部屋と違い、ここにはたくさんの書棚が並んでいた。そして、奥に別な扉がある。  ちらりと書棚に目をやる。ぎっしりと本が並んでいた。  古い物が多い。もしかしたら、ソレアの書斎にも匹敵するくらいに。 「これは…」  並んだ本の背表紙にざっと目を通してみた。読めない文字で書かれた物もけっこうある。  それに、ソレアの書斎で見たのと同じ物も…。 (…ビンゴ?)  由維は心の中で舌を出した。  もしかして、トカイ・ラーナ教会が所有しているという、王国時代の失われた知識に関する資料を収めた書庫だろうか。  だとしたら、大変な物を見つけたことになる。残念なのは、ゆっくり読む余裕がないということだ。ここでなら、ソレアの蔵書でもわからなかったことが調べられるかもしれないのに。 (少し、もらっていっちゃおうか?)  ふと、そんなことを思いついた。  泥棒には違いないが、トカイ・ラーナ教会は…いや、もしもここがアルンシルではなかったとしても、王国時代の知識を求める者はソレアやファージの敵なのだ。 (いいよね、少しくらい)  窃盗ではなくて、スパイ活動だ、と。そう言い訳する。  幸いなことに、ポケットの中には物品収納用の魔法のカードが何枚か入っていた。本の百冊くらい、造作なく持ち出せる。  とはいえ、あまり本選びに時間をかけるわけにもいかない。こんなところで本を物色しているところを見つかったら、言い訳のしようもない。  一冊ずつ内容を見て選ぶ余裕はないので、とりあえず古そうな本で、ソレアのところで見た覚えのない本を片っ端から取りだし、カードの中にしまっていった。  念のためそのカードはポケットではなく、靴の中に隠しておく。  部屋の奥には、書物以外のものを収めた棚もあった。  なんだろう。ちょうど弁当箱くらいの金属製の箱が、いくつも並んでいる。  一つ手に取ってみた。ずっしりと重い。  宝石箱のように、上蓋が開くようだ。開けて、中を覗いてみる。  柔らかな布が敷かれて、小さなガラス板が置かれていた。それを手に取ってみる。ガムよりも少し大きいくらいで、厚みはもっと薄い。 「なんだろ…これ」  ぼんやりとした光に透かしてみた。 「顕微鏡のスライドグラス…のわけないよね」  よく見ると、それはガラスではない。もっと鮮烈な輝きを放っている。光の屈折率がガラスとは違うのだ。 「宝石…?」  爪で弾いてみた。なんとなくガラスよりも固い感触だ。 「水晶とか…?」  もしかしたら、魔法に関係した品だろうか? 由維にはよくわからない。 「わかんないから、これも何枚かもらっちゃお」  ソレアやファージなら、きっとわかるだろう。そう思って、カードの中にしまい込む。  一通り部屋の中を物色して、奥の扉の前まで来た。  それを開けようとしたところで、いきなり向こうから扉が開かれた。  由維は驚いたが、向こうも同じくらいに驚いているようだ。そこには、三十代前半くらいの男性が立っていた。 「きゃ〜〜っっっっ!」  反射的に、思いっきり股間を蹴り上げてしまった。  それは、道場で何度も練習した一連の動きだ。相手が前屈みになったところで、後ろ回し蹴りにつなぐ。  蹴りがまともに顎に当たって、男は白目をむいて倒れた。 「…やっちゃった。でも、仕方ないよね?」  本当なら、迷子のふりをする計画だったのに。  しかし、こんな場所に迷い込んだ後では、こうした方がよかったかもしれない。  幸いなことに、他に人はいないようだ。そこは今いる部屋よりも暗く、もっと広い。そして室内にあるものは、これまでとはまるで違っていた。 「…えっと」  とりあえず、目を覚ましても暴れられないように男を縛り上げて、猿ぐつわをかませた。そして、部屋の隅の目に付きにくい場所へ引きずっていって転がしておく。 「で、ここはなんなの?」  学校の教室よりもずっと広い部屋に、所狭しと並べられた大きなガラス容器。小さなものでも一斗缶くらい、大きなものは家の浴槽くらいのサイズだ。いずれも僅かな濁りのある透明な液体で満たされ、管でつながれているものも多い。 「水族館…のわけないよね」  近くにあった、比較的小さな容器をのぞき込んでみた。中に、何かいる。 「――っ!」  由維は声にならない悲鳴を上げ、一メートルほど飛び退いた。  その容器には、体長三十センチほどの、不気味な生き物が入っていた。強いて言えば、サンショウウオの幼生を大きくしたような。  あるいは…何かの胎児だろうか。  恐る恐る、もう一度よく見てみた。今度は心の準備をしてから。  小さな手足が生えていて、丸くなってじっとしている姿は、やはり胎児のようだ。 「…なに…これ」  隣の容器も見てみた。今のと似たような、だけどもっと大きな生き物が入っている。  それを確認した由維は、他の容器も順に見ていった。ほとんどの容器に、同じような生物が納められていた。  まったく同じではない。あるものは両生類、あるものは鳥類、またあるものは哺乳類のような姿をしていた。  発育段階も様々だ。先刻とは逆に、もっと小さな、未成熟のものもいる。  これらは、ホルマリン漬けの標本ではなかった。この容器の中で、生きていた。  時折、身体を震わすように動くものがいる。半透明の皮膚を透かして、心臓が脈打っているのが見える個体もいた。 「なにかの研究室? 気持ち悪いな…」  奥にもまだ部屋が続いている。隣り合ったいくつもの部屋を、扉なしでつないだような構造になっているらしい。  由維は、奥へと進んでいった。あまり長居したい場所ではないが、先がある以上、戻る気にもなれない。  見ていくうちに、胃液がこみ上げてきた。ハンカチで口を押さえる。  やがて、これまでよりもずっと大きな容器が並んだ部屋に出た。これまでの容器と中の生物のサイズとの比率からいけば、この容器の中に入っているものは人間よりもずっと大きいことになる。 「胎児でこのサイズってことは…まさか象とか鯨?」  そう思って覗いてみる。 「……え?」  そこにいた生き物は、これまでとは少し違っていた。  確かに大きい。由維よりも大きいくらいだ。  それでいて、まだ胎児の姿をしている。  それも、奇妙な姿の生物だった。  おおよそのシルエットとして、褐色の鱗に覆われたその身体はオオトカゲに似ている。  しかし、頭の後ろと尻尾の先に生えた各三対の角と、そして背中に生えた翼はなんなのだろう。  その姿は…。 「――竜?」  確かにそれは、本で見た王国時代の竜に似ていた。 「…まさか」  竜のはずがない。  竜は、千年近く前に滅びてしまったはずだ。  現存するのは、人間が創りだした竜に似た生物、亜竜だけだ。 「亜竜を飼育してるのかな…?」  確かに、本物の竜には及ばないとはいえ、亜竜も非常に強い力を持った魔物だ。そして、生息数は極めて少ない。研究材料としての価値はかなりのものだろう。 「あれ? でも亜竜って、鱗が黒いんじゃなかったっけ?」  竜よりもやや小さいことを除けば、姿形はほぼ同じだ。しかし、本物の竜には見ることのない漆黒の鱗が、亜竜の特徴だったはず。  目の前のこれは、黒と呼ぶにはいくらなんでも色が薄すぎる。 「胎児だから? 成長するに連れて色が濃くなるのかな? それにしても…亜竜を飼育しているなんて…」  王国時代の魔法の研究のためだろうか。それとも、兵器としてだろうか。 「どっちにしろ、ろくなことじゃないよね…」  ソレアやファージに伝えた方がいいかもしれない。  生命を弄ぶ行為、という倫理的な問題だけではなく。  どこの国であれ、亜竜を兵器として量産できるとなったら一大事だ。大陸における戦力のバランスが大きく崩れてしまう。そして、また戦争が起きる。  ソレアやファージがこれを知ったら、絶対に放ってはおかないだろう。  亜竜なんて大物が出てきたから、これが最後の部屋かと思ったら、まだ先があった。これ以上の大発見はあるまいと思っていたのだが。  由維は、さらに奥の部屋へと足を踏み入れた。  やはり同じような部屋だが、先ほどの亜竜の部屋に比べれば容器のサイズは小さい。とはいえ、それでも由維はおろか、成人男性でも楽に入れるサイズなのだが。 「…まさか!」  遠くからちらりと見えたものが、すぐには信じられなかった。  暗いから見間違えたのだろう、と。そう思い込もうとする。 「まさか…ね」  よく見えるように、小さな魔法の明かりを灯す。  そして、息を呑んだ。  目が見開かれる。 「そんな…そんな…」  竜の姿をを見た時、これ以上の驚きはあるまいと思った。しかし、それは間違いだった。  竜よりも衝撃的なものが、一つだけ存在した。  容器の中に浮かんでいるのは紛れもなく――  人間、だった。  そこに並ぶ十以上の容器のそれぞれに、様々な成長段階の、人間の胎児の姿がある。  いいや、胎児ばかりではない。  由維の目の前に、もっとも成長していると思われる個体がいた。  それは、赤ん坊ですらなかった。  四〜五歳くらいにはなっているだろうか。  女の子だ。赤い髪が水中に漂っている。  その女の子は、目を開いていた。  作り物のような赤銅色の瞳が、由維を見つめていた。  まさか、意識があるのだろうか。そう思ってのぞき込む。 「――っ」  由維を見て、微かに笑ったようにも見えた。気のせいかもしれないが。 「なに、これ…」  ぺたりと、床に座り込んだ。  全身が震えている。どうしても震えが止まらない。 「なんなの、これ…」  その答えは、既に知っているはずだった。  先刻、竜の姿を見た時に、答えを口にしたはずだ。  ここが、単なる生物学の研究室などではないことは、とうに気付いている。  一つ前の部屋にいたもの、亜竜。  それは王国時代に生み出された、――だ。  だとしたら、ここにいる子供たちも…。 「……ドー…ル…」  ドール。それは人の手で生み出された、人造の魔法生物。 「この子たちも…?」  そう思ってもう一度よく見る。  人間っぽくない、赤銅色の金属的な光沢のある瞳が特徴的だ。それはどこか、ファージの金色の瞳を彷彿とさせた。  ファージの瞳は黄金色で、髪も金髪だ。  ここにいる子供たちは皆、赤毛に赤銅色の瞳を持っているという違いはある。  しかし…。 (…赤い…髪?)  何かが、引っかかる。何か見落としてはないだろうか?  大切な何かを…。 「…あぁっ?」  思わず、声に出して叫んだ。  ここが本当にアルンシルだとしたら、これが単なる偶然だろうか。  アルワライェ・ヌィ・クロミネル。  アィアリス・ヌィ・クロミネル。  裏で数多くの兵を擁するトカイ・ラーナ教会でも、最強の力を持った二人だ。  二人とも、赤い髪を持っている。  由維は会ったことがないから瞳の色までは知らないが、これが単なる偶然だろうか。  現在では失われたはずの、王国時代の竜騎士にも匹敵するという、強大な力を持った姉弟。  その二人とも、ここにいる子供たちと同じ赤い髪を持っているとしたら。  それが偶然のはずがない。 「…ドール…なの? アルワライェも、アィアリスも…」 「正解」  突然、背後で声がした。  床に座り込んでいた由維は、びっくりして、転がるように振り返った。 「じゃあ、どうしてその名を知っているのか、どうしてこれを見ただけで、その結論を導き出せたのか、教えてもらえるかな? ああ、それから、君が何者なのかもね」  人なつっこい笑みを浮かべた、二十歳くらいの若い男がそこに立っていた。  赤い髪の、そして…。 「ずいぶん探したよ」  そう言う男の瞳は、赤銅色の輝きを放っていた。 「網に獲物が引っ掛かったのは間違いないのに、ずいぶん気配が弱くて。第一、狙っていた獲物と違うんだもんなぁ。いったい、君は誰?」  男は、悪戯な笑みを浮かべて言った。 「アルワライェ…ヌィ…?」  由維は床に座り込んだまま、震える声でつぶやいた。  間違いあるまい。  背格好。髪の色。子供っぽい表情と口調。  すべてが、奈子から聞いたアルワライェの特徴と一致している。 「…どうして僕の名前を知っているのかな? 君とは初対面だと思うんだけど。第一、君は何故ここにいるんだい?」  アルワライェは訊く。興味深そうに、面白そうに。 「あ、…」  由維はミスを犯したことに気付いた。  アルワライェの名を口にしたのは失敗だった。誰かに見つかったら道に迷ったふりをするという、最初の計画が台無しだ。 「あ、あの、え〜と…」  額から汗が噴き出す。 「道に迷った、なんてふざけた言い訳はしないようにね」  アルワライェが先回りして言う。  台詞を取られた由維は、開きかけた口をつぐんだ。じっと、上目づかいにアルワライェを見上げる。  何も知らないふりをしたり、とぼけたりするのは難しそうだ。  だから、戦術を変えることにした。 「…獲物が網に掛かったって、どういうこと? 狙っていた獲物って?」 「子供のくせにうまいね、君は」  由維の質問には答えず、さも可笑しそうに言う。 「質問しているのはこっちだよ。それに答えず、質問に対して別な質問で返す。訊かれてまずいことを訊かれた時の、基本だね」  どうやら由維の考えなど、簡単に見抜かれているようだ。 「だけど、答えてあげてもいいよ。僕は親切だからね。でも、君はもう答えを知っているんじゃないかな? そうじゃなければ、どうしてナコ・ウェルだけを対象とした対転移結界に引っ掛かるんだい?」  不意に聞き慣れた名前が出てきて、びくりと肩が震えた。一瞬、表情が強張る。 「ナコ・ウェルがたまに行う転移は、ちょっと変わっていてね。一般的な転移魔法とは、通る次元が違うんだよ。だから、そこに罠を仕掛けてみたんだ」  アルワライェは一語一語、ゆっくりと言う。まるで、由維の反応を確かめるように。 「本当なら、僕の部屋に招待するつもりだったんだけど、ちょっと狙いが甘かったかな。何重にも結界を張っているのに、ここの魔力は強すぎてね。周囲の転移に対する影響が大きいんだ」  由維のこめかみに、冷や汗が一筋流れた。  由々しき事態だ。  トカイ・ラーナ教会は――あるいはアルワライェ個人がかもしれないが――は、奈子を捕らえようとしていたのだ。  一般的な転移魔法とは違う、次元転移をする者だけを対象とした罠。それはつまり、奈子だけを狙ったもののはずだ。  由維が、それに引っ掛かってしまった。転移に失敗したのは自分のミスではなく、結界の力で無理やりここに引き寄せられたのだ。 「転移魔法を使える魔術師はたくさん知っているけど、あんな奇妙な転移をする人間はナコ・ウェル以外に見たことがない。