『ん……はぁ……』
ぎこちなく吐き出される熱い吐息が、肌をくすぐる。
少し日に焼けた肌は汗ばんで、薄赤く上気していた。
至近距離で見下ろした頬に、微かに残る涙の後。
きゅっと寄せられた眉がひくひくと震える。
『は……あ……』
甘い、声の隙間に。
『……ファー……ジ』
「…………」
深い深いため息で一日が始まるというのは、あまり爽やかではない。爽やかでないと言えば、今朝の夢以上に爽やかでないものをファーリッジ・エル・オルディカは経験したことがなかった。だからこそのため息なのだが。それにしても。
何でこんな夢を……。ファージは泣きそうな顔で頭を抱えた。ちょっとエッチな夢を見るくらい、もうすぐ十六になる女の子として許してもらおう。相手が女の子だった……これはかなりの問題ありだが、まあ、不安定な年頃だし、と苦しい言い訳をする。
つまり、言い訳のしようもないくらいにファージを悩ませているのは。
明らかにこの今現在ファージ自身が呆然と座り込んでいるベッドの上で。その腕の下に組みしかれた、熱い体の持ち主が。
「なんで、ナコ……?」
おそらく今ごろ隣の部屋で幸せな惰眠をむさぼっているであろう従姉を思うと、じわじわと腹が立ってきた。
「だいたいなんで私が……」
声に出して言いかけて、さすがにかあっと赤くなる。誰も聞いていないとはいえ。
(なんで私が『攻め』なのよっ)
くらくらするくらい真っ赤になった顔で、ファージは枕もとのクッションを殴りつける。恥ずかしさと悔しさに、ぎゅうっと唇をかみ締めた。
ドシィッ
板張りの、がらんとした道場に重い音が響き渡る。天井から吊るされた大きなサンドバッグの揺れるギシギシいう音と、一人分の荒い呼吸の音だけが後に残った。
はぁっ、はぁっ
ナコはその余韻をまだ低く腰を落として構えていたが、次の動きは繰り出さずにふっと体の力を抜いた。
「ふうっ」
大きく息を吐き出して、汗で額に貼り付いた黒っぽい髪を払う。
特に背が高いわけではない。この年頃の平均くらいだろう。しかし、長い手足と小さな顔が幸いして、すらりとした長身のイメージがある。やせた体に無駄な贅肉はなく、小さな頃から空手で鍛えられた、しなやかな筋肉が薄くその体を覆っている。短く切った髪と少しきつい顔立ちからも、中性的な印象を受ける。そして空手の腕はと言えばマイカラス一だ。……もちろん、女の子の人気も高い。
(どう考えてもアタシが……じゃないでしょう)
目の前で息を整えているナコの横顔に、ファージは小さくため息をついた。長く伸ばした銀の髪と、小柄で華奢な体つき。透き通るように白い、なめらかな肌。他人から見れば、確かに『その』状況に陥ったならナコが『攻め』になると思うだろう。
(とかって、思われたくもないけどね)
気を緩めると頭に浮かんでくる今朝の夢を、軽く頭を振って振り払う。
「お疲れ」
座り込んでいるファージに近寄って、すぐそばから見下ろしているナコをじっと見上げる。しばらく上目遣いに見つめてから、ファージは感情のこもらない声でタオルを差し出した。
空手、というものをこの地に定着させたのはナコの家、マツミヤ家であるらしい。ちゃんと弟子をとって教えている道場は屋敷の外にあるのだが、代々格闘技好きの多いこの家では、その敷地内に小さいながらも専用の道場があった。最近では『ナコの』専用道場となっているが。ゆえに、現在その十メートル四方くらいの建物の中にはナコとファージの二人しかいない。午前中の勉強が終わると、何もない日は昼過ぎには一人で稽古を始めるのがナコの習慣だった。一方でそれを眺めているのがファージの習慣。
「ん」
ナコは上気した頬に笑顔を浮かべてタオルを受け取った。
「……まったく。自覚がないにも程があるわね」
その無邪気な笑顔になんだか腹が立って、少しきつい口調で言い放つ。何の自覚かと言えば当然、次期マツミヤ家当主として、だ。
「そ?」
それでもナコはきょとんとした顔を見せただけだった。
