たたかう少女5 〜反逆の少女たち〜 一 史上最短の反乱 1 「や……あぁん」  彩樹の下で、一人の少女が身体を捩らせていた。  鼻にかかった甘ったるい声。  小柄で華奢で、見た目は限りなくロリータ風味なのに、どことなく艶っぽいオーラを漂わせている。それはこの少女の、外見からは想像できない豊富な性経験によるものだろうか。  西野歩美。  つい先日、彩樹の愛人リストに加わったばかりのこの少女が、今いちばんのお気に入りだった。家も比較的近所だから、しょっちゅう呼びつけている。  彩樹にとって、歩美が見せる怯えた小動物のような仕草はたまらないものがある。彩樹の嗜虐的趣味を刺激してやまない。  それでいて、異世界で奴隷として暮らした半年間ですっかり開発された身体は、素晴らしい感度で彩樹の愛撫のひとつひとつに反応する。 「彩樹先輩……せんぱぁい……」  今も、泣きそうな表情でぎゅっとしがみついて、熱い吐息を漏らしている。本当に可愛い反応だ。乱暴な愛撫を続けながら、彩樹は背筋がぞくぞくするのを感じていた。  歩美の切ない泣き声に、これ以上はないというほどの興奮を覚える。  もっと苛めたい。  もっと泣かせたい。  彩樹の歪んだ愛情が、そんな衝動を呼び起こす。本能の命ずるままに、彩樹は用意しておいたロープで、歩美の手足をベッドに縛りつけていった。 「や……っ、いやぁっ!」  抵抗が激しくなる。涙を溢れさせながら、必死に彩樹の手から逃れようとする。  歩美は本気で怯えていた。その理由はわかっている。こうして身体の自由を奪われての性交は、奴隷としてさんざん主人に凌辱された、闘奴時代の忌まわしい記憶を呼び起こすのだ。  それがわかっていながら、彩樹は歩美を縛って犯すのが好きだった。根っからのサドである。ベッドの上で女の子を泣かせることに、至上の悦びを感じるのだ。 「やぁっ、ヤダっ! 彩樹先輩!」  泣き叫ぶ歩美の口を、強引にキスで塞ぐ。閉じることを禁じられた脚の間を、乱暴に手でまさぐる。長い指を、歩美の中にもぐり込ませる。 「やぁぁっ! いやぁ――っ!」  止めどなく涙を溢れさせながら、それでも歩美は快楽の谷間へと堕ちていった。 * * * 「ふえぇぇ……ひどいですぅ……」  一時間ほど執拗に攻めたてた後で、縛っていたロープをほどいてやる。放心したようにぐったりとしていた歩美は、自由になるとまたぐすぐすと泣き出した。 「ヤダって言ったのにぃ……」 「オレのこと、嫌いになったか?」 「そんなこと、あるわけないじゃないですかぁ」  なんだかんだいっても、歩美はこれでちゃんと感じているのだ。マゾの素質は十分にある。  もっともこれは歩美に限ったことではない。彩樹の餌食になった女性のほとんどが「虐められる悦び」に目覚めてしまう。普段は対等に振る舞う早苗ですら、ベッドの中では彩樹のおもちゃだ。 「あたしが、彩樹先輩のこと嫌いになるはずないじゃないですか。でも……」 「でも?」 「やられたらやり返しちゃいまーす!」  いきなり、歩美が抱きついてきた。  彩樹の胸に唇を押しつけ、手を下半身へと滑らせる。指先が、彩樹の女の子の部分に触れた。  歩美が一瞬、驚いたような表情を見せる。 「彩樹先輩……すごく、濡れてる」 「誰かさんが可愛い声で悶えるからな。すっげー興奮した」 「もぉ……」  赤面した顔を見られたくないかのように、歩美は彩樹の胸に顔を押しつけて強く吸った。  指が、ためらいがちに中に入ってくる。 「ん……、ふっ……ぅんっ!」  歩美の体格に比例した華奢な細い指だけれど、彩樹の身体は敏感に反応した。身体の奥から、熱いものが溢れ出してくる。  彩樹の反応に気をよくしたのか、指の動きが少しずつ大胆になってくる。 「先輩、気持ちイイ?」 「……ああ。上手いぞ、歩美」  彩樹は歩美の頭を撫でてやった。数え切れないほどの女性経験を持つ彩樹にとっても、歩美の愛撫はなかなかのものだった。ふたつも年下で、純情そうな顔をしているのに、それに似つかわしくないほどのテクニシャンだ。向こうで仕込まれた技術なのか、それとも持って生まれた才能なのか。 「そう……そこ。あぁ……もっと……強く」  彩樹は荒い息をしながら、指の動きに合わせて自分も動いて、貪欲に快楽を貪っていた。胎内のいちばん深い部分で、二本の指が独立した意志を持つ生き物のように、器用に蠢いている。 「彩樹先輩の感じてるところって、すごく……綺麗」  どこかうっとりした表情で、歩美が彩樹の顔を覗き込んでいる。彩樹は小さく苦笑した。 「……じゃあ……もっと感じさせてくれよ」 「はい」  歩美はまた、彩樹の胸に唇を押しつけた。そのまま彩樹の肌に舌を這わせながら、下へと移動していく。ほとんど無毛の恥丘を越え、熱く濡れそぼった秘所へと辿り着く。  指でその部分を開いて、いちばん敏感な突起を舌先で刺激する。彩樹の身体が小刻みに痙攣した。 「彩樹先輩のここって、可愛いですよね。赤ちゃんみたい」  そんなことを言いながら、舌先をこちょこちょと震わせる。彩樹の口から嗚咽が漏れる。  確かに、彩樹の身体はひどく未成熟な部分がある。身長こそ百七十センチを越えて、女子としてはかなり高いが、十七歳の女の子らしい丸みに欠け、胸や性器などは小学生くらいにしか見えない。彩樹の精神と肉体の間には、奇妙なギャップが存在していた。 「ン……ふ……」  彩樹の股間に顔をうずめた歩美は、苦しそうに鼻で呼吸をしながら口での愛撫を続けていた。決して長くはない舌を必死に伸ばして、中へ挿入した指とリズムを合わせて動かしている。  その顔を、彩樹の脚が無意識のうちにぎゅっと挟み込む。手を伸ばして、歩美の髪を乱暴に掴む。 「……あっ……あぁっ! ……イイ、……い、イイッ!」  歩美の愛撫は的確で、彩樹はもう達してしまいそうだった。  それでも、まだ我慢する。堪えることのできる限界まで。  簡単に終わってしまってはもったいない。破裂するぎりぎりまで身体の中に快感を詰め込んで、その後で達するエクスタシーこそが至上の悦びなのだ。 「あっ……く……ぅぅ……」  もう少し。もう少し。  血が滲むほどに唇を噛みしめて、津波のように襲ってくる快感に耐えて、いよいよ絶頂を迎えようとしたその瞬間。 「彩樹さん! 姫様がすぐに来てくださいって……」  最後の一歩、いや半歩のところで、甲高い声に邪魔をされた。 「……あ」 「あの……えと…………、お取り込み中……でした?」  彩樹の部屋の中に突然現れた二人の少女が、そこで繰り広げられている光景に気づいて、滝のような冷や汗を流していた。 2 「今日はまた、特に遅かったな」  マウンマン王国を統治する若き女王アリアーナ・シリオヌマンは、いつも通りのポーカーフェイスでつぶやいた。  彼女の前には、同世代の四人の少女の姿がある。  彩樹、早苗、一姫、そして何故かついてきている歩美。  そのうち早苗と一姫は衣服が不自然に乱れていて、首筋や胸元に小さな朱い痣がいくつもあって、赤い顔をして汗ばんでいて、さらにいうとなんだか脚に力が入っていなかった。 「できれば、もう少し急いで欲しかったのだが」 「いや、それが……あまりにもタイミングが悪すぎて……」  足元をふらつかせながら早苗は言った。まだ余韻が残っていて、頭がぼぅっとしている。  あの時。  彩樹の部屋の状況を見た瞬間、早苗と一姫は自分たちの運命が風前の灯火であることを悟った。  お楽しみを邪魔された時の彩樹は、手負いの猛獣よりも危険な存在である。特に、自分が絶頂を迎える瞬間を邪魔された時はなおさらのこと。その怒りは、邪魔をした張本人に向けられる。  当然の結果として、早苗と一姫は行き場を失った彩樹の性欲のはけ口にされてしまった。  具体的にいうと、手かせ足かせを填められて、エッチな薬とか合法ドラッグとかをたっぷりと盛られて、その他様々なアイテムを総動員して腰が抜けるまで弄ばれてしまった、というわけだ。なにしろ場所が彩樹の部屋である。ベッドの横の引き出しを開けると、様々なアダルトグッズがぎっしりと詰め込まれているのだ。  思い出しただけで、顔が火照ってしまう。あれだけ凌辱されて感じてしまった自分が恥ずかしい。とはいえ、彩樹のテクニックに抗える女の子など存在しない。  それにしても今日はタイミングが悪すぎた。もっとも、こんなことは今回が初めてではない。アリアーナの依頼で彩樹を呼びに行くと、頻繁にあんな場面に出くわしてしまう。 「……姫様、わざとこーゆータイミングで呼びつけてませんか?」  思わず、そう訊いてしまった。いくら女たらしの彩樹とはいえ、行くのはいつも昼間だというのに、あまりにも遭遇率が高すぎる。  もっとも、 「サイキがいつでも女の子と一緒にいるというだけだろう」  というアリアーナの台詞も一理あるといえなくもない。考えていることが表情に出ないだけに、彼女の本心はわからないが。 「……で、今日は何の用だ」  彩樹が低い声で訊く。早苗と一姫を相手にあれだけやりたい放題やったのに、まだ機嫌は直っていないらしい。 「実は、この国で反乱が起こったんだ」  アリアーナは相変わらずの無表情で、とんでもないことを口にした。 * * *  それから一時間ほど後。  アリアーナと彩樹の二人は、飛竜の背の上にいた。 「なんでオレばっかり……」  高所恐怖症の彩樹は、下を見ないように気をつけながらぼやいている。早苗も一姫もここにはいない。彩樹とアリアーナの二人きりだ。  二人は今、反乱の現場へと向かっている。鎮圧のため、首謀者と交渉するのだそうだ。  もっとも彩樹は、交渉だけで事が済むとは考えていない。口には出していないが、アリアーナだってそうだろう。理想を追わない、現実的なものの考え方をする性格だ。  そもそも、ここに早苗と一姫を連れてきていない時点で、穏便には済まないと言っているようなものだ。二人も本当はついて来たがっていたのに、アリアーナがそれを止めたのだ。それでいて嫌がる彩樹を無理やり連れてきているのだから、血を見るような事態を十分に予想していることになる。  とはいえ、彩樹はそれほど深刻に考えてはいない。  反乱といっても、首謀者は彩樹たちよりも年下の子供たちである。国内最高の魔術師養成機関である、王立魔法学院の学生たちなのだそうだ。  幼い頃から一貫した教育で、エリート魔術師を養成する全寮制の学校だ。今は夏期休暇の時期で実家に帰省している学生が多く、教師もごくわずかしか残っていない。  そのチャンスを狙って百人近い学生が蜂起、教師を追放して学院を占拠したらしい。子供とはいってもエリート魔術師である。戦力として考えれば無視できるものではない。 「しかし、二人だけで反乱の鎮圧とはな」  彩樹は苦笑した。 「まさか全員を始末するわけにもいかん。こうしたことは、首謀者を抑えれば大概片がつく」 「まあ、それはそうだ」 「だから、サイキとわたしだけで行く。あまり大事にはしたくない。国軍や騎士団を率いて行くよりは、よほど穏便だろう」 「だからって女王自ら出向くのか? 他の連中に任せればいいだろ? いくらなんでも、そこまで人手不足じゃないだろうが」 「わたしが行くからこそ、チャンスがある。女王自ら交渉に出向いてきたとなれば、連中も無碍な対応はできまい。首謀者と直に会って話をする場が持てれば、それで決着が着く」 「だったらお前ひとりで行け。いちいちオレを巻き込むな」 「そう言うな、サイキの力が必要なんだ。しかし、サナエたちには見せない方がいいだろう」 「まあ、な」  おそらくアリアーナは、首謀者と密室で会談の場をもって、そこで相手を殺すか捕らえるかするつもりなのだろう、と彩樹は思った。  そうなればきっと、血生臭い展開になる。彩樹は気にもしないどころか、むしろ血を見るのが好きなくらいだが、早苗や一姫、そして歩美には刺激が強すぎるだろう。人が殺される場を目の当たりにして平然としていられる女子高生など、そう多くはない。 「で、オレはいいのか?」 「サイキは、そういうのが好きだろう?」  よくわかっている。  彩樹は、血が好きだった。  血の匂いが好きだ。  血の紅い色が好きだ。  自らの手で誰かに血を流させることに、たまらない興奮を覚える。  それにしてもアリアーナは、彩樹の歪んだ嗜好を満たすためにわざわざ連れてきたのだろうか。ボディガードが必要なら、本来は近衛騎士の誰かを使うのが普通だろう。  あるいは、相手が魔術師ということだから、主席宮廷魔術師で経験豊富なフィフィールの方が適任という気もする。当然フィフィールも魔法学院の出身で、反乱者たちにとっては大先輩だ。主席宮廷魔術師ともなれば、他の若い魔術師から尊敬を一身に集める身である。 「フィフィールは、自分が行くと言っていたが」  彩樹の考えを読んだかのように、アリアーナが言った。 「しかし今回は、サイキの方が適任だと思う。忘れているかもしれないが、わたしだって魔術師としての力は一流だぞ」 「ま、いいさ。ところで、反乱つっても連中はなにが目的なんだ?」  そのあたりの事情はまだ聞かされていなかった。しかし、たとえ子供であっても、なんの理由も目的もなしに反乱を起こすことはあるまい。 「なんでも、わたしの退位を要求しているらしい」 「はっ……、嫌われたもんだ」 「嫌われている……のとは少し違うと思う。魔術師は、女性の方が圧倒的に多いのは知っているな?」 「そういや、そんなことを聞いたことがあるような気がするな」  どういう理由なのかは知らないが、一般に魔法の能力は、女性の方が強く発現するのだそうだ。この世界では、職業魔術師の実に九割以上が女性である。 「それが何か関係があるのか? まあ、お前が同性にモテるとは思えないけどな」 「そして困ったことに、女性には妙に人気のある男がいるんだ」 「……?」 「魔法学院のあるサンティネート市は、サルカンド兄様の母親……つまり先王の正妃の出身地だ」 「……あいつか!」  彩樹は微かに眉をひそめた。  ここしばらく名前を聞くこともなくて、すっかりその存在を忘れていたが、そんな男がいた。  アリアーナの異母兄だ。能力的には兄妹中で最低というのが彩樹の評価だが、しかし顔だけは良く、一番女にもてそうな外見をしている。そして事実、若い女性にはいまだに根強い人気があった。  アリアーナは女だし、シルラートはそれなりに美形ではあるが、サルカンドに比べれば地味な顔立ちだし、そもそも彼は一定レベル以上の胸がない女性は眼中にない。 「そんな奴もいたっけな。生きてたのか?」 「殺すわけにもいかないだろう」  二年前の、アリアーナが生命を狙われた事件の黒幕がサルカンドであるというのは、王宮内では公然の秘密である。