一.出会い 〜五月、大漁沢〜
道道一号線、小樽と、札幌の定山渓を結ぶ主要地方道。
小樽内川と朝里川に沿って造られた山中の路は、周囲に豊かな自然を残しており、観光客の利用が多い。
ある朝、その路の脇を歩く、一匹のキタキツネの姿があった。
時折、車やバイクがすぐ横を通り過ぎるが、キツネは全く気に留める様子もなく、真っ直ぐに前を見ている。
しばらく歩いて、小さな沢が道路の下を横切って小樽内川に流れ込んでいるところで、そのキツネは立ち止まった。
道の上から、下を流れる沢をじっと見ている。
夏の間は、ちょろちょろとした小沢だが、雪代がピークを迎えている今時期は、白っぽく濁った水が、かなり激しく流れている。
やがて、何かを見つけたのか、キツネは、道路から川岸に降りた。
足音を殺してそっと、水際を歩く。
そして突然、水の中へと飛び込むと、水中の何かに噛みついた。
それはキツネの身体の下で激しく暴れて水飛沫を上げるが、キツネは構わず、それを岸へと引きずり上げる。
キツネが捕らえたもの、それは、四十cmはありそうな、大きなニジマスだった。
産卵を控えて、腹が大きく膨らんでいる。
陸に揚げられたニジマスはなおも暴れていたが、キツネは、十分に水から離れたところまで引きずって、栄養たっぷりの卵が詰まった腹に、がっぷりと噛みつく。
とびきりのごちそうに夢中になっていたキツネは、それを半ば骨にしたところでやっと、近くに、自分以外の生き物がいることに気付いた。
近くの藪の中で、一人の人間の女が、カメラを構えていた。
* * * * * * * * * * * *
うわぁ、いきなりすごいシーン撮っちゃった。
藪の中でカメラを構える私の目の前で、そのキタキツネは川に飛び込み、四十cm近くもありそうな大きなニジマスを捕まえたのだ。
知床の川で、カラフトマスやサケを捕まえる羆は見たことがある、でも、キタキツネがこんなに見事に魚を捕まえるシーンは初めて。
私は夢中でシャッターを切り続けたけど、向こうはそれ以上に食べることに夢中になっているらしく、私に気がついたのは、大きなニジマスが半ば骨になってから。
先刻、あれだけ華麗な技を見せた割には、ちょっと間が抜けているかもしれない。
食べる手を休めて(いや、食べる口を休めて?)、こちらを真っ直ぐに見つめている。
整った顔立ち、美しい毛並み、それは、私がこれまで出会った中で、一番ハンサムなキタキツネだった。
しばらく私のことを見ていたキタキツネは、おもむろに食べかけのニジマスを口にくわえると、背後の笹藪の中へと消えていく。
――なんだか、食事の邪魔をしちゃったみたい、悪いことしたかなぁ。
私は立ち上がり、少し離れた道端に停めておいたバイクの処へと戻る。
早く家に帰って、今の写真を現像したかった。
二.雨の湖畔 〜六月、さっぽろ湖 第一展望台〜
六月下旬のある雨の日、あのキタキツネは、小樽内川の側の笹藪で雨を避けていた。
最近は雨続きで、ろくな獲物にありついていない。
産卵のために川に溯っていたニジマスも、今ではほとんど湖に降ってしまった。
仕方なく、といった態度で、キツネは地面に積もった枯れ葉を前足でかき分け、下から這い出してきた数匹の甲虫を捕まえる。
それほど美味しいものでもないが、しかし、何も食べないよりはましだった。
しばらく、そんなことを繰り返していたキツネは、やがて道路に出て、下流にあるダム、さっぽろ湖の方へと歩いて行った。
いくつかのトンネルを越えてたどり着いたのは、さっぽろ湖の第一展望台。
そこには、数台の乗用車と一台のバイク、そして観光バスが停まっていた。
* * * * * * * * * * * *
あ〜、もう、最悪!
