光の王国・インタルード5  眠れない夜のために  夏休み中の、ある晴れた午後。  由維は、ぷらぷらと街中を歩いていた。  別に目的なんてない。買い物があるわけでもないし。  ただなんとなくの暇つぶし。  今日は朝から快晴で、気温はずいぶん上がっていた。外を歩いていると、じっとりと汗ばんでくる。  午後の大通公園には、たくさんの人がいた。  芝生の上で昼寝をしているサラリーマン。  走り回って遊んでいる子供たちと、少し離れたところで井戸端会議しているお母さんたち。  そして、木陰のベンチや噴水の縁に座っている恋人たち。  ちょっと羨ましい。  由維は、今日は独りだから。  なんだか面白くなくて、足元の小石を蹴っとき、 「由維ちゃん!」  突然、声をかけられた。  声のした方を見ると、由維とあまり変わらない背格好の女の子がいる。少しだけ茶色味を帯びたショートカットの髪。雰囲気は由維よりいくぶん大人っぽい。  由維は、その人のことをよく知っていた。  奈子先輩のクラスメイトの、沢村亜依さん。  由維を別にすれば、たぶん奈子先輩といちばん仲がいい友達。  亜依さんの横には、髪を似合わない金色に染めた、高校生くらいの男子がふたり。 「デートですか?」  一応訊いてみた。どう見てもお似合いとは言い難かったけど。  それにしても、男の子が二人ってことは…ひょっとして3P? やるなぁ、亜依さんってば。 「そんなわけないっしょ! 困ってるの」  眉間にしわを寄せて、亜依さんが言う。  ということは… 「…ナンパ?」 「そう。断ったのにしつこくって」  考えてみればデートのはずがない。今の亜依さんの本命は、奈子先輩なんだから。  亜依さんってけっこう可愛いから、ひとりで街を歩いていると声をかけられることも多いのだろう。 「友達? 君も可愛いね〜、俺たちと一緒に遊ばない?」  ナンパ男たちが話しかけてくる。  もちろん由維は、そんな連中を相手にする気はない。 「亜依さん、迷惑してる?」 「うん」 「…やっちゃってもいいですか?」 「…いいよ」  さすがは奈子先輩の親友だけのことはある。こういうことに寛容だ。  亜依さんの許可をもらうと同時に、由維は左脚を軸にして身体を一回転させる。  高く振り上げられた右脚が男の一人を捉え、そいつは地面に転がった。  それだけで、もう動けなくなっている。  こんな連中が、由維の後ろ回し蹴りを見切れるはずもない。見事に、顎にクリーンヒットしていた。 「て、てめえ! なにしやがった?」  残ったもうひとりが叫ぶが、それにいちいち答えてやる義理はない。無言で、股間を蹴り上げた。  相手がうずくまって、顔がちょうど蹴りやすい高さに来る。相手が長身なので、小柄な由維ではそうでもしないと顔面を蹴るのは難しい。  ちょうどミドルキックの高さに、相手の顔があった。微塵も躊躇せず、左右の回し蹴りを立て続けに叩き込む。  とどめに、身体を一回転させて加速をつけた後ろ蹴り。ナンパ男二号は二メートルほど転がって動かなくなった。 「…はい、終わり。じゃあ行きましょっか?」  にこっと笑って亜依さんを見る。亜依さんは驚いた表情でそこに立っていた。信じられないものを見るような目で、倒れているナンパ男たちを見おろす。 「…知らなかった。由維ちゃんて強いんだね〜」  自分で「やっちゃってもいいよ」なんて言ってたくせに、いまさらって感じ。  由維だって北原極闘流空手の門下生だから、このくらいのことはできる。身体が小さいから、奈子先輩のように正拳突き一発で男子をKOするような真似は出来ないけれど。   * * * 「でも、由維ちゃんてすごいよね〜」  玄関で靴を脱ぎながら、亜依さんは言った。 「ホントすごい。勉強も運動もできて、家事万能で、しかもあんなに強いんだもんな〜」 「そんな…」 「その上、毎日奈子に餌を与えて、世話をして…」 「エサって…ペットじゃないんですけど」 「…似たようなものじゃない?」  う〜ん…、ちょっと反論できないかもしれない。  ここは亜依さんの家。あの後、暇だったので遊びに来たのだ。由維の家からは、徒歩二十分くらいの距離にある。 「助けてくれたお礼に、とっておきのワインをごちそうしてあげる」  亜依さんが、すらりと細長いボトルと、ワイングラスを二つ持ってくる。 「ヴェストホーフェナーのベーレンアウスレーゼ。九五年だよ」  亜依さんは、高校生のくせにワインマニアだ。  聞いたことがないワインだけど、名前とボトルの形からするとドイツワインだろう。甘口のドイツワインは、由維も大好きだった。  少しとろみのある、淡い黄金色の液体がグラスに注がれる。甘ったるい、蜜のような香りが広がった。  そぅっと、口に含んでみる。甘い。 「…美味しい!」  すごく甘いんだけど、よく冷えてるからその甘さがくどくない。  