『ファ・ラーナの聖墓』




 コルシア、それはこの世界の古い言葉で『大地』を意味する。南北に連なる長大な山脈によって、大陸は東西に分断されていて、その西側には広大な砂漠が広がっている。そして、山脈の東側が人間の住む土地、コルシアと呼ばれる土地であった。
 有史以来、いくつもの国がコルシアを支配してきたが、千年前、対立する二つの大国が、長い戦いの末どちらも滅亡し、混乱の時代が続いた後は、再びコルシアを支配できる大国は出現しなかった。
 長すぎる戦乱は人口を激減させ、多くの都市は廃虚と化し、そうして、人間達の勢力が衰えるにつれて、遠い昔に力を失った筈の存在、『魔物』達がその支配圏を広げ始めた。
 強大な王国が栄えた時代に、人間が魔物と戦い、あるいは支配するために用いた魔術は、長い戦乱の中でそのほとんどが忘れ去られていたが、わずかに、古代の失われた魔法を受け継ぐ者がおり、それだけが、人間達のささやかな営みを護る『力』であった。



 その話を聞いた時、ディック――ディケイド・ファ・ハイダー――は、まず自分の耳を疑い、それから、冗談を言っているのだろうと思った。
 しかし、彼の前に立っている少女、フェイリア・ルゥ・ティーナの目は真剣だった。
 十年前、フェイリアの両親が死んだ時、当時七歳だったフェイリアは、親戚であるハイダー家に引き取られ、以来、実の兄妹のように育てられた二人だが、ディックも今では二十一歳、フェイリアのことを『妹』とは思っていなかった。もっとも、フェイリアが彼のことをどう思っているかはわからないが。
 フェイリアから、大事な話があると呼び出され、二人は村の近くの森までやって来たのだが、そこで聞かされた話は、あまりりにも意外なものだった。ディックは、フェイリアの言葉の意味を飲み込むために数瞬の間を置き、それからやっと口を開いた。
「『聖跡』へ行くだって? とんでもない!」
 思わず、言った本人も驚くくらい大きな声を出してしまったが、それも無理はない。
「『聖跡』がどんな処か知らない訳じゃないだろう? それをフェア、お前一人で行くだなんて…、俺はおろか、親父だってあそこへは近付いたこともないんだぞ。冗談じゃない!」
「ちょっと…、そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない。少しは私の話も聞いてよ!」
 ディックにつられて、フェイリアの声も自然と大きくなる。その声に驚いたのか、近くの茂みから数羽の小鳥が慌てて飛び去った。
 ここは、村から少し離れた森の中にある、小さな泉のほとり、どんなに大声を出しても、二人の話を聞いているのは、森に棲む鳥や獣だけだろう。それ故にフェイリアは、秘密を打ち明けるのにこの場所を選んだのだ。村の中でこんな話をしていて、もしも他の者に聞かれでもしたら、そしてそれが養父の耳に入ったりしたら、『聖跡』へ行くことなど許してもらえる筈がないのだから。
 『聖跡』へ行く、この計画を、フェイリアは今まで誰にも言わずにいたのだが、それでもやはり黙って村を出るわけにもいかないので、『兄』であるディックに打ち明けたのだ。
 ディック兄さんなら私に味方してくれるかもしれない、そんな、淡い期待もあったのだが、ディックの反応はフェイリアを失望させるものだった。
 勇敢な剣士であり、魔術にも通じているディックや、その父エルケイアにとっても、『聖跡』は忌避すべき禁断の地であった。



 『聖跡』それは、伝説の竜騎士エモン・レーナの墓所と言われている遺跡である。
 千年の昔、コルシアのほぼ全域を支配していた『光の王国』トリニア。その礎を築いた王、エストーラ一世の妻で、黄金竜を駆る竜騎士エモン・レーナ。
 だがエモン・レーナは、彼女の親友で、トリニアの騎士団のリーダーであったクレイン・ファ・トームの裏切りにより、敵対していたストレイン帝国の軍に殺されてしまう。
 クレインはその罪によって死刑となったが、さらに、彼女の魂は呪いをかけられて、安らかな眠りにつくことを許されずに、永遠にエモン・レーナの墓所を護り続ける番人となることを命じられたのである。
 数百年の時が流れ、トリニア王国が滅びた後も、クレインの魂は依然として呪力に支配されて、墓所を護り続けていた。
 稀に、墓荒らしの盗賊や、腕自慢の剣士といった連中が墓所に侵入することがあったが、生きて還った者は無論いない。
 いつの頃からか、墓所は『聖跡』と呼ばれるようになり、今はもう誰も近づく者もない不毛の荒野の中で、『聖跡』だけが昔の姿を保っているのだという。



