一番街の魔法屋 〜賢者の宝物編〜 序章 迷子の子猫の逆ナンパ  巨大な竜を駆って大空を舞う竜騎士たち。  強大な魔力を持った魔術師たち。  大陸全土を巻き込んだ戦争。  それはもう、遠い過去の伝説。  これは―― 〈剣〉と〈魔法〉に変わって、〈科学〉と〈機械〉とが人間たちの『力』となりつつある時代の物語。 * * *  フィーニ・ウェル・リースリングは、道に迷っていた。  なにしろ彼女は田舎の農村育ちである。人の背丈よりも高い、地平線まで続くようなトウモロコシ畑の中でも方角を見失うことはないのに、高い建物が建ち並ぶ通りが縦横に入り組んでいる都会の街並みの中となると、さっぱり本能が働かない。  ソーウシベツは大陸有数の大都会というわけではないが、フィーニを迷わせるのに充分なくらいには都会だった。都会が珍しいフィーニは、通りを歩きながらも始終きょろきょろとよそ見ばかりしている。これでは道に迷うのも当然だ。  それは、自分でもわかっている。わかっているけれど、つい目が行ってしまうのだから仕方がない。  石畳やコンクリートの舗装がなされた、広い道路。  整然と並ぶ二階建て三階建て、あるいはそれ以上の高さの煉瓦造りの建物。  通りを走るのは、格好いいぴかぴかの自転車に、お洒落な乗用馬車に、そしてまだ珍しい自動車と市街鉄道。  都会の光景に目を奪われながら闇雲に通りを歩き回っているうちに、次第に汗ばんでくる。暦の上では秋であっても、緯度の低いこの地方ではまだ十分に暖かい、というか日中は暑いくらいだ。 (あぅぅ……引っ越してきた当日に、さっそく大ピンチだわ)  フィーニは心の中で呻いた。その割には呑気そうな表情をしている。深刻に困っている様子ではない。 (誰かに道を訊くしかないよね。でも……)  田舎者のお上りさんと思われるのは、あまり嬉しいことではない。たとえそれが紛れもない事実であったとしても。  せっかく一番お気に入りの服で着飾って、外見は完璧に都会の娘になりきっているつもりなのだから。  それでも背に腹は代えられない。このままでは、街を彷徨っているうちに夜になってしまいかねない。  また、周囲を見回した。さすが都会だけのことはあって人通りが多い。フィーニがこれまで暮らしていた、人よりも牛や鶏の方がずっと多い農村とは大違いだ。  子供を連れた若いお母さん。  犬の散歩をしている品のいい初老の婦人。  上等な背広を着こなした壮年の紳士。  優しそうな人はいくらでもいる。道を訊く相手には事欠かない。  だけど、その人たちには尋ねない。  もうしばらく通りをぶらついて。  やがて、目的のものを見つけた。  無意識のうちに口元が綻ぶ。にやぁっと、下心ありありの笑みだった。  フィーニの視線の先にいるのは、一人の少年だった。年齢はフィーニよりも少し年上だろう。十七、八歳くらいといったところか。  その年頃の男の子としては、それほど背の高い方ではない。とはいえフィーニがそれ以上に小柄だから、頭ひとつ分ほどは高いだろう。  どちらかといえば痩せている方だ。  髪は淡い金髪で、前髪は長く垂らして目にかかっている。その奥の瞳は深みのある青灰色だった。  目つきがやや鋭いが、さほど怖い印象は受けない。むしろ優しく綺麗な顔立ちをしている。精悍さと中性的な優しい雰囲気が、絶妙なバランスで釣り合いを保っていた。  洗い晒しの麻のシャツをさり気なく着こなしている。だらしなくもないし、さりとて「気合い入れてお洒落してます」という嫌味もない。 (……合格)  フィーニは心の中で判定を下した。  なかなか好みのタイプだった。  外見は小柄で華奢で、十三、四歳にしか見えないフィーニだが、実はもうじき十六歳、高等女学校の一年生だ。男の子にだって興味はある。  どうせお近づきになるのなら、格好いい男の子がいいではないか。記念すべき「この街で最初のお知り合い」は、この男の子に決めた。 「あの……、すみません。この街の方ですか?」  散歩でもしているのか、ゆっくりと歩いていた男の子に近付いて訊いてみる。相手は小さくうなずいた。よし、第一関門は突破。 「あの、あたし、今日引っ越してきたばかりで、道に迷ってしまったんです。市役所の場所を教えていただけませんか?」  フィーニは極上の笑顔を浮かべつつも、どこか不安げなうるうるの瞳で、上目遣いに男の子を見た。  この笑顔、ややロリータの気はあるが、大抵の男には絶大な威力を発揮する。フィーニのたちの悪いところは、自分で自分の笑顔の威力を知っていることだった。普通の男なら、放っておけずに優しく世話を焼いてくれる。  そして今回も、この武器は期待通りの戦果を挙げてくれたらしい。 「え……? あ、ああ……いいけど」  男の子はやや照れた様子で、一瞬頬を赤らめた。それを隠すかのように、ぶっきらぼうに応える。  そんな話し方は嫌いじゃなかった。軟派な感じがなくて好感が持てる。声そのものは、すごく優しそうだった。 「……ここからだと、口で説明してもちょっとわかりにくいかな。いいよ、案内してあげる」  男の子は向きを変えると、フィーニの先に立って歩き出した。その後をちょこちょことついていく。どこかペンギンを思わせる脚の動きに合わせて、肩に軽くかかる長さの濃い茶の髪が左右に揺れていた。  やがて、広い通りに出る。  歩きながら、フィーニは斜め後ろからこの案内人を観察した。  口数は少なく、遊び人という感じはしない。内気という印象ではないが、女の子との付き合いには不慣れなのかもしれない。  少し照れたようで、だけどフィーニを気遣って、歩幅を狭めてゆっくりと歩いてくれている。  第一印象としてはちょっと怖そうな雰囲気があったが、それは外見だけで、根は優しい人間だろうと思われた。 (これは、いきなり「当たり」かも)  親元を離れての都会暮らし、数分前までは色々と不安もあった筈だが、そんなものはすっかり吹き飛んでしまっていた。なにしろ初めての街で最初に知り合った相手が、予想外の上玉だったのだから。 「……どっちにする?」 「え?」  何かを訊かれたらしいが、フィーニは上の空だった。相手に見とれていたのだ。 「歩いていけない距離じゃないけど、市街鉄道に乗る?」  広い通りの真ん中を指差しながら訊いてくる。そこには銀色に輝く線が二本、平行に走っていた。市街鉄道のレールだ。  市街鉄道は、アルコールを燃やした熱で蒸気を作って走る小さな汽車で、都会での主要な交通機関である。大きな街にしかないから、もちろんフィーニは乗ったことがない。  都会に憧れる身としては非常に興味があったが。 「ううん。初めての街だもの、あなたが迷惑じゃなければ、自分の足で歩いてみたいな」  フィーニは首を左右に振った。  本音は、せっかくの素敵な男の子と、少しでも長く一緒にいたかっただけのこと。 「そう、それじゃ……」  そんな下心は露知らず、男の子はゆっくりと歩きながら、街の中を案内してくれる。  しばらく行くと、やがて市役所が見えてきた。煉瓦造りの、見上げるような大きさの建物だ。  せっかくのデートが終わるのは残念だったが、引っ越してきたばかりで、今日中に片付けなければならない用事がいくつもあるから仕方がない。  フィーニは親切な男の子を振り返った。 「案内してくれてありがとう。あなたって、いい人ね」  一歩近付いて、背伸びをして。  首に腕を回して、頬の、限りなく唇に近い部分に。  ちょん、とキスをした。  一瞬、相手の動きが止まる。  何が起こったのかわからない、といった表情で。  やがて、顔がかぁっと赤くなってくる。  やっぱり、女の子に慣れていないみたいだ。 「じゃあ、あたしは用事を済ませてくるわ」  呆然としている男の子を後に、フィーニは建物の中に入っていった。 一章 ミュシカとお姉様と転入生 「ごきげんよう」 「ごきげんよう。また明日」  一日の学業を終えて下校する乙女たちの爽やかな挨拶が、澄みきった青空にこだまする。  優しい笑顔を浮かべて、少女たちが校門から出てくる。純白の生地に水色の線が入ったセーラー服の少女たちの姿は、遠目にはまるで清廉な百合の花のようだ。  しかし。  その日、ミュシカ・サハ・オルディカの精神状態は「爽やか」からははるかに遠い地点にあった。厳密にいえば、この不機嫌は昨日の午後からまる一日続いている。  昨日は天気のいい休日で、午後にふらっと散歩に出たところまでは問題なかったのだが、その後がよくなかった。以来、どう繕っても仏頂面になってしまう。  やり場のない怒りを持て余しながら校門を出たところで、不意に背後から名前を呼ばれた。  声をかけられたらまず立ち止まり、そうして「はい」と返事をしながら、身体全体で振り返る。不意のことでも、慌てた様子を見せてはいけない。ましてや顔だけで「振り向く」なんて行為、淑女としては失格。  あくまで優雅に、そして美しく。少しでも、上級生のお姉さま方に近づけるように。  だから振り返って相手の顔を真っ直ぐ捉えたら、まずは何をおいても笑顔でごきげんよう……というのが、この学園に通う者としての礼儀なのだが。 「……ごきげんよう、レイアお姉様」  今の精神状態で笑顔を作るのは難しかった。かなり引きつった表情になったとは思うが、それでもなんとか挨拶だけはやり遂げる。  長い金髪を優雅に揺らして、一人の少女が小走りに追いついてきた。一学年上級のレイア・リン・セイシェルお姉様だ。 「ごきげんよう……っていう表情ではないようね。どうしたの?」  さすがは付き合いの長いレイア様。ミュシカの機嫌など、一目でお見通しらしい。あるいはミュシカの方が、考えていることが顔に出やすい性格なのかもしれないが。 「別に、なんでもありません」  ミュシカはぶっきらぼうに応えた。しかしレイア様は見逃してくれない。 「とても、なんでもないという雰囲気ではないわね。私に隠し事するの?」  レイア様のお声はとてもよく澄んでいて美しいのだけれど、今の口調は厳しかった。優しさと知性、そして意志の強さを感じさせる深い緑の瞳が、真っ直ぐにミュシカを――ミュシカの心の中を見つめていた。 「私は、あなたの何?」 「……お姉様、です」  ここでいうお姉様とはもちろん、血がつながった姉妹のことではなく、女学校における上級生のこと。特に、極めて親しい上級生を表す言葉である。  ミュシカの口調は幾分おどおどしていた。なにしろ相手は、中等部の頃からなにかとお世話になっているお姉様。面と向かって叱られては、どうしても立場は弱い。 「それなのに私に隠し事? 悲しいわ。妹の相談にも乗ってやれないなんて、私はあなたの姉失格ね」 「そんな……」  そんな、悲しそうなお顔をなさらないでください。お姉さまの美しいお顔を曇らせてしまった自分が、世界一の悪人に思えてしまいます。  ミュシカは心の中で手を合わせた。なにしろとびっきりの美女である。ちょっと表情を曇らせただけでも、与える悲壮感は絶大なものがあった。たとえミュシカが号泣したところで、この憂い顔の足元にも及ばないだろう。  レイア様は本当にお美しい。ミュシカの自慢のお姉様で、全校生徒の憧れの的である。伝統あるこの学園の制服である純白のセーラー服に身を包んだそのお姿は、人呼んで麗しの白き百合姫様。 「お姉様に隠し事だなんてとんでもない! そんな、人に相談するほどたいしたことじゃないんです」 「休日に普段着で外出した時に、また、知らない人から殿方と間違われたとか?」 「うっ」  いきなり図星である。これだからお姉様は恐ろしい。  思わず左胸を押さえたミュシカを見て、レイア様がくすっと笑った。そうすると、急に子供っぽい表情になる。それがまた素敵だ。笑われているのは自分なのに、つい見とれてしまいそうになる。 「どうやら図星のようね。だから、髪を伸ばしたら、と言ってるのに」  レイア様が手を伸ばして、ミュシカの短い金髪に触れた。この髪と、女の子にしてはやや精悍な顔立ちのために、性別を間違われたことは過去一度や二度ではない。 「……似合わないから」 「そんなことないわよ。昔はもっと長かったじゃない。今の髪もたしかに似合っているけれど、あれだってとても素敵だったわ」 「あの頃とは違いますよ」 「今だってきっと似合うわ。大昔の騎士にだって、精悍な顔立ちで髪の長い、素敵な女性は何人もいたじゃない。レイナ・ディ・デューンとか、ダルジィ・フォアとか」 「そんな、歴史上の偉人と一緒にしないでください」  二人は話を続けながら、学園の敷地を後にして通りを歩いていく。このシーリア女学園の校舎と、レイア様やミュシカが暮らす寄宿舎は、少し離れたところにある。昔は同じ敷地にあったというが、二十数年前の校舎の建て増しの際に寄宿舎を移転したのだ。  周囲には、同じシーリア女学園の生徒の姿もちらほらと見える。多くは二人と同じ寄宿生だろう。時折、中等部の制服も混じっている。  そうした生徒たちの多くは、こちらにちらちらと視線を送っていて、目が合うと慌てて恥ずかしそうに会釈していく。生徒会長にして全校生徒の憧れの的、麗しの白き百合姫様のお側を歩く下級生としては当然の反応だ。 「ちょっと、遠回りしていきましょうか」  途中の交差点で、レイア様が立ち止まった。右手の道を指差して言う。 「いいお天気だし、散歩がてら」  右に行けば、静かな公園がある。今日は急いで寄宿舎に帰る用事もないし、確かに散歩や、二人きりでゆっくり話をするにはいいところだ。 「……ええ」  一瞬躊躇ってから、ミュシカはうなずいた。レイア様の意図は読めているが、だからといって逆らうこともできない。また、悲しそうな顔をさせるようなことになったら耐えられない。  おそらくレイア様は、何か大事なお話があるのだろう。寄宿舎へ向かう道を外れれば、シーリア学園の生徒の姿は極端に少なくなり、二人に注目する者もいなくなる。校内や寄宿舎では注目を集めるレイア様であっても、他人に聞かれたくない話をゆっくりとできるというわけだ。  この後持ち出されるであろう話題が想像できるだけに、正直なところミュシカは気が重かった。  しかし。 「そういえば、学長様から伺ったのだけれど、一年生に転入生が来るそうよ」  進路を変えた後の最初の話題は、ミュシカの予想していたものではなかった。意外な言葉に、ミュシカはわずかに眉を上げて驚きを表現する。 「へえ、珍しいですね。それもこんな時期に」  シーリア女学園はこのマイカラス王国で、いや、この大陸中でももっとも歴史のある高等女学校だった。何百年も昔にこの地方の女領主が、これからは女子にも高等教育が必要という先見の明によって設立したものだ。  現在でこそ、高等女学校はいくらでもあり、大学まで進学する女子も珍しくなくなったが、それでもなおもっとも由緒ある高等女学校であることに変わりはない。私立校であれば、お金を積んだり、あるいは家柄によって入学できるところもあるが、公立校で奨学金制度も整っているシーリア女学園にはそうした抜け道はない。  家柄や人種などには無関係に入学できるが、その分、入学試験の難易度は下手な三流大学よりも高いと言われるほどだった。それが転入試験となればなおさらである。  普通、シーリア女学園に入学しようとする者は、前もって十分な準備、試験勉強をして入試に挑むのであり、急な引っ越しが決まったからといって、おいそれと転入などできるものではない。その転入生とやらは、よほど優秀なのだろう。  ミュシカはふと、昨日街で出会った少女を思い出した。そういえば、この街に引っ越してきたばかりと言ってはいなかっただろうか。転校の手続きのために市役所へ行く、と。 (はは……。まさか、ね)  すぐに、その考えを打ち消した。あの子はとても高等部の生徒には見えなかった。どう見ても中等部の一、二年である。レイア様が単に「一年生」と言うからには、それは高等部の一年生を指す筈だ。  第一、そんな秀才には見えなかった。街で見ず知らずの男性に自分から声をかけ、しかもいきなりあんなことをする尻軽な女の子ではないか。 「きっと、優秀な子なのでしょうね」  レイア様が楽しそうに言った。 「家が遠いので寄宿舎に入ると仰っていたし、楽しみだわ」 「寄宿舎に? でも……」  今、空室はあっただろうか。  名門校の常として、シーリア女学園には地元以外の生徒が多い。寄宿舎は常にほぼ満員だ。 「三人部屋、四人部屋には空きがなかったわね。勝手の分からない転入生を一人部屋にもできないし……」 「……まあ、そうですね」  ミュシカは嫌な予感がした。レイア様が何を言わんとしているのか、ほぼ正確に予想できた。 「二人部屋を一人で使っているところというと、私の部屋か、あなたの部屋ね」  レイア様が浮かべた意味深な笑みを見て、今日、わざわざ追いかけてきて一緒に帰り、遠回りまでした理由がこれだったのだと気付いた。どうやら、一番触れられたくない話題になりそうだ。 「私は嫌ですよ」  本題を口にされる前に、先手を打ってはっきりと釘を刺した。先にお姉様に「お願い」されてしまったら、ミュシカの立場としては断れない。 「……そう言うと思ったわ」  小さく溜息をつく。そんな憂い顔もお美しい、と見とれていると、すぐに顔を上げて真っ直ぐにミュシカを見た。 「ねえ、ミュシカ? あなた……」  全身が緊張するのがわかる。ついに来た。一番触れて欲しくない、だけどレイア様は放っておいてくれない話題に。  しかし。 「……あら?」  続きを口にする前に、レイア様は小さな声を上げて首を傾げた。 「あの子、うちの学園の生徒じゃないかしら?」 「え?」  道路を挟んだ向こう側にある公園を指差して言う。ミュシカもその視線を追って振り返った。  公園の中で、何人かが固まっているのが見えた。紺色のその制服は、市内にある高等学校の男子生徒たちだ。その中心にひとつ、ミュシカたちと同じシーリア女学院の純白の制服が見えている。  なにやら、言い争いをしている様子だった。見るからに乱暴そうな男子学生たちが声を荒げているのが、ここからでもわかる。 「……からまれているみたいですね」 「そうね」  ミュシカの言葉にレイア様もうなずいた。あれは確か、最近このあたりでたまに見かける、あまりいい評判を聞かない学生たちだ。その中に一人、シーリア女学園の生徒がいるというのは、どう考えても好ましい状況ではない。 「助けてあげないの、ミュシカ?」 「私が……ですか?」  つい、気の乗らない返事をしてしまう。危うくレイア様相手に「私が? 冗談じゃない!」なんて叫びそうになってしまった。 「嫌なの? あなたなら助けられるじゃない」 「買い被りすぎです」  レイア様の目がすっと細くなった。怒ったように、鋭い視線をミュシカに向ける。  思わず無条件降伏してしまいそうになったが、そこをなんとか持ちこたえた。 「……私たちが出ていってどうにかなる問題ではありません。急いで警察へ行きましょう」 「……」  瞬きを三回する間、レイア様は黙ってミュシカを見ていた。やがて目を伏せて溜息をつく。 「それで、間に合わなかったら? きっとその間にあの子は乱暴されてしまうわ。シーリア女学園の生徒としてはとても口に出せないようなことをされて、結婚できない身体にされてしまって、一生心の傷を背負って生きるわけね。ううん、ショックで自殺してしまうかも。ああ、なんて可哀想なんでしょう」  大仰に嘆くレイア様は両手を胸の前で組んで、しかも何故か空を見上げている。睫毛を震わせて瞳を潤ませたその姿は、見る者の憐憫を誘ってやまないが、しかし騙されてはいけない。レイア様が今年の学園祭の舞台で悲劇のヒロインを演じて、全校生徒を号泣させたことをミュシカは忘れてはいなかった。  それが演技であることの証拠に。 「……助けてあげるわよ、ね?」  すぐに、にこっと微笑んでこちらに顔を向ける。 「あー、もう! わかりました! 助ければいいんでしょう!」  結局、根負けして叫んだ。いくらレイア様に反抗しようとしたところで、結局は敵わないのだ。  ミュシカは持っていた細長い棒状の袋の口を解き、中から一本の杖を取りだした。長さは一メートルちょっとで、親指よりやや太いくらいの太さの、何の飾りもない木の杖だ。  足を肩幅くらいに開いて立つと、杖の中ほどを右手で握って、腕を前に突き出した。左手の中指と人差し指を揃えて伸ばし、真っ直ぐに立てた杖に対して斜めに交差させる。  顎を引いて、目を細めて真っ直ぐに公園を見つめた。舌先で唇を湿らせて、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。 「天と地の狭間にあるもの、力を司るものたちよ。我の言葉に応えよ……」 「久しぶりに見るわね、この姿」 「黙っててください。気が散ります」  視線をずらさずにそれだけ言うと、ミュシカは詠唱を続けた。 「大地を支える者たち、世界を形創る者たち、我が声を聞き、我が声に応えよ。その力を我がために……え?」  朗々と続いていた詠唱が、不意に途切れる。ミュシカは細めていた目を見開いた。  ぱち、ぱち。  二、三度、瞬きを繰り返す。  それでもやっぱり、見間違いではなかった。公園の中では、信じがたい光景が繰り広げられていた。  男子学生たちに囲まれていたその少女は、傍らにあった棒――公園の花壇で、朝顔の苗の横に立ててあった――をいきなり抜き取ると、目の前の相手を殴りつけたのだ。  正確にいえばそれは、殴るなんて生やさしいものではない。離れて見ているミュシカたちにもその棒の軌跡は見えないくらい、速く鋭い振りだった。  殴られた学生が倒れる。すかさず少女は、その隣にいた別の学生の脚を蹴った。大きくバランスを崩した相手の首筋に、斬るような動作で棒を振り下ろす。 「……えっと?」  レイア様も目を丸くしている。もちろんミュシカも。  二人はただ呆然と、その光景を見つめていた。 「なんなの、あれ……?」 「なんなのって……なんでしょう?」  お互いに顔を見合わせる。目の前で起こっている出来事が飲み込めない。確かにこの目で一部始終を見ているのに、頭が理解することを拒否していた。  まったく予想もしていなかった展開だった。あんな華奢な少女が、自分よりもずっと大きな男子学生四人を相手にして、圧倒的な強さを見せつけているだなんて。  「剣……術……?」  ミュシカは、なんとかそれだけをつぶやいた。レイア様が何か言いたげにこちらを見る。 「本物の騎士剣術ですよ、あれ」  確かにそれは、女の子がただでたらめに棒を振り回しているという雰囲気ではない。ちゃんとした稽古を積んだ者の動きだ。喧嘩にはそれなりに慣れているであろう男子学生たちが、まるでお芝居の殺陣のように簡単に打ち倒されていく。 「あ、危ないっ!」  不意にレイア様が叫んだ。一番最初に殴り倒された学生が、起きあがって少女の背後から殴りかかろうとしている。  ミュシカは反射的に、杖を持った右手を突き出して叫んだ。 「大地よ、我の声を聞け!」  まるでその言葉に応えるかのように、男子学生の足元に落ちていた握り拳大の石が突然飛び上がって、真下から顎を直撃した。彼にとっては死角からいきなり殴られたようなものだったろう。  同時に、少女が振り向きざまに突き出した棒の先が、一瞬動きを止めた相手の鳩尾にめり込んでいた。 * * * 「えっと……。あなた、大丈夫?」  レイア様とミュシカは、道路を渡って少女の傍に駆け寄った。  しかし「大丈夫?」という台詞は、少々間が抜けて聞こえた。これはむしろ、周りに倒れている男子学生たちに訊くべきことだろう。  完全に気を失っている者三名。腹を押さえて口から泡を吹いている者一名。わずかな時間で、見事な戦果だった。それをやったのが、目の前でにこにこと笑みを浮かべている女の子だなんて、自分の目で見ていたのに信じられない。  その少女は、レイア様はもちろん、ミュシカよりも何歳か年下だろう。小柄で、長身のミュシカの肩くらいの身長しかなく、手足もすらりと細い。  にも関わらずひ弱な印象を受けないのは、大きな瞳が放つ光のためだろうか。生命力と意志の強さを感じさせる瞳をした、可愛らしい女の子だった。  ミュシカたちと同じシーリア女学園高等部の制服を着ているが、知らない生徒だ。それほど生徒数の多い学校ではないから、たとえ違う学年でもまったく見覚えのない生徒というのは珍しいのだが。  ひょっとして、この子がレイア様が話していた転入生だろうか。  しかし。  ミュシカはなんとなく、この顔に見覚えがあるような気がした。