そもそも、どこから転移してきているのかもわからないしね。ソレア・サハの屋敷にいない時は、いったいどこで過ごしているのやら」  アルワライェがわざとらしく肩をすくめる。 「会いたいのになかなか会えないから、ちょっと強引な招待を思いついたのに」  ようやく獲物がかかったと思って来てみたら、それは期待していた相手ではなかった、と言いたいのだろう。 「ごめんね。当てが外れて」  それだけ言うのにも、声が震えないようにするのが大変だった。怯えているなんて、知られたくない。 「人違い、ということで見逃してくれないかなぁ?」 「人違い? まさか」  由維の提案はあっさりと笑い飛ばされた。 「君、ナコの知り合いだろう」  アルワライェは、そう断定した。 「そういえば、最近ソレア・サハのところに小さな女の子がいるって報告が来ていたっけ。それが君だと思うんだけど、違う?」  口調は質問でも、アルワライェはそのことを確信している。ソレアの屋敷は見張られていたのだろうか。  無駄だとはわかっていても、由維は一応否定する。 「し…知らない。ナコって誰? いったいなんのこと?」 「残念ながら、君は嘘をつくのが下手だね。顔に書いてあるよ。君を人質にすれば、ナコ・ウェルが血相変えて飛んで来るって」 「――っ!」  由維は跳ねるような動作で立ち上がると同時に、アルワライェの股間を蹴り上げようとした。完全に不意をついた攻撃のはずだった。  しかし、それは空振りに終わった。同時に、激しい衝撃が身体を貫き、由維は壁に叩きつけられた。  口の奥に、錆びた鉄の味が広がる。 「しばらくアルンシルに滞在してもらうよ。なぁに、そんなに長い間じゃない。きっとすぐにナコがやってくるさ」  由維は歯を食いしばって、相手をきっと睨みつけた。手で、口元についた血を拭う。  アルワライェは、そんな由維を満足げに見ていた。 「そういう表情は、ナコに少し似ているね。面白くなってきた。アリスもバカだなぁ。こんないい時に、留守にしているなんて」 八章 流血の女神  アンシャスの女王であるレイナ・ディ・デューンの許を、招かれざる五人の客が訪れていた。  いずれも、大戦を生き延びたトリニアの竜騎士たちだ。 「…で、大勢でいったい何の用かな?」  レイナは玉座に着いたまま、尊大な態度で五人を見下ろす。万人が思っている通りの「レイナらしい」態度だった。  そんな態度も、その美しさも、三十も半ばを過ぎた現在ですら二十代の頃と何も変わっていない。 「言わなくてもわかっているだろう?」  騎士たちの一人が、代表して応える。 「貴様がやろうとしていることを、止めるためだ」  それを聞いたレイナの口元に、笑みが浮かぶ。 「…そしてまた何百年も、同じことを繰り返すのか?」 「そんなことにはならん。そのために我々がいる。貴様がやろうとしていることは、大陸を今以上の混乱に陥れるだけだ」 「墓守…か。下らんな。馬鹿どもの相手をしているほど暇ではない。お引き取り願おう」 「そういうわけにはいかん。力ずくでも、我々に従ってもらう」 「力ずく…だと?」  レイナは笑って立ち上がった。 「雑魚が五人集まったところで、雑魚には変わりあるまい。トカゲが五匹いても竜にはならんぞ」  嘲笑されて、五人は一斉に剣を抜いた。 「思い上がるな。剣の力で最強の名を戴いてきたくせに。理由は知らぬが、貴様が無銘の剣を失ったことは聞いているぞ。それで、我々六人を相手にできるというのか?」  五人も自信ありげだった。そう考えるのも当然だ。竜騎士同士の闘いで五対一などというのは、常識で考えれば勝ち目があるはずもない。 「六人?」  レイナは不思議そうに言って、五人の背後に視線をやった。そして、静かな笑みを浮かべる。 「六人目…か」  十代後半の若い女が、無言でそこに立っていた。  長い黒髪を腰まで伸ばしている。そのために、外見はレイナによく似ていた。  黒を基調とした、トリニアの青竜の騎士の礼服をまとっている。それも妙な話だ。トリニアが滅びたのはもう十年近くも前のこと。その頃、彼女はまだ十歳にもなっていまい。  しかし、紅い地に青い竜の紋章――紅蓮の青竜と呼ばれるその紋章は、青竜の騎士にのみ許されたものだ。  そして、今では彼女だけがそれを着ける資格を持っていた。 「我々五人と、大陸で最高の血を引く竜騎士。レイナ・ディといえども勝ち目はあるまい? 大人しく、レーナ遺跡を引き渡してもらおう」 「…馬鹿につける薬はない、というのは本当だな」  吐き捨てるように言うと、レイナは無造作に腰の剣を抜いた。それはもちろん無銘の剣ではなく、竜騎士が用いる魔剣でもない。ごく普通の長剣だった。  それを見て、先頭に立っていた男が後ろを振り返る。 「…両親の敵を討つチャンスがやってきたぞ、レイナ・ヴィ」  促されて、レイナ・ヴィ・ラーナは無言で前に進み出た。  男の隣まで来て、真っ直ぐに自分の叔母を見つめる。その顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。  それから、ゆっくりと剣を抜いた。  普通の剣よりも長く、そして金属の光沢を持たない、磁器のような純白の刃。  竜の角から削り出されたといわれる『竜の剣』。  この世に二本とない名剣。  この剣は、彼女の母親ユウナ・ヴィ・ラーナの形見だった。  そして、この剣を扱う技術を教えてくれたのは、目の前にいる叔母、レイナ・ディ・デューンだ。  彼女の母親は、双子の妹の名を自分の娘に与えた。  剣を握る手に力が入る。  刃が閃いた。血飛沫が舞う。  やや間を置いて、隣に立っていた男が倒れた。 「ば、馬鹿な…。裏切るのか、レイナ・ヴィ!」  残った四人の騎士たちがざわめく。 「馬鹿は貴様らだ」  鋭い目で彼らを睨みつけ、ゆっくりと言った。 「叔母上は、私にとってただ一人の肉親だ。それなのにどうして、貴様らに命じられて闘わなければならない? 自分の力で闘うこともできない臆病者どもが」  四人の男たちに、剣を突きつける。  その闘いの決着がつくまでには、さほど時間はかからなかった。  闘いが終わった時、レイナ・ディは満足げにうなずいた。 「腕を上げたな、レイナ」  返り血を浴びたレイナが顔を上げた。床は血の海で、五つの死体が転がっている。  レイナ・ヴィは、顔に浴びた血を腕で拭った。 「あなたに教わった技です」  姿勢を正して応える。  レイナ・ディが玉座から降りてくる。 「そうだな、ヴィ・ラーナの名を継ぐに相応しい力だ。わずか七年で、ここまで成長するか」 「七年も、かかりました。ここまで来るのに」  真っ直ぐに、お互いを見つめた。無言のまま、視線がぶつかり合う。 「なぜ、こいつらを殺した?」  レイナ・ディが問う。  それに対してやや躊躇うように、少し間を置いて答える。わずかに俯いて。 「…自分の力を、試す必要がありました。あなたは確かに、竜騎士として最高の技術を教えてくれた。その成果を試す必要がありました。並の竜騎士の四、五人くらい、無傷で倒せなくては…」  そこでいったん言葉を切り、顔を上げた。正面からレイナ・ディを見て、意を決したように口を開く。 「――あなたには勝てません」  その衝撃的な告白を聞いても、レイナ・ディは表情を変えなかった。 「他の誰でもない。私があなたと闘うのは、自分自身の意志で決めたことです。だから、この者たちは邪魔です」 「そうか」  うなずくレイナ・ディの表情は、どこか嬉しそうですらあった。 「正直なところ、お前を引き取った時にはあと十年以上はかかると思ったがな。よく成長したものだ。これで私も、ユウナに対する義理を果たしたというもの。私を殺す資格があるのはお前だけだ。しかし…」  レイナ・ディは剣を構えた。 「わざと負けてやる義理はない。手加減はしないぞ?」 「その必要はありません。今の闘いで確信しました。私は、あなたよりも強くなっています。竜の剣の助けも得られることを考えれば、負ける要素はありません」  静かな、しかしはっきりとした口調で言うと、レイナ・ヴィも剣を構え直した。           * * *  目を覚ました奈子は、自分の左胸に手を当てた。  もちろん、傷なんてあるはずがない。  しかし、鋭い痛みが残っていた。  夢の中でレイナ・ディ・デューンを貫いた、竜の剣の感触が。  レイナ・ディは、自分の姪に殺されることを選んだ。  決して、手加減はしていなかった。しかしそれでも、レイナには初めから勝つつもりはなかった。  十年前、姉のユウナ・ヴィが彼女に対してそうしたように。  それが、一般には病死とされているレイナ・ディ・デューンの死の真相だった。  奈子が墓所を訪れて以来、時々見るレイナの夢。それが単なる夢だとは、これっぽっちも思っていない。  だから、すぐに信じられた。いま見た夢が、実際のレイナの死の場面なのだと。 (そんな…)  彼女たちは、肉親同士で殺し合っていた。  相手を憎んでいるわけではないのに。  レイナ・ディは、姉のユウナ・ヴィを殺した。  そしてユウナの子レイナ・ヴィが、レイナ・ディを殺した。  憎しみはなく。  ただ、そうしなければならない運命を呪いながら。 (どうして…)  いったい、何があったというのだろう。  あの五人の竜騎士たちは、トリニア側の人間だった。元々はストレインの騎士だったレイナ・ディだが、ストレインを出奔してアンシャスの支配者となった後は、トリニアと同盟を結んでいたはず。  なのに何故、あの男たちはレイナを殺そうとしていたのだろう。  レイナも、ユウナも、どうして闘わなければならなかったのだろう。 「まだまだ、知らないことが多すぎるな…」  奈子は身体を起こした。いつの間にか、ソファで寝てしまっていた。  本――妊娠と出産についての――を読んでいるうちに、眠ってしまったらしい。  室内は暗い。時計を見ると、もう夕方だ。  由維はまだ帰っていない。 (すぐ帰るって、言ったのにな…)  由維が一人で向こうへ行ったのは、昨日の夜のことだ。ファージがいなくて自力で転移するにしても、今日の昼過ぎには帰れるはず。  また、読書に夢中になっているのだろうか。  しかし行く前には、向こうに長居はしないで読みたい本は持って帰ってくる、と言ってはいなかったか。 (心配しすぎ…だよね。ちょっと遅くなっただけじゃない)  そう、自分を納得させようとする。  なのにどうしてだろう。嫌な胸さわぎが治まらない。 (別に、今日初めて一人で行ったわけでもないのに)  転移の精度では、比べものにならないくらい由維の方が上だ。ミスするはずがない。  真っ直ぐにソレアの屋敷へ行っている以上、そうそう危険な目に遭うはずもない。  なのに――  心臓の鼓動が、大きくなる。  夢見が悪かったせいかもしれない。どうしても不安が拭えない。 「…よし」  決めた。向こうへ行くことにしよう。  幸い今は、体調もそれほど悪くない。  由維は怒るかもしれないけれど、一人で不安にとらわれている方がよっぽど身体に悪い。  奈子は二階の自室へ行くと、転移のカードと向こうの服、そして短剣を掴んで外に出た。  秋の日没は早い。  もう、ずいぶん暗くなっていた。街灯が灯って、薄暗い通りを照らしている。  奏珠別公園の展望台へと急ぐ。  空気が冷たい。  展望台に着いた奈子は、呼吸を整えてカードを取り出した。  心を落ち着けなければならない。  由維を心配するあまり、自分が転移に失敗したら笑い事ではない。 (落ちついて、落ちついて…。由維はきっと、大丈夫だから…)  自分にそう言い聞かせて、呪文を唱えた。           * * *  転移は、何事もなく完了した。  ソレアの家の地下室に出る。  居間へ行くと、ソレアの姿は見当たらず、ユクフェが一人で座っていた。 「あ、ナコおねーちゃん。いいところに来たね」 「いいところ?」 「これ、おねーちゃんに手紙。つい先刻届いたの」 「手紙? 誰から? ソレアさんや由維はいないの?」  ユクフェが差し出す手紙を受け取りながら訊く。 「ソレア様はお仕事。でもそろそろ帰って…、あ」  ちょうどその時、玄関が開く音がした。ソレアが帰ってきたらしい。 「それで…」  由維は? と訊こうとした奈子は、息を呑んだ。  手紙をひっくり返してみて、そこに、あってはならないものを見つけた。  トカイ・ラーナ教会の紋章の封蝋。 「…それで…由維は…?」  声と、手が震えていた。  乱暴に封を解いて手紙を開く。 「ユイおねーちゃん? 来てないよ?」  そんなユクフェの声は、奈子にはまるで死刑の宣告のように聞こえた。  居間の扉が開き、ソレアが顔を出す。 「ただいま…あら、ナコちゃん?」  笑いかけたソレアだったが、ただならぬ奈子の様子に表情が曇る。 「…なにか、あった?」  奈子は黙って、手の中の紙を差し出した。受け取ったソレアの表情も、たちまち強張る。 「…ユイちゃんが?」 「昨日、ひとりでこっちに来たはずなんだ」 「…いいえ、来ていないわ」  それは重々しい、絞り出すような声だった。 「よりによって、アルンシルに…」  偶然というには、あまりにも出来すぎている。  かといって、アルンシルの対転移結界は、ソレアでも簡単に突破できるものではない。由維が自分の意志で行こうとしても、まず無理だろう。  自分の意志に依らずにアルンシルにいるのだとすると、事態はよりいっそう悪いことになる。 「ソレアさん…」 「駄目よ!」  奈子の言葉を、ソレアは強い口調で遮った。 「あなた、ひとりで行こうとしているでしょう? 冗談ではないわ。罠とわかっているのにみすみす…。少し待ちなさい。まず、ファージを探すから…」 「それじゃ間に合わないかもしれない!」  奈子は叫んだ。 「…それに、ひとりで来いって書いてある」 「そりゃ書くでしょう」  だからといって、ハイそうですかとそれに従うわけにはいかない、というのがソレアの言い分で、それはもっともなことだった。 「アルワライェの目的はアタシだもの。アタシが行けば、由維はきっと解放してもらえる」 「…もう用なしとして、殺されるかもしれない」  びくっと、奈子の肩が震えた。 「アルワライェ・ヌィの目的がナコちゃんなら、なおのこと簡単に行くべきじゃない。あなたがこちらにいる間は、取引もできるわ」 「由維の命を、取引の材料なんかにできない!」  きっぱりと言った。 「アタシはもう決めてるの! ひとりで行くって!」 「ナコちゃん!」 「お願い、アタシをアルンシルへ連れていって! アタシが行けば、絶対に由維は殺させない。