魅魔竜伝 ‐壱‐ 一章  月の明るい夜だった。  既に夜も更けて、森の中は虫の音と梟の声で満たされている。  人間が出歩くには、少々遅すぎる時刻だった。特に、この山道ではなおさらのこと。ここには他にはない危険が潜んでいる。地元の人間なら、それを知らないはずがない。  しかし。  どのような事情があるのだろう、二人の男女が月明かりだけを頼りに山道を歩いていた。  二人にさほど緊張感は見られない。特に男の方は、快活な笑みさえ浮かべている。  歳は二十代半ばくらい。旅の傭兵だろうか、厚い皮を何枚も張り合わせた胸当てを着け、長剣と戦弓を背に担いでいる。そのいずれも、狩猟よりは人間同士の戦闘に適した武器だった。  物騒な装備とは裏腹に、人懐っこい笑みを浮かべた顔はどこなく犬を思わせる愛嬌があった。単調な夜道で退屈しないためだろうか、盛んに隣の女に話しかけている。  女の方はもっと若い。まだ十代だろう。漆黒の髪を腰まで伸ばした美しい娘だった。  藪の多い山道を歩くにしてはひどく軽装で、肌の露出が多い。上半身は胸だけを衣で覆い、肩も腕も、腹さえも露わにしている。その下は二枚の長い布を腰のあたりで縫い合わせただけのもので、歩いていても長い脚が太腿まで見えてしまっている。  人前でこれほど肌を露わにする年頃の女性といえば、二通りしかいない。  春を売る者か。  素肌で精霊と触れ合うことが必要な、魔術に関わる者か。  女は美しく、魅惑的な肢体の持ち主だったが、後者であることは一目瞭然だった。その言動には男に媚びた様子はなく、独特の神秘的な空気をまとっている。腰の細帯に短剣を差しているが、柄や鞘に不可思議な文様が彫られたそれは、武器というよりも呪具の一種のように見えた。 「それにしても、いくら占者殿とはいえ、若い女性が不用心ではありませんか?」  男が言う。 「このあたりでは最近、夜になると魔物が人を襲うともっぱらの噂ですよ」  そう言う男こそ、魔物のことなどまるで気にも留めていないかのような軽い口調だ。 「ええ、その噂は麓の村で聞きました」  女が静かに応える。 「ですが、先を急ぐもので……。それに私の占いでは、今宵、この山で人が死ぬことはないと。きっと大丈夫です」  声も美しい。小鳥のさえずりのようだ。  しかし不自然に小さな声は、内心怯えているのを隠すためではないかと男は考えた。  若い娘のひとり旅。しかも魔物が出るという山道の夜。いくら呪いに通じていようとも、恐怖を感じないわけがない。  少し、安心させてやった方がいいだろうか。 「その占いはきっと、俺と出会うことを示していたんでしょう。こう見えても腕には自信がありますからね。並の魔物なら、そうそう遅れを取ることはありません」  腕を曲げて力こぶを作る。一見、痩せ気味に見える男だったが、しかしその腕は、野生の獣を思わせるしなやかで逞しい筋肉に覆われていた。  女は目を細め、微かな笑みを浮かべる。 「ええ……きっとそうですね。そう言っていただけると心強いですわ」  声が少し大きく、そして明るくなる。自分の占いに裏づけが得られて、いくらか安心したのだろう。  しかし、男は知っていた。  今夜、この山道で、一人の人間が死ぬことになっている。この美しい占者にとっては不幸なことだが、それは若い娘だ。だが、そのことは知らせない方がお互いのためだろう。 「万が一にも手強い相手だったら、俺が時間稼ぎをしている間にお逃げなさい」 「でも、それでは剣士様が……」 「男としては、美しい女性のために生命を捨てて戦うことこそ本望ですよ。それでこそ、剣の道を歩んだ甲斐があるというもの」  これ以上はない、というくらいの優しい笑みを向ける。大抵の娘なら、たちまち恋に落ちてしまうに違いない。 「まあ……お上手ですこと。きっと、会う女性みんなに同じことを仰っているのでしょうね」  口ではそう言っても、まんざらではなさそうだ。からかうような口調は、打ち解けてきた証とも受けとれる。 「ははは……まさか。俺だって生命は惜しいですからね。それでも生命と引き替えにしてもいいと思えるほどの女性でなければ、こんなこと軽々しく言えませんよ」 「それは光え……」  光栄ですわ、と言いかけた女が、急に小さな悲鳴を上げて手を押さえた。 「痛……っ!」 「どうしました?」 「……茨の棘に、指を引っかけてしまったみたい」 「それはいけませんね、お見せなさい」  女の前に跪いて、その手を取る。見ると、人差し指の先から滲み出た血が、小さな紅い珠になっていた。  そうするのが当然のような自然な動作で、男はその指を口に含んだ。血を舐め取り、軽く吸う。 「小さな傷でも、油断してはいけません。化膿したら一大事ですから」  舌先で、指を愛撫するかのようにくすぐる。女は黙って受け入れている。  それは男を信頼しているためではなく、その行為の心地よさに囚われているためだと、男は知っていた。  口の中に、血の味が広がる。 「占者殿、あなたの……」 「……私の血は、美味いだろう?」  男は下を向いていたので、女の表情の変化を見て取ることはできなかった。それでも声音の変化には敏感に反応した。  先刻までの打ち解けた雰囲気はない。夜風よりも冷たい声。  突然、甲高い声が夜の闇を裂いた。梟に襲われたムササビの叫びだ。  それが、合図となった。  女が指を引き抜くのと、男が大きく腕を振るのとが同時だった。  指先が、後ろに飛び退いた女の胸元をかすめる。 「ふん、もう正体を顕したか。下等なケダモノは化けの皮が剥がれるのも早いな」  先ほどまでとはまるで違う低い声で女は言った。冷たく、そして厳しい視線を向けている。  服の胸のあたりが裂けて、丸い膨らみが半分ほど覗いている。そこには紅い筋が刻まれて、血が滲んでいた。しかし意に介している様子はない。ただ、冷酷な瞳を相手に向けている。 「気づいていたのか。どうやら、ただの占者というわけではなさそうだ」  男の口調からも丁寧さが失われていた。口調どころか声そのものも変質している。重い、大型の獣の唸り声のようだ。  変わっているのは声だけではなかった。  男の姿が変化している。それは既に、人間の姿をしてはいなかった。  体毛が濃くなり、口はあり得ないほどに大きく裂け、鋭い牙が覗いている。体格自体、ひとまわり大きくなっていた。  月明かりの下で、瞳が爛々と輝いている。  その姿はまるで、二足歩行する巨大な狼だ。  もちろん普通の狼であるはずがなく、人間でもない。  それは、闇に属する存在。  魔物、だった。 「小娘が、いっぱしの魔術師を気どって俺を狩りに来たか? 身の程知らずもいいところだなぁ」  大きな声が樹々の梢を震わせる。 「だが、かなりの上玉だ。身体も、そしてなによりその血も。人間の女は大好物だ。犯して、喰って、二度楽しめる」  いやらしい、下卑た笑いだった。裂けた口からは涎を垂れ流し、節くれだった古木のような性器を勃起させている。  魔物にとって、目の前にいるのはただの「獲物」だった。多少魔術をかじったところで所詮は人間の娘、無力なことに変わりはない。手脚をへし折って身動きできなくしてから、ゆっくりと楽しめばいい。 「本当に旨そうな匂いをさせているなぁ。安心しろ、すぐには殺しゃしねぇよ。その血を一滴残らず啜り終わるまではな」  魔物はまったく躊躇しなかった。これほどの極上の血を前にして、我慢できるわけがない。すぐにも襲いかかろうとする。  しかし―― 「お前には、できない」  抑揚のない低い声で女が言った。  一歩、二歩。この恐ろしい姿に臆する様子もなく、自ら近づいてくる。  そこでようやく、魔物は異変に気づいた。  身体が動かない。  今の声を聞いた瞬間から、腕も、脚も、まるでいうことをきかなくなっていた。身体中の筋肉がその主の意志に反して、動くことを拒否している。 「な……なんだっ? なんだよ、これはっ!?」 「お前、私の血を口にしたろう?」  女は魔物の顔を間近から覗き込んで言った。その瞳が紅い血の色をしていることに、魔物はいま初めて気がついた。  いや、そんなはずはない。つい先刻まで、普通の黒い瞳だった。こんな色、人間の瞳ではない。目にしていればすぐに気づいたはずだ。  普通ではないといえば、この能力もそうだ。  彼の動きを封じているのがこの娘の力だとしたら、それは人間のものではあり得ない。人間が操るささやかな魔術など、彼ほどの力を持つ魔物であれば、なんら驚異にはならないはずなのだ。  そこでふと、思い出した。  今、この小娘はなんと言った? 『私の血を口にしたろう?』  ――と。 「血……血だと? まさか……まさかっ!」  雲が、月を隠した。  光をほとんど必要としない魔物の視力でも、女の輪郭が闇に紛れてぼやける。それでも、瞳がうっすらと紅い光を放っているのだけははっきりと見てとれた。彼ら魔物の瞳が、闇の中で金色に輝くのと同じように。  恐怖、だろうか。  生まれて初めて感じるその感覚を表す言葉を、魔物は知らなかった。  何故。  こんな、小娘相手に。  人間など、単なる喰い物でしかないはずではないか。たとえ魔物同士であっても、彼より強い力を持つ者などそう多くはないのだ。  では、この娘は何者なのだろう。  ただの、美しい人間の小娘ではない。  しかし魔物でもない。それは気配でわかる。  そうだ。ずいぶん昔に、噂話を聞いたような気がする。いったいどんな内容だったろうか。  残念ながら、ゆっくりと思い出している時間はなかった。  女が腰の短剣を抜く。それは一見、人間や小型の獣相手ならともかく、人にあらざるものと戦うにはあまりにも心許ない小さな刃に思われた。  しかし、指一本動かすことのできない今の彼にとっては、それが女の懐刀だろうと、長大な騎兵槍だろうと、もたらされる結果に大差はない。  月が隠れた闇の中、紅い瞳の女がこちらを見つめている。  薄ら笑いを浮かべて。  彼を殺すための刃を手にして。  人差し指の先を、刃に滑らせる。銀色の刃の上に、微かな紅い筋が残る。ただそれだけのことで、小さな刃は致命的な威力を持つ武器に変わっていた。  刃が発する『力』を感じる。皮膚を刺すほどに。  動けなくなった分、感覚が鋭くなっているのだろうか。 「……?」  鋭敏になった感覚が、この場に近づいてくる第三の存在にを察知した。  物音はなにもしない。人間であれば、気配すら感じないだろう。それでも確かに、なにかが近づいてくる。  尋常ではない、なにかが。  小さな金色の光がふたつ、女の背後に現れる。  闇に輝く瞳。獣ではない。ちょうど、小柄な人間の顔に相当するその高さは、四つ足の獣にしては高すぎる。  魔物、だ。  紛れもなく、魔物の瞳だった。  生まれて初めて感じる恐怖に震えていた魔物は、内心ほくそ笑んだ。  なんという幸運だろう。  あの魔物は、女の血に惹かれて来たのだろう。なにしろ、これまで一度も出会ったことのないほどの極上の血だ。甘い濃密な香りが周囲に満ちている。  人間はもちろん、肉食の獣でも感じない芳香。しかし闇に属するもの、人を喰う魔物にとっては、蜜よりも甘い香りだ。  背後に迫る存在に、女はまるで気づいていない。当然だ。気配を消して忍び寄る魔物を、人間が察知することなどできるはずがない。  危機は脱した。せっかくの極上の獲物を奪われるのは少々癪だったが、背に腹は替えられない。生命が助かるだけよしとしよう。うまくいけば、少しは分け前にありつくこともできるかもしれない。 「……なにを笑っている?」  考えていることが顔に出ていたのだろうか、女が不審げに訊く。魔物の表情を読み取るなど、人間にしてはずいぶん鋭い。  だが、もう遅い。  新手の魔物は女のすぐ後ろに迫っている。  黄金色の髪に黄金色の瞳を持つ、若い娘の姿をした魔物だ。見た目は人間の娘よりもさらに若いが、仮にも闇の眷属、人間の不意をついて返り討ちに遭うこともあるまい。  女の背後で魔物が両腕を広げる。雲の切れ間から射し込む月光を浴びて、長い爪が光る。一瞬後にはあの爪が、女の柔肌を切り刻むだろう。  そう思った。  ところが―― 「やっと見つけたぁ! カムィってばひどいよー。あたしのことおいてくなんて!」  魔物は、女を背後から抱きすくめた。腕は身体に回されているが、人間など簡単に切り刻むことのできる爪は、その肌に突き立てられてはいない。女の、豊かな乳房を優しく包み込んでいる。 「もー、すっごい探したんだからぁ」  嬉しそうに、背中に顔を擦りつけている。飼い主の脚にまとわりつく仔犬のように。母親に甘える幼子のように。  いったい、なんの冗談だろう?  眼前で繰り広げられる光景が理解できず、魔物はただ呆気にとられていた。  背後から抱きすくめられている女は、こめかみに青筋を浮かべ、肩を小さく震わせている。顔色ひとつ変えずに彼を追いつめていた女が、やや狼狽えているようにも見えた。 「……離せ」  冷たい口調を装ってはいるが、声も微かに震えている。動揺を隠しているのか、それとも爆発しそうな怒りを抑えているのか。 「なに、あれ?」  女に甘えていた魔物は、その時初めて彼の存在に気づいたような表情で、黄金色の瞳をこちら向けた。動きを封じられて青ざめている同族を、不思議そうに見つめる。 「お前の獲物。……だから離せ」 「えー?」  小柄な魔物は不満げに唇をとがらせると、不承不承といった体で女を放した。  一歩、彼に近づいてくる。 「あんまり嬉しくないなぁ。不味そう。しかも牡だし……」  つまらなそうに言いながら、無造作に腕を突き出してくる。  なにが起こったのか理解する間もなく、鋭い爪が彼の胸を貫いた。人間なら槍で貫くことさえ困難な魔物の皮膚を、いとも簡単に、紙のように突き破っている。 「……な……、きさ……ま、人間に……味方……?」  口にできたのはそこまでだった。力尽きた魔物がどうと倒れる。  黄金色の髪の魔物は、自分が殺した相手をもう見てもいない。その手の中に、剔り取った心臓があった。まだ生命の痕跡を残して小刻みに蠢いている。 「……やっぱり美味しくないなぁ」  それをまるで林檎かなにかのようにひと囓りすると、顔をしかめてぺっと吐き出す。残りを放り捨てて、その存在はきれいさっぱり忘れてしまった。 「やっぱり、頭悪い奴はまずくてだめだね。人間の味方? 違うよ、あたしはカムィに味方してるだけ。ね、カムィ?」  にこやかに、人間の女を振り返る。しかしカムィと呼ばれた娘は、対称的に、不機嫌そうな顔でそっぽを向いていた。 「味方? お前ははただの下僕だろう。立場をわきまえろ、カンナ」 「ちぇ、つれないんだからぁ」  カンナと呼ばれた魔物の娘は、不服そうに唇をとがらせて、まだなにやらぶつぶつと文句を言っている。  カムィはそれを無視して、心臓を剔り取られた魔物の死体を調べ始めた。  傍らに落ちていた、魔物が持っていた剣が目にとまった。しっかりとした造りの戦士用の剣は、本来、魔物が必要とするものではない。恐らくは自分が殺した人間の持ち物を、人間の剣士を装うために持っていたのだろう。  柄に彫られた紋章に見覚えがあった。少し考えて、その剣は持っていくことにした。  他にめぼしいものはない。  事切れている魔物も、ぶつぶつ文句を言っているカンナも無視して、夜の山道を歩き出す。 「あーん、待ってよカムィー」  カンナが慌てて後を追ってくる。  仔犬のように。姉に甘える妹のように。  しかし実際には人間と魔物。あり得ないはずの光景だった。他人が見たら我が目を疑うところだろう。 「ねぇねぇ、カムィってば!」  すがりついてくるカンナを無視して、ずんずんと歩いていく。 「ねー、カムィ、ごほーびは?」 「……なんだ、それは」  執拗に腕を引っ張られて、仕方なくカムィは脚を止めた。こうなっては無視しても埒があかない。 「先刻の不味い奴をやっつけたご褒美、もらってないよ?」 「催促できる立場か? 少しはわきまえろ」  毎回恒例の要求を、冷たく突き放す。 「えー? ずるいずるい、ただ働きなんてひどいよー! 人間が飼う猟犬だって、鷹だって、川鵜だって、仕事したらご褒美もらえるんでしょ?」  