序章  月の明るい夜だった。  空に雲はほとんどなく、丸い月だけが天中に近い高さに浮かんでいる。  月明かりの下、一人の娘が夜道を歩いていた。  年は十代の半ばに達するかどうかというところだろう。その身体はようやく女らしい丸みを帯び始めたばかりという印象だ。  腰まで伸ばした美しい長い髪が、月明かりを反射して黒曜石のような輝きを放っていた。  歩いているのはこの先にある村へ向かう道だが、真夜中に近い時刻だというのに特に急いでいる様子もない。むしろ、夜風が頬を撫で、長い髪をなびかせるのを楽しんでいるかのように、ゆっくりとした脚の運びだった。  端から見れば、不用心なことこの上ない。  若く美しい娘が夜道を歩くなど、それだけでも物騒な話である。ましてやこの辺りでは、もうひとつの理由でその危険は桁違いに高い。  成人男性でも、よほどのことがなければこんな夜中に一人で外出することはないのだが、まさかそのことを知らないわけではあるまい。  腰に、やや小振りの剣を佩いているが、少女の細腕ではさほど役に立つとは思えなかった。そもそも、屈強な剣士の大剣であっても、この地にはびこる危険に対しては無力に等しいのだ。  そんな少女の姿をひそかに見つめている、一対の視線があった。  視線の主は若い男だ。いったいどうやって登ったのか、枝もそれほど多くない高い樹の、梢近くの細い枝の上に立っていた。  ――にやり。  足下を通り過ぎる少女を見て、気障な笑みを浮かべる。  男が、普通の人間ではないことは一目瞭然だった。その瞳は肉食の獣のように、月明かりの下で爛々と輝いている。  美味そうな獲物だ、と長い舌で舌なめずりをする。単に「美味そう」などというものではない、かつて見たこともないほどの極上のご馳走といってもいい。  これだけ離れていてもはっきりと感じる。うっとりするような甘い血の芳香を。  その香りだけでも力が湧いてくるようだ。  ――邪魔が入らないうちに、さっさといただいてしまおう。  そう考えると同時に、男は枝を蹴った。どんなに運がよくても大怪我は免れないはずの高さから音もなく飛び降りると、獲物を狙う猫よりも静かに少女の背後に忍び寄る。  しかし相手は予想以上に勘がよかった。気配は完全に殺していたはずなのに、手が届く距離に迫る前にこちらを振り返り、同時に腰の剣を素速く抜いた。  だが、少女にできたのはそこまでだった。  男が視線を向ける。  漆黒の瞳を、正面から見つめる。  少女は目を見開くと、次の瞬間動きを止めた。  すぐに、目の焦点が合わなくなる。手から力が抜け、乾いた音を立てて剣が地面に落ちる。  男が手を伸ばす。  指が首筋に触れた瞬間、少女の身体は小さく痙攣した。  細い首に爪先を滑らせる。真白い肌の上に紅い筋が浮かんでくる。  男はそこに唇を押しつけ、滲み出す血を舌で拭った。  ――素晴らしい。  予想通り、極上の味だった。これほどの血にはいまだかつて出会ったことがない。  わずか一滴で、喉が、腹が、かぁっと熱くなってくる。  身体中に力が満ち溢れてくる。  細い傷から滲む血だけでは我慢できなくなり、男はその鋭い牙を喉に突き立てた。  口の中いっぱいに極上の味が広がる。  少女は苦痛の声を上げるどころか、感極まったような甘い呻きとともに身体を強ばらせた。脚ががくがくと震えている。  鼻孔をくすぐる芳香がさらに強くなる。  男は指を拡げ、少女の首筋から下半身へと手を滑らせた。鏨よりも強靱で剃刀よりも鋭い爪が、少女の着物を切り裂いていく。  着物の切れ端が地面に落ちるのと同時に、少女も崩れるようにその場に座り込んだ。虚ろな、しかし熱っぽい瞳で、前に立つ男を見上げている。  白い肌が朱みを増す。  その小さな身体を押し倒すと、少女は待ち望んでいたかのように自ら脚を開いた。  横たえられた少女の身体を上を、また、男の爪が滑る。  肌には幾本もの紅い筋が残り、甘い香りの血が滲み出してくる。  少女の唇から甘い吐息が漏れる。  傷のひとつひとつに舌を這わせる。  その度に小さな身体が痙攣する。  甘く切ない吐息が、甲高い嬌声に変化していく。  周囲に満ちる血の芳香が甘みを増してくる。  男は上体を起こすと、細い脚を掴んで大きく開かせ、その間に身体を入れた。まだ幼さの残る身体にあるまじき量の蜜を滴らせている秘所を、古木の太枝の如き男性器で一気に貫く。 「――――っっ!」  少女が声にならない叫びを上げ、身体を大きく仰け反らせる。  跳ねる身体を押さえつけ、男は激しく腰を打ちつける。  ひと突きごとに、少女は悲鳴を上げる。それは痛みや恐怖に因るものではなく、気が狂うほどの快楽がもたらす甘い叫びだった。  本来ならば男性を受け入れるにはまだやや早いと思われる身体が、大きく弾む。全身の筋肉を強張らせ、初めての絶頂を迎える。 「あぁぁぁぁ――――――っっっ!」  少女の絶叫が小さな森の中にこだまする。  肺の中の空気が空になってその叫びが途切れる。少女は最後にもう一度大きく身体を痙攣させると、そのまま動かなくなった。  男は身体を離し、横たわる少女を見おろした。  焦点の合わない瞳。  泡混じりの唾液を溢れさせている半開きの唇。  陸に打ち上げられて死んだ魚のような、力の抜けた身体。  それでも顔には恍惚の表情を浮かべている。  開かれた脚の中心が、破瓜の血で紅く濡れている。その部分が、他のどこよりも強い芳香を放っている。  男はそこに顔を寄せると、滴る血を一滴残らず啜った。  言葉にならない、至上の美味。  ただ美味なだけではない。  その生涯に一度だけ流す血。それこそが、彼にもっとも力を与えてくれる。  男は紅く染まった唇を、長い舌で舐め回した。 「最高だ。このまますぐに喰ってしまうにはあまりにも惜しいな。しばらくはこの血を楽しませてもらうか……」  生かしておけば、当分の間はこの素晴らしい血を味わうことができる。  もっともっと力を得ることができる。  一時の欲望に駆られて喰い殺してしまうのは、下等な獣のすることだ。 「さて……」  再び身体を重ねようとしたところで、男の耳が微かな物音を捉えてぴくりと動いた。  立ち上がって振り返る。  近づいてくる気配。  人間ではなく、獣でもなく。  もっと、強い力を持つもの。  この娘の血の匂いに惹かれてきたに違いない。人間や獣には感じ取れないだろうが、頭の芯がとろけるほどの甘い芳香が周囲に満ちている。彼の眷属であれば森の向こう側からでも嗅ぎとれるだろう。  もちろん、他者に分けてやるつもりなど毛頭なかった。この極上の血は自分だけのものだ。  男はにやりと笑う。  ――ちょうどいい。  この血で得た力を試すいい機会だ。  一歩、二歩。  気配が近づいてくる方向へ足を進める。  近づいてきたのは、彼と同様に金色の瞳を持った男だった。やや年長で、身体も筋肉質でひとまわり大きい。 「美味そうなニオイさせてるじゃねーか。お前みたいな若造には過ぎた獲物だろ? 俺にも少し分けてくれよ」  口では「分けてくれよ」と言いながらも、それが口先だけであることは表情を見れば一目瞭然、「その獲物を俺によこせ」が本音だ。  昨日出会っていれば、あるいはその言葉に従ったかもしれない。逆らっても勝ち目の薄い相手だ――と。  しかし今ではまったく事情が違う。この男と戦うことに、毛ほどの不安も感じなかった。 「失せろよ、ザコが」 「ガキが偉そうな口をきくなよ。身の程を教えてやる」  年長の男が腕を上げる。大きな手の指先に生えた爪は、その一本一本が槍の穂先ほどの長さと鋭さを備えていた。  男は地面を蹴ると、目にも留まらぬ速さで間合いを詰めて腕を振りおろした。  その物騒な武器は、相手がたとえ羆であってもずたずたに引き裂いただろう。しかし見た目はずっと細身の若い男は、まるでそよ風に揺れる小枝をつまむような軽やかな動作で、その太い手首を掴まえた。  そのまま、手に力を込める。  岩が砕けるような音。  それは太い骨が粉々になる音だった。  痛みと驚愕で大きく見開かれる金色の目。  大男の動きが止まる。  若者がもう一方の手を突き出す。  その手は大男の厚い胸板を易々と突き破り、心臓を貫いた。  腕を引き抜く。  胸に開いた穴からどす黒い血をごぼごぼと噴き出しながら、大男の巨体が倒れる。  若い男はその光景を満足げに眺めていた。  自分でも予想以上の力だった。  たった今得たわずかばかりの血で、もうこれほどの力が湧いてくるとは。  一撃で倒したこの大男は、以前の彼であれば命を賭して戦わなければならないほどの相手だったはずだ。  ――素晴らしい。最高だ。  しかも、これで終わりではない。  あの人間の娘がいれば、あの血があれば、さらに強くなれる。  やはりあの娘は生かしておいて、もっと血を得るべきだ。あの血を毎日得ていれば、彼の力は一年後にはどれほどのものになっていることだろう。  もっと、もっと、強くなれる。  雷の名を持つ者よりも、死の名を持つ者よりも。  そのことを思うと、自然と口元が弛んでしまう。  我慢できない。  ――やはり、今夜のうちにもう少し血を啜っておこう。  そう考えて娘のところに戻る。  少女はこちらに背を向けて、力なく座っていた。  もう、自分の意志など残ってはいまい。最初の交わりで死ななかっただけでも僥倖だ。今は彼が与える快楽を貪るだけの存在に成り下がっているはず。  娘の肩に手をかけ、その身を横たえようとする。  その時―― 「……え?」  娘の手が動くのと同時に、腹に灼けるような痛みが走った。  一瞬なにが起こったのか理解できずに、自分の身体を見おろす。  目に映ったのは、腹に深々と突き刺さっている剣。  この娘が持っていた剣だ。  ――そんな、馬鹿な。  自分の目を疑った。  これはなにかの間違いだ。  人間の武器が、しかも小娘の細腕で、この身を貫けるなんて。  それが、こんなにも痛いなんて――。  あり得ない。  あり得ない。  なにかの間違いだ。 「――っ」  剣を逆手に握って背後に立つ彼を刺した娘が、ゆっくりと立ち上がって振り返る。  ――そんな、馬鹿な。  もう正気を保っているはずなどないのに。  しかしその瞳には、強い意志が感じられた。憤怒の形相で彼を睨みつけている。 「よくも…………貴様……よくもわたしを……」  怒りに震える声。  自分を陵辱した相手を射抜くような鋭い視線。  その瞳は――  人間にはあり得ない、紅い血の色に輝いていた。 一章  満月の夜――  深夜の森は、明るい月光を葉に受けて銀色に輝いている。  それはまるで宝石でできた作り物で、虫の音もない森は時が止まった空間のようだった。  しかし突然、静寂が破られる。  下腹に響くような魔物の咆吼が、樹々の枝をびりびりと震わせる。  それは、断末魔の咆吼だった。    巨木の幹を思わせる太い胴体を深々と剔られ、どす黒い血をまき散らしながら倒れる巨体。  その身体は最大の羆ほどの大きさがあったが、外見は獣というよりも、不自然なまでに人間に似ていた。  魔物――  普段は人間の姿をとりながら、どんな猛獣よりも恐ろしい力を持ち、人の血肉を糧とする存在。  本来ならば弩や大斧を用いても傷つけることさえ難しい相手だが、今この巨体を引き裂いたのは、武器など持たない小柄な少女だった。  くせのある短い金髪が動きに合わせて揺れ、月明かりの下できらきらと輝いている。  体格の割には豊かな胸をしているが、そのあどけない顔は、人間であればまだ十代半ばくらいのものだろう。  しかしもちろん、少女は人間ではありえない。  魔物の返り血で汚れた右腕の先に並ぶ、鋼色をした小刀のような爪。  笑みを浮かべた唇の端から微かに除く鋭い牙。  そして、月明かりを反射して爛々と輝く黄金色の瞳。  それらはすべて、この少女が最強の魔物――竜族――であることを示していた。  少し離れたところに、もう一体の魔物の姿があった。  やはり羆に似たその巨体は、先ほど倒された魔物よりもいくぶん大きい。  その前に立つのは、一人の女だった。  竜族の少女よりも何歳か年長だろう。もう少女とは呼べないが、成熟した大人の女になりきってもいない。喩えていうなら、蛹から羽化したばかりの蝶のような美しさを備えていた。  女性としてはやや長身で、腰まで伸ばした長い髪は闇に溶け込むような漆黒。その並はずれた美しさを除けば、外見に不自然な点はない。人間の――美しい人間の女だ。  しかしその態度は、およそ自然とはいえなかった。  巨大な魔物と間近で対峙し、手にした武器は小さな短剣ひとつであるにもかかわらず、怯えた様子など微塵もない。むしろ楽しげな――どこか残忍さの感じられる――笑みすら浮かべていた。  地響きを立てて襲いかかる魔物を、女は後ろに跳んでかわす。しかし、いくら巨体であっても魔物の瞬発力は獣の比ではなく、人間の反射神経でかわしきれるものではない。  鋭い爪がかすめた腕に、一筋の紅い傷が浮かび上がった。  魔物は、爪についた血を旨そうに舐める。 「……極上の血だなぁ。その血、一滴残らずいただくぞ」  獣の唸りのような低い声で言うと、魔物は再び襲いかかろうとする。  その時、女が腕を前に差し出した。「待て」とでもいうように広げた掌を向ける。  魔物が踏み出した脚を止める。しかしそれは、己の意図した動きではなかった。  意に反して、脚が固まったように動かない。 「な……?」  女が目を細める。うっすらと笑みを浮かべる唇が開かれる。 「お前のような雑魚には、魅魔の血は一滴でも多すぎたな。もったいないことをした」 「魅魔の……血、だと……」  魔物の顔が、生まれて初めて経験する恐怖に歪む。  魅魔の血――  魔物を魅了し、思うままに操ることのできる血。  魔物に抗う術を持たない人間に与えられた、たったひとつの、そして最強の力。  女の目が、まっすぐに魔物を見据える。  魔物の目が見開かれる。  魅魔の血を受け継ぐ者だけが持つ、たったひとつ人間と違う外見。  それは、瞳。  紅い――血の色をした深紅の瞳。  その血を受けた魔物を、支配し、操る瞳。  言葉すら不要だった。  女は、魔物に向けていた手を自分の首に当てる。自分の首を掻き切るような動作をする。  魔物が、恐怖に凍りついた表情で同じ動作を再現する。  己の首にその鋭い爪を深々と突き立てる。頸動脈を切断し、気管を切り裂く。  霧のように噴き出す血を浴びながら、魔物の巨体はゆっくりと倒れていった。 * * * 「あーあ、雑魚ばっかり」  カンナ――竜族の少女――はつまらなそうに言うと、足元に倒れている魔物の頭を踏みつけた。  岩よりも硬いはずの頭蓋が、熟れすぎた柘榴のようにぐしゃりと潰れる。  あまり見目いい光景ではないが、カムィ――黒髪の魅魔師の女――は顔色も変えずに応えた。 「雑魚ばかりなのはその通りだが……」  しかし、その意見は真実ではない。  この二体の魔物、対峙したのが普通の人間であれば、重装騎兵の一隊を持ってしても返り討ちに遭うだろう。並の魅魔師であっても勝利はおぼつかない。  それを雑魚と言い切れるのは、カムィがもっとも純粋な血を受け継ぐ魅魔師であり、カンナがもっとも高位な雷の名を持つ竜族だからだ。  しかし二人の外見からその事を察するのは困難であり、魔物は己の生命が尽きる時にようやくその事実を思い知ることになる。 「……しかし、北へ向かうほど数は確実に増えているな。噂の通りだ」  カムィの言葉には、どこか嬉しげな響きがある。  魔物は故郷の村の、母の、そして血を分けた双子の姉の仇であり、魔物を狩る機会が増えることは、彼女にとって至上の悦びなのだ。 「そうだね。これからもっと増えてくるのかな」  応えるカンナも嬉しそうだ。  しかしその表情は、氷の微笑を浮かべるカムィとは対照的に、ご馳走を前にして尻尾を振る仔犬のように無邪気だった。 「……で、カムィ?」  黄金色の目を細めて、にっこりと笑うカンナ。その背後に、ぱたぱたと揺れるふさふさの尻尾が見えたような気がした。 「ねぇ?」  カムィは呼びかけを無視して視線を逸らす。カンナの言わんとしていることはわかっている。わかっているからこそ無視を決め込む。  回れ右して、森を抜けて街へ戻る道へ向かおうとした。 「ねぇカムィ、ごほーびは?」  その前に回り込んでにっこりと笑うカンナ。 「……」  にこにこにこにこ。  必要以上に無邪気な笑みを満面に浮かべている。しかし愛想のいい表情とは裏腹に、望みのものを手に入れるまでは梃子でも動かないという、無駄に強い意志が感じられる。  カムィは溜息をついた。  一度しまった短剣を抜き、刃先を指に押しつける。  滲み出る血が紅い珠になる。  その指を、カンナの前に差し出した。  しかし、それを望んでいたはずのカンナは飛びついてこない。 「カームーィー?」  にこにこにこにこ。  相変わらず笑ってはいるが、それは口元だけのこと。眉間には皺が刻まれ、こめかみに青筋が浮いている。 「……」  もう一度、さらに大きな溜息をつく。  カンナがなにを望んでいるかはよくわかっている。それはもう、いやというほどに。  そして、それを与えることには少なからぬ抵抗があった。 「私が、お前に、そこまでしてやる理由があるか?」  カムィにしてみれば、貴重な魅魔の血を一滴与えるだけでも椀飯振る舞いのつもりだ。 「あるよ」  笑みを崩さずにカンナが応える。 「あたしが、そうしたいから」 「……」 「それにさっきのザコ、あたしの方が先に倒したじゃん? カムィが負けたんだから、ごほーびは五割増しでしょ?」 「そんな約束はしていない!」 「えー、ちゃんと言ったじゃん! カムィってばずるいー!」 「お前が勝手に言っただけだろう。私が了解したわけではない」 「ぶ――」  そのまましばらく無言の睨み合いが続く。  カムィはこれ以上のものを与えるつもりはなかったが、カンナも引き下がる気配は見せない。  長い沈黙。  やがて、静まりかえった森に、虫や梟の声が戻ってくる。 「……」 「…………」  しかしこれは、カムィには分の悪い勝負だった。普段はせっかちなカンナも、竜族という種の特性として、その気になればいくらでも気長になれるし、一日や二日くらいは眠らず食事をせずに過ごしても苦痛ではない。  対してカムィは、いくら魅魔師といえども体力的には普通の人間と変わらない。夜半まで魔物と戦っていれば疲労もするし空腹も覚える。いつまでもこのまま睨めっこはしていられない。  先に根負けしたのはカムィの方だった。  諦めの表情で大きく溜息をつくと、忌々しげにつぶやいた。 「…………さっさと済ませろよ」 「んふ」  カンナが一歩近寄ってくる。  目の前に立って、大きな黄金色の瞳を向ける。  宝珠のような、美しい瞳。  思わず、その瞳をまっすぐに見つめてしまう。  ――見てはいけない。  いやというほどわかっているはずなのに、それでも視線が惹き寄せられてしまう。そして一度見つめてしまえば、もう視線を逸らすことができなくなる。  熱でもあるかのように、顔が熱くなってくる。  頭がぼぅっとして、身体が痺れたようになって、思うように動けなくなる。  カンナがもう一歩近づいてくる。もう、ほとんど触れ合うような距離だ。  腕が身体に回され、抱きしめられる。  カンナの顔がすぐ目の前にある。文字通り、鼻先が触れるほど間近に。  大きな目の中の、黄金色の瞳。  力のある視線。見つめていると、吸い込まれてしまいそうな気がする。  淡い桃色の唇が近づいてくる。微かな唇の隙間から覗く鋭い犬歯が、刃物のようにきらりと光る。 「あ……」  唇が重ねられた。  そして、ちくりと刺すような痛み。  唇を咬まれる。そこに舌が押しつけられ、滲む血を舐めとっていく。 「ん……は、ぁ……」  甘く、切ない吐息が漏れる。  どうしてこんな声が出てしまうのだろう。  これは、自分が望んでいることではないはずなのに。  ――熱い。  熱っぽくて、頭がくらくらする。無性に喉が渇く。 「ん、ぅく……」  唇を割って、舌が入ってくる。魔物特有の長い舌が口中をくすぐり、カムィの舌に絡みついてくる。  カムィも舌を伸ばしてそれに応えた。意図したことではなく、舌が勝手に動いてしまう。  錆びた鉄の味が口の中に広がる。唇から滲んだ血と、二人の唾液が混じり合う。 「カムィ……」  唇を重ねながら、カンナの手はカムィの着物の帯を解いていく。柔らかな音を立てて着物が足元に滑り落ちる。 「あ……」  露わにされた肌の上を、長く鋭い魔物の爪が滑っていく。  胸の膨らみの上に爪を立てられる。  一瞬の痛み。その痛みにさえ悦びを感じてしまう。熱い感覚が広がっていく。 「や……め……」  真白い肌の上に、紅い珠のような血が浮き出る。  カンナの長い舌がその上を這っていく。それはまるで大きな蛞蝓――いや、血を狙う蛭のようだ。  小さな紅い血の珠をひとつずつ舐めとっていく。  そのまま、胸の先端の突起を強く吸う。母の乳を吸う赤子のように。 「は、ぁ……っ、……ぁぅっ!」  痺れるような感覚。  堪えようとしても甲高い声が漏れてしまう。その声に促されるように、カンナの愛撫が激しさを増す。  最近のカンナは、ただ血を与えるだけではけっして満足しない。血と同時に、カムィとの性的な接触を求めてくる。  もちろん、それはカムィにとっては受け入れ難いことだった。性的な行為自体に抵抗があることに加えて、相手は憎むべき魔物であり、しかも同性なのだ。  人間の男女のような恋愛感情など生まれようもないはずの相手。そんな相手と肉体の交わりを持つなど、潔癖なカムィにとっては許し難い行いだった。  なのに、いざ始まってしまえばその快楽の虜になってしまうところがなによりも許し難い。  しかし、それも無理はない。カムィが魔物を魅了し、支配できるのと同じように、竜族のような力のある魔物は、人間を魅了することができる。魔物に犯された人間は、その多くが快楽のあまり発狂してしまうほどだ。 「……っ! あぁっ!」  カンナに吸われている乳首が固くなってくる。ひとまわり大きくなって突き出てくる。  そこを咬まれる。  乳の代わりに血が滲み出してくる。  カンナが喉を鳴らす。  赤子にとっては母の乳が一番のご馳走であるように、カンナにとってはカムィの血こそが至上の美味なのだ。  強く吸われる。  一滴でも多くの血を吸い出そうとしている。  その行為が、カムィに耐え難いほどの快楽をもたらす。 「やっ……ぁっ! ……あ……ぁっ!」  熱い。  身体が熱い。  下腹部の、身体の奥が熱い。  奥深い部分から、熱いなにかが滴り落ちてくる。  身体に力が入らない。脚ががくがくと震える。  自分の体重を支えきれなくなってその場に座り込んだカムィの肩を、カンナの手が押す。柔らかな草の上に横たえられ、その上にカンナが覆いかぶさってくる。  胸を吸い続けながら、手は胸から腹へ、そして下腹部へと下りてくる。腰、尻、太腿と、触られたくない部分ばかりに指を滑らせていく。いちばん触れられたくない部分に触れられた瞬間には、短い悲鳴を上げてしまった。  指先でくすぐるような、微かに触れる程度の接触。しかしカムィの身体は何度も大きく痙攣する。  指先でつつかれるたびに短い悲鳴を上げる口に、カンナの唇が重ねられる。長い舌が喉を塞ぐ。 「んんっ……ん、ぅぅっ……んぅっ!」  小刻みに動く指。  本当に微かな、微妙すぎる愛撫。  なのにもたらされる快感は気が遠くなるほどに激しい。  カンナはいつまでもそんな愛撫を続けている。失神せずにいられるぎりぎりの強さの快楽の波が、途切れることなく襲ってくる。  いつまでも、いつまでも続く愛撫。気持ちいいが故に、休むことなく延々と続く行為はむしろ拷問だった。 「……い……つまでやってる。……私は疲れているんだ。早く終わらせろ!」  カムィの口は、本心とは逆の台詞を吐く。けっして認めたくない心の内を覆い隠すために。  しかしそんな拙い偽装は、目の前の相手には通じていなかった。 「カムィってば素直じゃなーい。ちゃんと『我慢できないから焦らさないで』って言えばいいのに」 「な……、――――っっ!」  笑いを堪えるようなカンナの言葉に反論するよりも先に、衝撃が身体を貫いた。突然の強すぎる刺激に悲鳴を上げることすらできず、身体を大きく仰け反らせる。  ここまで繊細すぎるほどの愛撫を続けてきた指が、なんの予告もなしに一気に奥深くまで突き入れられていた。  膣全体が灼けるような、強烈な刺激。魔物だけが与えることのできる、運が悪ければ発狂するか、死に至ることすらある快楽。  ……いや。  運が悪ければ、ではない。むしろそれが常であり、カムィのように正気を保っていられる方が奇蹟に近い幸運なのだ。 「あ……や、ぁ……あぁ……」  激しすぎる快感のあまり、声も出せない。いっぱいに開かれた口から漏れた空気がひゅうひゅうと鳴る。  身体の中でカンナの指が指が蠢いていた。  長く鋭い魔物の爪が、膣の奥深くの繊細な粘膜を傷つける。その痛みさえ、今のカムィには至上の快楽としか感じられない。 「や……ぁ、や……め……」  やめろ。  やめろ。  理性が叫ぼうとする言葉。  だけど声にならない。  それは、本心ではない言葉。  だから、口にすることを本能が拒絶する。 「や……ぁ……、ぁ……も……っ」  もっと。  もっと。  もっと深く。  もっと激しく。  本能が叫ぼうとする言葉。  だけど声が出せない。  それが心の叫びであるが故に、微かに残った理性が押しとどめる。音にならない唇の動きだけがその言葉を紡ぎ出す。 「は……ぁ……っ、――っ!」  カンナが身体を動かし、カムィの脚の間に顔を埋める。  指が引き抜かれ、別な感触がそこに触れた。狭い膣を押し広げ、カムィの胎内に侵入してくる。  指よりも太く、長く、柔らかな弾力があって熱く濡れたもの。  人間のものよりもはるかに長く、器用に動く舌。  それ自体が意志を持った生き物のようにカムィの中で蠢き、溢れ出してくる淫猥な蜜と、爪がつけた傷から滲み出る血を、一滴残らず舐めとっていく。 「あ……ぁぁ……っ、は……ぁ…………ぁぁっ」  カムィの身体の中で蠢く舌。  それは最後に残った理性の欠片を、小さな飴のように舐め溶かしてしまう。  身体が勝手に動く。  脚を開き、腰を突き上げ、長い舌をより深く導き入れようとする。  さらなる快楽を得るために。 「か……ん……っ、……っ、――――っっ!」  けっして口にしてはならない本能の叫びを声に出す前に失神したことは、カムィにとってはむしろ幸運だった。 * * *  一定の、心地よい揺れ。  それはまるで、母の腕に抱かれていた赤子の頃の記憶を呼び覚ますかのような感覚だった。 「……?」  自分がいま何歳なのか。  どこでなにをしているのか。  カムィがそれらを想い出すまでに、目を覚ましてからしばらく時間が必要だった。  何度か瞬きをして、視力が戻ってきて周囲の風景を確認できたところで、ようやく意識がはっきりする。 「……おい」  声をかけると揺れが止まった。  同時に、ゆっくりと後ろへ流れていた景色も止まる。 「……この体勢は不自然だろう、降ろせ」  目を覚ましたカムィは、カンナの腕の中にいた。カンナはカムィを抱きかかえて歩いていたのだ。  森が疎らになっているところを見ると、今夜の宿をとっていた街に戻ろうとしているのだろう。しかし、このままではまずい。  カンナはどちらかといえば小柄で、カムィは細身ではあるが長身だ。小柄な女の子が、自分よりも大きな人間を抱きかかえて軽い足取りで歩いているというのは不自然極まりない。このまま街に戻っては騒動の元だろう。 「でもカムィ、疲れてるでしょ? 脚に力入らないんじゃない?」  からかうような物言いが癇に障る。 「……誰のせいだ」  カンナの言葉を否定することはできなかった。事実、腰が抜けたようになって下半身に力が入らず、しばらくは歩くどころか自分の脚で立つことさえおぼつかない状況だ。 「だからといって、このまま街に戻るわけにはいかんだろう。いくら夜中とはいえ、街に入れば少しは人目もある」 「じゃあ、見られない方法で行く?」  カムィの返事を待たず、カンナの背に淡い光が生まれた。それは広がるにつれて翼の形に変わっていく。  魅魔の瞳を持つカムィにだけ見える、竜の翼。  カンナは翼を大きく広げると、カムィを抱えたままふわりと宙に舞い上がった。  地面が遠ざかる。  森でいちばん高い梢より何倍も高く上がる。  カンナがにぃっと笑う。 「これなら見られないでしょ?」  確かに、深夜にこの高さを飛んでいれば、空を見上げている者がいても気がつくまい。万が一にも見られたら大騒ぎではあるが。  カンナが本気を出せば軍馬の疾駆よりも速く飛ぶことができるが、今はそこまで急いではいない。軽い駆け足程度の速度だ。  馬や馬車と違い、揺れや地面からの突き上げがないので不安定さはない。それでも下を見る気にはなれなかった。  見てしまえば、翼を持たない人間にとっては本能的な恐怖を覚える高度にいることを思い知らされてしまう。  カムィは不本意ながら、カンナの首に腕を回して掴まった。カンナが、悪戯に成功した子供の笑みを浮かべる。  愉快なことではないが仕方がない。こうしていなければ、カンナはしばしば落とす振りをしてカムィを脅かすのだ。