それに…アルワライェはきっと、アタシも殺さないよ。すぐには…ね」  引きつった笑みを浮かべる。アルワライェが、教会の命とは違った部分で奈子に興味を持っていることは知っていた。  奈子にとっては、それだけが勝算だった。 「だから、その間にファージを探して。由維だけは、なんとしても助けて」 「ナコちゃん…」 「それが、一番いいと思う」 「あまり、いい考えとも思えないけれど…」 「いいから早く! 一分一秒でも、由維が危険に晒されるのは我慢できないの!」  奈子は悲痛な表情で叫んだ。           * * * 「…やっぱりだ。ここにはもう、なにもない」  足の先で、地面の上の小石を蹴ってつぶやく。  その時ファージは、廃墟となった都市の中心にいた。  古い遺跡だ。すべての建物は跡形もなく崩れ、瓦礫の山となっている。  遠い昔は、大きな街だった。  当時、大陸で最大の都市であったといってもいい。その、千年以上も昔の光景をファージは憶えていた。  なんて変わってしまったのだろう、あの頃とは。  光の都と讃えられていた、トリニアの王都マルスティア。  そこは今、広大な廃墟と化している。  住む者はいない。  いや、そもそも生命の痕跡すらない。  ここは虫けら一匹、雑草一本すら存在しない、死の世界なのだ。  それは、千年前の大戦の後遺症。  この都市を破壊し尽くした強大な魔力が残す、瘴気に覆われた地。  魔法による防護がなければ、生身の人間はここにいられない。  ただどこまでも、破壊された都市の痕跡が広がるだけの土地。  他に、何もない。  そう、何も。 「…やるもんだ」  誰に言うともなしにつぶやく。  一年前にここを訪れた時、ここにはレイナ・ディ・デューンの墓所があった。  なのに、今はそれが存在しない。  いや、本来それが正しいのだ。  千年の間、多くの人間が探していたレイナ・ディの墓所だ。いくら人が生身で近付けない地とはいえ、マルスティアの真ん中にあれば、とうの昔に誰かが見つけていたはずだ。  なのに、それは千年間見つからずにいて。  そして今は、その場所に何もない。  つまり、一年前のあの一時期にだけ、それは存在していたのだ。 「初めから、千年後の一時期だけ姿を現すように魔法をかけていた? それとも時間は関係なしに、無銘の剣を受け継ぐ者がこの大陸に現れた時…なのかな?」  どちらが正解かはわからない。  しかし、奈子が無銘の剣を譲り受けたことによって、レイナの墓所はその存在意義を失ったことになる。 「いや、待てよ。無銘の剣…おかしいな」  ファージは考え込んだ。 「確かに、すごい力を持ってる。なにしろ、私を殺すことができる剣なんだから。だけど、所詮は剣でしかない。なぜそれを千年も…?」  もう一度、周囲を見回す。 「奈子が受け継いだものは、剣だけじゃないのかも…。レイナ・ディの奴…なにを企んでいたんだ?」  なにしろレイナ・ディといえば、エモン・レーナやクレイン・ファ・トームに匹敵するほどの謎の多い人物である。ファージにも、その意図がすべて読めるわけではない。  千年生きてきたとはいえ、クレインと違い、ファージは聖跡の中で眠っていた期間が長い。わからないことも多いのだ。 「ここに手掛かりがないとすると…あとはどこを調べるかな…」  そんなことを考えながら、ぷらぷらと歩く。  少しだけ、周囲に対する注意が散漫になっていた。  そのために――  それを、かわしきれなかった。  わずかに身体をひねったものの、その光はファージの左肩を貫いた。 「――っ!」  やられたな、と思う。よくもここまで見事に気配を消していたものだ。  心臓を直撃でなくてよかった。ここには、ファージを不死としている聖跡の力も届きにくい。 「…アィアリス・ヌィ…だったっけ?」  ファージはゆっくりと振り返りながら訊ねる。  一人の女性が、そこに立っていた。  騎士の礼服を身にまとい、ややくすんだ朱い髪を肩の位置で切りそろえている。  美しい女性だった。静かな笑みすら浮かべて、ファージを見つめている。 「初めまして、かしら?」  澄んだ、美しい声だった。これ以上美しい声を人間が発するのは、不可能ではないかと思うくらいに。  しかしその声には、人間らしい暖かみが欠片も含まれてはいなかった。  それを言ったら顔だってそうだ。美しいその顔は、整いすぎていて人間らしさに欠ける。 「会いたいとは思っていたけれど、まさかこんな場所で会うとはね。レイナの墓所が消失したという報告を聞いて、様子を見に来たのだけれど…」  アィアリスは軽く目を伏せた。何か、面白いことを思いついたかのように、口元がほころんでいる。 「ちょうどいいわね、ここなら、誰にも邪魔されない」 「そうだね。あんたをなぶり殺しにしても、ソレアに文句を言われることもないわけだ」  ファージも笑っていた。肩の傷からのおびただしい出血は気にもとめていない。 「それは無理ではないかしら? ソレア・サハ抜きの今のあなたでは…ね」 「よく調べたもんだ。だけど、少し認識不足かもね」  ファージの手の中に、紅い光が生まれた。  それは長く伸びて、剣の形を取る。  同時に、アィアリスの手の中にも、同じような紅い光の剣が出現していた。  魔力そのものが実体化した光の剣。それは、並はずれた魔力の証でもある。  ファージ自身、自分とこの姉弟以外でこれをできる人間を知らない。  唯一の例外は、かの聖跡の番人、クレイン・ファ・トームだ。しかし厳密にはファージもクレインもこの時代の人間ではない。  だから現在ではアィアリスとアルワライェだけが、王国時代の竜騎士に匹敵する力を持っていることになる。  いや、力の強さという点では、肩を並べる人間をあと二人は知っている。しかしそのどちらも、光の剣は用いない。二人とも、比類ない強力な魔剣を所有しているからだ。  そもそも王国時代の竜騎士だって、普通は光の剣など使わない。竜騎士のために鍛えられた魔剣の力と自分の魔力を合わせた方が、より強い力を発揮するのは当然だ。  ファージやクレインが実剣を使わないのは、竜騎士の剣の大半が失われた現在では、二人の好みに合う剣が存在しないからでしかない。  本来、竜騎士同士の力が互角であれば、より強力な魔剣を持つ者が勝利する。もっとも現在では、ファージやクレインに匹敵する力の持ち主などほとんどいないが。  数少ない例外が、目の前の女とその双子の弟。  無銘の剣の後継者、奈子。  そしてもう一人――  おそらく、現在の大陸において最強の騎士。  あの忌むべき『黒の剣』の主。  黒剣の王、ヴェスティア・ディ・バーグ。  しかしここ何年かは、ヴェスティアの居場所が突き止められなくなっている。生死すらわからない。まさか『黒剣の王』がそう易々と死ぬとも思えないのだが。 (さて、こいつの力はどの程度かな…)  ファージは油断なく身構えた。  アィアリスがかなりの力を持っていることはわかっている。  これほどの力の持ち主の存在を、つい最近になるまでファージもソレアも気付かなかったというのは不思議だ。墓守は過去数百年間、竜騎士の血を色濃く残している者を監視し続けてきたのだ。  墓守がソレア一人となった現在ならともかく、まだ何人もの墓守がその役目についていた時代に見落としがあったとは、にわかには信じ難い。 (どこに隠れて生きてきたのやら…。ま、試してみるか)  ファージは、呪文も、なんの予備動作も起こさずに攻撃をしかけた。アィアリスの周囲に朱い色の光球がいくつも出現し、間髪入れず一斉に爆発した。  同時に、ファージはその爆炎の中に飛び込む。  炎に妨げられて相手の姿を見ることはできなくとも、気配ははっきりと感じられる。光の剣を維持するための膨大な魔力が、アィアリスの位置を知らせてくれる。  なんの手加減もなしに、ファージは剣を振った。こんなことは久しぶりだ。  閃光が走る。  アィアリスの剣は、ファージの打ち込みを完璧に受けとめていた。  それだけなら別に驚きはしない。ファージもそのつもりでいたのだ。この打ち込みを受けられない程度の相手なら、なんの問題もない。  そうでなければ、剣を通して伝わってくる相手の魔力の強さや、その流れを読みとる。初めから、この一撃は小手調べのつもりだった。  しかしそれだけでは面白くないので、行きがけの駄賃とばかりに、至近距離から強力な魔法を一撃放って離れた。その魔法も、アィアリスの防御結界に弾かれて火花が散る。  なるほど、大した魔力の強さだ。  アィアリスは、反撃してこなかった。  そんな素振りも見せなかった。  最初から、この攻撃を受けきれる自信があったのだろう。  顔には出さなかったが、ファージはかなりの衝撃を受けていた。  攻撃を受けられたことに対してではない。いま感じ取った、魔力の固有波動が問題だ。  魔力には人それぞれに個性があり、そして、それは遺伝する。  だから魔力の波動を読みとれば、アィアリスの血筋をある程度絞り込むことができる。  しかしそれは、あまりにも予想外の結果だった。 「…そう。道理で、今まであんたたちの存在に気付かなかったわけだ」 「なんだ、わかっちゃったの。もう少し秘密にしておけると思ったのに。どうしてわかるのかしら?」  言葉とは裏腹に、アィアリスは別段残念そうな表情はしていない。むしろ、楽しそうですらある。 「ドール…か…。教会の連中も、とんでもないものを作ったもんだ」  ファージは、一瞬で見破っていた。  アィアリスが「造られた」存在であることを。  わかって当然だ。その魔力が持つ波動は、あまりにもなじみ深いものだった。  いや、まったく同じというわけではない。しかし、そこには数多くの共通点があった。  それは、ファージ自身の力だった。  正確に言えば、生前のファージだ。クレインに力を封じられる前の。  王国時代の、ある狂った魔術師が生み出した人工の生命。  どうやって、その秘密を手に入れたのだろう。  トカイ・ラーナ教会の魔術師が、独力で作り上げたはずはない。どこからか、その秘密を手に入れたのだ。  厳密にいえば、ファージとまったく同じものではない。しかし間違いなく、同じ人間の手による産物だった。  不思議な話だ。ファージを生み出した研究の資料は、すべて灰燼に帰したはずなのに。  あの男は、自分が何を作りだしたのかを悟った時、自ら屋敷に火を放って、炎の中に飛び込んだのだ。  ファージはその頃まだ赤ん坊だったが、その光景は憶えている。  一番古い記憶だ。  人工羊水を満たした培養槽の中で、それを見ていた。  狂気に歪んだ笑いを浮かべて、炎に撒かれていった男の姿を。  あの時、焼け残ったものはファージだけのはずだ。他の実験体も、膨大な量の書類も、すべて失われた。 (…いや、そうとは限らないか…)  あの男がまだトリニアの宮廷魔術師だった時代の、未完成の研究がある。それで十分な成果を上げられなかったために、その地位を失ったのだ。  当時の資料なら、王宮のどこかに残されていたかもしれない。いつ頃のことかはわからないが、トカイ・ラーナ教会の魔術師たちは、それを発掘して研究を完成させたのだろう。  その成果が、いま目の前にいる女性。そしてその弟に違いなかった。 「ドール…と呼ばれるのは好きではないわね」  アィアリスは、不快そうに言った。 「私は、アール・ファーラーナよ。世界を変える力を持った存在。失われし大いなる力を受け継ぐ者」 「笑わせるな」  ファージが鼻で笑う。 「出来損ないの化け物が」  その一言に、アィアリスの表情が険しくなった。 「でもまあ、これでお前を殺す理由がひとつ増えたわけだ。覚悟しな。細胞ひとつも残しゃしない」  同じ遺伝子を持つ者への仲間意識など、毛ほども感じなかった。  ただ、嫌悪感がつのるばかりだ。それは憎悪といってもいい。  遺伝子の一片たりとも残しはしない。この、呪われた遺伝子など滅ぼしてやる。  そう、心に誓った。  ファージの持つ剣が、形を変える。  刃と柄が少しずつ長くなり、両手用の剣となった。  脚を広めに開き、腰を落とした構えになる。それは、トリニア流の騎士剣術だった。 「ソレア・サハがいない限り、あなたの力は王国時代の竜騎士に遠く及ばない。私に勝てる道理はないわ」  アィアリスの顔には、勝利を確信した者の余裕の笑みが浮かんでいる。 「では今度は、私から行くわよ」  剣を構え、美しい声で言った。           * * *  奈子をアルンシルへ送るのには、なんの困難もなかった。  いつもならばそこは、ソレアでもひどく手こずるはずの対転移結界で護られた地だ。しかし今はその結界に一箇所、ぽつんと穴が開いていた。  ここへ来い、といわんばかりに。  それが、奈子のために用意されたものであることは一目瞭然だ。  そこにはアルワライェが、あるいはトカイ・ラーナの軍勢が待ちかまえているはず。  それがわかっていても、奈子をそこへ送り届けるしかなかった。  奈子の決心は微塵も揺るぎはしなかった。  由維を助けるため…そのためならば、奈子は他のすべてを犠牲にできるのだ。  奈子の転移を終えた後、ソレアは俯いて、小さくため息をついた。 「ナコおねーちゃん、大丈夫かなぁ…」  ユクフェが不安げにつぶやく。ソレアが顔を上げた。 「…信じるしかないわね。それよりも、ぐずぐずしていられないわ。すぐにファージを探して連絡を取らないと…。ユクフェちゃん、あなたも手伝って」 「はい、ソレア様」  魔法陣のある地下室へと向かうソレアの後に、ユクフェも続く。その途中、ふと思いついたように言った。 「あの、フェイリア様とか、エイシス様にも連絡を取らなくていいですか?」 「え…?」  ソレアが立ち止まる。  言われてから、気が付いた。  そうだ。確かに、あの二人ならばアルワライェが相手であっても十分な戦力になる。  奈子を助けるためなら、あの二人はきっと力を貸してくれるに違いない。  これまで他人に助けを求めたことなどなかったから、考えもしなかった。  ユクフェに言われなければ、気付かなかっただろう。 「…そうね。そうしましょう。じゃあ、そちらはあなたに任せるわ。きっと、ハシュハルドのリューリィのところで連絡が付くはず。すぐにここへ来てもらって」 「はい!」  ユクフェは力強くうなずいた。           * * *  そこは、石造りの大広間だった。  小さな体育館ほどの広さがあるが、中には何もない。がらんとしている。  