光の王国・外伝1 リューリィ・リン プロローグ  ソレア・サハの屋敷を訪れた奈子が居間の扉を開けると、見覚えのある広い背中と赤い髪が目に入った。  ほとんど無意識のうちに右脚が動く。 「なんで、あんたがここにいるのよ?」  ゴンッ!  華麗な上段蹴りは、狙い違わず男の後頭部を直撃した。 「……久しぶりに会ったというのに、挨拶もなしにいきなりコレかっ?」  出来たてのコブをさすりながら、男――エイシス・コット――が立ち上がって振り返る。  百九十センチ近い長身のエイシスは、立ち上がれば奈子より頭ひとつ分は大きい。 「目障りなのよ。無駄にでかい図体して」  そう言うと、奈子は再び上段蹴りでエイシスの顔面を狙う。  但し今度は本気ではなく、エイシスはその太い腕で簡単に蹴りを受け止めた。  二人のこんなやりとりはいつものこと。ソレアは気にも留めず、奈子の分のお茶を淹れている。 「いらっしゃい、ナコちゃん。今日は泊まっていけるの?」 「ん……そのつもりだけど?」  奈子も席について、カップを口に運ぶ。 「ちょうどいい時に来たわね。ちょうど明日からお祭りなのよ」 「お祭り?」 「そう、夏至のお祭り」 「なんだって?」  ガタッと大きな音を立てて、エイシスが驚いたように立ち上がる。 「夏至祭りって……もう、そんな時期なのか?」 「ええ、そうよ」  小さく舌打ちをして、エイシスは腰を下ろした。この男には珍しく、ひどく困っていくような表情でなにやら考え込んでいる。 「最近ずっと街を離れていたから、暦なんか気にしてなかった。うっかりしてたな……」 「何かあった?」  奈子が訊ねる。 「ん、いや……」  エイシスはわずかに口ごもった。 「ちょっと、人と会う約束がな……。それが、ハシュハルドなんだよな」 「ハシュハルド?」  奈子はこの世界の地理には疎い。その地名がわからずにきょとんとしていると、ソレアが説明してくれる。 「ハシュハルドは、ずっと西の方にある大きな街よ。まともに行けば一月近くはかかるかしら」 「一ヶ月ぅ? それじゃあ全然間に合わないじゃん。あんた、何やってたのよ?」 「いや、古い約束なんでな……忘れてた」 「いーかげんなヤツ」 「ハシュハルドなら、送って行けるけど?」  そう言ったのはソレアだ。エイシスの表情がぱぁっと明るくなる。 「ホントか?」  転移の魔法が使える魔術師はごく僅かだし、まったく見ず知らずの場所に転移することは不可能に近い。だから、ソレアがハシュハルドへ転移できるというのは、エイシスにとっては幸運だった。 「じゃ、悪いけど頼むわ。明日の夜までに着ければいいから」 「送って行ってあげるのはいいけど」  ソレアがふふっと、意味深な笑みを浮かべる。 「よかったら、誰とどんな約束をしていたのか、聞かせてもらえないかしら?」  この台詞は、奈子には少々意外だった。  ソレアは本来、他人のプライバシーを詮索するような性格ではない。それに、卓抜した能力を持つ魔術師である彼女なら、その気になればエイシスの考えを知ることなど造作もないことのはずだ。  いや。  今だって、本当はわかっているのかもしれない。  ソレアは、何かを企んでいるような悪戯な笑みを浮かべているし、エイシスは困ったように口ごもっている。きっと、わかっていてエイシスをからかっているのだろう。 「今から、六年くらい前の話なんだがな……」  ちらりと奈子の方を見たエイシスは、仕方ない、といった様子で話し始めた。 一章 リューリィ・リン  その日、空は見事なまでに晴れ渡っていた。  澄み切った蒼い空の上で、大きな鳥がゆっくりと輪を描いているのが見える。  時刻は正午を少し過ぎた頃。  樹がまばらに生えた林の中を通る路の脇で、一人の若者が昼食の準備をしていた。  枯れ木を集めて火を起こし、干し肉を焙っている。  その若者の名は、エイシス・コットという。  年齢は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。平均的な成人男子よりも頭半分ほど背が高く、筋肉質の逞しい体格をしている。  大きな荷物を傍らに置き、着ている物がやや汚れているところを見ると、旅の途中だろう。  荷物に立てかけるようにして置いてある剣――子供の背よりも大きな大剣――から、彼の生業を伺い知ることができる。それは明らかに、実戦で用いられるための、人を殺すための武器だった。  彼は、傭兵だった。  生まれ故郷はここよりずっと北の山中にある寒村だったが、十三のときに村を飛び出して以来、ずっと己の力だけを頼りに生きてきた。  傭兵の他、めぼしい戦争のないときには隊商の護衛や酒場の用心棒、場合によっては金で暗殺を請け負うこともあった。  生まれつきの恵まれた体格に加えて、剣の腕前は抜群で魔法にも通じている。その気になればどこかの国で正騎士の地位を手に入れることも難しくはないだろうが、彼は今の生活が気に入っていた。  規律とか、規則正しい生活といったものは性に合わない。  気が向いたときに稼いで、その金がなくなるまでは酒と女に囲まれて暮らす――それが、エイシスにとっての充実した生活というものだ。  だから、今はかなり幸せな気分だった。  つい先日ひと仕事終えたところで、エイシスが雇われていた軍は見事勝利を納めた。彼自身、いくつもの手柄を立てたおかげで懐は暖かい。  そうなれば次にするべきことは、遊ぶところに事欠かない大きな街へと行くことだ。  そんな事情で、エイシスは旅の途中なのである。  焚き火で焙っていた干し肉が、良い香りを立て始めた頃。 「……?」  不意にエイシスは殺気を感じて、反射的にその場を飛び退いた。  一瞬遅れて、今までいた場所が爆炎に包まれる。 (魔法……?)  エイシスの顔に緊張の色が浮かんだ。  地面に伏せて様子を伺うと、少し離れた茂みの向こうで何かが動く気配がした。  軽く息を吸い込むと、剣を掴んで立ち上がり、そちらに向かって走り出す。  逃げていくその気配は、草木が密集した場所を選んでいるようで、こちらからは姿が見えない。それでも足音と気配から察するに、相手は人間、それも一人だけらしかった。  エイシスは足には自身があったが、相手もずいぶんと身が軽いようで、身体の大きいエイシスには走りにくい、低い枝や灌木が密集した場所を走り抜けていく。  このままでは埒があかない……そう考えたエイシスは、口の中で小さく呪文を唱えた。  エイシスの前に、大人の握り拳より一回りくらい大きな白く輝く光の球が出現し、前方に飛び去る。  光球が灌木の茂みを貫いた瞬間、ばんっという大きな破裂音と、小さな悲鳴が聞こえた。  油断なく周囲を警戒しながら茂みを抜けたエイシスは、わずかに驚きの声を漏らす。  そこにいたのは、彼の予想をまったく裏切った相手だった。 「……なんだ、お前は?」  剣を掴んでいた手から力が抜ける。  それは、一人の女の子だった。  両足を軽く開いてしっかりと地面を踏みしめ、真っ直ぐに彼を睨み付けている。  歳はせいぜい十歳くらいだろう。  長く美しい金髪と、深い緑色の瞳。  将来、相当な美女になることを約束されたような容貌だ。  スカートの膝のあたりが汚れているところを見ると、エイシスの魔法に驚いて転んだのだろうか。  何故こんなところに、女の子がいるのだろう。そして、何故いきなり魔法で攻撃してくるのだろう。  エイシスは言葉を失っていた。  これが予想通り山賊の類であれば問答無用で叩き斬るところだが、どうにも勝手が違う。  少女は黙って、その大きな緑の瞳でエイシスを見ている。 「いったい……?」  戸惑いがちにエイシスが一歩足を踏み出すのと同時に、少女は、頭上の枝から垂れ下がっていた蔓を掴んだ。  背中に悪寒が走り、エイシスは踏み出した足を素速く引っ込める。  ずんっ! 「……!」  次の瞬間、彼の目の前に、今までなかった一本の木が生えていた。  いや、生えたわけではない。  エイシスの頭上から降ってきたのだ。  太さ、長さともちょうど槍くらいのサイズの木が、つま先ぎりぎりの地面に深々と突き刺さっている。  一歩下がっていなければ、間違いなく串刺しになっていたはずだ。  エイシスはいまいち事情が飲み込めないまま、その木を掴んで引き抜いた。ぼんやりと、手の中の粗末な槍を見下ろす。  そこで初めて、少女が口を開いた。 「どうして避けるのよ! ずるいじゃないっ!」 「あ……」  エイシスの顔が引きつる。  ようやく、事情が見えてきた。 「当たり前だっ! 誰だって避けるに決まってるだろーが!」  叫ぶのと同時に、その木で少女を張り倒していた。 * * * 「この扱いはどういうことよっ? このバカ野郎! 鬼畜! 人非人! 変態!」  罵詈雑言が降ってくる。  少女は、顔に似合わず口が悪かった。  エイシスはそれを無視して、中断された昼食を再開していた。 「ちょっと! 人にこんな仕打ちをして、なにのうのうと食事なんかしてるのよっ!」  無数の悪態は、何故か頭上から聞こえてくる。 「下ろしなさいよ! このウドの大木! これがレディに対する扱い?」  エイシスはうるさそうに上を向く。  そこには、ロープで縛られた少女が樹から吊されていた。 (猿轡もかましておくべきだったか……)  今さら手遅れではあるが、少々後悔する。 「うるさいぞ、このガキ!」 「あたしガキじゃないわ! 今年でもう十歳よ。十歳といえば一人前のレディだわ! スカートの中を覗いたりしたら、承知しないんだからね!」  少女は、大人ぶった口調で叫ぶ。しかしそれはまだ、キンキンと頭に響く子供の声だ。 「なにがレディだ、この追い剥ぎがっ!」 「誰が追い剥ぎよっ? とこっとん失礼なヤツね!」  このガキ、締めてやろうか……。  エイシスはそんな表情をしながらも、辛うじて大人の威厳を失わない口調で聞き返す。 「追い剥ぎじゃなければ、何だっていうんだ?」 「そうね、まずこのロープを解いて、頭を下げてお願いするんなら話してあげてもいいわ……って、ちょっと、なんでそんなところで焚き火を始めるの? 煙たいじゃない!」  エイシスが、真下に薪を積んで火を点けたため、立ち昇る煙に少女は咳き込んだ。 「ちょっとした実験だ」 「実験? なんの?」  煙が目にしみるのか、涙を流しながら少女は訊ねる。 「生きた人間を薫製にできるかどうか」 「ちょっと! やめなさいよ! あ、熱いじゃない!」  エイシスはそんな抗議の声には耳を貸さず、薪を火にくべる。 「ゲホ……わ、わかったわよ! 話すから……やめて!」 「じゃあ、まず……お前の名前は?」 「下ろすのが先よ」  あくまでも偉そうに少女が言うと、エイシスは手に抱えていた薪をまとめて火中に投げ込んだ。  高く上がった炎は、今にも少女の足に届きそうになる。 「で、名前は?」 「い……言うわよ。言えばいいんでしょっ! リューリィよ。リューリィ・リン!」  同時に、少女を吊していたロープが切れる。  リューリィは悲鳴を上げた。このままでは、火の中に落ちてしまう。  しかしエイシスは片手でリューリィを受け止めると、傍らの地面にぽいっと放り出した。  全身からほのかに香ばしい薫製の香りを漂わせているリューリィが、上目遣いにエイシスを睨み付ける。まだ、両手はロープで縛られたままだ。 「で、どうして俺を襲ったんだ?」 「ちょっと、あたしにだけ名乗らせるなんて失礼じゃない?」 「そうか、悪かったな。エイシス・コットだ」  答えながら、エイシスはリューリィを軽く蹴飛ばした。 「縛られて抵抗できない女の子を蹴飛ばすなんて、最低ぇ」 「縛られたまま軽く蹴られるのと、ロープを解いてから思い切り蹴飛ばされるのと、どっちがいい? つべこべ言わず質問に答えろ」 「あたしみたいな可憐な美少女が人を殺す理由なんて、一つしかないじゃない」  リューリィはきっぱりと言い切った。 「復讐、よ」 「お前が『可憐な美少女』かどうかという問題はひとまず置いとくとして、美少女と復讐の関連はいまいちわからんが……」  エイシスはもう一度、リューリィを観察した。  口はなかなかに達者だが、外見はどう見ても十歳前後。  髪は見事な金髪で、長さは背中まで。  瞳は深い森のような緑。  目は大きく、意志の強さを感じさせる。 (可憐な美少女……といえなくもないが、ちょっと性格に問題アリだな)  それなりに教育を受けてはいるようだが、貴族の娘、というほどの上品さはない。  そこそこに裕福な商人か、農場主の娘といったところだろうか、と推測する。 (それにしても、復讐……だと?)  いくら記憶の糸を手繰っても、この少女には見覚えがない。  親とか、あるいは兄を殺されたとでもいうのだろうか?  ここ何年か、戦場で過ごす時間の方が長いエイシスである。これまで殺めた人間の数などいちいち憶えてもいない。  しかし……戦場で倒した相手の娘だとしたら、どうして彼が親の仇だとわかるのだろう。  戦場以外での殺し――金で請け負った暗殺とか、酒場での喧嘩の末に殺してしまった相手というのはそう多くない。その中に、このくらいの娘がいそうな相手は心当たりがなかった。 「復讐と言われても……人違いじゃないか? 俺には心当たりがないんだが」 「しらばっくれる気? あんた達のせいで、村はめちゃめちゃになっちゃったんだから!」 「村?」  エイシスは首を傾げる。 「そう、あたし達の村が戦場になって、畑は踏み荒らされるし、家は焼かれるし……人も大勢死んだわ。みんなあんた達のせいよ!」  なるほど。  エイシスは心の中で頷いた。  それなら納得はいく。  