『曇り時々雨、予想降水量5ミリ』そんな天気予報を信じてバイクで来たのに、簾舞を過ぎた辺りで土砂降りになるんだもの。
だったらそこで引き返せばいいって? …かもね。
カメラを入れたバッグは防水だからいい、でも私は下着までぐっしょり…。
タオルは持っていたから、湖畔の展望台のトイレで髪や身体を拭いたんだけど、考えてみれば、どうせ帰りも濡れるんだよね。
ま、それまでに雨が止むことを期待しよう。
『カメラとかレンズとか、荷物多いんだから、車にすればいいのに』そう言う友達もいる。
確かに、四百ccを新車で買うこと考えたら、中古の四輪くらい十分に買える。
でも私は、車に乗るのって好きじゃないんだよね、写真を撮りに行く時には。
風景写真を撮る時、移動手段はできるだけ小回りの利く物がいい。
そして、風景を『肌で』感じられる物がいい。
――私に、最初に写真を教えてくれたのは、父さんだった。
私がまだ小さい頃、よく父さんは重いバッグを担いで、汽車(電車ですらない)に乗って写真を撮りに行っていたものだ。
父さんの写真は子供心にもとてもきれいで、家には、たくさんの賞状や盾が飾られていた。
だけど、ちょうど車の免許を取った頃から、父さんは写真から遠ざかっていった。
『面倒だからつい車を使ってしまうけど、やっぱり自分の足で歩かないと、いい風景には出会えないな』
そう言っていたのを憶えている。
その父さんも、今では週末はゴルフ三昧だ。
(一応、小降りになってきたのかな?)
そう思って外に出ると、駐車場に、一匹のキタキツネがいた。
観光バスの横で、乗客からお菓子やお弁当を貰っている。
観光客達は、面白がって食べ物を与えたり、写真を撮ったりしている。
この辺じゃ観光客に頼って生活しているキタキツネは珍しくもないけど、このキツネは…なんだか、妙に態度が大きくない?
どう見ても、イニシアチブを取っているのはキタキツネの方。
『私に食べ物をください』じゃないんだよね、態度がさ。
『俺の写真を撮りたきゃ、モデル料をよこしな』そう言ってる。
人間を見下したような目つきで…そう思うのは、私の錯覚?
そのキタキツネがふと顔を上げて、私と目が合った時、はっと気付いた。
あいつだ、一月くらい前、少し上流の沢でニジマスを捕まえていた、あのキタキツネ。
そのとき撮った写真は、私のお気に入りの一枚だ。
私はこのキタキツネに、勝手に『フレップ』という名を付けていた。
アイヌ語で、直訳すれば『赤い・もの』。
美しい毛並みの、このキツネにはぴったりの名前だと思う。
実は、昔ビデオで観た『キタキツネ物語』という映画の主人公の名前。
私と目が合ったフレップは、口にくわえていたザンギを飲み込むと、こちらに近付いてきた。
私の前三mくらいで立ち止まり、じっとこちらを見つめている。
ひょっとして、私のこと憶えているのかな、まさかね。
それにしても、なんて、深い瞳をしているんだろう。
初めて会った時から、私は、この瞳の虜だった。
しばらく、瞬きもせずに私を見ていたフレップは、やがて、私の横を通り過ぎ、道路に出ると、川の上流の方へ歩いて行った。
私も後を追ってみたかったけど、ちょうどこの頃から雨がひどくなってきたので、仕方なく諦めた。
三.白い季節 〜一月、札幌国際スキー場〜
冬、この辺りは深い雪に覆われる。
朝里峠の下にある札幌国際スキー場は、十一月末から翌五月上旬まで、長いシーズンを楽しめるスキー場で、一月ともなれば、ゲレンデは連日、大勢のスキーヤーで賑わっている。
そして、そのゲレンデを、一匹のキタキツネが歩いていた。
冬の間、獲物を捕らえるのは難しくなるが、逆に冬だからこそ餌が手に入る場所もある。
フレップはそのことをよく心得ていた。
* * * * * * * * * * * *
あれ?
あそこにいるの、フレップじゃない?