身体を密着させているとそれで満足するのか、変な悪ふざけはせず静かに飛んでくれる。  長い髪がたなびき、カンナの頬をくすぐっている。  妙に嬉しそうな顔を見るのがなんとなく癪なので、カムィは進路が正しく街へ向かっていることを確認すると目を閉じた。  頬を撫でる冷たい夜の風は、決して不快なものではなかった。 二章  最近、北の地では魔物の被害が増えている――  近ごろ、そんな噂をよく耳にするようになった。  単に魔物に襲われる人間が増えているというだけではない。  人目を憚ることもなく、昼間から魔物が跋扈する地。  人間が鹿や兎を狩るように、魔物が人間を狩っている地。  村ごと、街ごと、滅ぼされてしまった地。  そして――  人間が牛や山羊を飼うように、魔物が人間を『飼っている』という地。  そんな地が広がりつつあるというのだ。  にわかには信じられない話ではある。過去にそうした例は皆無とまではいわないが、それにしても極めて稀な話だったはずだ。  しかし考えようによっては、これは当然なのかもしれない。  人間に対して、圧倒的に優位な力を持つ魔物。どうして人間に遠慮する必要があるだろう。  むしろ、闇に紛れてこっそりと襲う方が不自然といえる。  だから、カムィは北を目指している。  進むに連れて、明らかに魔物と出会う頻度が増えていた。噂は真実らしい。    カムィは想う。  あの日から、人間と魔物の関係が変化し始めているのではないか――と。  あの、魅魔の里が滅ぼされた日から。  魔物が魅魔の里を襲った。  それ自体、数百年の歴史を持つ魅魔師の伝承にも存在しない異質な出来事だった。  異質といえば、カムィもそうだ。過去、カムィほど見境なく魔物を狩る魅魔師はいなかった。  あるいはそれを試みた者はいるのかもしれないが、実践できるほどの力の持ち主はいなかった。    変化しつつある。  人間と魔物の、歴史、伝統、力関係。    その行く末がどこにあるのか。  それはカムィにもわからなかった。 * * * 「……なるほど、一匹や二匹ではないな」  陽はまだ高く、街はすぐ目の前だというのに、その小さな森には魔物の気配が色濃く漂っていた。  日中からこの様子では、夜になったら大変なことになるだろう。  街の外周に張り巡らされた結界も、これだけの数が相手では気休めにしかなるまい。 「今夜は少し忙しくなるか」  瘴気のように澱んで溜まっている魔物の気配が、ねっとりと絡みついてくるようだ。姿は見せないが、カムィの血に舌なめずりしている者がいるのが感じられる。今ここで一滴でも血を流せば、それこそ蜂の巣をつついたような騒ぎになるはずだ。  とはいえ、相手はほとんど雑魚だろう。今いちいち狩り出すよりも、夜を待ってまとめて誘い出した方が手っとり早い。  カムィの口元が緩み、残忍な笑みが浮かぶ。  また、魔物を殺せる。  たくさんの魔物を。  また少しだけ、復讐を遂げることができる。  全身の血が熱くなる。  夜が待ち遠しい。魔物を狩れる夜が。  まるで魔物のように、カムィは夜を待ち望んでいた。 「んふふー、楽しみ」  その隣で、カンナも妙に嬉しそうな表情を浮かべていた。  カムィの歪んだ笑みとは違う、心底嬉しそうな、楽しそうな、無邪気な笑み。 「……なんだ?」 「ごほーび、いっぱいもらえるね?」  その言葉に、少しだけやる気が削がれた。  熱く滾っていた血が冷める。  小さく溜息をつくと、街に戻るべく歩き出す。  長くなるであろう今夜の戦いに備えて、今のうちに少し休んでおくつもりだった。  しかし―― 「……っ?」  街に入った瞬間、全身に鳥肌が立った。  魔物の気配。  今まで感じていたような残気ではない。気の濃度がまるで違う。  もっと強力な魔物が、直に発している気配。  並の魔物ではない。  過去、三度しか経験したことのない感覚。  ――近い。  すぐ近くにいる。  こんな真っ昼間から。  こんな、人間の街の中に。  これほど強い力を持った魔物がいるなんて――。  全神経を集中させて周囲を探る。  カムィの隣で、カンナがすっと腕を上げる。  その指さす方向に視線を向けて、 「――っ!」  予想外の光景に息を呑んだ。  視線の先に、一組の若い男女がいる。遠目には恋人同士のような雰囲気で寄り添っている。  男の方はカムィよりも年長の、見たところ二十歳前後と思われる筋肉質の若者で、明るい栗色の髪をやや長めに伸ばしていた。  隣にいるのはもっと年下の、カンナと同世代かやや下くらいの少女で、長い黒髪と整った顔立ちのせいか、どことなくカムィに似た雰囲気を持っている。  それは、まったく予想外の光景だった。  これだけ魔物の気配が濃い土地なのだから、魔物が街中に入り込んでいても、それ自体はさほど驚くことではない。しかしそれが極めて数の少ない、強大な力を持った魔物で、それに寄り添っているのがよく見知った顔となると話は別だ。 「…………」  戸惑いつつも足を進める。  向こうも気づいて顔をこちらに向ける。 「コンル……」 「ごきげんよう、カムィ姉様。お久しぶり」  少女が口を開く。  口元には皮肉っぽい笑みを浮かべ、どことなく挑発的な目つきをカムィに向けていた。  この少女は魔物ではない。むしろ逆の立場だ。  くっきりとした目鼻立ちに漆黒の長い髪、漆黒の瞳。いずれもカムィによく似ている。  少女の名は、コンル。  カムィが兄のように慕っている従兄タシロの妹で、カムィにとっては従妹。そして当然、優れた魅魔の力を受け継いでいる。  会うのは久しぶりだ。ここしばらくタシロの許へは戻っていないから、もう一年近くになるだろうか。  カムィよりも三歳ほど年下だが、記憶にあるよりもずいぶんと大人びた、女らしい姿になっている。  考えてみれば、カムィが魅魔師として独り立ちしたのも今のコンルくらいの年齢の頃だ。  しかし、寄り添うように立つ男の存在は無視できない問題だった。 「コンル、なんだ、これは?」  明るい色の髪と瞳の若者。年頃の娘が放っておかないような容姿の持ち主だ。  しかし、いくら人間を装っていても、それがまったく異質な存在であることはカムィにとっては一目瞭然だった。  栗色の髪も明るい茶色の瞳も、カムィの目にはそのままの色には映らない。それはもっと明るい、金色に近い小麦色をしている。  魔物、だった。  それもただの魔物ではない。  不自然なまでに人間に似ていながら、不自然なほどに強い力を持ち、この上なく見目良い魔物。  全身が総毛立つ。 「竜、族……」  間違いない。  成竜にはなりきっていないものの、カンナより年長の竜族の雄だ。 「なぜお前が、こんなものと一緒にいる?」 「姉様に言われるとは思わなかったわ。じゃあ、その娘はなぁに?」  カンナを指さしてコンルが言い返す。  普通の人間の目には可愛らしい少女にしか見えないカンナも、魅魔師であるコンルを誤魔化せるものではない。そもそも最近のカンナは、カムィと出会った頃ほど完全には魔物の気配を隠していない。  カムィは言葉に詰まった。  さて、カンナの存在をどう説明すればよいのだろう。  そもそもカンナは、自分にとってなんなのだろう。 「…………少し前に拾った。使い道があるから連れてる」  素っ気ない説明に、隣でカンナがぷぅっと頬を膨らませる。 「じゃあ、わたしが彼……ラウネを連れていても文句はないでしょう?」 「…………」  確かに、そうだ。  コンルは、現存の魅魔師の中ではカムィに次ぐ純粋な血を受け継いでいる。その血をもってすれば竜族を支配することも可能だろう。  しかし、それでも一筋縄ではいかないのが竜族なのだ。カンナのような小娘で、しかも同性。それでも最初はカムィも不覚を取った。  コンルがラウネと呼んだこの竜族は、世間一般の基準でいえばこの上なく見目麗しい若者だ。並の魅魔師では――それが若い娘ならなおさら――歯が立たないだろう。  なのに、カムィよりも年下で魔物と戦った経験の少ないコンルが、何事もなく支配できたというのだろうか。  ――まさか。  嫌な考えが浮かんでしまう。自分がカンナと出会った時のことを想い出して、頭にかぁっと血が昇る。 「それにしても、姉様がそういう趣味だったとはねぇ」 「……なんの話だ?」 「別にィ」  からかうような、意味深な笑みを浮かべたコンル。その大きな黒い瞳に、心の内を見透かされているような気がした。 「ところで姉様、この街の魔物退治はわたしが先に受けた仕事だから、手出ししないでね」 「お前ひとりの手には負えんだろう?」  相手は一匹や二匹ではない。どれだけ力のある魅魔師であっても手こずる数だ。  しかしコンルは余裕の笑みを浮かべて言う。 「ひとりじゃないわ」  隣に立つ竜族の腕を取る。 「ラウネが一緒だもの。姉様の手を煩わせるまでもないわ」  コンルはどこまでも挑発的で、相手が従姉でなければ「足手まとい、邪魔」とでも言いたげな口調だった。 * * *  ――陽が暮れる。  東の空はもう黒に近い群青だった。太陽は山陰に隠れ、西の空も朱から青みがかった灰色に変わりつつある。  光に替わって、闇が世界を支配しはじめる。  人ではなく、闇に属する者たちの刻が来る。  再び光が世界を満たすまで、ほとんどの人間が息をひそめて過ごす長い時間の始まりだった。 「手出し無用って言われたんでしょ? こんなところにいないで次の街へ行こうよー」  隣で頬を膨らませている竜を、カムィは無視した。  カンナの態度は、当然といえば当然だった。カムィの魔物退治を手伝わなければ『ご褒美』にはありつけない。カムィに『仕事』がないならこの街に用はない。 「いいじゃん、あいつらに任せておけば」 「そんなわけにいくか」  カムィはカンナの方を見ずに応える。動かさない視線の先にはコンルとラウネの姿があった。  場所は日中にも下見をした、街から少し離れたところにある小さな森。昼間よりも魔物の気配が色濃く漂っていて、ねっとりと絡みついてくるような気がする。  カムィとカンナは気配を消して茂みに潜み、二人の様子を窺っていた。  手出し無用と言われたものの、カムィとしては素直にうなずくわけにはいかない。  最後に会った時のコンルはまだまだ子供で、これだけの数の魔物を相手にできる力はなかった。それはもう一年以上も前のことなので、今では状況が違うのかもしれないが、現在のコンルの実力を見たことがないカムィにとって、彼女はまだまだ半人前の未熟者なのだ。  当時のコンルの姿を思い出す。  無邪気な笑顔の女の子。カムィを実の姉のように慕い、なんでも真似をしたがった。カムィそっくりに伸ばした長い髪はその名残だ。  あんな、不自然に大人びたところなどなかった。あんな、挑発的な態度など取らなかった。  久しぶりに会った従妹の変化は、カムィを戸惑わせていた。 「そろそろ……か」  空を見上げてカムィはつぶやく。  西の空に残っていた、わずかばかりの夕陽の残滓が消える。代わって東の空が明るくなり、月が昇ってくる。  閑かだった。  いくら夜とはいえ、不自然な閑かさだった。  森の中だというのに、梟や夜行性の獣の鳴き声はおろか、虫の音すら聞こえてこない。すぐ近くには清水を湛えた泉もあるのに、蛙の声もない。  皆、周囲に満ちる不穏な空気を感じているのだろう。これを感じないのは普通の人間だけだ。  カムィにとっても、漂う魔物の気配は全身が総毛立つほどに色濃いものだった。  西の空の残照が消える。  魔物がなんの遠慮もなしに活動を始める刻が来る。  大きな樹の幹に寄りかかるように座っていたコンルがゆっくりと立ち上がった。口元には静かな笑みを浮かべている。  少し離れて立っていたラウネが傍に寄る。二人は顔を見合わせ、小さくうなずいた。  コンルが腰の剣を抜く。成人男性が使う一般的な剣よりは短いが、カムィの短剣よりは二回りほど大きく、長い剣。  鞘と柄に複雑な紋様が施されていることから、それが単なる武器ではないことがわかる。  魅魔師たちが用いる退魔の剣。この紋様自体が魔物に抗するある程度の魔力を持ち、それ以上に、魅魔の血の効力を増す効果がある。  コンルは手の甲に剣を押し当て、刃を滑らせた。  紅い筋が浮かぶ。  滲み出る血は紅い珠となり、ゆっくりと広がっていく。  ラウネがその手を取り、傷に口づけた。  滴る魅魔の血を長い舌が舐め取る。コンルが笑みを浮かべ、頬が紅潮する。  やがてラウネは手を放すと、地面を蹴って跳び上がった。魔物だからこそ可能な跳躍力で、身長の何倍もの高さにある木の枝に乗る。姿を隠して気配を消す。  その光景を見ながら、カムィの隣ではカンナが鼻をひくひくさせていた。 「ふぅん。カムィのイトコだけあって、美味しそうなニオイ」  舌なめずりするような表情。対照的にカムィはやや引きつった表情でカンナを睨みつけた。  その表情に気づいたカンナが長い牙を覗かせてにぃっと笑う。 「もしかして妬いてる?」 「誰がだっ!」 「安心して。カムィの血の方がずぅっとずぅっと美味しそうだから」  安心するどころか、さらに嫌そうな顔になるカムィ。 「あたしは舌が肥えてるから、別にどうってことないよ? でも、この辺りの雑魚どもには堪らないニオイだろうね。魅魔の血の甘さに比べたら、ニンゲンの血なんてただの水も同然。すぐ寄ってくるよ」  カンナの言葉通り、魔の気配が濃くなってくる。足音を立てるような魔物はいないが、それでも近づいてくるのがわかる。  最初に姿を現したのは、狼に似た大きな身体の魔物だった。既に人の姿をしていない。コンルの血に惹き寄せられて、我を忘れた状態なのだろう。  結界を張って気配を消しているカムィとカンナには気づかずに、真っ直ぐにコンルに向かっていく。あと十歩ほどの距離に近づいたところで、強く地面を蹴って一気に襲いかかった。  しかし魔物の牙も爪も、コンルには届かなかった。その巨体が突然弾け、ずたずたに引き裂かれて地面に転がる。その傍らに、目にも留まらぬ速度で木の上から飛び降りてきたラウネが立っていて、右腕が魔物の血でどす黒く染まっていた。  無論、魔物の襲撃はこれだけでは終わらない。  さらにもう一体、二体。  灯りに集まる蛾のように、本来は街を襲うはずだった魔物がコンルの血に惹き寄せられてくる。  次々と襲いかかってくる魔物を、ラウネがことごとく一撃で倒していく。  さすがは竜族、圧倒的な力だった。ただでさえ、並の魔物とは持って生まれた力の差があるというのに、ラウネは魅魔の血を受けているのだから当然だ。  ごく稀に、他の魔物が倒されている隙を衝いてコンルに迫る魔物がいるが、それはあっさりとコンルの剣に貫かれた。  ラウネは手当たり次第に手を出しているのではなく、手強い相手を優先的に倒して、さほど危険ではない雑魚はコンルに任せているのだろう。コンルだってカムィに次ぐ力を受け継ぐ魅魔師、並の魔物に遅れを取ることはない。  二人はまるで息の合った踊り手のように、華麗な動きで群がる魔物を狩っていった。 * * *  戦いは、長くは続かなかった。  月が高くなる頃には、生きている魔物の気配は感じられなくなっていた。周辺の空気には、死んだ魔物の血が発する瘴気だけが満ちている。  コンルは大きく息を吐いて身体の力を抜いた。  二人に怪我はない。赤黒い汚れはすべて魔物の返り血だ。  かすり傷すらない。周囲には二十体近い魔物の骸が転がっているというのに、二人は呼吸が多少荒くなり、全身が汗ばんでいるだけだった。  そのくらい一方的な戦い――いや、戦いではなく『狩り』だった。 「……終わったようね」  コンルは剣の汚れを拭って鞘に収めた。 「ああ、いないな。敵意のある魔物は」 「もう、汚れちゃったわ」  魔物の返り血で汚れた肌、着物。自分の身体を見おろして溜息をつくと、コンルは帯を解いて着物を脱ぎはじめた。  様子を窺っていたカムィは一瞬驚いたが、すぐに納得顔になった。どうしてコンルが動きやすくて見晴らしのよい森の外ではなく、ここを戦いの場に選んだのか。  すぐ傍らにある泉。澄んだ水が滾々と湧き出している。  全裸になったコンルが身体を浸す。  多数の魔物を相手にするとなると、どうしても身体は汚れてしまう。それを見越してすぐに水浴びができる場所を戦場に選ぶとは、たいした余裕だ。  しかし、傍らにラウネの目があるというのにああも無造作に着物を脱ぐというのは、若い娘としてはどうだろう。カムィの倫理観では褒められたことではない。  コンルはまったく気にする様子もなく、気持ちよさそうに頭まで水に潜って全身の血を洗い落としていた。  そして、 「あなたもいらっしゃいな」  泉の畔に立っていたラウネに手を差し伸べる。 「今夜は見張りの必要はないもの」 「……だな」  うなずく一瞬、二人の視線がこちらに向けられたような気がした。  ――気づかれていた。  恥ずかしさで、顔が熱くなるのを感じる。  カムィたちが様子を窺っていたのを、二人は最初から気づいていたのだ。だから「警戒していなくても危険はない」と言っているのだろう。  ラウネも汚れた衣類を脱ぎ捨てて水に入った。 「……っ」  それは、カムィにとっては目を疑うような光景だった。  コンルが両腕を差し伸べる。  ラウネの身体に腕を回し、その筋肉質の身体を優しく撫でて汚れを落としてやる。  まるで、愛し合う男女の抱擁のように。 「お疲れさま」 「いや、疲れるほどじゃなかったな」 「そうね、もう少し手間取るかと思ったけど」  白く細い腕がラウネを抱きしめる。 「あなたが、強いからよ」  ラウネの逞しい腕が、コンルの華奢な身体を抱きしめる。 「お前の血の力さ」  間近で見つめ合う二人。  その顔がゆっくりと近づいて、唇を重ねた。  コンルが伸ばした舌に、ラウネが牙を突き立てる。  舌を絡め、滲み出る血を舐め取る。 「んっ……ふ……ぅん」  コンルの口から甘い吐息が漏れる。  二人は水の中で全裸のまま抱き合い、大きく口を開けて貪るような口づけを繰り返した。  大きな掌が、コンルの小さな胸の膨らみを包み込む。白い肌の上を鋭い爪が滑る。  真白い胸に浮かび上がる紅い筋。軽く身を屈めたラウネの唇がそこに触れる。長い舌が傷を覆い隠し、鮮血を啜る。 「あっ……」  びくっと震える小さな肢体。  華奢な腕がラウネの頭を抱き寄せ、自分の胸に押しつける。  傷を舐め、血を啜り、さらに柔肌に牙を突き立てるラウネ。その度にコンルが甘い声を発する。  ラウネの手が胸を愛撫する。もう一方の手が下腹部へと下りていく。  その手が淡い茂みの奥に触れた時、コンルは長い髪を振り乱して歓喜の声を上げた。 「な……っ」  目の前で繰り広げられる光景に、カムィは言葉を失っていた。 「……な……にをやってるんだ、あいつらは!」  なんとかしぼり出した声が震えている。 「ナニって……あたしたちも、いつもしてるコトじゃない?」  カンナが対照的に冷静な声で応える。  そんなカンナをきっと睨みつける。 「あれは、お前が無理矢理やってることだろうがっ!」 「……ま、そーゆーコトにしておいてあげてもいいけどね」  口元に意味深な笑みを浮かべて言い、そしてまた視線を抱き合っている二人に戻す。 「……でも、いいなぁ。楽しそう」  泉の岸辺で、コンルとラウネの身体がひとつに重なっている。 「あぁぁっ! あぁっ、あぁぁ――――っ!」  甲高い嬌声が森に響く。  コンルはラウネの上にまたがるような体勢で身体を仰け反らせていた。髪を振り乱し、狂ったように喘ぎ声を上げ続ける。  彼女の下腹部を、古木の太枝のような男性器が深々と貫いていた。ラウネが腰を突き上げるたびに小柄なコンルの身体が弾み、悲鳴が夜の冷たい空気を震わせる。 「あぁっ、そこ……そこっ! あぁっ、あぁっ! すごいっ、もっと!」  突き上げる腰の動きが加速していく。コンルもそれに合わせて下半身をくねらせる。  ひときわ大きな悲鳴の後、力尽きたように突っ伏す。ラウネがその身体を抱きしめる。  荒い息をしながら、また唇を重ねる。  その間も二人の下半身は動きを止めていなかった。  カムィはそんな二人を強張った表情で見つめていた。  こうした光景を見るのは初めてではない。魔物を狩ることを生業にしている以上、魔物に犯された人間を目の当たりにするなど、さほど珍しいことでもない。  しかし、それが自分の従妹となれば話は別だ。  握りしめた拳が、小刻みに震えていた。 三章  カムィは、街へ戻る道を無言で歩いていた。  不自然に早足で歩くその姿は、まるでコンルとラウネから逃げるかのようだった。  カンナは、少し距離を空けて後をついていく。  あまり近寄らないように気をつけていた。  機嫌が良くないのは一目瞭然だ。こんな時、近づきすぎるとカムィはいっそう不機嫌になる。  人間の心情には疎い魔物とはいえ、カムィとは昨日今日の付き合いではない。長い経験でわかっている。  魔物を狩った後に『ご褒美』をねだった時のような、口先だけで怒っている時。  カンナが他の人間をつまみ食いしようとした時のような、心底怒っている時。  以前はわからなかったその違いが、感じ取れるようになってきている。  そして、今のカムィは後者だった。 「……カンナ」  前を歩いているカムィが口を開く。  真っ直ぐに前を見たまま、後ろのカンナには視線を向けずに。 「お前、あの竜と戦って……勝てるか?」 「え?」  立ち止まってゆっくりと振り返るカムィ。  難しい表情をしている。  機嫌がよくないのは明らかだが、かといってあからさまに怒りを表に出しているわけでもない。なにか考え込んでいるようにも見える。 「……勝てるよな?」  もう一度、既定の事実を確認するように訊いてくる。 「そりゃあ……」  カンナもゆっくりと答える。  魔物同士、彼我の力の差は実際に戦わずともおおよそのところは感じ取れる。そしてカンナは、今の自分がラウネよりも格段に強いことを確信していた。  竜族に限らず、魔物は一般に年長者の方が身体も大きく力が強い。しかし、カムィの血を毎日のように受けている今のカンナを凌駕する魔物など、竜族であってもそうはいない。  ラウネも優れた魅魔師であるコンルの血を受けてはいるが、カンナがカムィと出会ってからの方が期間も長く、与えられる血の量も多い。  なにより、カムィの血はコンルとは違う。  同じ魅魔師であっても。  従姉妹同士であっても。  その血は別格だ。  カムィの血は、コンルよりもはるかに純粋なものだった。  いつも味わっているカンナにはよくわかる。その違いは、当人たちが思っているよりも大きなものなのだ。 「……そりゃあ、勝てるけど」  カンナは慎重に答えた。 「だったら……」 「殺すの? あいつを?」  先回りして、カンナの方からカムィの言葉を遮って訊いた。 「だったら」の続きをカムィに言わせるわけにはいかない。カムィに先に言われてしまったら――魅魔の言霊を込めて言われてしまったら、もう逆らえない。  だから、カンナの方から先に訊く。  言わんとしていた台詞を先取りされたカムィは、口をつぐんで不愉快そうにカンナを見つめた。 「……殺すの? どうして?」 「…………あいつは、魔物だ。……それ以上の理由がいるのか?」  もちろん、ただの魔物であればそれだけで十分だ。なにしろカムィは、この世のすべての魔物を憎んでいるのだから。  しかしそれだけではラウネを殺す理由にはならない。 「どうして殺す必要があるの? カムィの……イトコだっけ? あの子のツレだよ?」 「コンルはあの竜に魅了されて操られているだけだ! そうじゃなければ、あんな……」  あんなこと、できるわけがない。  先刻の光景が、脳裏に鮮やかに蘇ってくる。  ひとつに重なる男女の身体。  子供と思っていた従妹が、一人前の女として竜と交わる姿。  吐き気をもよおすほどの生々しさで脳裏に浮かんでしまう。  胃液が逆流してきて、カムィは慌てて口を押さえた。 「魔物に魅了されて、操られてる? どうしてそう思うの?」  そう問われて、カムィは意外そうな視線をカンナに向けた。 「どうして……だと?」  こくん、とうなずくカンナ。 「どうしてかわかんないよ。だってあの二人、愛し合ってるだけじゃん」  その言葉に、カムィが目を見開く。その目は血走っていて、腕には鳥肌が立っていた。 「あ……ありえないだろう! 愛し合う、だと? 人間が、魅魔師が、魔物と……」 「…………ふぅん?」  一歩、二歩。カンナが後退る。 「あり得ない? ……そう、思うんだ?」  その顔には、自嘲めいた苦笑が浮かんでいた。  カムィと少し距離を空けたところで、ゆっくりと両腕を広げる。  背中に淡い光が生まれ、左右に広がって翼の形になる。 「……カンナ?」  ふわり、とカンナの身体が浮かんだ。 「あたし、今夜は外で寝るから。……じゃあね」  それだけ言うと、カンナは高度を上げていった。  ――カムィの声の届かないところまで。 * * * 「……逃げたな」  唐突な行動で離れていったカンナの姿が見えなくなるまで茫然と見送ったカムィは、唇を噛んで忌々しげにつぶやいた。  間違いなく、カンナは『逃げた』のだろう。ラウネを殺すように命じられる前に。  あのまま傍にいればそれを命じられると悟って、カムィから離れたのだ。  命じられないために。  逆に言えば、カムィがそれを命じずに済むように。  こんなカンナは初めてだった。今日のカンナは普段と様子が違っていた。  なんだかんだ言っても、カンナは素直にカムィに付き従ってきた。  あんな、カムィを問いつめるようなことを言ったり、命じられることを嫌って逃げたり、今まではなかったことだ。 「……くそ」  不愉快ではあるが、結果的に救われたのかもしれない。  ラウネを殺さずに済んだ。  カンナはそのためにカムィから離れていったのだろう。  しかし、どうしてだろうか。  先刻のカンナが、まるで泣いているかのように見えたのは。 * * *  カンナは、カムィの力が及ばないところまで飛んでいった。  ふと下を見ると、先ほどの泉の中にひとつの人影がある。  カンナはそれを目指して降りていった。  その人影はコンルだった。泉で水浴びをしていて、長い髪から滴が落ちている。  コンルが背中を向けている岸辺に音もなく降りる。それでもコンルは気づいて、視線をこちらに向けた。  そこにカンナがいることを不思議に思うような表情で、微かに首を傾げる。  冷たい清水の中にいるのに頬は上気して、熱っぽい、潤んだ瞳をしている。そんな表情は実際の年齢以上に大人っぽく、そして艶っぽかった。  カムィの従妹だけあって綺麗な子だ、とカンナは思った。  そして、美味しそうでもある。  周囲には甘い匂いが充満していた。ラウネによって全身に刻まれた細かな傷には、まだ塞がりきっていないものもある。  魔物にとってはえもいわれぬ芳香だ。カムィの血を存分に味わっているカンナでなければ、この香りに我を忘れて襲いかかっていたことだろう。 「……あいつは?」  なにか言いかけたコンルに対して、カンナの方が先に口を開いた。 「先に街に戻ってるわ」 「一緒じゃなかったんだ?」 「わたしは、少し頭を冷やしてからじゃなきゃ眠れないもの」  苦笑しつつ答えるコンル。 「……だろうね」  カンナも納得顔でうなずく。  もっともな話だ。  竜族と交わるなど、普通の人間に耐えられる行為ではない。竜に与えられる快楽は、人間が受け入れられる限界をはるかに超えたもので、ほとんどの場合は発狂して死に至る。運よく生き長らえられたとしても、正気を保っていられる者は皆無だ。  コンルが極めて運のいい人間であり、かつ魅魔の血によって竜族の力に抵抗力があるとしても、行為の後ですんなりと眠れるわけがない。その身体には快楽の余韻が残り、すぐには火照りが治まらないはずだ。  落ちついて水浴びをしていられるだけでもたいしたものだろう。普通ならば発狂している。 「ラウネを殺しに来たの?」  今度はコンルが訊いてきた。 「……カムィ姉様に命じられて」  先刻のコンルと同様に、カンナも相手の質問に苦笑で応えた。  さすがは一緒に暮らしてきた従妹というべきか、カムィの性格はお見通しらしい。 「貴女たち、見ていたのでしょう? 姉様のことだもの、きっと逆上していることでしょうね」 「まあね」  カンナは再び苦笑する。  自分と同じ年頃のこの少女、見た目はカムィよりもずっと子供だけれど、今のカムィよりはずっと冷静だ。 「……だから、逃げてきた。命令されたら逆らえないもの」  その言葉に、コンルの口元が綻ぶ。 「それはつまり、貴女としては殺したくない、と受け取っていいのかしら?」 「殺す理由がない、って言うべきだよね。……たぶん、カムィにとっても」 「……そうね」  どこか安堵したような声音でコンルがうなずく。  彼女は本気で心配していたのだろうか。  カムィがラウネを殺そうとすることに。  そして、そうなったら勝ち目はないということに。 「貴女が話のわかる竜でよかった。いくらなんでも貴女と姉様の二人が相手じゃ、わたしたちには荷が重いもの」 「あたしにはやる理由がないからね。あいつを殺したって、カムィがご褒美をくれるとは思えないもん」  それは、なんとなく想像できる。  ラウネと戦うことは、普段の魔物狩りとはまったく事情が違う。もしもカムィが命じる通りにラウネを殺したとしても、カムィはけっして悦ばないだろう。