どこかの町や村が戦場になれば、後には焼け野原しか残らないのが普通だ。この大陸のあちこちで毎日のように繰り返されていること、彼のような傭兵には当たり前のこととはいえ、巻き込まれた住民たちにはたまったものではあるまい。 「それで……お前の家族も殺されたのか?」 「ううん。あたしの父さんと母さんは、去年流行り病で死んだ」  リューリィは小さく首を振る。 「でも、うちには土地があったからそれを人に貸して、あたしが生活していくのには困らなかった。近所の人たちも、みんな親切にしてくれたし……。それなのに、あんた達がめちゃめちゃにしたのよ!」 (なるほど、そういうことか……)  リューリィの仇は別にエイシス個人ではない。村を踏み荒らした兵士たち全員に恨みを持っているのだ。 (しかし、待てよ……) 「お前の村って、どこだ?」 「フルカ村よ」 「フルカというと……ここから東に行った、トムシールとの国境近くの?」  リューリィが頷く。 「人違いだ」  エイシスはあっさりと言った。 「俺が雇われていたのは、北の国メラシペだ。今回の戦場は山の中だったし、フルカ村なんて足を踏み入れたこともない」 「ウソばっかり」 「嘘じゃない」  エイシスはポケットから一枚の金貨を取り出すと、リューリィに向かって放った。今回の仕事の報酬の一部であるその金貨には、メラシペ王国の紋章が彫られている。  リューリィは、目の前に落ちた金貨をしばらく無言で見つめていた。 「わかったろ、お前の村を襲ったのは俺じゃない」 「……ま、それは置いといて……」 「ちょっと待てコラ!」  一瞬、気まずそうな表情を見せたリューリィだが、すぐに強気な態度を取り戻す。 「だって、あんた傭兵でしょ? 今回はたまたま違っただけで、いつかはあたしの村を荒らした連中と同じように、罪もない人たちを苦しめるに決まってンの! だったら、今のうちにやっつけとくのが世の為ってものよね?」 「てめえ開き直りやがったな! だったら何か? お前はこの世の全ての兵士をやっつけようとでもいうのか?」 「それが理想ね」 「このガキ……」  エイシスは吐き捨てるように言った。 「……まあいい。だったらこれはこれとお前の戦争だ。そしてお前は負けたんだから、つまり俺の捕虜ってことだ」  エイシスは立ち上がると、リューリィを縛っているロープの端を掴んで軽々と肩に担ぎ上げた。  リューリィは足をばたつかせる。 「ちょっと、どうする気よ! 変なコトしたら、タダじゃすまないんだから!」 「俺はこれからハシュハルドの街に行くところだったんだ。金が入ったから、しばらく大きな街で遊ぼうと思ってね」 「それで……?」 「あそこは大きな街だから、お前みたいなガキも結構な金で売れるぞ。幼女趣味の変態オヤジとかに、な」  口さえ開かなきゃ、確かに可憐な美少女だもんな――そう付け加えると、エイシスはにやにやと笑った。 「俺にはそっちの趣味はないから、その金で妙齢のの美女と楽しもうって寸法だ」 「ちょっと! なんてこと考えンのよっ!」  頭にキンキンと響く声で、リューリィが叫ぶ。  肩に担いでいるので、エイシスの鼓膜は至近距離でその声の直撃を受けることになった。 「捕虜が偉そうな口をきくな!」  片手で耳を塞ぎながらエイシスは怒鳴り返す。 「だいたい、戦争で家を失い、身寄りもないガキがこれからどうやって生きていこうって言うんだ? どっかの金持ちのエロじじいに買われれば、取り敢えず住む処と食べる物には困らんだろう? ついでに俺は金儲けができて一石二鳥、二人とも幸せになれるってわけだ」 「何が幸せよっ! このバカッ! クソ傭兵!」  肩に担がれたまま、リューリィは足だけをばたつかせて暴れる。 「いい加減、口のきき方に気をつけろよ。あの場で殺されなかっただけありがたいと思え」 「思えるわけないでしょ! このインポ野郎!」 「……」  一瞬の沈黙の後、エイシスは唖然とした表情でリューリィを見た。 「お前、意味わかってて言ってんのか?」 「さあ……? あたしの魔法の先生が教えてくれた『男にもっともダメージを与える悪口』のうちの一つなんだけど」  その「先生」とやらがどんな人物なのか非常に興味を引かれるが、あえて詳しくは訊かない。 「他にも『早漏!』とか『皮かむり!』とかのバリエーションがあるけど?」 「もういい! お前は喋るな!」  こんな娘に関わってしまったことを、エイシスは心底後悔した。 (今さら捨ててくわけにもいかんし……。売るときは魔法で眠らせるか、口をきけないようにする必要があるな……)  大きな溜息をついて、エイシスは歩き出した。 二章 狼の晩餐  翌日の夕刻――  リューリィは一人、樹に縛り付けられていた。  目の前にはエイシスの荷物が置いてあるが、その持ち主の姿はない。  今夜はここで野営することに決めたエイシスは、食料の調達に行っていた。干し肉は喰い飽きた、ということで狩りをすることにしたのだ。  ここはちょうど森を抜けたところで、目の前にはまばらに灌木が生えた草原が広がっている。この辺りなら、野ウサギや木ネズミが獲れるだろうと考えたらしい。  これは、リューリィにとってチャンスだった。  エイシスの姿が見えなくなったところで、彼女は作業を始めた。  その手には、小さな黒曜石のかけらが握られている。  昼間、山道を歩いている最中にこれを見つけ、つまづいて転んだふりをしてこっそり拾っておいたのだ。鋭利な黒曜石の破片は、そのまま刃物として使える。  後ろ手に縛られているし、拾った黒曜石は小さな物なのでなかなか上手くロープは切れないが、リューリィは諦めない。  魔法が使えれば簡単なのだが、さすがにエイシスもその点は抜かりなく、リューリィの周囲に魔法封じの結界を張っていた。  あの男が戻ってくる前に……と、リューリィは必死に黒曜石でロープを擦る。  もう少し。  もう少し……。  切れた!  両手を縛っていたロープがはらりと落ちる。  こうなれば後の作業は簡単だ。  自由になった手で、身体を樹に縛り付けていたロープを解いたリューリィは、周囲を油断なく見回し、エイシスの姿が見えないことを確認して立ち上がった。  どっちへ逃げるべきか?  ほんの少し考えてから、背後の森へ向かって走り出す。  他に選択肢はない。草原の中を走っていたら簡単に見つかってしまうだろう。  正直なところ、ただ逃げ出すのは癪だった。  できれば、逃げる前にエイシスになにか仕返しをしたかったのだが、今はあまり危険を冒すわけにもいかない。今度捕まったら、もう簡単には逃げ出せないだろう。 (見てらっしゃい。今度どこかで会ったら、きっとひどい目に遭わせてやるんだから!)  リューリィは、負けず嫌いな性格である。  どうやって、という具体的な方法は取り敢えずおいといて、今度こそ正真正銘の『復讐』を誓うのだった。 * * *  エイシスは夕食のおかずを獲るために狩りに行ったのだが、それは何もエイシスだけに限ったことではない。夕まずめのこの時刻は、他の多くの肉食動物にとっても狩りの時間帯だった。  鋭い牙と爪を持った肉食獣でも、そう簡単に獲物を捕れるわけではない。狙われる側の草食動物も、群をつくって見張りを立てるなどの対策を講じているし、いざ襲われれば、息絶える最後の瞬間まで必死に抵抗しようとする。  だから、肉食獣はできるだけ襲いやすい獲物を狙う。  病気や怪我などで弱っているもの。  まだ力のない子供。  群からはぐれたもの。  そして今、これらの条件を満たした獲物が無防備に森の中を歩いていた。  リューリィがそれに気付いたときには、すっかり取り囲まれてしまっていた。  暗くなり始めた森の中で、金色に光る目。  その数は、十や二十ではない。  飢えた狼の群だった。  低い唸り声を上げながら、徐々に包囲の輪を狭めてくる。 「な……なによ、あたしにケンカを売ると痛い目に遭うわよ!」  リューリィは大きな樹を背にして立ち、狼に向かって言った。但し、その声は幾分震えている。  勿論、いくら強がって見せたところで、そんな人間の言葉が狼に通じるはずもないのだが。  実際のところ、狼が人間を襲うことはそう多くない。武器や魔法を使いこなす人間は狼よりも強い存在であり、狼はそのことをよく知っているからだ。  だが、一人きりでいる子供となれば話は別だ。  しかもリューリィは、武器を持っていない。  逃げ出すのに使った黒曜石のかけらはまだポケットの中に入っていたが、こんなものは狼相手には何の役にも立たない。  そうなると、リューリィの身を守るものは魔法しかなかった。両手の指を組んで印を結ぶと、呪文を唱え始める。 『天と地の狭間にあるもの  力ある者達よ  我の言葉に応え、我が元に集え……』  ざわっ  リューリィの周囲で不自然に風が巻き、木の葉を揺らした。  狼たちは何かの気配を感じ取ったのか、盛んに唸り声を上げる。  リューリィは、魔力の源となる精霊を召喚しようとしていた。  だが、思いのほか精霊の反応は鈍い。  彼女に魔法を教えてくれた先生は「スジがいい」と褒めてくれたものだが、リューリィはまだ十歳、実践魔法の初歩をちょっとかじった程度に過ぎない。  実際にこうして魔法で闘うのも初めてのことだ。緊張しているため、精神集中も上手くいかない。 (アプシの樹か、オルディカがあればいいのに……)  リューリィは唇を噛んだ。  一部の植物は魔力の増幅、集中を助けるする性質を持っていて、アプシやオルディカはその代表だ。魔除けの護符や、いわゆる『魔術師の杖』の素材として使われている。  昨日、エイシスに奇襲を仕掛けた時にはアプシの樹の小さな枝を持っていたのだが、それは捕まった時に落としてしまっていた。 (一頭か二頭やっつけたら、怖じ気づいて逃げ出してくれないかなぁ……)  リューリィとしては、そう期待するしかない。見える範囲だけでも優に二〜三十頭はいる狼を、簡単に全て倒せるとは思えなかった。  徐々に、包囲の輪を狭めてきた狼の群の中から、特に血の気の多い一頭が飛び出してくる。 「炎よ!」  リューリィは、狼に向かって手を突き出して叫んだ。  瞬間、その狼の身体は炎に包まれて地面に転がる。  それが、きっかけとなった。  他の狼たちは、まったく怯むことなく襲いかかってくる。  リューリィの力を見た狼は、直接牙が届くところまではそうそう近寄らないが、入れ替わり立ち替わり、今にも噛みつくぞといった素振りを見せる。その度にリューリィは炎の魔法を放つのだが、相手の動きが素速いことと、気が動転していることで、なかなか命中しない。  そんなやりとりの繰り返しは、リューリィの体力と気力を急激に消耗させていく。  それが、この狼たちの戦法だった。威嚇を繰り返すことで相手を消耗させ、力尽きて隙ができたところで確実に仕留めようというのだ。  リューリィはもともと体力のない子供だ。持久力という点で野生動物と張り合えるはずがない。  それに、昨日からろくに食事も摂っていないためにひどく空腹だった。別にエイシスが食べ物をくれなかったわけではないのだが「腹を空かして見栄えが悪くなると売れないから食え」という台詞を聞いて食欲をなくしたのだ。それに、エイシスからもらった物を食べるというのなんだか屈辱だった。 (こんなことなら、我慢して食べておくべきだったかなぁ……)  やっと三頭目の狼を倒した時、リューリィはもう疲れきっていた。  体力的なものもあるが、なにより、命懸けの闘いというのは慣れない者にとって精神的な消耗が激しいのだ。 (もう……ダメ……)  息が切れて、目がかすむ。  足に力が入らなくなったリューリィは、地面に座り込んだ。 (生きたまま狼に食べられるなんて、ヤダなぁ。きっと痛いんだろうなぁ……)  ぼんやりと、そんなことを考える。  リューリィが力尽きたのを見た狼の群はたちまち包囲の輪を狭め、一斉に襲いかかって……は来なかった。  狼の視線は、リューリィではない相手に注がれている。 「え……?」 「天と地の狭間にあるもの  力を司る者達よ  我の言葉に従い、我が元に集え……」  背後から低い男の声が聞こえた。  リューリィは顔を上げる。 「傭兵……」  いつの間にか、エイシスがそこに立っていた。  魔法の印を結び、呪文を唱えている。 「我は命ずる  力ある言葉に従い  汝らの力を解き放ち  数多の世界より  我の元に届けんことを  ――炎よ!」  それは、リューリィのささやかな魔法とはまるで次元の違うものだった。突如出現した炎の竜巻が、十数頭の狼を一瞬にして薙ぎ倒す。 「よぉ、困ってるようだな?」  エイシスは地面にへたり込んでいるリューリィを見下ろし、ニヤリと笑った。 「だ、誰も助けてくれなんて言ってないよ!」  体力を使い果たし、肩で息をしながらもリューリィは虚勢を張る。 「売り飛ばされて、変態オヤジの慰み物になるくらいなら、狼に喰われた方がマシだもの」 「そっか、じゃあそうしろ」  リューリィの言葉にあっさり頷いたエイシスは、背を向けて立ち去ろうとする。 「あ、ちょ、ちょっと待った!」  リューリィは慌てて呼び止める。  強敵の出現にも関わらず、生き残った狼が相変わらず二人を取り囲んでいることに気付いたからだ。 「別に頼んじゃいないけど……あんたがどうしてもって言うんなら、助けられてやってもいいよ」  それが、精一杯の強がりだった。  しかし、エイシスは足を止めない。 「いや、別にそうまでして助けたいわけじゃない。疲れるしな……、でも」  エイシスは振り向くと、からかうような表情で笑った。 「どうしても助けて欲しいって言うんなら、助けてやってもいいぜ、リュー?」 