毛皮は美しい冬毛に替わってはいるけど、秋にも何度か会っているから間違いない。
ダウンヒルコースの端を、ちょこちょこと歩いている。
私は慌ててスキーのエッジを立てて止まろうとし、バランスを崩して昨夜積もった新雪の中に頭から突っ込んだ。
スキーが雪に刺さって、まともに身動きできない状態から、何とかスキーを外して体を起こすと、いつの間にかフレップが目の前にいる。
「…あんた、私のこと笑ってるっしょ?」
私は、人を馬鹿にしたような雰囲気を全身に漂わせているフレップを睨み付ける。
もちろん、私がいくら凄んで見せたところで、こいつは気にもとめない。
「…ったく、もう…。あ、カロリーメイト、食べる?」
私は雪の上に座り込むと、スキーウェアのポケットから、フルーツ味のカロリーメイトを取り出した。
一本を二つに折り、一つをフレップの前に置いて、もう一つを私が食べる。
まあ、こんなことしなくても、これが食べ物だってことはわかってるだろうけど。
しばらく、私の顔を見ていたフレップは、カロリーメイトを食べ始めた。
口の端から、ぽろぽろとかけらがこぼれる。
私は、残ったカロリーメイトを、全部フレップの前に置いてやった。
「美味しい?」
カロリーメイトが気に入ったのか、単に空腹だったのか、フレップは私を無視して食べることに夢中。
その様子を見ていた私は、なんか急に、腹が立ってきた。
「…そう、私よりもカロリーメイトの方が、好きなんだ?」
思わずそう言ってしまってから、自分が口にした言葉の意味に気付く。
これじゃあ、まるで私が…、ねえ?
赤くなってしまった顔を、両手で押さえる。
もちろん、フレップは私なんか見ちゃいない。
と、上の方から、私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「真澄ぃ、何やってんの? こんなとこで…」
「あ、キツネ! 可愛い〜」
一緒に来ていた友達の、祐子と宏美が斜面を滑ってくる。
「はぐれたと思ったら、こんなとこで逆ナンパ?」
「…何よ、それ?」
「だって真澄、普段から人間の男の子より、キツネとか熊とか鹿とかばっかり追いかけてるじゃない。」
「せめてスキーの時くらい、人間の男の子引っかけられないのかねぇ。」
二人は勝手なことを言ってる。
「いいじゃない、好きなんだから。」
「あのね、真澄…」
祐子が、急に真剣な表情になって私の肩に手を置く。
「恋愛の趣味は人それぞれだけど、獣…はいくらなんでもアブノーマル過ぎると思うの、私。」
真面目な顔で言う祐子と、お腹を抱えて笑っている宏美、そして真っ赤になって怒っている私。
フレップは、そんな私たちをじっと見ていた。
多分、呆れていたんだと、思う。
インタルード 〜三月、札幌市北区新琴似〜
夢を見ていた。
夢の中では、私はキタキツネだった。
私とフレップは、並んで雪原を駆けていた。
フレップに、そっと身体をすり寄せる。
フレップが、私の首を軽く噛む。
幸せなひとときは、無粋な電子音でうち砕かれた。
電話の向こうでは、母が、聞き飽きたセリフをまた繰り返している。
いつまでもふらふらしてないで、ちゃんと就職しなさいよ。
女の子のくせにカメラとかバイクにばっかり夢中になって。
短大で一緒だった○○ちゃん、結婚したんだって?
あんたはどうなの? 就職しないんだったらさっさと結婚したら?
動物写真家なんて、寝言もいいかげんにしなさいよ。
これからバイトだから、と嘘をついて、私は電話を切った。
就職…かぁ。
確かに、写真で食べていけるアテはなかったし、いつまでもフリーターじゃ経済的にはきつい。
でも、ダメ。
私は、普通のOLには、なれない、なりたくない。
怖いんだ、私。
短大の頃の友達の大半がそうであるように、
恋愛と、ファッションと、流行のドラマ。
そんなことばかり夢中になって、
世の中には、もっと素敵な、もっと大切なものがあることを、忘れてしまうんじゃないかって、
それが怖いから。
だから、あんな夢を見るんだ。
四.雨の路 〜六月、白井橋〜
昨夜からの雨は小降りになったものの、陽が昇ってもまだ降り続いていた。
今朝、大きな野ネズミを捕らえたフレップは、満ち足りた気分で昼寝を楽しんでいたのだが、突然の大きな物音で目を覚ました。
少し考えてから道路に出て、音のした方へと歩き出す。
道路には、タイヤのスリップ痕が黒々と残っていた。
辺りには、ゴムの焼ける匂いや、ガソリンの匂いがが充満していて、フレップは顔を顰めた。
もちろんフレップには、それらの匂いが何を意味するのかわからなかったが、一つだけ、彼にも馴染み深い匂いがあった。
