プロローグ  その場は、異様な熱気に包まれていた。  札幌市南区の郊外に建つ私立白岩学園高等部、その格技場だ。  金曜日の放課後、普通ならば部活の時間である。しかしこの日は、多くの生徒たちが自分の部活をさぼってこの場に集まっていた。  圧倒的に女生徒の姿が多い。もともと白岩学園は女子の比率がやや高いが、それ以上の差だ。高等部のブレザーばかりでなく、隣接する中等部のセーラー服姿もかなり混じっている。  だから、格技場の中は黄色い歓声に覆われていた。  試合場に立っているのは二人。  大柄な体躯の男子は、空手部の主将を務める三年生、平池。  それと対峙しているのは、身長百六十センチ台後半の、ややほっそりとした体つきの人物。長く垂らした前髪が目にかかっているが、それでもその目の鋭さは隠し切れていない。一見して性別が判断できないような、そんな中性的な雰囲気をまとっていた。  静内彩樹――その人物の名である。  白岩学園高校の一年生。れっきとした女の子だ。ただし、試合場を取り巻いて彩樹に大歓声を送っている女の子たちが、その事実を正しく認識しているかどうかははなはだ疑問である。  共学の白岩学園にありながら、彩樹は校内で一番女の子に人気のある人物だった。中学時代は女子空手の全国チャンピオンであり、美少年顔で、女たらしで、しかもテクニシャンともっぱらの噂。なにしろ中学時代から『白岩学園のバージンキラー』の異名を持っていたほどである。  必然的にというべきか、彩樹は男嫌いだった。しかも好戦的な性格のため、高等部に上がってから、男子格闘技系クラブの猛者たちに片っ端から喧嘩を売り、そして勝利し続けている。  そのため学園内ではやや立場の弱い男子にとっては、最後に残された砦が平池だった。昨年のインターハイで、二年生ながらメダルを獲得している彼が敗れれば、もうこの学園に彩樹に勝てる人物は存在しないのだ。  だから、観客の盛り上がりも半端ではない。  彩樹の学園聖覇を応援する女生徒たちと、男子の復権を願う男子たち。試合開始の合図と同時に、観客の熱狂は頂点に達した。  試合は、最初から彩樹有利に進んでいた。  パワーとリーチの長さでは平池に分があるのだろうが、その不利を補って余りあるスピードで相手を圧倒していた。  その動きは近代空手に多いボクシング風のフットワークではなく、床の上を滑るような摺り足。それでいてフットワークよりも速い。  平池の巨体から繰り出される突きや蹴りをかわしては、その度に三発、四発の打撃を一息で打ち返す。  体力で劣る女子とはいえ、彩樹が学ぶ北原極闘流空手の技は、打撃の威力に定評がある。平池がいくら打たれ強くとも、一撃一撃が男子選手の渾身の突きにも匹敵する彩樹の打撃をこれだけまとめてもらっては、いつまでも耐えられるものではない。  ダメージの蓄積で、平池の動きが目に見えて悪くなってくる。こうなってはもう、彩樹の一方的な攻勢を止める手だてはない。ガードが下がった一瞬の隙を逃さず、彩樹の身体が翻る。  完璧なタイミングの後ろ回し蹴りが、平池の顔面を捕らえていた。 「彩樹さん、ステキ〜!」  ポニーテールにした長い黒髪を揺らして、小柄な少女が叫んでいた。ピョンピョンと跳びはねるたびに、セーラー服のスカートが翻る。  鵡川一姫。中等部の三年生で、彩樹の熱烈な追っかけの一人だ。 「ああん、もう! 彩樹さんってばカッコ良すぎ! 抱いて〜っ!」 「…いっちゃん、性格変わったね」  高等部の制服を着て隣に立っていた少女が、ぽつりと言う。  鹿追早苗、彩樹のクラスメイトだ。  呆れ顔で、ため息混じりに肩をすくめる。その動きに合わせて、早苗のDカップの胸が大きく揺れた。 一.〜翠〜  六月のある晴れた日曜日の午後。  気持ちのよい陽射しが降りそそぎ、樹々は日増しにその緑を濃くしている。  その日彩樹は、一人で家の近くの喫茶店『みそさざい』でくつろいでいた。  一番奥の席に座って、時折、アイスカフェ・オレのグラスを口に運ぶ。  店の中は静かで、古い振り子時計の音だけが響いている。  他に客はいない。  カウンターに、金髪に赤いメッシュという派手な髪をした、女子大生風の女の子が座っている。この店のバイトのウェイトレス、柊由奈だ。  時々、マスターの晶さんを相手に下品な冗談を披露して笑っているが、それとて店内の静寂を破るほどのものではない。  彩樹は、中学の頃からこの店がお気に入りだった。  いつ来てもあまり客がいなくて。  静かで。  なんとなく、時間がゆっくりと流れているようにすら感じる。  この空間は、空気が濃密で、時が希薄だ――以前誰かが、そんなことを言っていたような気がする。  たしかにそうかもしれない。  いつも殺伐としている彩樹が身も心もリラックスできる場所など、そうそうあるものではない。  彩樹は静かに目を伏せた。  こんな時の彩樹が、なにを考えているのかは誰も知らない。多分なにも考えていないだろうというのが彩樹を知る者たちの大方の意見だった。  グラスが空になるまでに、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。  そろそろ帰ろうか、と立ち上がりかけた彩樹は、先刻まではいなかった一人の客に気付いた。  不思議そうな表情で、かすかに眉を上げる。いつからそこにいたのだろう。  彩樹と同じくらいの年頃の少女だ。  最近では珍しい長いストレートの黒髪は、腰に届くほどの長さがある。しかし顔立ちはどちらかといえば西洋的な雰囲気があって、思わず見とれるほどの美少女だった。  あまり派手さはない。物静かな空気をまとった、良家のお嬢様とでもいった感じだろうか。  同じお嬢様でも、やや天然ボケの一姫とはずいぶん違う。もっとも、天然入っているキャラクターも嫌いではない。特に、一姫のようにそれが似合っている場合はなおさらだ。  その少女は、紅茶のカップを静かに口に運んでいる。その動作のひとつひとつが、完璧な優雅さを備えていた。現実にはあり得ない、画家のキャンバスの中にしか存在し得ないような美しさがそこにあった。  彩樹は、そんな少女の姿を何故か少し驚いたような表情で見つめていた。  女好きで面食いの彩樹が黙って見過ごせる状況ではないのはいつものことだが、それにしても少し様子が違う。  レジに向かった足を止めて、数秒間じっと少女の顔を見つめて。  それから彩樹は、少女が着いているテーブルの、正面の椅子を引いて腰を下ろした。  少女が顔を上げて彩樹を見る。 「ここ、座ってもいいかな?」  既に座っているくせに、そう訊いた。少女が小さく微笑む。 「他にも、席は空いていますよ?」  別に拒絶している様子ではない。ただ冷静に事実を述べただけのようだ。いま店内にいる客は、彩樹とこの少女だけなのだから。 「オレは、この席がいいんだ」  生まれついてのジゴロ――と早苗に言われる笑みを浮かべた彩樹が言うと、少女はゆっくりとうなずいた。 「ではどうぞお好きなように。わたしは構いませんから」  妙に丁寧な言葉遣いだった。本当に、どこか良家の令嬢なのかもしれない。 「ああ、好きにさせてもらうよ」  そう言ってもう一杯アイスカフェ・オレを注文する。彩樹のことをよく知っている晶さんは別になにも言わず、棚から新しいグラスを取り出して氷を入れた。もしかしたら少しばかり、呆れた表情を浮かべていたかもしれないが。 * * * 「あれ、彩樹さんじゃありませんこと?」  五十メートルほど先の通りを横断している二つの人影を指差して、一姫が言う。早苗も、その方向に目をやった。  黒のシャツに麻のジャケット、下は洗い晒しのジーンズ。いつもの彩樹の姿だ。しかし、その隣にいる黒髪の少女は…知らない人物のようだ。  綺麗な子だった。  彩樹のガールフレンドなんてそれこそ数え切れないほどの人数だが、その大半は同じ白岩学園の生徒だ。名前は知らなくとも、顔に見覚えくらいはあってもいいはずだ。しかもあれほどの美人となればなおさらのこと、一度見たら忘れるはずもない。 「誰だろ、あれ。きれいな子だね〜」  早苗は素直な感想を口にした。  年齢は彩樹や早苗とあまり変わらないだろう。身長は早苗と同じくらいだろうか。しかし雰囲気はずっと大人っぽい。早苗は胸こそ大きいが、どちらかといえば童顔だ。  横目でちらりと、隣の一姫を見る。案の定、不機嫌そうに頬を膨らませていた。  女好きな彩樹の性格はよくわかっていても、やはり面白くないのだろう。しかもその女性が自分よりも美人で、しかもずっと大人っぽいとなればなおさらのこと。一姫もなかなかの美少女ではあるが、その外見は常に実年齢よりも下に見られる。そして一姫本人は、そのことを気にしているのだった。 「彩樹さんてば、ホント、見境ないんですのね」  むっとした口調で一姫が言う。早苗は小さく首を傾げた。 「やっぱり…あの女の子、どこかで見たことがあるような…?」 「誰ですのっ?」  一姫が大きな声で訊いてくる。が、すぐには思い出せない。  それほどよく知っている相手ではないのだろう。しかし、たしかに覚えがある…ような気がする。同一人物かどうかは自信がないが、よく似た感じの女性に。  人の顔に関してはかなり記憶力のいい早苗は、腕組みをして考える。  考えて… 「…あっ!」  ようやくその答えにたどり着いたときには、思わず声を上げてしまった。  それは失敗だった。答えを見つけたことを、一姫に知らせてしまったから。 「誰ですの?」 「…いや、人違いだった」  早苗は素っ気なく言った。その言葉は事実だった。嘘をついたわけではない。  彩樹と一緒にいる少女が、早苗の記憶にあるのと同一人物でないことはたしかだった。彼女は雰囲気こそ大人っぽいが、早苗たちと同年代だ。しかし「似ている」と思ったその女性は、彩樹よりも三歳くらい年上だったはず。  それになにより… 「で、いったい誰ですの?」  一姫が訊いてくる。好奇心旺盛な性格だ。「人違い」の一言で納得するはずもない。その上、早苗の様子になにやら不審なものを感じ取っているのだろう。 「いや…あの、えっと…」 「誰ですの?」  一姫には珍しくきつい口調だ。曖昧に誤魔化す、というわけにもいかないだろう。ここでなにも言わなければ、きっと後で彩樹に直接訊くに違いない。それは出来れば避けたい。 「…あの子、彩ちゃんのお姉さんに似てるんだよ」  仕方なく、白状した。  以前、早苗が一人で彩樹の家に遊びに行ったとき、偶然目に入ったアルバムの中の写真。彩樹とはあまり似ていない、物静かで女らしい雰囲気の人だった。ちょうど今の彩樹と同じくらいの年齢の写真だったのだろうか。小学校高学年と思しき彩樹が一緒に写っていた。 「じゃああの方、彩樹さんのお姉さまですの?」 「…違う」 「どうして、そう言いきれるんです?」 「それは…」  言いかけた早苗は、一呼吸分の間をおいて言葉を選ぶ。 「だってあの子、ウチらと同じくらいの歳じゃん? 彩ちゃんのお姉さんは、たしか三つ年上だし」  あれが彩樹の姉ではない本当の理由は言わない。彩樹に口止めされているし、そうでなくてもあまり言いたくない。 「でも、彩樹さんにお姉さまがいらっしゃったなんて初耳ですわ。綺麗な方ですのね。ぜひ今度、紹介していただきましょう」 「ダメ! 彩ちゃんに、お姉さんの話はしちゃダメだよ!」  反射的に、大声を出してしまっていた。その後で口を押さえてももう遅い。 「何故ですの?」  一姫が訊いてくる。  もう、誤魔化すわけにはいかない。  それに、一姫だって彩樹の友人なのだ。知っておいた方がいいのかもしれない。知らずに、無神経な発言をするよりは。 「彩ちゃんには、ウチから聞いたなんて言わないでよ」  最初に釘を刺しておく。 「…彩ちゃんのお姉さんは、何年も前に亡くなってるの!」  早苗は、真相を白状した。  正確には、彼女が知っている事実の半分だけを。 * * *  彩樹たちが住む奏珠別の街の南側に、大きな公園が広がっている。緑の多い、静かな場所だ。  時刻は、もう夕方になっている。とはいえ六月の北海道は陽の沈むのが遅い。暗くなるのはまだまだ先だろう。  地面の上に、ふたつの影が長く伸びている。  彩樹と、そして名も知らぬ少女。  そう、結局ここまで名前も教えてくれなかった。別に彩樹といることを嫌がっている様子ではないのだが、あまり、自分のことを話したがらない。 「わたし、そろそろ帰らないと」  少女が言った。少しだけ、名残惜しそうな口調に思えたのは、彩樹の自惚れだろうか。 「まだ、いいじゃん」  彩樹は当然引き止める。今どきの高校生が帰るには早すぎる時間だ。 「門限が厳しいんです。わたしの家は」 「それじゃあ、電話番号教えてくれよ」  彩樹はしつこく食い下がる。ガールフレンドには不自由しない彩樹だが、この少女は『特別』だった。このまま逃がすわけにはいかない。 「…縁があれば、また会えますよ」 「縁なんて、実力で作るもんさ」  彩樹は少女の肩を抱き、強引に唇を奪おうとする。完全に不意をついた動作のはずだったが、少女は予想していたかのように、彩樹の唇に人差し指を当ててそれを制した。 「だめですよ、いきなりそんなこと。あなた、声をかけた女の子にいつもこんなことするの?」  怒っている口調ではない。