みそさざい・特別編  冬至・イブ ――寂しがりやの子猫たち―― 北原 樹恒  夏至の頃は、午後八時を過ぎてもまだ明るかったのに、十二月も後半になると、四時を過ぎれば外は真っ暗になる。それが、北国というものだ。  午後五時過ぎ、学校帰りの真理恵は一人、積もったばかりの雪を踏みしめながら歩いていた。  日中激しく降っていた雪も今はすっかり止み、空には星が瞬いている。  雄大なオリオン座がくっきりと見えた。空気が、これ以上はないというくらいに澄みきっている。  真理恵は、白い息を吐きながら、空を見上げる。 (そういえば、明日は冬至か。南瓜は昼休みに真保に買いに行かせるとして…部室に、小豆はあったっけ? 朝のうちに、準備はして置いた方がいいか…)  足下で、踏みしめられた雪がギュッギュと鳴る。それは、気温が下がっている証拠。  深く息を吸い込むと、肺が凍てつくような気がする。  北海道風に言うと、凍れる、というやつだ。 (まったく…姫のやつ、薄情だよな。一人でさっさと帰っちゃって)  今日は料理研の部活は休みだった。真理恵が、部の予算会議に出席していたからだ。  愛姫は、買い物があるから、と真保達を連れて先に帰ってしまった。 (大体あいつ、副部長って自覚はあるのかね?)  正確に言うと、愛姫は副部長と会計と書記も兼任している。つまり、部長以外の料理研の役職は全て愛姫の受け持ちということになる。  料理研には実質四人しか部員がいないし、残りの二人は一年生だからだ。  ちょくちょく部室に顔を出している由奈や真奈緒、吉崎は実際には部員ではない。  真理恵がふと気付くと、帰り道にある喫茶店「みそさざい」の前に来ていた。  立ち止まって、寄っていこうかと考える。  愛姫や真保が一緒なら考えるまでもないのだが、一人だとちょっと事情が違う。 (…苦手な奴がいるからなぁ)  しかし、冷え込みが厳しいだけに、目の前にある温かな飲物の誘惑には抗い難い。 (ま、いいか)  自動ドアが音もなく開くと、雇われマスターの晶が一人カウンターに座って、本を読んでいた。  店内を見回しても他に誰もいないが、これはいつものことだ。  真理恵がここを訪れるときは、むしろ他の客がいることの方が珍しい。  以前、これでやっていけるのかと晶に尋ねたときは「このお店は、オーナーの趣味だから」と笑っていた。しかし真理恵は、そのオーナーなる人物も見たことがない。  実際のところ、みそさざいには真理恵が思っているよりは客もいるのだろう。話を聞けば、クラスメイトにもここの常連は多い。  真理恵が他の客と会わないのは、中途半端な時刻に訪れることが多いのも理由の一つだ。 「いらっしゃい」  いつものように、静かに微笑んでそう言った晶は、本を置いてカウンターの中に入る。  真理恵は、カウンターの中央よりやや奥の席に着いた。  目の前に、晶が読んでいた本が置かれていて、何気なくそれを手に取った。 「平行植物…レオ・レオーニ?」  その作家名は聞いたことがある。  真理恵が記憶しているその名は、絵本作家であったはずだが、パラパラとページをめくってみると、それはかなり難しい内容の植物学の本らしい。  どことなく奇妙な、しかし何だか懐かしい雰囲気を持った植物達の精密なスケッチが、真理恵の興味を引いた。 「マリちゃん、今日は何にする?」  ポットを火にかけて、晶が聞く。真理恵は、おとがいに手を当てて数秒間考える。 「外は寒いからなんか温まるもの…、ティ・ロワイヤルにしようかな」  店の中はいつも通りほどよい暖かさに保たれていて、真理恵は店に入った瞬間外の寒さのことなど忘れていたのだが、それでも、この後寒空の下を歩いていくことを考えると、体の内から温めてくれる物がいいように思われた。  未成年の飲酒は法律で禁じられています――笑ってそんなことを言いながらも、晶は棚から紅茶の葉を入れた広口の瓶と、ブランデーを手に取る。  