無視しようと耳を塞いでそっぽを向いていたカムィだったが、カンナのしつこさに負けて、ちらりと視線を向けてしまう。  まるでお腹を空かせた仔犬のような表情で、縋るように、上目遣いに瞳を潤ませている。  相手が魔物であることも忘れ、思わずほだされそうになる。この目には弱い。  いやいや、ここで甘やかしてはいけない。  とはいえ…… 『おなか空いたの……』  大きな黄金色の瞳が、そう訴えている。  指をくわえて、こちらを見上げている。  カムィは肩をすくめて、小さく溜息をついた。  こうなってしまったカンナは、餌にありつかない限りてこでも動かない。  仕方がない。  いつまでも放っておくわけにもいかない。永遠に無視し続けることはできないのだから。  魔物を支配するには、それなりの代償が必要だ。相手も生き物である以上、餌は与えなければならない。  そう、自分に言い聞かせる。  指先に爪を立てる。先刻、短剣で浅く斬ったところに。  塞がりかけていた傷から、新たな血が滲んでくる。  その指を、カンナの前に突き出した。  すぐに飛びついてくるものと思った。魔物にとって、カムィの血は甘露にも等しい。  なのに。  カンナはなぜか不満そうに、上目遣いにこちらを見ていた。 「……なんだ?」 「あたし、こっちがいい」  いきなり抱きついてくる。人間の反射神経を超えるその素速さに、かわすこともできずに抱きしめられてしまう。 「やめ……っ、カン……ナ!」  拒もうとした。  抗おうとした。  しかし相手は魔物。小柄な少女の姿であっても、その力は人間とは桁違いだ。  腕を掴まれると、カムィの力では振りほどくことができない。 「ちょっと遅かったね、カムィ?」  カンナが楽しそうに笑みを浮かべる。  両腕を掴まれる。魔物の爪で斬られた胸の傷に、唇が押しつけられる。  完全には塞がっていなかった傷から滲み出る血を、長い舌が舐めとっていく。  舌先が触れたその瞬間、全身が痺れていた。  腕から、脚から、力が抜けていく。  甘すぎる快楽に、意識がとろけそうになる。  地面にへたり込んだカムィを、カンナが押し倒す。 「あ……ぁ……」  抑えようとしても、甘い吐息が漏れてしまう。  この快楽に、身を任せてしまいたくなる。  だけど、それではいけない。  闇雲に動かした手に、硬いものが触れる。  それが、先ほどの剣の鞘だと気がついた。  硬い、無機質の感触に、少しだけ理性を取り戻す。  ぎゅっと唇を噛んで、意識をはっきりさせる。 「やめ、ろ……と言ってるだろう!」  言葉に力を乗せて。  両腕に力を込めて。  ずしりと重い長剣の柄を、カンナの頭に力いっぱい叩きつけた。 二章 「この度は本当に、なんとお礼を申し上げてよいものやら」  初老の男性が、深々と頭を下げた。しかしその表情には未だ影がある。  無理もない。あの魔物による犠牲者の中には、彼の一人息子も含まれていたのだから。  魔物を始末した翌朝、カムィは麓の村にいた。魔物退治を依頼された村長に、事の顛末を報告するためだ。  村長は、カムィが持ち帰った剣を握りしめている。見覚えのある紋章と思った通り、それは彼の息子の持ち物だった。  目の端に涙が滲んでいる。ここまで、息子を亡くしたばかりの親にしては気丈な態度を貫いていたが、形見の品を手にして堪えきれなくなったのだろう。  カムィは無言で報酬の後金を受け取った。金のために魔物狩りをしているわけではないが、生活の糧は必要だ。 「そういえば、お連れの方は? 怪我をなさっていたようですし、入って休んでいただいた方がよろしいのでは?」  涙を隠すように、村長が話題を変える。  この場にいるのは村長とカムィの二人だけで、カンナの姿はない。外で待たせてある。 「いえ、あいつはかすり傷ですから。お気遣いなく」  慌てて首を振る。  村長はもちろん知らないことだが、あんな外見でも魔物だ。少しくらいの怪我など一日と経たずに治ってしまう。そもそもカンナの傷はカムィがつけたものだ。  この二、三日、カンナに対する抑えが効きにくくなっている。その理由に心当たりがあるだけに、今はできるだけ側に近づけたくなかった。 「それにしても……これまで誰も倒すことの叶わなかった魔物を、わずか一晩で倒してしまうとは驚きですな。それも、あなたのような美しい娘さんが……」  心底感心したようなその態度は、決して社交辞令ではなく本心からのようだ。当然といえば当然だった。あの魔物には、この村だけでも十人以上が犠牲となっているのだから。 「魅魔……といいましたかな。いったいどのような術なので?」  これまで、幾度となく繰り返された問い。  そしてまた、同じ数だけ繰り返してきた答えを返す。 「それを知ったところで、どうにもなりません。死んだ者が還ってくるわけではないのですから。この力は、人が学ぶことのできる類のものではないのです」  意図せず、ややぶっきらぼうな口調になった。自分の問いが相手の機嫌を損ねたことを察したのか、村長が気まずそうな顔をする。これ以上長居する理由もないので、カムィは早々に村長の家を辞した。  自分の力について、詮索されるのは好きではない。  魔物を狩るために必要なものではあっても、カムィ自身、その力を持て余すことがある。  魅魔の力。  それは、カムィの血に宿るもの。  遠い昔から、一族に受け継がれてきたもの。  人間は遠い昔から、魔物に怯えて暮らしてきた。  魔物――闇に属する生物。  人に擬態し、人を喰らう存在。  人間にとっての天敵。  人間は、一方的に狩られる存在。  そんな人間に与えられた、たったひとつの力。  それが、魅魔の血だ。  この血は魔物を魅了し、惹き寄せる。そして一滴でも魔物の体内に入れば、その身を思うままに操ることができる。  血を口にしてしまえば、魔物は魅魔師の言葉に抗うことはできない。たとえ己の死を命じられたとしても、だ。  それが、魅魔の力。  ほんの一握りの人間だけに与えられた力。  魔物に怯えて暮らす人間たちの、たったひとつの希望。  最強の魔物すら操ることのできる力。 「……そういえば、あの馬鹿はどこへ行ったんだ?」  カンナの姿がない。家の前で待っているように言っておいたのだが。  なにしろ飽きっぽい性格だ。暇を持て余して村内をうろついているのだろう。  やはり、ただ口で言っただけではこんなものだろうか。かといって、この程度のことに魅魔の力を使うのも馬鹿馬鹿しい。『力』を行使するためには、少なからぬ精神集中を必要とする。  いちいち癇に障る奴だ。余計な手間ばかりかけさせる。  ただでさえ今日は機嫌がよくないというのに。  カムィは少し前から、腹痛に悩まされていた。  下腹部に響く、断続的な痛み。身体の奥深くで生じる痛みは、皮膚や筋肉の外的な痛みと違って、意志の力で無視することが難しい。毎月のこととはいえ、いつになっても慣れることができない。 「……くそっ」  忌々しげに唾を吐いて、あてもなく歩いていく。  それほど大きな村でもないし、カンナは目立つ外見だ。適当に歩いていればすぐに見つかるだろう。  ――と。 「うわぁ、なにこれ、きれいな髪。まるで砂糖菓子みたい!」  歩き出してすぐに、女の子の弾んだ声が耳に飛び込んできた。  視線を向けると、広場の片隅に二人の少女の姿がある。  片方はカンナだ。その明るい色の髪は、遠目にも間違えようはない。  もう一人は村の娘だろう。十代半ばから後半、カムィと同じくらいの年齢だろうか。楽しそうにカンナに話しかけている。 「ね、触ってみてもいい?」  カンナがうなずくと、少女は興味深げに髪に手を伸ばしてくる。  当然のことだが、今のカンナは正体を隠している。髪の色も、魔物の証である本来の黄金色ではない。光の加減によっては金色にも見える、明るい栗色だ。  人間にもあり得ない色ではないが、この地方の人間は、黒に近い濃い茶色の髪を持っている。カンナのような明るい色も、カムィのような漆黒の髪も珍しい。 「柔らかーい、ふわふわ。まるで子猫みたい」 「お姉ちゃんも、柔らかそうだね」  にぃっと笑うカンナ。その瞳が一瞬だけ濃い金色に輝いたのをカムィは見逃さなかった。  眉をひそめる。  あれは魔性の瞳。魔物としての力を行使した証だ。 (あの、馬鹿……)  娘の様子に変化が現れていた。  目の焦点が合わなくなる。  カンナの髪を撫でていた手が止まる。  逆に、カンナが手を伸ばす。娘の頬に触れ、首の後ろに手を回し、ゆっくりと抱き寄せる。  娘は逆らわなかった。うっとりと夢みるようなその表情は、まるで愛しい恋人に触れられ、愛撫されているかのようだ。  カンナは、唇を娘の細い首に押しつけた。小さく開かれた口から鋭い牙が覗く。首筋に牙を突き立てる。  娘は身体を小さく震わせ、甘い吐息を漏らした。  痛みがないわけではない。しかし、その痛みさえ快楽なのだ。幾度となく経験しているカムィはよく知っている。  やめさせるべきだろうか。  放っておいても、娘の生命や健康に問題はない。今のカンナは魅魔の血の支配下にある。人間に危害を加えてはいけない――カムィによるその命令はもっとも基本的なものであり、血の効力がある間は、決して背くことはできないのだ。  あの行為は「危害」というほどのものではない。痛みは虻に刺された程度でしかないし、流す血の量もごくわずかで、傷はすぐに消える。  引き替えに得られる快楽を思えば、あの娘にとっては損な取引ではない。それどころか、事情を知ればむしろ喜んでその身を差し出すかもしれない。  最近は、あの程度の「つまみ食い」は黙認することにしていた。食欲旺盛なカンナのこと、いちいち咎めていてはきりがないというのが正直なところだ。  それでも、あまりいい気はしない。はっきり言えば不愉快だ。あの行為を目にすることで、カンナが魔物であることを思い知らされてしまう。  くそっ  くそっ  何度も何度も、心の中で毒づく。  美味しそうに、愛おしそうに、娘の血を舐めているカンナ。  不愉快だ。癇に障る。  くそっ  くそっ  どうして、こんなにも不愉快なのだろう。  あんなのはいつものことなのに、今日に限って。  この、下腹の鈍い痛みのせいだろうか。  ずきん、ずきん。  耐え難いというほどではないが、無視することもできない痛み。  今朝からずっと続いている。 「カンナ! いつまで遊んでる、行くぞ!」  放っておいてもすぐに終わる。それがわかっているのに、途中でやめさせてしまう。  カンナは不満げではあったが、名残惜しそうにしつつもついてくる。  後には、夢見るような表情の娘だけが残されていた。 三章  村を後にしたカムィは、山道へと入った。  陽のあるうちに峠を越えて、次の村に着いておきたい。  腹が痛い。身体が怠い。それでも道を急がなければならない。 「ねー、カムィ、カムィってば!」  軽い足取りでついてくるカンナが癇に障る。 「ねー、なにか怒ってる?」 「別に」  素っ気なく応える。そんな短い返事をすることすら億劫だった。 「怒ってなどいない。いつも通りだろう。お前に愛想よくする理由があるか? 私はもともと魔物が嫌いだ」  その言葉は事実ではあったが、多少の誇張も含まれていた。最近では、よほど怒らせるようなことでもない限り、カンナにここまで冷たく当たることはなかった。 「もぉ! どーしてそう冷たいかなぁ」  拗ねる子供のように、ぷうっと頬を膨らませる。そんなカンナを無視して脚を進める。  いらいらする。  断続的に続く鈍い痛み。身体の奥深く、まるで内蔵を締めつけられるようだ。 (ああ……そうか)  今さらのように、無性に腹が立つ理由に思い当たった。この痛み自体が直接的な原因ではない。  痛みとともに、血が流れていくこと。  それが許し難いのだ。  こんな風に流れるべき血ではないのに。  もっと大切なことに使わなければならない血なのに。  仕方のないことではある。  女である以上は避けることのできない、月に一度の宿命。  貴重な魅魔の血が、無駄に流れていく。  その事に我慢がならない。 「……ん?」  突然、カンナが脚を止める。  軽く上を向いて、犬のように鼻をひくつかせる。 「どうした?」 「血の……匂いがする」 「……け、獣の死体でもあるんだろう」  内心の狼狽を隠し、適当に誤魔化そうとする。しかしカンナは納得しない。 「えー、違うよ。そんなんじゃない! もっと美味しそうな、あまぁい匂い。これって……」  急に表情が変わる。ふっと納得顔になると、悪戯な笑みをカムィに向けた。  目を大きく見開く。  瞳の色が濃くなる。 「そっかぁ……そうなんだ、カムィ?」  真っ直ぐに向けられる瞳。  正面から見てしまった。  しまった、と思った時には手遅れだった。 「カムィも、人間の『女』だもんね。あたしと出会ってそろそろ一ヶ月……そーゆーこと?」  光を放っているのではないかと思うくらいに、鮮やかな黄金色の瞳。鋭い視線が、真っ直ぐにカムィを貫いている。  まともに喰らってしまった。  カンナの――魔物の、力。  多くの魔物は、人間を魅了する力を持つ。彼らは人間を力ずくで襲ったりはしない。その瞳を向けられた人間は抗うことができなくなり、自ら進んでその身を差し出すようになるのだ。  それは、魅魔の力を持つカムィであっても例外ではない。年頃の娘は、魅了の力にもっとも反応しやすくもある。しかも相手は、魔物の中でも特に強い力を持つカンナである。 「う……ぁ……」  全身を打たれたような衝撃。脚から力が抜け、その場にくずおれる。  熱い。  燃えるように熱い。  身体の芯が火照っている。脚が、腕が、痺れてしまって立ち上がることができない。  見てはいけない。わかっているはずなのに、カンナの瞳から視線を外せない。  嬉しそうに、楽しそうに、カンナが覆い被さってくる。胸を掴まれる。 「あっ……やぁぁっ」  軽く触れられただけで、思いもしない甘い声が漏れた。  触れられた部分が、痛いほどに熱い。  服が脱がされていく。  肌に指先が触れる度に、短い悲鳴が上がった。  抗うことができない。身体が思うように動かない。意味のある言葉を発することができない。  いつしか、身につけていたものをすべて剥ぎ取られていた。一糸まとわぬ姿で、下半身まで露わにされてしまっている。今もっとも見られたくない部分まで、カンナの眼前に曝されていた。 「あーあ、こんなに血を流しちゃって、もったいなーい」 「ひっ……!」  指が、紅く濡れた内腿を滑っていく。 「ゃ……ぁ、いや……ぁ、やぁっ!」 「うそつき」  経血で紅く染まった指を舐めながら、カンナが笑う。 「あまぁい、蜜よりも甘い匂い。これって、カムィが欲しがってる時の匂いなんだよ?」 「ぅ……っ」  認めない。認めたくない。  精一杯の理性を総動員して睨みつける。しかしカンナは怯む様子もなく、にやにやと笑っている。 「怖い顔したって、だぁーめ。ちゃーんとわかってる」 「っ……あぁっ、んっ!」  腹に唇が押しつけられる。全身に鳥肌が立つ。  舌先で肌をくすぐりながら、下へ滑っていく唇。  身体が仰け反る。筋肉が痙攣して、呼吸をするのも苦しい。 「ほぉら、いつもよりずっと敏感になってる」 「あ……、や……め……んっ、くっ……んっ」  淡い茂みに口づけし、さらに下へと移動していくカンナ。  そこは…… 「やぁ……だ、あっ、い……ゃあっ! だめっ、や……っ!」  そこは普段でさえ、一番隠したい部分。こんな時であればなおさらだ。  ただ見られることさえ苦痛なのに、そこを舐められ、あまつさえ経血を啜られるだなんて―― 「や……ぁっ、ひっ……ぃんっ、あ……」  しかも―― 「っ……うぅっ……くっ、……あっ」  それが―― 「は……あぁっ、あ……ぁ……」  こんなにも、気持ちいいなんて―― 「あぁっ、あぁ――っ」  これ以上の屈辱はない。  なのに、肉体は悦んでいる。与えられる快楽に酔いしれている。  カンナの長い舌が、中に入ってくる。  深く、深く。  子宮から流れ出る血を一滴残らず啜ろうとしている。  体内で蠢く舌に誘われるように、新たな血が滲み出てくる。 「ねー、気持ちいいっしょ? すっごく濡れてるの。