口元には相変わらず静かな笑みを浮かべている。 「いつもなんて…特別に気に入った相手にだけさ」 「あなたの言う『特別』って、いったい何人いるのかしら」  そう言うと、声に出してくすくすと笑った。  まるで、全てを見透かされているようだった。  実際のところ、彩樹の『お気に入り』の女の子の数なんて、アドレス帳を見なければ本人でも即答できない。 「とにかく、今日はだめ。そういう強引なところも嫌いじゃないけど…また、そのうち会えますよ、きっと」  彩樹の肩に軽く手を触れると、少女は長い髪をなびかせながら身を翻した。近くの地下鉄駅の方へと向かう。後を追おうと思った彩樹だったが、何故か足が動かない。  少女の姿が見えなくなるまで、彩樹は黙って、その後ろ姿を見送っていた。 二.〜早苗〜 「やぁ…ダメ、彩ちゃん…」  早苗は涙ぐんで、切なげな声を上げた。  ベッドの上に座って、後ろから彩樹に抱きすくめられている。  Tシャツは胸までたくし上げられ、早苗自慢の、大きな、そして形のいい胸が顕わになっていた。彩樹の手が、そのふたつの乳房を包み込んでいる。人差し指の先で、先端の突起を転がすように弄んでいた。  早苗は身体をよじらせ、鼻にかかった甘い声を漏らす。頬は上気し、瞳が潤んでいる。 「あっ…」  うなじに、彩樹の唇が押しつけられた。ビクッと、全身が小さく痙攣する。 「だ、…めぇ…」  どんなに抑えようとしても、声が漏れてしまう。口ではどれほど嫌がっても、身体は彩樹の愛撫に反応してしまう。  それは、彩樹と知り合うまでは経験したことのない悦び、だった。  いつからだろう、彩樹とこんな関係になってしまったのは。  去年の夏休み、一緒にアリアーナ姫の護衛をして以来、彩樹とは親しく友達付き合いをしている。取り巻きは多い彩樹だが、対等に近い立場で付き合える友人というのは多くない。早苗は、そのうちの一人だった。  だから、彩樹の家に遊びに来ることも多い。彩樹には父親がおらず、母親は夜の仕事のため、夜は家に彩樹ひとりになってしまう。ここに来れば、大人の目を気にせずに好きなだけ夜更かしして遊んでいられるというわけだ。  ただひとつの問題は、彩樹と二人きりになって少しでも隙を見せると、こうして襲われてしまうことだろうか。この点では、彩樹には友達と恋人の区別はない。この世の可愛い女の子は全部自分のもの、とでも思っているのだろう。  早苗が初めて彩樹に唇を奪われたのは、今年の二月…バレンタインデーだった。それ以上の関係になったのも、その少し後のことだったはず。  幸いなことに、まだ最後の一線は越えていなかった。今の段階で、それだけはしてはいけないことだと、自分に言い聞かせていた。  早苗は、まだバージンだ。  可愛らしい顔と大きな胸で男子には人気のある早苗のこと、過去に男の子と付き合ったことはある。ファーストキスは中学の時に経験済みだし、胸くらいなら触られたことだってある。  しかしそのときは、ただ恥ずかしかっただけ。その行為が気持ちのいいものだと知ったのは、彩樹と知り合って、かなり強引に関係を強要されてからのことだ。  あからさまな言い方をすれば、最初のそれはレイプに近いものだった。なのに、嫌悪感はまったくなかった。  女の子同士でこんなことするなんて、普通じゃない――頭ではそう思っていても、彩樹の腕に抱きしめられることは、決して嫌ではない。  早苗は、彩樹に対して恋愛感情は持っていない…はずだった。その点で、一姫やほかの取り巻きの女の子たちとは違う。  友人としては大好きだ。確かに彩樹は乱暴だし、自分勝手だし、見境のない女たらしだけれど。  それが、良さでもある。  外見は間違いなく格好いい。それに強くて、彩樹に好かれている限り、なにがあっても護ってもらえる――そんな安心感がある。  もしも彩樹が男だったら、きっと、本当に好きになってしまっただろう。  しかし現実には、彩樹は女なのだ。たとえ外見がどれほど美少年風だったとしても。  早苗には、同性愛の趣味はない。しかし最近、友情と愛情の境界がひどく曖昧に感じるのも事実だった。  今のところなんとか拒絶してはいるが、それをいつまで続けられるか自分でも自信がない。このまま行けば、ごく近い将来に彩樹にバージンを捧げてしまうであろうことを自覚していた。  今、それをしない理由はいくつかある。  早苗はノーマルな恋愛観の持ち主で、同性愛の趣味はない(と、少なくとも本人は思っている)こと。  ちょっとだけ、気になる男性がいること。  そして、一姫に悪い気がすること。  しかしそれでも、彩樹から離れることはできない。少しずつ「相手が彩ちゃんならいいかな」と思いはじめている自分がいる。  本当なら、初めての相手はちゃんと『好きな男性』であってほしいのだが。 「やっぱり早苗の胸は触り心地いいな〜。この大きさ、程良い柔らかさと弾力。そしてピンク色の乳首。絶品だね」  言いながら、彩樹はその胸に唇を滑らす。 「ヤダ! 彩ちゃん、もうやめて!」  泣きそうな表情で早苗は叫ぶ。その声は悲鳴に近い。 「どうして? 気持ちイイだろ?」 「だから! もぉ…最近なんだか、すごく感じるようになっちゃって…これ以上されたら、ウチ、おかしくなっちゃうよぉ」 「いいじゃん。おかしくなったって」  いいながら、早苗のスカートの中に手を入れる。 「ダメッ!」  早苗はその手から逃れようと暴れるが、彩樹の力強い腕にがっちりと捕まえられている。 「や…や…やぁ…」  彩樹の指が、下着の上を滑る。女の子のいちばん恥ずかしくて、そして敏感な部分を刺激する。 「あ…あぁ…あ…ん」  早苗だって、好奇心旺盛な今どきの女子高生。これまでに、自分で触ってみたことがないわけではない。  しかし彩樹の指が与えてくれる快感は、まったく別次元のものだった。  これまで何人もの女の子たちを虜にしてきた彩樹のテクニックに、経験の浅い早苗がいつまでも耐えられるわけもない。 「い…あぁっっ!」  早苗は自分でも信じられないくらい簡単に、快感の頂に上りつめてしまった。 「…もぉ…彩ちゃんのバカ…」  荒い息をしながら、早苗は涙目で彩樹を睨む。彩樹は、意地悪な笑いを浮かべていた。 「なにか文句あンのか? あんなに感じてたくせに」 「うるさい! バカ! すごく恥ずかしかったんだからぁ…」  ベッドに俯せになって、枕に顔を埋めたまま文句を言う。なにしろショーツ一枚の姿で、さんざん彩樹の指と舌に弄ばれていたのだから。恥ずかしくない方がおかしい。 「大体、ズルイよ彩ちゃん。ウチだけ裸でさ、恥ずかしいじゃない。彩ちゃんも脱いでよ」 「なんだ、そんなことか。いいぜ、別に」  あっさりと応えると、彩樹は自分のタンクトップに手をかけた。しかしそこで手を止めて、ふと思いついたように言う。 「どうせなら、早苗が脱がせてくれるか?」 「え…?」  その台詞に一瞬驚いたが、考えてみれば早苗の服は彩樹の手で脱がされたのだ。おあいこといえばおあいこかもしれない。 「うん…いいよ」  早苗がタンクトップに手をかけると、彩樹は脱がせやすいようにと両腕を上げた。  服の下から現れた彩樹の身体は、一見かなり痩せている。  しかし裸になったところをよく見れば、その身体は猫のようなしなやかな筋肉で覆われていることがわかる。無駄な脂肪が一切なく、しなやかさと瞬発力を秘めた良質の筋肉だけをまとっているために、痩せて見えるのだ。  胸のふくらみは、大きさの点では発育のいい小学生にも劣るだろう。だからブラジャーも着けていない。一見少年のような上半身だが、男性にしてはやや大きな乳首が、彩樹の性別を示していた。  いくつか、空手の稽古や試合、あるいは喧嘩でできたものと思われる傷があるが、それを除けば彩樹の肌はきれいだ。染みもほくろもない滑らかできめの細かい肌に、早苗はそっと指を滑らせた。  女らしくはなく、かといって男のものでもない。性別不明の中性的な彩樹の身体に、思わず息をのむ。  きれいだ、と思った。  心臓の鼓動が激しくなる。  同性愛の趣味はないはずなのに、思わず見とれてしまう。  そっと指を伸ばし、それからおずおずと、その部分にキスをした。 「ん…」  かすかに、声を漏らす彩樹。早苗が訊く。 「気持ちいいの?」 「いいに決まってンだろ」  早苗の頭を撫でながら応える。 「彩ちゃんて、最初から最後まで『攻め』なのかと思ってた」 「そうさ。だから、『してもらう』んじゃなくて『させる』のが好きなんだ」  そういうと彩樹は、早苗の頭を乱暴に掴んで胸に押しつけた。早苗はなすがまま、乳首を口に含む。 「な、下も触ってくれよ」 「え? う…ん」  言われて、手を彩樹の下腹部へと滑らす。ジーンズのボタンを外してファスナーを下ろした。こんな彩樹でも、下着は一応女物だった。『女の子らしさ』よりも動きやすさを重視したデザインではあるが。  頬が赤くなる。自分がすごく、はしたないことをしているような気になる。  手を中に差し入れ、ショーツの上からそっと指でなぞってみる。  暖かくて、なんとなく湿っぽい。 「ん…ふぅ…」  彩樹が小さく息を吐く。 「濡れてる…んだ?」 「当たり前だろ」  驚いたように言うと、頭を軽く小突かれた。 「こんな風に触られて、濡れない方が問題あるだろ。女として」 「彩ちゃんでも一応、女の子の自覚はあるんだね〜」  そう言うなり、髪を引っ張られた。こんな外見の彩樹だが、男に間違われることをひどく嫌う。根っからの男嫌いだからだ。  早苗がジーンズに手をかけると、彩樹は脱がしやすいようにと軽く腰を浮かす。油断するとすぐに余分な脂肪がついてしまう早苗としては、すらりとした彩樹の身体が少しうらやましかった。 「…これも、脱がしちゃっていい?」  ショーツに指を引っかけて訊く。彩樹は別に恥ずかしがる様子もなくうなずいて、早苗を少しがっかりさせた。  それでもどきどきしながら、最後の一枚を脱がす。こうして他人の裸を見るなんて初めてのことだ。  彩樹のそこは、たしかに『女の子』だった。彩樹の性別はわかっているつもりでも、やっぱりなんだか意外な気がしてしまう。それを口に出すとまた殴られるので、なにも言わずにいたが。  陰毛はひどく薄い。産毛がわずかに濃くなった程度でしかない。剃り跡も見えないから、こまめにお手入れしているというわけではないようだ。もともとこういう体質なのだろう。  その奥に見える女性器も、高校生にしてはずいぶんと幼く感じた。身長に関しては人一倍発育の良い彩樹なのに、少し不思議な気がする。 (そういえば…)  ふと、早苗は思いだした。  知り合って一年近くになるが、彩樹が体育の授業を見学しているところを見たことがない。  身体を動かすことが好きな性格だから休まないのかと思っていたが。もしかしたら、休む必要がなかったのかもしれない。  背は平均よりもかなり高い彩樹なのに、その身体には十代後半の少女らしさはほとんど感じられず。むしろ、もっと幼い少年っぽさの残る、中性的な雰囲気の。  それは、第二次性徴がほとんど顕れていない身体だった。 (だから…?)  早苗は首を傾げる。  だから、あの性格なのだろうか?  それとも逆に、あの性格が身体の成長すら拒んでしまったのだろうか?  全裸になった彩樹の身体には、男でも女でもない、不思議な色気が感じられた。  早苗は、恐る恐る指を伸ばす。  自分のを触ったことがないわけではないが、もちろん、他の女の子を触るなんて初めてだ。  ヌルリとした感触。中は温かいというよりもむしろ熱いくらいで。 「ん…はぁ…」  彩樹の声はハスキーなせいもあるが、こんな時でもあまり女の子らしくは聞こえない。 「指…入れて」 「うん…」  言われるままに、中指を奥へと進めていく。  そこは溢れ出すほどに濡れていて、思いのほかスムーズに奥まで入っていく。  彩樹が短く声を上げ、早苗を抱く腕に力が入る。腰が動いている。早苗の指を、もっともっと奥へと導くように。 「…上手だな、早苗」 「え? そ、そうかな?」  そんなことを言われたって、経験の浅い早苗にはよくわからない。 「いつも、ひとりエッチとかしてるんじゃないか?」 「そ、そんなこと…。いつもなんてしてないよ!」 「ふ〜ん、じゃあ…」  彩樹は可笑しそうに言った。 「たまにはしてるんだ」  早苗はたちまち真っ赤になる。そりゃあ、してみたことがないわけじゃない。だからといって露骨に訊かれて「はい、してます」なんて答えられるはずがない。  そんな早苗の反応に、彩樹は声を上げて笑った。 「早苗は指先が器用だからかな。すごく気持ちイイ」 「そ、そぉ?」 「いろんな相手としてるとね、それぞれ感じ方が違うんだ。早苗のは、すごくイイ」 「…ま、そう言われて悪い気はしない…かな」  調子に乗って指を動かす。中指を、根元まで埋める。  続いて、人差し指も。  不思議な感触だった。  初めての経験だった。自分でするときは、せいぜい第二関節くらいまでしか入れたことはない。  中は熱くて、ヌルヌルしていて、指を柔らかく包み込むような。まるで内臓を直に触っているような、奇妙な感覚。  指を動かすたびに、彩樹の熱い吐息が耳にかかる。 「…ねぇ、彩ちゃん?」 「ん…?」 「彩ちゃんて、バージンじゃない…よね?」  