地下室なのか、窓は一つもないが、いくつもの魔法の明かりがそこを照らしている。  奈子が転移したのは、そんな場所だった。 「由維!」  奈子は叫んだ。  大広間の中央に、倒れている人影がある。  小柄な女の子だ。間違いない。  奈子はすぐさま駆け寄った。意識を失っているらしい由維を助け起こそうとして。 「――っ!」  左胸に、灼けるような痛みが走った。  反射的に飛び退く。  心臓や動脈は外れたらしいが、血があふれ出していた。  倒れていた少女が身体を起こした。手には小さな短剣を握っている。その刃が、奈子の血に濡れていた。 「由維…じゃない…?」 「…つまんない。隙だらけなんだもの」  それは、由維の声ではなかった。  顔の形と、髪の色が見ている間に変わる。肩に軽くかかる茶髪が、背中の中程まで伸ばした赤毛になった。  由維ではない。こちらの人間だ。  似ているのは背格好くらいだろう。由維よりは少し年下かもしれない。  その少女は、からかうような笑みを浮かべながら、短剣に付いた血を舐め取った。 「アル様のお気に入りっていうから、どれほどのものかと思ったら…。ぜ〜んぜん期待はずれ」  紅く濡れた口で、つまらなそうに言う。 「由維はどこ? 由維を返して!」  目の前の少女が何者かなんて、奈子にとってはどうでもいいことだった。  それよりも、由維の行方だ。 「心配しなくても、ここにいるよ」  背後から声がした。聞き覚えのある男の声だ。  奈子が振り向く。  先刻まではなかったはずの、二つの人影がそこにあった。  中肉中背の、赤毛の男。子供っぽい笑みを浮かべた、二十歳くらいの。  アルワライェ・ヌィだ。  そして、そのすぐ前に、肩を掴まれて立っている小柄な少女がいる。 「由維!」  奈子は叫んだ。今度こそ間違いない。紛れもなく由維だ。  ぱっと見たところ、怪我をしている様子はない。  しかし…。 「由維! 由維! 大丈夫?」  奈子の呼びかけにも、何も答えない。  何か様子が変だ。  こちらの声が聞こえている様子がない。  焦点の合わない虚ろな瞳に、奈子の姿が映っているのかどうかも定かではない。  ただぼんやりと、その場に立っているだけだ。 「由維! ちょっと、由維にいったい何したのっ?」 「別に、大したことじゃない。この子はちょっと強情でね、僕の質問になにも答えてくれないんだ。せっかくだから君のこと、いろいろと教えてもらおうと思ったのに」  悪びれない表情でアルワライェが応える。 「だから、ちょっと強引に教えてもらったというわけさ。結局、必要最小限のことしかわからなかったけど。でも驚いたね。君がこの世界の人間じゃないなんて。道理で、不思議な魅力があるわけだ」 「由維! あんた、由維になんてことを…」  奈子は唇を噛んだ。  由維は…由維だけは。  危険な目に遭わせたくなかったのに。  傷つけたくはなかったのに。 「心配しなくてもいいさ。このくらいなら、ソレア・サハなら治せるだろ、多分。ちゃんと返すよ。約束したからね」 「じゃあ、早く由維を返してよ。あんたの言う通り、一人で来たよ。ファージも、ソレアさんも連れてきていない」 「もちろん約束は守るさ」  由維の肩を押さえたまま言う。 「でも、ひとつだけ条件がある」 「なによ」  奈子は、どんなことでも受け入れるつもりだった。無銘の剣だろうと、奈子自身だろうと。  唯一、すぐに承諾できないものがあるとしたら、それはファージの命…だろうか。 「なぁに、簡単なことだよ。その子に勝てたら、返してあげる」  奈子にとってはまったく予想外のことに、アルワライェは、由維に化けていた赤毛の少女を指差した。 「…?」 「その子、ウェリアは僕の…まあ、妹みたいなものかな」 「…姉の他に、妹もいたの?」  それは初耳だった。奈子にアルワライェとアィアリスのことを教えてくれたエイクサムも、何も言っていなかった。 「君の話をしたら、興味を持ってね。どうしても闘ってみたいって、聞き分けがないんだ」  我が儘な妹に好き勝手させている甘い兄、というわけだ。  奈子は横目でちらりとウェリアを見た。妹だけあって、アルワライェによく似ている。そして、あの女にも。  似すぎている。  許せないくらいに。  奈子の顔から、表情が消えていた。  アルワライェに向き直る。  静かに、そして冷静に。抑揚のない声で訊いた。 「…殺しても、いいの?」  それを聞いたアルワライェが苦笑する。  奈子にはそんなことできはしないと、そう確信した口調で、からかうように応えた。 「やってみなよ、殺せるものなら、ね。言っとくけど、そこらの騎士なんか問題にならないくらい強いよ。妹たちの中では一番見所がある」 「今度は、少しくらい楽しませてよね。不意打ちじゃないんだから」  ウェリアも馬鹿にしたように言う。  奈子は、その台詞を最後まで聞いてはいなかった。  瞬きするほどの時間もかけずに、三メートルほどあったウェリアとの間合いを瞬時に詰めると、右手を突き出した。  ウェリアは決して油断していたわけではない。それでも、何も反応できずにいる。  奈子は右手の人差し指と中指、薬指と小指をそれぞれ揃えて、ウェリアの両目に突き入れた。  悲鳴を上げる間さえ与えなかった  鍛え抜かれた貫手は、そのまま眼底を突き破り、脳に致命的な傷を負わせる。  そのまま、眼窩に指を引っかけて手前に引いた。  前に倒れそうになるウェリアの顔面に膝蹴りを叩き込み、同時に、延髄に肘を落とす。  鈍い破壊音が響いた。  白く細い首が、あり得ない角度に曲がる。  奈子が手を放すと、それは壊れた人形のように、崩れるように倒れた。  目と、耳と、鼻と口から血が溢れている。  どれほどの力を持っていたのか、今となってはわからない。アルワライェが「見所がある」と言うのだから、相当なものだったのだろう。  しかし、奈子の足元に横たわっているそれは、ただの、小さな女の子でしかなかった。  ただの、小さな死体だった。  その場が、しんとした空気に包まれる。  奈子は、何も感じていなかった。  ただ、右手を濡らす体液の感触だけがあった。  自分が殺した二人目の人間を無視して、奈子はアルワライェに向き直った。 「…約束通り、由維を返して」  先刻と同じように、抑揚のない声で言う。  一瞬、驚いたような表情を浮かべたアルワライェだったが、すぐにまたいつもの顔に戻った。目の前で妹が殺されたというのに、相変わらず人を小馬鹿にしたような笑いだ。  むしろ、楽しそうですらある。 「驚いたね。ナコにこれだけのことができるとは…。気に入った。もちろん、約束は守るよ」  そう言って、由維の背中を軽く押した。  ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。  意識があるのかどうかは定かではない。 「由維…」  奈子が小さく息を吐き出す。よかった。本当によかった。  思わず、涙が出そうになる。  五メートルくらいまで近付いたところで、奈子は走り出していた。  その時、視界の隅にちらりと、アルワライェが腕を動かすのが見えた。  本能的に危険を感じた奈子は、最大強度で防御結界を展開しながら由維を抱きしめた。小さな由維の身体を庇うように、アルワライェに背を向ける。  閃光と破裂音。むっとした熱気。  背中に、灼けるような痛みを感じる。  結界だけでは、完全には防ぎきれなかった。  だから、自分の身体を盾にして由維を護った。 「…どういう…つもり?」  由維を抱きしめたまま、奈子は訊いた。 「ナコを怒らせるには、これが一番いいと思ってね」 「…これ以上アタシを怒らせて、どうしようっていうの?」  そういいながら、まだ防御結界は解かない。これで終わりという保証はないのだ。  背中が濡れているのを感じる。出血しているのだろう。 「本気の、君と闘いたい。本気になって、すべての力を出し切ったナコを、僕が圧倒する。そうして初めて、君は僕のものになるのさ」 「何をふざけたことを」 「わかるかい? 僕は君のことが好きなんだよ。ナコを手に入れるためなら、僕はなんでもするのさ」  奈子は、由維を抱きしめていた腕を緩めた。そのまま、壁際へ連れていって座らせる。 「あんたは、ファージを傷つけ、アタシを傷つけ、そうして由維を傷つけた。いまさら後悔しても遅いよ」 「いいね。今までにないほど強い意志の力を感じる。そう来なくっちゃ」  アルワライェの手の中に、紅い光の剣が出現する。  奈子は両手で腰に差した二振りの短剣を抜くと、逆手に握った。その刃が青白い光に包まれる。奈子の魔力が刃を覆っているのだ。鋼の刃だけでは、アルワライェの光の剣は受けられない。  奈子は魔法の矢を牽制にして、間合いを詰めた。至近距離からさらに続けて魔法を放つ。周囲の空気が熱くなる。  光の剣が閃いた。奈子は短剣で受けとめる。  二つの刃の間で、激しく火花が散った。  膝へのローキックを放つ。  アルワライェがバランスを崩す。  そこを狙って、喉を目掛けて斬りつけた。  しかし寸前で、アルワライェの姿が消える。  それは、予想の範囲内だった。アルワライェは、極短距離の転移魔法で相手の背後を衝く戦法を得意とする。以前闘ったことのある奈子は、そのことを知っていた。  転移魔法が使える魔術師はそれだけでも珍しい存在だが、たとえ転移が行えたとしても、並の魔術師にアルワライェのような真似はできない。それは近所のコンビニに買い物に行くのに新幹線に乗るようなものだ。転移は本来「遠くへ」移動するための手段なのだ。  ファージでも、時間をかけなければできないという魔法。アルワライェの並はずれた魔力とセンスの証だった。  背後に、気配が出現する。奈子は上体を前へ倒しながら、後ろ蹴りを放った。  アルワライェは後ろへ飛んで蹴りを避ける。同時に魔法で反撃してきた。  奈子はそのまま床に転がって、魔法をかわす。  次々と飛来する光の矢が、奈子の後を追うように床石を砕いていく。  床を蹴って奈子が立ち上がったところで、さらなる魔法が追撃ちをかけてきた。  アルワライェの手から、細い、糸のような光が無数に放たれた。風になびく糸の束のようなそれは、滑らかな曲線を描いて、奈子の防御結界の隙間を縫うように迫ってくる。  奈子はその光を結界で受けとめ、あるいは短剣で薙ぎ払う。  それでも、何百にも分かれた光をすべてかわしきることはできない。  腕や、脚を貫かれる。  一本一本の威力はさほどでもない。とはいえ、手足に針金を突き刺されたような鋭い痛みが走る。一瞬、力が抜ける。  その隙を狙って、糸状の光の第二波が放たれた。  脚に力が入らず、先刻のような俊敏な動きはできない。奈子は瞬時に覚悟を決めた。 「オカラスヌ ウェイテ アパニ ク ネ!」  爆発が起こった。アルワライェを狙ったものではなく。奈子を包み込むように。  今まさに奈子を貫こうとしていた糸状の光も、爆炎に巻き込まれて霧散する。  要するに、自爆したのだ。自分自身の魔法とはいえまったくの無傷とはいかないが、それでもアルワライェの攻撃をまともに受けるよりははるかにましだ。  爆炎が消えた時、目の前にアルワライェの姿がなかった。 (また、転移?)  反射的に、背後を振り返る。しかし、そこにもアルワライェの気配はない。 「――っ?」  予想外の位置に出現した気配に、一瞬反応が遅れた。  真上、だ。奈子の頭上、空中にアルワライェが出現した。剣を振りかぶっている。  奈子は両手の短剣を頭の上で交差させ、相手の剣を受けとめようとした。  一瞬、腕に重みがかかる。  それは、ほんの一瞬だった。ファージに特別に頼んで作ってもらった大型の短剣も、アルワライェの力に重力加速度が加わった斬撃を受けきれなかった。  厚い刃が砕ける。  奈子は身体をひねって、刃の進路から逃れようとした。しかし、かわしきれない。  左胸から腹にかけて、えぐるような衝撃が貫く。  血飛沫が舞う。  剣をかわそうとした勢いが余って床に転がった奈子は、膝をついた姿勢で、片手を床についてなんとか身体を支えた。  ぼたぼたと、血が滴る。床に紅い斑模様を描いていく。 「ぐ…ぅ…」  かなりの深手だった。  傷そのものが致命傷というわけではなかったが、アルワライェと刃を交えている今の状況下では、致命的なダメージといえた。 「いやぁ、強くなったね」  アルワライェは勝ち誇った表情で、手の中で光の剣を弄んでいる。 「大したもんだ、前に戦った時とは桁違いだよ。だけど、僕はそれ以上に強くなっているのさ。そして、これからもまだまだ強くなる。そろそろ、諦めた方がいいんじゃないかな? ナコの血はとてもきれいだけど、これ以上流すと死んじゃうしね」 「…もう、勝った気でいるんだ? ちょっと気が早くない?」  傷の痛みを堪えながら、奈子は応える。 「まだ、闘えるとでも?」  アルワライェの表情は嬉しそうだった。  彼は奈子の、決して敵に屈しないところが好きなのだ。そういう相手を蹂躙し、屈服させることでこそ満足感が得られる。 「闘える…さ。あんたを殺すまでは、闘いを止めないって決めたんだ」  呼吸を整えながら、奈子は言った。  出血がひどい。が、まだしばらくは動ける。  はったりではなかった。  まだ、闘う術はあった。  アルワライェは確かに強い。  生前のファージならともかく、今の封印されたファージやフェイリアを、間違いなく越える強大な魔力を感じる。  それでも、まだ、奈子には十分すぎる勝算があった。  誰かが、耳元でささやいたような気がした。 『あなたの手の中にだって、誰もかなわない強い力がある』  そうだ。その通りだ。  どうして忘れていたのだろう。  奈子は、脚に力を込めて立ち上がった。  右手を前に差し出す。たとえこの状態から魔法を放っても、今の奈子ではアルワライェの防御結界は破れない。  しかし、この手はそんな意味ではない。  奈子の口から、短い言葉が発せられた。  これまで、何度も口にした言葉。  しかし、これほど強い意志を込めてそれを口にしたのは、初めてのことだった。 「剣よ、我が手の中に、在れ」――と。  その言葉に応えて。  奈子の手の中に、一振りの剣が現れた。  それは本来、ここに持っていないはずの剣だった。  無銘の剣。  竜騎士レイナ・ディ・デューンの剣。  今から千年以上も昔、当時のトリニアで最高と讃えられた剣匠ディング・コット・ギガルが、自分の命と引き替えに鍛え上げた剣。  無数の死体と、彼がそれまでに鍛えた何振りもの魔剣。