「剣と魔法≠フ時代じゃあるまいし。もっと他にすることあるでしょう?」
「剣と魔法=c…。アンタがそれを言う?」
魔法≠フ方に力をこめて切り返し、くくっとのどの奥で声を殺す。
「……ヤなやつ」
その声に、ファージふいっと顔をそらせた。髪が、さらさらと肩に散る。どうにも今朝からイラついてしかたないのだ。
あの、夢のせいで。
ナコはそんな事情を知るはずもなく、不機嫌な従妹に苦笑いを浮かべて見せた。
「先生になんか言われた?」
ちょっと真面目に眉を寄せるナコに、ファージは顔をしかめる。
「いつも通りよ」
今朝よりも前からファージを悩ませている種。それは、もうすぐ十六になるナコに一向に次期領主としての自覚が生まれない、ということ。それだけなら放っておけば良いのだが、周りの大人たちはなぜかその矛先をファージに向けてくるのだ。愚痴ったり、説得させたり、しまいにはナコの代わりにファージを教育しようとしてくる。
マツミヤ家は今や大陸最大の王国となったマイカラスの有力貴族なのだが、実質その領地は自治都市に近い。ゆえにその運営にかかる労力は通常の貴族などとは少しばかり勝手が違い、領主たる人の教養も自然、多岐にわたることになる。
男女にかかわらず第一子を当主にするこの家で、ナコウェル・ディ・マツミヤはまぎれもない第一子だった。しかしどうにもこの人、頭よりも体を鍛えることに興味があるらしい。まあ、その性質も血筋だと言えば言えなくもない、のだが。
一番近い存在であるがために、とばっちりを受けるかたちになったファージにはあまり喜ばしくない性質だ。
「いいじゃん、そんなの」
「……? 何が」
「アタシにはアンタって言う優秀なブレインがいるんだし」
一瞬の、間。皮肉な笑みに、ファージははあっとため息をついた。
「……ナコ。残念だけど、私はその期待には添えないんだってば」
搾り出すように苦々しげに言う。本気なのか冗談なのか、長い付き合いながらその境目がわからない。
「来年には、私はここにいないんだよ?」
「またそれ? 諸国漫遊の旅なんて本気で言ってんの?」
「あたりまえでしょ?」
お互いにあきれた顔を向かい合わせる。意思の疎通には程遠いらしい。
その旅はファージの夢であると同時に。……義務でもある。彼女は現存する魔術師のうちで間違いなく最高の力を持っている。四百年前のカタストロフ以来、魔法力はどんどん失われてもう微かにしか残っていない。それらをかき集め、少しでも多くの魔法を後世に残す作業。世界中に散らばった魔法を自ら体得し、他の地の魔術師達に力を与える。それが自分の使命だと思っている。
……『使命』、なのだと。
「でも最近政経やってんじゃん?」
「……」
二人は同じ家庭教師に習っているからその辺は筒抜けだ。
「……興味があっただけ」
ぱっと顔をそむける。頭の後ろでくすくす笑いを聞いた。
「その興味、実践で生かしてみない?」
ナコはひざ立ちになると、そっぽを向いているファージにずりずりと近寄る。
「ねーってばぁ」
「ちょっ……」
しゃがみこんだナコはファージにすりすりと体を寄せた。まだ熱のひいていない体はしっとりと熱く、少し汗の臭いがした。密着する体をあわてて押しやって、ファージはかっと赤くなった自分の顔をさりげなく隠した。耳元でささやく声に、鼓動が高鳴る。
『あ……んっ……』
頭の中でちらつくのはやはり今朝の夢。
(も、やだ……)
自己嫌悪。
「もうっ」
動揺隠しに小さくつぶやいて、うつむく。
ファージは生まれる前から大陸一の魔術師になると予言された子供だった。そのため周囲からの期待はあまりに大きく、ほんの小さな頃から当然のように諸国漫遊の話をされていた。だからずっと、その未来に疑問を持ったことはなかった。
……それは、『義務』だった。ただ、『夢』であった頃も、確かにあったのだが。
はあっと息をつく。
(私だって)
悩んでいないわけではない。……特に最近は。
「そんな難しい顔しないのっ」
「痛っ」
