それは、どこまでも、どこまでも、果てしなく続く荒野。
赤茶けた土の上を動くものは、乾いた風だけ。獣も、鳥も、それどころか植物さえも。生きているものの気配は何もない。
この辺り一帯は現在、生物の棲める環境ではなく――。
ただどこまでも、荒れ果てた大地が広がっていた。
しかしやがて、そんな死んだ風景の中にたった一つだけ、動くものの姿が現れた。
赤い砂が流れる乾いた大地の上を、ゆっくりと歩いている。
それは、人間の女だった。
ちょっと見ただけでは、年齢はよくわからない。二十歳から四十歳までのいくつであってもいいように思われた。
肩に軽くかかるくらいの長さで切りそろえた茶色い髪が、風に揺れている。この髪は、つい先日までは腰に届く長さがあったが、荒野の旅には邪魔だからと切ってしまった。
何年ぶりかで頭が軽い。
心が重く沈んでいる分、せめて身体は身軽でいたかった。
小高い丘の上に立った女は、周囲を見渡した。
彼女の他に、生きているものはいない。
今さら確認するまでもなく、それはよくわかっている。それでも、きちんと自分の目で見る必要があった。
人間が、犯した罪の光景。
目に焼き付けておかなければならない。
ただし、それを語り伝える相手はもういないのだが。
「…………」
女は小さな溜息をつくと、背負っていた小さなバックパックを地面に置き、自分も腰を下ろした。
さほど疲れていたわけではないが、別にいまさら、先を急ぐ旅でもない。
脚を前に放り出すように座り、地面に手をついて空を見上げた。
既に陽は沈んで、群青色の空は急速にその濃さを増している。
星が、少しずつその数を増やしていく。しかし今夜の星空は、それほど見事なものではないだろう。
この時刻、三つの月がすべて空にあり、太陽が今日の仕事を終えた後の空で、徐々にその存在感を増していた。
おかげで夜になっても荒野を歩くのに不自由はないだろうが、星空が好きな彼女にとっては少し残念だ。
静かな夜だった。
こんなに静かな夜は、この星にとって何百年、あるいは何千年ぶりだろうか。
人工の明かりはなにもない。厳密に言えばそれは正しい表現ではないのだが、いずれにしても、この星に文明が生まれて以来初めて迎える静かな夜だ。
この静寂が再び破られるのは、遠い未来のことだろう。
「……いっそのこと、永遠にこのままでもいいのかもしれない」
彼女はつぶやいた。
ひんやりとした地面に仰向けになる。
ちょうど天頂に、月がひとつあった。
一番明るく、一番大きく。そして、一番古い月。
きっと、地表からこうして見る月の姿は、一万年前、十万年前のそれとほとんど同じものなのだろう。空は、何も変わっていない。
「遠い昔、天が生まれ、地が生まれ……そして人が生まれた……」
小さな声で、故郷の国に古くから伝わる詩を口ずさんだ。
それは、創世の神話。長い長い神謡を口語訳した、その最初の一説だ。
彼女は上体を起こすと、三つの月に照らされて白く浮かび上がる周囲の荒野を見回した。
それは、滅びの光景。死せる大地の姿。
天は、創世の時代となにも変わらないのかもしれない。
しかし、大地は滅びてしまった。
なのに、何故。
「何故、人は生き残った……?」
その結論は、まだ出ていない。
自分のしたことが、正しかったのかどうか。
仲間たちのしたことが、正しかったのかどうか。
それとも、彼女たちの『敵』がしたことが正しかったのだろうか。
誰もが、自分のすることが正しいと信じていた。しかし誰もが少しずつ、自分のしようとしていることに疑いを持っていた。
正解は、誰にもわからない。
遠い未来、その答えが出るのかもしれないし、永遠に出ないのかもしれない。
彼女にとっては、どうでもいいことだった。
未来を築くのは、彼女の世代ではない。
それは、その時代に生まれた者たちの役目だ。
未来に対して、これ以上干渉するつもりはない。
「……だとしたら、なんのためにここへ来たのかしら」
考えるまでもない。その答えはわかっている。
ただ、寂しかっただけだ。
一人でいるのは、あまりにも辛すぎる。
今、彼女が会いたい相手は二人いた。
しかし、そのうちの一人とは、もう永遠に会うことはできまい。
だから、残ったもう一人を訪ねようとしている。