もちろん、ご褒美なんてもらえるはずがない。  それは、なんとなくわかる。  以前はまるでわからなかった、人間の……いや、カムィのそうした心の動きが、なんとなくではあるが理解できるようになっていた。 「……そうね」  コンルがうなずく。 「でも、逆らえないっていうのは嘘でしょう?」 「え?」 「貴女の力、並の竜族とは思えないわ。昼間、初めて見た時には全身に鳥肌が立ったくらい。姉様の魅魔の力は素晴らしいものだけれど、それでも貴女ほどの竜を完全に支配できるとは思えない」 「そぉ?」  訝しげな表情で問うコンル。それに対して、カンナは普段通りの悪戯な笑みを浮かべる。 「それって、カムィの力を過小評価してると思うよ? 確かにね、自分でも、今のあたしはこの世で最強の竜なんじゃないかと思うこともあるけれど、それはカムィの血のおかげだもの。カムィの血には、それだけの力がある。魅魔師であっても、ニンゲンにはきっとわかんないよ。あの血があたしたちにとって、どれほど素晴らしいものなのか」 「……わたしと姉様とでは、そんなに違う?」  コンルの表情が曇る。どことなく不機嫌そうな口調になる。 「わたしの母はサスィ様の妹よ。姉様と私とで、その身体に流れる血がそんなに違う?」  カンナは少し考えて、それが『嫉妬』という感情だと思い当たった。  真っ直ぐにコンルを見つめる。黄金色の目を見開いて、面白そうににぃっと笑った。 「魅魔師って、みんなそんな風にやきもち妬きなのかな?」 「え?」 「カムィも、子供の頃は自分の力が劣っていると思い込んで、双子のお姉さんに嫉妬していたらしいじゃない? 魅魔師って、みんな、そう?」  気まずそうに口をつぐむコンル。 「そんなに、力が欲しい? どうして?」  返事は返ってこない。困ったような表情を浮かべている。  人はどうして力を求めるのだろう。十分な力を持ちながら、いや、持っている者ほど、さらなる力を求める。  そう考えたところで、あることを思い出してかすかに苦笑した。  それは人間に限った話ではない。魔物だってそうだ。  生まれつき、人間などよりもはるかに強い力を持つ存在――魔物。それでも、さらなる力を求める者は少なくない。  そして、その多くは過ぎたる欲のために己の身を滅ぼしてきた。 「カムィの力は……特別なんだ。あんたが劣るわけじゃなく、カムィが特別。それはきっと、羨むようなことじゃないよ。むしろ……」  そこで一呼吸の間をとって、なにかを考えるような表情になると、 「……逆じゃないかな、ニンゲンにとっては」  意味深な笑みを浮かべて言った。 「……」  コンルが不思議そうに見つめている。 「貴女って……子供っぽく見えて、実は全然そうじゃないのね」 「お互い様じゃん?」 「え?」  今度は逆に子供っぽい笑みを浮かべるカンナ。あるいはわざとそうしたのかもしれない。 「あんただって、見た目はカムィよりもずっと子供だけど、ある意味ずっとオトナじゃん?」  一瞬、驚きの表情を浮かべるコンル。しかしすぐに納得顔になる。 「よくわかるのね……って、魔物の嗅覚なら当然かしら」 「そゆこと」  機嫌のいい猫のように目を細めてうなずく。 「だから、あまりカラダを冷やしすぎない方がいいんじゃない? いくらなんでも、もう火照りも治まったっしょ?」 「……そうね」  そういえば、といった表情でコンルは水から上がった。カンナとの会話に夢中になっている間に、身体はかなり冷えていた。これ以上冷たい水に浸かっていては、風邪をひいてしまうかもしれない。  手早く身体を拭いて衣服を身に着ける。 「…………貴女って、本当に不思議な魔物ね。赤の他人の、しかも人間の身体を気遣う竜なんて見たことないわ。ラウネはわたしには優しいけれど、それでも魔物は魔物、わたしが止めない限り、他の人間なんて狩りの獲物としか見ていないのに」  なるほど、言われてみればそうかもしれない。カンナとしては、特に気遣っているという意識もなかったのだが。  少し考えて、その理由に思い当たった。 「……ニンゲンは、あたしにとってはもうエサじゃないから」 「え?」 「カムィが怒るからね、もうニンゲンは食べないの。それに……」  鋭い牙を覗かせながらも無邪気に笑う。 「どうせ、カムィ以外のニンゲンの血じゃ、もうオナカいっぱいにならないし」 「……貴女って…………」  帯を結ぶ手を止めて、コンルは不思議そうにカンナを見つめていた。 * * *  翌朝――    宿を出たカムィは、まずコンルの姿を探した。  ひどく、不機嫌そうな表情で。  その作業自体は難しいことではなかった。あてもなく一人の人間を捜すには少々大きすぎる街ではあるが、簡単な解決法がある。  魔物の気配を辿ればいい。  本気で気配を消していない限り、竜族の気配などかなりの距離があっても感じとることができる。昨夜でこの街から魔物の気配が一掃されているのだからなおさらだ。  気配はすぐに見つかった。早足でその場所へ向かう。  それが目的の相手である確率は二分の一。もしかしたら、昨夜は結局戻ってこなかったカンナの可能性もある。  しかし、無駄足にはならなかった。近づくと、竜族の気配はふたつあることがはっきりする。当然、コンルもその場に一緒にいた。  いつでも出発できるように支度を調えた状態で、街外れの広場で佇んでいた。もしかしたら、カムィが来るのを予期して待っていたのかもしれない。  幾分警戒しているような表情ですぐ傍に立っているラウネ。そして、少し距離を空けて気まずそうな苦笑を浮かべているカンナ。  その二人は無視して、カムィは真っ直ぐにコンルに向かった。出発する前に、どうしても言わなければならないことがある。 「おはよう、カムィ姉様」  コンルの口調は、相変わらずどこか挑発的だった。 「お前、魔物に魅了されてるんじゃないのか?」  挨拶も返さずに問いつめるカムィに対し、コンルは不思議そうに首を傾げた。 「ふぅん、姉様の目にはそう映るんだ?」 「他になにがあると?」  コンルの顔から挑発的な笑みが消えた。真剣な表情でまっすぐにカムィの目を見る。 「わたしと彼は愛し合ってるの。ただそれだけ。余計な口出しはしないで欲しいわ」  絶句するカムィ。 「…………あ……い……? な、なにを莫迦なことを!」 「莫迦なこと? どうして?」 「愛し合ってる、だと? 人間が、魔物と……しかも魅魔師が!」  ありえない。  そんなことありえない。信じられない。  ――カムィにとっては。 「……竜族は、人間の敵だ」 「そう? なぜ竜を愛してはいけないの? 竜が人間を喰うから?」 「……そうだ」 「でも、人間にだって人間を殺す者がいる。だからといってすべての人間を愛しちゃいけないなんてことはないでしょう? ラウネはわたしの味方で、わたしの仕事を手伝ってくれるわ」 「…………お前、故郷の村がどんな目に遭ったか憶えてないのか?」  カムィはけっして忘れない。魔物に滅ぼされた魅魔師の里の光景を。  折り重なる死体。  血に染まった地面。  竜と相討ちになって死んだ母。  そして、無惨に喰い殺された、自分の半身。  ――シルカ。  一面紅く染まった光景。  けっして忘れない。忘れられるわけがない。  カムィもコンルも、魅魔の里の数少ない生き残りだ。それなのに魔物と、それもよりによって竜族と心を許し合うなんて、あっていいことではない。 「……魅魔の里は、竜族に滅ぼされたんだ」 「でも、ラウネがやったわけではない」  コンルはきっぱりと言い返した。 「魔物が憎くないわけではない。だけど、ラウネを憎む理由はないわ。……確かに、両親や兄様が無事だった分、姉様ほど魔物を憎む気持ちは強くないのかもしれないけれど」 「…………」  カムィは言葉を失っていた。コンルの言うことは正論かもしれない。しかしカムィにとっては到底受け入れられることではない。  絶対に許さない。  許せるわけがない。  同じ血を分けた半身を殺した魔物を。  確かに、それをしたのはカンナではない、ラウネではない。だからといって、竜族が人間の敵であるという認識を改めることはできなかった。 「姉様は、自分が竜を連れているくせに、わたしが同じことをするのには文句を言うの?」 「問題は、お前があの竜に魅了されているということだ!」 「わたしの目には、姉様こそあの娘に魅了されているように見えるわ」 「どこがっ!」  ――冗談じゃない。  カムィは頭を振った。  いったいどこをどう見れば、そんな勘違いができるというのだ。 「昨夜、彼女と話をする機会があったの。興味深かったわ。誰よりも竜族を憎んでいるはずの姉様が、その竜族を連れているだなんて、それこそ驚きだもの」 「……なにを、話したって?」 「命乞いする彼女を殺さなかったこととか、死にかけていた彼女を命懸けで助けたこととか?」 「――っ!」  いきなり急所を衝かれて言葉を失った。  あれは、自分でも説明のつかない行動、説明のつかない感情だった。  そもそもコンルの言うとおり、カムィが竜を連れていること自体、説明が難しい行動だ。  確かにカンナは魔物を狩るのに役に立つが、どうしても必要な存在というわけではない。カムィの力であれば、自分ひとりでも魔物を狩るのにさほど不自由はない。むしろ、力のある魔物を支配し続けていることの方が負担が大きいくらいだ。  そしてカムィは、その気になればいつでもカンナを殺せる。たった一言ですべて片が付く。カンナの身体には、常時それだけの量の魅魔の血が流れているのだ。  いつでも殺せる。なのに、生かして連れている。  カムィにとって、それは大いなる矛盾だった。 「あの竜を大切に想っているのではないと言い張るのなら、竜の力に魅了されて、操られているとしか思えないわね。わたしははっきりと言える、ラウネを愛しているわ」 「……っ」  なにも反論できなかった。  なにを言っても、根拠のない口先だけの言い訳になってしまいそうだ。  黙り込んだカムィに対して、コンルはさらに衝撃的な、そして決定的な言葉を投げかけた。 「それに、今さら姉様が反対しても無駄。わたしは彼を愛しているし、これからずっと彼と一緒に暮らす。わたしのお腹には、彼の子供がいるの」 「――っ!」  まず、自分の耳を疑った。  耳に入った言葉が理解できない。理解することを頭が拒絶している。  それくらい、想像を超えた言葉だった。 「な……、ん……だって?」 「聞こえなかった? わたし、彼の子を身籠もっているの」  言い聞かせるように、一語一語ゆっくりと繰り返す。  思い切り殴られたような衝撃だった。  その言葉の意味を理解し、飲み込むには、しばらくの時間を必要とした。  ――身籠もっている?  ――妊娠?  ――竜の仔を?  なんだって?  なにを言っている?  そんな、ばかな。 「な……いや、ちょっと待て。…………身籠もっている、だって? そいつの仔を?」  笑みを浮かべてうなずくコンル。その幸せそうな表情に思わず総毛立った。  ありえない。  ありえない。  あっていいことではない。 「その……それは……なんなんだ? お腹の中にいるのは」  コンルの腹を指さす。その指が小刻みに震えていた。  目眩がする。視界がぐらぐらと揺れる。 「ここにいるのは、わたしと彼の愛の結晶」  コンルはそっと自分の腹に触れ、幸せそうに答える。 「魔物か、人間か、と訊いているんだ!」 「どちらでも構わない。関係ないわ。どちらであっても、わたしたちの子よ」  心底そう思っているらしいコンルの表情を見て、カムィは話す相手を変えた。コンルからは聞きたい答えは聞けそうにない。  これまで会話に加わらずにいたラウネに視線を移し、目で問いかける。  ラウネは小さく肩をすくめた。 「オレに聞かれても知らんよ。お前のツレと違って育ちがよくないからな。オレとコンルの子、オレにわかるのはそれだけだ」  そう言って、少し距離を空けて立っていたカンナを顎で指す。  その動作につられるように視線を移す。  いきなり話を振られて困惑したような表情のカンナが視界に入る。  カムィは首を傾げた。  育ちがいい? カンナが? このおてんばが?  ……いや。  確かに、そうだ。  これまで、あまり深く考えたこともなかったが、雷の神を意味する『カンナ』という名は、竜族の中では最上級のもののひとつだ。竜族だからといって誰でもおいそれと名乗れるものではない。  相手の目を見るカムィ。  さりげなく視線を逸らすカンナ。 「……お前は、知っているのか?」 「……なにを?」  カンナは白々しくとぼける。見え透いた演技だ。無理に浮かべた笑顔が引きつっている。 「魔物に犯された人間が、身籠もって子を産むことがあるのか?」  さらに怒気を強めた口調で問う。  魔物に犯される人間の例は珍しくはない。魔物の多くは人間の血肉を常食とするが、その中でも快楽に狂った人間の血こそが魔物にとっては最高の美味だからだ。  しかしカムィは、人間が魔物の仔を産んだ話など聞いたことがなかった。  そもそも魔物に襲われた人間は、男女問わずその場で喰い殺されるのが普通だ。運よく生き延びたとしても、ほとんどの場合は快楽のあまり発狂して死ぬ。  ごく稀に身籠もることもあると聞くが、それもカムィの知る限り、流産、死産という結果になるはずだった。  しかし――  カンナを見る。  気まずそうな、困惑したような表情。いつも脳天気なカンナには珍しい。  それはつまり「言いたくはない。が、知っている」ということだ。 「答えろ、カンナ」  声に力を込める。  瞳が熱を帯びるのを感じる。血の色をした瞳がカンナを捉えている。 「……あるよ」  渋々、といった風にカンナはうなずいた。魅魔の言霊には逆らえない。 「稀に……ホントにごく稀に、あるよ。……ずっと昔から、あったことだよ。ニンゲンが、竜の仔を産むことは」 「……なん……だって?」  その態度から半ば予想していたこととはいえ、衝撃のあまり、一瞬、足元がふらつきそうになった。  カンナが言葉を続ける。 「竜と交わったニンゲンは、ほとんどの場合、喰い殺される。そうじゃなければ発狂して死ぬ。でも、それがすべてじゃない。ホントに万に一つの可能性だけど、運に恵まれれば、そのニンゲンが死なず、子供も生きたまま産まれてくることが……ある」 「……な……」  唇が、舌が、固まったように動かなかった。それでもなんとか言葉を絞り出す。 「……なにが…………産まれてくるんだ?」  本音をいえば、聞きたくはなかった。  人間が魔物の仔を産み落とすだなんて、考えるだけでもおぞましい話だ。カムィの感覚では、生命に対する冒涜といってもいい。  だけど、聞かなければならない。  カンナも躊躇いつつ話し続ける。 「ニンゲンと、竜族の子……その子の二人に一人は、竜の力を受け継いで産まれてくる」  竜の力を受け継ぐ者。  つまりは竜族、正真正銘の魔物ということだ。 「二人に一人……じゃあ、残りの半数は?」  緊張のあまり、喉がからからだった。  聞いてはいけない、そんな気がする。  しかしここまで来た以上、最後まで聞かなければならない。 「半数は竜族。……なら、残りの半数は……人間、か?」  それは予想というよりも希望だった。そうであって欲しいという願いを込めて訊く。  しかしカンナは首を左右に振った。何故か、ひどく哀しそうな表情に見えた。 「じゃあ…………なんだ?」 「……見た目は、ニンゲンの姿で生まれてくる。ただ一点を除いて、完全な、ニンゲンの姿で」  こんなに真剣な、こんなに哀しそうな表情のカンナなど見たことがない。あの、カムィと初めて会って殺されそうになった時以来だろうか。  あの頃よりも、ずっと大人っぽい表情。あれからまだ半年ほどしか経っていないのに。  これまで、こんな表情を見せたことはなかった。 「見た目は、ニンゲン……」  うつむき加減で言う。カムィと目を合わせないようにしている。 「だけどその子は……ニンゲンじゃない。竜族すら殺せる力を持った、ニンゲンだけどニンゲンじゃない存在になる」 「――っ!」  人間の姿をしていて、だけど人間ではなく、竜族でもなく。  そして、竜族を殺せる力を持つもの。  そんな存在、いない。  そんな存在、知らない。  ……ただひとつの例外を除いて。 「ニンゲンと違うのは……」  カンナの唇が動き続ける。  耳を塞ぎたかった。  叫びたかった。  聞きたくない。  聞きたくない。  だけど、身体は動かない。  目はまっすぐにカンナを見つめている。  カンナが顔を上げると、真正面から視線がぶつかった。  黄金色のカンナの瞳と、血の色をしたカムィの瞳。 「ニンゲンと違うのは……瞳。血の色をした、魔物を支配する瞳。そして…………魔物を魅了する、甘い、甘ぁい……血」 「う……嘘だっ!」  反射的に叫ぶ。  衝撃的な告白に、コンルとラウネも小さく息を呑んでいたが、そちらを見ている余裕はカムィにはなかった。 「魅魔の力を持つニンゲン同士の間に生まれた子は、多かれ少なかれ、魅魔の力を持つ。じゃあ最初は? いちばん最初の魅魔師は、どこから生まれてきたんだろう? 竜族に勝るとも劣らない、魅了の力を持つニンゲンが」 「――っ! そんなっ!」  言わんとしていることは理解できる。  しかし、理解したくはない。 「…………この世で最初の魅魔師が生まれたのは、遠い遠い昔のこと。最初の竜族が生まれたのと同じ、遠い遠い昔のこと。まだ、大いなる存在が滅びていなかった時代。最初の魅魔師は、そして最初の竜族は、正真正銘の竜と、ニンゲンの女の間に生まれたんだ」 「そ……ん、な……」 「今の魅魔師、今の竜族はその末裔。だから今でも、魅魔の血を得た竜族は、他の魔物を圧倒する力を得る。魅魔の一族に竜族の血が混じれば、その力は飛躍的に強くなる。それは、血がより濃くなるから。より、偉大なる竜に近づくから」  カンナはまるで村の古老たちのように、古い歴史を淀みなく語っていく。 「魅魔師と竜族の間に生まれたニンゲンは、圧倒的な魅魔の力を持つ。他のニンゲンには絶対にあり得ない、強い、強い力。すべての魔物を魅了する力を」  大きな黄金色の瞳が、まっすぐにカムィに向けられていた。  その光が強くなる。  一度閉じた淡い紅色の唇が、また、ゆっくりと開かれていく。  カムィは叫びたかった。「嘘だ」と。  命じたかった。「黙れ」と。  しかし、できなかった。  感じていたから。  本能的に、感じていたから。  カンナが語る言葉が、すべて真実だと。  どうしてカンナはそんなことを知っていたのだろう。それはわからない。  ただひとつ確かなのは、カンナは真実を知っていたということだ。  カムィが知らなかった魅魔の力の真相を。 「……ねぇ、カムィ?」  唇の端を微かに上げ、引きつった笑みを浮かべてカムィの名を呼ぶ。  その一言が、それこそがもっとも怖れていた言葉だと、言われて気がついた。 「い……」  言うな、と。  そう、叫ぼうとした。しかし唇は、舌は、喉は、そんなカムィの理性に逆らった。 「……イトコ同士なのに、どうしてカムィの力はコンルよりもずっと強いの?」 「――っ!」  カムィには、知らないことがあった。  大切なことを、知らなかった。  ずっと、知らずに育ってきた。  母も、祖父母も、そして叔父や叔母も教えてはくれなかった。  幼少の頃からずっと疑問に思いつつも、カムィ自身、積極的に知ろうとはしなかった。  そこには、訊いてはいけない雰囲気が漂っていた。    それは、ある人のこと。  当然知っていなければならないはずの、ある人のこと。    顔も、名前も、どんな人間だったのかも知らない。    それは――父親のこと。  カムィとシルカが生まれる前に死んだとだけ聞かされていた、父親のこと。    顔も、名前も、どんな人間だったのかも知らない。    そもそも、それが人間であったのかどうかすらも――。 四章  夜が明ける少し前に目を覚ますと、カンナは一人だった。  隣に寝ていたはずのカムィの姿がない。  昨日は一日中ずっと、カムィは茫然としていた。本来ならば北へ向けて出発する予定だったが、とてもそんな状態ではなかった。  カンナの告白を聞いて以来、心ここにあらずといった表情で、無言のままずっと一人で座っていた。  そして――    夜の間に姿を消した。 「やっぱり……行っちゃったんだ」  特に驚いたような様子もなく、カンナはつぶやいた。  諦めたように、小さな溜息をつく。  こうなるだろうと思っていた。  魅魔の力の真相を、自分の出生の秘密を、知ってしまったカムィが取るであろう行動など、予想することは難しくない。  空になった寝床に目を向ける。  多分、そんなに時間は経っていまい。昨夜、床について眠ったところまでは確認している。こっそりと起き出して宿を発ったのは、つい先刻のはずだ。  まだ遠くに行ってはいないだろう。その気になればすぐに追いつくことができる距離。  だけど、追えない。  追いたくても、追うことはできない。 『ついてくるな』  カムィの言葉が耳に残っていた。  眠っている間に、耳元で囁いていった言葉。  魅魔の力を込めて囁いて、部屋を出て行った。  だから、追えない。  少なくとも、この身の中にある魅魔の血が薄れるまでは。  もっとも、カンナとしても無理に追うつもりはなかった。カムィの傍にいたいのは確かだが、今それを望むのは無謀というものだ。下手をすれば殺されかねない。  カムィにとっては、これ以上はない衝撃だっただろう。  今なら、カンナにもそうした心理が多少は理解できる。  魔物によって家族を殺され、故郷を滅ぼされ、あらゆる魔物、特に竜族を心底憎み続けてきたカムィ。  なのに――  魅魔の力は竜に由来すると知ってしまった。  自分の父親が竜族だと知ってしまった。  自分の身体に流れる血の半分以上が魔物のものだと知ってしまった。  我慢がならないだろう。  カンナと行動を共にする気にもなれないだろう。  なにより、認めたくないだろう。  だから一人、旅の進路を変えたのだ。  カンナの言葉を確かめるために。  カムィがどこに向かったかは、おおよそ見当はつく。その具体的な場所は、コンルに訊けば教えてくれるだろう。  だけど、追えない。  追わない。  今は、まだ。 「父親……か」  溜息混じりにつぶやく。 「……ニンゲンって、どうしてそんなことを気にするんだろう。どうでもいいことなのに」  魔物だって親から生まれてくる。カンナはひとりっ子だが、兄弟姉妹を持つ者も少なくはない。しかしそうした肉親とのつながりは、人間に比べればずっと希薄だった。  だから、実感できない。  カムィの、殺された祖父母や、母親や、姉、そして父親へのこだわり。  頭では理解できるが、実感はできない。  それでも以前のまったく理解できなかった頃に比べれば、進歩したといえなくもない。 「父親、かぁ……」  カンナにだって親はいる。もっとも、もう何年も会ってはいないが。  数年前に親元を離れて以来、ずっと一人で生きてきた。魔物は、特に強い力を持つ魔物ほど、それが普通だ。親離れは人間よりもずっと早く、つがいを作る時以外は単独で暮らす。  数年前のカンナでも、人間など歯牙にもかけない力を持っていた。外見は子供であっても、一人で人間を狩って生きていくことに問題はない。  それに、カンナが物心ついた頃には、両親はもう一緒に暮らしてはいなかった。カンナは独り立ちできるまで母親に育てられ、その間、父親とは数えるほどしか会ったことがない。 「一度、会わなきゃダメかなぁ、やっぱり」  もう一度溜息をつく。  それはカンナにとって、少々気の重い話だった。 * * *  それは、遠い遠い昔の話――    何百年も、あるいは何千年も昔のこと。  まだ、偉大なる竜が世界を支配していた時代。  人間は魔物に抗う術を持たず、ただ怯えて暮らしていた時代。    今では知られていない場所に、高い山があった。  そこは、竜が棲む神聖な地。  人間はもちろん、竜以外の魔物も立ち入ることのできない禁忌の地。    しかし、一人の人間の娘がその山に登った。  迷い込んだのではない。  両親の、故郷の村の、そしてなにより自分の意志で禁忌の山に入った。  竜の、生贄となるために。  魔物の襲撃に怯える村を救うために。    誰も入ったことのない、奥深い山。  深い森、険しい岩山。  そこは異質な空間だった。  人間も、獣も、そして魔物の気配もない。  静寂だけが存在する空間。  しかし娘は、常に大きな存在を感じていた。    山の頂近くにある大きな洞窟。  娘は直感する。  これこそが竜の住処だと。  その前で、偉大なる竜神に向かって呼びかける。  故郷の村を救って欲しい、魔物に怯えずに暮らせるようにして欲しい。  その代償としてこの身を捧げる、と。    突如として雷鳴が轟き、大きな飆が巻くと同時に、娘の眼前に巨大な竜が姿を現した。  それは見とれるほどに美しく、神々しい存在だった。  竜も魔物である。  人間を喰うこともある。  それでも他の魔物とは別格の存在であり、雨と風と雷を司る神だった。    巨大な竜は、次の瞬間姿を変えていた。  見目麗しい人間の青年の姿となって、娘の前に立っていた。  そして、人間の言葉で語りかけた。 『人間の娘よ。お前の願い、聞き届けてもよい。  しかしお前にその覚悟はあるか?  魔物に抗う力が欲しいのならば、私と契ればよい。  しかしそれは、お前の死を意味する。  竜と交わった人間は、発狂して死ぬ。  しかしお前の覚悟が本物で、運にも恵まれれば、お前は竜の子を身籠もるだろう。  その子は、あらゆる魔物を支配する力を持つ』  人間の姿をした竜が、娘に向かって腕を上げる。  触れられてもいないのに、ただそれだけで着物が切り刻まれて地面に落ち、娘は一糸まとわぬ姿となった。    娘は一瞬震えたものの、気丈にも悲鳴すら上げず、怯えた表情を隠して真っ直ぐに竜を見据えた。  人間の姿をしていても、それは人間にしては美しすぎた。  一目見ただけで心が囚われてしまいそうなほどに美しかった。  しかし、本能的な恐怖を覚える。  圧倒的な気を放って目の前に立っている青年は、人間など足元にも及ばない偉大な存在、魔物を超越した神なのだ。    それでも娘はうなずいた。  勇気を振り絞り、強い意志を持って竜が差し伸べた手を取った。  数ヶ月後、村に戻ってきた娘の姿を見て、村人たちは一様に驚いた。  生贄となって竜の山に向かった娘。  とうに、竜に喰われたものと思われていたのだ。  竜の山でなにがあったのか、娘はすっかり正気を失っていた。  そして、子を身籠もっていた。    やがて――  双子の女の子が生まれた。  黄金色の髪、黄金色の瞳の女の子。  漆黒の髪、深紅の瞳の女の子。    それは、遠い遠い昔の話――  魅魔の里が滅びてしまった現在では、それを知る古老たちもほとんど残ってはいない、忘れられた昔話だった。 * * * 「……俺が親父から訊かされたのは、こんな話だ」  カムィの前に座った青年が、静かな口調で言う。  それはカムィの従兄で、コンルの兄であるタシロだった。カムィにとっては、家族を失って叔父に引き取られて以来、兄のような存在である。  もっとも、周囲はそうは見ていない。  優れた魅魔師、魅魔剣士であり、魅魔の血を色濃く継ぐ若者同士ということで、周囲からは許婚と認識されていた。当人たちもその事を否定してはいない。  カンナと別れた後、カムィはまっすぐにタシロの許に向かった。魅魔の里の古老たちが残っていない現在、古い言い伝えや魅魔の里の歴史についてもっとも詳しいのは叔父のライケ――タシロの父――であり、その知識を受け継いでいるタシロであるはずだった。  カンナの言葉を疑っていたわけではないが、やはり、信頼できる人間に確かめずにはいられなかった。  否定して欲しかったのか、それとも肯定して欲しかったのか。自分でもそれはわからない。  しかしタシロの言葉は――肯定だった。  気は進まない様子であったが、古い伝承を教えてくれた。  魅魔の里が滅ぼされる以前でも、その力の由来について知る者はほんの一握りしかないなかったという。  真実を知る皆が、極力、隠そうとしていたのだろう。  その理由はわかる。  魔物を狩るのが生業である魅魔師が魔物の末裔であるなんて、世間に知られるわけにはいかない。魅魔師に対する信頼も揺らいでしまうだろう。  タシロも、父親からこのことを聞かされたのは成人してからだという。 「……それにしても、突然訪ねてきたと思ったらこんな昔話を聞きたがるなんて……、なにかあったのか?」  もっともな質問だ。しかし答えを口にするには少々躊躇いがあった。  しばらく間を置いて、ゆっくりと口を開く。 「……コンルに……会った」  タシロが微かに眉を上げる。どことなく気まずそうな、複雑な表情を浮かべる。  それでカムィにもわかった。 「……知ってたんだ?」 「少し前に、な。訪ねてきたんだ、……二人で」 「…………子供……の、ことも?」 「……ああ」  カムィの眉がきっと吊り上がる。 「それで、兄さんはどうして平然としていられるんだっ?」 「仕方ないだろ、あいつが決めたことだ。俺がとやかく言うことじゃない」  いくぶん不愉快そうではあったが、それでもタシロは落ち着いていた。妹が竜の仔を身籠もっているなどというとんでもない出来事を、冷静に受け入れているように見える。 