そして彼の一人娘、トリニアの剣姫と呼ばれた竜騎士イルミールナの命から生まれた、呪われた剣。  その刃は限りなく薄い。金属でありながら、向こうが透けて見えるほどに。  無限大の魔力を、極限までに研ぎ澄ました刃だった。  想像を絶する魔力を秘めたその刃は、決して曲がらず、折れず。  鋼であろうと、硬い竜の鱗であろうと、その刃を妨げることはできない。  しかしそれは、今の奈子が持っていないはずの剣だった。  聖跡の番人、クレインに渡してきた。  これを持っていたら、また、人を殺してしまうかもしれないから、と。  もう、誰も殺したくないから、と。  そもそもこの剣は、イルミールナの仇であるファージを殺すために作られた剣なのだ。  聖跡の力に護られたファージを殺すことができる、おそらく唯一の武器だった。  だから、持っていたくなかった。  しかし剣を受け取った時、クレインは言った。『無駄だと思うぞ。これは、お前の剣だからな』――と。  今なら、その言葉の意味もわかる。  過去、この剣の主となったのはただ一人、千年前の竜騎士レイナ・ディ・デューンだけだ。この剣は、他のどんな騎士も自分の主と認めなかった。  しかし今、奈子は紛れもなくこの剣の所有者だった。  これは、奈子の剣だった。  奈子が、この剣の主だった。  この剣は、その主が必要とする時、必要とする場所に存在するのだ。 「無銘の剣…そうこなくっちゃ」  アルワライェが目を輝かせる。  目の前に面白そうなおもちゃを差し出された子供のようだ、と奈子は思った。  それは、ある意味正確な比喩かもしれない。  今の奈子にとって、アルワライェは子供も同然なのだから。 「チ ライェ キタイ!」  奈子がその短い呪文を発した瞬間、アルワライェの顔色が変わった。  彼の周囲に、二十数個の青白い光の球が出現する。  目が驚愕に見開かれていた。  光球から、次々と灼熱の光線が放たれる。  周囲の空気がプラズマ化し、閃光が走る。  光線はアルワライェの防御結界を貫き、堅い石の床に深々と穴を穿つ。  最強の防御結界を張り、短距離の転移を繰り返して、アルワライェは必死にかわそうとする。瞬く間に彼は血塗れになっていった。  それは本来、人間に比べれば不死身にも等しい竜を倒すための魔法だ。直撃したら竜ですら命がない。並の人間なら、かすめただけで死体も残らない。  アルワライェの防御結界でも、完全には防ぐことができない。それは、現在では存在しないはずの、竜騎士の魔法だった。  最後の光線をかろうじてかわし、アルワライェはほっと息をついた。直後、背後に強大な魔力の気配が現れる。  振り向きざま、剣で薙ぎ払った。同時に、手の中の紅い剣が消えた。  奈子が、そこに立っていた。奈子の剣が、アルワライェの光の剣を切り裂いていた。 「なん…だって…」  アルワライェは怯えていた。そんな感情を覚えるのは、生まれて初めてのことかもしれない。  彼を圧倒する魔力が存在するなどと、考えたこともなかった。彼を越えるものは唯一、姉のアィアリスだけだったはずだ。 「馬鹿な…」  そんなアルワライェの反応に、奈子は満足していた。  この憎い男をなぶり殺しにするのは快感だった。 「今回は、腕一本じゃ済まないからね。安心しな。すぐにあんたの姉貴も同じことになる。二人なら、地獄でも寂しくないっしょ」 「くっ!」  アルワライェは、紅い光の短剣を立て続けに投げつける。  奈子の剣はそれを易々と受けとめた。無銘の剣の刃に触れた瞬間、光の短剣は跡形もなく霧散する。  アルワライェが息継ぎをした一瞬の隙に、一気に踏み込んだ。剣の間合いだ。  どこを狙おう。心臓、首。どこでも思いのままだった。  やっぱり、身体をまっぷたつにしてやろうか。  そう考えて、横薙ぎに剣を叩きつける。  防御結界があったところで、なんの役にも立たない。豆腐ほどの手応えもなしに、アルワライェの身体は両断されることだろう。  刃が防御結界に当たり、閃光が弾ける。結界は一瞬で砕け散った。  血飛沫と、そして――  奈子の身体を、鈍い衝撃が貫いた。 「……え?」  アルワライェが、脇腹を押さえて膝をついた。  指の隙間から、紅い血があふれだしている。  奈子が動きを止めた。  手から、剣が落ちる。  そのまま茫然と立ちつくしている。  あの瞬間、アルワライェが自棄になって放った衝撃波。奈子の身体を貫いたそれは、普段の奈子であれば大したダメージにもならない。  ましてや、無銘の剣を手にした今の奈子にとってはなおさらのこと。  しかし――  ここには、その些細な傷にすら耐えられない、か弱い生命が存在した。 「――っ!」  突然、甲高い悲鳴が聞こえた。  奈子の声ではない。  由維でもない。  いや、そもそも耳に聞こえる音ではない。  しかしそれは確かに、奈子の頭の中に響いていた。  人間ですらない。まだ、人間としての意識を持たない存在。  しかしそれは、確かに生きていたもの。  その、断末魔の悲鳴だった。 「ぐ…ぅあっ!」  突然、奈子の下腹部を激しい痛みが襲う。まるで、内蔵をずたずたに引き裂かれているような。  身体の芯から全身に広がる痛み。  奈子は腹を押さえて、その場に座り込んだ。  痛みは更に激しくなり、頭の中に響く悲鳴に、頭が割れそうになる。  胃液が逆流してくる。 『苦しい』 『苦しい』 『身体が裂ける』 『痛い』 『痛い』 『痛い』 『痛いよ』 『痛いよ…』 『痛いよ、お母さん!』  その叫びを最後に、声は聞こえなくなった。  奈子の周囲の床に、紅い染みが広がっていく。  先ほどの、光の剣で斬られた傷からの出血ではない。そんなものは、無銘の剣を手にした瞬間にふさがっている。 「あ…あ……」  それなのに、血の染みはどんどん広がっていく。  胎内からの――性器からの出血は、止まる気配もなく続いている。  手で押さえても、指の隙間から止めどもなくあふれ出してくる。 「ダメ! ダメ! そんなのっ!」  紅い水溜まりの中に座り込んだ奈子は、必死に叫んだ。  しかし、もう、わかっていた。  はっきりと感じていた。  彼女の中にあった、かけがえのない存在が。  永遠に失われてしまったことを。 「あ…ぁ」  両手が、真っ赤に濡れている。  奈子の血と、同じ血を分けたもう一つの生命と。  それが存在していた、最後の証。  今、ひとつの生命が、失われた。  まだ生まれてもいなかった、しかし確かにそこにあった生命が。  この世に産まれ出ることもなく、失われた。 「……?」  訝しげな表情を浮かべたアルワライェが、苦しそうに立ち上がった。  あのとき彼は、死を覚悟していた。  ほとんど破れかぶれで放った一撃が、何か、思いも寄らない結果を引き起こしていた。  しばらく茫然と、血溜まりに座り込んでいる奈子を見つめて。  そして――  不意に、笑い出した。 「は…そうか、そういうことか。はは…、そうだったのか!」  無銘の剣に怯えた先刻までの表情は消えていた。いつもの、子供のような笑いが甦る。 「あっはっはっは…、これはやられたね! まさか、こんなことになっていたとは…ははは…」  腹を押さえて笑い転げている。 「やるもんだね。相手は誰だい? エイシスかな? それともハルティ・ウェル?」  不意に、子供っぽい笑みが消えた。後に残ったのは、もっと残酷な笑いだ。 「だけどね…」  アルワライェは奈子の傍に寄ると、髪を掴んで乱暴に引き起こした。そんな力があるようには見えないのに、左手一本で奈子を持ち上げる。  右手には、紅い短剣が生まれていた。 「そんな必要はないんだ――」 「――っ!」  紅い刃が、奈子の下腹部に根元まで埋まった。  そのままぐいっと刃をひねると、奈子を乱暴に放り投げる。  奈子の身体が、血溜まりに倒れた。そこへ、新たな傷口からの出血が加わる。 「ナコが産むのは、僕の子供だけだ。憶えておくといい」  そんな声は、奈子の耳には届いていなかった。  奈子はただ、全身を襲う痛みに耐えていた。  肉体的な痛みではない。精神が、ずたずたに傷つけられていた。 (死んじゃった…死んじゃった…)  まだ、生まれてもいない生命。  奈子の中にあった、もう一つの…。  名前も付けていない、抱いてやってもない。  由維と二人で育てるはずだったのに―― (アタシの、赤ちゃん…!)  殺された。  殺された。  殺された。  殺された。  誰に?  それは、こいつ…。  こいつ…。  こいつが…。  こいつが…。  こいつが、殺した…。  力無く倒れた姿勢のまま、奈子は目を開いた。  視界に、残虐な笑みを浮かべている男が映る。 (あいつが…)  殺した。  大切な、大切なものを奪った。 (許さない…許さない…)  許さない…。  許さない…。  許さない…。  許さない…。  殺してやる。  殺してやる。  殺してやる。  殺してやる!  あの男も、あいつを生み出したこの教会も!  何もかも――  自分のしたことに満足した笑いを浮かべていたアルワライェは、目の前にぽつんと、小さな光の点が浮かんでいるのに気付いた。  それは本当に小さな、針の先よりも小さな点で、眩い光を放っていなければ気付きもしないだろう。 「…?」  訝しげに、手を伸ばす。  その瞬間――           * * *  それは、無限に小さい空間の中に存在する、無限大のエネルギーだった。  今、扉は開かれ――  力は解き放たれた。           * * * 「…口ほどにもないわね。その程度なの、ファーリッジ・ルゥ?」  口の端から流れる血を拭い、アィアリスは嘲笑を浮かべる。  口だけではない、致命傷にはほど遠いが、腕や肩、脚からも血を流している。 「強がっていられるのも、今のうちさ」  そう応えるファージは全身血塗れだった。明らかにアィアリスよりもダメージは大きい。  ベルトにつけたポーチから十枚ほどのカードを取り出すと、それを宙に放る。しかしそのカードは内部に秘められた力を発動することなく、小さな炎に包まれて消滅した。 「駄目よ、道具に頼ろうだなんて。自分の力で勝負なさいな」 「うるさいな、これだって元はといえば私の力だよ!」  更にポーチからカードを取り出そうとするが、今度はポーチそのものが炎に包まれた。 「さて、これで反則技は使えないわね」  余裕の表情で言うと、アィアリスは剣を構える。  もちろんファージもだ。  カードなしでもそうそう負けるとは思わないが、アィアリスの力は桁外れだった。  それも当たり前。彼女の遺伝子は、生前のファージと多くの部分が共通なのだ。トリニアの最盛期、青竜の騎士十一人をたった一人で倒した、地上最強の存在と。  お互い、相手の隙を伺って、じりじりと間合いを詰めていく。  そして、一気に飛び込もうとしたその瞬間。 「…っ!」 「え…?」  一瞬、二人の動きが止まった。  普通の人間なら何もわからなかったかもしれないが、二人ははっきりと感じ取っていた。  たった今、津波のように押し寄せた魔力の奔流を。  やや遅れて、地面が揺れ始める。  地震だ。揺れそのものは、ごく小さなものでしかない。ただし、近くに火山も断層もなく、極めて安定した地盤を持つこの地方で地震とは珍しい。  地震というのは小さな揺れであっても、範囲は広い。それを引き起こすのに要するエネルギーは膨大なものになる。  それが、ひとりの人間の魔法によって引き起こされたなどと、誰が信じられるだろう。  しかし、疑いようはなかった。二人とも感じていた。  突然出現した、想像を絶するほどの『力』の存在を。  遠い。なのに、はっきりと感じる。そのくらい強い。  その場所は…。  二人の表情が、同時に変化する。  アィアリスは、その力が出現した場所に驚いていた。  ファージは、その力が持つ波動に驚いていた。  一瞬、二人の視線が交錯する。 「残念だけど、続きはまたの機会にしましょう。ちょっと、急用ができたみたいだから」 「…そうだね。でも、今度会った時は生かして帰さないけれど」  二人は同時に剣を納め、同時にその場から転移していった。           * * *  それは、真白い光だった。  それ以外の何物でもなく。  無限に小さい空間の中に閉じこめられた無限大のエネルギーは、一秒の何億分の一かの時間で、その大きさを爆発的に膨張させた。  それによって単位体積当たりのエネルギー密度は減少するはずなのに、そこにはなおも、素粒子すら存在できない超高温の空間が広がっていた。           * * * 「なに、あれ?」  茫然とその光景を見つめていたソレアは、不意に声をかけられて、驚いて振り返った。  振り返って、もう一度驚く。 「ファージ! どうしたの、その怪我は?」 「怪我なんかどうでもいいから! どういうこと? ナコが、あそこにいるの?」 「…ええ、そうよ」  二人はもう一度、その異質な光景に目をやった。  そこは、大陸でも有数の大都市トゥラシがあった場所だ。  今は、街全体が半球状の青白い光に包まれている。  大河コルザ川を挟んだ対岸の丘の上に立っていても、灼けるような熱を感じた。  街を覆った光の表面に、無数の青白い閃光が走っている。超高温の光と接した周囲の大気が、プラズマ化しているのだ。  想像を絶するエネルギーがそこにあった。  しかも街を包み込んだその光は、今なおゆっくりと広がり続けている。  どこまで広がったら止まるのか、そもそも止まるのかどうかすら、今の段階ではわからない。  ひとつだけはっきりしていることは、トゥラシはもう存在しないということだ。 「どうして? いったい、どういうこと?」  ファージの顔が青ざめている。  ソレアは、ファージの留守中に起こったことをかいつまんで説明した。 「じゃあ…ナコとユイがあそこに? これは、ナコがやっているの? そんな、まさか…これじゃあまるで…」 「…王国時代の、最強の竜騎士にも匹敵するわね」  千五百年にわたって語り伝えられることが正しいとすれば、ストレイン帝国の帝都ミレアスは、これと同じように白い光に包まれて消滅したのだという。ファージが生まれる四百年以上も前のことだから真偽はわからないが、今その場所は、大きな湖となっている。  それに匹敵する――もしかしたら越えるかもしれない力。  二人が知る奈子の力を、はるかに上まわる力。  それでも、この力は紛れもなく奈子の波動を持っていた。 「…二人を助けないと!」 「どうやって?」  