由維は、残りを一気に飲み干した。 「でしょ? ベーレンアウスレーゼとしては値段も手頃だし」  空になったグラスに、亜依さんがお代わりを注いでくれる。  極甘口のドイツワインは、アルコール度数が低いから飲みやすい。口あたりがいいこともあって、いくらでも飲めてしまう。  それでも、ボトル一本を空ける頃にはずいぶんと酔いが回ってきた。  空になったボトルを弄んでいた亜依さんが、急に話題を変える。 「ところで…、最近、奈子ン家に電話してもいつも留守なんだけど…どっか行ってるの?」 「え? えっと…」  予期せぬ不意打ちに、由維は言葉に詰まった。もちろん奈子先輩の行き先は知っているが、それを他人に言うことはできない。  奈子先輩と由維が共有している秘密を、亜依さんは知らないのだ。 「え〜と…、まあ…」  曖昧に言葉を濁す。 「どこに?」 「その…、まあ、いろいろと…」  本当のことは言えない。絶対に言えない。断じて言えない。 「どこで、なにしてるの? 由維ちゃんも置いてけぼりなんて」 「…ナイショです」 「由維ちゃんは知ってるんだよね?」 「一応…」 「私には教えてくれないの?」 「…口止めされてますから」  亜依さんはどことなく、詰問しているような口調だった。むっとした表情で由維を睨む。  嫉妬しているのかもしれない。彼女も、奈子先輩のことが好きなのだから。 「私、由維ちゃんと奈子がうらやましいな…」  少しだけ、悲しそうな目をしてつぶやいた。  亜依さんはよくわかっている。  奈子先輩と由維の、強い結びつきを。  それは単なる友情ではない。かといって恋愛とも少し違う。もっと、もっと、深い部分での魂のつながり。  それは幸せなことだ。全身全霊をかけて愛することができる相手がいるというのは。  あれ? でも、そういえば亜依さんには、付き合ってる彼氏がいたんじゃなかったっけ? そう思って聞いてみた。 「別れちゃったよ。ずいぶん前に」 「…どうして」 「奈子と由維ちゃんのせいよ」  亜依さんは言った。 「彼氏ったって、なんとなく好きかな、って程度で、それほど深い想いを抱いていたわけでもないし。由維ちゃんたちを見てると、自分の恋愛がひどくちゃちな、薄っぺらなものに思えちゃってね…」 「そんな…」  でも、なんとなくわかる。  由維だって、相手が奈子先輩だからこれだけ深く愛することができるのだ。他の相手を、同じくらい強く想うことなんてできない。  すべてを引き替えにして愛するに値する相手なんて、そうそういやしない。  しかし奈子先輩は間違いなく、そうするに値する相手だった。   * * * 「ね〜由維ちゃん、教えてよ〜。奈子はどこ〜?」  いつの間にやら、二本目のボトルも半分近く減っていた。  なんとなく、亜依さんの目が据わっている。ひょっとして、意外と酒癖は悪いのかもしれない。 「教えてくれないと…」  その目がきらりと光る。 「襲っちゃうぞ〜!」 「きゃあっ!」  いきなり亜依さんが抱きついてきて、由維はベッドに押し倒された。 「あ…亜依さん、ちょっと…!」 「ふふふ〜。こうして見ると、由維ちゃんて可愛いね〜。奈子が夢中になるのもわかる気がするな〜」 「わからなくていいです!」  ひょっとして亜依さんてば、けっこう見境ない性格? お酒が入るとキス魔になる人っているよなぁ…と、人ごとのように考える。 「いま気付いたんだけど…」  亜依さんの顔が近づいてくる。なんだかすごくまずい雰囲気。 「由維ちゃんとキスすれば、つまり奈子と間接キスってことよね?」 「そ、そんなぁ!」  避ける間もなく、唇が重ねられる。  由維はじたばたと暴れるが、上になった亜依さんの方が、少しだけ身体が大きくて力もあった。   * * * 「ふぅ…、貞操の危機だったわ」  家に戻った由維は、ベッドに腰を下ろした。  ただしここは、自分の家ではない。  奈子先輩の家、奈子先輩の部屋、そして奈子先輩のベッドだった。  ワインで真っ赤になった顔のままでは、家には帰れないから。  両親は奈子先輩が留守にしていることを知らないから、「奈子先輩のところに泊まる」と言えばなにも心配しない。  家の中には、誰もいない。  奈子先輩の両親がいないのはいつものこと。二人とも人気俳優で、仕事が忙しいから普段は東京のマンション住まい。この家にはたまにしか帰らない。  そして奈子先輩は…  もう一週間も留守にしたままだった。  向こうに行く前は「三日で帰る」と言っていたのに、まだ戻らない。  いや、正確には、出かけて三日後に一度戻ったらしい。服が着替えてあったし、お風呂を使った形跡もあった。  どうやら、由維に連絡せずに翌日また出かけたようだ。  なにかあったのだろうか。  長期間向こうへ行っているときは、必ずそう言っていくのに。  