ナコは両手でファージの顔をつかむと無理矢理にぐりっと振り返らせた。触れるくらいに近くに顔を付き合わせる。再びかっと赤くなるのを、ファージは顔をしかめてこらえた。
「……どうしても行くの?」
「行くよ」
ぶっきらぼうに答える。
「行きたいの?」
「行きたいよ」
間を置かず、声色を変えず。……でも微かに顔がゆがんだことを、ナコには気づかれたかもしれない。
「しょうがないか」
「……?」
ふうっと息をつく。でもすぐに、なんだか笑いをこらえるような顔を向ける。
「私も行こう」
「はあっ?」
「一緒に諸国漫遊しよっか」
あくまで軽く言ってのける。
「……もうちょっと自分の立場ってものを……」
「なんで? マツミヤのナコとユイだってこれくらいのときに何年間か旅してるっしょ」
「あのね……」
何なんだ、この自覚のなさは。マツミヤ家初代のナコ・ウェル・マツミヤとその……結婚相手のユイが、十五、六のとき大陸中を旅していたのは事実だ。田舎育ちだった二人が突然大きな『家』を手にし、それを運営していくために見聞を広める旅に出た、と言われている。ちなみにその間領地を任されたのがソレア・サハ・オルディカ。ファージの先祖でもある彼女は、正真正銘最後の竜騎士であった。
「うん、名案!」
改めて自分の意見に大きくうなずく。
「……何言ってるのよ」
本当に、ナコは分かってないんだろうか?ファージの諸国漫遊は『旅』ではありえないことを。
一度出て行ってしまえば、この広い大陸、ここへ戻ることもそう多くはないだろう。
……残りの一生のうちで。
「……っ」
自分の心の中の台詞に、胸のあたりに痺れが走った。力のこもった手で頭をつかまれていて視線をそらすことが出来ないので、かわりにぎゅっと目を閉じた。
同じ日、同じ屋敷に生まれた二人は双子の姉妹のように扱われていたが、ファージが彼女自身まだ幼い頃に両親を亡くしてからは、生活の全てを共にする、本当の家族として過ごしてきた。
二人の十六の誕生日は数日後に迫っている。『十六になったら旅立つ』それはファージ本人をはじめ、周囲の人間も認知していることだ。まあ、何も誕生日その日に出て行くつもりはない。それだけの準備もしていない。
一方のナコにしても、十六になってしまえばもう次期領主としての自覚から逃げることは出来なくなる。
もう、今まで通りではいられないのだ。
今朝あんな夢を見た理由。実はずっと前から分かっていた。ただ、それを認めるには多大なる勇気がいるわけで……。
ファージは閉じたままの瞼に更にきつく力をこめて、その思いを振り払った。
(十六か……)
十六になれば……。
(『ユイの手記』……)
マツミヤ家には十六歳の儀式というものがある。
それは謎の多いマツミヤ家の全てが解けるという、門外不出の書。その一冊の書物は、マツミヤ家当主となるべきただ一人にのみ、十六になったその日初めて開くことを許される。この広大で豊かな土地をマイカラスから頂いた時、ナコとユイの二人はたった十六と十四の少女だった。いったいどういった経過で。しかも二人のそれ以前の足跡は全くと言っていいほど分からないのだ。その生まれや一族さえも。『田舎生まれの二人が……』云々は関係者が意識的に流しているうわさに過ぎない。
この全ての謎を解くことができるのが唯一、『ユイの手記』なのである。
ユイ自身がその死の間際に残した、全ての真実が記された書。
実はこれ、関係者以外にもどんなことをしてでも内容を知りたいと言う人は多い。なぜなら、四百年前のカタストロフの事実についても語られている、らしいからなのだ。しかし『ユイの手記』は読むことを許される条件として、ただ一人にもこの内容を語ることも、自らがここから得た知識をどこかで用いることさえも許されていない。
ナコなどはあまり興味もないようだが、ファージも幼い頃から何とかしてこの内容を知りたいと思っていた。なぜ、カタストロフは魔法を奪ってしまったのか。『偉大なる』魔術師と冠して呼ばれるファージにしてみても、使える魔法はそう多くはない。四百年前なら、小さな子供にでも使えただろうような物しか残っていないのだ。