シーリア女学園の制服とのセットでは、まったく記憶にない。しかし、この顔だけに注目してみれば。  暫し考えて。  考えて。  はっと思い出した。  間違いない、あの少女だ。 「あ、あぁーっ! あなた、昨日のっ!」  私の唇を奪った女、という台詞を辛うじて呑み込んだ。これは間違ってもレイア様には聞かせられない。  目の前の少女は、きょとんと首を傾げた。  ミュシカを見つめて、なにやら考え込んでいる様子だ。  視線を上下に往復させて、ミュシカの顔と、何故かスカートのあたりを交互に見ている。  やがて。 「う……嘘つき! あたしを騙したのねっ? せっかく引っ越し早々に素敵な男の子を見つけたと思ったのに、女装趣味の変態だったなんて!」  なんの予告もなしに、甲高い声で叫んだ。 「だ、誰が女装趣味よ! 私はれっきとした女だってばっ! あんたが勝手に勘違いしたんじゃないっ!」  叫んでしまってから、はっとレイア様を見た。お姉さまの目の前で、往来で大声で叫ぶだなんて。しかも今の言葉遣いは、シーリア女学院の生徒にあるまじき振舞いだったかもしれない、と。  そのレイア様は、肩を震わせて、唇の端が痙攣しているかのように引きつっていた。この表情は、はしたないミュシカを怒っていらっしゃるのだろうか。 「あの、お姉さま……?」 「……ぷ……ぅくく……く……は、あはははは……」  レイア様は、いきなり吹き出した。あの麗しの白き百合姫様が、お腹を抱えて爆笑なさっているだなんて。 「あはははは……。そ、そういうことだったのね。いいっ! あなた気に入ったわ。それでミュシカが不機嫌だったんだ。あはは……」  目に涙まで浮かべて、息も絶え絶えで苦しそうに、それでも笑いが止まらない。横隔膜が引きつけを起こしているかのような格好で笑い続けている。 「なに? この、笑い袋みたいなおねーさんは?」  知らないとは恐ろしいものだ。問題の少女は、レイア様のファンが耳にしたら卒倒しそうな台詞を平然と言う。 「あ……あなた、転入生のフィーニ・ウェル・リースリングでしょう? 学長様から伺ってるわ。……くく……わ、私たちはあなたを歓迎するわ。ようこそ、シーリア女学院へ。く、ふふふ……」  歓迎するだって? 冗談じゃない。 「お姉さま、寄宿舎の部屋割りのことですけど」  ミュシカは、まだ笑い止まないレイア様に向かって声を荒げた。 「私は、絶っ対に嫌ですからね!」 二章 フィーニのお披露目 「うふふ、それでミュシカさんは今日も不機嫌なの」  くすくすと笑う声に、ミュシカの機嫌はさらに悪化した。  あのちょっとした事件の翌日の、朝の教室。  さすがに二日続けて仏頂面をしているとなると、気になるものらしい。仲のいいクラスメイトのアイリーが、どうしたのかと訊いてくる。ミュシカは一昨日と昨日あったことを、ぽつぽつと話して聞かせた。 「でも、性別については納得してもらえたのでしょう?」 「まあね。でもあいつ、その後で私に向かってなんて言ったと思う?」 「さあ?」 「『今どき精霊魔法? 年寄りくさいことやってるねー』だよっ?」 「それは言われても仕方ないかも」 「なにか言った?」 「ううん、なにも」  ミュシカの剣呑な視線に気付いて、アイリーはぶんぶんと首を左右に振った。ただし口元は笑ったままだ。ミュシカは苦虫を十匹くらいまとめて噛み潰したような顔になる。  あのフィーニ・ウェルが言ったことも、アイリーが言ったことも、確かに事実である。  今どき、魔法なんて流行らない。  王国時代の偉大な魔法の力は何百年も前に失われてしまったのだ。現存する魔法は、当時から見れば児戯にも等しいものでしかないし、それさえも素養を持つ者は極めて少ない。  第一、魔法などという不安定な力に頼らなくても、機械のおかげで生活はどんどん便利になっているのだ。年輩の人たちならともかく、普通は新しもの好きである筈の十代の女学生が魔法を学ぼうだなんて、物好きといわれても仕方がない。  とはいっても、面と向かってそう言われて、いい気のする筈もない。 「人のこと年寄りくさいなんて言って、あいつのだって時代遅れの騎士剣術じゃない!」 「騎士剣術?」  昨日のレイア様同様、やっぱりアイリーも首を傾げた。ミュシカは説明する。 「今の競技剣術よりもずっと古い、実戦用の剣術だよ。銃や大砲が戦争で使われるようになる以前の」 「ふぅん」  それは、千年以上昔から伝わる闘いの技。剣と魔法が戦いの手段だった時代の話だ。  今日では、戦争は銃と大砲で行われるのが普通だ。銃剣術なら役にも立つが、古流の騎士剣術なんて実戦では使われない。  今では剣術も格闘術も、それぞれスポーツ化され、別個の競技として行われていた。フィーニが見せたような、剣で斬りつけながら相手を蹴飛ばすような技は、競技会では力いっぱい反則だ。 「よりによってマイカラス流の騎士剣術だってさ。淑女を目指すべきシーリア女学院の生徒が、制服のスカート翻して人を蹴ったりするなんて言語道断だよ。華麗なトリニア流の剣術ならまだしも」 「マイカラス流?」 「そう。本来、王国時代の騎士剣術は剣術と魔法を融合させたものだったんだ。だけど魔法の力が弱まりだした後期王国時代に広まったマイカラス流は、それに突きや蹴りといった徒手格闘術も加えたものなの。あの伝説の竜騎士ナコ・ウェルがこの国に伝えたって言われてる」 「さすが歴史マニアのミュシカさん、詳しいのね。でも、それならむしろシーリア学園の生徒にはぴったりじゃないかしら?」  アイリーが優雅に微笑んで言う。おっとりとした雰囲気を持つこの少女は、ミュシカが知る限りどんな時でもこうしてにこにこと笑っている。 「え?」 「だってこの学園の創設者は、ナコ・ウェルじゃないですか」 「あ……」  言われてみれば、その通りだった。  ナコ・ウェル・マツミヤ。  今から五百年以上も昔の、伝説の女騎士だ。  このマイカラス王国の騎士で、幾度となく国の危機を救い、最後の竜騎士とか、戦いの女神の化身とか言い伝えられている。余談だが、名君と名高い当時の国王ハルトインカルの愛人だったという説もあった。  超人的な魔力と優れた剣術、格闘術を身につけた最強の騎士であったが、また優れた施政者でもあり、当時単なる田舎でしかなかったこの地方は、ナコ・ウェルの領地となってから大いに栄えたという。  そして、彼女の命によって設立されたのが、このシーリア女学園なのである。 「それに、転入生のフルネームはフィーニ・ウェル・リースリングですってね?」 「うん、そう言ってた」 「リースリング家といえば、マツミヤ家の親戚の名家じゃない?」 「本家筋ではない、と言ってたけどね」  リースリング家は元々、ソーウシベツ領主の葡萄畑を管理してワイン作りをしていた一族だった。後にこの地方のワインが世界的に高い評価を受けるようになったことで、名を上げ財を成したのだ。現在では外国にも広い畑を所有する、世界有数のワインメーカーの一つである。 「竜騎士ナコ・ウェルの騎士剣術を受け継ぐ、リースリング家のお嬢様か……素敵よねぇ?」 「なにが素敵なもんか!」  ミュシカは吐き捨てるように言う。 「ミュシカさん、言葉遣いが悪いわよ。それに、下級生の悪口を言うものではないわ」 「だってあいつは……」 「侮辱されたって? ならば優しい言葉で諫めて、正しい道へと導くのが上級生の務めでしょう? シーリア女学園に相応しいレディとしては」 「う……」  口では勝てない。一見おっとりのんびりとしたアイリーだが、学園内では弁論部の副部長を務めているほどで、素晴らしく弁が立つのだ。 「聞いた話では、すごく可愛らしい子だそうね。私も会ってみたいわ。休み時間に、一年生の教室へ行ってみようかしら」 「わざわざそんなことしなくても、すぐに会えるよ」 「え?」 「今日の放課後、レイア様がフィーニ歓迎のお茶会を開くってさ」 「まあ、素敵!」  アイリーが、ぱんっと手を合わせた。  お茶会は、寄宿舎の生活の中で一番の楽しみである。なにかと口実を設けては、みんなでお茶やお菓子を持ち寄って、楽しいひとときを過ごしている。だからもちろん、転入生の歓迎会なんて絶好のチャンスを見逃す筈がない。  本音を言えば、ミュシカは今日のお茶会をすっぽかすつもりでいた。どうしてあんな失礼な子の歓迎会に出なきゃならないんだ、と。しかしミュシカの考えなどすべてお見通しのレイア様の厳命によって、出席を余儀なくされている。 「フィーニちゃんは、レイア様と同室なんですってね。羨ましいわぁ」 「他に空き部屋がなかったからね」 「でも、ミュシカさんの部屋も空いているのではなくて? それが本来の形でしょう?」  シーリア学園の寄宿舎は、普通、一年生と二年生が同室になることが多い。二人部屋でも三人、四人部屋でも、一年生だけで一室というのはあり得ないし、一年生と三年生という組み合わせも異例である。  勝手のわからない一年生だけでは色々と不便だろう、というのがその理由の一つ。  そして、一年生と身近に接して指導していくことで、二年生に上級生としての自覚を持たせようというのがもう一つ。  だから二年生のミュシカの部屋に空きがあるのに、フィーニがレイア様の部屋に入るというのは例外的なことだった。ミュシカがフィーニを毛嫌いしているために、仕方なくこうなったのだ。 「ねえ、ミュシカさん」  アイリーが珍しく遠慮がちに口を開く。 「やっぱり、あなたが同室になるべきではないかしら。そりゃあ確かに、ミュシカさんの気持ちも分からなくはないけれど……」 「わかってるなら放っておいてよ!」  つい、周囲のクラスメイトが驚くほどの大きな声を上げてしまった。だけどそのおかげで、アイリーはこの話題をそこで打ち切ってくれた * * * 「ごきげんよう。今日はお招きありがとうございます」  アイリーが優雅にお辞儀をして部屋に入る。ミュシカも軽く会釈してその後に続いた。  学校帰りにケーキを買いに行っていた二人が寄宿舎に戻ると、歓迎会の場は既にずいぶんと盛り上がっていた。今日の主役であるフィーニ・ウェルを中心に女の子の輪ができていて、楽しそうな笑い声が室内を満たしている。 「きゃあん、可愛い子じゃない!」  初めてフィーニを見たアイリーが歓声を上げた。今にも抱きつかんばかりの勢いだ。 「でしょう? こんな可愛い子が入ってきてくれて、私たちも嬉しいわ」  女の子は基本的に、可愛いものが大好きだ。「可愛い下級生」に目がない二、三年生はずいぶんと楽しそうだった。 「あたしも嬉しいです。転校前はちょっと不安でしたけど、来てみたら素敵なお姉様たちばかりで」  フィーニの方も、出し惜しみなしに愛嬌を振りまいている。  やたらとご機嫌だ。昨日の、ミュシカに対する態度とは大違いではないか。もしかしたら、ずいぶんと外面がいい性格なのかもしれない。 「ねえねえ、フィーニちゃんはここに来る前はどこに住んでいたの?」 「ウラースです。見渡す限り、畑しかないところなんですよぉ。あたし、ソーウシベツみたいな都会で暮らしてみたかったんです」 「この街には親戚があるのではなくて?」 「ええ、そうですけどぉ、分家の末娘が本家に居候するなんて、気兼ねするじゃないですか。それに、伝統あるシーリア女学園の寄宿舎で、素敵なお姉様たちと過ごしたかったんですもの」  また楽しそうな笑い声が上がる。  人懐っこい、物怖じしない子だ。確かに可愛らしい。  小柄で華奢に見えるけれど、元気な笑顔のためにひ弱な印象を受けない。目はぱっちりと大きくて、髪はふわふわの仔猫みたいだ。  性格は明るいし、元気いいし、さりげなく上級生を持ち上げることも忘れない。  みんなフィーニが気に入ったようだ。唯一、ミュシカを除いては。  自分の趣味を侮辱された恨みは深いのである。ミュシカは話の輪には加わらずに、部屋の隅でむっとした顔でお茶を飲んでいた。  見ていていらいらする。  レイア様をはじめとするお姉様たちが、この新入りをちやほやしているのも気に入らなかった。 三章 フィーニとミュシカ、二人の夜  寄宿舎で、ミュシカは二人部屋を一人で使っている。  以前は一年生が同室だったのだが、その子が数ヶ月前に転校していったため、それからはずっと一人暮らしだった。  別に、一人が寂しいとは思わない。誰も自分に干渉してこない場所があるというのはいいものだ。  ところが。  その日、ミュシカが遅めの夕食を終えて自室に戻ると、そこに先客がいた。  小柄な女の子。転入して一週間と経たないうちに、すっかり学園と寄宿舎の人気者の座を不動のものとしているフィーニ・ウェル・リースリングである。  ミュシカは露骨に顔をしかめた。彼女は、ミュシカにとっては天敵である。  可愛らしい容姿で、明るくて。一応は良家のお嬢様育ちのためか、奔放に見える割にはちゃんと上級生に対する礼儀も心得ている。  ただし、ミュシカを相手にする時を除いて。  ミュシカに対してだけは公園で会った時と同様に、乱暴な、上級生を上級生とも思わないような口のきき方をする。もちろん、周囲に誰もいない場合限定で。  他に誰も気付いてはいないようだが、とんでもなく裏表のある性格である。 「……あんた、ここで何やってるの?」  ミュシカはきつい口調で訊いた。  寄宿舎の部屋の扉には鍵など付いてはいないが、よほど親しい間柄でもない限り、約束もなしに勝手に他人の部屋に入るなんて礼儀知らずも甚だしい。 「見てわかんないの?」  フィーニは一瞬だけミュシカに顔を向けて、相変わらず乱暴な、人を小馬鹿にしたような口調で応えた。 「見て、って……」  これまで使われていなかったベッドの上で、大きなバッグから取り出した衣類を畳んでいる。この作業の意味するところは……。 「あたし、ここで暮らすことになったから。よろしくね、ミュシカ」 「……はぁ?」  一年生に呼び捨てにされたことよりも、その前の部分の方が問題だった。フィーニの言葉の意味が飲み込めるのと同時に、ミュシカはレイア様の部屋へ向かって駆け出していた。 * * * 「お姉さま、どういうことなんですっ?」  淑女としての礼儀作法なんて、すっかり頭から消し飛んでいた。部屋の扉をノックもせずに乱暴に開けてミュシカは叫ぶ。  椅子に座って読書をなさっていたレイア様は、優雅な動作で顔を上げると、優しい笑顔でミュシカをたしなめた。 「ミュシカ、お行儀が悪いわよ」 「今はそれどころじゃありません! どうして、あいつが私の部屋にいるんですか? 私は嫌だって言いましたよね? お姉様だって納得してくれたではないですか」  息継ぎもせずに一気にまくしたてる。 「だけど、仕方がないでしょう? 私は明日から留守にするんですもの」 「あ……」  そう言われて思い出した。レイア様は、遠くの街に住んでいる従姉の結婚式に出席するため、学校を休んで数日間留守にすると言っていた。 「でも、別に構わないじゃないですか。ほんの何日かのことなんですから……」 「まあ」  レイア様は心外だと言わんばかりに、大げさに驚いてみせた。もちろん、いつもの演技なのだろうが。 「転入してきたばかりで右も左もわからないフィーニちゃんを一人にするなんて、なんてひどいこと。あの子もきっと不安になるわ。頼りになる上級生が傍にいてあげるべきではなくて?」 「転入してきたばかりだけど、すっかり慣れ親しんでいるみたいじゃないですか。もう何年もここに住んでいるみたいに。かなり図太そうですからね、心配いらないでしょう」 「ミュシカ」  たしなめるような口調で名を呼ばれる。。 「あなたはシーリア女学園の二年生なのよ。上級生の自覚を持って、それに相応しい行動をしてちょうだい」 「でも……」 「せめて、私が留守にしている間だけ。お姉様からのお願い、ね?」  レイア様は顔の前で手を合わせた。  お姉様としての命令口調の次は、情に訴える懇願。これでは逆らえない。  ミュシカは大きな溜め息をついた。 「……わかりました。お姉様が帰ってくるまで、ということであれば」  渋々承諾して、ミュシカはレイア様の部屋を後にする。 (くっそう……なんでこんなことに)  ぶつぶつ文句を言いながら自室へ戻ると、フィーニが我が物顔でお茶を飲んでいた。ティーセットはミュシカのものであるが、まるで遠慮している様子はない。相変わらずの人を小馬鹿にしたような笑みをこちらに向けた。 「レイアお姉様のところへ行ってきたんだ? 事情はわかった?」 「……まあね」  それだけ応えると、決して歓迎してはいないことの意思表示に、できるだけきつい目で睨んでやる。それでもフィーニは表情を変えない。これが少しでも萎縮するような性格ならば、まだ可愛げもあるのだが。 「とゆーことで、ひとつよろしく。ね、先輩」  この一言で、かぁっと頭に血が昇った。  シーリア女学園において、上級生に向かって「先輩」とは何事だ。それは本来、男言葉である。女の上級生に対しては「お姉さま」と呼びかけるものではないか。ズボンを穿くと一見男の子みたいに見えるミュシカを皮肉っているのは明白だった。  ミュシカは確信した。  こいつとは絶対に上手くいかない。  レイア様が帰ってきたら、さっさと引き取ってもらわなければ。  よりいっそう不機嫌になったミュシカは、フィーニを無視して自分のベッドにもぐり込んだ。消灯までにはまだしばらく時間があったが、不愉快な顔をいつまでも見ていたくはなかった。 * * *  早くに床についたためだろうか、夜中にふと目を覚ました。  何か、声がしたような気がする。ここ数ヶ月の独り暮らしのためか、眠っている時の他人の声に敏感になっているようだ……と、半分寝ぼけた、ぼんやりとした頭で考えた。  室内は真っ暗で、しんとしている。  聞こえるものは自分の呼吸と、そして……。 「んっ……くっ、うっ……ひっく……」 「――っ!」  泣き声、だった。  誰かがすぐ傍で、声を殺してすすり泣いている。  誰が?  この部屋には、フィーニとミュシカしかいない。  では、フィーニが?  間違いなかった。声を押し殺しているようだが、それでも間違いなくフィーニの声だった。  いったいどうしたことだろう。  あの、天真爛漫で、底抜けに明るくて図太いフィーニが、どうして夜中にこっそり泣いたりしているのだろう。  まるで予想もしなかったことだけに、そのか細い泣き声が胸に突き刺さってくる。 (まさか、あの子が……ね)  冷静になって考えてみれば、よくあることだった。そう、寄宿舎に入ったばかりの新入生にはよくあることなのだ。  ホームシック、である。  起きている間は友達や上級生と楽しく過ごしていても、ベッドの中で一人になると急に心細くなるのか、家が恋しくなって泣き出す子が。  だからこそ、寄宿舎では一年生と二年生を同室にするのだ。泣いている一年生を優しく慰めて、力づけてあげるために。一年前は自分が同じ立場だった二年生が、その心細さを一番理解できるから。 (しかしまさか……あのフィーニが……ねぇ)  まったく思いも寄らなかった。  寄宿舎にもすぐに慣れ親しんだ様子で、上級生にもクラスメイトにも可愛がられていて、ミュシカには喧嘩を売るようなタメ口で。  とてもホームシックになるような繊細な神経の持ち主とは思えなかった。人は見かけに寄らないとはこのことだ。  なんだか、可笑しくなった。あのフィーニでも家を離れるのは寂しいとは、可愛いところもあるものだ、と。 (いや……まてよ?)  そこで、ふと、おかしなことに気が付いた。  歓迎会の時、フィーニはなんて言っていた?  『伝統あるシーリア女学園の寄宿舎で、素敵なお姉さまたちと過ごしたかったんですもの』  確かに、そう言った筈だ。  しかし、なにか矛盾してはいないだろうか。だったら何故、学年途中での転入なのだろう。昔からシーリア女学園に入学したいと思っていたのなら、普通に受験するはずではないか。転入試験の方が、入学試験よりもずっと難しいのだ。  この街に本家があると言っていたから、フィーニ・ウェル・リースリングは間違いなく、名門リースリング家の一族だ。家柄や経済的に問題があるわけでもない。後から聞いた話では、転入試験はかなりいい成績だったらしい。つまり、学力的にも問題なしだ。  だったら、何故。  もしかしたら、何か急に親元を離れなければならない事情があったのだろうか。急なことで心の準備ができていなくて、こうして泣いているのだろうか。 (お姉様は……知っていた?)  フィーニが、夜中に声を殺して泣いていることを。  知っているに違いない。だから自分の留守中、フィーニを一人にしないように、ミュシカが嫌がるのも構わずに無理やり押しつけたのだろう。  それにしても、この状況はどうしたらいいのだろう。  レイア様ならきっと、優しく慰めるところだろう。  ミュシカにも覚えがある。  シーリア女学園の中等部に入学して、寄宿舎に入ったばかりの頃、レイア様が同室だった。  生まれて初めて親元を離れての寄宿舎生活で不安な日々も、レイア様がいてくれれば平気だった。心細い夜はいつも、添い寝して慰めてくれた。  優しく頭を撫でてくれる手が、どれほど温かかったことか。  耳元でそっと「なにも不安に思うことはないのよ。私が傍にいますからね」とささやいてくれる声が、どれほど心強かったことか。 (私も、あんな風にしてあげるべきなのかなぁ)  フィーニに対して。  それは少しばかり抵抗がある。  それに、フィーニもそんなことは望んでいないかもしれない。もしかしたら、知られたくないと思っているかもしれない。レイア様ならともかく、ミュシカに弱みを見せるようなことは屈辱に思うのではないだろうか。  困った。  どうしたらいいのだろう。  泣いている下級生を放っておくというのは、いくらなんでも気が咎める。レイア様の信頼を裏切ることにもなるかもしれない。  かといって、フィーニに対してどう接すればいいのかもわからない。 (とにかく……今夜は様子を見るか)  無理やり、自分にそう言い聞かせた。  もしかしたら、今夜だけのことかもしれない。これが続くようであれば、何か対策を考えよう、と。  目を閉じて、眠ろうとした。  だけどフィーニの啜り泣く声が耳について、その夜はなかなか寝付けなかった。 * * *  朝。  ミュシカがぼんやりと目を開けると、金色の光がカーテンの隙間から射し込んでいた。  まだ、かなり朝早いのだろう。外では小鳥が盛んに鳴いている。  意識がはっきりしてくると、昨夜の記憶が甦ってきた。寝返りをうって、隣のベッドに目をやる。次の瞬間、がばっと起きあがった。  ベッドは、空だった。 「まさか……」  壁に掛けられた時計を見る。起床にはまだ少し早い時刻だ。  なのに、フィーニの姿がない。  普通、誰だって決められた起床時刻ぎりぎりまで寝ていたいと思うものである。それより早く自主的に起きるなんて、何か特別な事情がある場合だけだ。  ミュシカはベッドから降りてスリッパを履くと、寝間着の上に薄いカーディガンを羽織った。  フィーニのベッドには、人の温もりは残っていなかった。  部屋を出て、最初に足を向けたのは洗面所。次にお手洗い。  早朝の寄宿舎は、まだしんと静まり返っている。どこにも人の姿はなかった。 「あの子ってば、どこ行っちゃったのよ!」  まさか、取り返しのつかないことになってなきゃいいけれど。  他に誰もいないのをいいことに、ぱたぱたとスリッパの音を鳴らして廊下を走る。ふと窓から外を見ると、朝陽に照らされている中庭に、人影が見えたような気がした。  急いで中庭に出る。はたして、そこにフィーニの姿があった。  大きく安堵の息をつく。安心すると、その反動で怒りが込み上げてきた。人を心配させて、こんな朝早くから何をやっていたのだろう。 「……って、いったい何を?」  植込みの陰からそっと様子を伺うと、フィーニは剣を振り回していた。  剣術の稽古なのだろう。右手に短めの剣を握って、低い姿勢で構えて。そこから目にもとまらぬ素速さで前に飛び出し、地面を滑るような低い蹴りで相手の脚を払うような動作をする。同時に、剣を下から上へ振り上げ、一瞬の間も置かずにまた振り下ろす。  それが一連の動きだった。フィーニの頭の中にだけ存在する見えない敵を相手に、何度も何度も同じ動作を繰り返している。 (……なかなか、大したものじゃない)  ミュシカは無言のまま、感心して見入っていた。  あの、公園での大立ち回りを見た時から、単なる女の子の遊びのレベルではないと思ってはいたが、こうしてちゃんとした稽古を目にすると、本当に見事なものだと実感する。  