「うぅ……」  リューリィは、涙目でエイシスを睨み付けた。 「なによっ! この性悪男! わざわざここまで来たんなら助けて行きなさいよっ!」 「お願いします、を忘れてるぞ?」 「……」  ちらりと、背後の狼の群を振り返る。エイシスが離れるにつれて、狼は再びリューリィに迫ってきている。  その群の中心に、一際大きな狼がいることにリューリィは気付いた。  周りにいる並の狼の倍近い体格だ。これが、この群のリーダーなのだろう。  おそらくただの狼ではない。遠い昔、魔術師たちの手で戦争の道具として造り出された魔物の末裔だ。  大きな口に並んだ牙は、リューリィの手足など一噛みで喰いちぎることができそうに見える。  それが、一歩一歩こちらに向かって歩いてくる。  全身に鳥肌が立つのを感じて、リューリィはエイシスの背中に向かって叫んだ。 「お願いだから助けてよっ! このバカッ!」  その言葉と同時に、再び炎の竜巻が現れて狼の群を蹂躙する。それでもリーダーだけは怯むことなく、リューリィに飛びかかってきた。 「ひっ!」  思わず、頭を抱えて目を瞑る。  しかし、いつまでたっても何も起こらない。  恐る恐る目を開けると、目の前にエイシスの大きな背中があった。  その手には、大きな剣が握られている。  リューリィの背丈よりも大きな剣。  刃に、少し血が付いている。  そしてエイシスの前には、両断された大きな狼の死体が転がっていた。  他の狼の姿はない。  リーダーが倒されたので逃げ出したらしい。 「怪我はないか?」  剣を鞘にしまうと、エイシスは振り返る。 「顔に傷でも付いたら大変だ。値打ちが下がるからな」 「……平気よ」  差しのべられた手を無視して、リューリィは自力で立ち上がった。  スカートに付いた土埃や草を払い落とす。 「……ま、ちょっとだけ感謝してあげないこともないわ」  つんとすました表情でリューリィは言ったが、その頬に涙の痕があるのを見てエイシスは小さく笑う。  それから、足元に放り出してあった野ウサギを拾い上げてリューリィに渡した。 「手間かけさせた罰だ。晩メシの支度はお前がやれよ」 「ふん、だ」  リューリィはエイシスに向かって舌を出したが、それでも大きな野ウサギを抱えて後をついていった。 三章 滅びの谷  それから二日が過ぎた。  エイシスは、リューリィが逃げ出したことについては何も言わなかったが、それがかえって癇に障った。まるで「あそこで逃げ出すことなどはじめからお見通しだった」と言わんばかりの態度だからだ。  あれ以来、食事の支度を押しつけられていることもあって、リューリィはもう縛られてはいない。 (あれくらいのことで、あたしが感謝しておとなしく売られる気になったとでも思ってンのかしら? それとも……)  それとも、たとえ縛り付けておかなくても、逃がさない自信があるのか。  取り敢えずこの二日間、リューリィは逃げ出す素振りも見せずにできるだけ従順な振りをしていた。  そうすればいつか、この傭兵も油断して隙を見せるだろう――そう考えたのだ。 * * *  その夜、二人は山の中で野宿していた。  あと半日も歩けば山道は終わる。この山を下りればエイシスが目指しているハシュハルドの街はもうすぐだ。  逃げ出すなら今のうち。リューリィはそう考えていた。 「傭兵……起きてる?」  真夜中を過ぎた頃、リューリィは小さな声で言った。  焚き火が、熾になってぼんやりと赤く光っている。その向こうに、毛布にくるまって横になっているエイシスの姿が見えた。 「傭兵……?」  リューリィはもう一度呼び掛ける。  今度はもう少し大きな声で。  それでも返事はない。  聞こえるのは、規則正しい寝息だけだ。  リューリィはそのまましばらく待って、それからゆっくりと動き始めた。  少しずつ、慎重に。  うっかり枯れ枝など踏んで音を立てたりしないように。  じりじりと、ほんの少しずつ、その場から離れていく。  一歩足を動かしては動きを止めて、エイシスがまだ寝ていることを確認して。  そんなことを繰り返して、やっと十分な距離を取ったリューリィは、ふもとに向かって全力で走り出した。  エイシスの話では、山を下った処に小さな村があるらしい。そこまで逃げればなんとかなるだろう。  夜の山道を明かりも持たずに走るのは難しいことだったが、樹々の間からわずかに照らす月明かりだけを頼りに走り続けた。  そろそろ安全な距離まで離れただろうか。  そう思った瞬間、リューリィは何かにつまづいて思い切り転んでしまった。  思わず声を上げそうになったのを慌てて押さえたため、舌を噛んでしまう。 (痛ったぁ……。やっぱり、明かりなしで行くのは無茶かなぁ)  そこはちょうど木の陰になったところで、地面は真っ暗だった。何につまづいたのかすら見えない。 (これだけ離れたんだもの、少しくらいは大丈夫だよね?)  リューリィは、小声で明かりの呪文を唱えた。  小さな魔法の明かりが周囲を照らし出す。  そして―― 「……っ!」  リューリィは悲鳴を上げそうになった。  実際に声を上げなかったのは「見つかってはいけない」という意志の力によるものではなく、ショックが大き過ぎたためだった。  口は大きく開いているのに、まるで何かが喉を塞いでいるかのように声が出ない。  呼吸もできない。  腰が抜けてその場に座り込んだ。  もう一度、叫ぼうとした。  しかし声が出るようになるよりも先に、リューリィは気を失っていた。  彼女がつまづいたのは、無惨に食いちぎられた若い男の死体だったのだ。 * * * 「いや……っ!」  意識が戻ると同時に悲鳴を上げそうになったリューリィだったが、一瞬早く大きな手で口を塞がれた。不意のことに、心臓が止まるほどびっくりする。  暴れて、口を塞いでいる手を払い除けようとするが、彼女をしっかりと押さえつけた手はびくともしない。 「声を立てるな。気付かれる」  耳元で、低い声がする。 (よ、傭兵……)  落ち着いて見ると、リューリィはエイシスに背後から抱きかかえられていた。彼女が落ち着いたのを見て、エイシスは口を塞いでいた手を離す。 「落ち着いたか、リュー? あまり大きな音は立てるなよ。まだ近くにいるかもしれないからな」 「近くにいるって……何が?」 「あの死体を作った奴、だ」  リューリィはびくっと身体を震わせた。先刻の、見るも無惨な死体の記憶が甦ってくる。 「あ……な、何なの、あれ……? いったい、何があったの?」  寒いわけでもないのに、身体の震えが止まらない。少しでも気を抜いたら、また悲鳴を上げてしまいそうだった。 「多分、魔物に喰われたんだ」 「ま、魔物……? この間の狼みたいな?」 「いや」  耳元でささやくエイシスの声は低く落ち着いていて、聞いているうちにリューリィの動揺も少し治まってくる。 「もっと、ずっとでかくて凶暴な奴だ。人間をひと噛みで喰いちぎれるなんてな」 「そんな……」  そんな恐ろしい魔物が、こんな人里近くにいるとはにわかに信じられない。  少なくとも、リューリィが育った村ではそんなことはなかった。人間を脅かすほどの魔物なんて、物語の中だけの存在だった。 「多分、どこからか迷い込んだんだろうな。朝になったらふもとの村で訊いてみるさ。おそらく、あれは村の人間だろうから」  意外なほど、エイシスは冷静だった。  傭兵という職業柄、人間の死体など見慣れたものなのかもしれないが、それにしても驚いた胆力だ。 「お前は寝てていいぞ。まだ夜明けまではしばらくあるからな。ずっと寝てなかったんだろう?」 「う……」  なんと応えればいいのかわからなかった。エイシスは、リューリィが寝たふりをしていたことも知っていたのだ。 「傭兵……怒ってる?」 「何が?」 「……逃げたこと」 「別に。捕虜ってのは逃げようとするもんさ。だからといって、逃がしてやる気は毛頭ないんだが」  なんとなく、リューリィをからかっているような口調だった。心の中で舌打ちをする。 (ちぇっ、みんなお見通しってわけ? かなわないや……)  少なくとも、ここまではリューリィの負けだ。  だから、おとなしく眠ることにした。  エイシスの腕の中で。 * * * 「確かに……これは息子の物です」  エイシスが差し出した指輪を手に取って、その男は沈痛な面持ちで言った。  その指輪は、昨夜エイシスが死体から抜き取ったもの。  さほど値打ちものではないが、ちょっと珍しい形の細工だったので、持ち主の素性を知る手掛かりになるだろうと考えたのだ。  その考えは的中し、ふもとの村でそれを見せるとすぐに持ち主はわかった。  指輪は、この村の村長の息子の物だった。  エイシスは村長の家へ行き、指輪を渡した。 「昨日の朝山へ行ったきり夜になっても戻らなかったので心配していたのだが……やはり……」  村長はまだ五十歳にはなっていないようだが、何となくやつれているように見えた。 「あまり驚かないんだな。こうなることがわかっていたのか?」  村長は、思い詰めた表情でじっと手の中の指輪を見つめている。 「私は止めたんだ。危険な真似はするなと……」 「危険な真似、ねぇ……」  エイシスの勘が「これは金になる」と告げていた。 「村からすぐの山に、そんな危険があるのか? 見たところ、ずいぶんと困っているようじゃないか。俺なら力になれるかもしれないぜ?」  村長は少しの間エイシスを見ていたが、やがて重い口を開いた。 「最初の犠牲者が出たのは、十日前のことです……」  山へ山菜を採りに行った二人の女が夜になっても戻らず、翌日、無惨に喰い殺された死体となって見つかった。  その翌日には、山へ狩りに行った猟師が戻らなかった。  普段この辺りの山は、狼や熊が出ることはあっても、それで村人に被害が出ることなど滅多にない。  何か、とんでもないものがこの山に居着いたのは間違いなかった。  腕自慢の男達が集まって山狩りを行ったが、その隙に今度は手薄になった村が襲われ、村外れの一軒家にいた母子三人が犠牲となった。  そして今度は、その家から続いていた足跡を追っていった村長の息子とその友人二人が帰らぬ人となった。 「私は、ハシュハルドの街で腕の立つ傭兵でも雇おうかと考えていたのですが、息子は私の制止も聞かず、こんなことに……」 「なるほど、な」  エイシス腕を組んで頷いた。  村長の話は、だいたい彼が想像していた通りのことだった。この辺りではともかく、王国時代の魔物が生き延びているような辺境であれば、それほど珍しくもない話だ。 「俺には、相手がどんな魔物か見当がついている。その予想が当たっているとしたら……そいつを倒すにはちょっとした軍隊並の人数が必要になるぜ」 「軍隊……だと?」 「そうだ、そのくらいすごい奴だ。そこで一つ提案があるんだが」  エイシスがニヤリと笑う。 「俺を雇ってみないか? 俺なら、一人でやれるぜ?」 「なんだと?」  村長は驚いてエイシスを見る。 「軍隊が必要なほどの魔物を、一人で倒すだと?」 「そうだ、俺ならやれる。俺の料金は少々高いが、並の傭兵を十人以上雇うことを考えたらお得だぞ?」 「うむ……」  村長は値踏みするような目でエイシスを見た。  やや、疑わしげな表情をしている。 「確かに、あんたは腕が立ちそうだが……」 「それだけじゃない。俺は昔、同じ魔物と闘ったことがあるんだ。その時は結局、村人が三十人以上死んだな」 「さ、三十人?」 「このままだと、この村もそうなる」  その台詞には、少しばかり脅迫するような雰囲気があった。  尊重は顎に手を当てて考え込む。彼としても、このまま手をこまねいていられない事態であることは間違いない。村長として村人の安全に責任がある上に、大切な息子を失っているのだ。 「報酬は魔物を倒した後……ということでいいかな?」 「構わないさ。但し、一つ条件があるが……村の猟師で、足が速くて魔法が得意な奴を一人貸してくれないか。ちょっと手伝ってもらうことがある」 「いいだろう、すぐ手配する」 「じゃあ、その準備が出来次第出発するとしよう。今夜からは枕を高くして眠れるぜ」 「だといいが」  エイシスと村長は、一緒に家から出た。  家の前では、リューリィがこの家の飼い犬と遊んでいる。 「リュー、行くぞ。魔物退治だ」  その言葉に、リューリィよりも村長が驚いた。 「な……。あんたは、こんな小さな女の子を連れていく気か? 危ないじゃないか。事が済むまでうちで預かってもいいんだぞ」 「いや、駄目だ。今回の件にはこいつが必要なんだ。行くだろ、リュー?」  リューリィは一瞬、耳を疑った。  今、なんて言った?  あたしが必要――?  あたしのこと、子供扱いして馬鹿にしているくせに。  でも本当は、あたしの実力を認めてくれてるんだ――  まったく歯が立たないと思っていたエイシスが、実は自分のことを必要としている。そのことが、彼女の優越感をくすぐった。  リューリィは村長とエイシスの顔を交互に見て、それからできるだけ大人ぶって答える。 「仕方ないなぁ。あたしが必要だって言うんなら、一緒に行ってあげてもいいよ」 * * * 「ちょっと! 傭兵っ! いったいこれはどういうことよっ?」  リューリィは下に向かって叫んだ。 「言ったろ、お前が必要だって」  エイシスは上を向いて応える。  リューリィはまたロープで縛られ、大きな樹の枝から吊り下げられていた。 「おい、いくらなんでもこれは……」  エイシスの隣にいた、三十代後半くらいの陽に焼けた精悍な顔つきをした男が、困惑した表情で言った。村長に紹介してもらった腕利きの猟師、セタルカだ。 「だったら、あんたが代わりにやるか?」 