「黄金竜の騎士であるエモン・レーナは、アール・ファーラーナ――戦いの女神の化身――と呼ばれるほどの強大な力を持っていた。そして、その力は彼女の肉体が滅びた後も失われることはなく、亡骸とともに『聖跡』に封印されているという伝説があるわ。」
 フェイリアの言葉に、ディックの眉がぴくりと動いた。
 アール・ファーラーナ、トリニアの神話では、太陽神トゥチュと大地の女神シリュフの娘で、戦いと勝利の女神とされている。トリニアの時代、王国が危機に陥ると、女神が人間の戦士の姿で現れ、国を救うと信じられていた。
「エモン・レーナの力…」
 ディックが呟く。
「ねぇ、兄さん、『聖跡』の周囲って、今は不毛の荒野になっているけど、どうしてその中で『聖跡』だけが昔のままの姿で残っていられると思う? 千年以上もの間、クレインの魂を支配し続けている呪力は、何処からきていると思う? 全ては、『聖跡』に眠る、エモン・レーナの、いえ、アール・ファーラーナの力なのよ。」
 熱のこもった口調で語るフェイリアを見ながら、ディックは、漠然とした不安を感じていた。
 いったい、何を考えているんだ、お前は何をしようとしている…? そして、その答えは一つしかあり得なかった。
「私は、その力を手に入れたいの。アール・ファーラーナの大いなる力を、私のものにしたいのよ!」
 フェイリアは、きっぱりと言った。真っ直ぐにディックの目を見つめて、強い意志が感じられる瞳で。
「だけど…何故だ。何故そうまでしなきゃならないんだ? 今だってお前は最高の魔術師なのに、それでもまだ不満なのか! 王国時代のエモン・レーナやレイナ・ディ・デューンのように、この大陸を征服しようとでも言うのか!」
 最後の方は、ほとんど怒鳴り声になっていた。フェイリアは、少し悲しそうな顔をしたが、それでもディックから視線をそらさずに言った。
「…私は、父さんと母さんの仇を討ちたいの。」