足の運びも剣の軌跡も、毎回寸分の違いもない正確さだ。その動きは目で追えないほどに速く、剣の振りは鋭い。甲高い風切り音が鼓膜を震わせる。  もしもフィーニの前に立っているのがミュシカだったら、たとえ武器を持っていても何もできずに斬られてしまうだろう。 (マイカラス流の騎士剣術……か)  長い剣を用いるもっと古い時代の剣術と異なり、小回りの利く短めの剣で、蹴りや突きといった徒手格闘術を組み合わせて闘うのがその特徴だ。五百年以上も前にこの国に伝えられ、魔法の衰退とともに世界中に広まっていった技だった。  銃が戦争の中心となった現代でも、その格闘術は軍や警察で採用されているし、剣を警棒に持ち替えた捕縛術として残ってもいる。  この技をマイカラスに伝えたのが、ナコ・ウェルだったといわれている。当時はマイカラスに限らず、どこの国でも女性騎士はそれほど珍しい存在ではなかった。  今でもマツミヤ家や親戚のリースリング家には軍人や警官が多いというから、もしかしたらフィーニの父親もそうなのかもしれない。そして、幼い頃から騎士剣術を仕込まれたのだろう。  今どき、女の子で剣術を学ぶ者などそう多くはないが、伝説の騎士ナコ・ウェルに連なる家系であればそんな常識は当てはまるまい。  そもそもこの国は、他国に比べれば女性で剣術、格闘術を学ぶ者の比率が比較的高いと聞く。あくまでも他国と比べれば、の話であるが、シーリア女学園にだって一応剣術部はある。もちろんそれは、現代的な競技剣術であるけれど。  伝統あるシーリア女学園の剣術部は、大会でも常に良い成績を収めているが、その部長でもフィーニには勝てないのではないか、とミュシカは思った。クラスメイトに剣術部員がいるので大会の応援に行ったことがあるが、今見ているフィーニの動きとでは、まるで速さが違う。  フィーニは黙々と稽古を続けている。普段の彼女からは考えられないような真剣な表情だった。うっすらと汗ばんだ顔が、朝陽を反射してきらきらと光っている。  昨夜のことといい、今朝のことといい、この少女の意外な一面を見たような気がした。単なる根っからの脳天気というわけではないのかもしれない。  もうじき正規の起床時刻になるという頃になって、フィーニはようやく稽古を終えた。大きく深呼吸をした後で、ミュシカが隠れている植え込みの方に顔を向けてにこっと笑った。まるで、そこにミュシカがいることを最初から知っていたみたいに。 「おはよう、ミュシカ」  ぱぁっと光が弾けるような印象を受ける、素敵な笑顔だった。つい見とれて、下級生に呼び捨てにされたことも気にならなかった。  元気に剣の稽古をしているフィーニを見つけた時は、昨夜泣いていたことをからかってやろうかとも思っていたのだが、そんな気分ではなくなった。  だから。 「……おはよう」  微かに引きつった笑みを浮かべて、朝の挨拶を返した。 * * *  その日一日、ミュシカが見ていた限りではフィーニの様子は普段通りだった。  ベッドの中で泣いていたことなど、おくびにも感じさせない。ミュシカが買ってきたお茶の銘柄に文句を言いつつ勝手に飲んでいるところなどを見ると、昨夜のことはもちろん、今朝の天使のような笑顔さえ見間違いではないかという気がしてくる。  それでも、とりあえず安心した。  泣いていたのは、きっとたいした理由ではないのだろう。親元を離れたばかりの子供にはつきものの、ちょっとしたホームシックに違いない。外見や性格を考えるに、フィーニはきっと家族に甘やかされてきたに違いないから、なおさらなのだろう。 (特に、心配しなくてもいいよね)  そう思って、消灯後は普通にベッドに入った。  ところが。 「ちょっ……何やってんの、あんたはっ?」  消灯から数分、ミュシカは慌てて枕元の灯りを点けた。何者かが……といってもそれはフィーニしかあり得ないが、ミュシカのベッドにもぞもぞともぐり込んできたのだ。  悪戯好きの仔猫のような表情で、ミュシカの毛布を半分奪い取ろうとしている。 「……これは、どーゆー悪戯?」  ミュシカは内心の混乱を隠しつつ、怒ったような口調で訊いた。 「可愛い妹が寂しくて泣いていたら、優しく慰めてくれるのがお姉さまの役目でしょ。ほったらかしなんてひどいんじゃない? ミュシカってば、なんのためにここにいるのよ?」  可愛い、の部分に妙に力を込めてフィーニが言う。 「なんのために、って。ここはもともと私の部屋なんだけど。……って、あんた気付いてたの?」  ミュシカが、泣いているフィーニに気付いていたことを、彼女は知っていたのだ。 「ミュシカってば、狸寝入りが下手」  まともに指摘されて、ミュシカは赤面した。続く言葉が出てこない。  それにしても、普通は立場が逆ではないだろうか。こんな時、泣いていた方がそれを指摘されて赤面することはあっても、その逆はないだろう。  やはり、どこまでも図々しい性格のようだ。何が「可愛い妹が寂しくて泣いていたら」だ、冗談じゃない。寂しくて泣くどころか、ミュシカを小馬鹿にしたような表情でにやにやと笑っているではないか。もしかしたら、からかわれているのかもしれない。 「レイアお姉さまは、優しく添い寝してくれたよ?」 「そりゃあ、お姉さまは優しい方だから……って、添い寝っ?」  何か、聞き捨てならない単語を耳にしたような。 「別に、驚くことじゃないでしょ。ミュシカだっていつも添い寝してもらっていたそうじゃない」 「――っ!」  また、顔が真っ赤になった。確かに事実ではあるが、それはミュシカが中等部の一年生だった頃の話。そんな「子供の頃」のここで話を持ち出されるとは、まったく予想もしていなかった。レイア様のお喋りにも困ったものだ。 「ミュシカってば、見かけによらず泣き虫なんだ。それとも、レイアお姉様と一緒に寝たくて泣いているふりをしたのかな?」 「み、見かけによらずは余計よ! それに、あんたじゃあるまいし、そんなことするわけないでしょ!」 「……よくわかってるね」  フィーニがほんの少し、驚きの表情を浮かべた。からかうような笑みに、感心したような気配が混じる。 「そうだよ。ミュシカに添い寝して欲しかったから、泣いている振りをしたんだよ。なのに、全然構ってくれないんだもの……」 「え?」  あまりにも意外な台詞だった。一瞬、心臓が大きく脈打つ。  俯いて長い睫毛を伏せたフィーニは、泣きそうなのを堪えているように見えた。 「ちょっ……え? ちょっと、フィーニ……冗談、でしょう?」  声が、ほんの少しうわずっていた。 「当たり前でしょ。なに本気にしてンのよ、馬鹿」 「――っっっ!」  一瞬で、フィーニの表情は豹変した。ミュシカの慌てぶりを見て、お腹を抱えて笑い出す。ミュシカは今度こそ、怒りで息が詰まった。 「――っ、あっ……あんたねぇっ!」 「ミュシカってば単純ー。好きって言われると、すぐにのぼせるタイプだよね。将来、結婚詐欺には気をつけた方がいいよ」 「……、……」  もう、何も言えなかった。酸欠の金魚のように、ぱくぱくと口を動かすだけだ。 「じゃ、お休み」  ミュシカをさんざんからかったフィーニは、満足して自分のベッドに戻るのかと思いきや、そのまま横になって毛布にくるまった。 「ちょっとフィーニ、自分のベッドに戻りなさいよ」 「やだ」 「やだ、って……」 「お願い。……一緒に、寝て?」  こちらを見上げて、大きな瞳を潤ませている。怯えた仔犬のようなその表情を見ると、またからかわれているんだとわかってはいても、どうにも強く出られなくなってしまう。 「……勝手にすれば。でも、枕は自分のを持ってきなさいよ」  毛布はともかく、枕は二人で一つのを使うというわけにはいかない。そんなことをしたら、抱き合って眠るくらいに密着しなければならないことになる。 「もう持ってきてる」 「え?」  見ると、フィーニの頭の下にはちゃんと枕が置かれているではないか。いつの間に持ってきたのだろう。  ミュシカは小さく溜息をついた。昨日からずっと、いいように振り回されっぱなしだ。フィーニがなにを考えているのか、まるでわからない。 「……もう、どうでもいいや。私は寝るよ」  灯りを消して、ミュシカも横になる。と、いきなりフィーニがしがみついてきた。 「ちょ……、何するのよ!」 「へへへ……抱き枕」 「あのねぇ!」  文句を言いかけて、はっと気付いた。 「……あんた、お姉様にもこれを?」 「えへへー。な、い、しょ」 「内緒って、そんな……」  ああ、考えたくもない。フィーニに抱きつかれて、密着したまま眠るレイア様。冗談じゃない。  一種のやきもちである。誰にでも優しいお姉様だけど、一番よくしてもらっているのは自分だ、という自惚れがある。そのミュシカを差し置いてベッドの中で抱擁だなんて、図々しいにもほどがある。 「ミュシカってばやきもち妬き?」 「べ、別にそんな……」 「間接抱っこ、って考えればいいでしょ」 「いいわけないって」 「レイアお姉様も言ってたよ。昔はよくミュシカとこうして寝ていたのに、最近はそんな機会もないから寂しいって」  そういえば、お姉様と抱擁なんてしばらくしてないな、なんて考えてしまった。レイア様に優しく抱きしめられる感触に未練がないとはいえないけれど、いつまでも子供ではいられないのだから仕方がない。 「ミュシカって、本当にレイアお姉様のことが好きなんだね」 「好きだよ。お姉様のことは、誰だって好きに決まってる。優しいし、頭もいいし、本当に素敵な人」 「じゃあ、あたしのことは?」 「え?」 「あたしのことは好き?」 「……嫌いだね」  一瞬躊躇ってから、はっきりと言った。ちゃんと言っておいた方がいい。そうしないと、いくらでもつけあがりそうだった。  ところが、いくらかでも傷ついた素振りを見せるかと思ったフィーニは、逆にくすくすと笑っている。 「ミュシカってば、優しいんだよね。だから好きでもない相手だって、好意を示されると邪険にすることができないんだ」 「……なによ」 「ミュシカってば優しくて……そして、残酷だ」  一瞬、胸がぎゅっと締め付けられるように感じだ。  フィーニにとってはおそらく無意識の台詞なのだろう。しかしミュシカは、以前別な相手からも同じことを言われたことがあった。 「……」  しがみつかれて、フィーニの体温を感じる。呼吸を、鼓動を感じる。  レイア様以外の誰かがこんなに近くにいるなんて、本当に久しぶりのことだった。 四章 一番街の骨董品屋  フィーニとひとつ部屋で一緒に暮らしはじめて。  夜は、一緒のベッドで眠って。  だからといって、何が変わったというわけではない。  フィーニは相変わらず、ミュシカと二人きりの時は上級生に対する敬意など微塵も感じられない態度で、だけど他の人たちがいるところではやたらと愛想がよくて、すっかり人気者になっていた。今のところ、本性を知っているのはミュシカだけらしい。  初めの頃はいいように振り回されて戸惑いもしたが、一緒に暮らすようになって十日もすると、さすがに慣れてきた。だからといって、まったく腹が立たないというわけでもなかったが。  しかし、十日という日数は問題だった。  そう。レイア様が帰ってきた後も、フィーニはミュシカの部屋に居座っているのだ。フィーニの方からは何も言わないし、レイア様は帰ってきた直後、ミュシカを避けているような雰囲気があって、フィーニの処遇について相談できなかった。  そのまま数日が過ぎて、ようやく理解した。どうやらレイア様に謀られたらしい。こうやってなし崩し的に、ミュシカとフィーニが同室であることを既成事実にしてしまうつもりなのだ。  やられた、と思った時にはもう手遅れだった。なんだかんだ言って、最初からフィーニを押しつけるつもりだったに違いない。他人を必要以上に近づけないようにしているミュシカを、一番快く思っていないのはレイア様なのだから。  レイア様のたくらみを知っているのかいないのか、フィーニは相変わらず自分のペースで勝手気ままな毎日を送っていた。  一緒に寝ていても、朝になると毛布を独り占めしていたり。  自分が剣術の稽古をするからといって、起床時刻前にミュシカも道連れに起こしたり。  部屋に置いてあるお茶やお茶菓子――もちろんミュシカが買ってきたもの――が美味しくないと文句をつけたり。  今日だってそうだ。  せっかくの休日、のんびりと本でも読んで過ごそうかと思っていたのに、無理やりフィーニに連れ出されて、街の案内をさせられている。フィーニはまだまだソーウシベツの街が珍しいらしく、休日は必ずのように街を散策しているのだ。  今日の探索エリアは、街の中心部の商店街……の裏通りらしい。様々なジャンルの小さなお店が隙間なく並んだ、一見ごちゃごちゃとした通りで、のんびりと見て歩くだけでも結構な時間つぶしになる。怪しげな店も多い代わりに、だからこその掘り出し物などが見つかることもあって、なかなか油断ができない。 「あ、あれ!」  突然、フィーニが大声を上げたかと思うと、呆れるほどの素速さで一軒の店のショーウィンドウにぴたっと張付いた。その後ろ姿を見たミュシカはなんとなく、寄宿舎に棲みついている一匹のヤモリを思い出した。  何のお店だろう。これまで気に留めて見たことのない、小さく地味な店舗だった。看板らしきものも見あたらない。  フィーニの肩越しに店内を覗いてみたが、薄暗くてあまりよく見えなかった。なにやら、古ぼけた家具や彫刻、壺やガラス細工といった代物が、ごちゃごちゃ所狭しと置かれているようだ。どうやら、骨董品屋だろうか。 「で、なにを見てるわけ? あんたは」  食い入るようなフィーニの視線を追う。袱紗の上に、古い銀の腕輪が置かれていた。  かなり古いものらしく、くすんだ色合いをしている。表面には手の込んだ美しい彫刻が施されているが、美しい宝石が嵌っているわけでもなく、若い娘が目を輝かせるような代物には見えなかった。  なのに、フィーニのこの態度。  それで、ぴんと来た。 「ひょっとして、竜騎士の腕輪?」  訊いてみると、フィーニの頭がこくこくと上下に揺れた。その間も視線は釘付けのままだ。 「この重厚な雰囲気……、きっと本物だよ。見て、トリニア王国の紋章が彫られてる。王国時代の、青龍の騎士の証……すごいなぁ」  うっとりと溜息をつくフィーニは、頬を上気させて、片時も腕輪から目を離さない。ほとんど恍惚といってもいいような表情だった。 「まあ、気持ちはわからなくもないけど……でも、そこまで?」  竜騎士ナコ・ウェルの末裔リースリング家の娘で、自身も騎士剣術を学んでいるフィーニである。王国時代の竜騎士に対する憧れは、並大抵のものではないだろうと想像できた。  現在では一般に、王国時代と呼ばれている過去の一時代。  今から千五百年以上も前の、トリニアやストレインといった強大な王国が大陸を支配していた時代。  剣と魔法が、世界を支配していた時代。  当時、巨大な竜を駆って大空を舞う竜騎士たちは、人々の憧れと羨望の的だった。最高の魔力と、最高の剣技を身につけた、大陸中から選ばれた精鋭。たった一騎で一万の軍勢にも匹敵すると謳われた英雄たちだ。  多くの国では、竜騎士はその証として国王から腕輪を賜ったという。最強の竜騎士を擁していたトリニア王国の場合、それはトリニアの紋章と、翼を広げた竜の姿が透かし彫りにされた銀の腕輪だった。  しかし、竜はもう何百年も前に絶滅し、竜騎士の偉大な魔法も失われた。一瞬で砦を壊滅させることもできたという竜も竜騎士も、今では伝説の中だけの存在だった。 「いいなぁ、これ。欲しいなぁ……」  まるで恋する乙女のような表情で、フィーニは何度も溜息をつく。まるっきり、魂を奪われたかのようだ。  その時。 「あら、お客様?」  背後からの声に、ミュシカは慌てて振り返った。  すぐ後ろに、一人の女性が立っていた。買い物の帰りだろうか、腕に抱えている大きな紙袋からは、細長いパンと野菜が覗いている。  二十代前半くらいの、美しい女性だった。この辺りでは珍しい、亜麻色の髪と褐色の肌をしている。その肌はビロードのように滑らかで、息を呑むほどに美しかった。  その女性は静かに微笑んで、二人を見つめている。優しげで、だけどなんとなく妖艶で、神秘的といってもいい表情だった。 「あ、あの……えと、ごきげんよう」  不意をつかれて狼狽えながらも、とりあえず頭を下げる。由緒正しいシーリア女学園の生徒としては、初対面の相手に礼儀正しい挨拶を欠かすわけにはいかない。 「もしよかったら入っていきませんか? 見るだけでも構いませんよ。ちょうど、これからお茶にしようと思っていたんです。お入りなさいな」  店の扉に手をかけて、優しい声で二人を促す。 「あ、あの……えっと……はい」  二人は赤い顔を見合わせ、声を震わせながらなんとかうなずいた。入り口をくぐりながら、小さな声で言葉を交わす。 「ミュシカってば、なに赤くなってンのよ?」 「そーゆーあんたこそ」  なにしろこの女性、思わず見とれてしまうほどに美しかったのだ。 * * *  その女性は、セルタ・ルフ・エヴァンと名乗った。  この、名前のない骨董品屋の店長だという。もっとも、実際のオーナーは別な人物で、掘り出し物を求めて大陸中を飛び回っているオーナーに代わって、彼女が店を管理しているのだそうだ。  女学生なんて、骨董品屋にとっては決していいお客にはならないだろうに、セルタさんは愛想よく店に招き入れて、お茶とクッキーでもてなしてくれた。ひょっとしたら退屈だったのかもしれない。見たところ、それほどお客さんの多そうな店とは思えなかった。  いい香りの湯気を立ち上らせているカップを口に運びながら、ミュシカは店の中を観察した。  外からは小さな店に見えたが、中に入ると意外と奥行きがある。一見がらくたにしか見えないような様々な品が所狭しと置かれている中に、三人が座っている小さな丸テーブルと、椅子が三脚。これもずいぶんと年代物のようで、ミュシカの目には売り物と区別がつかなかった。もしかしたら、売れ残った品を自分で使っているのかもしれない。  壁にも壁掛けや鏡、絵画などが飾られていたが、その中に一つ、見覚えのある抽象画を納めた真新しい額を見つけて、おやっと思った。ミュシカが好きな画家で彫刻家、ジェイクト・フィル・ジーンディルの絵だ。彼は現役の画家でまだ若く、画廊ならともかく骨董品屋に並ぶ世代ではない。あるいは、セルタさんか店のオーナーの趣味なのだろうか。 「それで、ずいぶんと熱心に何を見ていたのかしら?」  セルタさんが訊く。 「あの、これ……」 「あら、お目が高い」  フィーニがおずおずとウィンドウに飾られた腕輪を指差すと、セルタさんはいかにも楽しそうに笑った。 「まだ若いのに、ずいぶんな目利きですね」 「ということは……」 「本物の、竜騎士の腕輪なんでしょう?」 「ええ、本物ですよ。しかもそれ、誰のものかわかります?」  セルタさんがもったいつける。二人は揃って首を左右に振った。 「ナコ・ウェル・マツミヤのもの、って言ったら驚きますか?」 「えぇぇぇっっっ?」  驚いた。  フィーニもミュシカも力いっぱい驚いて、揃って大きな声を上げた。  ナコ・ウェル・マツミヤ。  この国の英雄であり、この地方がマイカラス領になった時の最初の領主であり、二人が通うシーリア女学園の創設者であり、伝説の最後の竜騎士である。  数いる竜騎士の中でも、大物の一人だ。これ以上の大物となると、エモン・レーナやクレイン・ファ・トーム、ユウナ・ヴィ・ラーナなど、片手で数えるほどしか存在しない。 「でも、だって……」 「うそ……でしょう? そんな大変な品がどうして……」  こんなちっぽけな店に、という台詞をミュシカは辛うじて呑み込んだ。事実とはいえ、それを口にするのはあまりにも失礼だ。 「でも、これ、トリニアの騎士の腕輪ですよね? どうして?」  ナコ・ウェルは、五百八十年ほど前の時代のマイカラス王国の騎士だ。トリニア王国はそれより千年も前に滅びていて、時代がまるで合わない。確かに、ナコ・ウェルはトリニアの竜騎士の名門ラーナ家の末裔だという言い伝えはあるが。 「ナコ・ウェルのマイカラス王国の腕輪は、今でもマツミヤ家に伝えられている筈ですね。でも、マイカラスとトカイ・ラーナ教会の最後の戦争では、彼女はこの腕輪を填めて出陣したんですよ。その、ただ一度だけね」  セルタさんの説明に、フィーニがはっと顔を上げた。真っ直ぐにセルタさんを見つめて、それからミュシカに視線を移して笑顔を浮かべる。 「間違いない、本物だよ。まさか、こんなところにあったなんて……」 「どうして、そう言いきれる?」 「今の話、ミュシカは知ってた? 普通、歴史学者だって知らないことだよ。マツミヤとリースリング、そしてオルディカのごく一部の人間を除いては……ね」 「――っ!」  ミュシカは、知らなかった。  そして、歴史学者でも知らないというエピソード。  しかしセルタさんは、それを知っている。 「あなたは知っているんですね」  セルタさんが微笑む。フィーニは小さくうなずいた。 「最初に見た時から感じてたんですけど、あなた、マツミヤかリースリングの血が混じってますか?」 「フィーニ・ウェル・リースリングです」 「そうだと思いました。この腕輪に惹かれるのも当然ですよね。ほら、直に触ってご覧なさい」  今の話が事実なら大変な貴重品の筈なのに、セルタさんは無造作に腕輪をフィーニに渡してくれた。両手で押し戴くように受け取ったフィーニは、うっとりと魅了されたように腕輪に見入っている。 「あ、あのっ、ちょっとだけ、填めてみてもいいですか?」 「ええ、もちろん」  セルタさんが留め金を外して、フィーニの腕に填めてくれた。 「ちょっと大きいね」 「ナコ・ウェルは長身でしたからね。ちょうど、あなたくらいはあったかしら」  ミュシカを見てそう言った。ナコ・ウェルは女性としては長身で、剣術も格闘術も超一流の腕前だったと伝えられている。対してフィーニは、同じ年頃の女の子の中でもずいぶんと小柄な方だ。 「すてき……」  フィーニは自分の腕に填められた腕輪を見つめ、切なげに溜息をついた。外見は単なる古ぼけた銀細工でしかないが、そのくすんだ色合いが歴史を感じさせる。見る者が見れば、その価値は計り知れない。 「いいなぁ、これ。欲しいなぁ、でもぉ……」 「高いんでしょうね?」  急に声が小さくなったフィーニの後を継いで、ミュシカは訊いた。マイカラスの英雄である竜騎士ナコ・ウェルの腕輪。本物であれば大変な価値がある筈だ。 「そうでもないですよ。なにしろ、本物と証明する手段がありませんからね。このような物が存在すること自体、公には知られていないわけですから。そうですね、普通に売るとしたら……」  骨董の価値は「本物である」ことに集約される。その無形の価値に対して高額な値がつけられるのであり、竜騎士の腕輪の場合、単なる銀細工としての価値などたいしたものではない。  それでもセルタさんが口にした額は、一介の女学生にとっては充分すぎるほどに高額だった。一応はフィーニも名家のお嬢様ということにはなるが、自分のお小遣いでは一年分をすべてつぎ込んでも全然足りないだろう。誕生日などのプレゼントとして親にねだるのも、少々躊躇してしまう額だ。  ミュシカが聞いている範囲では、フィーニの家はかなり裕福らしい。とはいえリースリングの本家ではないのだから、大富豪というほどではない。やはりおねだりにも限度というものがある。 「あぅぅぅ……」  フィーニは腕輪を凝視して呻き声を上げている。心の中の葛藤が目に見えるようだ。しかしいくら悩んだところで、そんな大金はないという事実は変えられない。 「竜騎士の腕輪が欲しいなら、こっちのイミテーションにしたら?」  ミュシカは、近くの棚を指差した。 「これだって安くはないけど、なんとかあんたの小遣いでも買えるんじゃない?」  そこに並んでいるのは、竜騎士の腕輪そのままのデザインで後世に造られたレプリカだった。形だけ真似た白銅製の安物から、素材も本物同様に銀や白金などを使って立派に貴金属として通用するものまで、質も価格もピンキリだ。それでも、一番高価なものでも本物に比べればはるかに安い。 「うーん……」  フィーニは首を傾げながら、イミテーションの中でも上質なものを手に取ってみた。  材質も造りも、決して悪くはない。その点では本物と何も変わらない。むしろ新しくて綺麗な分、アクセサリには向いているかもしれない。  しかしフィーニが納得していないのは一目瞭然だった。