光の王国・最終話 生まれ来る者たちへ 序章 レーナの末裔  風が、強くなってきた。  長い黒髪が風にたなびいている。  ざわざわと草が揺れる。静かだった湖面に尖った波が立つ。  そこは広大な湖の岸辺。一度風が吹き始めれば、それを遮るものは何もない。  レイナ――レイナ・ディ・デューンは、剣を構えて立っていた。  彼女と向き合っているのは、よく似た顔の女騎士。レイナよりも少し短い銀色の髪が揺れている。その手には、長い、純白の刃の剣が握られていた。  ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト。優れた竜騎士を数多く擁するトリニア王国の中でも、最高の騎士の一人だ。  この場にいるのは、二人だけだった。彼女たちの闘いを邪魔する者は誰もいない。 「もしも……もしもあなたが勝ったら、一つだけ頼みを訊いてくれるかしら?」  ユウナの唇が小さく動く。 「フェイシア・ルゥに会いに行って」 「フェイシア……トリニアの魔術師か? なんのために」 「会えばわかるわ」 「ふん……。どうやら、負けを覚悟したか?」  ふっと笑みを浮かべる。  今日こそ決着がつく。レイナはそう考えていた。  これまで幾度となく刃を交えた相手。そろそろ終わりにしてもいい頃だろう。  ストレイン帝国に多大な損害を与えてきた、トリニア最強の竜騎士。彼女を倒せば、戦況は一気に有利になる。しかしレイナにとっては、そんなことは些細な問題だった。自分がユウナに勝つこと、それだけが重要なのだ。 「負ける? 私が? まさか。あくまでも万が一のためよ。実の妹が相手だからといって、勝ちを譲るはずがないでしょう、トリニアの竜騎士としては」  ユウナの口調には、まるで気負ったところがない。  余裕を滲ませたその笑みが、妙に癇に障った。これではまるで、自分の方が余裕を失っているみたいではないか。 「この、紅蓮の青竜の紋章にかけて、無様な姿は晒せないわ」 「妹? まだそんな寝言を」  レイナはこの時まだ、その言葉を信じてはいなかった。  いや、その表現は正確ではないだろう。心の奥底では「もしかしたら」と思っていた。ただ、信じたくなかっただけだ。  それを受け入れてしまったら、ストレイン帝国の竜騎士として、これまで自分を支えてきたものがすべて崩れてしまう。  だから、信じなかった。髪の色こそ違え、顔立ちのよく似たこの騎士を目の前にしても。 「この私が、そんな見え透いた手に乗るとでもっ?」  叫ぶと同時に、レイナの方から仕掛けた。動揺を見透かされないために。  勝ちを譲るはずがない――その言葉は嘘だった。  後になって思えば、この時ユウナは最初からレイナに――妹に殺されるつもりでいた。レイナをフェイシアと会わせれば、自分の目的は達せられるから、と。  レイナの剣が、無銘の剣と呼ばれる最強の魔剣が、ユウナの身体を貫いていた。  あの感触は一生忘れない。  どれほど忘れようとしても、忘れることはできない。  血を分けた姉を、この手で殺したことを。  同じ血を分けて生を受けた自分の半身を、自らの手で永遠に滅ぼしたことを。 * * *   「――――」  ごく短い時間、気を失っていたらしい。  レイナは、頭を軽く振りながら身体を起こした。  また、あの夢を見た。  ユウナを殺した時の夢を。  昨日のことのように鮮明だった。しかし実際には、あれはもう何年も前のことだ。  レイナがまだ後ストレイン帝国の竜騎士で、トリニアと激しい戦闘を繰り返していた頃のこと。  運命とは、なんと不思議なものだろう。今の自分はアンシャスの女王であり、トリニアの残党と同盟を結んでストレインの帝都に攻め込んでいる。  ユウナと闘った時には思いもしなかったことだ。  あの当時とはずいぶんと状況が変わってしまった。  いま一度、周囲を見回す。後ストレイン帝国とトリニア王国連合の、最後の戦いの光景を。  主の力を誇示するような、荘厳な宮殿。  それが、燃えていた。天井が崩れ、床は瓦礫に埋まって足の踏み場もない。  床に転がっているトリニア、ストレイン双方の騎士たちの骸。  血を流して倒れている長い銀髪の魔術師、フェイシア・ルゥ・ティーナ。  そして、左胸を紅く染めたストレイン帝国の皇帝。  ただ一人レイナだけが、深手を負いながらも剣を手にして立っていた。  ちらりと、床に落ちている剣に目をやる。  漆黒の刃の――黒の剣。  このままにしておいていいものだろうか。しかしレイナでは、黒の剣に触れることもできない。  触れればおそらく、魅了されてしまう。あの魔性の剣に。  破壊することもできない。黒の剣は永遠不滅の存在なのだ。 「……仕方ない」  今は、どうしようもない。  レイナは黒剣をそのままにして、瀕死のフェイシアの身体を乱暴に担ぎ上げた。  宮殿の建物全体が軋みを上げている。ここも、もう長くは持たない。この場で死ぬつもりでなければ、早々に退散するべきだろう。  大きな窓から身を乗り出し、そのまま外に飛び出した。  二人を空中で拾い上げたのは、巨大な青竜だった。今はレイナの騎竜となっているフレイムだ。  翼の付け根に真新しい大きな傷があり、裂けた鱗の間から紅い肉が覗いている。深紅の傷と青い鱗のコントラストが少し不気味だった。  レイナとフェイシアを背に乗せたフレイムは、一気に高度を上げた。  ストレインの帝都レ・ミレアスの全域が見渡せる。レイナも子供の頃、この街で暮らしていた。  あちこちで、大きな炎が上がっていた。帝都全体が煙に覆われ、遠くが霞んで見える。  レ・ミレアスは、五百年近いその歴史に幕を下ろそうとしていた。昨年、トリニアの王都マルスティアが同じ運命を辿ったように。  五百年に渡ってこの大陸を支配してきた二つの大国が、時をほぼ同じくして最期の時を迎えようとしている。  これは、なにかの啓示だろうか。  レイナは無言で、燃える帝都を見下ろしていた。 * * * 「……暑いし、埃っぽいし。最低の場所だな、ここは」  ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトは、滴る汗を拭いながら不機嫌そうにつぶやいた。  山脈から吹き下ろす風がこの地方独特の朱い土を巻き上げ、街中の建物を同じ色に染め上げているように見える。水と緑に囲まれた王都マルスティアで生まれ育った彼女には、我慢がならない土地だった。  自慢の銀髪が赤毛になりそうだ――と毒づく。  ここは、金の鉱脈を探す山師たちによって拓かれた辺境の街だ。いくら荒事に慣れている騎士とはいえ、トリニアの名門の生まれである十八歳の女性が安らげるような場所ではない。  しかし、文句は言っていられない。  コルシア平原の西端に、大陸中央部を南北に貫く大山脈が聳えている。この街は、そこへ旅する際の出発点だった。  ここで食料をはじめ、必要な物を揃えなければならない。竜の棲む中央山脈へ旅をするためには、この街に立ち寄らなければならないのだ。  ユウナは、騎竜を探す旅の途中だった。青竜の騎士となる資格を得た者の、最後の関門だ。  誰よりも優れた力があるからといって、それですぐに竜騎士になれるというわけではない。騎竜を――騎士の力を認め、共に闘ってくれる伴侶を見つけなければならない。  それは、簡単なことではなかった。これに比べれば、竜騎士候補同士での試合など子供の遊びも同然だ。  竜はただでさえ数が少ない。人間に心を開く竜となればなおさらだ。  ユウナは、心を通わせることのできる竜を見つけるまではマルスティアには戻らない覚悟でいた。たとえ、何年かかろうとも。 「……こんばんは、お一人?」  宿で夕食を摂っている時、一人の女性が声をかけてきた。  珍しいことだ。若くて美しいユウナに声をかけてくる愚かな男は掃いて捨てるほどいたが、女性とは。  ここはトリニアの中央から遠く離れた辺境の土地、そもそも若い女性は極めて少ない。山師たちを相手に商売する女ならよく見かける。しかし、この女性は違うようだ。  食事の手を止め、相手の顔を見る。  こんな埃っぽい土地には不釣り合いな長い銀髪の、美しい女性だった。  年齢はよくわからない。外見だけならユウナよりも少し上というところだが、もっと年長らしい落ち着きも感じさせる。第一、相手が力のある魔術師であれば、実年齢は外見だけでは判断できない。 「初めまして。私はフェイシア・ルゥ。フェイシア・ルゥ・ティーナ。こんなところでアール・ファーラーナに会えるとは幸運だわ」  外見に相応しく、声も美しい。が、ユウナは微かに眉をひそめた。アール・ファーラーナと呼ばれるのは好きではない。  アール・ファーラーナ――ファレイアの神話では、太陽神トゥチュと大地の女神シリュフの間に生まれた娘、戦いと勝利の女神の化身とされている。古くからトリニアにおいては、美しくて力のある女性騎士に与えられる称号だ。  ユウナは文句なしに美しく、現役の女性騎士で最高の能力を持っていた。そしてなにより、母親はエモン・レーナの血を引く名門ラーナ家の出身である。女神の称号で呼ばれるのはむしろ当然といえた。  しかし今のユウナにとって、この名は皮肉にしか聞こえない。  自分は戦場で大怪我を負わされ、目の前で許嫁を殺された間抜けな騎士だ――そんな想いに支配されている。 「――――」  ユウナは、無言で相手を睨んだ。  フェイシア・ルゥという名に覚えはなかったが、向こうはユウナのことを知っているようだ。  別に不思議なことではない。ラーナ・モリト家の美しい一人娘は、王都でも知らぬ者はない有名人なのだから。  相手は簡単に自己紹介した。ハレイトンの王立学院に所属する魔術師で、王国時代以前の古い遺跡を研究している――と。  これから中央山脈の方へ調査に行く予定なのだそうだ。そして彼女は、ユウナに同行を求めてきた。いろいろと危険も多い辺境の地、竜騎士が一緒にいれば心強いから、と。  ユウナはもちろん、断るつもりでいた。  そんな暇はない。一刻も早く騎竜を見つけ、あのストレインの竜騎士に復讐しなければならないのだ。  しかしフェイシアは、ひどく魅力的な提案をしてきた。  協力してくれれば竜を紹介する、と。 「彼は、この大陸で最強の青竜よ」  ユウナの心を見透かしたように、笑ってそう付け加えた。  ユウナとフェイシアが人の暮らす街へ戻ってきたのは、半年以上も後のことだった。  その間、中央山脈の麓に残された王国時代以前の古い遺跡をいくつも調べ、様々な発見をした。  もしかしたら、それは知らない方が良かったことかもしれない。  しかしフェイシアはそれが目的だったのだ。危険だから、というのは方便。最初からユウナを巻き込むつもりでいたに違いない。  宿を取り、久しぶりに思う存分身体を洗った後で、ユウナは一人で食事に行った。そこへ、男が近付いてくる。 「やあ。君、一人?」  ユウナは無言で、男を一瞥した。  背が高く、短い黒髪。見知らぬ男だ。  鍛えられた身体をしているし剣も持っているが、騎士ではない。騎士の証である腕輪は付けていなかった。  ナンパ男に用はない、と無視していたが、男はしつこくつきまとってくる。力ずくで黙らせようか、と危険な考えが頭をもたげたところに、フェイシアがやってきた。  こいつはフェイシアに引き取らせよう、と決めて立ち上がる。 「少しくらい付き合ってくれてもいいじゃないか。俺のどこがいけないんだい?」 「私は、人間に化けて女を口説くような竜は趣味ではない」  そう言い捨てて、その場を立ち去った。  残された二人が、ユウナの背を見送る。 「……なんだ、バレてたのか」   男の方が肩をすくめた。フェイシアがその腕を小突く。 「当たり前じゃない。あの子を誰だと思ってるの」 「アール・ファーラーナだろう。レーナ家の末裔だ。さすがに魅力的だね。気に入った」 「ところであなた、どうして人型で出てくるのよ?」  フェイシアは男を睨んで、責めるように言う。 「上手に化けただろ? そう悪くはないと思うが」  男は軽く両手を広げて、自分の身体を確かめるように見下ろした。 「そうね。でも『悪くはない』って程度でしょう? 人型のあなたはせいぜい並の色男。竜の姿の方がずっと素敵よ。あの子は生まれついての竜騎士なんだから、生身で来ればイチコロだったのに。嫌われちゃったじゃない」 「竜の姿だと、街へは入って来れないし」 「明日の朝、連れていくって言ったでしょ」 「とても待ちきれないね」  男はそう言って、愉快そうに笑った。  翌朝――  ユウナとフェイシアが宿を出たところで、また昨日の男――昨日の竜、というべきか――が近寄ってきた。  無視するユウナの後を、軽薄そうな笑みを浮かべながらついてくる。ちょうど剣が届かないぎりぎりの距離を空けているのは、ユウナがひどく危険な目をしていたためだろう。 「そうつれなくするなよ。俺は役に立つぜ」  男が言う。  ユウナは唾を吐き捨てた。 「ナンパ竜のどこが」 「ナゥケサイネに勝てるのは、俺だけだ」  ユウナの足が止まった。表情が強張り、全身から殺気が立ち昇る。  あの巨大な赤竜、ナゥケサイネ。  ストレイン帝国の竜騎士レイナ・ディ・デューンの騎竜。  この男がユウナとレイナの因縁を知っているとしたら、それを話した者は一人しかありえない。  ユウナは無言で、隣で肩をすくめているフェイシアを睨んだ。 「仕方ないじゃない。でも、言ってることは事実。このフレイムは、私が知る最強の戦士竜よ」 「俺が約束できることは、一つだけだ。だが、お前にはそれで十分だろう?」 「約束?」 「俺は、どんな竜にも負けない。俺より強い竜はこの世に存在しない。それだけじゃ、不服か?」 「……その点については、不満はない」  渋々、といった調子でユウナはつぶやいた。 「じゃあ何が」 「…………軽薄な男は嫌いだ」  ユウナは、また歩き出した。もう振り返りはしない。  フェイシアとフレイムが、その後を同じ速度でついてくる。  結局、正式にフレイムがユウナの騎竜となったのはそれから一年以上も後、後ストレイン帝国のトリニア侵攻が始まってからのことだった。 * * *  身体中が痛い。  目を覚ましたフェイシアは、真っ先にそう思った。  しかし、痛みを感じるのは生きている証拠だ、とも。  微かな笑みがこぼれる。 「なにか可笑しいか?」  すぐ傍で声がした。  頭を動かすと、隣に座っているレイナの姿が目に入った。柔らかそうな緑の草の上に腰を下ろしている。  どうやら自分は、草原の上に敷いたマントの上に寝かされているようだ。  少し離れたところに、フレイムがいた。同じく草原の上に、傷ついた巨体を横たえている。しかし向こうは単なる昼寝だろう。 (……やっぱり、人型よりもこっちの方がずっと素敵よね)  そんな、くだらないことを思い浮かべて。  それからようやく思い出した。今はストレインの帝都を脱出して、アンシャスに戻る途中なのだと。  重傷のフェイシアに無理は禁物と、ここで休憩していたのだ。 「夢を……見ていたわ」 「夢?」 「ユウナと初めて会った時の。そして、フレイムとユウナが出会った時の」 「……そうか」  レイナは、興味なさそうに応えた。  フレイムは、ユウナの騎竜だった。  ユウナとフレイムが、レイナの騎竜ナゥケサイネを殺した。  レイナが、フレイムの騎士であったユウナを殺した。  あれから何年が過ぎただろう。  そして今、レイナとフレイムは一緒に闘っている。  お互い、一番大切な相手の仇だというのに。  だけど……。 「アンシャスに戻って、それで終わりだな」  長かったのか、短かったのか。  レイナにはわからなかった。  普通の竜と騎士のように、心を通わせていたわけではない。  それでも、相手に生命を預けて一緒に闘ってきた。  何故。  なんのために……。 * * *  外はひどい吹雪だった。  城の窓から見える景色は、白一色だ。  滅びの光景。  永遠に続くのではないかと思われる冬。  レイナは無言で外を眺めながら、昔のことを想い出していた。  フレイムはもうここにはいない。そしてフェイシアもハレイトンへ戻った。  だからといって、寂しいわけではない。フェイシアが連れてきた姪のレイナ・ヴィは一緒に暮らしているし、それに――  コン、コン。  ノックの音で、思考は中断した。 「レイナ様、午後のお茶をお持ちしました」  見慣れないメイドが、ティーセットを乗せた盆を手にして入ってきた。  レイナの口元に、微かな笑みが浮かぶ。  このメイド、城の者ではない。それはすぐにわかった。身にまとっている気配がまるで違う。  あの『罠』に掛かった、遠い未来に生きる者だ。  面白い話だ。  レイナはまだ、その罠を仕掛けてもいない。  未来に仕掛けられるであろう罠にかかって、さらに遠い未来からやってきた少女。遠い未来の意識が、あの『罠』の力によってここに実体化している。  まだ、十代の半ばくらいだろう。ちょうど、レイナがストレイン帝国の正騎士となったのと同じくらいの年頃だ。  この少女も騎士らしい。左手首にトリニアのものと似た、しかし少し異なるデザインの腕輪をはめている。  濃い茶の髪と、同じ色の瞳。やや気の強そうな顔立ちだ。  女子としては長身で、大きな胸を除くと一見細身ではあるが、無駄な脂肪のない鍛えられた身体をしている。そのため、いま身に着けているスカートとフリルの付いたエプロンは、あまり似合ってはいなかった。  お茶を淹れる手つきがぎこちない。こういったことには慣れていないのだろう。  じっと目を見て、相手の素性を探る。そして、少しばかり驚いた。  まさか、異世界からやってきた者とは。  これはさすがに予想外だった。  しかし、そんなものかもしれない。  変化は常に『外』からもたらされるものなのだ。  レイナは差し出されたカップを受け取ると、ぽつりとつぶやいた。 「まだ、秋の十日というのに、この吹雪か……」  暦の上では秋になったばかり。このアンシャスが大陸の北部に位置するとはいえ、この気象は異常だった。 「トリニアもストレインも、大陸が焦土と化すまで戦い続けて……。その結果がこれだ」  自嘲めいた笑みを浮かべる。  この時代、もうトリニア王国もストレイン帝国も存在しない。  いくつもの都市が消滅し、数え切れない人間が死んだ。生き残った者はごく僅かしかいない。  そして、戦争の最後で用いられた強大な魔法の後遺症が、この気候の異変だった。 「この城にはまだ蓄えもあるが……今年の収穫が望めないとなると、またあちこちで戦が始まるな」  充分な蓄えのない国は、よそから奪うしかない。  レイナの言葉は、その少女に聞かせるというよりは独り言のようだった。 「自分たちの住む世界を滅ぼして、それでもまだ戦うことを止めないんだ、人間は。結局、人間には過ぎた力なのかも知れないな。この、魔法というやつは……。先人から受け継いだこの力、人間には分不相応だったんだ。いっそ、魔法なんてない方が平和だったとは思わんか?」  最後の一言ははっきりと、その少女に向けて問いかけた。これが、試験だった。 「それでも……戦争はなくならないと思います」  少女は答えた。 「魔法が使えず、剣を取り上げたとしても、人間は戦うことを止めません。拳で殴り、歯で噛みついて……。きっと、戦い続けます」  レイナは微かにうなずいた。  面白い。なかなか、面白い少女だ。 「しかし、そんな戦いで世界が滅びることはあるまい? どんな動物だって戦いはする。大人しい草食動物だって、発情期には雌を奪い合って争うんだ」  そこで一旦言葉を切り、カップに残ったお茶を飲み干した。緊張しているつもりはなかったが、喉が渇く。 「だが、それで世界が滅ぶことはあるまい? それは、分相応の力で戦うからだ。人間だけだ。種も、世界も滅ぼしてまで戦うのは。人間だけが、不自然に大き過ぎる力を手にしてしまった。動物の歴史は、戦いの歴史。だけど戦いは本来、生き延びるためのもの。子孫を残すためのもの。滅ぼすためのものじゃない」  お茶をもう一杯、とレイナはカップを差し出した。少女はそれを受け取って、ポットからお茶を注ぐ。 「竜騎士として、二十年間戦い続けた私が言うことでもないけどな。戦い続けて、勝ち続けて、全ての敵を倒せば、平和が訪れると思っていた。その結果がこれだ……」  それきり、レイナは黙ってしまった。なにも言わず、二杯目のお茶を空にする。 「レイナ様……」 「お前、名は何という?」  しばらくの沈黙の後、思い出したように訊いた。そういえばまだ、名前も訊いていなかった。 「……は?」  少女が一瞬、戸惑ったような表情を見せる。 「奈子……、ナコ・ウェル・マツミヤと申します。レイナ様」 「ナコ……か」  なるほど、変わった名前だ。 「よし、ナコ。お前にこれをやろう」  レイナは傍らに置いてあった剣を無造作に取り上げると、ナコと名乗った少女に向かって放った。相手は反射的にそれを受け止める。 「……! レイナ様、この剣……」  ナコが息を呑んだ。この剣がどんなものか知っているのだろう。  だとするとレイナ・ディの名は、そんな未来まで語り伝えられているということか。喜ぶことでもないが、忘れ去られるよりはいい。 「私にはもう必要ない。だが、これからのお前には、これが必要になるだろう。わざわざ遠くから来てくれたんだ。持っていくがいい」  レイナは優しく笑った。若い頃には、決して見せることのなかった表情だ。 「レイナ様、あ、あの……」 「遙かな未来を担う、異界の戦士の行く末に光のあらんことを……」 「――っ!」  一瞬、ナコの表情が強張る。  こちらが向こうの素性を知っていることが意外なのだろうか。だとしたらずいぶんと見くびられたものだ。 「レ、レイナ様……」  レイナはナコの言葉を遮ってナコの肩に手を掛けると、額に軽くキスをした。 「自分を信じて、正しいと思う道を行きなさい」  優しく、耳元で囁く。  ナコの姿が、消えかかっていた。すぅっと、透き通るように薄くなっていく。 「ナコ……か」  ふっと、笑いがこぼれた。  その名は、決して忘れない。  未来を託する者。  今の自分にはできなかったことを、あの少女に託すのだから。 一章 漁火の海 「アルが言っていたわ。あなたは、怒っている時が一番魅力的だって」  アィアリスは、笑って言った。  恐怖に顔を引きつらせて小さく震えている、ユクフェの肩に手を置いて。  金属めいた光沢を持つ赤銅色の瞳を、微かに細める。 「知ってるわよ、ナコ。こうするとあなたは、もっと私を楽しませてくれる」  彼女が何をしようとしているのか、奈子にはわかっていた。にも関わらず、指一本動かすことができずにいる。  唯一動くのは口だけで、奈子にできるのは悲鳴を上げることだけだった。 「やめてっ! アリス! お願いっ!」  バンッ!  泣き叫ぶ奈子の耳に、大きな風船が破裂するような音が届いた。  ほんの一瞬のことだった。  そこにはもう、ユクフェの姿はなくて。  花火のように広がっていく紅い飛沫が、奈子の顔を汚した。  一瞬前までユクフェであった肉片が、ばらばらと飛び散っている。 「……っ、…………っ!」  叫ぼうとした。  声が出ない。  まるで、重い鉛の球で喉を塞がれているようだった。  アィアリスは、紅く染まった掌を奈子に向けて笑っていた。 「まだまだ、お楽しみはこれからよ。もっと楽しくなるわ」 * * *  赤茶けた荒野。  その中にぽつんと建つ、王国時代の神殿風の建造物。  聖跡、だ。  これまでに何度か訪れたことがある。  聖跡の上空を、二頭の紅い竜が舞っていた。入れ替わり、地上に立つ二つの人影を攻撃している。  鋼をも溶かす灼熱の竜の炎が、夜空を照らす。  それでも、竜と闘う二人の女性は笑みすら浮かべていた。  クレイン・ファ・トーム。  ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。  生身で竜と闘うことのできる力を持つ、数少ない存在だった。  地上から放たれた白い光が、竜の身体を貫く。墜落する間もなく、その巨体は霧散した。 「さすが聖跡の番人、強いわね。だけど、こうしたら?」  アィアリスの手の中に、ぽつんと、小さな輝点が現れた。  針の先よりも小さな、それでいて直視できないほどに目映い光。 「だめっ! やめてっ!」  奈子は、その光を掴もうと手を伸ばす。  僅かに、間に合わなかった。  その瞬間、突き上げるような激しい揺れと、網膜が焼き付くような閃光が一帯を襲う。  光は一瞬で消えた。  後には、何もなかった。  千数百年間……いや、もっともっと長い時を越えて存在し続けた聖跡が、跡形もなく消滅していた。 「さよなら、ナコ……」  ファージの姿はどこにも見当たらなくて。  声だけが奈子の耳に届いた。 * * * 「どう? 本気を出す気になった?」  アィアリスが、勝ち誇った笑みを浮かべている。 「それとも、もっと大切な人じゃないとダメなのかしら?」  その腕の中に、由維が抱きかかえられていた。由維の大きな瞳が、恐怖の色に染まっている。 「やめてぇっ! お願い!」 「いいわね。その声を、もっと聞きたいの」  うっとりと言うアィアリスは、至福の笑みを浮かべていた。 「奈子先輩、助けて!」 「由維っ!」 「最高ね。アンコールができないのが残念だわ」  アィアリスの手に、剣が握られていた。  漆黒の刃。  限りない禍々しさを内に秘めた刃が、高く掲げられる。 「やめてっ! やめてぇっ! お願いっ! いやぁぁっ!」  奈子の悲鳴を伴奏にして、剣は優雅に振り下ろされた。 「奈子先輩っ!」  「由維ぃぃっっっ!」  その血は、これまでに見た中でもっとも綺麗な色をしていた。 * * * 「――――っっっ!」  奈子は、汗びっしょりで目を覚ました。  荒い呼吸に合わせて、胸が大きく上下している。鼓動は痛いくらいに激しくて、心臓が今にも破裂しそうだ。  部屋の中は真っ暗だった。  物音ひとつしない。  何も見えない。  背中の下に、冷たく濡れたシーツの感触だけを感じる。  エアコンをつけたままで寝たはずなのに、ひどい汗だった。 「ゆ……め……?」  頭を動かして、枕元の時計を見る。  午前二時十五分、まだ真夜中だ。  奈子は一人で寝ていた。別に珍しいことではない。由維がしょっちゅう泊まっていくとはいっても、それは週の半分ほどでしかないのだから。  なのに今夜に限って、不自然なくらいにベッドが広く感じられた。  一人で暗闇の中にいることに耐えられなかった。  起きあがって明かりをつけ、机の上に放り出してあった携帯電話を手に取った。登録リストの先頭の名前にカーソルを合わせて、発信ボタンを押す。  一回、二回、三回……。  呼出音が数を重ねるごとに、不安が増していく。  五回、六回……。  不安のあまり叫び出しそうになったところで、呼び出し音が途切れた。眠そうな声が聞こえてくる。 『ふぁい……奈子先輩?』  普段となにも変わらない、由維の声。  奈子は、はぁーっと大きく息を吐き出した。 「由維……寝てた?」 『当たり前じゃないですかぁ。……どうしたんです、こんな夜中に』 「え? えっと……」  返答に困った。そういえば、どうしてこんな時刻に電話なんてしたのだろう。由維が眠っているのはわかっていたはずなのに。 「……いや、なんでもない。ごめん、ちょっと声が聞きたかっただけ」 『ひとり寝が寂しいんですか? これから行きましょうか?』  不機嫌そうだった電話の向こうの声が、心なしか弾んでいる。 「……いや、いいよ。もう遅いし……おやすみ」  通話を終えて電話を放り投げると、奈子は頭を抱えるようにしてベッドの端に腰を下ろした。 「は……は……。何やってんだ、アタシは……」  馬鹿みたいだ。  本当に、馬鹿みたいだ。  あれからもう、二ヶ月も経つのに。  自分が情けなくて、それが可笑しくて、馬鹿馬鹿しくて。  涙が滲んできた。 * * *  バシィッ!  重量が百キロ近くもあるサンドバッグが、中段の回し蹴りでくの字に折れ曲がる。  生身の人間がこの蹴りをまともに受けたら、大人であっても肋骨を折られてしまうだろう。  しかし。 「気合いが入ってないな。なんだ、その腑抜けた蹴りは」  声の主は、吐き捨てるように言った。  額の汗を手の甲で拭って、奈子は振り返る。  奈子よりも少し小柄な女性が、松葉杖をついて立っていた。表情から察するに、あまり機嫌はよろしくないようだ。 「……美樹さん」  何を怒っているのか。言われるまでもなくわかっている。だから、奈子は黙っていた。 「全然、気持ちが入っていない。ただ惰性で身体を動かしているだけ。そんな稽古、何時間続けたって無意味だ。やめちまえよ」 「…………」  言い返そうにも、まったくその通りだから何も言えない。  何も言い返せない。ファージの死から逃げ出して、何もできずに落ち込んで、嫌なことを忘れるためだけに肉体を疲労させている自分には。  目の前にいるのは、父親を殺されても闘うことから逃げなかった北原美樹なのだ。  奈子は一瞬だけ美樹の目を見て、すぐに視線を逸らした。真っ直ぐに美樹を見ることができなかった。 「は……」  呆れたような、失望したような。  そんな、小さな溜息が聞こえた。  二人きりでがらんとした道場が、気まずい空気に包まれる。  そこへ。 「こんにちはー。奈子いますかー?」  場違いな明るい声が飛び込んできた。 「……亜依?」  意外に思いながらその名を呼んだ。奈子の追っかけのような亜依ではあるが、極闘流の道場にまで顔を出すのは珍しい。 「こんなとこまで何しに来たの?」 「ん? ちょっと、デートのお誘い……って、ええっ! うそっ、北原美樹さんっ?」  亜依は急に大きな声を出すと、靴を脱ぐのももどかしげに道場に飛び込んできた。美樹の前で顔を真っ赤にして、頭から湯気を立てている。 「うわーっ、すごいラッキー! こんなところで美樹さんに会えるなんて! あ、あのっ! 握手していただけますかっ」  差しだされた美樹の右手を、亜依は両手でぎゅっと包み込んだ。 「あの、ルーシャ・チェルネンコとの試合、武道館で応援してました! もう、すっごい感動しちゃって……。ずっと大きな男の人を相手に、ぼろぼろになっても一歩も引かずに闘って。最後の膝固め、完璧に極まってもうダメだと思ったのに、あそこから抜け出してチョークスリーパーで逆転しちゃって……。もう、すっごい感動しました」 「……ありがと」  夢中でしゃべり続ける亜依に、美樹も苦笑している。とはいえ彼女は、こんなファンの相手は慣れている。 「あ、あのっ、膝は大丈夫なんですか?」 「ああ。ちょっと時間かかるけど、十二月の『L―ファイト』には間に合うよ」 「よかった。次も頑張ってくださいね。もちろん応援に行きますから。あ、後でサインしてください」 「ああ、ありがと」  美樹の手が、亜依の頭を乱暴に撫でる。髪をくしゃくしゃにされても、亜依は嬉しそうだった。  六月末に行われた「世界最強の格闘家」ルーシャ・チェルネンコと北原美樹の世紀の一戦。美樹から余分にチケットをもらった奈子は亜依も誘ったのだが、以来彼女は美樹の大ファンになっている。 「……で、あんたは何しに来たワケ?」  完璧に存在を忘れ去られていた奈子が口を挟んだ。亜依は、おやっという顔で振り返る。 「……奈子、いたの?」 「あんたねぇ!」 「だって奈子、最近影が薄いんだもの」 「うぅ……」  また、何も言い返せない。今は、亜依の問答無用パワーに対抗する元気がない。 「なーんて、冗談よ。奈子、来週ヒマ? みんなで海に行かない?」 「海?」 「そう、由維ちゃんとかも誘って。泊まりがけで」 「海……ねぇ」  今はとても、夏の海で楽しく遊ぼうなんて心境にはなれない。  しかし亜依は、そんな奈子の気持ちなどお構いなしだ。この話はそれで終わりとばかりに、また美樹に向き直ってTシャツにサインをしてもらっている。 「海……か」  気は進まなかったが、行った方がいいのかもしれない。少なくとも、家に閉じこもって悩んでいるよりははるかに健康的だろう。 * * *  夏の日本海は本当に穏やかで。  七月末の強い陽差しを水面で反射して、きらきらと輝いている。一年のうちでもっとも力強い生命力に溢れた季節を象徴するかのように。  しかし―― 「アタシは、クラゲになりたい……」  ゴムボートをふた回りくらい小さくしたような楕円形の浮き輪に仰向けに寝そべって、奈子はぼんやりと空を見上げていた。  その目には、生命力のかけらも感じられない。  言葉の通り、クラゲのようにただ波間に浮かんでいる。一定のリズムで上下を繰り返す小さな波に、身体を委ねていた。  頭上には、雲ひとつない真っ青な空が広がっている。  怖いくらいに、深い青。  こうして仰向けに寝ていると、周囲の風景はまったく視界に入らない。大洋のまっただ中を漂流しているような気分になる。  本当にそうだったらいいのに、と心のどこかで思っていた。このまま沖に流されて、海の藻屑になってしまえばいい。泡となって波間に消えた人魚姫のように。  ――と。 「クラゲにはクラゲの苦労があると思うよ。マンボウやウミガメに食べられたりさ」  そんな声と同時に、浮き輪がぐらりと傾いた。バランスを崩した奈子は海に放り出される。  水に落ちる直前、浮き輪につかまって笑っている亜依と目が合った。しかしそれも一瞬のこと。瞬きひとつした後には、奈子は澄んだ水の中にいた。  青と碧と茶色の、ぼやけた視界が広がる。奈子は額の上の水中メガネを下ろし、鼻から息を吐き出して水を抜いた。  水中メガネの中に空気が満たされるにつれて、鮮明な水中の風景が映し出される。  水深は三メートルちょっと。  下の岩が見えないくらいに昆布が密生している。  その上に文字通り囓りついているのはエゾバフンウニ。  横にいるのは、赤と青のコントラストが美しい、ブローチのようなイトマキヒトデ。  わずかに見える岩の上には、大きなムラサキヒトデが五本の腕を伸ばしている。  海藻の間では、小さなエゾメバルやウミタナゴの幼魚が群れを作って泳いでいた。  水はどこまでも澄んでいて、信じられないくらい遠くまで見渡せる。ずっと遠くで蒼く染まって終わる景色は、怖いくらいに美しい。  札幌の近くの砂浜とは、まるで違う光景が広がっている。  息が苦しくなるまで海中の風景を楽しんでから水面に戻ると、亜依が、先刻まで奈子が寝ていた浮き輪を占領していた。 「せっかく海に来たのに、奈子ってば寝てばっかり」  奈子は無言で、先刻のお返しとばかりに浮き輪の片側に体重をかけた。亜依が転がり落ちて小さな飛沫が上がる。  ここは札幌から車で三時間弱くらいのところにある、積丹半島の先端部。  亜依に誘われて、由維や、他に仲のいいクラスメイト数人と遊びに来ているのだ。この海岸では、亜依の親戚が民宿を経営しているのだという。  水面から顔を出した亜依は、ぷぅっと水を噴き出すと、浮き輪の代わりに奈子に掴まってきた。背中に当たる柔らかな感触に、奈子は気付かないふりをする。 「ぼんやりして、どうしたの? 奈子ってば、最近輪をかけてヘン」 「そんな、前から変だったみたいな言い方……」 「自覚ないんだ?」 「あのねぇ!」 「私は、元気な奈子が好きだよ」  耳たぶに唇が触れている。奈子は振り払おうともせず、立ち泳ぎしながら黙って前を向いていた。 「私だけじゃない、他のみんなも」 「……わかってる」  わかってる。  それは、わかっている。  このままでいいと思っているわけではない。 「……でも、ゴメン。もう少し。そのうち、立ち直るから」  今は、まだ駄目。  もう少し時間が必要だった。  深い傷は、癒えるのにそれだけ時間がかかる。  そして――  治ったとしても痕はいつまでも残るのだ。 * * *  夕食の後。  夏の海の夜といえばこれが定番、と民宿の前の海岸で花火に興じていた面々は、ふと、人数が足りないことに気付いた。 「奈子と由維ちゃんは?」  全員が揃って、辺りをきょろきょろと見回す。見える範囲に二人の姿はない。 「先刻二人で、どこか行ったみたい」 「逢い引き? こんなに早くから? みんなが寝るまで待てなかったのかねぇ」  小さな笑い声が起こるが、それは花火のように一瞬で消える。 「……やっぱり、二人とも変だよね」  なんとなく沈んだ表情で亜依がつぶやくと、全員がうなずいた。  奈子も由維も、傍目にはっきりとわかるくらい元気がない。  みんな、気付いていた。 「喧嘩でもしたんじゃないの?」 「それなら私にはチャンスだけど、……そういう雰囲気じゃないんだよね」  あの二人が騒いでいないと、なんだか盛り上がらない。亜依は寂しげにつぶやいた。  奈子と由維は、少し離れた海岸を歩いていた。  ごつごつとした岩が連なる海岸を、小さな懐中電灯の明かりだけを頼りに足を運ぶ。  二人とも無言だった。  ただ手をつないで、足元に気を配りながらゆっくりと歩いて行く。  海の方に目を向けると、水平線上に点々と白い灯りが並んでいる。  イカ釣り漁船の漁火。夏の海の風物詩だ。  今夜は月は出ていないが、無数に並んだ漁火がぼんやりと空を照らしている。  ザザ……、ザザ……。  静かに寄せる波音だけが響く。  波間で時折、小さな青い光が瞬いている。夜光虫は、まるで海に映った星のようだ。  民宿の灯りが見えなくなるところまで歩いて、奈子は大きな岩の上に腰を下ろした。黒い岩肌に触れると、まだ微かに日中の温もりを残しているように感じられた。  由維も隣に座る。  岩の上に置かれた奈子の手の上に、手を重ねてくる。 「奈子先輩、元気ないですよ」 「…………由維だって」  またしばらく、無言の時間が過ぎる。  二人はじっと、暗い汀を見つめていた。 「そういえば、さ」  しばらく経って、奈子がぽつりと言った。 「去年の夏休みも、二人で海に行ったっけ」 「そういえば」  由維もうなずく。 「オホーツクの。同じ夏でも、こことは全然風景が違いますね」  八月上旬だというのに、オホーツク海は冬の日本海のような鉛色をしていた。  強い風が吹きつけて。  波が荒くて。  びっくりするほど大きなクラゲが、防波堤に打ち寄せられていた。  穏やかな夏の日本海とは、ひとつも似ていない光景を想い出す。 「だけど……」  心はあの時の方が温かかった。こんな、抜け殻のような心じゃなかった。  気温はどんなに低くても、二人で寄り添っていれば寒くなかった。  なのに今は。  穏やかな夏の日本海。  日中の暑さはやわらいで、風はほどよい暖かさを保っている。  なのに、ひどく寒く感じる。  心が、あまりにも空虚だった。  胸にぽっかりと、大きな穴が開いている。  二人で寄り添っていても、塞ぐことのできない大きな穴が。  オホーツクの海を訪れた去年のキャンプから一年。  この一年、いろいろなことがありすぎた。  心も、身体も、耐えられる限界を超えるほどに。 「……本当に……もう、行かないの?」  独り言のように、由維がつぶやいた。奈子は由維の肩に腕を回して抱き寄せる。 「行かない……行けないよ。そうでしょ?」  二人の頭が、こつんとぶつかる。 「……向こうでは、アタシの大切な人がみんな死んでいく。ファージも、フェイリアも、アタシの赤ちゃんも、ユクフェもクレインも……。この次は本当に由維かもしれない。だから、もう、……行けない」  由維には話していない。  ファージとの別れ以来、毎夜のように見る夢。  もしもあれが現実になったら、もう生きてはいけない。  これ以上、好きな人が死ぬところなんて見たくない。何があろうと、絶対に。 「もう……忘れた。何もかも。異世界の事なんて、夢とおんなじ。これからはただの女子高生」 「そう……だね。このまんまじゃ、いけないよね。いつまでも引きずってちゃ……」 「うん……アタシたち二人とも、あれからずっと抜け殻みたい。落ち込んでいたって、ファージは生き返るわけじゃないのに」 「……うん」 「終わったこと、なんだ。よその世界のこと。そう思うしか、ないんだよね」  だけど。  ずっと、心の奥底に引っかかっていることがある。  だから、忘れられない。  それがなんであるか、本当はわかっている。わかっていて、気付かないふりをしている。  逃げ出したことに。  そう、逃げたのだ。  アィアリスに負けて、あの世界の友人も大切な想い出もすべて捨てて、尻尾を捲いて逃げ出してしまった負け犬だ。  それがどんなことであろうと、相手が誰であろうと、負けることは大嫌いだったはずなのに。 (……それでも、いいや)  心の奥に刺さった棘。そのちくちくとした痛みに気付かないふりをして、自分を正当化する。勝てない相手から逃げ出すのは当然だ、と。  まだ、やらなければならないことがある。それはわかっているけれど。  死にたくない。  由維が死ぬところも、見たくない。  だから、逃げ出した。  逃げ出して、しかも、そのことを忘れようとしている。  忘れられるはずはないのに。  ただ、忘れたふりをすることしかできないのに。  だけど、今はそれが精一杯。他にできることもない。  欺瞞でもなんでもいい。嫌なことを忘れられるなら。忘れたふりができるなら。 「……気分転換に、旅行でも行こっか? 久しぶりにこっちの世界の旅行」  ふと思いついたことを、そのまま口にする。由維が顔をこちらに向ける。 「二人だけで?」 「そう」 「……いいですね。どこ行きます?」  奈子はまっすぐに海を見つめていた。水平線上に、漁火が等間隔に並んでいる。  夏の風物詩、イカ漁の灯り。  イカといえば……。  一つの地名が頭に浮かんだ。 「函館、なんてどう?」 「朝市でイカそうめん?」 「うん」 「いいですね、行きましょう」  二人の口元に微かな笑みが浮かぶ。ただしそれは、心からの笑顔ではなかった。 * * *  珍しく月の出ていない、暗い夜。  入り乱れて飛び交う無数の光だけが、夜空を照らしていた。  何千、何万という数の魔法の矢。  その下で、敵味方合わせて万単位の軍勢が刃を交えている。  爆炎の下に、アルトゥル王国の紋章を染め抜いた赤い旗が浮かび上がる。戦場に翻るのは、強大な軍事力を誇るアルトゥル王国でも一、二を争う精鋭、赤旗軍の旗印だ。  その精鋭と激戦を繰り広げているのは、中原十カ国の連合軍。すなわち、トカイ・ラーナ教会の軍勢である。  アルトゥル王国と教会の戦いは、日に日に激しさを増していた。  先に仕掛けたのは、アルトゥル王国の方だった。最初は、中枢であるアルンシルを失って教会の勢力が弱体化し、中原各国の連携が弱まったところに一気に攻め込もうとしていたのだが、しかしアィアリスが素速く権力を掌握して教会を再建してしまったため、その機会を失っていた。  そこに、あの事件が起こった。  大陸でも有数の大都市、ハシュハルドの消滅。  それに教会が関わっているとなっては、他国は静観していられない。  このまま教会を野放しにしておくことに恐怖を覚え、これ以上勢力を伸ばさないうちに、今のうちに叩かなくてはと考えた。今ならまだ、教会の勢力はアルンシル消滅以前の水準まで回復していない。  そうして、戦争が始まった。 「……ここは、勝ったな」  赤旗軍を率いるアルトゥル王国の将軍サイファー・ディン・セイルガートは、愛馬の背の上で満足そうにつぶやいた。  激しい戦闘が続いているが、彼の軍は徐々に敵の陣形を突き崩しつつある。  兵数はほぼ互角。であれば、練度の低い教会の兵が、大陸有数の力を誇るこの赤旗軍に勝てるはずがない。  個々の兵の能力も、軍隊としての連携も、指揮官の能力も、すべてが上回っている。加えてこの戦場はアルトゥル王国の砦に近く、地の利はこちらにある。  負ける要素はなかった。  これでも、敵は主力を送り込んでいるのだ。だからここで勝利を収めれば、戦況は一気にアルトゥル有利に傾く。  しかし。 「機嫌が悪いようだな、エル」  サイファーは隣を見て、愉快そうに笑った。「戦場の舞姫」の異名を持つ美しい少女が、戦況は有利であるにも関わらず不機嫌そうに唇を尖らせている。  エリシュエル・ディン・セイルガート。  サイファーの妹である。  父の再婚相手の連れ子ということで、血のつながりはない。しかし実の兄妹といってもわからないくらい、二人は雰囲気がよく似ていた。それに、エリシュエルの優れた剣技も魔法も、すべてサイファーが教えたものだ。 「どうした? せっかくの勝ち戦なのに、その仏頂面は」  わかっていながら、意地悪く訊く。  たとえ血はつながっていなくとも、子供の頃から一緒に暮らしているのだ。妹の考えていることなど手に取るようにわかる。 「わかっているくせに。兄様は性格が悪いです」  エリシュエルは拗ねたように言う。こんな表情はまだまだ子供っぽい。  彼女は、自分が最前線に立っていないことが不満なのだ。  アルトゥル王国の女性騎士で最強の名を恣にしている彼女は、兄以上に好戦的な性格である。それなのに後方でじっとしていることに耐えられないのだ。  なまじ有利な戦況だけに、自分の手で敵にとどめを刺したいと思っているのだろう。しかしサイファーは、それを許すつもりはなかった。  エリシュエルは確かに、白兵戦においては優れた騎士だ。サイファーの教育の賜物である。  だがセイルガート家の娘としては、それだけで満足されては困る。真に優れた騎士は、優秀な戦士であると同時に、優秀な指揮官であらねばならないのだ。 「勝ち戦では、指揮官が前線に立つ必要はない」  サイファーは言った。 「そうしなくても勝てる戦では、手柄は部下に与えるべきだ」 「……兄様の言葉とは思えませんわね。自分はしょっちゅう陣頭に立って、敵を蹴散らしているくせに」  エリシュエルはつんと横を向いた。指揮能力の重要性は本人もわかってはいるのだろうが、好戦的な性格を抑えきれないのだ。 「そうだ。そうしなければ勝てない戦では、指揮官は命を捨てても自ら最前線で闘わなければならない。しかし、それでも勝てない戦なら……」 「なら?」 「さっさと逃げろ」 「……は?」  意外な言葉に、不審な目でサイファーを見る。口ではどう言っても実際には兄を信頼しているが、誇り高きアルトゥル王国の騎士に向かって「逃げろ」とは何事か。 「勝てない戦で兵を無駄に死なせてはならない。可能な限り損害を少なくして退却し、次のチャンスを待つんだ」 「勝てそうにない戦をなんとかしてこそ、アルトゥルの騎士ではありませんか」 「戦の勝敗は、兵の練度や指揮官の能力だけで決まるものではない。いかに戦略、戦術を駆使しても、流れを変えられない運気というものがある。それを無視して負け戦を続けるのは、愚か者のすること。待てば、必ず自分に運気が向く時がある。そこを逃さず決戦を挑むのが優れた将だ」  どんなことにも、場の勢い、流れというものがある。それを正しく見極めることこそ、指揮官に求められる能力だ、とサイファーは考えていた。そうすれば判断を誤ることはない。 「さて……」  サイファーはもう一度戦場を見渡した。夜であっても、飛び交う魔法の様子で状況は掴める。 「エル、お前ならこの後どう攻める?」 「……右翼に兵力を集め、左の湿地に敵を追い込みます」 「うむ」  模範解答だった。左手に広がる湿地帯は足場が悪い。土地勘のない敵をそこに追い込めば、行動を大幅に制限することができる。  しかも湿地帯を抜ける道は狭い。そこで敵を挟撃すれば、一方的に有利な闘いを展開できるだろう。 「では、別働隊を編成して敵を挟み撃ちにするか?」 「いいえ」  エリシュエルは首を振る。 「あの隘路で挟撃すれば、退路を失った敵は死に物狂いで反撃してくるでしょう。後方からじわじわと包囲を狭めて追撃するだけで十分です」 「よし、合格だ」  妹の解答に、サイファーは満足げにうなずいた。  死を前にした時、人は思わぬ力を発揮することがある。敵をそんな状況に追い込むのは得策ではない。  逃げ道は残しておくべきだ。狭く危険な道とはいえ一つでも退路が残されていれば、敵は決死の反撃などせずにそこへ殺到し、結果、大混乱に陥るだろう。混乱がさらなる混乱を呼び、放っておいても敵は「軍」として機能しなくなる。  戦わずして勝てるのであれば、それに越したことはない。 「では、敵を追撃するとしようか。ただし、お前は前には出るなよ」  妹にもう一度釘を刺してから、サイファーは馬を進めようとした。  その時――  戦場が突然、日中よりも明るく照らし出された。直視できないほどの光が、地上に無数の長い影を描き出す。 「――――っ?」  恐怖に嘶く馬を抑え、手で顔を覆って目を庇いながら背後を振り返る。  自軍の砦があったはずの場所が、半球形の白い光に覆われていた。  一瞬の後、叩きつけるような突風が襲ってくる。サイファーもエリシュエルも、馬から投げ出された。 「あれは――っ!」  地面に伏せたまま、サイファーは叫んだ。  あの光には、見覚えがあった。  彼は、あのハシュハルドの消滅を間近で見ている。ちょうど街を出たところで、危ういところで巻き込まれずに済んだのだ。 「アィアリス・ヌィかっ?」  こんなことができるのは、一人しかいない。  あの「中原の紅き魔女」アィアリス・ヌィ・クロミネルしか。 「……まずいな」  言葉を失っている妹を後目に、サイファーはすぐに冷静さを取り戻し、状況を判断していた。  全軍に動揺が走り、兵が浮き足立っている。ここで敵が反撃に出てきたらひとたまりもない。 「これは……勝てんな」  この戦場にアィアリスがいるのは計算外だった。ハレイトン王国との国境付近にいるとの情報を得ていたのだが。  力の差がありすぎる。しかも、その力をもっとも効果的に使われてしまった。  ほとんどの兵は出陣して、砦に残っていたのはわずかでしかないが、人的被害よりも精神的なダメージが大きい。サイファー自身はともかく、他の兵たちが戦いを続けるのは不可能だろう。 「……仕方ない、逃げるか」  サイファーは悩むことなく、先刻エリシュエルに言った通りのことを実践することにした。 * * *  マイカラスの王都に、魔術師ラムヘメス・サハの屋敷がある。  タルコプの自分の屋敷を引き払って以来、ソレアはリューリィと共にここに滞在していた。ラムヘメスとは長い付き合いであり、気を遣う必要もない。  ここで、特に何をしているというわけでもない。考えるべき事はいくらでもあったが、実際になにか行動を起こせるかとなると、できることはほとんどなかった。  これからどうすればいいのか。  ソレア自身、途方に暮れていたといってもいい。  黒剣の支配者となったアィアリスに対して、ソレアができることなど何もない。圧倒的な黒剣の力に、どう対抗すればいいというのだろう。  黒の剣を封じること。墓守は本来、そのために存在していたというのに。  クレインも、ファージもいない。フェイリアもいない。奈子もいない。  千年間続いた歴史の大きな転換期にあって、ソレア一人でいったい何ができるというのか。 「……もう、終わったのかもしれないわね」  聖跡は失われた。  無銘の剣を受け継ぐ騎士もいなくなった。  まだ、最後の切り札がないわけではないが、それをもってしても黒の剣に対抗できるかどうかは甚だ疑問というしかない。  聖跡の消滅後、マイカラスへの直接的な攻撃がないのが救いといえば救いだった。  アルトゥル王国が、トカイ・ラーナ教会に戦いを仕掛けたから。そしてハレイトン王国も、教会に対して不穏な動きを見せているから。  教会にしてみれば、マイカラスのような小国など相手にしている場合ではないのだろう。  しかし、それも時間の問題だった。途中の経過はどうあれ、最終的な勝者が誰であるかは火を見るよりも明らかだ。  アルトゥルやハレイトンとの戦いが終わり、アィアリスが再びマイカラスの地を踏めば……。  