イノチノハナ 1 「あなたの血、綺麗な色をしてるわね」  その声はけっして大きなものではなかったが、何故かはっきりと桐花の耳に届いた。  思わず振り返る。  少し離れたところに、同世代の女の子が立っていた。桐花も高校一年生としてはやや小さい方であるが、その少女はさらに小柄だ。  しかし彼女は「小ささ」よりも「大きさ」の方が印象的だった。  大きな目。  大きな、黒い瞳。  真っ直ぐに桐花を見据えている。  単に大きな目、綺麗な目というのではない。圧倒されるような強い視線だった。  そのためだろうか、小柄ではあるが華奢な印象は受けず、大人っぽい雰囲気を漂わせている。  桐花は素直に綺麗な人だと思った。最近では珍しいような長く艶やかな黒髪が美しい。  初対面のはずだった。この顔に見覚えはない。綺麗な顔だし、印象に残る独特の雰囲気をまとっている人だから、一度でも会ったことがあれば忘れるはずがない。  この学校に入学して、まだ一ヶ月と少し。クラスメイトはともかく、クラスが違えば同学年でも知らない顔は少なくない。ましてや学年が違えばなおさらだ。目の前の少女は三年生の級章をつけていた。 「あの……」  戸惑いながらも口を開く。  視線は真っ直ぐ桐花に向けられているし、周囲の廊下に他に人影はない。声を掛けた対象が自分であることは間違いないだろうが、見知らぬ相手にいきなり「あなたの血、綺麗な色をしてるわね」などと言われて、どう反応すればよいものだろう。  怪我をしたところに通りかかった、とかのシチュエーションであればわからなくもない。しかし桐花はただ放課後の廊下を歩いていただけだ。これならばまだ「タイが曲がっていてよ」とでも言われた方が対応のしようもある。 「えっと……私になにか、ご用でしょうか?」  無意識のうちに丁寧な口調になってしまう。上級生であるし、そうでなくても気軽にタメ口などきけない雰囲気をまとっている相手だった。  真っ直ぐこちらに向けられている大きな瞳。  力のある視線だ、と思った。 「あなた、モデルになりなさい」  ならない? ではなく。  なってください、でもなく。  ――なりなさい。  一方的な台詞ではあるが、抑揚のない静かな口調のせいか、命令という印象は受けなかった。むしろ、既に決まった事実を淡々と述べているだけのように聞こえる。 「いらっしゃい」  それだけを言うと、回れ右をして歩き出す。  その背中に惹き寄せられるように、桐花も後を追った。歩き始めてから、いろいろな疑問が頭をもたげてくる。  誰、この人?  モデルって、何の?  どこへ向かっているの?  訊きたいことは山のようにあって、なのに言葉が出てこない。  前を行く少女は振り返りもしない。まるで、後ろからついていく桐花の存在など忘れてしまったかのように。  速すぎもせず遅すぎもせず、一定の速度で歩いている。  人のまばらな放課後の廊下に静かな足音が響く。  今日は授業が早めに終わったので、窓から射し込む陽光はまだ強かった。  窓のある部分と、ない部分。  陽が当たっている部分と、陰になっている部分。  光と陰、白と黒のコントラストが印象的だった。前を行く姿が光の中に浮かび上がり、陰の中に溶け込む。 「あの……先輩?」  しばらく歩いたところで、意を決して声をかける。  まさか女子校の校内で妙なことになるとも思えないが、いつまでも訳のわからないままというのも気味が悪い。  足音が止まり、こちらを振り返る。  陰の中で、大きな瞳だけが琥珀のように輝いて見えた。 「三年B組、多生椎奈。美術部長。……あなたは?」 「あ……えっと、一年C組、三園桐花です」 「トウカ……冬の花? それとも桐の花?」 「桐の方」 「ふぅん、いい名前ね」  それだけ聞けば充分といった態度で、多生椎奈と名乗った少女は歩き出した。  桐花もまた後をついていく。  とりあえず、最小限のことはわかった。  名前と、クラスと、所属部。  美術部――それでモデルなどという話が出てきたのだと、ようやく納得がいった。だとすると、いま向かっているのは美術室だろうか。  そういえば、三年生にすごく絵の上手な先輩がいるという噂を聞いたことがあった。幾度となく賞を獲っていて、その作品は画廊に飾られていて、もう実質的にプロの画家だとか。  もしかして、この人がそうなのだろうか。ただ者ではない雰囲気を持っていることは間違いない。  それにしても、どうして桐花なのだろう。  自分を不細工と思っているわけではないが、しかし特別に人目を引くほどの美人でもない。顔もスタイルも、客観的な評価を下せばせいぜい『やや良』といったところだろう。  そんな相手に、初対面でいきなり「モデルになりなさい」とは。  椎奈の意図がわからない。  首を傾げているうちに、美術室に着いてしまった。  美術の授業で何度か訪れたことはある。  机や椅子は教室の隅に雑多と積んであった。学年やクラスによって人数が違うし、授業内容によっては机を使わないこともあるので、必要な時に必要な数だけを並べるのだ。  今は教室の真ん中あたりに椅子が三つ、画材を置いた机がひとつ、そしてカンバスを乗せたイーゼルが一台あるだけで、がらんとした印象を受ける。他に誰もいない。  窓に掛けられた薄い生地の白いカーテンが直射日光を遮り、室内は柔らかな光で満たされていた。  背後で椎奈が扉を閉める。 「じゃ、脱いで」 「え……えぇっ?」  美術室の中をきょろきょろと見回している桐花に向かって、椎奈は無造作に言った。  慌てて訊き返す。  今、なんて言ったのだろう。願わくば聞き間違いであってほしい。 「聞こえなかった? 脱いでって」  抑揚のない口調。そんな喋り方が椎奈の癖らしい。 「あ、あのっ、モデルって……ヌード、なんですか?」 「それがなにか?」  当然、という声音が返ってくる。しかしそれは聞き流せる台詞ではない。 「で、できませんよ、そんなの!」 「どうして?」 「どうしてって……恥ずかしいじゃないですか」 「絵のモデルが恥ずかしいこと?」 「そうじゃなくて! 人前で裸になるなんて……」  そんなこと、いちいち説明しなくてもわかることだろうに。しかし目の前の相手には、桐花の常識は通用しないらしい。 「あなた、旅行でホテルの大浴場とか入らない人?」 「それは……入りますけど……、お風呂は、裸になるのが当たり前の場所じゃないですか」 「絵のモデルで裸になるのも、ごく当たり前だと思うけど?」  絵描きである椎奈にとってはそうかもしれない。ヌードデッサンなど珍しいことではないのだろう。  しかし、一般人である桐花はそう簡単に割り切ることはできない。 「それに、お風呂ではみんな裸じゃないですか」 「ふむ、ひとりだけで裸になるのは恥ずかしい?」 「とーぜんです」 「だったら私も脱ぐから。それでいいでしょう?」 「え?」  状況を理解できずにいるうちに、椎奈はさっさと服を脱ぎはじめた。  スカートを下ろし、ベストとブラウスを脱いで、下着姿になる。  慌てている桐花をよそに、ブラジャーを外し、ショーツすらなんの躊躇いもなしに脱いでしまった。 「これでいいでしょう?」  脱いだ服を傍らの椅子の背に無造作に掛けて、椎奈がこちらを見る。  ソックスと上履きだけのほぼ全裸といってもいい格好なのに、桐花の目の前で恥ずかしげな素振りなど微塵も見せていない。自分の部屋でひとりでくつろいでいるのと同じくらい自然に振る舞っている。いや、桐花ならば、たとえひとりでも全裸でこんなに落ち着いてはいられない。  椎奈のあまりの無頓着ぶりに、桐花の方が慌ててしまう。いくら放課後とはいえ、学校内で全裸になるなんて。 「ちょ……っ、誰か来たらどうするんですかっ?」 「誰も来ないわ。ドアには鍵がかかってるし」 「え?」  いつの間に?  なんて用意のいいことだろう。  そういえば扉を閉めたのは椎奈だった。最初からヌードを描くつもりだったのなら当然のことかもしれない。 「これでいいでしょう? 私はこれで描くから、あなたも脱いで」 「え、あの……」  桐花は自分が追いつめられたことに気づいた。  これではもう断れない。  椎奈が一方的に話を進めて勝手に脱いだとはいえ、自分の発言が原因で全裸にまでさせておいて、断るなんてできるわけがない。  しかも、あれだけ当たり前のように脱がれてしまっては、恥ずかしがっている自分の方がおかしく思えてしまう。別に、椎奈に変な目的があるわけではあるまい。あくまでもこれは絵のモデルなのだ。  異性とか複数の前でというならともかく、相手は同世代の女の子ひとり。それも写真ではなく絵画。羞恥心さえ克服できれば、モデルくらいやってみても構わないと思う。  桐花は人目を引くほどのナイスバディとはいわないが、まあまあ悪くないスタイルだと自負している。少なくとも太ってはいないし、小柄な割には出るべきところも人並みには出ている。肌も綺麗な方だと思う。  裸を人目に曝すことをどうしても躊躇するような身体ではない。  やってみても、いいだろうか。  もう一度椎奈を見る。  小柄で全体的に細身だが、やはり華奢という印象は受けない。内面の強さが顕れているためだろうか。あるいは出るべきところがしっかり出ているためかもしれない。  特別大きいというほどではないが、胸はそれなりの大きさで、なにより形が綺麗だった。ウェストは細くくびれ、腰から太腿にかけてなめらかな曲線を描いている。  二歳とはいえ年上だからだろうか、桐花よりも大人っぽさ、女っぽさを感じさせる身体だった。下腹部の小さな黒い茂みまで顕わになっていて、見ている桐花の方が赤面してしまう。  椎奈は無言でこちらを見ている。  特に急かすわけでもなく、強要するようなことも言わない。ただ無表情に、桐花の次の行動を待っている。  拒絶される可能性など微塵も考えていないのではないか、モデルをするのが当たり前だと思っているのではないか――そんな気がした。 「……」  だめだ、断れない。  結局、桐花の方が根負けした。いつまでもこうして躊躇している方が恥ずかしくなってくる。変に意識しているみたいではないか。  これは単なる絵のモデル。芸術のため。  そう自分に言い聞かせる。  小さくひとつ深呼吸をして、制服の上着を脱いだ。  近くにあった椅子を引き寄せて背もたれに掛ける。  スカートのファスナーを下ろす。ホックを外す。  足下に落ちたスカートから脚を抜いて拾い上げる。小さく畳んで椅子の上に置く。  ベストのボタンを外して脱ぐ。  襟のリボンをほどく。  ブラウスのボタンをひとつずつ外していく時は、さすがに少し指が震えた。  靴とソックス、ブラとショーツのみという姿。普段の学校生活では、体育の着替えの時くらいしかありえない。  なんだか頼りない。初夏でしかも好天の今日、校内は適温のはずなのに肌寒く感じた。  例えばこれが修学旅行や合宿といった学校行事での入浴時であれば、さほど抵抗なく脱げるだろう。しかしモデルとなるとまったく事情が違う。  お風呂の脱衣場と違って、ここは桐花にとって「裸になるのがと当たり前の場所」ではない。扉に鍵がかかっていても、窓にカーテンが掛かっていても、女の子しかいない女子校であったとしても、緊張感というか、本能的な恐怖感がある。  時間稼ぎをするように、靴とソックスをのろのろと脱ぐ。  これでもう後がなくなった。  身に着けているものは残りふたつだけ。どちらも、普通は人前で外さないもの。  躊躇いがちに背中に手を回す。  ブラジャーのホックを外す。  相手の顔を窺いながら、両手で胸を隠すようにしてブラジャーを外した。椎奈は相変わらずの無表情で、なにを考えているのかまったく読めない。  二度、三度と深呼吸して、胸を隠していた手を下ろす。  この段階で既にかなりの精神的疲労を感じていたが、最後の一枚を脱ぐことへの抵抗感は胸を曝すことの比ではなかった。  公衆浴場で裸になることは平気でも、教室の中で、日中、しかも向かい合って見られている状況では。  とはいえ、ここまで来てしまっては今さら止めることもできない。この上さらに「全部脱ぐんですか?」と念を押すのもどうかと思う。  椎奈は既に靴とソックス以外はなにも身に着けていないのだ。考えようによっては、靴とソックスだけというのは全裸よりも恥ずかしいかもしれない。  なのに平然としている。  桐花はとてもそんな風にはなれそうもない。しかしいつまでもこの中途半端な格好のままではいられない。  他の誰に見られる訳じゃない。  犯される訳じゃない。  ただ、絵のモデルをするだけ。  何度も何度も自分に言い聞かせる。  大きく息を吸って、吐いて。  心を決める。  目を閉じて、えいやっとばかりに勢いをつけてショーツを脱いだ。  そして、恐る恐る目を開ける。椎奈は相変わらず感情の読めない無表情のままだ。  脱いだショーツは椅子の上に置いた服の一番上に乗せ、やっぱり思い直してブラジャーと一緒にスカートの下に隠した。 「……これで……いいですか?」  前を隠したくなる衝動を抑えて、手を身体の後ろでしっかり組んだ。