なのに今回は…  なんだか、すごくいやな予感がする。  すごく、不安になる。  奈子先輩のいない家はがらんと広くて。  いまは真夏なのに、寒々とした雰囲気があった。  枕元の時計を見る。  もう夜中だ。 「…寝よ」  パジャマ代わりに、洋服ダンスから奈子先輩のTシャツを取り出して着替えると、ベッドにもぐり込んだ。 (奈子先輩の、匂いがする…)  それは、物心つく前からずっと身近にあった匂い。  すごく、安心できる匂い。  奈子先輩のシャツを着て、奈子先輩のベッドに寝て。  そうしてぎゅっと自分の身体を抱くと、奈子先輩に抱きしめられているような気がした。  不意に、涙が出てきた。理由はよくわからないけれど。 (奈子先輩がいなきゃ…)  寂しくてたまらない。  ひとりでいるのは辛い。  奈子先輩がいないとだめだ。  奈子先輩がいないと…。  どんなに堪えようとしても、涙が止まらない。 「寂しい…よぉ…」  涙が止まらない。  由維は泣き続けていた。  先刻の、亜依の言葉を思い出す。 『由維ちゃんてすごいよね〜。勉強も運動もできて、家事万能で、しかもあんなに強いんだもんな〜』  違う。そうじゃない。  強くなんかない。  強く見えるとしたら、それは、奈子先輩のおかげ。 (奈子先輩がいてくれるから…)  なにがあっても、奈子先輩が守ってくれるから。だから、なにも恐れる必要がない。  ただそれだけ。  生まれてからずっと、奈子先輩が傍にいてくれた。  いつも、守ってくれていた。  だから、傍にいてくれいないと不安で。  どんどん、怖い考えになってしまう。 (だって、向こうは危険だもの…)  しょっちゅう怪我して帰ってくる。  ううん、身体の怪我はまだいい。  だけど… (奈子先輩の心、いっぱい傷ついている…)  とても強くて、そしてとても繊細な心の持ち主。  純粋すぎる魂。  それは、小さな傷ひとつで砕け散ってしまうかもしれない。 「早く、帰ってきて…」  無事で帰ってきてくれれば、それでいい。  浮気ぐらいなら、いくらでも許すから。  本当のことを言えば――  一緒に行きたい。連れていってほしい。  そうすればどんなに安心できるだろう。もう、こんなに心細い気持ちで奈子先輩の帰りを待たなくてもいい。  だけど、それをねだったことはない。  言えば、きっと連れていってくれるだろう。  でも、それは、危険すぎる。  ううん、自分のことを心配してるんじゃない。 (私は大丈夫…だって、奈子先輩が守ってくれるもの)  そう、どんなことがあったって。  奈子先輩は、由維のことを守ってくれる。  たとえ自分がどうなっても。  奈子先輩といる限り、由維の安全は保証されたようなものだ。  …だから、行けない。奈子先輩を、これ以上危険な目に遭わせたくない。 「奈子先輩…」  なぜだろう、涙が止まらない。  眠れない。  早く眠ってしまえば、いやなこと考えずに済むのに。  なのに、眠れない。  ひどく、いやな予感がする。  奈子先輩の身に、なにかあった。  きっとそうだ。  こんなに長く、奈子先輩と会わずにいたなんて…そう、一年ぶりだ。  奈子先輩の中に深い傷を残した、あの事件。  あのときは半月以上も会えなかった。  そのときはじめて知った。奈子先輩のいない生活が、どんなに寂しいものか。  寂しくて、寂しくて。人間は、寂しさが原因で死ねると本気で思った。  もう、奈子先輩のいない生活なんて考えられない。 「お願い…早く帰ってきて…」  由維は、いつまでも泣き続けていた。 《金色の瞳・後編に続く》  あとがき  このペースでいくと、いずれ本編の話数を追い越してしまうのではないかと思ってしまうインタルードですが、今回はちょっと異色。  なんと、奈子が出てきません。  奈子が向こうへ行ってる間、由維はいったいどうしてるのかな〜、と考えて書いた話です。  ホントはこれ、『金色の瞳』後編のプロローグになるはずのエピソードだったんですけど、諸々の事情によりインタルードとしました。(そうしないと、後編まで間が空きすぎるから…とかね)  気になる後編は、いま書いてます。現時点で完成度は三十パーセント強ってところ。  ここしばらく、『ふれ・ちせ』に掲載しない小説にかかりっきりだったのですが、そちらが一段落ついたので、これから少しペースを上げていきます。  それでは、次回は『金色の瞳』後編でお会いしましょう。                  一九九九年七月 北原樹恒                  kitsune@mb.infoweb.ne.jp                      創作館ふれ・ちせ         http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/