「いや、それはちょっと……」 「だろ? 魔物だって肉の軟らかい子供の方が好みだろうし。いいから言った通りにしろよ。一つ間違うと命はないぜ」 「……」  あまり納得した表情ではなかったが、セタルカはエイシスと一緒にその場を離れた。 「いいかリュー、できるだけ美味しそうな素振りをしてるんだぞ」 「できるかっ! バカッ!」  リューリィは足をばたつかせながら叫んだ。しかしどんなにもがいても、しっかりと縛ったロープは切れそうにない。とはいえ、彼女が吊されているのは家の屋根よりも高い枝だから、下手にロープが切れた方が危ない。  時刻は既に夕方、太陽は大きく西に傾いている。 「なにが『お前が必要』よ。ばかぁ……」  リューリィは涙目で呟いた。  何のことはない。魔物をおびき出すための餌の役目だ。 (くそー、これが終わったらぶん殴ってやる!)  どうやってエイシスに仕返ししてやろう。リューリィはその方法を考えるのに夢中になっていた。そのため、周囲の様子がおかしい事に気付くのが遅れた。  ふと気付くと。  何も、音がしない。  虫の音も、小鳥のさえずりも。  森の中は、一種異様な静寂に包まれていた。 (……?)  リューリィが首を傾げるのと同時に、重々しい地響きのような音が聞こえてくる。 (まさか……これが足音?)  その、まさかだった。  背後から聞こえてくる足音は、一定のリズムで真っ直ぐこちらに近付いてくる。  バキバキと、灌木が踏み折られる音。  ガサガサと、何かの巨体が木の枝にこすれる音。  そして何より、周囲に漂う禍々しい気配。  あまり気は進まなかったが、リューリィは脚を大きく振って反動をつけた。蓑虫のように吊された身体が、回転して真後ろを向く。  そこに―― 「……!」  恐怖のあまり、声も出なかった。  エイシスには魔物の正体の見当がついていたらしかったが、リューリィには何も教えてはくれなかった。  恐ろしい魔物とは思っていたが、まさかこれほどのものとは。  ゴクリ……。  大きな音を立ててリューリィは唾を飲み込んだ。  そこにいたのは、竜だった。  少なくとも、リューリィの目にはそう見えた。  大きな家ほどもある巨体は漆黒の鱗に覆われ、目だけが爛々と金色に輝いている。  大きく裂けた口は、血の色を連想させる紅。その中に、一本一本が短剣よりも長い牙が、何列にも並んでいる。 「そんな……まさか……」  自分の目が信じられなかった。  竜なんて、いるはずがない。  それは、何百年も前に絶滅したはずの存在だ。  しかし目の前にいる怪物は、どう見ても昔話に出て来る通りの竜に違いない。 「あ……、あ、あたし、美味しくないよ。好き嫌い多いし、野菜あんまり食べないし……」  魔物はその言葉を無視した。リューリィにとっては残念なことに、あまり味にはこだわらない性格だった。  リューリィをひと飲みにできそうな口を開いて迫ってくる。 「ひ……」  思わず目をつぶって、首をすくめる。  しかし次の瞬間、魔物の背中で爆発が起こった。竜の巨体がぐらりと揺れる。  しかし、それで傷を負わせることはできなかったようだ。食事の邪魔をされた魔物は、不機嫌そうな唸り声を上げて振り向いた。  そこに、一人の男が立っている。 「セタルカさん……」  竜に正面から睨み付けられたセタルカは、怯んだ様子で二、三歩後ずさると、脱兎の如く逃げ出した。  竜は、その後を追っていく。 「助……かったぁ」  ふぅっと大きく息を吐き出したリューリィは、思い出したようにきょろきょろと周囲を見回した。 「ちょっと……あの男は何やってんのよ?」 『天と地の狭間に在るもの  力を司る者達よ  我の呼びかけに応えよ……』  大きな樹の陰に立つエイシスは、稀に見る真剣な表情で呪文を唱えていた。  別に、一人で安全な場所に隠れていたわけではない。 『風よりも疾きもの  炎よりも熱きもの  大地よりも広きもの  流れる水よりも清きもの  我が言葉に応え、我の元に集え』  エイシスは、目を閉じた。  遠くから、地響きが近付いてくるのが聞こえる。  ここまでは計画通りだった。  ゆっくりと目を開く。  目の前の山道を、セタルカが必死の形相で駆け抜けていくのが見えた。竜に追われているのだから当然だ。  そのすぐ後ろを、怒りに我を忘れた巨大な魔物が追っていく。  これが、エイシスの狙いだった。  正面からまともに闘って、簡単に勝てる相手ではない。しかし、今なら隙だらけだ。 『――!』  魔物が前を横切るのと同時に、エイシスは魔力を解放する。  次の瞬間、一帯は目も眩むような白い光に包まれた。  光が消えると、エイシスの目の前の風景は一変していた。  鬱蒼とした森は跡形もなく消え去り、地面は想像を絶する高温に融かされて硝子のようになっている。  周囲の樹々は炭になって、白い煙が上っていた。  そして、その中心に『それ』はいた。  金色の瞳で、真っ直ぐにエイシスを睨め付けている。  無傷ではないようだが、あれだけの攻撃魔法の直撃を受けても致命傷は負っていない。  エイシスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。 「そう来なくっちゃな……。これで終わったんじゃ拍子抜けだぜ」  それは決して負け惜しみではない。  そう、そんな簡単に終わらせてはいけない。  何年も何年も、この日を待っていたのだから。  エイシスが、背に担いだ大剣を抜くのと同時に、魔物の口から青白い炎が迸った。 * * *  身体を縛っていたロープを切って、リューリィが無事に地上に降りたのはしばらく経ってからのことだった。  ただロープを切るだけなら呪文ひとつで済むことだが、下手なことをして落ちたりしたら、怪我で済む高さではなかったからだ。  魔物がセタルカを追っていった直後、鼓膜が破けるほどの爆発音が響き、その後もしばらくは魔物の咆哮や爆発音、大木が倒れる音などが遠くから聞こえていた。  しかし、いつの間にかそんな音も聞こえなくなり、森は静寂に包まれている。 (さてと……これからどうしよう?)  リューリィはきょろきょろと周囲を見回した。  何も動くものは見えない。 (ひょっとして、傭兵も殺されちゃったのかなぁ)  だとしたら、リューリィは自由の身ということだ。  そうでなかったとしても、今のエイシスに彼女を追ってくる余裕などあるまい。ふもとの村で、事情を話して助けてもらえばいい。 (……だよね?)  リューリィはしばらく考えてから歩き出した。  つい先刻まで、激しい闘いが繰り広げられていたはずの場所に向かって。  リューリィは間もなく、探していた相手を見つけることができた。  その一帯では大木が薙ぎ倒され、地面には竜の炎が舐めた痕と思われる黒い帯が幾筋も走っている。  そして、わずかに焼け残った草の上に残る血の痕。  真っ赤な人間の鮮血。  やや紫がかった魔物の体液。  そんな血の痕を追っていくと、幹が半ばで折れた巨木の根元に、寄りかかるような姿勢で座っている男の姿があった。傍らに、大きな剣が投げ出してある。 (まさか……)  急に、鼓動が早くなるのを感じた。  緊張した面持ちで、リューリィは恐る恐るその人影に近付いていく。ぴくりともうごく気配がない。 「……傭兵……死んじゃったの?」 「誰が死ぬか、馬鹿」  エイシスは、ゆっくりと顔を上げた。  その額から、一筋の血が流れている。 「何しに来た?」 「……あんたの負け様を見物しようと思って。偉そうなこと言ってたくせに、ボロボロじゃない」 「別に、まだ負けたわけじゃねーよ」  そう言ってエイシスは血の混じった唾を吐き出す。 「疲れたからちょっと休んでただけだ。向こうだって無傷じゃないしな。お互い休憩の時間ってわけだ」  とはいえ、エイシスの傷が浅いものでないのも確かだ。いますぐ命に関わる、というほどではないようだったが、さりとてかすり傷でもない。  リューリィは少しショックを受けていた。  エイシスが生きているとわかった時、思わずほっとした自分の心に。 (どうしてあたしが……)  手を伸ばして、エイシスの額の傷に触れる。  そうして、小さく治癒の呪文を唱えた。  リューリィの魔法では出血を抑えるのが精一杯だったが、それでも何もしないよりはましだろう。 「ねぇ、傭兵……?」  エイシスの傷の手当をしながら、リューリィが訊ねる。 「何だ?」 「あれ……いったい何? まるで、竜みたいだった……」  何百年も前に滅びたはずの竜。  それが今の時代に生き残っているとは信じられない。  もっと人間の街から離れた……例えばこの大陸を分断する大山脈の向こうなら、ひょっとしてそんなこともあるかもしれない。しかし人間の多いコルシア平原で、竜が人知れず生き残っていたなんて考えられない。 「あれは、亜竜……だ」 「亜流?」 「亜竜。遠い昔、王国時代に人間の手で造り出された魔物だよ」  今から千年以上昔、現在『王国時代』と呼ばれている時代。  既に失われてしまった高度な魔法技術がまだ現実のものであった時代。  優れた魔法学者達は、この世界の成り立ちを知ろうとしていた。  自分たちが住む星のこと、宇宙のこと、そして生命のこと――  生命の根元を探っていた学者達は、やがて新しい生命を造り出す術を手に入れた。  次々と、これまで存在しなかった生物が生み出された。  あるものは単に学術的な好奇心から、あるものは生命の成り立ちを知るための実験として、そしてあるものは――  兵器、として。  魔法生物学の研究者達の最終目標は、この星で最強の存在『竜』を越える能力を持った生命を生み出すことだった。  結論からいうと、その試みは成功しなかったのだが、目標にかなり近付いた研究成果もあり、その末裔こそが現存する亜竜だった。 「現在より遙かに進んだ魔法技術があった王国時代でさえ、竜に勝てるのはほんの一握りの竜騎士だけだったんだ。竜騎士の魔法が失われた今の時代、たとえ本物の竜に及ばないとはいえ、亜竜を倒せる人間なんかそうそういないさ」 「あんたやっぱりバカだよ」  リューリィはきっぱりと言い切った。 「そんな怪物相手に、一人で闘いを挑むなんて」 「俺は強いからな」  エイシスはニヤリと笑うと、今まで寄りかかっていた樹の幹に手をついて、身体を支えながら立ち上がった。 「さて……少し休んだことだし、そろそろ決着つけるとするか。リュー、お前はもう行っていいぞ」 「え?」 「ここにいると危ないからな。先に村に戻ってろ」  先に、村に戻ってろ?  リューリィは首を傾げる。  なんて図々しいんだろう。  先に戻っていろとは、つまり「俺が戻るまで待ってろ」ということだろう。  リューリィには別に、そうしなければならない義理はない。  何度も逃げようとしていたリューリィが、エイシスの言葉に従って待っているとでも思っているのだろうか。  エイシスの本心を計りかねて戸惑いながらも、リューリィはその場を離れて山道を下っていった。  やがて背後から、また魔物の咆哮が響いてきた。  再び、闘いが始まったのだ。  魔物の咆哮が、魔法の爆発音が、谷間にこだまする。  リューリィは立ち止まって背後を振り返った。 (傭兵……勝てるかなぁ……)  多分、難しいだろう。  エイシスは傷を負っていたし、かなり消耗もしていた。  魔物がどの程度のダメージを受けているのかはわからないが、長引けば長引くほど人間の方が不利なのは明らかだった。  亜竜が本当に竜に近い力を持っているとしたら、今の時代に一対一で勝てる人間などまずいない。  それは分かり切ったことなのに、どうしてエイシスは無謀な闘いを挑むのだろう。 (……あたしには関係ないや。とにかく、これで自由の身になれたわけだし)  リューリィはまたふもとの村へ向かって歩き出そうとした。 (だけど……)  何故か足は動かず、リューリィはもう一度後ろを振り返る。 (……これで、また独りぼっちだ……)  既に陽は暮れて、森の中は薄暗くなりつつあった。  日中は好天だったにも関わらず、夕方から急に曇が多くなり、今にも雨が降り出しそうな空模様になっている。  周囲は、また静かになっていた。  今度こそ、決着がついたのだろうか。  魔物に見つからないように用心深く歩いていたリューリィは、小さな崖の下で倒れているエイシスを見つけた。 「……、やっぱり負けてンじゃない」  まだ息があることを確認したリューリィの口から、思わず憎まれ口が飛び出す。 「……なんで戻ってきた?」  微かに目を開いて、エイシスが訊く。 「先刻言ったでしょ。あんたが無様に負けるところを見物に」 「残念だったな、最後に勝つのは俺さ」 「無理だと思うけど……」  リューリィはエイシスの傍らにしゃがみ込むと、傷の手当を始めた。  いくら止血をしたところで、既に失われた分の血はどうにもならないのだが、何もせずにはいられない。 「ねえ、傭兵……」 「ん?」 「どうして、こんな勝ち目のない闘いをするの? あんたらしくないよ」 「そうかな……」 「なんだか、妙にこだわってるみたい。何か特別な理由でもあるの? 亜竜に恨みがあるとか」 「別に」  エイシスは否定したが、リューリィはその言葉が真実ではないと、直感的に感じていた。 * * *  エイシスが生まれ育ったのは、ここよりもずっと北の山中にある寒村だった。  人口は百人にも満たない小さな村。  村人達は、主として山で獣を獲って生計を立てていた。  その村が恐ろしい魔物に襲われたのは、エイシスが十二歳の頃だ。  誰も今まで見たことがない、強大な魔物。  