それが、くやしい。
ファージはきゅっと唇をかみ締めた。なぜ。
なぜ魔法力は失われていってしまうのか。
それは、あるべき運命なのか、とどめることは果たして可能なのか。
「ファージはずっとここにいるんだと思ってた……」
顔をしかめたファージの隣で突然、ポツリとナコがつぶやく。
その言葉に、ファージは拍子抜けしたように表情を和らげた。
「……ずっと昔から、旅にでるってことは言ってたはずだけど」
本当に、あきれる。何かと言えば、今初めて聞かされたかのように本気でショックを受けた表情を浮かべているナコに。
「それでも、いると思ってた」
あきれながらも、寂しそうにつぶやくナコの声はファージの胸に痛みを走らせていた。
数日後、二人のバースデーパーティは大盛況だった。次期領主であるナコの隣、その豪奢なドレスに負けない華やかさでファージは無数の祝福の言葉を受けた。
当然ながら『旅』に期待をかける言葉が多い。苦い思いをしながらも、ファージはその一つ一つに笑顔で応えなければならなかった。
迷いや弱気は人前にさらしてはならない。ほんの小さな頃から偉大なる人物として扱われていたファージは、それは当然のことだと思っていた。本音をさらすことのできる相手は数人に限られていた。そして彼らは、その数人ではない。ファージにとっては、ただそれだけのことだった。
その、夕食後。ナコは『ユイの手記』を手にするため、一人地下の書斎へと向かった。その飄々とした背中に視線を注ぐファージは、自分でも理解できない収拾のつかない気持ちでいた。
大人になってしまったナコ。大人になってしまう自分。離れていかなければならない運命。……もっと、秘めておくべき思い。
寝付けない夜を、過ごした。
少なくともファージが起きている間、隣の部屋にナコが戻った気配はなかった。
ドオンッ
「またやってる……」
音に引かれていつものように道場を覗くと、ナコは一人サンドバッグを相手にしていた。
「……」
ファージは、ぎゅっと自分の胸のあたりをつかんだ。
イタイ
「……っ」
声を殺してナコが強い蹴りを放つ。
その姿が。
痛くて。
泣きそうになる。
ナコの足元には水をまいたように丸くシミが出来ていた。それがナコ自身からの汗であることをファージは知っていた。
『ユイの手記』を開いたあの夜から、ナコの表情は硬く沈んで、何かを考え込んでいるようだった。
ドンッ
自分の体を痛めつけるためだけの、稽古。
いつもの飄々とした表情を失ったことを、ナコの両親だけは静かに受け入れているかのように見えた。あの、内容を知っているから。きっと、『ユイの手記』にはナコを変えてしまうだけの効力があったのだ。
公開することを許されていない真実とは、往々にして良いものではのないだろう。それは、分かっているつもりだった。けど。
あの、ナコをこれだけ悩ませる真実とはいったい何なのか。ファージは少しの恐怖さえ覚えた。今はもう、あまりその真実を知りたいとは思わなかった。ただ。
ただ、そんなナコを見るのはあまりにも痛くて。
その痛みに耐えられなくて。
昨日と同じく、ファージはナコに声をかけることも出来ずに道場を出てゆく。
「……くっ」
その気配に気づいていないはずのないナコは、全身の力をこめて突きを繰り出した。
あの日以来、ナコには否応なしに政治の授業が加算され、ファージは本格的に旅に出るための世界の魔法事情を調べる作業に入っていた。
たった数日で、すれ違いや慣れない生活に二人の隙間は次第に広がり始めていた。
「ファージ」
その日の夕食後、ナコは無表情な声で席を立ちかけたファージを呼び止めた。
「ちょっと、来て」
久しぶりに交わす言葉は硬く、短い。
有無を言わせない声色に少し不安になりながら、ファージはナコの後に続く。ナコの中では何か答えが出たのだろうか、その、ファージには予想もしなかった扉の前で振り返った表情は、ここ数日間とは打って変わった穏やかなものになっていた。