そうでなければ、たとえ指だってこんなにスムーズに挿入できるはずがない。早苗が自分で指を入れてみたときは、一本だって少し痛かったのだ。 「当たり前だろ」  彩樹はこともなげに言う。 「いまさらなに言ってンだよ」 「…だよね」  早苗もうなずく。あれだけたくさんの女の子を手込めにしている彩樹が、バージンであるはずがない。  しかし、だとすると… 「じゃあ、姫様の護衛って…」  去年の夏休みに、彩樹と早苗、そして一姫の三人が、マウンマン王国の王女アリアーナの護衛を務めたとき。その役につく人間には、条件があった。 『王女と同年代の少女で、清らかな乙女であること』と。 「あれは、知内のおっさんが早合点したんだ。別に、ウソついた訳じゃないぜ。向こうが勝手に間違えて、オレはただ、訂正しなかっただけ」  彩樹はにやっと笑ってみせる。 「ずる〜い! それってほとんど詐欺じゃない」 「確かめない方が悪い」 「そんなこと、できるわけないじゃない!」 「いいじゃん、別に。オレがいなかったら、どうなっていたことか」 「それはそうだけど…」  王位継承権を巡って、実の兄に命を狙われていたアリアーナ姫の危機を何度も救ったのは、ほとんど彩樹の手柄だった。早苗や一姫だけでは、とても護りきれなかったに違いない。 「そんなことより、さ」  彩樹が耳元でささやく。 「続き、してくれよ」 「…あ、うん」  早苗はまた指を動かす。  目を閉じて、かすかに口を開いて感じている彩樹を見ながら。 (それにしても…)  彩樹の初めての相手って、いったいどんな人なのだろう。知りたい気がする。  彩樹の性格からして男のはずはない。かといって女の子相手の彩樹は、たとえ相手が年上だって基本的に『タチ』だ。年上の『お姉さま』にバージンを奪われる彩樹というのも、いまいち想像しにくい光景だった。  そんなことを考えながらも、指の動きを少しずつ速くしていく。彩樹の息が荒くなり、腰の動きが大きくなる。  動きに合わせて彩樹がかすかに漏らす切なげな声に、早苗も興奮していた。  彩樹の腕に力が込められる。痛いくらいに強く抱きしめられて。 「あっ…んんっ!」  彩樹の身体が小刻みに震える。次の瞬間ふぅっと大きく息を吐き出して、全身から力が抜けた。  しばらくそのまま黙っていて。笑いを堪えているような表情で早苗の顔を見ていた。 「…なによ」  沈黙に耐えきれず、早苗が訊く。 「テクニシャンだな。顔も可愛いしその胸だし、フーゾクで働けば稼げるだろうな〜」 「べ〜っだ」  早苗は舌を出してみせる。 「好きでもない人と、お金のためにこんなコトなんてできないよ」 「…てことは、オレに対しては愛があるってことか」 「あ、愛っていうか…ウチはノーマルだよ! でも…」  早苗は恥ずかしそうにうつむいた。 「でも…彩ちゃんは…好き」 「オレも、早苗のこと好きだよ」  上体を起こして早苗を抱きしめ、顔中にキスの雨を降らせる。 「彩ちゃんの場合は、早苗のことも、でしょ」  早苗は拗ねたように言った。 「妬いてんのか?」  彩樹が人差し指で、早苗の頬をつつく。 「だ〜れが! あんまり自惚れないでよね」  口ではそう言った早苗だが、内心あまり自信はなかった。 * * *  真夜中過ぎに、ふと目を覚ましたとき――。  早苗は、彩樹の腕枕で眠っていた。  部屋の灯りもつけたまま。  いつの間にか眠ってしまったらしい。二人とも全裸だった。  あの後また攻守交代して、何度もイカされて…その先の記憶がない。疲れきって眠ってしまったようだ。  彩樹と、直に肌が触れ合っている。  裸で抱き合って肌と肌を合わせることが気持ちのいいことだと、初めて知った。彩樹とはこれまでにも何度かこういうことをしたことがあるが、その時は下着姿まで。全部脱がされてしまったのは初めてだ。  彩樹は、まだ眠っている。  平和そうな、安らかな寝顔。  彩樹のこんな表情は、起きているときにはまず見ることが出来ない。早苗はしばらく、その寝顔に見とれていた。  実際のところ、彩樹の顔だちはかなり整っている。その強烈な性格のために顔の評価はつい後回しになってしまうが、なかなかの美人だ。  よく『美少年顔』と評されるが、それは髪型と服装の影響が大きい。もう少し髪を伸ばして女の子らしい服を着せれば、すれ違う男がことごとく振り返るほどの美女になるだろう。 (そういえば…)  以前見た、小学生の頃の彩樹の写真を思い出す。  肩にかかるくらいに髪を伸ばして、ちゃんと女物の服を着て。活発そうではあったが、可愛い女の子だった。  そしてその隣に、物静かで大人びた雰囲気の中学生――彩樹の姉――が微笑んで立っていた。  それがどうして今みたいな外見と性格に育ったのか、知りたい気がする。  早苗は、小学生の頃の彩樹を実際に見たことはない。彩樹は転校生だ。およそ三年前…中学一年の初夏に、白岩中へ転校してきたのだ。  それ以前の住所も札幌市内らしいが、詳しいことは知らない。彩樹は普段、自分のことなどほとんど話さない。  だから早苗が知っていることは、彩樹が会話の中でうっかり口を滑らせたことと、この部屋に遊びに来て、偶然目に入ったものから推測したこと。  そしてもう一つの情報源は…噂。  彩樹ほどの目立つ人物なら、校内で話題に上ることも多い。正真正銘の事実から、まったく根も葉もない流言まで。噂には事欠かない彩樹である。  その中でも、ごく一部の生徒にしか知られていない噂があった。  それが事実かどうか、早苗にも分からない。  まさかそんなこと――そう思いたいが、彩樹ならあり得るような気もする。  彩樹本人に確かめることなど思いも寄らない――そんな噂。  静内彩樹は、人を殺したことがある――と。 三.〜玲子〜 「彩樹くんのお姉さんのこと?」  雨竜玲子は、小さな声で訊き返した。一姫がうなずく。 「それが訊きたくて、一人で私のところに来たの?」  そこは、札幌で人材派遣・紹介業を営む株式会社MPSのオフィス。営業部長、知内祐人の秘書――もとい、有能な美人秘書(自称)を務める玲子の席だ。今日、知内は外出していて社内にはいない。 「考えてみると、わたくし、彩樹さんのことをほとんど知らないんですもの。彩樹さんに直接お尋ねしていいことかどうかわかりませんし…。玲子さんならいろいろご存じかと思って」  玲子は一姫の顔を見つめ、少し考えてから口を開いた。 「それって、彩樹くんのプライバシーでしょう? たとえ知っていても、おいそれと人に話すわけにはいかないのよ」  一姫のがっかりしたような顔を見ながら言った。  たしかに、彼女が知りたがっているようなことは全部知っている。そしてそれは、できれば知らない方がいいことだった。 * * * (彩樹くん、か…)  帰宅ラッシュの地下鉄南北線の中で、玲子はぼんやりと昼間のことを考えていた。  まあ、一姫が彩樹に興味を持つのもわからなくもない。彩樹ほど魅力的な個性の持ち主は、職業柄多くの人間と会う玲子でも他に知らない。どうして彩樹のような人間が出来上がったのか、興味があった。だから、本人だけではなく、家庭環境についても調べてみた。  そしてその結果は… (…ん?)  玲子の思考は、お尻のあたりで動く手の感触で中断された。夕方の混んだ電車の中、彼女の身体はドアに押しつけられるような体勢になっている。 (やだ…痴漢?)  偶然触れてしまった、という感じではない。明確な意志を感じる手の動きだ。  不自由な態勢のまま、なんとか逃れようと身体を動かすが、その手はしつこくついてくる。 (やだなぁ…どうしよう)  大きな声を出すのも恥ずかしい。かといっていつまでも触られているのも癪だ。  どうしたものかと頭を悩ませていると、不意に手の動きが止まった。どうしたのかと訝しむ間もなく。 「なにやってんだよ、このスケベオヤジ!」  すぐ後ろで、聞き覚えのある声がした。その声の正体に気付くよりも先に、なにか、硬いものが砕けるような音、そして、どさりという音とともに、背後で人が倒れる気配がした。  慌てて、後ろを振り返る。  顎を手で押さえた中年男性がうずくまっていた。ぼたぼたと赤い染みが床に落ちる。そしてその横には、獣の気配をまとった見覚えのある人物が…。 「さ…、彩樹くん?」 「よ、お久しぶり」  拳を見せて、彩樹が笑っていた。  玲子がそれ以上なにも言えずにいるうちに、電車はすすきの駅へと到着する。ドアが開く直前、彩樹はうずくまっている男の後頭部に拳を叩き下ろした。 「さ、行こう」  完全に意識を失っている男にはそれ以上興味を示さず、彩樹は玲子の手を取って電車を降りた。 「あ、えっと…ありがとう」 「どういたしまして」  彩樹は笑うと、一見なんの関係もないことを口にした。 「ちょうど、腹が減っていたからね」  数秒間、その言葉の意味を考える。彩樹の性格はよくわかっているから、すぐに答えにたどり着いた。 「…お礼に晩ごはんをご馳走しろってこと?」  なるほど、それでススキノで電車を降りたのだろう。夕食ということであれば、この周辺がいちばん店の選択肢は多い。  もちろん、夕食をおごるくらいはいっこうに構わない。が、彩樹は高校生のくせになかなかのグルメだ。食事といっても、ファーストフードやファミレスでは納得しまい。 「今日はステーキが食いたいな。輸入牛はヤダよ。松阪牛とまではいわないけど、せめて十勝牛か白老牛」  案の定、図々しいことを言っている。玲子は小さくため息をついた。 「…まあ、いいとしましょう」  そう言って、彩樹と並んで歩き出す。  地下鉄駅から地上に出て、信号をひとつ越えたところにあるホテルへと向かった。その地下に、ステーキとチーズフォンデュを売り物にしている店があるのだ。 「彩樹くん。あなた、ワインは飲める?」  席に案内されて、ソムリエールが持ってきたワインリストを開きながら玲子は訊いた。彩樹の答えは予想できたことだが、やはり、当たり前だと言いたげな顔でうなずいた。 「…どんなワインが好きかしら?」  そう訊いたのは、ちょっとした意地悪のつもりだった。いくらなんでも、高校生がワインの銘柄に詳しいとは思えない。 「やっぱりブルゴーニュかな。ニュイの赤ワインがいいや」 「…ずいぶん贅沢なことね」  即座に答える彩樹を見て、訊いたことを後悔した。チリやアルゼンチンの安ワインとは言わないが、せめてスペインかブルガリアあたりの手頃な価格のもので満足してくれればいいのに、と。よりによってコート・ド・ニュイとは。 「マルサネでいい?」  リストの初めの方にある、コート・ド・ニュイ地区の村名ワインとしては、比較的お手頃価格のワインの名を挙げる。 「そうだね…」  それでいいよ、と言いかけたように見えたのだが。 「あ、この店、ルイ・ジャドのジュヴレ・シャンベルタンがあるんだ。これにしよう」  彩樹が目を輝かせ、玲子の顔が引きつる。  ジュヴレ・シャンベルタンは、ヴォーヌ・ロマネやシャンボル・ミュジニーと並んで、コート・ド・ニュイ地区を代表する村のひとつ。玲子のような普通のOLに手が出ないほど高価というわけではないが、かといって安いものでもない。この店での価格は、同じ会社のマルサネと比べて倍以上だ。  諦め顔でうなずきながら、玲子は「会社の名前で領収書をもらおう」と考えていた。彩樹の機嫌をとるため、ということであれば、知内も文句は言えまい。  それにしても… 「あなたどうして、高校生のくせにそんなにワインに詳しいの?」  ステーキとチーズフォンデュのセット、そしてワインを注文した後で、周囲には聞こえないように小声で訊いた。 「カエルの子はカエル…ってヤツ?」  彩樹は平然と答える。それだけで玲子には通じた。  彩樹の母親は、ススキノでクラブやバーを経営している。その影響で、彩樹もお酒には詳しいのだろう。  その時ワインが来たので、それ以上年齢について追求するのはやめにした。黙っていれば彩樹は大学生くらいに見えるから、なんの問題もない。 「テイスティングはなさいますか?」  ソムリエールが訊いてくる。玲子は首を横に振った。この店は何度か来たことがあるが、おかしなワインに当たったことはない。  大きなワイングラスに、わずかな濁りもない真紅の液体が注がれる。それは、深い、深い、紅玉の色。魂が吸い込まれるような紅。  グラスを手にとって、彩樹のグラスと軽く触れ合わせる。チン、と澄んだ音がした。 「さて…」  デザートまで平らげて店を出たところで、彩樹は大きく伸びをした。 「どっかで、軽く飲んでく?」  当たり前のように訊いてくる。玲子はまるで、同世代の男性とでもデートしているような気になった。 「…なに言ってんの。高校生のくせに、飲み過ぎよ」  そうは言ったが、実際のところ、ワインをボトル半分空けたにもかかわらず、彩樹の様子は普段とまるで変わりない。むしろ玲子の方が朱い顔をしている。 「そんな台詞を言うようじゃ、玲子さんもオバさんだね〜」 「だ、誰がオバさんですって?」  玲子は今年二十五歳、年齢の話題にはちょっと敏感なお年頃だ。 「ま、いいじゃん。もう少しくらい飲んだって」  彩樹は強引に玲子の肩を抱くと、少し歩いたところにあるビルへと連れていった。エレベータに乗って、少しも迷わずにボタンを押す。