それで、終わりだ。  ソレア一人では、アィアリスを倒すことなど叶わない。  それにしても何故、教会は……いやアィアリスは、マイカラスに興味を示すのだろう。  教会との最初の関わりは、もう二年近く前になる。  アィアリスの弟のアルワライェが、城の地下に保管されている王国時代の古い書物を調べるために、ハルティを狙う暗殺者を囮にして忍び込んだのだ。  それはまだ納得できる。古い歴史を持ち、大きな戦火に巻き込まれたことのないマイカラスには、ソレアの目から見ても貴重な資料が残っている。  しかしその後、サラート王国に手を貸してこの国に攻め込んだのは何故だろう。  自分を傷つけた奈子やファージに対する復讐のつもりだろうか。  それならばなにも、戦争を起こす必要はない。一人で来ればいいのだ。自分の力に絶対の自信を持っていたアルワライェなのだから。  ギアサラス地方の割譲、というアィアリスの要求にヒントがありそうだった。  普通に考えれば利用価値のない砂漠。わざわざそんなものを要求するからには、なんらかの理由があるはずだ。  なんの面白味もないだだっ広い荒野。乾いた灰色の土と、いくつかの小さなオアシス。  唯一変わったものがあるとすれば、トリニアの時代以前の神殿の遺跡くらいだ。  以前、エイクサム・ハルが利用しようとした古い遺跡。しかしあればファージの手で完全に破壊され、封印されたはず。今さら、なんの役にも立たない。  単なる、奈子に対する嫌がらせだろうか。そんなはずはあるまい。  アィアリスがギアサラス地方の割譲を求めていると聞いた時の、奈子の表情。  奈子は、何かを知っている。  何かあるのだ。あの地には。  大陸最強の力、黒の剣を手にしたアィアリスでさえ無視できない何かが。 「ソレア、お客様よ」  物思いにふけっていたソレアは、扉がノックされる音で我に返った。 「客……私に?」  意外だった。  ファージも、フェイリアも、そして奈子もいない今、自分を訪ねてくる者がいるとは。エイシスならば、わざわざ取り次ぎを求めたりはしない。 「誰?」 「それが……。自分の目で見た方が、いいと思う」  困惑したような様子のラムヘメスを訝りながら、ソレアは応接間の扉を開いた。そのまま立ち止まり、口を小さくOの字に開く。  美しい顔立ちの、三十歳くらいの男性だった。長く伸ばした金髪は、顔にかかって片目を隠している。  会うのは久しぶりだが、よく知っている男だった。だからこそ、ここにいることが驚きでもあった。 「お久しぶりです、ソレア・サハ」 「エイクサム・ハル……?」  人違いであるはずがないのに、語尾が疑問形になる。  エイクサム・ハル・カイアン。  強い力を持つ魔術師で、大陸の古い歴史を研究する学者でもある。  かつてファージを殺し、王国時代の失われた力を現代に甦らせようとしていた。二年前の、マイカラスのクーデターの黒幕でもある。  それが何故、ここにいるのだろう。以前、トカイ・ラーナ教会の本拠地トゥラシで、奈子を助けたことは聞いていたが。 「どうして、あなたがここに?」 「ファーリッジ・ルゥがいなくなりましたから。ようやくあなた方の前にも顔を出せるように」 「なんの用事で、と訊いているの」  ソレアは怒気を含んだ強い口調で言った。相手の意図が読めないことが腹立たしい。  エイクサムはその怒りに気付いていないかのような静かな口調で、しかし重要な事実を告げた。 「昨夜、アルトゥル王国が敗れました」 「……、そう」  別に、驚きはしなかった。時間の問題と思っていた。  それでも、目の前に突きつけられた事実に一瞬言葉を失った。 「教会の軍勢は、今朝には王都まで侵入しています。まだ、知らなかったでしょう?」 「……そうね、知らなかったわ。まあ、いずれそうなるとは思っていたけれど」 「アィアリスが、黒剣の力を使いました。アルトゥル王国の三つの砦が一夜にして消滅、死者は数万人に達するでしょう」  それも、予想の範疇だった。客観的に見れば、現在のトカイ・ラーナ教会よりもアルトゥル王国の方が戦力的には上だ。それを覆すことができる存在は一人しかいない。  予想していたこと。それでもソレアは、ぎゅっと唇を噛んだ。 「……次は、ハレイトンね」  そしてその次はマイカラス……という台詞は、声に出さずに呑み込んだ。  ティルディア王国が滅び、アルトゥル王国も敗れたとなると、教会に対抗できる勢力は、現存する大陸最古の王国ハレイトンだけだろう。 「この次は、もっとひどいことになります。ハレイトンは亜竜を使いますよ」 「――っ」  ソレアの眉間に、微かなしわが寄る。 「まだ……持っていたの? ヴェスティアを襲った時に、使い果たしたと思っていた」 「それから二十年近くが過ぎています。いくらでも再生できるでしょう。教会が保有する竜は?」 「すぐ使えるのは、おそらくアィアリスの一頭だけ。もしかしたらもう一頭」  本来はもっと多くの竜がいたのだが、奈子とクレインによって倒されている。 「それが何を意味するか、わかりますね?」  もちろん、ソレアにもわかっている。その事実の重みが。  竜や亜竜が、戦場に投入される。  千年ぶりに。  王国時代末期の戦争、この大陸を滅ぼしかけた戦争の再現だ。しかし、それを認めたくはない。 「……でも、そこまでひどいことにはならないでしょう? 竜の数も、騎士の数も、当時とはまったく違う」 「ただし、攻められる側の力も比較にならない。今の時代、竜が一頭いれば国が滅びます。そして大陸の人口も王国時代とはまるで違う。もしも千年前と同じ数の死者が出れば、世界は終わりです」 「……それで、私にどうしろと?」 「最悪の事態を防ぐために、あなた方がいるのでしょう? 墓守とは本来、そのための存在ではないですか」 「あなた方……ね。もう私一人だけよ。何ができるって?」  ソレアは自嘲めいた笑みを浮かべた。 「ナコ・ウェルは?」 「いない。あの子はもういないの」 「……帰った、のですか?」 「え?」  一瞬、身体が強張った。  驚きに目を見開くソレアに向かって、エイクサムがもう一度訊く。 「帰ったのですか? 自分の世界へ」 「知ってる……の?」 「おおよそのところは」  何故、知っているのだろう。奈子の素性を知る者は、今ではソレアだけのはず。  ソレアは誰にも話していない。ファージが言うはずもないし、クレインもフェイリアも今はもういない。 「私の勝手な推測……ですけどね。あの子が以前、自分でぽろっと口を滑らせたことがありまして」 「……そう」  小さく息を吐いて、ソレアは身体の力を抜いた。  考えてみれば、今さら慌てる必要もないことだ。  奈子はもう、いないのだから。 「あの子には見捨てられたわ。戦いばかりで、どんどん人が死んでいくだけのこの世界は、見捨てられたの」 「戻ってきますよ、きっと。あの子は……ナコ・ウェルこそ、アール・ファーラーナです。レイナ・ディ・デューンやユウナ・ヴィ・ラーナ、そしてエモン・レーナの遺志を継ぐ者です」 「あなたは、何を知っているの?」 「知っている? 私が? いいえ。私はただ、期待しているだけです」  エイクサムは静かな笑みを浮かべて言った。 二章 二人の旅  札幌から函館まで、JR北海道の特急スーパー北斗を利用すると三時間弱の旅程だ。  朝に札幌を出発すれば、昼前に函館に着く。  奈子と由維は、函館駅に降り立って大きく伸びをした。外はいい天気だ。 「さぁて、お昼はどうしようか」 「もう、お昼の心配ですか? まだちょっと早いですよ」 「腹が減っては戦……はできぬ、ってね。早めに昼ごはん食べて、その後ゆっくり観光しよ?」 「そうですねぇ……」  由維は人差し指を唇に当てて、小さく首を傾げた。 「まず最初に、五稜郭公園へ行く予定ですよね? だったら、ハンバーガーにしましょ」 「はんばぁがぁ?」  聞き間違いかと、奈子は呆れ顔で訊き返した。せっかくの函館、他に美味しいものはいくらでもあるではないか。  何故、よりによってハンバーガー。ロッテリアだろうとモスバーガーだろうと、札幌で同じものが食べられるのに。 「はるばる函館まで来て、どうしてハンバーガー?」 「お姉ちゃんが言ってたんですよ。函館に行くなら『ラッキーピエロ』って店に行ってみろって」 「ラッキーピエロ? なにそれ、知らない」 「函館周辺だけにあるハンバーガーショップで、すごく美味しいんだって。お昼にはいつも行列ができるくらい」 「ふぅん。じゃあ、いいよ」  二人は路面電車の停留所へ向かう。  北海道で現在でも路面電車が残っているのは、札幌と函館だけだ。函館の観光名所の五稜郭公園までは函館駅から二駅、さほど時間はかからない。  五稜郭公園前の停留所で電車を降りる。しばらく歩くと、ピエロがハンバーガーを持っている看板の店が見つかった。  そこは、マクドナルドやロッテリアのようなハンバーガーショップではなく、モスバーガーのように注文を受けてから調理するタイプの店だった。主なメニューはハンバーガーとカレーライス。店の作りはファーストフードでも、どことなくファミレス的な部分がある。  まだ昼前なのに店は結構混んでいて、注文待ちの短い列ができていた。そこに並んで、次が奈子たちの番になったところで由維が言った。 「いいですか、チャイニーズチキンバーガーと酢豚バーガー、烏龍茶と春巻きとごまダンゴと、それにソフトクリーム……で一人前として、二セットですよ」 「何度も言わなくたってわかってるよ。そんなに食べるのか……と呆れられても減らすのはなし、でしょ」 「そうです。それとも奈子先輩、ハンバーガーひとつと飲み物とポテトで足ります?」 「いや、全然足りないけどさ」  どこかで聞いたような、しかしなにか違う会話。  体育会系で体格もいい奈子は、当然食べる量も女子としてはかなり多い。由維だって痩せの大喰いだ。 「それにしても、酢豚とか春巻きとかごまダンゴとか、ここって中華っぽいメニューが多いのかな?」 「みたいですねぇ」  注文を終えて、空いている席に着く。ハンバーガーショップにしてはずいぶんと長い時間待って、ようやく注文の品が出てきた。  盛大に湯気が立っているところをみると、すべて注文を受けてから調理したものらしい。モスバーガー以上に時間がかかるのも仕方のないところだろうか。 「この春巻きは、揚げたてを頬ばるのがいちばん美味しい食べ方なんだって」 「ふぅん」  奈子はなんの疑いも抱かずに、その言葉通りのことを実行した。次の瞬間、血相変えて烏龍茶を口に流し込む。  理由は言うまでもない。揚げたての春巻きは、中の具がものすごく熱いのだ。  ジト目で由維を睨んだ。 「……あんた、知ってたっしょ?」 「少しくらい疑ったってイイのに。無防備なんだから」  まったく悪びれる様子もなくけらけらと笑いながら、由維は春巻きを少しずつついばむように食べている。  奈子は食べかけの春巻きをトレイにおいて、ハンバーガーを手に取った。『チャイニーズチキンバーガー』の名の通り、唐揚げ風の鶏肉と新鮮なレタスがたっぷりと挟んである。  ハンバーガーを食べる時いつもそうするように、大口開けてかぶりついて。  また、慌てて烏龍茶を手に取った。 「…………ばか」  由維が呆れている。  普通の薄いハンバーグと違い、揚げたての唐揚げは春巻きに負けず劣らず熱かったのだ。 * * *  ラッキーピエロの五稜郭公園前店は、その名の通り五稜郭公園のすぐ目の前にある。  ここは函館山と並んで、函館に来た観光客がまず例外なく訪れる観光名所だ。  箱館戦争の舞台として有名な、特徴的な五稜星形の濠を持った平城。江戸時代の末期に築かれた、日本最古の洋式城郭跡だ。  今は公園化されていて、幅三十メートルの広い外堀には貸ボートがあり、入口には五稜郭全体を見渡すことができるタワーが建っている。公園内には市立博物館の分館もあり、箱館戦争で使われた武器や、当時の衣服などの資料も展示されている。  奈子たちは最初に、五稜郭タワーに昇った。  展望台は高さ五十メートル。ここまで昇ると、五稜星形をした堀の形を自分の目で確かめることができる。周囲は住宅地だが、公園の中は緑に覆われていて、セミがやかましく鳴いていた。春は桜の名所でもあるらしい。 「百五十年前の、戦場……か」  独特の形の堀を見下ろしながら、奈子はぼんやりとつぶやいた。  ここは明治元年、旧幕府軍と新政府軍の、最後の戦いが行われた地だ。  江戸を脱出した榎本武揚率いる艦隊が上陸。ここを占拠して仮政権を樹立したものの、翌年には新政府軍に敗れ、降伏した。  蝦夷共和国――滅びてしまった、幻の国。  ふと、向こうの世界のことを思い出した。  向こうでは、千年以上前の古戦場跡をいくつも見た。  戦争ばかりだ。  この世界も、向こうの世界も。人の住む場所はどこもみな。  もう、たくさんだ。  五稜郭なんて、来なきゃよかった。 「……ひょっとして、前文明も戦争で滅んだんじゃないのかな」  奈子はぽつりとつぶやいた。 「え?」 「いや……。なんとなく、そう思っただけ」  それだけ言って、この話題は打ち切った。もうこれ以上、戦争のことなんて思い出したくもない。  二人は予定よりも少し早めに、五稜郭を後にした。  また路面電車に乗って、終点の湯の川へ向かう。ここはその名の通り温泉街で、すぐ側に川が流れていることからついた地名だろう。  二人が今夜泊まるホテルもここにある。チェックインにはまだ少し早い時刻だったので、その前に近くにあるトラピスチヌ修道院を見に行くことにした。ここも有名な観光名所だ。  明治三十一年、フランスから派遣された八人の修道女たちによって始められた修道院。壁はレンガ造りで、明るい緑色の屋根が美しい建物だった。  現在は七十人ほどの修道女たちが、牧畜や農耕に従事しながら、聖ベネディクトの戒律のもと、ひたすら神への賛美と献身の日々を送っている。 「三時三十分起床、就寝が夜七時四十五分だって。すごい生活ですねぇ」  一般に公開されている資料展示室で、由維が驚きと感心の入り混じった声を上げる。 「一日の生活……労働八時間はともかく、祈り八時間ってのは……」  普通の人には考えられない生活だ。 「いもしない神に祈る生活……か」  やや不快そうにつぶやく。奈子は、既成の宗教における『神』という概念が好きではなかった。弱い人間たちが依存し、すべての責任をなすりつけるために生み出した幻想だ、と。そう思っている。  祈ったって、神様が実際に現れてなにかしてくれるわけじゃない。人間は自分で考え、自分で行動し、それに対して自分で責任を負わねばならないのだ。 「神様は、いると思いますよ」 「……由維?」 「いるんですよ。それを信じ、祈る者の心の中には」 「そうかもしれないけどね。でもそれはやっぱり、自分の心が生み出したものでしょ? 神様って考えは、やっぱり責任逃れだよ」  元々無神論者で、信仰などというものとは無縁の奈子ではあるが、最近特に宗教というものを嫌うようになっている。理由は言うまでもない。  ここも、奈子にはあまり居心地のいい場所ではなかった。それでも帰りがけに、名物のバター飴は買っていったが。  ホテルにチェックインした二人は、食事の時間を少し早めにしてもらうように頼んだ。この後、また出かける予定があったからだ。  函館の海の幸をふんだんに使った夕食に舌鼓をうち、一休みしてからまた電車に乗って街の中心部へ戻る。  夜こそ、函館観光のクライマックスなのだ。  函館山からの夜景。  この街に来て、これを見ないわけにはいかない。駅前から、函館山登山バスに乗り換える。  有名な夜景。奈子は小学生の頃に一度見たことがある。あれは確かに綺麗だった。  たかだか人口三十万人強の街の夜景がこれだけ見事なのは、函館の独特の地形のためだ。函館山は、渡島半島から少し突き出した位置にある。半島と山をつなぐ細い平地、それが函館の街だった。  だから、山頂から市街地を見下ろすと、左右はともに海になる。  市街地の灯り。  その両側に、緩やかな弧を描く暗い海岸線。  そんなコントラストが美しいのだ。ただ一面に光が散らばっているだけの札幌の夜景では、この感動は得られない。光量では札幌の方が何倍も勝っているにも関わらず、である。  函館一の観光名所である函館山。当然、観光客は多い。  この日は特に、カップルが目についた。  周囲は暗いから、奈子と由維も手をつないで歩いて。  人目に付かないところで、そっとキスをした。 * * * 「ふわぁぁぁぁ……」  奈子は大きな欠伸をして、布団の上にごろりと横になった。  函館山からホテルに戻って、ゆっくりと温泉に浸かると、一日の疲れがどっと押し寄せてくる。  横になると、自然と瞼が重くなってきた。 「一日歩き回ったから、疲れたね。早めに寝ようか」 「もう、寝るんですか?」 「だって、明日は早起きして、朝市に行くんでしょ?」 「そう……ですけど……」  由維はなにか言いたげな様子だ。 「なに? 寝る前にまだなにか、やることあった?」  奈子は上体を起こすと、布団の上にあぐらをかいて座った。ホテルの浴衣に着替えているので、少々行儀が悪い。  小柄な由維は浴衣のサイズが合わないので、自分の服のままだ。 「あ、あのね、奈子先輩……」 「ん?」 「い……一緒の布団で、寝てもいい?」 「もちろん。なんでわざわざそんなこと訊くの?」  奈子にしてみれば「いまさら」である。普段から、一緒のベッドで寝るのが当たり前の二人なのに。  しかし由維は、不自然に顔を朱くしている。 「あ、……あのねっ!」  しばらくもじもじとしていた由維は、やがて意を決したように言った。 「こ、今夜は、最後まで……し、してもいいよ」 「え?」  一瞬、なにを言われたのかわからなかった。  きょとんとしている奈子の前で、由維はきゅっと唇を噛んでスカートを下ろした。続いてTシャツを脱ぎ、ブラジャーも外す。  ショーツ一枚になって、両手で胸を隠して、奈子の前に立っていた。 「ちょっと、由維……」 「最後まで……してもいい。奈子先輩に、全部、あげる」  その目は、冗談を言っている風ではない。  奈子の表情が真剣になる。 「……いいの?」  由維は、無言でうなずいた。 「どうして急に……。あんた、嫌がっていたじゃない」  二人は両想いで、抱き合ったりキスしたりは日常茶飯事だ。  それでも最後の一線を越えることだけは、由維の方が拒み続けていた。  奈子にはその理由がよくわからない。由維はまだ中学生だから、と自分を納得させてきたけれど。  突然にOKと言われても、喜ぶよりも先に訝しんでしまう。いったい、どういうつもりなのだろう。  その理由は、ひとつしか思い浮かばなかった。 「あのね、由維。同情とか、そんなつもりなら……」 「そんなんじゃない!」  奈子の言葉を遮って由維が叫ぶ。 「私、奈子先輩のこと好きだもん。ずっと、こうなりたいって思ってたんだもん。ずっと、初めての相手は奈子先輩って決めてたんだもん」  涙目で訴えながら、布団の上に座っている奈子の前に膝を着いて、そのまま抱きついてくる。 「初めての相手は、奈子先輩じゃなきゃダメなの。私にエッチなことしてもいいのは、奈子先輩だけなの。だけど……今までは、そのことに自信がなかったから……」  由維の台詞はいまいち要領を得ない。何を言わんとしているのか。  少し考えて、ふと思い出した。 「そういえばあんた、前におかしなこと言ってたよね。今のアタシは、本当のアタシじゃないって……」  そこで奈子は、ああ……とうなずいた。 「……そういうこと。あんた、気付いてたんだ。アタシが自分で気付くより先に、由維は気付いてたんだ」 「だって私、奈子先輩のこと大好きだもん。奈子先輩のことなら、なんでも知ってるもん。だから……」  奈子の身体に回された腕に、力が込められる。 「だけど、いいの。ここにいるのは私の奈子先輩だもん。前に言ったよね、何があっても私だけは奈子先輩の味方だって。何があっても奈子先輩のことが好きだって」  由維の顔が近付いてくる。 「何があっても、奈子先輩はやっぱり奈子先輩だもの」  二人の唇が重なる。奈子も、由維の身体に腕を回した。  そのままもつれ合うように、布団の上に倒れ込む。 「……アタシも、由維のことが大好き」  唇を離してささやく。 「奈子先輩……」  もう一度キスをする。今度は舌を相手の口中に挿し入れて絡め合う。  奈子は一度身体を離して、浴衣を脱いだ。ブラジャーも取る。  二人とも、下着一枚になって抱き合った。  素肌が直に触れ合う。柔らかくて滑らかな肌の感触は、衣服越しの抱擁よりもずっと気持ちがいい。  お互いの鼓動が、呼吸が、そして体温が伝わってくる。 「ホントに、最後までしちゃうよ。由維のすべてを、アタシのものにする」 「うん……でも、まず明かり消して……」 「だーめ。由維の裸、見ていたいもん」 「奈子先輩のエッチ。あんまり見ないで。胸小さいから、恥ずかしい」 「いいじゃん、小さくたって。その方が可愛いよ。それに由維も、最近少し大きくなってきたんじゃない?」  自分の言葉を確かめるように、奈子の手が由維の胸に触れる。それは大きな奈子の掌にすっぽりと収まった。  小さな声が上がる。  由維の身体が強張る。 「可愛い反応するじゃない。なんだかアタシ、興奮してきちゃったな」  奈子は身体を少しずらして、由維の首筋に唇を押しつけた。そのままゆっくりと、胸の方へと下がっていく。 「や……ぁ……」  奈子の唇が由維の肌の上を滑り、ささやかなふくらみを登っていく。頂上に達したところで、由維の喉の奥から抑えた声が漏れた。 「ん……や……ぁん……」  わざとそうしているのか、奈子はちゅっちゅっと音を立てて、何度も何度もしつこいくらいに乳首へのキスを繰り返す。その度に、由維の身体がぴくりと震える。  同時に、胸を包み込んだ手も動かす。 「よく、揉むと大きくなるっていうよね。小さいのを気にしてるなら、いっぱい揉んであげる」 「やぁっ、奈子先輩のエッチ……」  奈子は両手を由維の胸に当てながら、先端の小さな突起を口に含んだ。優しく、円を描くような手の動きに合わせて、由維が甘い吐息を漏らす。  口に含んだ突起の先端を舌でくすぐり、唇で軽く噛む。はじめのうち柔らかかったそれは、徐々に固くなってくる。 「やだ……もぅ、……ダメ」 「どぉしてぇ? アタシは、小さい胸を気にしている由維ちゃんのためにしてあげてるんでしょお?」  意地悪く言うと、由維はつんと唇を尖らせた。 「揉むと胸が大きくなるんなら、奈子先輩はそんなにいっぱい誰に揉まれたんです?」  由維が下から手を伸ばし、奈子の胸に触れる。それはAカップの由維など比べものにならないくらい大きく、小さな由維の手には収まりきらないほどだ。由維も、こうしてまともに奈子の乳房に触れるのは初めてかもしれない。  手に余るほど大きくて、柔らかいのにゴムボールのような弾力がある。先端には、由維よりも一回り大きな乳首がつんと突き出していて、由維は指でそれを摘んだ。 「ん……あっ!」  不意の刺激に奈子は一瞬目を閉じ、眉間にしわを寄せる。 「気持ち……いいの?」 「ん、イイ。もっと、触って」 「うん。……でも、あの……」 「なに?」 「……奈子先輩も」  奈子は小さく笑うと、中断していた愛撫を再開した。由維も同じように、奈子の胸を触っている。  すごく、気持ちよかった。  一番好きな相手の身体を触ること。  一番好きな相手に身体を触られること。  もともと奈子は性的な行為が好きではあるけれど、これは特別だ。  たどたどしい由維の愛撫なのに、すごく気持ちいい。身体よりも、心が感じてしまう。 「は……ぁ、んっ……」 「あ……やぁ……んっ!」  二人の甘い吐息が輪唱のように重なる。  奈子は、手を少しずつ下へ動かしていった。  胸からお腹へ。そして―― 「や、だめぇ」  由維の声を無視して、奈子の手はショーツを下ろしていく。一糸まとわぬ姿にされた由維は脚を閉じて、いまさらのように両手で胸を隠した。  潤んだ瞳で、懇願するように奈子を見つめている。  奈子は興奮していた。この瞳で見つめられると、ぞくぞくする。 「隠しちゃだめ」  由維の細い手首を掴み、強引に腕を開く。また、胸が露わになる。 「全部、見せて。なにもかも、由維のすべてをアタシに見せて」 「でも……」 「口答えは許さない」  奈子は由維の手首を放すと、脚に手をかけた。膝のすぐ下あたりを掴んで、腕に力を込める。  本来、脚は腕の何倍も力があるはずだが、それでも奈子の腕力には抗いきれない。今まで頑なに隠していた部分が曝け出される。 「やぁっ! ヤダ!」  由維は真っ赤になって、両手で顔を覆った。そんな動作も奈子を興奮させるスパイスになる。  そこはピンクがかった淡い肉色をしていて、柔らかそうな毛に薄く覆われていた。濡れているのか、部屋の明かりを反射して艶やかに光っている。 「……そんな、まじまじと見ないでよ! エッチ!」 「いや、由維のをこうして見るのは初めてだから、感動しちゃって」  奈子はくすっと笑ってしまった。  一緒にお風呂に入ることもしょっちゅうだけど、こんな風に脚を広げて見たりすることはない。由維がこうして女の子の部分を人目に晒すのは、もちろんこれが初めてだろう。  その、初めての相手が自分であることに、奈子は感動を覚えていた。 「可愛いなぁ……。すごく、綺麗」 「ヤダヤダ! もう見ないで! 奈子先輩のエッチ!」 「だって、見たいんだもん」 「ずるい、奈子先輩ばっかり! じゃあ私も奈子先輩の見る!」 「……いいよ」  思わず吹きだしてしまう。由維ってば、変なところで負けず嫌いだ。  由維が身体を起こして、奈子のショーツに手をかける。奈子よりもむしろ由維の方が緊張しているようだ。 「脚……開いてみて」 「えー? やだぁ、由維のエッチ」 「奈子先輩?」  わざと、先刻の由維を真似して言うと、ジト目で睨まれた。 「冗談だって。でも、やっぱりちょっと恥ずかしいね」  それでも、奈子は由維の前で脚を開いた。人に見られること自体は何度も経験しているけれど、自分から進んでそこを晒すのは初めてだ。  由維が真剣な表情で見つめているので、だんだん恥ずかしくなってくる。 「……やっぱり奈子先輩のって、大人の女ってカンジ。ケーケン豊富ですもんね」 「豊富ってほどじゃ……」  そりゃあ、由維と比べたらずっと経験は多いけれど。  由維が、そこに手を伸ばしてくる。恐る恐る、といった感じで指先が触れた。 「ひゃんっ!」 「濡れてる……」 「……そりゃ、濡れもするでしょ」  大好きな由維と裸で抱き合って、キスしたり、胸を触り合ったり、エッチな部分を見たり見られたりしていたのだから。  奈子はもともと感じやすい方だ。この状況で身体が反応しない方がおかしい。 「由維だって、感じてるでしょ」 「あっ、やぁン!」  今度は奈子が、由維に触れる。  奈子だけが触れることを許された、女の子の一番大切な場所。そこは熱く潤って、奈子の指を迎え入れた。 「あ……あ……」  由維が、ぎゅっとしがみついてくる。顔だけではなく、耳まで真っ赤になっている。  目をしっかりと閉じて、眉間にしわを寄せて。  奈子の指の動きに合わせて、断続的に甘く切ない吐息を漏らす。 「や……やっぱり、ケーケンほうふだぁ……。あっ…。奈子先輩ってば、上手……」 「……って、誰と比べて言ってンの」  上手下手というのは相対的なもので、なんらかの比較対照があるはずだ。由維は初めてのはずなのに。 「…………」 「由維?」  奈子は怒ったように訊いた。もしも自分以外の誰かが由維にこんなことをしていたのなら、絶対に許さない。 「あの、えっと……」 「言いなさい」 「……その……つまり、……自分の指……でするより、ずっと気持ちイイ」 「……あんた、そんなコトしてたの?」  安心すると同時に、少し驚いた。耳年増ではあってもまだまだ子供だと思っていた由維が。  しかしよくよく考えてみれば、自分だって由維の歳にはもう、自慰の経験くらいあった。 「……あのね。いつも、奈子先輩のこと考えながらしてたの。奈子先輩が一人で向こうに行ってる時とかね。奈子先輩のベッドに入ってると、なんだか抱きしめられてるみたいで。すごくドキドキするの」 「ふぅん。アタシのこと、無断でおかずにしてたんだ?」 「……本人に断ってからおかずにする人もいないと思いますけど」 「言い訳無用!」  奈子は片腕で力いっぱい由維を抱きしめた。もう一方の手を伸ばす。 「あ……ん……」 「いい?」  耳元でささやく。息を吹きかけるようにしながら。 「……うン」  由維が小さくうなずくのを確認してから、ゆっくりと中指を挿入していった。  そこは濡れていて、熱くなっている。それなのに、すごくきつい。  当然だろう。由維は小柄で、華奢で、まだ中学生で、極めつけはバージンなのだ。本人の意思とは無関係に、その部分は異物の侵入に頑なに抵抗している。 「う……んんっ! くっ……ぅん……」 「……痛いの?」  苦しそうな表情に気付いて、奈子は訊いた。 「だ、い……じょうぶ……」  どう見ても強がりだ。由維はぎゅっと目を閉じて眉間にしわを寄せて、目には涙すら滲んでいる。  奈子は、根本近くまで入った指を抜いた。第一関節の先だけ中に残して、ゆっくりと動かす。 「これなら、痛くないっしょ?」 「……痛くたって、平気だもん」 「無理しないの」 「だって、バージンあげるって約束したもん」  涙目で訴える由維が、とても愛しい。 「別に、慌てることないよ。処女膜を破いたかどうかなんて、大した問題じゃないでしょ。少しずつ慣らしていこ? アタシ、由維が痛がることしたくない。うんと気持ちよくして、由維のこと、いかせてあげる」  由維を泣かせてまで、強引に奪いたくはない。挿入しなければ満足できない男とは違うのだから。 「でも……」 「いいから。ここは経験豊富な先輩に任せなさい」  そう言って、また胸にキスをする。由維の身体に唇を押しつけたまま、ゆっくりと下に移動していく。その意図を悟った由維の抵抗を退けて。 「あ、そんな! だめっ! そこは……」  しかし奈子は強引に、由維の一番敏感な部分に唇を寄せる。  唇を押しつけて。  軽く吸って。  舌を伸ばす。 「ひゃあんっ! やぁ……っ! あん! ん……っ!」  由維の小さな手が、ぎゅっと奈子の髪を掴んだ。唇を噛みしめて、必死に声を抑えようとしているが、とても我慢できるものではない。  奈子の舌が、動き始める。  ピチャピチャと音を立てる。ミルクを舐める仔猫のように。 「んん……あっ! はぁぁっ……あんっ!」  固く閉じていた唇が開かれ、普段よりもオクターブの高い声が漏れ出す。  奈子の髪を掴んでいた由維の手から、力が抜けていく。  そんな由維の反応を確かめて、奈子の舌はさらに動きを速めていった。  由維の声がだんだん大きく、そして甲高くなっていく。  そして数分後――  ひときわ大きな声を上げると、由維はぐったりとして大きく息を吐き出した。 「……奈子先輩ってばやっぱり、女ったらしでテクニシャンだぁ……」  蚊の鳴くような声で由維が言う。  奈子にしがみつくような体勢で。  まだ少し、息が荒い。  全身がじっとりと汗ばんでいる。  由維は顔を朱くしていて、それを見られるのが嫌なのか、奈子の胸に顔を押しつけていた。 「信じらンない、あんなに気持ちイイなんて……。あんなコトされたら、女の子はみんな奈子先輩の虜になっちゃうよぉ」 「由維が可愛いからだよ。つい、夢中になっちゃった。由維ってば、アタシに舐められて簡単にいっちゃうんだもん」 「私、初心者なのに……。もう少し手加減してくださいよぉ」 「でも悦んでたよ。最後の方は、もっともっと……っておねだりして」 「う、ウソだよ、そんな……」  反論する声が、だんだん小さくなる。思い出したのだろう。奈子の愛撫が気持ちよくて、無我夢中で、その最中に何を口走ったのか。 「由維ってば、ホント可愛い」  奈子の腕が、由維の小さな身体を包み込んだ。  汗ばんだ肌と肌がぴったりと密着する。  気持ちいい。  お互いの体温を感じることが。  だから、しばらくそのまま。  黙っていて。  相手の鼓動と呼吸を、肌を通して感じる。  同じリズムを刻んでいる。  こうしていると、心も身体も一つに溶け合ってしまうように感じる。 「……どうして、こんなに愛しいのかな。ずっと昔から、奈子先輩のことが大好き。そして、もっともっと好きになっていく」 「アタシも。……きっと生まれる前から、アタシたちの遺伝子にそう書き込まれているんだよ。お互い愛し合うように、って」 「ふふ……」  二人は声を揃えて、小さく笑った。 「ホントにそうかも」  由維が身体を少しだけずらして、唇を重ねてくる。 「遠い遠い昔から、そう運命づけられていた。この世に生を受けた時から、愛し合うように。……そう考えると、なんだか素敵ですね」 「うん」  また、沈黙が流れる。  とろとろと半分眠ったような心地で、意識が夢と現実の狭間を彷徨っている。  ふと気付くと、由維が小さな声で歌を唱っていた。  すごく優しい、心の中にすぅっと染み込んでくるような懐かしい旋律。  思い出した。  向こうの世界の歌だ。  ソレアの弟子になったユクフェの歓迎パーティをした時、リューリィが唱ってくれた。  あの世界に古くから伝わる歌。  初めて聴いた時から、心を捕らえて放さない。  このメロディを聴いていると、何故か海を思い出す。  テンポが、静かなうねりのリズムに似ているのかもしれない。大海原の温かな水の中を揺蕩っているような感覚に包まれる。  海は、すべての生命の故郷。  だから、懐かしい。  何億年も昔、人間の遠い祖先がまだ海中で暮らしていた時代の記憶が甦るようだ。 「いつの間に憶えたの? アタシ、このメロディすごく好き」 「……いつの間にか。リューリィが唱っているのを聴いただけで、憶えちゃったみたい。でも、初めて聴いたような気がしない。すごく懐かしい感じがする」 「アタシも……」 「どうしてかな……」  由維が、また歌を口ずさみはじめる。  しかし今回は長くは続かず、歌はすぐに中断した。 「……あ!」 「どしたの?」 「もしかして……、いや、きっと……。……このメロディ、どこかで聞いたことがあると思ってた。今、思い出した」 「どこ?」  口調が妙に真剣なので、奈子は由維の顔を覗き込んだ。布団の上に仰向けになっている由維は、天井を凝視するようにして何か考え込んでいる。 「……由維?」 「前文明って……」 「え?」 「前文明って、王国時代よりもずっと進歩した文明だった……って説がありましたよね?」  突然の話題の転換に、奈子はついていけない。急いで頭を切り換える。  あの世界に生まれた最初の文明。それはおよそ十万年前、ほとんどなんの痕跡も残さずに滅びた。  十万年前。この世界ではまだ文明なんて遠い未来の話。原人たちの時代だ。  しかし向こうの世界では、小さな集落の原始的な生活から、大きな石造りの都市を築くようになっていた。  一般的な説によれば、それは古代エジプト文明と同等くらいのものだったらしい。しかし、実はもっともっと進歩した文明だったという説もある。かなり異端視されている学説ではあるが。 「もしも……、もしもですよ? あの世界の前文明が高度に進歩したもので、戦争か天災かは分からないけど、なんらかの理由で滅びたとしたら……」 「したら?」 「何かを残そうとは考えませんか? 生き残った者たちのために」 「……」 「戦争とか自然破壊とか、人間の過ちによって滅びたのなら、同じ過ちを繰り返さないための警告として。天災なら……自分たちがここにいた証として」  人間は、何か目に見えるものを残したがる生物だ。自分が死んだ後まで残る何かを。  意図的に残そうとしなくても、本来、遺跡は残るはずだ。人間が生活していた以上、なんらかの痕跡が残る。  そう考えると、前文明の痕跡は不自然なほどに少ない。なのにその僅かな痕跡は、それがかなり進歩した文明であることを示唆している。  滅亡の原因が惑星規模の大災害であったとしても、生き残った者たちはいるはずだ。だから、今の時代がある。  植物も、動物も、そして人間たちも。その数はほんの僅かかもしれないが、十万年前に起こった「なにか」を生き延びたはずなのだ。  ならば、自分たちの痕跡を残そうとしたはず。遠い未来の子孫へのメッセージを。 「……でも現実には、前文明の痕跡はほとんど残っちゃいない。わずかな、都市の跡らしきものだけ。文献やなんかはなにもない。結局、前文明ってその程度のものだったんじゃない?」  十万年先まで意味のあるものを遺すのは、容易なことではないだろう。  奈子たちの世界でもっとも古い文明でも、せいぜい数千年。それでも失われてしまった記録は多い。それに比べれば、十万年というのは果てしない時間だ。 「紙に書いたものはもちろん、石や金属に文字を彫ったって、一万年ならともかくその十倍の時間を超えるのは難しいでしょうね。その間に、地殻変動やなんかもあるだろうし。でも、前文明のメッセージはあるんですよ、きっと。何万年、何十万年、あるいは何千万年も残る形で」 「どうやって?」  どんな強固に造られたシェルターだって、百万年は保たないだろう。あの巨大なピラミッドですら、数千年でずいぶん風化している。十万年後に、人の手によるものとのわかる形で残っているだろうか。 「信じられないよ、そんな。どこに前文明のメッセージが残ってるって?」  そんなものが残っているなら、誰かが見つけているはずではないか。王国時代の優れた技術をもってしても見つからない、などということがあるだろうか。  しかし由維は自信ありげだ。いったい、何に気付いたのだろう。難しいパズルが解けた時のように、晴れやかな顔をしている。  奈子はふと、言い様のない不安を覚えた。 「つまり……」  説明しようとした由維の口に、奈子は指を当てた。開きかけた唇を押さえる。  聞きたくなかった。少なくとも、今夜のところは。 「いい。今は言わなくていい」 「奈子先輩?」 「きっと、聞いたら放っておけなくなるもの。この話は帰ってからにしよう。見つけられるのを十万年も待っていたメッセージなら、あと一日くらい待たせてもいいでしょ」 「……そう、ですね」  由維も、奈子が何を考えているのか理解したらしい。素直に従った。 「今夜は、そんな話をするために来たんじゃない。楽しむために来たんだから」  奈子はそう言うと、また由維の身体を力強く抱きしめた。顔中に、身体中にキスの雨を降らせる。 「他のこと考えるのは、明日にしよう。今は、アタシと由維、二人だけの大事な時間。もっともっと、由維のこと愛したい」 「……ぁ……ん」  誰にも邪魔されたくない。  余計なことを考えたくない。  今夜はまだ、二人だけの平和な時間。  由維も同じ想いだった。  だから二人は、ただ愛し合うことだけに専念することにした。 * * *  列車のリズミカルな振動に揺られていると、だんだん眠くなってくる。  ただでさえ今日は、寝不足なのだから。  カーブにさしかかると、コンピュータ制御の車体は遠心力に逆らうように大きく内側に傾いた。  隣に座っている由維が、もたれかかってくる。ぐっすりと眠っていて目を覚ます気配はない。 (ちょっと……やりすぎたかなぁ)  由維の寝顔を見ながら、奈子は少し反省した。  二人が眠ったのは明け方だ。それまでずっと何をしていたのかは、言うまでもないだろう。  初体験の由維にはちょっときつかったかもしれない。  由維の反応がとても可愛くて。  もっと悦ばせたい。もっともっと感じさせたい。そんな想いが強くて。  つい、相手が初心者だということを失念していた。経験豊富なファージやエイシスを相手にしている時のノリで、由維を攻めたててしまった。  少し、羽目を外してしまったかもしれない。由維とするのが嬉しくて嬉しくて。どれだけ愛しても、愛し足りないように思えた。  見ると、由維の首筋に紅いキスマークが残っている。これはかなりまずいかもしれない。 (……でも、ま、いっか。楽しかったし)  由維は、奈子にもたれて眠っている。可愛らしい寝顔。肩にかかる頭の重みが心地良い。  奈子も瞼を閉じた。  すぐに、意識がとろけていく。 (前文明が遺したメッセージ……か……)  朦朧としていく意識の中で、昨夜の会話を思い出した。  いったい由維は、何に気付いたのだろう。  どうして自分は、昨夜のうちにそれを聞かなかったのだろう。 (怖かったんだな……きっと)  聞けば、もう後戻りはできなくなる。そんな気がした。  おそらく――  聞くまでもなく、奈子はもうその答えを知っているのだ。 * * *  由維は、夢を見ていた。  そこは、よく知っている場所だった。  家の近くにある、奏珠別公園の展望台。かなり遅い時刻のようで、水銀灯の白く冷たい光が石畳の舗装を照らしている。  由維は空中に浮かんで、少し高い位置から公園を見下ろしているようだった。身体がふわふわして、なんだか頼りない感じがする。 (あれ……なに?)  公園の中心に、奇妙なものがあった。  濃い霧のような白い光が、直径二十メートルほどの半球形に広がっている。しかし霧のはずはあるまい。今は夏だし、今夜は天気が良くて空には雲ひとつない。  見ていると、光は徐々に薄れていった。その中に、二つの人影が立っている。二人とも、見覚えのある人物だ。 (奈子先輩と……、ファージ?)  二人で、何か話している。どこか寂しげな雰囲気が漂っている。  由維がそちらに意識を向けると、自然にすぅっと近付いていくようだった。  二人の会話に耳をそばだてる。  ファージは、自分が付けていたルビーのような紅い宝石のピアスを片方外し、奈子の耳に付けた。  そのまま奈子の頬に手を当てて、まっすぐに見つめ合う形になる。 「ナコ……」 「ファージ……」  二人とも、泣いているみたいだ。 「もう、時間がないから。この道が閉じる前に、私も戻らないと……」 「うん……」 「この一週間、楽しかった。会えて良かったよ、ナコ。さよなら……」 「さよな……」  奈子のお別れの台詞は、途中で遮られた。ファージの唇が、奈子の口を塞いでいる。それはほんの一瞬のことで、ファージはすぐに離れた。 「ファ、ファージ!」 「さよなら、ナコ」  いきなり唇を奪われた奈子が、文句を言う暇もなかった。それより先に、ファージの身体が周囲の白い光に溶けこんでいく。  由維は、ようやく状況を理解した。  これは奈子が、初めて向こうから帰ってきた時の光景なのだ。ファージとのやりとりは、以前奈子から聞いていた通りのものだ。  頭で考えるより先に、由維はファージの後を追うように光の中へ飛び込んでいた。奈子は気付かなかったようだ。 「待ちなさいよ!」  叫ぶ。光の中で、ファージが振り返る。  微笑みを浮かべて、由維を見ている。  由維は地面に降り立った。一メートルほどの距離をおいて、ファージと向かい合う。  光は先刻よりも強くなっているようだ。公園の風景はまったく見えない。まるで、ミルクの中にでもいるみたいだ。 「久しぶり?」 「な、なに呑気なこと言ってンのよ! ファージ……! あ、あんたが……あんたが奈子先輩を巻き込んだから……こんなことになったんじゃない」 「巻き込んだなんて人聞きの悪い。最初は、まったくの偶然だよ」 「じゃあ、この次は? ファージが奈子先輩を無理矢理呼び寄せたんじゃない! あの事件がきっかけで、奈子先輩は向こうの世界に関わるようになっちゃったんだ。そのせいで、奈子先輩はいっぱい傷ついちゃったんだよ!」  きつい口調で言う。ファージは珍しく、ほんの少し申し訳なさそうな表情を見せた。 「……でも、仕方ないじゃない。会いたかったんだもの。私もナコのこと、好きだったんだもの。ずいぶん長く生きてきたけど、ナコほど魅力的な人なんて、そうそういない」 「だったら最後まで責任持ちなさいよ! 自分だけさっさとアィアリスに殺されちゃって! 奈子先輩も私も、いっぱい泣いたんだから!」 「私に言われてもなぁ」  指先でぽりぽりと頬を掻く。 「文句はクレインに言ってよ。その気になればアィアリスなんかには負けないくせに、『聖跡の役目は終わった』なーんて言っちゃって。……それより、ユイも泣いてくれたんだ?」 「――っ」  一瞬、言葉に詰まった。頬がかぁっと熱くなる。恥ずかしいのを誤魔化すようにそっぽを向いた。 「ちょ、ちょっとだけね」 「……ありがと。そして、ごめん」  濃い金色の瞳が、真っ直ぐに由維を見ていた。安っぽいアクセサリに使われているような軽い色ではない。大きな金塊のような、重みのある黄金色だった。  両腕を差し伸べてくる。指が由維の頬に触れる。  そのまま、手が首の後ろに回された。 「……え?」  一瞬、何が起こったのかわからなかった。わからないまま、唇を奪われていた。 (……ごめんなさい、奈子先輩。でもこれは私のせいじゃないよ)  ファージにキスされるのは、これが二度目だ。だけどそれはどちらも、ファージの方から強引にしてきたものだ。由維の浮気とはカウントされないだろう。  由維を抱きしめる腕は軽く触れているようでいて、しかし実際にはかなり力強い。華奢な由維では抗うことができない。  当たり前だ。ファージは竜騎士を超える能力の持ち主なのだから。 「ん……」  唇を割って、舌が入ってきた。  由維は渋々、それを受け入れる。  奈子以外の相手にキスされているというのに、不思議と嫌悪感はなかった。  ファージのキスの仕方はどことなく奈子に似ている。いや、実際はその逆なのだろう。奈子のキスの仕方が、ファージの影響を受けているのだ。  だから本音をいうと、ファージにキスされるのは決して嫌ではない。目を閉じていると、奈子にキスされているみたいで気持ちいい。 (もぉ……ファージのエッチ) (ユイだって好きなくせに)  唇を、舌を通して、ファージの意識が流れ込んでくる。 (私が好きなのは、奈子先輩とのキスだもん) (私もナコとキスするの好き。だから、間接キス) (もぉ……)  口では文句を言っても、由維はファージを受け入れていた。  ファージに会えるのも、これが最後なのだから。 * * * 「……んっ?」  列車が揺れた拍子に、由維は目を覚ました。  気が付くと、奈子の肩にもたれ掛かるようにして眠っていた。見ると、奈子もぐっすりと眠っている。 (……なんか、変な夢を見ていたような気がするなぁ)  頭がぼぅっとして、よく憶えていない。  それでもなんとなく、奈子がいたような気がする。唇に、柔らかな感触が残っている。  奈子の寝顔をしばらく見つめていた由維は、身体を伸ばしてそっとキスをした。 三章 生命の旋律  函館から帰った翌日のこと。 「昨日家に帰ったら、お姉ちゃんがケーキ買ってきてるんだもんなぁ。お祝い、だって」  奈子の家へやって来た由維が、そう言って苦笑した。 「……もしかして、美咲さんにはバレバレ?」 「みたい、ですねぇ」  お祝いとはつまり、由維の初体験のお祝いという意味に違いない。  由維の姉の美咲は、二人の関係を知っている。その二人が旅行へ行っていたのだから、夜に何があったかは聞くまでもない、ということなのだろう。 「まさか、おばさんたちにも?」 「いや、それはないと思うけど」  まさかこんなこと、親に話したりはしないだろう。性格にはかなり問題ありの美咲ではあるが、その点では信用してもいい……はずだ。 「うー、……まあいいや。今さら悩んでも仕方ないし。……で?」  枕はとりあえずここまでにして、本題に移る。  函館の夜に、由維が言いかけたこと。  奈子が言わせなかったこと。  前文明が遺したという、メッセージのことを。  それが本当に実在するのであれば、いつまでも放っておくわけにはいかない。  居間のソファに座ると、由維は持ってきたバッグから小さな箱を取り出した。奈子の前でそれを開けて、中に収められていたものを取り出す。  それは一見、小さなガラス板に見えた。形も大きさも、ちょうど顕微鏡のスライドグラスのようだ。  しかしよく見ると、光の屈折率がガラスとは微妙に違う鉱物でできていることがわかる。  奈子は差し出された数枚の透明な板のうち、一枚を手に取った。窓の方に向けて、光に透かして見る。  特に変わったところはない。なんの変哲もない透明な鉱石だ。水晶に似ているかもしれない。 「これ、あんたがアルンシルから持ち帰ったものだよね?」  以前、トカイ・ラーナ教会の中枢であるアルンシルに迷い込んだ由維が、書物などと一緒にこっそりと持ち帰ったもの。ファージやソレアにも言わずに、これまでずっと保管して調べていた。 「まさかこれが、前文明の遺物だっていうの? ただのガラス板にしか見えないけどなぁ。それに、だとしたら教会は前文明のメッセージを解読してるってこと?」  そもそもこんなものが、十万年も残るものだろうか。  両端を押さえて真ん中を指で押すと、微かにたわむ。普通のガラスとそれほど変わらない強度しかないということだ。奈子の握力であれば簡単に折ることができるだろう。 「ちょっと違いますよ。多分これは王国時代のものか、あるいはもっと後に教会で作られたものだと思う」 「じゃあ……?」  由維は立ち上がると、居間のカーテンを閉めて明かりを消した。室内は、お互いの顔もよく見えないくらい暗くなる。 「……で?」  由維は黙って、魔法の明かりを灯した。手の中に生まれたロウソクほどの小さな明かりが、部屋の中をぼんやりと照らし出す。  その前に、指につまんだ問題の鉱石板をかざした。 「――っ!」  奈子が目を見開く。  淡いクリーム色の壁紙に、細かな記号らしきものがびっしりと投影されていた。ちょうど、スライドでも映し出すかのように。  見た目には透明なガラス板なのに、これはどうしたことだろう。魔法の灯り、というところに秘密があるのかもしれない。 「……これが、文字なの? これが前文明のメッセージ? なにが書いてあるのかさっぱりなんだけど」  それはまるで新聞の白黒写真をルーペで拡大したような黒い点の集まりで、文字のようには見えない。なんとなく規則的なパターンが感じられなくもないが、奈子が知っている向こうの世界の文字と比べたって似ても似つかない。 「こんな文字、読めったって無理だよ。アタシたちがなんとか読める向こうの文字で一番古いものは、アィクル古語でしょう? 十万年も前の文字なんて……」 「別に、これが前文明の文字ってわけじゃないですよ。でも、文字といえば文字かもしれませんね。世界で一番古くて、そしてどれだけ時間が経っても変わらない、万国共通の言葉」 「……?」 「これがどこにあったか、覚えてますか?」 「アルンシルの……ドールの研究施設でしょ」  竜や、アィアリスの弟妹たちや、その他様々な魔法生物を培養していたという地下施設。その話は由維から聞いている。 「あそこで育てられていた何十種というドールの中で、一番重要なものってなんだと思います?」 「それは……アリスの弟妹たち?」 「はずれ」 「あ、竜……か」  亜竜ではない、本物の竜。千年近く前に滅びたと考えられていた竜が現代に甦れば、どれほどの戦力になることか。それは既に、マイカラスで実証されている。  それに比べれば、アィアリスの弟妹たちは個体による能力差が大きすぎる。アィアリスやアルワライェは文句なしだろうが、奈子が会ったことのある他の弟妹たちは、力という点では明らかに見劣りした。要するにアィアリスの遺伝子は、まだ未完成の、不安定なものなのだ。 「で、竜がどうしたって?」 「私ね、これを持ち帰ってからずっと考えていたんですよ。これはいったい、なんなのかって。そしてある日、魔法の光を当てるとこの模様が浮かび上がることに気がついた。これは一種の記憶素子なんです。