しかしはっきりとした物的証拠があるわけでもなく、部下が勝手にやったこと、としらを切られたら深く追求するもの難しい。  一応、暴走した部下に対する監督責任を負うということで、現在は公職を退いて領地で半隠居状態ではあるが、本人がアリアーナ暗殺未遂の罪に問われたわけではない。 「どうやら、魔法学院の一番の実力者である生徒会長と副会長が、サルカンド兄様の熱狂的なファンらしい」 「……」 「呆れているな?」 「呆れてるよ」  彩樹は肩をすくめた。  その生徒会長とやらの独断なのか、いまだに王位に執着しているサルカンドが煽動したものかは知らないが、馬鹿馬鹿しい話であることには変わりない。  アリアーナが軍を動かさない本当の理由は、そうするまでもない、くだらない事件だからではないかとさえ思った。 「生徒会長と、副会長。この二人をなんとかすれば反乱は終わりだ。わたしがボディガードを一人連れただけで現れれば、向こうも油断するだろう」 「それはいいけど、いきなり殺されるなんてことはないだろーな?」  その点が気がかりといえば気がかりだ。向こうの標的はアリアーナなのだ。敵のど真ん中にその標的が単身乗り込んでいくなんて、危険極まりない。 「その時はサイキが護ってくれるのだろう?」 「テメーが死ぬのは勝手だが、オレを巻き込むな」 「サイキの力が必要なんだ」 「……っ」  彩樹は小さく舌打ちをする。こう素直に出られては文句も言えない。 「まあ、心配はないだろう。サルカンド兄様と魔法学院につながりがあることは周知の事実だ。そこでわたしが殺されれば、兄上は王位には就けまい」 「なるほど」  アリアーナが自主的に退位するのであればともかく、暗殺されてその黒幕がサルカンドということになれば、アリアーナ派はもちろん、シルラート派の人間たちも黙ってはいまい。ひとつ間違えば、全土を巻き込んでの内戦となりかねない。 「頼むぜ。テメーと心中なんてごめんだからな」 「強引な手段であることは認める。少しばかり、血も流されることにもなるだろう。しかしこれが、流す血の量も、費やす時間も、もっとも少ない方法だ」 「少しばかり、ね」  魔法学院の生徒会長と副会長。二人分の血を多いと見るか少ないと見るかは、人それぞれだ。  彩樹は自嘲気味に口元をほころばせた。この事件の顛末は、早苗や一姫、あるいは歩美には話せないだろう。 「そう、少しばかり……だ。おそらくな」  アリアーナが珍しく、微かな笑みを浮かべていた。 3 「こんなところで、お茶なんか飲んでる場合じゃないと思うんだけど……」  白磁のカップを手にした早苗が、ぶつぶつとつぶやいた。  置いてけぼりにされた早苗と一姫と歩美、それにシルラートが加わって、城の中庭で午後のお茶を楽しんでいる。  とはいっても、楽しそうにしているのは早苗の隣にいるシルラートだけだ。他の三人はいずれも、複雑な表情を浮かべている。 「ウチらも連れてってくれればいいのに」 「しかし君らは、血生臭い事件にはあまり向かないだろう?」 「それは、そうかもしれないけどさ……」  早苗も一姫も、血を見ることはできれば避けたい性格だ。格闘技の腕前は彩樹譲りの歩美だって、根は優しい女の子だった。クーデターの現場に同行したからといって、役に立つことなどないだろう。 「でも……やっぱり危険な気がするなぁ」 「そうですよね。二人きりで、クーデターの中枢に正面から向かうなんて……」 「そうじゃなくて、姫様がさ。この間、彩ちゃんが姫様に何をしたか、憶えてるっしょ?」  彩樹は、アリアーナをいきなり殴りつけて肋骨三本を折る大怪我を負わせ、危うく内臓破裂すら起こすところだったのだ。魔法による治療ができるこの世界だから大事には至らなかったが、ひとつ間違えば大変なことになっていたかもしれない。  それ以外でも、彩樹がアリアーナに手を上げるのは珍しいことではない。相手が一国の女王だろうとお構いなしだ。 「ホントに二人きりで大丈夫かな。彩ちゃん、また些細なことでキレたり……」  正確にいえば、キレなくたって危険だ。  以前、彩樹がちらっと漏らしたことがある。一度、本気で殺そうとしたことがある、と。  この世界の魔物である夢魔が早苗たちの世界に迷い込んできた時のことだ。夢魔が見せた幻影のアリアーナを、本人と信じたまま殺そうとした、と彩樹は言った。  それが事実であれば、とんでもないことだ。そして、おそらくは事実だろう。早苗だって、彩樹と二人きりでいる時に、背筋が凍りつくような殺気を感じることがある。 「ホントに、普通なら国家反逆罪か不敬罪で死刑になってるとこだよ」  その点ではアリアーナが寛容だから不問で済んでいるが、お目付役であるフィフィールなどは、はっきりと顔をしかめている。できるだけ、アリアーナと彩樹を二人きりにはしたがらない。 「大丈夫だろう。アリアーナはあれでけっこう楽しんでいるようだし」  シルラートはいつも呑気だ。顔や雰囲気は彩樹に似ているのに、普段の性格はずいぶんとのんびりしている。 「楽しんで、って……そ、そうかな?」  そう言われても早苗にはピンとこない。なにしろアリアーナは無表情で、考えていることがさっぱり読めないのだ。 「いや、本当のことさ。ここだけの話なんだが、実はアリアーナは……」  旧に真面目な表情になったシルラートが、声をひそめて言った。その重々しい口調に、早苗たち三人も緊張して顔を近づける。 「……マゾなんだ」  この不意うちのジョークに、早苗は飲みかけのお茶が気管に逆流し、三分間ほど悶え苦しむことになった。 * * * 「陛下自ら足を運んでいただけるとは、光栄ですわね」  慇懃無礼な態度で、王立魔法学院の生徒会長レシューナ・レヴィルは微笑んだ。その隣にいるのが、副会長のレザムア・ヴィーヌだそうだ。  二人とも、普段の彩樹であればいきなり口説いていそうな美少女だった。歳は、彩樹たちよりもひとつふたつ下だろうか。まだあどけなさの残る顔に、高慢な笑みを浮かべている。  彩樹とアリアーナが正面から学院を訪れると、クーデターに加担した者たちはさすがに驚いた様子だった。クーデターの現場に、ろくに手勢も連れていない女王が自ら現れるというのはさすがに予想の範囲外だったらしい。  その後、内部ではなにやらひと騒動あったようだが、結局は何事もなく応接室へと通された。とりあえずは礼儀正しくもてなすことにしたようだ。もちろん、ここから帰すつもりはないのだろうが。  外には見張りがいるようだが、室内には彩樹とアリアーナ、レシューナとレザムアの四人だけだった。いきなり手荒なことをする気はない、というポーズなのだろう。  出されたお茶を飲みながら、彩樹は目の前の二人を観察した。  長い黒髪が見事なレシューナは、見るからに良家のお嬢様といった雰囲気を持っていた。  有力貴族の娘で、幼い頃から魔法の才能に恵まれていて、エリートとして育てられてきたらしい。物腰は上品で丁寧だが、それでも相手を見下したような態度が染みついている。  レザムアはくせのある金髪を短くカットしていて、同い年のレシューナよりもひと回り小柄だった。しかし魔法の才能は、レシューナに劣るものではないらしい。  二人とも、宮廷魔術師にも匹敵する力の持ち主だ、とアリアーナは言っていた。 (いずれにしても、まだ子供だな。いろんな意味で)  なまじ力があるだけにそれを過信している、という印象を受けた。他の護衛をつけずに四人だけで応接室にいるのも、ここでは自分たちが支配者だという自信の顕れだろう。  アリアーナの許可がでれば、十秒でかたがつく。  彩樹はそう判断した。  力のある魔術師の多くは、魔法の素養を持たない者を軽く見る傾向がある。ボディチェックで武器を持っていないことを確かめただけで、彩樹を中に入れたのがその証だ。素手の人間にどれだけの戦闘力があるか、考えたこともないのだろう。 (……すぐに、思い知らせてやるさ)  レシューナもレザムアも、かなり見目良い容姿をしている。彩樹の嗜虐趣味を満足させるには十分だ。  あの綺麗な顔が血まみれになる様を想像する。それだけで濡れてしまいそうだった。 「で、私どもの申し出を受け入れる気になりまして? 私としましても、手荒な真似はしたくないのですが」  レシューナは相変わらず、自分たちの優位を信じて疑っていない。しかしアリアーナは、その台詞を完全に無視した。一方的に、自分の言いたいことだけを言う。 「お前たちには、サルカンドとのつながりを議会で証言してもらう。馬鹿な男だ。ようやく、こちらに口実を与えてくれた」  レシューナのこめかみがぴくりと痙攣する。表情が険しくなった。 「陛下は、ご自分の置かれた状況がわかっていないのでは? あなたが今の地位にある限り、ここから帰ることはできませんのよ」 「状況がわかっていないのはお前たちだろう。わたしたちをここへ通した時点で、この騒ぎは終わりだ。マウンマン王国史上、最短の反乱だったな」 「それははったりですの? ここには百人からの仲間がいますのよ」 「だが、ここには二人きりだ。わたしだけならともかく、サイキを通したのは無防備すぎたな」  その言葉に、二人の目がはっと彩樹に向けられる。  自分から視線が逸れた一瞬の隙に、アリアーナの手の中に一振りの短剣が現れた。柄の部分が彫刻と宝石で装飾された、美しい短剣だ。彩樹は前に一度、それを目にしたことがあった。  トンッ!  軽い音が響く。アリアーナが、短剣をテーブルの上に突き立てたのだ。  魔術の素養がない彩樹には何が起こったのかわからなかったが、レシューナとレザムアの表情が強張った。 「学内に何百人いようと、ここにはお前たち二人きりだ」  アリアーナは相変わらず表情を変えずに、もう一度繰り返した。  レザムアが応接室の扉に駆け寄る。取っ手に手をかけてがたがたと揺さぶるが、扉は開かない。  それを見て、彩樹にも理解できた。アリアーナの結界魔法だ。  普段は意識されることは少ないが、王家の者は皆、優れた魔法の素養を持っていた。特に、結界を張る能力に長けているという。なにしろアリアーナの魔力は、巨大な竜を封じることすらできるのだ。  今、この応接室は外界から隔絶された空間となっていた。外に出られないばかりか、中の物音すら外へは届かない。 「くっ……」  レシューナとレザムアの手に、ほとんど同時に魔術師の杖が現れる。しかし彩樹の方が速かった。  滑るような動作でレシューナとの間合いを詰めると、腹に掌打を打ち込んだ。レシューナの身体は簡単に崩れ落ちる。  続けて、一瞬の間も開けずにレザムアにも同様に。  二人を倒すのに、一秒とかからなかった。  傍目には軽く掌で触れたようにしか見えなかっただろうが、二人は呻き声を上げて横たわっていた。極闘流の技は、身体の内部へダメージを与える。身体の中心、正中線に打ち込まれれば、脊髄が麻痺して数分間はまともに動くこともできなくなる。  彩樹は醒めた瞳で二人を見下ろした。 「で? こいつら、殺すのか?」  とりあえず二人を縛り上げながら、彩樹は訊いた。それはまるで「このゴミ捨ててもいいのか?」といった雰囲気の軽い口調だった。  彩樹はまったく躊躇していなかった。簡単なことだ。倒れている二人の頭部を狙って、体重を乗せた拳を打ち下ろせばそれで終わる。  しかし、アリアーナは首を横に振った。 「いや。言ったろう、サルカンドとのつながりを証言してもらう、と」 「ずいぶんと穏便だな」  その声にはどことなく、がっかりしたようなニュアンスすら含まれていた。 「血が流れることになる、って言ってなかったっけ?」 「うむ。この者たちはエリートでな。全寮制のこの学院で、小さな頃から英才教育を受けてきた。当然、外部の男性と接する機会はほとんどない。だから、サルカンドのような見た目だけの男にころっと騙されるのだろうな」 「うん?」  彩樹は首を傾げた。いきなり、話題を変えられたような気がする。 「サイキに、この者たちを証言する気にさせて欲しい」 「いや、だから……」  それと、ここに来る前に話していた流血云々と、いったいどんな関連があるのだろう。 「出血するものなのだろう? 初めての時は」  屈んで二人を縛っていた彩樹は、この台詞に力いっぱいこけた。  床にぶつけた顔をさすりながら起き上がる。 「……出血って、そーゆー意味かっ?」 「そういう意味だ」  アリアーナはあっさりと肯定した。 「力ずくの尋問では意味がない。自分から進んで証言してもらわなくては。そのためにサイキを連れてきた。適任だろう?」 「つまり、早苗や一姫を連れてこなかった理由も……」 「サイキが他の女の子に手を出すと、サナエたちはやきもちを妬くからな。わたしにはよくわからないが、以前、騎士団長が「泣く子と女のやきもちには勝てない」とこぼしていたことがある。どうやら、実に厄介なものらしい」 「……」  彩樹は、かなり本気で呆れていた。呆れてものも言えない。  それなりにシリアスな覚悟でここまで来たというのに、なんだか拍子抜けだ。 「……いいのか? クーデターなんて国の大事件が、そんなマヌケな結末で」 「だからこそ、だ。わたしとしては、くだらない笑い話にしてしまいたい」 「ま、いいけどな」  そう言って、彩樹は肩をすくめた。アリアーナの気持ちも分からなくはない。 「せっかく女王のお墨付きをもらったんだ。楽しませてもらうか」  レシューナとレザムアは、動けなくとも意識はあるのだろう。床の上に横たわったまま、怯えた瞳で彩樹を見上げている。その表情にそそられる。  彩樹はレシューナの服の胸元に手をかけて、一気に引き裂いた。  真白い肌が露わになる。  レシューナはか細い悲鳴を上げたが、その声は結界に阻まれて外へは届かなかった。 * * *  それから二時間ほど後。  満足げな表情でソファに座っている彩樹に、全裸にされた二人の少女が左右からしなだれかかっていた。「サイキお姉さまぁ」などと、鼻にかかった甘ったるい声を発している。  つい先刻までと同一人物とは思えないほどの豹変ぶりだ。 「私たち、サイキお姉さまのためならなんでもいたしますわ」 「ですから、また来てくださいね」 「いいえ、そうだわ。学校を卒業して宮廷魔術師になれば、いつもサイキお姉さまと会えますのね」 「そうね、頑張りましょう!」  彩樹を間に挟んで、レシューナとレザムアは手を取り合う。  ここで起こったことの一部始終を目撃していたアリアーナは、相変わらずの無表情で冷めたお茶を飲みながら「勉強になった」などとつぶやいていた。  絨毯の上に、小さな紅い染みが残っている。それが、ここで何があったかを物語っている。  マウンマン王国史上最短の、流された血の量ももっとも少ない、そしてもっとも少ない戦力で制圧された反乱は、こうして幕を閉じたのだった。 * * *  その時まで、サルカンドは満足顔で酒の杯を傾けていた。  部下から、アリアーナが魔法学院へ向かったという報告を受けて、気の早い祝杯を挙げていたのだ。  所詮は小娘ひとり。今すぐ殺すわけにはいかないが、レシューナたちが捕らえてくれれば後はどうとでもなる。 「これで、王位は私のもの……か」  二年以上も回り道をしたが、これが正しいのだ。自分こそが、王位を継ぐに相応しい。正妃の長子を差し置いて、妾腹の娘が王位に就くなどということが間違っている。  しかしこれでようやく、その間違いも正される。  そう信じ込んでいたところへ、一人の部下が一通の書簡を届けに来た。学院のレシューナから、急ぎの伝書鳩で届けられたものだ。 「アリアーナが降伏したかな? もう少ししぶといかと思ったが……」  己の勝利をみじんも疑わずに書簡を開き、文面に目を通す。  瞬間、サルカンドの動きが凍りついたように固まった。 「あの……殿下?」  書簡を持ってきた部下が、魂を抜かれたような主人の様子を訝しんで、横から書簡を覗き見る。女の子らしい、丸みを帯びた筆跡が目に入った。 『私たち、サイキお姉さまに味方することにしました。お姉さまの方が、殿下よりも何倍も素敵なんですもの。じゃあね〜♪』  サルカンドがまともな思考能力を取り戻したのは、ずいぶんと時間が経ってからのことだった。 二 翠と栞 1  それは、何年前の記憶だったろう。  まだ、彩樹が小学生だった頃。  場所は、夜の公園だった。  夜、彩樹はなんとなくアイスクリームが食べたくなって、姉の翠と一緒に近所のコンビニエンスストアへ買いに行ったのだ。  その公園の中を通り抜けていくのが近道だった。  ただ、それだけのことだったのに。  それがどうして、こんなことになってしまったのだろう。  下半身を貫く激痛。そのあまりの痛みに、悲鳴すら出てこなかった。身体が引き裂かれてしまうと思ったほどだ。  まだ中学生にもなっていない、異性を受け入れるには未熟すぎる肉体に、異物が無理やりねじ込まれている。  一方的な凌辱。  衣類が引き裂かれ、露わにされた肌は夜の冷気を直に感じていた。何故か、その冷たさを痛みよりもはっきりと憶えている。  身体の上にのしかかっている男は、大きな掌で彩樹の口を塞いで、荒い息をしながら乱暴に腰を動かしていた。その度に、すりむいた傷を擦られるような新たな痛みが走る。  もう、流すべき涙も涸れていた。たとえ口を塞がれていなくても、声を出す気力もない。  何も、考えられない。  絶望という名の淵に沈んだ意識の中で、ただ朦朧と、早く終わることだけを望んでいた。  こんなこと、いつかは終わりになる。  ただ、それだけを願う。  それまで、何も考えなければいい。  何も感じなければいい。  痛みも、悲しみも。  ただ人形のように横たわっていれば、いつかは終わりになる。それが十分後か、一時間後かはわからないが。  いつしか、痛みも麻痺していた。殴られた顔の痛みも、下半身を凌辱される痛みも。  それなのに、微かなすすり泣きの声が耳に届く。  これは、自分の声だろうか。  ずいぶん遠くに聞こえるのは、気のせいだろうか。  いいや、違う。  止まっていた思考が、のろのろと動きを再開しはじめた。  すすり泣く声が誰のものか。思い出して、はっと我に返った。  その瞬間、胎内深くにねじ込まれた異物がびくっと脈打った。男が大きく息を吐きだして、彩樹の痩せた身体に覆い被さってくる。自分の何倍もありそうな体重に、押し潰されそうだった。  無意識のうちに、彩樹は手を横へ伸ばしていた。固い地面の感触の中に、それとは違う、もっと硬質な手触りのものがあった。  反射的に握りしめたそれは、公園を彩る花壇の縁に並べられていたブロックの破片だった。その硬さが、彩樹にするべきことを教えてくれた。  小さな手には収まりきらないコンクリート片の一端を、しっかりと掴む。己の欲望を一方的に満たして脱力している男は、何も気付いてはいない。  彩樹は、その結果をはっきりと認識していたわけではなかった。どうなるかなんて、考えてはいない。ただ、それはしなければならないことなのだ。  男の側頭部、こめかみのあたりに、コンクリート片を力いっぱい叩きつけた。そこが人体の急所であることは、最近気まぐれで習いはじめた空手が教えてくれた。  鈍い打撃音と、くぐもった声が響いた。  もう一度、同じように叩きつける。さらにもう一度、二度。  男の身体から不自然なほどに力が抜ける。ねっとりとした温かい液体が、彩樹の顔に滴り落ちてくる。  もう一度、今度は手を伸ばして、後頭部にブロックを叩きつけた。  男は動かない。呼吸をしている様子すらなかった。  彩樹はブロックを捨て、まるで軟体動物のように覆いかぶさっている男の下から這い出した。  踏み潰された蛙のような格好で、男は俯せに倒れていた。血塗れの醜悪な顔が、水銀灯の冷たい光に照らされている。  彩樹は立ち上がると、割れていないもっと大きなブロックを両手で持ち上げた。頭の上に振り上げて、力まかせに男の上に叩きつける。  その音に既視感を覚えた。夏に海へ行った時の、スイカ割りの記憶と妙に似ていた。。  しばらくの間、肩で息をしながら醜く潰れた男を見おろしていた。  身体中あちこちから、痛みが甦ってくる。  何度も殴られた顔の痛み。  地面に引き倒されたときの擦り傷。  そして、下半身を貫かれた痛み。  内腿を滴り落ちる液体の感触は破瓜の血か、それとも、考えるのもおぞましい、この男の体液だろうか。  急に、吐き気が込み上げてきた。苦酸っぱい味が、喉から口の中へと広がってくる。  その場にうずくまって吐こうとしたが、少し離れたところから聞こえてくるすすり泣きの声がそれを許さなかった。  大切なことを思い出した。まだ、やらなければならないことが残っている。  彩樹は、無害になった男に背を向けた。  灌木の茂みを挟んで十メートルほど離れたところに、重なって横たわっているふたつの影が見える。遠くの水銀灯が逆光になって、影絵のように浮かび上がっていた。  影は、小刻みに前後に動いている。啜り泣く声は、その動きに合わせて聞こえてくる。  彩樹は紅く濡れたブロックを拾い上げると、姉を犯している男の背後から近付いていった。  芝生を踏む微かな足音は、すすり泣きと荒い息が邪魔をして、目の前の獲物を陵辱することに夢中になっている男の耳には届いていない。  簡単なことだった。  先刻と同じようにブロックを頭の上に持ち上げ、力いっぱいに振り下ろす。  今度は、一度で十分だった。また、スイカ割りの感触が手に伝わってきた。  声すら上げずに、男は動かなくなった。  それでも彩樹は、二度、三度とブロックを振り下ろした。翠に覆いかぶさっていた男を引き剥がし、蹴飛ばして仰向けに転がした。その上に馬乗りになり、何度もブロックを叩きつける。  男の顔は、原型を留めないほどぐしゃぐしゃに潰れていた。飛び散る血でブロックが滑る。勢い余って手からすっぽ抜けたところで、彩樹は破壊行為を止めて立ち上がった。 「……お姉ちゃん」  なんとか、声を絞り出した。  翠は上体を起こして、その場にぼんやりと座り込んでいた。焦点の合わない目が、無惨に潰された男に向けられている。  着ているものはずたずたに引き裂かれ、日焼けした彩樹とは対照的な白い肌が露わになっている。まだ発展途上の胸は、それでも年齢相応に滑らかな曲線を描いていて、その上に白く濁った粘液が滴っていた。 「もう大丈夫だよ、お姉ちゃん」  立ち上がるのに手を貸そうと、彩樹は手を差し伸べた。  翠がのろのろと顔を上げる。  殴られたのか、唇の端に一筋の血が流れた痕があった。しかしそれは、血まみれの彩樹の手に比べれば微々たる量だ。  一度顔を上げて彩樹を見た翠が、わずかに視線を下げた。自分の前に差し伸べられた、血まみれの手に目の焦点が合う。  それからもう一度、彩樹の顔を見上げた。呆けたようになんの表情も浮かんでいなかった翠の顔に、はっきりと怯えた気配があった。 「い……い……」  唇が小さく震えている。 「い……いやあぁぁ――――っっ!」  人気のない夜の公園に、甲高い悲鳴が響き渡った。  そして――  翠が自らの命を絶ったのは、それから半月ほど後のことだった。 2 「……あ」  彩樹が目を開けると、翠が顔を覗き込んでいた。 (……翠? いや、違う)  一瞬の間があってから、そのことに気がついた。  翠ではない、翠のはずがない。  姉が死んだのは、もう五年以上も前のことだ。 「栞、か」  のろのろと身体を起こす。  そこは、よく晴れた夏の午後の公園だった。木陰で、栞の膝枕で眠ってしまったらしい。  それにしては、夢見が悪かった。  栞の外見が、翠とよく似ているためだろうか。  それとも昨日、久しぶりにまったくその気のない相手を犯したからだろうか。  レシューナたちの悲鳴と、翠の悲鳴の記憶が重なる。 (なにやってるんだ……オレは……)  うつむいて苦笑した彩樹は、すぐに顔を上げて栞を見た。  時々、彩樹の前に姿を現す少女。死んだ姉の幻影のように。  住んでいるところも、学校も、家族のことも、それどころか本名すら知らない。彩樹に対してはいろいろと聞こうとするくせに、自分のことは何も教えてくれない。  栞という名前だって、彩樹が勝手にそう呼んでいるだけだ。名前がないと呼ぶときに不便だから、と。 「どうして?」  栞の声は決して大きくはないけれど、澄んでいてよく通る。そんな声も、どことなく翠に似ていた。 「どうして泣いているの?」 「泣いて……?」  そう言われて、指で自分の顔に触れて気がついた。頬に、涙が乾いた痕がある。  いつものことだ。あの夢を見たときは、いつもそうだ。 「夢、見てた。昔の……いやな、夢」 「翠って……誰?」  栞の口から出てきた意外な単語に、驚いて顔を上げた。これまで、栞に姉のことなど話したことはない。 「……オレ、寝言でも言ってたか?」 「ええ」 「やれやれ……」  何故か、溜息が漏れた。 「死んだ……姉貴の名前」 「わたしと似ている?」 「どうして、そう思う?」 「気付いていない? 彩樹は時々、わたしのことをその名前で呼んでいる」 「……まさか」  彩樹の目がわずかに見開かれる。  まったく気付いてはいなかった。  あまりにも翠によく似ているから、無意識のうちに姉の名前で呼んでしまったのだろうか。栞は、半分だけ血がつながった妹の彩樹よりも、よほど翠に似ている。 「お姉さん、どうして亡くなったの?」  こんな風に、栞との会話は向こうからの質問が多い。自分のことは何も話そうとしないのに、彩樹のことはなんでも知りたがる。  かといって、彩樹の取り巻きの女の子たちとはどこか雰囲気が違う。いったいどういうつもりで彩樹と会っているのか、好意を持たれているのかどうかすら、はっきりとはわからない。 「……」  さすがの彩樹でも、翠の死について話すのは少し躊躇した。しかし栞は引き下がらない。 「教えて。差し支えなければ……だけど」 「……オレが、殺したんだ」  呻くように、それだけを口にした。言いたくはないのに、どうしてか翠には隠し事ができない。 「そう」  対する翠は、小さくうなずいただけだった。これは予想外の反応だった。 「驚かないのか? 冗談じゃないんだぞ」 「そうかしら」 「……そうさ。そうに決まってる」  翠が自殺したのは、あの男にレイプされたからではない。  真相を知っているのは彩樹だけだ。  翠が死んだのは、彩樹が怖かったから。  彩樹と血のつながった姉妹であることが怖かったから。  自分の中に、同じ血が流れていることが怖かったから。  だから、翠は死んだのだ。  本人がそう言ったわけではない。  遺書があったわけではない。  それでも、彩樹はそう信じていた。  そうでなければ、どうしてわざわざ当てつけるように、妹の目の前で屋上から飛び降りたりするだろう。  いや、もしかしたら、そんな悪意はなかったのかもしれない。彩樹のためを思って、そうしたのかもしれない。  彩樹の狂気を鎮めようとした、ショック療法のつもりだったのかもしれない。  マンションの屋上から落下している間、翠は真っ直ぐに彩樹を見つめていた。その時なにを思っていたのかなんて、知る術がない。  だから彩樹は、警官が現場検証をしている隙に、その屋上に昇ってみた。 3  何故、だろう。  どうして今さら、ここに来てみようなんて気まぐれを起こしたのだろう。  やはり、数日前の栞との会話のためだろうか。  初めてだった。  自分の口から、あの事件について語ったのは、初めてだった。  翠はなにも言葉を差し挟むことなく、いつも通りの微かな笑みを浮かべて黙って聞いていた。  どうして、話してしまったのだろう。これまで、早苗や一姫にも話してはいないのに。  忘れていたのに。忘れようとしていたのに。  だけど、わかっている。  決して、忘れることなどできはしないのだ。  彩樹は、夜明け前の街を歩いていた。  空は晴れていて、東の方が微かに白くなりはじめていた。  街は、まだ眠っている。途中で目についた動くものといえば、販売店へ朝刊を運ぶ、新聞社の軽トラックだけだった。  夏とはいえ、この時刻の空気はひんやりとしている。  わずかな風もない。動きの止まった空気をかきわけて、彩樹は眠っている街を歩いていた。  懐かしい風景、と言っていいのだろうか。  顔を上げて、その建物を見上げた。  小学生の頃に住んでいたマンションは、ひどく小さく見えた。もっと大きな建物だと思っていたのに。  記憶にあるよりも古ぼけて見えるのは、この何年か分の汚れによるものだろうか。もっとも、あの当時から決して新しい建物ではなかったが。  そして建物の大きさが違って見えるのは、あの頃よりもずいぶん伸びた彩樹の身長のせいだろう。記憶と、いま実際に目の前にある光景の差違に、ここを去ってから経過した時間の長さを感じた。  入口の扉を押す。キィ、と微かに軋んだ音がした。  コンクリート製の階段の段差も、記憶にあるよりも低かった。  一段抜かしで昇っていく。  たいした時間もかからずに屋上に着いた。表面にいくらか錆が浮かんだ扉には、驚いたことに鍵がかかっていなかった。  もともと管理のいい加減な建物ではあったが、あの日以来ちゃんと鍵を閉めるようになったと思っていたのに。  五年を越える歳月は、人の死という事件すら風化させてしまうのだろうか。  例えば。  もしも管理人がもっと真面目に仕事をしていて、この鍵が開いていなかったら、翠は死なずに済んだのだろうか。  