彩樹の年齢からいって、若者向けのショットバーかなにかかと思っていたのだが、連れて行かれた店には、もっと高級感が漂っていた。訪れたことはないが、その店名には覚えがある。そこは、彩樹の母親が経営する店のうちのひとつだった。 「あ、彩樹くんだ。いらっしゃ〜い!」  二人を出迎えたバニーガールが喚声を上げる。その見事なプロポーションに、玲子は少し嫉妬した。 「え、彩樹くん?」 「わ〜い、久しぶり〜!」  この店の女の子たちは、全員バニー姿らしい。彩樹はずいぶんと人気者のようで、みんなが声をかけてくる。 (だけど…)  この子たちは、彩樹が実は女の子だと知っているのだろうか。なんとなく、性別を誤解しているのではないかという気がした。  席に着くと、彩樹の名前が書かれたボトルが運ばれてきた。隣に座ったバニー姿の女の子が、慣れた手つきで水割りを作る。 「こちら、彩樹くんの彼女?」  グラスに口をつけていた玲子は、思わず吹き出しそうになった。たしかに、なんの説明もなければそう見えないこともない。彩樹がいかにも肯定と受け取れるような笑みを浮かべているので、玲子もあからさまに否定することができない。 「彩樹くんって年上が好きだったの? それならそうと言ってくれれば…」  彩樹に抱きついて、今にも唇が触れそうな距離で甘い声を出しているバニーに、玲子はちょっと腹が立った。しかし、それではまるでやきもちを妬いているみたいだと気づき、慌てて頭を振ってその感情を追い出そうとする。  二十五年間まっとうに生きてきたのだ。どうしていまさら、同性に特別な感情を抱くことがあるのだ、と。 * * * 「うぅ…」  かなり陽が高くなってから目を覚ました玲子は、呻き声を上げた。 「…やっちゃった…」  そこは自分のマンションの、自分のベッド。  ただし彼女は全裸で、しかも隣に寝ている人物がいる。  絶望的な気持ちで上体を起こした。宿酔いで頭が痛い。胃がむかむかする。  それでも徐々に、記憶が甦ってきた。できれば忘れたままでいたかった記憶だったが。  なんてことだろう。二十五年間まっとうに生きてきたというのに。  同性の、それも年下の子に犯されてしまったなんて。  自分の手首を見る。  縛られた痕が、まだうっすらと残っている。  無理やり、こんな乱暴なことをされたというのに。  なのに、それで感じてしまった。これまで関係を持ったことのある男たちの誰よりも。  前の彼とは半年以上前に別れて、最近ご無沙汰だったからかもしれない。とはいえ…認めがたいことだった。  玲子が落ち込んでいると、いつの間にか、眠っていたはずの彩樹が目を開けて、こちらを見上げている。 「おはよ」 「…おはよう」  『不思議の国のアリス』に登場するチェシャー猫のようににやにやと笑っている。その余裕の表情がなんだか悔しい。 「なに笑ってるのよ」 「いや、昨夜の玲子さん、すごかったなぁって。すっごい激しいんだもの」  かぁっと、玲子の顔が真っ赤になる。どうリアクションしていいものやら見当もつかず、その台詞を無視してベッドから降りた。 「…朝ごはん、食べる?」  床に落ちている下着を拾いながら、できるだけ平静を装って訊いた。ベッドの上で頬杖をついた彩樹がうなずく。 「うん。メニューはなんでもいい」 「じゃあ、できたら呼ぶから」  玲子は、逃げ出すように寝室から出ていった。 「…やれやれ」  朝食を作りながら、玲子は昨夜のことを思い出していた。夜中過ぎまで飲んでいて、ここへ帰ってきたときにはかなり酔っていた。ススキノからタクシーに乗ったことは辛うじて憶えている。その後の記憶は、ベッドの中まで飛んでいた。  かなり手荒な、しかしそれが気持ちいい彩樹の愛撫。 『女の子の泣き顔が、いちばん興奮するんだ――』  そう言っていた。  そう言って、何度も玲子を泣かせた。  泣いていたのは、痛みのためだけではない。 「…根っからのサドよね、あの子」  どうして、あんな性格に育ったのだろう。  普通ではない。どこか、歪んでいる。  …あるいは、狂っていると言ってもいいかもしれない。  実を言うと、その原因には心当たりがないわけでもない。親友の早苗や一姫も知らないであろう彩樹の過去を、しかし玲子は知っていた。  去年の夏。アリアーナ姫の護衛として彩樹たちをスカウトしたとき。  仕事の関係上、スカウトする人間は入念に身元を調査するのが普通だ。しかしあの時は急ぎだったし、いろいろと特殊な状況だったので、それが後回しになってしまった。  だから、部長の知内も知らないことだ。  アリアーナの件が一段落した後で、ふと思い出して三人娘の詳しい調査をしてみたのだ。  早苗と一姫については、特に問題となるようなことはなかった。  ごく普通の公務員の家庭に生まれた早苗。成績は中の上。家族は両親と四歳上の兄が一人いて、関係は良好。  いくつものホテルや飲食店を経営している鵡川観光グループの会長の孫娘である一姫は、家庭環境についてはやや特殊といえたが、本人は、本が好きで少しおっとりした女の子でしかない。  これが彩樹になると、そもそも外見からして普通ではない。そして特技も、趣味も。  どうしてこんな子ができあがったのか興味が湧いて、少し詳しく調べてみた。  家庭環境にも問題がないわけではない。  まず、彩樹には父親がいない。そもそも彩樹の母親、縁に結婚歴はない。父親が誰なのかすら、わからないらしい。  縁は旭川の高校を中退した後、家出同然に札幌に出てきて、ススキノで働いていた。一時期、身体を売って生活していたこともあったようだ。  彩樹も、そして三年半くらい前に亡くなった彩樹の姉の翠も、その頃に産まれた子供で、父親が誰なのかはわからない。少なくとも翠と彩樹の父親が違うのは、外見からも一目瞭然だ。  普通ならば、中絶を選ぶところではないだろうか。どうして産む気になったのか、そこまではわからない。そんな状況で幼い子供を育てることには、並々ならぬ苦労があっただろうに。  現在、縁は自分の店を持ち、かなり成功しているといえる。今の静内家は、少なくとも経済的には裕福な部類だろう。  母娘の仲も決して悪くない。縁もけっこうきつい性格で、よく喧嘩もしているらしいが、それは言いたいことを言い合える関係であることの証ともいえる。  しかしそれでも、長女・翠の死が、三年以上経った今でも影を落としていることは間違いない。  翠の死因を調べるのは、多少手間がかかった。警察と、新聞社に勤めている知り合いのコネを使って。  表向きの死因はすぐにわかった。  自殺、だ。  当時住んでいた、札幌市手稲区のマンションから飛び降りて。  これは複数の目撃者もおり、不審な点はない。しかしその原因が問題だった。  自殺というのは、その多くが間接的な殺人である。翠が死を選ばなければならなかった理由…。玲子は、それを知ったことを少し後悔した。こんなこと、知らなければよかった、と。  そして彩樹は、姉の死の責任が自分にあると、そう思っているらしかった。  おそらく、三年以上経った今でも。  それが事実なのか、それとも単なる彩樹の思い込みに過ぎないのか、翠が死んだ今となっては本当のところはわからない。  彩樹がちょうど小学校から帰ってきたときに飛び降りたのも、意図的にやったことなのか、たまたま偶然そうなったのか。いずれにせよ、姉が目の前で無惨な肉片と化したというその事実が、彩樹の肉体的、精神的な変化の直接的な原因に違いなかった。 「手が、止まってるぞ?」  もの思いにふけっていた玲子は、そんな声でふと我に返った。  いつの間にか、彩樹がキッチンに来ている。 「なに、考えてた?」  意味ありげな笑みを浮かべて、彩樹が訊く。 「べ、別に…」  玲子は曖昧に誤魔化したが、なにもかも見透かされているような、そんな笑みだった。 「過剰な好奇心は、時として身を滅ぼすこともあるよな」 「…それって、脅迫?」  彩樹の目を真っ直ぐに見ることが出来ず、玲子はキッチンの入口に立つ彩樹に背を向けて、包丁を持った手を動かした。 「別に。ただ、誰にだって知られたくないことはあるって話」  なにげない口調で、彩樹は言う。 「そうかしら。誰かに、知ってもらいたいんじゃないの、本音は?」  怒らせるかもしれない…そう思いながら訊いてみる。  彩樹は黙って、なにか考えている様子だった。十数秒後、再び口を開く。 「…たとえそうだとして、誰が受けとめられるっていうんだ?」  今度は、玲子が黙る番だった。  彩樹の言う通りだ。それは多分、彼女と同年代の普通の少女たちには重すぎ事実だろう。それを知った後でも、以前と同じように彩樹と付き合えるかどうか。その可能性は低いと思う。 「誰かに、話したか?」  少しきつい口調で彩樹が訊いた。玲子は首を横に振る。 「…いいえ。部長だって知らないわ」  少しだけ、嘘をついた。  知内に話していないというのは本当のことだ。彩樹だって、特に男性には知られたくないことだろう。  知内にしても、自分が大チョンボをしでかしたことなど知らないままの方が幸せだ。だから、言わなかった。だから彼は、彩樹が「アリアーナ姫の護衛を務めるための条件」を満たしていないことを知らない。  あとでそれがばれた場合に会社の信用問題になるかもしれないが、実際のところ「王女の身近に仕えるのは、同じ年頃の乙女でなければならない」というのは、古くからの伝統であるという以外、特に意味のあることでもないのだ。彩樹がバージンでないからといって、いまさらそれがなんだというのだろう。  しかし「誰にも話していない」というのは、実は嘘だった。  ひとりだけ、玲子が知っていることを伝えた相手がいる。実際には直接話したのではなく、報告書の形にまとめて渡したので、それを呼んだ相手がどんな反応を示したのかは玲子も知らない。 四.〜一姫〜  その翌週の土曜日。  学校は休みだった。だから彩樹はいつものように、後輩の女の子を部屋に連れ込んでいた。 「や…ダメ、お姉さま」  ベッドの上で背後から彩樹に抱きすくめられたショートカットの少女が、身体をよじらせる。  白岩学園の一年後輩で、取り巻きの中でもけっこうお気に入りの奈津美だ。  彩樹は奈津美の抗議を無視して、慣れた手つきでブラウスのボタンをはずしていく。もとより、奈津美だって本気で嫌がっているわけではないことは先刻承知だ。  ブラウスを脱がし、ブラのホックをはずし、奈津美の胸が露わになる。  彩樹は小柄な少女のうなじに口づけると、そのまま背中に向かって舌を滑らせた。 「は…ぁん…」  奈津美がとろけそうな声を上げる。  彩樹の両手は奈津美の、やや小ぶりな胸を包み込んで。人差し指の先が、小さなピンク色の突起を転がす。 「だ…めぇ…、そんなにしちゃ…感じ過ぎちゃう…」 「いいじゃん。めちゃくちゃになるまで、感じさせてやるよ」 「あ〜ん…だめぇ…」  これが、彩樹にとっての至福の時だ。  片手を胸からはずして下半身に滑らせ、スカートの中へと侵入させた。  下着の上からでも、湿っているのが感じられる。指を中にもぐり込ませる。熱く潤った泉に直に触れる。 「ひゃっ…あぁっ…はぁっ!」  奈津美は指の動きに合わせて、断続的な短い悲鳴を上げる。 「だめ…だめ…はぁっ! いっちゃう…」 「いいぜ、いっちゃえよ」  彩樹の言葉に促されて、少女がいままさに達しようとしたとき―― 「彩樹さん、姫様が呼んでますの。すぐ一緒に…」  小鳥のようなソプラノの声とともに、突然、部屋の真ん中に一人の少女が現れた。  文字通り、突然その場に出現したのだ。  腰まで届く長い黒髪の、小柄な少女。手には、先端に大きな水晶のような結晶の付いた、奇妙な長い杖を持って。  彩樹と目が合い、一瞬、気まずい沈黙がその場を支配した。 「…一緒に…あの、一緒に、来て欲しいって…あの…その…」  目の前で繰り広げられている光景に気付いた少女が、しどろもどろに言う。  彩樹も一瞬驚いたが、腕の中にいる奈津美はそれ以上に、なにが起こったのかわからないといった様子で目を丸く見開いている。 「…あの…えっと……お、お取り込み中でしたのね。し、失礼しました〜!」  突然現れた少女は引きつった笑みを浮かべ、後ずさって部屋から出ると扉を閉めた。  廊下に出た一姫が、真っ赤な顔で息をふぅっと吐き出したとき、 「きゃああああぁぁぁぁっっっっ!」  部屋の中から、甲高い悲鳴が聞こえた。窓ガラスがビリビリと震える。 「なに? なに? 今の? いやあぁぁっ!」  部屋の中から、なにやらドタバタという音が聞こえる。やがて勢い良く扉が開くと、乱れた服を身につけた少女が飛び出してきた。  少女は一姫の方はちらとも見ずに、バタバタと階段を駆け下りる。数秒後、玄関が開く音がした。  困ったようにその様子を見送っていた一姫は、背後に殺気を感じて、バネが弾けるような動きで振り返った。  彩樹が、そこに立っていた。  口元には笑みが浮かんでいるが、目が笑っていない。 「い〜つ〜き〜」  地の底から響くような声だった。 「あ、あははははは…、さ、彩樹さんてば、お取り込み中でしたのね。それならそうと、言ってくださらなくちゃ…」 「ふ…ふふふ…」 「あ…あはは…」  一姫は笑ってごまかそうとする。  この状況下で、他にどんな選択肢があるというのだろう。  