マイクロフィルムみたいなものって言えばいいかな。多分、魔法で結晶の構造を変化させているんだと思う。この小さなガラス板に、普通の書物なんか比べものにならないくらい大量の情報をしまっておけるってわけ」 「……それはまあ、わかるけど」 「でも、この模様がなにを意味しているのかはわからなかった。なにかの暗号か、私たちの知らない古代文字か。一昨日の夜、その謎が解けたんです」 「…………」 「あの、歌ですよ。リューリィが教えてくれた、あの歌」 「歌、……って」  確かにあの時、由維は歌を口ずさんでいた。リューリィがよく歌っていた歌。アレンジは加えられているはずだが、基本となる旋律はあの世界に古くから伝わるものだという。  しかし、歌と、このわけのわからない模様と、そして前文明と。いったいどこでつながるのだろう。  由維の思考がどこでどう飛躍したのか、奈子にはさっぱりわからない。 「歌詞はともかく、メロディはどこかで聴いたことあるような気がしていた。すごく懐かしい気がする。奈子先輩もそうじゃありません?」 「うん、それはアタシも同じ」 「そう感じるのは当然なんですよ。だってあのメロディは……」 「メロディは?」  思わず、由維の方に身を乗り出して訊く。 「生命の歌、です。人間を形作る、一番基本的な旋律なんです」 「ちょっと待って、もう少しわかりやすく説明してよ。そんな、ますむらひろしのマンガみたいなこと言われても……」 「わかりませんか? あの旋律は、人間の遺伝子なんですよ。DNAの配列を、音符に置き換えたものです」  由維が高らかに宣言する。残念ながら奈子は、その言葉の意味をすぐに飲み込めるほど科学に精通してはいない。それに気付いた由維が、わかりやすく説明してくれた。  生物の遺伝を司るDNA――デオキシリボ核酸は複雑な二重螺旋構造をしているが、もしも両端を引っ張って伸ばせば、それは梯子のような形になる。梯子の踏み子を形作るのが四種類の塩基で、どの塩基がどんな順序で並んでいるかによって、遺伝情報を書き記しているのだ。  二十世紀の終わり頃、この塩基の並びを音楽に置き換えようと試みる何人かの生物学者が現れた。  どの塩基をどの音階に割り当てるか。  オクターブの変化はどうするか。  それに音階は四種類よりも多いから、ひとつの塩基を場合によって異なる音階に割り当てる必要もある。  そういったルールは、それを試みた科学者たちがそれぞれ試行錯誤して見つけていった。  そして、結果は驚くべきものだった。  できあがったものはどれも、とても美しく、人間の耳に優しい旋律だったのだ。  人間の遺伝子の中には、美しい旋律が隠れている。  生命を形作るもっとも基本的な旋律。だから人はその曲を美しく、懐かしく感じる。それを見つけ出したきっかけは、科学者のちょっとした遊び心だった。 「……え、じゃあ……あの歌が?」 「そう、です。初めて聴いた時から、どこかで聴いたことがあるような気がして。ずっと考えていて。あの夜、二人で話していたじゃないですか。私たちはお互い愛し合うように、遺伝子にそう書き込まれているって」  由維はそれで気付いたのだ。  あの旋律がどうしてこんなに懐かしいのか。以前どこで聴いたのか。 「ちょっと待った。どうして由維は、あれが生命の歌だってわかったの?」 「だって、聴いたことありますもん」 「え?」 「ずいぶん前に。NHKの科学ものの番組で」  由維はバッグから、携帯用のMDプレーヤーを取り出して奈子に渡した。 「昨日の夜、古いビデオテープを探して、録音してきたんです」  ヘッドフォンを耳に当てて、奈子は再生ボタンを押した。NHKらしい落ち着いたナレーションの後ろに、音楽が流れている。 「……似てる」  リューリィの歌とはずいぶん違う。しかし、どこか似ている。  違うのは当たり前だ。あの世界とこの世界では、使用される音階も違うのだから。ちょっと聴いただけでは、まったく違う音楽にも思える。しかし間違いなく、この二つの旋律は同じ一つの源から生まれたものだ。 「そうか……生命の中には、こんなに優しい旋律が隠されているんだ。だからなのかな、人間が音楽を心地よく感じるのは」 「そうかもしれませんね」  生命は、美しい。音楽に形を変えても、人を感動させることができる。  奈子は、泣きそうな気持ちになった。 「でも、さ」  MDプレーヤーを止めて言う。 「リューの歌が、どうしてこんなに懐かしく感じるのかはわかった。でも、それと前文明と、この鉱石板と、いったいどんなつながりが?」 「もぉ、まだわかんないんですか?」 「わかるように説明してよ。アタシ、あんたみたいに頭よくないんだから」 「……これは、竜の遺伝子の配列なんですよ!」  由維は立ち上がると、壁に映し出された意味不明の模様をばんばんと手で叩いた。興奮のあまり顔が紅潮している。 「竜の……遺伝子?」  奈子は、由維の言葉を反芻する。 「この、意味もなく散りばめたような黒い点。よく見てください。どれも、角がひとつ欠けた正方形をしているでしょう?」 「……そうだね」  言われてみて気がついた。壁紙に投影しているので輪郭がやや曖昧になり、遠目にはただの黒い点でしかない。が、近くでよく見るとどの点も正方形をしていて、角のひとつが折ったみたいに欠けている。但し、四つの角のどれが欠けているかは点によって異なっていた。 「つまり、ここには四種類の点があるわけです。そしてDNAを構成する塩基も、アデニン、チミン、グアニン、シトシンの四種類」 「……あんた、なんでそんなこと知ってンの?」  奈子は知らなかった。そんな単語初めて聞いた。 「このくらい常識ですよ」 「それは違うと思うよ。少なくとも、中学三年の女の子の常識じゃないと思う」  とはいえ、実力テストでは平均を少々下回る成績の奈子と、常に学年一桁の順位をキープしている由維とでは、常識のレベルも違うのかもしれない。由維はもともと、女の子には珍しく科学好きでもある。 「……でも、たまたま四種類だからといって、それがDNAの構造を表しているとは限らないでしょ?」 「証拠はあります。左上が欠けているものをA、右上がB、右下がC、左下をDとすると、AとB、CとDが必ず上下に対になっているんです」 「それで?」 「これと同じように、DNA中の塩基は、必ずアデニンとチミン、グアニンとシトシンがペアになっているんですよ」 「…………」  奈子は黙り込んだ。遺伝子のことなど詳しくはないが、こうして聞いていると由維の説明には説得力がある。 「そして、これを見てください」  由維が、光の前に置いた鉱石板を少しずつ前後に動かす。これがスライドならば投影される映像の焦点がぼやけるだけのはずだが、壁に映る模様はその度にまったく違ったものになった。 「ホログラフみたいに、情報が立体的に記録されているんです。これ一枚で、膨大な情報量ですよ」  今度は、由維が何を言いたいのか奈子にも少しはわかった。細胞核に含まれる遺伝子は、膨大な情報を保持していると聞いたことがある。それをすべて文字に直したら、百科事典数十冊分にもなるという。  遺伝子の配列をすべて記録するなら、書物などという手段はあまりにも非効率的だろう。しかしこの鉱石板なら、たった一枚で人間のすべての遺伝情報を記録できるのかもしれない。 「このちっぽけな鉱石板に、膨大な情報が詰め込まれている。そこには四種類の記号が記されていて、塩基配列と同じく必ず二つずつ対になっている。そしてこれが保管されていたのは、人造生命であるドールの研究所。……これだけ材料があれば、この鉱石板はドールを作るための遺伝子情報の記録メディアだと考えるのが自然じゃありません? あそこには他に、それだけの情報を記した書物は見当たりませんでしたよ」 「……鉱石板は何枚かあったんでしょう? どうしてこれが、竜の遺伝子だと?」 「一番大切に保管してありました」 「…………降参。由維の言う通りだわ」  淀みなく答える由維に向かって、奈子は両手を上げた。  大したものだ。よくもそこまで思いついたものだ。  しかし、これですべての謎が解けたわけではない。 「……トカイ・ラーナ教会の学者が王国時代の竜の死体を調べて、その遺伝子を解析し、この鉱石板に記録した。……それともこれは王国時代のもので、それを教会が発掘したのかな? まあとにかく、この遺伝情報を元に、ドールを作る技術を応用して竜を再生した。そこまではいいとして、それと前文明のメッセージになんの関連が?」  「前文明が数十万年後まで残るメッセージを書き残すとしたら、ここしかありません」 「ここ、って?」 「DNAの中ですよ。無数の塩基配列のうち、実際に有用な遺伝情報を記しているのはごく一部なんです。残りの部分は、古い、今では使われていない部分だったり、遺伝子の中に潜んでいるレトロウィルスの痕跡だったり、遺伝子と遺伝子の間の緩衝地帯だったり。とにかく、その部分にメッセージを埋め込んだとしても、その生物に悪影響はないんです」 「……そんな、まさか」  奈子には、にわかには信じ難い。DNAの中に、メッセージを埋め込めるだなんて。 「そのくらい、やるんじゃないですか? カール・セーガンのSF小説には、円周率の中にメッセージを埋め込んだ太古の異星人の話がありますよ。それに比べればDNAくらい」 「どうして、そんな手間のかかること」 「遠い未来まで、残すためです。どんな強固な金属板にメッセージを彫ったって、地質学的時間の中では地殻変動で失われる可能性がかなり高いです。でも生物は、局地的な災害なら自分の脚で逃げます。地質学的時間も、子孫を残すことで越えられるんです。そして、DNAの強固な二重螺旋構造には自己修復機能があって、十万年やそこらではほとんど変化しません。人間とチンパンジーの祖先は数百万年前に別れたのに、DNAの差は一パーセントかそこらだそうですよ。たった十万年なら、誤字は一万字につき一文字もありません」  その割合なら、文庫本一冊につき誤字は十文字以下ということになる。その程度の誤字で、重要なメッセージの意味が理解できなくなることなどあるまい。  しかもDNAは、目に見えない小さな細胞核の中で、膨大な情報量を保持することができる。そして、例えば哺乳動物ならひとつの個体が数兆個の細胞でできている。これだけの数のコピーがあれば、なんらかの事故で一部が失われても、正しい情報はどこかに残る。  遠い未来へ、大量の情報を送り届けるにはもっとも効率的で、確実な方法なのだ。 「十万年前の文字なんて読めない……奈子先輩は先刻、そう言いましたね。でも、科学の法則は、時代、場所を問わず共通なんですよ」 「だけど……そんな、遺伝子の中に人為的に情報を書き込むなんて……そんなことできるの?」 「できます」  奈子は知らなかったが、それに近いことはこの世界の現在の技術でも可能なのだそうだ。  そして向こうの世界の王国時代には、もっと進んだ遺伝子操作の技術があった。ファージが作り出されたのは、千年以上も昔なのだ。  前文明がさらに進んだ技術を持っていたなら、間違いなく可能だろう。 「じゃあ、これが最後。どうして、竜の遺伝子の中にメッセージがあると?」  別に、人間でも他の生物でもいいではないか。  しかし由維は、その答えも用意していた。 「竜は、前文明によって一から作り出された生物だからです」  なんの迷いもなく、きっぱりと断言する。 「竜が……作られた生物? どうして……」 「竜はあの世界の生物の、進化の系統樹から外れた存在ですから」  由維は説明する。竜が自然の進化の中で生まれた生物なら、他にも似た種が存在するはず――と。  竜は、まったく異質な存在だった。しかし竜以外のあの世界の生物たちは、魔法の力を除けばこの世界のものと大きな違いはない。 「私たちの世界の脊椎動物は、すべて五本の指を持っています。馬みたいに退化して減った例はあるけど、それでも進化の道筋を遡っていけば五本指だった祖先がいる。そして、すべての陸上の動物は四本の脚を持っています。どうしてかわかります?」 「……最初に陸に上がった動物の祖先が、四本の脚と五本の指を持っていたから?」 「そうです」  すべての脊椎動物は、そのただ一種の祖先から進化した。だから、現在では多種多様に分化した動物たちは、みな共通の構造を持っている。  それは、あの世界でも同じだ。  四本の脚。五本の指。  ただ一種の例外を除いて。 「知ってますか? 竜は六本指で、親指に相当する指が二本あるそうですよ」  そして何より、あの翼。  竜は二対の脚と、一対の翼を持っている。  さらに「竜の炎」と呼ばれる超高温のプラズマを放射する能力。  人間並みかそれ以上の高い知能。  人間を超えるといわれる魔力。  明らかに異質な存在なのだ。 「竜が自然発生したものなら、他にも六本指や三対六本の脚を持つ生物がいるはずです。そうでなきゃおかしいんです」 「……言われてみれば、そうかもしれないね」  竜は、竜ただ一種だけの存在だった。鱗の色が異なるものはいるが、それは人間でいえば髪や瞳、肌の色の違い程度の差でしかない。人間とチンパンジー程度に異なるような竜の近縁種などというものは、存在しないのだ。 「アタシも一つ、気になっていたことがあった。アタシたちの世界では、人間が最強の動物だよね。だから、世界を支配している。だけどあの世界、どう考えたって最強の存在は竜だよ。王国時代以前ならなおさら。なのに地上を支配しているのは人間で、竜は基本的に人間に干渉せず、ひっそりと暮らしていた。まるで……」  まるで、人間たちを見守るかのように。  本来、強いものが支配者となり、生き残る。それが生存競争というものだ。  しかし竜が人間の手で作られた存在なら、人間を滅ぼさないように配慮されていてもおかしくない。 「竜が作られた存在だとすると、必然的にそれは前文明時代のことになります。現在の歴史の中では、竜は有史以前からいたんだし、王国時代以前に遺伝子を操作する技術はなかったでしょうから」 「……たいしたもんだ。あんた、ホント頭いいよ」  そう言って、乱暴に頭を撫でてやる。由維は嬉しそうに目を細めた。 「えへへ。昨日……っていうか、今朝四時まで、ずっと考えていたんですよ」 「偉い偉い」  撫でている手でそのまま頭を抱えるようにして、頬ずりする。そして、頬にちゅっとキス。 「あんっ」 「あ、可愛い声。もっと聞きたいなー」  そのまま、ソファに押し倒した。  頬、こめかみ、額、鼻、そして唇。キスの雨を降らせる。 「やぁっ、奈子先輩……今はそれどころじゃ」 「いま話すべきことはほとんど話し終わったっしょ? ちょうど、カーテンも閉めてあることだし」 「やぁん!」  口では嫌がっても、胸に置かれた奈子の手を払うことはできない。由維は腕を伸ばして、奈子の首に抱きついた。  奈子の手は二人の身体に挟まれて、動かせなくなる。しかしそれで諦めず、自由な方の手を由維の下半身に回す。 「あっ……、ん……ふっ」  スカートの中にもぐり込んできた手に、由維は身体を震わせた。つい、なにもかも忘れてこの手に身を委ねたくなる。 「……もぉ、奈子先輩。ひょっとして、知ってるんじゃないですか?」 「なにを?」 「前文明が遺した、メッセージの内容。知っているからこそ、こうやって誤魔化しているんじゃ……」 「知らない。アタシは知らないよ」  応えながらも、指の動きは止めない。 「ん……んっ!」 「……でも、知っていたヤツはいたのかもね。王国時代には」 「や……っ、やっぱり、奈子先輩……あっ!」 「ねぇ、放っておくわけにはいかないの?」  奈子は、由維の耳元に唇を寄せた。一度耳たぶに唇を押しつけ、それから息を吹きかけるようにささやく。 「もう、こんなこと忘れて……さ。よその世界の、十万年も前の文明のことなんてどうでもいいじゃん」 「…………だめ」  力の入らない声で由維は応える。 「奈子先輩だって、本心は放っておいた方がいいなんて思ってないくせに。いつも言ってたじゃない。知らない方がいいことなんてない、なにも知らないことが一番不幸なんだ、って。今になって自分の言葉を裏切るんですか? ずるいですよ」 「ちぇ、強情なんだから。こんなに感じてるくせに」 「やっ、あぁん! 奈子、先輩……っ!」 「……わかったよ、降参。あんたの言う通り。解読しよう、前文明が遺したメッセージとやらを。でも、それだけだよ。解読しただけで、なにもしないかもしれないよ。いい?」 「……いい、です」 「じゃ、話がまとまったところで……」  奈子は、本格的に由維の服を脱がしにかかった。 「どうしてそうなるんですかぁっ!」 「あれ、途中でやめちゃっていいの?」  意地の悪い笑みを浮かべて奈子は訊く。 「欲求不満にならない? こんなになってんのに」 「…………」  今まで由維の下着の中で蠢いていた指、艶やかに濡れた奈子の中指を鼻先に突きつけられて、由維は何も言えなくなった。  心の中で、自分に言い訳する。  十万年も昔のメッセージ、もう半日くらい待たせておいてもいいだろう、と。 「……優しくして、くださいね。今夜、泊まってっていいですか?」  奈子がうなずくと、由維は自分から頭を持ち上げて唇を重ねた。 * * *  翌日から、解読作業が始まった。  DNAの塩基配列は、三つ一組でひとつのアミノ酸を表している。そして、アミノ酸は全部で二十種類。  奇妙な偶然だった。  あの世界でもっとも古いとされる言語、現在のアィクル語の元となったアィクル古語のアルファベットは、ちょうど二十文字なのだ。由維は、塩基が表すアミノ酸とアィクル古語の文字が、そのまま一対一に対応するのだろうと考えた。  三つ一組の塩基配列の組み合わせは、全部で六十四種類。それぞれがどんなアミノ酸を表しているのかは、現在すべてわかっている。  しかし問題はある。鉱石板に記された四種類の正方形と、アデニン、チミン、グアニン、シトシンの塩基がどう対応するのか。そして、どのアミノ酸がどの古アィクル文字に対応するのか。  その問題を解くには、あらゆる組み合わせを試してみるしかなかった。片っ端から試して、意味のある言葉が現れる組み合わせを見つけるしかない。  これは面倒なことだった。なにも難しいことはないが、とにかく手間がかかる。鉱石板に記された塩基配列には本当の遺伝情報も含まれているのだから、組み合わせが正しいか間違っているかは相当量を「翻訳」してみなければわからない。  人力で解決するのは大変な作業だった。しかし量が膨大なだけで、ひとつひとつの作業は単純だ。これは、コンピュータの助けを借りる必要がありそうだった。  そこで由維が相談したのは、白岩学園大学に通う従姉、田沢愛姫だ。愛姫は、高校時代からの友人である紀貴之という人物を紹介してくれた。  紀の父親は遺伝子工学の世界的な権威で、本人も大学で遺伝子の研究をしているという。これは余談だが、奈子と由維がよく行く喫茶店『みそさざい』のウェイトレス、柊由奈の恋人だそうで、世間は狭い、と二人は笑った。  紀に事情を説明するのは、少々骨だった。なにしろ、本当のことをすべて話すわけにはいかないのだから。  一番肝心な部分をなんとか曖昧に誤魔化して、それでもどうやら、二人がSF小説を書くための資料集めをしている、ということで納得してくれたらしい。  二人は、鉱石板に記された塩基配列を感熱紙に焼き付けて持っていった。それをイメージスキャナでディジタルデータとして取り込んでもらう。これで、コンピュータに解析を任せることが可能になった。  大学のデータベースに保管されているデータを元に、読み込んだ点の並びを塩基配列に置き換えていく。スキャナの読み取り誤差も多少はあるだろうが、この段階であり得ない並びをチェックすればかなりの確率で発見できる。コンピュータの操作とプログラム作成は、すべて紀がやってくれた。  こうして、鉱石板から読み取った膨大な量の塩基配列のデータベースが出来上がった。  次の問題は、どのアミノ酸がどの文字に対応するかということだ。これはとにかくあらゆる組み合わせを試してみて、意味のある言葉になるかどうかを調べるしかない。  もちろんアィクル古語のフォントなど存在しないので、できるだけ似た形の英字で代用して、出来上がった文字列をファイルに保存してもらい、二人で手分けして読んでいった。  二十文字すべてについて正しい組み合わせを見つけるには、ずいぶん時間がかかった。  そもそも現代アィクル語ならすらすら読める二人も、アィクル古語ではかなり手こずるのだ。一見正しそうな組み合わせでも、読み進めていくうちに意味が通じなくなる場合もあった。その度に、また別な組み合わせでやり直しだ。  夏休み中なのをいいことに、二人は毎日大学に通った。そうして試行錯誤を重ねて、ようやく正しい組み合わせが見つかった。  竜の塩基配列の中から、意味のある文章が浮かび上がってきた。ここには確かに、なんらかのメッセージが刻まれているのだ。  こうなれば後は、塩基配列から古アィクル文字への置き換えはコンピュータ任せでいい。二十四時間動かしっぱなしの変換プログラムは、膨大な量のアィクル古語のテキストを吐き出していく。  奈子と由維の次の仕事は、それをメッセージ部分と遺伝情報部分、それ以外の不要な部分に分けることだった。これはとにかく読んでみるしかない。アィクル古語を解さないこちらの世界のコンピュータには、どうにもできない作業だ。  人間の遺伝子ならば何年も前に解析済みのデータベースが存在するが、これは未知の生物、竜の遺伝子なのだ。  しかし二人はやがて、メッセージ部分の最初と最後に必ず、ある決まったパターンが出現することに気がついた。これにより、メッセージ部分の抽出もコンピュータに任せられることになった。 「考えてみれば、当然ですよね」  由維が言う。  そう、当然だ。このメッセージは、見つけやすくなっていなければおかしい。これは、後世の人間に読んでもらうために遺されたメッセージなのだ。  メッセージの最初の一文が、それを証明していた。 『遙かな未来、この地に生まれ来る者たちへ』  そんな意味の文章で始まったメッセージ。  竜の遺伝子の中にあることさえ気がつけば、その先は容易に読み進められるはずだった。  最後の作業は、メッセージを読み解き、翻訳すること。  二人は日本語ではなく、現代アィクル語に翻訳することにした。メッセージの内容を紀に読まれる心配がないし、同系統の言語の方が翻訳もしやすい。  こればかりは、奈子と由維が人力で行うしかない。膨大な量のテキストには思わず目眩を覚えたが、やがて、この問題にも解決策が用意されていることがわかった。  メッセージは、多くの章に分かれていた。そして各章の先頭には必ずその章の内容の要約があり、その後に詳細な本文が続くのだ。  このメッセージを遺した者は、いたせりつくせり、読む人間のことを考えていてくれたらしい。  二人は要約部分だけを読み、翻訳していった。  今はとりあえず、おおよその内容がわかればいい。  前文明とはどんなものだったのか。  このメッセージはなんのために遺されたのか。  そして、十万年前に何があったのか。  要約部分だけを読んでいって、気になる記述があれば本文を詳しく調べた。  そこに書かれていたのは、主として歴史だった。  ノーシルと呼ばれるあの惑星が誕生してから、前文明が滅ぶまでの。  あらゆる歴史。知識。  十万年前に起こった破局。  これまでまったく謎に包まれていた前文明の姿が、明らかにになっていった。  最後に、アィクル語のフォントを作ってその内容をすべて印刷し、何度も何度も読み返した。  それは、二人の予想をはるかに超えた真実だった。 四章 Time has come  遠い昔――  今から五十億年ほど前のこと。  そこにあるものは、ただ希薄なガスだけだった。  その大半は水素とヘリウム。そして比率でいえばほんの少しの炭素や珪素や鉄や、その他の元素。  宇宙空間に漂う、ぼんやりとした星間物質の雲。それはさらに遠い昔に最期を迎えた星々の残骸だった。  何億年も、そのままで。  何も変わらない世界。  きっかけは、外からもたらされた。  天文学的距離としてはごく近く――数光年ほど離れたところ――で、一つの大きな星がその一生を終えた時、この空間の時計が廻りはじめた。  大きな星がその長い生涯の最期を迎える時、想像を絶するほどの大爆発を起こす。その衝撃波は広大な宇宙の隔たりを越えて、この空間に漂っていたガスの雲に波紋を起こした。  一様な薄い星間物質の中にむらが生じ、密度の濃くなった部分はそれ自身の重力によってさらに周囲の塵を寄せ集め、より密度の高い、より大きな固まりへと成長していった。  そうしてどんどん大きく、重くなっていった固まりの中心が、鉄よりも鉛よりも重くなった時。  ついに、星の中心に火が点った。  現在も天空に輝く太陽、トゥ・チュの誕生である。  太陽が輝きはじめた頃、その周囲に残っていたガスも、次第に小さな固まりにまとまりつつあった。  こうして太陽を巡る十三の惑星と、無数の小惑星が誕生した。  その、内側から数えて三番目の惑星こそが、遠い未来にノーシル――大いなる大地――と呼ばれる星だったのである。  誕生から数千万年が過ぎた頃、ひとつの異変がノーシルを襲った。  当時、太陽系内にはまだ不安定な軌道を描く惑星も多かった。そのうちのひとつ、ノーシルの半分ほどの大きさの天体が掠めるように衝突してきたのである。  衝突で砕け散ったその破片は、やがてノーシルを巡る軌道に集まっていった。そうしてノーシルに最初の、そして最大の月ホル・チュが誕生した。  この衝突は、ノーシルの空だけではなく内部にも大きな変化をもたらした。衝突の衝撃が引き金となって大規模な地殻の変動が起こり、無数の火山が噴火して灼熱の溶岩と膨大な量の火山ガスを噴出したのである。  溶岩は地表に起伏を生じさせた。火山ガスに含まれる水蒸気は、やがて地表が冷えはじめると雨となって降り注ぎ、広大な海を作り出した。  こうしてノーシルは、太陽系内で唯一、液体の海を持つ惑星となった。  それは現在のような冷たい水ではなく、高温の硫化水素の海であった。しかしそれこそが、ノーシルがこの先、他の惑星と異なる運命を辿るために必要なことだったのである。  様々な有機物が溶けこんだ、熱い硫化水素の海。  その中で起きていた気まぐれな化学反応が、ひとつの新しい分子を生み出した。  その分子は、ただ一点において他の分子とは異なっていた。周囲の海水に溶けこんでいる有機物を結合し、自分自身の複製を作り出すことができたのである。  他に類を見ないその奇妙な特性のため、その分子は瞬く間に増えていった。  分子の複製を作る能力はまだ粗末なものでミスも多かったが、それ故に分子は無数の変種を作り出す結果となった。  そうして生まれた変種の中のうち、ほんの一握りのものは原型よりも優れた性質を持っていた。  より速く、より精密な複製を作れるようになった分子。  有機物をより効率的に利用できるようになった分子。  それはもう単なる化学反応ではなく、生命活動と呼ぶべき段階に達していた。  ノーシルの誕生からわずか一億年。  煮えたぎった硫化水素の海の中で、最初の生命は誕生した。  小さなひとつの分子に過ぎなかった最初の生命は、長い時間をかけてゆっくりと変化していった。  より大きな、複雑な、そして複製ミスの少ない強固な分子となり、それがやがて蛋白質の被いをまとうようになる。  その、ゆっくりとした進化のためには、無限に等しい時間をかけることができた。『生命』と呼ぶのもおこがましいほどの些細な存在ではあったが、彼らには、時間だけはいくらでもあったのである。  さらに数億年が過ぎた頃、生命にとって最大の革命が起こった。  それまでの生物は、周囲の海水に溶け込んでいる有機物を取り込んで生命活動を維持していたのだが、無機物と太陽光線から有機物を作り出すこと――光合成ができるようになったのである。  光合成を行うことのできる生物は、それまでの生物よりもはるかに優れたもので、急速にその数を増やしていった。  そして、光合成の副産物として排出される物質が、海と、大気の環境を劇的に変化させた。  硫化水素の海は、いつしか水とナトリウムを主成分とし、二酸化炭素と水蒸気の大気は、窒素と酸素に変わっていった。  ノーシルに、青い空と青い海が生まれたのである。  しかし酸素は、それまでの生物にとっては有害な、劇薬にも等しい物質だった。  このとき酸素に対応できなかった生物の多くが死滅し、生き残ったわずかなものは、酸素のない深海へと逃げていった。  しかし、酸素を利用することができれば、これまでとは比べものにならない大きなエネルギーを得ることができる。酸素に対応することができた一部の生物たちは、進化の速度を急激に速めていった。  今から八億年ほど前――  海は、無数の生命に満ちあふれていた。  その多くは、現存する原始的な藻類の祖先である。  その時代、陸地には不毛の荒野が広がっていた。そこは生命の痕跡のない、荒涼とした死の世界だった。  対照的に、穏やかな海の中には藻類の楽園が生まれていた。  この状態が続けば、生命がこれ以上の進化を遂げることはなかったかもしれない。  しかしある日突然に、変化が訪れた。  巨大な隕石――といっても、月ができた時の衝突に比べたらはるかに小さなものではあるが――がノーシルに激突したのである。  大気中に巻き上げられた大量の土砂と水蒸気がノーシルの穏やかな気候を激変させ、全世界的規模の大嵐が起こった。  巨大な竜巻が大量の海水を吸い上げては、大地に叩き付けていった。その中にいた藻類は、乾燥した大地の上でほとんどが死滅したが、ほんの僅かに、不毛の荒野で生き延びたものがあった。  生命はついに、海から陸へと広がっていったのである。  そしてこの時、海の中にもひとつの変化が起こっていた。  隕石が巻き上げた大量の塵が成層圏を漂い、太陽光線が海中まで十分に届かなくなったのである。  弱い陽光の下では充分に光合成を行えない生物の中に、他の生物からエネルギーを横取りするものが現れた。  単細胞生物ではあるものの、それはまぎれもなく『動物』であった。  それから数億年間は、また穏やかな時代が続いた。生物たちはゆっくりと進化して、その数を少しずつ増やしていった。  特筆するほどの大きな変化がなかったように見えるこの時代。しかし生物の内部では、着実に次のステップへの準備が進んでいた。  遺伝子は、徐々にその複雑さを増していった。この時代に存在した生物はせいぜい百種類くらいのものであったが、DNAは既に、その何百倍もの可能性を秘めていた。  あと必要なのは、些細なきっかけだけだった。  きっかけは、海底から噴出した多量のメタンガスという形で与えられた。  大気中に放出されたメタンの温室効果が、ノーシルの平均気温を数度上昇させた。それが引き金となり、生物たちは爆発的な進化を始めた。単純で原始的な生物の細胞核の中で十分に進化していた遺伝子は、その無限の可能性を試し始めたのである。  最初の生命の誕生から三十億年の間に出現した生物が、全部合わせてもほんの数百種類しかなかったのに対して、わずか一千万年ほどの間に十万を越える種が誕生した。  この時代に現存するすべての種の原型が生まれ、その何倍もの数の種が、後世に子孫を残すことなく消えていった。  世界中に満ちあふれる何百万種の生命。ノーシルが真の『生命の惑星』となったのは、この時代以降というべきだろう。  三億年くらい前の時代。  海の生物の主役は、多様に、そして高度に進化した魚類であった。  海は、魚の王国だった。  それに対して陸上は、まだ植物だけの静かな世界であったが、それも今や時間の問題となっていた。  陸の近くに棲む一部の魚類は、丈夫な骨のある鰭と、空気を呼吸することのできる浮袋を持っていた。  もう、準備はできているのだ。  彼らの前には、新たな世界が広がっていた。  生物は、きっかけを与えられればものすごい勢いで進化し、増えていく。  陸に上がった両生類はやがて爬虫類に進化し、かつてなかった巨大生物となっていった。  一億年前、地上は巨大爬虫類の世界だった。想像を絶するほど巨大に、そして多様に進化した爬虫類たち。彼らこそが、地上の支配者だった。  そして、七千万年前――  巨大爬虫類の進化が頂点に達したちょうどその時期、また、ノーシルの外から変化が訪れた。  現在のコルシア大陸、バーパス地方に落下した巨大隕石である。  山のような大津波が大陸を洗い、成層圏まで巻き上げられた大量の塵は、何年もの間空を覆い尽くした。太陽の光が遮られ、この星に、かつてない長い冬の時代が訪れた。  あまりにも巨大になりすぎていた巨大爬虫類は、環境の急激な変化についていけなかった。巨大な生物ほど、成熟するのは遅い。新しい環境に対応するには、彼らの世代交代は時間がかかりすぎたのだ。  地上に再び陽の光が戻った時。  そこにはかつての地上の支配者、巨大爬虫類の姿はなかった。  この異変を生き延びたのは、巨大爬虫類の陰で密やかに生きていた、小さな哺乳類たちだった。  哺乳類が、新たな地上の王となったのである。  冬の時代が終わり、哺乳類は温暖な気候の中で繁栄を続けていた。  その中の一種である霊長類は、とりたてて優れた種ではなかったが、他の動物にはない二つの特徴を備えていた。  長い指を持った器用な手と、身体の割に大きな大脳である。  それまで熱帯雨林の樹上で暮らしていた、もっとも進化した霊長類が、気候の変化で森を追われ草原で暮らし始めた。それが、画期的な二足歩行のきっかけだった。  身体を支えるという重労働から解放された前脚は、器用さを増した『手』となった。  手と指で複雑な作業をすることが、脳の発達を促した。  森を追われた猿は、そうしてついに人間へと進化を遂げたのである。  それまでの動物の進化とは、すなわち遺伝子がより優れた形質へと変化することであった。  しかし、長い歴史の中で進化してきた二重螺旋の遺伝子は極めて強固なものであり、その変化はじれったいほどゆっくりとしか進まない。  人間は、遺伝子を変化させない進化の道を選んだ。  知能の発達、である。  強固なDNAと異なり、大脳のシナプスは瞬時にその構造を変化させる。  その情報は遺伝子のように子孫に受け継がれることはないが『言葉』と、そして『文字』がその代わりを果たした。  他のどんな生物よりも速く進化できるようになった人間は、必然的に、かつての巨大爬虫類以上の勢力を誇る地上の支配者となった。  もともと小さな群で生活していた人間は、やがて農耕と牧畜を行うようになり、もっと大きな集団を作るようになっていった。  もっと大きく、多く。  集落から村、村から街、そして都市へ。  この星に、最初の文明が誕生した。 * * * 「――由維、コーヒーお代わり」  いつの間にか空になっていたカップを掲げて、奈子は言った。  前文明が遺したメッセージ。そのプリントアウトを、何度も何度も読み返した。もう、内容はすっかり暗記しているほどだったが、それでも読み続けている。  実際のところ、ここまでの歴史は以前から知っていた。王国時代末期には明らかになっていたことで、ソレアの書斎にあった王国時代の書物にも、ほぼ同じ内容が記されていた。  しかし――  問題は、この後だ。  前文明の繁栄と滅亡。  そこで、何があったのか。  その時代の人間たちは、何を考えていたのか。  このメッセージに、何を託そうとしたのか。  王国時代には知られていなかった歴史が、そこにあった。 「由維……」  コーヒーのお代わりを持ってきてくれた由維に向かって言う。静かな声だったが、そこには強い意志が込められていた。 「もう一度、向こうへ行こうと思うんだけど」 「……うん」  由維は小さくうなずいた。 * * * 「あれ?」  転移が終わった時、由維は小さく声を上げて首を傾げた。目の前に、予想外の風景が広がっていたから。  そこは、マイカラスの王都ではなかった。  てっきり、ソレアたちのところへ行くつもりだと思っていたのに。  見渡す限り、赤茶けた大地が広がっている。人の気配はどこにもない。  そして、ぽっかりと空いた大きなクレーター。 「……聖跡?」  間違いない。ここは、アィアリスたちに破壊された聖跡の跡だ。二ヶ月ちょっと前――聖跡が破壊された翌日、ここから元の世界に還った。この世界を訪れるのはそれ以来だった。 「どうして?」  どうして、ここに来たのだろう。ここにはもう、 何も残っていないのに。 由維は、隣に立つ奈子の顔を見た。  落ち着いている。どうやら、転移ミスというわけではないらしい。 「ひとつ、確かめたいことがあってね」 「なに?」 「ん……」  奈子は、下を向いて歩き回っていた。まるで、何かを探しているように。  いったい、何を探すというのだろう。この不毛の大地で。  聖跡の強大な魔力の影響で、虫一匹、草一本存在しない土地。  そのはずだった。由維は、そう思っていた。  実際、これまではそうだったはずなのだ。  しかし今、ひとつの変化が現れていた。 「……あった」  奈子が、嬉しそうな声を上げる。由維も駆け寄って、奈子が見ているものを覗き込んだ。 「え……?」  それは、小さな花だった。  十センチに満たない小さな草。他の場所で見かけても、まったく気に留めないような雑草だ。  細い茎の先端に、小さな黄色い花が控え目に咲いていた。  別になんということもない花。しかし、大きな驚きだった。 「花……、こんなところに?」 「聖跡が、なくなったから」  感嘆と驚きの混じった由維の声に、奈子がぽつりと応える。  この荒野は、自然の砂漠ではない。聖跡の魔力でできたものだ。  あまりにも強い聖跡の魔力は他の生命の存在を許さず、中央山脈の麓に広がる広大な森林地帯にぽっかりと生まれた荒野。  聖跡の魔力が消え去って二ヶ月。風か、あるいは鳥によってか。どこからか運ばれてきた種子が、ここで芽吹いたのだろう。  千年以上の間、不毛の地だったこの荒野で。 「なんだか……さ、一年前を思い出さない?」 「え……、あ!」  由維も思い出した。  去年の夏、キャンプに行った時のことを。  オホーツク海沿岸にある漁港で釣りをしていて、防波堤の上に咲く小さな花を見つけた。  いま見ている花に、少し似ていた。おそらく港の横にある砂浜から、強風で種子が飛ばされてきたのだろう。コンクリートの小さな割れ目に溜まった、わずかな砂に根を張っていた。  海からの強い風が吹きつけ、気温も低く、時には波もかぶるであろう厳しい場所なのに。  それでも、生きていた。  生きて、成長し、花を咲かせていた。  あの時は奈子も由維も、見ているうちに涙が出そうになった。  生きることの厳しさ。  そして生命というものの強さ。  小指の先ほどの小さな花に、それを見たような気がした。 「……あの時とおんなじ。生命ってのは、とても強いものなんだ。どんな環境でも、どんな状況でも、生きようとする。これまで生命の存在を許さなかったこの地にだって、この花は入り込むチャンスをうかがっていたに違いないんだ」  奈子が顔を上げる。 「奈子先輩……」 「決めた。マイカラスへ行こう。ひょっとしたら、ソレアさんやハルティ様たちとも敵対することになるかもしれないけど、さ。それでもアタシは、自分が信じることをする」  力強い声だった。  奈子の瞳に、光が戻っていた。  これこそが奈子だ。由維が、亜依が、その他奈子に憧れる女の子たち全員が惹かれている、強い光を持つ瞳だった。  真っ直ぐに、聖跡のあった場所を見つめている。 「……いいよね? ファージ、クレイン、そして……エモン・レーナ。いいよね、アタシがしようとしてることは、間違ってないよね?」 「間違ってても、いいんです。私は、奈子先輩についていきます」  奈子の手をそっと握って、由維は言った。 * * * 「久しぶり、ね」 「あいつは、やっぱり来てないのか」  一ヶ月ほどトカイ・ラーナ教会とハレイトン王国の動向を探りに行っていたエイシスが、久しぶりにソレアの許を訪れて開口一番に訊いたのは、ここにはいない少女のことだった。  屋敷の中に肝心の人物がいないことを確認したエイシスは、どこか不機嫌そうだ。 「……来ないわよ、もう」  ソレアが微かに笑う。諦めの思いが込められた寂しい笑みだ。 「今はいったい、どこにいるんだ? そして、どこから来ていたんだ? ……あいつはいったい、何者なんだ?」  怒りを含んだ声で、矢継ぎ早に発せられる質問。ソレアはその答えを知っていたが、答える必要を感じなかった。 「いまさら、それを知っても無意味。あの子はもういないんだもの」  気まずい沈黙が二人を包み込む。エイシスは質問を変えた。 「ソレアは、これからどうするんだ?」 「そう言うあなたは?」  質問に答えずに質問を返してくるのは、答えたくないからなのか、それとも自分でも答えを見つけていないからなのか。  おそらく後者だろう、とエイシスは思った。根拠はないが、そんな気がする。 「俺は、以前の生活に戻るだけさ。またあちこちで戦争が起こるからな。気ままな傭兵稼業だ」 「負け戦はしない主義じゃなかったの? 最終的な勝者はトカイ・ラーナ教会……アィアリスよ」  エイシスが、フェイリアの仇である教会側につくはずがない。ソレアの質問はそれがわかっているからこそだ。 「そうとは限らんだろう? ナコがいれば、マイカラスに味方するのも悪くない」 「……あの子はもういない。一時の幻影と同じよ」 「忘れろと言うのか?」  ドンッ!  大きな拳がテーブルに叩きつけられる。お茶のカップが小さく跳ねて飛沫を上げた。 「……一度は、俺の子供を身篭もった女だぞ!」 「終わったことよ。すべて終わったこと」 「俺にとっては終わっちゃいない。あいつには大きな借りがあるんだ。なんとしても返さにゃならん」 「……それは、ちょうどいいや」  まったく不意に、別な声が割り込んできた。二人は同時に声のした方――居間の扉を見た。 「――っ」  予想外の人物が、そこに立っていた。  戸口に寄りかかるようにして、ポケットに両手を入れて。  口の端を上げて、にやっと笑った。 「じゃあ、アタシに力を貸してもらおうかな」 「ナコちゃん!」 「……ナコ、か?」  念を押すようにエイシスが訊いたのは、相手が見慣れない格好をしていたからだ。  奈子は、普段着でここにいた。  洗いざらしのジーンズに、黒いタンクトップ。  いつも着ていたこの世界の女戦士の衣装ではなく、自分の本来の普段着だ。動きやすくて金がかからないということで、夏になると奈子はいつもこの格好だった。  奈子が部屋に入ってくる。その後に由維が続く。 「さあ、時がきたわ」  二人の顔を順に見て、奈子は芝居がかった口調で言った。 「色々なことを話そうじゃない。靴のこと、船のこと、封蝋のこと。そしてなにより、竜や、魔法や、この世界を創った神々のことを」 五章 天と地の狭間で  ノーシルに生まれた文明は、急速に進歩していった。  最初のきっかけは、火の利用だった。  そして、石器から青銅器へ。  青銅器から鉄器へ。  薪から木炭へ。そして石炭、石油へ。  木と石の時代から、火と鉄の時代へ。  ついには、電気と原子力の時代へ。  機械と科学という強力な武器を手にした人間は、ノーシルの絶対的な支配者となった。  機械の力で、どんな獣よりも速く地を駆け、どんな鳥よりも速く遠くへ空を飛ぶことができた。  そしてついには、惑星の外へと飛び出していった。  最初は、低い衛星軌道を周回するだけの原始的なロケットであったが、やがて、ノーシルを巡る月ホル・チュへ人間を送り込むことにも成功した。  軌道上に恒久的な基地が築かれ、そこから近隣の惑星への有人飛行が開始された。  やがて、さらに遠くの小惑星帯や外惑星も人間の行動範囲となった。その頃、惑星上の資源は枯渇しはじめていたが、人類は宇宙で無尽蔵の資源を手に入れたのである。  太陽系外にも、いくつもの探査機が送り出された。  ノーシルに比較的近い環境を持った近隣の惑星は、人間が住めるように改造されていった。  太陽系の第三惑星で誕生した生命は、星々の世界へと広がっていったのだ。  しかし――  発展は、永遠に続くわけではなかった。  やがて、停滞の時代が訪れた。  惑星間の隔たりを克服した人類にとっても、恒星間の距離はあまりにも遠すぎたのだ。  時間さえかければ、その距離を越えることはできなくはない。しかしこの時代になっても、依然として光速の壁は超えることが不可能な限界だった。  古代人が空を見上げながら、星々の世界へ旅することなど夢物語であったように。やはり銀河は、人類にとって手の届かない世界だった。  新天地の開拓も、新しい発見もない時代が続いた。  文明とは、そこに留まることのできない不思議な存在だ。流れる水と同様、動きが澱んでしまえば腐敗してしまう。  やがて文明は衰退を始めた。  社会が、崩壊しつつあった。  そんな時代――  一人の科学者が、新しい可能性を発見した。  これまでの物理学の限界を超えた、新たなエネルギーの存在。  それは本来、オカルトや疑似科学に属する考えだった。しかしその科学者は周囲の嘲笑を無視して、再試可能な実験でそれを証明してみせたのだ。  それはまるで、お伽噺の中の魔法のように。  中世の錬金術のように。  何もない空間から、莫大なエネルギーを取り出すことに成功したのだ。  三つ以上の十分な質量をある法則に従って配置すると、その中心部に生じる重力波の干渉から、人が制御可能な未知のエネルギーが取り出せることがわかったのである。   核融合など足元にも及ばない効率を秘めたエネルギー。それはまさしく『魔法』だった。  星々の隔たりを越え、光年単位の旅が現実となる可能性。  人々はその発見に熱狂し、研究が進められた。  植物の細胞に含まれる葉緑体が光と水からエネルギーを取り出すように、重力波からエネルギーを取り出す物質が存在することが突き止められた。  それは、人間の脳細胞の中から見つかった。  数億人に一人という極めて珍しい遺伝子によって作られる、未知の蛋白質。その発見には、いくつかの偶然と幸運が寄与した。  これは、新たな進化の予感だった。  人類はこの頃、自分たちの進化を人為的に進めることも可能となっていた。一本鎖RNAと、その遺伝子を人間のDNAに組み込むための逆転写酵素を用いて、その貴重な遺伝情報をすべての人間に組み込むことも可能だったのだ。  超人類への進化――人は、自らの手でそれを行おうとした。  遺伝子の組み込みに先立ち、理想的な重力波の干渉を得るため、質量を綿密に計算された三つの小惑星が、ノーシルの軌道上に配置された。元々ノーシルを巡っていた月、ホル・チュの軌道も変化させた。  ノーシル本星と四つの月によって、無限のエネルギーと、光も、時も超越する可能性が実現するはずだった。   だが――  結論からいうと、そうはならなかった。  理由の一つは、技術と理論がまだ完全ではなかったことだ。  基礎理論は、決して間違いではなかった。しかしその理論は本当に基礎の部分でしかなかく、応用理論はまだ完成していなかった。  そしてもう一つ。  基礎理論から導き出された計算を完璧にこなすには、当時の最高の技術を持ってしてもまだ不十分だった。  新たに配置された月の質量と軌道は、コンマ以下十桁まで正しいはずだった。  それが、人類の技術で計測、制御できる限界だった。  しかし、それ未満の誤差ですら、予期しなかった結果を引き起こすのに十分だった。当時の理論では、その結果を予測できなかったのだ。  そして第三の、一番大きな理由。  それはある意味、非常に人間らしい理由であった。  誰よりも、まず自分が幸福になりたい――それが動物の本能だ。  現存する生物は皆、その思いによって過酷な生存競争を勝ち抜いてきたのだ。  だから、超人類に進化するのは誰でもない、自分でなければならなかった。  いくつもの勢力の対立はやがて、全人類を巻き込んだ戦争へと発展した。  この新たな力は当時の人類にとって、機械文明初期の原子力以上に制御の困難なものだった。  その結果は、人類がこれまで体験したことのない規模の大戦。  人類の歴史上初めて、宇宙空間までが戦場となった。  前時代の核兵器が玩具のように思える超兵器の応酬。その影響で、新たに配置された月の一つ、もっとも内側の軌道を回っていたイン・チュがその軌道を外れ、ノーシルへと落下した。  人類の歴史が始まってから、初めて経験する天文学的規模の衝突。  想像を絶する大規模な地殻変動が、ノーシル全土を襲った。  その災害は、さらに別の副作用ももたらした。  原子力時代、地下深くに築かれた無数の放射性廃棄物の貯蔵施設が破壊され、地上は猛毒のプルトニウムで汚染された。  これらの災厄は惑星上から、文明と、そして生命の痕跡を消してしまうのに充分すぎるものだった。 * * *  それは、どこまでも、どこまでも、果てしなく続く荒野。  赤茶けた土の上を動くものは、乾いた風だけ。獣も、鳥も、それどころか植物さえも。生きているものの気配は何もない。  この辺り一帯は現在、生物の棲める環境ではなく――  ただどこまでも、荒れ果てた大地が広がっていた。  しかしやがて、死んだ風景の中にたった一つだけ、動くものの姿が現れた。  赤い砂が流れる乾いた大地の上を、ゆっくりと歩いている。  それは、人間の女だった。  ちょっと見ただけでは、年齢はよくわからない。二十歳から四十歳までのいくつであってもいいように思われた。  肩に軽くかかるくらいの長さで切りそろえた茶色い髪が、風に揺れている。この髪はつい先日までは腰に届く長さがあった。荒野の旅には邪魔だからと切ってしまった。  何年ぶりかで頭が軽い。  心が重く沈んでいる分、せめて身体は身軽でいたかった。  小高い丘の上に立った女は、周囲を見渡した。  自分の他に、動くものの姿はない。  いまさら確認するまでもなく、それはよくわかっている。それでも、きちんと自分の目で確かめる必要があった。  人間が、犯した罪の光景を。  目に焼き付けておかなければならない。  ただし、それを語り伝える相手はもういないのだが。 「……ふぅ」  女は小さな溜息をつくと、背負っていたバックパックを地面に置き、自分も腰を下ろした。  さほど疲れていたわけではないが、別にいまさら先を急ぐ旅でもない。  地面に手をついて、空を見上げた。  既に太陽は西の地平線に沈んで、群青色の空は急速にその濃さを増しつつある。  星の瞬きが、少しずつその数を増やしている。しかし今夜は三つの月がすべて空にあるから、星空はそれほど見事なものではないだろう。  おかげで陽が沈んでも荒野を歩くのに不自由はないだろうが、星空が好きな彼女にとっては少し残念だ。  静かな夜だった。  こんなに静かな夜は、この星にとって何百年ぶり、あるいは何千年ぶりだろうか。  人工の明かりはなにもない。  いや、ある意味この言い方は正確ではないかもしれない。荒野をぼんやりと照らす三つの月のうち、二つは人の手によってその場所に置かれたものなのだから。  いずれにしても、この星に文明が生まれて以来、初めて迎える静かな夜だ。この静寂が再び破られるのは、遠い未来のことだろう。  あるいは―― 「……いっそのこと、永遠にこのままでもいいのかもしれない」  彼女はつぶやいた。  ひんやりとした地面に仰向けになる。  ちょうど天頂に、月がひとつあった。  ホル・チュ。  一番明るく、一番大きく。そして、一番古い月。  きっと、地表からこうして見る月の姿は、一万年前、十万年前のそれとほとんど同じものなのだろう。