「奈子先輩、起きて。朝ゴハンだよ」
朝は、そんな声とおはようのキスではじまる。
薄目を開けると、エプロンを着けた由維がベッドの横に立っていた。
しかし奈子はすぐには起きない。わざと眠そうな声を出す。
「…あと…五分」
「もぅ、奈子先輩ってば」
そう言って毛布を引き剥がそうとした由維の手をつかみ、そのままベッドに引きずり込んだ。
そのまま、ぎゅっと抱きしめる。
「もう少し、一緒に寝てよ」
昨日から夏休みだから、べつに早く起きなければならない必然性はない。
しかし奈子は、眠そうなフリをしているだけだった。
実際のところ、奈子は寝起きがいい。毎日早くに起きて、トレーニングを欠かさないのだから。
だからこの場合、目的は『睡眠』ではなくて『由維』である。
眠たいわけではなくて、ただ由維に甘えているだけ。
そのことをわかっているから、由維も少しの間、奈子の好きにさせておく。
それでも、身体に回されていた腕がお尻の方へ移動をはじめたところで、人差し指で奈子の頬をつついて警告を発した。
「ダメですよ、奈子先輩。これ以上遅くなったら、ベーコンが焦げちゃいますから」
そう言ってするりとベッドから抜け出す。
奈子も小さく「ちぇ」っと舌打ちすると、身体を起こした。
「今日はいい天気ですよぉ。どっか遊びにいきます?」
「そうだね…」
カーテンの隙間から、外の様子を確かめる。
雲ひとつない快晴だ。
「そういえば…」
今日の予定を考えていた奈子は、あることを思い出した。
「街まで買い物につきあってくんない?」
「いいけど…買い物って?」
「もうじき、亜依の誕生日だからさ。プレゼントをね」
「愛人のバースディプレゼントの買い物に、本妻をつきあわせるってのはどうかなぁ…」
由維は少しばかり呆れ顔だ。
「誰が愛人で、誰が本妻だって?」
ジーンズをはきながら、奈子はむっとした様子で言った。
「さて、なにか食べて帰ろっか?」
亜依へのプレゼントをはじめ、いくつかの買い物をすませたところで奈子は言った。
二人が歩いているのは、札幌の中心部、狸小路の三丁目である。食事をする場所には事欠かない。
街中の人通りは多い。平日とはいえ、学校はすでに夏休みだ。
赤いリボンをかけた大きな包みを抱えている奈子は、すれ違う人とぶつからないように歩くのに気をつかう。
包みの中身は、大きなたれぱんだのぬいぐるみ。亜依の最近のお気に入りだった。けっして安いものではないのだが。
「そんなにお金使わなくたって、亜依さんへのプレゼントなら奈子先輩のキスひとつでいいんじゃないですか?」
「…あのねぇ!」
由維の呑気な提案に、奈子は大声で言い返す。
「あんたは、それでいいの?」
「いまさら奈子先輩の浮気に目くじら立ててもね〜」
少しばかり皮肉を含んだ物言いだった。
前科が山ほどある奈子は、それに反論できない。
「それに、キスくらいいいじゃないですか。減るもんじゃなし」
そんな台詞がちょっと引っかかる。
由維はたしかに、奈子に対してはキス魔だが、他の人に対してもそうなのだろうか。
「…まさかあんた、そんなこと言ってあちこちでキスしてるんじゃないでしょ〜ね?」
「え?」
もちろん、そんなはずはあるまいと思って口にした台詞だった。
しかし、なにやら含みのある笑みを浮かべている由維を見て、急に不安になった。
実のところ、由維はけっこう男子に人気がある。
顔はかわいいし、頭もいい。
明るくて人なつっこい性格だ。
欠点といえば、絶望的に胸がないことくらいか。
しかし世の中、それがいいという男だって少なくない。
実際に言い寄ってくる男が少ないのは、彼女が奈子一筋であることが知れ渡っているためで、奈子を恐れているからでしかない。
それでも、中学の卒業式の日の、斉藤のことはまだ記憶に新しい。
他にも、同じような男がいないとも限らない。
なにしろいまは、奈子と由維は学校が違うのだし。
「…あんた、アタシ以外の相手とキスとかしたこと…、ある?」
それが肯定なのか否定なのか、由維はどちらともとれるような笑みを浮かべている。
「もしかして、やきもち妬いてます?」
「…別に」
むっとした口調で奈子がそう言うのと、背後から由維を呼ぶ声が聞こえたのはほとんど同時だった。
「宮本…?」
やや戸惑いがちの声に振り向く。
由維と同世代の男子がいた。
歳の割には、大きな身体をしている。
「やっぱり宮本か、久しぶり」
「工藤…」
由維が驚きの表情を見せる。