犠牲者は最終的に三十人を越え、その中にはエイシスのたった一人の肉親であった兄も含まれていた。  もう、村を捨てるしかないのか……。村人達がそんな思いを抱き始めた頃、偶然村の近くを通りかかった旅の魔術師が、一昼夜に渡る死闘の末に魔物を倒して村を救ってくれた。  闘いで傷を負った魔術師は傷が癒えるまで村に滞在したのだが、その間、エイシスは魔術師から多くの魔法を学んだ。  彼は、強くなりたかった。  本当は、自分の手で兄の仇を討ちたかった。  しかし彼にはその力がなく、魔術師が亜竜と闘っているのを、ただ見ているしかできなかった。  それがたまらなく歯痒かった。  だから、強くなろうと決めた。  そして、強くなりたいのにはもう一つ理由があった。  彼は、村を出るつもりだった。  この魔術師と一緒に、  そのためには、強くなければならなかった。  足手まといにならないくらいに。  共に闘えるくらいに。  その魔術師は、フェイリア・ルゥ・ティーナという、まだ若く美しい女性だった。  それが、エイシスの初恋だった。 (ここで亜竜を見るまで、こんなことすっかり忘れていたな……)  リューリィが傷の手当をしている間、エイシスはぼんやりと昔のことを思い出していた。  彼には、亜竜を倒さなければならない理由があった。  兄と、大勢の村人達の仇。  そしてなにより、そうすることがフェイリア・ルゥを越えた証なのだ。 (しかし……こいつに話すようなことでもないよな)  だから、エイシスは何も言わずにいた。 * * *  一時ぱらついた雨は上がり、山中には深い霧が立ちこめていた。  空はすっかり暗くなり、霧を通してぼんやりとした月明かりだけが周囲を照らしている。  雨で匂いがかき消され、自分に傷を負わせた相手を見失って苛ついていた亜竜の目の前に、不意に人影が現れた。  手にした大剣は霧に濡れて、月明かりを反射して光っている。 「さぁて、今度こそ決着をつけようか」  エイシスはニヤリと笑う。  魔物の目が、妖しく金色に光った。  リューリィはその時、高い樹の上にいた。  小さい頃から樹登りは得意だった。  手には、槍くらいの長さの、棘がたくさん生えた真っ直ぐな木を持っている。  傷の手当を終えた後で、エイシスが彼女に言ったのだ。 「初めて会った時のあの罠、今ここで作れるか?」 「え? 作れるけど……人間相手ならともかく、あんな化け物相手に役には立たないよ」  リューリィが作った罠は、彼女の村の猟師達が使っていた獣獲りの罠の応用で、殺傷能力を発揮するのはせいぜい小型の熊くらいまででしかない。巨大な亜竜相手では、相手はかすり傷程度にしか感じまい。 「そうでもないさ。矢にアプシの樹を使えば」  アプシは山中に自生する棘の多い樹で、大人の背丈を超えるくらいまではほとんど枝を出さず、真っ直ぐな槍のような形に生えるのが特徴だ。  アプシの樹には不思議な性質があり、魔物を遠ざけたり、樹を手にした者の魔力を高めたりする。 「そりゃあ、アプシの矢ならいくらかマシかもしれないけど……そのくらいで倒せるような相手じゃないでしょ?」 「上手くやれば倒せるさ。実際、フェイリアもアプシの槍を使った」 「え?」 「いや、何でもない」  リューリィはできるだけ下を見ないようにしながら罠を作っていた。  なにしろ、あの大きな亜竜を頭上から狙わなければならないのだ。罠はさらに高いところに仕掛けなければならない。  うっかり落ちたら、怪我で済むような高さではない。  木の枝にロープを何本も結び、それにアプシの矢を取り付ける。  作業の間、リューリィは何度も棘を手に刺してしまい、掌は血塗れだった。  アプシの魔力は無数に生えた棘に宿っているため、取ってしまうわけにはいかない。  落ち着いていればそんなこともないのだろうが、不安定な高所での作業の上、一刻も早く罠を作り上げようとリューリィは慌てていた。  リューリィの準備が遅れれば、それだけエイシスの身に危険が及ぶことになるのだ。  何度も手を刺し、目に涙を浮かべながら罠を作り上げたリューリィは、急いで鋭い口笛を吹いた。  やがて森の中から。エイシスと、彼を追う巨大な影が姿を現す。  先刻の傷が開いたのか、それともまた傷を受けたのか、エイシスはひどく出血している。  しかしそれは相手も同じだった。  魔法の炎で焼かれた傷、大剣で切られた傷。負けず劣らず重傷のようだった。  エイシスも、魔物も、傷のためかそれとも疲れ切っているためか、足元がふらついている。 (傭兵、早く! こっち!)  リューリィは叫びそうになるのを辛うじて堪える。  ここに彼女がいることを気付かれてはいけない。  エイシスは、魔物を罠の下に誘導しようと少しずつ後ずさる。  突然、魔物の口から青白い光が迸った。エイシスは横に身をかわす。  光は一瞬前まで彼がいた空間を貫き、その地面を赤く溶けた液体に変え、高熱は周囲の霧を蒸発させた。  亜竜の炎をかわしたエイシスは、一気に間合いを詰めると、魔物の首の付け根を狙って剣を突き出した。  一瞬早くそれに気付いた亜竜は、丸太のような前脚でエイシスを殴りつけるが、エイシスは剣でその攻撃を受け止める。 (すごい……でも、そんなことやってないで早くこっちに誘い込みなさいよ!)  リューリィは息を飲んだ。  実際にエイシスが亜竜と闘っているところを見るのは初めてだった。  確かに、口先だけではない。自分より何十倍も大きな魔物を相手に、互角に近い闘いを続けていた。 (もう! 早く……)  エイシスは魔物の顔面に炎の魔法を放ち、相手が視界を奪われた隙にリューリィが隠れている樹の下へと向かう。  しかし亜竜が再び吐いた炎は、その進路を妨害する。 (早く……早く来て!)  エイシスはそれでもなんとか、少しずつ魔物をこちらに誘導してくる。  リューリィは、手にした短剣を、罠の引き金となるロープに押し当てた。  エイシスが、樹の真下まで来る。 (もう少し……もう少し……)  掌の汗で短剣が滑りそうになり、両手でしっかりと握り直す。  もう少し…… 「リュー! 今だ!」  エイシスが叫ぶのと同時に、リューリィは短剣を引いた。  ブッ  太い樹の枝を引き絞った弓を繋ぎ止めていたロープが切られる。  ヒュッ!  放たれた槍が風を切る音は、魔物の叫びにかき消された。  狙い違わず、槍は魔物の首に突き刺さっていた。 「やった!」  リューリィが叫ぶ。  一瞬、苦しそうな声を上げた魔物が樹上を見上げる。 「……!」  リューリィとまともに目が合った。  この時魔物は、今まで闘っていた敵の存在を忘れた。  そして、その隙を見逃すエイシスではなかった。  意識を集中し、呪文を唱える。 『天と地の狭間に在るもの  力を司る者達よ  我の呼びかけに応えよ』  怪我と疲労のため、意識が遠くなる。 『我は命ずる  力ある言葉に従い  汝らの力を解き放ち  数多の世界より  我の元に届けんことを』  だが、まだ倒れるわけにはいかない。  今こそ、フェイリアから学んだ魔法を、その全てを―― 『フェイリア・ルゥ・ティーナの名において命ずる  我の前に立ち塞がる者に  滅びの審判を下さんことを』  魔物は、上を向いている。  その口が開き、喉の奥に青白い炎が生まれる。 『――雷よ!』  エイシスの周囲の空間から、何十条もの稲妻が放たれた。  それは一点に集中し、自然の落雷を何百も集めたほどの強大な雷撃となって、魔物に突き刺さった槍に命中する。  細いアプシの樹はその強大な魔力の負荷に耐えきれずに、たちまち燃え上がる。  だが、その一瞬で十分だった。  アプシを伝わる魔力は増幅され、しかも亜竜の固い鱗に妨げられることもなく、直接魔物の体内へと流れ込んだ。  魔物は絶叫した。  しかし、その叫びは長くは続かない。  内蔵をずたずたに引き裂かれ、全身から血を噴き出しながら、魔物は地響きを立てて倒れた。  最後の力を使い果たしたエイシスは、今にも倒れそうな身体を意志の力で支えながら、魔物に近付いていく。  魔物は、まだ、生きていた。  全身を痙攣させながらも、その目はまだ光を失ってはいない。  エイシスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。  魔物の首に、アプシの槍の根本の部分が焼け残っていた。  エイシスは棘が手に刺さるのも気に留めずに、それを掴んで引き抜いた。 「……そうとも、息絶える最後の瞬間まで、生きることを諦めずに闘う……そういうものだよな」  エイシスは体重をかけて、魔物の目を狙って槍を振り下ろした。  瀕死の魔物は、微かに声を上げる。  目に突き刺さった槍に向かって、エイシスはとどめの魔法を放とうとして……  不意に、視界が暗くなる。  一瞬、力が抜けて倒れそうになった彼の身体を、小さな手が支えた。 「これ以上は無理だよ……。あたしが、やろうか?」 「馬鹿言え」  エイシスはリューリィの手を振り解いた。 「これは……俺がケリをつけなきゃならないことだ」 「……じゃあ、あたしも手伝う」  二人は、声を揃えて呪文を唱え始めた。  二人が知っている精霊魔法の呪文は、同じものだった。 『天と地の狭間にあるもの  力ある者達よ  我の言葉に応え、我が元に集え……』  まばゆい光が生まれ、巨大な魔物の最後の叫びが山々にこだました。  それを聞きながら、エイシスはゆっくりと仰向けに倒れる。 「傭兵……大丈夫?」  リューリィは不安そうに覗き込んだ。 「さすがに疲れた……。朝まで、寝かしてくれ」  そう言うが早いか、エイシスは小さな鼾をかき始める。  また、ぽつりぽつりと雨が落ちてきていた。  リューリィは、眠っているエイシスを雨が当たらないように大きな樹の下に引きずっていくと、自分もその隣に腰を下ろした。 * * *  明け方まで降っていた雨は上がり、雲の切れ間から陽が射し込んでいる。  リューリィは村の広場で、ぼんやりと空を見上げていた。 「やあ、怪我はなかったかい?」  声のした方を振り向くと、この村の猟師、セタルカが立っていた。 「おじさんも」  リューリィが微笑む。  セタルカはエイシスに言われた通りに、エイシスと魔物の闘いが始まると同時に村へ戻ったからもちろん無傷だ。 「あの男は村長のところか?」 「うん、今回の仕事の報酬を貰うんだって」 「大したものだな……あの巨大な魔物を本当に倒してしまうなんて。しかし、性格にはちょっと問題があると思わないか?」 「そうだね」  リューリィは頷いて、くすくすと笑う。 「笑い事じゃないぞ」  セタルカが怒ったように言う。 「小さな女の子を、魔物をおびき出す餌に使うなんて、まともな人間のする事じゃない。そもそも、あの男とリューリィはどういう関係なんだい? 見たところ、兄妹というわけでもなさそうだが」 「違う、赤の他人。ちょっと訳アリで一緒にいるだけ」 「リューリィの家族は?」 「いない」 「だったら……」  セタルカは小さく咳払いをしてから言葉を続けた。 「リューリィさえよければ、このまま村にいてもいいんだぞ」 「え?」  リューリィは驚いてセタルカの顔を見る。 「うちにはリューリィより少し小さい男の子がいるが、もう一人子供を養うくらいの稼ぎはある。余計なお世話かもしれんが、ああいった傭兵と一緒にいるのは、子供にとっていいことではないと思う」 「そうだね……」  ここでうんと言えば、リューリィには家と、家族ができる。  何も考えることなどないはずだった。  しかし……  エイシスにとって、彼女は大切な金づるなのだ。  それを簡単に手放すはずがない。  そう考えるリューリィだが、しかし、それは言い訳だった。 「リュー、行くぞ!」  村長の家から出てきたエイシスが呼んでいる。  その腕や肩には厚く包帯が巻かれているが、その割には元気そうだ。  リューリィは立ち上がった。 「ありがと。おじさんっていい人だね」  セタルカに向かって小さくお辞儀をする。 「リュー! 何やってんだ、さっさとしろ!」 「いま行く!」  エイシスに向かって叫んでから、リューリィはもう一度セタルカに向き直る。 「でも……あたし行かなきゃ」 「どうして……」  セタルカは心底意外そうな表情をする。 「だって、あいつに昨日の仕返しをしなきゃならないもの」  リューリィはそう言ってペロッと舌を出すと、エイシスの方へと駆け出した。 四章 六年前の約束  ハシュハルドは、陸路と水路、二つの交易路が交わるところに発展した、この辺りではもっとも大きな街だ。  石造りの大きな建物が建ち並び、大通りはたくさんの人で賑わっている。  田舎育ちのリューリィは、こういった都会を見るのは初めてで、物珍しそうに周囲を見回していた。 「何きょろきょろしてんだ。さっさと来い」  エイシスはこの街には詳しいようで、込み入った裏路地を迷うことなく歩いて行く。都会の珍しい風景に気を取られていたリューリィは、どこに向かっているのか深く考えずについていった。  そこは華やいだ大通りに比べると、やや薄汚れた雰囲気の漂う裏通りだが、人通りは多くこれはこれでまた別の活気がある。  やがて、ひとつの建物に入っていった。  酒場なのだろうか、幾つか並んだテーブルでは、数人の男たちが酒を飲んでいる。  あまり、柄のいい連中ではない。街の外で会ったら絶対山賊と間違うだろうな、とリューリィは思った。  店の奥にいた、四十歳くらいの痩せた小柄な男が、エイシスに気付いて立ち上がる。 「よぉ、久しぶりだな。まだ生きてたのか」 「ラカン、あんたもなかなかしぶといな。景気はどうだ?」 