空は、何も変わっていない。 「……遠い昔、天が生まれ、地が生まれ……そして人が生まれた」  小さな声で、故郷の国に古くから伝わる詩を口ずさんだ。  それは創世の神話。長い長い神謡を口語訳した、その最初の一節だ。  彼女は上体を起こすと、三つの月に照らされて白く浮かび上がる周囲の荒野を見回した。  それは、滅びの光景。  死せる大地の姿。  天は、創世の時代と何も変わらないのかもしれない。  しかし、大地は滅びてしまった。  なのに、何故―― 「なぜ、人は生き残った……?」  まだ、結論は出ていない。  自分のしたことが、正しかったのかどうか。  仲間たちのしたことが、正しかったのかどうか。  それとも、彼女たちの『敵』がしたことが正しかったのだろうか。  誰もが、自分の選択が正しいと信じていた。しかしまた誰もが少しずつ、自分のしようとしていることに疑いを持っていたはずだ。  正解は、誰にもわからない。  遠い未来、その答えが出るのかもしれないし、永遠に出ないのかもしれない。  彼女にとっては、どうでもいいといえばどうでもいいことだった。  未来を築くのは、彼女の世代ではない。  そう、どうでもいいことだ。 「……だとしたら、なんのためにここへ来たのかしら」  考えるまでもない。その答えはわかっている。  ただ、寂しかっただけだ。  こんな世界で一人でいるのは、あまりにも辛すぎる。  今、彼女が会いたい相手は二人いた。  しかしそのうちの一人とは、もう永遠に会うことはできない。  だから、残ったもう一人を訪ねようとしているのだ。  会ったからといって、何を言えばいいのかはわからなかったが。  目的地に着いたのは、翌日の午後だった。  相変わらず空は晴れ渡っていて、気温はかなり上がっている。それでも湿度が低いために、さほど不快感はない。  それは、大きな建造物だった。  ドーム状の屋根を持ったスポーツ競技場にも似ているが、近くに寄れば、それよりもはるかに大きなものだとわかる。  物音はしない。動くものの姿もない。  しかしそれでも、この施設はまだ「生きて」いた。  中には確かに、生命が存在していた。  その事実に、知らず知らずのうちに口元が緩んでしまう。  おかしな話だ。これは、彼女の『敵』なのに。 「敵……か。でも……」  それももう、過去形で語るべきだろう。戦争は、あの愚かな争いは、もう終わったことなのだ。  マルスティア――  彼女たちと敵対していた勢力の一つが、最後に築いた都市。それとも、要塞と呼ぶ方が相応しいだろうか。  人類の滅亡を防ぐために。  この星の滅亡を防ぐために。  激変した環境の中で、数万年は耐えられる堅牢な都市。  彼女は間近まで来て、その建造物を見上げた。  建設中に訪れたことはあるが、完成した姿を自分の目で見るのは初めてだ。 「立派なものね、まるで…」  まるで、古代の王たちが築いた巨大な墓のようだ――と。  そう思った。  両者の間にはある意味多くの共通点があって、その思いつきにくすくすと笑った。  正面のゲートは固く閉ざされていた。無理やり開けることもできなくはないが、しかしそうする必要性は感じない。  外壁に沿ってしばらく歩くと、やがて小さな扉が見つかった。非常時に使われるものだろう。二人が並んで歩くのがやっとの大きさだ。  もちろん、この扉もロックされている。  彼女は開閉レバーに手をかけると、扉を見つめた。小さな金属音とともに扉が開く。 「……不用心だこと」  小さく笑って中へ入る。もちろん、不用心とかいう問題ではない。対魔法用のシールドを施した扉であっても、彼女の『力』に抵抗することなどできはしない。  無人の通路は、どこまでも続いているように見えた。硬質セラミックの床と壁。継ぎ目ひとつ見あたらない。  マルスティアの内部は、しんと静まり返っていた。彼女の足音だけが響いている。  この都市に、生きている者はほとんどいないはずだった。全自動化されたコンピュータによって制御される、無人の都市だ。  生命は「記録」としてのみ存在していた。かつてこの惑星に存在した生物たちの遺伝子が可能な限り集められ、コンピュータのメモリの中に保管されている。  何万年か経って惑星の環境が落ち着いた時、生命を、人類を再生するために。  その考え自体は、そう悪いこととは思わない。  確かに、人間は愚かな生き物だ。しかし彼女も人間だった。人間を愛していた。滅びた方がいいとは思わない。  しかし何もしなければ、人類は遠からず本当に滅びてしまうだろう。  この惑星上で、現在でも生きている人間はほんの僅かしかいない。  そして、その人間たちが長く生き延びられる可能性は低い。  数万年――その長い時間によらなければ解決できない問題もあるのだ。  彼女は無言で、無機的な通路を歩いていた。  通路は入り組んでいて、あちこちに枝道や扉がある。しかしそれらには目もくれず、なんの表示もない通路を、確かな足どりで一度も迷うことなく進んでいく。  しばらく歩くと、通路は行き止まりになっていた。その、最後の扉の前に立つ。  扉は音もなく開いた。  一歩、足を踏み入れる。  こちらに背を向けて座っていた男が、椅子ごとゆっくりと振り返った。  三十代後半くらいの男だ。きちんと櫛で整えた黒髪に、黒い瞳。最後に会った時と同じように、静かな笑みを浮かべている。  こうして会うのは何年ぶりだろうか。  しかし過ぎた歳月の割に、外見は昔とほとんど変わっていないように見える。もっともそれは、彼女についても同じことが言えるのだが。 「久しぶりだね。ファル……ファレイア・レーナ」  立ち上がりながら、男は言った。  彼の背後の壁はモニターを兼ねているようで、外の風景が映っている。彼女が中に入る前から気付いていたくせに、わざとこうして芝居がかった動作をする。そんなところも昔と変わっていない。 「ファルでいいわよ、ランディ。昔と同じように。あなたにフルネームで呼ばれたりしたら、なんだか背中がむずむずするわ」 「そうかい。じゃあファルと呼ばせてもらうよ。ようそこマルスティアへ、歓迎するよ。今となってはろくなもてなしもできないけど、ゆっくりしていくといい」  ランディと呼ばれた男は親しげに近寄ってくると、ファル――ファレイア・レーナの肩に手をかけて、頬に軽くキスをした。 「正直なところ、もう会えないと思っていた。よく来てくれたね」 「会わないつもりだったけど、そうもいかなくなったの」  笑いながら、こちらからもキスを返す。 「……どうして?」 「見てよ、この砂埃」  ファレイアは両手を広げて、自分の姿を見せた。  荒野を越えてきた長い旅がもたらす当然の結果だった。着ているものも、顔も髪も、朱い砂で汚れている。 「わざわざ歩いてきたのか、大変だろう? そんな必要もないだろうに。それと俺に会いに来ることに、どんな関係が?」 「決まってるじゃない」  ファレイアは、昔よくそうしたように子供っぽく笑った。 「他に、シャワーが使えそうな場所に心当たりがなかったのよ」 「……なるほど、それもそうだ」  ランディは苦笑する。 「幸い、バスルームは無傷だよ。好きに使うといい」  ファレイアは荷物を置くと、指し示されたバスルームへと入った。ランディが後からついてきたが、構わずに服を脱ぎ始める。 「あれだけの攻撃をしたのにバスルームひとつ破壊できなかったと知ったら、あいつらが生きていたら傷つくでしょうね。ここは、下手な要塞よりもよほど堅固だわ」 「当然だ。ここは、人類にとって最後の砦だからな」 「今にして思えば、破壊できなくてよかった。おかげでこうして熱いシャワーを浴びることもできるんだから」  ファレイアは男の目をはばかることなく全裸になって、シャワーを浴びはじめた。 「ここを破壊してしまおうかと考えたこともあったけれど、そうしなくて正解だったみたいね」 「君が思い止まってくれてよかった。いくらこの都市でも、君の力を防ぐことはできないからね。おかげで君はシャワーを浴びることができたし、僕は久しぶりに目の保養ができたというわけだ」 「あら、見てるだけのいいの?」  ファレイアは悪戯な笑みを浮かべてランディを見た。 「今はとりあえず、ね。それにしても相変わらずスタイルがいいな。とても一児の母とは……」  ランディそこではっと口をつぐんだ。ファレイアのきつい視線で彼を睨んでいた。  慎重な彼にしては珍しい失言だ。これはまだ、触れてはならない傷だった。 「……言っておきますけどね」  ファレイアはシャワーを止めて、ランディに詰め寄った。 「私は、あなた方がやろうとしていることのすべてを無条件で受け入れたわけではないわ。忘れないことね。今でも私がその気になれば、このマルスティアだって一瞬で廃墟にできるのよ」 「だけど君は、そうするつもりはない。だからこうして、平和的にシャワーを浴びている。違うか?」 「……そうね。確かにこの都市は必要よ。生命を、遺伝子を次の時代に伝えるという点では必要なものだわ。四十億年を越える生命の歴史をここで終わりにしたくないのであれば」 「終わりにしたくない。僕たちはこれまで、ことあるごとに対立してきたけれど、少なくともその一点だけは意見が一致するはずだ」 「そうよ。但し条件があるわ」  ファレイアはタオルを手に取って、濡れた髪を乱暴に拭う。 「条件?」  その質問にすぐには答えず、ファレイアは下着を着けてバスルームから出た。汚れた服はそのままにしておいた。バスルームがあるくらいだから、全自動洗濯機だってあるのだろう。  下着姿のまま居間でくつろぎ、ランディが持ってきてくれた飲み物に口をつける。 「ねえランディ。もう、ここにはあなたしかいないのよね?」 「ああ、生きて活動している人間は、ね」  残りはすべてコンピュータのメモリの中、というわけだ。あるいは、冷凍睡眠という形で眠っている者も多少はいるのかもしれない。 「つまり、あなたがこの都市の支配者というわけね。人類の未来は、あなたが握っている」 「……何が言いたい?」 「一つ、私の頼みを聞いてもらおうと思って」  ファレイアは自分の荷物から一枚の光ディスクを取り出した。ランディに向かって無造作に放り投げる。 「これは?」 「それを、作って欲しいの。ここの設備ならできるでしょう?」 「……、『竜』か。なるほど」  ディスクのラベルに書かれた文字を見て、どうやら事情を察したようだ。二人でこの話をしたのはずいぶん昔のことのはずなのに、よく憶えていたものだ。  どうして、人間はこんなにも傲慢な存在になってしまったのか。それが、その時の雑談の話題だった。  ランディは言った。人間には天敵がいないからだ、と。  ファレイアも似たような意見だった。人間が、自然よりも強い存在になってしまったから、と。  昔、人間が自然よりも弱い存在だった時代、人間は自然を敬っていた。当時から人間はこの星で最強の生物ではあったが、それでも自分たちを取り巻く自然と、他の動物たちを畏れ敬って暮らしていた。  科学が、技術が進歩し、自然そのものが人間の支配下に置かれるようになると、人間たちは畏れること、敬うことをやめてしまった。  だったら、人間よりも強い存在を作り出してやればいいのではないか――冗談半分にそんな話をした。  人間よりも賢く。  人間よりも強く。  見る者に畏怖の念を起こさせるような存在がいれば、人間はもう少し謙虚になるのではないか、と。  ファレイアはその存在を『竜』と呼んでいた。 「……まさか、本気だったとはね」  手の中の小さなディスクを弄びながら、ランディが言った。その中には、ファレイアがデザインした『竜』のDNAの設計図が収められていた。  遺伝情報からその生物を実際に作り出すことができる設備は、今となってはこのマルスティアにしか残っていない。  ランディはディスクを近くの端末にセットした。 「人が創り出した『神』か」 「いいじゃない。あらゆる可能性を試してみましょう」 「いいけどね。いまさら敵も味方もないからな。俺たちも、君たちも、他の者たちも、滅亡を回避するために様々な計画を進めてきた。そのいくつかは既に失敗したし、残りに判定が下されるのは遠い未来のことだ。もう一つくらい候補が増えても、問題じゃあない」 「何万年か後、この都市が生み出す未来の人間たちが、私たちよりももう少し謙虚な存在になってくれればいい。そのための試みよ」 「それはいいんだが……」  ディスクに収められたDNAの塩基配列を、解析プログラムでチェックしていたランディは、おやっと首を傾げた。 「君の仕事にしては、ずいぶんと無駄の多いデータだな?」 「あ、気付いた?」  悪戯を見つかった子供のように、ファレイアはぺろっと舌を出した。 「これは……」  ランディもこの分野に関しては第一人者だ。すぐに意図を見抜くことができた。 「そう、メッセージよ。遙かな未来、この地に生まれ来る者たちへの」 「なるほど」  ランディも苦笑する。いかにもファレイアらしい遊び心といえなくもないが、反対する理由もない。 「遙かな未来、か……」 「ええ」  遙かな未来――人類に未来があれば、の話だ。  人間の技術がどれほど進歩しても、結局、時間によってしか解決できない問題もある。昔、大喧嘩をして別れた二人が、今こうして笑って話せるように。  しかし人類の未来に残された問題は、二人の諍いよりはもう少し深刻だった。 「特異点……だよな。問題は」 「そう。あれだけは、私たちが何とかしなきゃいけない問題よ。あんな負債を、遠い未来の子孫たちに負わせるわけにはいかない」  僅かな計算誤差と、月が一つ失われたことによって生じた『力』の揺らぎ。それが原因で、世界を滅ぼすことができるほどの力が、一点に集中してしまっている。  誰もそれを消滅させることはできなかった。川の流れの中にできた渦のようなものだ。石を投げ込んで水面を乱しても、渦はすぐにまた再生する。  特異点は、今はまだ顕在化していない。わずかな重力波の揺らぎとしてしか検出されない、計算の中だけの存在だ。  しかし、あと数万年の後には―― 「特異点が形をとって現れる。一人の人間が、その気になればこの世界を滅ぼすことのできる力を手にするんだ。今のファルの力でさえ俺は恐ろしいのに、それ以上の力なんて考えたくもないな」  ファレイアはランディをじろっと睨んだが、今の台詞の後半部分については何も触れなかった 「その力を巡って、また戦いが起こる」 「しかし俺たちには、特異点をどうこうする力はない……」 「方法は、あるわ」  一瞬、会話が途切れた。  お互い複雑な表情で、相手の顔を見る。 「……レーナ砲、か?」 「そう呼ばれていたのは知らなかったわね。あれの正式なコードネームは『大いなる槍』よ」 「君があれを使うのを思い止まってくれて、心底ほっとしているんだが」 「本当は、完成と同時に使うつもりだったんだけど」 「そんなことしたら、それこそ世界が滅びる」 「そう、だから諦めたの」  首の皮一枚で持ちこたえているような、今のノーシルの環境。  これ以上のダメージを与えるわけにはいかない。 「あれは封印してくれ。それだけが俺の頼みだ。竜と引き替えに、交換条件だ」 「封印……ね、いいわよ。どうせ、すぐに使えるものではないし。だけど破壊はしない。それが私の方の条件。私たちの子孫が、その道を選ぶかもしれないから。選択肢だけは残しておくわ」 「……いいだろう」  それで話は終わりだった。ファレイアは、カップに半分ほど残った中身を空にする作業に専念する。  しかしランディは、まだ何か言いたいことがあるようだった。それに気付いていながら、わざと無視してカップを傾ける。 「……なあ、ファル」 「…………なに?」  かなり間が空いて、ようやくランディが口を開く。ファレイアは仕方なく返事をした。 「……あの子は、どこに埋葬されたんだ?」 「あの子って?」 「ファル!」  もちろん、わかっていてとぼけたのだ。ランディの声が嶮しくなる。 「お前の怒る気持ちも分かる。だが、墓参りくらいしたっていいだろう? 俺は一応、あの子の父親なんだ」 「――」  ファレイアは小さく、しかしわざと相手に聞こえる程度に溜息をついた。  あまり、触れて欲しくはない話題だった。まだ、傷は癒えていない。  しかし、ランディの言うことももっともだ。彼が、あの子の父親であるという事実は変えようがないのだから。 「いいわ、行きましょう。ここにはまだ、飛べる飛行機はあるかしら?」  空になったカップを置いて、ファレイアは立ち上がった。 「案内するわ。あの子――エモンの墓所。そして、揺り篭でもある場所へ」 * * * 「それが……この星の失われた歴史なのか? エモン、お前は……前文明の時代から来た人間だと?」  トリニアの竜騎士クレイン・ファ・トームは、掠れた声で聞いた。喉がからからに乾いていた。  目の前には彼女の親友にしてトリニアの王妃、エモン・レーナが立っている。  静かに微笑んではいるが、どれはどこか悲しげな笑みだった。エモンが小さくうなずくと、それに合わせて長い黒髪がふわりと揺れた。  クレインには、たった今聞いた話がとても信じられなかった。自分の頭がどうかしてしまって、ありもしない妄想を作り出したのではないか――そう思ったほどだ。  だが、今見ているものは紛れもなく現実だった。  二人がいるのは、窓のない――地下なのだから当然だ――大きな円形の部屋だった。  壁も床も天井も、白い陶器のような材質で造られている。トリニア風の建築に用いられる黒い石材とはまるで違ったものだ。 「私がアール・ファーラーナ――神の子というのも、あながち間違いではないかもしれないわね」  エモンの笑みが、微妙に変化する。まるで、自分自身を嘲笑するかのように。 「私の母の名はファレイア・レーナ。父はランディ・バーグ。前文明の最後の時代、人類の滅亡を回避しようとそれぞれ力を尽くしていた者たち。若い頃二人は夫婦で、その間に私が生まれた。やがて二人は対立する国に別れ、さらに数年後、最後の戦争が始まった……」 「ファレイア……ランディ……。ファレイアやランドゥの神の名は、そこから生まれたものか」 「そうね。二人もまさか、自分たちが神になるとは思わなかったでしょうけど」  エモンは笑う。他はおおよそ二人の予想通りに進んだのに、これはまったく考えもしなかったことだろう。  前文明の滅亡から数万年の後、ノーシルの自然環境が生命を支えられるまでに回復した頃。  マルスティアを制御するコンピュータは、遠い昔のプログラムに従って、生命の再生を開始した。  新たに生み出された生命。  新たに生み出された人類。  文明の再生は結局うまくはいかず、人間たちは再び文明以前の時代からやり直すことなった。  ファレイアやランディ、そしてマルスティアの名は、伝説となり、神話となった。  現在のトリニアの王都マルスティアは、神話に登場する神々の都市の名からとったものだ。 「母はどういうつもりで、戦争で死んだ私を再生してこの時代に送ったのかしらね」  その台詞はクレインに対してというよりも、ここにはいない者への質問のように聞こえた。  エモンの声を聞きながら、クレインは目の前の光景に見入っていた。  この円形の部屋の中心部に、三本の柱がちょうど正三角形の頂点になるように立っている。  もちろん普通の柱などではない。それは実体を持たない、赤紫色の光の柱だった。  手で触れそうなほどに密度の濃い光の柱。そのうちの一本は、中に、人影が浮かんでいた。  クレインは、その姿から目を逸らすことができなかった。  全裸の、長い黒髪の美しい女性。  まるで眠っているように、光の中に浮かんでいる。その姿は、目の前で儚げに微笑んでいる親友と、寸分違わぬものだった。 「過去の知識を伝えること。この時代の者たちが、過去の過ちを繰り返さないように見守ること。新しい時代の行く末を見届けること。いろいろあるだろうけれど、一番の理由は、特異点――黒の剣を、この世から消し去ること」 「黒の剣……魔王ドレイアの剣、か」  その名を口にする時、クレインは心の奥底に微かな恐怖を感じていた。大陸最強の竜騎士といわれたクレインであっても、だ。黒の剣はそれほどまでに圧倒的で、忌むべき存在だった。  ストレイン帝国の皇帝、ドレイア・ディ・バーグの剣。  ドレイアこそが、この大陸で最強の竜騎士だった。その恐ろしいまでの力故に、魔王と呼ばれて恐れられている人物だ。  彼の力の源こそ、他でもない黒の剣なのだ。 「この世界に魔法を生み出すために配置された月。そのわずかな軌道のずれによって生じた魔力の澱み。それが、黒剣の真の姿。人間の目に剣の形で見えるのは、剣が『力』の象徴だからよ。特異点を消滅させることこそが、私に課せられた役目。だけど……ね」  エモンは、クレインの肩にそっと手を置いた。 「私は、すべてをあなたたちに任せることにした。私はもう、表舞台から退場」 「何故? 卑怯じゃないか。元はといえばお前が始めたことだろう。勝手にかき回して、勝手に私たちの前から消えようだなんて!」 「楽しかった。母の言いつけを破ってこの時代の歴史に関わってしまったけれど。本来なら十万年前、まだ十代で死んでいたはずの私が、エストーラと結婚できて、可愛い子供たちも生まれて。こんな幸せなことはないわ。私があなたたちの前から消えても、私の血はこの世界に残る。この時代の人間として、新たな歴史を紡いでいくことができる」 「だったら、最後まで付き合えよ! どうして今!」  知らず知らずのうちに、涙声になっていた。理由なんてどうだっていい。大切な友人を失いたくはない。 「私の力を持ってしても、黒の剣を直接どうこうすることはできないとわかったから。だから、あなたたちに任せた方がいい、と。この世界の進む道は、あなたたちが決めるべきよ。私は……、答えを知っていてそれをするのは、卑怯だからね」 「エモン……」 「どうして、今――そう訊いたわね。近い将来、ストレイン帝国との最後の戦いがあるから。ドレイア・ディと……黒の剣と、直接戦うことになる。その時、私はいない方がいい。歴史を作るのは、今を生きる者たちでなければならない。私は、遠い過去の存在でしかないもの」 「エモン」  クレインは他に何も言えなかった。ただ泣きながら、親友の名を呼んでいた。 「エストーラには、あなたから伝えて。私は……あの人の前に立ったら、決心が鈍りそうだから」 「エモン!」 「ありがとう、クレイン。あなたと知り合えてよかった」  エモンはそう言って、クレインの身体をしっかりと抱きしめる。  顔は微笑んでいたが、しかしその目には涙が溢れていた。 六章 最後の竜騎士  マイカラスの王宮の一室で。  誰もが、無言で座っていた。  奈子の話が終わった後しばらくの間、その場にいる全員がただ黙って、いま耳にしたばかりの信じがたい話を心の中で反芻していた。  ソレア・サハ・オルディカ。  エイシス・コット・シルカーニ。  リューリィ・リン・セイシェル。  ハルトインカル・ウェル・アイサール。  ダルジィ・フォア・ハイダー。  ケイウェリ・ライ・ダイアン。  そして――奈子と、由維。  話し終えた奈子は、手に持っていた紙の束をテーブルの上にぽんと放り出した。一瞬、全員の視線が集中する。そこにはいま話した内容が、現代アィクル語で記されていた。  竜のDNAから見つけ出した、前文明が――ファレイア・レーナが遺したメッセージ。 「信じる信じないはあんたたちの勝手。だけど、これが真実なんだ」  奈子の言葉に、一同はお互いの顔を見合わせた。今の話を自分以外の者がどう受け止めているのか、探るような表情で。  まだ、話を完全には飲み込めていないという雰囲気が漂っている。  無理もない。彼らにしてみれば、これまでの世界観を根底から覆されたようなものだ。むしろ異世界の住人である奈子と由維の方が、先入観がない分、この事実を素直に受け止めることができていた。 「考えてみて。竜はこの世界の基準で考えても、進化の道筋から外れた存在じゃない? それは人間が生み出したもの。前文明の時代の人間たちは、その中に未来へのメッセージを遺した。疑うなら、自分たちで調べてみればいい。竜の遺骸は手に入らなくても、亜竜の遺伝子の八割くらいは竜と共通のはずでしょ」  竜は、人間が生み出したもの。  人間が畏れ敬うための『神』として。  人間を超える力を持った存在として。  そのために、この世に生を受けた。 「……確かに、ナコさんが嘘をつく理由はありませんが」 「それが、前文明の正体……? 魔法も、竜も、人間が生み出した……」 「ファレイアやランドゥといった神々は、前文明の時代の人間たちで……」 「エモン・レーナも……」  少しずつ少しずつ、その事実が頭の中に染み込んでくる。  まったく途方もないお伽噺だ、と笑い飛ばしてもいいはずだった。こんな、奇想天外な話。  しかし実際には、誰も笑うことができなかった。  奈子がこうしたことで嘘をつくような性格ではないことを、ここにいる全員が知っている。奈子を目の敵にしているダルジィでさえ、それは認めざるを得ない。  ファージの死によって心に大きな傷を受けてこの地を去った奈子が、固い決意の感じられる表情でここにいる。その事実だけでも、これが単なるヨタ話ではないことを示している。  その場にいる六人は、互いに腹の探り合いをしているようだった。誰が最初に、この話を信じたと宣言するか――と。 「……で、お前は何をする気なんだ?」  ついにエイシスが、奈子に向かって口を開いた。 「え?」 「ただ、この事実を伝えるためだけに戻ってきたのか? 違うだろう。前文明や魔法の正体を知ったからといって、今の俺たちになんの関わりがある? それにお前、先刻言ったよな? 力を貸してもらう、って」 「あ、憶えてた?」  奈子は苦笑いを浮かべた。 「あんまり、言いたくなかったんだけどね。きっと反対されるから」 「なんのことだ?」 「それは……」  言いかけた奈子は、一度口をつぐんで深呼吸をした。  心を落ち着けるかのように。  そこにいる全員の顔をゆっくりと見回す。  硬い表情で。  奈子はゆっくりと言った。 「この世界から、魔法の力を消し去るんだ」 * * *  またしばらく、場が沈黙に包まれた。  全員が、呆気にとられた表情で奈子を見つめていた。 「な……」  エイシスが、引きつった笑みを浮かべる。 「なにを、馬鹿なことを」 「冗談なんかじゃないよ」  奈子はきっぱりと言った。 「魔法って何? それはファージを殺した力。ユクフェを、フェイリアを、アタシの子供を殺した力。この世界の無数の命を奪った力。前文明を滅ぼした力。……そんな力、この世からなくなればいい」 「だからといってそんなこと……第一、人間の力でできるはずがない」 「できるよ」  奈子は一人、窓際へ移動した。  両開きの大きな窓を開けると、身を乗り出して空を見上げる。そして、満足そうに微笑んだ。  夜空には、三つの月が煌々と輝いている。 「先刻説明した通り、魔法は、人間がこの世にもたらしたもの。だったら、人間がそれを消し去ることもできる。綿密な計算によって配置された四つ以上の天体――つまりノーシル本星と最低三つの月。それが、魔法に必要なものなんだ」  誰に語りかけるでもなく、奈子は空を見上げたまま言った。それからゆっくりと室内を振り返る。  肩越しに、背後の夜空を親指で指した。 「月を、破壊するんだ」  ぽつりと、何気ない調子でつぶやいた台詞。誰もが、その意味するところをすぐには理解できずにいた。  奈子はもう一度繰り返す。 「あの月を、ノーシルに一番近い『シ・チュ』を破壊するの」  既にそのことを知っていた由維を除く全員が、目を見開いた。二の句を継げずにいる。  奈子は微かな笑みを浮かべて、黙ってその様子を見つめていた。 「く……」  沈黙を破ったのは、エイシスの笑い声だった。 「……なにを言い出すかと思ったら。馬鹿な。そんなこと、できるわけがない。なにを考えてるんだか。まさか、ファーリッジ・ルゥが死んだショックでおかしくなったわけじゃあるまい?」  笑いながら言うエイシスだったが、決して心底可笑しくて笑っているわけではなかった。不自然に引きつった表情が、それを示している。  笑われても、奈子は別に怒りはしなかった。そんな途方もないホラを、と笑い飛ばしたいエイシスの気持ちはよくわかる。自分が彼の立場だったら、同じ反応をしていたかもしれない。  つまりは信じたくない、認めたくないのだ。  エイシスとは対照的に、ソレアはひどく強張った表情をしていた。他の者たちは、まだ驚きから立ち直れないといったところか。 「たとえ竜騎士の力を持ってしても。たとえ、一つの都市を一瞬で消し去る力があっても、月を破壊するなんてできっこない。月がどれほど遠くにあるか、どれほど大きいか、知らんわけじゃあるまい? そんなこと、黒剣の王だって無理だ」 「……できる。できるんだよ」  奈子は静かに言った。普段の彼女からすれば、不自然なほどに落ち着いた口調だった。 「前文明で最後に生き残った人たちは、そのことも考えていたんだ。自分たちのしたことは根本的に間違っていたんじゃないか、いっそのこと魔法の力をすべて捨て去った方がいいんじゃないか、って。その可能性を否定できなかったから、ファレイア・レーナはそのための用意はしておいたんだ。実際に魔法を捨て去る道を選ぶかどうかは、この時代の者たちに託して」 「前文明が滅ぶ前に、月を破壊する方法を遺していった……と?」  ようやく立ち直ったハルティが口を開く。 「その備えは必要だった。特異点――黒の剣を破壊するには、他に方法がないかもしれないと考えていたんだ。そして……その通りだった」 「月を破壊する方法……それはいったい?」  ここまで、質問はすべてエイシスとハルティによるものだった。リューリィやケイウェリ、ダルジィがでしゃばらないのは当然としても、何故かソレアが一言も発していない。  奈子はそのことに気付いていたが、あえて無視していた。  先程の質問に答える前に、ハルティとエイシスに向かってにやっと笑ってみせる。  少し間を置いて、わざともったいつけて。  人差し指で、テーブルの天板をこつこつと叩いた。 「……ここに、あるよ。この、マイカラスに」 「――っ!」 「あの……遺跡? だからアィアリスは、ギアサラス地方を手に入れたがっている?」  言葉を失ったハルティとエイシスに代わるように、ソレアが初めて口を開いた。  奈子は微かにうなずく。 「それは表向き、トリニアやストレインの時代の古い遺跡。だけどその下には、もっともっと古い遺跡が隠されている。トリニアの時代、遺跡の存在を知っていたわずかな人間たちは、それを『レーナ遺跡』と呼んでいた。前文明時代の末期、ファレイア・レーナの指揮によって建造された、巨大な魔法兵器なんだ。その力は竜騎士を百人集めたって及ぶものじゃない。月の一つくらい、わけもなく破壊できる」  ファレイア・レーナはそれを『大いなる槍』と呼んでいた。  この惑星の中心部、もっとも魔力が強まる部分から汲み上げた強大な力を集中して、空の一点に向かって撃ち出す。それは一種の巨大な大砲だった。 「そんな……」  絶句している六人の顔を、奈子は確かめるように見ていった。  予想していたことではあったが、奈子の考えを歓迎している者はいないようだ。  そして。  この計画にもっとも強く反対するのがソレアであることも、予想のうちだった。 「そんなこと、できっこないわ!」  ソレアは厳しい口調で言った。今にも拳をテーブルに叩きつけそうな雰囲気だった。 「月を破壊して、魔法が使えなくなって。そんなことをしたら、私たちは生きていけない。それこそ世界が滅びてしまう。魔法なしで生きていくなんてできっこない。そのくらい、あなただってわかってるでしょう?」 「私も、そう思う」  こちらも今まで黙っていたケイウェリが、重々しく言った。 「魔法の力は、我々の生活に必要不可欠なものだ。それをすべて消し去ろうだなんて、前文明の者たちもなにを考えて……」  表情を見れば、ハルティもダルジィも、そしてエイシスやリューリィも同意見なのは明白だった。  しかし奈子は、これらの台詞を笑って聞き流す。 「あんたらの都合なんて、アタシは知ったこっちゃない」  信じ難いほどに身勝手な台詞が、ケイウェリの言葉を遮った。 「魔法の力が、生きていく上で必要不可欠? アタシにはわかんないね。なにしろアタシは……」  奈子はそこで一呼吸の間を置いて、ちらりとソレアを見た。ソレアが、こちらを睨んでいた。  そこで奈子は、今まで秘密にしていた決定的な事実を明かした。 「アタシは、魔法なんてものが存在しない世界で生まれ育ったから」  しん……。  水を打ったように――という表現がこれほどぴったりな場面もないだろう。場が、一瞬で静まり返った。  皆、何を言われたのかわからないといった表情で奈子を見ていた。一人ソレアが、硬い表情をしている。 「みんなにはまだ言ってなかったんだ、ソレアさん」 「……ええ。その必要もないと思っていたから」 「それはいったい、どういう……」 「そういえば……、いつかフェア姉がちらっと言っていたことがある」  リューリィが、やっと聞こえるような小さな声でつぶやいた。 「ナコとユイは、信じられないくらい『遠い』ところから来たんだって」  それを聞いて、事情をまったく知らない四人が顔を見合わせる。  奈子は小さくうなずくと、説明をはじめた。  まず最初に、自分と由維がこことは別な世界で生まれ育った人間であること。  そこが、どんな世界であるか。  ファージの魔法の実験に偶然巻き込まれ、この世界を訪れるようになった経緯。  そして、その後のこの世界での冒険。これまでに目にしたこと、耳にしたことのすべて。  かなり長い話になったが、誰も、一言も言葉を挟まずにそれを聞いていた。 「魔法は、人が生きていく上で必要不可欠なものじゃないよ。先刻の話、忘れてない? この世界だって、前文明の末期までは魔法なんてものは存在しなかったんだ。ノーシルの四十数億年の歴史、生命の四十億年の歴史の中で、魔法が存在したのはほんの十万年でしかない。魔法なんて存在しない時間の方が、何万倍も長かったんだ」 「だからといって……」 「あとね、これは気休めかもしれないけれど。月を破壊してもしばらくの間……数百年くらいは、日常生活に使うような弱い魔法なら使えると思う。竜騎士の戦闘用魔法とか転移といった、強力な魔法は使えなくなるけどね。アタシはもう、決めたんだ。みんなが反対したって関係ない」 「そうね。でも、私は反対よ」  きっぱりと言って、ソレアが立ち上がる。  全員の視線が彼女に集まった。 「……あなたに、それをする権利があるの? あなたはこの世界の人間じゃないわ。それなのに、この世界の未来をどうこうする権利があるの? 関係ない世界のことに、口出ししないでちょうだい!」  みんな驚いていた。ソレアには珍しく感情的な声だった。  奈子だけが一人、それが当然といった表情でソレアを見つめていた。 「関係は、ある。確かに、生まれ育ったのはこの世界じゃない。だけどアタシは今、ここにいるんだ。無関係じゃない」  微かに怒気を孕んだ声音で、しかしゆっくりと奈子は言った。 「この世界にはアタシの大好きな人たちが何人もいて、そのうちの何人かは殺された。一度は、この世界の男の子供を身籠もったこともある。それに……だから、関係ないなんて言わせない」  二人は真っ直ぐに睨み合った。鋭い視線がぶつかる。 「……表へ出ましょう。ここでやるわけにはいかないから」 「いいよ」  ソレアの言葉にうなずくと、奈子はハルティに向かって言った。 「ハルティ様、城の練兵場をお借りします。城の建物には……、できるだけ被害を出さないようにしますから」 「ナコさん! ソレア・サハ!」  ハルティが、続いて他の者たちが立ち上がる。  それを無視して、二人は部屋を出ていった。  もう真夜中に近いはずだが、城の外は意外と明るかった。  三つの月が、夜空をぼんやりと照らしている。地面に敷き詰められた灰色の砂が、月明かりを浴びて銀色に光っていた。  その上に、二つの影が落ちる。  少し距離を空けて、六つの影が後ろからついてゆく。前の二人を止めようとする努力は、ここに来るまでに放棄していた。 「ソレアさんは反対すると思った。墓守だもんね。それが存在意義。『力』を封印しつつも『力』を護ってきた者たち。千年前、レイナ・ディが同じことを企てた時、墓守たちはレイナを殺そうとした」  ソレアの方を見ずに、奈子は前を向いたまま独り言のように言った。 「……ソレアさんも、アタシを殺す?」 「ええ」  なんの躊躇もなく、ソレアがうなずいた。  後ろで聞いていた者たちには、二重の驚きだった。あのソレアが、ここまで過激な発言をするとは。  しかし、奈子にはこうなることがわかっていた。  墓守にとっては、これこそが拠り所なのだ。  竜、竜騎士、そして魔法。千年間の歴史と伝統。  それらを失うことを恐れている。  他の者たちが「魔法は人間に必要なものだから」と論理的に反対しているのとは違う。千年間信じていたものを失うという、本能的な、感情的な恐怖なのだ。 「あなたは、いったい誰?」  ソレアが訊いた。  立ち止まって、前を歩く奈子の背中を真っ直ぐに見て。 「月を破壊し、この世界から魔法の力をなくしてしまう。そのとんでもない考えは、誰が思いついたのかしら」 「どういう意味?」  奈子も立ち止まった。  振り返らずに訊き返す。  後ろでそのやりとりを見ている者たちは、二人の間に今までとは違った緊張感が漂っていることに気がついた。 「あなたは、誰の意志でそれをしようとしているの? ナコ・マツミヤの意志? それともレイナ・ディの意志?」 「…………」 「はっきりと答えてもらいましょうか。ねえ、レイナ・ディ・デューン?」 「――っ?」  全員が、耳を疑った。ソレアは今、なんと言ったのか。  だが、間違いない。  レイナ・ディ・デューン。  そう、呼びかけた。  奈子の背中に向かって。  しかしそれは千年近く前に死んだ、王国時代末期の竜騎士の名だ。 「どうしてあなたは、ナゥケサイネの名を知っているの? どうしてあれがナゥケサイネだと知っているの? ストレイン帝国で、ただ一人を除いて誰にも従わなかった暴れ竜を、どうしてあなたは従えることができたの?」  ソレアが振り返った。  奈子ではなく、背後の観客たちに向かって語りかける。 「答えはひとつしかあり得ない。ナコは、レイナ・ディの墓所で無銘の剣を受け継いだ。だけど、受け継いだのは剣だけじゃない。レイナ・ディの記憶、意志、そして力。ここにいるのは、私が知り合ったときのナコ・マツミヤではないわ」 「……まさか!」 「彼女は、レイナ・ディ・デューン。千年前の時代の、最強の竜騎士。エモン・レーナの、そしてクレイン・ファ・トームの遺志を継ぐ者。ここにいるのは、千年の歳月を越えて、ナコ・マツミヤという少女の肉体を借りて甦った竜騎士よ」  聞いていた五人にとって、これこそが今日一番の驚きだった。  今日は、信じられないような衝撃的な話をいくつも聞かされた。だが、これは極めつけだ。  いくらなんでも、こんなこと信じられるわけがない。  奈子とソレアを交互に見ていた五人は、ふと思い出したように傍らにいる由維を見た。  そして、確信した。  ソレアの言葉が、真実であることを。  由維は、驚いていなかった。  ただ、硬い表情で二人を見守っていた。  自分を見つめる視線に気付いたのか、由維はちらりと横を見て、微かに苦笑した。  その表情で、他の者たちは理解した。彼女は、知っていたのだ。  ハルティやエイシスたちも、目の前の出来事が事実であると受け入れはじめた。 「あのね……。聖跡が、ファージがしていたのと……同じことなの」  由維が小声で言う。  非常に高度な魔法ではあるが、記憶を他人に写すことは可能だ。  ファージやソレアが、それをすることができる。奈子や由維がこの世界の言葉を憶える時に用いた魔法だ。  それと同じように、遺伝子だって写し取ることができる。魔法の力で、DNAの塩基配列をそっくりそのまま再現するのだ。  まったく同じシナプスの結合。まったく同じ遺伝子の配列。そして肉体を形作る細胞の一つ一つ、分子の一つ一つまで寸分違わず再現すれば、オリジナルとまったく同じ人間を、魔法の力で作り出すことができる。  もちろんそれは簡単なことではない。  ファージやソレアにできるのは、記憶のほんの一部を写し取ることだけだ。一人の人間を完全に再現することができたのは、聖跡だけだった。 「聖跡はそうやって、クレイン様やファージを不死の存在としていた。肉体が破壊されるたびに、聖跡に残された元の記憶から肉体を記憶を再生していた。もちろん、同じ事が人間の魔力でできるとは思わない。だけど……」  ソレアは再び、奈子の方を見た。 「エモン・レーナの末裔である名門ラーナ家の血を受け継ぎ、王国時代を通しても有数の力を持っていたレイナ・ディ・デューンであれば、それに近いことはできたかもしれない。今のあなたは、遺伝子も脳の中身も、すなわち肉体的にも精神的にも、全部ではないにしても……かなりの部分がレイナ・ディのものでしょう。彼女にはまだ、やるべき事があった。だけど、その時ではなかった。そこで彼女は待つことにした。何百年、何千年。条件に合う者が見つかるまで。レイナ・ディの墓所は、そのためのトラップ。実体を持たない、時空を越えた罠」 「……いつから、気付いてた?」  奈子がゆっくりと振り返る。微かに、苦笑していた。 「ファージは、かなり前から疑問を持っていたみたいね。レイナ・ディの墓所から戻った後のあなたは、少しずつ変化していった。最初は気にも留めなかったわ。異世界に来て様々な経験をすれば、人は変わっていくものでしょう。だけど、それだけでは説明できない部分があった。性格、行動、外見、そして魔力。あまりにも不自然な変化だったわ」 「なるほどね。由維にばれるわけだ」  喉の奥でくっくと笑う。 「だけど、アタシはアタシさ。今、こうしてここにいる。それが松宮奈子か、レイナ・ディ・デューンかというのは、大した問題じゃないよ。名前なんかどうでもいい。アタシは、アタシの意志でここにいるんだ」 「そう?」  奈子とソレアは、広い練兵場の中心で、距離を空けて向かい合った。  それを遠巻きに見つめる六人は、何も口出しできなかった。  止めた方がいい。止めなきゃいけない。誰もが、頭ではそう思っている。  ただならぬ空気が二人を包んでいた。このままにしておけば、取り返しのつかないことになりかねない。  しかし誰も、行動に移すことができなかった。ただ黙って、遠くから見ていることしかできなかった。  リューリィが、エイシスの服をぎゅっと掴んだ。エイシスにだってどうにもできない。ファージがいない今、誰が二人の衝突を止められるだろう。  いや。一人だけ、可能性のある者がいた。 「……おい、ユイ」  エイシスはなんとか、掠れた声を絞り出した。喉がからからだった。 「ナコを止めろよ。それともあれは、レイナ・ディなのか?」  奈子としての意識がないから、由維の言うことも通じないのか――と。そういう意味で訊いたのだが、由維は小さく首を振った。 「……奈子先輩が言ってた。多分、ソレアさんは腕ずくでも止めようとするって。だからこれは、必要な儀式なんだって」  それを聞いて、本当に何も言えなくなった。奈子は、ここに来る前に既に覚悟を決めていたのだ。 「それじゃあ、始めましょうか?」  先にそう言ったのは、ソレアの方だった。奈子は小さく肩をすくめた。 「それはいいけど、ソレアさんが闘えンの? アタシ、手加減なんかしないよ」  その疑問は、ソレア本人以外の全員に共通したものだった。  ソレア・サハの名は、強い力を持つ魔術師として広く知られている。しかしまた、彼女が直接闘うことがないというのも有名な話だ。だからファージや奈子が攻撃担当、ソレアが防御担当。そんな役割分担が出来上がっていた。  墓守は、戦う力を封じられているはずなのだ。それを補うために、ファージがいたのだから。 「闘えるわよ。わからない? 今の私には、聖跡の束縛はないのよ」  ソレアの手に、銀色の短剣が現れた。  そこにいる全員、初めて目にする光景だった。調理と裁縫以外の目的で刃物を手にしているソレアなんて。  その短剣で、自分の長いスカートの両側を切り裂いていく。動きやすくするため、女性騎士の礼服のような深いスリットを入れたのだ。 「リューリィ」  その作業を終えると、ソレアの手から短剣が消えた。そしてエイシスの陰に隠れるように立っているリューリィに呼びかける。 「剣を貸してくれない? 竜の剣を」  まるで操られるように、リューリィはその言葉に従った。カードの中にしまってあった剣を取り出して、ソレアに渡す。  フェイリアの形見の、竜の剣。破壊されたハシュハルドの街の跡で発見されたそれを、今はリューリィが持っていた。  剣を見た奈子が、ひゅうっと小さく口笛を吹く。 「いきなり、そう来るかい?」 「憶えていて? 千年前、レイナ・ヴィ・ラーナがあなたを殺した剣よ」  ソレアが剣を抜いた。  白い磁器のような刃が、月明かりを反射して真珠色に輝く。 「忘れるもんか。でも、アタシをじゃない。千年前のレイナ・ディを……だろ」  竜の剣。  竜の角から削り出したといわれる純白の刃を持つそれは、数ある王国時代の魔剣の中でも最高のものの一つだ。  レイナ・ディの実姉、ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトの愛剣だった。  ユウナの死後、一人娘のレイナ・ヴィ・ラーナが剣を受け継ぎ、そして母の仇を討った。 「少し、名残惜しいわね」  ソレアは背中に手を回すと、自分の髪を掴んだ。  足元まで届くほどの長い銀髪を。  ざく……。  背中の中ほどで、ばっさりと切り落とした。  切り落とされた髪の束が、砂の上に広がる。 「……ユウア・ヴィ……ファラーデ……」  ぽつりと、由維が言った。  ほんの小さなそのつぶやきは、しかし離れたところに立つ二人の耳にも届いていた。  ソレアが微笑む。 「ファージがしゃべったの? あのおしゃべりが」 「……ふぅん、そーゆーこと?」  奈子も納得顔でうなずいた。 「それもそうか。ソレア・サハ・オルディカなんて、出来すぎた名前だもんね。表の職業……いかにも占い師らしい、源氏名ってわけ」 「……せめて芸名と言うべきでは」  他にどう対応していいものやらわからず、由維はつっこみを入れる。しかしその台詞は当事者たちに黙殺された。 「墓守の末裔は、すなわちトリニアの竜騎士の末裔。ユウア・ヴィ・ファラーデ・ラーナ・ファーラーナ。それが私の本当の名。ヴィ・ラーナの血を引く、正真正銘、竜騎士の最後の一人よ」  ソレアは剣を両手で構えると、横身になって脚を前後に大きく開き、腰を低く落とした。  その独特の構えは、紛れもなくトリニア王国の騎士剣術だった。 「面白くなってきた」  奈子は、右手を開いて前に突き出した。  小さく深呼吸して、あの言葉を唱える。  闘いの時、これまで何度も口にした言葉を。 「剣よ、我が手の中に、在れ――」  その言葉に従い、手の中に一振りの剣が現れる。  限りなく薄く、無限の切れ味を持つ最強の刃。  人の手によって生み出されたものとしては、大陸最強の魔剣。  無銘の剣。  レイナの剣。  レイナ自身から譲り受けた、奈子の剣。  この世に生み出されてからこれまで、この剣はたった一人の主しか持たなかったのだ。 「ナコ……」 「奈子先輩……」  見ている者たちは、息を呑んだ。  それが意味するところを知っているから。  奈子は、滅多なことではこの剣を手にしない。無銘の剣の力は、あまりにも強力すぎるのだ。  手加減することすらできない。かすり傷一つでも、普通の人間には致命傷になる。  奈子はそう言って、本当に必要な時以外、この剣を使おうとはしなかった。  それなのに今、ソレアを相手にして剣を握っている。  本気、だった。  誰にも、止められなかった。 「あなたが勝ったら、あなたがやろうとしていることを認める。協力してあげるわ。だけど私が勝ったら……交換条件はいらないか。その時は、あなたは生きていないわね」  ソレアは、笑みを浮かべていた。普段のソレアの、優しげな微笑みではない。  奈子には、わかっていた。きっと、自分も同じ表情をしているはずだから。  レイナやユウナ、クレインや、ファージや、イルミールナ。  王国時代の竜騎士と、同じ表情をしている。  戦う者の顔だ。  息を吸い込んで、少し吐き出して。 「……行くよ」  奈子は地面を蹴った。  ザッ!  銀色の砂が舞い上がる。  奈子は一瞬で間合いを詰めると、剣を振りかぶった。  鋼よりも硬い刃がぶつかり合い、剣全体を覆っている二人の魔力が干渉し合って火花を散らす。  奈子の背後に、青白い光球が出現する。  横に跳んだ奈子を追って立て続けに閃光が走り、地面に深い穴を穿った。  続けて放たれた無数の光の矢が、左右から挟み込むように奈子を追いつめる。  逃げ場を失った奈子は、剣で矢を薙ぎ払った。同時に、反撃の魔法を放つ。  ソレアを取り囲むように出現した朱い光球が、一斉に爆発した  言葉を失って二人の闘いを見守っていた六人は、爆風に煽られて慌てて防御結界を張った。竜騎士の力を持つ者同士の闘いなのだ。生身で見ていては無傷でいられない。  奈子は紅蓮の炎でソレアの視界を遮り、その間にもう一度距離を詰めた。  接近戦なら奈子に分がある。  徒手格闘の技。  無銘の剣の力。  いずれも、ソレアを圧倒している。  離れて魔法で闘っていては、魔力の強さはともかく、それを操る技術ではソレアに一日の長がある。  しかし剣の間合いに入るよりも早く、青い光の奔流が炎の壁を突き破ってきた。それは奈子の防御結界を一瞬で霧散させ、そのまま身体を貫通する。  奈子の身体は、紅い飛沫を撒き散らしながら砂の上に転がった。  ソレアを包んでいた炎が消える。  そこには火傷ひとつ負うことなく、剣を構えているソレアがいた。  刃が、青白い燐光を放っている。 「忘れていたの? 私が持っているのは竜の剣なのよ」  竜の角から削り出したといわれる、竜の剣。その刃は竜の炎と同じ力を持つ。  竜騎士の結界であっても完全に防ぐことはできないという、灼熱の竜の炎だ。 「……結界で防げると……思ったんだけどなぁ」  奈子は深手を負いながらも、自嘲めいた笑みを浮かべた。  地面に手をついて、身体を起こそうとする。身体から、顔から、ぽたぽたと血が滴った。  なんとか上体を起こしたところで、傍らに落ちていた剣に気付いてそれを手に取る。 「ひどい自惚れね。生身で竜の剣の力を跳ね返すなんて、ヴェスティアにだってできなかったのに」  数メートルほど離れたところで奈子に剣を向けたまま、ソレアが言った。竜の剣の以前の所有者であるフェイリアは、この力で当時の黒剣の王ヴェスティアに深手を負わせたのだ。  切っ先は真っ直ぐに奈子に向けられている。刃が、青白く光っていた。その内に秘めた力の大きさを物語っているようだ。  次で、終わる。誰もがそう思った。この至近距離ではかわしようがない。 「まだやるの? 次は確実に死ぬわよ」 「……できる、かな? 人を殺したことなんて……ないくせに」  奈子は台詞こそ強気だったが、その声には力が感じられなかった。苦しそうに声を絞り出している。 「必要とあればそうするわ。トリニアの竜騎士は、あなたみたいに甘くない」 「そう?」  刃を包む光が、直視できないほどに強くなる。  ハルティやエイシスが止めようとするよりも早く、その力が解き放たれた。  