「どうして…?」
由維の頬がかすかに赤くなっているのを、奈子は見逃さなかった。
ちらりと奈子を見た由維は
「ゴメン、奈子先輩。ゴハンはキャンセル」
両手を合わせて拝むようにそう言うと、男の方に向き直る。
「時間があるなら、お茶でもどう?」
「あ、ああ」
ちょっと困ったように由維と奈子を交互に見ていたが、由維に手を引かれて歩いて行く。
あとにひとり残された奈子は
「…なによ、これ」
なにが起こったのかわからずに、呆然とつぶやいた。
「…三年ぶり、だっけ?」
南三条にあるモスバーガーで。
由維はストローをくわえたまま言った。
「そうだな、もうそんなになるか」
「工藤ってば、大きくなったね〜」
「宮本は相変わらず小さいな」
笑って言う工藤の視線が、胸に注がれているのに気付いて由維は憮然とした表情になる。
「いったいなにしに来たのよ? あんた、鹿児島へ行ったんじゃなかったの?」
「夏休みだから遊びに来たんだ。親戚がこっちにいるからね」
工藤はそこで言葉を切って、ポテトをひとつ口に放り込むと
「別に、宮本に会いに来たわけじゃないぞ」
言わなくてもいいことをわざわざ口にする。
「ウソ。私に会えて、喜んでるでしょ〜?」
挑発するような調子で、上目づかいに工藤を見る。
「別に喜んでなんか…」
そう言いつつも顔が赤い。
「あ、そう」
急に冷たい口調になって、由維が立ち上がる。
「ゴメンね、無理に付き合わせて」
「あ、ちょっと待った!」
立ち去ろうとする由維の腕を、工藤はあわててつかまえた。
立ち止まって振り向いた由維は、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「〜っっっ! お前のそ〜ゆ〜ところがキライだっっ!」
「あれ? じゃあ転校するとき告白してくれたのはウソだったの?」
「〜〜っっっ、」
工藤は声にならないうめきを上げる。
どうやったところで勝てない。決定的な弱みを握られているのだ。
「ま、どうしてもって言うんなら、もう少しいてあげてもいいけどね」
そう言って由維はまた腰をおろした。
「まったく…。お前、いま付き合ってる男とかいるのか? だとしたら、そいつは苦労してるんだろ〜な〜」
いまいましげにつぶやく工藤。
「付き合ってる…男? いるような…いないような…」
由維は曖昧に言葉を濁した。
つきあってるといえなくもない相手はいる。
ただしそれは『男』ではない。
それを言ったら、工藤はどんな顔をするだろう。
一瞬、その誘惑にかられた由維だったが、やっぱり言わないことにする。
ノーマルな恋愛感情の持ち主である工藤には、理解しがたいことだろうから。
実際のところ由維は、「女の子が好き」なわけではない。
奈子のことが好きなのは事実だが、それ以外の女性に恋愛感情を感じたことなどない。
しかし、恋愛感情を抱いていた男性は過去何人かいたのだから、本来、由維はノーマルである。
この場合、惚れられた奈子に問題があると考えるべきだろう。
(誰だっけ、あのガキ…)
ひとり家のソファに横になって、奈子は考えていた。
由維に声をかけたあの男、見覚えがあるような気がしないでもない。
久しぶり、と言ってたから、小学生時代のクラスメイトとかだろうか。
由維が五、六年生の頃ならば奈子はもう中学生だから、小学校での由維の交友関係など詳しくは知らない。
もちろん、あの男がただのクラスメイトなどという雰囲気ではなかったことは気付いていた。
由維は、昔からマセている方だ。
小学生の時に『彼氏』がいたっておかしくはない。
たとえば、ファーストキスくらいは経験していたって…。
自分の想像にショックを受けて、奈子はがばっと起きあがる。
由維がもてることはよく知っている。
だからこそ、小さい頃はよく男子にいじめられていたのだ。
好きな子の気をひきたくて、ついいじめてしまう年頃だ。
奈子も小学生だった頃は、由維をいじめる男子たちはみんな奈子の拳の餌食になっていたのだが、奈子が中学進学した後は、由維も空手を始めていたこともあって、そうそういじめられることはなくなったと記憶している。
だから安心していたのだが…、別な心配があったとは気付かなかった。
奈子が由維への恋愛感情を意識したのはここ一年くらいのことだから、それ以前の由維の男関係なんて気にしたこともなかった。
ひとりでいると、イヤな想像ばかりが膨らむ。
(由維の、ファーストキスの相手…?)