「仕方ない? 相手は魔物なのにっ?」 「竜と契っても、あいつは発狂することもなかった。きっと、子供も無事に生まれてくるだろう。そして…………こうしたことは初めてじゃない」  最後の言葉を口にするのに、ずいぶんと躊躇していた。その理由は想像できる。 「兄さんは……知っていたのか? 私の……父親の、ことを」  タシロは微かに首を左右に振った。 「いや……。親父も、長老たちも、知っていたわけではないらしい。魔物狩りの旅から戻ったサスィ様は身籠もっていたけれど、その相手のことについては頑に口を閉ざしていたそうだ」 「……そうだろうな」  言えるわけがない。最高の魅魔師が、竜の仔を身籠もっただなんて。 「だけどその態度で、長老たちには想像がついた。生まれたのが双子で、サスィ様の血を引いていることを考えても非常に美しく、そして特にシルカが幼少の頃から極めて強い魅魔の力を発現させていたことで、それは確信となった。しかしサスィ様は、自分の口からはなにも言わないまま亡くなったらしい。親父はそう言っていた」  ライケは、サスィの妹の夫である。その彼が知らなかったというのなら、魅魔の里に真相を知る者は誰もいなかったに違いない。  そこで、ふと、疑問を覚えた。  カンナはどうして知っていたのだろう。  人間に比べれば、魔物は家族や仲間といった個々の結びつきが希薄だ。魔物は人間と違って、他者と力を合わせなくても十分すぎるほどに強力な存在だから。人間に限らず、獣も、鳥も、魚も、弱い生き物ほど群れて暮らすものだ。  なのに、カンナは知っていた。自分とは直接関係ないはずの、サスィの相手、カムィの父親について。  竜族と契って仔を生んだ魅魔師の女――それは魔物たちの間でも噂になっていたのだろうか。  今さらのように、カンナのことをなにも知らないと気がついた。  カムィは自分のこともほとんど話してはいないが、それでもカンナはカムィの父親のことを知っていた。それとも単に、竜族の嗅覚でカムィの血に混じる魔物の気配を感じ取っただけなのだろうか。  そういえば、今頃なにをしているのだろう。  別れてから四日、そろそろカンナの中の魅魔の血も、その力を失いはじめる頃だ。  本当は、いいことじゃない。  竜族を野放しにするなんて。  無邪気な少女の姿はかりそめのもの。カンナはその気になれば、一人で国ひとつを滅ぼすことすらできる最強の魔物なのだ。  そんなカンナを抑えていられるのは、今のところカムィの血だけだ。本来ならば片時も目を離さず、常に魅魔の血の支配下に置いておかなければならない。  しかし。  今は、カンナの傍にいるのが辛かった。  カンナの顔を見るのが辛かった。  竜族の少女。  その顔を見れば意識せずにはいられない。  自分の身体に、この魔物と同じ血が流れていることを。  そんなこと、我慢がならない。  思い出してしまう。  考えまいとするほどに、記憶が甦ってきてしまう。  無惨に喰い殺された、自分の半身。  口のまわりを真っ赤に染めて、シルカの身体を貪り喰っていた魔物。  血塗れになって息絶えていてもなお美しかった母親。  折り重なる無数の死体。  それはすべて、竜族の仕業。  なのに、この身に同じ血が流れている――。  それはあまりにもおぞましい事実だった。  全身に鳥肌が立つ。手が震える。  自分という存在さえ許せない。短剣を自分の喉に突き立てたい衝動に駆られてしまう。  今、手元に短剣があったらそれを実行していたかもしれない。  この家を訪れた時、旅の荷物と一緒に武器も置いていてよかった。まさかタシロもこのことを予見して武器も置かせたわけではないだろうが。  頭が痛い。  胸が痛い。  もう、どうしていいのかわからない。  五歳のあの日以来、すべての魔物を滅ぼすためだけに生きてきたというのに、自分の中に、その魔物の血が流れているだなんて。  それも、よりによって仇である竜族の血が。  もう、どうしていいのかわからない。  どうすればこの呪われた呪縛から解放されるのだろう。 「……カムィ、カムィ! なにやってる!」 「……え?」  切羽詰まったタシロの声で我に返り、それからようやく激しい腕の痛みに気がついた。  ずきん、ずきん。  両方の二の腕に、灼けるような痛みがある。  気がつくと、自分の身体を抱きしめるようにして、腕に爪を立てていた。爪は肌に喰い込み、血が流れ出している。  紅い色彩。  甘い芳香。  魔物を狂わせる、神秘の血。  カムィのたったひとつの武器。  人間が魔物に抗うたったひとつの武器。  貴重な魅魔の血。  自分の支えであった血が、しかし今は呪わしい。  そこには、もっとも忌まわしい魔物の血が混じっている。  呪われた血。  滅ぼされるべき血。  すべて流れ出てしまえばいい。  すべて流し出してしまえばいい。  忌まわしい魔物の血を、この身からすべて。  手に力がこもる。爪がさらに深く肉に喰い込んでいく。  深紅の液体が、肌の上に曲線を描いていく。カムィの肌が白すぎるために、それはあまりにも美しく、そして禍々しい光景だった。 「……カムィっ!」  タシロの手がカムィの手首を掴む。力いっぱい、骨が軋むほどに力が込められている。  鍛えられたタシロの腕力でようやく、腕に喰い込んだ爪を引き剥がした。  それでもカムィの腕は、抗おうとしている。再び自分を傷つけようとしている。  剣を使うことを生業とする逞しい腕が、それを許さずに抑えつけていた。  しばらく無言の争いを続ける二対の腕。しかし勝敗は最初から決まっている。  やがて、カムィの腕から力が抜ける。同時に、太い腕がカムィの身体に回された。  力いっぱい抱きしめられている。  身動きできないほどに。  苦しいほどに。  なのに、伝わってくる。  タシロの温もり。  優しい想い。 「どうして……抱きしめて、くれるんだ? こんな……魔物同然の身体を」  引きつった笑みを浮かべつつも、カムィの目から涙がこぼれる。 「それを言ったら、魅魔の血を受け継ぐ者は全員がそうだ」 「でも……違う。私は……」  母サスィでさえ、魅魔の里でもっとも濃い血を受け継いでいた。それに加えて父親が竜族である。 「私の血は……半分以上、魔物の血だ。私の身体は人間よりも……魔物に、近い」 「それがどうした? コンルの連れ合いは正真正銘の竜族だ。それに比べたら、俺の嫁が竜の血を色濃く受け継いでいるからといってなんの不都合がある」 「兄さん……」 「もうそろそろ『兄さん』は卒業したいところだな」  そう。  ずっと兄妹同然に暮らしてきたが、周囲の大人たちは二人を昔から『許婚』と見ていた。その影響か、恋愛や結婚といったことには興味のないカムィも、いずれはタシロと結婚することになるのだろうと自然に受け入れていた。 「に……じゃなかった。…………くそっ、改まって呼ぶとなると難しいな」  名前で呼ぼうとしても、意識するとうまく口が回らない。  だからカムィは言葉の代わりに、タシロの厚い胸にそっと腕を回した。 * * *  まだ、早朝と呼ぶにも少々早すぎる時刻――  カムィは音を立てないようにそっとタシロの家を出た。  見上げると東の空が微かに白みはじめているが、まだ早起きの小鳥も目覚めてはいない。  当然、村人たちの姿もない。  カムィは静かに歩き出した。  夜明け前の冷たい風が頬を撫でる。  長い髪が揺れて広がる。  風の冷たさが、今は心地よかった。寝不足と疲労で重い身体を少しでも目覚めさせてくれる。  カムィは普段通りの旅支度だった。タシロが住む村を出て、北に進路を取る。  北へ――  魔物が支配するという地へ向かって。    昨夜はほとんど眠っていなかった。  ずっと、タシロの腕の中に抱かれていた。  ずっと、タシロの身体を抱きしめていた。  二人とも全裸で。  それは生まれて初めての経験だった。  人間との、そして男性との交わり。 (……いけない)  カムィは頭を振った。  想い出すな。  考えるな。  あの甘美な行為は、明るい光の下で考えるべきことではない。  そう自分に言い聞かせても、しかし、考えまいとするほどに想い出してしまう。  まだ、身体が覚えている。全身に感覚が残っている。  タシロの力強い腕。  心安らぐ温もり。  そして――幸せな快楽。  そっと、下腹部に手を当てる。  ここに、残っている。タシロの精が、この胎内に。  それはとても甘くて、心地よく、幸せで、そして気持ちのいい行為だった。  タシロとひとつにつながり、その精を胎内に受けとめること。  それは新たな生命を宿す行為。  この身に流れる呪われた血を、少しでも薄める行為。  気持ちよくて、幸福で、充実感に溢れていた。 (……兄さんに、はしたない娘と思われなかっただろうか…………)  恥ずかしいことではあったが、カムィの方から求めてしまった。  何度も、何度も。  本当に幸せだった。  全身の肌でタシロの温もりを感じ、身体のいちばん深い部分で熱さを感じる。  幸福な、満たされるような快楽。  初めての体験だった。  これまでカムィに男性経験はない。自慰の経験すらなかったカムィにとって、性的な経験といえば、魔物に――カンナやイメルに犯されたことだけだ。  その暴力的な、身体中の神経が灼き尽くされて発狂してしまいそうな激しい快楽とは違う。  同じ性的な快楽であっても、もっと優しくて、本能的な幸福感を覚える。  これこそ、人間の身の丈に合った快楽というものだろう。  漠然と、いつかはこうなると思っていた。恋愛とか縁談といった話題には興味のないカムィだったが、歳が近い若者の中で最も優れた魅魔の血を受け継ぐ者同士。本人たちより先に、周囲の大人たちが二人を許婚として扱っていた。  もちろん、タシロに対して好意は抱いている。しかしこれまで、それは異性に対してというよりも、肉親に対する愛情のようなものだと思っていた。家族を亡くして叔父の家に引き取られて以来、タシロ、カムィ、コンルは実の兄妹のように育てられてきたのだ。  しかし、魅魔の血を絶やさぬために、タシロと結婚して子を産むことになるのだろうと思っていた。カムィにとっては現実感のある話ではなかったが、いつかはそうなると漠然と考えていた。いずれにしても復讐を終えてからのことだ、とも思っていた。  今回のことは、まったく予想外の出来事だった。  成り行きでタシロに抱かれてしまった、ともいえる。  しかし今のカムィにとって、それは必要なことだった。  カムィの正気を保つために。  カムィが人間でいるために。  今のカムィは、少なくともタシロに会う前に比べれば心も安定していた。 「これで……よかったんだよな」  自分自身に確認するかのように、小さな声でつぶやく。  そうだ。  これでよかった。  それは間違いない。    ……はず。    なのに……。    なにかが違う――心の奥底で、そんな声がする。  なにかが、足りない。  けっして、タシロが与えてくれる快楽が物足りなかったわけではない。この身体は十分すぎるほどに感じていて、ついには力尽きて気を失うように眠ってしまったほどなのだ。  なのに。  ――なにかが違う。  心の奥底で、そんな声がする。  なにかが、違う。  なにかが、足りない。  あるべきなにかが、ない。  タシロの愛撫に身をゆだねている時でも、いや、タシロとの行為で快楽の波に包まれれば包まれるほど、脳裏に浮かぶものがある。  想い出してしまう。    想い出してはいけない。考えてはいけない。  そう思えば思うほど、より強く想い出してしまう。    深い黄金色の瞳を。    柔らかな黄金色の髪を。    その鋭い爪が、その長い舌がもたらす、気が狂うほどの快楽を。 五章  今頃、どこにいるのだろう。  今頃、なにをしているのだろう。  なぜだろう。  逢いたい、などと想うのは。  認めない。  認めたくない。  そんなの、思い違いだ。なにかの勘違いだ。  そうに決まっている。    たった五日、離れていただけなのに。    ――カンナを求めているなんて。    認めない。  ありえない。  認めたくない。    タシロが住む村を後にしたカムィは、北に向かっていた。  今は深い山の中の道を歩いている。  目指すは、魔物が支配しているという北の地。  その原因を突き止め、魔物を滅ぼすために。  行かなければならない。  これまでもそう思っていたが、その理由はさらに大きくなっていた。  魔物を憎むこと。  魔物を滅ぼすこと。  そうすることが、自分が人間であることの証となる。  だから、やらなければならない。  自分の中の、魔物の血を否定するために。  自分が人間であるために。  魔物を狩らなければならない。  すべての魔物を滅ぼさなければならない。  人間に害を為す魔物はもちろんのこと、最終的にはラウネも、カンナも。  すべての魔物が滅びれば、カムィは人間でいられる。 「殺す……? カンナを?」  その考えに、軽い目眩を覚えた。  どうしてだろう。  何故いまさら、その事に躊躇いを感じるのだろう。  元々、そうしようとしていたのではないか。  憎き竜族の一員。  自分を汚した、憎むべき魔物。  殺しても殺し足りない相手ではないか。  そもそも、これまで生かしておいたことの方がおかしい。  どうして、一緒に行動してきたのだろう。  どうして、様々なわがままを許してきたのだろう。 「…………」  想い出してはいけない。  そう思えば思うほど、想い出してしまう。    黄金色の瞳。  柔らかな黄金色の髪。  その鋭い爪が、その長い舌がもたらす、気が狂うほどの快楽。  何故だろう。  忌まわしいはずのその記憶が、甘美な想い出のように感じられるのは。 「…………」  内心、気づいていた。  逃げるようにカンナの許を離れた真の理由。  ただ、認めたくなかっただけだ。  今の精神状態では、いつ発作的にカンナを殺してしまうかわからない。  だから、離れた。  それは、つまり。    ――カンナを殺したくないから。   「……なにを、いまさら…………」  自嘲めいた笑みが浮かぶ。口元が微かに震えている。  いまさら、だ。  ずっと前からわかっていたことではないか。  最初に出逢った時、確実にとどめを刺せた状況で、殺さなかったこと。  イメルとの戦いの後、傷ついて瀕死の状態だったカンナを助けたこと。  ――殺せない。    自分には、あの竜は殺せない。  あの、黄金の瞳。  あの、無邪気な笑み。  この手で壊すことなどできはしない。 「…………」  拳を握りしめる。  唇を噛む。 「くそっ」  血の混じった唾を吐き捨てて叫んだ。 「……なにをぐずぐずしている! さっさと追いついてこいっ!」  誰も聞く者はいない深い山の中で、カムィの叫びがこだまする。  数羽の小鳥が驚いて飛び立つ。 「……はは……は……」  こだまが消えるに従って、カムィの身体からも力が抜けていく。乾いた笑いが漏れる。  力尽きたように、その場にうずくまって手をついた。 「…………いったい、どうしてしまったんだ……私は」  乾いた土の上に、一滴の涙が落ちた。 * * *  しばらくしてからまた歩き出したカムィだったが、様々な想いに気を取られていたためだろう、周囲の気配の変化に気づくのが遅れた。  滅多に通る者もいない山道。もちろんカムィは一人きりだ。  しかしいつの間にか、付近に人の気配があった。  獣や魔物ではない。 (……いや)  微かに、ごく微かにだが、魔物の気配もある。  どこだろう。近くではないようだ。近くの気配は間違いなく人間のものだった。  魔物の方は非常に遠くにいるか、よほどうまく気配を殺しているか、あるいは過去の残滓だろう。この微かな気配では、そのどれかまでは判別できない。  人間の気配は少なくともふたつ、あるいはそれ以上。カムィの行く手にあり、明らかにこちらに意識を向けている。 「なにか用か?」  姿が見える前に、森の中へと問いかけた。それに応えるように、道端の藪から二人の男がカムィの行く手を遮るように姿を現す。  山賊、追いはぎの類だろうか。お世辞にも柄がいいとは言えない風貌で、まだ抜いてはいないが腰に剣を佩き、手には剣よりやや長い棒を持っている。 「…………なにか用か? 魅魔の里のこの私に」  二人はなにも応えない。表情も変えない。  そして明らかに、カムィに危害を加えようとする意志が感じられた。  本来、ありえないことだ。  若く美しい娘のひとり旅。それは普通に考えれば魔物の存在がなくとも危険なことであるが、カムィはそうした普通の娘が懸念すべき危険とは無縁だった。魔物との戦い以外で危険な目に遭ったことなどない。  もちろん魅魔の血の力は人間には通じないが、一応の体術も身につけている。魅魔の血で魔物と戦う際、敵の攻撃を捌かなければならない場面は少なくない。正規兵や手練れの傭兵ならともかく、単なる追いはぎや女に悪さをしようと考えるごろつき程度なら容易にあしらえる。  それに血の効力はなくとも、魅魔の『名前』が持つ力は人間にも十分すぎるほどに通用する。  魅魔師は、魔物と対等以上に戦える唯一の存在だ。  人間にとって魅魔師は、天敵である魔物に対抗できる唯一の力であり、自分たちを護ってくれるという心の支えである。  尊敬と畏怖の対象である魅魔師に対して、害を為そうなどと考える人間はいない。魅魔の血の秘密を知らない人間にとって、魅魔師とは『魔物を凌駕する恐ろしい力』を持った存在なのだ。  魔物よりも強い力を持った人間――誰がそんな相手に戦いを挑もうなどと考えるだろう。魅魔の力が魔物以外には無力だと知る人間は皆無だ。  だからこれまで、カムィやコンルのような見目麗しい年頃の娘であっても、人間の中では安全に旅することができた。  しかし目の前の男たちは、明らかにカムィに害意を持って距離を詰めてきている。 「……私が魅魔の里の者と知ってのことか?」  やはり応えはない。にやにやと、含みのある下品な笑みを顔に貼り付けている。  カムィは微かに目を細めた。  あまりいい状況とはいえない。相手の意図はわからないが、カムィに危害を加えるつもりなのは間違いない。  まともに争うのは賢明ではない、と判断した。一対一ならまだしも、二対一では分が悪い。  くるりと踵を返す。  旅慣れているとはいえ、はたして女の脚で逃げ切れるものかどうか。それでも刃を交えるよりは望みがあるだろう。  しかし――  相手は二人だけではなかった。  後ろからも二人、退路を断つように両脇の森から姿を現す。 「…………」  カムィはゆっくりと四人を見回した。 「お前たち、なにが目的だ?」  答えの代わりに、一人の男が飛び出してきた。手にした棒を剣のように構え、カムィの胴を薙ぐように振る。  カムィは大きく後ろに飛び退いた。同時に短剣を投げようとしたが、その前に背後に殺気を感じた。  はっとして振り返る。しかしもう間に合わない。  後ろに回り込んできた男に肩から体当たりされて大きくよろめいた。女としては長身とはいえ、屈強な男との体格差は一目瞭然だ。  体勢を立て直す時間は与えられず、男が手にした棒が鳩尾に突き入れられる。 「――っ!」  まともに喰らってしまった。  呼吸が止まる。  身体から力が抜ける。  吐き気が込み上げてきて、唇の端から胃液の混じった唾液がこぼれた。  前屈みにうずくまったところで、背中に棒が叩きつけられる。  一瞬、意識が遠くなる。  身体が痺れて力が入らず、カムィはその場にくずおれた。  男の一人がカムィに馬乗りになり、手から短剣を奪い取る。  そのまま腕を押さえつけられ、別の男に両手首を縛り上げられた。 「……凄腕の魅魔師と聞かされていたが、簡単だったな」  カムィに最初の一撃を入れた男が、手で棒をくるくると回しながら笑う。他の男たちが応える。 「けっして油断するなと念を押されていたが、どう見てもただの小娘だよな」 「こんな奴が本当に魔物よりも強いのか? 信じられんな」  笑い声が上がる。  恐ろしい魔物を狩る魅魔師といえども、人間相手ではただの人でしかない。しかしそのことを知る人間はほとんどいない。 (……くそっ)  カムィは己の迂闊さを呪った。  どうして気づかなかったのだろう。  ここまで接近すればはっきりと感じ取れる。微かな魔物の気配。魅魔師であれば感じとることができる、微かな魔物の『匂い』。  間違いなく、この四人の男たちから漂ってくる。  先刻感じた魔物の気配はこれだったのだ。  ごく微かなものだが、こうして静止して密着している状態では間違えようもない。  とはいえ、この男たちは紛れもなく人間だった。それも間違いない。  そこから導き出される答えはひとつ。  彼らはごく最近、魔物と接触しているのだ。  普通ならば、残り香が移るほどに魔物と接近した人間が無傷でいられるわけがない。しかし何事にも例外というものはある。 「…………くそっ」  唇の端から声が漏れる。  油断した。  まさか、こんな手で来るなんて。  まったく予想外だった。  彼らは確かに人間で、そして人間が魅魔師を襲うことなどありえない。  ――ただしそれは、「自分の意志では」という注釈つきの話だ。  この男たちは、自分の意志で行動したのではない。  魔物に魅了され、操られているのだ。  一般に、魔物に魅了された人間は、魔物に与えられる快楽を貪り、その身を餌として差し出すだけの存在に成り下がる。  しかしそれは、通常、魔物が人間を襲う理由が餌とするためだからだ。もちろんそれ以外のことであっても、命じられれば全身全霊で事に任る。  もっとも、現実にはそんな例はほとんど聞かない。  魔物にとって人間は餌でしかなく、小細工など必要としない絶対的な力の差がある。人間を狩るために余計な手間をかける必要はない。  そして彼我の力関係が逆転する魅魔師に対しては、自ら進んで戦いを挑む魔物など皆無だ。狩られれば反撃するしかないが、そうでなければ魅魔師とは関わらないことが最良の選択だということを知っている。  だからカムィにとっても、この展開は予想外だった。  この魔物は策を弄して、魅魔師と……いや、カムィと事を構えようとしている。  そんなことをする魔物がいるだろうか。 (……これは?)  この『匂い』には覚えがあった。  よく知っている『匂い』だ。これまでに接した個体数は片手で数えられるほどでしかないが、もっともなじみ深い魔物といってもいい。  こんな希少な魔物と、これほど頻繁に関わることになるとは。  これも呪われた血の宿命なのだろうか。  ――そう。  竜……竜族だ。  竜族が、人間を操ってカムィを襲わせたのだ。  いったい何者だろう。「魅魔師を狙っていた」のではなく、「カムィを狙っていた」のは間違いない。  通る者など滅多にいないこんな辺鄙な場所で待ち伏せなど、偶然のはずがない。カムィを監視し、一人になる機会を窺っていたに違いない。カンナやタシロが一緒であれば、この程度の男たちなど敵ではないのだから。  カムィのことを知っている竜族となると、心当たりは多くない。  まずカンナ。  そしてコンルの連れのラウネ。  現存する者ではそれしかいないはずだ。  しかしどちらも直情型で、こんな搦め手を使う性格ではない。カンナが今さらカムィを襲う理由もない。  もちろんラウネというのも考えにくい。コンルが魅了されているのは間違いないとしても、しかしただ盲目的に操られているわけではない。認めたくはないが、二人の間には確かに精神的な絆が感じられた。コンルが正気を保っている以上、カムィに害を為すなど考えられない。  それでは、いったい何者だろう。  もっとも、向こうがこちらを知っていても、こちらも相手を知っているとは限らない。イメルのような例もあったではないか。 (……イメル?)  ふと、引っかかるものを感じた。  この『匂い』、イメルのものに似てはいないだろうか。  そういえばイメルは、カンナを操ってカムィを襲おうとした。操る相手が魔物か人間かの違いはあれ、今回の件と奇妙な共通点がある。  しかし残念ながら、その点をゆっくりと考える時間は与えられなかった。 「それじゃ、運ぶとするか」  男がカムィの身体を担ぎ上げようとする。黒幕である魔物の処へ連れて行こうというのだろうか。  そこまでどのくらいの距離があるのだろう。途中で逃げ出す隙はあるだろうか。  後を追って来ているに違いないタシロが追いついてくれれば事は簡単だが、男たちの目的地が北でなければそれも難しいだろう。  では、カンナだったらどうだろう。カンナなら、かなりの距離があってもカムィの気配を感じ取れるはずだ。  そう考えて、急に不愉快な気分になった。カンナの助けを期待するなんて、冗談じゃない。  第一、カンナが追ってくるとは限らない。おそらくカンナも感じているだろう。今のカムィに下手に近づけば、殺されかねないということを。  しかしカンナのことを考えたおかげで、うまい手を思いついた。  男たちに気づかれないように、口の中を噛む。出血するくらいに強く。  一滴、二滴。  唇の端から血が滴る。  男たちは、倒れた時に切ったとしか思わないだろう。先ほどの会話から察するに、魅魔の血の秘密を知らないことは間違いなさそうだ。  これでいい。  血の匂いが届く範囲に魔物がいれば、必ず惹き寄せられてくる。どんな下等な魔物であっても、この四人が相手ならお釣りが来るほど十分な戦力になる。  結局は魔物を頼りにすることになるが、カンナに頼るよりは百倍ましだ。  多少の運があれば、そう遠からずに魔物が罠に引っかかってくるだろう。  しかし――  場の空気は、カムィが予想していなかった不穏な方向へと変化しつつあった。 「待てよ、そんなに慌てる必要もないだろ」  男の一人が、カムィをかついだ男の腕を押さえる。 「なんだ?」 「あの御方は、殺さず、できるだけ傷を負わせずに捕らえてこいとは言われたが、それ以外のことは特に命じられてないぞ」 「……ふむ」  男たちの目が怪しい光を帯びる。それはどことなく、カムィを襲おうとする下等な魔物の姿と重なる雰囲気があった。 「確かに、滅多にいない上玉だよな」  地面に下ろされ、仰向けにされる。男たちが上から覗き込む。 「見ろよこの胸、たまんねーな」  男の手が着物の胸の部分にかかり、生地が一気に引き裂かれた。  露わになった胸を乱暴に掴まれる。弾力に富んだ大きな膨らみに、男の指が喰い込む。 「胸だけじゃねーぞ。いい腰してるじゃねーか」  下半身を覆っていた布も破かれ、放り捨てられた。ほぼ全裸と変わらない姿にさせられる。  抗おうにも、腕力で敵うわけがない。屈強な男たち四人に手脚を押さえられていてはどうしようもない。  男たちは嫌らしい笑みを浮かべ、汚らわしい手でカムィの身体を――胸を、腰を、そしてもっと大切な部分を――撫で回している。  頭に血が昇り、顔がかぁっと熱くなる。  許せない。  許せない。  こんな汚らわしい連中に弄ばれるだなんて。  そして、こんな連中に為す術もなく陵辱されている自分も許せない。  こんな、魔物にも劣る、汚らわしい、唾棄すべき者たちに。  その手が肌に触れてくる感覚はおぞましいだけで、これならばまだ魔物の方がましだと思った。少なくとも魔物は快楽を――それが受け入れがたい快楽であっても――与えてくれる。  ただただ不快なだけの、愛撫とも呼べない接触。  許せない。  許せない!  許さない!  血が昂る。  熱い。顔が、そして瞳が。  瞳の色が変わるのを感じる。上半身を押さえてカムィの顔を覗き込んでいだ男の目に、紅い光が反射していた。 「……っ!」  瞳に意識を集中する。  カムィの顔を正面から見た男が、不意に動きを止めた。目の焦点が合わなくなっている。 「……放せ」  声に力を込める。男はぼんやりとした様子でその言葉に従った。  上体を起こして首を巡らせ、他の三人にも力のこもった視線を向ける。  最初の男と同じように、三人も目の焦点がぼやける。のろのろとした動作でカムィから離れる。 「お前たち、よくも……」  怒りに声を震わせながら、カムィは立ちあがった。曝け出された裸体を隠そうともしない。そんなことまで気が回っていない。  怒りの感情だけがカムィを支配していた。頭の中は、自分を汚そうとした男たちへの怒りと憎しみに満たされている。  身体が火照り、中心から力が湧きあがってくるような感覚。  まるで、魅魔の力を行使する時のように。  おかしい、そんなはずはない――心の片隅で、小さな声がする。  相手は紛れもなく人間だ。  そして魅魔の力は、魔物にしかその効力を発揮しない。  なのに……感じる。  目の前の相手を支配する感覚。相手の精神を、肉体を、手中に収め、思うままに操れるという確信。  これは間違いなく、魅魔の力で魔物を支配した時と同じ感覚だった。  おかしい、こんなはずはない――心の片隅で声がする。  しかし怒りに我を忘れたカムィは、その小さな声を無視した。 「……」  ある言葉が、喉をついて出そうになる。  言ってはならない、と止める自分。  言ってしまえ、とけしかける自分。  頭の中で二人の自分が争っている。  それを言ってしまえば、それをしてしまえば、人間ではいられない。  そう諫める声。  なにを躊躇う必要がある。  