カムィの血と蜜が混じって、もう最っ高に美味しい!」  カンナは心底嬉しそうだ。幸せそうに笑う口の周りが、べっとりと紅く汚れている。長い舌を伸ばしては、それを舐め取っている。  それは……  それはまるで……  あの、生涯最大の屈辱の日の光景を再現しているような。 「……っ!」  頭よりも先に、身体が勝手に反応していた。気がついた時には、カンナの顔を力いっぱい殴っていた。  「いったぁーいっ! なにすん……の……」  赤くなった頬を押さえて大きな声を上げるカンナ。しかしその声は急速に小さくなり、怯えた表情に変化していく。 「……か……カム……ィ?」  カムィの表情が尋常ではない。  怒り。  憤り。  普段からカンナに対しては怒りっぽいカムィだったが、この形相はただごとではない。 「……に…も…っ」  カムィは怒りに身体を震わせていた。怒りのあまり、なかなか言葉が出てこない。 「あ、あの……カムィ?」  表情を引きつらせ、じりじりと後退ろうとしたカンナは、鋭い眼光に射抜かれて動きを止めた。 「……卑汚いにも程がある……っ! よくも……」  身体を起こしたカムィは、怒りで自分が全裸であることさえ忘れているのか、身体を隠そうともしない。  ただ、憤怒の形相でカンナを睨めつけている。  許せることではない。  見過ごせるはずがない。  魅魔師という以前に、女として、年頃の娘として。 「よくも……よくも……っ、赤不浄……のっ」  ただ魔物に犯されることだって、受け入れられるものではないというのに、汚れの血を直に舐められるだなんて。  怒りの圧力で、身体が破裂してしまいそうだ。  大きく深呼吸。しかし、そんなことで落ち着けるはずもない。  傍らに、脱がされた服が落ちていた。手を伸ばす。指先が愛用の短剣に触れると同時に、それを掴んで投げつけた。 「ひ……っ」  狙いはわずかに外れ、カンナの頬をかすめた短剣は、背後の樹の幹に深々と突き刺さった。怒りで手元が狂わなければ、刃はカンナの顔を貫いていたことだろう。  さすがにカンナも冷や汗を流している。地上で最強の魔物の眷属とはいえ、カムィは自分を殺す力を持った、数少ない人間なのだ。 「か、カムィ、落ちついて……あ、いや、やっぱり落ち着かないで!」  慌てて言い直す。  普段は一、二滴しか与えられることのないカムィの血。しかし今日は本能のままに、欲望のままに、たらふく貪ってしまった。  これだけの量の魅魔の血は、カンナにとって、魔物にとって、ある意味致命的ですらある。  カムィが冷静に意識を集中して『力』を行使したなら――  たとえ自身の死を命じられたとしても、カンナはその言葉に抗うことはできない。怒りにまかせて短剣を投げつけてくるくらいの方がまだ安全だ。少なくとも即死することだけはない。  魅魔の力なら、一言「死ね」と命じられるだけですべてが終わるのだ。ただそれだけで魔物の肉体は死滅する。  カムィが何故これほどまでに怒っているのか、人間ではないカンナには理解できなかった。それでも、普段から怒りっぽいカムィがいつになく烈しい怒りに昂っていることと、その原因が自分の先刻の行為にあるらしいことはわかる。  これほど烈しい怒りは、初めて出会った時以来だ。あの時は本当に殺されると思った。  生まれて初めて、死の恐怖に身を震わせた記憶。  あんな思いは二度とごめんだ。  狂犬を思わせる、正気を失った眼差し。  このままではいけない。なんとかなだめなければ生命に関わる。 「カ、カムィ……、ね?」 「……くそっ!」  深く息を吸い込む。  視線を真っ直ぐにカンナへと向ける。  瞳が紅く染まっていた。ごく一部の魅魔師だけが持つ、深紅の瞳。  それは『力』の証。 「……カンナ!」  名前を呼ばれる。  瞬間、カンナは魅魔の力に捕らえられていた。闇の眷属である以上、決して抗うことのできない絶対的な力に。  殺される――カンナはそう確信する。  殺してやる――カムィもそう思っていた。  簡単なことだ。あれだけの量の血を口にしたのだ。  たったひとつの言霊ですべてが終わる。  たった一言、「死ね」と。  そのつもりだった。  しかし。 「……立ち去れ」  口から発せられたのは、カムィが望んでいたのとは違う言葉だった。  いったい、誰の声だ?  声は、間違いなく自分のものだった。  なのに、何故?  何故、思っていたのと違う言葉を口にしてしまったのだろう。  この卑汚い魔物を、始末するつもりではなかったのか。  戸惑いつつも、唇は動き続ける。自分の中に別な自分がいるかのように、生ぬるい言葉を紡いでいく。 「立ち去れ! 二度と私に近づくな!」  操り人形のように、ぎこちない動きで立ち上がるカンナ。カムィの言葉は絶対だ。 「……な……なんでぇ」  その場に留まろうとする意志に反して、一歩、二歩、足が勝手に後退る。背中に光が生まれる。一瞬後、それは大きく広がって、竜の翼の形になった。  カンナの身体が宙に浮かぶ。  どんなに抵抗しようとしても、魅魔の血に支配された肉体は、その主の意志を無視する。 「……カ、カムィが美味しそうな匂いさせてるのが悪いんじゃないか! ばかぁっ、けち――っ!」  たったひとつだけ自由になる口で叫ぶ。その間にも翼はゆっくりと羽ばたき、高度を上げていく。 「……っ」  憎まれ口に、カムィは眉間にしわを寄せる。 「……うるさい、消えろ」 「……っ? わぁぁ――っ!」  大空へ舞い上がる雲雀のように、カンナは一気に速度を上げて飛び去っていった。もちろん、自分の意志ではない。  その姿が視界から消えたところで、カムィは身体から力を抜いた。  本来、立ち上がれるような状態ではなかった。魔物に魅了され、犯され、人が耐えうる限界を超えた快楽を一方的に押しつけられていたのだ。腰が抜けてしまっている。  それを、怒りの精神力でなんとか支えていた。  脚から力が抜け、その場に座り込む。  高熱に冒されたような脱力感。  肉体の限界だ。座っていることさえ辛い。 「けち……だと? 勝手な…………」  倒れるように、草の上にその身を横たえる。 「……やはり、あの時に殺しておけばよかった」  まぶたが重い。  体力も精神力も使い果たしたカムィは、そのまま眠りに落ちていく。  そして――夢を見た。 四章  カンナと出会ったのは、ちょうど一月ほど前のことだった。  月に一度の忌まわしい出血と腹痛から解放された直後、とある山村で、人を襲っている魔物の噂を耳にした。  誰かに依頼されたわけではない。  カムィにとって、すべての魔物は敵であり、狩るべき獲物だった。たとえ依頼がなくとも、報酬がなくとも、人を襲う魔物の噂を聞けばその地へ赴いた。  それは、魅魔師としては異色の行動といえた。魅魔師は古より、人間に対して必要以上に害をなす魔物のみを狩るものだった。不用心な人間が独りで山道を歩いて襲われたからといって、いちいち相手になどしない。  それが、遠い昔からの慣習だった。冷たいことかもしれないが、愚か者のために働くほど、魅魔の力を持つ者が多くないのが現実だ。  カムィだけが例外だった。まったく見境なしに、見つけた魔物はすべて狩ってきた。  しかしカムィは、襲われた人間や、その遺族のために魔物を狩っているわけではない。  あくまでも自分のため。自分が魔物を憎んでいるから。  それだけの理由で、その山を訪れた。  人間の集落にほど近い、小さな山。  最近その周辺で、若い娘が数人、行方知れずになっているという。  魔物の仕業であることはまず間違いない。狼や羆の仕業であれば、普通はそれとわかる痕跡が残る。なんの痕跡も残さずに人ひとりが忽然と消えることなどあり得ない。  しかし今のところ、誰も魔物の存在を確認した者はいないらしい。どこに潜んでいるのか、正体はなんなのか、一切が不明だ。  それでも気に留めなかった。  力の強い魔物ほど、正体を隠している時には人間と区別のつかない姿をとる。それでも魅魔の力を持つカムィであれば、どれほど完璧に擬態していたとしても、魔物は気配でわかる。  ……はずだった。  神経を研ぎ澄まし、魔物を捜して山道を歩いてみたが、予想していた以上に気配が薄い。  二流の魅魔師や魔剣士であれば、既に魔物はこの地を去ったと思ったことだろう。僅かな気配は、魔物の『残り香』でしかない――と。  しかし、そうではない。カムィにはわかる。  確かに魔物はこの山中にいる。ただ、普通では考えられないくらい巧みに気配を消しているだけなのだ。  焦る必要はなかった。付近に魔物がいることさえわかっていれば、いずれは狩りだせる。時間の問題でしかない。いざとなれば、自分の血で誘い出したっていい。余計な雑魚まで誘き寄せてしまうので、これは最後の手段だったが。  とりあえず、暗くなる前に周辺の地形を把握しておこう。そう思って歩いていたカムィは、途中、木の実を集めている少女を見つけた。  活発そうな大きな瞳。明るい色の髪。カムィより三、四歳年下と思われる、可愛らしい子だ。  おそらく、麓の村の娘だろう。  何人かの娘が行方知れずになっているにも関わらず、死体が見つかっておらず、魔物の姿を見た者もいないためだろうか。遊び盛りの子供たちは、大人がいくら注意してもこっそり山に入っているのだと、先ほど話を聞いた村人が嘆いていた。  多分、この子もその一人だ。大きな瞳は、いかにも活発そうな、悪戯好きな光を放っている。  しかし放っておくわけにもいくまい。この山中のどこか、そう遠くないどこかに魔物がいるのは間違いない。それも、人間の娘ばかりを狙う魔物が。  こんなところに一人でいては、どうぞ襲ってくださいと言っているようなものだ。 「……木の実拾いか?」  近づいて声をかける。 「なるほど、大人が山に入らない今なら採り放題だものな。しかし、この辺りには魔物が出るぞ。親に注意されなかったのか?」  少女は顔を上げてにこっと微笑んだ。可愛らしい、魅力的な笑顔だ。あと何年かしたら、男たちを虜にすることだろう。もっとも今はまだ、子供っぽさ、あどけなさの方が勝っている。 「魔物? 平気だよ。魔物なんて恐くないもん」  少女はけろっとした顔で言う。魔物による被害を目の当たりにしたことがない者に多い反応だ。魔物のことを「ちょっと恐ろしい獣」程度にしか考えていない。実際には、最下級の魔物であっても、飢えた羆の何倍も危険な存在なのだが、多くの場合、それを思い知るのは既に手遅れになった時だ。 「恐くなくても魔物は魔物だ。お前みたいな子供は、一噛みで喰い殺されてしまうぞ? 木の実ならもう十分だろう。ついて来い、村まで送ってやるから」  口調はきついが、カムィは本質的に女子供には優しかった。座って木の実を選り分けていた少女に手を差し伸べてやる。 「お姉ちゃん、優しいんだね」  その手を取って立ち上がると、少女は嬉しそうに笑った。袋の中から、両手いっぱいの木の実を取り出して差し出してくる。 「これ、お姉ちゃんにあげる」 「……いいのか? こんなに」  人懐っこい性格のようではあるが、それにしてもずいぶんと気前のいいものだ。木の実を受け取りながら、思わず少女の顔を真っ直ぐに見た。 「うんっ。あたしは、もっといいものをもらうから」 「え?」  大きな瞳が、まっすぐにカムィに向けられている。 「……っ!」  大きな、黄金色の瞳が。  亜麻色だったはずの髪も、いつの間にか鮮やかな黄金色に変わっていた。  脚から力が抜け、その場にくずおれる。身体が熱くなり、呼吸が速くなる。  油断、だった。  一瞬前まで、まったく気配は感じなかった。  そもそも、こんな可愛らしい少女が。  信じられない。  少女の姿で人間の女を襲う魔物なんて、見たことがない。  確かに、力のある魔物は人間と寸分違わぬ姿をとることができる。そうすることで、警戒されることなく人間に近づくことができるのだ。  獣のように力ずくで襲うなどというのは、下等な魔物のすることだった。男性型の魔物なら、見目麗しい青年の姿で女を誘惑する。女性型であれば、魅惑的な姿態で男を誑かす。恐怖に震えているよりも、快楽に酔いしれている人間の血の方が魔物にとっては美味らしいのだ。  この辺りで行方不明になっていたのは、少女ばかり。魔物の仕業であれば、それは男の姿をしているはずだった。  それなのに、まさか。  こんな、自分よりも年下の、あどけない少女の姿をしているなんて。  そして、もうひとつ。  これも初めてだった。これほどの強い魅了の『力』を持つ魔物も。  程度の差はあれ、ほとんどの魔物は人間を魅了する力を持つ。しかし、並の人間なら簡単に虜にされる力であっても、魅魔の血を持つカムィであれば、いくらかの抵抗力を持っている。  事実、これまで数え切れないほどの魔物を狩ってきたが、どれほど見目麗しかろうと、どれほど逞しかろうと、彼らに魅力を感じたことなどただの一度もなかった。  だからこそ、カムィは最強の魅魔師でいられたのだ。  なのに、  なのに、こんな――  どうしたことだろう。  一瞬、見つめられただけなのに。  脚に力が入らない。  身体が熱い。  鼓動が、呼吸が速い。  顔がかっかと火照っている。  これまで一度も感じたことのない感覚だった。  楽しそうに笑う少女の口元から、鋭い牙が覗いている。紛れもなく魔物だ。どんなに憎んでも憎んでも足りない宿敵のはずだ。  なのに。  この少女は、とても可愛い。  とても愛おしい。  嬉しそうな顔が近づいてくる。  鋭い牙が光を反射している。  あの牙を、この肌に突き立てて欲しい。この血を啜って欲しい。  そうしてもらえたなら、どんなに幸せだろう。  意識の奥底から、そんな想いが湧き上がってくる。 「いい匂い」 「……ひっ……ぃあっ!」  首筋に鼻が押しつけられる。それだけのことで、身体が弾むほどに震えた。  ぺろりと舐められる。舌が触れた部分が灼けるように熱い。だけどそれは不快ではなく、むしろいつまでも楽しんでいたいと思う感覚だった。 「……あ」  鋭い爪が、カムィの服を裂いていく。魔物の爪はまるで刃物のようで、音もなく切り裂かれた布の下から、白く丸いふくらみが顔を覗かせる。 「えへへっ、すっごくキレイな身体」 「やっ……ぁっ」  焦れったくなったのか、魔物は布を掴むと一気に引き裂いた。低い悲鳴のような音を立てて、服が剥ぎ取られる。上半身がすべて露わにされる。下半身もすぐに同じようにされた。  指が、直に触れてくる。  首に、肩に、鎖骨に。  その度に身体が痙攣する。 「……う……ぁっ」  鎖骨の上から胸へ、ゆっくりと滑る指先。  長い爪は剃刀よりも鋭く、滑らかな皮膚を浅く切り裂いていく。  血が、一直線に並ぶ深紅の珠となって浮き出てくる。 「……ぁっ、あぁっ……う、ぅっ」  微かな痛み。  それさえも快感だった。  傷口に舌が触れてきた時には、意識が飛びそうになった。 「ふわぁ……すっごぉい、甘くて美味しい血! こんなの初めて!」  興奮して叫ぶ魔物。  爪が、何度も何度も肌の上を行き来する。  首筋。  腕。  胸。  腹。  腿。  ぷつぷつと浮き出てくる血の珠を、ひとつひとつ丹念に舐め取っていく。  そのひと舐めごとに、カムィは悲鳴を上げた。  舌先がそっと触れる――それだけのことなのに、力いっぱい殴られる以上の衝撃だった。気を失いそうになる。しかしあまりにも強すぎる刺激は、失神することすらことすら許してくれない。 「いやぁっ……やぁっっ!」  熱い。  身体が燃えているように熱い。 「やめっ……ひぃぃっ、やぁっ、なに……これっ! い、いやぁぁっ!」  汗が噴き出してくる。特に下半身が、不自然なほどに濡れているように感じる。これは本当に汗なのだろうか。 「まだまだ、これからだよ? 美味しい血のお礼に、人間同士じゃ絶対に味わえない、本当の快楽をあげる」  魔物は喉の奥でくっくと笑った。 「……気持ちよすぎて、死んじゃうかもしれないけどね」  カムィの両脚を抱え、その間に顔を埋めてくる。  女の部分に、鼻先が、唇が、そして舌が触れる。 「――――っっっ!」  声も出せなかった。  息をすることすらできない。  