勝手にそう決めつける。
ひどく、イライラする。
許せない。
アタシの由維に。
ふと、時計を見た。
由維と別れてから、二時間以上経っている。
(遅すぎる…)
久しぶりに会った友人(それとも元恋人?)が昔話に花を咲かせているとしたら、二時間や三時間は別に長い時間ではないだろうが、冷静さを欠いたいまの奈子はそう思わない。
(まさか…。いや、あの奔放な由維のことだから…久しぶりに会った相手につい羽目を外して…)
最悪の想像にたどり着くまでに、そう時間はかからなかった。
由維と別れたのは狸小路。ススキノのラブホテル街までは歩いて十分くらいだ。
(いや、由維に限ってそんなことは…)
(でも、相手の男が無理やり…)
想像ばかりが膨らんでいく。
力づくで押し倒され、唇を奪われる由維。
服をはぎ取られ、小ぶりな胸があらわになる。そして…
「許さんっ!」
ばっと立ち上がる。
(アタシの由維に…)
もし、万が一のことがあったら…
「殺す!」
向こうの世界で戦っているときのような危険な目をして、奈子は家を飛び出した。
ドンッ!
「いった〜ぁい!」
いきなり、そんな声が聞こえた。
家を飛び出した奈子は、ちょうど門から入ってきた人物にぶつかった。
はっと我に返ると、由維がしりもちをついている。
横に、ケーキ屋の白い箱が転がっていた。
「…由維?」
そこにいるのは由維ひとりだ。あの男の姿はない。
「もぉ…ちゃんと前見てくださいよ」
「…あ、なんだ…。もう帰ってきたんだ…」
奈子は、台本を棒読みするような調子で言った。
「お泊まりになるとでも思ってました?」
由維がくすくすと笑っている。
すべて見抜かれているようだった。
奈子はなにも言えず、真っ赤な顔をして家に入った。由維もあとに続く。
「…で、誰?」
ソファにどさりと身体を投げ出しながら、奈子は訊いた。
由維はお茶の用意をしにキッチンへ向かう。
「小五の頃のクラスメイト」
「それだけ?」
「で、喧嘩相手」
「…それで?」
奈子が訊きたいのは、そんなことではない。
「五年の秋に転校していった。いまは九州」
由維はティーポットにお湯を注いで蒸らしている間に、買ってきたシュークリームを皿にのせる。
シュークリームでよかった。
これがショートケーキなら、転んだときに悲惨なことになっていたはずだ。
「いつも私に突っかかってくるヤツで、いつもケンカしてて…。でも、転校する前の日に、告白された」
言いながら、ふたつのカップに紅茶を注ぐ。
「実は、好きだったんだって」
「由維も、好きだった?」
奈子は、いちばん気になっていたことを訊いた。
「…よくわかんない」
少し間をおいて、由維は答えた。
「でも…いなくなると思ったら、なんだかすごく淋しかった。だから…最後の思い出に…キスしてあげた」
ぴくりと、奈子の眉が動いた。
こめかみに血管が浮き、身体が怒りのオーラに包まれている。
「つまり、それが由維のファーストキス…なんだな?」
引きつった表情で、奈子は訊いた。
「え…?」
由維は驚いたような顔で奈子を見た。
ティーポットを持つ手が止まる。
驚きの表情は、すぐに怒りに変わった。
「信じらンない! 奈子先輩ってば!」
「なによ?」
奈子もむっとした声で言い返す。
「初めては、奈子先輩に決まってるじゃないですか!」
「なに言ってンの! あんたとキスしたのは、去年の夏が最初じゃない!」
奈子も怒っていたが、由維の怒りはそれ以上だった。
珍しく本気で怒っている。
「ヤダ、もう! 憶えてないなんて! 私のファーストキスは奈子先輩にあげたのに! 一生の思い出を忘れるなんてっ!」
「ちょっと、それ、いつの話よっ?」
奈子にはそんな記憶はない。
由維とキスしたのは、去年の夏、向こうから帰ってきたときだ。
小学生のときの工藤との方が絶対に先である。
しかし由維は自信満々、胸を張って答えた。
「幼稚園のとき!」
「――っ!」
一瞬、絶句した奈子は、すぅっと大きく息を吸いこんで叫んだ。
「んなもん、憶えてるかぁぁっっっ!」
「私は憶えてるもん! 大切な思い出だもん!」
「単なるガキの頃のイタズラじゃね〜か!」
「イタズラ? ひどい! 奈子先輩てば私のこと弄んだのね〜っっっっ!」
「人聞きの悪いことを言うなぁぁ〜っっ!」
ふたりの言い争いは、淹れたばかりの紅茶が冷たくなるまで続いたという。
あとがき | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 1999 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.