彩樹も笑っている。  しかしそれはひどく危険な――早苗に言わせると「手負いの子連れヒグマよりも危険な」――極上の笑みだった。 「じゃ、あの、わたくしはこれで…」 「逃がすかぁっ!」  身の危険を感じた一姫は、杖をかざしてその場を立ち去ろうとした。が一瞬遅く、彩樹に髪をつかまれる。 「あ、あ、あの…」 「…よりによって、いっちばんいいところで邪魔しやがって…。責任とってもらおうか?」 「責任って、責任って…あの…」 「決まってるだろ」  彩樹が犬歯を見せて笑う。いろいろな意味で『本気』の時に見せる笑いだった。こういう場合の『責任』の取り方はひとつしかあり得ない。 「代わりに、お前がやらせろ〜!」  軽い一姫の身体が、ベッドまで放り投げられた。身体を起こすよりも先に、彩樹が覆いかぶさってくる。 「いやぁぁぁっっっっっ!」  絹を裂くような悲鳴が、家中に響き渡った。 * * * 「ずいぶんと遅かったな。わたしは大至急と言ったはずだが?」  感情の感じられない、抑揚のない声だった。  責めているわけではない。これが、いつもの口調なのだ。  問いかけているのは、美しい金髪の少女。  彩樹たちと同年代なのだろうが、まとっている雰囲気はずっと大人っぽい。  長いストレートの金髪と、紫がかった瞳の持ち主。  あまり感情を表に出さず無表情なため、どこか人形めいた印象も受ける。しかし彼女が絶世の美少女であることは、万人が認めるところだった。  少女の名は、アリアーナ・シリオヌマン。  このマウンマン王国の王女であり、昨年病死した先王の後を継いで、喪が明けたら女王に即位することが決まっていた。  一年近く前、彼女は王位継承権を巡って実の兄に命を狙われていた。そのときアリアーナの腹心たちは、護衛を務める人間を、よりによって異世界からスカウトしてきたのだ。魔法の助けを借りて。  この世界の人間でなければ、敵である王子の息がかかっている心配はない。しかも伝説によれば、異世界から連れてきた人間は、この世界では優れた能力を発揮するというのがその理由だ。  それが、彩樹、早苗、一姫の三人だ。三人は危ない目に遭いながらもアリアーナを守り抜き、以来アリアーナと三人は友人だった。ただし早苗や一姫はともかく、彩樹とは決して「仲がいい」と言えるような関係ではない。理由はよくわからないから、単にウマが合わないということなのだろうか。とにかく、二人の会話はいつも刺々しい感じがした。 「…で、なにをやっていたんだ?」  どことなく乾いた声で、アリアーナが訊く。  しかし彩樹は素知らぬ顔でそっぽを向いているし、一姫は顔を真っ赤にしてうつむいていた。  隣に座っている彩樹は、呆れ顔で肩をすくめる。二人の顔を見れば、おおよそなにがあったか見当がつくというものだ。 「…まあいい、本題に入ろう。今日来てもらったのは他でもない。サイキに、ちょっとした頼みがあるのだ」 「オレに?」  彩樹が怪訝そうな表情を見せる。  顔を会わせると喧嘩ばかりしているような間柄である。あらたまって頼み事というのも腑に落ちない。しかしアリアーナは構わずに続けた。 「半月ほど後に、この城で武闘大会が開かれる。サイキはそれに出場して、優勝するんだ」 「は…?」  なにそれ? そんな表情で、三人は顔を見合わせた。 * * *  話は、数日前にさかのぼる――  山のような書類を相手にする仕事が一段落して、少し休憩しようとしていたアリアーナの元へ、一人の美しい女性がやってきた。  フィフィール・レイド。マウンマン王国の宮廷魔術師であり、アリアーナの教育係であり、政務の補佐役でもある。  フィフィールは、分厚い紙の束を持っていた。なにか急な仕事か、とわずかに眉をひそめたアリアーナに向かって、意味深な笑みを浮かべる。  目の前にどさりと置かれた書類の、いちばん上の一枚を手に取る。とたんにアリアーナの表情が曇った。  フィフィールの後に続いて、数人の男たちが荷物を抱えて入ってくる。その時にはもう、アリアーナにもそれがなにかわかっていた。  肖像画、だ。何十枚もの。 「…なんだ、これは?」  訊くまでもなくわかってはいたが、嫌みのつもりで口を開いた。 「どれが、いいですか?」  フィフィールがにっこりと笑う。彼女は今年で二十五歳になるが、そんな表情をするともっと幼く見えた。しかし、その笑顔に騙されると大変なことになる。 「…なんの話だ?」 「姫様の、婚約者候補たちです。お好きな殿方をお選びください」  アリアーナはこれ見よがしに大きなため息をついた。最近、ことあるごとにこの話題を持ち出される。  理由は分かり切っている。間もなく、昨年病死した先王――アリアーナの父――の喪が明けて、アリアーナが正式に女王に即位するからだ。  フィフィールや大臣たちに言わせると「跡継ぎを残すことも王としての務め」なのだそうだが、いきなりそんなことを言われても、まだ十六歳の誕生日も迎えていないアリアーナには実感が湧かない。第一、肖像画と紙に書かれた経歴だけで、結婚相手など決められるものではない。 「これも、国王としての義務です」 「義務で結婚などできるか。わたしの意志はまるでお構いなしか?」 「そんなことはありません。ですから、国内はもとより近隣諸国まで巡って、これだけの候補を揃えました。どうぞお好みの殿方をお選びください」  そう言うと数枚の肖像画を手に取って見せる。見たところ十五歳から三十歳くらい、みな頭の切れそうな美形で、どちらかと言えば線の細いタイプばかりだった。諸国を巡って候補を捜したにしては、偏りがあるように感じる。  アリアーナはその点を指摘してみた。 「姫様の好みがわかりませんので、私の趣味で選んでみました」  フィフィールは悪びれずに言う。アリアーナはもう一度ため息をついた。 「他にお好みのタイプがあれば、該当する者を探せますが?」  そこでアリアーナは、とりあえずこの候補者たちの中にはいないタイプを口にしてみた。 * * * 「それで、姫様はなんと仰ったんですの?」  興味津々といった様子で一姫が訊く。  アリアーナは少し間をおいてから、ようやく口を開いた。 「顔や頭にはさほど興味はない。どちらかといえばもっと強い人物…万が一のときに、命懸けでわたしを護ってくれるような…と」 「なるほど、それで武闘大会…」  納得顔で早苗がうなずく。 「優勝者が、姫様と婚約するというわけですのね?」 「フィフィールはそういうつもりらしい」 「…で?」  それまで黙っていた彩樹がようやく口を開いた。 「で…とは?」  アリアーナが訊き返す。 「何故、オレがそれに出なきゃならない?」 「嫌か?」 「嫌とかなんとかじゃなくて、何故だ? 女だぞ、オレは」 「…そういえば、そうだったか?」  アリアーナが真剣な表情で言うので、彩樹は眉間にしわを寄せて立ち上がりかけた。早苗が慌てて止める。 「冗談だ。女だからこそ、出てもらわなきゃならないんだ」 「女だからこそ…?」 「あれは、口からでまかせだからな。将来は仕方ないとしても、今のところ、わたしは結婚などする気はない。しかしそれではフィフィールたちが収まるまい」 「ああ、それで彩ちゃん…」  早苗と一姫がそろってうなずく。 「大会に優勝できるだけの力があって、わたしが絶対に結婚せずに済む相手は他にいない」 「でも、女の彩樹さんが出場したら、フィフィールさんたちがなにか言いませんか?」 「構わん。女に負けるような奴に、わたしを護れるか――そう言ってやれば済む話だ」 「なるほど。さすが姫様、策士だね〜」  早苗も一姫も、アリアーナの策に素直に感心している。しかし彩樹だけは納得していない。 「だからって、何故オレがそんなことに協力しなきゃならないんだ? お前なんかのために」 「ちょっと彩ちゃん…」  諭すような早苗の言葉を、もうひとつの声がさえぎった。 「あら、サイキ様は出場なさらないんですか?」  それは、お茶を運んできた侍女だった。アリアーナより一、二歳年上と思われる、赤毛で可愛らしい少女だ。 「残念ですわ。私たち、優勝はサイキ様に違いないと噂していましたのに。みんなで応援しようと話していたんですよ」  お茶を持ってきたもう一人の侍女の方を見て「ねえ」とうなずき合う。侍女の採用基準に『顔』の項目があるのかどうかは知らないが、こちらもなかなかの美少女だ。 「試合場に立つサイキ様のお姿を拝見するのが楽しみでしたのに」 「そうよね。あの凛々しいお姿…。一目だけでも見られたらと思っておりましたの」  ハート型の瞳をした侍女たちはうっとりとつぶやく。 「そうか?」  どことなく不健全な笑みを浮かべて、彩樹が立ち上がった。二人の侍女たちの肩を抱くような態勢で言う。 「そこまで言うんなら、出るよ。お前たちのために」 「まあ、本当に?」  彩樹は頷く。  侍女たちが歓声を上げた。  その言葉に、早苗はほっと胸をなで下ろしたが、ふと、目の前に座るアリアーナの表情に気付いた。無表情なアリアーナには珍しく、なにやら笑いをこらえているようにも見える。  それで、すべてを理解した。 「…姫様って最近、彩ちゃんの操縦がうまくなったよね〜」  隣の一姫だけに聞こえるようにささやく。 「彩樹さんが単純すぎるんですわ」  彩樹に抱かれている侍女たちに嫉妬しているのか、むっとした様子で一姫は応えた。 * * * 「サナエ」  城の中庭を歩いていた早苗は、不意に呼び止められた。  よく知っている声だった。  振り返ると、精悍な顔立ちの青年が立っている。 「シルラート様…」  早苗の頬が、わずかに赤みを増した。  アリアーナのすぐ上の兄、第二王子のシルラートだ。女好きで巨乳フェチと噂される彼は、早苗が大のお気に入りだ。  当の早苗もまんざらではない。目つきが鋭く黒髪のシルラートは、彩樹と少し似た雰囲気を持つ美形だった。  彩樹に惹かれているからシルラートのことも気になるのか、それともシルラートが好きだから彩樹にも魅力を感じてしまうのか、その点については自分でもよくわからなかったが。 「なにか、ご用ですか?」  やや警戒した面持ちで訊いた。シルラートのことは嫌いではないが、あまり気を許すことはできない相手だった。隙を見せたら何をされるかわからない。彼が彩樹と似ているのは、外見だけではないのだ。まあ、彩樹ほどには強引でも乱暴でもないのだが。 「そう警戒しなくてもいいだろう」  シルラートは笑って言う。 「ただ、ちょっと訊きたいことがあったんだ」 「…なんですか?」 「今度の武闘大会に、君の友人のサイキも出場するのだろう?」  早苗は少し驚いた。彩樹が出場を承諾したのはつい先刻だというのに、ずいぶんと早耳ではないか。 「正直なところ、彼女はどのくらい強いんだ? 優勝できそうなのか?」 「…めちゃくちゃ強いですよ。きっと、優勝すると思いますけど」  早苗は少し考えて答えた。 「今度の大会には、国内はもとより近隣の国々からも腕自慢が集まる。それでもか?」 「なんて言うのかな…。ウチには、彩ちゃんが負けるところなんて想像できないんですよ」 「そうか…」  シルラートはやや困惑気味にうなずいた。 「となると、こっちもそれなりの人材を用意しないと駄目か…」 「どういう意味ですか?」  今度は早苗が訊く。 「なに、大会には、私の部下も出場させようと思ってね」 「…何故?」  早苗の表情が真剣になる。シルラートは、別な意味でも油断できない相手であることを思い出した。 「女王の夫が自分の腹心であれば、いろいろと都合がいいとは思わないかい?」  シルラートが笑う。しかし、早苗にとっては笑い事ではない。顔がわずかにこわばる。  以前、アリアーナがシルラートに王位を譲ると申し出たとき、彼はそれを断った。しかしそれは、王位に固執する第一王子のサルカンドに敵対することを避けるためであり、彼自身がまったく権力欲がないというわけではない。  自分自身は表舞台には立たず、息のかかった人間をアリアーナの夫にしようとは。頭がいいといえば頭がいいし、小狡いといえば小狡い。 「…けっこう、悪賢いんですね」  早苗は、率直な感想を口にした。 「まあ、ね。でも、少しくらい悪い男の方が魅力的とは思わないか、サナエは?」 「う…」  否定はできなかった。根っからの善人が好みなら、そもそも彩樹とだって仲良くできるはずもない。 「それに、アリアーナが夫に操られる程度の女なら、国を任せるわけにもいかないだろう? だったら、策を講じておいても損はない。それがこの国のためでもある」  どうやら、口ではシルラートにかなわないようだ。早苗としては、彩樹が優勝してくれることを祈るしかなかった。 五.〜彩樹・1〜  今日は、いい天気だった。  雲ひとつない快晴で、暑すぎず寒すぎず、初夏の気持ちのいい陽気だ。  その日、王都の西のはずれにある闘技場は、大勢の人間で賑わっていた。試合を見に来た観客が大半で、残りは参加者とその従者たち。王都の貴族や市民ばかりではなく、遠方からやってきた人間も少なくない。  表向きは、単なる武闘大会である。しかしその実態が、アリアーナ姫の婿選びであるということは周知の事実であった。  当然、早苗も一姫も彩樹の応援に来ていた。場内を見ると、参加者は彩樹を除いてみな屈強な男たちである。一姫は不安になった。 