短い悲鳴を上げたのは、リューリィだろうか。  竜の炎が、その場を青白く照らし出した。  青い光が天空に伸びていく。全員が一瞬、はっと空を見上げた。  その一瞬の間に、形勢は逆転していた。  ソレアが、地面に倒れている。竜の剣は彼女の手を離れ、砂の上に転がっている。  立ち上がった奈子が、ソレアに覆いかぶさるようにして喉元に剣を突きつけていた。 「アタシの……勝ち」  奈子は血の混じった唾を吐き捨てた。 「ソレアさんこそ、忘れてたんじゃない? どんな魔法でも破壊できない、竜の炎でも熔かすことのできない最強の刃。それが、無銘の剣」  その刃は竜騎士すら凌駕するほどの魔力を帯びており、どんな強力な攻撃魔法であっても歯牙にもかけず跳ね返す。奈子は剣で、竜の炎を弾いて逸らしたのだ。 「それに……ソレアさんやっぱり甘い」  奈子がふっと笑った。先刻までとは違う、緊張感のない柔らかな笑みだ。 「狙いが少し、ずれてたよ。かわさなくても、死にはしなかったかもね」 「……」  無言で見上げるソレアの顔に、奈子の血が滴り落ちた。 「……どうしても、やるの?」  喉の奥で小さく呻くような声だったが、奈子の耳にはちゃんと届いた。  こくりとうなずく。 「今の人間は、何も知らずに刃物を振り回している赤ん坊と同じ。だったら、その刃物を取り上げるのは当たり前じゃない? 根本的な解決にはならないかもしれない。それでも何百年か、何千年かの猶予は与えられる。その間に人間は、もう少し大人になれるかもしれない」  奈子の手から、無銘の剣が消えた。  そのまま、ソレアに手を差し伸べる。  ソレアの顔からも、敵意は消えていた。 「……本当に、月を破壊して、魔法を捨て去るの? それが意味するところがわかっているの? あなたが、月を破壊したとすると……」 「……わかってる。もう、転移なんて高度な魔法は使えなくなる。アタシは、自分の世界には戻れなくなる」  ソレアはごくりと唾を飲み込んだ。  奈子の覚悟を、思い知らされた。 「わかっているなら……」 「この世界を根底から揺るがすようなことをして、そのまま帰ろうなんて思っちゃいない。アタシはここに残るよ。この先、一生ここで暮らす。この世界の行く末を、この目で見届けるんだ」 「……どうして。どうしてそこまでするの? よその世界のことなのよ。なのにどうして、そこまでできるの?」 「先刻言ったじゃん。無関係じゃない、アタシは今、ここにいるんだよ」  数秒間、ソレアは無言で奈子の顔を見上げて。  それからゆっくりと、差し伸べられた手を握った。  奈子は自分もふらつきながら、ソレアが立ち上がるのを助けてやる。 「どっちにしろ、時間はあまり残されていないんだ。もう、カードの残りが少ないからね」  ファージがいないから。  手持ちのカードが尽きたら、もう転移はできない。  奈子と由維が使う転移魔法のカードは、ファージが作った物だ。たとえソレアでも、同じ物を作り出すことはできない。  あるいは残されたカードを調べ、試行錯誤を繰り返せばなんとかなるかもしれないが、それには年単位の時間が必要だろう。  だからもう、今まで通りに遊び半分で行き来はできない。  選択肢は二つだった。  一つは、もうここには来ないこと。この世界のことはこの世界の人間に任せ、奈子は自分の世界で生きていくこと。  それができないのなら――  ここで、この世界で生きていくしかない。  そして奈子がこの世界にいる以上、アィアリスとの闘いは避けることができないことだった。  黒剣の王、アィアリス・ヌィ・クロミネル。  その力で、大陸の支配を目論む者。  また、戦争が起きる。いや、もう起きている。  ティルディア王国が、そしてアルトゥル王国が滅びた。  現在はハレイトン王国で激しい戦闘が繰り広げられている。  奈子はもう、魔法によってさらに多くの人が死ぬのを見過ごせなかった。  そして、黒剣の力を奪う術は一つしかない。 「……アタシには、他に選択肢がないんだ。損な性格だけどさ」  奈子は、血まみれの顔のまま苦笑した。 七章 Fight!  ダルジィは、城の中庭を歩いていた。  最初は王の執務室へ向かったのだが、そこにハルティの姿はなく、決裁の必要な書類を手にした若い文官が、困ったように立ちつくしているだけだった。  もちろんダルジィには、いつ戻るかわからないハルティをそこで一緒に待つ気はなかった。執務中に行方をくらましたのだとしたら、行き先は限られている。  見当をつけて中庭へ来ると、はたしてハルティの姿があった。剣の練習場として使われている一角に、一人で立っている。  敬愛するハルティの姿を目にしても、今日はあまり心が弾まなかった。これから伝えなければならない知らせが、あまりいいものではないためだろう。  他に誰もいない練武場で、ハルティは一人で剣を振っている。  その姿を見て、ダルジィはふと思い出した。  初めて、ハルティに会った日のことを。  ここの風景は、当時とあまり変わっていなかった。  あれは、何年前のことだったろう。  彼女はまだ、十歳にもなっていなかったはずだ。  この国の将軍であった父親に連れられて、初めてこの城にやってきた日だった。もちろん当時はそこがどこかなんて知らず、ただ見知らぬ大きな屋敷と思っていたものだ。  細部は憶えていないが、どうしてか父親とはぐれて、城内で迷ってしまった。多分、父親が誰かと会談している間、別室で待っているうちに退屈になって、勝手に城内を歩き回ったのだろう。   歩いているうちにやがて、この中庭に出た。  その片隅に、一人で剣の稽古をしている少年の姿を見つけた。歳はダルジィと同じくらいか、あるいは一つ二つ上だろうか。  やや癖のある金髪で、男の子にしてはずいぶんと綺麗な顔立ちをしている。それだけに、手にした大人用の長剣が少々不釣合いではあった。しかもそれは、実戦用の剣と同じ大きさと重さの、肉厚の刃の練習刀なのだ。  しかしその少年は、汗を撒き散らしながら必死に剣を振っている。  ダルジィは、ふと悪戯心を起こした。誰かは知らないがちょっとからかってやろう、と。  剣には自信があった。  物心つく前から父親に手ほどきを受けて、これまで同世代の男の子たちは負けたことがなかった。既に騎士見習いとなっている五歳年長の従兄とだって、互角に近い勝負ができる。  顔に似合わないことをしているこの少年に、自分の腕を見せつけてやろう、と。  そう思った。  意地の悪い笑みを浮かべて、少年の前に進み出る。 「君は……?」  近づいてくるダルジィに気付くと、少年は剣を振る手を止めて訊いた。  汗ばんだ額に、前髪が張り付いている。 「ずいぶん熱心ね」  相手の質問には答えず、ダルジィは一方的に言った。 「でも、その成果はあるのかしら。わたしと手合わせしてみない?」  どうして、こんな喧嘩を売るような言い方をしたのだろう。  少し、嫉妬していたのかもしれない。自分の父はこの国で一番の騎士と言われているのに、それよりも大きな屋敷に住んでいるなんて。  相手の返答を待たず、ダルジィは置いてあった試合用の剣を手に取って構えた。  少年が困惑の表情を浮かべる。 「試合……君と? でも、怪我しちゃうかも」 「あら、男なのに怪我がこわいの? いいわ、手かげんしてあげる」  ダルジィは笑った。やっぱり、見かけ通りの意気地なしだ――そう思った。  これにはさすがに、少年も気分を害したようだ。感情を表に出さないように努力しているようだが、口がへの字に曲がっている。 「違うよ。君が怪我をするって言ってるんだ。女の子と試合したことなんてないからね。うまく手加減できない」 「なんであんたが手かげんするのよっ? わたしが負けるわけないじゃない!」 「じゃあ、賭けようか。負けたら、僕の言うことをなんでも聞くんだよ」 「いーわよ。負けるのはぜったいあんたなんだから。あんたこそ、負けたらわたしの家来になるのよ!」 「……いいよ」  少年が愉快そうに笑った。当時のダルジィはこの笑みの意味を深くは考えず、単に馬鹿にされたのだと受け取った。 「いくわよ!」  一方的に宣言して、ダルジィは打ちかかった。  火花が散る。  真上からの最初の打ち込みを、相手の剣はしっかりと受け止た。  少年は、見た目の割には力があるようだった。これまで試合をしたことのある同世代の男の子たちなら、ダルジィの全力の打ち込みを受け止めたとしても、その圧力に屈してバランスを崩していたはずだ。  ダルジィはすかさず剣を引き、今度は水平に薙ぎ払った。しかし相手が一瞬早く後ろに下がったため、ダルジィの剣は空を切った。勢い余って体勢が崩れる。  その隙を見逃さず、少年が反撃してきた。バランスを崩していたダルジィだったが、それでもなんとか一撃を受け止め、刃の角度を変えて相手の力を逸らした。さすがに、年上の少年の攻撃をまともには止められない。  相手の上体が流れた隙に、ダルジィは体勢を立て直して次の攻撃に移った。少年も怯むことなく反撃してくる。  二合、三合。  剣が激しくぶつかり合う。  甲高い金属音と、砂を蹴る音だけが響く。  一見互角の打ち合いだったが、ダルジィは少しずつ押されていることに気付いていた。  息が上がりはじめている。  元々体力的には年長の少年に敵うはずがないし、いま手にしている剣は、普段の稽古で使っている自分専用の試合刀よりもずっと重い。  このままではいけない――そう思った時。  剣の重さに腕が負けて、わずかに反応が遅れた。  突然軌道を変えて下から襲いかかってきた刃に剣を弾き飛ばされ、ダルジィはよろけて尻餅をついた。  ダルジィの負けだった。  信じられない思いで少年を見上げた。悔しさよりも、驚きが先に立った。  こんな、女の子みたいな綺麗な顔をした相手に負けるなんて。  それも、まぐれでもなんでもない。実力で向こうが一枚上手だった。  驚きが治まるにつれて、徐々に悔しさが込み上げてきた。  滲んでくる涙をぐっと堪える。涙なんか見せたくない。 「すごいね、君」  そう言ったのは、勝った少年の方だった。肩で息をしながら、笑みを浮かべている。 「……な、なによあんた! いったい何者よっ?」  堪えても溢れる涙を誤魔化すように、ダルジィは大声で怒鳴った。  こんな相手は初めてだった。少年の剣には、もっと年長者を相手にしているような巧さがあった。 「こんなに強い女の子、初めてだ。嬉しいな。君みたいな強い騎士がいれば、安心して兵を任せられる」  まだ尻餅をついたままのダルジィに、少年が手を差し伸べる。 「……え?」 「君、ダルジィ・フォアだろう? ハイダー将軍の娘さんだ。噂は聞いたことがあるよ」 「あ、あの……」 「僕は、ハルティ・ウェル。初めまして、ダルジィ」 「ハ……っ!」  仰天した。  差し出された手を取ることも忘れ、呆然と相手を見つめていた。  ハルティ・ウェル。  顔を見るのは初めてだが、もちろんその名は知っている。知らないはずがない。  この国の者なら、子供だって知っている名だ。  ハルティ――ハルトインカル・ウェル・アイサール。  自分が喧嘩を売った相手は、この国の王子だったのだ。 (うぅ……)  久しぶりに昔のことを思い出して、ダルジィは赤面していた。  思い出すたびに、顔から火が出そうになる。自分で穴を掘って埋まってしまいたい。  いくら知らなかったとはいえ、将来自分が仕えるべき王子に、あんな無礼なことをするなんて。  しかしハルティは、泣きながら謝るダルジィに優しく言ったのだ。「僕には、君みたいな騎士が必要なんだ」と。  その言葉が、これまで十年以上もダルジィを支えてきた。  だから、誰よりも強い騎士になろうと誓った。  家の名誉のためではなく、この国のためでもなく、ただ、自分を必要としてくれるあの人のために。 * * *  ダルジィの表情を見た瞬間、ハルティには彼女が持ってきた報告の内容が想像できた。  決して、愉快な内容ではあるまい。だとしたら、考えられることは一つしかない。 「トカイ・ラーナ教会の軍勢が、中原を発ったようです」  ハルティはうなずいた。予想していた通りだ。  アィアリスが、レーナ遺跡の存在を黙って見過ごすはずがない。奈子が戻ってきたことは、もう察知しているだろう。 「数は?」 「五万を越えるかと」 「……ずいぶん多いな」  相当の大軍を擁してくるであろうことは予想していたが、それにしても多い。  教会の軍勢はアルトゥル王国との戦を終えたばかりで、現在はハレイトン王国との戦場に大軍を送っている。だというのに、さらに五万以上の兵を揃えられるとは。  その軍勢をハレイトンに向ければ戦況はかなり有利になるだろうに、この大事な時機にマイカラスのような小国相手に五万の大軍を差し向ける。それはつまり、本気ということだ。 「ギアサラス……レーナ遺跡への到着は?」 「ぎりぎりですが、間に合ってしまうでしょう」 「……そうか」  奈子が言うには、レーナ遺跡の力はいつでも発動できるものではないらしい。月がちょうど遺跡の真上を通過する時。その時でなければ、遺跡の力で月を破壊することはできない。機会はせいぜい年に数回だ。  次の時限までには、まだ数日ある。奈子は、その日に遺跡を発動させる計画でいる。その前に教会の軍勢に遺跡を占拠されてしまっては、計画は御破算だ。  現在、遺跡は強力な魔法で封印された状態だった。中へ入れる者は奈子しかいない。  しかし、遺跡の力を発動させるためには、封印を解かなければならない。  そして奈子が中に入ってから遺跡の力を発動させるまでには、かなりの時間がかかるという。  遺跡がその力を発揮する前にアィアリスに侵入されれば、遺跡は破壊される。前文明の高度な技術によって築かれた建造物とはいえ、内部からの黒剣の力には対抗できまい。  いや、なにもアィアリスでなくても構わない。  遺跡の中に入ったら、奈子は力を制御することに専念せねばならず、無防備になってしまう。普通の兵でも奈子を傷つけることができるだろう。  だからその間教会の軍勢から、遺跡と、そして奈子を護らなければならない。アィアリスが妨害する意志を持つ以上、この計画は奈子一人では実現できないことなのだ。  この時点でハルティは、まだ態度を明確にしてはいなかった。  奈子との賭けに負けたソレアは、奈子に協力するようだ。竜騎士の力を持つ彼女であれば、アィアリスを倒すことはできなくとも、時間稼ぎはできるだろう、と。  エイシスは初めから迷っていなかった。事の是非は問わず、奈子に対する借りを返すという姿勢だ。  だが、彼らだけでどうにかなるものでもないだろう。相手は、黒剣の王アィアリスが指揮する五万の大軍なのだ。  奈子は遺跡の制御にかかりっきりになる。由維やリューリィは戦力としてはさほど役には立たない。  ソレアがアィアリスを抑えていたとしても、エイシス一人で何ができるだろう。  アィアリスが自分一人で来るのではなく、教会の軍勢を差し向けた以上、この計画にはマイカラス軍の協力が不可欠なのだ。  もちろん、奈子たちはハルティが協力するしないに関わらず計画を進めるだろう。しかしそれでは成功はおぼつかない。  しかし―― 「全軍を動員したとしても、せいぜい一万あるかないか……か」  領土的野心を持たないマイカラスの軍勢は少数精鋭、守り重視だ。国土の面積の割に人口が少ないせいもあって、兵数は決して多くない。 「難しい問題だな……」  以前のサラート王国の侵攻の際、一万余騎の敵に対して三千騎で立ち向かったように、これが通常の侵略であれば少ない兵力でも対処のしようはある。  広い砂漠それ自体を武器にして、戦っては退くという戦術で敵を消耗させることもできるし、こちらに有利な地形で待ち伏せをすることもできる。要所には小規模とはいえ堅固な砦もある。  しかし今回は事情が違った。レーナ遺跡を護らなければならないという絶対的な条件がある。  遺跡の前面に布陣して敵を迎え撃たねばならず、戦術的な撤退は許されない。遺跡の近くに新たに砦を築いている時間的余裕もない。  五倍以上の敵と、野戦で正面からぶつからねばならないのだ。  これは、絶望的な条件といえた。  ハルティ個人の心情としては、もちろん奈子に協力したい。  彼女のことを愛しているし、命を救われた恩もある。王妃に迎えることができないのであれば、なおさらここで恩を返しておきたい。  しかし今の彼はマイカラスの国王であり、全国民に対して責任のある立場だ。  教会の大軍と真っ向から戦って敗れれば、一万を越える兵の生命を失うだけでは済まない。マイカラス王国そのものが滅亡するだろう。  その場合、被害を受ける国民はいったいどれほどの数に上るか。  教会に降伏し、遺跡のある土地を明け渡せば、実質的には教会に支配された属国としてでもマイカラス王国は存続でき、民の生活も守られる。  国のことを思えば、そうするべきではないだろうか。  それに第一、月を破壊して魔法を捨て去ることは、本当に間違いではないのだろうか。  生まれた時から魔法というものが当たり前に存在していたハルティにとっては、魔法が存在しない世界というのは想像できない。奈子は「すぐにすべての魔法が使えなくなるわけではない」と言ってはいたが。  難しい問題だった。  マイカラスを取るか、奈子への恩を取るか。  奈子と対立する立場を取れるはずがないし、かといって王としては国のことを考えないわけにもいかない。 「こんなことなら、大臣たちの言葉に従って、さっさと結婚して世継ぎをもうけておくべきだったかな」  ハルティは苦笑した。突然の言葉に、ダルジィが怪訝そうな表情を浮かべる。 「そうすれば、私は国を捨ててこの戦に加われた」  王位をその子に譲って。  ただの、一人の男として。 「ナコ・ウェルを助けたいのであれば、そうなさればよろしいでしょう。マイカラスの兵はすべて、陛下に従います」  どこか不機嫌そうに言うダルジィの顔を見つめ、ハルティは数回瞬きする。そして、小さく吹き出した。 「君は、いつもその調子だね。ダルジィ」 「は?」 「長い付き合いなんだから、幼なじみらしい忌憚のない本音を聞かせてくれてもいいのに」 「幼なじみだなんて、そんな畏れ多い……。私は、マイカラスの騎士です。陛下のために、陛下をお護りするために、こうしてここにいるんです」 「まったく、騎士の鑑だな、君は。だけど最近、疑問に感じているんだ」 「疑問……と仰いますと?」  ハルティはすぐには応えず、短い間をとった。  言うべきだろうか。それとも、知らないふりをしておくべきだろうか。暫し考える。  しかしやはり、言うべきだろう。このことをはっきりさせないまま、ハルティの個人的な戦いにダルジィを巻き込むわけにはいかない。 「君のその忠誠心は、いったい誰に向けられたものなんだ?」 「もちろん、陛下にです。他に何があると」  何故そんなことを訊くのか、と不思議そうな顔をしながらも、間髪入れずにダルジィが応える。まったく淀みがない。  しかし、次の質問に対する答えはどうだろうか。 「それは、マイカラスの国王に、ということか? それとも、ハルティ・ウェル・アイサールという人間に対するものか?」 「あ……っ!」  ダルジィが言葉に詰まった。それは彼女にとってまったく予期していない質問であり、答えは用意していなかったはずだ。  少々、意地悪な戦法ではある。しかしこうしなければ、この堅物の女騎士は他人に本心を見せないのだ。 「あ……、あの……それは……」  顔を紅潮させてどもるダルジィを、ハルティは意地の悪い笑みを浮かべて見ていた。悪戯が成功して喜んでいる子供の顔だ。 「ああ、無理に答えなくていい。答えはわかっている。といっても、知ったのはつい最近だけどね」  笑いを堪えて言う。 「へ……陛下っ。私は、そのっ……」 「君は、ついてきてくれるかい?」  ハルティは笑いを納め、真面目な表情でダルジィの弁解を遮った。  真っ直ぐに相手の目を見る。 「この戦に敗れれば、マイカラスが滅ぶことにもなりかねない。私は、この国の歴史上もっとも愚かな王と呼ばれることになるだろうな。一人の女性に恩を返すために、国を失うなんて。それでも君は、ついてきてくれるか?」  一瞬、驚いたような表情を見せたダルジィだったが、すぐに理性を取り戻した。唇を真一文字に結んで、力強くうなずく。 「たとえ何があろうと、私は命ある限り、陛下にお仕えします」 「よろしい」  ハルティは満足げに微笑んだ。  あまりにも優等生的な答えではあるが、そう答えることはわかっていた。彼女には他に答えようがあるはずがない。 「……正直な話、勝算はあると思うか?」 「あります」  ダルジィは再び力強くうなずいた。 「敵は、こちらの五倍以上の大軍。それを指揮するのは、黒の剣を持った竜騎士。それでもか?」  戦の常識として考えれば、まるっきり無謀な戦いに見えなくもない。しかしハルティも、解答があることは知っていた。ダルジィが気付かないはずがない。 「今回の戦、敵を撃破する必要はないのですから。行軍の速度を考えますと、敵がレーナ遺跡に到着するのは早くても遺跡の発動の半日前。我々は半日間、遺跡を守り抜けばいいのです。ナコ・ウェルが目的を達すれば、それでこちらの勝ちです」 「確かに、そうだな」  考えていた通りの答えに、ハルティはうなずいた。  この戦いの目的は、敵の大軍を撃ち破ることではない。奈子が遺跡に入っている数時間だけ、敵を近づけなければいいのだ。  奈子が、月の破壊に成功すれば――  黒の剣は……黒剣のような強大な魔力は、この世界に存在できなくなる。  アルンシルの消滅で一度は大混乱に陥った教会をまとめ上げているのは、黒剣の、黒剣の王の力だ。それが突然失われれば、それ以上戦闘を続けることはできないだろうし、そもそも続ける理由がなくなる。 「この戦い、マイカラスにとっても得るものは小さくありません。教会の大軍を撃退したとなれば、大陸中の誰もがこの国に一目置くようになります。陛下は、大陸の歴史の中でももっとも勇敢で優れた王と呼ばれるでしょう。それに我々は、教会の軍門に下って生きながらえるなど本望ではありません。マイカラスの民はなにより、誇りを重んじます」 「そして君は、その王の右腕として戦った名将、となるわけか」 「それこそが、私の望みです」  ダルジィの言葉に、ハルティも心を決めた。  信念を曲げて生きるか。  信じるもののために死ぬか。  ならば後者を選ぶ。 「よし、決まりだ。将軍たちを集めろ。すぐに軍議を始める。我々は、全兵力を以て教会の軍勢を迎え撃つ!」  ハルティは力強く宣言した後で、笑いながら付け加えた。 「いいか、君も共犯だぞ。この戦は、私一人の我が儘じゃない。私と君、二人の我が儘だ」 * * *  ハルティとダルジィが城の中庭で話をしていた、ちょうど同じ頃。  奈子と由維は、自分たちの世界に戻っていた。  家の近くにある奏珠別公園の中を、二人でぶらぶらと散歩している。  公園の中には大きな池があって、真夏でも清水を湛えていて涼しげだった。池はコンクリートではなく自然石で周囲を固めてあり、ぐるりと取り囲むように樹が植えられているために、一見自然の池のように見える。  二人は、池の畔に座った。  ぶぶぶ……と小さな羽音を響かせて、オニヤンマが目の前を通り過ぎる。水の中では、今年生まれた小さなカエルがたくさん泳いでいた。  しばらく、そんな光景を無言で見つめていて。 「……ごめんね」  やがて、奈子がぽつりと言った。 「ごめんね、勝手に決めて……」  由維は無言で、小さく首を振る。  また数分間、沈黙が続く。 「それで……さ……」  やがてまた、奈子の方から口を開いた。  躊躇いがちに。  何度か、続きを言いかけては止めるという動作を繰り返した。  由維は、奈子の方を見ていない。  奈子も、由維を見ていない。  池の畔で二人とも前を向いて、真夏の陽光を反射している白い水面を見つめていた。 「……月がレーナ遺跡の真上を通る次の機会まで、まだ何日かある。アリスが黙って見過ごすはずがない。レーナ遺跡で……最後の戦いがある。多分、避けようはないんだ」 「…………」 「それで……さ。その……、由維は……」  由維は首を動かして、奈子の方を向いた。その動作に気付いて、奈子も由維を見る。  大きな由維の瞳の中に、自分の姿が映っていた。  一度、深呼吸する。  それからようやく意を決した。 「……お願い。アタシと一緒に、あの世界へ来て。向こうで、一緒に暮らして」  由維は一瞬、驚いたように目を見開いた。  奈子は困ったように、ほんの少し視線を逸らす。  一度微かに俯いた由維は、すぐに元気よく顔を上げた。口元は微笑んでいるが、目に涙が浮かんでいる。 「……私一人でこっちに残れなんて言ったら、池に蹴落としてやるつもりだった」 「そう言うつもり、だった。けど……」  いざ口を開いた時、実際に口から出たのはまったく逆の言葉だった。  どんなに強がっていても、それが本心だった。  月を破壊したら、もう転移魔法は使えなくなる。奈子はこの世界へ戻れなくなる。  この先の人生を、向こうの世界で送ることになる。  それは覚悟の上だ。  だけど――  由維が、必要だった。  たとえ何があっても、いまさら由維と離れることはできない。自分がこちらへ戻れない以上、由維を連れて行きたい。  我が儘だろうとなんだろうと、一緒にいたい。  自惚れではなく、由維も同じ想いだと信じている。  二人の魂は、一つだけでは生きていけないのだ。 「……ごめん」 「どうして謝るの?」  由維がこちらに体重を預けて、抱きついてくる。 「私にとって一番幸せなのは……奈子先輩と一緒にいることなんだよ」 「……ごめん。そして、ありがと」  奈子も、由維の小さな身体を抱きしめた。  由維にすがりつくようにして。  ただ黙って、奈子は声を上げずに泣いていた。 * * *  翌日、奈子と由維は東京へやってきた。 「どうしたの? 呼びもしないのにあんたの方から来るなんて、珍しいじゃない」  小さな赤ん坊を抱き上げて、松宮美奈――奈子の母親が不思議そうに訊く。 「ん、まあ、夏休みだから、一度くらいはね」  奈子は、曖昧に笑って言った。  二人が訪れたのは、奈子の両親が暮らす都内のマンションだ。向こうへ旅立つ前に、最後にもう一度、両親に会っておきたかった。  仕事が忙しくて普段は滅多に顔を会わせることもないが、それでも親には違いない。会わずに旅立つわけにはいかない。  しかし、久しぶりに母親の顔を見て、奈子は来たことを少し後悔した。  決心が鈍りそうだった。  もう、二度と会うことができない。自分を生んで、十六年半もの間育ててくれた両親との、今生の別れ。  それを考えると、涙が出そうだった。  口に出しては何も言わないが、美奈も久しぶりに奈子に会えて喜んでいるのがわかる。だからなおさら、悲しくなる。  だけどまさか、ここで泣くわけにはいかない。最後まで普段通りに振る舞わなければ、怪しまれてしまう。 「由奈ちゃん、ちょっと見ない間に大きくなったねー」  由維がぎこちない手つきで、美奈が抱いていた赤ん坊を受け取った。  今年の春に生まれたばかりの、奈子の妹だ。  松宮由奈。  由維と奈子から一字ずつ取って付けた名前。  レイナ・ディの双子の姉、ユウナ・ヴィ・ラーナの名でもある。  妹のことをファージに話した時、笑っていた理由も今ならわかる。やっぱり、ファージは知っていたのだ。奈子がレイナであることを。 「さて。じゃあ、お茶でも淹れようか」  赤ん坊を由維に渡した美奈が立ち上がり、大きく伸びをした。 「……由維が淹れた方が美味しいと思うけど」  奈子が小声で、本当のことをつぶやく。血は争えないというかなんというか、奈子の母親だけあって、美奈も料理は不得手なのだ。 「いいじゃない。それも『お袋の味』よ」  奈子の後頭部を力いっぱい殴りつけながら、美奈は笑って言った。 「それよりあんた、また由維ちゃんを襲ったりしてないでしょうね?」 「襲ってなんかないよ。ちゃんと合意の上で」  涙目で後頭部のコブをさすりながら、奈子は正直に応える。由維との関係を知っている美奈に対して、いまさら隠しても仕方がない。  ……が。 「この、バカ娘!」  予想通り、二発目の拳が飛んできた。目の中に火花が飛ぶ。  松宮家の母娘のスキンシップは、いつも過激だ。 「ま、いいけどね」 「……いいなら、殴ンなよ」 「大切にしなさいよ。泣かせたりしたら、承知しないからね」 「別な意味では、よく泣かせてる。ベッドの中で……」  直後に襲ってきた三発目の拳が、奈子を完全にKOした。 「うう……まだイタイ」  翌日、札幌へ帰る飛行機の中で、奈子はまだ治りきっていないコブを押さえて呻いた。 「当たり前ですよ。馬鹿なことばかり言って」 「そんなこと言ったって……」 「気持ちは分かりますけどね。ふざけていないと、泣いちゃいそうだから……でしょ?」 「……やっぱり、ばれてた?」  奈子は苦笑する。由維はなんでもお見通しだ。 「ところで奈子先輩」 「ん?」 「もしも由奈ちゃんがいなかったら、向こうへ行ったきりなんて考えなかったんじゃない?」 「……さあ、どうだろ。でも……今よりもずっと悩んだのは、確かだろうね」  この春まで、奈子は一人っ子だった。  その奈子が突然いなくなったら、両親はどれほど悲しむことだろう。  ファージと知り合って間もない頃、無断で三週間も向こうに行っていた時のことを思い出した。奈子が帰ってきた時の両親の顔が、今でも目に浮かぶ。  もちろん、由奈がいても両親が悲しむことに変わりはないだろうが、それでもいくらか救いがある。 「……由奈はアタシみたいに、親不孝な娘に育たなきゃいいけど」 「大丈夫ですよ。あんなに可愛いんだし」 「なにそれ。アタシは可愛くないってこと?」 「やぁ……いひゃい……」  奈子は由維の両頬を指で摘んで、むにっと左右に引っ張った。 * * *  最後の数日間は、ずっとこちらで過ごしていた。  特にあてもなく、二人で街をぶらついたり。  亜依たちと遊んだり。  自分たちの生まれ育った世界での最後の日々を、普段通りに過ごすことにしたのだ。  そして、最後の夜。  今夜、奈子の家に由維は来ていない。自分の家で過ごしている。由維が両親や姉と一緒にいられるのも、これが最後なのだ。  だから奈子は、亜依を家に呼んだ。 「はぁ……」  奈子は満ち足りた溜め息をついた。 「なんか、久々に堪能したなぁ」  もちろん、腕の中には小柄な亜依の身体がある。  二人とも全裸で。  奈子のベッドの中で。  汗ばんだ身体が、ぴったりと密着している。 「……奈子」  奈子の肩に頭を預けるようにして荒い呼吸をしていた亜依が、頭を上げて奈子の顔を覗き込んだ。 「ん?」 「なにか、隠してる?」 「隠すって、なにを?」  亜依の不意打ちにもまったく狼狽えることなく、ごく自然に訊き返すことができた。もうすっかり、心の準備はできているから。 「……わかんない。わかんないけど、変。奈子も由維ちゃんも、二人ともなにか変だよ」 「ヘンって?」 「ついこの間まで、あんなに落ち込んでたのに。でも今の元気もカラ元気というか、……とにかく、なにか変」  なかなか鋭いな、と心の中で感心する。元々、亜依は観察力が優れている。何も気付かれずにいられるはずがない。 「…………」 「奈子」  ほんの少し、怒ったような口調で亜依が訊く。  それも当然だ。親友に隠し事されて、気分のいいはずがない。  だから奈子は、無理に誤魔化そうとはしなかった。 「……そのうち、話す」  これは嘘。  亜依に会えるのも、今夜が最後。  だけど亜依は、いずれ真相を知ることになるだろう。  由維と二人で話し合って、亜依にだけ伝えることにした。これまでのことがすべて記してある由維の日記を、最後に向こうへ行く直前、亜依宛に郵送しようと決めた。  奈子と由維の失踪の秘密を知った亜依がどうするかは、彼女次第だ。その頃にはもう、二人は決して手の届かないところにいる。 「今は……まだ言えない。だから今は……」  奈子はくすっと笑って、右腕に力を込めた。軽い亜依の身体は、簡単に抱き寄せることができた。 「今は、もっと楽しいコトしよう」  亜依は何も文句を言わず、奈子に身を任せてきた。由維と少し似ている華奢な身体に、唇を押しつける。  由維にはちょっと悪い気もするけれど、これが最後なのだから許してもらおう。  そういえば、亜依と初めてこんな関係になったのはいつのことだったろう。正確なところは思い出せないが、レイナの剣を受け継いだ後なのは間違いない。  今にして思えば、当時からレイナの性格の影響を受けていたのかもしれない。  レイナ・ディ・デューンはその力で知られた竜騎士ではあるが、それとは別に、美少女、美少年好きでも有名だったという。常に二桁の愛妾をはべらしていたという伝説もあるほどだ。  そのためだろうか。  いつの頃からか、由維が奈子の浮気に寛容になったのも。  由維は、奈子が自分で意識するよりも先に気付いていた。奈子が、レイナの影響を受けていることを。  だから「仕方ない」と思っていたのかもしれない。  だから――  最後にもう一度、亜依との浮気を許してもらおう。 「……ねぇ、奈子」 「ん?」  ことが終わって、抱き合ったまま余韻に浸っていた時、亜依が訊いてきた。 「結局、由維ちゃんとは、……したの?」 「…………ん。この間……」 「そっか……」  その台詞からは、亜依がどう感じているのかは読み取れなかった。そのことを喜んでいるのか、それとも嫉妬しているのか。 「そのせい? 最近、二人とも変なのは。……で、どうだった?」 「……可愛かった。すごく」 「そっか……由維ちゃんもついにロストバージンか」 「あ、それはまだ」 「え? だって」 「すごく痛がったから」  実はまだ、最後の一線は越えていない。  由維の身体はやっぱりまだ、成熟度が少々足りないらしい。  奈子は別に、無理に奪おうとは思わなかった。由維が嫌がることはしたくないし、そもそも男女の交わりとは違って、挿入の有無は大きな問題ではない。 「奈子ってば、乱暴にしたんじゃないの? 私とする時も激しいもんなぁ。初心者相手にあの調子でしたんじゃあ……」 「そんなことない。ちゃんと優しくしたよ」 「やっぱり、指よりも舌?」 「そーゆー露骨な聞き方しないの!」  奈子の顔が朱くなる。 「恥ずかしくて答えられないっしょ」 「だって興味あるもん。じゃあ、私相手に実践してみせて」  甘えるように、挑発するように、亜依が唇を重ねてくる。 「だーめ。由維には由維の、亜依には亜依のやり方があるもの。あんたにはもっと激しく……ね」 「や、……あぁん!」  乱暴に胸を掴まれて、亜依は身体をよじらせた。 * * *  翌日の夜。  奈子と由維は、奏珠別の街を歩いていた。  いよいよ、最後の時。向こうへ旅立つ時が来た。  二人は手をつないで、奏珠別公園の展望台へと向かう。  夏の終わりの夜。もう気温はずいぶん下がっている。  大きな蛾が水銀灯の周りを飛び交い、道端の草むらではキリギリスが鳴いていた。  物心ついた頃から身近にあった、そんな当たり前の自然が今は妙に懐かしい。  夜の展望台には、二人の他に人影はなかった。  冷たい水銀灯の明かりだけが、足元を白く照らしている。  今夜は空に月がなくて、星が綺麗だった。  夏の大三角に、天の川。夏の星々が天球に散りばめられている。  そして眼下には、奏珠別の街の夜景が広がっている。  二人が生まれた街。  これまでずっと暮らしてきた街。 「小さい頃、よくここで遊んだっけ」 「……懐かしいな」  公園はもちろんのこと、背後の山々も、この辺りの子供たちの遊び場だった。  鬼ごっご。かくれんぼ。山の中を探険。虫採り。 「そして……。ここから、始まったんだ」 「二年前に」 「ここで稽古をしていてさ。そこの樹に、由維が刺繍したリボンが結んであった」  一部分だけ伸ばした奈子の髪は、紅いリボンでまとめてある。向こうでの闘いの中で何度もぼろぼろになって、その度に由維が新しいものをくれた。 「二年……いろんなことがあった」 「そしてこれからも」 「アタシたちは、これからもずっと一緒」  向き合って、お互いの顔を真っ直ぐに見た。 「……行こうか」 「ん」  どちらからともなく身体を寄せ合い、しっかりと抱き合った。  顔が接近する。 「……Fight!」  由維が耳元でささやく。  そして二人は唇を重ねた。 八章 紅蓮の青竜  その朝、マイカラスの王宮内は夜明け前から慌ただしかった。  いよいよ、出陣の日だ。  短期間でかつてない大軍が動員されたために、城内はごった返している。  奈子と由維も、こちらに着いてすぐに支度を始めた。  もっとも、由維にはこれといって準備があるわけではない。ちょっとした荷物をまとめるくらいだが、これはカードにしまってしまえばすぐに済む。  その間に奈子は、着替えをしていた。  奈子は一応、マイカラス王国の正騎士でもある。だから公式な行事の際には騎士の礼服をまとうのが常だが、今日の服装はいつもとは少し異なっていた。  黒を基調とした深いスリットの入ったワンピースを、腰のベルトで止める。その基本的な形は変わらない。が、微妙にデザインが違う。  それは、マイカラスの騎士の礼服ではなかった。  こちらに着くと同時に、ソレアから渡されたもの。今日のために特別にあつらえたのだという。  漆黒の、ビロードのような滑らかな生地。こういってはなんだが、マイカラスのものよりも上等な仕立てだ。  胸の部分にある鮮やかな刺繍が特徴的だった。赤い地に、深い青の竜を描いた紋章。『紅蓮の青竜』と呼ばれる、トリニア王国の竜騎士の紋章だった。  左手首にはめた、騎士の証である銀の腕輪もいつものとは違う。これにもまた、トリニア王国の紋章が刻まれている。  奈子は今、千年前の大陸で最強と謳われた、トリニアの青竜の騎士の姿を完璧に再現していた。  考えてみるとおかしな話ではある。レイナ・ディ・デューンが正式にトリニアの竜騎士であったことはない。  若い頃はトリニアと敵対するストレイン帝国の竜騎士だった。後にストレインを出奔し、大陸北部のアンシャス地方を征服して自分の国を建てた。  しかし――  おそらく、これで正しいのだ。  エモン・レーナ。  クレイン・ファ・トーム。  そしてユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト。  奈子は今、彼女たちの想いを受け継いでここにいる。  この衣装を渡してくれた時、ソレアが言っていた。「これは、あなたが受け継ぐべきものよ」と。今なら奈子もその言葉を受け入れることができる。  そして、奈子のこの姿にはもう一つ現実的な意味があった。  士気高揚のためだ。  この闘いにおいて、奈子はアール・ファーラーナだった。  戦いと勝利の女神の化身、アール・ファーラーナ。それが事実かどうかは別問題として、象徴が必要だった。  なにしろアィアリス・ヌィ・クロミネルは、トカイ・ラーナ教会にとってのアール・ファーラーナなのだ。教会が広く宣伝していたから、その名は大陸中に知れ渡っている。  アール・ファーラーナが率いる軍は常勝不敗。古い神話に基づくその信仰は、今なお根強い。  ただでさえ数の上では圧倒的に不利な戦いなのだ。士気で劣っていては勝てる可能性は全くなくなる。  だから、精神的な支えが必要だった。  自軍にアール・ファーラーナが存在するならば、敵軍のそれは偽者となる。初めてマイカラスを訪れた当時から、普通の女の子としては不自然な部分の多かった奈子のこと、「実は女神の化身だった」と言われれば信じる者も少なくない。 「こーゆーのって、どうかと思うけど……でも、ま、いっか」  少なくともアィアリスよりは、僅かとはいえエモン・レーナの血を受け継いでいる奈子の方が、アール・ファーラーナを名乗るに相応しいといえなくもない。  士気の高さが戦いの行方にどれほど影響するかはよくわかっている。だから、こうしたはったりで士気を鼓舞することも必要だろうと受け入れた。  奈子のための戦いなのだから、自分にできることはなんでもしなければならない。 「なんだか、ジャンヌ・ダルクみたいですね」  由維が笑う。 「うぅ……、最期は火あぶりってのはヤダなぁ」 「大丈夫ですよ。コルシアではアール・ファーラーナ信仰は異端じゃないですもん」 「……それはそうと、由維」  奈子は、一枚のカードを取り出して由維に渡した。転移魔法のカードだ。 「奈子先輩?」 「もしもアタシに万が一のことがあったら、由維はこれで帰りなさい」 「奈子先輩……」 「二人が一緒だから、たとえ異世界でだって生きていける。一人じゃ無理でしょ。由維、お願い」 「……使うようなことには、ならないよね?」  縋るような目で由維が見つめる。  奈子はゆっくりと、しかし力強くうなずいた。 「あくまでも、万が一の保険。なにがあっても由維は安全だって思わないと、アタシは安心して闘えない」 「私、決めたんだから。この世界で、奈子先輩と一緒に生きていくって。だから……これが終わったら……」  由維はそこで急に口ごもって、顔を赤く染める。 「なに?」 「……結婚式、したいな」 「え?」  奈子は目を瞬いた。  なるほど。それは確かに、向こうにいたら――少なくとも日本では――できないことだ。  しかし、はたしてマイカラスでは、同性の婚姻が許されていただろうか。まあ、ハルティに頼んで特例として認めてもらうことはできるだろう。  もちろん、これからは二人で一緒に暮らすことになるのだが、それはそれとして「結婚式」という儀式をしたいという由維の気持ちは理解できる。 「いいね。でも、どっちがドレスを着るの?」 「もちろん」  由維が自分の顔を指さす。 「奈子先輩は、竜騎士の礼服。その方がカッコいいもん」 「アタシだって年頃の女の子なんだからね。ウェディングドレスだって着てみたいよ」 「じゃ、お色直しは二人揃ってドレス、ということで」  二人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。 * * *  同じ頃、エイシスとリューリィも身支度を整えていた。  しかし、二人の意見はまだまとまっていない。 「リューはここに残った方がいいんじゃないか? お前が行ったって、大した役には立たんだろ」  同じ台詞を、この数日の間に何度繰り返しただろう。しかしリューリィは頑として首を縦には振らない。可憐な外見とは裏腹に、かなり頑固な性格の持ち主である。 「あたしだって一応、剣くらい使える。それに、フェア姉直伝の精霊魔法だって」  彼女にとってこれは、姉同然だったフェイリアの弔い合戦なのだ。  その気持ちはわかる。エイシスにとってもこの戦いは、奈子に対する償いであると同時に、フェイリアの復讐でもある。  だから、あまり強いことは言えなかった。 「そうだな。だが、あまり前には出るんじゃないぞ。お前の剣なんか、実戦じゃ役には立たんからな。魔法でのサポートなら、それなりに使えるだろ」 「……わかったわよ!」  ぷぅっとふくれるリューリィだが、それ以上反論はしない。自分のことを馬鹿にするような言い方であっても、それでエイシスなりに気を遣ってくれているということがわかるから。  しかし、そこへ割り込んできた声があった。 「駄目よ。あなたはここに残りなさい。リューリィ」 「…………、……ソレア?」  声のした方を振り返った二人は声を揃えて、疑問形でその名を呼んだ。  馴染み深い声と、これまで一度も見たことのない装いのギャップに戸惑ったから。  しかし、間違いない。確かにソレア・サハだ。  先日、奈子との闘いの際に切った髪はいいとしても、身に着けているものが普段とはまったく違う。  ソレアはいつも、純白のシンプルなドレスばかりを好んで着ていた。それが今は、漆黒の、騎士の礼服に身を包んでいた。  エイシスが短く口笛を吹く。 「それが、紅蓮の青竜って奴か? 本物は初めて見たな。意外と似合うじゃねーか」 「……ありがとう」  ソレアは奈子と同じ、トリニア王国の時代の、青竜の騎士の礼服をまとっていた。マントも留め金も騎士の腕輪も、すべてトリニアのものだ。  それは正真正銘、竜騎士の戦姿だった。 「……それよりソレア。あたしにここに残れって、どうして?」  暫し見とれていたリューリィが、はっと我に返って訊いた。 「そりゃあ、ナコやソレアに比べれば力は全然劣るかもしれない。だけど一人でも多くの兵が必要な戦いでしょう? 少なくとも、並の兵士くらいの戦力にはなるわ」 「ああ。確かに危険だろうが、本人が行きたがってるんだし、いいんじゃねーか?」 「本当にそう思う?」   リューリィの味方をするエイシスに向かって、ソレアが意味深な笑みを向ける。訝しげなエイシスとは対照的に、リューリィの表情が微かに強張った。 「きっとエイシスも、私の意見に賛成すると思うけど」 「ん?」  なにやら、含むところのある笑みだった。 「リューリィ。あなたどうして、大切なことを隠しているの?」 「な、なんのことよ」 「あなた……、お腹に赤ちゃんがいるのでしょう?」 「――――っ!」  リューリィの顔からさっと血の気が引く。 「なん……だって?」  一瞬絶句したエイシスが、リューリィを振り返って訊いた。 「おい、リュー。本当か?」 「し、知らない!」  視線を合わせないように、ぷいっと横を向く。しかし、かぁっと紅くなる顔を見れば疑う余地はない。  エイシスは即座に断言した。 「よし決まり。お前は留守番だ」  いつものように、ちょっと軽薄そうな笑いを浮かべて言う。 「ちょっと傭兵、なんであんたが決めるのよ! 誰も、あんたの子だなんて言ってないでしょ!」 「でも、俺の子だろ?」 「な、なに言ってンのよ! あたしは、ハシュハルドで一番もてた女の子なんだからね。言い寄ってくる男なんて、星の数ほどいたんだから!」  これは誇張でも自慢でもなんでもなくて、まったくの事実だ。  大陸でも有数の大都市ハシュハルドにおいて、彼女は評判の美少女だった。その街に住む若い男で、リューリィ・リン・セイシェルの名を知らない者はないというほどの。  当然、プロポーズしてきた男だって一人や二人の話ではない。 「だけど、俺ほどいい男はいなかったろ」  これが事実だと言い切れるのは本人だけだろう。リューリィも、そして奈子もきっと首を横に振る。  真面目な顔をしていればそれなりにハンサムなエイシスではあるが、他に類を見ない、というほどの希少価値はない。なにより性格がそのまま表に出ているような、軽薄な笑いがいただけない。 「……自惚れ屋! 今度、鏡をよく見ることね」 「お前は留守番だ。……なあ、リュー。俺に、もう一度あんな思いをさせる気か?」 「――っ! …………」  その一言で、リューリィは何も言えなくなってしまった。  昨年のことを、思い出したから。  奈子がエイシスの子を身籠もって、しかしお腹の子供をアルワライェに殺された時のことを。  すべてが終わった後でその事実を知らされたエイシスが、どれほどショックを受けていたか。  リューリィはそれを間近で見ていた。 「…………」 「戻ってきたら、結婚式だな。ハルティに金を出させて、うんと盛大にやるか」  エイシスが妙に明るく言う。 「結婚……?」  リューリィは、知らない単語を耳にしたかのような奇妙な表情を見せた。  それくらい、予想もしなかった台詞だった。 「しないのか?」 「に、似合わないこと言わないでよね。勝手気ままな傭兵稼業のあんたが、結婚して家庭を持つって?」 「いや、傭兵は廃業だ。例えばこの国で、騎士になるってのはどうだ?」 「できっこないこと、言わないでよ!」  つい、声が大きくなってしまう。照れていること、喜んでいることを知られたくないから。  しかしまた、それがエイシスには似合わない台詞であるとも感じていた。  十代前半の頃から十数年、傭兵として剣に頼って生きてきた男なのだ。  その力は、どこの国に行っても正騎士として取り立てられるに十分なものだ。しかしエイシスは、傭兵として生きることを選んだ。「堅苦しい生活は性に合わない」と言って。 「……一つところで大人しく暮らせるような性格じゃないくせに」  リューリィが唇を尖らせる。  ハシュハルドにだって、戦争の合間に年に数回立ち寄る程度のものだったのだ。 「まあな。騎士は冗談だが、しかしちゃんと考えてはあるぞ。俺は、ホルカ族の族長と親しくてな。族長といっても、先代の族長だった父親の急死で三年前に後を継いだばかりで、歳は俺と変わらないんだが」  ホルカ族は、家畜を追ってコルシア平原北部の広い範囲を移動する遊牧の民だ。その勢力と行動範囲は、数ある遊牧民族の中でも最大といわれている。  旅の途中で、偶然その若い族長と知り合って。  性格が似ていたためか、妙に気が合った。  そして、部族の一員とならないかと誘われたのだ。  その話題が出たのは、一緒に酒を飲んでいた時だった。 『こーゆーのんびりした生活もいいもんだな。俺のように年がら年中戦争ばかりしてると』 『だったら、俺たちと一緒に来い。どうせお前は、一つの街に腰を落ち着ける暮らしは合わんだろう?』 『確かに、悪くないな。家族を持ったら、今のような生活はできないだろうし』  一つところに留まる暮らしは性に合わない。しかし妻や子供ができたら、勝手気ままな傭兵稼業というわけにもいくまい。そしてエイシスは、漠然とではあるが自分の子が欲しいと思っていた。  ならば、遊牧の民としての暮らしはいいかもしれない。家畜を追いながら、広大な大陸の自然の中を旅する暮らし。 『なにしろお前は強いからな。俺も大歓迎だ。それに、ホルカの女は強い男が大好きだぞ。今なら選りどり見どり。いい話だろう?』 『そいつはいい話だ。いずれ、傭兵稼業に飽きたら世話になるとするか』  その時は、話はそれで終わった。まだ当分、傭兵の仕事に飽きる気配はなかったから。だが、忘れたわけではない。 「……と、いうわけだ。悪くない話だろう?」  事情を説明して、さぞかしリューリィは喜んでいるかと思いきや、なにやら目つきが嶮しい。 「リュー?」 「傭兵……」  ドスの利いた声だった。 「あんたまさか、ホルカ族の中にも女がいるんじゃないでしょうね? 白状しなさいよ。いったい何人孕ませてンのっ?」 「あ、いや、それはまだ」 「……まだ?」 「あ、いや、その……なんだ……」 「…………ばか」  リューリィの目に涙が浮かび、こぼれ落ちる。  しかし彼女は、涙を溢れさせながら笑っていた。 「……いいわよ。仕方ないから、結婚してあげるわよ」  目を真っ赤にして、手の甲で涙を拭いながらリューリィは言った。  それから、ソレアを見る。  それを手にして戦場へと赴くはずだった剣を、両手で差し出す。 「……これで、フェア姉の敵を討って」  差し出された剣を、ソレアは小さくうなずいて受け取った。 「ええ、任せなさい。竜の剣の助けがあれば、私でもアィアリスと闘えるわ」  決して大きくはない声で、しかししっかりと応えて。  最後に一言付け足す。 「あなたはその間、子供の名前でも考えていらっしゃい」 「……うん!」  泣き笑いの表情で、リューリィは大きくうなずいた。 * * * 「お兄様……」  出陣の支度をしているハルティの許を、不安げな顔のアイミィが訪れた。 「……どうか、ご無事で」 「大丈夫だ。心配するな」  ハルティは、わざと明るい顔で応える。その表情は、アイミィの目にはむしろ白々しく映った。 「しかし、その台詞はナコさんに対して言うべきじゃないのか?」  そう言うと、アイミィはわずかに目を伏せた。 「…………ナコ様の前に出たら、私、きっと泣いてしまいます。