「まあまあ……かな。まあ座れよ。ビールでいいか?」  親しげに言ってから、ラカンと呼ばれたその男は、エイシスの後ろで小さくなっている女の子に気が付いた。 「エイシス、お前にしちゃあ珍しいもの連れてるな。お前の子か?」 「馬鹿言え。だとしたら、俺が十二の時のガキってことになるじゃねーか」 「お前が女を知ったのはそのくらいの歳だろう」 「惜しいな、十三だよ」  エイシスが腰を下ろすと、ラカンはビールを二杯と、ミルクを注いだカップをテーブルに置く。 「じゃあ、いったい何だ?」  エイシスはすぐには答えず、さも旨そうに一息でビールを飲み干すと、ジョッキをテーブルに置いてから口を開いた。 「ここに来る途中で拾った。戦争で故郷の村を失い、身寄りもないそうだ」 「なるほど、それでここに来たのか」 「あんたなら、こーゆー商品を高く買ってくれる客を知ってるんじゃないかと思ってね」 「……っ!」  リューリィは一瞬、自分の耳を疑った。  目の前が真っ暗になり、ミルクのカップを落としそうになる。  まさか、そんな。  確かに、最初に会った時、エイシスはリューリィを売り飛ばすと言って連れてきたのだが。  まさか、本当に?  別に、エイシスが冗談を言ってると思っていたわけではない。初めの頃は、リューリィも本当に売られると覚悟していた。  だけど……。  蹴られたり魔物の餌にされたり、いろいろとひどい目にも遭ったけど、ここ何日かは二人の間はとても上手くいってると思っていた。  こうしてエイシスと一緒に旅をしているのが、楽しいと感じるようになっていた。  なのに……なのに。  いや、エイシスはそういう男だ。  そんなこと最初からわかっていたはずだ。  わかっていたはずなのに。  どうして、こんなに悲しいのだろう。  どうして、さっさと逃げなかったのだろう。  あの、亜竜と闘っていた時なら、いくらでもチャンスはあった。  その気になれば、亜竜との闘いで力尽きていたエイシスを殺すことだってできた。  元々、自分はこの男を殺すつもりだったのではないか。  なのに、どうして。  どうして、こんな男と一緒にここまで来てしまったのだろう。 「ふむ、なかなかの上物だな。いくらで売る?」  ラカンがじろじろとリューリィを見る。 「二千」  とエイシス。ラカンが目を丸くした。 「おいおい、無茶言うなよ。いくらなんでもそんなに出す奴はいないぞ」 「見ての通り、滅多にいない上玉だ。健康だし、意外と頭もいいし、手先も器用だ。磨けばまだまだ光る素材だぞ」 「それにしたって、ん……む……」  ラカンは顎に手を当てて唸っている。 「お前のことだ、今回も街に長居はしないんだろう? 千なら、今日中に買い手を見つけてやれるが」 「二千だ」 「むぅ……」  また考え込む。  二千などという金はとても出せないが、かといってこのまま諦めるにはあまりにも惜しい素材だ。子供とはいえこれほどの上玉なら、買い手はいくらでもいる。 「千……二百でどうだ?」  ラカンとしては、かなり譲歩したつもりだった。  内心、千三〜四百までは出してもいいと思ってはいたのだが、それは口に出さない。  これでエイシスも少し値を下げてくるだろう――ラカンはそう考えていた。  傭兵を生業とするエイシスが、こんな女の子をいつまでも連れて歩くわけにもいかないのだ。  結局、どこかで手放すしかない。  多分エイシスも、こちらが本当に二千も出すとは考えていまい。  いったい、どのくらいで値が折り合うか。それが、商売の駆け引きだ。  だが、予想に反してエイシスは黙って席を立った。 「しばらく、ウェイズのおやっさんのところにいるから、気が変わったら連絡をくれよ」  そう言うと、リューリィの手を引いて店から出ていった。  表に出たところで、リューリィは呆然と立ち尽くしていた。  今日は雲一つない快晴なのだが、今のリューリィにはまるで嵐の直前のような空に見える。 「何ぼんやりしてんだ。さっさと来い」  そんな声も耳に入っていない。 (今ここで逃げ出せばいい……)  リューリィは心の中で呟く。  通りは人も多いし、人混みに紛れれば簡単には追いつけまい。  そうして、寺院にでも逃げ込んで、わけを話して匿ってもらえばいい。  簡単なことだ。  それなのに。  リューリィは唇を噛んだ。  どうして、足が動かないの?  どうして、こんなに膝が震えるの?  どうして……。  泣いちゃ駄目だ。  こんな奴に、涙なんか見られたくない。  こんな奴に……。 「助かったと思ってるか? 値が折り合わなくて」  リューリィはもちろん何も応えない。  ただ黙って、あふれそうになる涙をじっと堪えているだけだ。 「安心するのはまだ早いぞ。この手の商品を扱ってる奴は他にも心当たりがあるからな。だが、その前にメシにしよう。もう昼をかなり過ぎてしまったし」  エイシスは相変わらず、軽薄そうに笑っていた。  どこをどう歩いたのか、リューリィはまったく憶えてはいないが、手を引かれて連れてこられたのは小さな宿屋だった。  一階が食堂兼酒場になっていて、まだ陽は高いというのに、常連らしい老人が二人、隅のテーブルでカードで遊びながら酒を飲んでいる。  カウンターの中には誰もいない。 「おやっさん、いるかい?」  カウンター席に腰を下ろしたエイシスが奥に向かって声をかけると、奥の厨房から、五十過ぎくらいの背の高い男が出てきた。  厳めしい顔つきで、年齢の割には体格が良い。  脚が不自由なのだろうか、歩く時にわずかに右脚を引きずっている。 「おやっさん、久しぶりだな」 「エイシスじゃないか。半年以上も音沙汰なしで何やってた。だいたい……」  そこまで言って、男はエイシスの隣に座っているリューリィに気付いた。 「……まさか、お前の子か?」  エイシスは苦笑する。 「どうしてみんな同じことを言うんだ? ややこしい話は後にして、メシを食わせてくれないか。まだ昼飯を食ってないんだよ」 「まったく……久しぶりに会ったというのに、真っ先にメシの話か」  ぶつぶつと呟きながら、男は厨房に引っ込む。 「あのおやっさん、ウェイズといってな。あんな風体だがメシはすごく旨いんだ」  そう言うエイシスの言葉に嘘はなく、ウェイズが出してくれた料理は確かに美味しかった。もっとも、今のリューリィには食欲などまるでなく、ほんの少しスープに口を付けただけだったが。 「で、この子はどうしたんだ?」  ウェイズはカウンターの中に座り、ビールを飲みながら訊ねる。  よほど腹が空いていたのか、大盛りの料理をがつがつと平らげたエイシスは、ふぅっと大きく息を吐き出した。 「途中で拾ったんだ。戦争で身寄りを亡くしたらしい」 「ふぅむ……」  ウェイズは頷きながら、リューリィではなくエイシスを見て言う。  リューリィは、その目が何となくエイシスを睨んでいるように感じた。  エイシスとは長い付き合いのようだし、ひょっとするとエイシスが何の目的でリューリィをここまで連れてきたのか気付いているのかもしれない。 「お前さん、名は何という?」  ウェイズはリューリィに向き直った。 「リューリィ……リン」  小さな声で応える。 「この先、行く当てはあるのかね?」  リューリィは首を横に振った。  それに、リューリィのこの先を決めるのは、彼女自身ではなくエイシスだ。 「だったら、儂の娘にならんか?」  意外なウェイズの言葉に、びっくりして顔を上げる。 「儂は五年前に女房に先立たれ、一人きりの娘も去年嫁いでいってしまった。それからというもの、どうも生活に張りがなくてな……。家族がいれば、と思うんだよ。無論、お前さんさえよければ、だがね」 「でも……」  リューリィはちらと隣のエイシスの表情を伺った。  エイシスは黙ってビールを飲んでいる。  心なしか、その表情は不機嫌そうに見えた。  何も、言わないのだろうか?  もしここでエイシスが反対したら、リューリィはそれに逆らうことはできなかったろう。  しかし、彼は何も言わない。  リューリィはじっとエイシスを見ていた。 「何だよ?」  リューリィの視線に気付いたエイシスが言う。 「……いいの?」 「好きにしろ」  リューリィは決心した。  ウェイズは、顔は少々怖いが根はいい人そうだ。  それに何より、このままでは売り飛ばされて、どこかの金持ちの慰み物にされるだけだ。それだけは、何があっても避けたい運命だった。  もちろんその他に、逃げ出すという手がないわけでもない。  しかし……。  リューリィはウェイズに向かって小さく頷いた。 「よおし、今夜はお祝いだ」  ウェイズが嬉しそうに言った。 「この歳になって、こんな可愛い娘が持てるとは儂は幸せ者だ。今夜は腕によりをかけてご馳走を作るから、楽しみにしていろよ」  笑いながら厨房に向かうウェイズの後ろ姿を、リューリィはぼんやりと見ていた。  普段はやや怖い顔のウェイズだが、笑った時の目はとても優しそうだった。 「……いいの?」  ウェイズに聞こえないように、小さな声でリューリィはつぶやいた。  恐る恐る、そうっとエイシスを見る。 「売り飛ばされて、変態オヤジに身体中舐めまわされる生活のほうがよかったか?」 「そんなわけないじゃない! でも……いいの?」 「おやっさんには昔ずいぶん世話になっててな、逆らえないんだ」  そう言って肩をすくめる。 「ま、おやっさんに嫌われないようにせいぜいいい子にしてるんだな」 「……ん」  これで良かったんだ、とリューリィは思う。  売られることなしに、それでいてこれからもエイシスと会える方法はこれしかなかった。 * * *  リューリィが目を覚ますと、カーテンの隙間から眩い朝日が射し込んでいた。  一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。柔らかなベッドで眠るなんて、いったいいつ以来だろう。 (そっか……。あたし、ウェイズさんの子供になったんだっけ)  リューリィ寝ているのは、去年遠くの街に嫁いでいったというウェイズの一人娘が使っていた部屋だった。  これからは、ここがリューリィの部屋となる。 (……なんだか、夢みたい)  ぼんやりと、昨日のことを思い出す。  昨日一日でいろんな事があったように感じる。  昨日の夜は、宴会だった。  近所に住むウェイズの友人やこの店の常連客なども集まって、ずいぶんと賑やかだった。もっともリューリィは途中で眠ってしまったから、宴会が明け方近くまで続いていたことは知らない。  ベッドから降りて、寝間着から自分の服に着替えた。リューリィは寝間着など持っていないから、これもウェイズの娘の物だ。まだ、彼女には少しばかり大き過ぎて、立つと裾を引きずっていたが。  一階に降りると、ウェイズは既に起きていて、朝食の準備をしていた。 「あの……おはようございます」 「おお、おはようリュー。よく眠れたかね?」 「はい、ぐっすりと。それで……あの……」  リューリィはきょろきょろと食堂の中を見回した。 「エイシスなら、もう出発したぞ」 「え? そんな急に?」  それはちょっと意外だった。  エイシスは「金が入ったからしばらく大きな街で遊ぶ」とか言っていたのではなかったか。それなのに、昨日着いたばかりで今朝にはもう旅立つなんて。  なんて、気まぐれなんだろう。 「南のサネンコルで兵を集めているから……とか言ってたな」 「そう……」  ずいぶんと急な話だ。拍子抜けした様子でリューリィは呟く。 「寂しいかね?」  リューリィのために、パンとチーズ、それにスープをテーブルに並べていたウェイズがからかうように言う。 「まさか! 冗談じゃない!」  リューリィは思わず大きな声を出してしまった。 「あんな奴、いなくなってせいせいしてるんだから」 「ほう?」 「あいつってば、どうしてあたしをこの街に連れてきたと思います? あたしのこと、売り飛ばすつもりだったんですよ! おじさんがいなかったらあたし今頃……」 「売り飛ばす? リューを? まさか……」  ウェイズは声を上げて笑った。 「ホントですよ! 昨日、ここへ来る前にホントに人買いのところに連れて行かれたんだから! そこでは値が折り合わなくて助かったけど……」  大きなパンの塊を小さくちぎりながら、リューリィは口を尖らせる。 「エイシスの奴はその時いくらふっかけたのかね?」 「二千……って言ってた」 「だろうな」 「……?」  リューリィはウェイズの台詞の意味が分からずに、ちぎったパンを口に運びかけていた手を止める。 「いくらリューが器量良しでも、それはあまりにも相場を無視した値だな」  ウェイズはそう言って椅子に腰を下ろす。 「どんなにふっかけてもせいぜい千二〜三百、二千などと言って買い手がつくはずがない。エイシスだってそのくらいのことはよく知っておるよ」  エイシスも知っていた?  知っていてなお、絶対に相手が承知するはずのない値を言った?  それは、つまり。 「え……じゃあ……」 「エイシスにはリューを売る気などなかったのさ。からかわれたんだよ。お前さん、なにかあの男を怒らせるようなことはしなかったかね?」  手から、パンがぽとりと落ちた。  しかしリューリィは、そのことに気付きもしない。 「え……そんな……そんな……」 「最初から、うちに預ける気だったに違いないよ。それでこの街に連れてきたのさ。娘が嫁いでから、儂が落ち込んでいることを知っていたしな」  ガタン!  大きな音を立てて、リューリィが立ち上がる。 「あいつが出ていったのって、いつ?」 「夜明けと同時……だな」 「そっか……」  肩を落として、また椅子に座る。 