「入って」
ぐっと扉を押し開き、自分が先に踏み込むと電灯のスイッチを入れる。
三メートル四方くらいの狭い部屋にあるものは、一組の机と椅子、それと二面分の壁を埋める床から天井までの本棚ですべてだった。
ナコの肩越しに中の様子を観察してから、ファージは呆然とその顔を見上げた。
「ナ、コ……?」
それは先日ナコがマツミヤ家次期領主として初めて立ち入ることを許された、部屋。
「おいで、ファージ」
「……あっ」
ためらっているファージの腕をナコは強く引き、そのままさらに引き寄せると自分の腕の中に抱きすくめた。空いた手で扉を閉め、鍵をかける。
長い時間、ナコはファージの体を抱きしめたままでいた。
お互いの体のぬくもりがお互いを温めあう。ファージの鼓動は次第に早くなっていた。
「ファージ」
「な、何?」
ドキドキする。あの夢以来、ナコと接近するのは極力避けたい行為になっていた。心臓が、痛いくらいに高鳴っている。
抱きしめる腕のナコの手は、ファージの銀の髪を優しく撫でていた。耳元で、髪がさららさらと音をたてる。
「本当に旅に出るの?」
「……え?」
一瞬、何のことを言われたか分からない。
「……うん」
「もう、戻れないのに?」
「わかって……」
言葉が、詰まる。
「分かってないと思ってた?」
「だって」
あんまりのんきなことばっかり言っているから。
「ねえ、何で? 何のために旅に出るの?」
「何のって……」
世界中に散らばった魔術を体得し、力ない者たちに力を与えるため。
「そんなこと、必要ない」
「……え?」
ナコの指先が、ファージの髪を掻き分ける。その奥の、白い肌に触れる。暖かい肌に冷たい指が這う。優しく、手のひらで包み込む。
ナコの目は少し潤んで、すがりつく子供のようだった。なのに首筋を撫でる手つきは、包み込むような愛しさが滲んでいるようで。
「なっ……ん」
心臓の音がうるさい。ここのところ、きっとちょうど旅に出ることをためらいだしてから、ずっと。自分のナコに対する感情の変化には気づいていた。
だから、あんな夢を見た。それはもうこの状況下、認めるしかない。
柔らかく首筋を撫でる手のひらは、きっと熱くなっていくこの体に気づいている。
(知って、た……?)
どくん、と胸が音を立てる。
気づかれていた? いつから?
……いつから。いったいいつから私はナコにこんな思いを。
目の端にたまった涙がくすぐったい。
その手のひらから与えられる感覚に理性を奪われてしまう前に。ファージは抱きすくめられているやせた体を震える手で押しやった。
一瞬の強い力を残して、ナコの腕が離れてゆく。そんなに寒いはずもない部屋で、ひやりとした空気が二人の間に入り込む。
好きだよ。
「……え?」
そう聞こえた気がした。けれど見上げたナコは少し、笑っただけだった。
「あ……」
「ファージ、座って」
「あ、うん」
ナコの引いた椅子に体をおろす。
体全体が脈打っていて、座った椅子からずりおちそうだった。
ナコの手が、ファージの耳元を掠める。
「これ、読んで」
「え、ええっ。だって……」
タイトルのない、分厚い書物が机の上に置かれていた。保存魔法がかかっているのか真新しく見えたが、それはきっと。思わずナコを見上げる。もう一度、どくん、と胸が鳴った。
「だ……だってこれ、『ユイの手記』じゃないの? 私なんかが読んでいいわけないじゃないっ」
「いいんだよ」
「いいって……」
「お母様も読んだことあるって。お父様も、唯一この人と思った人には話して良いって言ってたし」
「でも、それって……」
ナコの父にとってその妻とは共に領地を治めてゆく人だから、生涯の伴侶として、一生を共にしてゆく人だから。だから話したんだろう。
「アタシの一番はファージだから」
「そっ……」
もう、かあっと熱くなる顔を隠すことは出来なかった。
「それに、何も知らずに旅立って欲しくないから」
「……?」
「読めば、分かるから」