やはり、本物を見た後では納得できないのだろう。  本物だけが持つ、歴史と伝統の重み。  どれほど上質の素材を用い、手の込んだ細工を施したとしても、その違いだけは埋められない。  そしてなにより、フィーニにとっては竜騎士ナコ・ウェルの本物の腕輪という事実こそが重要なのだ。 「うぅーん……」 「そんなに気に入ったんですか?」  苦笑混じりのセルタさんの言葉に、フィーニは力なくうなずいた。  どうしても欲しい、けれども今のところ、それを買う資金のあてがないのも動かしようのない事実だった。 「では特別に安く、あなたに譲ってあげましょうか?」 「えっ?」 「安くといっても……」  どう考えてもフィーニの小遣いで買える額ではあるまい、とミュシカは思った。  ところが。 「お代は……そうねぇ、身体で払ってもらおうかしら」  瞬間、ミュシカは飲みかけのお茶を思いっきり吹き出していた。口の中にわずかに残ったお茶が気管に入る。 「せ……セルタさんっ! 人身売買は重罪ですよっ! それともあなた、同性が好きでしかもロリータ趣味っ?」  激しく咳き込みながら、セルタは叫んだ。 「ロリータじゃないよ。あたしもうじき十六歳だもん」  フィーニが的はずれな反論をする。 「あなた、なにか早合点しているようですね」  取り乱しているミュシカの様子に、セルタさんは口元を押さえて肩を小刻みに震わせていた。 「腕輪を譲ってあげる代わりに、お店の手伝いをしなさいって言ったつもりなんですけど?」 「とてもそうは聞こえませんでしたが」  意図的に誤解を招くような言い方をしたとしか思えない。 「見ての通り、このお店は私ひとりで切り盛りしてるんですけど、色々と外出することも多いんですよ。店番とか倉庫の整理とか、なかなか手が回らなくて」 「あ、それならぜんぜん問題なしですね。あたし、やります!」  フィーニはもうすっかりその気だ。セルタさんがくすっと笑う。 「でもフィーニちゃんって可愛いですね。けっこう好みのタイプかも。ホントに身体で払ってもらってもいいかしら」  そう言って立ち上がると、椅子に座っているフィーニの背後から腕を回して抱きしめた。 「お店の手伝いと、どっちがいい?」  耳元に唇を寄せてささやく。 「えー?、えーとぉ……」  フィーニが赤面している。思わずミュシカが口を挟んだ。 「考えるようなことかぁっ!」 「ミュシカってば怒鳴ってばっかり。あ、もしかしてやきもち?」 「違ぁぁうっっ!」  その絶叫に、お店の窓ガラスがびりびりと震えた。 * * * 「フィーニちゃん、アンティークショップでアルバイトを始めたんですって?」  その日の夜。寄宿舎の廊下でレイア様と会った時にそう訊かれた。 「お姉様は相変わらず早耳で……」 「大丈夫なの? 怪しげなお店じゃないでしょうね?」 「さあ……?」  ミュシカは曖昧に肩をすくめた。  店そのものはともかく、店主は微妙に怪しげだったかもしれない。が、それを正直に話したらレイア様は心配するだろう。  竜騎士の腕輪を手に入れたフィーニは、もう見ていて呆れるくらいにはしゃいでいて、レイア様が注意したところでアルバイトを止めるとは思えなかった。 「さあ……って、あなたね……」  レイア様が眉をひそめる。 「フィーニが自分で決めたことなんだから、いいじゃないですか」 「それでもしも間違いをしでかすようなら、助けてあげるのが姉の役目でしょう?」 「間違いかどうか、まだわかりませんもん」 「じゃあ、フィーニちゃんがそのお店に行く時は、ちゃんとついていってあげなさいね」 「な、なんで私が」  予想外のとばっちりに、ミュシカは拗ねたように言った。フィーニの勝手に、これ以上振り回されてはたまらない。  しかし、レイア様は見逃してはくれなかった。 「まあ、悲しいわ。ミュシカってば、私のお願いを聞いてくれないの?」  それを見てしまったら、絶対に逆らうことはできないという必殺技「お姉様の憂い顔」である。自分にまったく非はない状況でも、何故か胸がずきずきと痛む。 「お願い? 命令……の間違いでは?」  ミュシカはあきらめ顔で、大きな溜息をついた。 五章 雨の日の諍い  しかしどうやら、レイア様の心配は杞憂に終わりそうだった。  翌日の放課後からフィーニはあのお店に通っていて、レイア様の言いつけ通りにミュシカも付き添ってはいたが、今のところこれといって問題はない。  アルバイトとはいっても、骨董品屋で女学生が手伝えることなんてたかがしれている。店内の掃除とか、倉庫の整理とか、セルタさんが接客中にお茶を入れたりとか、その程度のことだ。  仕事は週に四日。夜も寄宿舎の夕食に間に合うように帰れるし、特に大変なことはない。そもそも、そんなにお客さんの多いお店でもないのだから、仕事をしている時間よりも三人でお茶を飲んでいる時間の方がずっと長いくらいだ。  なんだか、茶飲み友達として雇われたみたい……というのがミュシカの感想だった。  そんなある日のこと。  その週末は、セルタさんが用事があって留守にするというので、お店は休みだった。  久々にのんびりしようと思っていたミュシカだったがそうは問屋が卸さず、またフィーニに街へと引っ張り出されてしまった。引っ越してきてからそれなりの日数になるが、まだまだ都会に飽きる様子はないらしい。  有無をいわさずに買い物やシネマやカフェに付き合わされるという生活が、ミュシカの日常の一部になりはじめていた。無理に断ろうものならフィーニはレイア様に言いつけて、ミュシカは「まだこの街のことがよくわかっていないフィーニちゃんに付き合ってあげるのも、お姉様の務めでしょう?」とたしなめられることになってしまう。  まあ、フィーニの傍若無人な態度を除けば、カフェやシネマに付き合うのは決して不快ではない。しかしフィーニと同室になって以来、一人でゆっくりと読書したりする時間が減ったのは事実だった。なにしろ自分の部屋にいても、フィーニ目当てという口実で遊びに来る二、三年生がずいぶんと増えてしまったから。  そのことを歓迎しているわけではないが、決して不快に感じていない自分に気付いて、ミュシカは少し驚いた。フィーニが一緒にいるためか、以前のようなミュシカに対する不自然な気遣いが感じられなくなり、その分、かえって気が楽になった。  ある意味、フィーニのおかげといえないこともない。  カフェの窓際の席で、ミュシカは目の前に座っている少女の顔を見た。  口いっぱいにケーキを頬張って、頬袋にナッツを詰め込んだリスのように幸せそうな表情をしている。  ミュシカの口元が微かにほころんだ。 * * *  外は、どんよりと曇っていた。  この分では、もうじき雨になりそうだ。傘は持ってきていないし、早めに寄宿舎に帰った方がいいかもしれない。  しかしフィーニは、泣き出しそうな空の様子などまるで気にも留めていないようだ。 「あー、美味しかった」  幸せいっぱいの表情で、お腹を押さえている。 「あのケーキ、おみやげに買ってくればよかったかなぁ。レイアお姉様たちもお呼びして、今夜はみんなでお茶会とか」 「あんた、まだ食べる気?」  ミュシカが呆れ顔でつぶやいたのも無理はない。たった今、三つのケーキを平らげたばかりだというのに。 「そういえば、お姉様といえば……」  ふと思い付いてミュシカは訊いた。 「あんた、お姉様の部屋には戻らないの?」  本来、レイア様が留守にする数日間だけという約束で、フィーニはミュシカの部屋に来たのだ。それがいつの間にか、そこにいるのが当たり前のような顔で居座っている。  別に、今さら本気で追い出したいと思っていたわけではない。ただなんとなく訊いてみただけだ。  しかし。 「……あたしのことが、邪魔?」 「え?」 「傍にいると、迷惑?」  フィーニの声は、いつになく真剣だった。いつものようにふざけた口調なら、こちらも調子を合わせて「ああ、邪魔邪魔」とでも言えたのに。  無機的な、表情のない顔でミュシカを見ているフィーニは、まるで別人のような雰囲気を漂わせている。初めて見る一面だった。 「わ……私は、一人で静かにしているのが好きなの!」  あまりにも異質なフィーニの様子に戸惑って、つい大きな声を上げてしまった。間髪入れず、フィーニが言い放つ。 「嘘つき」 「……嘘?」  訊き返す声が緊張していた。胸の鼓動が速くなる。  二人の間に、ぴんと張りつめた、重苦しい空気が漂っていた。  フィーニが、ゆっくりと口を開く。 「一人が好き? 誰かと一緒にいるのが怖い、の間違いでしょ」 「……」 「怖いんでしょ。誰かが傍にいること、誰かと仲良くすること、誰かに慕われることが」  ミュシカは、何も応えられなかった。フィーニがいったい何を言わんとしているのか、気がついている筈なのに、気付かない振りをしていた。  フィーニの口元に微かな笑みが浮かんだ。普段の愛らしい無邪気な笑顔ではなく、どこか皮肉めいた、癇に障る笑い方だった。 「あたしは、死んだりしないよ」 「――っ!」  瞬間、顔の筋肉が引きつって表情が凍り付いた。全身に鳥肌が立つ。  フィーニは言葉を続けた。ミュシカが絶対に聞きたくない言葉を。 「あんたに一方的に片想いしてふられた一年生が、自殺しようとしたんだってね?」  叫びたかった。フィーニの声をかき消すように悲鳴を上げて、この場から逃げ出したかった。なのに脚は縛り付けられているかのように動こうとしない。 「以来一匹狼を気取ってるってわけ? 誰にも好かれないように? いかにも女ったらし向きの顔してるくせに、気が弱いこと」 「……うるさいっ!」  これ以上、聞いていられなかった。いたたまれなくなって叫ぶのと同時に、右手を振り上げた。  頬を打つ、乾いた音。  初めてだった。  女の子をひっぱたいたのなんて。  まともに殴られたはずのフィーニは、それでも真っ直ぐにミュシカを見つめていた。また、先刻と同じ無表情な顔に戻っている。打たれた頬が赤くなっていることだけが違いだった。 「弱虫。臆病者」  もう、限界だった。これ以上、フィーニの声を聞くことはできなかった。  回れ右して走り出す。  ミュシカの頬に、雨の最初の一滴がぽつりと当たった。 * * *  雨が、降っている。  寄宿舎に着く少し前から土砂降りになった雨が、窓ガラスを激しく叩いている。  ミュシカは窓際に椅子を寄せ、窓枠に頬杖をついて、濡れたガラスを通して歪んだ外の景色をぼんやりと眺めていた。  雨は、嫌いだった。  昔はそうではなかった。読書が好きなミュシカにとって、雨はむしろ絶好の読書日和といえた。  だけど今年の春から、雨は嫌いになった。  嫌なことを思い出すから。辛いことを思い出すから。  この部屋からいなくなった、愛らしい一年生のことを。  フィーニみたいな生意気な子とは全然違う。素直で、無邪気で、ミュシカのことを実の姉のように慕ってくれていた。  もちろんミュシカも、その子のことを可愛がっていた。同室の上級生として、親身になって面倒を見てやっていた。  それが、あんなことになるなんて。  あの日も休日で、やっぱり雨だった。  その日ミュシカは、一人で出かけていた。前の日に、ちょっと部屋に居づらくなることがあったから。  夕方、部屋に戻ったミュシカが見たのものは、不自然な格好でベッドに横になっている少女と、机の上に置かれた空の薬瓶と、ミュシカに宛てた手紙。  その後は混乱していて、細部はよく憶えていない。  とにかくすぐに医者を呼んで、大事には至らなかったこと。  その子は退院後、一度も寄宿舎に顔を見せずに転校していったこと。  以来ずっと、この部屋で一人で暮らしていたこと。  それが、この半年間の記憶のすべて。あとは毎日同じことの繰り返しだ。学校へ行って、帰ってきて、勉強して、眠って。  詳しい事情を知っているのはごく一部の二、三年生だけだ。それでも、みんなうすうすは察していたのだろう、急に無口になって他人を避けるようになったミュシカを、この半年間、そっとしておいてくれていた。  例外は二人だけだ。ミュシカが引いた一線を越えて近付いてきたのは、レイア様と、そして―― 「ミュシカ、入ってもいい?」  部屋の扉が静かにノックされた。  ミュシカは、はっと顔を上げる。  返事をせずに黙っていたが、それでも扉は開かれた。この部屋でそんなことができるのは、寄宿舎に一人しかいない。フィーニならばノックもせずに入ってくる。 「ちょっとだけ、お邪魔するわね」  口ぶりの割には遠慮のない動作で、レイア様が入ってくる。目を合わせるのが辛くて、ミュシカはまた窓の外に顔を向けた。  背後で、レイア様の足音が止まる。肩に、そっと手が置かれた。 「泣いているの?」 「……いいえ」  なんとか、それだけを答えた。口を開いたら、本当に泣き出してしまいそうだった。 「フィーニちゃんは?」 「……さあ」 「一緒に出かけたのでしょう?」 「途中で別れましたから」  何か含むところのあるようなレイア様の口調だった。どうしてだろう、何もかも見透かされているような気がする。 「どうして? フィーニちゃんを放って帰ってきたの?」 「……」  その質問には答えられなかった。ただ黙って、窓の外を見ていた。いや、実際にはガラスに映ったレイア様の顔を見ていた。 「ミュシカ、こちらをお向きなさい」  その声は優しいのに、有無をいわせない力があった。渋々、立ち上がって振り返る。  一瞬だけレイア様と目が合って、すぐに視線を逸らした。 「何があったの?」  怒っているような口調だった。聞くまでもなく、わかっているのではないかという気がする。レイア様に隠し事はできないし、ミュシカのことはなにもかも見透されているのだ。 「……お姉さまですね。フィーニに話したのは」 「ええ、そうよ」  とぼける素振りすら見せず、あっさりと認めた。レイア様に非があるわけではないのだから当然だろう。 「どうしてですか?」 「一緒に暮らすのなら、知っていた方がいいでしょう」 「だから、どうしてフィーニを私の部屋へ寄越したんですか?」  いつしか、ミュシカは涙声になっていた。その言葉と同時に、一筋の涙が頬を伝い落ちる。 「……一人でいる方が、楽だったのに」 「あなたには、あの子が必要だと思ったからよ」  レイア様の手が、ミュシカの頬に当てられる。ミュシカの方が背が高いために少しだけ上を向く形で、真っ直ぐにこちらを見ている。  顔を押さえられて、今度は視線を逸らすこともできなかった。  やがて、その手が下がっていく。頬から首へ、首から肩へ。 「いつまで、そうやって生きていくの? 他人と接することを怖がって。人は、一人じゃ生きていけないのよ」  レイア様が半歩近付いてくる。身体がほとんど密着した状態になった。手が背中に回され、ミュシカの身体を抱きしめる形になる。  柔らかくて、暖かい身体。心地よい香りが鼻腔をくすぐる。レイア様が愛用しているシャンプーの香りだった。 「どう?」 「え?」 「こうして近付かれたら、私のことも怖い?」 「……お姉様は特別です」 「これでも?」  顔が近付いてきた。唇が触れそうなほどの距離だ。 「そういう冗談はやめてください」  ミュシカは、背中がじっとりと汗ばんでくるのを感じた。逃げ出したい。なのに身体が動かない。 「冗談じゃなかったら? 私のことも拒むの? 好意を寄せてくれるすべての相手を遠ざけて、それであなたは生きていけるの?」 「……」 「私は知っているわ。あなたは本来、とても優しくて、とても寂しがりやよ。この半年間、見ていて痛々しいほどに無理をしていた。もう、止めにしない?」  なにも、答えられなかった。応えようがない。自分自身、どうしたらよいのかわからないのだから。 「私のことは……」  放っておいてください。そう、言おうとした。  だけど、言えなかった。 「私は、あなたの何?」  先に、そう言われてしまったから。 「……お姉様、です」 「だったら、あなたのことを気にかけるのは当然でしょう? あなたの力になってあげたい。そう思うのはいけないこと?」  やっぱり、答えられない。  わかっているから。  レイア様が正しい。間違っているのは自分。  それが、わかっているから。 「あなたを助けてあげたい。だけど、私がここにいられる時間はあと半年もない」 「あ……」  そういえば、そうだ。  レイア様は三年生。来年の春にはこの学園を卒業してしまう。  急に、切なくなった。  これまで考えたこともなかった。レイア様がいなくなってしまうだなんて。ミュシカが入学した時からずっと、傍にいてくれた人なのに。  レイア様が、少し背伸びをした。  唇が触れる。軽く、ほんの一瞬だけ。 「だから、ね。ミュシカにはあの子が必要なのよ。あの子にあなたが必要なように、ね」 「え?」  ミュシカの身体に回していた腕を解いて、レイア様は言う。一歩下がって、にこっと子供っぽい笑みを浮かべた。 「だから、これは命令。迎えに行ってらっしゃい」 「え、でも……」 「傘も持っていってないのでしょう? どこかで一人ずぶ濡れになって、心細い思いをしてるんじゃないかしら。ああ、可哀想なフィーニちゃん」 「うぅ……」  まただ、レイア様の得意技。芝居がかった口調で、ミュシカの罪悪感を煽る。 「……お姉様、一緒に来ていただけませんか?」  一人で迎えに行くなんて、とてもできそうにない。あんなことがあった後で、いったいどんな顔をしてフィーニに会えばいいのだろう。  だけど、レイア様は甘くなかった。 「二年生にもなって、いつまでもお姉さまを頼らないの」  ちょんと、人差し指でミュシカのおでこを突つく。 「こういうことは当事者だけで解決しないとね。一人で行ってらっしゃい。大丈夫、フィーニちゃんは怒ってなんかいないから」 「でも……」  決して、納得したわけではないけれど。  でも、レイア様には逆らえない。ミュシカは仕方なく、フィーニの分の傘を持って寄宿舎を出た。  正確には、レイア様に追い出されたというのが正しいのだが。 * * * 「……さて」  どこへ行けばいいのだろう。  傘を持って寄宿舎を出たはいいけれど、肝心のフィーニはいったいどこにいるのやら。  薄暗くなりはじめた夕方の街。  黒っぽく濡れた道路。  雨は先刻までよりも幾分小降りになっているが、まだ傘なしで外を歩けるほどではない。  フィーニもどこかで雨宿りしているのだろうか。  でも、どこで?  どこかのカフェ? いや、その可能性は低そうだ。昼間、美味しいけれども決して安くはないケーキを三つも食べて、手持ちのお小遣いは底をついている筈。お小遣いには不自由していないフィーニだが、普段の外出時に持ち歩いている額などたかがしれている。  しばらく考えて、ふと気づいた。  フィーニと別れた場所からなら、セルタさんのお店が近い。今日はセルタさんは留守だけれど、フィーニは合鍵を持っていた筈だ。 「ふぅ」  思わず、小さな溜息が漏れた。行き先を思いつかなければ「探したけれど見つからなかった」と言って寄宿舎に戻れたものを。  気づいてしまった以上、行くしかあるまい。気は進まないけれど、向きを変えて歩き出した。いっそのこと、着くまでの間に雨が止んでくれればと願ったが、あいにくここからお店までは、それほど時間もかからない。  雨のためか、通りにはほとんど人通りがなかった。静かな雨の音と、ミュシカの足音だけが聞こえてくる。  ほどなく、セルタさんのお店が見えてきた。予想通り、セルタさんは留守の筈なのにぽつんと明かりが灯っている。入口の扉に手をかけると、やはり鍵はかかっていない。  小さく息を吸い込んで静かに扉を開け、そっと中を覗き込んだ。  店内には小さな明かりが灯っているが、フィーニの姿は見当たらなかった。しかし、彼女のセーラー服がハンガーに掛けて吊してある。フィーニは奥の倉庫の方にでもいるのだろうか。  なんとなく、足音を殺して中に入った。吊してあるセーラー服に触れてみると、しっとりと湿っている。かなり雨に濡れてしまったらしい。ミュシカと別れてから雨が本降りになるまでの間、いったい何をしていたのだろう。  小さな丸テーブルの上には、お茶のカップとポットが置かれていた。しかしカップは綺麗なままで、ポットの中のお茶もすっかり冷めていた。 「……?」  フィーニはどこにいるのだろう。  倉庫? お手洗い?  どちらにしても、せっかく淹れたお茶にまったく手をつけないままでいるなんて、妙な話ではないだろうか。  嫌な予感がする。  その時。 「いい加減にしてよね! 風邪でも引いたらどしてくれるのよ!」  唐突にフィーニの声が聞こえた。  倉庫の方からだ。  このお店には、半地下になった広い倉庫があって、一見するとがらくたとしか思えないような品々が詰め込まれている。時々荷馬車で運ばれてくる荷物は倉庫に直結した裏口から搬入されて、それを整理して目録を作るのは主にフィーニの仕事だった。  だから、フィーニが倉庫にいるのはごく当たり前のことではある。  だけど、今の声は?  フィーニの台詞に続いてなにやら不明瞭な男性の声が聞こえてきて、ミュシカは跳び上がるほど驚いた。  濡れた制服はここに干してある。ということは、今のフィーニは下着姿の筈。それなのに男性が一緒にいるというのはただごとではない。  息を殺して、倉庫へ続く扉をそっと開いた。階段を途中まで下りて様子を伺う。  倉庫には明かりが灯っていた。複数の人の気配がする。  気づかれないよう慎重に覗いてみて、はっと息を呑んだ。  下着姿のフィーニが、ロープで後ろ手に縛られて床に座っている。そして男が三人、倉庫に積まれたがらくたの山をあさっていた。  この光景から考えられる状況といえば、一つしかない。 (……泥棒?)  セルタさんの留守を狙って忍び込んだ泥棒と、雨宿りに来たフィーニが鉢合わせしたのではないだろうか。濡れた身体を暖めるためにお茶の支度をしている最中に、倉庫の物音に気づいて、様子を見に来たところを捕まったに違いない。 「だいたいねぇ、女の子を下着姿のままで縛っておくなんてどういうことよ! あんたって、アブナイ趣味の持ち主?」  フィーニが元気に叫んでいる。どうやら怪我などはないようだ。  こんな危機的な状況下でも、フィーニの減らず口は相変わらずだった。それはそれで聞いてて痛快ではあるが、泥棒を怒らせるような発言は慎むべきではないだろうか。 「誰がアブナイ趣味だ!」  案の定、男の一人が気を悪くした様子でフィーニを睨みつけた。  まだ若い男だった。二十歳を少し過ぎているくらいだろうか。ひょろりと背が高くて痩せている。埃っぽい倉庫をあさるには不釣り合いな、洒落た麻のスーツを着ていて、仕草はどことなく気障っぽかった。 「これがアブナイ趣味でなくてなんなのよ! エッチ! 変態!」 「誰がっ! 俺はロリコンじゃねーぞ。ガキなんか相手にするか!」  男が律儀に反論する。フィーニの言うことなんて放っておけばいいのに、案外、精神年齢が変わらないのかもしれない。  フィーニがさらに言い返す。 「誰がガキよ! あたし、これでも十六歳なんだから!」  実年齢の割に外見が子供っぽいフィーニの、ささやかな見栄だろう。ほんの少しサバを読んでいる。彼女はまだ誕生日を迎えていない。正確には十五歳と八ヶ月ほどだ。  しかし、この発言は少々まずいのではないだろうか。 「十六歳だって? それなら守備範囲だな」  ミュシカの不安は的中し、男の目の色が微妙に変化した。がらくたの山から離れてフィーニの近くに来る。 (あンの、馬鹿……)  ミュシカは心の中で呻いた。自分から墓穴を掘ってどうする。黙っていれば、子供と思われて見逃してもらえただろうに。  女の子の十六歳は、早い子ならば結婚話が出てきてもおかしくない。つまり〈女の子〉ではなく〈女〉として扱われこともある年齢ということだ。  強盗が入った家に、若い女性が一人でいたら何をされるか。お嬢様学校に通うミュシカだって、そのくらいは知っている。 (……フィーニ!)  男が、フィーニの胸に手を伸ばした。痩せた身体がびくっと震える。 「……」  どことなくいやらしい笑みを浮かべていた男が、そこで困惑した様子を見せた。フィーニの胸に触れた自分の手を見て、なにやら考え込んでいる。 「……どこが十六歳だって。嘘だろ? つまらない見栄を張るなよ」  思わず吹きだしそうになって、ミュシカは慌てて口を押さえた。  失礼なことを言う男だ。しかし事実ではある。  フィーニは同じ学年の少女たちの中でも、かなり小柄で痩せている。