会って、何を言えばいいのかはわからなかったが。
目的地に着いたのは、翌日の午後だった。
相変わらず空は晴れ渡っていて、気温はかなり上がっている。それでも湿度が低いから、さほど不快には感じない。
彼女の眼前にそびえるそれは、大きな建造物だった。ドーム状の屋根を持ったスポーツ競技場にも似ているが、近くに寄れば、それよりもはるかに大きなものだとわかる。
物音はしない。動くものもない。
しかしそれでも、この施設はまだ「生きて」いた。
中には確かに、生命が存在している。
知らず知らずのうちに、口元が緩む。
おかしな話だ。これは、彼女の『敵』なのに。
「でも……」
それも、もう過去形で語るべきだろう。以前は敵だった、と。戦う理由がなくなった世界に、敵とか味方という概念は必要ない。
彼女は間近まで来て、その建造物を見上げた。ここを訪れるのは二度目だが、完成した姿を見るのは初めてだった。
あの混乱の中で、よくもこれだけの物を築けたものだと少し感心する。
「立派なものね、まるで…」
まるで、古代の王たちが築いた巨大な墓のようだ――と。
ふと、そう思った。
両者の間には、ある意味、多くの共通点があったため、その思いつきに彼女はくすくすと笑う。
ここまで来た以上、中へ入るつもりだった。しかし正面のゲートは固く閉ざされている。
無理やり開けることもできなくはないが、そうはしなかった。その程度のことは大したダメージにもならないだろうが、わざわざ相手を怒らせるような真似をする必要もない。
外壁に沿ってしばらく歩いて、やがて、小さな扉を見つけた。非常時に使用されるものだろう。
大型のトレーラーがそのまま進入できそうな正面のゲートとは比べものにならない。人が二人並んで歩くのがやっとだろう。
もちろん、この扉もロックされている。正規の鍵を使うか、中枢の制御システムがその必要があると認めない限り、開くことはない。
彼女は開閉レバーに手をかけて、扉を見つめた。
小さな金属音とともに、扉が開く。
「……結界もないなんて、不用心だこと」
小さく笑って、中へ入った。
無人の通路は、どこまでも続いているように見えた。
硬質セラミックの床と壁には、継ぎ目ひとつ見あたらない。
彼女の乾いた足音だけが響く。
通路は意外と入り組んでいて、あちこちに枝道や扉があった。
しかしそれらには目もくれず、なんの表示もない通路を、確かな足どりで迷うことなく進んでいく。
彼女は明確な目的を持って、ただ一つの場所を目指していた。
しばらく歩くと、通路は行き止まりになっている。
その、最後の扉の前に立つ。
何もしなくても、扉は音もなく開いた。
一歩、足を踏み入れる。
こちらに背を向けて座っていた男が、椅子ごとゆっくりと振り返った。
それは、三十代後半くらいの男だった。
きちんと櫛で整えた黒髪に、黒い瞳。
最後に会ったときと同じように、静かな笑みを浮かべている。
「……やあ。久しぶりだね、ファル」
立ち上がりながら、男は言った。
彼の背後の壁はガラス製で、外の風景や、建物の中の通路の様子が映し出されていた。
彼女が中に入る前から気付いていたくせに、わざとこうして芝居がかった動作をする。そんなところは昔と変わっていない。
「ようそこマルスティアへ、歓迎するよ。今となってはろくなもてなしもできないけど、ゆっくりしていくといい」
男は親しげに近寄ってくると、彼女の肩に手をかけて、頬に軽くキスをした。
「正直なところ、もう会えないと思っていた。よく来てくれたね」
「会わないつもりだったけど、そうもいかなくなったの」
笑いながら、彼女からもキスを返す。
「……どうして?」
「見てよ、この砂埃」
両手を広げて、自分の姿を見せた。
荒野を越えてきた長い旅がもたらす当然の結果として、着ているものも、顔も、髪も、赤い砂で汚れている。
「わざわざ歩いてきたのか、大変だろう? そんな必要もないだろうに。だけど、それと俺に会いに来ることにどんな関係が?」
「決まってるじゃない」
彼女は、昔よく見せたように子供っぽく笑った。
「……他に、シャワーが使えそうな場所に心当たりがなかったのよ」
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