「彩樹さん、大丈夫でしょうか…?」 「まあ、彩ちゃんなら心配はいらないと思うけど…ところで、この大会って武器も使っていいの?」  早苗は、傍らに立つフィフィールに訊いた。選手の過半数が、剣や棍といった武器を手にしている。 「ええ。禁じられているのは射撃武器と、鎖などを使って離れた相手を攻撃する武器だけです」  フィフィールが答える。彼女はどことなく不機嫌そうだった。せっかくアリアーナの婚約者を選ぶためにこの大会を催したのに、アリアーナが強引に彩樹を出場させたためだろう。 「木刀だけじゃなく、刃の付いた剣もいいの? それはさすがに危ないんじゃ…」 「出場者と試合場には、防護魔法がかけられています。怪我をすることはあっても、それが致命傷となることはまずありません」  怪我だけでも充分問題あるのでは…。一姫はそう思ったが、この国の人たちはみな気にしている様子もない。この世界では、これが当たり前なのかもしれない。 「でも、素手の彩樹さんは不利ですわね」 「誰が、素手だって?」  不安そうな一姫の背後から、自信に満ちた声がした。振り返ると、彩樹が立っていた。両手に、短い棒状の武器を持って。 「トンファー? 使えるの?」 「北原極闘流には、武器を使った戦闘術もあるのさ。ま、見てな」  その時、大会の進行係が彩樹の名前を呼んだ。いよいよ一回戦だ。  彩樹が試合場に立つと、観客席のあちこちから歓声が上がる。早苗がそちらを見ると、その多くは王宮で働いている女の子たちだった。彩樹のファンは、思っていた以上に多いらしい。もっとも、彼女たちは彩樹の性別を誤解しているようではあるが。  考えてみれば、王宮内でも三人娘の正体を知っている者は一握りだ。何も知らなければ、彩樹を女の子と思うのは難しいかもしれない。なにしろ、その強さだけは尾鰭つきで国中に知れ渡っているのだから。  続いて早苗は、対戦相手を観察した。  なかなか良い体格をした二十代前半の青年で、剣を持っている。なんでも、隣国では名の知られた騎士ということだった。  その男は、余裕のある笑みを浮かべていた。無理もない。外見だけなら、彩樹は華奢な美少年に見えなくもない。この国の民なら、何度もアリアーナの危機を救った彩樹の強さをよく知っているが、外国人ではそうもいくまい。見ただけで彩樹の真の強さを見抜くことは難しいだろう。  試合開始の合図と同時に、男は突っ込んできた。彩樹の力を見くびって、一気に勝負をつけようという魂胆らしい。  彩樹はその剣をぎりぎりで見切ってかわすと、滑るような脚捌きで間合いに入り込み、トンファーの先端で相手の手の甲を打った。男の手から剣が飛ぶ。  それで勝負はついたも同然のはずだが、彩樹はまったく容赦なく、男の胴にトンファーを打ち込んだ。続けて、もう一方のトンファーも側頭部に叩きつける。  男は血を噴き出しながら崩れ落ちたが、彩樹の動きはそれで終わらなかった。地面に倒れた相手に、真上から体重を乗せてトンファーを叩きつける。  男の身体は小さく弾んで、それきり動かなくなった。救護班が慌てて駆け寄る。 「うっわ〜、えげつな〜」  早苗は思わず顔をしかめた。最初の一撃で勝負はついていたのに、倒れた相手にとどめを刺すあたり、彩樹らしいといえばらしい。が、見ていて気持ちのいいものではない。まあ、彩樹が男相手に手加減しないのはいつものことだが。しかも今回は、これだけやっても相手が死なないのだから、彩樹としても遠慮なく欲求不満の解消ができるというものだろう。  試合を終えた彩樹は、妙に上機嫌で戻ってきた。相手のダメージが大きければ大きいほど、試合後は満足そうにしていることを、早苗はこの一年で学んだ。彩樹は一姫が差し出したスポーツドリンクを手に、他の試合を見ている。 「手強そうな相手はいるか?」  そう訊いてきた相手を、彩樹はじろりと睨む。いつの間にかアリアーナが側に立っていた。 「腕っぷしだけで、女王の夫の座を手に入れようって連中だぜ。弱い奴なんかいね〜さ」  そう言うと、また試合場に視線を戻す。 「それでも、サイキの方が強いだろう?」 「まあ、たいがいの奴らよりは…な」  試合に注目したまま、アリアーナの方を見ずに応える。これまで見てきた中に、何人か、気になる相手がいた。 「あの、棍を使う奴…あれは強いな」 「…彩樹さんとは、準決勝で当たりますわ」  独り言のような彩樹の言葉に、大会のプログラムを手にした一姫が応えた。 「あと、仮面で顔を隠しているあの剣士…あれも油断できなそうな相手だ」 「彩ちゃんとは、決勝までいかなきゃ当たらないよ」  今度は早苗が応える。 「で、二回戦の相手は?」 「…あの人」  彩樹は視線をずらし、早苗が指差す先を見る。それは身長二メートル近く、体重百五十キロはありそうな巨漢だった。人間よりもむしろ、ゴリラとの方が遺伝子の共通点が多いのではないかと思われる男を見て、一姫が小さな悲鳴を上げた。 * * * 「ああ。あれはたしか、ティ・クランの大会で三連覇している男だな」 「ティ…クラン?」  その男に見覚えがあるらしいアリアーナに詳しく訊くと、どうやらそれは、モンゴル相撲に似た組技主体の格闘技らしい。この地方の伝統的な競技なのだそうだ。 「あんなに大きな…。彩樹さん、勝てますの?」 「…これ、持っててくれ」  彩樹は、青い顔をしている一姫の手に、自分のトンファーを渡した。 「え…?」 「これ、使わないの?」  一姫と早苗が、二人そろって首を傾げる。アリアーナの顔にもかすかに訝しげな表情が浮かんだ。  なにしろ、彩樹とその男では身長で三十センチ、体重は三倍も違う。向こうは素手なのだから、武器を持った方が有利だろうに。三人とも、彩樹の真意がわからない。 「例えば、これで思い切り殴ったとして、あの人間モドキが痛みを感じると思うか?」 「…ちょっとくらいは痛いんじゃない?」  一応そうは言ったが、実のところ早苗もあまり自信はなかった。腕が、一姫の胴回りよりもずっと太いような体格である。骨格も見るからに丈夫そうで、木製のトンファーで殴ったところで、骨にひびすら入れられないのではないかと思われた。  彩樹は、落ちついた足どりで試合場の中へと進んでいった。対戦相手の前に立って、その顔を見上げる。男が微かに笑った。子供が見たら引きつけを起こしそうな笑顔だ。 「お前みたいなチビが二回戦の相手か。棄権した方がいいんじゃないか? 防護魔法があっても命の保証はできんぞ」  その言葉が聞こえているのかいないのか、彩樹はまじまじと男の顔を見つめると、肩越しに後ろを振り返った。  後ろを見たまま、男に話しかける。 「お前、この大会の目的は知ってるのか?」 「当たり前だ。だからこそ、出場することにしたのだ」 「だからこそ、ねぇ…」  どこか呆れたような声で、彩樹はつぶやいた。ようやく前を向くと、挑発的な笑みを浮かべる。 「お前の家には、鏡はないのか?」  男は眉をひそめる。彩樹の言葉の意味がすぐには理解できない様子だ。 「その面で人間の女の子と結婚しようなんて、身の程知らずも甚だしいな。あいつはたしかに性格悪いけど、外見だけなら可憐な美少女だぜ? 釣り合いってもんを考えろよ」  そこまで言われて、男ははっきりと怒りの形相を浮かべた。眉間に深い皺が寄り、ただでさえ怖い顔が、さらに当社比五割り増しくらい怖くなる。 「お前こそ棄権しろって。代わりにオレが、可愛いゴリラの美少女を紹介してやるから」 「人をゴリラ扱いするとは、失礼千万!」 「お前を人間扱いしたら、それこそ残りの全人類に失礼だって」  ついに彩樹は声を上げて笑い出した。男の顔が怒りのあまり真っ赤になる。まさに赤鬼の如き形相だ。  いきなり、その巨体に似合わぬ素速い動きでつかみかかってくる。  彩樹は、避けずにそのまま立っていた。一姫が悲鳴を上げる。これだけの体格差があっては、掴まったら一巻の終わり…早苗も一姫も、そう思っていた。彩樹に勝機があるとしたら、掴まらないように動き続け、ヒットアンドアウェイで少しずつダメージを与えていくしかないだろう、と。  しかし彩樹は男の突進をかわそうともしない。野球のグローブほどの大きさがありそうなごつい手が、彩樹の肩に掛かった…と見えた瞬間、男の動きが止まった。  その場に、崩れるように膝をつく。 「バ〜カが!」  彩樹が笑う。ちょうど、上段回し蹴りの高さに相手の顔があった。正確にこめかみを狙って、全体重を乗せた蹴りを叩き込んだ。  地響きすら立てて、男が倒れる。  それきり、ぴくりとも動かなかった。ただの一撃で。  一瞬の沈黙の後、大歓声が会場全体を包み込んだ。 「彩樹さん、いったい何をしたんですの?」  まだ会場中がざわめいている中を戻ってきた彩樹に、興奮した一姫が訊く。 「内緒だ」 「だって…あんな大きな相手を一撃なんて…」 「極闘流は、まだまだ奥が深いのさ」  それだけを言って、彩樹は笑った。一姫はまだ納得した様子ではなかったが、それ以上追求はしない。 「彩ちゃんてば、怖いコトするね〜」  その場を立ち去ろうとした彩樹の背中に向かって、早苗が言った。彩樹はわずかに目を見開く。 「さすがに、お前は見えてたのか」 「当然」  サバイバルゲームマニアで『女デューク東郷』の異名を持つ早苗である。鈍い一姫と違って、動体視力は優れている。  だから、見えていた。  あの大男の手が触れる瞬間、彩樹は相手の喉仏を親指で突いたのだ。  人体には、どんな頑丈な肉体の持ち主であっても鍛えようのない急所がいくつかある。そのうちのひとつだった。 「防護魔法がなかったら、死んじゃうよ?」 「そのための極闘流さ。人ひとり殺せなくて、なんのための格闘技だ?」 「…」  今日はもう彩樹の試合はない。早苗は、会場を後にする彩樹に続いて、小さな声で訊いた。後ろにいる一姫には聞こえないように気を配って。 「…彩ちゃん、その…人を、殺したこと…あるの?」  戸惑いがちの問いに、彩樹は無言で笑ってみせた。  それは、人食い虎を連想させる危険な雰囲気を漂わせた、獣の笑み。  彩樹は言葉ではなにも言わなかったが、少なくとも早苗には、それは否定の表情…には見えなかった。 六.〜アリアーナ〜  翌日も、いい天気だった。気温は前日よりもやや高めかもしれない。  今回の武闘大会は、三日に分けて行われる。  一日目は、一回戦と二回戦。  二日目は、三回戦と準々決勝、そして準決勝。  最終日の三日目は、決勝一試合と表彰式、そして勝者を讃えての宴という予定だ。  大会の二日目、彩樹は三回戦も準々決勝も順当に勝ち進んだ。  圧倒的な強さだった。これには彩樹の強さはよく知っているつもりの早苗たちも驚く。簡単に負けるとは思っていないが、かといって男性…それも大人相手にこれほど優位に試合を進めるとは予想外だった。  そして、準決勝の相手の名ははタンジュート・サキル。彩樹もその力を認めた棒術使いだ。彼もここまで、危なげなく勝ち進んでいた。 * * *  試合が始まると同時に、試合場はこれまでにない緊張に包まれた。  彩樹とタンジュート、二人が武器を構えて対峙している。タンジュートの棍が届かない、ぎりぎりの間合いで。  二人とも動かない。  少なくとも、傍目にはそう見えた。  しかし実際にはわずかずつ、ミリ単位で移動している。それによって少しでも自分に有利な間合いを取ろうとし、かつ相手の隙を誘う。  二人の間でどれほどの駆け引きが行われているのか、観客たちにはわからない。ただ、咳をするのもはばかられるような緊張感が、その場を支配していた。  一姫も早苗も息を呑んで、手をぎゅっと握りしめて、その光景を見つめていた。これまでの試合、すべて開始から一分以内に一方的な攻勢で勝利を収めている彩樹が、本気になっている。それだけでも、タンジュートの力がわかるというものだ。  突然、彩樹が弾けるように間合いを詰めた。  鋭い、風を切る音が響く。  彩樹の突進が止まった。棍が、頬を掠めている。  下がろうとする彩樹を、今度はタンジュートが追った。棍を、機関銃のように立て続けに突き出す。  彩樹は無数の突きをすべてぎりぎりで見切ってかわした…はずだったが、腹部に突然の衝撃を感じた。  バランスを崩しながらも、後ろに大きく飛んで間合いを開ける。タンジュートはさらに追い打ちをかける。棍の先端が触れた部分の服が裂けたが、それでもなんとか彩樹はタンジュートの間合いから逃れた。  彩樹は少しだけ戸惑っていた。  なんだったのだろう。突きはすべてぎりぎりでかわしたつもりなのに。  しかし、すぐにその正体に気付いた。  残像が残るほどの無数の突き、それはみなフェイントでだった。その中にひとつだけ、踏み込みの深い一撃が混じっていた。彩樹は、それを見落としたのだ。 「…やるじゃん」  腹に受けた突きの痛みに耐えながらも、彩樹は唇の端を上げて笑った。 「ああん! 彩樹さん、頑張って!」  今にも泣き出しそうな顔をした一姫が、隣の早苗に訊く。 「彩樹さん、勝てますよね?」  腕組みをした早苗は、難しい表情をしていた。 「…どうだろう。危ないかも」  ゆっくりと、低い声でつぶやく。 「そんな、まさか!」 「…いずれにしても、このままじゃ彩ちゃんが不利だよ」 「トンファーよりも棍の方が長いからですの?」 