夏休み中の、ある晴れた午後。
由維は、ぷらぷらと街中を歩いていた。
別に目的なんてない。買い物があるわけでもないし。
ただなんとなくの暇つぶし。
今日は朝から快晴で、気温はずいぶん上がっていた。外を歩いていると、じっとりと汗ばんでくる。
午後の大通公園には、たくさんの人がいた。
芝生の上で昼寝をしているサラリーマン。
走り回って遊んでいる子供たちと、少し離れたところで井戸端会議しているお母さんたち。
そして、木陰のベンチや噴水の縁に座っている恋人たち。
ちょっと羨ましい。
由維は、今日は独りだから。
なんだか面白くなくて、足元の小石を蹴っとき、
「由維ちゃん!」
突然、声をかけられた。
声のした方を見ると、由維とあまり変わらない背格好の女の子がいる。少しだけ茶色味を帯びたショートカットの髪。雰囲気は由維よりいくぶん大人っぽい。
由維は、その人のことをよく知っていた。
奈子先輩のクラスメイトの、沢村亜依さん。
由維を別にすれば、たぶん奈子先輩といちばん仲がいい友達。
亜依さんの横には、髪を似合わない金色に染めた、高校生くらいの男子がふたり。
「デートですか?」
一応訊いてみた。どう見てもお似合いとは言い難かったけど。
それにしても、男の子が二人ってことは…ひょっとして3P? やるなぁ、亜依さんってば。
「そんなわけないっしょ! 困ってるの」
眉間にしわを寄せて、亜依さんが言う。
ということは…
「…ナンパ?」
「そう。断ったのにしつこくって」
考えてみればデートのはずがない。今の亜依さんの本命は、奈子先輩なんだから。
亜依さんってけっこう可愛いから、ひとりで街を歩いていると声をかけられることも多いのだろう。
「友達? 君も可愛いね〜、俺たちと一緒に遊ばない?」
ナンパ男たちが話しかけてくる。
もちろん由維は、そんな連中を相手にする気はない。
「亜依さん、迷惑してる?」
「うん」
「…やっちゃってもいいですか?」
「…いいよ」
さすがは奈子先輩の親友だけのことはある。こういうことに寛容だ。
亜依さんの許可をもらうと同時に、由維は左脚を軸にして身体を一回転させる。
高く振り上げられた右脚が男の一人を捉え、そいつは地面に転がった。
それだけで、もう動けなくなっている。
こんな連中が、由維の後ろ回し蹴りを見切れるはずもない。見事に、顎にクリーンヒットしていた。
「て、てめえ! なにしやがった?」
残ったもうひとりが叫ぶが、それにいちいち答えてやる義理はない。無言で、股間を蹴り上げた。
相手がうずくまって、顔がちょうど蹴りやすい高さに来る。相手が長身なので、小柄な由維ではそうでもしないと顔面を蹴るのは難しい。
ちょうどミドルキックの高さに、相手の顔があった。微塵も躊躇せず、左右の回し蹴りを立て続けに叩き込む。
とどめに、身体を一回転させて加速をつけた後ろ蹴り。ナンパ男二号は二メートルほど転がって動かなくなった。
「…はい、終わり。じゃあ行きましょっか?」
にこっと笑って亜依さんを見る。亜依さんは驚いた表情でそこに立っていた。信じられないものを見るような目で、倒れているナンパ男たちを見おろす。
「…知らなかった。由維ちゃんて強いんだね〜」
自分で「やっちゃってもいいよ」なんて言ってたくせに、いまさらって感じ。
由維だって北原極闘流空手の門下生だから、このくらいのことはできる。身体が小さいから、奈子先輩のように正拳突き一発で男子をKOするような真似は出来ないけれど。
「でも、由維ちゃんてすごいよね〜」
玄関で靴を脱ぎながら、亜依さんは言った。
「ホントすごい。勉強も運動もできて、家事万能で、しかもあんなに強いんだもんな〜」
「そんな…」
「その上、毎日奈子に餌を与えて、世話をして…」
「エサって…ペットじゃないんですけど」
「…似たようなものじゃない?」
う〜ん…、ちょっと反論できないかもしれない。
ここは亜依さんの家。あの後、暇だったので遊びに来たのだ。由維の家からは、徒歩二十分くらいの距離にある。
「助けてくれたお礼に、とっておきのワインをごちそうしてあげる」
亜依さんが、すらりと細長いボトルと、ワイングラスを二つ持ってくる。
「ヴェストホーフェナーのベーレンアウスレーゼ。九五年だよ」
亜依さんは、高校生のくせにワインマニアだ。