ソレアの口調は、冷たいとすら感じられるほどに冷静だったが、その顔色はファージと同じくらい憔悴していた。  彼女はファージより一足先にここへ着いた分、いろいろと検討する時間があったのだ。そして出た結論は「ここからではどうしようもない」ということだった。  あの光の中は、周囲とは隔絶された空間だ。  その中への転移は、強固な結界を破って転移することよりも格段に難しいし、そもそも、これほど強大な魔力の支配下での転移は、どんな影響を受けるかわかったものではない。  もしも無事に中へ入り込めたとしても、あの超高エネルギー下では、最強の防御結界であっても、ほんのわずかな時間しか耐えられないだろう。 「ここからではどうしようもないわ。ナコちゃん自身が、何とかしない限り…」  ソレアは唇を噛んで言った。 「少なくとも、ナコちゃんはまだ生きている。そうでなければ、この力の場は消滅するか、制御を失って暴走するかのどちらかでしょう。ただ…」 「ただ?」 「ユイちゃんがどうなったのか…」 「まさか!」  ファージは叫んだ。 「この力がナコちゃんのものだとして、それを引き出すきっかけは何だと思う?」 「まさか…」  顔から血の気が引く。ファージだって奈子の性格はよくわかっている。  何か、とんでもないことが起こったのだ。そうでなければ、こんなことあり得ない。 「可能性は二つ…ね…」  独り言のようにソレアが言った。  奈子が、おそらくは本人の限界も超えたこれだけの力を解放するに至ったきっかけ。事情を知らないファージと違い、ソレアには二つの心当たりがあった。  そして。  そのどちらであったにしろ、奈子にとってはあまりにも大きすぎる喪失であることは間違いなかった。           * * *  由維には、最初から意識はあった。  ただ、その意識は心の奥底の堅い殻に閉じこもって、外に出る手段を失っていた。  アルワライェは、乱暴に由維の精神に侵入してきた。由維の記憶の隅々まであさって、奈子に関する知識を奪っていった。  必死に、抵抗しようとした。  初心者とはいえ由維も魔法を使えるし、たとえそうでなくても、外部から精神への侵入はもっとも抵抗しやすい魔法なのだ。  それでも、アルワライェの力は圧倒的だった。必死の抵抗をあざ笑うかのように、由維の心を裸にしてゆく。  それはまるで、精神に対するレイプだった。  ぼろぼろに犯された由維の意識は、それでも何とか逃げ延びた。  アルワライェには決して渡してはならない記憶を持って。外部からの侵入を許さない代わりに、自分から出ることもできない心の奥底へと。  自分を護るためには、そうするしかなかった。  だから、すべて見えていた。すべて聞こえていた。  奈子がやってきたこと。  あのウェリアとかいう少女を、なんの躊躇いもなく殺したこと。  アルワライェと闘い、無銘の剣の力で追いつめたこと。  そして――  それは、思い出すのも辛い光景だった。  アルワライェが放った魔法が、奈子の腹を貫いた。  奈子の中にある脆弱な生命が、一瞬にして失われた。  その断末魔の悲鳴は、由維にも聞こえた。  心が引き裂かれるような、あまりにも純粋すぎる叫び。  奈子の心を砕いたその叫びは、また、由維の意識を包んでいた殻をも打ち砕いていた。  ゆっくりと、由維は身体を起こした。  何も見えない。周囲はすべて純白の光に包まれている。  床や壁の感触がない。  上下の感覚もない。  すべてが消滅していた。  アルワライェも、アルンシルの建造物も。  一瞬にして素粒子にまで分解された。  だけど、由維はここにいる。  あらゆる物質の存在を許さない空間に。  それでも、由維はなんの不安も感じなかった。  ここは、奈子が作った空間だから。  奈子の気配を感じるから。  奈子が、近くにいるから。  だから、安心していられる。たとえどんな状況下でも、奈子が由維に危害を加えることなどあり得ない。  奈子が、泣いているのを感じる。  周囲の空間全体を、奈子の悲しみが満たしている。 「…奈子先輩ったら…強がっているくせに、実は泣き虫なんだから…」  ゆっくりと、歩いていく。  見えなくても、感じることはできる。  生まれた時からずっと、傍にあった気配なのだから。  微塵の迷いもなく、感じた方向へ歩いてゆく。  白い光の中を。  どこまでも歩いていく。  由維がいたはずの大広間の広さよりも、ずっと長い距離を歩いた。  ここは、元の空間とは隔絶された『場』だから。  それでも、どんなに離れていても、奈子の気配は感じることができた。奈子を見つけだすことはできた。  心が感じるままに歩いていく。  はたして、奈子はそこにいた。  腹を押さえた姿勢で座っている。  虚ろな目をして、涙を流さずに泣いている。  血に染まった手。  脚も、流れ出た血で濡れている。  血溜まりの中に座っている。  だけどその顔は聖母のように神々しい、と。  由維はそう思った。  奈子の前に、膝をついて座る。  真っ直ぐに奈子の目を見る。  何も見えていなかったような虚ろな奈子の瞳に、微かな変化が現れる。 「…ゆ…い」  声にはならなかった。口が、小さく動くだけ。  由維はこくりとうなずいた。  それから、奈子の身体に腕を回してしっかりと抱きしめる。 「…もう、いいの。もう、終わったの」  背中を優しくさすりながら、由維はささやいた。  奈子の目から、涙があふれ出す。 「もう終わったの。だから、私と一緒に帰ろう」 「…由…維」  奈子はゆっくりと腕を上げて、由維を抱いた。  由維の肩に頭を預けるようにして、泣き続ける。  涙が、服を濡らしていく。  だけど由維は、それを温かいと感じていた。           * * *  光は、現れた時と同じくらい唐突に消滅した。  そこには、大陸でも有数の大都市の姿は残っていなかった。ただ、巨大な、深いクレーターが穿たれているだけだ。  トゥラシの街はずれを流れていたコルザ川の支流に、光が消えると同時に本流から水が逆流してくる。  渦を巻いて、大量の水がクレーターに流れ込んできた。大陸で史上二つ目の、竜騎士によって作られた湖が生まれようとしていた。 「ナコ! ユイ!」  光が消えると同時に、ファージもソレアも、クレーターの中心にある二つの気配に気付いた。  すぐさまファージが転移し、濁流に飲み込まれる直前の二人を助け出す。  意識を失った奈子は、由維に優しく抱きしめられていた。 終章 新しい生命  赤ん坊が泣いている。  いつまでも、いつまでも。  優しく抱いてあやしているのに、泣き止もうとしない。 『も〜、この子ってば泣き虫なんだから』  奈子が、不機嫌そうな台詞とは裏腹に、実に嬉しそうな表情で言う。  隣で、由維も笑って赤ん坊の顔をのぞき込んでいる。 『お母さん似なんですよね〜。奈子先輩も、赤ちゃんの頃はすごい泣き虫だったそうじゃないですか』 『う、嘘だよそんなの。アタシ、泣いたりしないもん!』 『だって美奈さんも、うちのお母さんもそう言ってましたよ』 『〜〜っ!』  由維は歯がみしている奈子の手から赤ん坊を受け取ると、そっと頭を撫でてやった。  なぜか赤ん坊はすぐに泣き止んで、奈子を悔しがらせた。 * * * 「…あ」  夢か。  奈子は、大きくため息をついた。  目を開いて最初に目に入ったのは、見慣れた光景だった。  天井も、壁紙も、カーテンも。  奈子の部屋――ソレアの屋敷の、奈子がいつも使っている寝室だ。  シーツからは微かに、由維とファージの匂いもする。  そして、ベッドの傍らに立つ人影がある。 「…ソレアさん」 「気が付いた? 気分はどう?」 「良くは、ないよ」 「…そうね」  ソレアが少し困ったような表情をしていることに、奈子は気付かなかった。また眠ろうとした奈子は、はっとしたように目を開いた。 「由維はっ? 由維はどうしたの?」 「大丈夫。今は自分の部屋で休んでいるわ。先刻まで、まる二日徹夜でナコちゃんの看病をしていたのよ」 「無事なのか…よかった…」  ほぅっと、大きく息をついた。心の底からの安堵の息だ。 「あなたは、もうしばらく安静にしていなさいね。ひどい怪我だし、かなり消耗していて命も危ないところだったのよ」 「うん…」  奈子がまた眠る姿勢になったのを見て、ソレアも寝室から出ようとした。そこで、背後から呼び止められる。 「…ソレアさん?」 「…何?」  表情を読まれないように、小さく深呼吸してから振り返る。 「あの…その…」  奈子が、妙に言いにくそうにしていた。 「子供…の、ことなんだけど…」  ソレアの表情が曇る。俯き加減に、小さく首を左右に振った。 「あ、やっぱり…。いいや、わかってはいたんだ…」  奈子としてはできるだけ平然と言ったつもりだろうが、悲しそうな表情は隠し切れていない。  そんな奈子を見て、ソレアは辛い決断を迫られていた。  辛いことだけれど、言わなければならない。本当は、もっと落ちついてから言うつもりだったけれど、この話題が出た以上は黙っているわけにはいかない。 「…それでね、ナコちゃん…」 「ん…?」 「お、落ちついて聞いてね。実は…」  それは、言う側にとっても、聞く側にとっても、これ以上はないというくらい辛い告白だった。 「あなたの身体は…」  おそらく、もう、子供を育むことはできない…と。  奈子は一瞬、何を言われたのかわからないといった表情を見せた。それから徐々に、引きつった笑みを浮かべる。  それは、無理に笑おうとしている表情だった。 「あ…、あ、そう。そうだったんだ。でも、別にそんなの構わない…よ…。だって、今回のは完全に事故だし…、第一、アタシが将来、男と結婚して子供を産むなんて、…考えられない…じゃない? 別に…関係な…」  だけど、最後まで言うことはできなかった。  言葉が終わる前に、涙があふれだしてきた。  奈子は口を押さえるが、嗚咽が漏れるのを堪えることはできなかった。 「ほ…ホントだよ…別にアタシ…どうでもいいんだから……」  それだけ言うと、枕に頭を埋めて泣き出した。  ソレアは何か言おうとしたが、結局黙ったまま寝室を後にした。  本当なら年長者として慰めの言葉をかけるべきかもしれなかったが、今の奈子にいったい何を言えばいいというのだろう。  彼女を慰められる人間は、一人しかいない。  その人物は、寝室の扉の前で待っていた。  ソレアはわずかに苦笑すると、その少女の頭にそっと手を載せた。 「あとは…お願いね。ユイちゃん」 * * * 「しばらく一人にしておいて!」  由維が寝室に入ると、奈子がベッドに突っ伏したまま叫んだ。  構わずにベッドの傍らへ行き、奈子の肩にそっと手を置く。 「私です。奈子先輩」  それが由維だと気付いて、奈子も、出ていくようには言わなかった。  ただ黙って、すすり泣いていた。 「好きなだけ泣いてもいいんですよ。泣き止むまで、傍にいてあげますから」 「…うん」  肩に置かれた由維の手に、自分の手を重ねる。 「抱っこしてあげましょうか?」 「……うん」  由維もベッドにもぐり込んで、奈子の身体を優しく抱きしめた。  子供と添い寝する母親のように。  奈子は、由維の胸に顔を埋めるようにして泣いていた。  由維はただ黙って、奈子が泣き止むまでそうしていた。  言葉は必要ない。  小さな頃から、お互い、相手の温もりを感じることが一番の幸せなのだ。  泣きたい時には、涙が涸れるまで泣く方がいい。特に奈子は、由維の前では泣くのを我慢することが多いのだから。  奈子は長い間泣き続けていた。  嗚咽が止んだのは、一時間近く経ってからだろうか。由維の服の胸の部分は、ぐっしょりと濡れている。 「奈子先輩…」  由維は、小さな声でつぶやいた。 「…ごめんなさい」  小さな、本当に小さな声で。 「……」 「ごめんなさい、私のせいで…。私が捕まったりしたから…」 「……」 「私のせいで、奈子先輩が…」  最後まで言うことはできなかった。涙があふれてきた。 「ごめんなさい…奈子先輩…」  奈子を抱きしめたまま、今度は由維が泣き出した。  堪えきれなかった。奈子の前では泣かないようにしていたのに。  奈子はしばらく黙っていたが、急に身体を起こすと、由維を組み伏せるような体勢になった。  じっと、由維を見下ろす。その目には、確かに怒りの色が浮かんでいる。しかしその怒りは、由維が考えていたのとは少し異なるベクトルに向けられていた。 「奈子先輩…」 「一つだけ、はっきりさせておくけどね」  怒気をはらんだ口調で言う。 「こうなることがわかっていたとしても、アタシは由維を助けに行ったよ。子供が殺されるとわかっていたって、アタシは躊躇わなかった」 「奈子先輩…」  由維の目から、また涙があふれてくる。しかしその涙が持つ意味は、先程までとは違う。 「奈子先輩…」  言葉が続かない。ただ、涙だけが途切れることなく流れ落ちる。 「謝る必要なんかない。由維のことが一番大切なんだ。あんたのためだったら、どんな犠牲を払ったっていい。由維が傍にいてくれるなら、他に何もいらない」 「奈子先輩…」  由維は他に何も言えず、奈子の服をぎゅっと掴んで嗚咽を漏らしていた。奈子の手が、優しく頭に触れる。由維はその上に自分の手を重ねた。  そのまましばらくすすり泣いていたが、やがて涙を拭うと、わざと明るい調子で言った。 「…奈子先輩。私、考えたんですけど…」 「…ん?」 「将来、私が奈子先輩の子供を産んであげる!」 「え…?」  驚いたような…いや、心底驚いた表情で、奈子は由維の顔をのぞき込んだ。 「…頭、大丈夫?」  その口調が本気で心配しているようなので、由維はぷぅっと頬を膨らませる。 「私、一生懸命考えたんですよ。奈子先輩が子供を産めなくたって、人工授精で、私が代理母になるって手があるじゃないですか。ね、これなら私、奈子先輩の子供が産めるんですよ!」  まるで本気みたいだ。いや、由維は間違いなく本気だろう。  思わず奈子も、小さく吹き出した。 「バ〜カ、なに考えてるの」 「いい方法だと思うんだけどな〜」 「そもそも、人工授精だって相手が必要でしょう?」 「誰でもいいじゃないですか。エイシスさんでも、高品先輩でも、ハルティ様でも、なんならレオナルド・ディカプリオでも。私の好みとしては、やっぱり美形がいいんですけど?」 「ディカプリオってのは難しいと思うなぁ…」 「何かのイベントで来日した時に、背後から殴り倒すってのはどうですか?」  由維は半分以上本気といった表情で言い、それから二人は声を揃えて笑いだした。