「そ〜ゆ〜問題じゃない」  素人考えでは、リーチの長い武器の方が有利に思える。しかし、現実は必ずしもそうではない。  武器にはそれぞれ、適切な間合いというものがある。それより遠くても近くても、本来の力は発揮できない。  武器に精通するというのは、間合いを広げることではない。うまく自分に有利な間合いに持ち込むことこそが、武器の種類を問わず、闘いの神髄だ。  その点、タンジュートの闘い方は満点に近い。小刻みな突きを主体とした小さな動きで彩樹を牽制し、棍の間合いの内側への侵入を許さない。決して大振りせず、彩樹につけ込む隙を与えない。  その間合いを保っている限り、棍の先端の速度は人間に見切れる限界を超える。超人的な動体視力と反射神経を持つ彩樹だって例外ではない。 「でも…彩樹さんならきっとなんとかしてくれますわ。彩樹さんだって素手じゃないんだし」  自分自身に言い聞かせるように、一姫はつぶやいた。今回、彩樹はまたトンファーを持って試合に臨んでいる。  しかし早苗の顔色は相変わらず冴えない。 「だから、彩ちゃんに不利なんだよ」 「何故ですの?」 「北原極闘流には、こうした武器を使う技の体系もあるし、彩ちゃんのトンファーの扱いは悪くないと思うけど…。でも、専門じゃないもの。彩ちゃんは本来、徒手格闘が専門だもの」 「でも…」 「技量が互角の二人がいたとして、片方は自分のいちばん得意な技で闘っている。もう一人は、専門外の技を使っているとする。どっちが勝つと思う?」 「それは…」  考えるまでもない。格闘技に関してはずぶの素人である一姫にだって、それくらいはわかる。 「実際、どっちの実力が上かはわからないけどね。少なくとも、武器を使った闘いなら向こうの方が強いよ」  早苗の言う通りだった。  彩樹は自分が有効打を打てる間合いに入れずにいる。しかも、向こうの攻撃はなんとか見切ってはいるものの、全くの無傷というわけにはいかない。  時間が経つに従って傷と痣が増えていく身体を、彩樹は忌々しげに見おろした。  相手はひどく冷静だ。落ちついて、感情を表に出さず、隙を見せず。正確に攻撃してくる。  矢継ぎ早に繰り出される突きに、下がるのがわずかに遅れた。衝撃が骨まで響く。それでも次の攻撃をサイドステップでかわしながら、棍をトンファーで打ち払おうとした。  しかし、一瞬早く棍は引き戻され、空振りした彩樹の身体はバランスを崩して前のめりになる。その隙を逃さず、鋭い突きが右肩に打ち込まれた。  それは、これまでのような牽制の攻撃とは違う、狙い澄ました一撃。  彩樹は、自分の鎖骨が砕かれる音を聞いた。右腕がだらりと垂れ下がり、手から落ちたトンファーが乾いた音を立てる。痛みを感じたのはその後だ。  タンジュートが、初めて棍を大きく振りかぶった。肩を負傷してガードできなくなった、右の側頭部を狙う。彩樹は左手のトンファーで、振り下ろされる棍を受け止めようとした。  ミシィッ!  それは、枯れた枝を数本まとめて折ったような音だった。がら空きになった左の脇腹に叩き込まれた棍。どこでどう軌道を変えたのか、彩樹にも見えなかった。  衝撃が全身を貫く。呼吸が止まる。  間違いなく、肋骨が数本折れていた。  痛みは感じなかった。ただ、全身が痺れたように感じ、意識が遠のいていくだけだ。  彩樹の身体がぐらりと傾く。そのまま、前に倒れそうになる。  遠くで、甲高い悲鳴が聞こえたような気がした。あの声は一姫だろうか。 (ば〜か…オレが…負けるわけないだろうが…)  薄れゆく意識の中で、彩樹はつぶやいた。  視界の隅に、タンジュートの顔が見えた。  珍しく、感情が顔に現れている。勝利を喜ぶ、静かな笑いが。 (…バカが…笑うのは早いって…オレは…まだ倒れちゃいない)  そうだ。このまま倒れるわけにはいかない。  ここで倒れてしまったら負けだ。もう立ち上がる余力はないだろう。  そして、負けるということは…。  無意識のうちに、足が地面を蹴った。前に倒れそうになる勢いを利用して、そのまま空中で一回転する。  タンジュートも、まさかこの状態の彩樹が反撃できるとは思っていなかったのだろう。一瞬、反応が遅れた。  無理もない。彼にとってあれは完璧な一撃だったのだ。  ガードの間に合わないタンジュートの顔面に、浴びせ蹴りを叩き込む。  …彩樹に意識があったのは、そこまでだった。 * * *  …  ……  目を開ける。  最初に目に入ったのは、白い天井だった。  やがて、自分が柔らかなベッドに寝かされているのだと理解した。  誰かが、顔をのぞき込んでいる。美しい金髪と、深い紫の瞳が特徴的だ。 「あ…?」  ようやく、目の焦点が合った。それが誰かを認識する。 「…なんだ、お前か」  彩樹は身体を起こそうとして、全身を貫く痛みに呻き声を上げた。 「まだ動かない方がいい。魔法で治療したとはいえ、数日は安静だ」  アリアーナは、ベッドの傍らに置いた椅子に腰を下ろしている。彩樹は、一番気がかりな事を訊いた。本音を言えば、聞きたくはなかった。聞くのが、怖かった。 「…試合は、どうなった…?」 「憶えていないのか?」  驚いたような声に、彩樹は無言でうなずいた。  数秒間、無言で彩樹の顔を見つめていたアリアーナは、やがて口元にかすかな笑みを浮かべる。 「サイキの勝ちだ。もしかしてあの時、意識がないまま立っていたのか? 呆れた執念だな」 「…憶えていないんだから、そうなんだろう」  彩樹はもう一度、身体を起こそうとする。傷に響かないようにゆっくりと。 「痛ぅ…」  それでもやっぱり痛みが身体を貫く。小さく顔をしかめた彩樹は、起きることを諦めてまた横になった。 「…やっぱり、こんなこと引き受けるんじゃなかった」  恨みがましく言う。 「…だったら、明日の決勝は棄権してもいいぞ。フィフィールの魔法治療でも、一日で完治する怪我ではないしな」  彩樹は驚いてアリアーナの顔を見た。相変わらず、あまり感情を表に出さない人形めいた表情。いつも通りだ。  アリアーナは淡々と、言葉を続ける。 「ただしその場合、わたしは好きでもない男と結婚させられ、その男の子供を産むことになる。それでも良ければ…だが?」 「……どういう意味だよ?」  むっとした口調で、彩樹は訊く。 「別に、言った通りの意味だ」  それは、なんということのない台詞のようで。  しかし、深い意味が込められている言葉だった。  彩樹は、アリアーナを睨みつけた。アリアーナも真っ直ぐに彩樹を見つめ返す。 「どうする?」  アリアーナが訊く。その答えがひとつしかあり得ないことを知っていて訊くのだから、性格が悪い。 「…最後までやるさ。別にお前のためじゃない。たとえ不戦敗だって、負けるのは嫌いなんだ」 「そう言うと思っていた。サイキなら」 「なにが可笑しい?」  相変わらず無表情なアリアーナだが、なんとなく、笑いをかみ殺しているように見えた。 「そうか、笑っているように見えるか?」  そう言うと、今度こそはっきりと笑みを浮かべた。 「試合の前から、わかっていたんだろう?」 「なにが?」 「あの男が、サイキよりも強いということが」  それまでアリアーナを睨んでいた彩樹が、さりげなく視線を逸らした。 「…オレの方が強いさ。だから、勝った」 「まあ、そういうことにしておいてもいいが」  静かな笑みを浮かべたまま、アリアーナは寝室を後にした。 七.〜彩樹・2〜  そして、決勝戦の日を迎えた。  決勝の相手は彩樹の予想通り、あの仮面の騎士だった。  それほど恵まれた体躯ではない。背はやや高めだが、どちらかといえばスラリとした体型だ。顔は隠しているが、仮面の下からのぞく口元を見る限りでは、かなり整った顔立ちのようだ。  しかし、その剣技の素晴らしさは万人が認めた。まったく無駄な動きがなく、疾く、鋭く。並みいる他の優勝候補たちを退け、決勝まで上りつめていた。  その男の名前も、出身もわからない。大会の進行役も困って、単に『無名の騎士』と呼んでいたが、考えてみるとこれは奇妙なことだ。有力な貴族の推薦がなければ、この大会には出場できない。誰かが、隠しているのだろう。 「どうして、素性を隠しているのでしょう?」  観客席の最前列に陣取った一姫が、隣にいる早苗を見る。 「さあ…。いろいろと事情があるんだろうけど」 「よく見れば、けっこうハンサムな方ではありませんか?」 「…かもね。あの仮面を見てると、タキシード着て薔薇でも投げるのが似合いそうな気がしない?」 「そういえばそうですわね」  二人は声を揃えてくすくすと笑う。が、一姫はすぐに真剣な表情に戻った。  彩樹が、試合場に入ってきたのだ。一姫は小さく声を上げた。相手は剣士だというのに、今日の彩樹は素手だったのだ。早苗も目を見開く。 「彩樹さん、大丈夫でしょうか? 怪我の具合は…」 「本人は平気だって言ってたけどね。フィフィールさんの話では、完治はしてないって。いくらなんでも一晩じゃ無理だよね」 「そんな…」  一姫は泣きそうな顔で、彩樹の背中を見つめた。 * * *  その時、アリアーナもフィフィールとともに試合場を見つめていた。 「サイキの決勝の相手、あれは誰なんだ?」  試合場から目を離さずに訊く。アリアーナにとっても、その仮面の騎士は謎の人物だった。 「私も存じません」  フィフィールが素っ気なく応える。それに対するアリアーナの声もいくぶん不機嫌になる。 「どこの馬の骨とも分からん相手と、結婚させようというのか?」 「馬の骨だって、女の子が優勝するよりはマシです」  フィフィールは、彩樹の出場を快く思っていない。彼女は結婚推進派の急先鋒だ。アリアーナのわがままを聞いて武闘大会まで開催したのに、女の子が優勝したのでは元も子もない。  本音を言えばアリアーナは、仮面の騎士はフィフィールの差し金ではないかと思っていた。大会の実行委員であるフィフィールが、出場者の素性を知らぬはずがない。彼女の関係者で、剣の使い手をあれこれと思い出す。しかしその中に、該当しそうな人物は見当たらなかった。 * * *  彩樹は、無名の騎士と正面から対峙した。相手は、余裕を感じさせる笑みを浮かべている。 「いいのか? 昨日の怪我は治ってはいまい」 「大きなお世話だ。てめ〜にはちょうどいいハンデだよ」  実際のところ、まだ右肩も肋骨もかなりの痛みがあったが、そんなことは微塵も感じさせないそぶりで彩樹は応えた。 「では、遠慮なくいこう」  言うと同時に無名の騎士は間合いを詰めてきた。剣がうなりを上げる。彩樹はぎりぎりのところで下がってかわした。そして剣が通りすぎた後に吸い込まれるように前に出る。  剣が戻ってくるより一瞬早く、相手の膝を蹴った。バランスを崩したところを掴まえて腹への膝蹴りを狙ったのだが、無名の騎士はその意図を悟って、捕まえに来た彩樹の手を払うと、大きく後ろに飛んで距離を取った。  その距離は剣の間合いだ。下がるべきか前に出るべきか、彩樹は躊躇しなかった。下がれば攻撃を受けることはないが、こちらの攻撃も届かない。迷わずに前へ出て、蹴りの間合いに入ろうとする。  相手はその分後ろに下がった。下がりながら、剣を袈裟斬りに振り下ろす。彩樹は身を低く沈めて剣をかわしながら、相手の脚を払うように蹴った。それをかわすために相手が大きく下がった隙に、立ち上がって構えをとる。  二人の動きが止まった。  どちらの攻撃もぎりぎり届かない距離で睨み合う。 「なかなかやるな。怪我人のくせに」 「この程度、ウォーミングアップみたいなもんさ」  彩樹が笑う。  もちろんはったりだ。激しい動きのせいで、傷の痛みが増している。このままでは、闘いが長引けば長引くほど、動きは鈍ってくるに違いない。  だから、それ以上動くのをやめた。構えも解いて、無防備な姿をさらす。  無名の騎士は、反射的に斬りかかっていた。それが罠だと考える余裕すらなかった。考えなくとも身体が反射で動くようになるまで鍛練を積んだことが裏目に出て、稽古で何百回何千回と繰り返した動きを再現してしまっていた。  彩樹は、そうなることに賭けていた。そして、賭けに勝った。  予想通りの軌道を描いてきた刃を、彩樹の両手が、がっちりと挟んで止めていた。  場内が沸いた。真剣白刃取りなど、実際に見たことのある者などいない。  早苗も、驚きに目を見開いていた。怪我が完治していない状態でどれだけ動けるのかと心配していたが、どうやら杞憂だったらしい。彩樹が剣を両手で挟んで止めたところで、ふぅっと大きく息を吐き出した。  それにしても、無名の騎士の正体はいったい誰なのだろう。なぜ、素性を隠す必要があるのだろうか。  ふと、以前どこかで読んだ物語を思い出した。御前試合に勝てば、王から直々に褒美を賜ることができる。王に恨みを持つ若者がそのことを知って、王を暗殺するためにその試合に参加するというものだ。 (まさか…)  考えてみれば、昨年アリアーナの命を狙った第一王子のサルカンドは、辺境で隠居させられているだけで、まだ生きている。アリアーナに復讐しようと企んでいてもおかしくはない。今でも、サルカンドが動かせる人間はいくらか残っているだろう。 「まさか…」  早苗はもう一度まじまじと、無名の騎士を見つめた。今は彩樹に剣を押さえられて、力比べを続けている状態だ。