「んふふ〜、今日のお菓子はいい出来…」
そんな声が聞こえてくるのは、私立白岩学園高等部の、調理実習室。
放課後は、料理研究部の部室となっているのだが、登録部員の大半が幽霊部員と言われている料理研のこと、室内には、一年生の女子――恒崎真保――が一人いるだけである。
真保はどうやらクッキーを焼いているらしい、テーブルの上には、小麦粉、砂糖、バター、チョコレート、ココア、その他様々な調味料や香草がところせましと並んでいて、オーブンからは、甘く香ばしい香りが漂ってくる。
真保は、焼き上がったばかりの、まだ湯気を立てているクッキーを一つ摘んで口に入れ、一瞬顔色を変えると、慌てて吐き出した。
「あ…熱っつ〜い!」
真夏の犬のように舌を出して顔をしかめる。
「…そっか、焼きたてのクッキーも凶器になるのか…、覚えとこ。」
そんなことを呟きながら、チョコチップ入り、ココアパウダー入り、ハーブ入りなど、様々なクッキーを適当に混ぜて紙に包む。
「…でも、破壊力という点では、揚げたてのテンプラが一番だよね〜。あと、お味噌汁の具のお芋とか…」
クッキーとはまったく関係のない独り言を言いながら、包みに赤いリボンをかける。
「そうそう、すき焼きのお豆腐やネギってのも、意外と盲点だっけ。あ、正攻法では、グラタンを外すわけにはいかないか〜。」
真保の独り言は、調理自習室を出てからもしばらく続いていた。
『生徒会室』と書かれた扉。
真保は、トントンとノックすると、返事も待たずに扉を開けた。
「ね〜会長さん、グラタンと、ねぎまと、モツ煮込みと、柳川では、どれが一番威力があると思う〜?」
「は? 威力?」
部屋の中には、椅子に座った長身の男子生徒が一人。白岩学園の生徒会長、吉崎だ。
数秒の間、吉崎は、赤いリボンの付いた紙包みを持った真保を見つめ、それから、ゆっくりと口を開いた。
「で、今日は何を作ってきてくれたんだ?」
どうやら、最初の問いは敢えて無視することにしたらしい。
その表情ははっきり、『こいつの台詞を真面目に聞いていては、神経が持たない』と語っていた。
「だから〜、クッキーが凶器で、テンプラとお芋が基本で〜、でもモツ煮込みも捨て難いかなって。」
言っている本人も混乱しているのかもしれない。だんだん、意味が分からなくなってきている。
「…? まさか真保、学校でモツ煮込み作ってたのか?」
こいつならやりかねん、そう思いながら、吉崎は聞いた。
「え? あ〜、違うの、モツ煮込みとねぎまはまた今度…。ね、これ味見して?」
真保が差し出した包みを、吉崎はやや不安げな表情で受け取った。
片手で重さを確かめるようにそっと揺すり、それで中身の見当がついたのか、ほっとした表情になる。
「いきなりネギマとかモツ煮込みとか言いうから、何かと思ったが…、へぇ、クッキーか、旨そうだな。」
包みを開いて、クッキーを一つ口に運ぶ。
「えへへ…、どお? 美味し?」
真保が、ちょっとタレ目気味の、大きな目を見開いて尋ねる。
「ん…これはなかなか…」
吉崎は満足げな表情で言う。
そして、ふたつ目のクッキーを取ろうとして、急に、その手が止まった。
「あ…れ…?」
呆然とした表情でそう呟くと、そのまま椅子ごと、後ろに倒れる。
「え?」
ガターン! と大きな音を立てて倒れた吉崎を、真保は不思議そうに見ている。
「会長さん…?」
倒れている吉崎の側にしゃがみ、その頭をつんつんとつっつく。
吉崎は動かない。
つんつん、つんつん。
やっぱり動かない。
手首を掴んで、脈を取る。
「動かない…ねぇ」
諦めたように呟きながら、真保は立ち上がる。
「これで、今月に入って三人目だ…」
キョロキョロと周りを見回す。幸か不幸か、室内には他に誰もいない。
「ま、いいか〜。誰も見てないし〜。」
真保は、吉崎の身体をずるずると引きずって、生徒会室から出ていった。
以来、吉崎の姿を見た者はいない。
それから十日くらい後の夕方、場所は、真保の家の食堂。
「んで、今日の晩飯はなんだい?」
そう尋ねるのは、弘前豊(二五歳、会社員)、真保の許嫁である。
真保の親は仕事で東京暮らしのため、二人はほとんど同棲しているようなものだ。
「いいお肉があるから、ステーキだよ〜。」
まだじゅうじゅうと音を立てているステーキ皿をテーブルに置きながら、真保は答える。
ちなみに、付け合わせはオーソドックスにニンジンとボテト、パセリにクレソンである。
「さ、どうぞ、召し上がれ。」
弘前がテーブルについて、食事を始める。
真保はその様子を、頬杖ついて楽しそうに見ている。
「おいし?」
「ん…、焼き加減や味付けは、相変わらず見事だけど…。真保は、大切なことを忘れているな?」
まるで、『料理の○人』の審査員のようにじっくりと味わいながら、弘前が言う。
「大切なこと?」
「この肉は牡だろ? 肉ってのは若い牝が一番美味しいってこと。」
がぁぁぁぁぁ〜んっ!
弘前は、真保の背後にそんな擬音が見えたような気がした。
「し…しまったぁぁ〜! 私としたことが、そんな初歩的ミス…!」
絶望的な表情の真保。何処からともなく、柳刃包丁を取り出す。
「…かくなる上は、死んでお詫びを…」
「こらこら…。思い詰めるんじゃない。」
弘前は苦笑いして、真保の手から包丁を取り上げる。
「人間誰しも失敗はあるものさ。同じ失敗を繰り返さなければいいだけのことだよ。」
涙目の真保の頭を撫でながら、優しく言う。
「この次、がんばろーな?」
「ん…この次、ね。」
「真保、おはよっ。先行くね!」
翌朝、真保が学校へ向かっていると、髪の長い女生徒が走って追い越していった。
「おはよ〜美緒。ずいぶん急いでるね?」
「昨日、数学の問題集学校に忘れちゃってさ〜、宿題やってないの。」
美緒と呼ばれた少女は、立ち止まって答える。
「なら、私のノート写す?」
「ありがと…でも…」
何か、躊躇っているような美緒。真保は、すぐにその理由を理解した。
「心配しなくても大丈夫。晶のノート写したやつだから。」
「あ、それなら見たいっ! 貸してっ!」
けっこう失礼な反応だとは思うが、真保は別に気にする様子もない。
急ぐ必要がなくなった美緒と、並んで歩いていく。
「ところでさ〜美緒。」
「なに?」
「これ、私が作ったんだけど、味見してくれない?」
真保は、カバンから、赤いリボンが付いた包みを取り出した。
[おわり]