お腹を押さえて笑い転げる。 「ああ、それから…」  笑いすぎてあふれてきた涙を拭いながら、由維は言った。 「パパになり損ねた人が来てますから、会ってくださいね」 「えっ?」  奈子は思わず飛び起きる。 「エイシスが来てるの? あいつに、言ったの? どうしてっ?」 「…って、そりゃあ、言わないわけにはいかないですよ」  奈子はがばっと毛布をかぶった。 「ヤダ! どうして言うのっ! どんな顔して会えっていうのっ?」 「その顔でいいんじゃないですか? 真っ赤になって可愛いですよ」 「由維のバカ! 一生恨むから!」  由維はそんな苦情には耳も貸さずにベッドから降りた。 「呼んできますからね。あ、それと、殴っちゃダメですよ。ひどい怪我してるんですから」 「怪我…?」  毛布から、顔だけ出して訊く。 「何かあったの?」 「心配?」  由維が、小悪魔な笑みを浮かべていた。 「べ、別に!」  また毛布の下にもぐり込む。 「フェイリアさんと私が一発ずつでしょ。ファージが五発でリューリィが十発…。さすがにリューリィの時は途中で止めたんですけどね。本気で殴ってたから」 「あ…」  呆れて、何も言えなかった。四人がかりで痛めつけられているエイシスの姿が目に浮かぶようだ。 「…だったらアタシにも、一発くらいは権利があるんじゃない?」 「奈子先輩にはこの間の貸しがある、って言ってましたけど」 「この間…ああ、あれね」  奈子のせいで、ファージにぼろぼろにされたあの件だろう。確かにあれは全面的に奈子が悪い。 「とゆ〜わけですんで、呼びますね」  由維が寝室を出ていく。  それから間もなく、扉が控えめにノックされた。 「…いいよ」  奈子が応えると、扉が開かれた。  入ってきたのは怪奇ミイラ男…ではなくて、頭と、腕と、脚に包帯を巻いたエイシスだった。  奈子は思わず吹き出してしまう。 「なによ、その恰好」 「仕方ないだろ、俺も今度という今度は命がないかと思ったな。あのチビには感謝しないと」 「由維?」  エイシスがうなずく。 「でも、あいつの一発がいちばん痛かったぞ。チビのくせに」  言いながら、近くにあった椅子を引き寄せて座った。  奈子の顔をのぞき込む。 「…なによ?」  頬が赤くなるのを感じる。 「…すまなかった」 「なによ、らしくない。気味悪いじゃない」 「連絡を受けるまで、なにも知らなくて…」 「だって、アタシ言わなかったもん」 「本当に、すまん」  いつもからは考えられないくらい、殊勝な態度だ。  しかし別に、エイシスが悪いわけではない。  そもそも妊娠の件は、奈子が不注意だった。  エイシスを恨む気持ちはこれっぽちもない。それどころか、エイシスを見ていても以前ほどむかつかない。  むしろ…その逆かもしれない。 (じょ、冗談じゃない! どうしてアタシが…)  ほんの一時とはいえ、エイシスの子を胎内に宿したという事実が、奈子の心理に何か影響を与えているのかもしれない。 「いいよ、もう」  照れ隠しに、そっぽを向いて言った。 「…この償いは、いずれ必ずするから…な」 「……うん」  背中を向けたまま、奈子は応えた。  エイシスが椅子から立ち上がる音がする。扉の方へと歩いてゆく。 「ねえ、エイシス?」  奈子は、その大きな背中に向かって呼びかけた。 「ん?」 「もし、何事もなく子供が産まれてたら、あんたはどうしてた?」  悪戯な笑みを浮かべて訊く。  答えそのものにはそれほど興味はなかった。ただ、エイシスの困ったところを見たかっただけだ。 「…そうだな」  扉に手をかけたまま、少し考える。  やがて、いつもの人を馬鹿にしたような笑いを浮かべて言った。 「リューに百発くらい殴られて、それでも生きてたら…結婚を申し込んでたかな?」 「…なに言ってんの、バカ!」  奈子が真っ赤になって叫ぶ。エイシスは笑いながら部屋を出ていった。 * * *  その事件は、大陸中を震撼させた。  それも当然だ。なにしろ中原の大都市トゥラシが、一瞬にして消滅したのだから。  それも、トカイ・ラーナ教会の総本山であるアルンシルごと。  その衝撃は近隣諸国にとどまらず、大陸中に広がっていった。教会と敵対していたハレイトンやアルトゥルといった王国でさえ、喜びよりも戸惑いが先に立った。  いったいこの時代、一つの都市を跡形もなしに消し去ることができる力が、どこに隠されていたというのだろう。王国時代ですら、こんなことはそうそうあったわけではない。  教会の支配下にあった中原十カ国をはじめ、さまざまな国が調査に乗り出していた。  もっとも、そこで起こった事件の真相にたどり着く者はいないだろう。      彼女にとって、そんな周囲のざわめきはどうでもいいことだった。  彼女は、ただ静かに笑いながら湖の畔に立っていた。  それは、この大陸でもっとも新しい湖。  そして、人の手で作られた二番目に大きな湖。  ここはつい先日まで、十万を越える人々が住んでいた土地だった。それが今では、小さな波が湖岸を洗っている。  湖面を渡る風が、朱い髪を揺らす。  彼女――アィアリスは笑っていた。  心底、可笑しそうに。  湖の畔に一人立って、いつまでも笑い続けていた。 * * * 「まだ、今日は大人しくしてなきゃダメですよ」  由維が子供に言い聞かせるように言う。 「…わかってるよ」  自分の家の、自分のベッドに横になって奈子は応えた。  奈子の体調はまだ完全ではなかったけれど、由維もいつまでも家を空けているわけにもいかないので、こちらへ帰ってきた。  ずいぶん久しぶりのように感じるが、実際に向こうへ行っていたのはほんの四日間でしかない。 「…あのね、由維」  空になったコップを持って部屋を出ようとしたところで、由維は背後から呼び止められた。 「なに?」 「……」  奈子は言いにくそうに、沈んだ表情をしている。何かを思い詰めたような。 「…なんですか?」  奈子がなにも言わないので、もう一度訊く。 「トゥラシって…どのくらいの人が住んでたんだろ?」  その言葉に、由維は一瞬動きを止めた。手に持っていたコップを机の上に置いて、ベッドの傍に戻る。  床に膝をついて、横になった奈子の顔をのぞき込む。  小さく深呼吸してから口を開いた。 「……聞かない方が、いいと思う」  由維はその答えをソレアから聞いていた。だけどあえて奈子には言わなかった。  近いうちに奈子がこの話題を持ち出すことはわかっていた。しかしそれに対してどう対応するのが一番いいのかは、まだ決めかねていたのだ。  トゥラシは、大陸でも有数の大都市の一つだ。  そして、その市街地にはなにも残らなかった。生存者など論外だ。瓦礫すら存在しないのだから。  直径数キロの真円形のクレーター。ただそれだけだ。  あまりにも常軌を逸した力だった。たとえ核兵器を使ってもこうはいくまい。  王国時代の偉大なる魔力――その恐ろしさが初めて実感できた。墓守と呼ばれる者たちが、その力を封印しようとしたのも当然だ。  大都市を一瞬で消滅させ、大陸の気候すら変えるほどの力。  由維を傷つけられ、お腹の子供を殺された奈子のとった行動が、それだった。  正気に戻った奈子がどんな反応を示すか…。由維にとっては、火を見るよりも明らかだった。 「…何万人も、殺したんだ…アタシが…。アルワライェもアィアリスも許せない。あいつらを生み出したトカイ・ラーナ教会だって…。でも、なんの罪もない人を……何万人も…」  奈子の目から、涙があふれていた。  由維の服を掴む。 「どうしよう。ねえ、どうしよう…」  縋り付くように訴える。  そのことは、由維も考えていた。  それは、いくら考えてもどうしようもないことだった。  いくら悔やんだところで、その事実は変えられない。  死んだ人は帰ってこない。  そしてなにより、そのために奈子を失うわけにはいかないのだ。  由維は、奈子をぎゅっと抱きしめた。奈子の手に、更に力が込められる。  その手が、小刻みに震えているのに気付いた。 「ねえ、アタシの手、血で真っ赤に染まってるの。どんなに洗っても洗っても拭えない血の染みが増える一方なの。ねぇ、どうしよう?」  由維はすぐにはそれに答えず、ただしっかりと奈子を抱きしめていた。 「由維のため…だったんだよね?」  確かめるように訊いてくる。 「子供は死んじゃった。だけど、アタシには由維がいる。由維さえいれば、あとは何もいらない。由維のためなら、世界中を敵に回してもいい。ねえ、そうだよね?」  由維は気付いていた。「由維を護るため…」という大義名分のためならば、奈子は自分のあらゆる行動を正当化できるのだ。  それは、事実ではない。あのとき子供は既に死んでいたのだし、由維を護るためだけならば、あそこまでする必要はない。  しかし、奈子には免罪符が必要だった。自分自身の正気を保つためには、そうするしかなかった。  以前、ソレアが考えた通りだ。 『あの子がいれば、ナコちゃんはなんでもできる。あの子を護るため、という大義名分さえあれば、ナコちゃんは屍の山を築くことだってできるでしょう』  それは、やや常軌を逸した行動かもしれない。しかし、今の奈子にはそれが必要だった。  ソレアから話を聞いていたわけではないが、由維もそのことは気付いていた。奈子が闘うためには「護るべきもの」が必要なのだ。 「そう、奈子先輩は、私を助けてくれたんだよ。なにがあっても、どれだけの人間を敵に回しても、奈子先輩は私を助けてくれるんだよね? だから、私も奈子先輩が好き」  奈子の身体を抱いて、優しく言った。 「前に言ったよね? 私、なにがあっても奈子先輩のことが好きだって。なにがあっても、私だけは奈子先輩の傍にいるって」 「由維…」  どちらからともなく、二人は唇を重ねた。  激しい、貪るようなキスだった。だけど由維も、そうされるのは嫌いじゃない。 「由維」 「ん…ふ…」  ベッドの中に引きずり込まれて、乱暴に服を脱がされる。荒々しい手つきで胸を掴まれても、今日の由維は抵抗しなかった。  ただ、奈子のするがままにさせておいた。  その激しすぎる愛撫は、由維にも火をつけていた。  抵抗するなんて考えられない。  実際のところ、由維自身のの精神状態もまだまだ正常とは言い難く、いつもの自制心は働かなかった。  もっともっと、愛して欲しい。  何があっても、どんなことがあっても、私たちは一緒。  その、証がほしかった。 「由維…愛してる…」 「奈子先輩…いいよ…」  スカートが下ろされ、奈子の指が下着にかかる。脱がしやすいようにと、由維は軽く腰を持ち上げた。 「由維…」  全裸にされた瞬間、由維は少しだけ怯えたような表情を見せた。だけど、拒絶はしない。  奈子は、微かに震えている由維の身体を、もう一度しっかりと抱きしめた。  ――と。 「…なにやってるのっ! あんたはぁっっ!」  鈍い音と同時に、奈子の目の中に火花が散った。  聞き覚えのありすぎる声が響く。 「もう少しTPOってものを考えなさいよ! 昼間っから何やってるの!」 「…か、か、母さん!」 「…美奈さん」  少し前にもこんなことがあったな、と思いながら、奈子は後頭部に手を当てた。前回とまったく同じ位置に、大きなこぶができていた。  そして、ベッドの脇に母親がものすごい形相で立っている。これも同じだ。この前との違いは、場所がソファかベッドかという点だけだ。 「な、なにしに来たの! この間来たばっかりじゃん!」 「ばっかりって、一月も前のことじゃない! それに、自分の家に帰ってきたからって文句を言われる筋合いはないわ! 特に、昼間っから女の子を襲っているようなバカ娘にはね!」 「今日は合意の上だぞ!」 「とてもそうは見えなかったわね。あんた、ちょっと乱暴すぎるわよ。それに、今日はってことは、やっぱりいつもは強姦なわけね?」 「ちが〜う! だいたい、なにしに来たんだよ! 普段は年に数えるほどしか帰らないくせに」  そんな親子喧嘩の隙に、真っ赤になった由維は慌てて衣服を身につけている。 「仕方ないでしょ。だって、子供ができたっていうから…」 「――っ!」  ボタンを留めていた由維の手が止まった。奈子も一瞬凍り付く。  奈子は、横目で由維を見た。 (由維、あんた言った?) (まさか、言いませんよ) (じゃあ…?)  無言のまま目で会話した二人は、美奈に視線を戻した。 「何をひそひそ言ってんの?」 「えっと…、こ、子供って…なんのこと?」 「何うろたえてるのよ? あんたが妊娠したわけじゃあるまいし」  美奈の際どい台詞に、どっと汗が噴き出す。  しかしまだ、バレたと決まったわけではない。ぼろを出さないようにしなければ。 「…えっと、じゃあ…」  奈子でなければ、いったい誰が妊娠したというのか。 「まさか、美奈さん…」  由維がおそるおそる、といった様子で訊く。 「えへへ、三ヶ月だって」 「あ、あんたがっ?」 「母親をあんたと呼ぶな!」  鉄拳制裁が奈子を襲う。 「え、え〜っとぉ…おめでとうございます!」 「…いい歳をして」  ぼそっと余計なことをつぶやいた奈子は、もう一発殴られた。 「あたしは永遠の二十八歳よ。いいじゃない、子供の一人や二人」 「さりげなく八歳(推定)もサバを読むな!」  推定…というのは、美奈は娘にも自分の生年月日を明かしていないからだ。 「仕方ないのよ、失敗したから」  わざとらしく、よよよ…とその場に泣き崩れる。実力派の人気女優のくせに、家の中ではかなり大根だ。 「仕方ない?」  いい歳をして、娘同様に失敗したとでもいうのだろうか。  この人ならあり得る、と奈子も由維も思った。そもそも、奈子を産んだのも大学生の頃だったはず。どう考えても計画出産とは思えない。 「えっと…失敗っていうのは…?」  由維が躊躇いがちに訊く。 「つまりね、一人目が大失敗だったからさ。もうひとり産んで、今度はもうちょっとマトモに育てようかと」 「誰が大失敗だってっ!」 「女の子を襲うような『娘』が失敗作でなくて、いったい何を失敗と呼ぶのよ?」 「いいじゃん、そんなのどうだって!」 「だってこのままじゃ、孫の顔は見れそうにないもの。次女か長男かはまだわからないけれど、この子に期待するしかないじゃない」  自分のお腹を押さえて言う。 「う…」  奈子は言葉に詰まった。  美奈が考えているのと理由はかなり違うが、奈子に期待しても「孫の顔は見れそうにない」のは事実だからだ。 「もう、好きにすれば! でも、あんまりこっちに帰ってこないでよね」 「由維ちゃんを襲えないから?」 