聞いたことがないワインだけど、名前とボトルの形からするとドイツワインだろう。甘口のドイツワインは、由維も大好きだった。
少しとろみのある、淡い黄金色の液体がグラスに注がれる。甘ったるい、蜜のような香りが広がった。
そぅっと、口に含んでみる。甘い。
「…美味しい!」
すごく甘いんだけど、よく冷えてるからその甘さがくどくない。
由維は、残りを一気に飲み干した。
「でしょ? ベーレンアウスレーゼとしては値段も手頃だし」
空になったグラスに、亜依さんがお代わりを注いでくれる。
極甘口のドイツワインは、アルコール度数が低いから飲みやすい。口あたりがいいこともあって、いくらでも飲めてしまう。
それでも、ボトル一本を空ける頃にはずいぶんと酔いが回ってきた。
空になったボトルを弄んでいた亜依さんが、急に話題を変える。
「ところで…、最近、奈子ン家に電話してもいつも留守なんだけど…どっか行ってるの?」
「え? えっと…」
予期せぬ不意打ちに、由維は言葉に詰まった。もちろん奈子先輩の行き先は知っているが、それを他人に言うことはできない。
奈子先輩と由維が共有している秘密を、亜依さんは知らないのだ。
「え〜と…、まあ…」
曖昧に言葉を濁す。
「どこに?」
「その…、まあ、いろいろと…」
本当のことは言えない。絶対に言えない。断じて言えない。
「どこで、なにしてるの? 由維ちゃんも置いてけぼりなんて」
「…ナイショです」
「由維ちゃんは知ってるんだよね?」
「一応…」
「私には教えてくれないの?」
「…口止めされてますから」
亜依さんはどことなく、詰問しているような口調だった。むっとした表情で由維を睨む。
嫉妬しているのかもしれない。彼女も、奈子先輩のことが好きなのだから。
「私、由維ちゃんと奈子がうらやましいな…」
少しだけ、悲しそうな目をしてつぶやいた。
亜依さんはよくわかっている。
奈子先輩と由維の、強い結びつきを。
それは単なる友情ではない。かといって恋愛とも少し違う。もっと、もっと、深い部分での魂のつながり。
それは幸せなことだ。全身全霊をかけて愛することができる相手がいるというのは。
あれ? でも、そういえば亜依さんには、付き合ってる彼氏がいたんじゃなかったっけ? そう思って聞いてみた。
「別れちゃったよ。ずいぶん前に」
「…どうして」
「奈子と由維ちゃんのせいよ」
亜依さんは言った。
「彼氏ったって、なんとなく好きかな、って程度で、それほど深い想いを抱いていたわけでもないし。由維ちゃんたちを見てると、自分の恋愛がひどくちゃちな、薄っぺらなものに思えちゃってね…」
「そんな…」
でも、なんとなくわかる。
由維だって、相手が奈子先輩だからこれだけ深く愛することができるのだ。他の相手を、同じくらい強く想うことなんてできない。
すべてを引き替えにして愛するに値する相手なんて、そうそういやしない。
しかし奈子先輩は間違いなく、そうするに値する相手だった。
「ね〜由維ちゃん、教えてよ〜。奈子はどこ〜?」
いつの間にやら、二本目のボトルも半分近く減っていた。
なんとなく、亜依さんの目が据わっている。ひょっとして、意外と酒癖は悪いのかもしれない。
「教えてくれないと…」
その目がきらりと光る。
「襲っちゃうぞ〜!」
「きゃあっ!」
いきなり亜依さんが抱きついてきて、由維はベッドに押し倒された。
「あ…亜依さん、ちょっと…!」
「ふふふ〜。こうして見ると、由維ちゃんて可愛いね〜。奈子が夢中になるのもわかる気がするな〜」
「わからなくていいです!」
ひょっとして亜依さんてば、けっこう見境ない性格? お酒が入るとキス魔になる人っているよなぁ…と、人ごとのように考える。
「いま気付いたんだけど…」
亜依さんの顔が近づいてくる。なんだかすごくまずい雰囲気。
「由維ちゃんとキスすれば、つまり奈子と間接キスってことよね?」
「そ、そんなぁ!」
避ける間もなく、唇が重ねられる。
由維はじたばたと暴れるが、上になった亜依さんの方が、少しだけ身体が大きくて力もあった。
「ふぅ…、貞操の危機だったわ」
家に戻った由維は、ベッドに腰を下ろした。
ただしここは、自分の家ではない。
奈子先輩の家、奈子先輩の部屋、そして奈子先輩のベッドだった。
ワインで真っ赤になった顔のままでは、家には帰れないから。