「もう、追いつけないよね」 「一緒に行きたいのかね?」 「ううん……。ただ……あたし……」  リューリィは寂しそうに呟いた。 「……あいつに、お礼も言ってない」 * * *  リューリィがエイシスと再会したのは、それから半年くらい後のことだった。  その時、彼女ははいつものようにパン屋へおつかいに行っていた。  近頃、街の様子がどことなくざわついている。リューリィも、その理由は知っていた。  パン屋からの帰り、見覚えのある、広い背中が目に入った。  どくん!  急に、心臓の鼓動が早くなる。  まさか……いや、間違いない、人違いではない。  その、この辺りではあまり見かけない赤毛の男は……。  道端で花を売っている娘をナンパしていた。  ……確かに、人違いではない。  ぷぅっとふくれっ面になったリューリィは、足音を殺してそぅっと背後に忍び寄り、エイシスの太股の辺りを思いっきり蹴飛ばした。本当は背中を蹴飛ばしたいところだったが、リューリィの身長ではまるで届かない。 「こんなところで何やってんのよっ?」 「相変わらずきつい性格だなぁ」  半年前と少しも変わらない、にやにや笑いを浮かべてエイシスが振り返る。 「いったい何しに来たのよ」 「それは、この街に住んでるお前らの方がよくわかってるんじゃないのか?」  その言葉に、リューリィの表情が険しくなる。  そう、よくわかっていた。  傭兵であるエイシスが興味を持つこと。  それはつまり、この街が戦場になるということだ。  交通の要衝にあり、貿易で栄えるハシュハルドは、大陸でも珍しい、事実上どの国にも属さない自治都市だ。  これまでにも、この街の富に目を付けて征服しようとした国がなかったわけではない。  近隣のどの国も、ハシュハルドを自分の領土とすることを望んでいる。 だが、それが叶わぬのなら、ハシュハルドの莫大な富が他国に独占されるよりは、これまで通りどの国にも属さない方がましだと考える。  だから、この街はこれまで自治都市でいられた。近隣の国はどこも、ハシュハルドとその周囲の国々を一度に敵に回せるほどの圧倒的な力は持っていなかったから。  だが、今回は事情が違う。  南方で強大な勢力を誇るアルトゥル王国が、長年の大陸南部での戦争にけりをつけ、その軍勢を北に向け始めたのだ。  そして真っ先に目を付けたのが、ここハシュハルドだった。貿易の拠点であるハシュハルドを最初に押さえてしまえば、もう誰もアルトゥル王国の北征を止めることはできない。  既に数万騎の軍勢が本国を発ち、その先鋒は街まで数日の距離に迫っているという。  ここ数日、街から逃げ出す人が後を絶たない。  ハシュハルドにも一応、自衛のための軍隊はあるが、その数はせいぜい五千騎程度。まともに戦えば勝負は見えている。 「やっぱり、戦争になるの?」  リューリィが訊く。 「なるな」  エイシスはあっさりと応えた。 「負けちゃう?」 「まあ、勝負にならん。兵数が違い過ぎるし、アルトゥル軍の強さには定評がある」  ここ数年、南方での戦争を繰り返してきたアルトゥル王国の軍は戦争慣れしており、練度も高い。それに対してハシュハルドの軍は、もう十年以上も小競り合い以上の実戦経験はない。 「この街、どうなっちゃうの?」 「さあ? お前も荷造りをしておいたらどうだ? もっとも、ウェイズのおやっさんは住み慣れたこの街を離れたがらんだろうが」  エイシスの言葉に、リューリィは泣きそうな表情でうつむいた。  その夜は当然、エイシスはウェイズの宿に泊まった。  酒場には他に数人の客もいたが、話題は湿っぽくなりがちだった。  常連客の中にも、リューリィの友達にも、既に街を離れた者もいる。  その夜、真夜中近くになって、リューリィはそっとエイシスの部屋を訪れた。 「どうした、こんな遅くに。子供はもう寝る時間だぞ」 「傭兵は、これからどうするの?」 「明日にでも街を離れるさ。状況を自分の目で確認しようと来てみたが、負けるとわかってる戦じゃ金にならん」  エイシスはぶっきらぼうに答える。  戦に勝たなければ、傭兵は報酬にはありつけないのが普通だ。負けるとわかっている側につく馬鹿はいない。 「おじさんはあたしに、この街を出ておじさんの娘さんのところに行けっていうの。でも、おじさんは街に残るって」 「それで、どうしろっていうんだ? おやっさんをふん縛って街から連れ出せとでも?」  リューリィは一瞬考えるような表情になった。エイシスの言葉を、真剣に検討しているのかもしれない。 「あのね、傭兵……」  部屋の外に声が漏れることを警戒しているのか、リューリィは声を潜めて言った。 「……お願いがあるの」 「お願い?」  エイシスは驚きを含んだ声で訊き返した。あのリューリィがエイシスにお願いとは、いったいどういう風の吹き回しだろう。 「あのさ……ハシュハルドを護って」 「なん……だって?」  一瞬大声を上げそうになったエイシスは、慌てて声を抑えた。  リューリィは真っ直ぐに彼を見つめている。  子猫のような大きな瞳で。  エイシスもリューリィを見ている。  しばらく、沈黙が続いた。 「何を無茶なことを……。いくら俺が天下無敵の傭兵だからって、百や二百ならともかく、万単位の大軍相手に何ができるっていうんだ?」  エイシスの言い分はもっともなことだったが、リューリィはまったく表情を変えない。  じっと、エイシスを見つめている。 「天下無敵かどうかは知らないけど、傭兵が自分で言うほど強いんだったらできるはずだよ。あんたは、その方法も知ってるはずだ」  リューリィは、自分の言葉に確信を持っている様子だった。  エイシスは小さく肩をすくめる。 「俺をそうまで高く評価してくれるのはありがたいが、相手は先鋒だけで一万は下らないアルトゥルの精鋭だぞ。俺に何ができるってんだ」 「敵は一万じゃない、たった一人だよ。わかってるくせに!」  エイシスは少し驚いた。  リューリィの台詞が単なる子供の我が儘ではないと気付いたからだ。  確かに、彼は知っていた。この戦いで、ハシュハルドに万に一つの勝利をもたらす方法を。  そして、彼ならそれができるはずだった。 「アルトゥル軍の強さの秘密は、優秀な将軍と、その命令に忠実な、良く訓練された兵士だって」 「どこで得た知識か知らんが、よく知ってるな。その通りだ。優れた指揮官、その指令を確実に前線に伝える整備された指揮系統、そして、命令を確実にこなす訓練された兵士。この三つが揃ったアルトゥル軍はほぼ無敵だ」 「どれかひとつが欠けたら?」 「意外な脆さを見せることがある。実際、南方戦線でもそういった例は何度かあった」 「だったら相手は一人よ」  リューリィはきっぱりと言った。  エイシスは腕を組んで黙り込む。  最初に会った時から、歳の割には頭のいい小娘だとは思っていた。  それにしても、これほどとは予想以上だ。  だとしたら、残りの問題にも気付いているのだろうか。エイシスはそれを試してみたくなった。 「なるほど、よくわかった。確かに、ハシュハルドに勝ち目があるとしたらこれしかない。だがな……」  エイシスは意地の悪い笑みを浮かべる。 「どうして、俺なんだ?」 「……他に、頼める人がいないもの」  そう言った時のリューリィの口振りは、少し悔しそうだった。弱みを見せたくない相手に頼み事をしているのだから無理もない。 「知っての通り俺は傭兵だ。金で戦争を請け負う……な。そして、これは相当に危険な仕事だ。そのくらいはわかっているだろう?」  リューリィはうなずく。。 「どうして、俺がそんな危険なことをしなきゃならない? 確かに、おやっさんには色々世話になったが、俺は自分の命の方が大事だ。先刻も言ったように、街を離れたがらないおやっさんを無理やり連れ出すくらいなら手伝ってやってもいい。だが、こんな危険な仕事はただ働きの範囲外だ」 「そんなこと……わかってる。傭兵が、金でしか動かないことくらい」  リューリィは思い詰めた表情で言う。 「報酬は、あたしが払う」 「ガキの小遣いで払える金じゃねーぞ」  そんなことはわかっていた。  全て考えた上で、ここへやってきたのだ。 「報酬は、あたしが払う。あたしを売ればいいでしょ。今度こそ、本当に」 「…………」  長い、静寂の時間が流れた。  どれくらい時間が過ぎただろうか、先に沈黙を破ったのはエイシスだった。  表情には出さないが、実際のところ内心かなり動揺していた。それでも何とか、いつも通りの相手を小馬鹿にしたような口調を保つのには成功した。 「……売られるのが嫌で、さんざん俺に手間かけさせた奴の台詞とは思えんね。どうしてお前がそこまでしなきゃならないんだ? おやっさんを連れて、さっさと逃げりゃいいじゃないか」 「おじさんだけじゃ駄目なの。誰も死んでほしくないの。街が戦場になれば、たくさんの人が死ぬもの」  リューリィの目に、涙が浮かんでくる。  泣きそうになりながらリューリィは続けた。 「おじさんに引き取られてから、みんなあたしに親切にしてくれた。近所の人も、馴染みのお客さんたちも、みんな……。だから、おじさんだけじゃ駄目なの! もう、大切な人が死ぬのはイヤなのっ!」  裏返った声でリューリィは叫んだ。  リューリィの故郷の村は戦火に巻き込まれ、今はもうない。彼女の両親はそれ以前に病で死んでいたが、親しかった者たちの多くがその戦争で命を落としていた。  それを目の当たりにしているリューリィには、同じことがもう一度繰り返されるのは耐えられないことだった。 「お願い、傭兵……」  リューリィの目から、涙があふれ出した。 「お願い、みんなを助けて……」 「やれやれ……」  エイシスは溜息混じりに呻いた。  自己犠牲などという言葉は、彼の信条とは相容れない。それでも一応は、リューリィの申し出を頭の中で真剣に検討してみた。  リューリィがいくらくらいで売れるか。  その金は、この危険な仕事に見合うものか。  実際のところ、これより危険な仕事だって請け負ったこともある。これが、彼の傭兵生活の中で最悪の条件の仕事というわけではない。  しかし、報酬の額と危険の度合い以外にも、この仕事には問題があった。やはりこの条件で引き受けることはできない。 「……いや、やっぱり駄目だ。そんなことをしたら、俺はおやっさんに殺されちまう」 「おじさんはあたしが説得する!」 「無理だな」  ウェイズの、リューリィに対する可愛がりようは相当なものだ。それはまるで、一人娘と初孫を合わせたほど、といっても過言ではない。  殺される、というのはあながち冗談ではなかった。  どうしたものだろうか。エイシスは考える。  リューリィにまったく同情しないわけではない。  できることなら、何とかしてやりたいと思う。  だが、可哀想な少女に同情してただ働き、などというのはどうにも自分らしくないように思われる。  そんな甘いキャラクターではない、と。 (他に何か、報酬がありゃいいんだよな……)  そうすれば彼は、自分の行動を正当化できる。もっと、この危険に見合うだけの値打ちのある報酬があれば。  他に何か。  しばらく考えて、ひとつ思い付いた。  その思いつきに問題がないか、もう一度よく検討してみる。  それはとても「彼らしい」考えに思えた。  リューリィは、一大決心の末の申し出を断られて、泣き顔でうつむいている。 「……俺にひとつ、考えがある。条件次第ではこの仕事を受けてやってもいいぞ」  その一言で、リューリィの顔がパッと明るくなった。この表情が次の瞬間にどう変わるか、その反応が何となく楽しみだった。 「リューをどこかに売り飛ばすわけにはいかん。だから、俺が買ってやろう」  えっ? と驚きと疑いの入り混じった表情で、リューリィはエイシスを見る。無意識のうちに、半歩ほど後ろに下がっていた。  エイシスはその様子を見てにやりと笑う。 「もっとも、俺はロリコンじゃないからな。だから、しばらく貸しにしておいてやる」  リューリィにはまだエイシスの意図がわからないようで、小さく首を傾げている。 「そして、お前が十六歳になったら身体で払うというのはどうだ? まあ、おやっさんにバレたら殺されるのは一緒だろうが……よそに売り飛ばすのと違って、黙っていればわからんからな」  そこでやっとエイシスの言うことを理解したのか、リューの顔が真っ赤になった。  恥ずかしいのか、それとも怒っているのか。その表情からはどちらとも言えないが、なんと応えていいのかわからなくて困っている様子だ。 「ただし、ひとつ条件があるぞ」  エイシスは続ける。 「並の女じゃあ、この大仕事の報酬としては役不足だからな。お前が十六になった時、この街で一番の美女になっていること。ま、素材は悪くないから後は本人の努力次第ってところか……。どうだ、約束できるか?」  しばらく、真っ赤になって口をぱくぱくさせていたリューリィだったが、それでもなんとかいつも通りの強気な口調で言い返す。 「本人の努力次第? ば、馬鹿にしないでよね。あたしは今だってハシュハルド一の美少女よ! ただ、ちょっと歳が足りないだけよ!」 「ならいい」  エイシスが笑う。  その様子から馬鹿にされたと思ったのか、リューリィは眉を吊り上げて怒鳴った。  「見てなさい! 六年も経ったら、あたしはこの街どころか大陸一の美女よ! あんたの報酬なんか、利子付きで返してやるんだから!」  吐き捨てるようにそれだけ言って、リューリィは部屋を飛び出していく。  足音が遠ざかり、リューリィの部屋の扉が閉まる音が聞こえると、エイシスはベッドに横になった。  