「あんたが妊娠なんてことになったら、またマスコミとかが押し掛けてうるさいんだから!」 「いいじゃない、そのくらい。あんたに頼みがあったのよ」 「頼み?」 「あのね…」  美奈の「頼み」に奈子は戸惑い、由維は面白そうに目を輝かせた。 * * * 「やれやれ、まいったなぁ」  奈子はうんざりしたようにつぶやきながら、コーヒーカップを口に運んだ。  由維は、フルーツパフェを頬張っている。  ここは、家の近くにある喫茶店『みそさざい』だ。二人で夕食の買い物に出たついでに、ちょっと寄り道している。 「いいじゃないですか。でも、奈子先輩がお姉さんになるんですね〜。なんか意外」 「まあ、それはいいんだけど…困ったなぁ」 「え〜? いろいろ考えるのも楽しいじゃないですか」  奈子が唸っているのは、母親の「頼み」のためだ。  つまり『この子の名前は、奈子が考えてね』と。そう頼まれたのだ。  それで、困っているのである。生まれるのは来年の話だし、性別もわからないうちにまだずいぶんと気の早い話ではあるが。 「う〜ん…」  カップを置いて、腕組みをして唸る。 「男の子だったら、日明とか、倍達とか、それとも章圭とか…」 「思いっきり趣味に走ってますねぇ」  由維が苦笑する。いずれも奈子が好きな、二十世紀後半の有名な格闘家の名だ。 「でもそれって、あまり苗字と合わないような気もするけど…。そうだ、延彦なんてどうです?」 「弱そうだからヤダ」  一言で切り捨てる。 「強い人? じゃあヒクソン」 「日本人だぞ」  う〜ん、と二人揃って頭を抱えた。  気に入った名前はたくさんあっても、実際にはそのうちたった一つしかつけられないのだ。いざ考えるとなると、なかなか難しい。 「あ、いい名前思いついちゃった」  由維は笑いを堪えているような表情で、スプーンをくわえたまま指を一本立てた。 「あのね…松宮雄二ってのは?」  奈子はコーヒーを吹き出した。 「じょ、じょ〜だんじゃないわよ!」  一瞬で、奈子の顔が真っ赤になる。口元を拭いながら叫んだ。  雄二…は奈子の初恋の、そして初体験の相手の名前だった。同じ道場の先輩で、高品雄二という。 「いいと思うんだけどな〜。じゃあ、男の子は保留として、女の子の名前考えます?」 「あ、それはもう考えてある」  奈子はコーヒーを飲み干すと、マスターの晶にお代わりを頼んだ。 「どんな名前ですか?」  興味津々に訊く。 「あのね…」  奈子は得意げに言った。 「由維とアタシから一字ずつ取って『由奈』ってどうかな? トリニアの竜騎士みたいでカッコイイじゃん」 「松宮由奈…いい名前ですね。でも、どこかで聞いたような…」 「え、なに? 私の名前が、どうかした?」 「え?」  突然、会話に割り込んできた声に、二人は顔を上げた。  傍に、コーヒーのお代わりを持ってきた、バイトのウェイトレスが立っている。  奈子と由維はしげしげと彼女を見て、それから顔を見合わせた。  相手の目を見て、お互いに同じ考えだと理解する。 「聞いたことあるはずですね」 「ちょっと…マズイよね。万が一似ちゃったら…」 「…他の名前にした方がいいかも」 「…だね」  こそこそと言ってうなずき合い、そして、同時に吹き出した。 「…?」  男遊びの激しさで知られる、みそさざいのウェイトレス柊由奈は、笑い転げる二人を不思議そうに見つめていた。 あとがき 「サド!」  という、読者からの声が聞こえるような気がします。  ええ、もう、なんとでも言ってください。  なにも言い訳しませんから。    とゆ〜ことで、以下ネタバレ大爆発なので、本編を未読の方は読まないように。  さて、ようやく再開した本編第八話『レーナの御子』ですが、第三部の初っ端からこんな展開です。いいんでしょうか。  多くの読者が懸念していた奈子の妊娠疑惑、結局こうなりました。  『金色の瞳』公開直後から、この件に関するメールは何通も届いています。ネタバレなのでHPの『読者の声』には掲載しませんでしたが、この機会にいくつか紹介しましょう。           * 『ところで、次回予告の「奈子の体に異変が…」の異変って、もしかして、「生理がこなくなる」だったりしません!? 杞憂であればよいのですが……。  もしそうであれば……エイシス殺せという意見大量増加確定!  あの初めての相手ではない(時期はずれだし)とすればこいつだけ(笑)。ついでに言うとおそらく僕も反エイシス派に移行する事でしょう(笑)。……って妊娠じゃなければ上の内容気にしなくていいです(笑)』           * 『ところで、「レーナの御子」次回予告について、ちと気になったのですが、「奈子の体には一つの変化が…」ってもしかして……  ……ご懐妊?(爆)  違ってたら重々謝ります。でも、おいらの頭にはそんくらいしか浮かばなかったんです。これ読んで気を悪くした皆様、ゴメンナサイ。 ここからは独り言。 「だってなぁ、エイシスのあの性格上、出すときは外でなんて気遣いしそうにないし、この世界に『明るい家族○画』なんてありそうもないし、大体、今まで散々行き来してるんやからいまさら魔法の後遺症とかそんなネタはないやろしなぁ。本人よりも先に由維の方が先に気付くかどうかはともかくとして、それくらいしかないわなぁ?」 あんまり言ってるとどっからとも無く竜騎士の魔法が飛んできそうなので、今日はこのへんで…。』           * 『最後に、少し下ネタになるんですけど、「金色の瞳」で、エイシスが避妊していたかどうかが心配。一度ならともかく、かなりやってたようだから、サドの北原さんなら妊娠させかねないかなっと思って。』           * 『二点目はエイシスにやられまくった奈子の妊娠説(こっちが可能性高いと思う)  これなら由維が一発で判るという理由と、あれだけ毎晩やられてればなぁという思いから。 (…中略…)  確かに私としても「エイシス許すまじ!」ですが、私が手を出さなくても…(笑)。 まっ、それは冗談ですが、仮に奈子が身籠もったら、きっと生むんじゃなかろうかと思いまして。由維も最終的には許すんじゃないでしょうか(初めは猛反対するでしょうけど)  特に奈子の場合、命の重さを身にしみて知っていますから。  そうなると、奈子のことだから両親に全部話してコルシアで生むのではないかなぁと。「こっちの世界」じゃかなり無理があるし、両親や友達に迷惑を掛けるから良しとしなさそう。 …かなり「免罪符」的な考えですけどね(由維に言われそう) もっとも、その子が「生きていられる」かは全くの別問題ですけどねぇ(鬼や私(汗))』           *  う〜ん、子供が死ぬところまで当てた人がいるぞ。皆さん、私の性格を読んでいたようで(笑)。  でもホント、この展開に関してはいろいろと言いたいことがあるかと思います。私自身「いいのかな〜」と思いながら書いていたのですが…最終話までのつながりを考えると、どうしてもこのエピソードは外せませんでした。  今回、前半はすごくほのぼのしてるんですけどね。ほとんどコメディだし。  『金色』が前半からあんな展開だったので、今回はちょっとのんびりとした感じで始めてみました。第三部開始記念で、主要キャラをほとんど登場させたし。(今回出番がなかったのは、高品雄二と北原美樹くらいですかね? …って、クレインを忘れてた!)  そのせいか、当初考えていたよりもずっと長い話になってしまいました。まさかここまで伸びるとは…。なにしろ原稿用紙で四一五枚です。『金色の瞳』は前後編合わせても三八○枚なのに。  しかも今回は展開の都合上、前後編に分けられなかったのですけど、息切れせずに最後まで読めたでしょうか?  そういえば今回、長い割には『昔話』の比率が少ないですね。久々にレイナの出番があったので、私としては楽しめましたけど。  昔話が少ない分、由維の出番が増えています。特に今回は、つわりで自由に動けない奈子に代わって大活躍。ファージにまで襲われたりして、身体を張って見せ場を作ってくれます(笑)。  さらに今回はニューキャラも多いです。まず第一は本邦初公開の奈子の母親、美奈さん(年齢不詳)。性格は娘とよく似ています。外見は奈子よりも女らしいですけど。  そして今回は見せ場がなかったけど、レギュラー(予定)最年少「特殊な趣味」の読者向けキャラ(?)ユクフェ。次回はもう少し出番があるといいね。  それから作者のお気に入り、サイファーの妹エリシュエル。最初の案では『エンジェラン』という名前だったことはナイショ(笑)。闘い方はどちらかといえばフェイ・イェンですな。  昔話キャラとしては、ユウナ・ヴィの妹レイナ・ヴィと、フェイリアのご先祖様フェイシアが初登場。もともと、フェイリアよりもフェイシアの方が先できたキャラです。  おそらくシリーズ中一番の美少女リューリィ・リンは、皆さんお待ちかねの本編初登場。でもこの子、どんどん性格が凶暴になっていないか? 外伝『リューリィ・リン』の頃は可愛かったのにねぇ…(遠い目)。  あとは久々登場としてアルトゥルのサイファー、マイカラスのハルティ、アイミィ、ケイウェリがいます。ダルジィはホントにちょい役。危うく出番がないところでした。アイミィは宮上由貴さんのところで活躍しているから、本編ではこのくらいでいいよね?(笑)  そしてレギュラー化しそうなエイクサム。実は私、彼のことを忘れていて、危うくトゥラシごと消滅させるところでした(笑)。アルワライェのおかげ(?)で、忍法微塵隠れでトゥラシから逃げ出して難を逃れています。  アルワライェはご愁傷様。ただでさえ男性キャラの少ない作品なのに、さらに減っちゃいました。次回以降も男のニューキャラはこれといったヤツはいないしなぁ…。  そして、弟の復讐に燃える(のかなぁ?)アィアリス、次回以降の活躍が楽しみです。頑張って欲しいものです。なにしろ今、どう考えても主人公側の方が戦力多いですから(笑)。でも大丈夫、彼女には強い味方がいます。熱狂的なファンとでもいいますか。  …え? それは誰かって? 決まってるじゃないですか、私ですよ、わ・た・し。作者を味方に付ければほぼ無敵ですね(笑)。  あ、そういえば、晶さんと由奈は『光』は初登場かな?  『たたかう少女』と『月羽根』には登場済みだから、晶さんはシリーズもの全制覇ですね。さすが最古キャラ。でも主役にはなれないの(笑)。  この作品を書いているときのメインBGMは『光の王国・サウンドトラック』でした。そんなCDが存在するのかって? 作ったんですよ、自分で。今年の始め頃、PCを買い換えたついでにCD―Rも搭載したので。  とはいえ、私は作曲の才能などありませんので、手持ちのCDから『光』のイメージに合う、お気に入りの曲を集めたのです。  いや〜、素敵なCDに仕上がりましたよ。著作権の関係で一般公開できないのが残念なくらい。でも「どうしても聴いてみたい」って人がいるなら、常連さんに限って、なんらかの手段を講じますけど。  話は変わって、ここでちょっとしたクイズでもやりましょうか。 Q.「ファージのモデルとなったアニメキャラとは誰でしょう?」  ヒント? それを言ったらすぐにわかるからなぁ…とりあえず、ちょっと(かなり?)古い作品です。  厳密に言えば、正解は二人います。でも二人とも当てるのは多分不可能なので、一人だけでも正解としましょう。答えを思いついた方は、作品の感想メールの隅にでも書いて送ってください。正解しても別に賞品はありませんけど、第九話のあとがきでその栄誉を讃えさせていただきます(笑)。  感想メールといえば、一つお願いがあります。  小説の感想は、できれば『ふれ・ちせ』の掲示板(http://www.sx.sakura.ne.jp/~mosir/cgi/hurebbs/bbs.cgi)ではなくて、kitsune@mb.infoweb.ne.jp宛のメールか、各作品ページの感想フォームで送ってください。どうしても、ってわけではないですが、そうしていただけると助かります。  それから、もしも感想を『読者の声』ページに掲載されたくないという方は、その旨書いておいてください。部分的にオフレコという場合もね。あと、基本的に『読者の声』は匿名にしてますけど、「いや、ぜひ俺の(私の)名前を出してくれ! HPも持ってるから宣伝して!」という方は、これまたその旨明記しておいてください。  ところで、フォームで感想を送ってくれた方で、たまにメールアドレスが間違っている場合があります。返事のメールを出しても、エラーになってしまうという…。こうなるとこちらからは連絡の取りようがありませんので、返事がなくてもご了承ください。  ああそれと、お願いついでにもう一つ。 『楽園』(旧エンターテイメント小説連合)のランキングで、殿堂入りの基準がこれまでの百票から三百票に引き上げられました。 「よし、私の手で『光』を再殿堂入りさせてやろう!」という方がおりましたら、ぜひ投票をお願いします(笑)。投票は『エンターテイメント小説連合』(http://novel.pekori.to/main.html)のファンタジーのランキングページか、旧殿堂入り作品の紹介ページ(http://novel.pekori.to/dendo/604.html)から。  では最後に、これからの予定をお話ししておきましょうか。  『光』の本編は、あまり間を開けずに次に取りかかります。年内に第九話『黒剣の王』の公開にこぎ着けたいところ。でもこの話、まだ細部がまとまっていない部分が多い。一つだけはっきりしているのは、また「サド」とゆ〜声が聞こえてくるということです(笑)。  そして…以前からちらちらと漏らしてはいましたが、そろそろはっきりと言っちゃいましょう。その次の第十話『光の王国』は、本編最終話になります。つまり、奈子&由維の冒険も残すところあと二話。  そしてこの二話は、どちらかといえばひとまとまりの前後編みたいな展開になると思います。次回から、物語はいよいよクライマックスへ。お楽しみに。  間に番外編やインタルードが入るかどうかはまだ未定です。書くとしたら八話と九話の間かな。前述の通り、九話と十話は話がつながっているので、多分コメディを入れる余裕はないでしょう。  では、また、次回作でお会いしましょう。 二○○○年五月 北原樹恒 kitsune@mb.infoweb.ne.jp 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/