両親は奈子先輩が留守にしていることを知らないから、「奈子先輩のところに泊まる」と言えばなにも心配しない。
家の中には、誰もいない。
奈子先輩の両親がいないのはいつものこと。二人とも人気俳優で、仕事が忙しいから普段は東京のマンション住まい。この家にはたまにしか帰らない。
そして奈子先輩は…
もう一週間も留守にしたままだった。
向こうに行く前は「三日で帰る」と言っていたのに、まだ戻らない。
いや、正確には、出かけて三日後に一度戻ったらしい。服が着替えてあったし、お風呂を使った形跡もあった。
どうやら、由維に連絡せずに翌日また出かけたようだ。
なにかあったのだろうか。
長期間向こうへ行っているときは、必ずそう言っていくのに。
なのに今回は…
なんだか、すごくいやな予感がする。
すごく、不安になる。
奈子先輩のいない家はがらんと広くて。
いまは真夏なのに、寒々とした雰囲気があった。
枕元の時計を見る。
もう夜中だ。
「…寝よ」
パジャマ代わりに、洋服ダンスから奈子先輩のTシャツを取り出して着替えると、ベッドにもぐり込んだ。
(奈子先輩の、匂いがする…)
それは、物心つく前からずっと身近にあった匂い。
すごく、安心できる匂い。
奈子先輩のシャツを着て、奈子先輩のベッドに寝て。
そうしてぎゅっと自分の身体を抱くと、奈子先輩に抱きしめられているような気がした。
不意に、涙が出てきた。理由はよくわからないけれど。
(奈子先輩がいなきゃ…)
寂しくてたまらない。
ひとりでいるのは辛い。
奈子先輩がいないとだめだ。
奈子先輩がいないと…。
どんなに堪えようとしても、涙が止まらない。
「寂しい…よぉ…」
涙が止まらない。
由維は泣き続けていた。
先刻の、亜依の言葉を思い出す。
『由維ちゃんてすごいよね〜。勉強も運動もできて、家事万能で、しかもあんなに強いんだもんな〜』
違う。そうじゃない。
強くなんかない。
強く見えるとしたら、それは、奈子先輩のおかげ。
(奈子先輩がいてくれるから…)
なにがあっても、奈子先輩が守ってくれるから。だから、なにも恐れる必要がない。
ただそれだけ。
生まれてからずっと、奈子先輩が傍にいてくれた。
いつも、守ってくれていた。
だから、傍にいてくれいないと不安で。
どんどん、怖い考えになってしまう。
(だって、向こうは危険だもの…)
しょっちゅう怪我して帰ってくる。
ううん、身体の怪我はまだいい。
だけど…
(奈子先輩の心、いっぱい傷ついている…)
とても強くて、そしてとても繊細な心の持ち主。
純粋すぎる魂。
それは、小さな傷ひとつで砕け散ってしまうかもしれない。
「早く、帰ってきて…」
無事で帰ってきてくれれば、それでいい。
浮気ぐらいなら、いくらでも許すから。
本当のことを言えば――
一緒に行きたい。連れていってほしい。
そうすればどんなに安心できるだろう。もう、こんなに心細い気持ちで奈子先輩の帰りを待たなくてもいい。
だけど、それをねだったことはない。
言えば、きっと連れていってくれるだろう。
でも、それは、危険すぎる。
ううん、自分のことを心配してるんじゃない。
(私は大丈夫…だって、奈子先輩が守ってくれるもの)
そう、どんなことがあったって。
奈子先輩は、由維のことを守ってくれる。
たとえ自分がどうなっても。
奈子先輩といる限り、由維の安全は保証されたようなものだ。
…だから、行けない。奈子先輩を、これ以上危険な目に遭わせたくない。
「奈子先輩…」
なぜだろう、涙が止まらない。
眠れない。
早く眠ってしまえば、いやなこと考えずに済むのに。
なのに、眠れない。
ひどく、いやな予感がする。
奈子先輩の身に、なにかあった。
きっとそうだ。
こんなに長く、奈子先輩と会わずにいたなんて…そう、一年ぶりだ。
奈子先輩の中に深い傷を残した、あの事件。
あのときは半月以上も会えなかった。
そのときはじめて知った。奈子先輩のいない生活が、どんなに寂しいものか。
寂しくて、寂しくて。人間は、寂しさが原因で死ねると本気で思った。
もう、奈子先輩のいない生活なんて考えられない。
「お願い…早く帰ってきて…」
由維は、いつまでも泣き続けていた。
《金色の瞳・後編に続く》
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