大事な出陣を前にして、泣き顔なんて見せたくありません」  それが、精一杯の強がりだった。  戦の前に、泣き顔なんて縁起でもない。それではまるで、今生の別れみたいではないか。  だから、出陣前には会わないことに決めた。戦が終わって奈子が凱旋してきたら笑顔で出迎えよう、と。 「……お兄様、どうかナコ様をお護りください」 「こんな時くらい兄を信用しろ。私は、そのために戦場へ向かうんだ」 「お兄様……」  ハルティが、アイミィの頭にぽんと手を乗せる。アイミィは涙の浮かんだ目で、それでもなんとか笑顔を作る。 「それよりアイミィ、戻ったら驚く知らせがあるぞ」 「何ですの?」 「内緒だ。戻ってからの楽しみだ」  子供のように、悪戯っぽくウィンクした。  それが、必ず生きて戻るという、約束の代わりだった。 * * *  マイカラス王国では過去数百年、これほどの大軍での出撃などなかった。  およそ一万二千騎。それが、マイカラスが動員することのできる全戦力だった。  近隣には何万もの大軍を擁する大国はないし、領土的野心を持たないマイカラスにおいて、戦争とは他国からの侵略を迎え撃つことに他ならない。敵が慣れていない砂漠の地の利を活かし、最小限の戦力で敵を防ぐことに専念する――それが、マイカラス軍の戦い方だった。  しかし、今回は事情が違う。  敵の兵力は、五万を優に超えていると思われる。おそらくは進軍途中でさらに兵を募り、マイカラスに到着する頃にはさらなる大軍に膨れ上がっていることだろう。  難しい戦いだ。今回は広大な砂漠も、地の利も、十分に活かすことができない。レーナ遺跡を護り敵を近づけない、という目的がはっきりしており、広大な砂漠を縦横に駆け巡るというわけにはいかないのだ。  遺跡の正面に布陣し、トカイ・ラーナ教会の軍勢を迎え撃たねばならない。  敵を撃破するのではなく、遺跡の発動まで抑えておくだけとはいえ、容易なことではない。  ここにいる全員、そのことを胸に刻み込んでいた。  王都を発った軍勢は、砂漠を南へと進む。レーナ遺跡までは、三日ほどの道程だ。  レーナ遺跡――トリニアの時代、デイシアの時代の神殿の遺跡の下に隠されていた、前文明の遺跡。  十万年という、想像を絶するほどの遠い昔に築かれたもの。月を一つ破壊するという、途方もない目的のために。  現在は強力な魔法で封印され、中に入ることはできない。唯一、奈子という例外を除いては。  その封印はレイナによるものなのだろうか。それともエモン・レーナか、あるいはファレイア・レーナかも知れない。  しかし遺跡を発動させるためには奈子が中に入らねばならず、その時には封印が解かれてしまう。敵も、遺跡に侵入できる。  それを防ぐために、この軍勢がいるのだ。  彼らが目的地に到着したのは、ちょうど陽が暮れようとしている時だった。  血の色をした、大きな夕陽。  まるで、これから起こることを暗示しているようだ。  マイカラスの軍勢は、夕陽を正面にして遺跡の前に布陣した。トカイ・ラーナ教会の軍勢は、西から侵攻してくるはずだ。  周囲の様子を探るために送り出した斥候の一人が、大急ぎで戻ってきた。南西から向かってくる軍勢がある、との報告を携えて。  その数およそ二千余騎。  全軍に緊張が走る。  敵の先鋒だろうか。だとしたら予想よりも少し早い。  しかし、周囲にはまだ他の軍勢は見えない。  相手が二千ちょっとであれば、敵の本体が到着する前に全軍で迎え撃った方がいいだろうか。しかし、陽動かもしれない。  思案するハルティに、ソレアが微笑みかける。 「心配する必要はありません。あれは味方です。ぎりぎり間に合ったようですね」 「味方?」  その場の全員が、不思議そうに訊き返した。  いったいどこから援軍が来るというのか。マイカラス国内の戦力は、すべてここに集まっている。  しかしソレアには、秘密にしていたことがあった。  彼らがマイカラスに味方してくれるかどうか。この日に間に合うかどうか。それがわからなかったから。  彼らの国からここまでは、相当な距離がある。それに、これは元々ソレアのアイディアではない。 「味方……って?」  奈子が訊いた。 「ナコちゃん、あなたのお友達よ」 「……?」  心当たりはない。奈子はただ首を傾げる。  やがて、なだらかな丘の向こうから、馬に乗った三つの人影が姿を現した。  その後ろに続く騎馬の軍勢。確かに、二千騎はいる。  奈子は驚いた。  先頭の三人が、いずれも見知った顔だったから。しかも、こんなところで会うとは思いもしない相手だ。  奈子が前に進み出る。ソレアや由維、ハルティたちも後に続く。 「あれは……」 「あの人は……」 「まさか!」  驚きの声を上げたのはハルティとケイウェリだ。その軍勢が掲げる旗印に気付いたから。  夕陽に染められたような、深紅の軍旗。 「……久しぶりですね、ナコ・ウェル。一年ぶりくらいになりますか」  先頭の、長い金髪の男性が優しく微笑む。長い前髪が片目を隠していた。 「え、エイクサム……?」  間違いない。エイクサム・ハル・カイアンだ。  かなり強い力を持った魔術師で、大陸の歴史にも通じている。  かつて、命を賭して戦ったことがある。敵地で助けてもらったこともある。  そんな、因縁の相手だった。  そして、彼の後ろの二人は……。何故ここに? 「援軍をお連れしましたよ。敵の兵力から見ればわずかとはいえ、役に立つはずです。紹介は……する必要、ありませんね」 「……うん」  驚きながらも、奈子はうなずいた。  今さら、紹介されるまでもない。どうして彼らがエイクサムと一緒にいるのかはともかくとして。  その二人は、不敵な笑みを浮かべた男女だった。  一人は二十代後半くらいの、やや痩せた男性。騎士の姿をしており、鋭い目つきが特徴的だ。  そしてもう一人は、奈子と変わらないくらいの年頃の少女。ただしこちらも華麗な騎士の衣装を身にまとっている。 「エリシュエル……。それに、…………サイファー」 「ここに来れば、トカイ・ラーナ教会に一泡吹かせる最後のチャンスがある、と聞いてな」  男の方が言った。  サイファー・ディン・セイルガート。  凄腕の騎士で、コルシア平原の南部にある大国、アルトゥル王国の赤旗将軍だ。奈子も一度、刃を交えたことがある。  そして少女の方は、サイファーの妹のエリシュエル・ディン。  幼い頃から兄の手ほどきを受け、アルトゥル王国の女性騎士でも一、二を争う実力の持ち主だという。以前、奈子がアルトゥル王国の闘技場に迷い込んだ時に試合をして、引き分けに終わった相手だった。あの決着はまだついていない。  彼らの背後に展開した軍勢の中には、アルトゥル王国の紋章を描いた赤い旗が翻っている。間違いない。これはアルトゥル王国の精鋭、赤旗軍なのだ。  少し前にアルトゥル王国は教会に大敗を喫し、国は滅亡寸前のはずだ。なのに何故、これだけの軍勢がここにいるのだろう。 「王国は敗れたが、私の軍が負けたわけではない。赤旗軍の主力は健在だ。あの女には借りを返さねばならん。お前の方の事情は、この男から聞いた」  サイファーが、エイクサムを指して言う。 「だが、お前の事情などどうでもいい。ここに来れば、アィアリス・ヌィに雪辱するチャンスがある。それだけで十分だ。それに不本意ではあるが、お前には一度、命を救われた。だから今回は協力してやろう。それで貸し借りなしだ」 「……律儀な奴」  奈子は思わず苦笑した。その高い身分の割には若いサイファーだが、頭はかなり固い。 「ナコ・ウェル、お前とはまだ決着が着いていない。その前に死なれちゃ困るのよ」  エリシュエルが言う。妹の方もまったく素直じゃない。  だけど、なんだか胸の奥が暖かくなった。 「ナコさん、これはいったい……?」  由維はもちろん、エイシスもある程度の事情は知っているが、奈子とサイファーたちの因縁を知らないハルティが不思議そうに訊く。 「後で説明しますよ。今は時間がないし。とにかく、味方には違いありません。少なくとも、今日のところは」 「そのようですね」  ハルティは笑ってうなずいた。  この際、理由は問う必要はない。心強い援軍を得たという事実が重要なのだ。  二千余騎という兵力は、敵が五万以上もいることを考えれば大した数ではないようにも思える。が、一万二千騎のマイカラス軍にとっては無視できない援軍だ。  しかもアルトゥル王国は、大陸中でも指折りの強兵を擁していた大国であり、その中でも精鋭と謳われた赤旗軍が味方に加わったのだ。  マイカラスの兵たちの士気も、否応なしに盛り上がる。  サイファーはさっそく兵の配置や作戦について、ハルティやケイウェリ、ダルジィたちと打ち合わせを始める。その軍議に、奈子は加わらなかった。  奈子は、ここでの戦闘に参加しないから。  夕陽が沈む。  空が、群青色に染まっていく。  徐々に色を濃くしていく空では、東の空の月が明るさを増しつつある。  あれを、破壊するのだ。  奈子は黙って、空を見上げていた。  敵軍の接近を知らせる斥候が、馬を駆けさせて戻ってくる。  ソレアが側に来て、奈子の肩にそっと手を置いた。 「ナコちゃん、……お行きなさい」 「……ん」  奈子は、戦いには加わらない。一人で遺跡の中に入ることになる。 「奈子先輩、頑張って」 「由維も、気をつけて」   そう言ってから、エイシスを見る。 「由維のこと、お願い」 「ああ」 「外のことは我々に任せて」  笑みを浮かべてそう言うハルティ、そして傍らのダルジィ、ケイウェリ。  順に見ていく。  エイクサム、サイファー、エリシュエル、エイシス、ソレア。  そして……由維。  全員の顔を見回して、奈子は小さくうなずいた。  もしかしたら、これが最後かもしれない――そんな考えは頭から追い出す。  この戦いを終えたら、また笑顔で再会するのだ。 「……じゃ、行ってくる。また後で」  それだけ言うと、奈子は一人で遺跡へと歩き出した。  遺跡の周囲にいくつかある、入口の一つへ向かって。なだらかな丘の斜面にある地下への入口は、前回、由維と一緒に訪れた時に出口として使ったものだ。  少し歩いてから、最後にもう一度後ろを振り返った。  みんなが、見送ってくれている。  黙ってうなずいて、奈子はまた歩き出した。  灰色の土の上に、足跡が刻まれてゆく。  荒野を渡る風が、妙に冷たく感じた。 「え?」  遺跡に入ったところで、奈子は小さく驚きの声を上げて立ち止まった。  入口からすぐのところに、人影があった。  壁に寄りかかるように立って、奈子の顔を見て微かに笑みを浮かべている。明らかに、奈子を待っていたようだ。  背の高い、黒髪の男性だった。身体は野生の肉食獣のような良質の筋肉に包まれている。  顔は、まあハンサムと言っていいだろう。ハルティには及ばないが、エイシスには少し勝っているようだ。  ……などと、落ち着いて観察する余裕があったわけではない。観察するまでもなく、奈子はその男に見覚えがあった。直接会ったのは初めてだが。  そして奈子は会ったことがなくとも、レイナ・ディ・デューンにとってはよく知っている男だった。  だからこそ、驚いた。  こんなところにいるなんて。  こんなところで会うなんて。  夢にも思わなかった。  遠い昔に死んだものと思っていた。 「……フレイム?」  半信半疑で、その名を呼んだ。  見た目は、二十代後半くらいの男性だ。しかしそれは仮の姿に過ぎない。その実体がまったく違った存在であることを、奈子は知っていた。 「フレイム……なの? まさか」 「知らないのか? 人間の時間感覚でいえば、俺は不老不死といってもいいほど長命なのさ」  男が笑って応える。  フレイム――それが男の名だ。  フレイム・ファ・ハイダー。  それは、大陸の歴史の中でもよく知られた名前だった。  今からおよそ千年前、王国時代の末期。  トリニア王国の竜騎士でレイナの双子の姉、ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトの騎竜の名だ。  当時のトリニアで……いや、この大陸で最強の青竜だった。  そう、彼は竜なのだ。目の前に立っているのは、魔法による仮初めの姿でしかない。  しかし奈子には、すぐには信じられなかった。竜は王国時代が終わって間もなく、八百年ほど前に絶滅したといわれていたのに。  アィアリスの竜は、教会が作り出したクローンだ。生きた竜など、大陸のどこを探しても残ってはいない……はずなのに。  レイナの方がフレイムよりも先に死んだ。記録ではその後、ユウナの娘であるレイナ・ヴィの騎竜を務めていたというが、いつしかその名は歴史から姿を消していた。人知れずどこかで死んだのだろう、というのがこれまでの定説だ。 「あんたも、クローンなの?」 「なんの話だ?」  一応、訊いてみる。教会が作り出した竜のように、王国時代の遺骸から再生されたものなのか、と。  いいや、違う。答えを聞く前から、それはわかっていた。  これは紛れもなく、レイナの記憶にあるフレイム・ファ・ハイダーだ。 「どうして? 竜は何百年も昔に滅びたものだと思ってた」  竜が生き延びていたなんて、大発見だ。 「そうらしいな。だけど、生きてた奴もいるのさ。俺のように」  確かに、フレイムが言った通り、竜は極めて長命だ。王国時代でさえ、竜の寿命を正確に調べることはできなかった。  トリニアの時代、老衰で死んだ竜など一頭もいない。竜の死因の大半は戦死だ。トリニアとストレインの戦争で、多くの竜が騎士とともに命を落とした。 「今まで、どこにいたの?」 「寝てた」   フレイムが平然と応える。まるで、待ち合わせの時刻に三十分遅れた言い訳をするかのような調子で。 「……は?」 「寝てたのさ。山奥の、深い洞窟の奥で。ぐっすりと。何百年も」 「寝……」  奈子は絶句した。  呆れた。心底呆れた。だけど、わかったことがある。  竜は何千年も生きる生物だ。人間とは時間の感覚がまるで違うのかもしれない。人間たちと一緒に闘っていた時間など、彼にとってはほんの一瞬のことなのだろう。 「そうか、墓守たちね。いつかまた、竜の力が必要になるかもしれないと、そう考えていたんだ。ソレア……ユウア・ヴィでしょ。眠っていたあんたを起こしたのは」 「正解」  フレイムが笑うのを見て、奈子はうなずいた。  確かに、竜が必要だ。たとえ時間稼ぎをするだけであっても、ソレアがアィアリスと闘うためには。  アィアリスは黒剣の王であり、かつ、竜を駆る騎士である。  いくらソレアが竜騎士の力を受け継ぐ者とはいっても、竜なしでは到底太刀打ちできない。  墓守たちは、いつか再び黒剣の王と戦う時のことを考えて、竜を眠りにつかせたのだろうか。  そしてこの戦いのために、ソレアは竜を呼び起こしたのだろうか。  フレイムはどんな思いで、それを受け入れたのだろう。 「それにしても、しばらく見ないうちにずいぶん若くなったな。レイナ」 「アタシはレイナじゃないわ。今は奈子よ。ナコ・ウェル・マツミヤ」 「入れ物が変わったって、中身は半分くらい昔のままだろう?」 「半分違えば十分。アタシはアタシ。他の誰でもない」 「……そうだな」  フレイムは笑みを浮かべて、奈子の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。  奈子の心の中に、なんとも言い様のない、不思議な感情が湧き起こる。それは、奈子の中のレイナの部分が感じているものだ。  レイナ・ディ・デューンと、フレイム・ファ・ハイダー。  二人の間には、複雑な因縁があった。  トリニアの竜騎士だったユウナ・ヴィ・ラーナ。その騎竜のフレイム。  ストレインの竜騎士だったレイナ・ディ・デューン。騎竜はナゥケサイネ。  ユウナがまだ生きていて、レイナがストレイン帝国の騎士であった時代、二人は幾度となく激しい戦いを繰り広げた。  まだユウナが竜騎士となる前の最初の戦いで、レイナはユウナに重傷を負わせ、彼女の婚約者を殺した。  レイナの騎竜ナゥケサイネを殺したのは、ユウナとフレイムだった。レイナもその時、ひどい傷を負った。  そしてフレイムの騎士であるユウナを殺したのはレイナだ。  大切な騎竜を殺した敵。  大切な騎士を殺した敵。  竜騎士と竜の間には、深い心のつながりがある。普通の、騎士と馬のつながりの比ではない。  信頼。友情。愛情。  戦いの時、騎士と竜の精神は一つに融合し、一個の生物のように行動する。騎竜を、あるいは騎士を殺されるのは、自分の半身を失うようなものなのだ。  それがどれほど辛いことであるか、竜騎士でない者には決して理解できないだろう。  しかし。  ストレイン帝国を出奔した後、レイナはフレイムと共に戦って、ついにはストレイン帝国を滅ぼした。  その間、一緒に戦っていたとはいえ、普通の竜騎士と竜の関係ではなかった。  仲が良かったとも言い難い。  相手に対する憎しみを、恨みを、すべて忘れたわけではない。  そんな感情を抱いたまま、共に戦っていた。  それでもやはり、心のつながりはあった。  もしかしたら、愛していたのかもしれない。  多分、レイナは決して認めないだろう。それはおそらく、奈子がエイシスに対する想いを認めないのと同じ感情だ。レイナと奈子は、そんなところが似ている。 「――――」  奈子は真っ直ぐにフレイムを見た。それは奈子がというよりも、奈子の中のレイナがとった行動に思えた。  微かな笑みがこぼれる。 「……最後の、戦いだよ」 「相手は黒剣の王か、久しぶりだ」 「これで、最後だよ。今度こそ、本当に」 「ああ」 「後のことはお願い。ソレアを……ユウア・ヴィの力になってあげて」  最後にそう言い残して、遺跡の奥へと進もうとした。いつまでもここで油を売ってもいられない。戦いはフレイムとソレア、そしてマイカラスとアルトゥルの人々に任せるしかない。 「ユウア・ヴィ・ファラーデ・ラーナ・ファーラーナ。正統な血を引く最後の竜騎士……か」  フレイムがソレアの本名をつぶやく。その長さが、彼女が受け継ぐ血の歴史を表している。  改めてその名を聞いて、奈子はふと気付いた。 「ヴィ・ラーナってことは……ラーナ家の血を引いているわけだよね? ユウナの……つまり、レイナ・ヴィ・ラーナ・モリトの子孫なの?」 「ん?」  フレイムが、おやっという表情をする。  不思議そうに奈子の顔を見て、やがて、にやっと笑った。 「確かに、ヴィ・ラーナの血は引いてるがね。ユウナの子孫じゃない。……ふーん、そうか。憶えてないこともあるんだな、レイナ」  なにやら含みのある言い方だった。フレイムはそれだけ言い残して、遺跡の外へと歩き出す。  奈子は、その背中を見送った。  何が言いたかったのだろう。  確かに奈子は、レイナの記憶のすべてを把握しているわけではない。ほぼ完全な記憶を受け継いではいるはずだが、まだ記憶の引き出しが閉ざされていて、思い出せないことも多いのだ。  レイナの剣を受け継いで以来、少しずつ、ほんの少しずつ、レイナの記憶が甦ってきているに過ぎない。 「レイナ……じゃない。ナコ、だったっけ。死ぬんじゃないぞ、こんなとこで」 「あんたもね。貴重な、最後の竜なんだから。生き延びたら、特別天然記念物に指定してあげるよ」  冗談まじりに言う。フレイムはこちらを振り返らず、軽く片手を上げて応えた。  そのまま、暗くなりはじめた空の下へと出ていく。  突然、フレイムの身体が眩い純白の光に包まれた。  破裂音が鼓膜を叩く。  光は見る間に大きく膨らんで、巨大な、翼を広げた竜の姿になった。  光が消えると、そこにあったのはまさしく、トリニア最大、最強の青竜の姿だった。 「竜……か」  遠い昔、人間が敬意を払うべき神として創りだされた存在。  人類の滅亡を避けるために。  人間がもう少し、謙虚な存在になるために。  確かに王国時代以前、人間は竜を畏れ敬っていた。  それだけの力を持った存在だった。  飛び去るフレイムの姿を、奈子は見送った。  ソレアがいる、マイカラス軍の陣へと飛んでいく。湧き上がった驚きと歓声は、ここまで聞こえた。  それを見届けてから、奈子はまた遺跡の奥へと歩き出そうとする。  が、一歩踏み出したところで足を止めた。 「ヘンなこと言ってたな……。ソレアは確かに、ヴィ・ラーナの血は引いている。……だけど、ユウナ・ヴィの子孫じゃないの?」  憶えてないこともあるんだな、レイナ。そう言っていたフレイムの声が甦る。  はっと後ろを振り返った。  もう、フレイムの姿はここからは見えない。  奈子の口元がほころんだ。頬が紅くなり、鼓動が速くなる。 (まさか……そんなこと……。本当に……本当に?)  しばらく、フレイムが飛び去った後の外を見ていた。 「なんと、まあ……マジで驚いた。こんな大変なこと、なんで忘れてたんだ?」  抑えようとしても、笑いがこみ上げてくる。可笑しくて仕方がない。  奈子は遺跡の奥へと足を進めながら、声に出して笑っていた。  ここに来て、また、こんな驚く新発見があるなんて。  ソレア――ユウア・ヴィ・ファラーデは、ラーナ家直系の血を引く最後の一人だ。だけど、ユウナの子孫ではない。  だとしたら――  可能性は、一つしかないではないか。 * * *  その青竜は地響きを立てることもなく、静かにソレアたちの前に降り立った。  竜の巨体から考えると信じられないことだ。  最初のうち、竜の姿を目にした騎士たちは怯えていたが、やがてそれが味方だとわかると、全軍に歓声が広がっていった。  目の前にいるのは、圧倒的な力の象徴だった。なんとも心強いことではないか。  先日、王都で竜と闘った経験のあるマイカラスの騎士たちは、その力を嫌というほど思い知らされていた。  竜とは、竜騎士とは、確かに圧倒的な力を持った存在だ。誰も口には出さずにいたが、敵軍に竜騎士がいるという事実に恐怖していた。  しかし事情が変わった。こちらにも竜がいる。竜騎士の力を受け継ぐ者がいる。  敵の竜騎士は、ソレア・サハがくい止めてくれる。  自分たちは、敵の騎士団と闘えばいい。ならば、なにも怖れることはない、と。  マイカラス王国の騎士も、アルトゥル王国の騎士も、敵が大軍だからといって恐怖を感じたりはしない。  自分たちの力を信じている。人間同士の戦いなら、並の相手に後れをとることなどあり得ない、と。特にマイカラス軍にとっては、多数の敵と戦うなどいつものことなのだ。  なにも怖れることはない――兵たちの士気は一気に高まった。 「ぎりぎり間に合ったわね」  ソレアが、フレイムを見上げて言う。 「あなた、遺跡の方から来たわね。ナコちゃんに会ってきたの?」  竜は小さくうなずいた。ソレアが微笑む。 「素敵な子でしょう? あの子が、レイナ・ディの遺志を受け継ぐ者よ」  臆病な者なら見ただけで失神しそうなほどに恐ろしい竜の顔が、微かに笑ったように見えた。 「さあ、行きましょうか」  ソレアは、フレイムに近寄って言った。  地平線の上に、敵の姿が現れていた。  まだ小さな点にしか見えないが、それは紛れもなく、アィアリスが駆る赤竜の姿だ。  地面を蹴って、フレイムに跨る。首の付け根には、空戦用の鞍が取り付けられていた。もちろん、両脇には大竜刀も備えられている。  ソレアは下を向いた。エイシスやハルティと目が合う。  お互い、小さくうなずいた。  同時にフレイムが地面を蹴って、翼を広げた。  高度を上げるにつれて、地上に教会の大軍が姿を現す。こちらの軍勢も動き始めている。  敵は、少なく見積もってもこちらの数倍はいるだろう。 「……苦しい戦いになりそうね」 (下のことを気にかけている場合ではないだろう?) 「そうね」  ソレアは苦笑して、フレイムの言葉にうなずいた。  どれほど戦力差があろうとも、地上の戦いはハルティたちに任せるしかない。  自分は、アィアリスを抑えるだけで精一杯なのだ。フレイムの力を借りてなんとか、というところだろう。  勝つことなど、最初から考えてはいない。とにかく時間稼ぎに徹する。  命を賭しても、それが精一杯だろう。 「……それでも、やるしかないのよね」  決戦の火蓋は切られたのだ。  もう、後には引けない。  ソレアは、竜騎士同士の空中戦のために特別に鍛えられた大剣――大竜刀を抜いた。 九章 銀砂の戦姫  奈子は、遺跡の奥へと続く通路を歩いていた。  暗い通路に足音だけが響く。  うっすらと積もった埃の上に、四種類の足跡があった。奈子の進行方向とは逆に、遺跡の奥から外へと向かう足跡が。  二つは、奈子と由維のもの。二人でここを訪れた際、遺跡から出る時にここを通った。  残る二つは、奈子と同じくらいの大きさの女性の足跡と、もっと大きな男性の足跡。どちらも、ずっと古いものだ。 (レイナ……だろうな)  レイナは、生前に一度はここを訪れているはずだ。強力な魔法で封印されていた遺跡の内部では、千年前の足跡ですら残る。  だとすると、最後の一つは彼女の副官だったトゥートか、あるいはフレイムの足跡だろう。  奈子は立ち止まった。  外では、もう戦端が開かれている頃だろうか。  結界と、遺跡自体が帯びている魔力が邪魔をして、ここからでは外のことはわからない。  奈子にできるのは、ただ祈ることだけだ。  ソレアは、無事だろうか。  正直なところ、彼女ではアィアリスの相手は辛いだろう。  いくら竜の剣を持っていても。  いくらフレイムが味方でも。  相手は、黒剣の王なのだ。 (ソレアさん……死なないで)  本人は「無理せず時間稼ぎに徹する」と笑って言っていたが、それですら容易なことではない。  少しだけ、迷いが生じる。  遺跡の外に残って、闘った方が良かっただろうか。  奈子が無銘の剣を持ってフレイムを駆れば、アィアリスを倒せる可能性もないわけではない。  ソレアが闘うよりは、遙かに勝率は高い。とはいえ、それでも五分五分にすらならないだろう。せいぜい一、二割というところか。  それが、黒の剣の力。  それが、アィアリスの力。  トリニアの軍勢がストレインの皇帝ドレイア・ディ・バーグを倒した時、いったいどれだけの竜騎士が犠牲になったことか。  ファージを追ったトリニアの竜騎士たちが、いったい何人殺されたことか。  だから、ソレアが生き延びる可能性は極めて低い。彼女が竜騎士の力を持ち、ラーナ家の末裔であるとはいえ、その力はせいぜい「やや優れた竜騎士」程度でしかない。  それをいったら、マイカラスとアルトゥルの騎士たちの運命もどうなることか。  戦いに勝っても敗れても、大きな損害を受けることは間違いない。ハルティはまだしも、前線で闘うダルジィやケイウェリ、サイファーやエリシュエルはどうなるだろう。  奈子はぎゅっと唇を噛んだ。  やっぱり、一緒に闘うべきだろうか。 (……いいや。もう、決めたことだ。自分のやるべきことを忘れるな)  自分に言い聞かせる。  皆は、奈子を護るために闘っているのだ。  そのことを忘れてはいけない。  奈子が運良くアィアリスを倒せたとしても、黒剣は残ってしまう。この世界を滅ぼすことのできる力が。  そもそも、奈子がアィアリスに勝てると決まったわけではない。むしろ敗れる可能性の方が高い。  千年前、ストレインの皇帝ドレイア・ディ・バーグにとどめを刺したのはレイナだが、その時彼女は一人ではなかった。何人ものトリニアの竜騎士たちと、力を合わせて闘ったのだ。  奈子一人では、黒剣の王を倒すのは難しい。 (……もう、決めたんだ……)  奈子がするべきことは、月が天頂に来る時に遺跡を発動させることだった。他の者たちはすべて、それまでの間、敵が遺跡内に侵入するのを防ぐためにここにいる。そのために戦っている。  奈子を護るために、大勢の人間が命を賭けようとしている。  涙が出そうになった。  それを、ぐっと堪える。 (泣くな……。今はもう、泣くべき時じゃない)  奈子は再び歩き出した。  レーナ遺跡の最奥部は、直径が三十メートルほどの円形の部屋だった。  頭上に天井は見えず、螺旋階段が刻まれた垂直な壁が、光の届く限界まで続いている。  そして真上には、丸く切り取られた星空が見えた。まるで、大きな深い井戸の底にいるようだ。  周囲を見回すと、壁に、三つの通路の入口が開いている。ちょうど正三角形を描くような配置で。うち一つは、いま奈子が通ってきたものだ。  正三角形。それが、前文明の建築の基本デザインなのかもしれない。聖跡の『光の間』もそうだった。  床も壁も、やや灰色がかった白い陶器のような、同一の材質でできていた。壁は磨いたように滑らかだが、床には一面に、同心円状の複雑な模様が刻まれている。  それはまるで、大きな魔法陣のようだ。いや、まるで――ではない。これは正真正銘、魔法陣なのだ。一つの天体を破壊するという、かつてない強力な魔法を発動させるための。  円形の部屋の中心に、一つの人影があった。  髪を腰のあたりまで伸ばした、大人っぽい雰囲気の美しい女性だ。  奈子の方を見て、静かに微笑んでいる。  以前、由維と一緒に来た時も彼女を見た。  奈子の胸に、懐かしさが込み上げてくる。  慈しむような笑顔。それはまるで我が子を見守る母親のようだ。  しかしそれは、生きている人間ではない。実体ではない。  幻影。この遺跡に残る残留思念か、あるいは奈子の心が創り出した幻影だろう。 (そうか……)  それが誰であるか、今なら理解できる。  ファレイア・レーナだ。  この遺跡を築いた者。  エモン・レーナの母親。  レイナやユウナにとっては、遠い祖先ということになる。  レイナの中には、エモン・レーナから受け継いだ記憶もあるのだろう。それが、あの姿を創り出しているのかもしれない。  奈子はゆっくりと、魔法陣の中心へと進んでいった。進むにつれて、ファレイア・レーナの姿がすぅっと消えていく。  中心に立って、上を見上げる。まだ、月は視界に入らない。  続いて、足下の魔法陣へ視線を移す。  ついに――  ついに、この時が来た。  ファレイア・レーナの指揮によって築かれてから十万年間、この時を待っていた遺跡。  この星の人類が作り上げた、最大、最強の兵器。  それが今、長い眠りから目覚めようとしている。  星を一つ、破壊するために。  ごくり。  喉を鳴らして、唾を飲み込んだ。  小さく深呼吸する。  腕を前に伸ばして。 「剣よ、我が手の中に、在れ」  奈子の声に応えて、一振りの剣が手の中に現れる。  無銘の剣。  レイナ・ディ・デューンの剣。  今から千年以上も昔、トリニア最高の剣匠が、多くのものと引き替えに生み出した魔性の剣。  そして――  ファーリッジ・ルゥ・レイシャを殺すために生まれた剣。 「ファージ……」  ファージの顔が浮かぶ。  金色の瞳を細めて、猫のように笑っている姿が。 (ファージ……あんたは、知っていたの? この遺跡のことを。エモン・レーナが何者なのかを。レイナが、何をしようとしていたのかを)  今となっては、わからない。確かめる術もない。  しかし、すべてではないにしろ、ある程度のことは知っていたのではないだろうか。ソレアには伝えず、自分の胸の中にだけしまい込んで。 (アタシは、ここまで来た……)  奈子は剣を逆手に握ると、頭の上に掲げた。  刃が、微かな青白い光に包まれる。刃が持つ魔力が、奈子の魔力と反応して放つ燐光。  いよいよ、時は来た。  この魔法陣は、巨大な兵器システムの一番外側の境界。システムを作動させるスイッチだ。遺跡そのものは、遙かに地下深く――おそらく地殻を貫通するほどの規模があるはずだった。  今こそ、スイッチを入れる時だ。この巨大な兵器を作動させるには、時間がかかる。  しかし――  頭上に掲げた、剣を持つ手が震えていた。 「う…………」  考え直すなら、これが最後のチャンスだった。  この手を振り下ろしたら、もう後戻りできない。  二度と故郷には帰ることができず。  この世界に、致命的なダメージを与えるかもしれない。  奈子は今、一つの天体を消滅させようとしているのだ。  もしかしたら、とんでもないことをしようとしているのではないだろうか。  両親の顔が浮かぶ。  そして、亜依。  美樹や高品や美夢。  仲のよかった友達。  彼らとも、二度と会うことはできない。 (いいの? 本当に、いいの?)  大きな間違いを犯そうとしているような気持ちになる。  そんなはずはないのに。  ファレイア・レーナが築いたもの。  エモン・レーナが、レイナ・ディ・デューンが、やろうとしていたこと。  それを今、自分が成し遂げるのだ。 「う……く……」  ファージの顔が浮かぶ。そしてフェイリアの、ユクフェの顔が。  彼らは、奈子を止めようとしているのだろうか。それとも、奈子のすることを応援してくれているのだろうか。  掌が汗ばんで、剣が滑った。何度も柄を握り直す。  最後に浮かんだのは、憎むべきアィアリスの顔だった。 『もっと大切な人じゃないと、だめかしら?』  そう言って、残酷な笑みを浮かべていた。 「う……う……、うわぁぁぁぁぁっっ!」  奈子は叫びながら、力いっぱい剣を振り下ろした。  鋼鉄すら易々と切り裂く無銘の剣は、魔法陣の中心に描かれた小さな円の中に深々と突き刺さった。  一瞬、カメラのフラッシュのような閃光が迸る。  奈子の中にある竜騎士の魔力が、剣を通して地下深くに撃ち込まれていった。  魔法陣の複雑な模様が、ネオンサインのように輝きだした。光は中心から広がっていき、魔法陣全体が青い光に包まれる。  奈子は片膝を着いて、床に半分以上突き刺さった剣を握りしめていた。  あらん限りの魔力を注ぎ込む。これは、井戸の呼び水のようなものだった。  奈子の……レイナ・ディの強大な魔力を持ってして、初めてこの巨大な遺跡は目覚めるのだ。  なんの歯止めもなしに、魔力を放出する。  あの、アルンシルを消滅させた力を、一点へ向けて解き放つ。  意識が遠くなりそうだった。  深く、深く。  この星の中心部にある、無尽蔵といってもいいほどのエネルギーを引き出すために。魔力は月の軌道の中心――すなわちこの惑星の中心で最大になる。  額に汗が滲んだ。  一つ間違えば、力が暴走しかねない。そうなれば、マイカラス王国は地図から消えることになるだろう。  慎重に、ぎりぎりまで力を制御し続けなければならない。月が遺跡の真上に来るその時まで。  感じる。  とても、とても深い場所で何かが目覚める。  ノーシル――この惑星の中心で。  十万年間眠っていた、この時を待っていた『力』が。  最初で最後の、目覚めの時を迎えようとしていた。 * * *  雷光が、網の目のように空を覆う。  夜空が一瞬青白く染まり、星が見えなくなる。  光のわずかな間隙を縫って、紅い竜が翼を翻す。  その巨体を取り囲むように朱い光球がいくつも出現し、一斉に爆発した。爆炎が竜の身体を包み込む。  相手が並の竜騎士であれば、これで勝敗は決しただろう。しかしソレアは、相手が無傷であることを知っていた。  炎がアィアリスの視界を奪っているうちに、間合いを詰めて相手の頭上に出る。炎が消えるのと同時に、大竜刀を打ち込んだ。  火花が散る。  夜空に溶けこむような黒い刃が、ソレアの剣を受け止めていた。  同時に、竜の牙と牙、爪と爪がぶつかり合って、耳障りな音を立てる。  咆哮が響き渡る。  動きを止めずに、ソレアとフレイムはすぐに相手から離れた。アィアリスが放った無数の光の矢がその後を追う。フレイムが展開した防御結界が、それをすべて弾き返す。  防御をフレイムに任せ、ソレアは意識を集中していた。剣を顔の前に構え、目を閉じる。 「チ・ライェ・キタイ!」  ソレアの唇がその言葉を紡ぎ出すと同時に、青白い光球が空を埋め尽くすように出現した。その数は優に百を超える。  光球から次々に、アィアリスとその竜を狙って光線が放たれる。数百条の光線。その一つ一つが竜に致命傷を与えるだけの力を持っている。  しかし敵の赤竜は、続けざまに襲いかかる光線を、重力を無視したような動きでかわしていった。どうしてもかわしきれない分だけを、アィアリスの結界が受け止める。  ソレアは小さく舌打ちした。  今のタイミングであれば、少しくらいは傷を負わせられると思ったのに。 「さすがに手強いわね。常にこちらが先手を取らないと……受け身になったら一発でやられるわ」  ちらりと、下に目をやる。  地上でも戦闘が始まっていた。  重厚な布陣を敷いた教会の軍勢が目に入る。それを迎え撃つこちらの兵力は、一目でわかるほどに少ない。 「……楽な戦いではなさそうね」  だが、こちらから支援してやる余裕もない。  ソレアは、自分の敵に目を向けた。  血の色をした紅い竜の背で、余裕のある笑みを浮かべている。 「……ヤな女」  吐き捨てるように言うと、ソレアは剣を構え直した。 * * *  それは、教会の軍勢の本体に、深々と打ち込まれた二本の楔だった。  マイカラス軍の主力、ケイウェリとダルジィがそれぞれ指揮する部隊。  それが、敵の進攻を一時的に食い止めている。何倍もの敵が、その場所に釘付けになっていた。  ダルジィが得意とする、速度を活かした強襲戦術だった。選び抜いた騎兵で鋭い円錐陣を組み、敵に突入する。最小の兵数で、敵に最大の損害を与えることができる。  しかし、危険な戦法である。本来は守りで使う戦術ではないが、兵数にこれだけの差がある状況では、多少無謀とも思える策を用いる必要があった。まともにぶつかれば、どうやっても徐々に押されてしまう。  ハルティたちの予想では、ただ守りに徹して進攻を遅らせようとしても、敵は月が天頂に達する前にレーナ遺跡に到達してしまうのだ。  だから、強引な手で敵を食い止める必要があった。  それがこの強襲だ。敵にこちらが手強いと思い知らせると同時に、敵陣内部に侵入して乱戦を仕掛ける。  それで、敵の前進は止まる。正面からぶつかった場合、この兵力差では敵は少しずつでも前進してくるが、こちらが敵陣へ突入すれば、相手のベクトルは内側に向くことになる。  そしてなにより、この無謀とも思える強引な攻めは、敵に恐怖感を植え付ける効果もある。  自分にはそうするだけの力があると、ダルジィは信じていた。  立ち塞がる敵の騎士をことごとく斬り伏せ、馬を進めていく。  共に幾多の死線をくぐり抜けてきた信頼できる部下たちが、後に続いている。  誉れ高きマイカラスの騎士団。その中でも最高の精鋭たちだ。  戦いの火蓋が切られてからそれほど時間は経っていないが、ダルジィの部隊は敵の大軍の奥深くまで入り込んでいた。  いったい、戦が始まってから何人の敵を倒してきただろう。もう数え切れない。  そして、これまでに斬り伏せてきた敵の数よりも、これから倒さねばならない敵の数の方が何倍も多いはずだった。  敵陣深くに進むにつれて敵の抵抗は激しくなり、ダルジィたちの進軍の速度は遅くなっていく。  まったく進めなくなった時が、最期の時だった。何倍、何十倍の敵に囲まれ、全滅するまで戦い続けるしかない。それでも最後の一人が斃れるまでの間、敵をここに釘付けにできる。  生命を惜しむ気はさらさらなかったが、だからといって死に急ぐことも許されない。月が適切な位置に来るまで、敵を遺跡に侵入させてはならないのだ。 (馬鹿なことやってるよな、私も……)  ダルジィは常に、愛する人のために闘っている。ハルティのためならば、この生命などいつ捨てても構わない。  しかし今回の戦い、突き詰めれば自分の恋敵を助けるためではないか。  つい、苦笑が漏れてしまう。  本当に、馬鹿だ。  しかしダルジィは、そんな不器用な生き方しかできないのだ。今さら、性格を変えることもできない。  また新手の騎士が、ダルジィの前に立ち塞がった。さすがに教会の騎士の顔までは知らないが、周囲の兵たちの期待に満ちた目を見る限りでは、かなりの使い手らしい。  その騎士を援護するかのように、一筋の魔法の矢が風を切る。  一瞬、防御に気を取られた隙に、敵が間合いを詰めてきた。  剣が疾る。  痛みは感じなかった。それだけ疾い打ち込みだった。肩のあたりが浅く裂け、血が滲んでいる。  一度横を通り過ぎた敵の騎士は、後方に回り込みながら追撃してきた。ダルジィは馬首を巡らし、相手の打ち込みを剣で受け止める。  力で押してくる敵に逆らわず、押された分だけ後ろに下がる。下がりながら、身体の向きを変えて剣を受け流す。  勢い余った相手が一瞬離れた隙を逃さず、ダルジィは鞍の上に立ち上がって跳んだ。  信じられない身の軽さに驚きの表情を浮かべたまま、何も反応できずにいる敵の背中に、短剣を突き立てる。  そのままもう一度跳んで、併走していた自分の馬に戻る。  一瞬のことだった。  主を失った敵の馬が、バランスを崩してどぅと倒れる。敵兵の間に動揺が走る。 (これでまた、少しだけ時間が稼げるか……)  とはいえ、それも長くは続くまい。  今はこちらが攻勢とはいえ、数の上では圧倒的に劣勢なのだ。疲労は蓄積し、兵力は少しずつ削がれていく。 (力尽きて動けなくなったところが、私の死に場所か)  そんなことを考えた時。  周囲に炎の柱が突如出現し、ダルジィの馬を止めた。  白い閃光が視界を掠める。  それはあっさりと防御結界を突き破り、ダルジィの左肩の下あたりを直撃した。  バランスを崩したダルジィは、無理に逆らわずにそのまま転げ落ちた。二撃目を喰らわないためにはそうするしかなかった。馬上にとどまっていては狙い撃ちにされる。  落馬の衝撃で、左肩に激痛が走った。血飛沫が散る。  血を噴き出している傷を押さえ、ダルジィは顔を上げた。  どうやら、敵にかなり力のある魔術師がいるらしい。まともに接近戦を挑んでは不利と見て、遠距離から狙撃してきたのだろう。  ダルジィが倒れたのを見て、周囲の敵が勢いを盛り返してきた。遠くで白い光が瞬く。魔法の矢だ。ダルジィは剣を構え直した。  防御結界が間に合わず、剣で魔法を弾き返す。  腕に、鈍い衝撃が伝わった。王国時代に鍛えられたダルジィの剣は、生半可な魔法では傷も付かない。  間髪入れず、馬上で剣を低く構えた騎士が襲いかかってくる。ダルジィは砂の上に身体を投げ出すように伏せて、その剣をかわした。  同時に、相手の馬の脚を払うように水平に剣を振る。脚を切断された馬が地面に転がる。全力で走る馬の勢いは相当なもので、丸太を斬りつけたような感覚だった。衝撃は骨まで響く。  傷の痛みを無視して立ち上がり、落馬した騎士にとどめを刺した。  すぐに次の敵が襲いかかってくる。それも一刀で斬り伏せる。  返り血だけではなく、自分の出血が左半身をべっとりと濡らしていた。止血をする暇もない。  周囲を見回す。  少なくとも彼女の周りには、他に味方の姿はない。ダルジィ一人だった。 (ここまでか……)  いやだ。  まだ早すぎる。もっと時間稼ぎをしなければ。  まだ、死ねない。  左右から襲いかかってくる敵の片方に、喉を狙って短剣を投げつける。もう一方は相手の剣ごと両断する。  深手を負っていても、戦姫と呼ばれたダルジィの動きに衰えは見えない。 (まだまだ……一騎でも多くの敵を道連れにして、ここに釘付けしなければ)  力尽きるその時まで。  周囲を取り囲む敵の数が増えていた。つまり、彼女がここでこうして闘い続けている間は、それだけ敵の進攻は遅れるのだ。  ダルジィの顔に、引きつった笑みが浮かぶ。  血糊で滑る手を服で拭って、剣を構え直した。 「さあ、遺言を書き終えた奴から前に出な。マイカラスの戦姫と一緒にあの世へ行けるなんて、光栄に思うんだね!」  気迫に気圧されている周囲の敵兵をダルジィは睨め付ける。  今こそ、マイカラスの騎士として恥ずかしくない死に方を見せる時だ。  後世まで語り伝えられるような。  戦姫の名に相応しい戦いぶりを。  そう決心した時。  敵の様子に変化が見られた。なにやら、戦列に乱れが生じている。  ダルジィは微かに目を細めた。彼女一人に構っていられない事態が起こったらしい。  それがなんであるか、の見極めは後回しにした。ダルジィはすかさず、一番近くにいた騎士に短剣の最後の一本を投げつける。  狙い違わず、短剣は相手の喉を貫いた。騎士は落馬する。  間を置かずに地面を蹴って、その馬に飛び乗った。正面にいた敵兵を血祭りに上げ、一気に囲みを突破する。  さらに、慌てて進路を塞ごうとした敵二人を行きがけの駄賃とばかりに叩き斬る。突然の出来事に、残った敵は遅れていた。ダルジィは全力で馬を駆けさせる。  そこは少し小高くなった丘の上だったので、敵の混乱の原因を見て取ることができた。  味方の新手が、ダルジィやケイウェリと同様に円錐陣を敷いて敵中に突入してきたのだ。  それが誰であるかはすぐにわかった。見慣れない、紅い旗印が翻っている。  アルトゥル王国の赤旗軍。  見事な戦いぶりだ。速力を武器とする戦術はダルジィとも似ている。  大陸中にその名の聞こえた、アルトゥル王国赤旗軍。ダルジィたちが苦戦しているのを見て、助けに来てくれたのだろうか。  先頭を切って敵中を進んでいるのは、サイファーとエリシュエルだ。二人の連携は見事だった。一人一人でも相当な使い手のようだが、それが二人がかりで敵に向かうのだから、多少の腕自慢であってもひとたまりもない。二人で一人ずつの敵を相手にするのであっても、一対一の半分以下の時間で倒せるのであれば、結果的には効率がいい。  二人は兄妹ということだったが、あれだけ息の合った連携ができるのはそのためだろうか。  そして、麾下の騎士たちも勇猛だ。ダルジィは自分の部下たちを高く評価していたが、それにも劣らない闘いぶりだ。  それも当然だろう。彼らの国を滅ぼした敵への、復讐の機会を与えられたのだ。  遠くを見れば、ケイウェリの部隊も戦い続けていた。ダルジィの部隊も先頭が孤立しただけで、後続はまだ健在だ。 「私も、負けてはいられないな」  敵中で孤立した部下たちと合流するべく、ダルジィは馬の腹を蹴った。 * * *  部屋全体が、青い光に包まれていた。  最初の頃よりも、ずっと光量が増している。  奈子は床に膝を着いた姿勢のまま、剣を握りしめていた。  意識を集中し、今にも暴走しそうな魔力を制御し続ける。  自分の魔力が、何百倍……いや何万倍にもなったように感じていた。遺跡の膨大な魔力が、奈子の魔力と融合しているのだ。  ぽたぽたと汗が滴り落ちる。  外の様子は、どうなっているのだろう。  アィアリスがここへやって来ていないということは、ソレアはまだ闘い続けているのだろう。  他の者たちも、無事だろうか。  ここにいる限り、わからない。信じるしかない。  だから奈子は、ただ自分が成すべきことだけに意識を集中していた。 * * *  マイカラスの国王ハルティ・ウェルの周囲に残っている兵は、普通では考えられないほど僅かだった。  十騎にも満たない。しかもその中には、正確には軍人ではない者も混じっている。  今はほとんどすべての戦力を、前線に送り出していた。敵の方が何倍も多い戦い、一騎たりとも無駄にはできないのだ。  ここにいるのはハルティとエイクサム、エイシスと由維、そしてニウム・ヒロをはじめとする、数人のマイカラスの騎士。  ニウムはマイカラスの剣聖と呼ばれた老騎士だ。さすがに馬を駆って敵に立ち向かうのは無理だが、その経験と知識は騎士団随一、他の騎士の及ぶところではない。だから今回は参謀として加わり、ハルティと共に小さな卓に広げた地図を見つめている。  そしてエイクサム・ハル。優れた魔術師である彼は、参謀を務めると同時に全軍との連絡も受け持っていた。彼の力を持ってすれば、敵の結界を越えて戦場の様子を把握し、逆に前線の兵にハルティの命令を伝えることができる。  刻一刻と変わる戦況をハルティたちに伝え、新たな指示を前線に伝える。それによってマイカラスの軍は無駄なく有機的に行動できるのだ。少ない兵力を最大限に活かすには、そうすることが必要不可欠だった。  エイシスは本来、ダルジィやケイウェリらと共に最前線に出るつもりでいた。彼の戦闘力は、マイカラスの騎士団最強といわれるケイウェリすら凌駕するだろう。しかし結局、本陣に残ることになった。  理由は、由維がここにいるからだ。彼女を護って欲しいと、奈子に頼まれたから。  しかし、それでよかったのかもしれない。エイシスがここにいるからこそ、マイカラス軍は本陣に残すべき兵まで、すべてを前線に送り出せる。エイシスとハルティがいても本陣が持たないということであれば、それはつまりどうやっても負ける戦ということだ。  エイシスは別に、前線に出られないことをもどかしくは思わなかった。この戦い、マイカラスにとっては総力戦だ。いずれ、ここにも敵が来るだろう。それまで力を温存しておくのも悪くない。  そうならずに楽に勝てるのであれば、それはそれで目出度いことではあるが、期待はできまい。  前線と連絡を取っていたエイクサムの表情が険しくなった。西の戦線が突破され、敵の一部が遺跡へ向かったという。  ハルティをはじめ、そこにいた者はそろって眉をひそめた。由々しき事態だ。遺跡への侵入を許すわけにはいかない。  しかし、それを防ぐにはどうすればよいだろうか。  どの部隊もぎりぎりの戦力で闘っている。余剰兵力はない。  この状況で他の部隊から兵を回せば、戦線全体のバランスが崩壊しかねない。  計算し尽くした、ぎりぎりの作戦なのだ。それでなんとか、予定時刻まで遺跡を護ることができるかどうか、というところ。計算が狂った。 「遺跡に向かった敵の数は?」  エイシスが訊く。エイクサムは、二百前後という答えを返した。 「だったら、そっちは俺が受け持つ。ここの護衛はなくなるが、いいよな?」  愛用の大剣を手に取り、立ち上がりながら言う。  ハルティはうなずいた。彼自身も優れた騎士だ。エイシスがいなくとも自分の身くらいは守れる。  むしろ、エイシスの方が心配だった。 「一人で、か?」 「遺跡の狭い通路の中なら、十対一も百対一も大差はねぇよ。敵を全員倒せというならともかく、通さないだけなら楽な話だ」 「なるほど。しかし、無理はするなよ」 「ここらで少し、ナコに恩を売っておかねーとな」  にやっと笑うと、エイクサムの方に向き直った。遺跡の入口まで転移魔法で送ってくれ、と依頼する。  結界があるために敵は転移では遺跡に近付くこともできないが、味方であるエイクサムならば入口までは転移できる。遺跡に向かった敵を先回りすることも可能だろう。 「おい、ちび」  最後にエイシスは、不安そうにしている由維に呼びかけた。 「行くぞ」 「え?」 「大切な恋人の危機だろうが。お前が護ってやらなくてどうする? それに、お前のことはナコに頼まれているからな。俺の傍を離れるな」  由維の表情が、ぱぁっと明るくなった。  そうだ。当然ではないか。奈子を護ってやらなければならない。 「うん!」  由維は元気よく立ち上がった。 * * *  レーナ遺跡の中に入るのは、由維にとっては二度目だった。  まだ道順は憶えているし、うっすらと積もった埃の上に足跡も残っている。一番新しい、ただ一つだけ奥へと向かっている足跡は奈子のものだ。 「これがレーナ遺跡か。中に入れるのは、これが最初で最後だな」  エイシスが物珍しそうに周囲を見回した。  目的を果たせば、レーナ遺跡は消滅する。この巨大な遺跡全体が、一回だけの、使い捨ての兵器なのだ。月を破壊するための膨大なエネルギーの余波は、この施設そのものを吹き飛ばしてしまうはずだった。  二人は何度か角を曲がり、枝道を無視して、やがて一本の長い通路に出た。 「よし、ここならいいか」  捜し物を見つけた、という調子でエイシスが言う。  この通路で、敵を食い止めようというのだ。  さほど広くもない通路、たとえ敵が何百いても、並んで剣を振り回せるのは二人が限度だろう。