動きが止まっているので細部を観察するには都合がいい。  背は、平均的な男性よりもやや高い程度。一見、すらりとした体格だ。それでもよく見れば、無駄なく鍛えられた筋肉の存在がわかる。  髪は黒く、瞳も黒い。仮面で隠しているのでよくわからないが、目つきは結構鋭そうだ。 (…ん?)  なんだか、知っている人間のような気がする。これらの特徴に該当する人物…。 「あ、あ、あぁぁ〜っっっっ!」  突然、答えが閃いた。その瞬間、思わず大声で叫んでしまっていた。  その声は、せめぎ合いを続けていた二人の耳にも届いた。彩樹はすぐに、それが早苗の声であることに気付く。  一瞬、目の前の男が動揺したように見えた。瞳に狼狽の色が浮かんでいる。  それで、彩樹にもわかった。目の前にいる男――無名の騎士がいったい何者なのか。  男の手から、わずかに力が抜けた。それを見逃す彩樹ではない。力ずくで剣を奪い取ると同時に、相手の膝を蹴った。その脚を地面に下ろさず、続けて腹を蹴る。無名の騎士はよろけて二、三歩後ろに下がった。彩樹は追撃の手を緩めず、さらにもう一発、脇腹へ回し蹴りを叩き込んだ。  それでも一度は踏みとどまるかに見えた無名の騎士だったが、やがて力尽きたようにその場に座り込んだ。  彩樹は、戦意を失った男をきつい目で見下ろす。 「まだ、やるか?」 「いや…」  無名の騎士は、苦笑しながら応えた。 「剣を奪われては、勝ち目はないだろう。君の勝ちだ、サイキ」  その言葉と同時に、観客席が沸く。闘技場全体から歓声が上がり、あちこちで彩樹の名を呼んでいる。  その中で、しかし一姫はひとり首を傾げていた。  これまでの試合、彩樹は相手が意識を失うまで、攻撃の手を緩めたことがない。男相手にはまったく容赦しない彩樹だ。相手が降参したって、聞こえなかったふりをして殴り続けることも珍しくない。なぜ今回に限って大人しく攻撃を止めたのだろう。  ちょっと鈍いところのある一姫は、まだ無名の騎士の正体に気付いていなかった。そして、彩樹がとどめを刺さなかったことに、早苗とアリアーナがほっと胸をなで下ろしていたことにも。 * * * 「どういうことなんです?」  周囲に人がいないことを注意深く確認してから、早苗は口を開いた。彼女の前には、あの無名の騎士が立っている。  ばつの悪そうな笑みを浮かべたその男は、ゆっくりと仮面を外した。それは、早苗がよく知っている人物だった。 「自分の部下を出場させる、とか言ってませんでしたか? シルラート様」 「そのつもりだったんだけどね」  そう。無名の騎士の正体はアリアーナの兄、第二王子のシルラートだった。彼の推薦ならば、大会に出場するのになんの問題もない。 「私の配下に、サイキに勝てそうな適当な人材が見当たらなかった。だから正体を隠して出場して、試合が終わったら部下の中で背格好の似た奴と入れ替わるつもりだったんだ」  まったく悪びれた様子もなく、シルラートは笑いながら白状する。 「それにしても、よく私だと気がついたな」 「そりゃあ、わかりますよ」 「私たちは愛の絆で結ばれているから?」 「いや、そういう訳じゃ…」  語尾がだんだん小さくなる。素直に肯定することはできなかったが、頭から否定するのも悪い気がした。知らず知らずのうちに顔が赤くなる。油断のならない相手だが、どうにも憎めない。 「…残念でしたね。企みがうまくいかなくて」 「まあ、仕方あるまい」  そう言うシルラートの顔は、しかしそれほど残念そうには見えなかった。  早苗は、含みのある笑みを浮かべる。シルラートが大会に出場した理由は、他にあったのではないかと思っているのだ。 「今回の候補者たちの中に、姫様に相応しそうな殿方はいました?」 「いいや。どれもイマイチだったな。第一、どいつもこいつも弱すぎる。サイキに負けているようでは話にならん」 「シルラート様も負けたじゃないですか」 「サナエが大声を出すからだ。あれで気が散った」 「ごめんなさい。でも…」  早苗は屈託なく笑いながら謝った。 「シルラート様って、実は、シスコン?」  実はシルラートも、アリアーナの結婚を快く思っていなかったのではないか。そんな気がした。もちろんシルラートは、この問いにはなにも答えなかった。 * * *  表彰式でも、その後の宴の席でも、フィフィールはずっと不機嫌そうだった。  しかしそれも無理はない。アリアーナの結婚相手を捜すために開いた大会なのに、結局彩樹が優勝してしまったのだから。 「…ま、いいでしょう。サイキさんはたしかに実力で勝利したのですし。ええ、認めますよ」  宴の後、お茶を飲んでいたアリアーナと三人娘たちの前で、フィフィールは言った。もちろん納得している様子ではないが、仕方ないということなのだろう。 「では、姫様の結婚話は延期ということですのね?」 「いいえ。結婚はちゃんとしていただきます」 「え? だって…」  なにか言いたげな四人の少女たちを無視して、フィフィールは魔術師の杖を掲げた。なにやら呪文を唱える。  彩樹の周囲を光が包み込んだ。それは形を変えて、光で描かれた複雑な魔法陣となる。一瞬、目を開けていられないほどの眩い光が閃き、次の瞬間にはすべてが消え去った。  四人とも、なにが起こったのかわからずにきょとんとしている。一人フィフィールだけが、満足げな笑みを浮かべていた。 「これで、問題はありませんね。では、私はこれで」  小さく頭を下げて、その場から逃げるようにそそくさと立ち去る。 「なんですの、今の…?」  早苗とアリアーナは、ほとんど同時に気が付いた。はっとした表情で顔を見合わせ、それから彩樹を見た。なぜか彩樹は、無言で青い顔をしている。  もう一度、二人は顔を見合わせた。気は進まなかったが、早苗が代表して今ここで起こったことを確認する。  恐る恐る手を伸ばして、彩樹の胸に触れた。彩樹の身体がびくりと震える。それから、手を下腹部へと滑らせていく。  いきなり、早苗の顔から血の気が引いた。全身から冷や汗が噴き出す。  一瞬後、早苗の悲鳴が城内に響いた。 「いや〜っっ! なにコレ? なにコレ? なんで、彩ちゃんが男になってるのぉぉっっっ?」  早苗の台詞の後半は、彩樹の叫び声でかき消された。彩樹は肺の中の空気をすべて絞り出して悲鳴を上げ、そして、気を失った。 * * *  …  ……  目を開ける。  最初に目に入ったのは、白い天井だった。  やがて、自分が柔らかなベッドに寝かされているのだと理解した。  誰かが、顔をのぞき込んでいる。美しい金髪と、深い紫の瞳が特徴的だ。 「あ…?」  意識の戻った彩樹が真っ先にしたのは、自分の身体を触ってみることだった。やがて、大きな安堵の息をつく。 「大丈夫だ。もう元に戻っている」  相変わらず抑揚のない口調でアリアーナが言った。 「あれは、フィフィールの冗談…というか、わたしたちに対する嫌がらせだな」 「わたしたち?」  彩樹はベッドの上で上体を起こすと、アリアーナを睨みつけた。 「元はといえばお前のせいだろう。だいたい、お前は家臣にど〜ゆ〜教育をしてるんだ?」 「私が教育したわけではない。むしろ、その逆だ」  フィフィールは、もともとアリアーナの教育係だったのだ。 「…なるほど、お前の性格の悪さはあの女ゆずりか」 「いや、これは生まれつきだ」 「よけい悪い! それにしても、なに考えてるんだあの女は…」 「いや、しかし…。あれはあれで面白かったと思うぞ」  アリアーナは珍しく、クックと小さな声を上げて笑った。その頭を彩樹が小突く。それでもアリアーナの笑いは止まらない。 「…少し、残念な気もするな」  笑いながらつぶやいた声は、頭に血が上っている彩樹の耳には届いていなかった。 あとがき  お待たせしました。  前作から一年と四ヶ月。百合好きにはいまだに根強い人気の『たたかう少女』、待望の新作です。  ずいぶんと間が開いてしまいましたね。本当は、もっと早くに書こうと思っていたんですけど。でも『たたかう少女』の後、『光の王国』や『月羽根の少女』に注力していたもので。全国の彩樹ファンの皆さんには申し訳なく思います。  そんなわけで今回は、まるまる彩樹の物語。番外編では出番がなかったアリアーナも、今回はしっかり登場しています。でも、今になって「誰か足りない…」と気付いたんですが、知内部長が名前だけで出番がないんですね。まあいいや。どうせこのシリーズ、男はオマケですから(笑)。  さて今回、物語が前半と後半に分かれています。  前半は彩樹が鬼畜っぷりを遺憾なく発揮。一姫のみならず、早苗や玲子までもが毒牙にかかって。ホントにこれを年齢制限なしで公開してもいいものやら(笑)。  そして後半は、皆さん待望の彩樹×アリアーナなお話です。『光の王国』の奈子×由維や奈子×ファージと並んで、人気の高い百合カップル。  でもこの二人って、絶対ラブラブな展開にはならないんですよね。愛情表現がストレートな『光』のキャラたちと違って、二人とも性格ひねくれてるから。他の二組と違って、受け攻めがはっきりしてないし、微妙な恋の駆け引き(?)が、描いてて楽しいカップルです。  カップルといえば、一章に出てきた謎の女の子、結局正体不明のままにしてしまいました。でも別に、彩樹の姉の話を持ち出すためだけの単発キャラではないんですよ。ちゃんと次回にも登場予定です。とりあえず今は『ニセ翠』とでもお呼びください(笑)。  姉の話をはじめとする彩樹の過去、これも肝心なところは書かずじまいでした。今回はっきりと書かなかった部分は、次回書くかもしれないし、もしかしたらこのままにしてしまうかもしれません。私としても書くのはちょっと辛いので…。  とゆ〜ことで『たたかう少女』はまだ続きます。このシリーズは以前から、全三話と考えていたんですよ。だから次が完結編。もっとも、いつ書くかははっきりしてませんし、気が向けばさらに書き続けるかもしれませんけど。第三話のサブタイトルは、一応『反逆の少女たち』を予定。ホントはぜひとも第二話で使いたかったタイトルなんですけど(その理由がわかる人はいるかな?)、どうしても今回のエピソードを先に書かなきゃならなかったもので。  第三話の前に、また短い番外編を書くかもしれません。『チョコレート娘2』みたいに、クリスマスとか、お正月とか、バレンタインのスペシャルとして。あと、早苗のロストバージンの話なんかも面白いかな(笑)。  話は変わって、最近『N3』や『エンターテイメント小説連合』の人気投票に参加しています。おかげさまで『光の王国』は『エンターテイメント小説連合』の九九年十一月十五日〜二十五日の週間ランキングで一位となりました。投票してくれた皆さんに、心からお礼申し上げます。そして、まだ投票していない方はどうぞよろしく(笑)。(『N3』や『エンターテイメント小説連合』へのリンクは、『ふれ・ちせ』内にあります。各作品の目次ページとリンクページに)  これからも皆さんの期待に応えて面白い小説を書いていきたいと思っていますので、どうぞ応援してください。  ついでにもう一つ宣伝。  皆さん、『金色のこびとさん工房』というHPはもう行ってみましたか?  ここは最近開設された、宮上由貴さんの二次小説のページですが、これを書いている時点では『光の王国』二次小説専門ページとなっています。壊れ系で百合百合な作品が楽しめますので、ぜひ行ってみましょう。『ふれ・ちせ』のリンクページ、または『光の王国』の頂き物ページからリンクされています。  またまた話は変わって…。  この作品の執筆中に、付き合っていた女の子と別れました。  理由はいろいろとあるのですが、直接の原因は、彼女から電話がかかってきたとき、私は執筆が佳境にさしかかっていたので、ひどく素っ気ない対応をしてすぐ切ってしまったことでしょう。  私が、プライベートな時間の大半を、創作のために費やしているということを理解していない相手でしたから。  創作活動と女の子と、どちらか一方だけを選ばなければならないとしたら、きっと私は創作の方を選んでしまうんでしょうね。  とゆ〜わけで「それでもいいよ」という女性を募集中。札幌近郊にお住まいで二十歳以上の方。お酒好きならなお良し。今なら美味しいワインが飲める特典アリ(笑)。  では最後に、これからの予定を…。  いろいろと企画はあるのですが、とりあえず次回作は『光』の番外編『紅の花嫁(仮)』になると思います。主として『金色の瞳』で出番のなかった方々のお話。それとも、インタルード6の方が先かな。  それと平行して進行中なのが、『光』の第一話『異界の戦士』の書き直し。あの作品は私が初めて書いたまっとうな(?)小説なので、今読むとあまりにも出来が悪くて…。  その後が『光』の第三部。その他に新シリーズや単発の読み切りの企画もあります。  あ、それから『月羽根の少女』の改訂版、別名『某新人賞で箸にも棒にもかからなかったバージョン(笑)』とゆ〜のがHP未公開ですので、そのうち掲載するかもしれません。  では、これからも『創作館ふれ・ちせ』をよろしく。 一九九九年十二月 北原樹恒 kitsune@mb.infoweb.ne.jp 『創作館ふれ・ちせ』 http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/