血の匂い。
フレップにとって、血の匂いなど日常の一部分でしかないが、彼は、何故か不安な気持ちになった。
道路脇の草が不自然に倒れているのに気付き、そこを覗き込む。
道路よりも少し低くなった草むらに、一台のバイクと、一人の人間が倒れていた。
若い、人間の女。
彼は、その人間のことを知っていた。
いつの頃からか、彼の前にちょくちょく姿を見せるようになった人間。
それまで、フレップにとって人間とは、他に食べ物が手に入らないときのエサ場でしかなかった。
当然、個々の人間の区別などしたこともないし、同じ人間に二度会った記憶もない。
だから、その人間は特別だった。
彼にエサを与え、彼を取り巻いてきゃあきゃあと騒ぐ他の人間とは、何か違っていた。
何故、この人間はここに倒れているのだろう、フレップは訝しんだ。
側へ行って、匂いを嗅ぐ。
キタキツネである彼には、詳しい事情は理解できなかったが、一つだけ、はっきりとわかることがあった。
この人間は、いずれ、死んでしまうということ。
フレップはじっと、倒れている人間を見つめていた。
彼の耳に、車のエンジン音が聞こえてきたのはその時だった。
見ると、赤い車が一台、こちらへ走ってくる。
何故そんなことをしたのか、自分でもよくわからないまま、フレップは車の前に飛び出した。
* * * * * * * * * * * *
その車は、目の前に飛び出してきたキツネを避けようとして急ハンドルを切り、橋の欄干にぶつかる寸前にかろうじて停まった。
数秒後、大きく息を吐いて車から降りてきた若い男は、道路の真ん中に立っているキタキツネを、忌々しげに睨み付けた。
「あぶねーなぁ、気をつけろよ。」
動物相手に何言ってんだ、と思いつつも、新車に傷を付けそうになった男は、文句の一つも言わずにはいられなかった。
そのキツネは、すぐ目の前まで寄ってくると、じっと彼を見つめる。
「…なんだよ?」
いきなり、キツネは男のジーンズの裾をくわえると、ぐいっと引っぱった。
「な、何すんだ、お前…」
キツネに裾を引っ張られ、男はよたよたと歩いて行く。
道路脇まで連れて来られて、彼はあっと声を上げた。
インタルード 〜十月、さっぽろ湖 第一展望台〜
今年初めての雪がちらちらと舞う中、フレップは、久しぶりにさっぽろ湖の展望台へとやってきた。
もう、紅葉のピークも過ぎているので、観光客の姿は多くはない。
それでもフレップは、十分な食べ物にありつくことができた。
満腹して、帰路につくフレップ。
いつもと替わらない日常。
しかし、何かが足りなかった。
五.新しい夏 〜七月、春香山登山道入口〜
夏の、強い陽射しの下、フレップは藪から顔だけ出して、辺りの様子を伺った。
これといった危険はないと判断して藪から出たところで、一台の赤い車が走ってきた。
彼の前を通り過ぎた車は、急ブレーキを掛け、登山道入口のバス停横にある広場に停まる。
そして、車から、二人の人間が降りてきた。
フレップはすぐに、それが誰か気付いた。
* * * * * * * * * * * *
「久しぶり…、元気そうだね? ゴメンね、ホントはもっと早くに会いに来るつもりだったんだけど、色々と、ゴタゴタしててさ…」
フレップは、いつものポーカーフェイスで、その興味は私よりもむしろ、私が腕に抱いているものに注がれているみたい。
私は、ちょっと恥ずかしかったけれど、腕の中にいる『色々と、ゴタゴタ』の最大の原因を彼に紹介した。
「真琴っていうの、よろしくね。」
フレップは、鼻を近づけて真琴の匂いを嗅ぐ。
「おい…、噛みついたり、しないか?」
ダンナが心配するけど、フレップはそんなことしない、と思う、多分…。
しばらく匂いを嗅いでいたフレップは、やがて、それが何か理解したのだろう、珍しく驚いたような表情を見せる。
「可愛いでしょ? 私の、子供だよ。」
ちょっと胸を張ってそう言ったんだけど、私を見たフレップの顔は、気のせいか、人を小馬鹿にして笑っているように見えた。
「な〜に? その態度、可愛くな〜い。」
しかしフレップは、私の文句など無視して、背後の笹藪を振り返る。
ガサガサと笹が揺れて、そして…
「…五対一か、お前の負けだなぁ。」
笑いながら、ダンナが言う。
そう、笹藪の中から姿を現したのは、フレップにそっくりな、しかし、少し小柄な、五匹のキタキツネ。
フレップは、得意そうに私の顔を見た。
―― 終 ――
一九九七年八月 北原 樹恒
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