潤んだままの目に促されて、ファージはいつのまにか重い表紙を開いてしまっていた。
長い長い時間をかけてそれを読み終わったとき、ファージはふらっとなる頭を抱えて、傍らに座り込んで眠り込んでいるナコの正面にしゃがんだ。
固く瞑られた目に、無性に不安がつきあがってくる。
(……私を見て)
ナコとユイの生まれの秘密。彼女らが、どこからやってきたのか。その、冒険の数々。仇や、友人達も。
そして。
ファージは、震える手でナコの頬にふれた。びっくりしたように目が見開かれ、まっすぐにファージを捕らえる。
「ナ……コ」
声がかすれた。そして。
その胸にしがみついて泣きじゃくった。
……四百年前のカタストロフ。その真相。
なぜ、二人はこの地にとどまったのか。
涙の理由は分からなかった。考えたくもなかった。
ただ、泣きたかった。
ナコは何も言わず、ファージの体を抱きとめていた。
どれくらいの間そうしていたのかも分からないが、やっとファージが泣き止んだ時、ナコはその頭を撫でながらゆっくりと口を開いた。
「ファージ。私、ファージが好き。ずっと、どこにも行って欲しくない」
「なっ……」
びくん、と体が震えた。
泣きじゃくっていた瞼がはれぼったく、熱い。
(好き)
(ナコのことが、好き。だから)
(ここに、いたい)
焦りがまたファージの心臓を高鳴らせる。
「そんな旅、出る必要ない」
語気を強めてはき捨てるように言うと、ファージの頭を抱えるようにして抱きすくめる腕に力をこめた。
「……ふ」
強い力に、息苦しさを感じる。……けど。それがそんなに安心できることなんだって、知らなかった。自分の体がどこにも行かない。この胸の中で揺らぐことなく縛り付けられていることが。
「魔法なんて、いらないんだよ。魔法を消し去ろうとしたのは私たちなんだから」
ナコは『私たち』という言葉を使った。ナコは、自分のずっと先祖のしたことに責任を持とうとしている。自らのしたことの結果を見守るため、この世界に残った松宮奈子の子孫として。
十万年前、魔法は世界を滅ぼした。四百年前、魔法は一人の少女から多くのものを奪った。だから。
だから魔法は消えてゆくのだ。今、魔法は失われるためだけに存在している。
「私……」
今になってやっと、ファージは自分の涙のわけを悟った。
幼い頃から最高の魔術師といわれ、そのためだけに生きてきた。魔法が全てだった。少なくとも、自分や、周囲の人間にとってファージの存在価値とは『魔術師』だったのだ。それが、根底から覆された。
それは悲しいのか……嬉しいのかも分からない、ただの喪失感。自分の価値を見失った、その奇妙な開放感に、涙があふれた。
「……私」
まだ、泣ける。
「私、どうしたらいい?」
自分で考えることができるとは思えなかった。あまりにも空虚だった。
ここにいればいい。
ナコはきっとそう言うだろう。そうわかっていても、聞いてしまった。
けれど、ナコは少し体を離して目を合わせるとくすっと笑った。
「ゆっくり考えればいいんだよ」
「え……?」
「今夜のところはここまで。もう、寝よ?」
ファージの体を抱きかかえたまま二人分の体をいっぺんに立ち上がらせる。
顔を合わせてにっと笑う。
(あ……)
それは。いつものナコだった。あの日以来見たことのなかった、生まれたときからずっと隣にあった笑みだった。
ナコはすでにドアノブをひねって、扉を引いていた。
しかし、何かを思い出したように振り返ると、まだ呆けているファージにすっと顔を寄せる。そしてゆっくりと、唇を摺り寄せた。……ファージの、柔らかい唇に。さらに抵抗ないのをいいことにたっぷりと時間をかけて。
やっと顔が離れて、くすっと笑われて。
「あっあっあっ、ああっ」
急激にかあっと赤くなる。透き通るように白いファージの肌が、ピンクから赤に染め上げられる。
「……今夜のところはここまで。かな?」
いたずらっぽい笑みを残して、ナコが扉の外に出る。
「こっ、『今夜のところは』って!?」