晶が紅茶を入れている間、真理恵は先刻の本の続きを読んでいた。  それが、ただの植物学の本ではないと気付きはじめた頃、カチャリと小さな音を立ててティーカップが真理恵の前に置かれる。  晶はヘネシーの瓶を開け、スプーンの上に置かれた角砂糖に、それを注いだ。  ブランデーの芳醇な香りが真理恵の鼻をくすぐる。  最後に晶はマッチを擦り、ブランデーに火を点ける。店内は照明を落としてあるので、青っぽい炎が揺れているのが美しく映える。  しばらくその炎を見つめていた真理恵は、角砂糖が融けて崩れたところで、スプーンをカップの中に沈めた。  軽くかき混ぜると、紅茶の表面に金色の渦が描かれる。  紅茶とブランデーの、香りのハーモニーを楽しみながら、一口すする。  とても温かい。  それは、身体よりも心を温めてくれる。  幸せな気分に浸りながら、真理恵は本に目を戻した。  BGMのない店内はとても静かだ。  聞こえるのは、時計の振り子が揺れる音だけ。  もっとも、その時計もどこに置いてあるのか、真理恵は見たことがない。  カチ、カチ、カチ…  時計の音だけが店内に響く。  この店には――真理恵は思う。  とてもゆっくりとした時間が流れている、と。  ここでは、空気が濃密で、刻が希薄だ。  何分後か、何十分後か、カップが空になったところで真理恵は本から顔を上げ、店内を見回した。 「そういえば…」  いま初めて気付いたかのように言う。 「今日は、あいついないの?」 「あいつって?」 「…柊」  その名を口にするのはあまり気が進まない、そんな口調だった。 「由奈ちゃん? 今日はお休みよ。今日のデートは三人かけもちだから、こっちに来てるヒマがないって言ってた」  ふん…、真理恵が微かに鼻を鳴らす。 「…マリちゃん、由奈ちゃんのこと、嫌いなの?」 「嫌いってゆ〜か…」  真理恵は、直接晶の顔を見ないようにして答えた。 「…要するに嫌いなのね?」  真理恵は小さく頷いた。 「コレ関係のせい?」  意味深に小指を立ててみせる晶に向かって、無言でもう一度頷く。  由奈の男関係が、かなり…相当に派手なのは知れ渡っている。現在、関係を持っている男性は十人を下らないと言われているし、しかも、本命は別にいる。  真理恵は――誤解している人が多いが――恋愛に関しては意外と一途な性格だ。  だから、由奈に対しては嫌悪感を抱いてしまう。真理恵にしてみれば、真保や愛姫が由奈と仲がいいのが不思議だった。 「お代わり、いる?」  真理恵は無言で、カップを差し出した。  晶がまたポットを火にかける。 「由奈ちゃんのこと、あまり嫌わないであげて欲しいな。悪い子じゃないのよ、人一倍、寂しがりやなだけで」  あの子は家に帰っても一人だから…と晶は言う。  由奈の母親は、彼女が幼い頃に亡くなっていた。  父親はその頃事業に失敗して、由奈の面倒を見ている余裕などなかった。  現在では新しい事業が軌道に乗って、由奈の家はむしろ裕福な部類に入るが、父親は外に愛人を作り、滅多に家に帰ることがないという。 「…お小遣いに不自由しているわけでもないのにここで働いてるのも、毎晩男の子達と遊び歩いているのも、一人になりたくないから…一人の家に帰りたくないからなの。それはわかってあげて」  新しいカップを差し出しながら、晶は言った。 「マリちゃんは強いから…、でも、一人じゃいられない女の子って案外多いのよ。姫ちゃんが、下級生の女の子やマリちゃんにちょっかいかけるのも、同じ理由じゃないのかな?」  愛姫の両親は健在だが、今は仕事で外国に行っているし、兄が一人いるが、もう独立して一人暮らしをしている。  両親が外国へ行ってからの愛姫が、以前よりもマリに甘えることが多くなったのは事実だった。  真理恵は、カップに口を付けたまま黙っている。  この手の話題は苦手だった。  真理恵の場合、家に帰れば両親は二人とも健康でいる。  