そうしていないと反射的に隠そうとしてしまいそうだ。無防備に曝け出すことは確かに恥ずかしいが、隠すためにその部分に手をやることは、もっと恥ずかしい。 「ん、綺麗な身体をしてるわね。思った通り、いい感じ」  相変わらず無表情なまま、抑揚のない声で椎奈が応える。感情が希薄というか、どこか無機的ですらあるその態度が、かえって安心できた。 「楽な姿勢で、そこの壁に軽く寄りかかるようにして。そう、体育の「休め」の姿勢みたいな感じで」 「……はい」  イーゼルの前に移動する椎奈を横目に見ながら、その言葉に従った。なにしろ精神的に負担の大きい格好だから、寄りかかっていられるというのはせめてもの救いだ。 「ところで、あの、……他の部員の方は?」 「いないわ。私だけ」  桐花は先刻から気になっていたことを訊いて、その答えに安堵の息をついた。  大勢に取り囲まれてのヌードモデルなんて絶対に無理だ。椎奈ひとりに見られているだけでも、かなりの負担だというのに。  イーゼルの前に座った椎奈は、しかし鉛筆も筆も取らず、まっすぐに桐花を見つめていた。  自然と、見つめ合う形になる。  椎奈の視線を正面から受け止めることになった桐花は、たちまち圧倒されてしまった。  手はもちろん、視線すらまったく動かさずにこちらを見つめている椎奈。  なんて力のある視線!  その大きな瞳は一目見た時から印象的だったが、見ることに集中した椎奈の瞳は圧巻だった。  刺すような鋭い視線ではない。もっと大きな、身体全体が押されるような面の圧力を感じる。それはまるで、水量豊富な深い川に身を浸しているかのような感覚だった。  こんな瞳は初めてだ。  深い、深い色の大きな瞳。  桐花は完全に圧倒されていた。  身体が強張る。ぴくりとも動くことができない。蛇に睨まれた蛙というのは、あるいはこんな状態なのかもしれない。  全裸であることが、また急に心許なくなってきた。  なにしろ、見られているというよりもまるで触れられているかのようなのだ。  椎奈は、視力で桐花に触れている。  モデルである桐花の身体を、隅々まで余すところなく触れて確かめている。  以前なにかのニュースで、目の不自由な人のために彫刻に直に触れることのできる展覧会の光景を見たことがあった。それと同じだ。目で椎奈に触れている。形を、手触りを確かめている。  身体中、隅々まで、余すところなく。  頭、顔、耳、首、肩、胸、脇、腹、脚、そして陰部まで。  感じる。  視られているだけのはずなのに、はっきりとした圧力を感じる。掌を押しつけられているかのように。  これが、一流の芸術家ならではの集中力がなせる技だろうか。  こんな経験は初めてだった。  桐花は椎奈の目を見つめていた。  いや、捕らえられていたという方が正しいかもしれない。その力強い瞳から、視線を逸らすことができなかった。  魂まで吸い込まれてしまうような深い瞳。  無言で見つめ合う時間は、いったいどのくらい続いたのだろう。  五分? 十分? それとも一時間とか二時間?  時間の感覚などすっかり失われていた。  緊張と羞恥心のために、全身がじっとりと汗ばんでくる。  頭がくらくらする。視界がぐるぐる回っているかのようだ。目の焦点を合わせていられなくなる。  もう限界――そう思った頃、不意に椎奈が口を開いた。 「いいわ、座って楽にしていて」  素っ気なく言うと、桐花から視線を外してカンバスに向き直った。絵の具とパレットを手に取って、いくつもの色を混ぜ合わせていく。  もう、こちらを見てはいない。  椎奈の視線の圧倒的な圧力から解放されて、桐花は大きく息を吐き出した。全身から力が抜けていく。  とりあえず近くにあった椅子を引き寄せると、裸のまま崩れるように座った。  楽にしてもいいとは言われたが、服を着てもいいとは言われていない。もう着てしまっても構わないだろうとは思うが、椎奈が裸のままで筆を動かしているのに、桐花だけが先に服を着るのも不自然な気がする。本来、裸になる必要があるのはモデルである桐花の方なのだ。  そもそも、服を着るために立ち上がるのも面倒なくらいに疲れていた。主に精神的な理由ではあるが。  椅子に反対向きに座って、背もたれに顎を乗せただらしない格好で、ぼんやりと椎奈の様子を見た。  カンバスに向かって小刻みに筆を動かし、次々と色を乗せていく。  じっとカンバスを凝視している。先ほどまで桐花を見つめていた時と同じ力強い視線を、今度はカンバスに向けている。  その姿を綺麗だと思った。  それはほんのわずかな雑念もない純粋な状態。一流の者だけが持つ、常識を越えた集中力。  研ぎ澄まされた刀剣にも似た、鋭い、危うい美しさ。  そんな姿をぼんやりと見つめる。  素人の桐花は、絵というのはモデルを見ながら描くものと思っていた。しかし椎奈は違うようだ。  筆を手に取ってからは、一度もこちらを見てはいない。一瞬たりともカンバスから視線を外していない。瞬きすらほとんどしていないように見える。  眼力でカンバスに穴を開けそうなほどの集中力を持って、一心不乱に手を動かしていた。  最初にじっくりと対象を観察した後は、自分の中にできあがったイメージを描き出していく――それが椎奈の描き方なのだろうか。一流の才能を持った人間のやることなど、凡人の桐花に理解できるはずもない。  ただ椎奈が見せる集中力と熱気に圧倒されて、なにをするでもなく椎奈を見つめていた。  不思議と退屈は感じなかった。小刻みに動く手と、逆にぴくりとも動かない瞳に見入っていた。  そのままどのくらいの時間が過ぎたのだろう。描き始めた時と同じ唐突さで椎奈が筆を置いた時には、陽の長い季節だというのに外はすっかり暗くなっていた。 「今日はこのくらいにしておきましょうか」  立ち上がって大きく伸びをすると、手際よく画材を片付けていく。桐花も思い出したように服を手に取った。 「この後、まだ時間ある?」 「え? ええ……」 「お腹すいてない? よかったらなにか食べにいきましょう。お礼にご馳走するから」  断わる理由はなかった。  育ち盛りの十六歳、昼食をきちんと食べても夕方になればお腹はぺこぺこだ。  それに――  少し話をしてみたい。  結局ここまで会話と呼べるものはごくわずかしかなく、椎奈については知らないことばかりだ。この一風変わった先輩のことを、もっと知りたいと思った。  服を着て、後片付けをして美術室を後にする。 「明日の放課後も来て」  扉に鍵をかけながら椎奈が言う。最初に会った時と同様、依頼というよりも既に決まった事実を述べているかのような口調で。  しかし桐花は考えるまでもなく、ほとんど条件反射のようにその言葉に頷いていた。 2  翌日。  放課後が近づくにつれて、桐花はどんどん落ち着かなくなってきた。  考えまいとしても、昨日の出来事を思い出してしまう。  校内で一糸まとわぬ姿になって。  その姿を凝視されて。  絵に描かれて。  目を閉じるとはっきりと浮かんでくる。  椎奈の大きな瞳。力強い視線。視ることで相手を魅了してしまう瞳。  昨日の帰り道、椎奈は美味しいケーキをご馳走してくれた。テーブルを挟んで向かい合ってケーキを食べている間、桐花はその瞳から視線を逸らせなかった。  なにを話したのかはほとんど憶えていないけれど、桐花を見つめる大きな瞳だけは鮮明に記憶に焼きついている。  またあの瞳で見つめられてしまうのかと思うと、顔や身体が熱くなって、のぼせそうになる。  どうしてだろう。  恥ずかしいのに。  恥ずかしくてたまらないのに。  なのに、どこか楽しみにしている自分がいる。ちらちらと時計にばかり目をやって、授業に集中できない。  時計の針の動きが、やたらと遅く感じてしまう。  落ち着かない。いてもたってもいられない。  放課後になると同時に、桐花は飛び出すように教室を後にした。  廊下に人影が少なくなり、美術室が近づくにつれて、鼓動がどんどん速くなってくる。  美術室の扉の前で立ち止まる。  息が苦しい。その原因は教室からここまで走ってきたためだけではなさそうだ。胸の鼓動は制服の上からでも動きが見えるくらいに激しい。  落ち着けようと胸を押さえる。  心の準備をする。  この扉を開けたら、また裸にならなければならない。裸を視られなければならない。  恥ずかしい。  恥ずかしくてたまらない。  なのに。  それを嫌がっていない自分に戸惑っている。  けっして裸になりたいわけじゃない。視られたいわけじゃない。  だけど、嫌だとは思っていない。  椎奈のあの瞳が忘れられない。あの、力のある視線が。  真っ直ぐに桐花を見つめていた瞳。押し潰されそうに感じるほどに力のある視線。  あの瞳だからこそ恥ずかしくて、だけどあの瞳だからこそ断れない。  いったいどうしてしまったのだろう。わけがわからない。  美術室の扉に手をかけたところで、桐花はそのまま動きを止めた。  迷いが生じてしまう。一度躊躇してしまったせいで、扉を開けるきっかけを失ってしまった。  羞恥心がどんどん膨らんでくる。  扉にかけた手が、ぴくりとも動かない。 「来てくれたの、ありがとう」  その声がなければずっと固まっていたかもしれない。不意の声にびっくりして跳び上がる。見ると、椎奈が来るところだった。 「さ、入って」  扉を開けて促す。その言葉に操られるように、桐花は美術室へと入った。  椎奈はいま教室から来たところというわけではないようだ。美術室には鞄が置いてあって、昨日と同じ位置にイーゼルや椅子、机が出してある。桐花が来ればいつでも始められるという状況だった。  桐花も適当に鞄を置く。そこでまた躊躇してしまう。  服を脱がなければならない。しかし、まだ明るい中、美術室で全裸になるというのは扉を開けることなど比べものにならないくらいにきっかけが難しい。  そのきっかけは、また椎奈が与えてくれた。正確に言えば、桐花は自分で服を脱ぐ必要すらなかった。 「じゃ、始めましょうか」  その声に振り返ると、椎奈が目の前に立っていた。不自然なほどすぐ近くに。  両手を伸ばしてくる。桐花の制服に触れる。 「あ、あの……」  その手は桐花がなにも言えずにいるうちに、上着のボタンを外していった。簡単に上着が脱がされる。  続いてベストも同じように。  そこまではまだいい。しかしスカートに手をかけられた時はさすがに慌てた。  ホックが外され、ファスナーが下ろされる。支えを失った生地が足下に滑り落ちる。  顔がかぁっと熱くなった。  なのに動けない。恥ずかしいのに、なぜか抵抗しようという気にもなれない。  ただ全身を強張らせていた。  襟のリボンがほどかれる。  ブラウスのボタンがひとつずつ外されていく。  考えてみればとんでもない状況だった。他人の手で服を脱がされている。それも、全裸にされようとしているのだ。  これならむしろ、自分で脱ぐ方が抵抗は少ない。  なのに、なにもできず、なにも言えず、ただされるがままになっている。  椎奈の顔が近づいてくる。両腕が身体に回される。一瞬、抱きしめられるのかと思ってしまったが、実際にはブラジャーのホックを外されただけだ。  胸が露わにされる。  見られている。椎奈の大きな瞳で、間近から見つめられている。痛いほどに視線を感じる。  唾を飲み込む。  脚が震えてきた。  椎奈が足元に跪く。 「脚、上げて」  脚が震えて力が入らなくて、身体がふらついて、うまく片足で立てなかった。椎奈に持ち上げられるようにして右足を上げる。  靴とソックスが脱がされる。  左足も同様に。  ついに、ここまで来てしまった。  身に着けているものはあと一枚だけ。それを他人の手で脱がされようとしている。  幼少の頃、親に着替えを手伝ってもらったり病院へ行った時以外、そんな経験はない。しかも今回の相手は家族でも看護婦でもなく、まったくの他人なのだ。  同性であることがせめてもの救いといえなくもないが、普通の女子高生であれば、むしろ異性に脱がされた経験者の方が多数派だろう。バージンである桐花にとってはどちらにしても初めての経験だった。  椎奈の白く細い指が下着にかかる。  化繊の生地が太腿を滑りおりていく。 「……、……」  ぎゅっと唇を噛む。そうしていないと、叫び声を上げてしまいそうだった。  頭に血が昇っていく。顔が膨らんで破裂してしまうような気がした。  女の子のいちばん恥ずかしい部分を隠す最後の一枚を、他人の手で脱がされている。しかも相手の顔はすぐ間近にあって、その場所を正面から見られているのだ。  正真正銘の全裸にされた時には、今にも倒れそうな心境だった。肝心のモデルをするのはこれからなのに、既に疲れ切ってふらついている。 「……ひょっとして、恥ずかしいの?」  耳たぶまで真っ赤に染めて硬直している桐花の様子を見て、椎奈は小さく首を傾げた。相変わらずの無表情なので考えを読むのは難しいが、不思議そうにしているようだ。  やはり彼女には、ヌードモデルをすることが恥ずかしいなどという発想はないらしい。桐花は硬直して、うなずくことすらできずにいるというのに。 