下着姿になればそれは一目瞭然だ。女性らしい柔らかな丸みに欠けるその身体は、まだ〈女〉ではなくて〈子供〉のものだった。  胸の発育はお世辞にも良くはない。フィーニがそのことを密かに気にしていることも、ミュシカは知っていた。  どうやら子供には興味がないらしい。ぷくっと膨れるフィーニを無視して、男はがらくたの山の発掘に戻った。いったい、何を探しているのやら。  ミュシカはとりあえず安堵の息をついた。危ないところだったが、とりあえず最悪の事態は避けられたようだ。  さて、これからどうしたものだろう。  今すぐフィーニの身に危険が及ぶことはなさそうだから、今のうちにここを抜け出して警察を呼ぶべきだろうか。しかしわずかな時間とはいえ、捕まっているフィーニから目を離すのも不安だった。  かといって、ミュシカ一人で三人の大人相手に何ができるだろう。やっぱり、急いで警察に駆け込むのが最善の策のように思われる。  しかし、事態はそれを許さない方向へ急展開していった。 「リンディードの日記なら、そこにはないよ。見当違いのとこばかり捜して、ホント馬鹿なんだから」  自分が気にしていることを指摘されて、よほど腹を立てていたのだろう。フィーニは男の背中に向かって嘲るように言った。一瞬、男たちの動きが止まる。 「なんだと……?」  先刻の男が振り返る。 「お前、何か知ってるのか?」 「さあ、ね」 「このガキ……」  男の表情が違っていた。先刻はどこかふざけた雰囲気があったが、今は目が真剣だ。 「知ってることはさっさと話した方が身のためだぞ?」 「さあ、なんのことかしら?」  フィーニはしれっとした表情でとぼけている。しかし、この状況はかなり危険だった。  男たちが探しているものについて、フィーニはなにやら心当たりがあるようだ。考えてみればそれも当然。この倉庫はフィーニの仕事場だ。ここにあるものについては誰よりも詳しい。  それにしても、どうしていつもああやって挑発的な物言いをするのだろう。こんなところで地の性格を出さずに、レイア様たちの前のように猫をかぶっていればいいものを。わざわざ、相手を怒らせるような真似をするのだから。 「なんなら、身体に訊いてやろうか?」  男の手がフィーニの胸元に伸びる。  短い悲鳴と、絹のスリップが裂ける音が重なった。  危うく、ミュシカも悲鳴を上げるところだった。  大変だ。どうしたらいいのだろう。もう、警察へ行っている時間もない。  かといって相手は大人、しかも男が三人だ。ここでミュシカが飛び出していったところで、ミイラ取りがミイラになるのが目に見えている。 (ああ、もう!)  今さらながら、ミュシカは後悔した。  こんなことなら、杖を置いてくるのではなかった。  魔術師の杖。杖があれば魔法が使える。一人二人ならやっつけられるかもしれないし、相手の気を逸らした隙にフィーニを縛っているロープを切ることもできる。騎士剣術の腕は確かなフィーニのことだ、身体が自由であれば、大人一人くらいはなんとかできるだろう。  杖。杖さえあれば。  いつもは肌身離さず持ち歩いているのに、今日は天気が悪いし、二本の傘で手が塞がるからと、部屋に置いてきてしまった。まさかそれが必要になるなんて、夢にも思わなかった。  魔法が使えなければ、ミュシカはただの女学生。この状況下ではどうすることもできない。  かといって、このままではフィーニが危険だ。殺されることはないにしても、女の子にとっては同じくらいにひどい目に遭うことは目に見えている。ミュシカも、それがわからないほどには子供ではない。  本当に、どうすればいいのだろう。ミュシカの背中を冷たい汗が流れ落ちた。 「結婚できないような身体にされたくなければ、素直になることだな」  男が言う。破り取ったスリップを、手の中で丸めてぽいっと放り投げる。  フィーニは気丈にも、唇を噛んで、無言で男を睨みつけていた。 「それとも、ここでストリップを披露してくれるのかな? この貧相な胸じゃあ、見ても面白くはないだろうが」  あまり必要があるとも思えないフィーニのブラジャーに、男が手を伸ばした。指がストラップに引っ掛かる。微かに引きつるフィーニの表情を楽しむように、軽く引っ張っている。 「さあ? 俺は気が短いんだよ」 「……」 「そうか。まあ、別に構わないけどね。楽しませてもらった後で、もう一度訊くとしようか。大抵の女は、その方が口が軽くなるし」 「――っ!」  一気に、ブラジャーが剥ぎ取られた。控え目なふくらみが露わにされる。手を身体の後ろで縛られているから、隠すこともできない。  それが、限界だった。 「いやぁ――っ! いやぁっ! 誰かっ!」  フィーニが叫んだ。涙がぼろぼろとこぼれ、顔中くしゃくしゃにして泣き叫んでいる。  いくら強がっていてもしょせんは十五歳の女の子、屈強な男たちに襲われそうになって、いつまでも平然としていられるわけがない。  しかしその反応は、むしろ男たちを楽しませているようだった。からかうようにフィーニの身体に手を伸ばす。男たちの手が触れるたびに、短い悲鳴が上がる。 「やだっ! いやぁっ、やめてっ!」  甲高い悲鳴が、鋭い刃物のようにミュシカの胸を貫いた。  なんとかしなければ。  どんなに気に入らなくたって、自分はフィーニの〈お姉様〉なのだ。いざという時に力になってやれなくてどうする。  今、ここにいるのはミュシカだけだ。フィーニの味方は他に誰もいない。 (ああ、もう! ここに杖さえあれば……)  そうすれば、なんとかなるものを。  そこで、天啓のように閃いた。  杖なら、ある。そのことを思い出した。  音を立てないように気をつけて、そっと後ずさった。フィーニの短い悲鳴が、ミュシカの足音を隠してくれた。  一階のお店へと戻る。  魔術師の杖はあるのだ。このお店に。  杖は魔術を学ぶ者にとっては必需品だが、それ以外の者にとっても、古い時代の杖は骨董としての価値がある。大抵の骨董品屋には、王国時代の魔術師の杖が飾られているものだ。  ほら。  ミュシカは、壁に掛けられていた杖を手に取った。ずっしりと重く、金属のように黒光りして風格がある。おそらくは五百年以上前の品だろう。  しかも、ミュシカが持っているアプシの樹の杖ではない。奇妙な瘤が並んだこの杖の材質は、今は絶滅に瀕して伐採が禁止されている貴重品、オルディカの樹だ。魔力を増幅する効果は、アプシの数倍といわれている。 (これなら……)  杖を手にしたミュシカは、急いで、しかし足音を立てないように気をつけて倉庫へ戻った。 (天と地の狭間にあるもの、力を司るものたちよ――)  口の中で、声には出さずに魔法の呪文を唱える。  魔術の行使には、必ずしも言葉は必要ない。呪文は純粋に自分の意識を高め、精神を集中させるためのものだ。  人間の言葉ではなく、心で直に精霊たちに呼びかける。  精霊。それは実体を持たず〈魔力〉を操る不可思議な存在の総称だった。人間の精神活動に反応する性質があり、それを利用して人間が魔力を操るのがいわゆる精霊魔法だ。  何百年も昔には、精霊を介さずに人間が直接魔力を制御する、もっと強力な〈上位魔法〉というものが存在したというが、それが失われた現在では、精霊魔法だけが唯一無二の魔法体系だった。  本来、街の中というのはあまり精霊魔法に向いた場所ではない。精霊の存在密度が希薄なためで、一般に、人の手が入っていない自然の水辺や森の中がもっとも効果が高い。  しかし、何事にも例外はある。  よく、古い建物や古い品物には精霊が宿るといわれていた。その表現が正しいかどうかはともかくとして、新築のビルと古い廃屋とでは精霊魔法の効果が違うのは事実だった。人間の手によるものであっても、何百年も存在していればそれは自然の一部と見なされるのかもしれない。  幸い、このお店の建物はかなり古い、その上、古い骨董品が山のようにある。その多くは魔法が盛んだった王国時代の品で、精霊との親和性は極めて高い。  そのためだろうか、あるいは高価なオルディカの杖を持っているためだろうか、精霊の反応はすこぶるよかった。かつてないほどの強い魔力の流れを感じる。  これなら……。 「……我が言葉に従い、彼の者たちに災いを為せ!」  ミュシカは、呪文の最後の一節だけ小さく声に出した。純粋に気分の問題だ。  同時に。  ゴワ〜ンッ!  気の抜けたシンバルのような金属音と、奇妙な呻き声が響いた。 「……は?」  一瞬遅れて、同じく気の抜けたような三つの声。フィーニと二人の男のものだ。  驚いていたのはミュシカも同様だった。  なにしろ、大きな金ダライがどこからともなく降ってきて、フィーニに手を出そうとしていた男の頭を真上から直撃したのだ。 「……ふざけた精霊だこと」  ミュシカが意図的にそうしようとしたわけではない。だとすればこれは精霊がやったと考えるしかない。  まるで、いま人気の喜劇シネマの一シーンではないか。あの金ダライはいったいどこから出現したものやら。  しかし、天井の高いこの部屋での大きな金ダライは、かなり本気で痛かったらしい。男は頭を押さえてうずくまっている。あるいは精神的なダメージかもしれないが、男が動けないのであればどちらでも構わない。 「ミュシカっ?」 「な、なんだっ、てめえはっ?」  フィーニと残り二人の男が、階段の上のミュシカに気づいた。ミュシカは再び杖を掲げる。 「彼の者たちに災いを!」  また、ひしゃげた金属音。そして水音。  つくづく冗談好きの精霊らしい。今回降ってきたのは、一斗缶と、水の入ったバケツだった。精霊に人間のようなユーモア感覚があるのかどうかは不明だが、とにかく役には立ったのだからよしとする。 「彼女の戒めを解き放て」  杖を掲げてさらに唱える。  倉庫のがらくたの山から一振りの短剣が飛び出して、フィーニの背後に落ちた。手を縛っていたロープが切れる。  フィーニはばねが弾けるように立ち上がると、ふらふらと立ち上がりかけていた金ダライ男の腹を蹴った。男は転がってがらくたの山に突っ込む。 「乙女の玉の肌にただで触れた代償は安くないよ!」  床に刺さっていた短剣を抜いて、それを構える。フィーニの背後には、怒りの炎が燃えさかっていた。 「そうかい。じゃあ今度からは金を払って触るよ」  蹴られた男は、ふざけた調子で言って身を起こした。ついでに、がらくたの山から錆びた剣を引き抜く。  フィーニが、低い姿勢で飛び込んでいった。構える隙すら与えずに、相手の剣の柄に短剣を叩きつけた。  男の手から剣が弾き飛ばされる。同時に、フィーニの脚が跳ね上がる。  顎を蹴り上げられた男は、一回転してひっくり返った。ようやく立ち上がった二人が目を丸くする。 「こりゃ形勢不利だなぁ。こんなおてんばだったとは……おい、逃げるぞ」  顎を押さえながらなんとか立ち上がった男は、言うが早いか一人で回れ右して走り出した。見捨てられた残る二人も慌てて後に続き、荷物搬入用の裏口からばたばたと逃げ出していった。  フィーニが大きく息を吐きだす。  ミュシカは階段を下りていった。  こちらを振り返ったフィーニは、まだ怒ったような表情のままだった。むっとした顔でミュシカを睨んでいる。 「もっと早くに助けに来なさいよ! まったく、何やってたのよ!」  第一声がこれである。思わず力が抜けた。  助けてもらった立場でずいぶんと偉そうではないか。普通ならここで言う台詞は「危ないところを助けてくれてありがとう」だろうに。 「もっと、早く……」  握りしめていた短剣が、手から落ちて床に刺さった。ちょうどフィーニの台詞が途切れたところで、トンッという小さな音が響いた。 「……怖かったんだから」  突然、フィーニの顔がくしゃくしゃになる。と同時に、ミュシカにしがみついてきた。 「……怖かったんだから……怖かったんだからぁっ!」  力いっぱいミュシカにしがみついて、胸のあたりに顔を押し付けるようにして、わんわんと泣き出した。その肩に触れると、微かに震えている。  本当に怖かったのだろう。  考えてみれば当たり前だ。  女の子が三人の男たちに半裸で縛り上げられて、怖くないはずがない。いくら傍若無人なフィーニとはいえ、まだ十五歳の女の子。ミュシカよりも年下なのだから。  泣きじゃくるフィーニの身体にそっと腕を回した。優しく背中を叩いて、なだめるように耳元でささやく。 「ごめんね。もう、大丈夫だから」  フィーニは無言で泣き続けている。  しばらく経って少し落ち着いてきたのか、号泣はいつしかか細い啜り泣きに変わってきた。やがてそれも止んで、倉庫の中はしんと静まりかえる。  二人の微かな呼吸だけが聞こえていた。  ミュシカの腕にすっぽりと包まれて、フィーニはただじっとしていた。もう、震えてはいない。それでもミュシカは腕を解かなかった。裸の小さな身体を温めてやるかのように、しっかりと抱きしめていた。  そのまま、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。 「あら、あなたたち。こんなところにいたの?」  不意に、頭上から声が聞こえた。  顔を上げると、いつのまに帰ってきたのか、階段の上にセルタさんの姿があった。  外出のためか、普段よりも少しお洒落に着飾っている。何故か、顔を赤らめてこちらを見下ろしていた。 「……あ、ごめんなさい。邪魔しました? まさかこんなところで、そんなことをしてるなんて思わないから……」 「え?」  意味不明の発言に首を傾げて、それから今の自分たちの状態に気がついた。  フィーニはミュシカにしがみついて、胸のあたりに顔を押し付けるような体勢で、ミュシカの腕はフィーニの身体を包み込むように抱きしめている。  極めつけは、フィーニは下着一枚で裸同然の姿なのだ。  見ようによっては、とんでもない誤解を招きかねない光景かもしれない。 「でも、もっとムードのあるところですればいいのに」 「ちっ、違うんです! これはっ、そのっ……」  慌ててフィーニから離れながら、ミュシカはしどろもどろに説明しようとした。だけど色々なことがありすぎて、言葉がうまくまとまらない。  慌てちゃいけない、と自分に言い聞かせる。ここで変に狼狽えたら、本当に「いけないこと」をしているところを見られたみたいではないか。しかしこの状況下では、慌てるなという方が無理がある。 「急に雨に降られたんで、濡れた服を乾かしていたんですよ」  泣きやんだフィーニがにっこりと微笑んで顔を上げ、慌てふためいているミュシカをフォローする。さすが、いい度胸をしている。  しかし、その後がいけない。 「そしたら、あたしの下着姿に欲情したミュシカが突然抱きついてきて……」 「いきなり裏切るなあぁぁぁっっ!」  先刻までのしおらしさはどこへ行ったのやら。助けてもらった恩も忘れて、掌を返すように普段のフィーニに戻ってしまった。 「二階の寝室、使ってもいいですけど?」 「じゃあお言葉に甘えて……」 「使いませんっ!」  力いっぱい叫んでから、ミュシカは肩を落として大きな溜息をついた。  寄宿舎に帰るのが怖い。  今日の出来事はフィーニの口から、かなり歪んだ形でレイア様たちに伝わることは間違いなかった。 * * * (なんだか、大変な一日だったなぁ……)  夜。  自分のベッドの中で、ミュシカはようやく解放された気分になった。  色々なことがあった日。  フィーニと喧嘩して。  レイア様に叱られて。  強盗騒ぎがあって。  セルタさんにとんでもない勘違いをされて、なんとかその誤解を解いて。  警察やなんかといった面倒なことはセルタさんに任せて帰ってきたものの、それでも寄宿舎の夕食の時刻には遅れてまた怒られて。  お風呂に入った後はもう疲れ果てていて、早々にベッドに入った。  本当に、大変な一日だった。昼間のフィーニとの喧嘩なんて、もう遠い昔のことのように思えてしまう。  結局、昼間のことはそのままうやむやになっていた。フィーニはもうすっかり普段通りだ。ミュシカにしがみついて泣いたことなんて、本当に憶えていないかもしれない。  そのフィーニは、いつも通りミュシカの傍らで寝息を立てている。この部屋に来た翌日からずっと、そこがフィーニの定位置になっていた。なにが楽しいのか、いくら言っても自分のベッドに戻ろうとはしない。最近ではミュシカも諦めていた。 「……ミュシカ」  不意に、フィーニの声がした。眠っていると思い込んでいたので、少し驚いた。 「起きてたの?」 「うん」  もぞもぞとすり寄ってくる気配がする。暗いからお互いの顔は見えないが、顔に息がかかる。女の子らしい、いい匂いがした。愛用のシャンプーの香りだろうか。慣れている香りの筈なのに、何故かドキドキした。 「……ありがとう」 「え?」  突然のことに、何を言われたのか一瞬わからなかった。フィーニの口からは聞き慣れない言葉だった。 「助けてくれて、ありがとう」 「あ、ああ……」  フィーニがミュシカにお礼を言うなんて、初めてではないだろうか。ああ、いや。対面の時、道案内をしてあげた時にはちゃんとお礼を言っていたっけ。 「これは、お礼」  いきなり、柔らかな感触が唇に押し付けられた。暗闇の中でもそれがフィーニの唇だとわかったのは、これが二度目だから。 「な、なにすんのよっ、いきなり!」 「感謝の気持ちを、素直に態度で表したんだけど?」  とんでもないことをしておいて、あっけらかんと言う。どうも、からかわれているのではないかという気がする。 「やめなさい!」 「普通は喜んでくれるんだけどなぁ」  そりゃあ、男性なら嬉しいだろう。フィーニは、少なくとも外見だけなら可憐な美少女なのだから。女嫌いの同性愛者でもない限り、キスされて嬉しくない男なんているわけがない。  それにしても。 「あんた、いつもこんなことしてるの?」  そういえば、初対面の時も道案内のお礼と言ってキスしていった。この「お礼」はフィーニの癖なのだろうか。 「うん、そう。レイアお姉様もアイリーお姉様も喜んでくれたよ。どうしてミュシカは嬉しくないの?」 「お姉様にまでっ?」  予想外の台詞に、思わず大きな声を出してしまう。まさかレイア様やアイリーにまで同じことをしていたなんて。私のお姉様になんてことを、と叫びそうになるのを慌てて堪えた。 「やきもち?」 「そんなんじゃない!」  だったらどうして不愉快なのかと訊かれても、うまく答えることはできない。やっぱり、やきもちなのだろうか。だけどそれは、誰に対するやきもちなのだろう。  フィーニがくすくすと笑っている。 「ミュシカってば、もてもてだね。レイアお姉様もアイリーお姉様も、それにあたしのクラスメイトたちも、みんなミュシカのことが大好きなんだよ。なのにミュシカってば、冷たいんだもの」 「……仕方ないじゃない。昼間、あんたが言った通りだよ。怖いんだよ、私は」 「あたしは、死んだりしないよ」 「……そんなこと、わかってるよ」  また触れられたくない話題になって、ミュシカの口調は自然と少し乱暴になった。 「あんたは殺したって死にやしない。たまに、私の手で首を締めてやりたくなるけどね」 「素手の喧嘩なら、あたしの方が強いと思うけど」 「だから実行しないっしょ」  体格的にはミュシカの方がずっと大きいとはいえ、格闘術を身に付けているフィーニに勝てる筈がない。 「……お姉さまがあんたを寄越した理由が、少しわかるよ。私はダメなんだな。優しいつもりでいて、自分では意識せずに近くにいる人を傷つけている。あんたみたいに図太い人間じゃなきゃダメなんだ」 「ミュシカは優しいよ。とっても。優しい人間って、結局自分が傷つくんだよね。……まだ、痛いの?」 「え?」 「ここの、傷」 「傷?」  フィーニの手が、ミュシカの左胸に触れた。ちょうど心臓の上に優しく置かれる。  小さな手。だけど暖かい。寝間着の薄く柔らかい生地を通して、フィーニの温もりが伝わってくる。  傷。それは心の傷という意味だろう。 「まだ……ね、触れられると痛いよ。だから……さ」  私のことは放っておいて。  そう言おうとした。  だけど、言えなかった。 「誰も、ミュシカの傷を剔ろうなんて思ってない。自分からそうやって殻に閉じこもって、自分で、治りかけた傷のかさぶたを剥がしてるんだ」 「……っ」  ここで言い返せば、また言い争いになるところだろう。だけどミュシカは何も言わなかった。  フィーニの方が正しい、自分でもそれがわかっている。フィーニの口調も強かったが、昼間の嘲るような調子はない。  だから、何も言い返せなかった。  ただ、一言。 「……ごめん」  ただ、それだけをつぶやいた。  胸に触れているフィーニの手が、とても熱く感じる。  ――と。  また、フィーニがくすっと笑いを漏らした。 「……ミュシカって、意外と着やせするんだ?」 「うわぁぁぁぁっっ!」  ミュシカは悲鳴を上げると、横になったまま、跳ねるエビのような動作で壁際まで後退った。  胸を包み込んでいたフィーニの手が、いつの間にか、ふにふにと怪しげな動きをしていたのだ。 六章 お弁当持って冒険に行こう 「……どうして、こんなことになっちゃったのかなぁ」  窓の外を後ろへ流れてゆく景色をぼんやりと眺めながら、ミュシカはつぶやいた。向かいの席では、フィーニが口いっぱいにお弁当を頬張っている。  二人は今、マイカラス王国を横断する大陸鉄道の乗客となっていた。窓を閉めていても、燃料のアルコール臭が微かに漂ってくる。  学校は新年休暇である。もっと北の地方では「冬休み」などと呼ぶらしいが、緯度の低いこのあたりでは「冬」という単語が似合うほどには気温は下がらない。ミュシカは生まれてからこれまで、雪なんて写真でしか見たことがなかった。  ではマイカラスが常夏の国かというと、そういうわけでもない。標高が高く空気が乾燥しているために、一年を通じて気温の変化が少なく過ごしやすかった。  シーリア女学園の新年休暇は長い。創設者のナコ・ウェルが、冬の厳しい北国の出身のためだという話だが、生徒にとっては長い休暇を楽しめるのであれば理由はなんでも構わない。  約一ヶ月の休暇。寄宿生も久しぶりに自宅へ帰省して、家族と一緒に過ごす者が多い。しかしミュシカはどうしてか、気がつくとフィーニと二人で旅行に行く羽目になっていた。  寄宿生としては自宅が近いミュシカは、その気になれば週末にだって帰ることができる。だから夏期休暇も新年休暇も、ずっと自宅で過ごすわけではなく、気の向くままに自宅と寄宿舎を行き来することが多かった。今回も、とりあえず家族と一緒に新年を迎えた後でちょっと寄宿舎に戻ったところを、帰省していなかったらしいフィーニに捕まったのだ。  その、そもそものきっかけは、セルタさんのお店に入ったあの泥棒だった。 * * * 「つまりさぁ……これだと思うんだよね。あいつらが探していたのは」  事件の翌日、ふと思い出したようにフィーニが取り出したのは、古ぼけた一冊の本だった。いや、それとも日記だろうか。  そういえば二、三日前に、フィーニがそれを読んでいるところを見かけたような気がする。 「なに、それ?」 「リンディード・ドゥ・マーヤの直筆の日記」 「えぇっ?」  ミュシカが大きな声を上げると、フィーニは人差し指を唇に当てた。どうやらこれは、内緒の話らしい。 「リンディードって、……あの、リンディード?」 「そう。あのリンディード」  リンディード・ドゥ・マーヤ。  その名は、ミュシカもよく知っていた。二百年ちょっと前に活躍した有名な考古学者で、探検家で、かつ魔術師だ。王国時代の歴史や魔法理論の研究、そして極地や古代遺跡の探検で、多大な功績を残している人物だった。  その直筆の日記となれば、確かに骨董的、学問的価値は相当なものに違いない。  それにしても。 「なんで、あんたがそんなもの持ってるの?」  リースリング家に伝わっていたものだろうか。だとすると、セルタさんのお店とどんな関係があるというのだろう。 「この間、お店に運ばれてきた荷物に混じってた。倉庫の整理をしていた時に見つけて、面白そうだったから内緒で持ち帰って読んでたの」 「それじゃあんたが泥棒だって。でも、じゃあ、あいつらが倉庫で必死に探していたものは……」  フィーニはにやっと意地の悪い笑みを浮かべた。 「あたしたちの部屋、あたしの机の引き出しにあったってわけ」 「でも、お店には他にも値打ちものはあるでしょ? なんでそれが目的だって」  確かに、あの男は「日記」という単語に反応していた。