自分を汚した相手。こんな連中と同類であるというのなら、人間である必要などない。  そう反論する声。  こんな連中を守るために人間でなければならないのなら、人間でなくてもいい。  魅魔師は、竜と人の混血。純粋な意味での人間ではない。  人間ではない。  人間では……  それならば…… 「――」  カムィは一言、短い言葉を発した。  これまで幾度となく、魔物相手に発してきた言葉。  人間に向けてはならなかった言葉。  その一言で、カムィに支配された男たちの目から、生命の光が失われた。 * * * 「…………なんだ、これは」  目から涙が溢れ、全身が震えている。  胃液が逆流し、吐き気が込み上げてくる。  カムィの目の前には、四つの骸が横たわっていた。  身体には傷ひとつない、苦しんだ様子もない、しかし生命の火が消えた肉体。 「これ、が……」  これが人間の仕業だろうか。  これでも人間だというのだろうか。  この、力。  これは人間のものではない。魅魔師のものでもない。  これは、魔物の力だ。  魅魔の血すら使わずに、その瞳と言霊だけで人間を支配し、操り、そして――    ――殺した。    人の力ではない。魅魔の力でもない。  これは魔物の――竜族の力だ。相手が魅魔師であっても支配できる、竜族の魅了の力だ。  魅魔の力は、魔物を倒すための力。魔物と戦い、人間を護るための力――そう信じてきた。  しかし――  その力の源は、竜の力だった。  竜族と源を同じくする、魔物の力だった。  この身には、竜に連なる血が流れている。  この血がもたらす力は、あらゆる魔物を支配し、殺すことができる。  しかしその血はまた、人間を殺す力も持っていた。  瞳が熱い。  瞳が、強い光を放っているのを感じる。  ――怖い。  見るのが怖い。  今、瞳は何色をしているのだろう。  魅魔の一族の証である血の色であればいい。しかし、竜族と同じ金色であったら―― 「私は……ニンゲン、なのか……?」  違う、違う。  人間ではない。  これは、人間の力ではない。  人間が持っていていい力ではない。  人間を支配し、操る力。  魔物の力。  タシロだって、この光景を目の当たりにしたら今のカムィを人間とは認めてくれないのではないだろうか。 「違う……私は、人間だ……」  自分に言い聞かせるようにつぶやく言葉は、虚しく響いた。  空々しい。  違う。こんなの、人間ではない。  違う。私は人間だ。  人間だ。  そうでなければならない。  竜の血が流れていようとも、自分は人間だ。  人間でありたい。  人間でなければならない。  そうでなければ、これまでの自分を、自分の存在そのものを、否定することになる。  だから、人間でなければならない。  人間であるためには…… 「…………魔物を、殺せばいい」  自分が人間であるために。  人間であることを証明するために。  そのためには、魔物を一体残らず狩り尽くせばいい。  魔物は、魔物を狩らない。餌を巡って争うことはあっても、同族を狩ることはない。  人間だから、魅魔師だから、魔物を狩る。  自分が人間である証として。  ――そうだ。  唇の端が微かに吊り上がり、歪んだ笑みを浮かべる。  魔物を狩ればいい。  まずは手始めに…… 「……いつまで隠れている? こそこそせずに姿を見せたらどうだ?」  森の中に呼びかける。  それに応えるように、突然、今までなかった気配が周囲の空間を満たした。  色濃い魔物の気配。それも、最上級の魔物の気配だ。  ずっと、すぐ近くにいたのに、この瞬間まで完璧に気配を消していた。それは、気配の主が極めて強い力の持ち主であることを表している。  カムィでも、以前は感じ取れなかったであろう微かな気配。しかし感じとることができた。今はかつてないほどに感覚が鋭敏になっていた。  これも、人間のものではない力に目覚めたためなのだろうか。  そうだとしても、今は好都合だった。この魔物を殺すのに役立つのであれば大歓迎だ。  顔を上げ、視線を空に向ける。  周囲で最も高い樹の梢に、人の姿があった。  いや、人ではない。魔物だ。ただし、見た目は人間とまったく区別がつかない姿をしている。  目に映る姿は、カムィよりもいくぶん年長の、美しい女性だった。ただしまとう気配は人間とはまったく違う。 「貴様……?」  その姿を肉眼で認めたカムィは、不審げに片方の眉を上げた。一瞬、自分の目を疑った。  この気配は間違いなく、竜族のものだ。それも、かなり強い力の持ち主と思われる。  そのことに問題はない。しかし、それが見知った顔で、しかも絶対に会うはずのない相手というのは予想外だった。  見覚えのある、そして、絶対に忘れられない顔。  しかし、二度と見ることは絶対になかったはずの顔。 「…………イメル?」  自然と、問いかけるような口調になる。  その姿は間違いなくイメルだった。  半年ほど前に遭った、強い力を持った竜族。かつてないほどに苦戦させられ、カンナも瀕死の重傷を負わされたが、二人がかりでやっとの思いで倒した相手だ。 「……何者だ、貴様?」  本人のはずがない。  イメルは間違いなく、カムィの目の前で死んだ。カンナが放った雷でずたずたに引き裂かれて息絶えた死体をこの目で確認した。  しかし、その姿は紛れもなくイメルのものだった。  明るい朱色の髪。  赤銅色に輝く瞳。  魔物の力がなくとも人間の男などたちまち魅了してしまうであろう妖艶な肢体。  どれを取ってもイメルに違いない。  その魔物はにやりと笑うと、風に舞う羽根のような軽い動作で地面に降りてきた。倒れている男の背中を踏みつけて、カムィの前に立つ。  そんな仕草もイメルそのものだった。 「意外と役に立たなかったわね。魅魔師相手には、人間の方が向いているかと思ったのに」  こいつが男たちを操っていたのは間違いない。男たちから微かに感じたものと同じ気配をまとっている。 「……でも、竜族相手じゃニンゲンの力は役に立たないか」  からかうような口調で言いながら、視線を足の下の死体からカムィに移した。意味深な笑みを浮かべている。  はっとした。この相手は知っているのだ。  魅魔師の血の秘密を。  カムィの出生の秘密を。 「貴様は、何者だ?」  もう一度訊く。魔物はもったいつけることなくその答えを返してきた。 「イメルは、私の姉よ」  笑みを浮かべた口。微かに開いた唇の隙間から、長く鋭い牙が覗く。 「姉……?」  なるほど。それですべての謎が解けた。  双子の姉妹であれば、これだけ瓜二つなのも、カムィのことを知っているのももっともだ。イメルは襲ってくる前から、カムィとカンナのことを知っていた。ならば妹がカムィのことを知っていても不思議ではない。似た策を用いることも納得できる。 「そして、私の名は……」 「姉だろうと妹だろうと関係ない。貴様の名前にも興味はない。どうせ、すぐに名前など必要のない『魔物の死体』に変わるんだからな」  カムィは相手の言葉を遮った。  殺したはずの魔物が蘇ってくるなどという前代未聞の事態ではないことさえわかればそれで十分だった。必要もないのに魔物と会話するなど不愉快でしかない。  そんなカムィの態度が可笑しかったのか、魔物はふっと小さく笑った。  カムィは男たちに奪われた短剣を拾い上げると、刃の上で指先を滑らせた。銀色に輝く刃先に、微かに紅い筋が残る。  その切っ先を突きつけて言う。 「その顔は不愉快だ。さっさと消えろ」  カムィにとっては、これ以上はないというくらいに不愉快だった。イメルには、正気を失いかけるほどに犯され、嬲られた。そんな、かつてない屈辱を味わわされた相手とまったく同じ顔は、カムィの神経を強く逆なでした。 「ふふっ」  女が微かに笑うと、カムィの周りで風が騒いだ。  小さな旋風が起こるのと同時に、手に鋭い痛みが走る。 「っ!?」  突然のことに驚いて、思わず短剣を落とした。手の甲に、鋭い刃物で切られたような傷ができていた。滲んだ血が紅い筋となって浮かび上がってくる。 「せっかちな娘ね。せっかく自己紹介しようとしてるんだから、聞いてくれてもいいんじゃない? 私の名は、マウエ」 「……なるほど」  カムィは納得顔で小さくうなずいた。  マウエ――それは風を意味する言葉だ。 「風が貴様の武器というわけか。しかし、魅魔の血と戦うには向かない武器だな。これでは自分の首を絞めることになるぞ」  カムィは自分の傷に爪を突き立てると、乱暴に引っ掻いた。うっすらと滲んでいた血が、本格的な出血となる。  魅魔の血の芳香が広がる。  それは、あらゆる魔物を魅了してやまない甘い香り。  魅魔の血の誘惑に抗える魔物はいない。そしてカムィの血は、他のどんな魅魔師の血よりも強く魔物を惹きつける。  下等な魔物であれば香りだけでも操れる。一滴でも口にすれば、その血は竜族であっても支配する。  魔物が魅魔師を倒そうとするなら、「いかに血を流させないか」に腐心しなければならないはずだ。イメルはその点、気を遣っていた。なのにマウエは、離れたところから魅魔師を切り刻む技とは。  イメルよりも考えが浅い奴だ、とほくそ笑む。  落ち着いた動作で落とした短剣を拾うと、傷ついた手を差し伸べてマウエを誘った。  マウエは無言で歩を進め、カムィの前に立った。ゆっくりとした動作で差し出された手を取ろうとする。  ――その瞬間。  突然、マウエの動きが加速した。カムィの手首をしっかりと掴むと、拳を握ったもう一方の手を脇腹に叩きこんだ。 「っっ!」  あばらが折れる鈍い音が響く。激痛に息が止まる。  さらにもう一撃、鳩尾に拳が打ち込まれた。逆流した胃液が口から溢れる。  全身から力が抜け、その場に頽れそうになったマウエはカムィの首を掴むと、そのまま片腕で吊り上げた。  指が喉に喰い込み、頸動脈が締めつけられる。 「ぅ……あ、が……」 「甘いわね。私の目的はあなたの血ではない」  マウエは目を細めて言った。 「いくら魅惑的な血であろうと、見境なしに喰らいつくほど飢えてもいない。まともに喰らえばともかく、匂いだけなら少しくらいは我慢できるわ」  ――そんな、莫迦な。  愕然とする。  確かに、可能性としてはないわけではない。コンルの血を充分に喰らっていたラウネが、見境なしにカムィを襲ったりはしないように。  しかしそれは、コンルの血だからこそできたこと。カムィに次ぐ、もっとも純粋な魅魔の血筋に連なるコンルの血を受けていたからこそ、だ。それでもカムィが本気でラウネを魅了しようとすれば、事情は違ったはず。  なのにマウエは、本気になったカムィの誘惑を撥ね退けている。  それは、不自然な状況だった。人間の血はもちろん、並の魅魔師の血で満腹していたとしても、カムィの血の誘惑に抗えるはずがない。  いったい何者がマウエに血を与えたというのだろう。  最近、それだけの力がある魅魔師が竜に殺されたという話は聞かない。そもそもコンルを除けば、現在、それだけ力のある魅魔師が残っているだろうか。  まさかこの数日の間に、コンルがこの魔物の犠牲になったとは考えられない。コンルにはラウネがついている。マウエは確かに力のある魔物のようだが、コンルの血を受けたあの竜が簡単に倒されるはずがない。年長の分、ラウネの力はカムィと行動を共にしはじめた頃のカンナよりも強いのだ。  もしもマウエがコンルとラウネを襲い、コンルに万が一のことがあったのだとしたら、マウエが無傷でいられるはずがない。魔物の回復力を持ってしても、この数日では癒しきれない深手を負うはずだ。  ならば、マウエに血を与えたのは誰だろう。  ひとつだけ、思い当たる可能性があった。  ――竜。  竜だ。竜族の血だ。  魅魔の血には及ばないが、力のある竜族の血は、同族の『渇き』をある程度は潤すことができるという話をカンナから聞いたことがある。  力のある竜族――イメルよりもカンナよりも強い竜族。そんなものが存在するとしたら、その血は竜族の空腹を満たし渇きを潤し、短時間ならカムィの血の誘惑に抗える抵抗力をもたらすかもしれない。  誘惑に抵抗するのはほんの短い時間でいい。竜族がその気になれば、その短い時間でカムィの戦闘力を奪うことは簡単だ。  今、マウエがしているように。  マウエの指が喉に喰い込んでくる。  呼吸と血流が妨げられ、頭が重くなる。視界が暗くなってくる。  ――まずい。  意識を失ってしまったら、そこで終わりだ。  カムィは口の中で舌を噛んだ。血が流れ出すほどに強く犬歯を突き立てる。  錆びた鉄の味が口中に広がる。  その行動には痛みで意識を保つということの他に、もうひとつの目的があった。 「――っ!」  マウエの目を狙って、血の混じった唾を吹く。  幼い頃に、母に教わった技のひとつだった。こうした危機的状況に対処するための、己の勝利を確信した魔物の不意をつくための技。  ところがマウエは、まるでカムィの手の内を読んでいたかのようにそれをかわした。血の混じった唾の塊は、頬をかすめただけで地面に落ちた。 「惜しいわね、その手は知ってるわ」 「な……っ?」  この魔物は、以前に魅魔師と戦ったことがあるのだろうか。カムィが知る限り、近年、竜族と戦った魅魔師はカムィとコンルくらいのはずだが。 「主の処に連れていくまで、しばらく眠っていなさい」  首を掴む手に力が込められる。頸椎が嫌な音を立てて軋む。 「我々の主が、お前の血を望んでいる」 「……ある……じ…………?」 「竜族の王、すなわちすべての魔物の王。そして、この世の王。この世で最強の、あらゆるものを支配する存在」 「な、に……もの……だ?」 「今は知る必要もない。すぐに会える」  視界が暗くなる。  意識が遠くなる。  もう限界だ――そう思ったその時、 「カムィから手を離せっ!」  叫び声がカムィの意識を現実に引き戻した。  鋭い風切り音。それに続く短い呻き声。  首を掴んでいた手が離れ、カムィの身体は地面に落ちた。 「……っ?」  咳き込みながら顔を上げると、マウエの腕に一本の矢が突き刺さっているのが目に入った。  その、鑢のような細かい溝が刻まれた特徴的な鏃には見覚えがある。魅魔の血を塗って使用する、魅魔剣士の武器だ。  再び、細い風切り音が近くをかすめる。しかし今度は、マウエは自分を狙って飛来する矢を無造作に払い落とした。  カムィは矢が飛んできた方向に首を巡らせる。 「……兄さんっ?」  他にありえないとわかっていても、思わず叫んでしまう。  そこには、矢筒から次の矢を抜き取って番えるタシロの姿があった。  矢が放たれる。余裕のある動作でその矢も払い落とそうとしたマウエだったが、はっとした表情で身を翻した。  一瞬前まで彼女がいた空間を矢が貫くのとほぼ同時に、彼女を狙っていた爪が空を切った。マウエが矢だけに意識を向けてその場に立っていたら、身体を引き裂いたであろう鋭い爪。 「……ラウネ?」  間違いない。その姿は確かにコンルの竜だ。  もう一度タシロに視線を向ける。その少し後ろにコンルが姿を現した。手には愛用の剣を握り、その瞳は紅い光を放っている。手の甲の真新しい傷からは血が滲んでいる。 「まったく、姉様ったら。一人で勝手に行動するからこんな目に遭うのよ」  呆れたような、からかうような、しかし内心の安堵を押し隠しているような表情でコンルが苦笑する。 「ほらよ」  マウエに攻撃をかわされたラウネは、素早くカムィの短剣を拾い上げて放って寄こした。  カムィは短剣を受け取ると、頭をひと振りして意識をはっきりさせてから立ち上がった。短剣の刃を、マウエに切られた傷に当ててから構える。  その間に、弓を捨てたタシロが剣を抜いて駆け寄ってきた。全裸同然のカムィに自分の外套を羽織らせると、片手で剣を構え、もう一方の手でカムィを庇うような体勢になる。 「……ありがとう、兄さん」  自然と口元がほころぶ。 「ありがとう兄さん、じゃないだろうが!」  笑みを浮かべるカムィとは対照的に、タシロの声には怒気がこもっている。 「どうして、黙って出て行ったんだ」 「…………ごめんなさい」  どうして、と問われても返答に困る。あの想いを言葉にして説明するのは難しい。 「まあいい……その話はこいつを倒した後だ」  緊張した面持ちで言う。タシロも竜族と戦うのは初めてのはずだ。タシロは魅魔剣士として当代きっての使い手だが、それでも竜族に太刀打ちできるかとなると心許ない。  並の竜族でさえ、最高の魅魔師にとっても極めて危険な相手なのだ。ましてやマウエの力は並ではない。 「兄さん、気をつけて」  その言葉に小さく手を振って応えると、タシロは地面を蹴った。  一瞬でマウエとの間合いを詰め、手にした剣で斬りかかる。右から、と見せかけた剣の軌道が瞬時に変化して、左下から襲いかかる。タシロの血で濡れた刃がマウエに叩きつけられる。  さすがは剣を生業とする魅魔剣士だ。重い肉厚の長剣でありながら、マウエにさえ避ける隙を与えない。血の力に頼るカムィやコンルには真似のできない技だ。  しかし、 「――っ!」  硬い巨木の幹を斬りつけたような鈍い音が響く。  マウエの右腕は、鋭い刃をいとも簡単に受けとめていた。確かに普通の武器で竜族を傷つけることはできないが、魅魔剣士の血を塗った刃は、魔物に対して有効な武器になるはずなのに。  不利を悟ったタシロが飛び退くのと同時に、鋭い爪を伸ばした左手が翻る。間一髪のところで直撃はかわしたが、額が浅く裂けて血飛沫が散った。  タシロの体勢が崩れたところに追撃が来る。二撃目はラウネが割り込んで逸らしたが、同時に繰り出した爪の反撃は、これもいとも簡単にかわされてしまった。  余裕の笑みを浮かべ、マウエが目を細める。その視線が、赤銅色の瞳が、タシロに向けられる。  ――いけない! 「兄さんっ!」  慌てて駆け寄るカムィ。タシロの顔を押さえて自分の方を向かせ、強引に唇を重ねた。まだ口の中に血の味が残っている。その唾液をタシロの口中に送り込む。  口づけていたのはごく短い時間だ。唇を離し、真っ直ぐにタシロの目を見る。 「カムィ……」  かすかな苦笑。大丈夫。いつも通り強い意志の力を感じる瞳だ。タシロの意識ははっきりしている。マウエの影響は受けていない。  危ないところだった。魅魔師は一般に魔物の魅了の力に対して抵抗力があるが、それはあくまで「常人に比べて」でしかない。  力のある竜族は、カムィすら――もっとも純粋な魅魔の血を受け継いでいて、かつ同性であるカムィすら――魅了できる。異性のタシロともなれば、魅魔剣士としては優れた血の持ち主とはいえ、マウエの力に抵抗できるとは思えない。 「大丈夫だ。カムィ以外の女に心を奪われるはずがないだろ」  タシロが冗談交じりに言う。 「どうだか。兄さんは昔から女の子に優しかったし」  カムィも微かに笑みを浮かべる。  剣を握ったタシロの手を取って、その刃の上に自分の腕を滑らせた。皮膚が浅く切れて、紅い筋が濃くなってくる。滲み出た血の上に、もう一度刃を押しつける。 「残念だが、兄さんの血では無理だ」  マウエほどの相手に傷を負わせるためには、魅魔剣士としてはもっとも濃い血を引いているタシロであっても、血の力が弱すぎる。しかしカムィの血であれば話は別だ。  人間の胴を両断できるほどの重く強靱な刃にカムィの血が加われば、最強の竜族にも対抗できる武器になる。 「コンル、お前もだ」  後ろに控えていたコンルが、一瞬、えっという表情になる。 「こいつを相手にするには、お前の相棒でも心許ないぞ。素のままでは、な」  それだけで理解したようだ。すぐに納得顔になり、ラウネに駆け寄った。  ラウネも事情を理解し、鋭い爪でコンルの腕を撫でる。白い肌に紅い筋が浮かぶ。  魅魔の血を塗った竜族の爪。魔物に対してこれほど強力な武器は他にない。 「兄さん、あいつは風を操る。気をつけて」  あの技は気をつけなければならない。カムィに対してはかすり傷しか負わせなかったが、その気になれば長剣並みの切れ味でもっと深手も負わせられるのかもしれない。その可能性は常に頭に入れておかなければならない。  風の刃。それは武器や体術では防げない。  おそらく、カムィやコンルに対してはあまり深手を負わせることはしないだろう。いくら耐性があるとはいえ、必要以上に魅魔の血を流させることは自分の首を絞めることになる。  しかし魔物のラウネや、血の力が弱いタシロに対しては、遠慮なしに力を発揮する可能性がある。 「俺の剣は風より速いよ」  タシロは剣を構え、まずは慎重に間合いを詰めていく。ラウネもそれに続く。  カムィはコンルを庇うような位置に移動していく。いちばん年下で、しかも身籠もっているコンル。危ない目には遭わせられない。 「貴様ら……」  マウエの顔から余裕の笑みが消えた。  ざわ……  風が騒ぎはじめる。  最初に動いたのはラウネだった。魔物ならではの跳躍力で一気に飛びかかる。  小さな飆が、ラウネの進路を塞ぐように襲いかかった。ラウネは顔や腕を浅く切られて血飛沫が舞うが、その小さな飆に彼の突進を止めるほどの力はない。  飆を正面から突破して、ラウネが腕を振りかぶる。その手指に生えた爪はマウエのそれよりも太く、長く、鋭く、まるで槍の穂先が並んでいるようだ。  一瞬で懐に飛び込んだラウネ。その爪はマウエを切り裂くはずだった。  その瞬間、彼の背後で飆が突然に勢いを増した。風が音を立てて渦巻き、周囲のあらゆるものを吸い込もうとする。  飆の範囲はごく狭いものだが、ラウネはちょうどその圏内にいた。彼の前に立つマウエはぎりぎりその外だ。  巻き込む風は、ラウネにとっては激しい向かい風となった。突進の勢いがわずかに削がれる。  それは、ほんのわずかな差だ。距離にすれば指一本分の長さほどにしかならないだろう。しかし魔物同士の戦いでは、そのわずかな差が致命的な違いとなった。  ラウネの爪はマウエには届かず、なびいた前髪が数本千切られて宙に舞った。こうなることを読んでいたマウエは、ラウネより一瞬遅れて踏み込むと、鋭い爪を振るった。  深紅の飛沫が飛び散る。  あばらを砕き、胸を深く斬り裂いた傷。人間であれば致命傷だったろう。強靱な生命力を誇る竜族である以上は簡単に死ぬことはないだろうが、相当な深手であることは間違いない。  ラウネの膝が落ちる。  とどめを刺そうと追撃をかけるマウエ。  そこに、銀色の光が奔った。  それはタシロの剣だ。マウエの意識がラウネだけに向けられた一瞬の隙に間合いを詰め、剣を振るった。  さすがにマウエはぎりぎりのところで気づいて体をかわそうとしたが、わずかに遅かった。  剣先がかすめる。  マウエの手の甲に紅い筋が走る。 「――っ!」 「よしっ!」  タシロの、カムィの、そしてコンルの口元が弛む。三人は勝利を確信した。  それは、見た目にはほんのかすり傷でしかない。しかし刃にはカムィの血がたっぷりと塗られている。この程度の傷でも、相手が竜族でも、とりあえず動きを封じるには十分だ。そして動きを封じてしまえば、後はどうにでも料理できる。  しかし――  傷を負った瞬間、マウエは一切の躊躇なしに、鋭い刃のような飆を自分の腕の周囲に巻き起こした。  飛び散る血飛沫。  軽い音を立てて地面になにかが落ちる。 「な……っ!」  それは、手だった。  鋭い爪の生えた竜族の手。  そう、マウエの手だ。  手首のところで、すっぱりと斬り落とされている。  予想外の光景に、タシロの反応が遅れた。  前に出たマウエが、無傷な方の腕を振るう。鋭い爪はタシロの利き腕を切り裂いた。鮮血が飛び散り、剣が弾き飛ばされる。  さらに自分で斬り落とした方の腕を、タシロの頭部に横殴りに叩きつけた。  見た目は女の細腕でも、竜族の力だ。丸太で殴られたような衝撃だろう。タシロの身体は地面に転がり、そのまま動かなくなった。 「ラウネっ!」 「兄さんっ」  ふたつの悲鳴が重なる。  しかし、案ずる相手に駆け寄ることはできなかった。マウエの鋭い視線が二人を貫いている。一瞬でも隙を見せたら命取りになる。 「くっ……」  まさか、あんな手でカムィの力に対抗するとは――。  血が全身に廻る前にその部位を斬り落とせば、魅魔の力に支配されることはない。  これで、状況はカムィたちに不利になった。カムィの血をもってしても、マウエを倒すためには胴体や頭部に血を送り込まなければならない。手足の末端を傷つけても、また同じ手を使われるだけだ。  手を斬り落とすなど、人間であれば重傷だが、魔物にとっては致命傷にはなりえない。事実、いま斬り落としたばかりのマウエの腕は既に出血が止まり、切り口の肉が盛り上がりはじめている。  これが魔物の生命力だった。再生を妨げる魅魔の力による傷でない限り、たちまち回復してしまう。  マウエを倒すためには、胴や頭を深く傷つけなければならない。しかし動きでもタシロやラウネを凌駕する相手と、カムィやコンルの体術でどう戦えばいいというのだろう。 「…………」  カムィは唇を噛んだ。  どれほど困難な状況であっても、こうなった以上はやるしかない。  愛用の短剣を構え、コンルを背後に庇う。 「お前は下がっていろ」 「でも、カムィ姉様……」  コンルの顔には、さすがに怯えたような表情が浮かんでいる。 「お前だと殺される。しかしあいつは、私はすぐには殺さないだろう。どうやら目当ては私らしい」  小さな声で囁き、一歩前に出た。  自分の腕に短剣を突き立て、血を流す。  一か八か、これしかない。  マウエが、カムィの血の誘惑にどれだけ耐えられるか。  甘い血の芳香が強くなる。これだけ濃密になれば、同族の血で耐性を得ているとしても、そういつまでも我慢できるとは思えない。  魅魔の血に気を取られて一瞬でも隙を見せれば、勝機が生まれる。  甘い、甘い、血の芳香が広がっていく。  魔物を魅了してやまない、至高の血。  一歩、距離を詰める。  タシロが羽織らせてくれた外套を脱ぎ捨てる。  腕から滴る血をもう一方の掌で受け、顔と、そして身体に塗る。首、肩、腕、そして胸や腹へと、古代の戦士たちが戦いに際して施した化粧のように、自らの肌を紅く塗っていく。  これでマウエは、カムィの身体に触れることもできなくなった。直接触れることなしにカムィを傷つける技を持っているマウエだが、それをすればさらに血の香りを濃くすることになる。  カムィはゆっくりと足を進めていく。一歩ずつ、慎重に。  一分の隙も見せてはならない。マウエの隙を見逃してはならない。  マウエはふっと笑みを浮かべると、無傷の腕を水平に持ち上げた。彼女の周囲で、また風が騒ぎはじめる。 「私の名はマウエ。私の武器は風。魅魔の血と戦うには向かない武器……あなたはそう言ったわね? でも、こうした使い方もあるのよ」  風が、マウエの周囲を舞っている。大きな、ゆっくりとしたつむじ風がマウエを中心にして回っていた。 「……っ!」  それは、風の壁だった。外からの空気が内部に侵入することを阻んでいた。これではカムィがどれほど血を流しても、その芳香はマウエに届かない。 「くっ……」  カムィは、一気に間合いを詰めて力ずくで風の壁を突き破ろうかと考えた。しかし、踏み出しかけた足を慌てて止める。 「……そして、こんな使い方もあるわ」  カムィの鼻先に、新たな風の壁が出現していた。それはマウエを包んでいるようなゆっくりとした空気の流れではない。触れたら切れそうな、刃の鋭さをもった飆だ。最初にカムィの手を傷つけた風以上の鋭さを持ち、しかも何十倍も大きい飆。  それが、カムィとコンルを包んでいた。  ――まずい。  動きを封じられた。  しかも、徐々に狭まってくる。範囲が狭くなるに連れて、風はさらに勢いを増していく。人間の皮膚など、一瞬触れただけでずたずたに切り裂かれそうだ。  飆が迫ってくるのに合わせて、カムィとコンルは身を寄せ合う。もう、逃げ場はどこにもない。  やはりマウエは、魅魔師の技を知っている。魅魔師との戦い方を知っている。明らかに、力のある魅魔師との戦い方に長けている。  どうしてだろう。  いったい何者だろう。  近年、竜と戦った魅魔師はカムィとコンル以外にはいないはず。そもそも、竜族が警戒しなければならないほどの魅魔師はもう他にいない。  魅魔の里が滅ぼされる以前なら話は別だが、マウエが見た目通りの年齢であるなら、当時はまだ子供だったろう。  いったい誰から、魅魔の力との戦い方を学んだのだろうか。 「このまま斬り裂いてもいいのだけれど、それはさすがに賭けよね。こんな美味しそうな血、我慢できるかしら」 「……試してみたらどうだ?」  挑発するように言う。カムィにとっても賭けだが、乗ってくるなら勝機はある。 「……でもね?」  イメルが面白そうに言った。 「そんな賭けをしなくても、私の風にはこんな使い方もあるのよ」 「……?」  カムィたちを包んでいた風の動きが微妙に変化する。しかし見た目にはなにが起こっているのか判断できない。 「外から内、内から外。風はすべて私の思うがまま」  歌うようなマウエの声。  最初に気づいたのは、傷から噴き出す血の勢いが増していることだった。それから、なんとなく息が苦しいことに気がついた。  二人を包み込んでいる風の音が小さくなってくる。しかし見る限り、風の勢いが弱まっているようには思えない。  そして、妙に肌寒い。 「――っ!」  そこでようやく気づいた。  ――外から内、内から外。  