全身の筋肉が硬直する。  声にならない絶叫。  肺の中の空気を最後の一滴まで絞り出す。  だけど、まだ終わらない。  それはまだ、始まりに過ぎなかった。 「……やっ……め……、や……ぁ……っ! ――っっ!」  身体の中に侵入してくる異物。やや遅れて、それが魔物の指だと気づいた。  逃れようにも、身体が動かない。  いや、下半身はカムィの意志を無視して小刻みに蠢き、その指を迎え入れようとさえしている。  一瞬の痛み。  身体が引き裂かれるような感覚。  次に襲ってきたのは、言葉では表しようのない……悦楽、だった。  初めて、だった。  男女の交わりのことは、一応、知識としては知っている。  魔物に犯された娘の例は少なくない。魅魔師である以上は避けて通れない話題なのだ。  しかしもちろん、自分のこととしての経験はなかった。  容姿は比類ないほどに美しいカムィだったが、幼少の頃から、魅魔の力を伸ばすことと魔物を狩ることだけに己のすべてを費やしてきたのだ。色恋沙汰などにかまけている暇はなかった。  それにカムィは、もっとも正統な魅魔の血を受け継ぐ家系の、最後の一人だ。魅魔師の中でも特別な家柄であり、近隣の若者たちが気軽に言い寄ってこれるような存在でもない。  これまで、男性を愛おしいと思う気持ちなど抱いたことがなかった。一人だけ仲のよい、五歳ほど年上の従兄がいるが、それは男と女というよりも、他に身よりのいないカムィにとっては兄のような存在だ。  だから。  同世代の娘たちにそろそろ縁談が持ち上がるような年齢になっても、カムィはそうしたことにまったく興味はなかったし、当然、処女だった。  破瓜の痛み。  下半身が裂かれるようなその痛みすら、気が遠くなるほどに気持ちよかった。  だらしなく開かれた唇から、甘い嗚咽が漏れる。涎が滴り落ちる。 「や……ぁ、あ……な、に……」  生まれて初めての感覚。  知識としては知っていても、これまで自慰の経験すらなかった。  快楽。  悦楽。  言葉としては知っていても、経験するのは初めてだった。  よりによって魔物相手に――  魔物に犯されているというのに――  身体は、それを悦んでいた。  それを求めていた。  腰を浮かせて、くねらせる。魔物の指を、舌を、もっともっと奥深くまで受け入れようとするかのように。  魔物に犯されている身体の中から、なにかが流れ出してくる。股の間を濡らす。  そこへ、舌が押しつけられる。 「ふふっ、いい匂い。これがいちばん美味しいんだよね」 「ひっ……ぃぃぃっ! ……っ……ぁっ」  その部分に、何度も何度も口づけされる。蜜に混じって滴る破瓜の血を啜られている。 「――――っっ!」  下腹部から始まって頭のてっぺんまでを貫く、快楽という名の衝撃。  長い舌で、身体の中を舐め回されて、喉が嗄れるほどに絶叫する。  こんな屈辱はない。  魅魔師でありながら、為す術もなく魔物に犯されているなんて。  魔物に犯されて、悦んでいるなんて。  死んでしまいたい。  魔物に陵辱されて発狂するくらいなら、いっそ舌を噛んで死を選びたい。  なのに肉体はカムィの意志に逆らう。  生き続けたい。  生きて、この快楽を永遠に味わい続けたい。  全身の細胞が、そう叫んでいる。  理性が、自我が、失われていく。  ただ、肉体的快楽を追い求めるだけの存在に成り下がっていく。  意識が薄れ、なにも考えられなくなる。  失神することを拒み続け、快楽を貪り続けてきた肉体に、限界が訪れつつあった。  それでもさらなる快楽を求めようとする。  魔物も犯すことを止めようとしない。 「ひっ……い、いぃ――――っ!」  ようやく意識を失った事は、カムィにとってむしろ救いであった。 * * * 「……ぁ……?」  どのくらいの時間が過ぎたのだろう。 (生きて……る?)  うまく働かない頭で最初に考えたことがそれだった。  視力が戻ってくる。  最初に目に入ったのは、あの、憎き魔物の姿だった。こちらに気がついて、極上の笑みを向けてくる。 「あ、気がついたんだ?」  今なら、はっきりとわかる。  これのどこが人間の娘だというのだ。見たこともないほどの強い気をまとっているではないか。  これは上位の……そう、最上級の魔物だ。 「すごいねぇ、こんな血初めて。身体中から力が湧いてくるの!」  魔物は妙にはしゃいでいる。機嫌のいい猫のように、目を細めている。 「だからね、すぐには殺さないよ。お姉ちゃんの血があれば、あたしはもっともっと強くなれるもの。しばらくは楽しめるよね、竜族に犯されても発狂しないくらい強いんだから。そんな人間、初めて見た」 「……っ?」  一つの単語が、カムィの意識を、理性を、そして憎悪を呼び覚ました。  強い風が霧を吹き払うように、朦朧としたカムィの意識は魔物の言葉で瞬時に明瞭になっていく。 「りゅ……竜……ぞ、く?」 「そうだよ?」  震える言葉に対する返答は、今ごろ気づいたのか……という呆れ顔。  得意そうに胸を張る。 「これだけの力、他の何者が持てるっていうの? これは、偉大なる竜の末裔だけに許された力だよ」 「竜……族、だと?」  もう一度、その単語を繰り返す。  低い、力強い発音。  それはもう、快楽に囚われていた先刻までのカムィとは別人だった。 五章  それは、十年以上も昔。  カムィが五歳になって間もない頃のことだ。  当時カムィは、母サスィと、双子の姉のシルカとともに、故郷の村で暮らしていた。  山間の小さな村。そこは何百年も昔から、魅魔の一族が暮らす地だった。  多くの魅魔師が住む村。  もっとも純粋な魅魔の血が受け継がれている村。  母は、その中でももっとも強い力を持った魅魔師だった。  優しくも厳しい母と長老たちの許で、カムィとシルカは物心ついた頃から、魅魔師として闇の眷属と戦う術を仕込まれていた。  優れた魅魔の血を引く一族の末裔として、二人にかかる期待は大きかった。  しかし―― 「ああ、カムィ。こんなところにいたんだ、探したよ」  背後からの聞き慣れた声に、いちいち振り返りもしなかった。ただ黙って、目の前のせせらぎを見つめている。  無視されたことを気にも留めず、声の主はカムィの隣に腰を下ろした。  カムィはちらりと一瞬だけ視線を向ける。目が合って、慌てて視線を前に戻す。  十歳という年齢の割には背が高く、大人びて見える少年。五歳のカムィから見れば、もう大人といってもいい。  従兄のタシロ。カムィにとって、生まれた時から傍にいた兄のような存在だ。  だから。  タシロがなにも言わなくても、なんのために自分を探しに来たのかはわかっている。  そして。  カムィがなにも言わなくても、タシロもわかっていることだろう。なぜ一人でこんなところにいるのか。  沈黙が続く。  川のせせらぎだけが鼓膜を微かに震わせている。  やがて―― 「どうして黙ってるの?」  先に沈黙に耐えきれなくなったのは、カムィの方だった。 「母様に言われて、連れ戻しに来たんじゃないの?」 「それがわかっているなら、どうして修行をさぼってこんなところにいるんだ?」  からかうような口調にかちんと来る。それがこの従兄の癖であることはわかっていても。 「……私は、必要ないもの」  短い沈黙の後、ぽつりと言った。 「修行なんてする必要はない。ううん、するだけ無駄。母様も、お祖父様もお祖母様も、シルカさえいればいいんだから」  ぶっきらぼうに言ったつもりだったが、最後の方は涙声になった。  涙が溢れてくる。  哀しいからじゃない。  悔しいから。  だから、涙が出る。 「……だから……私なんて、必要ない」  悔しい。  悔しくて仕方がない。  姉妹なのに。  双子なのに。  外見は瓜ふたつだ。母親はともかく、祖父母でさえ間違えることがあるほど姿形は似ているのに。  同じ血が流れているはずなのに。  たったひとつだけ、違っていることがある。  どうしてこんなにも違うのだろう――魅魔の力だけは。  シルカの力は、既に、並の魅魔師を凌駕するほどに強くなっていた。母サスィに匹敵する才能だと、大人たちはもてはやしている。  それなのにカムィには「魅魔の素養はある」という程度の力しか発現していなかった。年齢を考えればそれでも充分に立派なものではあるのだが、なにしろカムィの一族は特別な家系であり、周囲の期待度も違う。  サスィは本当に、群を抜いた力の持ち主だった。長い魅魔師の歴史の中でも一、二を争うと言われるほどだ。その娘が並の魅魔師では許されない。  しかも、双子の姉は母親譲りの才能を持っているのだ。なまじ外見がそっくりなだけに、カムィはなおさら劣等感を刺激された。  他人の視線が痛い。  期待外れの能力にがっかりした、つまらないものを見るような蔑む目が自分に向けられている――実際には考え過ぎなのかもしれないが、劣等感に包まれたカムィにはそうとしか感じられない。  自然と人目を避けるようになり、村の外で一人で過ごす時間が長くなった。  魅魔の修行も身に入らなかった。  いくら修行しても、シルカとの圧倒的な才能の差を思い知るばかりだ。この差は修練で埋められるものとは思えなかった。  魅魔師の里にとっては、シルカさえいればいい。  自分は、いらない人間。  そんな考えに囚われていた。 「カムィが必要ない人間? なにを馬鹿なことを」  いつも明るいタシロが軽く笑い飛ばす。 「カムィは充分に強い力を持ってるだろ? そんなことを言ったら俺なんか……」 「でも、兄様は剣を使えるもの」  一般に、魅魔の力は女性の方が強く発現する。たとえ魅魔師の家に生まれても、血の力だけで魔物を倒せるほどの力を持つのは女だけだ。  それが叶わぬ男は、剣の扱いを学ぶ。力の足りない血であっても、刃に塗ればその威力を倍加させ、魔物に対して有効な武器に変えるには充分なのだ。  そうした者たちは魅魔剣士、あるいは単に魔剣士と呼ばれる。  しかしカムィは女だ。  最高の力を持った魅魔師であることを望まれる身だ。  その期待に応えられない自分が悔しい。 「とにかく、村に戻ろう」  立ち上がったタシロに腕を掴まれる。 「やだ、戻らない」  意固地になって腕を振り払うが、すぐにまた掴まれてしまう。 「やだと言っても連れて帰るよ。今すぐカムィを連れ戻せって、サスィ様の命令なんだ」  カムィの意志を無視して、強引に引っ張っていく。  まだ十歳といっても、さすがは剣士の修行をしているだけのことはあった。小柄なカムィを引きずっていくだけの力はある。  しばらくじたばたと暴れていたカムィだったが、やがて抵抗しても履物が汚れるだけだと悟り、仕方なく自分の足で歩き始めた。村に入ったらタシロの隙を衝いて逃げ出し、どこかの倉にでも隠れようと考えながら。  ところが―― * * *  わずかな時間で一変していた村内の様子に、二人は声を失って立ちつくした。  大きく見開いた目に、見慣れた普段の村とはまるで違う光景が映っている。  ひどい有様だった。  あちこちの家は半壊し、火の手が上がっているものさえある。  そこかしこには、見知った隣人たちが倒れている。武器を手にしているものも多い。彼らの周囲の土は、流れ出た血が黒い染みを作っていた。  まるで、戦の跡だ。  ある意味、そうかもしれない。しかし正確にいえば、これでは戦いではなく一方的な殺戮だ。  そして戦いの相手は、人間ではあり得ない。 「まも……の……?」  そうとしか考えられない、この惨状。  しかし、それこそあり得ないことだ。  そう、思っていた。  魅魔師の里が魔物に教われるだなんて、初めてのことだ。少なくとも、カムィやタシロが知る限りではそのはずだ。  こんなの、あってはならないことだ。  魔物は普通、自分から魅魔師を襲うことはない。狩られる時の反撃以外では、相手が魅魔師とわかっていて戦いを挑むこともない。  魅魔師が手強い敵であることを知っているからだ。  そして魅魔師も、闇雲に魔物を狩るわけではない。あくまでも、魔物による被害が目に余る場合だけだ。群からはぐれた仔鹿が狼に襲われるのが当然のことであるように、不用意に夜道を歩いていた人間が魔物の餌食になったとしても、それは致し方ないことなのだ。  それが、魅魔師と魔物との、暗黙の了解だった。  遠い昔から、そういうことになっていた。  なのに――  白昼堂々、魅魔師の里が教われるだなんて。  しかも、この惨状はどうだろう。  そこかしこに、無惨に引き千切られた死体が折り重なっている。  こんなこと、あっていいはずがない。  一人でも魔物を狩れるほどの力のある魅魔師や魅魔剣士だけでも、この村には二十人以上いるのだ。他人と力を合わせれば魔物と戦える者を含めれば、戦力はさらに何倍にもなる。  それが、こんな一方的に。  まさか――  二人とも同じことを考え、しかしその考えを口にすることを躊躇った。  あり得ない。  しかし、こんなことができる魔物は、他に存在しない。 「……お、お前たち、無事だったのか!」  突然建物の陰から飛び出してきて叫んだ人影に、二人は短い悲鳴を上げた。しかしよく見ればそれは、タシロの父のライケだった。カムィにとっては伯父である。肩のあたりがざっくりと剔られ、額からも血を流していた。 「と……父さんっ! どうしたの、いったい?」 「魔物……竜族だ。くそっ、奴らいきなり……。タシロ、お前はカムィを連れて逃げろ! 竜が三体もいては、いくらなんでも太刀打ちできん!」 「竜族? 三体っ? いったいどうしてっ」  にわかには信じられない。  竜族なんて、魅魔師であっても一生遭うことのない者が大多数であるほど数が少ない。同時に三体だなんて、魅魔師の里が襲われること以上にあり得ない話だ。  しかし、それが現実だった。 「知るか! とにかく、サスィが敵を食い止めているから、今のうちにお前らは逃げろ! 私はシルカを探してくる」  ライケは二人を、隣村へ向かう道の方へと促した。カムィの手を引いて走り出そうとしたタシロだったが、しかしカムィはその場に踏みとどまっていた。 「カムィ!」 「……こっち」  ぽつりとつぶやいて、逆の方向へと歩き出す。 「え?」  声が、聞こえたのだ。  カムィにだけ。  耳に届いた声ではない。  夢でも見ているかのように、頭の中に声が直接響いてきた。 「こっち……呼んでる……」  呼んでいる。  カムィを。  この声は、カムィを呼んでいる。  泣き声。  泣き叫ぶ声。  泣きながら絶叫している。  この世で一番、なじみ深い声。  助けを呼んでいる。カムィを呼んでいる。  カムィは走り出した。急がなければならない。一瞬遅れてタシロとライケが続いてくるが、振り返りもしなかった。  全速力で走る。  声のする方向へ。  声に導かれるまま大きな家の陰に回り込んだところで、見えない壁にぶつかったかのように立ち止まった。  頭の中で叫び続けていた声が、ひときわ大きな絶叫と共に止む。  目に映ったのは、あまりにも衝撃的な光景だった。  一体の魔物。  外見は人間と寸分違わないが、まとっている気配がまるで違う。  手と、口の周りを深紅に染めた魔物が手にしているのは、小さな人間の死体。  ずたずたに喰い千切られたそれは、人間の死体というよりも、単なる肉塊のように見えた。 『……ちょうどいいところに、お代わりが来たか』  血肉を貪っていた魔物が顔を上げる。黄金色の視線がカムィを貫く。 『さすがはあの御方が選んだ娘。極上の血だが、子供過ぎてちょっと喰い足りないと思ってたんだ』  魔物が立ち上がる。カムィに向かって歩を進めてくる。 「あ……あ……」  無惨に喰い千切られた肉塊を手にしたまま、ぎらぎらとした欲望に満ちた瞳を向けている。  顔はおろか、人間であったことすら判別するのが難しい血まみれの肉塊。  しかし、カムィにはわかっていた。  それは、カムィの半身。  同じ血肉を分けた存在なのだ。 「う……ぁ……」  こんな……  こんなの……  いなくなればいい、と思ったことはある。  シルカさえいなければ、自分はもっとも純粋な魅魔の血の後継者であり、次代の、もっとも力のある魅魔師になれる、と。  