これが目的なのは間違いないだろう。だけど、どうしてフィーニにそのことがわかったのだろう。セルタさんのお店は二束三文のがらくたも多いが、びっくりするほどの値打ちものだって数多くあるのだ。それらを無視して日記一冊に固執した理由がわからない。 「そりゃあ、この日記が一番の値打ちものだからよ。それも桁違いの……ね」  そう言うと、フィーニは意味ありげな笑みを浮かべていきなり話題を変えた。 「ねえミュシカ。もうじき新年休暇だけど、なにか予定はある?」 「いや、特には。家で新年を迎えたら、一度こっちに戻ってくるつもりだけど。それが何か?」 「んふふ……」  ミュシカの問いには答えず、フィーニはただにやにやと笑っているだけだった。 * * * 「いくら他に予定がないからって、新年休暇に宝探しとはね……」  我ながら馬鹿馬鹿しくなって、ミュシカは肩をすくめた。お弁当を頬ばっていたフィーニが、こちらを見て口を動かす。 「ほふぇふぃふぁふぇ……」 「口にものを入れたまま喋るな!」  ごくん、とこちらに聞こえるほどの音を立てて、フィーニは口の中のものを呑み込んだ。 「……だって、リンディードが日記に書き残した『誰にも知られていない、王国時代の素晴らしい宝』だよ? 放っておけるわけがないじゃない」 「それにしてもねぇ……」  そう。  宝探しなのである。  日記の中には、リンディードが偶然発見した〈宝〉に関する記述があったのだ。それが具体的にどのようなものであるかは触れられていなかったが、「この世に二つと残っていない」「想像もつかないほどの価値を持つ」ものであると書かれていた。好奇心の強いフィーニに、興味を持つなといっても無駄だろう。  ちょうど学校が休暇に入って、セルタさんもしばらく旅行に行く予定があるとかで店を休むことになって、その機会にフィーニは宝探しに行くことにしたのだ。  だからといって、どうしてミュシカまでそれに付き合わなければならないのだろう。なんだかうやむやのうちに、同行することを了承させられてしまったような気がする。 (……いっけど、さ。隙だから)  以前ほど、フィーニと一緒にいることが負担に感じなくなっている。ミュシカに対するフィーニの態度が特に変わったわけではないから、単に慣れの問題かもしれない。  だから、たまには気分を変えて旅行というのもいいかもしれない。  それに本音を言えば、古代王国の宝とやらにも興味がないわけではない。もちろん、そんなものが実在することについては半信半疑だし、実在したとしても女学生二人が休暇を利用して簡単に見つけられるとも思ってはいない。それほど簡単に見つかるものであれば、既にリンディード以外の誰かが見つけている筈だろう。  それでも、もしかしたらという期待がある。夢のある話ではないか。  ミュシカだって魔術を志す者。高度な魔法文明を誇った王国時代の宝と聞けば、無視できるわけがない。それがどれほど夢のような話であったとしても。  二人が向かっているのは、国境の山地に近い田舎だった。ソーウシベツからは寝台列車で二日ほどかかる距離だ。日記に書かれていた宝の在処はその山中で、偶然にも麓の村にフィーニの叔父さんが暮らしていたために、親も女の子二人の旅行を許可してくれたのだった。  大陸鉄道で二日かけて、小さな駅で列車を降りて。  半日バスに揺られて、山間に拓かれた小さな村の入口に着いた。  山の麓の、自然たっぷりの村だ。主な産業は林業と茸の栽培。かなり大きな清流と美しい湖もあって、近年は別荘地としても売り出そうとしているらしいが、まだまだ知名度は低い。  周囲を見ると、山の麓に拓かれた村らしく、林が点在する緩やかな斜面にぽつぽつと人家が建っている、といった光景が広がっている。この村で自然を満喫するというのが、旅行の許可をもらう時に親に説明した口実だった。  ミュシカは顔を上げて、村の向こうにそびえる山々を見上げた。この山のどこかに、リンディードが書き遺した〈宝〉があるという。日記の記述を読む限りでは、村からの距離はそれほど遠くはなさそうだ。二百年以上前、リンディードが生きていた時代には、この村の辺りはまだ鬱蒼とした原生林が広がっていたはずだから、ミュシカたちはリンディードよりもかなり楽ができることになる。  しかも二人が滞在するフィーニの叔父さんの家は、村の山側の端に近いところにあるという。バスや乗合馬車の停留所からはかなり歩かなければならないが、その分、山登りには便利だ。  実はその叔父さんの存在が、ミュシカがこの旅に同行することの決め手になった。王国時代の宝の話だけなら、いくらフィーニが強引に誘ったとしても「そんなお伽噺みたいなこと」と笑い飛ばしていたかもしれない。 「でも叔父さんってちょっと変わり者でね。芸術家なんて言っちゃって、わけわかんない絵を描いたり、オブジェを作ったりしてるの」  というのがフィーニの弁だったが、その名前はミュシカには聞き逃すことのできないものだった。  ジェイクト・フィル・ジーンディル。  最初は、単なる同姓同名の別人かと思った。しかしジーンディルなどという珍しい姓でしかも芸術家なんて、国内はおろか世界中を探しても二人といまい。  一般に広く知られているわけではないが、ひどく印象的な作品を創る若手前衛芸術家として、美術マニアの中ではかなり評価が高い。そういえば、セルタさんのお店にも絵が飾ってあった。そしてミュシカも大ファンなのだ。  フィーニの話に最初は乗り気ではなかったミュシカも、ジーンディルの名を聞いて態度を豹変させた。憧れの芸術家に実際に会えるなんて、しかもその家で休暇を過ごせるなんて。あるかどうかわからない王国時代の宝よりも、よっぽど現実的で素晴らしいことではないか。 「ジェイクト先生って、どんな方?」  村の中の道を並んで歩きながら、ミュシカは訊いた。村とはいっても、建物のある部分よりも森の面積が広いようなところで、森の中でハイキングでもしているような気分になる。  ミュシカの質問に、フィーニは何故かぷっと吹きだした。 「なにか可笑しい?」 「一言で言うとね、『先生』なんて呼ぶのはぜんっぜん似合わない奴」  そう、笑って応える。 「こんな田舎に隠ってわけわかんない絵を描いているくらいだからね。はっきり言って変人。歳の割には子供っぽいところもあるし。話しやすいからあたしは好きだけど、親戚の中じゃ浮いた存在だよね」  なんの遠慮もなしにずけずけと言う。ミュシカが知る限り、リースリングの一族は伝統的に葡萄農家、ワイン商人、それに軍人と警官が多い筈だ。その中で前衛芸術家などというのは、確かに変わった存在だろう。しかしフィーニの父親は警察署長などというお堅い職業だと聞いているから、彼女の性格は父親よりもむしろこの叔父寄りではないだろうか。 「ここに来るのは一年半ぶりかな。転入する直前、実家でちらっと顔会わせてるけど」 「ふぅん」 「アトリエとかもあって、独り暮らしなのに家は広いからね。なんにも気兼ねしないで長居できるよ」  そんな話をしながら上り坂を歩いて、そろそろ脚が怠くなってきた頃ようやく目的地に着いた。  フィーニの言う通り、平屋だがかなり大きな家だった。ジェイクトさんは一人暮らしだというからなおさらのこと。  都会育ちのミュシカには、これだけの広さの平屋の家というのも違和感がある。この辺りのような田舎では、手間をかけて二階建て、三階建ての家を建てるよりも、その分広い土地を買って平屋建てにする方が安上がりなのだそうだ。地価の高い都会では考えられない贅沢な話だった。  ここはもう村はずれということで、隣家との距離はずいぶんある。森の中にぽっかりと空いた小さな草原に建てられたログハウス、といった印象を受ける建物だった。  母屋と、渡り廊下でつながったアトリエが、上から見れば大きなコの字を描いている。その中庭は美しい芝生になっていて、樹の地肌そのままのテーブルと椅子が置かれていた。  二人は玄関の前に立って、呼び鈴の紐を引いた。母家の中でベルの音が響くのが微かに聞こえてくる。しかし、なんの応答もない。  フィーニは首を傾げた。 「今日の午後着くって、電報打っておいたんだけどな?」 「先生はアトリエにいらっしゃるのかもよ?」  ミュシカが言うと、フィーニは無言でこちらを見た。何か言いたげな様子だ。 「その、お嬢様みたいな言葉遣いやめてよ。聞く度に吹き出しそうになる」 「まあ、失礼ですこと」  ミュシカはわざとお淑やかに応える。 「私だって、伝統あるシーリア女学園に通う淑女ですもの。このような言葉遣いは当然のことですわ」  手の甲を口に当てて「ほほほ」と笑ってみせると、失礼なことにフィーニはお腹を抱えて爆笑しているではないか。 「ひー、し、死ぬぅ〜。ミュ、ミュシカ、あたしを笑い死にさせる気?」 「……それもいいかもね。本気であんたを殺したくなったら、試しに一時間くらい続けてみるわ」  地の言葉遣いに戻してミュシカは言った。 「まったく、レイアお姉様やアイリーお姉様じゃあるまいし。ミュシカじゃ全然似合ってないよ」 「あたしの言葉遣いが悪いのは、半分はあんたの責任じゃない。あんたが怒らせるようなことばかりするから」  とはいえシーリア女学園の生徒としては、ミュシカの言葉遣いはかなり悪い方であることは事実だ。以前はもっと丁寧だったし、先生と話す時などはもちろん気をつけていた。  もちろん今でも、シーリアに相応しいお淑やかな話し方もできる。しかしそうした言葉遣いで先生と話していた時、横にいたレイア様やアイリー、さらには当の先生までが笑いを堪えているのを見て、以来ミュシカの言葉はすっかり汚くなってしまった。今さらフィーニに責任を押し付けるのは八つ当たりというものだろう。 「そもそも、あんたにとっては仲のいい叔父さんでも、私はジェイクト先生とは初対面なんだから、シーリアの生徒として恥ずかしくない振る舞いをするのは当然でしょ」 「だから、そんな畏まるような奴じゃないって」 「目上の人を『奴』なんて呼ぶのおよしなさい」  フィーニがまた吹き出す。 「およしなさい、なんて。レイアお姉様の物真似みたい」 「あのねぇ!」  むっとして唇を尖らせるミュシカを置き去りにして、フィーニはアトリエの方へと歩き出した。母屋とは渡り廊下でつながった建物だが、外から直接入れる小さな玄関もあり、フィーニは声もかけずに勝手に扉を開けて入っていく。ミュシカは小声で「お邪魔します」とつぶやいて後に続いた。  入ってすぐの部屋を覗き込む。人の姿はない。  そこはどうやら、絵を描くのに使っている部屋らしかった。窓の大きな明るく広い部屋の中央には、キャンバスを立て掛けたイーゼルが立っていて、その周囲にも描きかけなのか失敗作なのか、キャンバスやスケッチブックが乱雑に放り出してある。油と絵の具の匂いがつんと鼻についた。  絵は描きかけのものばかりではなく、きちんと完成しているらしいものもあった。何枚かは壁に飾ってあり、クリップで留めて棚に並べられているキャンバスも多数ある。 「……素敵」  憧れの画家の作品を前にして、ミュシカは思わず溜め息をついた。ほとんどが抽象画で何をモチーフにしたものなのかはさっぱりわからない。それでも、心にじーんと染み込んでくるものがある。  ジェイクト・フィル・ジーンディルといえば、極めて抽象的な前衛芸術家として知られている。しかしここには何枚か、山や湖などの風景画もあった。 「これ、すごく素敵」  一枚の絵を指差す。  この近くの風景だろうか、山に囲まれた夕暮れの湖の絵だ。沈みかけた夕陽を中心とする鮮やかな朱色と、暗くなりはじめた周囲の灰色の雲の対比が印象的で、水面に映って揺らめいている夕陽が感動的なまでに美しい。 「ジェイクト先生って、こんな絵も描かれるのね。一般に知られてるのは抽象画ばかりだけど、こうした風景画もすごく素敵」 「適当にわけわかんないもの描けば、バカな評論家連中が勝手に『これぞ芸術だ』とか言ってくれるからだって」 「え?」  突然にフィーニの台詞にミュシカは振り返る。一瞬、意味が分からなかった。 「叔父さんが、変な絵ばかり描く理由。笑いながら、自分でそう言ってたよ」 「あ……ああ、なるほど……」 「あたしはこっちの方が好きだけどね。ね、ここにある絵で、これが一番素敵だと思わない?」  フィーニは立てて棚に並べてある絵の一枚を取り出した。なんの迷いもなしに一枚だけ選んだところを見ると、ずらりと並んでいる絵をすべて把握しているのだろうか。  それもまた、珍しい作風だった。人物画だ。場所はここの中庭だろう。芝生の上の白い椅子に座った、十歳くらいの女の子が楽しそうに笑っている。 「なんたって、モデルがいいじゃない」 「え?」  そう言われてよくよく見れば、なんだか見覚えがあるように感じたモデルの女の子は、数年前のフィーニではないか。なにが「モデルがいい」だ。ずうずうしいにもほどがある。 「モデルはちょっといまいちだけど、先生の技術はそれを補って余りあるわね」  わざとそう答えてやった。フィーニは膨れて「モデルを選ぶ目も画家の技術のうち」とかなんとか、ぶつくさと言っている。  実際のところ、確かに素敵な絵だった。モデルの少女の、きらきらと輝くような笑顔の魅力を余すところなく描き出している。だからといって、フィーニの前でわざわざ口に出して褒めたりはしない。少し、嫉妬していたのかもしれない。こんなに素敵な絵を描いてもらえるなんて、と。  他の絵も全部見てみたかったが、まずはジェイクト先生に挨拶するのが先だ。二人は隣の部屋へ移動した。  そこはさらに広い部屋だった。学校の教室ほどの広さがある。その広い部屋が、がらくたの山に埋まっていた。散らかり具合という点では、セルタさんのお店の倉庫にも負けていない。  大小様々な石膏の塊。  まだ粉のままの石膏の袋。  様々な形状の木材。  掘り出したままの大きな切り株。  鉄筋や針金、大理石、その他もろもろ。  そうした素材ばかりではなく、作りかけなのか失敗作なのか、奇妙な彫刻やオブジェが所狭しと並んでいて、その間に木工、鉄工それぞれの工具が雑多と散らばっている。 「うわぁ……これは、また、なんというか……」  本当に、足の踏み場にも困るほどだ。まるで自分が身長二十センチほどの人形になって、子供のがらくた箱にでも入り込んでしまったような心境だった。 「正直に言えば? 汚い部屋、って」  フィーニがからかうように言う。確かにその通りなのだが、しかし敬愛するジェイクト先生のことを悪く言いたくはない。 「げ、芸術家の心というのは常人には伺い知ることのできないカオスであり、だからこそ、その中から素晴らしい作品が生まれてくるのよ。このアトリエは、先生の精神世界の混沌を、三次元世界に投影した姿なんだわ」  舌を噛みそうになりながら芸術を語るミュシカを、フィーニは馬鹿にしたように笑っている。  確かにここは、不可解な空間だった。これに比べれば、たとえ抽象画であっても絵画の方がまだ理解できる。世に出ているジェイクト先生の彫刻は、もっとも「わかりやすい」作品なのだと今さらのように気がついた。  ここには、前の部屋のような写実的な作品はひとつもない。ミュシカの目には、鉄骨やら角材やら削った大理石やらを、でたらめにつなぎ合わせたようにしか見えなかった。  形状としてはわかりやすくても、その意図がまるで理解できない作品もある。例えば二人の目の前に、指くらいの太さの金属棒を組んで作った、釣り鐘型の大きな篭があった。ミュシカが背伸びしてもてっぺんにはまるで届かないくらいの高さがある。 「これは?」 「あ、それは駝鳥篭」  笑いを堪えているような表情でフィーニが応える。 「だちょうかご?」 「駝鳥を屋内で飼うための鳥篭」 「……」  思わず絶句してしまった。確かにそのくらいのサイズはあるし、形は鳥篭そのものだ。しかし、駝鳥を鳥篭で飼うなんて聞いたことがない。 「先生は、駝鳥を飼っていらっしゃるの?」 「まさか。これも芸術なんだってさ」  フィーニはいかにも馬鹿にしたような口調で「ゲージツ」と発音した。 「ほとんどペテン師だよね。さすがにこれを芸術として買うバカはいなかったみたいだけど」 「でも、売約済みの札が……」  駝鳥篭に貼られていた小さな紙を指差すと、フィーニはそれを裏返して見せる。 『マイカラス国立動物園付属 鳥類研究所』  そう書かれている。フィーニがけらけらと笑った。 「まあ、本来の用途に使われるんだから、その方がいいかもね」 「……し、真の芸術は、無数の挑戦と失敗の中から生まれるのよ」  ミュシカの言い訳もだんだん苦しくなってくる。話題を逸らそうと、駝鳥篭の隣に置かれている、負けず劣らず大きなオブジェに近付いた。 「こ、これは何?」  縦横三メートル弱、厚さ二十センチ以上のコンクリートの土台から、体育の鉄棒のように二本の金属パイプが垂直に生えている。その先にミュシカの太ももくらいの太さのスプリングとか、金属製のワイヤーなどがごちゃごちゃとついていた。単に金属部品を適当につなぎ合わせただけなのか、駝鳥篭のようになんらかの実用的な(?)意図があるのか、まるで見当もつかない。  強いて印象を言えば、 「これはあたしも初めて見る。なんてゆーか……二十倍スケールのネズミ獲り?」  というフィーニの感想の通りだろう。  その時。 「惜しいな」  突然、背後から声がした。二人が同時に振り返ると、部屋の入り口に三十歳少し前くらいの男性が立っている。 「それは、二十分の一スケールの『竜捕獲機』だよ」  青年は、悪戯っ子のような笑みを浮かべてそう言った。 * * * 「獲物が竜じゃあ、動物園も買ってくれないね」  フィーニはそう言って笑うと、お茶のカップに口をつけた。 「いやいや、そんなことはわからないさ」  ティーポットを手にした先刻の青年――言うまでもなくジェイクト先生本人――が真顔で応える。  ミュシカが想像していたよりも若い。まだ三十歳にはなっていないのだそうだ。笑った顔はもっと子供っぽい雰囲気になって、大学生くらいの印象を受ける。背があまり高くないことや髪と瞳が濃い茶であることなどは、姪のフィーニにも似ていた。あの不可思議な絵画や彫刻は、凝り固まっていない、子供っぽい柔らかな頭脳から生まれるのかもしれない。  今は三人で、中庭のテーブルで午後のお茶を楽しんでいる。憧れのジェイクト先生とひとつのテーブルでお茶。ミュシカは夢心地だった。 「で、あの竜捕獲機って何? 駝鳥篭シリーズの第二弾?」  フィーニが遠慮のない言葉を吐く。ジェイクト先生が苦笑する。 「手厳しいな。別にシリーズのつもりはないけれど。芸術とは本来、人の心を楽しませるもの。気取ってばかりいないで、遊び心が必要とは思わないか?」  台詞の後半は、ミュシカに向かって訊いてきた。 「え、そ、そうですよね! さすがジェイクト先生、芸術に対して深い考えをお持ちなんですね」  思わず居ずまいを正して応えると、何故か先生は小さく笑った。 「わ、私、何かおかしなこと言いましたでしょうか?」 「いや、いかにもシーリア女学園のお嬢様らしい話し方だなって。そんな学校にフィーニが通っているのかと思うとなんだか可笑しくてね。僕はいまだに信じられないよ。よくも三日で放校にならなかったものだ。おかげで賭けに負けてしまった」 「はぁ」  ミュシカは曖昧な返事を返した。いったい誰と賭けていたのだろう。それにしてもさすがに叔父さんだけあって、フィーニの本性はよくわかっているらしい。フィーニもここでは猫をかぶる素振りすら見せない。 「ああ、ところで」  ジェイクト先生はミュシカの方を見ると、人差し指を立てて言った。 「ここでは、『先生』はいらないよ。そんな呼び方をされると、なんだか背中がむずむずする」 「あ、……はい」  ジェイクト先生……いやジェイクトさんは、偉ぶったところがない、いい人だった。フィーニが「話しやすくて好き」と言っていたのもわかる気がする。  それにしても、ジェイクトさんがフィーニの本性を知っていてくれてよかった。ミュシカとしても、変に取り繕う必要がないから気が楽だ。もしも「学園でのフィーニはどんな様子?」なんて訊かれたりしたら、「シーリアの伝統に恥ずかしくない、立派な淑女として学園生活を送っています」なんて、吹き出さずに言えるわけがない。 「君……ミュシカは、フィーニと同室なんだって? 苦労してるだろう?」 「はい」  つい反射的に、本音で答えてしまった。一瞬、「あっ」と口を押さえて。 「……その、まあ……少しは」  しどろもどろにフォローしたけれど、どう考えても手遅れだ。フィーニが頬を膨らませているが、これはミュシカの発言に気を悪くしたためか、それとも口いっぱいにクッキーを頬張っているためかははっきりしない。 「まあ、ゆっくりしていくといいよ。森と湖しかない田舎だけどね」 「それで充分。今回は、山歩きを楽しむために来たんだもん、ねー?」 「あ、はい。そうなんです」  ミュシカに向かって念を押すようにフィーニが言うので、慌てて話を合わせた。  どうやら、宝探しのことはジェイクトさんには内緒らしい。セルタさんにも内緒で来たくらいだから当然か。  こういった冒険は、子供だけの方が楽しいのだ。 「部屋は、二階の奥の客間を好きに使っていいから。自分の家と思って気楽に過ごしなよ。まあ、こいつには言う必要ないけどね。少し遠慮しているくらいでちょうどいいんだが」  ジェイクトさんの視線は、テーブルの上と、そしてフィーニに向けられている。クッキーを盛ってあった筈のお皿がほとんど空になっていて、その中身はフィーニの胃に収まっていた。 * * * 「夜になると、やっぱり静かですね」  ミュシカはぽつりと言った。  夕食後、居間でくつろいでいるひととき。これがソーウシベツのような都会の街中であれば、夜でも市街鉄道や馬車の音が聞こえてくるし、そもそも寄宿舎は消灯時刻まで女の子たちの声で溢れている。  しかしここで聞こえてくるものといえば、梟かなにかの鳥の声と虫の鳴き声、そしてたまに獣の遠吠えくらいのものだ。一番賑やかなフィーニがお風呂に入っているので、なおのこと静かさを意識してしまう。  ジェイクトさんはソファに深く腰を下ろして、ブランデーのグラスを傾けている。ミュシカは甘口の白ワインを少しだけご馳走になった。さすがはワインで名を馳せたリースリングの一族、この家の地下にも素晴らしいワインやブランデーがずらりと並んでいた。  自分の手の中のグラスに目をやる。とろりとした金色の液体が揺れていた。三十年ものの貴腐ワイン、蜂蜜のように濃厚な芳香が漂ってくる。  普通に買えば、かなり高いものだろう。まさしく、液体の形をした黄金だった。 「君はずっと都会暮らしかい?」 「実家はソーウシベツの郊外なんです。家から通えないこともないけれど、ちょっと遠いので寄宿舎に」 「てことは、オルディカの本家?」 「ええ」 「じゃあ、フィーニとは遠い親戚みたいなものだ」 「まあ……そうですね」  嫌そうな表情が表に出ないように気をつけて返事をする。それは普段、できるだけ考えないようにしていることだった。実は、あのフィーニと血のつながりがあるなんて。  オルディカもリースリングも、ソーウシベツに本家のある古い家系で、昔はともに領主のマツミヤ家に仕えていた。両家と、そしてマツミヤ家の間には過去幾度も婚姻関係があったから、確かに遠い親戚には違いない。 「そのせいかな、フィーニはずいぶん君に懐いているようだね」 「そう……でしょうか?」  懐かれているというよりは、なめられているような気がする。それにフィーニは、レイア様にだってアイリーにだってよく懐いている。別にミュシカに対してだけが特別とは思わない。 「いや、本当に。思っていたよりもずっと元気そうだったんで安心した」 「え?」  意外な言葉に、思わず声を上げる。「思っていたより元気そう」だなんて。  フィーニは転入してきた時からずっとあの調子ではないか。元気をなくすことなんてあるのだろうか。  いや、そういえば。  ふと思い出した。ミュシカと同室になった最初の夜、フィーニがベッドの中で声を殺して泣いていたことを。ミュシカが添い寝してやるようになってからはなくなっていたけれど。 「引っ越し前はごたごたしていたからね。ずいぶん落ち込んでいたっけなぁ」 「え?」  落ち込んでいた? あのフィーニが?  どうしてだろう。憧れのシーリア女学園に通うことができるのだから、むしろ喜ぶべきことではないだろうか。  そういえば、以前にも疑問に感じたことがあった。