普通のつむじ風は、周囲のものを吸い込むように吹く。しかしこの風は逆だった。内から外に風が吹き出している。  呼吸ができない。口を開けても空気が流れ込んでこない。視界が暗くなってくる。 「私は、ただ待てばいいだけ」  マウエはこれ見よがしに、近くの岩に腰かける。  ――まずい。  呼吸ができなければ、人間はたちまち意識を失ってしまう。そうなればマウエの思うままだ。  これはもう、命懸けでこの飆の壁を突破するしかないだろうか。全身を斬り刻まれても、生きていればなんとかなる。しかし、腕や脚、あるいは胴を両断される可能性もまったくないとは言い切れない。  それでも、やるしかない。  カムィは覚悟を決めて、腕で顔を庇って飛び出そうとした。  その瞬間――  マウエが、はっとした表情で空を見上げた。  慌てて立ち上がろうとする。    しかし――間に合わなかった。  突然、青白い閃光が周囲を包み込んだ。視界が真っ白になり、なにも見えなくなる。  爆発音が痛いくらいに鼓膜を震わせる。  カムィとコンルは思わず耳を押さえた。  風が吹きつけてくる。いや、叩きつけてくるといった方が相応しい。  体勢を崩された二人は地面に転がる。  急に呼吸ができるようになって、勢いよく肺に流れ込む空気にカムィは咳き込んだ。  目も眩むような光は一瞬で消えた。  地面に手をついたまま、顔を上げる。  そこにはもう、マウエの姿はなかった。  腰かけていた岩もない。  周囲には粉々に砕けた岩の欠片が散らばって、燃えさかる石炭のように朱く輝いていた。その周辺の青草が煙を上げている。  散らばった欠片の中心にあるのは、焼け爛れて原形を留めていない魔物の死体だった。    気配を感じて視線を空に向ける。  カムィの視線の先には――  黄金の翼、  黄金の髪、  そして黄金の瞳をもった少女の姿があった。 六章  空を見上げたカムィの視線の先にあったもの。  それは――  黄金の翼、  黄金の髪、  そして黄金の瞳。  空から、ゆっくりと舞い降りてくる。 「カ……」  カンナ。  そうだ。他にありえないではないか。あの風の力に対抗できるものなんて。  マウエの力は手強いものだが、カンナには通用しない。  カンナ――それは雷を意味する名。  雷の神とは、古来、竜を表す言葉だった。現在でも、雷を操ることができるのは最上級の竜族だけだ。  風では、雷を防ぐことはできない。  マウエの力は、カンナの前ではなんの意味もなさないものだった。  ゆっくりと降りてきたカンナが地面に降り立つ。ほぼ同時にカムィも立ち上がる。 「カンナ……」  数日ぶりに、その名を口にする。  なんだろう。この、込み上げてくる想いは。  思わず叫びだしてしまいそうだ。  鼓動が速くなっている。  ……嬉しい?  ……喜んでいる?  なにを?  この魔物に逢えたことを?  なんだろう、この感覚は。  足りなかったなにかが、欠けていたなにかが、満たされるような感覚だった。  カムィの前に立ったカンナは、複雑な表情を浮かべていた。  怒っているような。  泣いているような。  そのどちらとも取れるような、複雑で曖昧な表情。  じっと、カムィを見つめている。  その、大きな黄金色の瞳で。  なんだろう。この、込み上げてくる想いは。  微笑んでしまいそうな、抱きしめてしまいそうな、衝動。  それをぐっと堪え、無理に抑えた声で言う。 「……遅いぞ」 「…………」  カンナは無言で一歩前に出る。カムィのすぐ目の前に来る。  同時に腕が動いた。  ぱーんと乾いた音が響く。  衝撃がカムィの頬を襲う。 「…………え?」  あまりにも予想外の出来事に、なにが起こったのか理解できなかった。  頬が熱くなる。じんじんと痺れたような感覚が強くなってくる。  ――殴られた?  ――カンナに?  ――何故?  頬を抑えて愕然とする。なにも言葉が出てこなかった。  それほど力が入っていたわけではない。魔物の力ではなく、普通に人間の女の子に殴られたのと変わらない。イメルやマウエ、あの四人の男たち、あるいは普段の魔物との戦いに比べれば、痛みとも呼べない程度の痛みだ。  しかし、心に受けた衝撃はその何百倍も大きかった。  カンナに殴られた。  カンナがカムィに向かって手を上げるだなんて。  本当の意味でカンナがカムィに危害を加えたのは、初めて出会った時、カムィの血を狙って襲ってきたあの一度きりだ。普段の「ご褒美」から始まる暴走を「危害」と呼ぶのは難しい。カンナに悪意はないのだから。  いつも無邪気に笑って、甘えん坊の仔犬のようにつきまとってくるカンナに殴られた。  信じられない。  ありえない。  かぁっと頭に血が昇る。 「な……っ」  文句を言うために開きかける口。しかしカンナの方が先に動いた。  さらに近づいてくる。不穏な気配を感じて、反射的に庇うように腕を上げた。その腕を掴まれ、大きく開かせられる。  カンナがにぃっと笑う。唇から鋭い牙が覗く。  それは、いつもの無邪気な笑みではない。カムィを小馬鹿にしたような、悪意の感じられる危険な笑みだった。 「なぁに、その格好?」 「え?」 「あたしを誘ってンの?」  言われて気がついた。すっかり忘れていた、今の自分の姿に。  男たちに衣類を剥ぎ取られてほぼ全裸だ。その上、マウエと戦うために身体中に自分の血を塗りつけている。  カンナにしてみれば、極上の蜂蜜をたっぷりとかけた甘い焼き菓子も同然の姿だった。 「ち、違うっ! これは……」  言い訳する隙も与えられなかった。  手首を掴んだまま、カンナが胸に唇を押しつけてくる。  軽く触れただけなのに、痛みにも似た鋭い衝撃が走った。鞭で打たれたような、熱さを伴う痛みだった。  なのに――  それはカムィにとって、けっして不快な感覚ではなかった。  カンナが体重をかけてくる。そのまま押し倒されてしまう。 「ひっ……ぅぁあっ!」  魔物特有の長い舌が押しつけられ、肌に塗った血を舐め取っていく。  最初のひと舐めで達してしまいそうになった。秘所を愛撫されたのと変わらないほどの快感だった。 「ばっ……莫迦! 今はっ……それどころじゃ」  慌てて抵抗しようとするカムィ。そこにコンルの声が割り込んでくる。 「……こっちはわたしがやっておくわ。大丈夫。ラウネも兄様も、命には別状ないみたい」  いつの間にか、コンルは傷ついたラウネとタシロを介抱していた。竜族のラウネはそう簡単には死なないだろうし、気を失っているタシロも大事には至らないということで少し安堵する。  そうなると、危機的状況にあるのはカムィの方だった。  カンナの愛撫が激しさを増してくる。 「コ……ンル! 先に、こいつを、なんとか……あぁっ!」 「やぁよ。姉様の血でも縛りきれない竜なんて、恐ろしくて近寄ることもできないわ」  無情にも、肩をすくめて首を左右に振る。しかしその白々しい台詞は本心ではあるまい。むしろからかっているような調子が感じられる。 「コンルは素直でいい子だねー。誰かさんとは大違い。ラウネがいなかったらコンルも可愛がってあげるのに」  カンナはそう言いながら、舌を、指を、カムィの肌に滑らせることを止めない。  首筋や乳房を舐められただけでも悲鳴が上がった。どうしてだろう、全身がひどく敏感になっている。胸の突起を長い舌で擦り上げるように舐められた時には、もう悲鳴も上げられなかった。  癲癇の発作のように、全身が大きく痙攣する。 「やっ……めろっ! カ、ン……ナ……莫迦……あぁぁっ!」  しかしカンナは愛撫を止めない。  絶え間ない刺激。  全身に擦り込まれるような快楽。  理性の糸が焼き切れてしまいそうだ。精神集中などできるはずもない。魅魔の言霊を使うどころではない。 「カ……やぁぁっ! やっ……め……っ」  それでもなんとか命じようと足掻くカムィの顔を、カンナは正面から覗き込んだ。 「うるさい、黙れ」 「……っ」  乱暴な口調。普段、けっしてカムィに向けられることはない言葉。 『力』を行使されたわけではない。竜族の魅了の力で強制されたわけではない。  なのに、身体から力が抜けていく。抗う意志が削がれてしまう。  言葉を紡ぐことを止めた口に、カンナの唇が重ねられる。長い舌が唇を割って侵入してくる。 「ん……んぅ……むっ、んん――っ!」  口の中をかき混ぜる長い舌が、カムィの舌に絡みつく。  さらに奥へ侵入して喉を塞ぐ。  それさえも気持ちよかった。  口が、性器と同じくらいに敏感になっていた。まるで、胎内深くに舌を挿入されて犯された時のような感覚だった。 「――――っ!」  目の前が真っ白になる。  一瞬、体重がなくなったかのような浮遊間に包まれる。 「ぁ……あ、ぁ…………」  ――達してしまった。  口づけだけで、快楽の頂に達してしまった。  女の部分が溢れるほどに濡れているのが自分でもわかる。  しかし、カンナの愛撫はまだ終わらない。  顔中を舐め回し、塗られた血をすべて舐め取っていく。  ただそれだけのことで快感を覚えた。  耳、首、肩、腕、鎖骨、胸、腹、脇腹。  カンナの舌は全身を這い、徐々に下へと移動していく。 「や……あぁぁ――っ! あっ……ぐ、ぅぅ……、あぁぁぁ――っ!」  気持ちいい、などという表現では生ぬるい。性器にはまだ触れられてもいないのに、何度も、何度も達してしまった。 「や……め…………ひぃぃっ! いやぁぁっ!」  何度達しても、愛撫は止まらない。暴力的な快楽が無理矢理押しつけられてくる。  いっそ、気を失うことができれば楽になれるのに。  しかし激しすぎる刺激は、それを許してはくれなかった。剥き出しの神経を愛撫されるような衝撃は、どんな気付け薬よりも強烈にカムィの意識を覚醒させた。  臍の下あたりの下腹部を舐めていた舌が、さらに下に移動していく。  太腿を撫で回していた手が、上へ移動してくる。  そのふたつが出会う場所は―― 「や……ぁ、めて…………そこ……は…………」  かつてない恐怖を覚えた。全身に鳥肌が立つ。  肌への愛撫だけでも、こんなに、発狂しそうなほどに感じてしまっている。いっそ死んだ方が楽なのではないかと思うほどだ。  この状態で――  そこは、普段から気が狂うほどの快楽を得られる部分。  今のこの状態でそこに触れられたら、そこを舐められたら、どうなってしまうのだろう。  その泉は、既に幾度となく熱い蜜を噴き出している。  そこを、さらに愛撫されてしまったら――  死んでしまう。  今度こそ死んでしまう。  幾度となく達して、その度にそう思った。  なのに、回を重ねる毎に快楽はより激しいものになっていく。 「い……っ、……やぁぁぁぁ――――っっっ!」  指が一気に突き入れられた。そこには微塵の優しさもない。  なのに、感じてしまう。  身体が内部から破裂してしまいそうなほどの快感が襲ってきた。 「――――――っっっ!」  長い爪に中を引っ掻かれる。  その痛みが快楽へと昇華する。  今のカムィの身体は、すべての痛みを快楽として受けとめていた。  指が動く度に上がる悲鳴はもう声にならず、白い泡となって唇から溢れ出す。  二度、三度と爪は粘膜に突き立てられ、胎内を傷つけていく。  その度にカムィはより高い快楽の頂へと突き上げられてしまう。本人の意志を無視して激しく痙攣する筋肉は、その力で自らの骨を軋ませる。 「…………ぁ……ん……な、ぁ……」  熱い液体が、新鮮な血の混じった快楽の蜜が、湧き出してくる。  長い舌が胎内に挿入され、蜜を一滴残らず啜ろうとする。その刺激は、啜った以上の蜜を溢れ出させる。 「……っ!」  自分のものではない熱い液体が注ぎ込まれるのを感じた。啜り取った蜜の埋め合わせをするかのようにカンナの唾液が注ぎ込まれ、カムィの胎内を満たしていく。  ――熱い!  それは、身体の中から灼かれるような感覚だった。酸を浴びせられたかのような灼熱の痛みが全身を駆けめぐる。 「――――っっ!」  死にそうなほどの、熱さと痛み。しかしそれは、至上の快楽でもあった。  身体が破裂するような感覚。  胎内の奥深くで快楽の爆発が起こる。  それは一度や二度で治まることはなく、何度も、何度も、数え切れないほどに繰り返した。  もう、本当に死んでしまいそう。発狂してしまいそう。  なのに、カンナの愛撫は止まらない。 「…………っ、……っっ、…………」  喉はひゅうひゅうと鳴るばかりで、もう声も出せない。息をするのも苦しい。心臓が狂ったように脈打っている。  身体が動かない。  もう、なにも考えられない。  なにも、  なにも……    それでもカンナは、いつまでもカムィを犯し続けていた。 * * *  いったい、どれほどの時間が過ぎたのだろう。  気を失っていたのだろうか。いつの間にか拷問のような陵辱は終わっていた。意識はまだ幾分朦朧としてはいるが、それでもなんとかものを考えることができた。  身体は泥にでもなってしまったかのようで、下半身の感覚がなかった。腕も脚もまるで力が入らない。  気がついた時、カムィは裸のまま横たわっていたが、身体には着物がかけられていた。 「……ぅっ」  呻き声を上げながら、なんとか上体を起こした。しかしまだしばらく立つことはできそうにない。  脱力して草の上に座ったまま、自分の身体を見おろす。全身に無数に刻まれた小さな傷は、どれも塞がって血は固まっていた。そのほとんどがマウエとの戦いによるものではなく、その後につけられたものだった。  周囲を見回す。  カンナは不機嫌そうな顔で近くに座っていた。  それよりも数歩分ほど離れたところにコンルとラウネが寄り添って座っている。その傍らに横になっているタシロはまだ意識が戻っていないようだが、顔色を見る限り大事はなさそうだ。 「……」  タシロが意識を失っていたことは、不幸中の幸いかもしれない。しかしコンルとラウネにあの痴態の一部始終を見られていたと思うと、あまり救いにはならなかった。そもそも、誰にも見られていなかったとしても、カムィにとっては一生忘れられない恥辱、屈辱だ。  視線をカンナに戻す。 「……どういうつもりだ、カンナ」  視線を真っ直ぐこちらに向けているカンナも、不機嫌そうな声で応えた。 「あたしを殺す? 今なら、一言で殺せるよね」  ――そうだ。  今、カンナの体内には、かつてないほど大量の魅魔の血が存在している。言霊で操るどころか、その肉体を一瞬で滅ぼすことも思いのままだ。  以前のカムィであれば、激情に駆られて殺していたかもしれない。  しかし今日に限っては、そうした衝動が起こらなかった。  どういうことだろう。  こんなにも不愉快なのに。  これ以上はないくらいに激怒しているのに。  自分の口調が意外と冷静で、衝動的にカンナを殺さずにいるのは、激怒しすぎているせいだと思った。あまりにも大きすぎる怒り故に、身体の外に出ようにも出られずにいる――そんな感覚だった。 「何故、あんなことをした?」  もう一度訊く。 「冗談では済まないぞ。運が悪ければ死ぬか、よくても発狂するところだった」  むしろ、今こうして正気を保っていることの方が奇跡に近い。  カンナは表情を変えずに言った。向こうも、怒りを内に秘めているが故の無表情だった。 「……あたしも、怒ってるんだよ?」 「なんだと?」 「……あたしを置いていったこと」 「そんなこと……」 「……あの男と交わったこと」 「……っ、そ、それは……」  まったく予想もしていなかった指摘に、言葉に詰まった。  どうして知っているのだろう。  コンルに聞いたのだろうか。タシロは、コンルになら話したかもしれない。  責めるような視線をコンルに向ける。カムィとカンナのやりとりを面白そうに見ていたコンルは、しかしこの件に関しては初耳だったようで、驚きの表情を浮かべていた。  だとすると、魔物の嗅覚によるものだろうか。まったく油断がならない。 「……危ないところだったのに、あたしを呼ばなかったこと」  カムィは無言で唇を噛んだ。なにも言えなかった。 「……そして、気持ちいいくせにいつも素直にならないこと」 「なっ……」 「どうしてあたしにだけ、もっととか、もう一度とか、言ってくれないの?」 「…………」  カンナにだけ。  ――そう。  タシロには、言ってしまった。イメルに犯されて正気を失いかけた時さえ、言ってしまった。しかしもちろんカンナに対して言ったことはない。 「殺すつもりはなかったけど、別に、狂っちゃってもいいかなって思った。そうすればカムィはいつもあたしを求めてくれる。あたしだけを求めてくれる。あたし、カムィを独占できる」 「な……」  カンナに、ふざけた様子はなかった。  本気、だった。本心を語っていた。  怒りを押し殺したような表情で。だけどどこか泣いて異様な表情で。 「な……なにを考えているんだ、お前はっ!」  本当はわかっている。  以前からわかっていた。  カンナがなにを考えているのか。  カンナがなにを言いたいのか。  しかしカムィにはまだ、それを素直に認めることはできなかった。  そこへコンルの声が割り込んでくる。 「……お二人さん、痴話喧嘩もいいけれど、そろそろ切り上げないと兄様が目を覚ましそうよ?」  カムィははっとして口をつぐむと、肩に羽織っていただけの着物に慌てて袖を通す。  しかしまだ立つことはできそうになかった。 * * * 「……それでカムィ、これからどうするんだ?」  気を失っていた間のことを手短に説明されたタシロが訊いてくる。  頭に巻かれた包帯には血が滲んでいるものの、意識ははっきりしており、樹の幹に寄りかかるようにして立っているが足元がふらつく様子もない。  外傷はマウエの爪で剔られたラウネの方が重傷だったが、こちらは竜族の快復力で既に傷は塞がりかけていた。魅魔の血を与えるコンルが傍にいる以上、ラウネが死ぬことなどまずありえない。深手を負ってもすぐに癒すことができる。 「……北へ」  カムィはぽつりと答えた。 「北?」 「マウエが言っていた、魔物の王。そいつがいるのが、北の地だ。そう考えれば辻褄が合う」 「なるほど。最近、北の地で魔物の勢力が増しているというのはそのためか」 「おそらく」  これまでになかったような魔物たちの行動。それも、これまでいなかった『王』という存在が現われたためだとしたら説明はつく。 「本当はマウエに道案内させられたらよかったんだが、まあ、魔物の被害の多い土地を辿って北へ向かえば、王とやらの処へ着けるだろう」 「そうだな……よし、決まりだ」  そこでタシロは視線をコンルに向ける。 「コンル。お前たちはここまでだ。ラウネと一緒に村へ戻った方がいい」 「そうだな」  カムィもうなずく。  コンルはこの中で最年少の上、身重なのだ。危険な目には遭わせられない。この先の旅路がこれまでよりも安全になることはありえない。  しかしカムィは、コンルを気遣う心境になったことが自分でも意外だった。コンルの胎内で育まれているのは、魔物の仔なのに。  その時、 「……あんたも、だよ」  それまで黙っていたカンナが、初めて口を開いた。  全員の視線がカンナに集中する。 「あんたも、足手まとい」  タシロに向かって簡潔に言う。タシロの表情が強張る。 「もしもカムィとあたしで太刀打ちできない相手だったら、あと何人いても一緒。あんたも足手まとい」 「なに……」 「あんたがいた方が、カムィが危険になる」 「…………」  タシロはひどく険しい表情をしていたが、なにも言わなかった。  認めることには抵抗はあっても、本人もわかっているのだろう。カンナの言うことが正しいことに。 「……兄さんは、コンルについていた方がいい」  カムィも、ここから先はカンナと二人だけで行くつもりだった。  タシロは優れた魅魔剣士で、普通ならば頼りになる戦力だ。精神的にも、兄のように慕ってきたタシロの存在は心強い。  しかし、そのタシロの力もマウエには通用しなかった。いや、タシロだけではない。コンルも、ラウネも、そしてカムィでさえもマウエに太刀打ちできなかった。  これが現実なのだ。  最上級の竜族に対しては、魅魔師であってもひどく無力な存在だった。  そんなマウエを――不意をついたとはいえ――カンナは一撃で屠った。  圧倒的な力だった。出会った頃のカンナは確かに強い力は持っていたが、ここまでではなかったはずだ。このところ、カンナの力が飛躍的に力が増しているような気がする。 『王』がマウエよりも強い力を持っているとしたら、それに対抗できるのはカンナだけだ。そのカンナに力を与えられるのも、操れるのも、カムィしかいない。  それにカムィの血なら、相手がどれほど力のある竜族であっても支配できる。マウエの場合同様、簡単なことではないだろうが、どれほど不利な状況であっても、相手の体内に血を送り込むことさえできれば形勢はたちどころに逆転する。  しかし、タシロを危険に曝すことはできない。  カムィとしては、タシロが足手まといとは思わない。一緒にいてくれれば心強いことこの上ない。  しかし大切な人間だからこそ、マウエよりも危険な魔物との戦いに巻き込むわけにはいかなかった。  頼みの綱であるカンナは、カムィ以外の人間を護るために行動するとは思えない。  だから、タシロを付き合わせるわけにはいかない。  もう、大切な人間が魔物に殺されるところなど見たくはなかった。  そして……  本来なら、タシロの存在は心強い。戦力としてはカンナがいれば十分だとしても、カムィにとって精神的な支えという意味ではタシロの方が頼りになる。  しかし今は、タシロと一緒にいることに後ろめたさがあった。  うまく言葉にはできないが、気まずさを覚える。  あの四人の男たちのこと。  カンナのこと。  タシロの存在は確かに心強いが、しかし今はあまり一緒にいたくないという想いがあった。  もう少し、自分の心が整理できるまでは。 「カムィ……」 「兄さんは、コンルについていた方がいい。叔父さまや叔母さまは知ってるのか? コンルのことを」 「……いいや、さすがにまだ話してない」  タシロと、そしてコンルも首を左右に振った。 「だったらなおさらだ。コンルよりも兄さんから事情を話した方がいい」 「それは、まあ……俺もそう思うが」 「大切な娘が竜に孕ませられたなんて聞いたら、叔父さまが逆上する。ラウネの話なんて聞いてもらえまい。頼りになる味方が必要だ」 「……それは……そうだ、が」  タシロはまだ納得した様子ではない。 「……私のことは大丈夫、心配しなくてもいい。気に入らないけれど、こいつは最強の竜だ。それに兄さんの力は、今はコンルにこそ必要だ」 「え?」 「マウエが言っていた『主』とやらは、今度はコンルやその子を狙うかもしれない。奴が求めているのは私ではなく、単に力のある魅魔の血だ。コンルの血が私より薄いとしても、その子はどうだろう?」  力のある魅魔師と、竜族の間に生まれた子。コンルの子は、カムィと同じ立場になる。 「竜の血が混じった魅魔の血。しかも無力な赤子となれば他の魔物にも狙われるかもしれない。万が一のことを考えたら、ラウネだけでは不安が残る」 「……しかし」  タシロも頭ではわかっているのだろう。しかしカムィを想う感情が納得していない。その気持ちはわからなくもない。 「……心配いらない。事が終わったら真っ先に兄さんに会いに行く。多分、そんなに時間はかからないだろう」 「…………わかった」  ようやくタシロが折れる。  カンナが微かに表情を曇らせたが、カムィはわざと気づかないふりをしていた。 * * * 「……また、二人になったな」  カムィはぽつりと言った。 「…………そうだね」  隣に座っているカンナもその一言だけを返す。  二人きりになった後、会話らしい会話はほとんどしていない。  タシロたちと別れた後、カムィはすぐに出発しようとはしなかった。  まだ、カンナに犯された後遺症から立ち直りきってはいなかった。脚に力が入らず、長い距離を歩くのは辛い。  カンナは自分から口を開くことはなく、表情も表に出していない。今はいったいなにを考えているのだろう。 「…………この前みたいに、抱いていってあげようか?」 「……いや、いい」  少しでも先に進んでおいた方がいいかとも考えたが、やっぱり止めておいた。自分で歩けるようになるまでは休んでいた方がいい。 「あんなことがあったばかりで、お前に身体を触れさせると思うか?」  まだ、身体の奥に小さな熾火が残っているような気がする。いま触れられたら、また感覚がぶり返してしまいそうだ。それは避けたい。  カンナが微かに頬を膨らませ、不満そうに唇を尖らせる。 「ねえ、カムィ?」  カムィの方を見ずにカンナが言う。 「なんだ?」 「あの男のこと……好きなの?」 「…………もちろん。ずっと、家族のように暮らしてきたんだ」 「じゃあ、さ…………ケッコン、するの?」 「…………」  その問いには、少し考えてから口を開いた。 「いずれはそうなる。魅魔の血を絶やさないために、そうしなければならない。そして、他にそうしたい男など思い当たらない」  そこまで言って、短い間を取る。続く言葉を頭の中で整理する。 「……つい最近まで、そう思っていた。今は……正直なところ、わからない」 「わからない?」 「…………、私の血を受け継ぐ子なんて、産んでいいのか?」  限りなく魔物に近い、呪われた血。  そんな血を受け継ぐ子をこの世に送り出すのが、いいことなのだろうか。  むしろ、こんな血は絶やしてしまった方がいいのではないだろうか。  魅魔の血の真相を、自分の血の真相を知って以来、ずっとそんな想いがつきまとっている。  そもそも、たとえ我が子であっても、魔物の血を引く子を愛することなどできるだろうか。  自分の血の半分以上が魔物のものであると知った今でも、魔物に対する憎しみは薄れていない。むしろ、よりいっそう憎んでいるといってもいいほどだ。 「それに……コンルを見ていて思ったんだ。私がタシロと結婚して身籠もったとして……、あいつのように心の底から幸せそうな顔ができるだろうか」  カンナが顔をこちらに向ける。なにか言いたげな表情だが、しかし唇は閉じたままだ。 「兄さんのことは好きだが、それは本物の家族に対する愛情とどう違うんだろう? 兄さんと結婚して子を産むことは、私がそうしたいと望んでいるというよりも、ずっと、そうすることが義務だと思って疑問も持たなかったが……、愛しているから結婚したい、子を産みたい、と思うのとはなにか違うような気がする」  タシロに対する親愛の情を別にすれば、これまで男性に恋愛感情めいたものを抱いたことはない。タシロと暮らすようになったのは家族を亡くした後だから、その感情が家族愛なのか恋愛なのか、比較対象がなくて判断がつかなかった。  そもそも、最近までその事を深く考えたこともない。十年以上、魔物を狩ることだけを考えて生きてきたのだ。 「…………あたしには難しいコトわかんないよ。ニンゲンじゃないもん」 「当然だ。私自身がわからないのに、お前にわかってたまるか」  また、カンナが頬を膨らませる。 「……とにかく、まだしばらくはお前と一緒にいることになるな。『王』を狩らなければならい。そいつを倒しても、魔物との戦いがそれで終わるわけでもない」 「…………そだね」  カンナの表情が少しだけ緩む。微かに笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろうか。 「…………さて、そろそろ出発するか」  カムィは地面に手を着いて立ちあがった。大丈夫、急がなければ歩けそうだ。  カンナも立ちあがろうとする。  その瞬間、ふと、悪戯を思いついた。  どうしてだろう。そんなこと、これまで一度も考えたことがないのに。 「カンナ、足元に気をつけろ。躓いて転ばないように」 「え……、――っ!?」  脚をもつれさせて転んだカンナが、顔から地面に突っ込んだ。  もちろん、カンナが不注意で躓いたわけではない。魅魔の言霊で、一瞬だけ脚の動きを封じたのだ。  仕掛けたカムィ自身、これほど見事に引っかかるとは思わなかった。  思わずぷっと吹き出す。 「カームーイー?」  眉を吊り上げて声を低くするカンナ。しかし額と鼻の頭に土を付けていては、迫力もなにもあったものではない。  カムィは堪えきれなくなって、その場にうずくまって声を上げて笑い出した。 七章  その森は、昼間だというのに不自然な薄暗さに覆われていた。  もちろん実際にはそんなはずはないのだが、頭上から降り注ぐ陽の光さえ、他の土地よりも弱まっているような気がする。  本来あるべき獣や鳥の気配もないことが、この森の不気味さをいや増していた。    そんな黒々とした森の中心を貫く一筋の街道を、カムィとカンナが歩いていた。以前はそれなりに利用されていたと思われる道だが、伸び放題の雑草がこの地の現状を物語っている。  ここは、北の辺境の地。  この森を抜ければ街がある。この地方の中心となる、辺りでは唯一の大きな街が。  それこそが噂に聞いた、魔物に支配されているという街だった。  大きな街ひとつがまるごと魔物の支配下にある――カムィにとっては初めての経験だった。  もちろん竜族の力を考えれば、街ひとつはおろか国だって支配することは不可能ではない。単にこれまでは、そんなことをする魔物がいなかっただけのことだ。  それだけのことが可能な力を持った魔物と人間とでは、力の差があり過ぎる。