廊下に出てからも、ナコのくすくす笑いとファージの真っ赤にうつむいた表情は変わることはなかった。
それから数日たって。
ナコはいつも通り一人で道場にいた。ただいつもと違うのは、ぼんやりと座り込んでいることだけだ。
ファージは、声をかけるでもなくその隣に座り込む。
少し、胸がドキドキした。『アレ』以来、なかなかまともにナコと顔を合わせられない。赤くなる顔をそむけたままひとつ、大きく息を吸った。
「私ね、やっぱり旅には出る」
真正面を向いたままで、吐き出す呼吸と一緒に、言い放つ。
横顔に、すごく近いところからの視線を感じた。
「……そっ、か」
一瞬の間を置いてもれ出たつぶやきは、かすかに震えていた。
痛いほどの視線が、ふっと背けられる。
「そか。行っちゃうか……」
今度は明らかにそれとわかるくらいに震えた声に、ファージは気づかれないように微かな笑みをもらした。
はっ
短いため息に、さすがに耐え切れなくなって、くるっと振り返る。上目遣いにその表情を伺うと、潤んだままの目で、訝しげな表情を浮かべるナコがいた。
「……何?」
目に涙を滲ませているのに、まるで泣いてなんかいないよって表情をしてみせる。平気なふりをしてみせる。感情は素直に顔に出るのに意地っ張りで。こんなにバレバレなのに、私なんかいつまでもだませると思ってるところが憎たらしくて、……愛しい。
「でも、すぐに帰るから」
「え……?」
「ただ、見たいだけ。大陸中が、今いったいどうなってるのか。半年か、一年か。せいぜいそれくらいで帰る。だから」
ファージの顔が、恥ずかしそうにうっすらと赤く染まっていく。
そして、意を決したように小さく息をついて。
「一緒に、行こう?」
「……」
ナコは、ぽかん、とした表情で赤くなっているファージを見つめた。それから。
「は……はは」
思い出したように笑い出した。
「はっ……。な、んだ。じゃあ、ずっと……ずっと一緒にいられるんだ」
「ずっと、は……わかんないけど」
にじみ出る笑みをかみ殺して、ファージは顔をしかめて見せた。その表情を捕らえながら、もう、まつげで支えられる限界を超えた涙が一筋、ナコの頬を伝った。勢いよく、細いあごまで流れつく。
それを隠すでもなく、ごまかすでもなく、ナコはただファージを見つめていた。かわいた笑い声が、止まらない。それしか出来なかった。
愛しさが、涙になってあふれ出る。
ファージは目の前の従姉を・・・きれいだと思った。
自分たちの決心をナコの母に話したのは、何がきっかけだったか、夜中、みんなが寝静まってからだった。少し肌寒いリビングで、二人きり。
ナコと旅に出る。そう告げると彼女は少しうつむいてなにか物思いにふけっているようだった。やがて、顔を上げると微かに微笑んだ。
「ねえ、ファーリッジ。私ね。あなたの両親が『ファーリッジ』って名をあなたにつけたとき、正直ドキッとしたの。『ユイの手記』を読んだあなたなら……この理由わかってもらえると思うの」
「……はい」
おそらくファージの両親は強い魔術師としてしかファーリッジ・ルゥ・レイシャのことを認識していなかったのだろう。その生まれの秘密や数奇な運命や、残忍な性格を。
「でもあえて反対はしなかったの。その理由は、わかるかしら?」
目を輝かせて、少女のように微笑む。
先を促すようにファージに期待にみちた視線を注ぐ。
「最高の魔術師の名だから」
ためらいなく言いきったファージに、彼女はがっかりした顔をして見せた。
「ちがうわよ」
「え……。では?」
「ナコ・ウェルとファーリッジ・ルゥが最高の親友同士だったからよ」
「……え」
予想していなかった答えに言葉が詰まる。
「領主の長女と最高の魔術師なんて、女の子の人生にしてはちょっと辛いものだと思っていたの。だからね、そんな友達が近くにいたらいいだろうなって思ったのよ」
「ナコとユイにしようとは思わなかったのですか?」
気恥ずかしさをこらえて、いたずらっぽく聞いてみる。幸せな結末を望むのならその方がストレートではないだろうか?