「やっぱり昨日みたいに、私も脱いだ方がいいのかな」  桐花とは対照的に、なんの躊躇いもなく制服のボタンに手をかけた。しかしボタンをひとつ外したところで手を止めると、桐花を見て一度瞬きをする。 「……そうね。この場合、あなたに脱がしてもらうのが公平ね」 「え」  微かに悪戯な笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろうか。椎奈は手を下ろすと桐花に一歩近づき、促すように軽く胸を突き出した。  まったく、どういう思考回路をしているのだろう。  すべてが計算尽くなのか、それともものすごい天然なのか。後者の可能性が高いところが逆に怖い。  モデルが裸になることを恥ずかしがっているからといって、自分も服を脱ぐ絵描き。それだけでも変わり者のレッテルを貼るには充分と思えるが、自分の手でモデルを脱がし、そのお返しとして相手に脱がせてもらおうだなんて。  そもそも、椎奈が裸になるのは昨日だけのことと思っていた。昨日だって桐花にはそんなつもりはなかったのだし、今日は多少の躊躇いはあったにしろ、一応は覚悟を決めてきたのだ。  椎奈が裸になる必要はないし、百歩譲っても自分で脱いでもらっても構わない。  なのに桐花は、椎奈の言葉に誘われるように手を伸ばしていた。  心のどこかで、その行為をしてみたいと思っていた。  震える手で上着のボタンを外していく。  上着を、そしてベストを脱がせる。  スカートを下ろし、脚を抜かせる。細くて長い脚が露わになる。椎奈のスカートは今どきの女子高生としてはやや長めだったので、初めて見る白い太腿にどきりとした。  おそらく、普段あまり屋外で遊んだり、スポーツをしたりはしないのだろう。細くて、肌が白くて、傷ひとつない滑らかな脚をしている。見慣れた自分やクラスメイトの脚とはまるで違うもののように思えて、鼓動が激しくなってしまう。  ここから先は、いっそう「脱がしている」という実感が強くなる領域だった。  小さくひとつ深呼吸して、襟のリボンに手を伸ばす。  リボンがほどける。ブラウスの一番上のボタンは留めていなかったようで、はだけた胸元が眩しい。  普通は逆のはずだが、脱がされている椎奈よりも、脱がしている桐花の方が恥ずかしくなってきた。  椎奈は相変わらずの無表情。表情だけを見ればマネキンの着せ替えと大差ないかもしれない。しかし目の前の相手は、人形と思い込むには瞳に生命力がありすぎた。  こんなに強い光を放つ瞳を持った人形なんて、あるわけがない。  生きている、生身の人間。  自分と同じ年頃の、しかも、かなり綺麗な女の子。  その服を脱がしている。全裸の自分が、女の子を全裸にしようとしている。  考えれば考えるほど恥ずかしい。考えないようにしよう、無心になろうとしても無理な話だ。  直視するのが恥ずかしくて、うつむき加減でブラウスのボタンを外していく。かといって完全に視線を逸らすこともできない。視線が、綺麗な肌に引き寄せられてしまう。  ブラウスを脱がす。下着姿の椎奈が目の前に立っている。白いレースで彩られた、高級そうな下着だった。  ごくり……唾を飲み込む。  一歩近づいて、背中に腕を回す。二人の距離が一番接近する一瞬だった。息がかかる距離に椎奈の顔がある。  ブラジャーのホックを外すと、ずれたカップの下から形のいい膨らみが顔を覗かせる。先端の突起は小ぶりで、淡いピンク色をしていた。  桐花には別に同性愛の趣味はないから、これまで女の子の裸をまじまじと見たことなどなかった。修学旅行の入浴や水泳の授業の着替えで服を脱ぐことがあっても、クラスメイトをじっくりと観察などしない。たまに好奇心からインターネットのアダルトサイトをこっそり見ることはあるが、興味の対象は『行為』であって、AV女優の裸体ではない。  だから、こんな風に女の子の裸を見るのは初めてだった。  知らなかった。女の子の身体が、こんなに綺麗なものだったなんて。  それとも椎奈が特別なのだろうか。  とても綺麗なもの。とても大切なもの。  そんな気がする。  だから緊張してしまう。手が震えてしまう。これまで以上に、いけないことをしているような気持ちになってしまう。  心臓が爆発しそうなほどに激しく脈打っている。  最後の一枚を脱がしていく。その下に隠されていたものが露わになる。  滑らかな美しい曲線を描く腰、太腿。秘密を隠した淡い茂み。 「どうしたの?」 「えっ? あ、いえっ、なんでもないです!」  自分でも気づかないうちに、手が止まっていた。膝のあたりまで下着を下ろしたところで、見とれてしまっていた。  そんなことを正直に言うわけにもいかず、慌てて残りを脱がす。  桐花に全裸にされた椎奈。  椎奈に全裸にされた桐花。  全裸の少女が二人、間近に立っている。  なんとも不思議な光景だった。 「じゃ、始めようか」 「はっ、はいっ!」  脱がした下着を手に持ったままだったことに気づいて、慌てて小さく畳んで他の服と一緒に椅子の上に置いた。  昨日と同じ位置に、同じ姿勢で立つ。  まだ顔が熱くて、鼓動が速かった。  対称的に椎奈は昨日と変わらぬ無表情だ。彼女には羞恥心というものがないのだろうか。まさか、いつもこんな風にモデルと一緒に全裸になっているわけではあるまい。  イーゼルの前に置いた椅子に座った椎奈は、すぐには筆を手に取らず、昨日と同じように真っ直ぐに桐花を見つめた。  あの、力のある瞳で。  圧倒されるような圧迫感。  手で触れられているかのような質感を感じる視線。  椎奈に見つめられていると、激しい動悸は治まるどころかいっそう激しくなっていく。  冷静に考えてみれば、やっぱり不思議な光景だ。  女子高生が二人、放課後の教室で全裸になって向き合っている。  ここが美術室で椎奈が絵描きであることを考えても、桐花ひとりが裸でいる方がまだ自然な状況だろう。  女の子が全裸で、密室に何時間も二人きり。  そう考えるとやっぱり平常心ではいられない。考えないようにしようと思えば思うほど、いっそう意識してしまう。  考え過ぎなのはわかっている。  椎奈は少しばかり感性が常人と違うだけで、変な下心があるようには見えない。だからこそこんなことができるのだ。でなければもっと直接的な行動に出るか、あるいは下心を隠すためにもっと自然に振る舞うかだろう。  これが、彼女の素。  だからなにも気にする必要はない。ただ平然とモデルをしていればいい。  頭ではわかっていても、実践するのは難しかった。  ただでさえ慣れないヌードモデル。そしてなにより、椎奈の瞳があまりにも強い光を放っているから。  一糸まとわぬ姿をあの瞳に見つめられていて、平常心を保のは不可能だった。  舐めるような、なんて生やさしい表現では済まされない。毛穴のひとつひとつまで記憶しようとしているかのような、全身全霊の力のこもった視線。  椎奈の瞳には力がある。  だから、見つめられているだけで消耗してしまう。ほんの数分間で疲れ果ててしまう。  だけど。  けっして、不快ではない。  恥ずかしいけれど。  心穏やかではいられないけれど。  精神的に疲れ果ててしまうけれど。  心のどこかで、見られていたい、見て欲しいと思っている。見られることが嬉しいと思っている。  どうしてだろう、こんな気持ちになるのは。  神秘的なほどに美しくて力強い瞳が、桐花を捕らえている。  昨日と同様に、時間の感覚がなくなるくらい長い時間、椎奈は黙って桐花を見つめていた。やがて楽にしているように言うと、筆を持ってカンバスに向き直った。  それからは一心不乱に手を動かし続けている。  あの視線をカンバスに向けている。  こちらはちらりとも見ない。一瞬たりともカンバスから視線を外さない。  桐花は全裸のまま、椅子に座ってそんな光景を見つめていた。  不思議と、退屈とは思わなかった。  天才だけが持つ集中力でカンバスに向かう椎奈を見ていると、時が過ぎるのを忘れてしまう。  そんな時間が下校時刻まで続く。  帰りにはやっぱり昨日と同じように美味しいケーキをご馳走してくれた。  椎奈はあまり口数の多い方ではないようだが、さすがに絵に関することは知識も豊富なようで、ぽつりぽつりとではあるが、桐花でも名前を知っているような有名な画家にまつわる逸話を話してくれたりした。  そうした時間が、不思議なほどに楽しかった。 3 「うわぁ……」  それだけ言ったきり、桐花は口をぽかんと開けて言葉を失ってしまった。  ようやく完成した絵を一目見た瞬間、圧倒されてしまった。  それは、カンバスいっぱいの緑。  熱帯の密林を思わせるような深い森の風景。  悠久の時を生きてきた樹々の節くれだった幹も、分厚い苔に覆われている。  深い、深い緑色の風景。空気までが緑に染まっているのでないかと思われるほどの空間。その中で、樹に寄りかかるようにして全裸の少女が立っている。  深い緑の中にある、健康的な赤みを帯びた肌色。そこだけが異質の色彩を放っている。それ故にひどく印象に残る。 「……、……」  声が出せなかった。感動を言葉に変換することができない。  深い、限りなく深い色彩。吸い込まれてしまいそうなほどに深い。  圧倒されて、呼吸をすることも忘れてしまいそうだ。 「いかが?」 「……す、ごい……すごい! すごい! めちゃすごい!」  他に言葉が出てこなかった。桐花は馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返す。  いつもは無表情な椎奈も、今日はこころなしか嬉しそうな、誇らしげな顔をしているような気がした。 「ま、けっこういい感じに描けたかな。あなたは肌の色がとても綺麗だから、よく映える」 「えー、そんなこと……」  顔が熱くなる。椎奈に褒められたことが嬉しくて、そして恥ずかしい。 「こんなスゴイ絵……、椎奈さんの才能ですよ、やっぱり」 「気に入ってくれたのなら、この絵はあなたにあげる」 「えっ、でも……」  喜びのあまり跳びあがりそうになったが、一瞬遅れて大事なことを思い出した。 「こんな高価なもの……」  椎奈の絵のモデルをしていることは、仲のいい友達にはちらっと話していた。ヌードであることは隠していたけれど。  桐花よりは事情通であるその友達が、椎奈の絵の価値を教えてくれた。小さな作品でも十万円単位の値がつく、と。  まだ高校生の椎奈だが、絵の世界では知る人ぞ知る天才少女なのだ。一部ではかなり高い評価を得ているらしい。  桐花をモデルにした絵にどれだけの価値があるかはわからないが、椎奈の絵というだけでも相応の評価を得るだろう。  その絵をもらうというのは、マンガが得意な友達がスケッチブックに描いた似顔絵をもらうのとは訳が違う。 「いくら油絵の具が高いといっても、この絵の原価なんてたかがしれてるわよ? 絵の価格なんて、画商とか、自分の持ち物に金銭的価値がないと満足できないな金持ちが、勝手な値をつけてるだけ。正直なところ、絵の金銭的な価値には興味ないわ。私が自分の意志で描いた自分の絵だもの、どう扱おうと私の自由でしょ?」 「でも……」  売れば少なくとも数十万円の絵、簡単に受け取っていいものだろうか。モデルといっても、それほど役に立てたとは思えない。この絵が素晴らしいのはすべて椎奈の手柄だろう。  しかし。 「代わりに、次の作品のモデルもしてくれる?」  そう言われた時には即座にうなずいていた。  もちろん、この絵と引き替えでなくても迷わず引き受けただろう。  椎奈のようなすごい才能の持ち主に選ばれること。  こんなに素敵な絵にしてもらえること。  それは桐花にとって、大きな悦びだった。 * * *  そうしてまた、放課後に椎奈のモデルをする日々が始まった。  また、全裸で。  椎奈も裸になって描いている。  モデルを始めて二日目の日以来、それが当たり前になっていた。相手に服を脱がしてもらうことも含めて。  どれだけ日を重ねても、それが平気にはならない。裸にされることも、椎奈に見つめられることも、全裸の椎奈を見つめることも。  心拍数が上がり、頬が紅潮する。喉が渇く。緊張と疲労感で脚が震える。  だけど不快ではない。むしろ心地よいとさえいえる。  不思議な感覚だった。  毎日、悦びと戸惑いと緊張が入り混じった心理状態で椎奈に描かれている。  二枚目の絵は、海の風景だった。  一面の碧。  珊瑚礁の島を思わせる、真っ白い砂浜。  白い砂、白い波、白い雲。  青い空、碧い海。  その美しい対比が印象的だった。  そして、白く崩れる波の中に座っている裸の少女。  南国の強い陽射しを浴びて、肌が艶やかに輝いている。  鮮やかで、そして深い色。  魂が吸い込まれるような、透明感のある深い色づかい。それが椎奈の絵に共通した特徴らしい。  完成した絵を前に、桐花は全身に鳥肌が立つのを覚えた。  震えてしまう。  震えてしまうほどに綺麗。  怖いほどに綺麗。  引きずり込まれてしまいそう。  それは本当に、絵の中に吸い込まれてしまうような感覚だった。 * * *  そして今日も、授業が終わると同時に桐花は美術室へと向かった。  二枚目の海の絵が完成した後、椎奈は間を置かずに三枚目の制作に取りかかっている。  もちろん桐花にも異論のあるはずがない。喜んで椎奈に協力していた。  椎奈の絵のモデルをすることは、悦びだったから。  椎奈の前に裸体を、なにひとつ飾らない自分の身体を曝すこと。  椎奈の力強い瞳に見つめられること。  椎奈に描かれること。  自分の生命が、椎奈の手でカンバスに写しとられること。  椎奈の美しい絵の中に、自分が存在すること。  そしてなにより――椎奈の傍にいられること。  すべてが悦びであり、快感だった。  そんな想いを自覚したのはいつ頃だったろう。はっきりとはわからない、気がついたらそうなっていた。  授業中は、放課後が来るのが待ち遠しくて仕方がない。  椎奈に逢える時間。  椎奈と一緒にいられる時間。  椎奈に描いてもらえる時間。  椎奈に見つめられる時間。  いつも心待ちにしている。  今日も、放課後になると同時に自分の教室から美術室までを一気に駆け抜けた。弾けるような動作で扉を開ける。  大抵、椎奈は先に来ていて、桐花が来るまでお茶を飲んだりしているのだが、この日は違っていた。  美術室に椎奈の姿がない。今日は三年生の方が先に授業が終わる時間割だったはずなのだが。  訝しみながら中に入った。イーゼルや椅子が出してあるところを見ると、椎奈は一度ここに来たようだ。そう思ったところで、イーゼルの端に貼りつけてあるメモ用紙に気がついた。 『クラスの用事で少し遅れるから、待ってて』  そう書いてある。  昨今の女子高生にしては大人びた字。間違いなく椎奈の筆跡だ。 「……なんだ。だったらメールくれればよかったのに」  一応メールアドレスの交換はしてあるのだが、どうやら椎奈はあまり携帯を使う性格ではないらしかった。  いろいろと今どきの女子高生らしくない椎奈だが、そんなところが逆に椎奈らしいという気がした。 「……ちぇ」  桐花は舌打ちする。  つまらない。  つまらない。  残念だ。  悲しい。  カナシイ。  早く描いてもらいたかったのに。  ――早く椎奈に逢いたかったのに。  ほとんど無意識のうちに、そこに置いてあった筆を手に取っていた。  椎奈のものだ。  ぎゅっと握りしめて、抱きしめるように胸に押しつける。少しだけ、そこに椎奈がいるような感覚を覚えた。  少しでも椎奈とのつながりが欲しかった。ただ一人でいるよりはましだ。 「……なにやってるんだろう、私」  なんなのだろう、この感覚は。  逢いたい。  逢いたい。  逢えないと寂しい。  逢えない時間が、泣き出してしまいそうなほどに寂しい。  なんなのだろう、この感情は。  まるで、  まるで……  まさか……  まさか。  違う。  違う。  多分、違う。  だけど。  だけどまるで、恋愛感情みたいではないか。  おかしなことだ。  そう思いつつも、抱きしめた筆を手放せない。 「……逢いたい」  どうしてだろう、涙が滲んでくる。 「待たせてしまった? ごめんなさい」  不意に声をかけられて、びっくりして跳びあがった。扉が開いたことにも、近づいてくる足音にも、まったく気づいていなかった。 「あ……い、いいえっ! 全然、待ってなんかないです!」  振り返って応える。声が裏返ってしまう。  どうしてこんなに取り乱してしまうのだろう。 「……?」  不思議そうな椎奈の視線は、桐花の手元に向けられていた。  筆を握りしめている手を。  慌てて筆を置く。 「あなたも描いてみたいの?」 「い、いえ、そういうわけではなくて、ただ、なんとなく……」  なんとなく、なんだというのだろう。  どう説明すれば、不自然ではないのだろう。  うまい言い訳が思い浮かばない。  しかし椎奈は特に気にしている様子もなかった。彼女にとっては些細な問題なのかもしれない。 「さ、始めましょう」 「は、……はい!」  いつものように、椎奈の手が触れてくる。上着のボタンを外していく。  熱い。  指先が触れた胸元が、灼けるように熱かった。 * * *  最初に描いてもらった絵は、自室の壁に掛けてある。  毎日、少なくとも何分間かは絵に見入ってしまう。どれほど見ても見飽きることがない。  この絵を見ていると、まるで椎奈に見つめられているような気持ちになってしまう。  描かれている少女は桐花がモデルだ。それは間違いない。  しかし、瞳だけが桐花のものでなかった。  それは椎奈の瞳だ。  椎奈の、あの力強い瞳がそこにあった。  その瞳で、桐花を見つめている。  自分の部屋にいる間、常に椎奈に見つめられている。  そう思うと、鼓動が速くなってくる。体温が上昇する。  見られている。  視線を感じる。  その日の風呂上がり。  バスタオル一枚の姿で部屋に入ると、ちょうど正面から見つめられるような形になる。桐花は思わず動きを止めた。  桐花の姿をして椎奈の瞳を持った少女が、こちらを見つめている。  見られている。  見つめられている。  痛いほどの視線をはっきりと感じる。肌がびりびりと痺れるようだ。  この感覚は、着替えの時やお風呂上がりに特に強い。そう、肌を曝している時ほどそう感じてしまう。  鼓動が速い。  身体が熱い。  それはけっして、長風呂のせいだけではない。  ゆっくりと手を動かす。身体に巻いていたバスタオルが落ちる。 「――っ!」  打たれたような衝撃。  全身に椎奈の視線を感じる。  呼吸が荒くなる。  そっと胸元に触れた。数時間前、椎奈の指に触れられた位置に。  一瞬、火傷しそうな熱さを感じて手を引っ込める。肌に残った熱さがじわっと広がって薄れていく。  また、恐る恐る指を伸ばす。  何度も、そんな動作を繰り返す。  何度も、何度も。  だんだん、触れている時間が長くなる。  だんだん、指に力が入ってくる。  そして――  だんだん、触れる位置が変わっていく。 「……あ……く、ぅん……っ!」  脚に力が入らなくなって、その場に座り込んでしまう。それでも、手の、指の動きが止まらない。 「…………ぁ……し、ぃな……さん……」  指が勝手に動いて止まらない。筆を自在に操る椎奈の指のような動きで、桐花の身体を弄ぶ。  私ってば、なにをしているんだろう。  理性が小さな声を上げる。  こんなの、おかしい。なにか変。  椎奈のことを考えながら、こんなことをしている。  椎奈に見られていることを想い出しながら、こんなことをしている。  椎奈に触れられたことを想い出しながら、自分に触れている。  こんなの変。  なにかおかしい。  普通じゃない。  頭の片隅でそう思いつつも、指の動きを止めることはできなかった。 4  紅――    放課後、いつものように美術室の扉を開けた桐花の視界に飛び込んできたのは、紅い色彩だった。  カンバス一面に広がった、深紅の染み。  その前に無表情に立つ椎奈。  鮮やかな色彩に心奪われてしまい、剃刀を握っている椎奈の右手と、鮮血を滴らせている左手首に気づくのが一瞬遅れた。 「な、なにやってるんですかっ!」  大慌てで自分の鞄を放り出すと、飛びつくようにして椎奈の手から剃刀をもぎ取った。  紅い滴が飛び散って床に丸い染みを作る。しかしそれは、椎奈の足元にある紅い水たまりに比べれば取るに足らないほど小さなものだ。  しかも、現在進行形で広がりつつある。左手の指先からぽたぽたと鮮血が滴っている。冗談ですませられる量の出血ではない。 「どうしてこんなことを……絵のことでなにか悩んでたんですか? 私じゃなにも力になれないかもしれないけれど、死のうとする前に相談くらいしてくれたっていいじゃないですか!」  桐花は金切り声で叫んだ。  自ら命を絶った画家の例は、文筆家に比べるとはるかに少ない――いつだったか椎奈が話してくれたことを想い出す。  有名どころではゴッホくらい。美術に興味を持つ者を除けば、リヒャルト・ゲルステルの名を知る日本人はそう多くはないだろう。しかしゲルステルはゴッホの影響を受けているし、ゴッホと椎奈の作風はまるで違っても、異常ともいえる集中力と、独特の色彩感覚という点では共通している。だからといって自分を傷つけるところまで似なくてもいいではないか。  傷の手当てをするために椎奈の手を取ろうとする。しかしそこで桐花は動きを止めてしまった。  左手首に刻まれた傷痕に気づいてしまったから。  ひとつやふたつではない。  新しいもの、古いもの。無数の古い傷の上に重なってつけられた新しい傷。 「……勘違いしないで」  言葉を失っている桐花とは対照的に、椎奈は普段とまったく変わらない。抑揚のない口調で言う。 「自殺なんかじゃないわ。死ぬ気なんかさらさらない。ただ、この色に見とれていただけ」 「……え?」 「この色が好きなの。この鮮やかな色をカンバスに写し取りたい。だけど絵の具では出せない色」  左手を掲げる。また血が滴り、床に紅い染みが増える。 「似た色ならいくらでも作れる。だけどここには、絵の具にはない『生命』の色がある。どれほど顔料を調合しても同じ色は出ない。しょせん顔料は顔料、そこに生命はない」  椎奈は落ち着いた口調で言った。そこには死に向かう悲壮感も、狂気も感じられない。ただただ真剣に絵と向き合う画家の姿だ。  だからこそ、深紅に染まった左手の異質さが際だっていた。 「だからって、そんな……」 「さ、始めましょう」 「でも、傷の手当てが」  まだ出血は続いている。左手は真っ赤に染まり、指先からぼたぼたと雫が落ちている。 「そんなの後でいい。私にはこの色彩が必要なの。脱いで」 「でも…………」  結局、桐花の方が根負けした。  椎奈の意志の強さ、絵に向かう時の集中力はよくわかっている。自分が納得しない限り、絶対に治療など受け入れないだろう。  今はなにを言っても無駄だ。傷の手当てをするためには、早く描いてもらった方がいい。  桐花は服を脱ぎはじめた。いつもは椎奈に脱がしてもらっているのだが、今日は手が血で汚れているので自分で脱ぐようにとのお達しだ。  考えてみれば、自分で脱ぐのは初めてモデルをした日以来だった。しかし今日は躊躇している余裕などない。自分でも意外なくらい手早く全裸になり、促されて椎奈の服も脱がせる。  しかし椎奈はいつものようにすぐ席に着かず、間近で桐花を見つめていた。  血まみれの左手が差し出される。  顔に近づいてくる。  深紅に染まった薬指が唇に触れる。口紅を塗るようにゆっくりと滑っていく。  唇が濡れるのを感じる。錆びた鉄の匂いが鼻をつく。 「綺麗よ、桐花」  珍しく、心なしか弾んだような声。気がつくと、椎奈の顔がすぐ目の前にあった。 「――っ!」  柔らかな感触。  微かな温もり。  それはほんの短い時間のことで、すぐに椎奈は離れた。その唇が紅く濡れている。  一瞬、心臓が止まった気がした。  今、いったいなにをしたのだろう。いったいなにをされたのだろう。  唇に、柔らかな感触が残っていた。  椎奈の左手が頬に触れてくる。そこから首筋、胸、お腹へと下がっていく。手が滑っていった後には紅い軌跡が残る。 「綺麗。すごく綺麗」  初めて見る、熱っぽいうっとりした表情の椎奈。  桐花の足下に跪いて、太腿を抱くようにして左手を擦りつけている。脚の付け根に近い、かなり際どい部分を触られている。  顔が火照って頭がくらくらする。今にも倒れそうだ。  まるで熱中症だ。椎奈の血の熱さに中てられてしまった。  熱い。  触れられた部分が、血を塗られた部分が、火傷しそうなほどに熱い。  椎奈は満足げな表情で席に着くと、いつも以上の集中力で筆を動かし始めた。  その間、桐花は倒れないように立っているのがやっとだった。  頭の中がぐちゃぐちゃにこんがらがっている。  今、いったいなにをされたのだろう。  キス、されて。  全裸なのに、身体を直に触られて。  ……キス!  初めて、だった。  相手が異性であれ同性であれ、桐花にとっては初めての経験だった。  顔が熱くなる。熱くなりすぎて、頭が熱気球のように膨張していくように感じる。  嫌だ、とか。  嬉しい、とか。  そんな判断もできない。  ただ必死に、爆発しそうなほどに暴れている心臓を抑え、今にも途切れそうになる意識をなんとかつなぎ止めて、ふらつきながらも立ち続けていた。  倒れたりして、椎奈が描くことの邪魔をしたくなかった。  この状態で立ち続けていることは辛い。  それでも、時間が早く過ぎればいいという想いよりも、いつまでもこうしていたいという想いの方がずっと強かった。  絵を描き終わると、椎奈は身体を拭くためにウェットティッシュを渡してくれた。しかし桐花は血で汚れた自分の身体を無視して、服も着ないまま椎奈の傷の手当てを優先した。  出血はもうほとんど止まっているようだったが、やはり放っておくことはできない。  美術室には小さな救急箱が置いてあった。あるいは、こうしたことは日常茶飯事なのかもしれない。  傷を消毒して、手首に包帯を巻く。  