だからこそ、支配する必要などなかった。  竜族のような力のある魔物にとって、普通の人間をどれほど動員して防備を固めていたところで意味はない。街を護る結界など気休めにもならず、たとえ王宮の中であっても好きなように入り込んで、望む相手の血肉を思うままに喰らうことができる。  わざわざ支配していると明示せずとも、現実は変わらない。だから本当に力のある魔物は、人間がなにをしようと気にもとめない。人間だって、取るに足らない虫けらをいちいち征服して支配しようなどとは考えない。それと同じだ。  しかし、この土地だけは例外だった。  ここに来るまでに聞いた話をまとめると、力のある魔物が支配者として君臨し、多くの魔物を配下として一帯を固めているようだ。  もっとも、最新の情報は他の街では得られなかった。最近ではどの街も、この北の地との交流がほぼ途絶えている。  魔物に封鎖されているのだ。  内部の人間は、誰も逃げ出すことができない。  外部の人間は、誰も入り込むことができない。  街の南に広がる森と、その中を通る街道は、すべて魔物の勢力下にあった。街から出ようとする者、外の街からやってくる者、すべてが魔物の餌食となる。  しばらく前、この辺りの魔物の被害が尋常ではない状況になり始めた当時、王国の正規軍が派遣されたが、千をはるかに超える軍勢のうち、生きて戻った者はほんの一握りであったという。「魔物に支配された土地」の噂は、主としてその生存者たちから広まったものらしい。 「……確かに、な。この辺りにはかなりの数の魔物が棲みついている」  カムィは独り言のように言った。  感覚を研ぎ澄ます必要すらない。コンルと会った街のことが子供だましに思えるほど、色濃い魔物の気配が充満している。  これほどの数の魔物が一カ所に集まるなど、まさしく前代未聞だ。 「出迎えがあるかな?」 「ある、だろうね」  カムィも、それに答えるカンナも、声に緊張感はない。その口調は、普段の雑談となんら変わるところがなかった。 「できれば、雑魚の相手などしたくないところだな」  五匹十匹といった数ではない。そのほとんどはカムィとカンナにとっては雑魚でしかないが、これだけの数となると狩るにもそれなりの手間はかかる。 「らしくないこと言うね?」 「なんだ?」 「カムィなら、雑魚だろうとなんだろうと、一匹でも多くの魔物を殺せる方が嬉しいって言う方が『らしい』と思うけど?」  からかうような口調に、なんとなく不愉快な気分になる。カンナに心を見透かされているというのは面白いことではない。  しかしそれは真実であるから、口先だけで否定することもできなかった。 「……確かに、な」  不承不承うなずく。 「しかし、まずはここの親玉が先だろう? これだけの数の相手、一匹ずつ狩るならともかく組織だって来られたら多少は面倒だ。疲れた身体で親玉の相手をするのはあまり好ましくない」  そしてもうひとつの理由は――そちらがむしろ重要なのだが――いちばん美味しそうな獲物を放っておくことなどできないということだ。  カムィは好きなものから先に食べる性格だった。素晴らしいご馳走が目に見えているのに、どうして不味いものをつまみ食いする気になるだろう。 「本当にやらなくていいの? だったら、あたしもそのつもりでいるけど」 「どういう意味だ?」  答えが返ってくるよりも先に、周囲の様子が変化した。  魔物の気配が強くなる。  近づいてくる。  ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。二桁に達したところで数えるのを止めた。  周囲の森の中から、道の向こうから、次々と姿を現してくる。いずれも一応は人の姿をとっているが、その正体が別物であるのは一目瞭然だ。  先頭の、周囲より一回り身体の大きな魔物が口を開く。 「ニンゲン……いや、我らを狩ることを生業とする者か。しかし、小娘ふたりでなにができる?」  カムィは小さく嘆息した。こちらの力を見抜けないような雑魚をいちいち相手にするほど暇ではない。  カンナが耳元で囁いてくる。 「やっぱり、こいつら無視してさっさと進む方がいい?」 「……ああ」  その返事を聞いたカンナは小さくうなずくと、一歩前に出た。 「あんたたちみたいな底辺の雑魚どもが、このあたしに刃向かう気? あんたたち、誰の前に立っているかわかってるの?」  よく通る声で言うのと同時に、抑えていた気配を解き放った。  ここまで完全に人間の姿、人間の気配をまとっていたカンナが、魔物の、竜族の本性を顕わにする。  亜麻色の髪が輝くような黄金色に変わる。  大きな瞳も爛々と黄金色に輝く。  爪が、肉食獣のように長く鋭く伸びる。  そうした見た目の変化に合わせて、圧倒的な『気』が放たれる。実際に空気が流れているわけではないのに、カンナを中心に、周囲に強い風が吹き出しているような感覚だった。  前に立ち塞がった魔物たちの表情が変化する。  戸惑い。困惑。そして、恐怖。 「お前、は……?」 「あたしたちは、この先の街にいるバカに用があるの。通してよ。それとも、あんたたちがあたしたちに用があるの? だったら相手してあげようか? ひとり残らず」  ぴりぴりと、肌を刺すような感覚が強くなるのをカムィは感じた。  腕の産毛が逆立つ。  そして、空が暗くなる。  見上げると、頭上の雲が見る間に厚みを増していく。ごろごろと遠雷の音が響いてくる。  これはカンナがやっているのだ。雷を操るカンナの力だ。 「相手して欲しいなら、他の仲間も全員呼んでおいでよ。その方が手間が省けるから」  魔物たちは一様に困惑している。  カンナの態度が本気なのか、それともはったりなのか、判断がつきかねている様子だ。  もちろんカムィには、本気だとわかっていた。  カンナはやる気だ。この魔物たちが素直に道を空けないなら、一撃で屠って進もうとしている。    ――今のカンナなら、できる。    特に根拠はないが、そう感じた。  竜族以外の魔物など、その数が十でも百でも、今のカンナにとってはなんの違いもないだろう。  魔物たちは態度を決めかねている様子で、互いに顔を見合わせている。こそこそと小声で話している者たちもいる。 「おい、どうする……?」 「竜が相手とはいえ、数はこっちの方が」 「しかし、あの娘は……」 「なぜニンゲンの味方を……」  こうして見る限り、士気は低そうだ。遠慮なしに竜族の気を放っているカンナに刃向かおうというほど骨のある奴、力のある奴は見あたらない。  ――マウエと『主』以外は雑魚か。  カムィはそう判断した。  普通の人間、並の魅魔師にとっては十分すぎるほどに脅威だろうが、カムィとカンナが警戒するほどの相手はいない。マウエほどの相手が複数いたら面倒なことになると警戒していたが、どうやら杞憂だったらしい。  考えてみればそれも道理だ。力のある魔物がそう簡単に他者に従うわけがない。この『魔物の支配地』の勢力がもっと増せば状況は変わるだろうが、今はまだ、本当に力のある魔物たちは様子見といったところなのだろう。  今なら、まだ間に合う。カムィとカンナでここの『主』を倒せば、集まっている魔物たちは散り散りになるだろう。魔物の勢力が必要以上に強まることはない。  雷鳴が近づいてくる。  空は夕暮れのように暗くなり、時折、雲の中で閃光が閃く。  そうなると、魔物たちは態度を決めなければならない。  結局、戦いにはならなかった。  カンナに気圧されてお互いの出方を窺っていた魔物たちは、やがてじりじりと後退しはじめ、一匹また一匹と森の中へ姿を消していった。 「腰抜けばっかり」  カンナがつまらなそうに肩をすくめる。  頭上を厚く覆っていた雲が散り、空は急速に明るさを取り戻しはじめる。 「……そうだな」  平静を装ってうなずきながらも、カムィは驚いていた。  この竜はいつの間に、こんなに強くなったのだろう。  出逢った当時は、まだ文字通り小娘だったはずだ。強い力を持っているといってもそれは他種の魔物と比べての話であり、竜族としてはまだ本当に子供だった。  イメルと戦った時も、危うく命を落とすところだった。カムィが魅魔の血を費やして助けなければ、間違いなく死んでいただろう。  それが今ではどうだ。  姉に劣らぬ力を持っていたはずのマウエを歯牙にもかけず一撃で倒し、何十匹という魔物を直に手を下すこともなく退散させた。  その差に、この半年での変化に、戸惑ってしまう。  これはカムィの血によるものなのだろうか。それともカンナ自身にその素地があったのだろうか。  そして、この変化は今後も続くのだろうか。  魔物は人間以上に大人と子供の力の差が大きく、そしてカンナはまだまだ成竜とは呼べない。  カンナの力がさらに増すとしたら、それはあまりにも危険なことだ。  はたして今、コンルの血でカンナを抑えられるだろうか。カムィの血が、カムィにしか抑えられない魔物を生み出してしまったのではないだろうか。  いや、カンナがこれ以上強くなったら、カムィにも抑えられなくなってしまうかもしれない。 (望ましいのは、カンナが『主』とやらと相討ちになってくれることか……)  ふと、そんな考えが頭をよぎる。  そして、不愉快になる。  そんなことを考える自分に嫌気が差した。  頭を振ってその考えを振り払うと、カムィはまた歩き出した。 * * *  ――この街の人間は、家畜の目をしている。  そう感じた。  柵の中の牛や馬と同じ、いや、それ以下だ。生気の感じられない、ただ生きているだけの存在。  街の規模を見るに、辺境といえども以前はこの地方の中心として賑わっていたのだろう。しかし今では見る影もない。街の中心部もしんと静まりかえっていて、まるで廃墟のような空気に包まれていた。  かといって、人が住んでいないわけではない。むしろ、その静けさからは考えられないほど多くの人間が生き残っている。  しかしそれを、生きている人間と呼んでもいいものだろうか。ある意味、死人と変わらない存在といえる。  ここは、魔物に支配された街だった。  この街の人間たちは、家畜だ。  魔物の餌として生かされ、街から出ることは許されない。  ただ魔物に喰われる時を待つだけの日々。  喰われるために生かされている存在。  たまに通りで出会う住民たちは、街に入ったカムィたちに不思議なものを見るような視線を向け、遠巻きにしていた。  その目からは常に、諦めと微かな怯えの色が見てとれる。喰われるために飼われていることを日常として受け入れてしまった家畜の目だ。  カムィとカンナの姿を目にしても、目立った反応はない。もう、助けが来たなどとは思えないのだろう。  長らく魔物によって封鎖されていた街。街の警備兵はもちろん、王国から派遣された軍勢も壊滅した。  最初の頃は、かなりの抵抗も行われたらしい。森を抜けて街に入るまでの間で、白骨化した死体や錆びた武具などは数え切れないほど目にしてきた。  しかしやがて、抵抗は無駄だと思い知らされたのだろう。下級の魔物の一匹や二匹ならまとまった軍勢がいれば倒せないこともないが、あれだけの数の魔物がいて、しかもそれを統率するのが極めて力の強い竜族となれば、人間の軍勢など蟷螂の斧以下のものでしかない。  その気になれば、マウエ一人でこの街の人間をすべて殺すこともできただろう。上級の魔物を倒すことができるのは、それ以上の力を持つ魔物か、あるいは力のある魅魔師だけなのだ。  抵抗がすべて無駄と悟り、やがて街は諦めの感情に包まれたに違いない。諦めずに刃向かい続けた者は真っ先に殺され、自分の意志で生きることを放棄した者だけが生き残った。  おとなしくしていれば、すぐには殺されない。しばらくは生きていられる。  しかしその生に意味はあるのだろうか。  毎日、少しずつ人が減っていく街。  なにもできずにただ存在しているだけ。  その先に待つのは確実な死。 「…………」  カムィはふと、タシロから聞かされた魅魔の伝承を想い出した。  あの、最初の魅魔師を生み出した村も、こんな状況だったのだろうか。絶望の中から、あの勇敢な娘は立ちあがったのだろうか。  この街には、そんな勇敢な人間は残っていないようだ。カムィたちが街の外からやってきた人間であることは一目でわかるだろうに、近寄ってくる者もいない。  遠くからこっそりと見ているだけだ。関わり合いになって魔物の不興を買いたくないというところだろうか。  そもそも、外に出歩いている者が極端に少ない。多くは建物の中で息を潜めているのだろう。  カムィは周囲を見回して言った。 「しかし、こうした例も珍しいな」 「え?」 「魔物のくせに、多くの魔物を従えて人間の街を支配し、人間を餌として飼って……。これはまるで…………」  まるで、人間のような行動だ。人間を餌とすることを除けば、やっていることは人間の支配者と大差ない。  魔物は一般に、こうした社会性は希薄だ。ほとんどの魔物は単独行動を常とする。  たいした力のない下級の魔物であれば、多数の人間を襲う際に同族と協力することもあるが、多くてもせいぜい数匹で、それもその時だけの一時的な連携だ。  こうした、恒久的な大きな組織を作る例など聞いたことがない。  それは、魔物が強力な存在だから。  本来、群れを作るのは弱い――単独では弱い存在だ。  だから、小魚や小鳥、草食動物は群れを作る。  同様に、人間が集団で暮らすのは、人間が弱い生き物だから。  確かに、相手が獣なら人間は強い。しかしそれも、人間が集団で行動するからこそだ。  一人の人間では、猛獣に立ち向かうことも難しい。  特に、素手ではなおさらのこと。  そして剣や鑓、弩のような強力な武器も、複数の人間の力で造られる。  そう考えると、人間は一人では本当に無力だ。これほど繁栄していることが不思議なくらい、無力な生き物だった。  それに対して魔物は、単独でも、素手でも、極めて強力な存在だ。  群れて暮らす必要はなく、故に、人間に比べると社会性は希薄になる。  だから、この土地は例外的だった。 「こんな例は、初めて見る」  ひとつの村が『滅ぼされた』例なら実際に何度も目にしている。故郷の村、魅魔の里もその一例だ。  しかし、魔物の支配下に置かれた土地なんて見たことはない。 「んー、まあね」  カンナもカムィの意見に同意する。 「でも、まったくなかった話じゃないよ。ここまで大規模じゃないけれど、たまにはあること。最後にあったのはあたしやカムィが生まれるよりもずっと前らしいけど」 「そうなのか?」 「うん。たまーに、そーゆー魔物らしくない奴が現われるみたい。ま、ひと口に竜族といっても、いろんなヤツがいるってこと。人間だってそうでしょ」 「……そうだな」  カンナ、ラウネ、イメル、マウエ。  考えてみれば、同じ竜族であってもその性格はそれぞれ違う。  人間とは不思議なもので、自分以外の生物は。種によってその性質をひとくくりに考えてしまう。  身近に接してみれば、家畜の馬や犬はもちろん、野生の羆にだって個性があることがわかる。ならば人間に劣らぬ知能を持つ魔物が、より大きな個性をもっていても不思議ではない。魔物は、ただ人間を襲って喰うことだけを考えて生きる存在ではないのだ。 「――で?」 「ん?」 「知ってるのか?」 「……なにを?」  カムィの問いには主語も目的語もなかったが、カンナの反応はそれを確認するためではなかった。明らかに、カムィの言いたいことはわかっていながら白々しくとぼけている。 「ここの親玉が、どんなヤツなのか、知っているのか?」  カムィもわざとらしく、一語一語区切って、強い口調で言い直す。 「知っているんだろう?」 「あー、ん……えーと……」  答えはすぐには返ってこない。  カンナは困ったような表情で、引きつった笑みを浮かべていた。  その間も、二人は寂れた大通りを歩いていく。  向かう先は、この先の、やや小高い位置にあるひときわ大きな建物だった。おそらく、この地方の領主の屋敷だったものだろう。この地を支配している魔物の『主』は、そこにいるに違いない。  二人を遮る者はいない。魔物は気配こそ感じるもののあれ以来姿を見せないし、街の住人たちは遠巻きに見て見ぬ振りをしているだけだ。  話ができるほど近くに寄ってくる者はいない。もっとも、今さらこの街の住人から有益な情報が得られるとも思えないので別に構わないのだが。  カムィは唯一気になっていたのは、マウエ並みの力の持ち主が他にもいるのかどうかという点だけだった。しかし、その心配もなさそうだ。 『主』の他にもマウエに匹敵する力のある魔物がいるのなら、もうとっくに姿を見せてることだろう。それがないということは、『主』の他は並の力しか持たない雑魚である可能性が高い。  もっとも、街の住人である普通の人間には、力のある竜族と下級の雑魚の区別もつかないだろう。魔物と人間の間には、そのくらい大きな力の差がある。地を這う蟻にとっては、拳大の石ころもひと抱えもある岩も、等しく『巨岩』としか感じられないのと同じことだ。  実際のところ、この辺りにいる魔物の数はそれほど多いわけではないのだろう。いや、先刻の数だけでも一国を大混乱に陥れることができるほどの大群といってもいいが、今の二人にとっては気にする必要のある相手ではなかった。その気になれば、カンナ一人で全員を始末できるのだ。  気にしなければならないのは、カンナの手に余る相手がいるのかどうか、『主』がどれほどの力を持っているのか、という点だけだった。  しかし冷静に振り返ってみると、カンナはここに来るのが気乗りしない様子だった気がする。  それはどうしてだろう。  カンナは、ここの主に心当たりがあるのだろうか。  それが手強いと知っているのだろうか。 「……で?」  しばらく待っても返事が返ってこないので、カムィはもう一度訊いた。  望んだ答えが返ってくるまで諦めるつもりはない。無言の圧力をかけ続けていると、カンナは渋々といった様子で口を開いた。 「……ライエ」  カムィの方を見ずに、独り言のようにつぶやく。 「え?」 「…………名前は、ライエ。ここの親玉の名前。こんなこと考えるヤツ、他に心当たりはない」 「……ふん、不吉な名だな」  ライエ――それは死を意味する言葉。  本能的に、生理的に、嫌悪感を覚える。 「どんな奴だ? 強いのか?」 「……強いよ。竜族の中でも凄く強くて、それ以上に自尊心が高くて、なんでも自分が一番じゃないと気が済まない性格」 「ふむ」 「だけど、彼には兄がいて、あらゆる点でその兄には敵わなかった。その上、兄は魅魔の血を得て最強の竜族となった。当然、弟の方は……兄に嫉妬した」  カンナはそこで一旦言葉を切った。ふと、なにかを思いついたようにカムィを見る。 「……力を持っている者ほど、嫉妬深いのかな? 十分な力を持っている者ほど、さらなる力を求める」  問うような視線。  意味深な表情。  黄金色の瞳がカムィに向けられる。 「……私のことを言っているのか?」  カムィは不機嫌そうに言った。 「あと、コンルもね」 「…………私の場合は事情が違う。単なる姉妹ではない。まったく同じ姿で、同じ親から同時に生まれた双子だったんだ! なのに……」  なのに姉のシルカは、カムィが到底及ばないほどの力を持っていた。  当然、幼少のカムィはシルカに嫉妬していた。  いや、本当は今でも嫉妬しているのかもしれない。カムィは、今の自分の力は、本来自分のものではなかったと思っている。シルカが殺された時に、その力を受け継いだものだ――と。  カンナの口元に微かな笑みが浮かぶ。  普段の無邪気な笑みとも、からかうような笑みとも違う。妙に優しげで、そして儚げな笑みだった。 「……ゴメン。想い出させるつもりはなかった」  珍しいことに、素直に謝ってくる。  シルカのことは、カムィにとってはあまり想い出したくない記憶だった。想い出せば考えずにはいられない。  たとえばあの時、自分がシルカに嫉妬などせずに村に残っていたなら、なにか変わったのだろうか。シルカと力を合わせれば、どちらも命を落とすことなしに魔物を倒せたのだろうか。それとも、子供の死体がひとつ増えただけなのだろうか。  いずれにせよ、その後の歴史は大きく変わったことだろう。 「……どうでもいい。それより、話の続きだ」  忌まわしい記憶を振り払うように、カムィは強い口調で言った。 「ん……。嫉妬したライエは仲間を誘って、三人がかりで兄を襲った。一対一じゃとても勝ち目はなかったから、三対一の、しかも不意打ちで。そして、殺した兄の血で新たな力を得た」 「…………反吐が出るな」  また、忌まわしい記憶が蘇る。  自分がシルカを殺したわけではない。しかし、シルカの力はカムィに受け継がれている。カムィはそう思っていた。  シルカに大きく劣っていたはずの自分が、シルカの死と同時に姉を超える力を持つようになった。それがシルカの死と無関係とはもちろん思っていない。  姉の死が引き金だった。  シルカの死があったからこそ、今のカムィの力がある。  姉の死を踏み台にして、今の自分がある。  ――そう、思っていた。 「でも、ライエはそれだけじゃ満足しなかった。だから、さらなる力を得ようとして……」  そこで一度言葉を切って立ち止まるカンナ。惰性でそのまま数歩進んだカムィは、はっとして立ち止まった。慌ててカンナを振り返る。 「まさか…………」  魅魔の血を得た同族の血から、力を手に入れた竜族。  それがさらなる力を求めた場合、いったいなにが必要となるだろう。いったいどうしようとするだろう。  その答えは、ひとつしかありえない。  カムィがそのことに気づくのと同時に、カンナは答えを口にした。 「さらなる力を得るために、ライエは…………魅魔の里を襲った」 「――っ!」  ざわ……  全身の毛が逆立つ。  身体中の血液が沸騰するような感覚を覚える。  そうだ。竜族に力を与える最高の血は、魅魔の血だ。  それも、できるだけ純粋な魅魔の血。  それは、どこで手に入る?  ひとつしかない。    そして――    カムィが知る限り、歴史上、魅魔の里が魔物に襲われたことなど一度しかない。 「それは、つまり……」 「三人がかりなら、魅魔の里を滅ぼして、好きなだけ血を手に入れられると思ったんだろうね。だけど奴らは魅魔師の力を甘く見すぎていたんだ。一人は、魅魔師の長にあっさりと返り討ちにあった。もう一人は、その長の幼い娘に殺された」  言うまでもない。その娘とはカムィのことだ。 「……そしてライエ自身は、長と刺し違えるようにして重傷を負った。なんとか命は取り留めたものの、己の命を賭した魅魔師の言霊で、その後十年近くも力の大半を封じられていた」  本来、魅魔の血による束縛は、その血の主が死ねば失われる。しかし強力すぎるその力は、死んでもなお十年にわたって魔物を縛り続けたのだという。 「……っっ!」  大声で叫びたい衝動に駆られる。  全身から噴き出しそうな想い。  熱い。  身体が熱い。  それはまるで燃えさかる炎のようだった。    ついに、見つけた。  ついに、辿り着いた。  ――仇。  母の、祖父母の、そしてシルカの仇。  ようやく、巡り会えた。  ようやく、ここまで来た。  仇を討てる。憎き相手を、この手で殺せる。  全身から歓喜が湧き上がってくる。    しかしカムィは興奮のあまり、不自然に戸惑ったようなカンナの態度は見落としていた。 「……最近になってようやくその封印の力が弱まり、ライエはまた好き勝手を始めたところ。その結果がこの街、この屋敷」  目的の屋敷の前に着いたところで、カンナは大きな門を見上げた。 「ここに……いるのか」  声が震えてしまう。  叫び出したい、走り出したい。そんな衝動を抑えるのが苦しいほどだった。  閉ざされている門扉。ここで時間をかけるのももどかしい。カンナに命じて、雷で門ごと吹き飛ばしてしまおうか。  そんなことを考えていると、門が内側から開かれた。しかしそこに竜の気配はない。  二人を出迎えたのは、紛れもなく人間だった。この屋敷の使用人とおぼしき若い女性だ。おそらく、魔物に支配される以前からここの使用人だった人間ではないだろうか。  もちろん正気ではない。竜に魅了され、操られている。それは気配でわかる。  女は、二人の前に立って深々と頭を下げた。 「いらっしゃいませ、カムィ様。主がお待ちです。ご案内いたします」 「……ふん、最初からそうしていれば手間が省けたものを」  どうやら、カムィが街に入ったことは最初からわかっていたらしい。あるいは、以前から監視の目があったのかもしれない。  今になって思えば、イメルもライエと無関係ではなかったのではないだろうか。  ライエは、カムィの血を求めている。  カムィは現存する最高の魅魔師で、もっとも純粋な魅魔の血の持ち主だ。もともと力のある竜族がその血を得れば、間違いなく最強の竜族、最強の魔物となれる。  最強の魔物。それはすなわちこの世で最強の存在ということだ。  ちらりとカンナを見る。  出逢った当時と比べて、カンナの力は飛躍的に増している。  それが、カムィの血によるものだとしたら。  そして、ライエの力がもともとカンナよりも強いのだとしたら。  カムィの血を得たライエは、間違いなく最強の存在になるだろう。人間はもちろん、他の竜族が何人集まっても敵うまい。 「……しかし、それはありえない話だな」  ――ライエは今日、ここで死ぬのだから。  喉の奥でくっくと笑う。どうしても笑いが込み上げてきてしまう。嬉しくて仕方がない。  案内の女に続いて、門の中に足を踏み入れる。そこで、カンナがついてきていないことに気づいた。 「なにしてる? 行くぞ」 「う……、うん」  うなずきはしたものの、カンナはなかなか歩き出さない。門の外で、なにやら躊躇しているように見える。 「……カンナ?」 「…………か、カムィ……、あの、ね?」  ぎこちない笑みを浮かべて、困ったように頭を掻いている。 「なんだ、先刻から。……まさか、怖いのか?」  普通に考えれば、この状況で怖がらないカムィの方が不自然だ。これから、自分を狙っている最強の竜族と対峙しようというのだから。  しかし、どうしてだろう。恐怖心がまるで湧いてこなかった。  復讐できる悦びが勝っているためか。  それとも、負けない自信があるためか。  本来、それも不自然だった。マウエにも後れをとったのに、さらに強いと思われるライエに苦戦しないはずがない。  なのに、明確な根拠もないのにどういうわけか自信があった。  マウエと戦った時と、いったいなにが違うというのだろう。  ひとつだけ、ある。  はっきりとした違い。  今回は、最初からカンナが一緒にいる。  もっとも、だから恐怖心がないのだと認めるのは癪な話だった。 「……あたしは……怖い、よ。でも、カムィが考えていることとは違う」 「え?」 「あいつと戦うことは怖くない。でも……このまま進んで、あいつと会うことは怖い」 「なにが言いたいのか、わからないんだが?」 「…………カムィに、嫌われたくない。ここからはあたし一人で行くんじゃだめ?」 「私が行かなければ意味がない」  仇は自分の手で討たなければならない。それに、向こうも用があるのはカンナではなくカムィだろう。  使用人の女にちらりと視線を向ける。肯定の意味か、女は微かにうなずいた。 「第一、お前ひとりで勝てるのか?」 「……わかんない。勝てる、かもしれない」  相変わらず、歯切れの悪い言葉。 「いったい、なにを躊躇っている? なにを隠している?」 「……」  問いの後しばらく間を置くが、答えは返ってこない。  カムィは大きく息を吸い込んだ。 「答えろ、カンナ。自分の意志で」  真っ直ぐにカンナの目を見て、強い口調で言う。  しかし、声に力は――魅魔の力は込めない。これはカンナが自分の意志で答える必要がある、と感じていた。  答えは返ってこない。  カムィもそれ以上問いつめることもなく、黙ってカンナを見つめている。  どこか寂しそうな、そして哀しそうな表情のカンナ。  やがてカムィに向けていた目を伏せると、無言のままゆっくりと歩き出した。  カムィたちに追いついたところで、カムィも、使用人も歩き出し、屋敷の中へと入っていく。  かなり大きな屋敷だ。造りの階段を上り、豪華な広い廊下を進んでいく。やがて正面に大きな扉が現われた。  その時不意に、小さな声が発せられる。 「…………あたし、コンルと同じなんだ」  カンナの声だった。唇が微かに動いている。  しかし言わんとしていることは、カムィには理解できなかった。  コンルと同じ? いったい、なにが同じだというのだろう。  それを訊ねようとする前に、大きな扉がゆっくりと開かれた。  隙間から見る限り、中は大広間らしい――と思った瞬間。 「――――っ!」  突然の閃光。  扉の向こうから溢れ出す光に、視界が真っ白になる。  短い破裂音と、叩きつけられるような衝撃。  それは紛れもなく、最強の竜族が放つ雷の力。  そして――  カンナの身体が床に転がった。  扉の向こうから放たれた雷はカムィの脇をかすめて、斜め後ろにいたカンナの身体を貫いていた。  カムィは一瞬そちらを追った視線を、すぐに雷の源へと向けた。  同時に、素早い動作で腰の短剣に手をかけて、それを抜こうと――    ――したところで、動きを止めた。 