どうして、年度途中のこんな半端な時期に転校してきたのだろう、と。  以前からシーリア女学園に憧れていたのなら、普通に入学試験を受けるだろう。フィーニは家柄や経済状態にはまったく問題はないし、外見からは想像もできなかったが、すごく頭がいいのだ。そもそも、転入試験は入試よりも難易度が高い。  だったら、何故、転入なのだろう。  やはりなにか、急に親元を離れなければならない事情があったのだろうか。転入前はそのために落ち込んでいたのだろうか。  ジェイクトさんの言葉は、その可能性を示唆していた。 「あの子はいい友達に恵まれたようだね。仲良くしてやってくれよ」 「は、はい。ええと、あの……」  詳しい事情を訊いてみたかった。どうしてフィーニがシーリア女学園に来ることになったのか。  だけど、なんとなく思いとどまった。  なんだか、訊いてはいけないことのような気がした。誰にだって、触れられたくないことの一つや二つはあるものではないか。ミュシカ自身がそうであるように。  だったら、あまり詮索しない方がよいのかもしれない。  ミュシカが口を開きかけたまま躊躇していると、背後からフィーニの声がした。 「叔父さーん、お風呂あいたよー」  振り返ると、お風呂上がりのフィーニがバスタオルを巻いただけの姿で立っている。いくら親戚とはいえ、年頃の娘が男性の前ではしたない。 「じゃあ、僕も風呂に入ってこよう」  ジェイクトさんがグラスを置いて立ち上がる。後にはフィーニとミュシカだけが残された。  フィーニは戸棚から自分のグラスを出してきて、ミュシカと同じワインを注ぐ。 「なんの話してたの?」 「え、えっと……」  ミュシカは口ごもった。本当のことは、言わない方がいいような気がする。 「わ、私みたいな優しくて美人の上級生と同室で、フィーニは幸せ者だって」  冗談めかしてそう言ったら、フィーニってば。 「ふっ」  失礼なことに、思いっきり鼻で笑ってくれた。 七章 賢者の宝物  翌日から、山歩きの毎日が始まった。  リンディードの日記と、ここに来る前に買ってきたこの山の地図を手に、脚が棒になるまで山の中を歩き回る。しかし当然のことながら、王国時代の財宝など、そう簡単に見つかるものではなかった。  肝心の日記も、通った道とか周囲の特徴的な地形については書かれているが、全体的な地図がないために、買ってきた地図と照らし合わせてもなかなかリンディードが通った経路が見つからない。  どうやらフィーニは、もっと簡単に見つかるものと思っていたらしいが。 「だってさぁ、他に考えようがある?」  山中の河原で休憩している時にフィーニが言った。 「日記に書かれている川は、これとしか考えられないよね。『三段の滝の上より河原を遡る。二ノ沢に入りて一刻、滝の裏に洞窟を発見せり』。間違えようがないじゃない」 「でも、肝心の二ノ沢の滝が見つからないよね。一刻どころか、二刻以上も沢を遡ったのに」  三段になった滝はすぐに見つかった。そこから川に沿って遡って、本流に流れ込んでいる沢へ入ったのだが、肝心の滝や洞窟は見つからなかった。 「二ノ沢を間違えてるのかなぁ。三段の滝から数えて二番目、って解釈が普通だと思うけど」 「でも、あれだけ探して滝と呼べるものが一つもなかったんだから、やっぱり違うんだよ。違う沢を探してみる?」 「そうだね。じゃあ隣の沢から順に……」  小さな沢の一つ一つには、地図にもちゃんとした名前など書かれていない。こうなったら、付近の沢をしらみ潰しに探してみるしかないだろうか。  色々と考えて少しずつ捜索範囲を広げていくが、それでも宝が隠されているという洞窟は見つからない。四日目にもなると、ミュシカはほとんど諦めかけていた。 「もう諦めて、湖に泳ぎに行くってのはどう?」  河原でお弁当を食べている時にミュシカは言った。しかしフィーニの方は、宝探しにかける情熱を失っていないようだ。 「なに言ってるの!」  冗談じゃない、とばかりに大きな声を上げる。 「たった四日で諦めるなんて。王国時代の宝が、そんな簡単に見つかると思ってンの?」  思っていない。思っていないからこそ、諦めているのだ。 「簡単に見つからないものなら、素人の女学生二人が新年休暇を丸ごと使ったって、見つかるとは思えないけど」  至極もっともな指摘に、フィーニはぷぅっと膨れた。 「ミュシカは、つまらない?」 「え?」 「あたしに強引に連れてこられて、迷惑だった?」  そう訊くフィーニの口調が、微妙に変化し始めていた。この前喧嘩した時、「あたしのことが、邪魔?」と訊いた時と同じ声音だ。  大きな瞳が、真っ直ぐにミュシカを見つめている。普段ふざけてばかりいるだけに、たまにこうして真剣な表情をされると戸惑ってしまう。下手な受け答えはできない雰囲気だった。 「べ、別に、迷惑なんかじゃないよ。家にいたって退屈なだけだし、休暇中は寄宿舎も人が少ないしね」 「……ホントに?」 「そりゃあ、宝なんて簡単に見つかるとは思ってないけどさ。いい暇つぶしになるし、ここに来たおかげで、ジェイクトさんにもお会いできたんだし……楽しいよ」 「そう、よかった」  フィーニがにこっと笑う。本当に、くるくると表情がよく変わる娘だ。 「ホントはねぇ……ミュシカと、一緒にいたかったんだ。休み中ずっと会えないんじゃ、寂しいもんね」 「え?」  一瞬、心臓が大きく脈打った。  ふざけているのかと思った。いつもの冗談なのかと。しかしそんな雰囲気ではない。同じ笑顔でも、ふざけて冗談を言っている時とは微妙に違う、どことなく儚げな笑みを浮かべていた。  急に、鼓動が速くなるのを感じた。ミュシカは慌てて話題を変える。 「と、ところで、宝って、具体的にどんなものなんだろうね」 「さぁ……。でも、素敵なものに違いないよ。リンディードがなんて書いていたか、憶えてる?」  ミュシカは首を左右に振った。フィーニは日記の内容がすっかり頭に入っているのか、すらすらと暗唱してみせる。 「狭い洞窟を手探りで進むこと一刻半、我、光の王国の至宝を発見せり。現在の大陸において、恐らくは唯一無二の存在なり。世間に知らしめることなど思いもよらず、我の胸の内に秘め置くことを誓いて洞窟を後にす――リンディードがこうまで書いているんだもの」 「きっと、ものすごく価値のある、素晴らしいものに違いないだろうね」 「え?」  最後の台詞は、二人が発したものではなかった。男の声だ。慌てて、声がした方を振り返る。 「――っ!」 「あぁ――っ!」  二人は同時に叫び声を上げた。  話に夢中になっている間に近くへ来たのか、三人の男が立っている。セルタさんの店に泥棒に入った、あの男たちだった。 「この間の、フィーニを脱がした変態ロリコン野郎!」 「誰がロリコンだっ!」  本気で怒ったのか、先頭の男が顔を真っ赤にして怒鳴り返してくる。 「それは冗談として、セルタさんの店で会ったこそ泥ども」 「こそ泥とは失礼な」  男は気障な動作で、目にかかる前髪をさっと手で払った。こんな山の中なのに相変わらず、お店であった時と同じようにお洒落な麻のスーツに身を包んでいる。ミュシカは感心するより先に呆れてしまった。後ろの二人の男は、普通に登山者風の恰好をしている。 「僕はただ、王国時代の浪漫を追い求めているだけさ。そのためなら、君らの素性を調べてここまで追ってくる苦労もなんのその」 「浪漫……ねぇ」  男の口から聞くと、歯の浮くような、聞いてて背中が痒くなる単語だ。 「……要するに、遺跡荒らしってわけね」  大陸中に点在する古代王国時代の遺跡を盗掘し、金目のものを見つけては売りさばく連中だ。昨今は世界中で遺跡の保存が叫ばれており、こうした盗掘者の存在が問題になっている。 「遺跡荒らしだなんて」  男は、気分を害した様子で言った。 「そんな、野暮ったい呼び方はやめてくれたまえ。もっとスマートに……。例えば、トレジャーハンターとか」 「とれじゃあはんたぁ?」  フィーニとミュシカは声を揃えた。心の底から胡散臭そうな目で男を見る。気障なんだかただの馬鹿なんだか、よくわからない人物だった。 「ちなみに、本名はアイク・アル・セディ。以後お見知りおきを」  泥棒のくせに名前を名乗るとは、やはり馬鹿だろうか。 「じゃあ、そこの自称トレジャーハンター」 「自称、は余計だ!」  こうしたやりとりに、後ろの二人の男たちも呆れているような様子だ。彼らはまともな感性の持ち主ということだろう。 「まあとにかく、ここまで追ってくるのは骨が折れたよ。日記を渡してもらおうかな」 「やだ!」  フィーニが即答する。 「あれは、あたしのだもん!」 「実際にはセルタさんのものでしょうが」  ミュシカが小声で突っ込むが、フィーニに無視される。 「だけど、今から僕のものになる。女の子相手に、手荒な真似はしたくないんだけどな」  先頭の男――アイクの手の中に、黒光りする金属の塊が現れた。拳銃だ。  同時に、フィーニが跳ねるように立ち上がった。傍らに置いてあった登山用のステッキを掴み、アイクの手に叩きつける。弾き飛ばされた拳銃が、水飛沫を上げて川の中に落ちた。 「今のうちに逃げるよ」  フィーニがミュシカの手を取る。二人は走り出した。  大きな石がごろごろしている河原をよろけながらも走り抜け、沢づたいに崖の上の登山道へ戻る。ちらっと後ろを振り返ると、男たちは拳銃を拾って追いかけてこようとしているところだ。 「あんたも、拳銃なんか持ってる相手にいきなり危ないことするんじゃないの!」  前を走るフィーニの背中に向かって叫ぶ。腕に自信があるのかもしれないが、傍目には危なっかしいことこの上ない。 「あ、心配してくれるんだ?」 「暴発して私に当たったら困る」 「ぶー」  本来、無駄口を叩いている場合ではないのだが、そうでもしなければ緊迫感に耐えられない。二人とも運動神経にはそれなりに自信はあるが、どちらかといえば短距離型である。大の男三人相手に、持久力で勝てるかどうかとなると少々辛いものがある。 「村まで逃げ切れると思う?」 「無理だね」  きっぱりと断言する。登山道を抜けて村に出るまでは何キロもある。とてもこのペースで走り切れるものではない。 「捕まったら、どうなると思う?」 「……」  正直言って、考えたくない。 「少なくとも、もう日記を渡せば見逃してもらえるって雰囲気じゃないよねぇ」  目撃者もいない山の中。三人の男と、年頃の女学生が一人、そして外見お子様が一人。当然、予想される展開はひとつ。 「それって、私が一番危ないじゃない!」 「わかんないよ。まだ、あいつのロリコン疑惑が晴れたわけじゃないし」 「ふざけてる場合じゃないって!」 「緊迫した空気を和らげようかと」 「時と場合を考えなさい!」  傍から見たら漫才のような掛け合いを続けながら、それでも二人は必死に山道を走り下っていく。が、どうも形勢は不利な様子だ。 (まずいなぁ……このままじゃ)  追いつかれるのは時間の問題だ。かといって、どこかに隠れてやり過ごすほどの時間的余裕もあるかどうかわからない。隠れる場所を探している途中で追いつかれたりしたら一巻の終わりだ。  ミュシカが絶望的な気分に浸っていると。 「ミュシカ、ストップ!」  いきなり、フィーニに脚を引っ掛けられた。まともに転んで鼻の頭をすりむいてしまう。 「な、なにすんのよっ! こんな時に!」  追っ手がすぐ後ろまで迫っているというのに、ふざけている場合ではない。しかし冷静になって見ると、フィーニもふざけているわけではなさそうだ。 「あれ、あれ!」  山道の脇の茂みを指差す。草むらの中に生えた数本の灌木に、見覚えのある樹があった。 「……あ」  高さはミュシカの背丈ほどの、細い樹だった。枝がほとんどなくて、杖のように真っ直ぐに伸びている。その幹には無数の鋭い棘が生えていて、先端にわずかばかりの葉を付けている。 「あ、アプシの樹!」  思わず叫んだ。  古くから魔よけとして用いられてきたその樹には、魔力を集中、増幅する性質があり、魔術師の杖の素材として珍重されている。ミュシカが普段使っている杖も、アプシの樹でできていた。 「これがあれば……」  魔法が使える。ただ闇雲に逃げる以外の選択肢が生まれることになる。 「でね、あそこ」  フィーニが、いま走ってきた道を指差した。川が長い年月をかけて削った谷の斜面に刻まれた山道は、片側が草も生えない急な崖になっていて、赤い土が剥き出しになっている。 「……なるほどね」  ミュシカは足元から角張った石をひとつ拾うと、アプシの樹の幹にびっしりと生えている棘を十センチほど削り落とした。その部分を片手でしっかりと握る。 「大地を支える者たちよ、我が呼びかけに応えよ……」  意識を一点に集中し、呪文を詠唱する。急いでいるのでかなり略式ではあるが、精霊の反応はすこぶるよい。自然そのままの山の中であることと、そこに自生していたアプシの樹を杖として使っているためだろう。  大地が、樹々が、風が、ミュシカの声に応える。  ほどなく、追ってくる男たちの足音が聞こえてきた。ミュシカは慎重にタイミングを計る。  追っ手が、ちょうど崖の一番急な部分にさしかかる直前。 「今よっ!」  フィーニが叫ぶ。その声に合わせて、ミュシカは魔力を崖の一点に叩きつけた。  小さな爆発でも起こしたように、いきなり崖が崩れ落ちる。赤茶けた土埃をもうもうと上げ、大きな岩がごろごろと谷底へ転がり落ち、細い山道を十メートル以上に渡って完全に埋めてしまう。  土埃が立ちこめていて向こうは見えないが、男たちが崖崩れに巻き込まれなかったとしても、ここを通り抜けるのは容易ではないだろう。崩落した斜面はもろくなって、下手に通ろうとしたらまた崩れかねない。  これで、かなり時間を稼ぐことができた。 「さ、今のうち」 「うん。ありがとう。ごめんね、棘を削ったりして」  命の恩人、もとい恩木であるアプシに一言謝って、また二人は走り出した。今度は幾分ゆっくりとしたペースで。  村へ帰り着くまで、追っ手の気配は感じられなかった。 * * * 「どうしたんだい? そんなに汗だくになって」  息を切らして帰り着いた二人を迎えたのは、ジェイクトさんの呑気な声だった。中庭の椅子で読書をしていたらしい。  ずっと走り詰めだった二人はぜぇはぁと肩で荒い息をしていて、すぐには答えられない。 「いや……なんと……言ったら……いいか……」 「とにかく……み……水……」  二人はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。  ジェイクトさんは怪訝そうな顔をしながらも、飲み物を取りに母屋へ入っていく。そのついでに、二人の荷物も運んでいってくれた。  すぐに、冷たい水で薄めた果汁を満たした水差しと、二つのグラスを持って戻ってくる。二人は一気にそれを飲み干して、ようやく一息つくことができた。 「で、何があったんだい? 熊にでも追いかけられたのかな」  面白そうに聞いてくる。 「……そう。ロリコンの熊にね」  疲れ切った顔に笑みを浮かべてフィーニが答える。  ――と。 「誰がロリコンだっ!」  背後から、聞き覚えのある声が響いてきた。おや、という表情でジェイクトさんが顔を上げる。二人は恐る恐る振り返った。  そこにはあの男――アイクが、二人以上に汗だくになって立っていた。麻のスーツが汗と赤土でまだらに汚れ、しわくちゃになっている。  後の二人は遅れているのか、それとも崖崩れに巻き込まれたのか、姿が見えない。 「……たく……手間……かけさせやがって……日記を……渡して……もらおうか」  ぜいぜいと苦しそうに息をしながら、それでもアイクはポケットから拳銃を取り出した。銃口を向けられた二人が硬直する。ミュシカの杖もフィーニの剣も部屋の中、手元に武器はない。 「なにやら、物騒なことになってるね。いったい何事だい?」  こんな状況下でも、ジェイクトさんの声はまったく普段通り、どことなく面白がっている調子だ。剛胆というよりは無神経というべきだろうか。いずれにしても、芸術家の頭の中などミュシカには伺い知ることはできない。 「こいつ、悪い奴なのよ!」  アイクを指差してフィーニが言う。 「それは見ればわかるが」  そりゃあわかるだろう。女の子に拳銃を突きつけているのだから。 「ついでにロリコンで」 「それも見ればわかる」 「わかるかっ!」  アイクが叫ぶ。どうもこの話題には敏感に反応するようだ。もしかしたら後ろ暗いところがあるのかもしれない。 「えっと……」  フィーニに任せておくとさっぱり話が進まないような気がしたので、ミュシカが後を継いで説明した。 「……この人は、王国時代の財宝を狙っている遺跡荒らしらしいです」 「トレジャーハンターと呼べと言ったろう!」  細かいことにこだわる男だ。ついでに怒りっぽい。 「なるほど。で、日記って?」 「あの、リンディード・ドゥ・マーヤの直筆の日記で……、この山のどこかに隠された財宝の在処が記されて……」 「ふむ」  ようやくジェイクトさんが納得顔になる。 「リンディードの日記? それを君たちが持っていて、彼が奪い取ろうとしている、と?」 「そういうことです」 「わかったら、さっさと日記を出しやがれ!」 「……そうだね」 「叔父さん!」 「ジェイクトさん」  ジェイクトさんはあっさりとうなずいた。フィーニとミュシカは不平混じりの声を上げる。せっかくこれだけ苦労したのに、はいそうですかと日記を渡すのは癪だ。 「相手は銃を持っているんだ。ここは大人しく従った方がいい」 「なかなか聞き分けがいいな。年の功ってやつかい? このじゃじゃ馬どもとは大違いだ」  じゃじゃ馬扱いされたフィーニがべーっと舌を出す。しかし年の功なんて言っているが、ジェイクトさんとアイクの年齢は、十歳も違わないだろう。 「じゃ、日記を取ってくるよ。待っていたまえ」  ジェイクトさんが回れ右をする。 「ちょっと待て!」  その背中にアイクは銃口を向けた。 「妙に素直だと思ったが、さては家の中に武器を隠しているな? 俺もついていく。ほら、お前らもだ」  二人に銃口を向けて、立ち上がるように促す。二度も痛い目に遭っているせいか、フィーニとは微妙な距離を空けている。これではフィーニも手出しはできないようだ。渋々、アイクの言葉に従う。 「あんたが先頭を行きな。妙な真似したら、小娘どもの命はないぞ」  先頭にジェイクトさん、その後ろにフィーニとミュシカ、アイクは一番後ろでミュシカの背中に銃口を突きつけている。 「わかってるよ。ご心配なく」  ジェイクトさんは従順そうに歩き出した。しかし二、三歩進んだところで、ミュシカはおかしなことに気がついた。ゆっくりと表情を観察している余裕もないが、フィーニもなにか変だと感じている様子だ。  日記は、フィーニの鞄の中に入っている。その鞄は、先刻ジェイクトさんが母屋の中へ運んでいった。しかし今、ジェイクトさんはアトリエへ向かっている。  単なる勘違いか、それとも何か企んでいるのだろうか。  ゆっくりと進んで、アトリエの奥の、あのがらくただらけの部屋へと向かう。 「見ての通り散らかっていてね。ええと、どこにしまったかな」  妙な動きをしていないことを見せつけるためだろうか。ジェイクトさんはゆっくりとした動作で、がらくたの山をかき回している。  一体、どういうつもりなのだろう。まさか、このがらくたの中に拳銃か何かを隠しているというわけではあるまい。工具の中に刃物くらいはありそうな気もするが、それで拳銃に立ち向かうつもりとも思えない。  それとも、適当な本を渡して誤魔化すつもりだろうか。しかしジェイクトさんは日記の実物を見ていない。どんなものを渡せば偽物とばれないか、わからないだろう。 「それにしても汚ねぇ部屋だな」  アイクが呆れたように室内を見回している。正直なところ、こればかりはミュシカも同意見だ。 「あまり、その辺のものに触れないようにね。落ちている金属片とかで怪我するかもしれない」  ジェイクトさんはがらくたの山の発掘を続けながら、相変わらず呑気な声で言う。こんな状況なのにまるで緊張している様子がないのは、ある意味頼もしいかもしれない。 「なんだ、このネズミ獲りの化け物は?」  やはり、この部屋で一番の大作は目を引くらしい。アイクが怪訝そうに訊く。『竜捕獲機』に対しては、どうやらフィーニたちと同じ印象を受けたようだ。 「竜捕獲機の二十分の一模型さ」 「ゲージツ家って奴は、なに考えてるのかわかんねーな。この部屋なら、ネズミ獲りの方がよっぽど必要だろうによ」 「確かにね」  ジェイクトさんも苦笑する。 「そいつはでかすぎて、ネズミは獲れないからなぁ。大は小を兼ねるってのは場合によりけりだね。あ、こんなとこに」 「あったのか?」  アイクの目が輝く。 「いや。確かに、ネズミ獲りが必要なようだ」  振り返ったジェイクトさんは、その手に持っていたものを掲げて見せた。灰色の、古い汚れたモップのようなそれは、手の中でじたばたと暴れている。  ネズミ、しかもやたらと大きなネズミだった。 「きゃあっ!」  鼻先にネズミを突きつけられた女の子に相応しい反応として、ミュシカは悲鳴を上げて跳び上がった。一歩後ろに飛び退いて、背中からアイクに体当たりするような形になってしまう。  バランスを崩してよろけたアイクは、反射的に近くにあった金属パイプに掴まろうと手を伸ばした。  そして――  バキィィンッ! 「うわぁぁっっ?」  金属がぶつかり合う大きな音と、男の悲鳴が重なる。  アイクが、竜捕獲機の金属パイプに挟み込まれていた。強力なスプリングに押さえつけられているその姿は、まさにネズミ獲りにかかったネズミそのものだった。手から拳銃が飛び出して床に転がる。  じたばたと手足を振り回して暴れているが、頑丈な竜捕獲機はびくともしない。 「くそっ、なんだこりゃっ?」 「だから言ったろう。下手に触ると怪我するって」 「てめえっ、謀りやがったな!」 「偶然だよ、偶然」  ジェイクトさんは笑って応えると、掴まえていたネズミを床に放してやる。 「ありがとう、サイファー。君のおかげで助かったよ」  ネズミは一瞬で物陰に走り去っていった。 「まさか……ペット、ですか?」 「まさか。勝手に住みついてるんだけど、なんだか情が移ってね」 「で、名前まで付けてるんですか? サイファーって、昔のアルトゥル王国の、有名な騎士の名ですよね」  高名な騎士の名をよりによってネズミに付けるなんて。本人が聞いたら化けて出てくるかもしれない。やっぱりジェイクトさんって変わり者だ。 「で、叔父さん。これ、どうするの?」  落ちた拳銃を拾い上げたフィーニが、まだもがいているアイクを指差す。 「このまま警察に引き渡せばいいんじゃないかな?」  ジェイクトさんはそう答えた後で、腕を組んでなにやら考え込んだ。 「……これ、警察で買ってくれないかな。凶悪犯の拘束用に」  もちろん冗談だろうとミュシカは思ったのだが、ジェイクトさんの目は真剣だった。 * * *  三人はアトリエを後にした。  警察に通報するにしてもまずは一息ついてから……と、背後から聞こえてくるアイクの罵声はとりあえず無視だ。  ところが――  中庭に出たところで、また銃口を突きつけられた。  アイクと一緒にいた筈の二人の男だ。アイク以上に全身泥まみれになっている。 「一人じゃなかったのかい?」  両手を上げながら、ジェイクトさんがちらりとフィーニを見る。 「言わなかったっけ?」 「うん、言ってない」  ミュシカもうなずいた。なにしろ詳しい事情を説明する間もなしにいろいろあったから。 「叔父さん、また何かうまい手で切り抜けられない?」 「残念ながら、僕は今のところタネ切れだね」  その割には呑気そうな口調で肩をすくめる。のんびりしたその態度が癇に障ったのか、男たちが声を荒げた。 「さっさとブツを出しやがれ!」 「さもないと土手っ腹に風穴が開くぜ」 「使い古された台詞だなぁ。いまいち、新鮮味がないというかなんというか」 「うるせぇ!」  本当に、物事に動じない人だ。まる四日、一緒に暮らしているが、これまで一度も慌てふためいたり怒ったりしているところを見たことがない。 「君らのお仲間は中で捕まってるが、彼を連れておとなしく帰る気は?」 「ここまで来て手ぶらで帰れるか!」 「それがお互いのためだと思うんだが」  そう言うと、ジェイクトさんは何故かちらりと腕時計を見た。 「勝手なことぬかすな!」 「不幸な結果になっても責任は持てないよ」 「てめぇ、やる気か?」 