傷だらけの手首。  新しい傷、古い傷。  小さな傷、大きな傷。  どうしてだろう。不意に涙が出そうになる。  特に考えがあったわけではなく、衝動的に細い手首を握って、包帯の上からそっと口づけた。 * * *  滴る深紅の液体。  椎奈の左手から、桐花の身体へと塗りつけられる。  そんな異常な行為も、一週間も続けば日常となる。  しかし、けっして慣れることはできない日常だった。  力のある椎奈の瞳の前で全裸になるだけでも相当に消耗するのだ。それに加えてこんな異常な状況とあっては、平然としていられないのは当然だ。  だけどけっして不快ではない。  ぼぅっとして、なにも考えられなくなって、全身が熱くて。  長風呂をしてのぼせた時に近いだろうか。ふらつきつつも、この感覚に浸っていたいと思ってしまう。  しかし。  その日の椎奈は様子が違っていた。  いつものように描き始めたものの、すぐに手を止めてしまう。普段、無表情で感情を表に出さない椎奈にしては珍しく、傍目にはっきりとわかるくらいに不満げな表情を浮かべていた。 「……違う」 「え?」 「こんなの、本物じゃない。所詮は紛い物よ!」  叩きつけるように筆を置く。こんなに感情を露わにした椎奈は初めて見た。不満、どころではない。明らかに憤っている。 「桐花の血は、もっと綺麗よ」 「……え?」  立ち上がり、近づいてくる椎奈。その手には愛用の剃刀が握られている。 「ねえ、そうでしょう?」  力のある瞳が真っ直ぐに向けられている。桐花はなにも言えない。 「本物が欲しい。あなたの血の色が欲しいの」  これまでさんざん椎奈の血を吸ってきた刃が、桐花の肌に当てられた。  胸の膨らみの上ですっと引かれる。  痛みは、感じなかった。  後に残ったのは、目に見えるか見えないかの、微かな一本の紅い筋。  それがだんだんと色鮮やかになり、小さな紅い珠がふつふつと浮き出てくる。  もう一度、椎奈が手を上げる。  銀色の光が閃く。  最初の傷と交差するように、紅い筋が走る。紅い宝珠が次々と浮かんでくる。それが少しずつ大きく成長して隣同士がつながり、紅い帯となる。そしてゆっくりと流れ落ちていく。  二度、三度、続けて剃刀が疾る。その度に蛍光灯を反射した刃が閃く。  桐花はまったく抵抗せず、なにも反応せず、ただされるがままになっていた。  ゆっくりと、ゆっくりと、肌の上に広がっていく紅い色彩。 「……綺麗よ、桐花」  椎奈が笑っていた。  心底嬉しそうな、満足げな笑みを浮かべている。黒い瞳に、これまで以上に強い力と光が宿っていた。  イーゼルの前に戻って筆を持つ。紅い絵の具をたっぷりと含ませてカンバスに乗せていく。  異常なほどに熱い視線を桐花に向けたまま。  身体を貫く視線が痛い。  傷の痛みはほとんど気にならなかった。  鋭利な剃刀で切られた綺麗な傷だ。おそらく痕も残らないだろう。  傷そのものは痛くない。それよりも椎奈の視線の方が何倍も痛い。傷をえぐられるようだ。  痛い。そして熱い。  だけどそれは苦痛ではなく、むしろ甘美な痛み、甘美な熱さだった。  頭がくらくらする。気が遠くなる。  だけど――  ずっとこうしていたい。  熱にうなされたような、だけどとても甘い時間。  ずっとこうしていたい。  ずっと、ずっと。  だけど――  時は無情にも過ぎてゆく。  やがて下校時刻が迫り、椎奈も筆を置いた。  その頃には、桐花の出血も既に止まっていた。胸からお腹にかけて鉄錆色の乾いた血の帯がこびりついていて、動くと肌が突っ張った。  椎奈が近づいてくる。肩に手が置かれる。  顔が近づいてくる。 「あ……」  唇が触れる。胸の傷の上に。  舌が触れる。固まった血の上を滑る。  乾いた血を溶かして舐め取っていく。  全身の血が沸騰して、頭に昇っていくようだった。  客観的に見れば、これではまるで性行為のようではないか。  しかし、おそらく椎奈にはそんなつもりはないのだろう。むしろ、もっと生命の源に根ざした行為だ。  だけど桐花としては意識せずにはいられない。  熱い。  椎奈の唇が、舌が触れた部分が熱い。灼かれたように、痛いほどに熱かった。  なのに――  それが、気持ちよかった。  熱い。  触れられたわけでもないのに、熱くなっている部分がある。 「……ん」  熱い。  漏れそうになる声を堪える。  お腹の奥が熱い。  どれほど恥ずかしくても、それを認めないわけにはいかなかった。  限りなく性的な快感に近い感覚。  他人にそれを与えられるのは初めてだ。  傷の上で蠢く舌。  傷のひとつひとつを丹念に舐め、血を一滴残らず飲み込んでいく。  腕、胸、お腹。いつまでも続く愛撫。  桐花は小さな身体を震わせて、繰り返し押し寄せてくる快感に耐えていた。 * * * 「ごめんなさい、今日はちょっと……」  そんな台詞を口にするのは、桐花にとっても辛いことだった。  椎奈のモデルをすることは悦びなのだ。できるなら毎日だって描いてもらいたい。  肌に傷をつけられるようになっても、その想いは変わっていない。いや、むしろ強まってさえいるかもしれない。  だけど、今日ばかりはだめだ。 「どうしたの? なにか用事?」 「いえ、そういうわけじゃないんですけど……その……」  桐花はそこで言い淀んでしまう。  どうしてだろう。別に、普通に言ってもいいはずだ。女同士なのだから。  なのに、言うことに抵抗がある。  多分、事情を説明した時の椎奈の反応が予想できていたからだろう。 「どうしても、だめ?」  縋るような、あるいは懇願するような口調。  だけどその目は相変わらずの力がこもっていて、桐花にモデルを強要する。 「今日は……その……生理、で……、ちょっと出血が多くて……」 「それがなにか?」  ああ、やっぱり。  心の中で小さく嘆息する。予想していた通りだった。 「むしろ、私にはその方が好都合では?」  わざわざ剃刀で切る手間が省ける、とでもいうのだろう。  期待を込めた瞳で見つめている。  拒みきれない。  最初からわかっていたことだ。  それでも一応、もう一度確認する。 「…………どうしても、ですか?」 「どうしても、って言ったらしてくれるんだ?」  やっぱり拒めない。逆らえない。諦めるしかない。  いや、もしかすると心の奥底では拒みたくなかったのかもしれない。  それを、して欲しかったのかもしれない。  小さくうなずいて、椎奈の前に立った。  手が伸びてくる。  ボタンを外していく。  一枚ずつ服を剥ぎ取っていく。  最後の一枚を脱がされる時は、さすがに全身が強張った。  太腿の中ほどまで下着を下ろしたところで椎奈の手が止まる。顔から炎が噴き出しそうだった。ぎゅっと目を閉じる。  美術室に来る前にナプキンを替えてはきたが、出血はまだ続いている。それが深紅に染まっていることは、見るまでもなく明らかだった。  やっぱり、タンポンの方がよかったかもしれない。だけど桐花は、まだその生理用品を使ったことがなかった。  ゆっくりと脱がされていく下着。  間近から見つめられているのを感じる。 「じゃあ、始めましょ」  妙に嬉しそうな、弾んだ声。恐る恐る目を開けると、満面の笑みが視界に入った。なにも知らない人が見ればとても可愛らしい表情だが、桐花にしてみれば、こんな椎奈には慣れていないので不気味でさえある。  踊るような足どりでイーゼルの前へ移動し、筆を取る。  大きな目を見開き、熱っぽい瞳でこちらを見つめる。  いつも以上に力のこもった視線だった。熱を発しているかのように感じてしまう。  顔が熱い。  身体が熱い。  どうしよう、どうしよう。  椎奈が筆を動かし始めてすぐに、桐花はパニックに襲われた。  身体の奥で進行している事態。  ああ、だめ。  やめて、今はだめ。  身体の中で、胎内で、熱い液体が流れだすのを感じていた。  よりによってこんな時に、新たな出血だなんて。  滴り落ちてくる。  流れ出してくる。  やだ、やだ!  内腿を伝い落ちる熱い経血の感覚に、気が遠くなりかける。  一瞬、椎奈の手が止まる。  はっきりと、瞳の光が強くなる。  恥ずかしい。  恥ずかしい。  だけど、動けなかった。  恥ずかしさのあまり、全身ががくがくと震える。  だけど、動けない。隠そうとしたり拭いたりすることはもちろん、目を閉じたり視線を逸らしたりすることさえできなかった。  鋭い視線が桐花の身体を射抜いて、動くことを禁じていた。  流れ出た血だけが、性器から太腿へ、膝へ、そして踝へと滴り落ちていく。  椎奈が見つめている。  異常なほどに熱い視線。  異常なほどに力のこもった視線。  絵を描く時にはいつも常人にはない集中力を見せていた椎奈だが、今日はまた特別だった。  自らの経血で汚れていく桐花から一瞬たりとも視線を外さず、カンバスを見もせずに筆を動かしている。  そこに、この姿を写し取られている――そう思うと気が遠くなる。だけど元はといえば、こんな日でさえもモデルを断れなかった自分が悪いのだ。  今この状態でさえ、恥ずかしい姿を見られ、描かれることに対する抵抗感よりも、椎奈に見てもらえる、描いてもらえる悦びの方が大きい。  椎奈もまた、今日の桐花の姿をいたく気に入ったようだ。いつまでも描く手を止めようとしない。  いつもなら、下校時刻十分前を知らせる放送に合わせて帰り支度を始めるのに、今日は下校時刻を過ぎてしばらく経って、再度下校を促す放送が流れたところでいかにも渋々といった風に筆を置いた。  桐花は今にも倒れそうだった。単なるヌードモデルだってかなり精神的に堪えることを考えれば、今日は最後まで立っていられたことの方が不思議なくらいだ。  ふらつきながらも下着を手に取ろうとする。その手を椎奈が押さえた。 「え……」  熱を帯びた大きな瞳が、じっとこちらを見つめている。 「そのまま服を着るの? 汚れるよ」 「あ……」  血まみれの脚。血は床にまで滴り落ちているというのに、そんなことすらもうすっかり失念していた。  椎奈が悪戯な笑みを向ける。意味深なその表情に、全身が総毛立った。  これまでの彼女の行動パターンを考えれば、これからなにをするのか、なにをしようとしているのか、考えるまでもなかった。  だけど、逃げられない。脚がすくんで動かない。  微かに震えながら、桐花は立ちつくしていた。  桐花の手を取ったまま、椎奈が目の前に跪く。もう一方の腕を、桐花の太腿を抱くように回す。 「……っ!」  顔が近づいてくる。  太腿に口づけられる。  滴り落ちた血の痕に舌を押しつける。  桐花が感じたのは、電流に打たれたような衝撃だった。 「……や、あ」  椎奈の舌が動いていく。血の流れた筋に沿って、太腿から膝へ、膝から脹脛へと下がっていく。  乾いた血を溶かしながら、丹念に、美味しそうに、舐め取っていく。  そしてまた、来た道を上に戻ってくる。ゆっくりと、少しずつ。だけど着実に、止まることなく。 「や、っだっ……!」  椎奈は動きを止めない。押しつけられた舌は、太腿からさらに上へと移動していく。  多量の血を流した、その源へ。  脚を開かされる。椎奈がその間に身体を割り込ませてくる。  真下から見上げるような体勢で、桐花の股間に顔を埋めた。 「――っ!」  びくっ!  身体が強張る。  湿った、柔らかなものが、女の子の部分に触れる感触。  初めての感覚。  初めての経験。  そこを他人に触れられるなんて。  しかも、指ではなくて。 「ひっ……っ! あっ……」  静かな美術室に、桐花の嬌声と仔猫がミルクを飲むような音が響く。  だけどその湿った音の源はミルクではなくて。  口のまわりを深紅に染めた椎奈が、お腹をすかせた仔猫のような表情を見せている。  美味しそうに。  嬉しそうに。  無邪気なその表情と、生々しい血の赤の対比は、あまりにも異質だった。  信じられない。  これまでの、モデルとか裸を見られるとかキスされるとかとは明らかに異なる行為。  限りなくセックスに近い行為。  不思議な状況だった。  それをさも当然のようにしている椎奈。  まったく抗いもせずに身を委ね、切なげな嗚咽を漏らしている桐花。  女の子同士で。  恋人でもなんでもないのに。  好きな人以外にはさせちゃいけない行為なのに。  なのに桐花はそれを受け入れている。  その行為を悦んでいる。  それは死んだ方がましなくらいに恥ずかしくて、だけど気が遠くなるほどに気持ちのいい行為。  初めての経験だった。  もちろん、いくらバージンとはいえこの歳になって自慰の経験がないわけではない。しかし椎奈の舌が与えてくれる快感は、自分の指や携帯電話の振動とはまったく別次元のものだった。  とろけていく。とろけてしまう。  椎奈の舌が触れている部分から、桐花の身体が、意識が、とろけてなくなってしまう。  脚の力が抜けて、立っているのが辛くなってくる。思わず椎奈の髪を掴んで身体を支えようとしたが、堪えきれずに尻餅をついてしまった。  だけど椎奈は離れない。  