「早めに処分しておかないと、カンナは強くなりすぎたようだからな」  雷を放った人影が、ゆっくりと口を開く。 「な……っ」  その姿を目にして、言葉を失った。  広間の中心に立っているのは、相当な力を持った竜族だ。  竜族の証である、遠目にも目立つ黄金色の髪、黄金色の瞳。  彼を中心にして風が吹き出してくるような錯覚を覚える。それほどに強い気を放っている。  見た目は、想像していたよりも若かった。人間でいえば二十代の後半くらい、三十歳にはなっていまい。  予想外だった。なんとなく、もっと年長だと想像していた。カムィの父親と兄弟であるならその方が自然だ。  もっとも、成熟した魔物の年齢は必ずしも見た目通りとは限らないし、カムィの父とどれだけ歳が離れていたのかもわからない。  それよりも問題は、この気配だ。  ひと口に竜族の気配といっても、個体によってはっきりとした差がある。曖昧な『残り香』ならともかく、こうして面と向かっていれば、目を閉じていても個体を識別できるほどだ。  なのに――  どうして――    どうして、精一杯に感覚を研ぎ澄まさなければ、区別がつかないのだろう。    どうして――    どうしてこの魔物は――    ――カンナと同じ気を放っているのだろう。    同じ色の髪。  同じ色の瞳。  顔つきにも、どことなく面影がある。   「…………何者だ、貴様――?」 「私が何者か……か。言うまでもない。王、だ」 「……」  それはカムィが期待した答えではない。しかしもうひとつの答えが返ってくるより先に、天啓のように閃いた。  カンナが先に進むことを渋っていた理由。  この扉を開ける前の言葉。 『あたし、コンルと同じなんだ』  そう、言った。  この竜は、カムィの父親の弟。  カムィの母親の妹は、コンルの母親。  コンルはカムィの従妹。  そのコンルと同じだというカンナ。 「貴様……カンナの……?」  力いっぱいに拳を握りしめる。掌が汗で濡れている。 「お前が望んでいる答えを言うなら、その娘の父親ということになる」 「――っ!」  カンナの、父親――?  この竜が――?  それにしては歳が若い気もするが、魔物の年齢は外見だけでは計れない。それに考えてみれば、カムィの母の力で十年も封じられていた存在なのだ。十年分歳をとった姿を想像すれば、なるほど、カンナの父親として妥当だろう。  この竜は間違いなく、カンナの父親。  そして、カムィの父親の弟。  つまり、カムィとカンナは――    ――従妹同士なのだ。 「――――くっ!」  どくん、どくん。  鼓動が大きくなる。  胸が詰まって、息が苦しくなる。  予想外だった。  考えもしなかった。  しかしこれで、カンナの煮え切らない態度も理解できた。 『あいつと戦うことは怖くない。でも……このまま進んで、あいつと会うことは怖い』  どんな強敵と戦うことも恐怖しないカンナにとって、この状況で怖いこととはなんだろう。  考えるまでもない。  ひとつしかありえない。  ――カムィに嫌われることだ。  カムィが魔物を、竜族を、母親と姉の仇を、どれほど強く憎んでいるかはカンナが一番よく知っている。  なのに、自分がその仇の娘だなんて。  カムィに竜族の従妹がいるだなんて。  カンナにしてみれば、知られたくないと思って当然だ。 「…………」  この竜がカンナの父。  シルカの、母の、祖父母の、魅魔の里の仇。  カンナは、いくら憎んでも足りない仇の、娘。  カムィは、仇の娘とここまで一緒に旅をしてきたことになる。  もう一度、ライエに視線を向ける。  燃えるように鮮やかな黄金色の髪、深い黄金色の瞳。  どちらもカンナとまったく同じ色だった。  思わずまじまじと見つめてしまう。  頭が混乱し、張りつめていた心に隙が生じる。  無防備に魔物の目を凝視するなんて――特に、強い魅了の力を持つ竜族相手には――絶対にやってはいけないことなのに。 「理解できたか、魅魔の娘?」  竜族の『気』が放出される。  突風のような質感を伴ってカムィに叩きつけられる。  その圧力に、思わず二、三歩後退った。  まさか、これほどのものとは――  警戒はしていた。  心構えはできていた。  そのはずなのに……    力が抜けていく。  手から、そして全身から。  短剣の柄を掴みかけていた手が、だらりと垂れさがる。  カンナと同じ色の瞳がカムィを捉え、その心を捕らえていた。  ライエの顔に浮かんでいるのは、無邪気なカンナとはあまり似ていない、気障な笑み。  なのに、心奪われるほどに麗しく、神々しい。  見つめていると、身体が熱くなってくる。  身体の芯が、熱く火照ってくる。  心の奥底から湧き上がってくる衝動がある。  一歩、二歩。  足が勝手に前に出て行く。  ――いけない。    ――このままではいけない。    心の片隅で、そう叫ぶ声がある。  しかしその声はあまりにも小さく、逆の衝動はどんどん強く、大きく、膨らんでいく。  惹きつけられてしまう。  湧き上がる強い想い。  この身を、あの魔物の前に投げ出したい。  この身を、あの魔物に捧げたい。  そんな想いがどんどん膨らんでいく。  そのためにここへ来たのだ――と。   「傍に来い」  ライエが手を差し伸べてくる。  それに促されるように、カムィはゆっくりと足を進めていく。  一歩、また一歩。 「母親によく似ているな。あの、忌々しくも美しい女に。兄の面影がないのは幸いだ」  その声は、カムィの耳にはとろけるような甘い囁きとして届いた。 「あの女は素晴らしい血の持ち主だったが、死にかけながらこの俺を魅魔の力で縛りやがった。その呪縛から逃れるのに、十年、かかった」  恨み言であるはずのその言葉は、しかし、今のカムィにとっては美しい歌声であり、甘美な愛の囁きだった。 「だからお前の血を得て、今度こそ俺は王となる。すべての魔物と人間を支配する、この世界の万物の王に」  ライエの言葉を聞きながら、カムィはゆっくりと歩いていく。  どうして――  目の前の相手は、憎き仇なのに。  カムィの半身を、母を、故郷の村を、そして父を、奪った仇なのに。  なのにどうして、こんなにも強大で、美しく、魅惑的なのだろう。  鼓動が速くなる。  呼吸が荒くなる。  熱い。  高熱にうなされている時のように、頭が朦朧とする。  ――いけない。  このままでは、いけない。  竜族の魅了の力に、捉えられてしまっている。  心を支配されかけている。  それはわかっているのに――    ――抗えない。    この状態が心地よい。  この感覚。  心を鷲掴みにされる感覚。  心を支配される感覚。  心を陵辱される感覚。  身体が熱い。  火照って仕方がない。  カムィの女の部分が、熱く濡れている。  快楽を求めている。  魔物が――目の前の魔物が与えてくれるであろう至上の快楽を。  手が、自分の着物の帯にかかり、それを解く。  解けた帯が滑り落ちる。重ねていた着物が一枚ずつ床に落ちていく。  そして、一糸まとわぬ姿を曝す。  着ているものを脱ぎ捨てたのに、さらに熱くなってくる。  肌が露出した分、全身で直にライエの気を感じてしまう。 「あ……ぁ……」  熱い。  身体の内にこもった熱によって、体内から灼かれるような感覚。  その熱を帯びた蜜が、胎内から溢れだして内腿を濡らす。  止めどもなく溢れ続け、くるぶしまで滴り落ちる熱い蜜。しかしそれでも体内の熱を冷ますことはできない。  燃え上がりそうなほどに火照る身体。  この火照りを静めるためには――    ――そう。    この身を、捧げればいい。  目の前にいる魔物に。  それですべてが解決する。    ――違う!    心の片隅で、そう叫ぶ声がある。  ほんの小さな声。  耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうな、小さな声。    ――そんな声、どうでもいい。    無視して、一刻も早く、この身を竜に捧げればいい。  そうするのが当然ではないか。  一歩、また一歩、ゆっくりと脚を進める。    違う。  違う。  違う!    ――いいや、違わない。    元は竜から別れた血。  それはひとつに戻るのが道理ではないか。  だからこの身を、この魅惑的な魔物に捧げるべきなのだ。    違う!  違う!  違う!  ――そうすべき相手は、こいつじゃない!   「…………」  なんだろう。  なにか忘れている。  なにか見落としている。  大切ななにか。    一番、大切ななにか――    それは――   「…………カンナ!」  突然、口から出た言葉。  意識したものではなくて、勝手に口から飛び出した言葉。 「…………カンナっ!」  なにを叫んでいるのか、自分でもわからない。  なのに、その言葉が口をついて出てくる。  先刻から心の中で叫び続けていた小さな声が、口を操っている。 「カンナっ!」  突然、身体に腕が回された。  背後から抱きしめられている。  カムィを掴まえ、その歩みを止めた腕。  血まみれの腕がカムィの身体に回され、しっかりと抱きかかえていた。  背中に押しつけられている温もり。  それが誰のものであるか、振り返るまでもない。 「カンナ……」  触れられた瞬間、わかっている。  それはカムィにとって、一番なじみ深い温もり。  首を回すと、焦点の合わない黄金色の瞳が目に入った。普段の輝きが感じられない、生気の失せた死んだ魚のような瞳だ。  足取りもおぼつかない。カムィを抱きしめているというよりも、カムィに縋ってようやく立っているような状態だった。  ライエに撃たれた傷から、鮮血がごぼごぼと溢れ出している。 「……莫迦が」  口の中に、鉄錆の味が広がっている。  いつの間にか、舌を噛んでいたらしい。  何故?  なんのために?  ――考えるまでもない。  上体を捻って、カムィもカンナの身体に腕を回した。唇を重ねて舌を伸ばす。  カンナの舌が、それ自体が意志を持った生き物のように絡みついてくる。  滲み出る魅魔の血を啜っている。  カムィはその長い舌に噛みついた。  カンナの舌からも血が滲み出す。  どうしてだろう。  その血が、甘く感じるなんて。  甘い。甘ぁい。  温かい……いや、熱い。  口の中が灼けるような、熱い血。  なのに、身体を支配していた不自然な火照りが冷めていく。  代わって込み上げてくるのは、もっと、もっと、熱い想い。  意識が――自分の意志が、戻ってくる。  そして―― 「カンナ……」  カムィを抱いている腕に、力が戻ってくる。  唇に微かな笑みが浮かぶ。  瞳に、強い光が戻ってくる。爛々と黄金色の輝きを放っている。  カンナはカムィを放すと、背後に庇うような体勢になった。  ライエの雷に貫かれた胸の傷を押さえる。傷からはまだ鮮血が溢れており、手が深紅に染まる。 「クソ親父……」  長い舌を伸ばして自分の手をひと舐めする。 「確かにあたしは強くなったよ……強くなりすぎたよ」  言うと同時に、脚が床を蹴った。  目にもとまらぬ速さでライエに飛びかかる。  血に染まった長い爪を振りおろす。ライエも腕を振る。  二人は交錯した瞬間に素速く離れた。  顔を庇ったライエの腕に、浅い傷が刻まれていた。じわりと血が滲む。 「……クソ親父を八つ裂きにできるくらいには、ね」 「少しばかり力をつけたからといって思い上がりおって。手負いで父親に刃向かうのか?」  ライエの顔から余裕の表情は消えていない。  今度はライエから動いた。  先刻のカンナも凌駕するような、人間の目では追えない速度。  しかしカンナは正確に迎え撃つ。  剣と剣がぶつかったような、甲高い金属音が響いた。鋼よりも硬い竜の爪がぶつかり合った音だ。  また一撃で離れる。  その一瞬の間に二人とも新たな傷が増えていたが、カンナの方が深手だった。  頬を浅く斬られただけのライエに対し、カンナは右肩から胸にかけてざっくりと剔られ、鮮血が噴き出している。 「誰が、誰を八つ裂きにできるだと? 人間の手先となって雑魚を狩っていたくらいでいい気になるな。お前如きの力、この俺には通用せんぞ」  相変わらずの、上から見おろすような物言い。  勝ち誇った笑み。  しかし、カンナの顔にも笑みが浮かんでいた。強敵と相対しているというのに、不自然なくらいに穏やかな笑みだった。 「そう、あたしはカムィと一緒に魔物を狩ってきた。あたしは、半年以上ずぅっとカムィと一緒にいた。ほとんど毎日のようにカムィの血をご褒美にもらっていた。カムィは他のどの魅魔師よりも狩りに熱心だからね。日に一度も魔物を狩らなければ、欲求不満で不機嫌になるくらい」  ぴくり、とライエの眉が動く。  ずっと笑みを浮かべていた顔が、ここで初めて微かに曇る。 「わかる? あたしの身体には、カムィの血がたっぷりと流れてるんだよ?」  カンナが右手を掲げる。  地肌が見えないくらい、真っ赤に染まった手。傷を押さえていたために、そのほとんどは返り血ではなく自分の傷から流れ出たものだ。  そして、その手でライエに傷を負わせた。  はっとした表情でカムィを振り返るライエ。そこで動きを止めた。  カムィの瞳が、深紅の輝きを放っている。  血の色の瞳で、ぞっとするような危険な笑みを浮かべている。 「そうだ。貴様が好き勝手できるのも、もう終わりだ」  いっさいの手加減なしに、魅魔の力を解放する。  カムィの言葉が、ライエの身体を縛った。  カンナの血は、すなわちカムィの血。  カンナの血に含まれる、ほんのわずかな魅魔の血。  しかし、カムィにとってはそれで十分だった。  生まれた時から、その半分以上が竜に由来していたという、もっとも純粋な魅魔の血。  そこに、さらにカンナの血が混じっている。  爪先のほんの一滴でも、竜族を支配することができる血だった。  凍りついたように動かないライエに歩み寄り、短剣を抜く。  腕の上で刃を滑らせる。  刃先に残った紅い筋。これだけで、小さな短剣は魔物にとって最凶の武器に変わる。  カムィは両手で柄を握ると、体重を乗せてライエの胸に突き立てた。  ライエの目が見開かれる。  人間の武器の前では鋼よりも硬いはずの竜の皮膚が、熟れすぎた果実のように易々と貫かれていた。  辛うじて急所は外れているが、強靱な生命力を誇る竜族であっても無視できない深手だった。魅魔の血による傷には、竜族の治癒能力も働かない。むしろ、わずかな血でさえいつまでも組織を侵し続ける。  動きを封じられたライエは、悲鳴を上げることすら許されなかった。顔に脂汗が噴き出してくる。 「簡単に死んでもらっては困る。そう簡単に楽にはさせんぞ?」  カムィはライエに突き刺した短剣から手を放すと、もう一本の短剣を抜いて自分の掌を深々と貫いた。  掌を貫通した刃を抜くのと同時に、鮮血が溢れだしてくる。その手を、ライエの胸に突き刺さっている短剣の上に掲げた。  一筋の紅い糸となって滴り落ちる血は、刃を伝ってライエの体内に流れ込んでいく。  ライエの身体が小刻みに痙攣している。 「痛いか? 痛いだろう? 苦しいか? 苦しいだろう? お前は、もっと苦しまなければならない」  カムィが口を開くたびに、耐え難い激痛がライエの身体を襲う。  しかし、もがき苦しむことも、悲鳴を上げることも、封じられている。  ほんの一滴でも魔物の生命を思うままに操ることのできる血が、途切れることなく注ぎ込まれ、ライエの身体を苦痛で支配していく。 「シルカは、母様は、魅魔の里のみんなは、もっと苦しんだんだ。簡単には殺さない。そんなことは許さない」  その光景は、今でもはっきりと覚えている。  けっして忘れることのできない、瞼に焼き付いた光景。  生きたまま魔物に引き裂かれ、喰い千切られ、紅く濡れた肉片と化していったシルカの身体。  その姿は、その痛みは、カムィの記憶に永遠に刻み込まれている。  その光景を、その感覚を、そのままライエの身体に伝える。  ライエの顔は苦痛と恐怖に歪み、全身が痙攣している。  動きを封じられた身体は、悲鳴を上げることも、苦しみ悶えることもできなかった。なのに全身が引き裂かれるような激痛が絶え間なく襲ってくる。  人間であれば、苦痛のあまりたちまち発狂していたことだろう。この状況では、それも一つの救いかもしれない。しかし魔物の強靱さ故に、狂うことすらライエには許されなかった。 「苦しいだろう?」  突き立てた短剣に血を滴らせながらカムィは囁く。  ライエの顔がさらに歪む。脂汗が滝のように噴き出してくる。 「お前は、苦しまなければならない」  もっと。  もっと。  もっと、苦しまなければならない。  どんなに苦しんでも、足りない。  簡単に死なせはしない。  この血が尽きるまで、苦しめてやる――そんな想いを込めて、カムィは血を流し続けていた。  カムィが呪詛の言葉を唱えるたびに、ライエの身体が震える。苦痛のあまり反射的に収縮しようとする筋肉。しかし魅魔の血でその動きは封じられていて、ふたつの力がせめぎ合う。  動きを封じられていなければ、ライエの身体はとっくに自身の筋肉によってずたずたに引き裂かれていたことだろう。  しかしカムィは、ライエに死という救いを与えなかった。  全身が八つ裂きにされる痛み。  けっして終わらない苦しみ。  身体中の組織が、言葉にならない苦痛に襲われ続けていた。  そこへ―― 「……あの……カムィ?」  背後からひとつの声が割り込んでくる。カムィははっと振り返った。  すっかり失念していたが、カンナが後ろに立っていた。 「…………気持ちはわかるけどさ。そんなんでも、一応、あたしの親だしさ」  困ったような表情で、無理に笑おうとしているのかもしれないが、口元が不自然に引きつっていた。 「…………」 「もちろん、あたしはカムィの味方だよ? でも、さ……。できれば、あまり時間をかけずに終わらせてくれると嬉しいかなぁ、って。……ちょっと、思った」  カムィは黙ってカンナを見つめた。  カンナもそれだけ言うと、後は口をつぐんで困惑したようなぎこちない笑みを顔に貼り付けている。  二度、三度。  カムィは大きく深呼吸した。  ――そして、考える。  カンナが、今、なにを考えているのか。  カンナが、今、どんな想いでいるのか。  カンナから視線を逸らし、またライエを睨みつける。  目の前にいるのは、魅魔の里を襲った張本人。  自分の分身といってもいいシルカの仇。  母親と、故郷の村の多くの人たちの仇。  そして――父親の仇。    殺さなければならない。  死ななければならない。  死をもって、己の罪を償わなければならない。  償わせなければならない。  だけど――  しかし――  この魔物は、カンナの父親だ。    ――だからなんだというんだ?  ――そんなの、どうでもいいことだろう。  ――そう、どうでもいい。  ――気にすることじゃない。    そう、思うのに。  なのに、カンナの存在を無視できない。    視線をカンナに戻す。  戸惑っているような表情。どことなく哀しそうな表情にも見えるのは気のせいだろうか。  こんな表情のカンナは見たことがない。    もう一度、ライエを見る。 「…………」  血が滲むほどに唇を噛む。    ――そうだ、終わりにしよう。    もう一度、短剣を腕に突き立てた。  太い血管が切断され、新たな血が噴き出してくる。  その血を、ライエの傷口に注ぐ。  これだけの血を注ぎ込めば、どんな魔物であろうとたちどころに殺せる。    意識を集中する。  言葉に『力』を乗せて、 「…………」  ゆっくりと唇を開いた。 終章 「…………私は、この世でいちばん愚かな魅魔師かもしれんな」  そうつぶやきながら、カムィは森の中を歩いていた。  ――いいや。 「かもしれない」ではない。間違いなく愚かな選択だった。  ちらりと背後を見る。  数歩の距離を空けて、カンナが後をついてくる。  森の中は平和だった。  ここへ来た時と違い、魔物の気配は目に見えて薄れている。  魔物に――ライエに支配されていた地。その力が失われ、集まっていた魔物たちも散り散りになった。これまで通り、ひとりひとりが勝手に生きていくのだろう。  そこで人間に対する危害が目に余るようになったら、その時また狩ることになる。    ――ライエも含めて。   「……どうして?」  背後から、声がかけられる。  脚を止めて振り返る。  カンナはまだ戸惑いの表情を浮かべていた。 「……どうして、殺さなかったの?」 「…………」  その問いに対して、カムィは即答できなかった。    ――そう。    殺さなかった。  殺せなかった。    ばかだ。  大莫迦だ。  あれだけのことをした魔物を。  あれだけの血を使っておきながら。    ――とどめを刺さなかったなんて。    結局、殺さなかった。  十年前に母親がそうしたように、その力を封じただけだ。  これでまた当分は、ライエが人間の脅威になることはあるまい。  そういえば、母はどうしてライエを殺さなかったのだろう。  それだけの力がなかったのだろうか。  そうとは思えない。  当時のサスィと今の自分と、どちらの力が強いのかはわからない。単純に血の純度を考えれば、母の血にさらに竜族の血が混じったカムィの方が上だろうが、それでもサスィはライエよりも力のあるその兄を魅了することができた。それだけの力がありながら、己の命と引き替えにしてもライエを倒せなかったなどということがあるだろうか。  やはり、殺せなかったのではなく、殺さなかったと考える方が自然だろう。  ――ライエが、自分の夫の肉親だから。  まさか、とも思うが絶対にないとも言い切れない。  甘い。  甘すぎる。  そのせいで、今の自分が苦労する羽目になった。  しかしそれを言ったら、自分はもっと甘くて、大莫迦だ。  相手が魔物ということを抜きにして考えれば、「自分の夫の肉親」を殺すことには抵抗があるだろう。  それはカムィでも容易に想像できる。  しかしカムィの場合、母親とは事情が違う。  カムィにとってのライエは、「カンナの肉親」でしかない。  なのに何故、躊躇してしまったのだろう。  自分にとってのカンナは、いったいなんなのだろう。  いったい――    ぎゅっと唇を噛む。  苦虫を噛み潰したような表情で、カンナの顔を見る。 「……カムィ?」  カンナが小さく首を傾げる。  その表情に、胸がきゅうっと締めつけられる。    ――違う!  断じて違う!    心の中で叫ぶ。  ありえない。 『お前の父親だから殺せなかった』なんて。  認めない。  認めたくない。    ――だから、本心とは少し違う答えを返した。 「……今、殺す必要があるか?」 「え?」 「あんな奴、その気になればいつでも倒せるだろう。私と……お前の力なら」  カムィはそれだけ言うと、ぷぃっと顔を背けて歩き出した。 「……二人が一緒なら?」 「………………、ああ」  うなずいてから、しまった、と思う。  墓穴を掘ってしまった。  しかしその発言を訂正するより先に、カンナが腕にしがみついてくる。 「えへへ…………、ずっと一緒だね」 「…………」  忌々しい。  またひとつ、この竜と一緒にいなければならない理由が増えてしまった。  むしろ、自分でそうしてしまっている。    ――忌々しい。  そう思っているはずなのに、この手を振り払うことができない。  それが何故なのか、その理由はさすがにもうわかっている。  しかしそれを口に出して認めることは、決して、一生、ないだろう。  それを認めてしまっても、  否定し続けても、    どちらにしても、自分はやっぱり大莫迦なのだ。 あとがき  ごきげんよう――とあとがきを書き始めるのもずいぶんと久しぶりです。  ……ということで、本っ当に久々の長編書き下ろし、『魅魔竜伝 ‐弐‐』をお届けします。  文庫一冊相当の書き下ろしって、ひょっとして『竜姫の翼』以来でしょうか?  いやはや……いくらなんでもサボりすぎです。『魅魔竜伝 ‐壱‐』の公開も三年近く前になりますから、昔は『光の王国』を年二話以上のペースで書いていたなんて、今となっては信じられませんね(苦笑)。  とはいっても書くのが遅くなったわけではなく、単に執筆時間が短くなっただけなんですが。  今年の冬は心を入れ替え、ゲームとかを一切せずに原稿に向かったおかげで、昔並みのペースで書くことができました。  そんなわけで『魅魔竜伝』完結編です。  当初、全三話構成なると考えていたのですが、書いてみたら何故か全二話でした。一話すっ飛ばしたわけではなく、二〜三話と想定していたエピソードを再構成して一話にまとめたのが本作になります。  で、本作の序章部分が、実は『魅魔竜伝』の元ネタ部分。元々、コンル&ラウネの男女十八禁モノだったネタを、『百合』という大前提があったコミック版向けに性別を変えて、ラウネ役をカンナに置き換えたのが『魅魔竜伝』というわけです。  ところで、今回の執筆中に感じたのが、『弐』は『壱』よりも書きやすいということ。前作は読み返してみると、なんとなくぎこちない部分が多いんですよね。多分、コミック版を意識しすぎて自分らしさを出し切れなかった結果だと思います。カムィもカンナも、まだ自分のキャラになりきっていませんでしたし。  その点では、『弐』の方が自然に書けるのは当然のこと。  とはいえ、『魅魔竜伝』はどちらかといえば私にとって書きにくい作品です。  他の作品とは文体とか言葉の制約とか、少し違うんですよ。 『光』や『竜姫』と比べてはっきり違いがわかるのが「カタカナの外来語は使わない」という制約。作風や世界設定と雰囲気が合わないのです。  同様の理由で度量衡や時間の単位も使用していません。いちいち解説が必要となるオリジナルの単位系を使うのは嫌い、という話は以前どこかで書いたような記憶がありますが、ファンタジーやSFでも、実在の単位系を使って違和感のない作品、違和感のある作品があって、魅魔は明らかに後者でしょう。竜姫や一番街なら、メートル法を使っても違和感ないんですけどね。  カタカナ語を使わない代わりといってはなんですが、カンナの台詞はやたらとカナ表記が目立ちます。  元々はコミック版の名残ですが、漢字というのはそれ自体が意味を持つため、敢えてカナ表記にすることで「その単語を人間と同じ意味にはとらえていない」ことを視覚的に表せる点が気に入ってます。  魔物の台詞以外でカナ表記が使われるのは固有名詞だけですが、これは例によってすべてアイヌ語由来。  私は最初、普通に西洋っぽいカナ名前を考えていたのですが、コミック版の打合せ段階でアイヌ語系となりました。  なので、『弐』の新キャラもアイヌ語系で統一しています。原語の意味も作中に書いてあるとおりです。  固有名詞に関してもうひとつのこだわりは、前作も本作も『地名』が出てこないこと。これはまあ深い理由はなくて、「なんとなく」なんですが。    話は変わってカムィについて。  カムィって、北原キャラ随一のツンデレですよね(笑)。  それに次ぐのが『MI・KU・MI』の岡村美鳩と、対エイシスの奈子やリューリィでしょうか。でも奈子は他の相手(ハルティとか)には素直ですし。  最初から最後までツンデレ道を貫いたカムィは、それはそれで可愛いな、と思います(笑)。  カムィといえば悩んだのが第六章のラストシーン。  本当はあそこで4コマ版のネタ、「お手」とか「踊れ」をやりたかったのですが、さすがに唐突すぎるということであのような形で妥協しました。  あと、タシロとの絡みを克明に書くかとか、マウエに陵辱されるシーンを入れるかとか、終章最後にカムィ攻のえちシーンを入れるかとかも悩みました。結局、表の作品としては蛇足ということでそれもボツ。特にマウエとの絡みは、前作のイメルと同じパターンになってしまいますし。  カムィ攻だけはカーテンコールで書こうかとも思いましたが、少々エロ過ぎるのでどうしたものかと思案中。  なにしろ魅魔の血は、魔物にとってはどんな強力な媚薬も問題にならないくらいに『効き』ますから、ヌルい描写はできないのです(笑)。  さて。  そんなわけで、カンナ×カムィの『魅魔竜伝』はこれで終わりですが、いずれ、違うキャラ、違う時代、違う世界で、まったく違った『魅魔』の物語を書きたいと考えてます。  早ければ今年中に取りかかるかも。  それでは最後に次回予告…………といっても、これが公開される頃にはそろそろレースシーズンも開幕間近。執筆時間が取れるかどうかはまったくの未知数です。  一応、次のふれ・ちせ作品は、本邦初の自転車ロードレース百合小説の中編書き下ろしを予定しています。早ければシーズン中に公開できるかもしれません。  てぃーぽっとの方はまったくの未定。  次の長編は、早くても次のシーズンオフでしょうか。順番からいけば『竜姫』の外編になるなんですけど、いまいちテンションが上がらないんですよねー。竜姫シリーズ、特に次回作は百合度&えち度が低いので(笑)。    それでは、また、次回作でお会いしましょう。   二○○七年三月某日 北原樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://hure-chise.atnifty.com/