つまらないことを考えている、と彩樹は思った。  そんなはずはない。  この扉に鍵がかかっていたら、きっと違うビルか、歩道橋か、地下鉄駅のホームで同じことをしたに違いない。ただそれだけのことだ。  屋上へ出る扉を開ける。重い金属製の扉は、一階の入口よりはいくらか彩樹の力に抵抗した。  一歩外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。タンクトップ一枚では、いくぶん肌寒さを感じる。  空を見上げる。  東の方から白さを増していく空。  徐々に、星が消えていく。風景が、濃い群青から明るい灰色へと変化していく。  彩樹はゆっくりと、屋上の端へと歩いていった。  五年前、翠は何を思ってここを歩いていたのだろう。  立ち止まって、ちらりと下を見おろした。人が死ぬには十分過ぎる高さだった。  吐き気が込み上げてくる。  あの日以来、高いところは苦手だった。  あの日。  彩樹の目の前で、姉が血まみれの肉片となったあの日。  騒いでいる大人たちの目を盗んで、立ち入り禁止となった屋上へと忍び込んだ。  まだ現場検証の最中で、何人もの警官たちが動き回って写真を撮ったり、なにやら調べたりしていた。  彩樹はそっと屋上の端へ行き、四つん這いになって下を見た。  それは、アスファルトの上に咲いた紅い薔薇の花のようだった。翠の死体は既に運び去られていたが、飛び散った血はまだ洗い流していなかった。  小学生の彩樹は、その場で激しく嘔吐した。警官に見つかって、屋上から連れ出された。  その後のことは、よく憶えていない。  ここを訪れるのは、それ以来だった。  激しく収縮を繰り返す胃から込み上げてくる酸っぱいものを堪えながら、彩樹は下を見おろせる位置に立っていた。  網膜に、五年前の残像がはっきりと残っていた。 「何をしているの?」  背後からの突然の声に、悲鳴を上げそうになった。  はっと後ろを振り返る。  長い髪を風にたなびかせた少女が、そこに立っていた。  もともと白い肌が、薄明かりの下でさらに強調されて、病的な白さに見える。  そのせいだろうか。一瞬、翠の幽霊かと思ってしまった。全身の毛が逆立つ。 「栞……どうしてここに?」  ふぅっと息を吐きながら、彩樹は訊いた。  そこに立っていたのは栞だった。  どうして、こんなところにいるのだろう。しかも、まだ夜が明けきっていない時刻である。  彩樹だって計画的な行動ではない。夜明け前にふと目を覚まして、急に思い立って来てみたのだ。  ここに彩樹がいるなんて、栞が知っているはずがない。 「ここで、お姉さんが亡くなったの」  彩樹の質問には答えずに、栞は独り言のようにつぶやいた。 「でも、自殺なのでしょう? 彩樹のせいではないわ」 「オレのせいさ」  栞から目を逸らして言った。肩が、微かに震えていた。 「自殺ってのは、そのほとんどが間接的な殺人なんだ。なんの理由もなしに死ぬ人間なんかいやしない」 「だけど、彩樹のせいじゃない」 「オレのせいなんだよっ!」  彩樹は叫んだ。声が裏返って、妙に甲高い声になった。 「この間、ひとつだけ言わなかったことがある。栞にも、言えなかった。翠が死んだのは、あいつらに犯されたからじゃないんだ」 「……彩樹?」  珍しく栞が訝しげな表情を浮かべて、彩樹の顔を覗き込んだ。彩樹はもう一度視線を逸らした。  栞の手が、頬に触れた。強引に顔の向きを変えさせられ、栞の顔を真正面から見つめる形になった。 「目を逸らさないで。わたしを見て。そして、話して」  黒曜石のような光沢のある黒い瞳が、真っ直ぐに彩樹を見つめていた。その目を見ていると、隠し事はできないという気にさせられた。 「オレの……せいなんだ。どうして、あんなことをしたんだろうな」  口元が不自然に引きつった。苦笑を浮かべようとして、だけど笑えなかった。 「翠が死んだのは、あいつらに犯されたせいじゃない。傷ついてはいたけれど、なんとか立ち直ろうとしていた。なのに、なのに……」 「彩樹……」 「翠の身体が、あんな奴らに汚されていいはずがない。そうだろ? そんなこと、許せるわけがないじゃないか」  栞の目が、微かに見開かれた。ほんのわずかに、驚いたような表情が浮かんでいる。それでも視線を逸らさず、逃げようともせずに同じ距離を保っていた。 「翠は、オレにとって絶対的な存在だった。うちは母親が忙しかったから、翠がオレの母親代わりでもあった。綺麗で、優しくて、頭がよくて、なんでもできる。オレにとっては、そんな絶対的な存在だった。親がいなくても、翠が傍にいてくれれば寂しくなんかなかった。それなのに……」  声が、震えていた。 「翠は、オレのものだ。オレだけの翠だ。あんな男どもに汚されていい存在じゃない。あんなクズのような奴らのために傷ついたり、死んだりしていいはずがない。オレ以外の誰にも、そんなことはさせない。だから……」 「……彩樹が、お姉さんを?」 「……そうさ」  急に、涙が込み上げてきた。人前で泣くことなんて、滅多にないのに。 「翠はオレのものだ。オレの、大切な姉だったんだ。他の奴に汚されるなんて、許せるはずがない。だからオレは……」  彩樹は力尽きたように、ずるずるとその場に座り込んだ。  涙がこぼれて、ジーンズに黒い斑点をつけていく。 「……わかったろ? 翠を殺したのは、オレなんだ」 「わたしには……わからない」  栞は抑揚のない声で言った。 「わかるはずもないか。オレみたいな、頭のおかしい奴のやることなんて。……どこで、狂っちゃったんだろうな」  コンクリートの上に座り込んだまま、彩樹は頭を抱えて苦笑した。 「彩樹のことじゃない。わたしには、お姉さんが何を考えていたのかわからない。どうして死ぬ必要があるの?」 「……そりゃあ、お前もおかしいんだよ」  家族にレイプされた十代の女の子が自殺する理由がわからないなんて、同性の台詞とは思えない。 「ねえ、彩樹。賭けをしない?」 「あ?」  唐突な台詞に顔を上げた。いつの間にか翠はこちらに背を向けて、転落防止のために高くなっている屋上の縁に立っていた。  長いスカートが、強くなりはじめた風にはためいている。ちょっとバランスを崩しただけで落ちてしまいそうだ。 「危ない……降りろよ」  彩樹はかすれた声で言った。  栞の姿が、飛び降りる直前の翠の記憶と重なる。あの時彩樹は、下から見上げていたのだが。 「……危ないって」  もう一度繰り返す。しかし栞は彩樹の声など聞こえていないかのように、灰色の街並みを見おろしている。 「危ないのはわたしじゃない。あなたの方でしょう?」  栞にしては珍しい、どこか皮肉めいた言い方だった。狭い足場の上で、器用に回れ右をしてこちらを向く。 「だから……だよ。そんなところにいたら、オレはお前を殺してしまうかもしれない」  彩樹は一歩、栞の方へと近付いた。 「賭けをしましょう。彩樹に、わたしが殺せるかどうか」 「……やめろよ」  また一歩、足が前に出る。 「わたし、彩樹が欲しいわ。わたしがこの場を生き延びたら、彩樹はわたしのものになるの。いいわね?」 「冗談、言ってる場合じゃねーって」  ゆっくりと、彩樹の右手が持ち上げられる。栞の方へと差し伸べる。 「……逃げてくれよ。まだ、間に合うから。早く」  まだ気温は低いのに、額に汗が滲んでいた。前に伸ばした腕が振るえている。 「殺せるものなら、殺せばいい。彩樹を縛っている過去の幻影なんて、殺してしまえばいい」  栞の顔から、一切の表情が消えていた。冷たさすら感じられない、人形よりも無機的な顔が彩樹に向けられている。 「お前は、翠じゃない。生きている人間だ」 「あなたにとっては、過去の幻影でしょう? 幻影が生きている限り、彩樹はわたしのものにはならない」 「オレのことが好きなら、いくらでも抱いてやるからさ。だから……」 「わたしが望んでいるのは、そんなものじゃない。わたしは、彩樹が欲しいの。生まれてからずっと、彩樹は誰のものでもなかった。ただひとり、お姉さんだけのものだった。それは今でも変わっていない。だけど、わたしはあなたが欲しい。彩樹、わたしのものになりなさい」  それは、命令だった。  命令することに慣れた人間の口調だった。  しかしその言葉も、彩樹を止めることはできなかった。自分自身の意志にも反して、足が一歩前に出る。  指先が栞の身体に触れた。 「早く……逃げてくれよ。もう、抑えられないんだ。身体が……勝手に動くんだ。頼む! 逃げろっ!」  言葉とは裏腹に、彩樹の手はゆっくりと少女を押していた。  栞の身体が傾いていく。  ゆっくりと、スローモーションのように。  風を受けて、長い髪がふわりと広がる。昇ったばかりの朝陽を浴びて、一瞬、金髪のように輝いて見えた。  そして、落ちてゆく。  ゆっくりと。  ゆっくりと。  栞の姿が、彩樹の視界から消えていく。  彩樹は腕を伸ばしたまま、その場に立ちつくしていた。 「殺し……た……」  この手で、突き落とした。  いま生きている者の中では、もっとも愛しい少女を。  殺してしまった。  この、狂った心が。  五年前、この場所で壊れてしまった心が。  また、殺してしまった。 「く……」  彩樹はその場に座り込んだ。両手で頭を抱える。 「く……くく……はは……」  どうしてだろう、笑いが漏れてしまう。こんな状況なのに、込み上げてくる笑いが抑えられない。  自分が狂っていることは、わかっていた。  相手が愛しければ愛しいほど、自分の手でそれを壊したくなる。  大切な姉を殺した。だから、他の大切な人にも同じことをしなければならないのだ、と。 「はははは……あっはっはっは……」  彩樹は狂ったように笑い続けていた。笑いながら、涙を溢れさせていた。  狂気を孕んだ哄笑は、いつまでも続いた。 「は……はは……は…………」  どのくらい笑い続けていただろう。ようやく笑いが収まってきて、彩樹は立ち上がった。  先刻、栞がそうしていたように、屋上の縁に立って下を見おろした。  これまでなら、とてもできなかったことだ。なのにどうしてだろう、もう吐き気は感じなかった。冷静に、見ることができた。  彩樹は屋上から下を見おろして、自分がしたことを見つめようとした。  そして、誰かが通報して警察がここに来るまで、待っていようと。  ところが。  彩樹の眉がぴくりと動いた。  二度、三度、瞬きを繰り返す。  下には、何もなかった。  例えば、子供が壁に叩きつけて壊れた人形のような死体。  例えば、アスファルトの上に紅く咲いた血花。  そんな、予想していたものは何もなかった。  しばらく茫然と見おろしていた彩樹は、やがて屋上を後にした。階段を駆け下りて外に出る。  やっぱり、どこにも栞の姿はなかった。  人が落ちたような痕跡も、血痕も、何ひとつ見つからない。少し離れたところに停めてあった車の下まで覗いてみたが、もちろんなんの意味もないことだった。 「……」  しばらくの間、思考が停止していた。  いったい、どういうことだろう。  夢でも見ていたのだろうか。  まさか、あの栞は本当に幻影だったのだろうか。 「そんな、バカな」  そんなはずはない。  この手が憶えている。屋上から突き落とした栞の身体の感触を、はっきりと憶えている。  なのに、どうしてここに栞の姿がないのだろう。 「彩樹さん? 何をしているんですの?」  突然の声に、彩樹はびっくりして跳び上がった。こんな状況で心臓に悪い。  左胸を押さえながら振り返ると、マンションの前の歩道に、一姫の姿があった。  早朝の犬の散歩だろうか、大きなピレネー犬に引きずられるように歩いている。気がついてみれば、もう朝の散歩にも不自然ではない明るさになっていた。 「ん……、いや、ちょっと散歩」  彩樹は曖昧な口調で応えた。直前までの出来事はまだ自分の中で整理できておらず、他人に説明することなど不可能だった。 「まさか……朝帰り、ですの?」 「違うよ、今日は、な」  あまりにも俗っぽい一姫の想像に、思わず苦笑する。  一姫はぷぅっと膨れた。 「今日は、ですのね」 「妬くなって」  一姫の肩を抱いて、乱暴にキスしてやる。その光景を、犬が不思議そうな顔で見ていた。 「ところで……」  唇を離すと、彩樹は上を向いた。一姫もその動作につられる。 「あの屋上から人が落ちたら、どうなると思う?」 「死んじゃいますわ、あんな高いところ……」 「そう。死ぬよな、普通は。……お前なら?」 「私どころか、彩樹さんだって死んじゃいますよ。間違っても、試そうなんて考えないでくださいね。……あ、でも」 「でも?」  一姫の顔を見て、答えにたどり着いた。そう思った。  考えてみれば、答えはずっと以前から目の前にあったのだ。今まで気付かなかった方がどうかしていた。 「魔術師の杖があれば、私はなんとかなるかもしれません。もちろん、前もって心の準備ができていればの話ですけれど」 「魔術師の杖、か……。そうだよな」  納得顔でうなずいて。 「……っのヤロー。人をおちょくりやがって! あのペテン師がっ!」  いきなり、傍らのブロック塀に拳を叩きつけた。細かなコンクリートの粉がぱらぱらと落ちて、一姫が目を丸くする。 「ど、どうしたんですの、彩樹さん?」 「なんでもねーよ。じゃ、オレは帰って寝るよ」  彩樹はどこか楽しそうに応えると、一姫と別れて歩き出した。 三 たたかう少女 1  一姫と別れて家に向かって歩き出したものの、帰って寝直すには中途半端に遅い時刻になっていた。  空手の朝稽古に慣れている彩樹は、いい加減な性格から想像されるよりもずっと朝が早い。だからむしろ、今は朝食の時刻だ。  こんな時にも腹は減るのかと自分でも意外だったが、妙に晴れやかな気分で、胃腸は今日も元気だった。  途中、行きつけの喫茶店『みそさざい』の前を通ると、朝の早いマスターの晶さんは既に開店の準備をしていて、店の前を竹箒で掃いていた。客が少ない割には、いつも早くから店を開けている。 「おはよ」 「おはよう。今朝は早いのね」 「ん、ちょっとね、普段より早く目が覚めて。メシ、喰える?」 「いいわよ、十分くらい待ってくれるなら」  彩樹は自分で料理などしないし、夜の仕事である母親とは起きている時間帯が違うから、どうしても外食が多くなる。  だから、家から近くて営業時間の長いこの店の存在はありがたかった。コンビニ弁当では舌が満足しないし、他の飲食店となると、少し歩いて地下鉄駅近くまで行かなければならない。  他に誰もいない店に入って、一番奥の席に腰を下ろす。ここは彩樹の特等席だった。  