仰向けになった桐花の太腿を抱えるようにして、その間に顔を埋めている。流れ出る血を一滴残らず貪ろうと舌を動かし続けている。  息ができない。  視界が真っ白になる。  伸ばした舌が中に入ってきたところで、桐花は意識を失った。 5  どうやって帰り支度をしたのかすら、まるで記憶になかった。  ずっと、夢の中を漂っていたような気がする。  気がついた時には血の汚れはすべて拭き取られ、ちゃんと制服を身に着けて、椎奈に手を引かれるようにして廊下を歩いていた。  服は自分で着たものか、それとも椎奈に着せてもらったものか、それすらも覚えていない。  高熱にうなされているかのように、ただぼんやりと歩いていた。  はっきりと我に返ったのは、前を行く椎奈が急に立ち止まって、その背中にぶつかりそうになった時だ。  まだ靄がかかったような頭を振りながら顔を上げると、椎奈の前に、長身の女の子が立っていた。  バスケ部のジャージを着ている。その大人っぽい雰囲気から察するに上級生だろう。部活の後らしく、髪が濡れていてかすかに石鹸の香りがした。  そしてどういうわけか、ひどく険しい表情で椎奈を睨め付けている。椎奈はと見ると、いつも通りの無表情だった。  状況がわからずにきょとんとしていると、目の前の相手は桐花に視線を移した。眉間にしわを寄せて、探るように、桐花をじろじろと不躾に睨め回す。  と、いきなり手を伸ばして桐花の襟を掴んだ。ブラウスのボタンを乱暴にひとつふたつ外し、襟元を広く開ける。  驚いて手を振り払おうとしたところで、先に相手が手を離した。 「あんた……、また、こんなことやってるんだ?」  きつい目で椎奈を睨み、低い声で言う。 「あんたは一年? こいつのモデルやってるの?」  いきなり話を振られた桐花は、まるで状況が理解できずになにも反応できない。しかし向こうは桐花の返事など期待していなかったように言葉を続ける。 「今のうちにやめなさい。こいつとは関わらない方がいい。じゃないと、あんたも殺されるよ」 「え?」  吐き捨てるようにそれだけ言うと、速足で立ち去っていく。桐花は乱れたブラウスを直すことも忘れ、茫然と見送っていた。椎奈はまったく表情を変えていない。 「あの……今の人、お知り合いですか?」 「遠藤由起、一年の時のクラスメイト」  抑揚のない声でそれだけ言うと、椎奈はまた歩き出した。もっと詳しく聞きたかったけれど、しつこく質問するのもなんとなく躊躇われた。 「……気にしない方がいいわ。一昨年、友達が死んでから、彼女ちょっとおかしいの」  おかしいのはどちらだろう。  常識的に考えれば、椎奈の方が異常だ。最近されていることを考えれば、それは間違いない。  それでも桐花は、黙って椎奈の後についていく。  普通ではない椎奈。  それでも、惹かれていることは間違いなかった。 * * *  その夜は、ベッドにもぐり込んでもなかなか寝付けなかった。  興奮が醒めない。心拍数はずっと高いままだ。  今日は本当にたくさんのことがありすぎた。  生理中にヌードモデルをさせられた。  椎奈が見ている前で出血してしまった。  あまつさえ、それを舐められてしまった。  それは、限りなくセックスに近い行為だった。桐花はまだバージンだ。これまでまともに男の子と付き合ったこともない。  なのに、あんな経験をしてしまった。  椎奈の舌に、一番恥ずかしい部分をくまなく舐め回されてしまった。  想い出すと、身体中の血液が沸騰してしまいそうだ。  あの感覚。  あの快感。  まだ、身体が覚えている。  目を閉じていると、甦ってくる。  椎奈の舌の、柔らかくて熱い感覚。  あまりにもリアルな、あまりにも官能的な記憶。 「は……ぁっ……」  身体が熱い。  下着の中が潤いを帯びてくる。  ベッドの中で、パジャマと下着を脱いで裸になった。  全裸になると、椎奈に見つめられている時の感覚も甦ってくる。 「や……あ……んっ、ん……くっ……んふぅ……」  それは、いつの頃からか習慣になっていた。  モデルをした夜の自慰――いや、それを自慰と呼べるかどうか。  桐花はただ、ベッドの中で裸になっているだけだ。自分の身体に触れてもいない。  その必要はなかった。  ただ裸になって、目を閉じて、椎奈のことを考えているだけ。  それだけで、気持ちよかった。  記憶が、質感を伴って甦ってくる。  記憶だけで――身体が、全身の細胞が覚えている記憶だけで、快楽の頂に達することができた。  鮮明な椎奈の記憶がもたらしてくれる快感に比べれば、自分の指による刺激などかえって邪魔でしかない。そんなものよりも、椎奈の視線の方が何倍も何十倍も気持ちよかった。 「は……あぁ……あぁぁっ!」  波のように何度も何度も押し寄せる絶頂。海の波がけっして消えることがないように、この快楽の波も鎮まることなく桐花を揺さぶり続けた。 「は……ぁ……」  気が遠くなる。  朦朧とした意識の中、不意に、椎奈のものではない顔が浮かんだ。 『あんたも殺されるよ』  帰りがけに会った、あの長身の三年生。遠藤由起、といっただろうか。 『友達が死んでから、彼女ちょっとおかしいの』  死んだとか殺されるとか、穏便な台詞ではない。  いったい、なにがあったのだろう。 『また、こんなことやってるんだ?』  由起は、桐花の身体の傷を見てそう言った。  椎奈によってつけられた傷を見て。  また――と。  椎奈の姿が脳裏に浮かぶ。  剃刀で、桐花の肌に傷をつけていく椎奈の姿。  流れ出る血を、血に染まった桐花の裸体を、あの狂気じみた視線で貫く椎奈。  異常ともいえる集中力で、血に濡れた桐花の姿を描いていく椎奈。  桐花の経血を美味しそうに舐めていた椎奈。  確かに、普通ではない。  そこには確かに、常人にはない『狂気』の香りがある。  だけどまさか、本当に椎奈が殺したわけではあるまい。もしそうなら、今こうして普通に学校に来ているわけがない。  だとしたら、いったい?  いったい、なにがあったのだろう。  椎奈に明らかな敵意を向けていた元クラスメイト。  椎奈ひとりきりの美術部。  考えてみれば、不自然な状況だ。  なにか、があったのは間違いない。  いったい、なにがあったのだろう。  気にはなるけれど、椎奈に訊くことはできなかった。 * * *  翌日――  桐花は真相を探るための行動を起こした。  椎奈は由起のことを、一年の時のクラスメイトと言っていた。ならば話は早い。  運よく、同じクラスに三年生の姉がいる子がいた。さりげなく話を振ってみたら、すぐに答えに辿り着いた。  二年前、自殺した生徒がいたらしい。  名前は黒川弥生。当時、美術部に所属する一年生だったそうだ。  椎奈と同じ学年、同じ部活。  弥生はよりによって学校の屋上から飛び降りたのだという。深夜、鍵がかかっていたはずの屋上にどうやってか忍び込んで。  事件が深夜で目撃者がいなかったためか、それとも醜聞を怖れた学校側がよほどうまく揉み消したのか、あまり騒ぎにはならなかったようだ。事実、これまで桐花はその事件を知らなかった。  それでも人の口に戸は立てられない。突然いなくなったクラスメイトのことを、完全に隠しきれるわけもない。  少なくとも、三年生の間では知られている事件のようだった。学校の怪談のネタにもされているという。  美術部員が椎奈ひとりで廃部同然の状態なのも、その事件が原因らしい。学校側が活動自粛を求めて、当時から才能を認められていた椎奈だけが描き続けてきたのだ。  そこまでは簡単にわかったが、それ以上の詳しい背景はわからなかった。  動機とか、椎奈と弥生、そして由起との関係とか。  桐花が話を聞いた友達の姉も、学年が同じだけで美術部とはなんのつながりもない生徒だったため、噂話以上の情報は得られなかった。  これ以上の詳しい事情を知っている者がいるとしたら、心当たりは二人。  椎奈と、そして遠藤由起。  椎奈には訊けない。  だとしたら、由起に訊くしかない。  しかし。  今度は、すぐには行動に移さなかった。  訊くべきなのだろうか。  知るべきなのだろうか。  知りたいのだろうか。  わからない。  わからない。  知りたい、気がする。  知るのが怖い、気がする。  椎奈のことをもっと知りたい。だけど知ることで、椎奈との関係が壊れてしまうかもしれない。  迷って、迷って。  なにもできないままに日が過ぎていく。  その間もこれまで通りにモデルを続けた。  生理が終わると、椎奈はまた剃刀を手に取るようになったが、桐花は黙ってそれを受け入れていた。  なにも言わなかった。  なにも訊かなかった。  このまま、なにもなかったことにしてしまってもいいのかもしれない。椎奈は以前となにも変わっていないのだから。  そう思い始めた頃――  試験前ということでモデルの予定がなかった日の放課後。  真っ直ぐ帰ろうと教室を出ようとした桐花を、あの遠藤由起が訪ねてきた。 6 「珍しい組み合わせね」  校門を出たところで由起と別れた直後、背後から声をかけられた。 「……椎奈さん」  いつの間にそこにいたのだろう。椎奈が立っている。 「なんの話をしていたの?」 「え……っと……」  口ごもる。由起との会話は、椎奈に話しやすい内容ではなかった。  椎奈の表情を窺う。普段と変わらぬ無表情で、桐花が由起と話していたことをどう思っているのか、まるで読めなかった。 「あの……椎奈さん?」 「なに?」 「……弥生さんを描いた絵、見せてもらえませんか?」  予想外の台詞だったのだろうか。椎奈はきょとんとしたような表情でこちらを見た。一瞬後、唇の端に微かな笑みが浮かぶ。 「いいよ。試験が終われば夏休みだし、私の家に来ない?」  どうして弥生のことを知っているのか、などとは訊かず、そんな言葉を返してくる。  これもまた予想外のお誘いだった。  試験勉強が手につかなくなるだろうな、と思いつつも桐花は迷わずうなずいた。 * * *  真夏の昼下がり。  初めて訪れた椎奈の自宅は「お屋敷」と呼ぶのが相応しい、堂々とした建物だった。  気後れしながら、門の前で呼び鈴のボタンを押す。  これで執事とかメイドとかが出てきたらさらに緊張するところだったが、幸いなことに出迎えてくれたのは椎奈自身だった。  飾り気のない、涼しげな麻のワンピース姿。私服姿の椎奈を見るのは初めてで、少し新鮮だった。そういえば、校内と学校帰り以外の場所で椎奈と一緒にいるのも初めてだ。 「……すごいお屋敷ですね」 「今日みたいにひとりだと、無駄に広すぎる気もするけど」  椎奈は微かに苦笑する。 「ひとり?」  鸚鵡返しに訊く。  そういえば、椎奈の家庭環境については訊いたことがない。モデルをしている時はほとんど無言だし、それ以外の時の会話も、話題は絵のことか学校のことがほとんどだ。 「父は海外出張の多い仕事なの。今日はお手伝いの人もお休み」 「お母さんは?」 「母はいないわ。私が小学生の時に、病気で」 「あ……ご、ごめんなさいっ」  知らなかった。  自分が両親揃ったごくごく平凡な家庭で生まれ育ったから、それが当たり前のように気軽に訊いてしまった。  申し訳なさげに小さくなる桐花とは対称的に、椎奈はまったく表情を変えない。 「別に気にしなくてもいいわ。もう昔のことだし、私が小さな頃から病弱だったから、子供心に覚悟はしていたのかもね。あまりショックでもなかった」 「……」  相変わらずの無表情。いつも通り感情のこもらない抑揚のない口調。しかし心の中でなにを考えているかはわからない。椎奈だって人並みに傷ついたり落ち込んだりすることもあるはずだ。  本当に、椎奈は感情を表に出さない。桐花の絵を描いている時、たまに楽しげな様子を見せることがあるくらいでしかない。  今回の訪問で、少しは椎奈のことが理解できるようになるだろうか。  人気のない家の中は、あまり生活臭が感じられなかった。  留守がちの父親と椎奈、プラス通いのお手伝いさん。それにしては広すぎる家だ。どことなくモデルルームのような印象を受けるのも仕方のないことだろう。  通されたのは、アトリエだった。  椎奈が絵を描くために使っているというその部屋は、平均的中流家庭である桐花の家のリビングよりも広そうだ。庭に面した壁が一面のガラス張りで、まるで温室のようだった。  夏の陽射しをたっぷりと浴びた庭は、よく手入れされていた。たくさんの木が植えられ、色とりどりの花が咲き乱れている。花壇と呼ぶには自然な雰囲気が作り出されていて、山中のお花畑に迷い込んだような印象を受けた。  桐花が庭に見とれていると、椎奈はアトリエに隣接した小部屋の扉を開けた。 「売らなかった絵はほとんどここにあるから、好きに見てて」  中を覗き込む。  どうやら物置として使っているらしい。小部屋といっても桐花の部屋よりも広く、壁を埋め尽くしている棚にカンバスやスケッチブックが雑多と並べられていた。  微かに、埃の匂いがする。  椎奈はお茶の仕度をしてくると言って出て行った。桐花は棚の端から順に絵を見ていく。  最初の何枚かは、アトリエから見た庭を描いたもののようだった。