そんな当たり前の光景が、実は幸せなことなのだというのを忘れて、つまらないことで親と仲違いしている自分がイヤになるから。  何と言っていいのかわからなかったので、真理恵はまた、本のページを開いた。 「あ、やっぱりここにいた」  真理恵が二杯目のお茶を空にした時、店のドアが開いた。 「家に電話してもいないから、ここだと思った」  白い息を吐きながら、愛姫が入ってくる。 「姫…どうしたの、何か用?」 「用って言うか…お腹空いちゃったなぁ、って」  真理恵は本を閉じてカウンターの上に置いた。 「つまり、私に晩飯を作れと言いたいわけ? ここんとこ毎日じゃん。たまには自分で作んなよ」 「だって…自分の手料理なんて嫌いだもの」  愛姫はそう言って笑う。  料理研究部の四人の中で、愛姫が一番料理が下手だ。まともに作れるのは、お酒のおつまみだけ、といってもいい。  でも――  プロのソムリエ並の舌を持ち、数百種のカクテルを完璧に作れる愛姫が、普通の料理がまったくダメなんてことがあるだろうか?  真理恵はそんなことを考えて晶を見た。  真理恵の疑問の表情に気付いた晶が、意味ありげな笑みを浮かべる。 (こいつってば、料理が下手な振りをしてるンじゃないの? そうすれば、あたしが作りに来てくれるから――)  晶は既にそのことに気付いていたのだろうか、愛姫には気付かれないくらい微かに頷いてみせる。 「仕方ないな、作ってやるか」  真理恵は立ち上がった。 「その代わり、ここは姫の払いだからね」  愛姫は笑って財布を取り出す。  店を出ようとしたところで、真理恵は一度立ち止まって晶を振り向いた。 「晶さん…、あいつが来たら、謝っといて」  小さな声で、そう言う。 「そう言うことは自分で言いなさいよ。明日またいらっしゃい。冬至に合わせて、パンプキンパイを焼く予定だから」 「冬至にパンプキンパイじゃ、日本の伝統が泣くよ」  真理恵はそう言って店を出たが、来ない、とは言わなかった。どのみち、真保や愛姫が晶の手製のパイを見逃すはずはないし、そうなったら否応なしに真理恵も来ることになるのはわかっていた。  ありがとうございました――閉まりかけた自動ドアの向こうから、晶の声が聞こえた。 「うっわ〜、寒〜い」  愛姫が両手を口に当てて息を吐く。  気温はさらに下がっているようだ。 「ね、腕組んでもいい?」 「ダメって言ってもやるつもりだろ?」 「うん」  愛姫が身体を寄せてくる。確かにこうしていた方が暖かい。  晩飯は、鍋物かシチューだな――真理恵はそう決めて、愛姫の家へ行く途中にある二軒のスーパーのうち、どちらによって行こうかと考える。  足下では、雪がギュッギュと鳴っている。  空気が、凍りついている。  こんな夜は、一人よりも二人の方が、温かい。 (寂しがりやか…)  横目で、愛姫の顔を見る。 (そうは見えないよなぁ。姫ってば、いつも幸せそうな顔してるし…)  そう見えない、という点では由奈も同じだ。  真保や愛姫を相手に下品な冗談を言って笑っている、それが真理恵の知っている由奈の姿だった。  しかし確かに、彼女達が一人きりでいるときに、どんな表情をしているのかは知らない。 (あからさまに、嫌ってる素振りを見せたのは悪かったかな)  人それぞれ事情はあるんだし…、そう心の中で呟いた。  が、次の瞬間、大切なことを見落としていたのに気付いた。 「あぁ〜! だまされた!」  思わず声に出してしまう。愛姫が、目を丸くしてこちらを見る。 (何が寂しがりや、だ。何が一人じゃいられない、だ)  うまく晶の口車に乗せられてしまった。これも年の功だろうか、と苦笑いする。 「…それなら、誰か一人と『真面目なお付き合い』すればいいんじゃないか。どうして、不特定多数の男とヤリまくる必要があるんだ!」  隣では愛姫が、訳が分からない、という表情をしていた。 ――終わり――