トーストにベーコンエッグにサラダ、それにヨーグルトとグレープフルーツジュースという朝食を平らげ、のんびりとコーヒーを飲みながら朝刊に目を通す。お代わりしたコーヒーも飲み干して、うとうとと居眠りを始めた頃、血相を変えた早苗が店内に飛び込んできて、彩樹の眠りを邪魔した。  目を開けた彩樹は、早苗の姿を見ておやっと思った。  起きたばかりなのか、化粧もしていないし髪もろくにブラシを通していない。着ているものも明らかに部屋着で、お洒落には気を遣う早苗らしくない。  何があったのか、ひどく慌てている。 「彩ちゃん、やっぱりここにいた! 捜したよー。電話しても出ないしさ」 「ん? ああ」  そういえば、携帯は部屋に起きっぱなしで出てきてしまった。家を出る時はこんなに遅くなるつもりはなかったし、午前四時に電話が必要になるなんて思いもしない。 「で? なんか用か?」 「あ、彩ちゃん、姫様がどこにいるか知らない? 向こうから、知内さん経由で連絡があって、行方不明なんだって!」 「行方不明……ねぇ?」  彩樹は微かに眉をひそめた。 「二時間前までいたところなら、知ってる」 「ホントにっ? どこ?」 「オレと一緒にいた。夜明けまでは、な」 「よ、夜明けっ? 彩ちゃんと姫様がぁっ?」  早苗は赤面して、ひどく驚いた様子だった。なにか勘違いしているらしい。 「それって、どうして……」 「もう帰ってるんじゃないか?」  早苗の質問は途中でさえぎった。面倒なので、いちいち説明も訂正もしない。 「電話して聞いてみろよ」 「ん……」  納得はしていない表情で、それでも早苗は携帯を取りだして知内に電話した。二言、三言話して、電話を切ると首を左右に振った。 「まだ戻っていないって」 「ふぅん……」  彩樹は曖昧にうなずいた。  妙な話だ。アリアーナが城を抜け出すこと自体は珍しいことではないが、最近はそれが騒ぎになることは滅多にない。女王としての自覚なのかどうかは知らないが、仕事を放り出して脱走していた王女時代と違い、スケジュールを細工してうまく空き時間を作り、その隙にこっそりと抜け出しているのだ。  それに、もしもこちらに来ているのなら、知内のところか、彩樹たちのところにいるはずだ。こちらに他に知り合いはいない。 「玲子さんには訊いてみたのか?」 「知内さんが電話したみたい。でも、やっぱりいないって」  では、もうこちらにはいないということだ。明け方、彩樹の前から姿を消して、そのまま向こうへ転移したのだろう。  向こうでアリアーナがこっそり足を運ぶ場所には心当たりはあった。しかし、それならわざわざ騒ぎになるようなことをするだろうか。  もしかして……。  彩樹はふと、嫌なことを考えた。  自分の意思以外の理由で、行方をくらませた可能性はないだろうか。彩樹と別れてから城に戻るまでのわずかな時間に。 「……ったく、仮にも女王なら一人でうろつくなよな。おっさんのところに、誰か来てるのか?」 「メルアさんが」 「ならいい」  その答えに彩樹はうなずいた。メルアは、魔術師としての力も持つ若手の近衛騎士だ。 「じゃ、オレは先に行ってる。お前は家に帰って、ありったけの武器を持ってこい。それから、一姫も忘れずにな」 「ん!」  早苗が駆け出していく。  彩樹も、カップの底にわずかに残って冷たくなったコーヒーを飲み干して席を立った。 2  メルアの力で転移した彩樹が最初に向かったのは、王宮の後背に広がる深い森の中だった。  知らなければ見落としてしまうような細い獣道を十数分歩くと、小さな泉に出る。  原生林の中の、澄みきった泉。  そこは、アリアーナの秘密の場所だった。彩樹たちと知り合う以前から、こっそり城を抜け出して、ここで息抜きをしていたらしい。  知っているのは彩樹だけだ。早苗も一姫も、お目付役のフィフィールでさえもこの場所は知らないという。  なのに、そこには先客がいた。それも、捜していた相手ではない。彩樹と似た髪型の、若い男だった。 「……あんたか」 「君も探しに来たのか、サイキ」  向こうも、こちらを見て苦笑している。アリアーナの異母兄シルラートだ。 「残念ながら、ここにはいないようだ」 「……だろうな」  最初から期待はしていなかった。念のため来てみただけだ。それにしても、シルラートはどうしてここにいるのだろう。 「あんたは、ここを知っていたのか?」 「アリアーナにここを教えたのは私だよ。まだ、小さい子供の頃に」 「……そうか」  そのまま、しばらく沈黙が続いた。  泉から流れ出す小川のせせらぎと、遠くの鳥の鳴き声だけが聞こえる。彩樹は泉の水面を見つめながら唐突に訊いた。 「あいつは、あんたのことが好きだったんだろう?」 「好き、の意味については注釈が必要だろうけどね」  意外なくらいあっさりと、シルラートはうなずいた。 「確かに、子供の頃のアリアーナは私によく懐いていた。サルカンドは、私たちと仲良くしようなんて気はこれっぽっちもなかったからな」  正妃の子であるサルカンドに対し、シルラートとアリアーナは母親は違うがいずれも妾腹だ。そこには、ある種の連帯感があったのかもしれない。 「サルカンドか?」  なんの前置きもなしに、彩樹はそれだけを訊いた。それでも、こちらの意図はちゃんと伝わったようだった。 「だろうな。他には考えられない。ここ二、三日、彼の居城で不審な動きがあったという報告も入っている」  彩樹は小さく肩をすくめた。溜息混じりに言う。 「あのバカ、どこで捕まったんだ?」 「君のところから帰る時だろう。アリアーナが時々、変装して君のところへ遊びに行っていたのを、サルカンドも知っていたに違いないよ」 「こっちに人を送り込んでいたのか?」 「アユミの件を憶えているだろう? 彼女をさらった実行犯の魔術師はまだ特定できていないが、私はサルカンドの手の者だと睨んでいる。それならば、王宮外には伝えられていない転移魔法を知っていた理由も説明がつく。他者の転移魔法に割り込んで捕らえることも、理論的には可能だ」 「……っ」  彩樹は足元の小石を蹴った。澄みきった泉の水面に、円い波紋が生まれる。 「それだけわかっているなら、こんな場所で何をぼんやりしている? さっさと、軍隊でもなんでも差し向ければいいだろ」 「女王が不在で、誰がそれを命じる?」  今度はシルラートが、わざとらしく肩をすくめてみせた。 「大臣たちは必ずしもアリアーナ派の人間ばかりではないから、なかなか足並みが揃わない。立場上、あまり私が出しゃばるわけにもいかない」  彩樹はシルラートを睨みつけた。なにか言い返したかったが、彼の言うことはもっともだった。  シルラートは王位継承権第一位の人物である。  彩樹たちは、彼にそんなつもりがないのは知っているが、世間一般からは今でも虎視眈々と王位を狙っていると思われている。シルラートを支持する貴族たちの中には、いまだに望みを捨てていない者がいるようだし、逆にアリアーナを支持する者にとっては、彼は仮想敵だ。  本人の意思はこの際問題ではない。周囲の人間にとって肝心なことは、自分にとって利用価値があるかどうか、あるいは危険があるかどうか、だ。  だからこの状況では、シルラートはあまり大っぴらに動けない。女王の不在時に直接軍を指揮したりしたら、アリアーナ派の人間たちは警戒心を強めるだろう。 「くそったれが」  彩樹は唾を吐いた。 「ここにいたのは、オレを待っていたんだな? 兄も妹も、面倒なことはすぐオレに押しつけやがる」 「それだけ信頼されていると思ってくれればいい」  シルラートが苦笑する。彩樹は彼を睨みつけたが、それ以上なにも言わなかった。 「一刻も早く騎士団を派遣するつもりだが、それでも手続きに多少の時間はかかる。すぐに動けるとなると、君らと近衛騎士の連中だけだ。特に君らは、こちらでは一切公式な地位に就いていない。単なる、アリアーナの個人的な友人だ。そもそも、この世界の人間ですらない」 「はっきりとした証拠もなしにサルカンドを締め上げるような真似をしても、誰も責任を追及しようがない、ってか」 「私がでしゃばると、ひとつ間違えば内戦になる」 「……しかたねーな。この貸しは高くつくぞ?」 「請求はアリアーナにしてくれ」 「……飛竜と、それを扱える騎士を一人貸せよ。そろそろ早苗たちも着く頃だな、城に戻るぞ」  回れ右して、城へ向かって歩き出した。後ろから、草を踏む軽い足音がついてくる。彩樹は振り返らずに訊いた。 「殺してもいいのか?」 「ん?」  前振りなしの唐突な質問は、シルラートには伝わらなかったようだ。戸惑ったような声が返ってくる。 「サルカンドだよ。殺してもいいのか?」 「……アリアーナを無事に救出することが、すべてに優先する。他の、あらゆることに優先すると考えてくれ」 「優等生的な回答だな。オレは、あんたの個人的な意見を聞きたいな」  彩樹は立ち止まって振り返った。シルラートは一瞬、わずかに躊躇した様子を見せたが、やがて静かに言った。 「……サルカンドが生きていると、また同じことが起こる。たとえ彼自身が改心したとしても……ま、そんなことはあり得ないだろうがな。それでも利用しようとする連中はいる。しかしアリアーナにはサルカンドを殺せない。半分とはいえ血のつながった実の兄を処刑したとあっては、アリアーナに悪い印象を持つ者も出てくるだろう」 「処刑の命令は出せないが、乱戦のどさくさに紛れて始末しろってことか」  その問いに対して、声に出してはなにも応えない。うなずきもしない。ただ真っ直ぐに彩樹の目を見ていた。  しかし、その表情が肯定している。  少しばかり、意地の悪いことを言ってやりたくなった。 「利用しようとする連中がいるという点では、あんたも同じだろ?」 「だから最近は、人前でアリアーナと仲良くするように務めているだろう?」  笑って答える。  確かに、最近は公式行事に二人で出席する機会も多く、公の場ではことさら友好的に振る舞っている。プライベートな時間でも、彩樹たちがアリアーナを訪ねてきた時には同席していることが多い。もっともそれは、半分以上早苗が目当てなのだろうが。 「それに、君には不愉快なことかもしれないが……」  そう前置きしてシルラートは続けた。 「近い将来、私はサナエを妻に迎えるつもりだ。女王の親友と結婚したとなれば、私の心証もぐっとよくなるだろう? いかがわしい野心を持っている連中も、私を利用しにくくなる」 「……」  彩樹は考え込んだ。  どこまで信用していいものだろう。確かに、シルラートが王位に興味を示したところは見たことがないが。  しかし、面白くはない。早苗は彩樹の親しい友人であり、愛人である。そしてなにより彩樹にとっては、身の回りの可愛い女の子はすべて自分のもののつもりである。その信条を曲げて、早苗を安心して任せられるのだろうか。  少し考えて、そう深刻な問題ではないと気がついた。人妻が相手というのも、それはそれでなかなか楽しいシチュエーションではないか。 「……泣かせるようなことはするなよ」 「ベッドの中以外ではね」 「ああ、あいつ、感じると泣き出すクセがあるんだよな」  今のところ、それを知っているのは彩樹とシルラートだけだ。二人で顔を見合わせて、微かに唇の端を上げて笑った。 「まあ、いいさ。どっちにしろ、卒業してからなんだろ?」 「その少し前に、正式な話をするつもりではいる」 「とにかく、今はそれどころじゃない」 「そうだね」  二人はまた歩き出した。少し早足になっている。  しばらく間があってから、シルラートがぽつりと言った。 「君は、身代わりじゃない」 「あ?」  歩く速度をゆるめて、彩樹は顔だけで振り返った。 「アリアーナにとっての君は、決して私の身代わりじゃない。確かに、最初に興味を持った理由はその容姿かもしれないが、それはきっかけでしかない。そのことだけは、理解してやってくれ」 「……」  彩樹はなにかを言いかけて、しかし結局は黙って口を閉じてしまった。  どことなくむっとしたような表情で、数秒間シルラートを睨んでいた。  そして。 「わかってる」  素っ気なくそれだけ言うと、ぷいっと前を向いて歩き出した。 3  一行は二頭の飛竜に分乗して、サルカンドの居城へ向けて出発した。  手綱を握っているのは、彩樹たちとも面識のある近衛騎士のスピカとメルア。  竜の背に乗っているのは、彩樹と早苗、一姫と歩美、そして早苗が持ってきた、山のような武器弾薬。  高所恐怖症のはずの彩樹が平然と竜に乗っているのを、早苗が不思議そうに見ていたが、彩樹はいちいち事情を説明したりはしない。  目的地まであと数キロというところで、彩樹は一度、飛竜を地上へ降ろさせた。  他の近衛騎士たちもすぐに動ける態勢は整えてあるが、今は後方で待機させている。王族相手に、決定的な物的証拠もないままいきなり戦争を仕掛けるわけにもいかない。なにしろ相手は仮にも王兄なのだ。そうそう下手な真似はできない。  そのあたりの政治的な駆け引きは、シルラートやフィフィールたちに任せてきた。なんのしがらみもなしにサルカンドに刃を向けられるのは、彩樹たちだけだ。 「結局、オレがやるしかないんだよな」  うんざりとした風を装って彩樹は言った。 「とにかく、陛下が捕らわれていることさえ確認できれば、私たちが突入します」  だらけた彩樹とは対照的に、真剣な面持ちのスピカが言う。 「でも当面の戦力がウチらと近衛騎士だけじゃ、数の不利は否めないね」 「そうだな。早苗、オレにも銃を貸せよ」 「……珍しいこと言うね」 「ま、状況が状況だしな」  彩樹の専門は格闘技と古流武術である。剣や棍なら扱えるが、銃器は専門外だ。何度か、早苗の銃を借りて遊びで撃ったことがあるくらいだ。  しかし今回は、少なくとも数百人の兵がいるであろう城内へ突入するのだ。いくらなんでも素手では苦しいだろう。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、の考え方だ。 「どんなのがいい?」 「とにかくでかくて、威力があって、弾がたくさん撃てるヤツ」 「彩ちゃんらしいというかなんというか……」  早苗は苦笑を浮かべて、飛竜の背に文字通り山と積んできた銃器をごそごそと漁った。いずれもサバイバルゲーム用のエアガンやガスガンを、魔法エネルギーを利用するこの世界の銃に改造したもので、射程と精度、速射性ではこちらの銃をはるかに凌駕する。  大小さまざまな銃の中から早苗が選び出したのは、ひときわ大きな機関銃だった。第二次大戦ものの映画で、ドイツ兵が似たような銃を使っていたような気がする。射手の他にもう一人の兵がサポートについて、ベルト状につながった弾帯で給弾するのが似合う、そんな銃だ。 