他に、海外のものらしいもっと雄大な風景を描いた作品も見つかった。  そして基本ともいうべき、石膏像の木炭デッサンもある。白と黒のはっきりとしたコントラストが印象的だ。  日付を見ると、椎奈がまだ小学生の頃の作品だ。しかしその技量は、今の桐花でもまったく足元に及ばない見事さだ。  意外と人物画がないな――と思い始めた頃、ようやく一枚見つけた。  大人の女性の絵。  整った顔立ちが椎奈とよく似ている。もしかすると母親だろうか。  しかし椎奈とは違って、線の細い、どことなくやつれた雰囲気があった。和装の寝間着姿のせいもあるのかもしれない。  それでも、美しい。  それは椎奈にはない、儚い美しさ。  小柄で線の細い椎奈だが、生命力とでもいうのだろうか――内側から滲み出る強さをまとっている。  この絵の女性にはそれがない。  続けて何枚も、同じ女性を描いた作品が見つかった。  ここの庭を背景に、籐椅子に座って儚げな笑みを浮かべている。  次に見つけた人物画は、もっと印象的なものだった。  自画像、だろうか。  たぶん小学校の高学年くらい、まだ中学生はなっていないように見える。だけど紛れもなく椎奈自身だ。  それが、全裸で立っている。  まだ子供の、丸みや膨らみのない華奢な身体。  微かに膨らみはじめた胸。  だけど表情は今と同じ、感情の感じられない無機的な顔。  筆とパレットを手にして、イーゼルの傍らに立っている。大きな鏡に映った自分の姿をそのまま描いたらしく、姿見の枠まで描かれていて、その周囲は壁だった。  鏡によって切り取られた四角い空間に立つ、子供の頃の椎奈の裸身。  椎奈は真っ直ぐに鏡を見つめている。  あの瞳で。  今の椎奈とまったく同じ、あの力のある瞳で。  全体的にコントラストの低い、モノトーンの絵だった。それ故に、ただひとつの鮮やかな色彩が目をひいた。  深紅の色彩。  絵の中の、鏡の中の椎奈は血を流していた。  内腿を深紅の液体が滴り落ちている。  まるで、先日の桐花のように。  彼女も生理中だったのだろうか。  そうだ。きっとそうだ。  不意に閃いた。どうしてそう感じたのだろう。だけど確信した。  これは、椎奈の初潮の姿だ。  全裸で、経血を滴らせながら、無表情に自画像を描く小学生。  それはあまりにも日常からかけ離れた、異質な、異常な光景だった。  そこから感じられるものは、エロティシズムと紙一重の狂気だ。全身の毛が総毛立つ。  次に見た絵も、やっぱり椎奈の自画像だった。  そして、やっぱり血を流していた。  左肩から右胸にかけて、一本の紅い筋が走っている。剃刀で切ったものだろう。右手に、刃が紅く濡れた剃刀を握っている。  滑らかな傷からゆっくりと滴っていく鮮血が、必要以上に写実的に描かれていた。  ――怖い。  それが、率直な感想。  自身を描いた絵は、何枚も出てきた。母親と思しき女性の絵が見あたらなくなるのと入れ替わりに、自画像が作品の中心になっていた。  だんだん、増えていく傷。  だんだん、増えていく出血。  狂気が椎奈を侵していく。蝕んでいく。  カンバスの中は、彼女自身の狂気を写し取った空間だった。  狂気に支配された絵が何年分も置かれているこの部屋にも、絵から滲み出た狂気が満ちているような気がした。  怖い。  次の絵を見るのが怖い。  なのに手は勝手に動いて、棚からカンバスを取り出していく。  見ないでいるには、その絵はあまりにも美しすぎた。  狂っているのに、美しい。  狂っているからこそ、美しい。  美しくて、愛おしくて、惹き込まれてしまう。  次々と絵を取り出しては、魅入ってしまう。  そして。  やがて、見つけた。  黒川弥生をモデルにして描いた絵。  彼女の顔は知らなかったが、すぐにそれだとわかった。  全裸の少女が、真っ暗なトンネルの中を歩いている。背後にはトンネルの入口。そこには明るい真夏の陽射しが降りそそいでいる。  しかし少女は光に満ちた外界に背を向けて、灯りひとつないトンネルの奥へと歩いていく。  それは、由起から聞いていた通りの構図。 『あの絵を一目見た時、本能的な恐怖を感じた。いけない。そっちへ行ってはいけない。戻れなくなる。そんな恐怖を感じたんだ』  そう言っていた。そして『私は恐怖を覚えたけど、弥生自身はその絵に魅入られているようだった』と付け加えた。  確かにそうなのだろう。弥生の絵は他に何枚も見つかった。そして傷ついた椎奈を描いた絵はぱったりとなくなった。  二年という時間による作風の変化か、それともモデルの違いのためか、桐花を描いた作品とはまた雰囲気が違う。深い原生林とか珊瑚礁の海とか砂漠とか、日本ではあり得ない広大な自然を背景とすることが多い桐花の絵に対し、弥生の絵にはこのアトリエの庭とか、学校の校庭とか、どこにでもありそうな里山の風景などが描かれている。  モデル自身の雰囲気も違う。弥生はたいてい、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。たぶん戸惑ったような表情を浮かべているであろう桐花とは異なる。 『そのうちに弥生は私から距離を置くように……いや、多生にべったりになっていった。多生のモデルをするだけの毎日で、他のことなんてまるで目に入ってないようで、自分の絵も描かなくなっていた』  由起の言葉が思い出される。 『だけどやがて、なにか悩んでいるような表情を見せるようになって……訊いても曖昧に誤魔化すだけで、そして…………』  そして、弥生は死を選んだ。 「――っ」  次に取り上げた絵を見て、桐花は小さく息を呑んだ。  これまでとは雰囲気の違う絵。  弥生の絵としては初めての、血を流している絵。  背景もこれまでと違う。屋外ではなく、かといって室内であるかどうかもはっきりしない白い背景。単なる白一色ではなく、真新しいシーツかなにかのようだ。  その上に弥生が横たわっている。虚ろな表情で、涙を流している。  身体には桐花がされているように無数の小さな傷があり、血が滲んでいる。  だけどもっとも目を引くのは、内腿を濡らし、その下のシーツも染めている出血。  まるで、陵辱された後の光景。  ――いや。  まるで、ではない。そのものだ。  桐花は本能的に悟った。  これは、ありのままの姿の写生だ。  実際にあった光景。実際に椎奈が目にした光景。  おそらく、弥生をこうしたのは椎奈だ。  あの血。あれは肌につけられた剃刀の傷とは違う。  経血でもない。  破瓜の血。  処女の証。  それをしたのは椎奈。  根拠はないが、そう確信していた。  これは、椎奈に陵辱された弥生の姿。自分が陵辱した少女の姿を描いたのだ。  きっと、あの力強い瞳で見つめていたのだろう。これまでの椎奈の行動を考えれば、きっと他の絵よりもずっと熱心に描いていたに違いない。  ふと、サインの横に書かれた日付が目にとまった。  それは、弥生が死んだほんの数日前のことだった。  これが原因だろうか。  まさか……いや、でも。  胃がきゅうっと締めつけられるような感覚を覚えた。  視線が絵に釘付けになる。  桐花はただじっとその絵を見つめていた。 「お茶の支度ができたわ、こっちに来ない?」  アトリエから呼ぶ椎奈の声がなければ、ずっとそのままでいたかもしれない。はっと我に返って絵を棚に戻す。  慌てていたせいで、手を棚にぶつけてしまった。チャリン、と軽い金属音が響く。  どこから落ちてきたのだろう、床の上にひとつの鍵があった。何気なく拾い上げる。やや古ぼけた、微かに錆の浮いた鍵。頻繁に使われているものではなさそうだ。  なんの鍵だろう。鞄や、机の引き出し等の小さなものではない。恐らくはどこかの扉のもの。  後ろを振り返る。この部屋の扉には錠はない。 「桐花?」  再び桐花を呼ぶ声。慌てて立ちあがってアトリエへ戻る時、無意識のうちに鍵をポケットに入れていた。 * * *  白いクロスを掛けた小さなテーブルに、椅子が二脚。  テーブルの上には真白い磁器のティーポットとカップが二客。  そして、パウンドケーキを載せた皿。  腰を下ろすと、椎奈が紅茶を注いでくれる。湯気を立てているカップを条件反射のように手に取って、しかし口はつけずにぼんやりと見おろしていた。  鮮やかな紅茶の色が、血を連想させる。先ほど見た絵の残像が頭から消えない。 「……目的の絵は見つかった?」 「え? あ、えっと……」  桐花は返答に詰まった。  椎奈は「目的の絵」と言ったが、落ち着いて考えてみれば確たる目的があったわけではない。  ではどうして、絵が見たいなどと言ったのだろう。  自分はなにを求めていたのだろう。  なにを求めてここへ来たのだろう。  なんなのだろう、胸の奥にあるこのもやもやとした想いは。  わからない。  答えられない。 「……桐花」  肩に手を置かれる。  顔を上げると、椎奈の顔がすぐ目の前にあった。  派手さはないが、整った美しい顔。  白い肌。  そして、黒い瞳。  強い力を持った、大きな瞳。  桐花を魅了する瞳。  弥生を魅了した瞳。  由起を怯えさせた瞳。  正面から目を合わせると、たちまち魅入られてしまう。視線を逸らすことができなくなる。  ゆっくりと近づいてくる。  頬に手が当てられる。 「あ……」  唇が重ねられた。 「……っ、ぅん…………」  これまでに何度かされていた、軽く触れるような、あるいは舌先で舐めるようなソフトなキスではない。  しっかりと押しつけられた唇。  唇を割って入ってくる舌。  桐花の口中をくすぐる。 「ん、ふ……ん、ん……」  桐花もそれに応え、おずおずと舌を伸ばした。二つの舌が絡み合い、唾液が混じり合う。  これまでとは違う。本物のキスだった。  熱い。  唇が、舌が、口の中が。  身体の芯が火照ってくる。  いつの間にか、椎奈の手が移動していた。  シャツのボタンが外されていく。  肌が露わにされる。ブラジャーも外されてしまう。  なにも隠すものがなくなった肌に、椎奈の手が触れる。  そして顔が近づいてくる。  唇が、舌が、肌の上を滑っていく。  首筋から胸へ、そしてお腹へ。 「あ……」  身体から力が抜けていく。椅子からずり落ちるような形で、桐花はフローリングの床に横たわった。  その上に椎奈の身体が重なる。  スカートが下ろされていく。太腿に何度も何度もキスされる。熱い舌が押しつけられ、強く吸われる。  その度に、桐花の呼吸が、鼓動が、速くなっていく。  ソックスも脱がされ、下着の最後の一枚も簡単に剥ぎ取られてしまう。  なんの抵抗もせずに全裸で横たわる桐花を、椎奈は嬉しそうに見おろしていた。  瞳が輝いている。  口元に笑みが浮かんでいる。 「綺麗ね、桐花。でも、もっと綺麗な姿を見せてほしいな」  椎奈はテーブルの上に手を伸ばし、パウンドケーキを切り分ける時に使ったナイフを手に取った。  切っ先が胸に押し当てられる。すぅっと引かれる。 「……っ!」  一瞬、声にならない呻きが漏れた。さすがにいつもの剃刀ほどの切れ味はないのだろう、鋭い痛みが走る。  だけど――  その痛みが、甘かった。  鮮血がじんわりと滲み出してくる。わずかに位置を変えて、またナイフが押しつけられる。  さらに二度、三度。  錆びた鉄の匂いが漂ってくる。 「綺麗……とっても綺麗」  熱っぽい瞳で、椎奈はうっとりとつぶやく。自分でワンピースを脱ぎ、全裸になって桐花に覆い被さってくる。  傷に口づける。 「……ぁ、……」  まるで性器に同じことをされたような快感に、身体が震えた。  ぴちゃ……ぴちゃ……  湿った音を立てて、舌が何度も往復する。その度に桐花の口からは切なげな嗚咽が漏れ、手や脚が痙攣する。 「桐花の血はとっても綺麗……」  真っ赤に染まった唇で囁く椎奈。指先でその血を拭い、桐花の唇に塗りつける。その指がゆっくりと下へ移動していく。  顎の線をなぞり、首筋から鎖骨の上を通って、胸の膨らみを登っていく。指はそこで動きを止めず、腹から臍へ、そしてさらに下へ、血の痕を残して滑っていく。 「どんな紅玉よりも美しい血……だけどあなたは、もっと綺麗な血を隠している」 「あ……」  最後に触れられたそこは、血ではない、色彩のない液体で濡れていた。 「ここに……ね?」 「……っっ!」  激しい痛み。  刃物で切られるこれまでの痛みとはまったく違う。切られるのではなく、裂かれる痛み。  身体を、粘膜を、力ずくに引き裂かれる痛み。  ぎゅっと唇を噛んで、悲鳴を上げそうになるのを堪えた。 「……一生に一度だけ、女の子の身体から生まれ出るいちばん綺麗な紅色……ねえ、綺麗でしょう?」  顔の前に手がかざされる手。  中指と薬指が真っ赤に濡れている。  そして、椎奈の顔も負けずに紅潮していた。 「素敵……」  その新たな傷口に、椎奈の顔が近づいていく。流れ出た血を舐め取り、出血の源へと遡っていく。  精一杯に舌を伸ばし、一滴も残すまいと啜っていく。  今度ばかりは、桐花も声を抑えることはできなかった。 