シルカさえいなければ。  そう思ったことは一度や二度じゃない。  だけど。  こんなの……  こんなこと……  ……許せるはずがない。  あっていいことではない。  こうして現実を目の当たりにして、はっきりとわかった。  自分とシルカは、同じ血肉を分けた存在。本来ひとつになるはずだった生命が、たまたまふたつに分れて生まれてきただけなのだ。  だから。  痛い……  痛い!  全身が引き千切られる痛みに襲われる。  あれは、あの魔物が手にしているのは……  あれは、私。  許せない。  許せない。  許せない。  許せない。  許せない。  許せない!  許せるはずがない。  許していいはずがない。  自分を殺した魔物を!  魔物が腕を伸ばしてくる。  指の先には、鋼よりも硬く鋭い爪が並んでいる。  長い爪の先から滴り落ちる鮮血。  それはカムィにとって、もっとも大切なもの。  カムィの身体に流れるのと同じ、もっとも純粋な、もっとも尊い魅魔の血。  そう。  それは、カムィの血肉なのだ。 「ぅ……う…………う」  喉の奥から呻き声が漏れる。  魔物の爪が、カムィの喉にかかる。  その瞬間―― 「う……わぁぁぁぁ――――っっ!」  カムィは絶叫した。  無意識のうちに、身体の中から噴き出してきた叫びだった。  それはカムィの、シルカの、魂の叫び。  魔物に貪り喰われたシルカの血肉が、その声に応える。  肺の中が空っぽになっても叫び続けるカムィが気を失った時――    彼女を殺そうとしていた最強の魔物は、身体に傷ひとつないまま息絶えていた。 六章 「……許せない……許さない……」  カムィは口の中で、何度も何度も繰り返していた。  竜族、だって?  この、一見可愛らしい金髪の少女が?  私を汚した魔物が?  よりによって竜族だって?  竜族――最強の魔物。  生まれ故郷の村を滅ぼしたのが竜族。  母を、姉を、親戚や友人たちを殺したのが竜族。  魅魔師の里で生き残った者は二十人に満たず、その多くが傷ついていた。  気を失っていたカムィは、ライケとタシロに連れてこられた隣村で目を覚まし、そこで母親の死を知らされた。  母は、魔物の一体と刺し違えて息絶えていたらしい。  村を襲った三体の竜族のうち、残りの一体の行方はわからなかった。ただ、魔物のものと思われるおびただしい量の血の痕が、村の外へ続いているのだけが見つかったという。  その後、魅魔師の里の僅かな生き残りは、付き合いの深かった近隣の村で暮らすことになった。  あの事件以来、カムィは変わった。生前のシルカをも凌駕する強い魅魔の力が発現するようになり、人間に害を為すか否かに関わらず、魔物を狩ることだけにすべてを費やしてきた。  そして十年が過ぎ――  今、最大の仇が目の前にいる。  竜族。  許せない、許さない。  自分は、こいつらを滅ぼすために今日まで生きてきたのだ。  傍らに、引き裂かれた衣服が落ちていた。手を伸ばして短剣を抜く。  装飾の施された柄を、両手で握りしめる。  腰が抜けていて、脚に力が入らなかった。それでも震える脚で立ち上がる。 「…………許さない!」  萎えた脚は体重を支えることができず、よろけて倒れそうになる。そのまま体重を預けて、身体ごと体当たりしていった。  不思議そうに目を見開いている魔物の少女に向かって。  刃が根本まで肉に埋まる、確かな手応えが伝わってくる。 「……え?」  なにが起こったのかわからないといった表情で、魔物は自分の胸を見下ろす。  そこには短剣が深々と突き刺さっており、赤黒い血が滲み出てきていた。 「な……なんで……?」 「……私の……血は、たっぷりと飲んでいるな?」  そう、本当にたっぷりと。  並の魔物相手の狩りなら、血は一、二滴しか要しない。この魔物は、それとは比べものにならない大量の血を口にしている。カムィの肌を切り刻み、純潔を奪い、流れ出た血のすべてを啜っているのだ。  それは、魔物の身体を完全に支配できるほどの量。  武器など用いず、言霊の力だけで魔物に死をもたらすことができるほどに。  しかしカムィは、そんな簡単に片付く手段を選択するつもりはなかった。  シルカは、原形をとどめないほどずたずたに喰い千切られたのだ。  こいつを、同じ目に遭わせてやる。  思うように動かないこの身体でも、自分の手で一寸刻みに切り刻んでやらなければ気が済まない。 「なんでぇ……見えてたのに……、身体が……動かないよ……うぁっ!」  根本まで突き刺さった短剣を一気に引き抜く。  傷口から鮮血が噴き出す。  抜いた短剣を頭の上まで持ち上げ、再び叩きつけるように振り下ろす。 「あああぁっ!」  血飛沫。  甲高い悲鳴。  黄金の髪が揺れる。 「許さない……殺してやる……殺してやる!」  二度、三度。繰り返し刃を突き立てる。  その度に紅い飛沫が飛び散る。 「いっ、痛ぁいっ! な……なんでっ」  魔物は腕を上げて顔や首を庇おうとするが、その肉体はいうことを聞かず、微かに震えるだけだ。 「動かない……身体、動かないよっ」  動くわけがない。  魅魔の血をあれだけ貪ったのだ。  カムィは軽い目眩を覚えるほどに血を流している。その血をすべて啜ったのだ。  その罪は、己の生命で贖うしかない。 「やっ、やだぁっ!」  鮮血にまみれてゆく魔物の身体。  全身が深紅に染まるまでに、さほど時間はかからなかった。  それでも、まだ生きている。  相手は強靱な生命力を誇る竜族だ。この小さな刃では、たとえ魅魔の血を塗っていても簡単に絶命はしない。それに激昂のあまり、急所を狙おうにも微妙に手元が狂ってしまっている。  しかし、時間の問題だ。  短剣による傷のひとつひとつは大きなものではないが、それでも一突きごとに、魔物を確実に死の淵へと追いつめていく。 「いやっ、嫌ぁっ! 死にたくない! 死にたくないよぉっ!」  魔物が泣いている。顔が、血と涙でぐしゃぐしゃになっている。 「……やかましい!」  短剣を振り下ろす手に、さらに手に力を込める。悲痛な声で泣き叫ぶ魔物を黙らせるために。  太い血管を貫いたのか、鮮血が水鉄砲のように噴き出してくる。  一瞬、手が止まる。  小さく深呼吸して、もう一突き。 「……いや……ぁ、や……」  声に力がなくなってくる。  身体から力が抜けていく。  もうすぐだ。  もうすぐ、死ぬ。  もうすぐ、殺せる。  魅魔師として独り立ちして以来、竜族を倒すのは初めてだった。  いや、そもそもあの事件以来、竜族に遭うのも初めてだった。竜族は極めて数が少ない上に、本来は滅多やたらと人を狩る性質でもない。  だから、初めてだった。  初めて、仇を討てる。  仇敵を倒せる。  このために生きてきた。  このために戦い続けてきた。  そう考えれば、かつてない悦びと達成感を覚えてもいいはずだった。  なのに――  どうしてだろう。  心が昂らない。  むしろ、冷めてゆく。  魔物の娘の生命が失われてゆくのと歩調を合わせるように、短剣を握る手から力が抜けそうになる。  歯を食いしばってまた握りなおす。  魔物にとどめを刺すために。  最後の力を振り絞るために、息を吸い込む。  短剣を振り上げる。 「……おね……たす……て……、死にたく……よぉ……」  か細い声で呻いている魔物。  飛び散った血が、周囲の草を深紅に染めている。  もう、ほとんど意識もないのだろう。黄金の瞳は輝きを失い、焦点も合っていない。  カムィは唇を噛んだ。  もう一度、手に力を込める。死にかけた魔物を睨め付ける。  竜族は、仇。  母の。  姉の。  故郷の村の。  なのに―― 七章  なのに、どうしてだろう。  結局あの時、とどめを刺せなかったのだ。  重ねてしまった。  血まみれで泣いているカンナの姿と、泣き叫びながら魔物に喰い殺された姉の姿を重ねてしまった。  どうしてだろう。  外見は似ても似つかないのに。  どうしてしまったのだろう。  泣いて命乞いをしていたのは、魔物なのだ。竜族なのだ。  人間の天敵ではないか。  なのに、情けをかけてしまうだなんて―― 「……くそ。やっぱり、あの時に殺しておけばよかったんだ」  不愉快な夢から覚めたカムィは、忌々しげに吐き捨てた。  嫌な夢を見た。  初めてカンナに出会った時の夢。  子供の頃の夢。 「……くそっ」  周囲を見回すが、カンナの姿はない。  当然だ。魅魔の力で「立ち去れ」と命じたのだから。  近くに清水を湛えた泉を見つけ、着物を脱いで身体を浸した。  身体が、特に下半身が血で汚れている。  怪我ではない。経血に汚れたカンナの舌で舐め回されたためだ。 「……ったく」  鳥肌が立つほどの冷たい水が、目を覚ましてくれる。意識がはっきりして、身体の奥でくすぶっていた火照りが鎮まってゆく。  全身を丹念にぬぐって、血と汗と泥の汚れを落とした。そうすることで、カンナに犯された事実も洗い流してしまいたかった。  しかし。  掌で肌を撫でていると、思い出してしまう。  カンナの指の感触を。舌の感触を。  頭を強く振って、忌まわしい記憶を振り払おうとする。  あの後――  結局殺せなかったカンナを、魅魔の血で支配して、下僕として使役することにした。  その事はいい。  確かに、魔物を狩る上では役に立った。  カンナはまだ子供とはいえ、仮にも竜族なのだ。並の魔物など片手でひねり殺せる力を持っている。カムィが武器を取ることなしに魔物を狩ることもできた。  しかし。 「う……」  嫌な記憶が甦る。  この一ヶ月、何度カンナに犯されただろう。  口づけ、抱擁、そして……  魅魔の血で支配下に置いているとはいえ、四六時中、一挙手一投足までカムィの指示で動いているわけではない。基本的には、カンナは自由意志で行動できる。  だから、隙を衝かれたこともあった。  拒みきれなかった。先手を取られたら、拒むことは困難だった。  相手は竜族。血の支配下にあっても、圧倒的な魅了の力は健在だ。  理性がどれほど拒もうとしても、肉体はあの快楽を求めてしまう。  いったい、どれほど恥ずかしいことをされただろう。 「…………やっぱり、殺しておけばよかった」  朱くなった頬を隠すように、カムィは顔まで泉の中に沈めた。 * * * 「……カムィは、あっちにいるのかぁ」  カンナは不愉快そうにつぶやいた。  もちろん、姿が見えているわけではない。気配を感じるほど近くでもない。  だけど、わかる。  ある方向へ向かおうとすると、いきなり脚が動かなくなる。目に見えない重圧を感じる。身体が、そちらへ進むことを拒否している。 『二度と私に近づくな』  体内の魅魔の血が、カムィの言葉に従ってカンナを操っている。  いい気持ちはしない。自分の身体を他人に操られているなんて、屈辱であり、不愉快でもある。 「まったく、もぅ!」  唇をとがらせ、ぶつぶつと文句を言う。 「どうして、気持ちよくして怒られるのかわかんないよ!」  納得できない。  あんなに感じているではないか。  あんなに悦んでいるではないか。  口では反対のことを言っているが、身体は正直だ。カンナの愛撫に応え、さらなる快楽を求めている。  なのに、行為が終わるとカムィは怒り出すのだ。 「正気保ってたって、普通はめろっめろなのにっ!」  カムィだけだった。これまでに喰ってきた他の娘たちとは違う。  普通は、カンナが黄金色の視線を向けるだけでたちまち魅了され、自ら進んで身体を、血を、差し出してくるものだ。そしてただ一度の行為で正気を失い、与えられる快楽を貪るだけの存在に変わる。  カンナは何日かの間その血を楽しみ、飽きたら骨も残さずに貪り喰って終わり。腹が空いたら、また新たな獲物を探す。  それだけだった。  だけど、カムィだけは違う。  ちゃんと感じているくせに、身体は快楽の虜になっているくせに、事が終わるとすぐに正気を取り戻してカンナを叱るのだ。  自分も楽しんでいたくせに。人間同士では決して味わえない至上の快楽に酔っていたくせに。 「なんだい、カムィなんか……エサのくせに生意気だ」  地面を蹴る。  千切れた草が数本、風に舞った。 * * *  断末魔の魔物の咆哮が、樹々の枝を震わせる。  それも長くは続かず、やがて、騒がしかった森は急に静かになった。  一抱えもある太い樹が何本も倒れている。  その傍らで、カムィは肩で息をしていた。  足下には、羆に似た姿の魔物の亡骸が横たわっている。おびただしい量の血が、周囲の草や地面を朱に染めている。  カムィも血まみれだったが、そのほとんどは魔物の返り血だった。自身も無傷ではないが、深手は負っていない。 「……くそっ、雑魚のくせに手間かけさせやがって」  忌々しげに死体を蹴飛ばす。  この魔物を探し出してとどめを刺すまでに、三日もかかってしまった。それほどの強敵ではなかったはずなのに。  腕が鈍っているのだろうか。  だとしたら、何故?  考えたくもないが、どうしても意識してしまう。  ……カンナがいないせいだろうか。  気配を消して潜んでいる魔物を狩り出すにも、とどめを刺すにも、確かにカンナは役に立った。カムィは己の血を餌に魔物を誘い出し、あとはカンナに命じるだけで片付いたのだ。  最初から最後まで、自分一人で魔物を狩ったのは久しぶりだ。カンナと出会ってからは初めてだろう。 「……くそっ!」  唾を吐き捨てる。  頭を強く振る。長い黒髪が風を受けて広がる。あの人懐っこい、可愛らしくも憎らしい顔の記憶を振り払おうとする。  どうにも不愉快だ。  魔物を倒したのに、少しも心が晴れない。  永遠に追い払ったはずの魔物の少女のことが、抜けない棘のように心に引っ掛かっている。  考えたくもないのに。  忘れたいのに。  気にかかって仕方がない。  あれから五日が過ぎている。カンナは今頃なにをしているのだろう。 (――っ!)  そこでふと、大変なことを思い出した。  カンナは、魔物なのだ。  放っておいたら、また人間を襲っているかもしれない。  外見に騙されてしまいがちだが、カンナはあれでも竜族だ。その気になれば、一人でも街のひとつくらい簡単に滅ぼせる力を持った魔物なのだ。  腹を空かせたら、なにをしでかすかわかったものではない。  なにを考えていたのだろう。あんな危険な魔物を野に放つだなんて。  責任を持って支配下に置いておくか。  殺してしまうか。  どちらかを選択しなければならなかったはずだ。  このまま放っておいては、またどこかで犠牲者が出る。  やっぱり連れ戻すべきだろうか。  しかし今さら、あの顔を見るのも不愉快だ。  どうしたらいいものだろう。  様々な想いが交錯する。  この日は結局、結論は出せなかった。 * * * 「喉……乾いた、な……」  川の岸辺に腰掛けたカンナは、大きく口を開いて喘いだ。  傍らには、大きな鹿の亡骸が横たわっている。毛艶の具合からすると死んでから間もないもののようだが、大きく剔られた傷からは一滴の血も流れ出してはおらず、身体は半ば干涸らびているようだった。  カンナの口の周りだけ、べっとりと血で汚れている。長い舌が無意識に動いてそれを舐め取る。  腹が空いていた。  喉が渇いていた。  満たされない。  どうしても満たされない。  どれほど獣の血肉を喰らっても、この餓えは満たされない。  どれほど瑞々しい果実であろうと、この渇きを癒してはくれない。  こんなものではだめだ。  獣なんか。果実なんか。  この餓えを、渇きを、癒してくれるのは獣なんかじゃない、果実なんかじゃない。  生きていくことはできる。  獣の血肉でも、甘い果実でも、生きていくことはできる。  だけど、決して満たされることはない。  この餓え。この渇き。  それでも、生きていくことはできる。  死ぬことはない。死ぬことはできない。  いっそ死んだ方が楽になれるほどの、餓えと渇きに苛まれ続けても。 「……あ」  気配を感じて顔を上げた。  川の向こうに人間がいる。  近くにある集落から来たのだろう。川縁の軟らかな土に生えた野草を摘んでいる。  カムィよりも少し年下くらいと思われる少女。  