「彩ちゃんなら力があるから、これでも平気かな? アサヒファイヤーアームズ製、MG‐34」  受け取ってみると、ずっしりと重かった。優に十キロ以上はあるだろう。しかし武器として考えれば、その重さがなんとも頼もしい。 「中身はマルイ製の電動ユニットに交換して、ドラムマガジンは装弾数二千発、給弾は自重落下とエアーの併用。バッテリーパックはストック内に二本内臓しているから、全弾撃ち尽くすまでは保つし、七百五十ミリのロングバレルで威力は抜群」  早苗は妙に嬉しそうに説明している。なにしろ、お洒落な今風の女子高生の外見に似合わず、その中身はガンマニアである。銃の話を始めると止まらない。  彩樹がその大きな機関銃の感触を確かめていると、早苗はもう一挺の銃を取り出した。こちらはずっと小さくて、どこか寸詰まりな感じの妙なデザインをしている。 「それから、予備の銃はこれ。五百挺しか存在しないレアもの、アサヒのブッシュカスタム・ショーティ。中身はいつものマルイ製で、装弾数は三百発。レーザー照準器を装備してあるからスコープを覗き込まなくても狙いをつけられるし、なにより銃本体で人を殴っても壊れない頑丈さが彩ちゃん向き」  彩樹は空いている左手でその銃を受け取った。  小さな外見の割には重く、確かに丈夫さがうかがえる。本体は自動小銃っぽいのに、銃身が根本から切り落とされたように見える。さらにグリップが比較的前方にあるため、ずいぶんと奇妙な印象を受けた。しかしそのグリップ位置のせいで、持ってみると驚くほど重量バランスがいい。確かに、これなら左手だけでも扱える。 「そしてハンドガン。これも彩ちゃん向きに、大きくて重いけど威力と装弾数は抜群のベレッタM93R。後期型の三点バースト機能付きモデルで、装弾数は三十発、予備マガジンも二本渡しておくね」  周囲の人間には意味不明の台詞を吐きながら、彩樹のベルトにホルスターとマガジンポーチを装着し、さらに小型のトランシーバーも手渡す。 「これで、スタローンとシュワルツネッガーが束になってかかってきても大丈夫、と」 「そうかい、サンキュ」  彩樹はかすかにうなずくと、早苗の首筋にいきなり手刀を打ち下ろした。何をされたのかもわからないまま、早苗は地面に崩れ落ちた。 「彩樹さんっ!」 「彩樹先輩!」  突然のことに、一姫と歩美が血相を変える。 「早苗はここに置いていく。歩美、お前もだ」 「そんな!」  二挺の銃を肩に担いで彩樹は言う。 「人を殺せない戦士は足手まといだ」 「あ、あたしは、できます!」  一歩、歩美が前に進み出た。彩樹はその肩を抱いて不意打ちのキスをする。 「お前は来るな。お前はもう、この手を汚す必要はないんだ」 「……」  その一言で、歩美は言葉を失った。不服そうな表情を浮かべながらも、なにも言い返すことができない。 「オレの言うこときかないなら、もう抱いてやらないぞ?」 「残ります!」  歩美は瞬時に態度を豹変させる。 「ええもう、いい子にして待ってますから!」 「一人で置いてきぼりにされたら、早苗が妬くだろ? ここで面倒見てやってくれ。スピカも」 「……はい」  責任感の強い近衛騎士も不満そうではあったが、それでも素直にうなずいた。この場は、彩樹が指揮権を持っているのだ。 「彩樹さん……」  横から、魔術師の杖を片手に一姫が進み出た。 「私は、ついていきます」  真っ直ぐに彩樹を見つめて言う。珍しく、真剣な固い表情をしている。 「彩樹さんのこと、大好きですから。早苗さんや歩美ちゃんと違って、他に彩樹さんの役に立てることないですから。だから、一緒に行きます」 「……いいよ」  微かな苦笑混じりに彩樹はうなずいた。 「ホントのことゆーと、一姫にはついてきてもらうつもりだった。ただし、お前の役目は防御に専念することだ。魔法の盾を前に立てて、敵のど真ん中を突破する。いいな」 「はい」 「メルアは竜を操って、俺たちを城の中に降ろしてくれ。それじゃ、いくぞ」  三人は、姿勢を低くしている飛竜へ向かった。 「お気をつけて」 「彩樹先輩、頑張って!」  背後から、スピカと歩美の声が追ってくる。彩樹は片手を軽く上げて応えた。 4  メルアが操る飛竜は、ぎりぎりまで高度を下げて高速飛行する。  サルカンドの城が、みるみる大きくなってくる。 「どこに降りますか?」  手綱を握って前を向いたまま、メルアが訊く。  飛竜は今、城の南側から接近している。北側は深い谷になっていた。 「あそこにしよう」  彩樹は城内の一点を指差した。 「あの、二階のバルコニーだ」 「はい」  いくら正面突破するつもりで来ているとはいえ、真っ正直に城門から侵入したのでは敵も守りを固めているだろう。それに、アリアーナがどこに捕らわれているかは知らないが、城門からもっとも遠いところと考えるのが普通だ。  超低空飛行から急激に高度を上げた飛竜が、大きく張り出したバルコニーの上で一瞬だけ空中静止した。  機関銃を抱えた彩樹が飛び降りる。一瞬遅れて一姫が続き、着地に失敗して尻餅をついた。  飛竜はすぐに離れていく。ぐずぐずしていては、地上から銃で撃たれてしまう。  彩樹は大きな窓を蹴破って屋内に飛び込んだ。 「一姫、ついて来い!」 「は、はい!」  無人の書斎を突っ切り、廊下へ通じる扉を開けて左右をうかがう。敵の姿はない。しかし廊下に出たところで、ばたばたと慌ただしい足音が近付いてきた。 「一姫!」  その声に応えた一姫が魔術師の杖を掲げるのと、銃を持った数名の兵士が角を曲がって姿を現すのがほとんど同時だった。  一瞬の閃光とともに、大きな菱形をした、透明な水晶のような板状の物体が二人の前に出現する。  魔法の盾だ。銃声と同時に、オレンジ色の光が弾ける。敵兵が放った銃弾は、すべて盾にはね返された。  彩樹は姿勢を低くして、盾の陰から機関銃をフルオートで乱射する。  銃の扱いに関しては素人同然の彩樹だが、障害物のない廊下で連射すれば、相手はかわせるはずもない。続けざまに悲鳴が上がり、三人の敵兵がその場に倒れる。  彩樹は立ち上がると、そのうちの一人に近付いていった。撃たれた脚を押さえて呻いている男の頭を、機関銃の銃口で小突く。 「てめーらのボスはどこにいる?」 「……」  男は怯えた目で彩樹を見あげたが、口はつぐんでいる。なかなか、意志の強そうな顔つきだった。 「なんだ、ど忘れしたか?」  なんの躊躇もなしに、彩樹は銃口を脚に向けて銃爪を引いた。  乾いた銃声が一発。そして悲鳴。一姫が顔をそむける。 「死ぬ前に思い出せるといいな」  続けてもう一発。今度は膝を狙って。  二秒待って、三発目は太腿を貫いた。 「別に、思い出せないならそれでいい。訊く相手はあと二人いる」  銃口を鼻先に突きつけて言う。  それが限界だった。 「い、言うっ! 言うから助けてくれっ!」  涙と涎と血で顔中をくしゃくしゃにして、男は泣き喚いた。 「でっ、殿下は、西の塔だ。西の塔の最上階、そこにアリアーナ陛下もいらっしゃる」 「ありがとよ」  彩樹は銃口をそらすと、安堵の息を漏らしている男の頭を銃床で殴って気絶させた。 「西の塔というと……こっちだな」  ここに来る前に見せてもらった、城の見取り図を思い出す。西の塔は北西側の端に建っている。正門からは最も遠く、後背は深い谷川のため、もっとも外部から攻め込まれにくい場所だ。 「ま、当然っちゃ当然か。行くぞ、一姫」 「……はい」  一姫はなにか言いたげな様子だったが、黙ってついてくる。顔が青ざめて、かすかに肩が震えていた。 「なにか文句があるか?」  彩樹は立ち止まって訊いた。 「……いえ」 「こーゆーのが見たくないなら、帰ってもいいぞ」 「いいえ……行きます」  血の気の失せた顔で一姫がうなずく。二人はまた歩き出した。  廊下の角を曲がったところで、前に敵兵の姿があった。彩樹の反応の方が速い。身体を前方に投げ出して床に伏せながら、機関銃の銃爪を引く。  一瞬遅れて、一姫が魔法の盾を展開する。まばらな敵の反撃は、すべて盾に弾かれた。  銃の代わりに剣を持っている者もいるが、彩樹が機関銃を撃ち続けているため、近付くこともできずに撃ち倒されてしまう。  彩樹は身体を起こすと、左手でもう一丁の銃も構えた。重い機関銃を右手一本で支え、二丁の銃から弾丸の雨を降らせる。 「殴る蹴るばかりじゃなくて、たまにはこーゆーのも面白いな。ハリウッドか香港のアクション映画みたいじゃん?」  顔だけで一姫を振り返って言う。と同時に身体ごと後ろに向き直って、一姫の両脇から銃身を突き出すような格好で銃を発射した。  一姫は頭を抱えてしゃがみ込む。銃声が止んで顔を上げると、背後に数人の兵が倒れていた。 「複数の敵と戦う時は、常に自分の背中を警戒すること。忘れるな」 「は、はい」  怯えながらも感心した様子で一姫がうなずく。  さすがに彩樹は、闘いに関してはまったく隙がなかった。さらに進んでいくと、途中の扉からいきなり敵が飛び出してくる場面もあったが、瞬時に反応して銃弾を叩き込んでいく。  オレンジ色をした魔光弾の光が、建物の中を無数に飛び交う。城内は大騒ぎになっているようだ。  次々と新手が現れては、彩樹の餌食になっていく。なにしろこの世界の銃は単発式。いくら人数では向こうの方が多くても、撃ち出される弾数ではこちらが圧倒している。  しかも、一流の魔術師にも匹敵する魔力を持つ一姫が、防御に専念しているのだ。散発的な反撃など怖くない。 「この分なら、案外あっさりとカタがついてしまいそうだな」  動いている敵の姿が視界からなくなって、一段落ついたところで彩樹は言った。西部劇の一場面のように、銃口から立ち昇っている薄い硝煙をふっと吹き飛ばす。 「でも、姫様が人質になっているんですのよ」  まるで物足りないような口調の彩樹を、一姫がたしなめた。  今はいい。ここにアリアーナの姿がないから遠慮なしに闘える。しかし目の前でアリアーナに銃を突きつけて武器を捨てるよう命じられたらどうする、と問う一姫を、彩樹は鼻で笑い飛ばした。 「人質ごとまとめて撃っちまう、ってのはどうだ?」 「そんな無茶な!」 「よほど当たり所が悪くない限り、そう簡単には死なねーんだし、お前がすぐに治療すればなんとかなんじゃねーか? 後で文句言われても、助けるためには仕方なかった、と言い張ればいい」 「……本当に、国家反逆罪で処刑されても知りませんからね」 「平気平気」  彩樹が笑ったその時。  突然、魔法の盾が砕け散った。  眩いほどの青い光線が数条、二人の身体を貫いた。壁に叩きつけられた彩樹の手から、銃が落ちて床に転がる。 「く……ぅ」  後頭部をしたたかに打った彩樹は、頭を振りながら身体を起こした。  廊下の向こうに立っている、ひとつの人影が目に映った。これまで倒してきた兵士たちとはまるで違う、ゆったりとしたローブをまとって、手には長い杖を持った三十代くらいの男。  魔術師だ。  考えてみれば、敵の側にも魔術師がいたっておかしくはない。油断した。 「ち……。おい、一姫」  魔術師には魔術師、そう考えて一姫の名を呼ぶが返事はない。横目で見ると、一姫は俯せに倒れたまま、か細い呻き声を上げていた。腕から血を流している。おそらく、他にも怪我をしているのだろう。 「その小娘も魔力はなかなかのものだが、しょせんは子供。隙だらけだな」 「単に性格の問題だろ」  男はこちらを見下したような笑みを浮かべているが、彩樹が少しでも動きを見せればすぐに攻撃できるように、油断なく杖を構えている。  彩樹は横目で、床の上に転がっている銃までの距離を目測した。  向こうが反応するよりも速く、立ち上がって銃を拾えるだろうか。  いや、銃を拾うだけでは駄目だ。その上で、相手が防御魔法を展開する前に撃たなければならない。力のある魔術師なら攻撃と防御の魔法を同時に使えるだろうが、防御魔法を展開されたらこちらは手が出せない。  全身がずきずきと痛んだ。上腕と脇腹のあたりから出血している。この身体では、普段よりもわずかに反応が遅れてしまう。  難しいタイミングだった。どう考えても、向こうの方が有利だ。 「それにしても、たった二人でいきなり突入してくるとは無謀な連中だな。しかしこれで、アリアーナ姫に対する人質も手に入った」  男が言う。  彩樹と一姫を人質にして、アリアーナに退位を迫るつもりだろうか。だとすると今のところ、アリアーナは自分が捕らえられても、サルカンドの言いなりにはなっていないということだ。  もちろん、人質を取られたからといって簡単に相手の要求を呑むようなアリアーナではない。自分たちが人質となった時に彼女がどんな反応をするか、想像できないだけに彩樹も少し興味があった。  それにしても、アリアーナを「陛下」ではなく「姫」と呼んでいるあたり、既にサルカンドを王位に就けたつもりでいるのだろうか。気の早い連中だ。  彩樹は男を睨みつけた。  サルカンドの配下の魔術師。もしかしたら歩美の誘拐にも関わっているのかもしれない。だとしたら、許すわけにはいかない。  多少強引でも、銃を拾って反撃するべきだろうか。相打ちになら持ち込む自信はある。歩美の仇が討てるのなら差し違えたって構わないが、しかしそれでは肝心の目的が果たせなくなる。 (あいつがどうなろうと、知ったこっちゃないが……)  アリアーナがひどい目に遭うこと自体はいっこうに構わないのだが、彩樹以外の者の手でそうなるのはなんだか気にいらない。  タイミングを計って銃を拾う隙をうかがっていると、突然閃光が走った。灼けるような痛みが肩を貫き、彩樹の身体は床に転がった。 「どうも、お前は危険なようだな。気が抜けん。人質はそっちの小娘だけでいいか」 「……オレじゃなければ、あいつは人質を見捨てるぜ?」  無事な方の手をついて、彩樹が身体を起こす。まだ、口元には不適な笑みが浮かんでいた。 「つまらん強がりを。お前と姫の不仲くらい知っているぞ。素直に命乞いでもすれば、まだ可愛げがあるものを」 「命乞いをするのはテメーの方だろ」  彩樹のへらず口に気を悪くした様子で、男は杖を掲げた。彩樹は慎重に飛び出すタイミングを計っていた。  次の瞬間。  城の外に面した窓ガラスが砕けるのと、オレンジ色の閃光が走るのと、魔術師が反対側の壁に叩きつけられるのとが同時に起こった。  一瞬遅れて、遠い銃声が響いてくる。壁に血の痕を残しながら、男の身体がずるずると崩れ落ちた。 「……なんだ?」  彩樹にも、なにが起こったのかわからなかった。立ち上がって窓の外を見る。どうも、外から銃か魔法で攻撃されたようだった。  窓から見える範囲に飛竜の姿はない。だとすると、ここを狙撃できそうな場所は三百メートル以上離れた小高い丘だけだった。  