7  意識が戻って――  一瞬、どこにいるのかわからなかった。  状況を想い出すのにしばらく時間がかかった。  周囲は暗い。  それは夜の暗さ。しかし真っ暗ではなく、ぼんやりとした明るさがある。  身体の下には硬く、ひんやりとした感触。フローリングの床に裸で横になっているのだと気がつくにも、少し時間を必要とした。  頭の中に霞がかかっているようで、意識が朦朧とする。全身が倦怠感に包まれている。  のろのろと身体を起こそうとした時、下半身にずきんと痛みが走った。  その痛みが頭の中の霞を吹き払い、記憶を呼び起こす。  そう――  あれからずっと、何時間も、椎奈に陵辱され続けた。  それは「愛する」などという生やさしい行為ではなく、まさしく「陵辱」だった。  熱い視線を向けながら、椎奈は何度も何度も桐花を犯した。桐花を犯しながら、スケッチしていた。  桐花は抗わなかった。泣かなかった。  溢れそうになる涙を堪えていた。  泣かない。  絶対に泣かない。  そう自分に言い聞かせていた。  弥生は泣いていたから、私は絶対に泣かない。  どんなに辛くても、すべてを受け入れる――そんな想いを胸に秘めて。  辛い?  辛い、のだろうか。  その行為は辛いものなのだろうか。  確かに、肉体的には痛くて苦しくて、けっして気持ちよくはなかった。  しかし、精神的にはどうだろう?  どこか心の奥底で、それを望んでいたとはいえないだろうか? 「…………」  ゆっくりと身体を起こして周囲を見回す。  いったい何時頃だろう、もうすっかり夜になっている。今日は最初から椎奈の家に泊めてもらう約束で、親にもそう言ってきたから特に問題はない。  空には明るい月がかかっているのだろう。アトリエに灯りはついていなかったが、大きな窓からは柔らかな光が降りそそいで、部屋の中を蒼く照らしていた。  窓の前に、椎奈の姿がある。  母親の絵にあった籐椅子に座って、傍らのイーゼルに置いた絵を見つめていた。  桐花はゆっくりと立ち上がる。下腹部の痛みはそれほどではなかったが、それとは別に、床の上に寝ていたことで身体の節々が痛んだ。  そろそろと歩いて椎奈の傍へ行く。椎奈がちらりとこちらを見る。  その目が、絵を見てみろと促しているような気がした。  隣に立ってカンバスに視線を落とす。 「――っっ!」  息を呑んだ。  力いっぱい殴られたような衝撃だった。  ぼんやりとした月明かりの下でも、いや、だからこそ、その絵には圧倒された。  暗い色調の絵だった。  群青。  限りなく黒に近い、蒼。  東山魁夷の作風よりももっと濃い蒼。  そこに描かれているのが弥生であることは一目瞭然だった。  ――たとえ、変わり果てた姿になっていても。  それはまるで、薔薇の花のようだった。  月明かりに照らされている殺風景なコンクリートの上に咲いた、大きな深紅の薔薇。  その中心に横たわる弥生。  それは生きた人間ではなく、人形のように見えた。  ガラス玉のような、生気のない瞳。  子供が壊した人形のように、ありえない形にねじ曲がった手脚。  クラスメイトから聞いた話を、由起から聞かされた話を、想い出す。  弥生は、学校の屋上から飛び降りて死んだ。  これは、その光景なのだ。  本来ならば、とてもおぞましいモチーフだ。  スプラッタ映画よりもひどい。とても直視できるようなものではない。  なのに、この絵は美しかった。  これまでに見た椎奈のどの作品よりも、桐花を魅了した。  この色をどう表現したらよいのだろう。  絵の具では出せないと椎奈が言っていた、本物の血の紅色がそこにあった。  生命を持たない顔料の色ではない。硫化カドミウム、アリザリン、カルミン酸、硫化水銀。どれほどの赤色顔料を混ぜ合わせても、ただそれだけではこの色は出ない。  不可能を可能にしたのは、画家とモデル双方の、強い想い。  本物の生命の色がここにある。  弥生の中から失われた生命が、大きな花を咲かせている。  失われつつある生命の、最後の一瞬の輝き。  美しい。  どんな名匠の作品よりも。  どんな高価な宝石よりも。  美しい。  心底、そう思った。  椎奈が、満足げに絵を見つめている。  絵を描いている時の真剣な表情とも、桐花を傷つけている時の狂気を孕んだ表情とも違う、満ち足りた、安らかな笑み。  椎奈のこんな姿は初めて見た。  この人は、満月の夜が来るたびにこうしてこの絵を見つめているのかもしれない。  そんな椎奈の横顔を見て。  この時、桐花が感じていた一番の感情は……  嫉妬――だった。 * * *  コツ……コツ……コツ……コツ……  しんとした建物の中、冷たいコンクリートの壁に微かな足音が反響する。  桐花は薄暗い階段を登っていた。  ゆっくりと、ゆっくりと。  もしかしたら……という想いは、その場所が近づくにつれて徐々に確信へと変わっていた。  根拠を問われても返答に困る。理屈ではない。  最後の一歩を登る。  表面にいくらか赤錆の浮き出た、飾り気のない重々しい金属の扉が進路を塞いでいた。  この向こうが、運命の場所だ。おそらく……いや、間違いないなく。  ポケットから鍵を取り出す。  あの日、椎名の家で拾った鍵。  その後に起こったいくつかの衝撃的な出来事のために、家に帰るまですっかり忘れていた。着替えるために服を脱いだ時にポケットから落ちて、それでようやく思い出したのだ。  床に落ちた鍵。  それを見た瞬間、天啓のように閃いた。  いくつもの断片がひとつにまとまる。それは、ジグソーパズルの最後のピースだった。  錆びた鍵穴に差し込む。  思った通り、鍵はぴったりと収まった。やはり、この扉の鍵だった。  錆びて固まっている錠を二、三度揺すって鍵を回す。  ガチン。  金属のシリンダーがぶつかる音。ノブを回して重い扉を押す。  ギィ……。  軋みながら扉が開く。  広がっていく隙間から、真夏の白い光が射し込んでくる。  足を踏み出す。  一歩。二歩。  桐花は、普段は立ち入り禁止になっている学校の屋上に立っていた。  周囲にはきちんと高い金網が張り巡らせてあり、以前は学校行事の際などに生徒が上がることもあったらしいが、二年前から完全に立ち入り禁止になっていた。  二年前のあの日から。  そう。二年前、弥生はここから飛び降りて死んだ。  原因は不明、となっている。椎名に犯されたショックで自殺した、というのは由起の見解だ。椎名に突き落とされた可能性だって否定できない、とも言っていた。 「……」  手の中の鍵を見おろす。  これが、文字通りの鍵だった。  どうして椎名が屋上の鍵を持っているのだろう。  弥生が死んで以来、立ち入り禁止となっている屋上の鍵を。  アトリエで見た絵を想い出す。  あの、月光の下で見た絵を。  いや、改めて想い出す必要などない。あの日以来、ずっと脳裏に焼き付いている。  瞼を閉じれば、そこに浮かぶのは月光の下で咲く深紅の薔薇だ。それ以外の光景など浮かんでこない。  あの絵――  あの絵は、想像で描いたものではない。  椎名の絵は、人物についてはいつだって写生が基本だ。  あの絵。  あの光景。  椎名は目の前で見ていたのだ。  ここから飛び降りて、無惨な姿になった弥生を。  そして、おそらくはそうなる瞬間を。  あの大きな瞳で。  今ならはっきりとわかる。  もちろん、椎名が殺したのではない。  椎名にレイプされたショックで自殺したのでもない。  由起も、他の者たちも、みんななにもわかっていない。  この場所に立って確信できた。  物証があるわけではない。だけど、わかる。弥生の気持ちになってみればわかる。椎名のモデルになってみればわかる。  あの日以来封印されていたこの場所には、弥生の想いが色濃く遺っているではないか。  弥生は、自ら臨んで、自ら進んで、あの絵のモデルになった。  自らの生命と引き替えに、椎奈に最高の絵を贈った。    ――椎奈のことが、好きだったから。  あの絵に対して桐花が抱いた感情――それは、嫉妬。  今ならはっきりと言える。  椎奈のことが好き。  誰よりも好き。  だから、悔しい。  あの絵――  あの絵には敵わない。  一番好きな人の、一番でありたい。それは当たり前の感情だ。  椎奈にとっての最高の存在でありたい。  椎奈の最高傑作のモデルは、自分でありたい。  そう思った。  だけど、敵わない。  あの絵には絶対に敵わない。  美しすぎる。  生きているものでは出せない美しさ。  弥生が死んでいるから。  死によって、生命というものを限りなく美しく描き出している。  生きているものでは絶対に敵わない。  背後から、静かな足音が聞こえてくる。  見るまでもなく、それが誰かはわかっていた。  ゆっくりと振り返る。  多生椎奈。  桐花が愛した相手。  静かな笑みを浮かべて桐花を見つめている。  深い色の、神秘的な瞳で。  桐花を魅了した瞳で。  今、その瞳は、絵を描いている時に似た輝きを放っていた。  なにかを、期待している。  それがなにか、痛いほどよくわかる。  椎奈が望んでいるもの。  椎奈が求めているもの。  椎奈が欲しているもの。  自分なら、それをあげられる。 「……私なら、もっと綺麗に描いてくれますか? お母さんよりも、弥生さんよりも、他の誰よりも」  椎奈のことが好きだ。  この想いは、弥生よりもずっと強い――そう思いたい。誰にも負けたくない。 「あなたが……好きです。どうしてだろう、どうしてこんな風になっちゃったんだろう……どうしようもなく好き」  桐花は自分の身体をぎゅっと抱くように腕を回した。 「……あなたにとって一番の存在になりたい。あなたにとって永遠の存在になりたい。そんな想いで、おかしくなってしまいそう」  椎奈が小さくうなずく。 「…………母の血はとても綺麗だった。それに比べたら、私の血なんて質の悪い模倣品でしかない。弥生は悪くなかったけれど、母には及ばなかった。でも、学校であなたを見かけた時に感じた。ああ、この子だ……って。誰よりも綺麗な血を持っている。いままで描いた誰よりもいい絵になってくれるって」  強い光を放つ瞳。それは皮膚に覆われた桐花の外面ではなく、その内側に隠されたものを見つめていた。 「この歳で生涯の最高傑作を描いてしまうというのは少し残念だけど、仕方ない。もう、これ以上の絵なんて描けない。……いえ、そうね、これから先、何度も何度も、何枚も何枚も、あなたを描くわ。あなたを描くことが私のライフワークになる」  そこまで言って、椎奈は短い間を置いた。  そして、これまでになく強い口調で言った。 「あなたを描けるなら、他の絵なんていらない」  それだけ聞ければ、十分だった。  望んでいた以上の言葉をもらった。  だから、自分があげられる一番のものを椎奈にあげる。    だから――    桐花は自分を抱いていた腕を解いて、微笑みながら屋上の金網に手をかけた。 あとがき  ほんっと〜〜〜にご無沙汰してました、北原樹恒です。  いつ以来か自分でも覚えていないくらいに間隔が空いてしまいましたが、新作をお届けします。  私の記憶違いでなければ、二○○五年にキタハラ名義で公開した作品は、これだけのような……  いくらなんでもそんなに間が空いているはずがない、と思いたいのですが、ふれ・ちせの小説ページの最終更新日はどれも二○○四年になってます。まあ一応『キタノユリ』が二○○五年初めの公開といえますが。  その後なにをやっていたかといえば……  三月頃は大航海オンライン。  その後は自転車徒然記を見て頂ければわかる通りに自転車三昧。新米草レーサーとして走っていたり、落車して骨折したり、赤い水玉を着たりしていたのでした。  その成果はいずれ本邦初の「ロードレース百合小説」として披露したいと思います(笑)。  で、この作品ですが……  ネタ帳を見ると、この作品はもともと十八禁兄妹近親モノでした。もちろん、ヒロインが兄のモデルをするという基本設定以外はまったく違う内容。  その後、学校の先輩後輩(ただしヒロインが上級生)に設定が変わりましたが、この時点でもまだ男女モノ。  どこで百合に変わって、しかもこんな血まみれの話になってしまったのかは自分でも謎です。  ちょっと、キタハラ作品としては異質の、ダーク系百合になってしまったかもしれません。  それでは最後に次回予告……  と言いたいところですが、まあ、気長にお待ちください。二○○六年中にはなにかお届けする予定です。  最初は『魅魔』の続編を予定していたのですが、考えてみれば『魅魔竜伝』とこの作品って……ほら、やってることが一緒なんですよね(苦笑)。  やっぱり間に一本、毛色の違う作品を挟みたいので、『竜姫』の外編か、あるいはまたまた読み切りか……になりそうです。  ええ、もう、ホントに気長にお待ちください。 二○○五年一二月一五日 北原樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://hure-chise.nifty.com/