その白く細い首筋に、視線が吸い寄せられる。  ゴクリ……  喉が鳴る。  血が欲しい。  新鮮な血。  生きている人間の血。  あの細い首に牙を突き立てて生き血を啜ったら、どれほど気持ちいいだろう。餓えも、渇きも、たちまち癒されるに違いない。  ……襲ってしまおうか。  簡単なことだ。  娘の前に進み出て、黄金の視線を向けるだけでいい。  それだけで魅了できる。あの娘は自ら進んで、その肢体を差し出してくる。  思うがままに血肉を喰らうことができるのだ。  そう、簡単なこと。  一度立ち上がりかけて、しかしすぐにまた腰を下ろした。  頭を左右に振る。  だめ。  だめなのだ。  人間を襲ってはいけない。  どうして?  どうして、襲ってはいけない?  ずっと、そうやって生きてきたはずなのに。  ……わからない。  もう、わからない。  だけど、人間を襲ってはいけない。 「……だめ……だめなの……、でも……喉、渇いた……よ」  ゆっくりと倒れるように、カンナはその場に横になった。 * * *  妙だ。  小さな泉のほとりで休憩しながら、カムィは首を傾げた。  カンナと別れてから十日になるのに、竜の被害が出たという噂を聞かない。  人の集まる場所を通りかかるたびに探りを入れてみたが、この辺りでは最近、魔物の被害は出ていないようだ。  おかしい。  どこで、なにを喰っているのだろう。  最後に飲んだカムィの血の効力など、せいぜい五、六日しか続かない。今はもう、カンナを縛るものはないはずなのだ。  なのに、何故?  どこか遠くへ移動したのだろうか。噂もすぐには届かないくらい遠くへ。  そうかもしれない。  噂がカムィの耳に入るところで人間を襲えば、狩られることは嫌というほどわかっているだろう。  竜族は魔物の中でももっとも高い知能を持つのだ。あえて火中の栗を拾わず、魅魔師のいない土地へ移動するくらいの知恵が働かないはずがない。 「……くそっ」  腹立たしい。  カンナが、ではない。  自分の迂闊さが。  なんたる失態だろう。  人間の手には負えないあの魔物を、自分の手の届かないところへ追いやってしまうだなんて。  くそっ!  くそっ!  くそっ!  カンナに不覚を取った時以来の大失態だ。  こちらから探しに行くべきだろうか。  そうするのが一番いいとわかっていながら、どうしてもその気になれない。  しかし。  いや、でも。  この十日間、数え切れないほどに繰り返してきた葛藤。  答えは出ない。  小さく嘆息しながら、泉の水を汲もうとする。  ……と。  不意に、感じた。  魔物の気配。  瞬時に全身の神経を研ぎ澄まして気配を探る。  そして緊張を解いた。  これは、かなり遠い。カムィが魔物を感じ取ることのできるぎりぎりの距離。すぐには脅威とはなり得ない。  それに――  この気配、憶えがある。  この気配は……そう、一番なじみ深い魔物のものだ。  向こうもこちらに注意を向けている気配がある。だとしたら一人しかあり得ない。 「なんだ……ついてきてるのか。未練たらしい奴」  小さくつぶやいたところで、水面に映った自分の顔に気づいた。  ……いったい、なにを笑っているのだろう。  手に持った水筒を乱暴に泉の中に入れる。鏡のような水面が乱れ、カムィの顔が消えた。 * * *  その気配は、本当に微かなものだった。  カムィだから気づいたのだ。普通の人間はもちろん、並の魅魔師ですらなにも感じなかっただろう。  だから、カムィを責めることはできない。  その、遠く微かな気配が、カンナと似てはいるが、まったく同一ではないことに気づかなかったとしても―― * * * 「あ……ぁ、喉……渇いた……」  カンナは、口を開いて苦しそうに喘いでいた。  喰い千切られた獣や鳥の亡骸や、一口囓っただけの紅い果実といったものが散らばる中で、砂漠で力尽きた人間のように苦しみもがいている。  どうやっても餓えが満たされない。渇きが癒されない。  獣の血でも、果汁でも。  満たしてくれるものは、たったひとつだけ。  いま望むものは、ひとつだけ。  人間の……  いや、違う。  違う。  そうじゃない。  人間、じゃない。  欲しいものは、ひとつだけ。  ほら。  目を閉じると浮かんでくる。  紅い瞳で、こちらを睨んでいる顔。  そう。  欲しいものは、たったひとつだけ―― 「カ……」 『苦しそうね』  突然の声。  自分よりもずっと大人っぽいその声に、はっと顔を上げる。  一瞬、求めていた人物かと思った。  だけど、違う。 「だ……れ……?」  横たわっているカンナを見下ろす人影。逆光になって顔ははっきりと見えない。それでも、口元が笑っているのが見えた。 『捨てられたの? 可哀想に』  哀れむような言葉とは裏腹に、この状況を楽しんでいるような笑み。  かすかに開いた唇の隙間から、鋭い牙が覗いている。 「……あ」  外見は、人間だ。  カムィよりももっと年上の、妖艶な雰囲気を漂わせた美しい大人の女性。  だけど、人間ではない。  背中まである、明るい朱の髪。  輝くような赤銅色の瞳。  どちらも、人間にはあり得ないもの。  それ以外の姿形と、まとっている気配は、まったく人間と変わらないのに。 「……仲……間?」  そう。  仲間。  魔物、だ。  もっと正確にいえば、もっとも強い力を持つ魔物。  ――竜族。 『お嬢ちゃん、名前は?』 「カ……ン、ナ」 『私はイメル。言うまでもないだろうけど、あなたの仲間よ』 「仲……間?」  そう、仲間。  同じ種。  イメル――雷光を意味するその名前は、カンナと同じく、偉大なる竜の末裔であることの証。  初めてだった。  親の許を離れて以来、同族に遇うのは初めてだった。 『渇いているのね。可哀想に……ほら』  イメルは、呆然としていたカンナの頬に手を当てて上を向かせた。  顔が近づいてくる。  長い舌を伸ばし、そこへ自分の牙を突き立てる。  滲み出てくる紅い血。  芳醇な香りが本能を刺激する。 「あ……ぁ……」 『私の血なら、とりあえずの渇きは癒えるでしょう。今のままじゃ、動くこともできないわ』  唾液に混じって、舌の上に広がっていく紅い液体。  その鮮やかな色彩に、意識が囚われる。  欲しい。  欲しい。  欲しい。  あれが欲しい。  あれなら。  あれなら。  癒してくれるのかもしれない。  如何ともしがたいこの餓えを、この渇きを。  震える手を伸ばす。イメルの顔に。  震える舌を伸ばす。イメルの口に。  舌先が触れる。 「……っ!」  瞬間、全身が痺れるような衝撃が走った。  美味しい!  なんて、力に満ちた血! 「は……ぁっ!」  ひと舐めしてしまったその後は、無我夢中だった。  精一杯に舌を伸ばす。小さな傷から滲み出てきた唾液混じりの血を、一滴残らず貪る。  餓えが、渇きが、癒されていく。  衰弱しきっていた身体に、力が甦ってくる。  この血なら―― 「はっ……はぁっ……あっ」  爪が喰い込むほどの力でイメルにしがみついて、必死に舌を絡める。  もっと。  もっと。  もっと。  もっと。  もっと、欲しい。  欲しい。  欲しい。  欲しい。  欲しい。  欲しいっ!  涙が……  どうしてだろう、涙が溢れてきた。  どうしてだろう、理由はわからない。  止まらない。  止まらない。  もう……  もう……充分なはずなのに。 「どうして……」  まだ、舌が動いてしまう。血を貪ろうとしてしまう。  イメルにしがみついた手は、離れようとしない。  だって。  だって。 「どうして……どうして、オナカいっぱいにならないの……?」  足りない。  足りない。  満たされない。  美味しい血なのに。  力溢れる血なのに。  だけど……違う。  違う、違う、違う、違う!  イメルの血は美味しくて、力に溢れている。  だけど『甘く』ない。  カムィの血のように、甘くないのだ。 「どうして……」  『……私の血じゃ満たされない?』  カンナは泣きながらうなずいた。 『そうよね、当然だわ。魅魔の血の味を知ってしまったんですもの』 「魅魔……」  魅魔の血。  魔物を酔わせる至上の血。  そうだ。  あの血じゃなきゃだめだ。  魅魔の血じゃなきゃだめだ。  甘い、気が遠くなるほど芳醇な香りを放つ、カムィの血じゃなければ。 『わかるわ』  イメルが耳元でささやく。カンナの内腿を指先でなぞりながら。 『もっとも純粋な魅魔の血を受け継ぐ娘。彼女の血は素晴らしいわ。この世にふたつと残っていない至高の血……よねぇ?』 「……っ、ん……」  太腿を上ってくる指が敏感な部分に触れ、カンナの身体が小さく弾む。 「あ……や、ぁん……」  耳を軽く噛まれる。そのまま、耳たぶをくすぐるようにささやかれる。 『あの血が欲しいのでしょう、ねぇ?』 「う……ぅ……」 『正直に言ってごらんなさい? あなたの本心を』 「――っ」  指が、入ってくる。  全身が強張る。  落雷に打たれたような衝撃だった。  何度も何度も、身体が痙攣を繰り返す。 「あ……ぁ、あっ……」 『欲しいのでしょう? あの魅魔の血を、あの竜殺しの娘の血肉を、喰らいたいのでしょう?』 「……う……う、う……ん、うん……欲しい……欲しいの」  カンナはうなずいていた。うなずかなければいけない気にさせられていた。  イメルの言葉と、中で動いている指に操られるように、何度も首を振る。 『素敵でしょうね、あの血を、あの肉を、思うがままに喰らったら。……どうして、そうしないの?』 「どうして、って……」  どうして……どうして?  ……そうだ。  いったい、どうしてだろう。  どうして、そうしなかったのだろう。  カムィが魅魔師だと気づかなかった最初こそ不覚をとったが、魅魔の技の秘密はもう知っている。なんとでもやりようはあるはずだ。  いつもカンナを睨みつけているようなカムィだって、その気になればいくらでも隙は見出せる。 『魔物の霊長である竜族が、人間ごときに支配されて恥ずかしくはないの? 人間に支配されて、一滴の血のために尻尾を振って……おかしな話じゃない?』  そうだ。  そうだ。  そんなのおかしい。  間違っている。  本来、逆であるべきなのだ。  竜族は、この地上で最強の存在ではないか。人間は、竜族に与えられた極上の餌なのだ。 『カンナ……その名の意味をわかっているの? あなたはただの竜族ではないのよ?』 「わかってる……わかってるよ。でも……」  でも。  でも。  どうしてだろう、決心がつかない。 『我慢してどうなるの? その渇きは決して癒されない。だからといって、それで死ぬわけでもない。永遠に苦しみ続けるだけ。苦しみから解放される方法はひとつだけ。あなたも、わかっているのでしょう?』  わかっている。  よくわかっている。  方法はひとつだけ。  カムィを襲い、血肉を喰らって殺せばいい。  あの血肉をすべて喰らえば、カンナはもっともっと、ずっと強くなれる。  カムィを殺せば、もう魅魔の力に縛られることもない。 『大丈夫、あなたらならできる。二度と魅魔師ごときに不覚をとることなどない。私も力を貸してあげる』 「ん……ぁ……ぅ」  指の動きが速くなる。無理やり、言葉を絞り出させようとする。 『永遠に苦しみたいの? やりなさい、他に術はないのよ』  やりなさい――  耳元でささやかれる、強制の言葉。  有無をいわせず、相手を従える力を持った言葉。  竜族には、その力がある。  そしてなにより、耐え難い渇きがカンナの理性を奪っていた。 「…………うん」  カンナはうなずいた。  そうだ。  もう一度、力強くうなずく。  イメルの言葉に従えば、もう苦しまなくても済むのだ。 八章  魔物の気配が、近づいてくる。  後ろから、徐々に追いついてくる。  しかしカムィは、特に警戒もしていなかった。  近づいてくるのは、よく知っている竜族の気配だったから。  そうだ。  あの時「二度と近づくな」とは言ったものの、半月も経てば血の効力はすっかり薄れていることだろう。きっと、我慢しきれなくなって戻ってきたのだ。  仕方のない奴だ。だけどこれで、こちらから探しに行く手間は省けた。  気配が追いつく。  葉ずれの音とともに、目の前に舞い降りてくる。 「……カンナ?」  久しぶりに目にする、黄金の髪、黄金の瞳。  知らず知らずのうちに、口元がほころんでいた。 * * *  目の前に、カムィがいる。  甘い、匂いがする。  魅魔の血の匂い。  カムィの匂い。  欲しい。  欲しい。  あの血――  カムィが、こちらを見つめている。  触れたい。  あの顔、あの身体――  一瞬、笑ったように見えたのは気のせいだったろうか。少し怖い顔をして、カンナを睨んでいる。  だけどそれが、いつものカムィだ。  紅い瞳、紅い唇。  漆黒の長い髪。  対照的に白い肌。  なにも変わっていない。  なにもかもが懐かしい。  触れたい。  抱きしめたい。  頬ずりしたい。  そして――欲しい。  あの血。  世界中の宝珠を集めたよりも貴重な、魅魔の血。  魔物を狂わせる、至高の血。  カムィの白い肌。細くて長い首。  そこに優しく口づけて……  違う!  違う、そうじゃない。  勝負は一瞬だ。一撃で、殺さない程度に、だけど意識を失うほどの深手を負わせればいい。そうすれば魅魔の力を行使することもできない。  え?  殺す?  深手を負わせる?  誰が――?  ……あたしが。  誰を――?  ……カムィを。  カムィを?  どうして?  どうして?  どうして?  当然だ。  魅魔師は敵、すべての魔物の敵ではないか。  すべての人間は魔物の餌であり、すべての魅魔師は魔物の敵。  そう、カムィは敵。  すべての竜族の敵だ。  だから、その血肉を喰らって殺すのだ。  ……殺す?  ……カムィを?  あたしが?  どうして?  いったいどうしてしまったのだろう。思考が錯乱している。  自分はここで、なにをしているのだろう。  カムィを前にして、立ちつくしている。  脚が動かない。手が震える。  なにをしようとしているのだろう。  抱きつこうと?  襲いかかろうと?  わからない。  わからない。  頭も、身体も、混乱している。  腕も、脚も、それぞれが対立する意志を持っているかのように、統制の取れた動きができずにいる。 「あ……あ、っと……」 「カンナ、あんた……」  カムィに睨まれて、びくっと姿勢を正す。その一瞬だけ、全身の細胞が揃って動いた。 「あんた……私と別れてから、人間を襲った?」 「えっ、う、ううんっ! 食べてない、襲ってない。我慢したよ!」  どうしてだろう。  どうしてこんな、弁解めいたことを言うのだろう。  そんな必要ない。カムィがあたしを捨てたんだから。  もう、言うことをきく必要なんかない。最後に口にした魅魔の血には、もう、カンナを縛る力は残っていない。  このまま、襲ってしまえばいい。ほら、今なら隙だらけだ。  だめ、できない。  やりたくない。そんなこと、したくない。  したくない?  どうして…… 「……だろうね。竜に襲われたって話、まったく聞かなかった。もう半月になるのに……あんたがこんなに我慢できるなんてね」  自分の指に針を押し当てるカムィ。指先に、紅い血の珠が生まれる。  わずか一滴の血。なのに、たちまち周囲は甘い香りで満たされる。 「……はい、ご褒美」 「え」  カムィが手を差し出してくる。  カンナの目の前に、差し出される。  信じられない。  信じられない。  あのカムィが、自分から進んで血をくれるだなんて。  考えるより先に、身体が動いていた。惹き寄せられるように一歩前に出て、指先を口に含む。  魅魔の血が口中に広がる。  カムィの味。  甘い。  甘くて、泣きそうになるほどに懐かしい。  嬉しい。  嬉しい。  嬉しい。  嬉しい。  夢みたいだ。  やっぱりカムィは優しい。  やっぱりカムィは素敵。  やっぱりカムィのことが……  ……  …………大好き。  本当に、大好きだ。  なのに、どうしてだろう。  どうして、あんなことを考えたのだろう。  