「こいつが目に入らないのか?」  男たちは、これ見よがしに拳銃を突きつける。 「僕はやらないよ。だけど、まあ、なんて言うかな……」  ここでミュシカはふと気づいた。ジェイクトさんは、時間稼ぎをしているのではないだろうか。  でも、なんのために?  ただでさえ人通りの少ない田舎の村。その中でももっとも山側の、他の民家からぽつんと一軒だけ離れたジェイクトさんの家。十分かそこら時間を稼いだところで、偶然誰かが近くを通りかかる、なんていう期待はあまり高くない。  だけどなんの根拠もなしに、あんなに落ち着いていられるものだろうか。 「僕はやらないけど……やる気満々の人が着いてしまったようだ」 「なんだと?」 「え」「あ」  男の疑問符付きの台詞と、フィーニとミュシカの驚きの声が重なった。そして。 「こんにちはー……って、お取り込み中でしたか?」  それは、若い女性の声だった。しかも、聞き覚えのある声だ。  二人の男の背後に、大きな旅行鞄を持った女性が立っている。昔の女性の騎士のような、深いスリットの入ったスカートをはいていて、そのスリットから覗く脚はビロードのように滑らかな褐色の肌をしていた。視線を上へ移すと、亜麻色の髪とはしばみの瞳、そして溜め息が出るほど美しい笑顔が目に入った。 「セ、セルタさんっ?」 「どうして、ここに……」  紛れもない、フィーニがアルバイトしている骨董品屋の店長さんだ。  男たちも振り返る。 「珍しいですね。この家に、こんなにお客様がいるなんて」 「うち二人は招かれざる客だけどね」 「どの二人が……と訊く必要はなさそうですね。可愛い女の子のお客さんなら、ジェイクはいつでも大歓迎の筈ですもの」  突然現れたセルタさんは、そう言ってくすっと笑った。重そうな鞄を足元に置く。  それと同時に。  セルタさんの姿が一瞬消えた……ように見えた。  短い悲鳴と、呻き声。  瞬きひとつの間に、男たちの数メートル後ろにいたはずのセルタさんが、ミュシカたちの目の前にいた。一瞬で五メートルほどの距離を移動したことになる。  拳銃が地面に落ちた。男たちが腕を押さえて、その場にうずくまる。  ゆっくりと振り返るセルタさんの手に、いつの間に抜いたものか、短剣が握られていた。 「こうなるとわかっていたら、長剣を持ってくるべきでしたね。もっと恰好いいところを見せられましたのに」  優雅な動作で刃に付いた血糊を拭い、腰の後ろに結びつけていた鞘に短剣を収めた。 「騎士……剣術?」  フィーニが、信じられないといった口調でつぶやく。 「え?」 「トリニア流の、短剣術だ……」  ということは、あの一瞬の間に短剣を抜き、男たちの拳銃を持った手を斬りつけたというのだろうか。ミュシカの目には見えなかった。フィーニの剣術の稽古を見た時にも人間離れした速い動きだと思ったものだが、それ以上だ。  普段はどことなくおっとりとした印象を受けるセルタさんなのに、信じられない。それに第一、どうしてセルタさんがここにいるのだろう。 「相変わらず見事なものだね、セルタ」 「え?」  ジェイクトさんは相変わらず呑気に拍手なんかしている。フィーニとミュシカはオルゴール人形のように揃った動きで、交互にジェイクトさんとセルタさんの顔を見た。 「お知り合い……なんですか?」 「話しませんでしたっけ? 新年休暇には、遠くに住んでいる恋人のところへ旅行する、と」 「それは聞いたけどぉ……、って、え、え……」  休み前にセルタさんが言っていたこと。そして今、セルタさんがここにいるという事実。  それが意味するところはただひとつ。 「え……えぇぇぇぇっっっ!」  フィーニとミュシカは揃って大声を上げた。 * * * 「まさか、叔父さんとセルタさんが恋人だったなんて……」 「偶然ってすごいわ」  突然判明した事実。一晩過ぎても、まだ驚きは薄れない。 「でも、セルタさんは最初から知っていたんでしょう?」  リースリングなんて、どこにでもある姓ではない。ましてやソーウシベツでは。ジェイクトさんはリースリング姓ではないが、まさかリースリングの一族であることを知らなかった筈はあるまい  最初にフィーニの名前を聞いた時から、自分の恋人の親戚であることは気づいていたに違いないのだ。 「どうして黙っていたんですか?」 「私の口から説明するよりも、こうして何かの拍子に突然わかった方がびっくりするでしょう? その方が面白いじゃない」 「まあ、ねぇ……」 「面白いどころの騒ぎじゃなかったけど」 「それにしても、セルタさんも騎士剣術の使い手なんて……」  昨日は本当に、いろいろあって驚くことばかりだった。あの男たちも警察に引き渡して、その後でジェイクトさんとセルタさんから詳しい事情を説明してもらって。 「ジェイクトさん、ちょうどセルタさんが着く時刻だって知ってたんですね?」  だから時計を気にしたり、無駄話で時間稼ぎをしたりしていたのだ。 「まあね。セルタがうちに来る時はいつも同じ汽車だから、着く時刻もだいたい同じ」 「叔父さんも、前もって教えてくれればよかったのに」 「だから、いきなり会った方が面白いだろう?」 「それにしたって……」  フィーニとミュシカにしてみれば、いまいち面白くない。これでは、大人二人にいいようにからかわれたみたいではないか。 「君たちだって内緒にしていたくせに。まさか、宝探しに来てたとは思わなかったよ」 「あぅ……」  それを言われると立場が弱い。 「毎日山歩きだなんて、今どきの女学生にしては渋い趣味と思っていたが」 「ジェイクが日記を送るって言ってたのに、いつまでたっても届かないからおかしいと思っていたのよね」 「うぅ……」  昨夜、例の日記についても二人が知らなかった事実を知らされた。  あれは元々、ジェイクトさんがこの村の旧家の倉から見つけたもので、しばらく手元に置いていたものを、他の荷物のついでにセルタさんのところへ送ったのだそうだ。 「僕に一言いってくれれば、何日も無駄に山の中を彷徨わなくても済んだのに」 「だって、こーゆーことは秘密にしなきゃ面白くないもん」 「でも君らだけじゃ、休暇を全部費やしても見つけられなかっただろうな」  四人は今、並んで山道を歩いている。当然、リンディードが日記に記した〈宝〉のところへと向かっているのだ。  ところが先頭を歩いていたジェイクトさんは、ミュシカたちが目印にしていた〈三段の滝〉まで来ても、河原へ降りずにそのまま通り過ぎようとする。 「え……?」 「やっぱり間違えていたか。日記に書かれている〈三段の滝〉はここじゃないんだ。よく見てごらん。段差は低いけれど、一番下にもう一段あるだろう? ここは〈四段の滝〉なんだよ」 「え、嘘?」  フィーニとミュシカはもう一度滝をよく観察した。それぞれ二・五〜四メートルほどの落差の、ちゃんとした滝が三段。しかし見ようによっては、その下に三十センチほどの小さな段差が見えなくもない。 「……詐欺だよ、それ」 「いや、リンディードの時代には、四段目も二メートル近い落差があったらしい。川の地形は、百年もあればずいぶん変わってしまうから」 「じゃあ、〈三段の滝〉は……?」 「本物は、ここから二キロくらい上流なんだけどね」 「その辺りまでなら、私たちも遡ってみましたけど?」  どれが本物の〈二ノ沢〉か悩んでいて、うろうろと歩き回っていた時に。しかし、そんな滝は見当たらなかった。 「実は百五十年ほど前の大水で谷が崩れて、滝は埋まってしまったのさ」 「えーっ」  それは知らなかった。それでは、本物の〈三段の滝〉も〈二ノ沢〉も見つけられる筈がない。二人はこれまで、まるっきり無駄骨を折っていたことになる。 「もっとも、滝が残っていたとしてもあなたたちが〈二ノ沢〉を見つけられたかどうかは疑問ですけどね」 「どうして?」 「季節の問題さ。二ノ沢は、雨期の終わりにだけ現れる涸れ沢だ。今の季節は乾ききって、落ち葉に埋もれている。日記の日付を見てごらん」 「……あぅ」  慌てて日記を開いたフィーニが呻き声を上げる。リンディードが宝を見つけた日と今とでは、約半年季節がずれていた。彼がここへ来たのは、ちょうど雨期の頃なのだ。 「さらに言うと……」 「まだあるの?」  フィーニがうんざりと言った。これでは、宝など見つかるわけがない。 「百五十年前の大水の時に、〈二ノ沢〉の滝も崩れてしまった。リンディードが記した洞窟の入り口は、今はもう存在しないというわけだ」 「えぇーっ、じゃあ……」  もう、宝は見つけられないのだろうか。せっかくここまで来たというのに。 「そこで僕とセルタは、別な入口を見つけ出した。三ヶ月ほど前のことさ」 「えぇっ!」 「じゃ、じゃあ、た、た、宝は見つかったんですかっ?」  二人は興奮して叫んだ。焦っているので言葉がうまく出てこない。 「もちろん。今もそこにあるよ」 「うわっ、うわぁ……。じゃあじゃあ、叔父さんって億万長者?」  リンシードが「この世に二つとない」と書き残した王国時代の宝。一体、どれほどの価値になるのだろう。  しかし二人の興奮をよそに、ジェイクトさんもセルタさんものんびりとしている。 「その気があれば億万長者にもなれるかもしれないが……君たち、王国時代の宝って、なんだと思ってたんだ?」 「そりゃあ、山ほどの金貨とか宝石とか」  とフィーニ。  ジェイクトさんは首を振った。 「夢がないねぇ」 「……特別な魔道書とか、竜騎士の魔剣とか?」 「だったら、リンディードが持ち出していただろうな」 「じゃあ?」 「それは見てのお楽しみ、だ」  ジェイクトさんは意地の悪い笑みを浮かべて、それ以上なにも話してはくれなかった。 * * *  洞窟の中は真っ暗で、ずいぶんと狭いようだった。  奥から、ひんやりと冷たい風が静かに吹き出してくる。  ミュシカがアプシの杖を構えるより早く、セルタさんが呪文を唱えて魔法の明かりを灯した。セルタさんは剣術ばかりでなく、魔法もたしなむらしい。本当に多芸な人だ。  ところどころ地下水が滴っている狭い洞窟の中を、四人は一列になって進んでいく。先頭はセルタさん、その後ろにミュシカとフィーニ、そして最後尾がジェイクトさん。  入口付近の狭さの割には、ずいぶんと奥が深いようだ。歩いても歩いても行き止まりにならない。どこまでも続いているように思えてくる。  奥へ進むと、空気が痛いくらいに冷たくなってきた。吐く息が真っ白だ。洞窟がいくらか広くなったのをいいことに、フィーニが腕にしがみついてくる。  進むに従って気温は下がり、しまいには滴る地下水が凍りついて、大きな氷柱になっていた。フィーニとミュシカは暖を採るために、抱き合うようにして歩いていく。  セルタさんやジェイクトさんが、外の気温の割にはずいぶんと厚着をしていた理由がようやく理解できた。それならば先に教えておいてくれればいいものを。 「さあ、着きましたよ」  どのくらい歩いただろう。寒さばかり気にしていて、いつの間にか時間の感覚がなくなっていた。  セルタさんの声と同時に、急に洞窟が広くなる。さらに数歩進むと、もう左右の壁も天井も見えなくなった。  これまでの狭い通路が嘘のような、大きな地下の洞窟だった。小さな魔法の明かりではなにも見えず、周囲は闇に包まれている。 「はい、深呼吸して。心の準備はいい?」  二人は大きく深呼吸してから、セルタさんの言葉にうなずいた。それでも心臓はどきどきしている。一体、何があるというのだろう。  急に、周囲が明るくなった。セルタさんが明かりを強くしたのだ。  巨大な洞窟の内部が照らし出された。その広さは学校の体育館ほどもある。  そして、その中にあるものを二人は目の当たりにした。 「――――っ!」  悲鳴すら、上げられなかった。フィーニもミュシカも、言葉を失って息を呑んだ。  ぎゅうっと、痛いくらいに強くフィーニが抱きついてくる。ミュシカの手にも力が込められる。  洞窟の中には、二人が想像していたようなものは何もなかった。  山のような財宝も、王国時代の魔法の品々も。  目の前には予想よりも遙かに大きなものが横たわっていた。見上げるほどの、小山のような大きさだ。 「……まさか……そんな……」 「う、そ……」  そこにあるのは、実は単なる大きな岩ではないか。見間違いなのではないか。  無理やり、そう思い込もうとした。  しかし何度瞬きを繰り返しても、その光景は変わらない。  それは、巨大な生き物だった。  眠っているかのように、丸まってうずくまっている。  これまでに見たことのある、どんな動物よりも大きかった。  象なんか問題にならない。鯨ですらこれには及ばない。 「…………竜」  フィーニが、震える声でつぶやいた。  全身が、金属めいた光沢のあるコバルトブルーの美しい鱗に覆われている。光を反射して、無数の星のようにきらきらと瞬いていた。  長い首。  頭部に生えた鋭い角。  口の端から覗く、大きな短剣のような牙。  背中でたたまれている翼。  まさに、昔話に出てくる竜そのままの姿だった。  身体を丸めてはいるが、伸ばせば頭から尻尾の先まで、優に三十メートルは超えるだろう。  何百年も前に滅びた筈の、偉大な存在。  この星で、最大最強の生物。  トリニア王国の、青竜。 「すごい……すごい!」 「こんなところで氷漬けに……? まるで、生きているみたい」  本当にそれは、死体とは思えない瑞々しさを保っていた。今にも目を覚まして動き出しそうに見える。  そんな筈はないのに……とミュシカは苦笑したが、ジェイクトさんがとんでもないことを口にした。 「生きてるよ」 「え、ええぇっ?」 「こいつは、生きているんだ。仮死状態というか……一種の冬眠状態かな。古い魔法の力も働いているらしい」 「だって……、何百年も?」  最後に竜が確認されたのは、今から五百年以上も前のナコ・ウェルの時代。マイカラス王国とトカイ・ラーナ教会の、存亡を賭けた最後の戦争の時だ。 「竜の寿命は人間には計り知れないほど長いという。この何百年の眠りも、彼にとっては「ちょっと寝過ごした」程度のことなのかもしれないな」 「そんな……」 「これが、リンディードが見つけた〈宝〉。素晴らしいでしょう?」 「……、うん」  ミュシカはうなずいた。そしてフィーニも。  これは、この星に生まれた最強にして至高の存在。  何千年という歴史を記憶している者。様々な伝説に包まれた王国時代の生き証人。  そして、何よりも美しい生物。  その、最後の一頭だった。  フィーニもミュシカも、無言で竜を見上げていた。何も言葉が出てこない。胸がいっぱいだ。  じっと見つめていると、魂が吸い込まれるように感じる。怖いくらいに美しく、偉大で、あまりにも人間を超越した存在だった。  ミュシカにしがみついているフィーニの腕が、微かに震えている。ミュシカも同じように震えていた。  二人はいつまでもその場に立ちつくし、竜を見つめていた。  気がつくと、涙が頬を濡らしていた。 終章 Dear、お姉様へ  フィーニとミュシカは、並んで村の中を歩いていた。  今日もいい天気だ。乾いた気持ちのいい風が、静かに吹いている。  村の郵便局の前で、ミュシカは立ち止まった。ポケットから一枚の絵葉書を取り出して、ポストに投函しようとする。その前に一度手を止めて、自分で書いた葉書を読み返した。 「ミュシカ、早く!」  フィーニが腕にしがみついてくる。 「ん」  ことん、と微かな音を立てて、葉書がポストの中に落ちる。 「じゃ、行こうか」  二人は手をつないで歩き出した。今日は天気がいいので、湖に泳ぎに行く予定だった。 * * *  シーリア学園の麗しの白き百合姫様ことレイア・リン・セイシェルは、まだ休暇がずいぶん残っているうちに寄宿舎へと戻ってきた。  いつまでも実家にいたところで、堅苦しいし退屈なだけだ。寄宿舎ならば、仲のいい友達も可愛い下級生も大勢いる。実家に帰省していた者たちも、同じような思いでそろそろ戻ってくる頃だ。  しかし、レイアが一番会いたいと思っていた相手の姿は寄宿舎になかった。代わりに、久しぶりの自室へ戻ると、レイアに宛てた一枚の絵葉書が机の上に置かれていた。  旅行鞄をベッドの上に放り出して、その葉書を手に取る。  裏を返すと、手描きの水彩画のようだった。サインはミュシカが大好きな画家のもので、山中の美しい清流の河原で遊んでいる、二人の女の子が描かれている。  レイアは、見慣れた筆跡の文面を追った。 『……というわけで、もうしばらくこちらに滞在する予定なのですが、よろしければお姉様も遊びにいらっしゃいませんか? 空気はいいし、きれいな湖もあるんですよ』  読み終えたレイアの口元に、ふっと笑みが浮かぶ。  葉書を裏返して、もう一度、絵の方に視線を戻した。楽しそうに笑っている二人の女の子は、レイアの可愛い妹たちだ。 「……仲良くやっているみたいね。なんだか、妬けるくらい」  誰も聞いている者はいないけれど、小さな声でつぶやいた。  そして、これから片付けようとしていた旅行鞄に水着を詰め込むと、寄宿舎に提出する外泊届けを書くためにペンを取った。 あとがき  皆様、ごきげんよう。  ……と、今回は挨拶も作品の雰囲気に合わせてみましたキタハラです。  久しぶりの新シリーズ『一番街の魔法屋〜賢者の宝物編〜』いかがでしたでしょうか?  キタハラにしては、かなりほのぼの系の話かと思います。元々、『マリア様がみてる』のパロディみたいなノリで始めた企画ですから。  最初のコンセプトは、「大正浪漫風、お嬢様学園ソフト百合コメディ異世界ファンタジー」。なかなか盛り沢山です(笑)。一番最初の構想は一九九九年となっていますから、思いついてから執筆まで約二年のブランクがあるわけですね。とはいっても、別に二年間構想を練り続けていたわけではなくて、単に「『光』も終わらないうちに、これ以上シリーズを増やしたら死ぬ」ということでストックしておいたものですが。  もちろん、その間に少しずつ手を加えてはいます。例えば最初のアイディアでは、舞台は寄宿舎ではありませんでした。ミュシカは自宅住まいで、フィーニはリースリングの本家に居候という設定です。しかし、新装版で『クララ白書』を読み、その後久しぶりに『ひみつの階段』を読み返して、「やはり、お嬢様学園コメディには寄宿舎が必須だ。ソフト百合ならなおさらのこと」と考えを改めたのでした(笑)。  ちなみに、この『一番街の魔法屋』の構想には、いくつかのバリエーションが存在します。  まず、最初に考えた『オリジナル版(ロング版)』。今回の完成版には書かれていないエピソードが含まれています。それは次回に書く予定。  次に、このアイディアを元に『コバルト・ノベル大賞』向けに練り直そうとした『ショート版』。入選にはほど遠いストーリィということで没にしましたが、基本的な構成は後に引き継がれています。なお、ノベル大賞の規定枚数は原稿用紙百枚で、今回の作品が二百四十枚。どう考えても無理な構想でした。  その次が『楽園版』。『楽園』CD‐ROM向けの書き下ろし作品を依頼された際、「じゃあ『一番街』を書こう」と考えて、ショート版を元に練り直したもの。しかしスケジュールが押し詰まっていたので、どう計算しても原稿用紙百数十枚になる『一番街』は間に合わないと諦めました。ちなみに、この時実際に書き下ろしたのが『北原のみぢかいお話』に掲載している『牲』です。  そして『楽園版』を元にして、寄宿舎とかお姉様といった「お遊び」を詰め込んだものが、今回の『一番街の魔法屋〜賢者の宝物編〜』なのでした。簡単な話の割には、けっこう紆余曲折を経ています。  そして、既存のキタハラ作品の読者にとっては一番重要なこと。  既におわかりでしょうが、この作品は『光の王国』の数百年後の物語です。舞台となっているソーウシベツの語源は奏珠別で、いうまでもなく奈子の領地の未来の姿。  お気づきでしょうか?「シーリア女学園」の語源が「白岩学園」だということに。なお、学園の創設者は奈子ということになっていますが、実際には由維の発案ではないかと思います。『マリア様』ファンですから(笑)。  本当は制服のセーラー服も「緑を一滴落としたような黒」にしたかったのですが、低緯度にあるマイカラスで黒は無謀だろう、と扉絵にある通りの白になりました。でも考えてみれば、奈子の時代のマイカラスの騎士の礼服って黒ですよねぇ。ま、あれは露出度高いですし(笑)。  そしてヒロインのミュシカ・サハ・オルディカは、当然ソレアの遠い子孫。  キタハラのお気に入りレイアお姉様は、リューリィの子孫。  なのに肝心のフィーニがリースリング姓で、ナコユイの直系の子孫(マツミヤ家)ではない理由は内緒。いずれ『光』の方で語られると思います。リースリング家はマツミヤ家の親戚なので、一応ナコユイの血も受け継いではいますけどね。  そしてセルタは……ひ・み・つ(笑)。あまり気にしないでください。このシリーズはあくまでも〈お嬢様学園コメディ〉で、王国時代の因縁やなんかはあんまり関係ない話ですから。相変わらず寝ているフレイムも、多分出番はこれっきりです。  ここでちょっとした余談。  作中に、アルコールを燃料とする汽車が出てきますが、魔法が一般的ではなくなったこの時代、主な燃料はアルコールです。『光』の読者の声のコメントに書いたと思いますが、この世界では前文明が化石燃料(石油・石炭)を消費してしまっているため、ファレイアとランディは未来の人類のために、組織内で高濃度のアルコールを精製する植物をDNA合成によって生み出していたのでした。  ついでにもう一つ余談。  リースリングというのは、ソーウシベツ地方で栽培されている白ワイン用の葡萄品種名です。こちらの世界にも実在し、ドイツやフランス北部で広く栽培されて高品質な白ワインを生み出しています。向こうのリースリングは、味が似ていた新種にドイツワイン好きのナコユイが名付けたものらしいです。  ワイン用葡萄といえば、ミュシカの名前も実在する葡萄品種名「ミュスカデ」から取ったものです。ジェイクトの姓「ジーンディル」はカリフォルニアワインの主要品種「ジンファンデル」から。いっそのこと、レイア様の名前も「シャルドネィ」とかにすれば面白かったかも(笑)。  さらにもう一つ余談。  作中では長さの単位にメートル法、時間の表現に時分秒を用いていますが、これは読者にわかりやすくするためにそう表記しているだけで、実際に向こうの世界でメートル法が使われているわけではありません。  よく、ライトノベル系の異世界ファンタジーでは度量衡も造語のカタカナ語を使いますが、私はそれに疑問を感じています。「日本で出版する日本語の小説なんだから、固有名詞以外は日本語に〈翻訳〉されているべきではないか。その方が読みやすく、わかりやすいのではないか」と。いちいち注釈をチェックしなければならない小説なんて鬱陶しすぎます。  同様に、作中に「牛」「鶏」「象」「鯨」などの単語が登場しますが、これも字の通りの動物ではなく、実際には「こちらの世界でのこれらの動物に相当するような、向こうの世界の動物」のことです。当然、カタカナで書くべき「アィクル語の名前」を持っているはずですが、わかりやすくするためにこうしてあります。  では最後に恒例の奴。  この作品は『楽園(エンターテイメント小説連合)』ランキングに参加しています。「面白かった」という方は、ぜひぜひ一票を投じてやってください。  投票方法は、楽園トップページ(http://novel.pekori.to/)からキーワード検索で「2002年のDISC」「一般向」「通常」を選択、キーワード「一番街」を入力して検索し、検索結果画面の投票ボタンを押す、というものです。  文章で説明すると面倒そうに思えますが、実際にやると簡単ですのでよろしくお願いします。 (※二○○二年一月現在、楽園の新規登録処理が大幅に遅れています。いずれ登録された時に、忘れずに投票してくださいな(笑))  そして今後の予定ですが、次の長編は『たたかう少女5・反逆の少女たち(仮)』を予定しています。『一番街の魔法屋』の今後については、第二話『夢見の杖編』というのを予定していますが、詳しい内容や執筆時期はまだ未定。気長にお待ちください。  それでは、二○○二年も『創作館ふれ・ちせ』をよろしくお願いします。 二○○二年一月 北原樹恒(Kitsune Kitahara) kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/