 それは、十年前の、ある嵐の夜だった。
 その日、フェイリアは――親の使いで――一人で親戚のハイダー家を訪れていた。
 雨はちょうどフェイリアが着いた頃から降り始め、夕方には嵐となったので、結局フェイリアはそのまま泊まっていくことになった。その夜の嵐は、それまで誰も体験したことがないほど烈しいもので、村では十五人の死傷者が出た。フェイリアの両親を数に入れなければ、の話だが。
 フェイリアの両親は、嵐の犠牲者ではなかった。家は嵐でもほとんど損傷を受けた様子はなく、扉と窓には鍵がかかっていた。しかし、家の中に残っていたのは、『昨日まではフェイリアの両親だった肉片』でしかなかった。
 明らかにそれは人間の仕業ではなく、鍵がかかっていた以上、獣がやったことでもない。そうなると考えられるのは、『魔物』の仕業ということか。だが、フェイリアの父は、この地方でもっとも強い力を持つと言われた魔術師だ。それに、村には結界が張られていて、魔物が侵入できる筈はない――そう主張する者もいたが、彼らは、単純な事実を見落としていた。フェイリアの父を殺せるほどの魔物に対して、結界などなんの役にも立たないということを。
 あるいは、認めたくなかっただけかもしれない。結界をいとも簡単にうち破り、最高の魔術師を殺せるだけの力を持った魔物の存在を。
 この事件の当時、ディックは十一歳だったが、一つだけ鮮明に覚えていることがある。それは、フェイリアの『瞳』だった。
 両親の死を目の当たりにして、彼女は少し怯えていたが、ディックの知る限り、葬儀の間中、フェイリアは一度も涙を見せたことがなかった。おそらく、誰もいないところでは泣いていたのだろうが。
 そうして、じっと、子供には見るに耐えない『両親の死体』を見つめていた。恐ろしいほど真剣な瞳で。その表情には、両親の死に対する悲しみよりも、両親を殺した相手に対する怒りの方がより多く含まれているように思われた。
 一人遺されたフェイリアは、ハイダー家に引き取られたが、間もなく、ケリアの森に住む高名な魔術師ジェリアナースの元に妹子入りし――多分彼女は、その時既に自分の手で両親の仇を討つことを決心していたのだろう――異常ともいえるほどの熱心さで、様々な魔術を学んでいった。
 元々フェイリアの家は古くからの魔術師の家系で、素質にも恵まれていたのだろう、フェイリアは師匠も驚くほどの早さで多くの魔術を修得し、わずか十五歳で全ての修行を終えて一人立ちしたのだった。
 フェイリアはその後も、家にはたまにしか帰らずに、コルシアの各地を旅して歩いた。そうして、王国時代の魔法書を探し求めたのである。
 コルシアには、王国時代の遺跡が数多くあり、その多くはトリニア王国の時代の都市の跡である。戦争で破壊されたもの、人口の減少で都市としての機能を維持できなくなり、放棄されたもの、そして、魔物に征服されたもの…。
 アンシャスやハレイトン等、王国時代の都市で現在でも人が住んでいるところもないわけではないが、そういった都市にしても、その規模は『都市』と呼ぶのもはばかられるほどに衰退し、かつての繁栄の面影は何処にもない。
 ましてや放棄された都市にいたっては見る影もなく、コルシアの歴史上最大の都市といわれたトリニアの王都マルスティアでさえ、今は近づくものもない廃墟であり、トリニアの騎士団発祥の地であるモアなどは、西方の砂漠から入り込んできた流砂の中に埋没し、今ではその位置を知る者すらいないという。
 フェイリアは、王国時代の魔法に関する資料を探すために、そうした廃墟を訪れた。王国時代の大いなる魔法は、長い戦乱の中でほとんどが失われ、ほんの一部分が現在まで伝えられているに過ぎない。古代の『上位魔法』を見つけだすこと、それが、フェイリアの目的だった。
 周りの者は、フェイリアがこうした旅をすることにあまり良い顔をしなかった。魔物の支配地と化したコルシアを旅することはあまりにも危険であったから。
 ディックも、フェイリアの旅には内心反対であったが、その理由は少し違っていた。確かに、古代の遺跡には様々な獣や魔物等が巣喰っていたが、フェイリアの魔法の前には、それほど危険な存在とは言えなかったから。
 時にはディックも、フェイリアの旅に同行することはあったが、彼が、剣の腕前――村の若者ではかなう者のない――を披露する機会などほとんどなかった。フェイリアの呪文が、全てを一瞬に片付けてしまうからだ。
 しかし、魔物と闘っている時のフェイリアの様子には、ディックを不安にさせるものがあった。
 魔物との闘い――いや、それは闘いではなく、一方的な虐殺のことも多かった。フェイリアは、怯えて逃げだそうとする魔物に対しても決して容赦せず、常に、そこにいる全ての魔物を醜い肉片に変えていった。
 そんな時のフェイリアの表情、それは、普段ディックが見慣れている優しい笑顔ではなく、どこか、背筋がぞくっとするような不気味な笑みを浮かべていた。
 フェイリアは、魔物を殺すことに悦びを感じている――ディックは、そう思っていた。これは、復讐なのだ。もっとも残酷な殺され方をした、彼女の両親の…。その恨みが、あのような歪んだ形で現れるのだろう。実際、フェイリアの魔物に対する宿怨と、強大な魔力に対する欲望は、他人には理解できないほどの強さがあった。