カムィを襲って、殺してしまえだなんて――  どうして、そんなことを。  どうして…… 「――!」  そうだ!  そうだ!  違う!  違う違う違う、違う!  あたしじゃない!  カムィを殺そうとしているのは、あたしじゃない!  突然、背後で大きくなる気配。  この気配!  ……竜族!  成竜の……あの女!  いけない! 「……カムィっ! 危な……っ」  カムィを突き飛ばして、盾になろうとした。  だめ、間に合わない。  一瞬遅かった。  なのに――    目も眩むばかりの閃光。  その青い雷光はカムィではなく、正確にカンナの身体を貫いていた。 * * * 「カ、ン……ナ?」  一瞬、なにが起こったのかわからなかった。  久しぶりに、目の前に現われたカンナ。  気まずいのか、怒られたことで怯えているのか、不自然に戸惑ったような表情をしていた。  それが突然血相を変えたかと思うと、青い閃光がその身体を貫いた。  そして――  目の前に、血まみれで倒れている。  一撃だった。  幼いとはいえ最強の魔物である竜族が、たった一撃で倒されていた。  なにが起こったというのだろう。  気配が消えない。  カンナが深手を負って意識を失っているというのに、魔物の殺気が消えない。  いや、むしろ大きくなってさえいる。  気づかなかった。  カンナが傍にいたから。  カンナの気配に紛れていたから。  もうひとつの気配に気づけずにいた。  こうして、カンナの気配が消えるとはっきりわかる。  違う。  違う。  カンナと似ている、だけど違う魔物の気配。  それが意味するところは、ひとつしかなかった。 「な……」  目の前に、ゆっくりと舞い降りてくる魔物。そのまま、倒れているカンナの背中を踏みつける。 「道案内と目眩まし、ありがとう。おかげで簡単に間合いに入り込めたわ」  カムィよりも少し年上くらいの、美しい女性だった。  その声も、姿形も、怖ろしくなるほどに美しい。 「何者、だ……っ」  声が、震える。  全身に鳥肌が立っている。  怖い。  怖い。  危険だ。  気配でわかる。  これは、危険な魔物だ。  これは…… 「私?」  ふっと笑みを浮かべる。カムィを見下すような表情で。 『私の名は、イメル』  イメル。  こいつは危険だ。  この名は危険だ。  近づきたくない。  今すぐ、ここから逃げ出したい。  なにしろこいつは―― 「竜族……の、成竜……っ」  カンナとよく似た、しかしさらに強大な魔の気配。  イメル――雷光を意味するその言葉が真名であるならば、それは彼女が正真正銘の竜族であることの証だ。偉大なる竜に由来する雷の名を許されるのは、竜族の中でもほんの一握りしかいないと、子供の頃に母から教えられた。  おそらく……いや間違いなく、本物だろう。  だから、彼女は美しい。見とれてしまいそうになるほどに。  だから、逃げたくても逃げられない。身体が、彼女の意志に反してこの場を去ることを拒否している。  もう遅い。  第一、向こうにとっては一撃でこちらを殺せる間合いだ。今さら、竜族相手に逃げるなんて不可能だ。 「どうする?」  赤銅色の瞳がカムィに向けられる。  この状況を面白がっているような、あるいはカムィを嬲っているような表情で。 「……?」 『命乞いをするなら、しばらく飼ってやってもいいぞ? 殺さずにその血を啜るのは、私でも少々手間だからな』  最終的な勝者は決定している、だからこそ余計な手間暇はかけたくない――そんな、絶対の自信を帯びた声。  カムィの眼前に立つのは、魔物の霊長たる「力」に裏付けられた、絶対的な存在だった。禍々しいまでの存在感に溢れている。魅魔の血を持つ身でなければ、たちどころにその場にひれ伏していたことだろう。  しかし、カムィにはそんな行動は許されない。 「……ふん」  最後の望みを託して、腰の短剣に手を伸ばす。  勝機が、まったくないわけではない。  カムィの血にはそれだけの力がある。だからこそ、イメルもすぐには手を出してこないのだ。 「殺されるか、飼われるか……か」  冗談じゃない。 「どちらもごめんだなっ!」  叫びながら、前へ跳んだ。  短剣を抜くと同時に、自分の太腿を浅く斬る。  刃が魅魔の血に濡れる。  右手で柄を握りしめ、左手を添える。  全体重を乗せて、イメルの胸に突き立てる。  ……いや。  突き立てようと、した。 「なんの遊びだ、これは?」  それはまるで、堅い黒檀の古木に剣を突き立てようとしたような感触だった。刃が通らない。  普通に考えればあり得ないことだった。並の武器では傷つけられない魔物の皮膚も、魅魔の血の前ではただの獣の毛皮と変わらない。事実、カムィの短剣はカンナを易々と傷つけることができる。  なのに――  カムィの表情が強張った。成竜の力が、まさかこれほどのものとは。 「竜族の力を舐めすぎたようね、小娘が」  短剣を握っていた右手の手首を掴まれる。見た目は細く美しい女の腕なのに、力自慢の大男すら足元にも及ばない怪力だ。 「――っ!」  ほんの軽く、手を少しだけ捻ったようにしか見えなかった。  それだけで、カムィの肩と肘が鈍い音を立てた。  激痛が走る。声にならない悲鳴が上がる。  肩を脱臼していた。あるいは折られたかもしれない。力の抜けた手から短剣が落ちる。  それでも諦めなかった。まだ自由な左手で反撃しようとする。たとえ無駄な足掻きであっても、なにもしないよりはましだ。  しかし、イメルの方が速かった。 「ぐ、……ぅっ」  喉を掴まれる。  万力のような力で締められる。  カムィの足が地面から離れた。この細い腕のどこにそんな力があるのだろう。腕一本でカムィを吊り上げている。  必死にもがく。脚をばたつかせる。しかしそれは、イメルの指が喉に喰い込んで、より苦しい思いをするだけの徒労に終わった。  苦しい。  息が苦しい。  腕に力が入らない。もっとも、たとえカムィが渾身の力を出せたとしても、イメルの前では赤子に等しいのだが。  それでも戦意だけは失っていなかった。いや、失ってはいけないのだ。まともに呼吸もできない状態で意識をつなぎ止めておくためには、尋常ならざる意志の力が必要だった。  イメルを睨みつける。  諦めてはいけない。  諦めなければ、戦う意志さえ持ち続けていれば、まだ形勢を逆転する機会はあるはずだ。  簡単には殺されないはず。簡単には殺そうとしないはず。  そこに賭けるしかない。 『私はお前をすぐには殺さない、まだ勝機はある……そう思っているようね?』  カムィの心中を見透かしたようにイメルが言う。 『魅魔の血は魔物を支配する代わりに、魔物に力を与えもする。だけどせっかくの血も、殺せばその価値がなくなる。そして生かしたまま一滴でも口に含めば、身体を支配できる。確かにそう、……でも』  イメルは長い舌を伸ばすと、自分の指を舐めた。 『魅魔の力は決して万能ではない。ねえ、正気を失っても魔物を支配できると思っていて?』 「……!」  その言葉を聞いた瞬間、カムィは血の気を失った。イメルが何をしようとしているのか、瞬時に悟っていた。  それは、カムィがもっとも怖れていたこと。  カムィには……人間には、抗いようがないこと。  この世でもっとも甘美な恐怖。 『なるほど、並の娘よりは抵抗力があるのかも知れない。だけど……』  イメルの指が下腹部に触れてくる。剃刀よりも鋭い爪が、音もなく衣服を切り裂いた。 『だけど知っていて? 幼竜と成竜が、どれほど『違う』ものなのか』  魔物の唾液に濡れた指が、顔に近づいてくる。喉を掴まれて喘いでいた口の中に滑り込んでくる。 「あ……や、ん……ぅ、あ……」  甘い。  そして熱い。  触れられた舌がとろけてしまうほどに。 『そこの小娘と同じに考えないことね。本物の竜と交わった人間がどうなるか、魅魔の血を持つ者なら知っているでしょう?』  知っている。もちろん知っている。  竜族に犯された人間の末路。  ほぼ例外なく発狂し、ただ魔物から与えられる快楽を貪るだけの生き物に成り下がってしまう。いや、耐えきれずに死んでしまう者の方が多い。  それは、人間の限界を超えた快楽なのだ。  カンナに犯されたカムィが正気を保っていられたのは、カンナが竜族としてはまだほんの子供で、カムィが魔物の力に抵抗力を持つ魅魔師だったからだ。あるいは同性であったことも影響しているのかもしれない。 「……や……や、め……」  怖い。  恐怖で唇が震える。  イメルは人間のことを、魅魔の力のことを、よく知っていた。その恐るべき力も、その弱点も。  魔物を操るのは、血そのものではない。魔物を支配するのは魅魔師の意志の力であり、血はその媒介に過ぎない。  正気を失った魅魔師など、魔物にとっては極上の餌でしかないのだ。  そして――  いかなカムィといえども、成竜に犯されて無事でいられるとは思えない。  嫌っ!  嫌だ、嫌だ!  イメルに犯されること、それだけは嫌だ。  それだけは、どうにも抗いようがない。  その前になんとかしなければ。  なんとか逃れなければ。  頭ではそう思うのに、身体が動かない。  それは肩を外され、喉を絞められているためではない。  理性はどんなにそれを拒絶しても、既に身体はそれを望んでいた。  強すぎる力。  竜族の、人間を魅了する力。  カンナとは桁違いの力に、既に捕らえられかけていた。 「や……いやぁっ! ――っ」  イメルの指が内腿を滑る。カムィの『女』の部分に触れる。  ただそれだけで、身体が破裂してしまうかのような衝撃だった。指が入ってきた時には、もう悲鳴すら上げられなかった。  カムィの身体を侵す指。少しずつ、少しずつ、焦らすように、しかし確実に奥へ進んでくる。  熱い。  触れられている部分が、侵されている部分が、灼けるように熱い。  触れられている部分から、身体が溶けていくようだ。 「あ……、あぁ……」  恍惚とした表情で、甘ったるい声を漏らす。  熱い液体がとめどもなく内腿を滴っている。まるで失禁してしまったかのような感覚だったが、しかしそれは快楽に導かれる蜜だった。  透明な糸となって滴る蜜。  まるで、身体が内部から溶けて流れ出していくようだ。  身体と同時に、意識も溶けていく。  手足の感覚がなくなっていく。  残っているのは性器の感覚だけ――そんな気がした。 「……は、ぁっ……っ」  もう、喉を掴まれていることすらわからない。  感覚が下半身だけに集中している。  胎内で蠢いているイメルの指だけがすべてだった。  自我なんて存在しない。ただただ、快楽を求めるだけ。  たったひとつのこと以外、なにも考えられない。  もっと。  もっと。  もっと気持ちよくなりたい。  もっと気持ちよくして欲しい。  狂ってしまうくらいに。  他になにも考えられない。なにもわからない。  自分が誰なのか。  今、なにをしているのか。  すべて忘れている。  自分が魅魔師であることも、魔物を狩る使命も、記憶の彼方に消し飛んでいた。  望むことは、ひとつ。いつまでもこの快楽の海で揺蕩っていることだけ。  だから、首からイメルの手が離れ、地面に落とされたことにも気づいていなかった。ただ、自分の中から指が抜け出たことに強い虚無感を感じていた。 「ぃ……ゃぁ……」  いやだ、いやだ、やめないで欲しい。  自ら脚を開く。指で女の部分を広げる。 「……めない、で……も、っと」 『もっとして欲しいの?』 「欲しい……欲しいの、ねぇ……ねぇ!」  身体が疼く。  欲しい、欲しい。欲しくて仕方がない。  この想いが満たされなければ狂ってしまう。  どうせ狂うならば、快楽の中で狂いたい。 『もちろん、やめるわけがないわ。これからが本番よ。そして、本当の快楽を知って死ぬことになる。この上なく幸せな死に方でしょう? 生きたまま喰われることさえ悦びになるのだから』  仰向けになったカムィの上に、イメルが覆い被さってくる。顔を、下腹部へ近づけていく。  長い舌を伸ばす。  人間を発狂させる力を持った舌を。 * * * 「あ……ぁ……、……っ」  声が、聞こえる。  甘ぁい、声。  知ってる……この声。  誰の……声、だっけ。  甘ぁい、匂い。  誰の……匂い、だっけ。  ほら、目に映っているのに。  見えない。  もう、視界が霞んでいる。  もう、意識が混濁している。  見えない。一番見たい人が見えない。  ……そうだ、カムィだ。  カムィの声だ。  でも、どうして?  どうして、こんな甘い声を出してるの?  どうして、こんなに甘い匂いがするの?  あたしはここにいるのに。  あたしはカムィに触れていないのに。  どうして、カムィはこんなに悦んでいるの?  カムィに触れている魔物がいる。  カムィを犯している魔物がいる。  許せない。  許せない。  許せない。  許せない。  あたしのなのに。  あたしのものなのに。  カムィを悦ばせていいのは、あたしだけなのに。  カムィに触れていいのは、あたしだけなのに。  カムィに……  カムィに………… 「……カ……カムィに触るなぁぁっ!」  これだけの深手を負ってもまだ身体が動くなんて、自分でも思わなかった。  それでも、足が地面を蹴る。  爪が閃く。  イメルの顔をかすめ、鮮血が飛び散った。 「――っ、この……っ」  目を押さえたイメルが、怒りの形相を向ける。  カンナの爪に引き裂かれた左眼が、血に染まっていた。 「この……死に損ないの小娘がっ!」  腕を振る。  もう、かわす力は残っていない。  カンナのものよりも長く、鋭く、力強い爪が、胸から首にかけてを深く剔っていく。  切断された動脈から血が噴き出し、カンナは今度こそ力尽きて倒れた。 * * *  紅い――  視界が紅い。目に映るものすべてが紅い。  のろのろとしか動かない左手で、カムィは無意識に顔を拭った。  紅い。  顔を拭った手が、紅く染まっている。  ああ、これは……  ようやく理解する。  これは、血だ。  だけど、誰の血だろう。  カムィの手や顔には、こんなに出血するほどの傷はない。  ああ……あれだ。  紅い視界の中で、カンナが倒れている。  全身血まみれだ。  周囲に飛び散ったカンナの血。あの血を浴びたのだろう。  でも、カンナはどうして倒れているのだろう。  ああ……そうか。  イメルだ。  ほら。  倒れたカンナに馬乗りになり、その鋭い爪を深々と突き立てている。  そうだ。カンナはイメルに襲いかかって、返り討ちにあったのだ。  ……やっぱり、子供だ。  考えが足りない。  勝てるはずがないではないか。  魔物の霊長である竜族。  それも、成熟した個体。  勝てる道理はない。  竜族の子供だろうと、魅魔師だろうと。  逆らうだけ無駄なのだ。  なのに、どうして?  どうして…… 『カムィに触るなぁぁっ!』  それが、最後に聞いた声。  そう、カンナの声だった。  カンナは、カムィを助けようとしたのだ。  どうして……  イメルの最初の一撃で、既に瀕死の重傷を負っていたのではないか。 「このクソガキっ、よくも私の目をっ!」  イメルの顔に、先刻までの美しさは欠片もなかった。恐ろしい形相で、カンナの胸に、腹に、何度も何度も爪を突き立てている。  その度に飛び散る血飛沫。  カムィはその光景を、ぼんやりと見つめていた。  イメルも血を流している。左眼が真っ赤だ。 「……目?」  カンナがつけた傷。 「き……ず?」  なんだろう。  なにか、大切なことを思い出しかけているような気がする。  紅い……  血……  傷……  人間では傷つけられない竜族が、傷を負っている。  同じ竜族のカンナだからできたのだ。魅魔の血を持ってしても傷つけられなかったイメルに、傷を負わせたのだ。  傷……  血が流れている。  血。  そう、血だ! 「わ……た……私は……」  なにをしている。  私は、こんなところでなにをしている。  なんのために、ここにいる!  血だ。  選ばれた血を持つ者だから。  魅魔の血を受け継ぐ者だから。  だから、ここにいるのではないか。  