エイシスは、一度に二人を相手にすればいいことになる。そして二対一ならば、彼に勝てる騎士などそうそういない。 「お前は、ナコのところへ行け」  エイシスは、通路の奥を指差した。 「え?」 「お前が、ナコを護るんだ。傍にいてやれよ。あいつはどうも、一人だと自分の命を軽んじるところがあるからな」  フェイリアと同じで……という台詞は、わざわざ声には出さなかった。 「あ……」 「お前がいれば、自分はそう簡単には死ねない身だと思い出すだろ」  わざと軽い調子で言う。 「……でも、エイシスさん一人で……」 「お前がここにいて、役に立つと思うか?」  由維は俯いた。  確かに、ここにいても大して役には立てない。  武器も使えないし、奈子のように素手で騎士を倒せるわけでもない。魔法だって、日常生活ではともかく攻撃魔法に関しては、由維はまだまだ未熟だ。 「お前は、ここにいても役には立たねーよ。だけど、ナコの傍にいれば違う。あいつにとって一番大切な時、一番近くにいなきゃならないのは、ユイ、お前だろ?」 「…………うん!」  由維は顔を上げ、力強くうなずいた。遺跡の奥へと駆けだそうとして、立ち止まって振り返る。 「ありがと、エイシスさん。お礼に、この戦いが終わったら奈子先輩を一晩貸してあげる」 「そりゃどーも。だけど、リューには内緒にしてくれよ」 「あはは」  二人は、顔を見合わせて笑った。  小さく手を振って、由維は今度こそ遺跡の奥へと走り出す。エイシスは、その背中が闇に溶けこむまで見送っていた。  やがて、反対側から物音が響いてくる。  大勢の人間、それも武装した人間が立てる音だ。 「さぁて、と」  エイシスは剣を抜いた。  通路の向こうから姿を見せた教会の軍勢は、百人くらいはいるだろうか。 「俺はあいつに、償いをしなきゃならんからな」  口の中で呪文を唱える。精霊を召喚する、フェイリア譲りの四大精霊の魔法。  しかし精霊の反応はいまいち鈍い。これも予想していたことだ。ここは遺跡の魔力が強すぎるため、それを嫌って精霊が寄りつかないのだ。  別に不利になるとは思わない。相手も条件は同じだ。まさか、高度な上位魔法の使い手もいないだろう。  エイシスの姿を見つけて、敵が速度を上げた。抜刀して殺到してくる。  嘲るような笑みを浮かべて、エイシスは呪文の最後の一言を唱えた。  狭い通路に、炎が走る。  いくつもの悲鳴が上がった。爆風に薙ぎ倒された者もいるのだろう。  こうした場所では、爆発系の魔法がよく効く。一つ間違うと自分も巻き込まれるという問題はあるが。  先手を打たれた敵が混乱に陥った隙に、一気に間合いを詰めた。爆発によるダメージから逃れた敵兵に向かって、剣を振りかぶる。相手はそれでも剣で受け止めようとしたらしいが、反応が遅かった。それに力も足りなかった。  剣ごと真っ二つにされた身体が、左右に分かれて倒れる。エイシスはそのまま前に出て、横殴りに剣を振った。二人の敵が同時に両断される。  これで、完全にエイシスのペースになった。機先を制された敵は怯み、逃げ腰になっている者が少なくない。 「どうした、もう終わりか? 根性なし共め!」  大剣を肩に担ぐと、エイシスは口の端を上げて笑った。 * * *  時間の経過と共に、マイカラス軍の陣形は崩れつつあった。  ここへ来て、数の差が目に見える形に現れてきている。  戦線の各所に綻びが生じ、敵味方入り乱れての乱戦が繰り広げられていた。 「それでも、おおよそ計算通りか」  ハルティが苦笑する。空を見上げると、天頂近くまで昇った月が目に入った。  もう、間もなくだ。  この時刻までレーナ遺跡を守り抜いたのは上出来だろう。みんな、よくやってくれた。 「退却しますか?」  こちらに迫ってくる敵兵の一団に気付いたエイクサムが訊く。ハルティは首を振った。 「その余裕はないだろう」  エイクサムに、全軍への指示を出させる。この後新たな指示があるまで、各部隊の判断で交戦を続けること、と。  そう言って、ハルティ自身が剣を抜いた。  ハルティたちの姿を見留めた敵が、こちらへ向かってくる。その数はおよそ四、五十。  それに対してこの場にいるのは、ハルティとエイクサム、そして二人の騎士だけだ。ニウム・ヒロをはじめ残りの者は、既に他の戦場へ支援に向かっていた。  殺到してくる敵に対して、エイクサムが魔法を放つ。彼も、かなりの力を持つ魔術師だ。魔法だけに限っていえば、並の騎士など敵ではない。  敵兵の中心で爆発が起こり、紅蓮の炎が地表を走る。  混乱に陥った敵に対し、手を緩めずに追い打ちをかける。炎に巻き込まれなかった敵兵を、ハルティたちの魔法が一人ずつ狙い撃つ。  敵の足が止まったところで、ハルティは他の二人の騎士と共に切り込んだ。エイクサムも剣を抜いて続く。  自分の生きる道は、自分で切り拓かねばならない。  次から次へと襲いかかる敵騎士を、ハルティの剣がことごとく斬り伏せていく。国王自ら戦場で剣を振るうのは久しぶりとはいえ、その腕はまったく錆びついてはいない。彼の実力は、マイカラスの騎士団中でもトップクラスだ。  しかし、数の差は歴然としている。いくらハルティの腕が立つとはいえ、無傷ではいられない。  いつしか敵に取り囲まれ、エイクサムとも離れ離れになった。付き従っていた最後の騎士が、魔法の矢に撃ち抜かれて落馬する。 (ここまでか……。いや、まだ終わってはいない。最後まで、闘うことをやめてはいけない)  まだ、諦めてはいけない。最後の最後まで闘い続けなければ。  自分に言い聞かせる。  もう終わりだと思ってしまったら、それで本当に終わりなのだ。  敵の数だって減っている。もう数えられるほどだ。なんとかこの場を切り抜けられる可能性がないわけではない。  敵騎士の打ち込みを、剣で受け止める。ハルティの動きが止まったところに、別の騎士が襲いかかってきた。 「――っ!」  その騎士の胸を、どこからか飛来した魔法の光が貫く。 「陛下っ!」  甲高い声が響いた。  ハルティと鍔迫り合いを繰り広げていた騎士の肩口から、鮮血が飛び散る。突然の負傷で相手の力が抜けた瞬間、ハルティの剣が敵の胸を切り裂いた。  視界の隅で、銀色の髪が揺れる。  血にまみれた、笑顔。 (マイカラスの戦姫……か)  ふっと、口元に笑みが浮かんだ。  ダルジィが、ただ一騎でそこにいた。  自分の血か、それとも返り血なのか、全身血まみれだ。  よく見ると駆っているのは彼女の愛馬ではなく、敵の馬だった。  これまでくぐり抜けてきた戦闘の激しさが伺える。  しかしダルジィが加わったことで、この場の決着はついたといってもいい。二人が協力して、残った敵を瞬く間に片付けた。 「……。陛下、ご無事でしたか」  肩で大きく息をしながら、ダルジィが訊く。 「ああ、ちょっと危なかったけどね」 「よかった……よかった……」  それは、心からの安堵の溜息だった。もしかしたら、目に涙が滲んでいたかもしれない。  ハルティは意識して軽い口調で言った。 「ひどい格好だな、ダルジィ。名だたるマイカラスの戦姫がその有様では、戦況は芳しくないか」 「…………いえ」  ダルジィは微かに頬を赤らめた。とても、想い人の前に立つような姿ではない自分を恥じるように。  それでも、マイカラスの騎士としての役目を忘れたわけではない。 「ケイウェリが、残った兵をまとめて抗戦を続けています。敵の進攻は、ぎりぎりのところで辛うじて食い止めています」 「そうか」  ケイウェリがまだ無事、その報告はハルティをいくらか力づけた。 「陛下も、そちらへ合流を」  ハルティにそう促しつつも、何故かダルジィは馬を進めようとしない。 「君は?」 「陛下はお先に。私は、あいつらを片付けてから参ります」  ダルジィの視線の先に、こちらに向かってくる敵の新手がいた。三十騎以上はいるだろうか。  戦場全体で見れば、敵はまだ相当な兵数を残しているはずだが、かなり細かく分散されているらしい。これも、ダルジィやケイウェリらの働きによるものだろう。  それによって、敵の進撃がかなり遅くなっている。 「一人で、あいつらの相手をするつもりか」  ハルティは責めるように言った。 「今、陛下のお側に残っているのは私一人ですから。私が敵を食い止めるのは当然のことです」  ひどく冷静な口調だった。ハルティは知っていた。ダルジィは、状況が危険であればあるほど見た目は冷静になる。  死ぬつもりでいる、と。  そう感じた。  ダルジィの力は認めるが、闘い続けて疲労しているし、傷ついてもいる。この状況でさらに三十対一の闘いなど、勝算のあるわけがない。  それでもダルジィは、当たり前のことのように敵に立ち向かう。  本当に、素晴らしい騎士だ。精鋭揃いのマイカラスの騎士団でも最高だ。  しかし―― 「君の言い分を聞くわけにはいかない」  ハルティはきっぱりと言った。  今、はっきりとわかった。こんなところで、彼女を失ってはならない。ダルジィは必要な人材なのだ。マイカラスにとっても、そして自分にとっても。 「陛下」 「二人揃ってこの場から退却するか、それとも二人で闘うか、だ」 「陛下!」   ダルジィが慌てるが、それも無理はない。闘うとなれば、二人であっても勝算は少ない。彼女の立場としては、たとえ命に代えてもハルティを危険に晒すわけにはいかないのだ。 「ダルジィ、これは命令だ」 「……たとえ騎士団を除名になっても、陛下を危険にさらすわけには……」 「君には、貸しがあるだろう?」 「貸し……ですか?」 「憶えていないか? 子供の頃、負けたら何でも言うことを聞くという賭けで、私が勝ったのを」 「――っ!」  もちろん、憶えている。  初めて会った時の、剣の試合だ。  確かに、そんな約束をしていた。しかしハルティは、その時なにも要求しなかった。遊び半分で剣を交えた相手がこの国の王子と知ったダルジィが泣き出して、そのままうやむやになっていた。 「ずっと保留にしていたからな。ここは私の言うことを聞いてもらう。こんなところで死ぬな。これは命令だ」 「……陛下」 「行くぞ」  ハルティが、ダルジィの馬の尻を剣の腹で叩く。二人は並んで走り出した。 「……しかし、陛下」 「しつこい」  ぴしゃりと、ダルジィの反論を遮る。 「君には、ここで私を護って死ぬよりも、もっと大切な役目がある。ここは何としても生き延びて、それを果たせ」  その言葉を聞いて、ダルジィの瞳に輝きが戻った。 「はっ! 何なりとお言いつけください。命に替えても、その役目果たさせていただきます」 「ようし、その言葉に二言はないな?」  にやりと、意地の悪い笑みを浮かべてハルティが言った。あまり、彼らしくない笑みだった。 「では戦が終わったら、この国の世継ぎを生んでもらおうか」 「……は?」  ダルジィは、言われたことが理解できずに混乱した。  世継ぎを……生む?  その意味が徐々に染み込んでくるにつれて、顔がかぁっと熱くなった。 「よっ、世継ぎって……、へ、陛下っ!」 「命に替えてもその役目を果たすと言ったな? 今さら、否とは言わせんぞ」 「陛下……」  泣く子も黙るマイカラスの戦姫の目に、涙が浮かんでいた。  泣きながら、馬を駆けさせる。  なんとしても、この場は生き延びねばならない。  ハルティの、自分の、そしてこの国の未来のために。 十章 天の光  暗い通路を朱に染めて、何十という死体が折り重なって倒れていた。  生き残った者たちは、とっくに逃げ去っている。一応、彼我の力の差を認識するだけの頭はあったようだ。  それほど大した敵ではなかった。この狭い通路では、あの程度の敵が何百いたところでエイシスの相手にはならない。 「……とはいえ、少し疲れたな」  エイシスは剣を肩に担いでふっと笑った。さすがにまったくの無傷というわけにはいかないが、彼にとってはかすり傷程度でしかない。  敵の新手が来るまで一休みしようか――と腰を下ろしかけた時、小さな足音に気付いた。  一つだけ。  たった一人、遺跡の外から入ってきた者がいる。  アィアリスか、と一瞬緊張した。しかし、まったくの別人だった。  共通点があるとすれば、若い女であるということだけ。  知らない顔だった。  ビロードのような滑らかな褐色の肌。  明るい亜麻色の髪に、濃い茶の瞳。  凛々しい顔立ちをしている。  身なりは騎士だが、見覚えはない。  しかし、ただ者ではなさそうだ。それはすぐに分かった。  まとっている気配が、先程までの雑魚どもとはまるで違う。新手の雑魚が百人やってきた方が、よほどましだった。 「おやおや、まいったね」  その女騎士の方に向き直り、エイシスは笑った。  初めて見る顔ではあっても、それが誰であるか見当くらいはつく。 「……なるほど」  相手はエイシスの姿を見留めると、美しい、しかし抑揚のない声で言った。 「あなたのような者が遺跡を護っていたのですか。ならば、最初から私が出るべきでしたね。無駄な犠牲を出しました」  そう言って、剣を抜く。  すらりと長い剣だ。それを見たエイシスは、なんとなく嫌な予感がした。 「名前くらい、訊いてくれないのか?」 「興味ありません」  挑発でもなんでもなく、それが本心であるようだ。どことなく人間味に欠ける物言いだった。 「ちっ。傷つくねぇ、そーゆー言い方。俺は、エイシス・コットだ」  エイシスは肩をすくめながら、自己紹介をする。 「お前、セルタ・ルフだろう? ティルディア王国の騎士、ヴェスティア・ディ・バーグの副官だった」 「それが何か?」  肯定はしないが、否定もしない。  初対面の相手に名前を言い当てられても、なんの反応も見せない。  しかし、間違いない。  セルタ・ルフ・エヴァン……いや、セルタ・ルフ・バーグというべきか。  先代の黒剣の王、ヴェスティア・ディ・バーグの副官であり、愛人。  どういう経緯でアィアリスと知り合ったのかは知らないが、現在のトカイ・ラーナ教会では事実上、アィアリスに次ぐ地位にいる。  黒剣の主ではないが、その影響を色濃く受けた騎士。ヴェスティアやアリスには及ばないとはいえ、その力は生半可ではない。並の人間であれば、黒剣を手に取った瞬間に発狂するはずだ。  実際のところ、教会の軍勢で怖いのはアィアリスとセルタだけだった。  アルンシルの消滅で中枢をそっくり失って、ただでさえ人材不足のところに、アルトゥルやハレイトンといった大国との戦争を続けている。アルンシルと運命を共にしなかった将たちの主な者は、現在はハレイトンとの南方戦線に派遣されている。  外にいる軍勢の中で、力のある騎士はアィアリスとセルタだけのはず。とはいえ、普通の意味での優れた将が三十人いるよりも、この二人の方がよほど手強い。  アィアリスはソレアを倒さねばならないから、今までセルタが全軍を指揮していたのだろう。遺跡に突入したはずの部隊が逃げ帰ったために、将軍自らお出ましというところか。 (これで、外の連中は少し楽になったかね?)  エイシスは思った。  外はかなりの乱戦になっている。五万の軍を一人で有機的に動かせるほどの将軍は、他にいないはずだ。いくら兵数が多くとも、各部隊がそれぞれの判断でばらばらに動いては、その数の利は活かせまい。  教会……いやアィアリスにとって、この戦いの目的は遺跡の破壊である。それを優先するためには、兵にどれほどの損害が出ても構わないということか。 (外の連中は楽になったかもしれんが、俺はきついよなぁ。簡単にはいかねーだろ、こいつは)  セルタが実際にどれほどの力を持っているのかは知らない。しかし聖跡を破壊したのは彼女だというし、あのアィアリスが片腕として全軍の指揮を任せていることだけでも、その力のほどが伺える。二人の黒剣の王に副官として仕えるなど、並の騎士に務まるわけがない。 「しかし、お前はいったいなんのために闘ってるんだ? 別に、教会やアィアリスに義理があるわけじゃないだろう?」  答えは期待せずに、訊いた。 「したたかな男ですね、あなたは」  セルタが、微かな笑みを浮かべたように見えた。気のせいかもしれないが。 「話をすることで、少しでも時間を稼ごうと? あなた方は、月が天頂に来るまで遺跡を護り抜けば、勝ちですから」  エイシスは内心舌打ちする。読まれていたか、と。  この闘いの目的は敵を倒すことではなく、遺跡の発動まで、敵をこれ以上奥へ進めないことだ。  その目的は見失わない。無理に闘う必要はない。  いつもの傭兵としての闘いなら、強敵と刃を交えるのはむしろ楽しくすらあるが、今は闘わずに済むならそれに越したことはない。ここでセルタを倒したとしても、自分も無傷では済まないだろうし、まだ次の敵が来るかもしれない。  だから、セルタと直接刃を交えるのを、少しでも遅らせようとした。しかし、その考えは見透かされていたようだ。 「その手には乗りません」  セルタが剣を構えた。  両手で剣を持ち、横身になって脚を前後に大きく開く。 「そう言わずに、答えてくれたっていいだろう?」  エイシスは相変わらず、剣を肩に担いだままだ。 「絆、ですから」  期待していなかった答えが、ようやく返ってきた。 「え?」 「今となっては、そうすることが最愛の人とのたった一つの絆ですから」 「…………」  単なる時間稼ぎ、最初から答えは期待していなかったが、これは多分、一番聞きたくなかった答えだった。  ヴェスティアとセルタの間になにがあったのか、エイシスは詳しく知らない。フェイリアとソレアから、あらましを聞いただけだ。  しかし抑揚のないセルタの声音からでも、揺るぎない決意だけは感じることができる。  過去に何があったのかは知らないが、セルタの想いには共感できるものがある。  溜め息をついた。 「やれやれ。剣を引いておとなしく引き上げてくれというわけにはいかない……かっ!」  自分の言葉が終わる前に、地面を蹴った。  一瞬で間合いを詰め、何気なく担いでいたように見えた大剣を真上から叩きつける。  セルタはそれをまともに受け止めようとした、ように見えた。しかしすぐに剣は引かれ、斜めに力を逸らす。  同時に、セルタが前に出てくる。エイシスのすぐ横を掠めるように通り過ぎる。  腕に、灼けるような痛みが走った。上体をひねってかわしていなかったら、腕を切り落とされていただろう。  セルタの剣は、目では追いきれなかった。エイシスはただ、勘でかわしただけだ。 「……トリニアの騎士剣術、か」  背後に回ったセルタを振り返りながら、独り言のようにつぶやく。  それは千年以上も昔、トリニア王国の竜騎士を最強たらしめた技。  一見地味な動きではあるが、まるで隙のない流れるような動作が特徴だ。ゆっくりのようでいて、しかしその刃先は目で捉えられないほど疾い。 「これをかわしただけでも、称賛に値します」  セルタは、既に剣を構え直していた。隙は見当たらない。  その口調からは、闘いを楽しむという雰囲気は伝わってこない。ただ淡々と、事実だけを述べている。 「初めて見るってわけじゃないからな」  エイシスは応える。  今では忘れられてしまったトリニア流の騎士剣術ではあるが、それを今に伝える者がまったくいないわけでもない。  例えば、マイカラスの戦姫ダルジィ。  元々マイカラスの騎士の技はトリニアの伝統を色濃く残しているが、王国時代からの古い家系の末裔であるダルジィは、特にその傾向が強い。  そして先日見た、ソレアと奈子の闘い。ソレアの技は正真正銘の騎士剣術だ。  それらの動きの特徴を覚えていなかったら、今の一撃は危なかった。 「しかし……、ティルディアの騎士で黒剣の王の右腕だったお前が、どうしてトリニアの騎士剣術なんだ? 黒剣はすなわち、ストレイン帝国の皇帝の剣。トリニアは宿敵だろうに」 「ヴェスティア様にとっては関係のないことです。あの方にとってはトリニアもストレインも関係ありませんし、闘いに関しては合理的な方でしたから」  セルタが応える。 「トリニア流の剣を使う理由は一つ。筋力で男に劣る女騎士にとって、これが最も優れた剣技だからです」   確かにその通りだ。元々、個々の騎士の力はストレインよりもトリニアの方が優れているといわれていたが、特に女性騎士については差が歴然としていた。ストレイン帝国の竜騎士だったレイナ・ディは例外的な存在だが、彼女だって実際にはトリニアの家系だ。 「だろうな」  エイシスは剣を構えて踏み込んだ。ただし必要以上に接近はしない。  体格と剣のサイズの差の分、リーチでは圧倒的に有利なのだから、そのぎりぎりの間合いで闘う。そうすれば相手の剣は届かない。  しかし。  セルタの剣が、エイシスの大剣に絡みつくような動きを見せた。エイシスの怪力が、見事に吸収されてしまっている。  そのまま、セルタが間合いに入ってくる。 (やられる……下がるか? いや)  セルタの剣は長く、踏み込みは鋭い。一度間合いに入られてしまったら、多少下がったくらいで逃れられるものではない。  エイシスは一瞬で心を決め、逆に前に出た。大剣は、この近い間合いではかえって不利であるにも関わらず。  剣で相手の刃を押し返しながら、肩口から体当たりする。小柄なセルタの身体が、後ろに飛ばされた。  脚に一瞬の痛みが走る。いつの間にか斬られたらしい。しかし、構ってはいられない。傷を無視して前に飛び出し、バランスを崩しているセルタに剣を振り下ろす。  その打ち込みを、セルタが剣で受け止めようとした。エイシスは刃が衝突する寸前で剣を止め、左手で腰の短剣を抜いて突き出す。  短剣は、セルタの胸から肩にかけてを浅く切り裂いた。そこへもう一度、右手一本で握った大剣を叩きつける。  目にもとまらぬこの連携を、しかしセルタは体重が消えたかのように軽やかに後ろへ跳んでかわした。 「……変則的ですが、なかなかのものですね」 「なにしろ育ちの悪い傭兵だからな。お前みたいに由緒正しい剣技なんて、習う暇がなかった」  エイシスの左手から短剣が落ちた。血が滴る。  手首を斬られていた。腱が切断されていて、短剣を握っていることができない。  セルタが後ろに跳んで下がった、あの一瞬のことだろう。  見えなかった。  一見防御重視に見えるが、受けた攻撃に対して確実にそれ以上の反撃をするトリニアの騎士剣術。その恐ろしさを垣間見た。  ぼたぼたと血が滴っている。出血が多い。  動脈を切られたようだ。  時間の余裕は、あまりない。 「くそっ」  防御を固めて時間稼ぎ、という選択肢は奪われてしまった。それは向こうもわかっていることだ。  長引かせたくない。だから、こうしたのだろう。  月が天頂に来るまでの残り時間がどのくらいか。正確なところはわからないが、もうそんなに長い時間ではないはずだ。 (……次で仕留めにくる、か?)  セルタにしても、これ以上時間をかけるわけにはいくまい。  ここまでは無理な攻めをせずに、エイシスの攻撃を受けてはその隙に反撃を繰り返してきたが、そろそろ勝負を決めにくるはずだ。  そのための布石として、エイシスが守りに専念できないようにしたのだ。こちらの残り時間を奪って、強引な攻めをさせる気だろう。 (そう……思い通りにさせるかよ)  エイシスは斬られた左腕を高く上げた。  少しでも出血を抑えるために。  右手一本で剣を構え、静かに息を吐き出す。 「あてが外れたな」  余裕を見せて、にやりと笑う。  セルタの眉が、ぴくりと動いた。 「俺の時間を奪って、こちらから仕掛けさせるつもりだったんだろうが。……俺は、攻めないぜ。お前の誘いに乗って無理な攻めをするよりも、失血で意識を失うまでここに立ち塞がった方が、時間稼ぎになるからな」 「逃げないのですか? 追いはしません。今すぐ手当てをすれば、命は助かるでしょう」 「ばか言え」  エイシスは不敵な笑みを浮かべる。  迷いは微塵もなかった。 「ばか言え」  その男は、落ち着いた口調で言った。  迷いは微塵も感じられなかった。自分の死が、目前に迫っているというのに。  セルタにはほんの少し、意外だった。  確かに腕の立つ男だが、国に忠誠を誓った騎士ではなく傭兵のはずだ。なのにどうして、そこまでするのだろう。 「例えばお前がこの状況に追い込まれたら、尻尾を捲いて逃げられるか?」 「……なるほど」  セルタはうなずいた。もっともなことだ。  思い出した。エイシス・コット・シルカーニ。  アィアリスが言っていた。この男は、ナコ・ウェルの恋人なのだ。  愛する者を護るためなら、何を犠牲にしてもいい――それはかつて、セルタ自身も実践したことではないか。  殺さない限り、この男はここに立ち塞がるのだろう。  だから、セルタの方から仕掛けた。  間合いに入った瞬間、エイシスが渾身の力で剣を振り下ろしてきた。傷を負いながらも鋭い打ち込みだ。  セルタはそれを受け流して、相手の右腕を斬りながら前に出た。そのまま、無防備になったエイシスの身体を剣で貫く。  勝った、と。  そう確信した。  それでも称賛に値する相手だ。あの状況下でまるで死を怖れることなく、冷静に相打ちを狙ってきた。  しかし、セルタの騎士剣術はそんなに甘くはない。ヴェスティアから受け継いだこの技は、命を捨ててきたからといって破られるようなものではない。  そのはずだった。  なのに、どこか違和感がある。  何も問題はないはずなのに。  ――いや。  最後の瞬間、セルタの剣に腕を斬られるより一瞬早く、エイシスは自ら剣を手放していた。  何故?  そのことに気付いた瞬間、セルタの頭部に衝撃が走った。  セルタの身体は頭から壁に叩きつけられ、べっとりと紅い染みを残してずるずると床に崩れ落ちた。  それきり、動かなくなる。  エイシスは、拳を握って立っていた。  血に汚れた拳だった。 「……あいつにさんざん殴られた経験が、こんなところで役に立つとは、な」  自嘲めいた笑いがこぼれる。  あの時、腕を斬られるより一瞬早く剣を手放し、その腕でセルタを殴りつけたのだ。  高度な徒手格闘術が存在しないこの世界においてはあり得ない攻撃で、セルタにも読めなかった。  奈子との付き合いが長いエイシスだからできたことだ。見よう見真似ではあるが、エイシスの腕力と小柄なセルタの身体を考えれば、十分に致命的な威力を持つ。 「さて……」  エイシスは、自分の身体を見下ろした。 「俺にできるのは、ここまでか。さすがに……、これ以上は闘えんよなぁ」  腹に突き刺さった剣。傷からは血が流れ出している。  出血は他にもある。肩、脚、最後に斬られた右腕。そして左手首。  流れ出る血の勢いが先刻よりも衰えているのは、決して傷が塞がってきたためではない。 「……くそっ」  遺跡の奥、先刻由維が向かった方へと歩き出そうとした。  しかし、脚に力が入らない。  目が霞む。  よろけて、壁に手をついた……はずだったが、その手にはもう身体を支える力は残っていなかった。エイシスの身体が崩れ落ちる。  石の床の上に、血の染みが広がっていく。その速度は意外と遅い。もう、体内にそれだけの血液が残っていない。 「なんて……こった……」  倒れて、床に顔が押しつけられた状態で、エイシスは笑った。  可笑しくて仕方がない。 「……この俺が、…………女と相打ちかよ……。いくら……」  いくら、相手が黒剣の影響を受けた者とはいえ。  しかし考えてみれば、これまで男に負けた記憶はほとんどないのに、女に負けた記憶はいくつも甦ってきた。もちろんそれは、心理的な闘いも含めてのことだが。  エイシスが勝てないと思った相手は女ばかりだ。  そういう運命なのかもしれない。  フェイリア・ルゥ・ティーナ。  ナコ・ウェル・マツミヤ。  ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。  アィアリス・ヌィ・クロミネル。  セルタ・ルフ・エヴァン。  そして……。 「あぁ……そういや、…………子供の名前、決めてねー……」  最後に浮かんだのは、緑の瞳を持つ美しい少女の顔だった。  何故か、ひどく怒っているようだ。 『あんたねぇ! あたしに無断で、勝手に死ぬんじゃないわよ!』  怒っている。怒っている。  何故だろう。記憶にあるその少女の顔は、笑顔よりも怒っている顔がずっと多い。  怒っている顔も魅力的だ――と常々思ってはいたが、本人にそれを伝えたことはないような気がする。 「……リュー……悪りぃ……」  その言葉はもう、声にはならなかった。 * * *  傷口から、血が噴きだしている。  高々度を高速で飛行して、気圧が下がっているためだ。  それでもソレアは、闘いを止めようとはしなかった。  ソレアとアィアリス、二人が放つ強力な魔法が夜空を絶え間なく彩る。いまだにどちらも、相手に致命傷を与えられずにいる。  ここまでは、なんとか持ちこたえてきた。ソレアの傷は浅くはないが、まだ戦闘力を失ってはいない。  それもすべて、フレイムの力があればこそだ。  王国時代末期の、最強の青竜。  その力も、経験も、アィアリスの竜を圧倒していた。  だから、ここまで闘えたのだ。悲しいかな、ソレアの力だけでは黒剣を持つアィアリスには到底太刀打ちできない。  一度、相手と距離を取った。ちらりと空を見上げる。 「そろそろ、仕留めに来るわね」  もう時間がない。月は、ほぼ天頂近くまで来ている。  もう、あとほんの少し持ちこたえれば――  しかしその前に、アィアリスは強引に決着をつけにくるだろう。ソレアがここまで粘れたのは、フレイムの力のおかげと、アィアリスが無傷で勝とうとしていたためだ。  なりふり構わず来られたら、満身創痍の今のソレアでは持ちこたえられない。 「……やるわよ」  ならば、先に仕掛けるまでだ。  耳元で風が唸る。  二頭の竜は瞬く間に距離を詰めていき、そのまま空中で激突した。  閃光。  そして咆吼。  アィアリスの竜と組み合ったまま、フレイムが炎を吐く。灼熱の竜の火は相手の翼を灼き、その巨体を炎で包む。  純白の刃と、漆黒の刃。  対照的な二つの剣がぶつかり合った。  黒の剣がソレアの身体を貫く。  二頭の竜はそのままもつれ合い、地表へと墜ちていった。 * * *  意識が戻って最初に目に入ったのは、巨大な、紅い竜の死体だった。  続いて、傍らに座る長身の男の姿。  ソレアは、地面に横たえられていた。 「……アィアリスは?」  ソレアは訊いた。人間の姿をとっているフレイムに向かって。 「残念ながら、生きてるよ。たいした傷も負っちゃいない」 「遺跡の中へ?」 「ああ。あとはレイナ……いや、ナコ次第か」 「……そう」  小さく溜息をついた。  できるだけのことはやったが、それでもここまでか。  起き上がろうとしたが、身体が思うように動かなかった。その割に、痛みはそれほど強くない。  自分の身体を見ると、ひどい傷を負っていた。当然だ。あれだけ激しい闘いを繰り広げ、最後は黒剣に貫かれたのだ。  見れば、フレイムもかなりの傷を負っている。  ソレアの傷は一応フレイムが魔法で手当てしてくれたようではあるが、完全に塞がっているわけではない。  黒剣によって受けた傷は、魔法では完全に治療することができないのだ。  ある程度以上強力な魔法によって受けた傷は、それ以上の魔法でなくては治せない。それが、治癒魔法の限界だった。  傷からの出血は続いている。このままでは助からないだろう。  ソレアが失血死するのが先か、それとも遺跡の発動が先か。  月が破壊されれば、黒剣の力は失われる。そうすれば魔法による治療もできる。 「……でも、それまで保ちそうにないわね」  何故か、笑みがこぼれた。 「黙って寝てろ。とにかく、信じて待つしかないだろう」 「あなたの傷は?」  表向き平然としているが、フレイムだってかなりの重傷のはずだ。でなければ彼は、アィアリスの後を追っているはず。闘いを継続できないほどの深手なのだ。 「竜の生命力は、人間とは比べ物にならんからな」 「そうだったわね」  とはいえそれは、死ぬのに時間がかかる、という意味でしかない。黒剣がある限り、二人の運命は同じだ。……いや、フレイムの生命力ならば、遺跡の発動までは生き延びられるだろう。奈子が成功すれば、彼は助かる。  ソレアは?  かなり微妙なところだった。  どうなるかは、その時になってみなければわからない。  二人はしばらく無言でいた。  地上では、まだ戦闘が続いているようだ。遠くから風に乗って、戦いの音が聞こえてくる。 「……ごめんなさい、不甲斐ない騎士で。私がもう少ししっかりしていれば……」 「いいから、黙ってろ。それにあれは相手が悪い。お前がトリニアの時代に生まれていれば、かなりいい騎士だったと思うぞ」 「……ありがとう」  素直に、そう言えた。  それは最高の褒め言葉だ。 「ところで、竜の剣は?」 「ここにある」  フレイムは傍らに置いてあった剣を取ると、ソレアの手に握らせた。  ソレアは、剣に向かって語りかける。 「あなたも、まだ闘い足りないでしょう。お行きなさい、相応しい騎士の許へ。あなたを必要としている者の手の中へ」  その言葉に応えるように、ソレアの手から剣が消えていった。 * * *  狭い通路に、何十という兵たちの死体が折り重なっていた。  全員が教会の兵だ。  その光景を見ても、アィアリスは眉一つ動かさなかった。  そして、少しばかり毛色の違う者が二人。  一人は、体格のいい赤毛の男だった。この男には見覚えがある。  名前は、エイシス・コットといっただろうか。ハシュハルドで闘ったことがある。竜騎士でもなんでもない人間にしては、なかなかやると思ったものだ。  そしてもう一人は、褐色の肌の少女。  アィアリスはそこで、微かに眉をひそめて足を止めた。じっと、頭部から血を流している少女を見つめる。 「……私に断りもなく、勝手に死ぬんじゃないの」  ぽつりと、それだけをつぶやいた。  耳に聞こえるか聞こえないかという小さな声だったが、幾分怒りを含んでいるようだった。  だけどどうして、腹立たしいのだろう。  それは、セルタを殺した敵に向けられた感情ではない。  なんの断わりもなく、自分の見ていないところで死んだセルタに怒りを覚えた。  無論それは言い掛かりでしかない。セルタだって、好きで死んだわけではあるまい。 「…………」  じっと、セルタの死体を見つめる。  頭から壁に叩きつけられたのだろうか。壁に寄りかかるようにして、頭部が血に染まっていた。どことなく、驚いたような表情を浮かべているようにも見える。  あまり、見栄えのいい死に顔とは言えなかった。 「せっかく、きれいな娘なのに」  アィアリスはどこか寂しげな笑みを浮かべた。  なんだろう、この感覚は。  アルワライェが死んだ時に感じた、ぞくぞくするような感覚とも違う。  今まで感じたことのない、不思議な感情だった。  微かな、喪失感。  普通の人間が言うところの「悲しみ」という言葉が一番近いのだろうか。  自分に問いかけてみる。  悲しいのだろうか。  セルタが死んでしまったことが、悲しいのだろうか。 「……さぁ」  よくわからない。  そもそも、二人はよくわからない関係だった。  セルタは別に、アィアリスの部下というわけではない。公式な身分はともかくとして、精神的にはアィアリスと対等に振る舞っていた。  何故、一緒にいたのだろう。アィアリスが命じたのではない。セルタは自分の意志で、行動を共にしていた。  なんの利害関係もないはずなのに。  アィアリスが、ヴェスティアの形見である黒剣の所有者だから?  ただ、それだけのこと?  肉親や友人といった存在を持たないアィアリスにとっては、理解しがたい相手だった。  考えてみれば、アルワライェの次に多く言葉を交わした相手だ。血のつながりがない以上、これはやはり「友情」と表現するべき関係なのだろうか。  これまでアィアリスにとって、人間などちっぽけな虫けらと同列の存在だった。彼女にとって意味を持つのは、弟のアルワライェと、クレインやファーリッジといった竜騎士の力を持つ敵だけだった。  セルタはそこへ入り込んできた、不思議な存在だ。 「友達……ね。そう考えると、けっこう面白かったかもしれないわ。もう会えないのが残念ね」  アィアリスはセルタの傍らに屈み込むと、血まみれの顔にそっと唇を押し付けた。  唇を汚したセルタの血を、舌で舐め取る。  美味しかった。  それでふと思い出した。  同じくらいに美味な血の持ち主のことを。  まだ生きている者の中ではただ一人、アィアリスにとって意味を持つ人間。  ナコ・ウェル・マツミヤ。  そうだ。彼女がいた。  アィアリスのことを「アリス」と愛称で呼ぶのは、アルワライェとセルタと、そしてナコだけだった。つまりアィアリスにとっては他の二人と同等かそれ以上の、特別な存在なのだ。 「そうね。あの娘がいるのよね」  笑みを浮かべて立ち上がった。  それは先刻までの、どこか寂しげな表情ではない。  心が高揚するのを感じる。これもまた、不思議な感情だった。 「残念ね……」  残念なことに、残り時間はもうほとんどない。時間さえあれば、一度ゆっくり話をしてみても面白かったかもしれない。  そうすれば、セルタのような「友達」になれたかも。  考えただけで興奮する。友達をこの手で殺すというのは、どんな感じがするものなのだろう。  機会があれば、ぜひ試してみたいものだ。  本当に残念だ。  兵を整えたりせずに、もっと早くに来ればよかった。  ナコともっと話をして、親しくなって。  それからこの手でなぶり殺しにすれば、もっと楽しかっただろうに。 「今さら言っても、後の祭り……か」  アィアリスはまた歩き出した。  遺跡のさらに奥へと。  ところどころに枝道があるが、迷う心配はない。『力』を感じる方へと進んでいけばいい。  徐々に、力が強くなってくる。  そろそろ遺跡の最奥部のはずだ。  そこに、ナコ・ウェルがいる。彼女が闘うべき相手が。  しかし。 「……?」  正面に、青い光が見えてくる。  あれが遺跡の中心だろう。  そして――  その手前の通路に立っている、小さな人影がある。  それが何者であるか気付いて、アィアリスは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。 * * * 「……ふぅ。これでよし、と」  奈子は、ゆっくりと顔を上げた。  そして、真上を見上げる。  彼女が立っているのは、大きな、深い井戸の底のような場所だった。  遙か上に見える、丸く切り取られた夜空。  月が、丸い姿を見せている。  もう間もなく、遺跡の真上に来る。  足下から、振動が伝わってきていた。まるで、地中深くから突き上げてくるようだ。  壁が、床が、びりびりと震えている。  レーナ遺跡が、活動を始めたのだ。  この巨大な兵器は、既に臨界点を超えている。後はもう、放っておいてもよい。発射は自動で行われる。  まもなく、レーナ遺跡は消滅する。月をひとつ道連れにして。  いつまでもここにいないで、脱出しなければならない。遺跡の力の前では、防御結界など紙ほどの役にも立たない。  奈子は、入ってきた通路に向かおうとした。  その瞬間――  突然、自分のものではない魔法の気配を感じた。  誰かが、遺跡に侵入した? 「奈子先輩っ!」  一瞬、幻聴かと思った。  もっとも聞き慣れた、そして、ここで聞くはずのない声。  殺気を感じて、反射的に身を伏せた。  赤い魔法の光が、頭の上を掠める。  耳をつんざく爆発音。  吹き飛ばされて、通路から転がり込んでくる小柄な少女の姿。 「……由維っ!」  奈子は立ち上がって、慌てて駆け寄った。  間違いない。由維が、そこに倒れていた。  全身血まみれで、ひどい火傷を負って。 「由維っ! 由維っ!」 「……よかっ……た……奈子先輩……無事で…………」 「由維っ! しっかりして!」  ベルトにつけたポーチから、魔法のカードを取り出す。ありったけの治癒魔法のカードを。  しかし手持ちのカードすべての力を解き放っても、傷は塞がらない。いくらか出血を抑えられたかどうか、というところだ。  それは、この傷が極めて強力な魔法によるものだという証だった。なにしろ、ファージの治癒魔法を封じたカードが通じないのだ。  それほどの力を持つ相手。  この戦場には一人しかいない。  その相手は、ゆっくりと通路から姿を現した。 「アリス……」 「おあいこ、でしょう? これで」  朱い髪を手でかき上げ、アィアリスは残酷な笑みを浮かべた。  おあいこ、の意味は分かる。彼女の弟を殺したのは奈子なのだ。 「前に言ったわよね? こうするとあなたは、もっと私を楽しませてくれるって」  しかし奈子は、そんな台詞は聞いていなかった。  自分の腕の中の、傷だらけの由維だけを見ていた。 「由維、しっかりして! 死なないで、由維!」 「……私は……大丈夫だから……」  力なく呻いて、由維はぎゅっと唇を噛みしめている。  傷に意識を集中しているのだ。魔力のすべてを注ぎ込んで、出血を抑えている。  しかし、いつまでも保たないだろう。この傷は、由維程度の魔法では治せない。  あの時のアィアリスの魔法は、奈子を狙っていた。直撃すれば奈子を殺せるほどの魔法だったのだ。 「……だから……奈……先輩……」  奈子は、呆然と見つめていた。  このままでは、死んでしまう。  由維が、死んでしまう。  救う術は、一つしかない。  この傷の源である魔力を断ち切ること。  すなわち――  アィアリスを殺すか、黒の剣を破壊することだ。  他に、由維を救う術はない。  もう、猶予はほとんどなかった。こうして抱きかかえていると、由維の生命力が見る間に失われていくのがわかる。 「よくも、由維を……」  奈子は立ち上がった。壁の近くの床に自分のマントを敷いて、由維の身体を横たえる。 「少しの間、頑張って。すぐに、済むから」 「…………」  自分のやるべきことは、わかっていた。  ここで由維を抱きかかえて泣いていても、何も解決しない。  そんなことをしても、誰も喜ばない。由維だって、ソレアだって。  ――そうだ。  アィアリスがここにいるということは、ソレアとフレイムが負けたのだ。二人はどうなったのだろう。  もしも殺されたのだとしたら。  それは、奈子のために犠牲になったのだ。  二人の死を無駄にしてはならない。  ソレアもフレイムも、由維も、自分がやるべき事をやってくれた。外ではきっとハルティもエイシスも、自分の役目を全うしようと奮闘していることだろう。  だから、奈子も。  今、自分がやらなければならないことをする。  アィアリスを倒して、由維を助けること。  遺跡を守り通して、月を破壊すること。  なんとしてもやり遂げなければ、死んでいった者たち、傷ついた者たちに顔向けできない。  奈子は立ち上がって、アィアリスと向き合った。涙が溢れて頬を濡らしている。 「……こうまでしなくたって、本気で闘ってやったのに」 「こうでもしなきゃ、私の気が済まないもの」  アィアリスが剣を抜く。  漆黒の刃を。 「できれば、一度ゆっくりと話でもしてみたかったわね」  まるで、友達にでも話しかけるような口調だった。 「……そうだね、時間がないのが残念だ。悪いけど、すぐに終わらせるよ」 「あら、剣を抜かないの? 剣なしで私に勝てるつもり?」  魔法陣の中央に刺さったままの、無銘の剣を顎で指す。 「その手には乗らない」  奈子は唇の端を上げて言った。  無銘の剣は、遺跡の発動に必要なものだ。  あれが、スイッチになる。  力を集中し、制御するために。  遺跡を起動する鍵として、最後まで必要なものなのだ。 「私が何を持っているのか、わかっているの?」 「わかってるさ」  いくらなんでも、素手で闘えるとは思っていない。奈子よりも強い力を持ったアィアリスが、黒の剣を持っているのだから。  力の差は、ハシュハルドで思い知らされた。無銘の剣を持っていても勝てなかったのに、素手で勝てる道理はない。  しかし、無銘の剣を抜くわけにはいかない。 「剣なしであんたに勝てるなんて自惚れちゃいない。だけどこれを使わなくたって、アタシが使える竜騎士の剣は他にもある」  奈子は、両手を前に伸ばして意識を集中した。  そして、呼びかける。そこに、きっとあるはずの剣に向かって。 「剣よ、我が手の中に、在れ――」  その言葉に応えて、手の中に剣が現れる。  長い、純白の刃。  それは磁器のような、非金属的な光沢を放っていた。  竜の剣。  この剣が、ここにあるのはわかっていた。  アィアリスがここにいるということは、竜の剣を手に闘っていたソレアが倒れたことを意味するのだから。  竜の剣――それは、トリニアの竜騎士ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトの剣。  フェイリアが持っていた剣。  ソレアがアィアリスと闘うために用いた剣。  遠い昔、レイナ・ディを殺した剣。  そして今、奈子が竜の剣を手にして黒剣と闘う。 「……」  遺跡の振動が、大きくなっていた。周囲の温度も上昇しているようだ。  時間がない。 「行くよっ!」  奈子は、魔法の矢を放射状に放った。同時に床を蹴る。  アィアリスの防御結界が、魔法を受け止める。  奈子は気にせずに剣を打ち込んだ。  火花が散る。  漆黒の刃が、奈子の打ち込みを受け止めていた。  至近距離から魔法を連打するが、それでもアィアリスの結界は破れない。  アィアリスは力で奈子を押し返し、そのまま剣を振った。  鮮血が飛び散る。腕を浅く斬られたようだ。奈子は一度間合いを取った。 「猪突猛進では、私には勝てないわよ」 「……の、ようだね」  剣を両手で構え直した。横身になって、脚を前後に大きく開く。  純白の刃が青白く輝く。 「ふぅん」  アィアリスは、興味深げにつぶやいた。 「あなたが、それを使えるとはね」  奈子の構えは紛れもなく、トリニアの騎士剣術だった。今では伝える者も少ない技、しかも奈子がこれまで見せたことはない。さぞかし意外だろう。 「……姉に、教わった」 「姉?」  訝しげな表情を浮かべるアィアリスに向かって、からかうように笑ってみせる。 「ユウナ・ヴィ・ラーナさ」 「――?」  それは、レイナの記憶だった。  ストレイン帝国の騎士であったレイナは、トリニア流の剣技を身に付けていたわけではない。が、ユウナとの闘いを通してその技を盗んでいた。  いや、ユウナが、闘いを通してレイナに伝えようとしていたのかもしれない。  いずれにしても、アィアリスはそんな事情を知らない。 「面白いわね」  今度はアィアリスから仕掛けてくる。  疾い。  奈子は打ち込みを受け止めると同時に、右足を後ろに引いて半身の体勢になった。相手の力を受け流しながら、その足で床を蹴って前に出る。  二人がすれ違い、同時に振り向いた。  二人の腕から、血が流れていた。  また、間合いを詰める。  剣と剣がぶつかり合う音が響く。  常人の目では、その刃の動きを捉えることはできないだろう。ただ、次第に二人の傷が増えていくのを見るだけだ。  それでも、致命傷はひとつもない。 「……やるじゃない」  アィアリスは楽しそうに言った。 「時間がないのが、残念だわ」  周囲の温度は、はっきりわかるくらいに高くなっているし、振動は地震並みに大きくなっている。  魔法陣が放つ光も、さらに強くなっていた。  残り時間はもう、あと数分もないのではないだろうか。  闘いを楽しんでいるように見える二人の顔にも、焦りの表情が浮かんでいた。  アィアリスは、それまでに遺跡を破壊しなければならない。  奈子だって、いつまでもここにはいられない。遺跡の「砲撃」に巻き込まれたら、防御結界などなんの役にも立たない。奈子にはここで死ぬ気など、さらさらなかった。 「ちっ」  小さく舌打ちしたアィアリスが、一瞬後ろに下がる。  同時に、二人の間に小さな眩い輝点が現れた。  間髪入れず奈子が前に出て、剣でその輝点を叩き斬った。  光は小さく弾けて消滅する。さらに、アィアリスの胸のあたりが浅く裂けて血が滲んでいた。 「それをやりたきゃ、アタシを殺してからにしな」  奈子は吐き捨てるように言った。  あれは『破滅の光』だった。  奈子がトゥラシを消滅させた力。  アィアリスがハシュハルドを消滅させた力。  あの力を持ってすれば、レーナ遺跡を破壊できる。というよりも、破壊のためにはそれだけの力が必要なのだ。  前文明が築いた巨大な兵器、生半可な魔法では傷ひとつつけられない。  破滅の光は極めて強力な魔法ではあるが、それだけにどうしても隙が生じてしまう。一瞬のこととはいえ、竜騎士の力を持つ二人が至近距離で一対一で闘っている時には、その隙が致命傷になりかねない。 「確かに、ね。いくらなんでもあなたを舐めすぎたわ。じゃあ……」  ふっと、アリスの身体がかき消えた。  彼女が得意とする、極短距離の転移攻撃だ。  弟のアルワライェもそうだったが、これで相手を攪乱し、背後をとる戦法をよく使う。  奈子は、素速く剣を背後に回した。  狙い違わず、同時にアィアリスの気配が後ろに現れる。  しかし。 「――っ?」  奈子の剣は空を切った。  一瞬後、アィアリスの姿が正面に現れる。一度背後に出ると見せかけて、すぐに転移し直したのだ。  キィンッ!  甲高い金属音。  奈子の手から、剣が弾き飛ばされる。  それでも反撃の体勢を取ろうとするが、同時にアィアリスの姿が消えた。  ほんの一瞬、反応が遅れた。  予想外だった。まさか、この極短距離転移を三度も続けるなんて。  背後に気配が現れるのと同時に、衝撃が身体を貫いた。  紅い光が迸る。  灼熱の魔法の光が、腹部を貫通していた。  その反動で、奈子は前方に飛ばされた。勢い余って数歩よろけたその先に、またアィアリスが現れた。  そして――  この世でもっとも禍々しい漆黒の刃が、奈子の身体を貫いた。 「ぐ……ぅ……」  噛みしめた口の端から、呻き声が漏れる。  全身から、力が抜けていく。  これが、黒の剣の力。  少しでも気を抜けば身体がばらばらになって、原子にまで分解されてしまいそうだ。奈子の、レイナ・ディ・デューンから受け継いだ強大な魔力が、辛うじてそれを抑えている。  アィアリスが、至福の笑みを浮かべていた。 「私の、勝ちね。所詮あなたは人間、私を倒すことなどできないのよ」 「そう……かな?」  開いた唇から鮮血が溢れる。  舌が震えている。  それなのに、奈子は笑みを浮かべていた。  これは、負けじゃない。まだ勝機はある。身体を貫く黒の剣によって、力をどんどん奪われているとしても。  前のめりに倒れそうになった奈子は、アィアリスの服を掴んでなんとか踏みとどまった。 「あんたが……ドールだとしても、……やっぱり人間さ」 「私が、人間? どこが?」  嘲る声が、ひどく遠くに聞こえた。  奈子は思う。  本当に、人間じゃなければいいのに、と。  ゲームや小説にでも出てくるような、怪物とか、魔王とか、世界を滅ぼす邪神とか。そんな敵であれば、もっと気が楽だったろうに。  しかし、アィアリスは人間だった。少なくとも、奈子にとっては。  ファージが人間であるのと同じくらい、人間だった。  ……いや。  それでいいのかもしれない。  これは、人間の歴史なのだ。  人間の歴史は、人間が紡いでゆく。  人を殺すことの重みを、忘れてはならない。なんの罪悪感も覚えずに、生命を奪ってはならない。  だから―― 「あんたは……人間さ。こーゆーところが……ね」 「――?」  奈子の掌が、アィアリスの身体に押し当てられていた。  片手は、胸に。もう一方の手は、脇腹に。  ドンッ!  重い音が響く。  そして、二人は静止した。  無言の時間はほんの数秒のようでもあり、数分続いたようでもあった。  突然、アィアリスの身体がビクッと大きく痙攣する。  