「父さんと母さんを殺した奴を探し出すため、そしてそれを殺すため…、私にはもっと大きな力が必要なの。そして、『聖跡』にはそれが存在する…」
 フェイリアが、静かな口調で言った。
「どうしても、か?」
「ええ、どうしても。私は『聖跡』へ行かなきゃならないの。」
 ディックも、もうフェイリアを説得するのは無理だと感じていたが、それでももう一度念を押してみる。それと同時に、彼は一つの決心をしていた。
「よし、わかったよ、フェア。それなら、俺はもう止めない。その代わり、俺も一緒に…」
「駄目よ、兄さん。それはいけないわ。」
 フェイリアが慌ててディックの言葉を遮る。
「兄さんはハイダー家の跡継ぎ、つまり、いずれは村の長になる身だもの。それなのに『聖跡』へ行こうなんて、危険すぎるわ、絶対に駄目。」
「言ってることが矛盾してないか? その危険な『聖跡』に、一人で行くと言ってるんだぞ、お前は…。わかってんのか?」
「わかってるわよ! わかってるからこそ、兄さんを巻き込みたくないの!」
「わかってるなら、行くのは止めるんだな。どうしても一人で行くと言い張るのなら、俺は腕づくでも行かせない。」
「そんなこと、させない!」
 フェイリアの表情が微妙に変化し始めていることに、ディックは気付いた。同時に、周囲の森の様子が先刻までとは違っていることにも。うるさいくらいだった鳥や虫の鳴き声がいつの間にか止み、森は不気味なほどの静寂に包まれていた。
 フェイリアはそっと指を組み、複雑な印を結ぶと、決して大きくはない、しかし良く通る声で唱え始めた。
 『風よりも速きもの
  炎よりも熱きもの、
  大地よりも広きもの、
  そして、流れる水よりも清きもの。
  我が言葉に応え、我の元に集え…』
 やがて、周囲の草木が、風もないのにざわざわと揺れ始めた。
 四大精霊の魔法…? ディックの顔が強張る。フェイリアが、魔力の源となる精霊を召喚しているのだ。
「誰にも邪魔はさせない。たとえ、兄さんにだって。」
 まるで、魔物と対峙している時のような瞳で、口調で、フェイリアは言う。彼女は、本気だった。十年間兄妹のように暮らしてきたディックに対して、その恐るべき魔力を行使しようとしているのだ。
「フェア、お前…自分が何をしているのかわかっているのか?」
「ええ、わかっているわ。言ったでしょう? たとえ兄さんだって、邪魔はさせないって。」
「フェア!」
「さあ、黙って私を行かせてくれるの? それともやっぱり、腕づくで止める? 私はどっちでも構わないよ。」
 フェイリアの声には、まったくためらいがなかった。ディックは思わず剣の柄に手をかけたが、まさか本当にそれを抜くわけには行かない。確かに、この距離なら呪文よりディックの剣の方が早いだろう。しかし、それはフェイリアを傷つけることを意味しており、そして、ディックにそんなことができる筈はなかった。
 だが、『聖跡』へ行くことを許せば、フェイリアを永遠に失うことになるかも知れない。そんな考えがディックの頭をよぎったが、それでも、彼にできる選択は一つしかなかった。
「わかったよ、フェア。行けよ。」
 ディックがそう言った瞬間、突然凄まじい突風が二人を包み込み、ディックは思わず目を閉じる。フェイリアが、召喚した精霊を解放し、それが本来あるべき世界へと送り返したのだ。
 風はほんの一瞬で止み、ディックが目を開けて最初に見たのは、フェイリアの笑顔だった。それは、先刻までの狂気を孕んだ笑みではない。普段の、まるで妖精のような優しい笑顔だった。
 とりあえず、今のところは最悪の事態は避けられたらしい、ディックはほっと溜息をついた。



 陽は、もうかなり西に傾いていて、朱く照らされた大地に、二人の影が長く伸びている。
 二人とも、もう『聖跡』のことは口にしなかった。
 フェイリアは、いつもと同じように無邪気に笑っている。つい先刻、ディックに対して魔法を使おうとしたことなど、まるで覚えていないかのように。
 しかし、ディックは、そんなフェイリアの様子に、漠然とした不安を感じていた。フェイリアの心の奥底には、彼女自身も気付いていない闇の部分がある、と。
 先刻までのフェイリア、魔物と闘っている時のフェイリア、あれこそ、闇に支配された彼女なのだ。闇は、フェイリアの復讐心を利用して、彼女を完全に支配しようとしている。幸い、今はまだその支配は一時的なものでしかないが…。
 それにしても、フェイリアは本当に自分の中の闇に気付いていないのだろうか。もしかしたら、その存在を知りながら、敢えて利用しようとしているのではないか、両親の復讐のために。
 本当にそうだとしたら、それは非常に危険な賭けだ、とディックは危惧する。フェイリアの心の中の闇は、彼女の魔力と同様、比類ない強大なものに違いないからだ。
 ディックは、考えることに集中するあまり、自分がいつの間にか立ち止まっていたことに気付かなかった。
 フェイリアが数歩進んだところで振り返る。夕日に照らされた長い金髪が風になびき、それはまるで燃え上がる炎のように美しかった。
「…どうかしたの?」
「いや…、何でもない。」
 フェイリアは訝げにディックを見つめている。ディックは何となく視線を逸らした。
「兄さ…いや、ディケイド…」
「ん…?」
 ディックは、おやと思う。一緒に暮らすようになってから、フェイリアが彼を名前で呼んだことなどない。
「私…、あなたのことが好きよ。だから、きっとここに帰ってくる。どんなことがあっても…。だから、心配しないで待っていて。」
「…ああ。」
 ディックは笑って応えると、先刻の不安を心から追い払った。
 そう、何も心配することなどある筈がない。フェイリアは帰ってくると約束したのだから。
 ディックは、彼女を信じることにした。
 この、美しい金髪の少女、愛しいフェイリア・ルゥ・ティーナを。

[終]


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