なのに、今までなにをしていたのだろう。  イメルに魅了され、犯され、与えられる快楽の虜になりかけていた。  こんなに胸が張って。  こんなに股を濡らして。  冗談じゃない! 「私は……魅魔師、だ」  魔物を狩るために、生きてきたのだ。  姉を、母を、殺した竜族に復讐するために、生きてきたのだ。  こんなところで座り込んでいる時ではない。  動け。  動け!  自分の身体を叱りつける。 「……く……そ」  下半身にまるで力が入らない。  まだ、甘美な痺れが残っている。  いつまでも、その余韻に浸っていたくなる。  だけど、そんなことは許されない。 「う……く」  すぐ傍に、自分の短剣が落ちていた。  のろのろと手を伸ばす。  指先に触れる、硬く冷たい金属の感触。  ほんの少しだけ、意識が明瞭になる。  剣を握れ!  立て!  立って、戦え!  自分を叱咤する。  イメルは今、カンナにとどめを刺すことに気をとられている。カムィを見ていない。カムィに戦う力が残っているなど、努々思っていない。  隙だらけだ。  しかも、片眼は傷ついて死角になっている。  狙うのはあそこだ。カンナが残してくれた傷。あそこなら、カムィの刃も通るはずだ。  動け!  動け!  思い通りにならない身体に命じる。  あいつは竜族だ。  憎むべき敵だ。  竜族は、仇。  母の仇  姉の仇。  そして。  そして……  カンナの! 「こ……のぉっ!」  最後の力を脚に注ぎ込む。  短剣を構え、地面を蹴って身体ごとぶつかっていく。  傷ついた目にはまだ視力が戻っておらず、完全な死角となっていた。イメルの反応が遅れる。  はっと気づいてこちらを向いたその左眼に、魅魔の血を塗った刃が吸い込まれていった。 「……がっ、ああぁぁぁ――――っっ!」  周囲の樹々さえ震えるほどの絶叫。  叫びながら闇雲に腕を振り回す。カムィの身体は弾き飛ばされ、カンナに折り重なるようにして倒れた。  短剣を握っていた左腕は爪で剔られ、骨まで砕かれている。それでも、刃はイメルの左眼に深々と突き刺さったままだ。 「く……ぅ、ふっ」  激痛に顔をしかめながらも、なんとか身体を起こす。まだ終わっていない。とどめを刺さなければならない。  もう両腕は使えないが、それでも顔にはカムィ本来の表情が戻っていた。 「……もう、終わりにしよう。これ以上一瞬でも貴様の顔を見るのは不愉快だ」 「……はっ!」  イメルが短剣を引き抜く。傷ついた目を押さえ、苦痛に顔を歪めながらも、カムィを見くだすような笑みを浮かべた。 「ちょっと私の動きを封じたくらいで、勝った気になっているの? どうやってとどめを刺すつもり? 両腕の使えない、それどころかろくに動くこともできない状態で?」   確かに、イメルの言う通りだった。  肩を外され、腱を痛めている右腕。  深く肉を剔られ、骨を砕かれた左腕。  まるで力の入らない脚。  もう、武器を持つことはおろか、立ち上がることもできない。  目の傷からイメルの体内に入った魅魔の血はごく少量だ。ただでさえ強い力を持つイメルのこと、わずかな時間動きを封じるのが精一杯だろう。  しかし、それで充分だった。 「別に、私が手をくだす必要もないだろう?」 「なに?」 「……カンナ!」  低い声で、その名を呼んだ。  傍らに倒れている魔物の少女の名を。 「なにを戯れ言を。小娘はもう死んだも同然……」  倒れているカンナに向けたイメルの視線が、そのまま凍り付いた。  驚愕に開かれた目。  顔に困惑と恐怖の色が浮かぶ。 「じ……冗談、……だろ……?」  力なく地面に倒れたままのカンナが、ゆっくりと腕を持ち上げていく。  真っ直ぐに、イメルへ向けて。 「な……なに動いてんだよっ、クソガキがっ!」  イメルは我を忘れて怒鳴った。  こんなこと、あるわけがない。カンナはもう瀕死の状態で意識もない。動けるはずがないのだ。  なのに―― 「忘れたのか? カンナは、私の血を飲んでいるんだ」 「――っ!」 「カンナ、そいつを始末しろ」  冷たい口調で命じる。小さな声だったが、その声には『力』が込められていた。  魔物を支配する、魅魔の力。  カムィの血を口にしたカンナの肉体が、その声に応える。  魅魔の血は、カンナ自身の意志ではもう動かせない身体さえ支配していた。 「死んでろよ、てめぇはっ! ……畜生っ、畜生っ、畜生っ! 畜生ぉっ!」  イメルの声にも、表情にも、まったく余裕がなくなっていた。  動けない。身体が動かない。  短剣に塗られたカムィの血によって、一時的とはいえ動きを封じられている。  カンナの掌が、真っ直ぐイメルへ向けられる。  肌がぴりぴりする。  髪の毛が逆立つ。  カンナの腕が、青い燐光を放っている。  それは、竜族が、偉大なる竜の末裔である証。  魔物の中でも竜族だけが持つ力。  雷を操る力――  目も眩むばかりの閃光。  爆発音と、身体に叩きつけられるような衝撃。  カムィは固く目を閉じていたが、それでも視界が真っ白になった。  そして、カムィの視力が戻った時―― 終章  目の前に、二体の魔物が倒れていた  一体は既に事切れている。朱い髪の魔物の方だ。  いかな強靱な生命力を持つ竜族といえども、胴を真っ二つに引き裂かれては生きていられる道理もない。  そしてもう一体。  黄金色の髪の魔物。  こちらも間もなく死ぬだろう。  全身にひどい傷を負い、大量の血を流している。既に意識はない。  竜族――  その気になれば、一体でも街ひとつ、国ひとつを滅ぼすことのできる魔物。  人間の天敵。  それを、一度に二体、倒せる。  悪い話ではない。  普通なら、たとえ魅魔の力を持ってしても、一体を倒すことすら至難の業だろう。  それを、一度に二体。  このまま、放っておくだけでいい。  あと、ほんの少しの時間。  どうせ自分も、傷と、疲労と、イメルに犯された後遺症で、動くのも困難な状態なのだ。  動けない。動きたくない。  だから、回復するまでこのまま横になっていればいい。  ただそれだけで、片が付くのだ。  目の前で死んでいく。  母親の、姉の、故郷の村の仇が。  ただ、黙って見ているだけでいい。  ……なのに。 (私は、何をしようとしている――)  自分に問いかける。  腕はほとんど動かない。立ち上がることもできない。それでも這うようにして、カンナの傍に移動する。  上体を起こし、左腕をカンナの顔の上に乗せる。  ぽたり。  ぽたり。  腕の傷から、血が滴り落ちる。  カンナの顔の上に。  カンナの唇の上に。 「……くそっ」  なにをしようとしているのだろう。  こんな……  こんな、馬鹿なことを。  ぽたり。  ぽたり。  血が滴り落ちる。  カンナの顔の上に。  カンナの唇の上に。  魅魔の血が。  魔物に力を与える血が。  それでもカンナは目を開けない。 「……馬鹿が。身体中、こんな傷だらけにされて」  もう手遅れだろうか。  これでは、少しくらいの血では足りない。  視線を巡らせる。地面に落ちた短剣が目にとまった。  しかし、両手は物を握れる状態ではない。犬のように口でくわえて拾い上げる。地面に這いつくばったまま、刃を手首に押し当てて首を振った。  血が、湧き出すように流れ出てくる。その手を再びカンナの顔の上に乗せる。  先ほどとは比べものにならない勢いで滴る鮮血。口の中に流れ込んだ血は、しかし、飲み下されることなく溢れてくる。  意識のないカンナには、もう、血を飲み下す力も残っていないのだ。 「……くそっ、どうした? 血が欲しかったんじゃないのかっ?」  怒鳴りつけても埒があかない。カムィは手首の傷に唇を当て、口の中いっぱいに血を含んだ。  そして――  カンナと唇を重ねる。  口の中に血を流し込み、強引に飲み込ませる。  もう一度、二度。  何度も、何度も繰り返す。 「……くそ」  いらいらする。  どうして、こんなことをしているのだろう。  血を……貴重な魅魔の血を、こんなことに使うなんて。  相手は、狩るべき獲物。憎むべき宿敵。  魔物を、竜族を、救おうとしているなんて。  それも、もう手遅れかもしれないのに。  それなのに。  貴重な魅魔の血を、死にかけた魔物に与えるだなんて。  馬鹿だ。  馬鹿だ。  魅魔師としては、どうしようもなく馬鹿な行為かもしれない。  だけど。  だけど――  許せなかった。  どうしても許せなかった。  母や、姉や、祖父や、故郷の村の人々のように……カンナが突然、自分の前からいなくなるだなんて。  許せない。  許さない。  許さない。  許さない。 「カンナ……」  私は、あんたを許さない。  私に、あんな屈辱を味わわせたあんたを――  許さない。  このまま消えるなんて、許さない。 だから――  自分の血で真っ赤になった口で、カムィはつぶやいた。 「……私が許すまで、私の傍にいなさい。……いなければならないんだ!」 * * * (……そう、思ったんだ。あの時は)  きっと、なにかの気の迷いだ。  疲労と出血多量とで、頭がどうかしていたに決まっている。  そうじゃなければ、どうしてあんなことを―― 「くそぅ……なんで私がこんな目に遭わなければならないんだっ」  忌々しい。  この二日間、数え切れないほど繰り返した台詞を吐き捨てる。 「なんで……って、そりゃあ、あれだけ血を流せば……ねぇ?」  必要以上に明るく元気な声でカンナが笑う。  その笑顔が癇に障る。  おかしい。  この魔物は、ほんの二日前には死にかけていたはずではないか。 「……なのにどうして、そんなに元気なんだ!」 「だって、竜だもん。カムィの血をたっぷりもらったし」  二日前には全身ずたずたに切り刻まれて、生命が尽きるのも時間の問題だったはずだ。なのに今、カンナの身体にはかすり傷ひとつ残っていない。  対してカムィの方は、両腕を包帯と添え木でがちがちに固め、身体に力が入らなくて、上体を起こして座っていることさえ億劫な状態だ。  すべて、竜族が原因なのだ。  イメルに犯された後遺症と、そしてなにより、カンナに血を与えすぎたせい。  いまだに顔には血の気がなく、身体にはまるで力が入らない。起きあがっただけで息が切れる。 「……くそっ、やっぱりお前なんか見捨てておけばよかった」  あんなの、一時の気の迷いだ。そうに決まっている。 「まぁまぁ、済んだことをいつまでも愚痴るなんて」 「やかましい! 誰のせいだと思ってるんだ!」 「だから、お礼にこうしてカムィの世話してあげてるんじゃない? ……はい」  カンナの手が、採ってきたばかりの果実を摘みあげる。 「はい、あーん」  よく熟した真っ赤な果実が、口の前に差し出される。 「……なんの真似だ」  まるで、赤ん坊の世話でもしているみたいではないか。私をいくつだと思っている。 「だって、自分で食べられるの?」  カムィは自分の両腕を見下ろした。  包帯と添え木で固められ、動かすこともままならない腕。少し動かしただけでも激痛が走るし、そもそも腕を上げようにも力が入らない。 「……そ、そのくらいなんとかする!」  カンナの手から食べさせてもらうくらいなら、他のどんなことでもする。 「なんとか? どうやって? 無理だって」  くすくすと笑いながら、果実を唇に押しつけてくる。  甘い匂い。瑞々しい、汁気たっぷりの果実。  口中に唾液が湧いてくる。  お腹が鳴る。  食べないわけにはいかなかった。  傷つき消耗した身体が、滋養を欲している。  とはいえ、こんな、カンナに世話されるだなんて。  しかし――  気の迷いで、死ぬはずだった魔物を生かしてしまったのだ。  その責任はとらなければならないだろう。  殺せないのならば、側に置いて付き合っていくしかないのだ。 「…………」  心の中の様々な葛藤と戦いながら、カムィは渋々と口を開いた。  果実を一口囓る。  新鮮な果汁が口の中いっぱいに広がる。 「……おいし?」  カムィの顔色を窺うように訊いてくる。 「…………ああ」  小さくうなずくと、ぱっと笑顔になる。 「甘い……な」  カンナが手ずから食べさせてくれた果実は、今までに食べたどんなご馳走よりも、甘く美味しかった。 あとがき  ごきげんよう、北原です。  久々の長編、『魅魔竜伝』小説版をお送りいたします。  これを読むほとんどの方はご存じでしょうが、創作百合系ジャンルで人気の同人サークル『桜井家』の同名コミックの小説版です。「原作」じゃありません。あくまでも「小説版」。  ということで、『魅魔竜伝』誕生のエピソードを簡単に紹介しましょう。  桜井家のタキさんから「ファンタジーものの原作を書いて欲しい」と頼まれたのが、二○○三年の夏コミの初日。東京は新橋駅近くの居酒屋で、かなさんを含めて三人で飲んでいた時のこと。  酔ってた勢いで安請け合いしましたが、頼んだタキさんも、その後、あんな苦難が待ち受けているとは夢にも思わなかったでしょう。  簡単な打ち合わせで基本路線は「剣と魔法系」「アクション」「百合」「えっちアリ」と決まりました。で、ネタ帳にあった十八禁ファンタジーもののネタを百合に焼き直したのが、『魅魔竜伝』の原型です。  コミケ後、半月ちょっとでプロットとキャラデザインが決まり、その後はネーム〜下描き〜ペン入れ〜仕上げという(主にタキさんの)長い長い作業。二○○四年一〜二月の桜井家の修羅場っぷりは、ご存じの方も多いかと思います。ご存じない方は、『サクライケ』の日記や桜井家通信をお読みになるとよくわかるでしょう。  それでもなんとか(奇跡的に)二月のコミティア67で初売りにこぎ着けることができました。  それはすべて、執筆と仕事以外のすべてを捨てて原稿に立ち向かったタキさんの努力と、無償で背景のほとんどを描いてくれた、今は亡き澄乃はな氏の献身のおかげといっていいでしょう。この場を借りて、はなちゃんのご冥福をお祈りします。  ……で、小説版の執筆作業はコミティア後に開始しました。あえて、コミック版が完成してから取りかかったのです。  自分のアイディアがコミック化されたその作品を読みながら小説を書く――滅多にできない貴重な体験ですからね。  あくまでもコミック版をベースに、ページの都合その他の理由で省略されたエピソードや第二話以降の伏線を加筆したのがこの小説版。単に自分のプロットを小説にまとめただけではなく、タキさんのアイディアが含まれたコミック版のノベライズでもあるわけです。  で、コミック版は一冊読み切りですが、小説版は全三話構成となる予定です……が、二話、三話がいつ頃公開できるかはまったくの未定。なにしろまだ『一番街の魔法屋』の二話も書いてませんし。  しかもこの後の魅魔竜伝は、さらに濡れ場が増える予定で、はたして全年齢向けで公開できるかどうかも微妙なところ。ひょっとしたら『〜残滓〜』の方に掲載することになるかもしれません(笑)。ま、気長にお待ちくださいな。  あ、そうそう。もしも第二話を書くとしたら、今回入れられなかった「踊れ」のエピソードをぜひとも入れたいですねぇ(笑)。  では、恒例の……いや、最近あまり恒例じゃなくなっていた次回予告。あとがきで、次の長編のはっきりとした予告をできるなんて、いったいいつ以来でしょう?(苦笑)  ということで、もしかしたら間に短編が一本入るかもしれませんが、長編については晩夏〜初秋頃、『竜姫の翼 〜北極航路邀撃戦隊〜』をお届けします。  異世界ファンタジーでも現代ものでもない、これまでのキタハラ作品とはひと味違う設定の近代戦争物。  ジェット戦闘機が実用化されたばかりの時代に、空軍のパイロットとなった少女が主人公の、空戦美少女活劇の傑作です。『光の王国』が好きな読者には特にオススメの一作。原稿用紙四○○枚近い、読み応えたっぷりの長編。  ファンの期待は裏切らないはずなので、どうぞお楽しみに。 二○○四年六月 北原樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://hure-chise.atnifty.com/ サクライケ http://www2.to/sakuraike2000/