目を凝らすと、その頂上にぽつんと点のような人間の頭が見える。 「早苗……か?」  この世界の銃では、これだけの距離を正確に狙うことはできないはずだ。唯一それを可能とするのは、早苗の狙撃銃だけだ。  以前早苗の部屋で見せてもらった、大きな照準器を取りつけた何挺ものライフルを思い出す。あの中のどれかだろう。  そんなことを考えていると、複数の足音が近付いてくるのが聞こえた。彩樹が我に返って銃を拾おうとするよりも先に、銃を持った三人の兵が角を曲がってくる。  しかしその連中も、外からの狙撃で瞬く間に撃ち倒された。距離があるせいか、窓が砕けてから銃声が響いてくる。  およそ二秒の間に三発。完璧な射撃だった。 「やるじゃん」  彩樹は短く口笛を吹いた。銃については詳しくなくても、この距離でこれだけ連続して正確な射撃を行うのが簡単でないことは理解できる。早苗が精密な狙撃に用いるのは、連射にはまるで向かないボルトアクションのライフルなのだ。  あれだけ、人を撃つことに抵抗を感じていた早苗なのに。だから、連れてこなかったのに。  それでも、いざという時には役に立ってくれる。やっぱり、超一流のスナイパーだ。  ご褒美に今夜はうんと可愛がってやろう、と勝手なことを思いながら彩樹は窓際に立って、丘の方に向かって親指を立ててみせた。向こうは高倍率のスコープで覗いているのだから、きっと見えただろう。ゴマ粒のような人影が、手を振ったように見えた。 「さて……」  怪我をした一姫をどうしようかと考えて、ふと、早苗から渡されていたトランシーバーのことを思い出した。ポケットから取り出して送信ボタンを押す。 「メルア、聞こえてるか? 一姫が怪我をした。回収に来てくれ」  数秒後、飛竜を操って上空で待機していたメルアから応答があった。三十秒と経たずに、窓の外に巨大な飛竜が姿を現す。彩樹は意識のない一姫の身体を抱え、飛竜の背に乗せた。 「じゃ、頼むわ」 「でも、サイキさんも怪我を……」 「オレにとってはこのくらいかすり傷さ。それより、早苗に礼を言っといてくれ」 「……はい。あの、本当にお一人で大丈夫ですか?」 「心配すんなって。任せとけよ」 「ご武運を」  飛竜はあまり長い間、空中静止はできない。メルアはまだ心配そうな表情を浮かべていたが、結局は手綱を引いて飛竜を上昇させた。  彩樹は機関銃を拾い上げると、倒れている魔術師に近づいていった。  男は苦しそうにか細い呻き声を上げていた。死んではいない。早苗の銃は、この距離で致命傷を与えるほどの威力はない。そうならないように、微妙に威力を調整してある。  とはいえ、空手家の正拳突きに匹敵する衝撃はあっただろう。不意打ちをくらって動けるはずがない。  銃口で乱暴に顔を小突くと、男は微かに目を開けた。突きつけられた銃口を目にして、恐怖に顔が引きつる。しかし彩樹はすぐに銃口を逸らした。 「簡単にくたばるなよ。てめーには、歩美の恨みがあるからな」  銃口は、男の脚に向けられていた。軽く銃爪を引く。銃声は短かったが、その一瞬で十発近い銃弾が撃ち込まれる。  人間の喉から発せられたものとは思えない悲鳴が、銃声をかき消した。 「とりあえず、これはオレの怪我の分だ。歩美の恨みは、後でゆっくり晴らさせてもらうぞ。今は忙しいからな」  この男をゆっくりいたぶる暇がないのは心残りではあるが、今は優先しなければならない用事があるのだから仕方がない。彩樹は機関銃を担いで歩き出した。  が、数歩進んだところでふと立ち止まって振り返る。 「ああ、一姫の分を忘れてた」  もう一発銃声が響き、男の身体がびくんと跳ねた。 5  ようやく西の塔の最上階にたどり着いた時には、彩樹の傷もずいぶん増えていた。  一姫がいなくても火力ではこちらの有利は動かなかったが、どうしても防御が甘くなることは否めない。  彩樹は弾数にものをいわせてここまで進んできた。最後の仕上げに、大きな扉の前を固めていた十人ほどを薙ぎ倒し、そのまま扉を蹴破った。 「動くな! 銃を捨てろ!」  中から響いてきたそんな声を、彩樹は無視した。意外と広い室内には七、八人ほどがいただろうか。  なんの躊躇いもなしに、彩樹は機関銃を構えて発射した。右から左へ、銃爪を引きっぱなしで銃口を滑らせ、室内を掃射する。 「こ、こらっ!」 「こっちには人質が」 「待て、おい」 「人の話を」  悲鳴の和音の中に混じって上がったいくつもの叫び声も、ひとつずつ消えていく。  ずいぶんと金がかかっているらしい調度品がめちゃくちゃになったところで、ようやく銃声が止んだ。  それでも彩樹はまだ銃爪を引いたままだった。弾も、いくらか残っている。機関部から一筋の煙が立ち上って、なにかが焦げたような匂いが鼻をついた。ここまでほとんど休みなしに撃ち続けてきたために、モーターが焼けてしまったらしい。  彩樹は役目を終えた機関銃を床に落とした。もう、立っている者は彩樹の他に二人しかいない。あとの者たちは血を流して床に転がり、苦しそうな呻き声を漏らしている。  立っているうちの一人は、後ろ手に縛られて、それでも普段通りに無表情なアリアーナ。  もう一人は、その後ろに立って短銃を突きつけているサルカンドで、こちらは目に溢れんばかりの涙を浮かべて、拳銃を持った手が小刻みに震えている。 「こっ、こっ、こらっ! これが目に入らんのかっ!」  裏返った声でサルカンドが叫ぶが、いちいち相手にする気にもなれなかった。 「サイキ……、わたしに当てるつもりだったろう?」  アリアーナは相変わらず冷静な様子だったが、さすがに、いくぶん声が固いように感じた。それでも、機銃掃射にさらされてこの程度とはたいしたものだ。 「……意外と運がいいな、お前」  彩樹は微かな苦笑を浮かべた。  本気で当てるつもりだったわけではないが、「二、三発かすめるくらいは仕方がない。致命傷を与えなければいい」くらいのつもりで撃ったのは事実だ。  こんな状況では普通、人質を取った敵は絶対的に優位な立場のつもりでいる。なにしろ人質は一国の女王なのだ。警告に耳も貸さずにいきなり発砲するとは夢にも思っていない。  その油断を衝くのは、意外と有効な戦術だった。もちろん万が一のことを考えれば、彩樹のような性格でなければできることではないが。  しかし、慣れない武器ではやはり完璧とはいかなかったようだ。できればアリアーナには当てないように、というつまらない遠慮のために、肝心のサルカンドも外してしまった。  彩樹は小さく舌打ちをして、腰のホルスターの銃を抜いた。ベレッタM‐93R。拳銃としてはずいぶんと大きな、三連射が可能なマシンピストルだ。  早苗から教わった通りに親指で安全装置を外して、セレクターレバーを単射から三連射に切り替える。 「ぶ、武器を捨てろ!」  いくらか震えが治まったらしいサルカンドが、アリアーナに銃口を押しつけて叫んでいる。しかし、小さく縮こまってアリアーナの陰に隠れるような態度では、威厳も迫力もあったものではない。  彩樹は醒めた瞳でサルカンドを見た。つくづく馬鹿な男だ。こんなことで王位を手に入れられると考えるところも馬鹿だし、アリアーナを人質にして脅せば彩樹が言うことを聞くと思っているところも馬鹿だ。  どんなに脅したところで、サルカンドには人質を殺せない。アリアーナが死ねば自分の生命もないことくらい、いくら馬鹿でもわかっているだろう。  だから、人質を殺すというのは脅しにはならない。少なくとも彩樹にとっては。  サルカンドが優位に立てる要因など、ここには何ひとつ存在しないのだ。 「み、三つ数えるうちに銃を捨てろ!」  いくら大きな声を出したところで、虚勢を張っているのは見え見えだ。サルカンドの言っていることなど、彩樹はいちいち聞いていなかった。  黙って、銃を持った右手を上げる。真っ直ぐに、アリアーナを盾にしているサルカンドに向けた。 「お……俺は本気だぞ!」 「だったらどうした」  三つどころか、最初のひとつを数える暇さえ与えずに彩樹は銃爪を引いた。なんの躊躇いもなかった。  ひと続きになった三発の銃声。サルカンドの身体が仰け反り、血飛沫をまき散らして床に転がった。  自由になったアリアーナは、倒れている兄の姿を確かめるように後ろを振り返る。 「サナエの腕ならば信用できるが、サイキに銃口を向けられると生きた心地がしないな」 「だったら、それらしい表情をして見せろよ」  アリアーナの胸のふくらみに銃口を押しつけて、彩樹は鼻にしわを寄せた。  言葉とは裏腹に、アリアーナは相変わらずの無表情だ。怯えていた気配など感じられない。 「ったく、こんなバカどもに捕まりやがって。このオレがわざわざ助けに来てやったんだからな、感謝しろよ。具体的に言うと、金貨ひと山分くらいの感謝だ」  銃をホルスターにしまい、アリアーナの手首を縛っていたロープを切りながら彩樹は言う。 「考えておこう。こんな時、サイキが我が国の近衛騎士ではないのが悔やまれるな」 「ん?」 「近衛騎士であれば、こうした仕事も給料のうちなのだが」 「女王のくせに、しみったれたこと言ってンじゃねーよ」 「女王だからこそ、だ。君主に浪費癖があっては国民が大変だろう」  実際のところ、マウンマン王国の国力を考えれば、アリアーナの生活はむしろ質素といってもいい。立場上必要とする以上のドレスや宝石にも興味を示さないし、特に美食家というわけでもない。 「なんか最近、報酬をうやむやに誤魔化されている気がするんだよなー」 「アユミの件は、サイキが自ら進んでやったことだろう?」 「……まあな、それはいいさ。でも、この間のアレは?」  先日の、魔法学院での一件だ。 「ずいぶんと楽しんでいたようだから、それで十分かと」 「……」  彩樹は小さく舌打ちをした。確かにあれは役得の多い仕事だったが、現金での報酬だって貰えるものなら貰っておきたい。  どうも最近、アリアーナにうまく利用されているような気がする。 「ちっ……。とにかく、さっさと帰るぞ」  一姫が怪我をした時と同じように、トランシーバーでメルアを呼ぼうとした。  ところが、ポケットは空だった。どうやら、ここに来るまでの激しい戦闘の中で落としてしまったらしい。  面倒なことになった、と彩樹は思った。  来た道を戻るとなると、また敵兵と戦わなければならない。ここに来るまでに全員を倒してきたわけではないのだ。大きな城のこと、まだ相当数の兵が残っているに違いない。重火器なしでその中を突破するというのは、できれば避けたい。 「ここは?」  彩樹は大きな窓を開けてバルコニーに出た。どこかでロープを調達すれば、ここから脱出できるかもしれない。  しかし。 「そこは、あまりサイキ向きの逃げ道ではないと思うぞ」  背後からアリアーナの声がする。 「……なるほど」  彩樹も、下を見てうなずいた。  下は、断崖絶壁だった。外から見た時から気づいてはいたが、この城は本当に崖っぷちぎりぎりに建てられているらしい。  深い谷の底に、水量豊富な急流が渦を巻いているのが見える。水面までは数十メートルはあるだろうか。  アリアーナが「サイキ向きではない」と言ったのももっともだ。高所恐怖症が治る前の彩樹だったら、一瞥しただけで貧血を起こしそうな光景だった。 「崖に面していない側へ移動しなきゃならんな」  この窓からの脱出を諦めた彩樹が、室内を振り返る。  そこへ。 「サイキ、危ない!」  アリアーナの姿が目の前に飛び込んできた。その背後に、部屋の入口で銃を構えている兵士の姿がある。  銃声が響いた。  直後の短い叫び声は、狙いとは違う人物を撃ってしまった兵士のものだったのだろうか。  アリアーナが、彩樹の身体を押しのけるようにぐらりと傾く。  伸ばした手も、一瞬間に合わなかった。  バルコニーの低い手すりを越えて、アリアーナの身体が宙に投げ出された。 「……あ、アリアーナ!」  次の瞬間、彩樹は後先考えずに、アリアーナの後を追って飛んでいた。  耳元で轟々と風が唸る。  白く泡立つ水面が、ものすごい勢いで迫ってくる。  それは水というよりも、堅いコンクリートにでも叩きつけられたような衝撃だった。一瞬後、周囲は水と泡に包まれ、彩樹は洗濯物の気分をたっぷりと味わうことになった。  それでも、このとんでもないダイビングの衝撃を受け止めるだけの深さがあったのは幸いだった。彩樹は苦労して水面に顔を出すと、数メートル下流を流されていくアリアーナの姿を見つけた。  追いつこうと、必死に水をかく。アリアーナは意識がないのか、急流に揉まれて浮き沈みしつつ、なんの抵抗も見せずに流されていく。  関節が痛くなるほどに、限界まで腕を伸ばした。  アリアーナの服に指先が触れる。  掴まえた、と思った瞬間、岩に叩きつけられた。伸びきっていた肘に、悲鳴も上げられないほどの激痛が走る。衝撃と痛みで、一瞬、意識が遠くなった。  それでも、握ったドレスの裾は放していなかった。力任せにたぐり寄せて、細い身体を片腕でしっかりと抱きかかえる。  この急流をいつまでも流されているのは危険なので、もう一方の手で川岸の岩を掴もうとした。しかし水苔が滑って掴まえ損なう。  流れの中に顔を出していた小さな岩を蹴って、勢いをつけてもう一度川岸に飛びつく。指先が、岩の窪みに引っ掛かった。また滑りそうになるのを、爪を立てて必死に堪える。生爪が剥がれそうだったが、それでもなんとか川岸の岩に這い上がることができた。  肩で息をしながら、彩樹は周囲を確認した。  両岸は切り立った崖で、人が歩けるような河原などどこにもない。とりあえず水から上がったはいいが、身動きはとれないようだ。  次に、アリアーナの容態を見る。白いドレスの背中、右肩の下あたりに紅い染みが広がっていた。意識はないが、大きな傷はこの銃創だけで、あとは流されていた時についたものと思しき小さな切り傷、擦り傷がいくつかあるだけだ。  彩樹は、ドレスの裾を包帯くらいの幅で裂いて、固く丸めてアリアーナの肩の傷に押し当てた。崖から、うすく板状に剥がれかかっていた石を割ってその上に当て、さらに裂いたドレスを包帯代わりにしてしっかりと縛る。  これで、とりあえずの止血にはなるはずだ。体内で大きな血管が傷ついていなければ、しばらくは保つだろう。  彩樹はアリアーナの顔を見た。  もともと色白だが、今は出血のせいか、さらに血の気のない白い顔をしている。  しかし、間違えようがない。  どうして気付かなかったのだろう。  いいや、違う。  最初から、初対面の時から、きっと気付いてはいたのだ。なのに、無意識のうちに気付かないふりをしていただけだ。  この美しい少女の、金色の髪と紫の瞳。  