しばらく、くっくっと思い出し笑いをしていたが、やがて真面目な表情になってつぶやいた。 「それにしても……厄介な仕事を引き受けちまったかな……」  実際のところ、この仕事は彼にとってもリューリィが考えているほど簡単なものではなかった。 エピローグ 「……そうして次の日の夜、俺はアルトゥル軍の陣に一人で忍び込んだんだ。敵の将軍を暗殺するために」  エイシスは三杯目のお茶を飲み干してカップを置いた。奈子のカップも空になっているのに気付いたソレアが、ポットに手を伸ばす。 「その目的はなんとか果たしたんだが、逃げ出すときに敵に見つかってな……。数百人の兵に囲まれて絶体絶命、となったところにハシュハルドの軍が夜襲を仕掛けてきた。アルトゥル軍の混乱に気付いたんだろうな。おかげで俺は命拾いしたよ。指揮官を失った直後に奇襲を受けたアルトゥル軍は壊滅的な打撃を受けて敗走、ハシュハルドは救われたってわけだ」 「それじゃあ、明日の約束というのは……」  エイシスのカップにお茶を注ぎながらソレアが訊いた。 「リューの十六歳の誕生日だよ。ちょうど夏至の日の生まれなんだ」  意味深な笑みを浮かべてエイシスが言うのと同時に、奈子が大きな音を立てて立ち上がった。  エイシスをじっと睨み付ける。  目が合った瞬間、エイシスの顔からさぁっと音を立てて血の気が引いた。 「こ……」  奈子の全身に、殺気が漂っていた。 「この、女の敵がぁっっ!」  叫びながらエイシスに向かって勢いよく踏み込むと、低い姿勢から肘を上へ突き上げる。  これっぽっちも手加減のない肘打ちを顎に受けたエイシスの身体は一瞬宙に浮き、そのまま後ろに倒れた。 「女グセが悪いのは知ってたけど、まさか十歳の女の子にまで手を出すほどの鬼畜だったとは……」  バキバキと指を鳴らしながら、尻餅をついて口の端から血を流しているエイシスに近付いていく。  目が、完全にイってしまっていた。 「ち……ちょっと待て、それは六年も前の話……今のリューは十六歳、一人前の女だぞ」  生命の危機を感じたエイシスは、慌てて言い訳する。剣と魔法での闘いなら自称無敵のエイシスも、素手では奈子にかなわない。 「同じことよ。この変態がっ! 女をなんだと思ってンのよっ!」  奈子は高く蹴り上げた右足を、エイシスの頭に叩きつける。  血飛沫が舞った。  踵落としで額を割られたエイシスは、床に座り込んだままずるずると後ろに退く。 「お、落ち着け。落ち着いて俺の話を……、うわ――――っ!」  悲鳴は長くは続かなかった。  さらに三発、奈子の渾身の蹴りを喰らったエイシスは、床に大の字になってのびていた。 「ふっ、悪は滅びたわ」 「ナコちゃん……ちょっとやり過ぎじゃない? まあ、死んではいないみたいだけど……」  満足げな奈子とは対照的に、ソレアが少し困ったような表情で言う。 「まだ生きてるの? じゃあ今のうちにとどめを……」 「ナコちゃん!」  エイシスの容態よりも、絨毯を血で汚されることの方が心配なソレアは奈子を止める。 「どうして止めるの? こんな男、今のうちに始末しておいた方が……リューリィだけじゃなく、この世界の全ての女性のためじゃない?」 「あのね、ナコちゃん……ちょっと耳貸して」  ソレアが耳元で何やら囁くと、奈子の顔がかぁっと赤くなった。 「な、何言ってンのよソレアさん! そんなことあるわけないじゃない!」  ひどく慌てた様子で言うと、奈子は居間から飛び出していった。階段を駆け昇る音と、自室の扉をばたんと閉める音が聞こえてくる。  しばらくくすくすと笑っていたソレアは、やがて思い出したように倒れたままのエイシスに声をかける。 「大丈夫ですか?」 「……取り敢えず……生きてる。おかげで助かったよ。マジで殺されるかと思った……でも、いったいあいつに何を言ったんだ?」 「それは……内緒」  ソレアが、珍しく子供っぽい表情で笑う。 「それより、傷の手当をしてハシュハルドへ行きましょう。ナコちゃんがとどめを刺しに戻ってくる前に」 * * *  夏至祭りは、ハシュハルドの街でもっとも大きな祭りだ。  祭りの期間中、街は昼夜問わずの賑わいを見せる。  元々は夏の訪れを祝い、夏の好天と秋の豊作を願う行事なのだが、商業都市ハシュハルドにおいては祭りの起源などはどうでもいいことだ。  祭りの主役は、期間中に選出される『夏至の女王』だった。  それは、ハシュハルドの男達の投票で選ばれる。すなわち、ハシュハルドで一番『いい女』の証だ。  そして今年、女王の王冠を頭上に戴いたのは、夏至の日に十六歳になったばかりの少女だった。 「さあ、来るなら来てみなさい!」  夏至の日の深夜、リューリィは一人で自分の部屋にいた。  まだ祭りの宴は続いているようだが、なにしろ明るいうちから始まった宴である、みんなすっかり酔っぱらっていて、主役のはずのリューリィが抜け出しても誰も気付きもしない。  リューリィは一人、六年前の約束を果たすために待っていた。  夜が更けるにつれて、胸がどきどきしてくる。  エイシスはごくたまにしかこの街を訪れない。  最後に顔を見せたのはもう一年近く前のことだったが、それでもリューリィは、エイシスが今夜やってくることを確信していた。 (あいつが死ぬはずがないし……いや、死んでいたって地獄からやってくるわよ。だって……)  あの根っからの女好きが、こんな美人を抱けるチャンスを逃すはずがない。  エイシスは、約束を守ってこの街を救ってくれた。  だからリューリィも約束通り、この街で一番いい女になった。  夏至の女王に。  そして今日、リューリィは十六歳になった。  何も問題はない。 (あいつがやってきたとして……)  どんな顔をして迎えればいいのか、リューリィはずっと悩んでいた。  自分の気持ちがわからない。  エイシスのことが好きなのか、嫌いなのか。  リューリィは無論、まだ処女だ。  そして今夜、生まれて初めて男に抱かれることになる。  その相手がエイシスであることを、喜んでいる自分がいる。  その一方で、  やはりどこか、納得していない自分がいる。  あんな男の物になるのは癪だ、と。  身体の線が透けるような紗一枚を身にまとい、手には抜き身の長剣を握っているリューリィ。  そのちぐはぐな姿が、今の彼女の心の混乱ぶりを表している。 (……!)  間もなく日付が変わるという頃、誰かが家に入ってきた。  二階への階段を昇ってくる。  養父のウェイズではない。酒好きの養父は、まだ飲み友達と一緒だろう。それに、重々しいその足音は、ウェイズよりもずっと体格の良い男のものだ。  その足音には聞き覚えがある。  リューリィは、掌にじっとりと汗をかいているのに気付いた。  慌てて汗を拭き、剣を握り直す。 (……そんな簡単に、好きにさせてたまるもんか)  エイシスがこの部屋の扉を開けるなり、斬りつけるつもりだった。  もちろん、相手は一流の傭兵だ。このくらい簡単にかわすに違いない。  リューリィには容易に想像できた。  文字通り赤子の手をひねるようにリューリィから剣を取り上げ、そのまま彼女を押したおすエイシスの姿が。  でも、それでいいのだ。  それで、リューリィは納得できる。  あたしは、この男には敵わないのだ、と。  そうしたら、リューリィはエイシスに言うつもりだった。  ――ずっと、あなたのことが好きだった     六年前から、ずっと――  そして、扉が開かれる…… * * *    エイシスをハシュハルドまで送っていったソレアが自分の家に戻ると、奈子が居間のソファに座っていた。 「ナコちゃん、機嫌は直った?」  奈子はたちまちむっとした表情になる。 「あのね、ソレアさん。何か誤解してるみたいだけど……先刻言ったこと、絶対違うからね。そんなことあるわけないじゃない」 「あら、そうかしら」  ソレアが意地の悪い笑みを浮かべる。 「こーゆー事に関しては、私の勘はよく当たるのよ。大丈夫、内緒にしておいてあげるから」 「違うって言ってるっしょ!」  奈子はむきになって叫ぶ。  ソレアはそれに構わず、くすくす笑っている。  あの時、ソレアは奈子に言ったのだ。 「ナコちゃん、やきもちもほどほどにしないとカッコ悪いわよ」 初版あとがき  さて『光の王国』の外伝をお届けします。  時期的には、本編第四話の少し後。メインキャラは本編の三〜四話に登場する傭兵エイシス。奈子やソレアはほんのおまけ程度だし、由維やファージは出番なし。  そして意外なことに、今回はお約束の『女の子同士の絡み』がありません(笑)。  それを楽しみにしている一部(大多数?)の方々、残念でした。  一応、今回はまっとうな(?)男×女の恋愛物にしたかったのです。  これが恋愛物といえるかどうかは非常に疑問ですが、なにしろベースになっているのは『コバルト・ノベル大賞』に応募しようと思っていたネタですから。  プロローグとエピローグの一部を除くと、本編を知らなくてもほぼ話が通じるようになっているのもそのためです。  だから最初は原稿用紙百枚に収めるつもりだったのですが、実際には百四十枚にもなってしまいました。  では、この作品の裏話や伏線の説明を少ししましょう。  三章『滅びの谷』の中で、フェイリア・ルゥという魔術師の名が登場しますが、これは『北原のみぢかいお話』に収録している『ファ・ラーナの聖墓』のヒロインです。  彼女、村を出た後こんなことをしてたんですねー。  ちなみに、エイシスが初めて登場した『黄昏の堕天使』第一章のラストで、名前は出てきませんがちらっと彼女のことを話しています。  その時エイシスは「もう生きちゃいないだろうな」とか言ってますが、実はちゃんと生きています。ひょっとしたら、本編にも登場するかもしれません。  そして、フェイリア・ルゥは実は話中に何度か出てくる「リューリィの魔法の先生」でもあります。だからエイシスとリューリィは同じ呪文を使うんですね。  エイシスはもちろんそのことに気付いていますが。  次に、今回のヒロインのリューリィですが……  彼女を本編に登場させるかどうか、今悩んでいるところです。  登場させて、奈子との絡み……じゃなくて三角関係というのも面白いかな、なんて考えていますが。  あ、でも奈子の本命は(本人は否定するでしょうが)あくまで由維ですよ。ただ、奈子には強い男に無条件に惚れてしまうクセがあるだけ。  それにしても……今気付いたけど奈子とリューリィって何となく性格似てるわ(笑)。  ところでこの作品、戦闘シーンがかなりはしょられているのにお気付きでしょうか?  狼のシーンはともかくとして、三章の亜竜との闘いの第一〜第二ラウンド、そして四章のエイシスが敵の将軍を暗殺しに行くシーン。  最初はこういった部分もちゃんと書くつもりだったんですが、いくつかの理由でこうなりました。  この作品は恋愛物だから、とか、枚数の制限、とか、この作品の後半は『リューリィの視点』がメインだから、とか、男がボロボロになって闘っているシーンを書いても面白くないから、とか。  特に最後の理由が大きいかな? やっぱりボロボロになって闘うシーンが似合うのは奈子ですよね(笑)。本編第五話でも頑張ってもらいましょう。  では最後に、次回作の予定を……って、実はまったく決まっていません!  一応、本編の第五話を考えてはいますが、まだプロットをまとめてないし……他の外伝が先になるかも。でも、インタルード3が先って事はないはずです。  『光の王国』以外に書きたいアイディアもたまってきたしなぁ……。  今回、私としては(これでも)結構マジに書いてしまったので、次はもっと開き直った『美少女活劇』を書きたいですね。  『活劇★美少女小説館』の志郎さんと「お互い美少女活劇の道を極めましょう」と約束したし(爆)。  ま、次回作は風の吹くまま気の向くまま、とゆーことで。  それでは、また。 一九九八年五月  北原 樹恒 kitsune@mb.infoweb.ne.jp http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/ 第二版あとがき  いつになったら終わるのか〜という『光』の全面書き直し作業、ようやく『リューリィ』まで来ました。  このペースでは、二○○二年中に最終話まで終わらせるのは不可能でしょう。どうしても新作の執筆を優先してしまいますから、最近、書き直し作業に費やすのは半月に一日くらいしかありません。  次の書き直しが長い『ファ・ラーナの聖墓』なので、始める前からすでにうんざりしてます。しかもこの先、本編はどんどん長くなる一方だし。  保証してもいいですが、書き直し作業が終わるよりも先に『たたかう少女』が完結します。ひょっとしたら、『月羽根の少女』さえ完結してしまうかもしれません。せめて『一番街の魔法屋』が完結するまでには終わらせたいものです(笑)。  で、最近の執筆状況ですが、まず『たたかう少女5〜反逆の少女たち〜』が執筆中です。二○○二年春頃の公開を目指してます。  それと平行して新作長編を書いているのですが、これは事情により『ふれ・ちせ』での公開予定なし。  その後、『月羽根の少女3〜妖精狩り〜』の執筆をはじめる予定。年内に書けるのはこの辺まででしょうか。  一応、今年中に『たた少』と『月羽根』を完結させて、来年からまた新作をはじめようと考えているのですが、はたしてどうなることやら。  それでは、『ファ・ラーナの聖墓』の第二版あとがきでまたお会いしましょう。 二○○二年一月 北原樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/