口から、鼻から、耳から、鮮血が噴き出した。 「な……に……?」 「……アタシの……アタシの世界の、人殺しの技だよ」  自分でも思わなかった。まさか、こんなところで思い出すとは。  水冥掌。  それは、奈子が学ぶ北原極闘流の奥義だった。  門外不出の秘技を、先輩である北原美樹が教えてくれた。  その正体は、両手でタイミングを合わせて、血液の集中する部位に打ち込まれる衝撃波だ。血液中を伝わる二つの波はやがてぶつかり合い、増幅されて血管をずたずたに引き裂く。人を一瞬で失血に追い込む技なのだ。  アィアリスの身体から力が抜けて、崩れ落ちていく。  ゆっくりと倒れていくアィアリスに向かって、奈子はもう一歩踏み込んだ。  驚きに目を見開いている顔面に、全身全霊を込めて拳を叩き込む。  衝。  鍛え抜いた肉体の力と。  レイナから受け継いだ魔力と。  その、すべてを拳の一点に集中させて。  アィアリスの額に、拳を打ち込む。  衝は、全身の関節の動きを完璧に同期させて打ち出す、相手の身体の内部にダメージを与える独特の突きだ。体内を突き抜けるように伝わる衝撃波は、脳を、崩れた豆腐のように破壊する。  アィアリスの身体が後ろに飛ばされた。手は黒剣を握ったままで、剣が抜けた奈子の身体からは血が噴き出した。 「……力は、それを使う者がいなければ存在しないのと同じ。あんたなら、水冥掌の傷も致命傷にならないかもしれない。だけど脳を破壊されれば、魔法は使えない……」  床に横たわったアィアリスの身体。  周囲に、赤い染みが広がっていく。 「……死ぬしかないんだ。ただの……人間と同じく」  ぴくりとも動かないアィアリスを、奈子は無表情に見下ろした。  傍らに、主を失った黒剣が転がっている。  アィアリスは、完全に息絶えていた。  この手で、殺したのだ。  血に染まったこの手で――  脚から力が抜けていく。奈子はその場に膝を着いた。  ひどく疲れているように感じる。このまま倒れて、眠ってしまいたい。  しかし、まだ、やらなければならないことがある。  それを思い出して、奈子はふらつきながらも立ち上がった。  暑い。  周囲の空気が、とても熱くなっている。  由維の許へ歩み寄って、抱き起こした。下に敷いていたマントが、真っ赤に染まっている。  それでも、出血は止まりかけていた。アィアリスが死んだために、傷に対する黒剣の干渉が失われたのだ。魔法による治療が効き始めたのだろう。  しかし、由維の失血は既に危険な状態だった。奈子や由維レベルの魔法では傷を塞ぐことはできても、失った血液を補うことはできない。もう、魔法のカードも尽きている。  血の気の失せた白い顔は、まるで人形のようだった。 「……由維! しっかりして!」  その言葉が聞こえたのか、由維の目が微かに開かれる。  唇が震えるように動く。小さく、笑ったようにも見えた。 「うれし……な……奈子先輩と一緒に、死ねる……」  それだけをつぶやいて、また目を閉じる。 「なにバカなこと言ってんの!」  奈子が叫ぶ。 「アタシは諦めないよ、最後の最後まで!」  以前、誰かが言っていた。  息絶える最後の瞬間まで、生き続けようとすること。  それが、生命というものだ――と。  生きている間は、諦めてはいけない。  奈子自身、今にも倒れそうではあった。それでも身体に残った力を振り絞って、由維を背負って立ち上がった。  とにかく、遺跡から脱出しなければならない。既に、秒読みが始まっているといってもいい状況だ。残り時間はほとんどない。  外へ通じる通路へと向かう。  一歩足を踏み出すごとに、バランスを失って倒れそうになった。  軽いはずの由維の身体が、ひどく重く感じる。  いつもの何倍もあるようだ。しかも、一歩ごとに重くなっていく。  通路の入口に辿り着くまでに、もう何分もかかったような気がする。  奈子の歩いた後には、血の跡が残っていた。  魔法陣は直視できないほどに眩い光を放っているはずなのに、視界が暗くなってくる。  暑い。汗がだらだらと流れ落ちる。真夏の炎天下どころではない。まるでオーブンの中にでもいるようだ。  地鳴りと振動は、少しずつ強くなりながら続いている。 「こんなところで……死ぬはずがないよ……そうでしょ、由維?」  奈子は話し続けた。そうしなければ、意識を失いそうだった。  意識をつなぎ止めておくために喋り続けながら。  一歩、また一歩、ゆっくりと進んでいく。 「王都を出るときの約束、……憶えてる? これが終わったら……結婚式、しよう……って」  一瞬、膝から力が抜けた。倒れそうになるところをなんとか堪える。  歯を食いしばって、脚を開いて、身体を支える。  深呼吸をして息を整える。  一息ついてまた足を踏み出したところで、バランスを崩して倒れてしまった。 「く……ぅ……」  それでもまた、身体を起こす。しかし立ち上がろうにも、脚にまるで力が入らない。  由維を背負ったまま、這うように進んでいった。 「ハルティ様にお願いしてさ……うんと豪華な……パーティを開こうよ……。……由維のウェディングドレス……可愛いだろ……ね」  それはおそらく、もう訪れることのない未来。  だけど未来を見続けていなければ、今にも力尽きてしまう。  体力は有限だが、精神力は無限の可能性を持つ――それは誰の言葉だったろう。今は精神力だけが、傷だらけの身体を支えていた。 「……そして……さ、どこか緑の多い田舎に……土地と、家をもらって……さ……一緒に…………暮ら……」  奈子の腕にはもう、前に進む力は残っていなかった。  横たわったまま、由維の身体をしっかりと抱きしめる。  視界が暗い。由維の顔もよく見えない。  硬い床の感触も感じない。あんなに激しかった地鳴りも、揺れも、まるで感じられなかった。  ただ、腕の中の由維だけを感じている。  周囲の空気はひどく熱いはずなのに、由維の身体はどんどん冷たくなっていくようだった。 「由維……いつまでも……一緒だよ……由……維……」  返事はない。奈子はその事実を無視した。  唇を重ねる。  体温の失われた唇を、しっかりと重ね合わせる。 「…………大好き……だよ」  それが、最後の言葉だった。  同時に、迸るような真白い光が二人の身体を包み込んだ。  太陽よりも眩いその光すら、もう奈子の瞳には映っていなかった。 * * *  それは、突然の出来事だった。  少し前から、どこからともなく低い地鳴りが響いていたのだが、それが急に大きくなったかと思うと、いきなり真下から突き上げるような衝撃が一帯を襲った。  地震どころではない。その地にいた者たちの身体は、一様に宙に投げ出された。  ハルティやダルジィも、とても立っていることができずに馬を飛び降りて地面に伏せた。  あちこちで悲鳴が上がり、怯えた馬が嘶いている。  しかし、激しい揺れはすぐに治まった。  一瞬前の混乱が嘘のように静まり返る。  静寂は数秒間続き、そして――  光が、弾けた。  視界が真っ白になった。  爆発のように突如出現した、真昼の太陽よりも眩い光が、真夜中の砂漠を照らし出していた。  一瞬後、叩きつけるような衝撃波が再び付近一帯を襲った。鼓膜が破れるような爆発音に、誰もが耳を押さえる。  そこにいた数万の人間全員が、その光景に目を奪われた。  マイカラス軍の後方の砂漠から、天に向かって伸びる真白い光。  目を細めても直視できないほどに眩い。  それはどこまでもどこまでも真っ直ぐに、天球を支える巨大な柱のように伸びていた。  周囲に、無数の雷光がまとわりついている。  神々しくすらある光景。  真昼よりも明るく照らされた砂漠に、無数の長い影が伸びる。  遙か天空まで伸びた光の柱は、天頂にあった月の中心を貫いていた。  誰もが無言で、その光景に見入っていた。  それは、どのくらい続いていたのだろう。  やがて、月の様子に変化が現れはじめた。  丸い月の輪郭がぼやけてくる。さらさらと崩れる波打ち際の砂細工のように。  鋭い刃物で切り取ったように鮮やかな輪郭を見せていた月が、雲のようにぼんやりとした光の塊へと変わりつつあった。  そして――  一人の例外もなく、全員が感じていた。  何かが、壊れてしまったことを。  身体の中心から、大きな塊をえぐり取られたような虚脱感を覚えていた。今まで自分たちを支えていた何かが、消滅してしまった。  その意味するところを知っている人間は、ほんの一握りしかいない。  突然、強大な魔力の流れを感じた。  かつて感じたことのないほどの、大きな魔力。その塊が破裂して、細かな破片となって霧散していくような感覚だった。  それでハルティは理解した。  終わったのだ――と。黒の剣が、消滅したのだ。 「ナコさん……」  空を見上げたまま、小さくつぶやく。  同時に、光は出現した時以上に唐突に消えた。  再び、闇が砂漠を包み込んだ。明るさに目が慣れていた分、闇がよりいっそう濃く感じられる。  砂漠をぼんやりと銀色に照らし出す淡い月の光が、ひどく弱々しいものに思えた。  形勢は一気に逆転した。  混乱に陥ったのは両軍とも同様だが、状況を把握している指揮官が存在した分、マイカラス軍の方が立ち直るのが早かった。  ハルティはすかさず、残った僅かな兵力をまとめて反撃を開始した。  依然として数の上では教会の軍勢の方が遙かに多かったが、戦意がまったく失われていて、組織だった反撃はできなかった。  指揮官を失い、そして黒剣の力が失われていた。彼らを支配していた圧倒的なカリスマが、突如として消え去ったのだ。状況を理解していない兵士たちも、そのことだけは感じていた。  もう、戦争どころではないのだろう。部隊を再編して攻勢に転じるマイカラス軍の前に、教会の兵たちは我先にと逃げ出していった。  東の空が白みはじめる頃。  戦場に、動いている敵の姿は残っていなかった。  動ける者はすべて逃走し、残ったのはマイカラスの軍勢と、おびただしい数の敵味方の屍だけ。  そして、昨日の夕暮れとは大きく変わった光景が広がっていた。  底が見えないほどに深い、大きなクレーター。  まるで、火山の噴火口のようだ。  レーナ遺跡の跡。  遺跡は入口付近のごく一部を残し、完全に消滅していた。  そこから放たれた力の大きさの割に周囲に被害が出ていないのは、そのエネルギーが極めて指向性の高いものだったためだろう。  すべての戦闘が終わった後でハルティは部隊をまとめ、負傷者の手当てと行方不明者の捜索にあたらせた。  誰もが疲れ切っていたが、まだやることは残っていた。  ハルティとダルジィは、生き延びた。しかし、二人ともぼろぼろだ。朝陽が昇って周囲が明るくなったところで、お互いの姿を見て小さく笑った。  やがて、全身に刻まれた傷の割には元気に動いているケイウェリが、ニウム・ヒロの戦死を伝えてきた。  ハルティもダルジィも、しばらく無言で目を閉じて老騎士の冥福を祈った。ニウムは、子供の頃のハルティが最初に剣の使い方を教わった相手だった。  サイファーとエリシュエル、そしてアルトゥル王国の赤旗軍も戻ってきた。  疲れ切った表情ではあったが、一つの仕事を成し遂げた者らしい達成感が漂っていた。しかしそこにいる兵の数は、昨夜の半分以下だった。  間もなく、ソレアも発見された。ひどい傷を負って意識不明ではあったが、傷は手当てされており、命に別状はなさそうだった。  その傍らには巨大な赤竜の屍も横たわっていたが、ソレアと共に闘っていたはずのフレイムの姿は見当たらなかった。  乱戦の中でハルティたちとはぐれたエイクサムも、自分では歩けない状態ではあったが生きて見つかった。  死者は、数えるのが嫌になるほどの数だった。生き延びた者も、誰ひとり無傷ではいない。  それでも、被害は少ない方だった。開戦前の最悪の予想から比べれば。ソレアが、アィアリスを完全に足止めしてくれたことが大きいだろう。  戦の後処理は陽が高くなってからも続いて。  昼近くになって、戦死者の名簿の末尾に、エイシス・コットの名が加わった。  そして――  奈子と由維は、ついに最後まで見つからなかった。 最終章 生まれ来る者たちへ  マイカラス王国の歴史上、最大の被害を出した戦いから、一年が過ぎた。  戦場にならなかった王都には、その傷跡はまったくない。しかし人々の記憶に刻まれた深い傷を癒すには、一年という時間では短すぎた。  数多くの失われた生命は、帰ってはこない。  それでも――  今日ばかりは、そんな辛い記憶は忘れられていた。  王都中の、マイカラス中の誰もが暗い過去を忘れ、明るい未来を祝っていた。  戦で命を落とした者たちを弔うための喪が明けたばかりの王都全体が、華やいだ空気に包まれている。  近年まれに見る、盛大なお祭りだった。  当然だ。  これを祝わずに、何を祝えというのか。  全国民が待ち望んでいた、この国の世継ぎが誕生したのだ。  国王ハルトインカル・ウェル・アイサールと王妃ダルジィ・フォアの間に、双子の女の子が生まれた。  マイカラスの法では、性別に関わらず長子が王位を継ぐことになっている。  これこそ、悲しみと決別するに相応しい、明るいニュースだった。 「あなたに、この子らの名付け親になってもらいたいんですよ」  祝いの言葉を述べる美しい魔術師に対して、ハルティが最初に言ったのがこの台詞だった。  幾分驚いたように目を見開いたソレアは、やがて微笑みながらうなずいた。  傍らでは、ダルジィが両手に一人ずつ、軽々と赤ん坊を抱えている。今の彼女はある意味、マイカラスで最強の母親かもしれない。  その横にはアイミィがいる。  ケイウェリもエイクサムもいる。  そして、はるばるアルトゥル王国から祝いに駆けつけたサイファーもいた。 「でも、陛下。あなた方お二人で、もう名前を決めているのではありませんか?」  ダルジィの腕の中の赤ん坊に笑いかけながら、ソレアは言った。ハルティとダルジィが、ちらりと顔を見合わせる。 「考えている名前がないわけではありませんが、あなたもきっと同じ名前を付けてくれると思っていますよ」 「……そうね、他には考えられないわ」  そこにいる全員が、同じ想いだった。  運命的なものを感じる。女の子の双子だなんて。 「今頃、どこにいらっしゃるんでしょう? ああ、私のナコ様……」  両手を合わせて、芝居がかった口調で空を見上げるアイミィを、ケイウェリが苦笑して見ていた。  ソレアは顔を上げて、片手でそっと自分の耳たぶに触れる。 「ずいぶん北の方……昔のレイモス領の辺りね。どこにいても、私には感じるから」  ソレアの耳には、紅い宝石のピアスが飾られている。一年ちょっと前に死んだ、親友の形見だ。 「たまには、顔を見せて欲しいですね」  ハルティが小さく溜息をつく。ソレアがくすっと笑った。 「……気を遣っているんでしょう」 「陛下がまた、浮気心を起こすといけないから」  ソレアの後を継いで、ケイウェリが遠慮なく笑う。  つられて他の者たちも笑いを漏らした。気まずそうなハルティと、むっとした表情を見せるダルジィを除いて。 「冗談ですよ。この子たちのことを知らせておきましたから、近いうちにきっと戻って来るでしょう」  まるでソレアの言葉に応えるかのように、二人の赤ん坊がにこっと笑った。 * * * 「奈ー子先輩!」  校門を出たところで、背後から甘えた声が襲ってきた。  なんの予告もなしに、由維が腕にぶら下がってくる。奈子はその小柄な身体を抱えて、頬に軽くキスをした。 「なーに? いきなり」 「だぁって、新学期の実力テストも終わったし。どこか遊びに行こ?」 「そうやって、受験生を気軽に遊びに誘わないの!」  奈子は由維の額を指先でつんと押した。  高校三年生の二学期が始まって、そうそう遊んでばかりはいられない。  とはいえ。 「夏休み中だってずっと遊んでいたのに、いまさら」  由維がぷぅっとふくれる。  確かに、今さらである。  海へ泳ぎにも行ったし、山へキャンプにも行ったし。  東京の両親と妹にも会いに行ったし。  街で映画やショッピングも楽しんだし。  一年ぶりに、二人きりで旅行にも行った。  約一ヶ月間の夏休みを、精一杯に遊んで過ごした。  去年の夏休み、後半ほとんど遊べなかった分を取り戻そうとするかのように。 「だからこそ、二学期になったら勉強しなきゃ。まだ高一のあんたとは、一緒に遊んでられないの」 「どうせ奈子先輩、白岩学園大でしょ? 空手大会の成績だけで推薦取れるじゃないですか」  白岩学園大学は、一芸入試の枠が広い。ましてや奈子は同じ白岩学園の高等部ということで、進学には非常に有利な位置にいる。女子空手の全国大会で連続優勝している奈子ならば、それだけで推薦枠に入れるはずだった。 「それにしても、一応形式だけとはいえ学力試験もあるんだし。特にアタシの場合、一、二年の出席率がすごく悪いんだから」 「それは自業自得」 「あんただって無関係じゃないでしょーが! このっ、このっ!」  奈子は由維の両頬をつねって引っ張った。 「ふぉんなふぉろ、ひっひゃっへ……」  由維がなにやら涙目で訴えているが、無視。  そこへ―― 「奈子ー! 由維ちゃん! いま帰り? 試験も終わったし、どこか遊びに行こ」  陽気な声が追いついてくる。  奈子は由維を放して、その声の主をじろりと睨んだ。 「ほら、やっぱり今日は遊ぶ日ですよ」  つねられていた頬を掌でマッサージしながら、由維が笑う。  視線の先には、三年生になっても同じクラスだった亜依がいた。にこにこと笑いながら、奈子の腕にぶら下がってくる。それを見た由維が反対側の腕にまたしがみついて、奈子は両腕に小柄な女の子をぶら下げた形になった。 「亜依ぃ、あんたも受験生なら……」 「あたしは成績で推薦取れるもん。誰かさんと違って」 「だから! その誰かさんは少しは勉強しなきゃならないの!」 「いいじゃん、今日一日くらい。勉強なんて、今夜あたしが教えてあげる。ベッドの中で……ね」  腕を放した亜依が、奈子の首に腕を回して顔を近づけてくる。 「あ、ずるーい! ダメですよ、亜依さん」  唇が触れる寸前、唇を尖らせた由維が亜依の髪を引っ張った。 「いいじゃない。由維ちゃんはいつでもできるんだから。たまにはあたしに貸して」 「アタシは物じゃないぞ!」  という奈子の意見は、当然のように無視される。 「……ダメですよ、やっぱり。奈子先輩は私のものですもん」 「あのこと、バラしちゃうぞ?」  亜依がとっておきの切り札を出した。 「あたしはすごく驚いたし、奈子たちが帰ってくるまで毎日泣いたんだからね」 「一年も前のことだもん。もう時効!」 「……わかった。じゃあ由維ちゃん、三人で夜のお勉強しよ?」 「あ、いいかも」 「あのなぁ!」 「由維ちゃんの感じてる顔も可愛いし」 「だから! 何故お前がそれを知ってるっ?」  三人の少女が、夏の終わりのキリギリスよりもやかましく、ぎゃんぎゃんと騒ぎながら焼けたアスファルトの上を歩いていく。  そんな家路の途中―― 「あいつら……、今ごろ向こうで何やってンのかな」  奈子は、独り言のようにつぶやいた。 * * * 「……なーんてことやってんのかな、今ごろは」  奈子は柔らかな草原の上に寝そべって、空を見上げていた。  柔らかな風が、静かに耳をくすぐる。  川のせせらぎ。  風に乗って舞う鳥の声。  緯度の高いこの地方、夏だというのに風はひんやりしている。とはいえ、横になっていて寒いというほどではない。  また、目を閉じる。  奈子はすぐに微睡みはじめた。  ……白い光に包まれていた。  他になにも見えない。  なにも聞こえない。  暖かな雲の中に浮かんでいるような感覚だ。  母親の腕に抱かれていた、赤ん坊の頃の記憶が甦る。  どこにいるんだろう?  なにをしているんだろう?  奈子は自問する。  途中までの記憶はあった。  レーナ遺跡で、アィアリスを倒した。  由維を背負って脱出しようとしていた。  しかし力尽きて倒れて。  遺跡の爆発に巻き込まれたはずだ。月を破壊するための、膨大なエネルギーの奔流の中に。  だとすればここが、死後の世界というものだろうか。  意識はあるが、自分の身体が実体を保っているのかどうかも定かではない。  由維は……?  いる。すぐそばに。  見えるわけではない。触れるわけではない。  それでも、存在を感じることができる。  由維がいるならば、それでいい。  それだけで、安堵感に包まれる。  他になにもいらない。  ……いや。  誰か、いる。  自分と、由維の他に誰か。  確かに、感じる。  その誰かが、奈子と由維を優しく抱いているのだ。  声が、聞こえた。  聞こえたような気がした。  耳に聞こえるのではなく、心に直接伝わってくる声だ。 『……ありがとう。そして、こめんなさい』  優しい、とても優しい女性の声。  静かに、語りかけてくる。 『遠い昔、私たちが犯した過ちに、異なる世界の住人であるあなた方まで巻き込んでしまって、お詫びのしようもありません。今の私にできる償いは、一つだけです……』  暖かく、優しい声。まるで母親のように。  だから、それが誰なのかわかった。  母親のように、と感じたのも当然のことだ。  何故なら彼女は―― 「ん……あぁ……」  奈子は目を開けた。  いつの間にか、うとうととしていたらしい。  また、夢を見ていた。  レーナ遺跡で意識を失った後の、曖昧な記憶。  それでも、一年が過ぎた今でも思い出すことができる。  遺跡の爆発に巻き込まれ、奈子と由維の肉体は消滅したはずだった。  それを救ったのは――救ったという言い方が正しいのであれば――あれは、ファレイア・レーナだろう。  エモン・レーナの母。  レーナ遺跡――大いなる槍を造った人物。  前文明において、最高の力を持った魔術師。  レーナ遺跡には、彼女の記憶が、力が、封じられていたのだろう。聖跡に、エモン・レーナやクレイン、そしてファージの記憶が封じられていたように。  ファレイア・レーナは既に、物質の束縛を受けない次元の住人だった。月が失われたとしても、この惑星上でなくても、力を使うことができる存在だ。  彼女は、まだ、存在している。実体は持たなくとも、その意識は残っている。  それでも決して、現在のノーシルの運命に干渉することはない。ただ見守っているだけだ。  自分たちの子孫の生き様を。  ただ一度、彼女が自ら課した禁を破ったのが、奈子と由維を助けたことだった。「あなた方はこの世界の人間ではないのだから、ルール違反ではないでしょう」と笑っていた。  奈子と由維の肉体は既に失われていたが、ファレイアには、それをもう一度構成し直すことができた。聖跡がそうやって、クレインやファージを不死としていたように。  彼女は言った。今ならまだ、奈子と由維を元の世界で再構成することもできる、と。  その言葉に、まったく悩まなかったと言ったら嘘になる。  それでも奈子は、この世界に残ることを選んだ。  自分がしたことの結末は、自分の目で見届けなければならない。  しかしファレイアは、奈子の決心に異を唱えた。元の世界に残してきた家族や友人がいるはずだ、と。  彼女も母親だから、そう思うのだろう。自分の娘であるエモン・レーナを、二度と会えない未来へ送ったから。  しばらく言い争った末、途中で目覚めた由維の言葉で妥協案を見いだした。  そして今、奈子と由維は両方の世界に存在している。  再構成した肉体ならば、必ずしも一つだけである必要はない、と。  どちらが本物で、どちらが偽物というわけではない。ファージがそうであったように、魔法で創りだした完全な複製だ。肉体も、精神も。  オリジナルの肉体は失われ、オリジナルとまったく同じ複製が二つ。  一人はこちらに、一人は向こうに。  そう考えると、不思議な気分になる。  自分は今、ここにいる。由維と二人で、異世界を旅している。  もう一人の自分は生まれ育った奏珠別の街にいて、高校に通い、由維や亜衣たちと学生生活を送っている。  ここにいる奈子がそうであるように、元の世界にいる奈子もすべての記憶を持っている。こちらの存在を知っている。  お互い、違う世界にいる自分を少しだけ羨み、少しだけ哀れんでいる。  多分、これでよかったのだろう。  二度と帰らない決心でこの世界へやってきたが、やはり、両親や友人との別れは辛い。こんな娘でも、失えば両親は悲しむだろう。  そして、この世界にも大切な友人たちがいる。想い出もある。  どちらか一方だけを選ぶなんて、できなかった。 「あれから一年……か」  あっという間だった気がする。だけど、様々なことがあった。  あの後間もなく、隣国カイザス王国との戦争があった。教会との戦でマイカラスとサラート王国が大きな損害を受けたのを見て、攻め込んできたのだ。  奈子も、マイカラスの騎士として戦場に立った。サイファーたちの協力もあって敵を撃退し、逆にマイカラスは領土を増やした。  その、マイカラスの新たな領土に、奈子の――マツミヤ家の領地がある。  奈子は断ったが、ハルティはこれだけは頑として譲らなかった。  そこは、いい土地だった。国土の大半が乾燥地帯にあるマイカラスにあって、貴重な、緑に覆われた地だ。  周囲を山に囲まれ、雰囲気が少し奏珠別に似ていた。  現在はソレアと、戦の後もマイカラスに残ったエイクサムに領地の管理を頼んである。  カイザスとの戦争のすぐ後、ハルティとダルジィの結婚式があった。  式が終わるとすぐに、奈子と由維は、二人だけで旅に出た。  あのままマイカラスにいれば、騎士として、貴族として、それなりに裕福な暮らしを送ることができた。  だけど。  自分だけ幸せになるのは辛い。死んでいった者たち、残された者たちのことを考えると。  安穏と暮らしていていいはずがない。  奈子は、自分の目で見なければならなかった。  月を一つ失ったこの世界が、この先どうなってゆくのか。  自分のしたことの行方を、この目で確かめなければならなかった。  いずれはマイカラスに戻ることになるだろうが、もっともっと、この世界のことを学ばなければならない。それは将来、領地を運営していく上でも必要なことだった。奈子はまだまだ、この世界のことを知らな過ぎる。  ファージもソレアも側にいない、由維と二人だけの旅。見知らぬ世界で二人だけで生きていく。  心細くもあり、辛いこともある。だけど楽しいこともあり、また新たな出会いもある。  いつか少しだけ成長して、マイカラスに帰ることもできるだろう。 「…………」  涙が滲んできた。  久しぶりに向こうのことを想い出したせいか、感傷的になっていた。  様々な想い出が甦えってくる。 「ファージ……」  彼女は、もういない。  この世界で、一番最初に出会った少女。  美しい金色の瞳をしていて、可愛らしくて、だけど残酷で。  ファージとの出会いがあったから、奈子は今ここにいる。  大変な事件に巻き込まれ、辛い思いもたくさんした。それでも、あの出会いを後悔する気はまったくない。  ここにファージがいないことが、今の奈子にとって一番の悲しみだった。 「……リューリィ」  次に想い出したのは、あの美しい少女のこと。  彼女のことは、今でも棘のように深く心に刺さっている。  これからずっと、負い目を感じて生きていくことになるだろう。  それは仕方がない。エイシスは、奈子と由維を守るために死んだのだ。  旅に出る直前、最後に会った時のことを想い出した。 『安っぽい同情なんかしないでよね』  相変わらず、怒っている顔も魅力的だった。  美しくて、そして儚げだった。 『ナコなんかより、私の方がずっと幸せよ。だって……』  その頃にはずいぶん目立つようになっていた下腹部に、そっと手を当てて言った。 『ここに、あいつの子供がいるんだもの』  その時涙がこぼれたが、口元は微笑んでいた。  その後しばらくして、ソレアからの頼りで元気な男の子が生まれたことを知った。 「子供……か……」  ぽつりとつぶやいて、奈子は身体を起こした。 「確かに……ね、少しあんたがうらやましいよ、リュー」  そればかりは、奈子には望めないことなのだ。  ファレイアによって再構成された奈子は、遺跡の爆発に巻き込まれた時の完全なコピーだった。それ以前の傷も、混じったレイナの遺伝子や記憶も、すべてそのままだ。  そうするしかなかったのだろうか?  いいや、違う。  ファレイア・レーナはおそらく、レイナの遺伝子を失いたくなかったのだ。レイナは、エモン・レーナの子孫。つまり、ファレイア・レーナにとっても遠い子孫だから。 「ま、いいか」  奈子は苦笑を浮かべた。 「どうせ今さら、アタシが男を好きなるなんてないだろうし」  由維さえいればいい。それだけで十分だ。 「そういえば、由維は?」  きょろきょろと周囲を見回すと、すぐに見つかった。  近くを流れる清流に脚を浸して遊んでいる。それとも、魚でも捕っているのだろうか。  その光景を黙って眺めていると、空から白鷺のような大きな白い鳥が舞い降りてきた。  由維が差し伸べた腕に止まる。  顔を近づけて、遠目に見るとまるで話をしているようだ。いや、事実その通りなのだろう。  奈子は立ち上がって、由維の方へ歩いていった。  由維がこちらを振り返り、嬉しそうに笑いながら川岸に上がってくる。  この鳥は、ソレアの使い魔なのだ。  時々、マイカラスの近況を知らせるために飛んできて、奈子たちのメッセージを持って帰っていく。  今回のトップニュースがなんであるか、二人には見当がついていた。そしてもちろん、その予想は当たっていた。  ハルティとダルジィに、子供が生まれたのだ。双子の女の子だという。  奈子が予想していなかったのは、その子たちに奈子と由維の名を付ける許しを求めてきたことだった。少し驚いたが、反対する理由はどこにもない。  もう一つ、二人を驚かせるニュースがあった。なんと、アイミィとケイウェリが婚約したというのだ。  これは本当に驚いたが、見かけによらずおてんばで我が儘なところがあるアイミィと、これまた見かけによらず細やかで面倒見のいいケイウェリというのは、なかなかお似合いかもしれない。年齢差は多少あるが、王族の婚姻ではさほど珍しいことではない。意外なのは、あのアイミィが男性を好きなったことくらいだ。  驚いたといえば、以前の便りでサイファーとエリシュエルが結婚したことを聞いた時にもびっくりした。後から知ったことだが、二人は血のつながっていない義兄妹なのだそうだ。今は、アルトゥル王国復興のために奮闘しているはずだ。  ソレアからのメッセージが終わった後で、ソレアには内緒で吹きこまれたらしいアイミィのメッセージがあった。「私が愛する男性はケイウェリ様ですけど、性別抜きに一番愛する人はナコ様、あなたです」そう始まったメッセージに、思わず苦笑した。彼女の性格からして、たぶん本心だろう。  その後に続くアイミィのメッセージの本題は、奈子と由維を心底喜ばせた。ソレアとエイクサムがなにやらいい雰囲気で、奈子たちが帰ってきたら結婚するつもりらしい、と。  最近のマイカラスでは、結婚と出産のニュースが相次いでいる。 それはいいことだ。 生きているのだから。 生きていかなければならないのだから。 生きている者たちは、生命を、次の世代に伝えていかなければならない。死んだ者の分までも。  向こうからのメッセージがすべて終わったところで、奈子は鳥に向かって語りかけた。その言葉が、ソレアたちの許へ届けられる。 「アタシたちは、元気でやっています。まだ、しばらくは帰れませんけど。でも、そのうち、きっと戻ります。小さなユイとナコに会いに行きます。それから……おめでとう。ソレアさん、アイミィ」  奈子の言葉を受け取った鳥は、翼を広げて飛び立った。二人の頭上で数回、大きく輪を描くように旋回してから南の空へと飛び去っていく。  奈子と由維は草の上に並んで座って、鳥の姿が見えなくなるまで見送っていた。 「いいなぁ、ダルジィ。……私も子供ほしいなぁ」  ぽつりとつぶやいた由維の台詞に、奈子の耳がぴくりと反応した。  聞き捨てならない台詞だった。 「子供って、誰のっ?」  つい、語気が荒くなる。冗談じゃない。そんなこと絶対に許さない、と。  しかし由維は、笑って奈子を指さした。 「奈子先輩に決まってるじゃないですか? 他に誰がいるっていうんです? 私、奈子先輩みたいに浮気っぽくないもん」 「なに言ってンの! できるわけないでしょ、女同士で……」  奈子の台詞の後半は、急にボリュームが小さくなっていった。由維が、ものすごく意味ありげな笑みを浮かべていることに気付いたからだ。  この笑みの意味するところは―― 「……え? ま、まさか……ウソでしょ?」 「その、まさか」  由維が目を細めて、チェシャー猫のように笑う。 「前に、ファージが教えてくれたんだ」  今から千年近く前。  王国時代末期の大戦に続く暗黒の時代。  戦争で、男性の数が極端に減った時代。  惑星の環境が激変して、人口が急激に減少した時代。  その危機を乗り越えるために開発された技術。魔法の力で二つの卵細胞の遺伝子を結合させ、女同士で子供を作る方法。  それが、実在した。 「だけど両親が女だと、理論的に女の子しか生まれないでしょ。だから結局広まらなかったらしいんだけど……。それで、ね。具体的に言うと……」  言いかけた由維は、何故かきょろきょろと周囲を見回した。  ここは山の中。他に誰も聞いている者がいるはずがないのに、それでも恥ずかしいのか声を潜めて奈子の耳元に唇を寄せた。 「……を、……して、……に……するんだって」  聞いているうちに、奈子の顔も真っ赤になる。 「それって、すごく気持ちよさそう……じゃなくて! ちょっと、その……すごいっていうかなんていうか……」 「えへへ……、楽しみですねー」 「楽しみって、あんた、やる気?」 「とーぜん! 今夜は寝かせませんからね、覚悟しておいてくださいよ」  由維の目が、本気だった。  これ以上はないくらい、本気だった。  大きな挑発的な瞳で、まっすぐに奈子を見ている。  こんな表情をする時の由維は、少しファージに似ていることに気付いた。  そして奈子は、昔からこの目に弱いのだ。 「それとも、今すぐします? ここなら誰も見てませんし」  由維が身体を押しつけてくる。そのまま体重を預けて、奈子を押し倒した。  柔らかな身体。  相変わらず小柄ではあるけれど。  それでも、この一年でずいぶん女らしくなったように思う。  胸が少し大きくなって、腰の曲線が幾分丸みを増した。  そんな由維に迫られて、真っ昼間の野外だというのに、ついその気になりそうになる。  しかし、いくらなんでもここではまずい。 「ち、ちょっと待って! まだ心の準備が……」  思わず、大きな声を出してしまう。その口を、由維の唇がふさいだ。  奈子の声に驚いて、近くの茂みから数羽の小鳥が空に飛び立つ。  鳥の声のなくなった草原に、二人の甘ったるい声だけが響きはじめた。 「や……ぁん! ち……ちょっ、ダメだって!」  下着を脱がされたところで由維が本気だと気付いて、奈子は抵抗する手に力を込めた。由維は不満そうに唇を尖らせる。 「奈子先輩……私との子供、ほしくない?」 「それは欲しいよ、もちろん。だけど、赤ん坊つれて旅するわけにもいかないっしょ」 「あ……、そっか」  奈子はまだ当分、マイカラスに戻る気はなかった。二人で大陸中を巡る旅、大きなお腹の妊婦や、生まれたての赤ん坊を連れていては難しいだろう。 「由維との子供は欲しい。だけどまだ早いよ。マイカラスに帰ってから、……ね?」  なだめるように、頬にキスをする。一応納得した様子の由維ではあるが、まだ少し不満そうだ。 「赤ちゃんつれて帰って、みんなをびっくりさせようと思ったのになぁ」 「……って、ウケをとるためだけに子供を作るな!」 「だって……」 「慌てない慌てない。あんたまだ十五歳っしょ?」 「じゃあ、約束ですよ。マイカラスに帰ったら」 「うん、約束」  どちらからともなく手を出して、小指を絡ませる。そのまま、五本の指をしっかりと組んで手をつないだ。  涙が出てきた。  子供を持つことができる。  自分で生むことはできなくても、由維が生んでくれる。  一度は諦めたことが、実現できる。  この世界に、血を受け継いだ子孫を残すことができる。  子孫を残すこと。  それは、生命としての原初の悦びだった。 「子供の名前も、考えておかなきゃいけませんね」  奈子が止めどなく涙を流していることには触れず、由維は明るく言った。 「由奈ちゃんの時みたいに、ぎりぎりになって慌てないように」 「あ、それはもう決まってる」  手の甲で涙を拭って、奈子も努めて明るく応える。 「え?」 「だって、子供は必ず女の子なんでしょ? だったら、名前はもう決まってる」  奈子は優しい笑みを浮かべて、今はもういない、大切な友人の名をささやいた。 ――光の王国・完―― 謝辞  カオリさん。最近連絡がありませんけど、お元気ですか? あなたからいただく感想が、一番の心の支えでした。  志郎さん。ずっと、心のライバルでした。「美少女活劇」というジャンルとの出会いによって『光の王国』はここまでこれました。  犀崎大洋さん。『悦楽書庫』のリンクページでベタ褒めしていただいたことがきっかけで、『ふれ・ちせ』の来客数が飛躍的に伸びました。  宮上由貴さん。素晴らしい二次創作をありがとうございます。アイミィやケイウェリのキャラクターは、宮上さんの作品に負うところが大です。  猫間れんさん、YUKIさん、ヒロつんさん。素敵なCGをありがとうございます。そしてヒロつんさん、エイシス死なせてしまいました。ごめんなさい!  それから、これまで『光の王国』を応援してくださった皆さん――  ミミンさん。りょうとさん。琴さん。  EIPECさん。こばやしがらんさん。tonma7さん。  LUNAさん。ねこざさん。西部さん。  大山さん。特急さん。のりっちさん。  Haidさん。SAKOさん。鹿之助さん。  えりかさん。増田さん。菊地さん。  Nedhiさん。早川柚流さん。リリカルリリィさん。  YUYUさん。Melt★さん。須美さん。  TNT NETWORKさん。サイキョー流師範さん。S・Bさん。  壬生まことさん。ラーズさん。とびかげさん。  さおりさん。べあさん。ろにあさん。  hydeさん。緋陰光輝さん。たろうさん。  島風那智さん。副長さん。K―Takeさん。  KAZさん。てらぽんさん。ようこさん。  烏さん。おちゃわんさん。テトピーマスターさん。  桧佐さん。Touracomさん。misatoさん。  藤志さん。みかんさん。藤津さん。  昌哲さん。yayuさん。芭琉さん。  祐太朗さん。AKIさん。ルーアさん。  こぎとさん。ときめき・ぼーずさん。帆風さん。  G.Mさん。COCOさん。文月夕さん。  りゅうさん。めあさん。友紀さん。  NaO.さん。佐藤さん。HanSangikさん。  ヒィさん。零度さん。まきさん。  ぽんさん。ノームさん。春四音さん。  蛇之介さん。あすたーさん。わつぃさん。  Croutonさん。mastさん。香川朋宏さん。  みきねさん。ぎやみんさん。めかさん。  ひろきさん。OJさん。SEEKさん。  葉月涼さん。おきとさん。セーレさん。  工藤さん。融合さん。鈴木さん。  NKさん。yonedaさん。秕麻沙弥さん。  うに丸さん。坪井さん。たつおーさん。  Mizuさん。トモヒロさん。オジオンさん。  eartherさん。中嶋さん。山崎さん。  藤平さん。カメさん。霧生さん。  はるちゃんさん。あおいけいさん。たかたかさん。  堂本さん。福田さん。kaz―tさん。  慎さん。初投稿さん。takaさん。  YOSIさん。Yousuke.Yanoさん。YOUさん。  王累総さん。kintaさん。LUNAさん。  nyoさん。中川さん。hiro0903さん。  クラゲさん。長瀬さん。NNさん。  Goriさん。shinさん。カミナシさん。  湖空海流さん。千桜路さん。mamuruさん。  水の森るきさん。NARUさん。imonoyamaさん。  石井さん。零さん。NAOさん。  zeroさん。Cyphisさん。IRIRI―LUさん。  パンドラ事眞吾さん。悠さん。珊瑚さん。  yasさん。NoRさん。コウヘイさん。  ROさん。そろりさん。TakashiHaradaさん。  tk―fさん。朧豆腐さん。SCDさん。  まさぽんさん。紅夜叉さん。角張さん。  にっくるさん。FSさん。杉浦さん。  水凪さん。水珠さん。志麻ケイイチさん。  亜斗さん。風間さん。いとのこさん。  朝日奈りおんさん。ピエトロ(ユイ)さん。Hatenaさん。  ――以上、現時点(二○○一年四月十二日)までに、『光』に関する感想やメールをくださった方、二○○○年春に行ったキャラクター人気投票で『光』キャラに投票してくださった方、CD―ROMの仮申込をしてくださった方。 (ここに挙げたのは、現在私が確認できる分だけです。もしも漏れがありましたらお詫びいたします)  そして最後に、ここに挙げた以外の、今まで『光の王国』を読んでくれた皆さん。  大勢の読者の応援のおかげで、ようやく『光の王国』を完結させることができました。  執筆四年、全十話。総量はファンタジア文庫換算で十冊分以上になります。読んでくれる人がいなければ、これだけの大作を書き上げることは不可能だったでしょう。  本当に、ありがとうございました。 あとがき(本編の後に読むこと)  奈子は優しい笑みを浮かべて、今はもういない、大切な友人の名をささやいた。  この、最後の一文を思いついたのは、いったいいつのことだったでしょうか。  おそらく、もう二年以上前になると思います。  この作品は回を重ねるごとに長くなり、第七話『金色の瞳』以降は一話あたり文庫一〜二冊分というオンライン小説にあるまじき長さになりましたが、それでも最後まで挫けずに書いてこれたのは、この一文を書きたいという強い想いがあったからです。  実際にこの文章を書いた時には、涙が出ました。やっぱり、この作品には特別な思い入れがあります。なにしろ『光』の四年間の歴史は、そのままキタハラの歴史ですから。  ご存じの方も多いとは思いますが、第一話『異界の戦士』は、私が初めて書いたまともな(?)小説です。  それから四年。途中『西十八丁目の魔女』『たたかう少女』『月羽根の少女』そして『笙子がいた夏』と色々な作品を書いてきましたが、やっぱり代表作を一つ挙げるとすれば、この『光の王国』おいて他にないでしょう。  この作品には、キタハラが物書きとして成長してきた(?)足跡が、すべて記されているはずです。  四年……長いですねぇ。四年といえば、中学受験でリリアンに入学した女の子が、高等部で妹を持つようになるくらいの年月ですから(笑)。  それにしても、『光』をどうやって終わらせるかというのは難しい問題でした。  ラストまでのおおよその道筋が出来上がったのが『黄昏の堕天使』の執筆中で、その後何度も小さな軌道修正を繰り返しながら、ようやくここにたどり着いたんです。  ナコユイが二人とも死ぬパターン。どちらかが生き残るパターン。向こうで一生を送るパターン。元の世界に帰ってくるパターン。いろいろ考えた末、結局、一番救いがある(と思われる)パターンに落ち着きました。やっぱり、なんだかんだ言っても最後はハッピーエンドがいいな、と。  そういえば、かなり気に入っていたけど結局没にした案として「ノーシルは実は、遠い未来の地球の姿だった」というのがあります。そして奈子は、エモン・レーナの遠い祖先だった、と。  だけどこの案を採用すると、最終章でものすごくふざけたオチが目に浮かぶんですよ。二人で旅に出た奈子と由維が、半分砂に埋まった自由の女神を見つけて「ここは地球だったんだ!」と愕然とするという……(爆)。なこまんがのネタにはいいかもしれませんけどね。  結局最後は奈子と由維がくっついて、百合作家としての面目を保ったわけですが、これについては読者の意見は様々でしょう。  ナコユイ派が一番多いけど、奈子×ファージ派というのもいるし、普通の感性の方々はやっぱり奈子×エイシス派と奈子×ハルティ派が多い。  実は、ハルティやエイシスのキャラを考えた当時は、奈子がハルティと、由唯がエイシスとくっつくはずでした。どこで道を踏み外したやら(笑)。  だけど絶対、このラストの方がいいですよね。他の皆さんも、収まるべきところに収まったようですし。  ダルジィ×ケイウェリを推す方もいましたけど、私としてはダルジィには、ハルティと幸せになってもらいたかった。ケイウェリって誰と結婚しても幸せになりそうですから。  エイシスファンの女性読者(推定で女性読者の九十九%)には、悪いことをしたと思います。だけど、やっぱりこうなっちゃうんですよ。  そういえば以前、カオリさんが言ってました。「主人公かばって真っ先に死にそうなタイプ」と。まったくもってその通りです。  読者の皆さんも、リューリィの懐妊が判明した段階で「エイシスは死ぬ」と感じたのではないでしょうか。このタイプのキャラは大抵、子供が出てくると自分は死んでしまいますから。『銀英伝』のシェーンコップとかね(笑)。  九話であれだけ主要キャラを殺していながら、最終話の死人は(味方では)エイシスだけ。意外と少ないでしょう?  ナコユイはもちろん、ソレア、ダルジィ、ケイウェリ、サイファー、ハルティあたりはかなり危なかったんですけどね。いつ、書く手が滑って殺してしまうか、と作者もヒヤヒヤしてました。(いや、ナコユイは一度死んでるんですけど)  だけど、最終話で主役を殺して終わりってのは、すごく楽なんですよ。誰にでも書けるし、そこそこ感動的になるし。  でも、九話であれだけ殺した以上、最終話ではあまり殺したくありませんでした。というか、殺せるキャラは九話でほとんど殺してしまったといいますか。  ソレアは、今後もナコユイを補佐してもらわなきゃならないし。  ハルティの腕の中でダルジィが息を引き取る、というのはすごく感動的かもしれないけど、やっぱり可哀想だし。逆にハルティが死んだらダルジィが可哀想すぎるし。  ……ということで、死人は必要最小限にしようと思ったんですよ。エイシスだけはご勘弁。  しかし……考えてみると、リューリィって可哀想な人生ですねぇ。せめてこれからは、エイシス似の息子と幸せに暮らして欲しいものです。息子にしてみれば、母親に似た方が幸せかもしれませんが(笑)。  この話題が出たついでに、主要キャラたちがこの後どうなるかについて簡単に紹介しよう……かと思ったのですが、やっぱり止めときます。各自ご自由に想像してください。そのうち気が向いたら、番外編とか書くかもしれませんし。  それではここでお知らせ。  以前から言っていた通り、『光の王国』全話を収録したCD―ROMを制作します。  が、詳しい案内ができるのはもう少し先です。これから、四話以降の書き直し作業を始めなければなりませんし。  発売は今年秋を予定。詳細は随時『ふれ・ちせ』内でご案内します。  次に恒例の、そして最後のお願いです。  この作品は『エンターテイメント小説連合』のランキングに参加しています。「面白かった」という方は、ぜひぜひ投票してやってください。『光の王国』が得票数を伸ばす機会もこれで最後かもしれませんから、よろしくお願いします。  投票は次のいずれかのページから行えます。 ●殿堂入り小説の紹介ページ  (http://novel.pekori.to/dendo/604.html) ●小説連合トップページ  (http://novel.pekori.to/main.htmlから、キーワード「光の王国」でオンライン小説を検索する)  お願いがもう一つ……。  これまで『光の王国』を楽しく読んでくださった皆さんからの感想、お待ちしています。  この最終話に対するもの、シリーズ全体に対するもの。『光の王国』を読んできて思ったこと感じたこと。  メール(kitsune@nifty.com)または感想フォーム(http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/mila/voice.html)でお送りください。掲示板にネタバレ感想を書くのはご遠慮願います。  これまで一度も感想等を送っていなかった方も、最後ですからこの機会にぜひ。  ただし、自分が期待したエンディングと違うからって文句言うのはナシね(笑)。今さら文句言われても直せませんし。  さて、書きたいことはまだいくらでもあるのですが……。詳しい解説とか、制作裏話とかね。  しかし名残惜しいですけど、そろそろ終わりにしましょう。  最後にもう一度。  これまで『光の王国』を読んでくださった皆さん、長い間本当にありがとうございました。  そして、これからも『創作館ふれ・ちせ』と北原樹恒をよろしくお願いいたします。 二○○一年四月 北原樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/ 『光の王国』公式サイト http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/mila/ ■作品リスト  本編1  異界の戦士  本編2  復讐の序曲  本編3  黄昏の堕天使  幕間劇1 わたしだけ  本編4  レイナの剣  幕間劇2 チョコレート娘  外伝1  リューリィ・リン  本編5  ファ・ラーナの聖墓  番外編1 殺意の女神  本編6  銀砂の戦姫  幕間劇3 ファースト・キス  幕間劇4 いばらの森  本編7  金色の瞳(前編)  幕間劇5 眠れない夜のために  本編7  金色の瞳(後編)  番外編2 殺意の女神たち  本編8  レーナの御子  幕間劇6 ふたつのこころ  幕間劇7 ウァレンティーヌスの贈り物  本編9  黒剣の王  最終話  生まれ来る者たちへ ■参考資料、参考文献、そして  インスピレーションを与えてくれた作品  宇宙との連帯  コスモス  コンタクト  惑星へ  遙かな記憶  ――カール・セーガン  驚異の小宇宙 人体  生命 〜四十億年はるかな旅〜  いきもの地球紀行  ――NHK  平行植物  ――レオ・レオーニ  ワンダフル・ライフ  ――スティーヴン・ジェイ・グールド  図解雑学 ウィルス  ――児玉浩憲  ウィルスがわかる  ――清水文七  2001年宇宙の旅  2010年宇宙の旅  2061年宇宙の旅  宇宙のランデヴー  都市と星  火星の砂  ――アーサー・C・クラーク  狂気の山脈にて  ――ハワード・フィリップ・ラヴクラフト  慟哭の谷  ――木村盛武  アイヌ語辞典  ――菅野茂  地名アイヌ語小辞典  アイヌ語入門  ――知里真志保  アイヌ植物誌  ――福岡イト子  アイヌ神謡集  ――知里幸恵  沈黙の艦隊  ――かわぐちかいじ  うしおととら  ――藤田和日郎  アート・オブ・ドラゴンズへヴン  ――小林誠  ファイブスター物語  ――永野護  ソードワールドRPG  ――グループSNE  電脳戦機バーチャロン  バーチャロン・オラトリオ・タングラム  ――SEGA  マリア様がみてる・いばらの森  マリア様がみてる・ウァレンティーヌスの贈り物  ――今野緒雪  AQUARIUM  ――須藤真澄  那由他  ダークグリーン  ――佐々木淳子  ファイアスターター  ――スティーヴン・キング  ルイス・キャロル詩集  不思議の国のアリス  鏡の国のアリス  ――ルイス・キャロル  光の王国  ――吉良知彦・作曲