「だってあなたの名はすでに決まっていたんだもの」
そういえばそうか。
「それに……」
そこで言葉を切ると、意味ありげな笑みを向けた。
「二人が『そう』なっちゃったら困るかな、って思ったし」
「そ、そそ『そう』って!!」
声が裏返った。思わず立ち上がってしまった。明らかにそれはナコとユイの『その』関係を言っている。
ファージのその真っ赤な顔を見上げて、おやっという顔をして見せた。
「あら? ……あらら」
口元に片手をあてて、いかにもおかしそうに笑う。
「そういえばファーリッジ・ルゥとナコ・ウェルもそんな関係にあったのよね」
「ち、ちがいますよっ!!」
拳を握り締めて叫ぶファージにとりあえず座るように促すと、体をずらしてその真正面に向き直る。
「ところで」
少し真面目な顔つき。
「ちゃんと結婚は考えているんでしょうね?」
「は……?」
無礼とは思いつつ、マジマジとその顔を覗き込んでしまう。マイカラスでは結婚相手の性別差は関係ない。が、それにしてもやはり普通のことではないし、ましてや同性同士で子供を作る魔法が失われた今、有力な家での結婚ではありえない。
「以前からあの子はマツミヤを継ぐには少し落ち着きがないと思っていたの。ファーリッジと一緒になってくれるのならこれ以上のことはないわ」
「あ、あの、おばさま……」
「そうとわかればさっそく式の手配をしないと。王宮にも届を出さないといけないわね」
「お、おばさまっ」
深夜であるにもかかわらず、今すぐにでも行動を起こしそうにな様子に慌てて、ぐっとその腕をつかむ。くるっと振り返ったのは、かつて見たことのないほど生き生きとした表情。
「なあに? ファーリッジ」
「あ、あの、私たち、そんなんじゃ……」
その勢いに気おされて思わず言いよどむ。
「……」
「おばさま?」
なぜか、少し怖い顔でぐっと近づいてくる。ファージは思わず逃げ出したくなった。
「ダメよ、ファーリッジ」
「……?」
「あなたも女の子なんだからね」
「はい……?」
「結婚を考えられない相手に体を許すものではないわ」
「……へ?」
からだ……?
からだあ!?
「私はあなたの母親代わり、ううん、母親だもの。これくらいのことは言わせてもらうわ」
ってもう、真剣な顔で何言ってるんだろう?
「お、おばさまあっ?」
「そりゃ、まあ、わかるわ」
ポッと顔を赤らめる。
「あの子のことだから、きっと強引に襲ったりしたんでしょう?」
(『でしょう?』ってそんな興味津々な目をしないでくださいっ)
「あ、あの、私たち、ほんっとーにそんなんじゃないですからっ」
「本当に?」
疑いのまなざし。
「そ、そりゃ、ナコのことは……多分、すごく……すごい好き、になっちゃったけど、ちょっとまあ、そういうことになっちゃってもいいかな〜、とか思ったりもしましたけど……あああああ、じゃなくってですねっ」
ファージは混乱しきった頭をぶんぶんと振る。
「ほんっとに違うんですっ」
「本当に?」
真剣なファージの言葉に、少し、表情が緩む。
「本当ですっ」
「本当に?」
「……っ」
……なぜ。
(なぜ、私の背後に聞くのですか、おばさま……)
おそらく自分の背後にいるであろう人物に、ファージはくらっとなった。
「残念ながら」
冷静なその声は、ファージの期待を裏切りはしなかった。……残酷なことに。
「こんな夜中に何の密談ですか? お母様」
かろうじて振り返ったファージの目に、母親ににっこりと笑いかけるナコの笑顔が映った。
「もうお休みの時間ですよ」
すっとファージの肩に手を置く。
それは……どうだろう。
この会話の流れからいって……。ちょっとまずくないか?
「……そうね」
案の定、じっとその手を見つめてから、ナコの母はぱっと顔を上げた。
「じゃ、行こうか。ファージ」
「い、『行こうか』ってどこへっ」
「そりゃあ部屋でしょう? アンタももう寝るんでしょ?」
アンタとおんなじ部屋じゃないよね、と確認するのも怖い。
ジト目で見上げるのがやっとだった。
「おやすみなさい、お母様」
「……おやすみなさい」
長い廊下のずっと向こうで、遠くなったナコの手がファージの腰に回されるのを見届けてから、くるっと背を向ける。
「明日はお赤飯炊かなきゃっ」
純粋無垢な少女のように、満面の笑みを浮かべて。
END
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