これを黒く染めれば、彩樹にとって大切なある人物にそっくりだということに。  だから、初めて会った時から平静ではいられなかったのだ。 「……身代わりじゃあない……か」  ここに来る前に、シルラートが言っていたことを思い出す。  アリアーナの兄によく似た彩樹。彩樹の姉によく似たアリアーナ。  不思議な偶然だ。万に一つもない、天文学的な確率の出会い。  それとも、出会うことが運命づけられていたのだろうか。 「……アリアーナ。おい、アリアーナ!」  頬をぴたぴたと叩くと、やがてアリアーナはゆっくりと目を開いた。  真っ直ぐに彩樹の顔を見上げ、口元に微かな笑みが浮かんだように見えた。 「初めて……だな」 「何がだ?」 「初めて、わたしの名前を呼んでくれた」  彩樹の頬が、かぁっと赤くなった。 「……つまらねーこと言ってンじゃねーよ」  わざと乱暴に言う。  確かにその通りだ。知り合ったばかりの頃から、どうしてか名前で呼ぶことができなかった。  彩樹の方こそ、アリアーナを身代わりにしていたのかもしれない。だから、その名前では呼べなかったのかもしれない。  だけど、今なら名前を呼べる。それでも、そのことを当の本人から指摘されるのはなんだか面映ゆい。  彩樹は話題を変えるために、目の前にそびえ立つ崖を見上げた。  垂直というほどではないが、それにしてもかなり急だ。高さも二十、いや三十メートルほどはあるだろうか。岩の割れ目や露出した樹の根など、手がかりがないわけではないが、下半分は水飛沫で濡れて滑りそうだし、ここを登るのはかなり苦労しそうだった。  彩樹ひとりなら、そして無傷であれば、ほぼ間違いなく登れるだろう。しかし彩樹は腕を怪我しているし、アリアーナは重傷で、自力で登ることなど不可能だ。  怪我をした腕で、しかもアリアーナを背負って登れるだろうか。さすがに自信はない。 「……」  彩樹は眉をひそめた。 「すぐ近くに、飛竜と、早苗たちがいるんだけどな」  なのに、連絡を取る手段がない。今さらながら、トランシーバーをなくしたことが悔やまれる。  川の上流、下流に目を向けても、ここより楽に登れそうな箇所は見あたらないし、そもそも川岸を歩いて移動することも不可能だ。  どうあっても、ここを登るしかない。 「サイキひとりなら登れるか?」 「……多分な」  彩樹は曖昧にうなずいた。  あの魔術師にやられた傷に加え、アリアーナを助けようとした時に岩に叩きつけられた傷がある。肘はまだ痺れたような感覚があって、力が入らない。  しかし、それは黙っていた。言ってもどうにもならないことだ。 「だったら、わたしはここで待っていよう。ひとりで登って、助けを呼んできてくれ」 「……」  それは、彩樹も考えていた。  いくら怪我をしていても、ひとりならなんとかなる。自分だけなら、片手でだって登ってみせる。それだけの鍛え方はしているのだ。  しかし、深手を負っているアリアーナをひとり残していくのも不安だった。  川の水流は激しいし、いま座っている岩もさほど大きなものではなく、飛沫に濡れてかなり滑る。もしもアリアーナが貧血でも起こしたら、間違いなく落ちてしまうだろう。  それに、気のせいだろうか。先刻よりもほんの少し、水位が上がっているような気がする。  よく見ると流れはかすかに濁っているし、落ち葉や小枝がずいぶんと混じっていた。  空を見上げると、どんよりと曇っている。上流では雨が降っているのかもしれない。だとしたら、ここもいつまでも安全だという保証はない。  アリアーナがひとりの時にこの急流に呑み込まれたら、絶対に助かるまい。やはり、ひとりで残していくことはできない。 「オレが背負ってくよ」  彩樹は言った。 「てめーみたいな鈍いヤツ、危なっかしくてひとりで置いていけるか」 「……そうか」  アリアーナがどう受け取ったのかはわからない。彼女はただ、いつものように無表情にうなずいただけだ。  彩樹はまたアリアーナのドレスの裾を細く裂くと、寄り合わせて即席の短いロープを作った。アリアーナを背負い、その両手首をロープで縛る。こうすれば、アリアーナは腕にまったく力を入れずとも、彩樹に背負われていられる。いつまた気を失うかわからない今の状態では、必要な措置だった。 「しっかり掴まってろ」  彩樹は立ち上がって、岩に手をかけた。  わずかな窪み、割れ目、それに樹の根。  垂直に近い崖であっても、利用できる手がかりは皆無ではない。ゆっくりと、慎重に登りはじめる。  そしてすぐに、これは予想以上に辛い作業だと気がついた。  怪我をした左腕に、まるで力が入らない。アリアーナの重量がなくても、左手の力で身体を支えるなど不可能だった。 「こんなことなら、フリークライミングの講習でも受けておくべきだったかな」  わざと、冗談めかして言った。もちろん、高所恐怖症だった彩樹にそんなことができるはずもないのだが。  テレビかなにかで見たわずかな知識と、野生の本能を総動員して、彩樹は崖に挑んでいく。  ゆっくりと動くこと。  同時にふたつのことをしようとしてはならない。  片腕、片足ずつ。  動かした手が、しっかりとした手がかりを掴んだことを確認してから、片足を持ち上げる。  つま先が岩の窪みに間違いなく引っ掛かったら、もう一方の足を上げる。  慌てず、欲張らず。  数センチずつ、確実に。  自分の体重プラス、四十キロの荷物。  五メートルと登らないうちに、彩樹の額に汗が噴き出していた。  片腕で崖を登るのが、これほど難しいこととは思わなかった。力の入らない左腕では、しっかりとした手掛かりがあっても掴まっていられる自信がない。一瞬でも力が抜けたら、それで終わりだ。  仕方なく、左手の力はあてにしないことにした。とはいえ、片手をまったく使わずに崖を登れるはずもない。  岩の割れ目を見つけたら、そこに指を差し込む。指一本がぎりぎり入る細い隙間に無理やり指を押し込めば、指先にほんの少し力を入れるだけで、指は決して抜けなくなる。肩や肘、あるいは指にどれだけダメージが残ろうとも、落ちることだけはなくなるのだ。  そうして身体を支えておいて、右手を使ってほんの少し登り、また左手を少し上にある割れ目に差し込む。  じりじりと、じりじりと。  足が滑って何度も落ちそうになりながらも、なんとか持ちこたえて。  時には、力の入らない左手の代わりに、樹の根に噛みついて顎の力で体重を支えて。  少しずつ登っていく。  十メートル。十五メートル。  ようやく、これまで登ってきた距離よりも、これから登らなければならない距離の方が少なくなってくる。しかし、そこで行き詰まってしまった。  進路上に、使えそうな手がかりが見あたらない。  一メートルほど上に、かなりしっかりとした感じの岩の出っ張りと大きな割れ目があり、そこから先はいくぶん楽に登れそうだった。  なのに、その一メートルを登るための手がかりがない。  彩樹は唇を噛んだ。どうしたらいいのだろう。  一度、少し下って別なルートを探すべきだろうか。  しかし、もう、そんな回り道をする体力は残っていない。それにこの一メートルさえ越えてしまえば、その先はこのルートがもっとも登りやすいのだ。  左右を見ても、使えそうな手がかり、足がかりはない。  たった一メートル。それが、月までの距離よりも遠く感じた。 「サイキ……」  耳元で、小さな声がする。 「黙ってろ。気が散る」 「しかし、大事なことを言い忘れていた」 「後にしろ」 「いま言っておかなければ、もう二度と言えないかもしれない」 「いいから、後にしろ」  彩樹はアリアーナの言葉を遮った。  今ここで、それを言わせてはいけない。そう感じた。  アリアーナが突然こんなことを言い出したのは、最悪の事態を想定してのことだろう。  だから、聞かなかった。  危機においては、思い残すことがあった方がいい。そうすれば、簡単には死ねなくなる。 「……では、ここを乗り切る方法について考えてみよう」 「簡単に思いつくようなら、苦労はねーよ」 「彩樹の身体を足がかりにして、わたしがあそこまで登るというのはどうだ?」 「……」  その案を、彩樹は三秒ほど真剣に考えてから却下した。確かにアイディアとしてはいいが、アリアーナの腕力と今の身体の状態を考えれば、あまりにも危険すぎる賭けだ。  それに、アリアーナの手首はしっかりと縛ってあるため、この不安定な体勢でほどくのも難しい。 (縛って……そう、ロープかなにかあれば……)  そこで、天啓のようにひらめいた。  ロープの代わりになるものならあるではないか。  思わず、口元に苦笑が浮かんだ。普通、こんな状況で思い出すことではない。  女の子を縛って犯すのが好きな彩樹だが、ロープの用意がない時にそうした展開になることも珍しくない。そんなときに役に立つのが、ズボンのベルトだった。  右手で岩に掴まったまま、片手でベルトを外す。端に、ホルスターに入れっぱなしだった拳銃を結びつけた。  慎重に狙いを定めて上に放り投げる。二回目の試みで、拳銃は岩の割れ目に引っ掛かった。  ベルトを強く引っ張って、体重を預けられることを確かめる。問題はなさそうだ。  かすかな笑みを浮かべながら、彩樹は前進を再開した。 6  ようやく崖を登り切った時には、さすがの彩樹も体力を使い果たしていた。  背負っていたアリアーナを落とすように地面に降ろすと、縛っていた手首をほどいてやるのも忘れて、仰向けになってしばらく荒い呼吸を繰り返した。  掌や指は擦りむけて血が滲んでいるし、左腕の怪我はさらに悪化している。無理をしたせいで、薬指は脱臼してしまったようだ。  満身創痍。それでもまた生き延びた。  理由はよくわからないが、笑いが込み上げてきた。喉の奥から、くっくと笑い声が漏れる。  生きることにこんなに真剣になったのは、初めてのような気がする。  十分ほど横になって休憩してから、彩樹は身体を起こした。それからようやく、アリアーナの存在を思い出す。 「……おい」 「……大丈夫だ。生きている」 「ならいい」  彩樹は笑ってうなずくと、向こうがそれについてなにも言わないのをいいことに、アリアーナの手首を縛っている紐は解かないことにした。  とびっきりの美少女、それも高貴な身分の少女がぼろぼろの格好で縛られている姿。なんともそそられるではないか。 「ところで……」  彩樹の視線に気付いたのか、アリアーナはなにか言いたげに縛られた両手を顔の前に上げた。あるいは「解いてくれ」と言おうとしたのかもしれないが、遠くの銃声がその言葉を遮った。  二人揃って、銃声のした方に顔を向ける。  数百メートル離れたところにあるサルカンドの城の上空を、二頭の飛竜が舞っていた。  あれは早苗だろうか。飛竜の背から、城に向かって機関銃を撃ちまくっている。圧倒的な火力の前に、城からの反撃はほとんどなかった。 「派手にやってるな、あいつら」  思わず口元が弛む。  いつまでも彩樹からの連絡がないので、しびれを切らして強襲することにしたのだろう。向こうはまだ、二人が城を脱出したことは知らないのだ。 「さて、行くか」  彩樹は再びアリアーナを背負って立ち上がった。  少し休んだだけで、体力はずいぶんと回復していた。あの崖を登るときの苦労に比べれば、いくら怪我をして疲れ切っていても、平らな草地を歩くのはさほど苦にならない。  早苗たちと合流するべく、城の方へと歩き出す。 「……で?」  歩き出して間もなく、彩樹は訊いた。 「何がだ?」 「崖の途中で、何か言おうとしてただろ?」 「ああ……」  背後でアリアーナがうなずいたようだったが、その後しばらく返事がない。 「言ってみろよ」 「怒らないか?」 「いいから、言ってみろよ」 「うん……」  また少し間が空く。  普段、彩樹を怒らせる発言を平気でしているアリアーナらしくない。  しかしやがて。 「わたしは……、サイキのことが好きだぞ」  いくぶん小さな声になって、ささやいた。  彩樹が立ち止まると、アリアーナは付け加えた。 「……ずっと前から」 「……」  彩樹は、黙っていた。  何も応えずに、ただ黙ってアリアーナを背負ったまま立っていた。  言いたいことはたくさんあるような気もする。だけど、実際になにか言うとなると、その言葉が浮かんでこない。  なにを言っても、自分らしくない台詞になってしまいそうだった。  だから結局、なにも応えずにまた歩き出した。  ただ黙って、一分間ほどそのまま歩いて。  そして。 「……知ってたさ」  歩きながら、ぽつりと言った。 「知ってたよ。ずっと前から、な」 あとがき  数あるキタハラ作品の中でも、『たた少』ほど作者の思い通りに進まなかった話はないですねぇ。ここまで当初の構想とかけ離れた作品も珍しいです。  もともとのコンセプトは「それぞれタイプの違う四人の女の子(三人娘+アリアーナ)の冒険活劇コメディ」だったはずなんですけど、どこでどう間違えたやら。  やっぱり、彩樹というキャラが強烈すぎましたかね? 彼女の個性の前に、早苗や一姫がすっかり食われてしまいました、ふたつの意味で(笑)。  いろいろと痛い展開があって、でも『光』ほどシリアスにもなりきれず、書いてる本人にとってもわけのわからない作品になってます。  自分はいったい何を書きたかったのだろう……と自問すると、結局のところ、彩樹という個性を描くための作品だったのかもしれません。いろいろと問題はありますけど、好きなキャラですよ、彩樹って。  そのうち機会があれば、また違った形で彩樹×アリアーナという二人を書いてみたいですね。  とゆーわけで、約三年半にわたって一部の読者に支持されてきた『たた少』もこれで終わりです。  実は、この後のエピソードも考えてはあるんですけど。シルラート×早苗の結婚とか、彩樹×アリアーナの初夜とか。  特に後者は想像すると楽しいですねぇ。なにしろ相手がアリアーナですから。 * * * 「……やっぱり、なんかやりにくいな」 「わたしは初めてなのだから、サイキがしっかりとリードしてくれないと困るぞ」 「初めてなら初めてらしくしろよ! なんだよ、その落ち着きぶりは」 「いつものことだ、気にするな」 「それでも、これから初体験を迎えようとしている十代の女の子なら、もっとそれらしい反応ってもんがあるだろ? こう、ぽっと頬を紅く染めるとか、漠然とした不安を感じつつもこれから起こることを期待しているような表情とか」 「そうした繊細な感情表現をわたしに期待することが間違っているな。しかし、わたしだって緊張しているぞ」 「とてもそうは見えんが」 「平常時よりも心拍数が二十パーセント、体温がコンマ二度、上昇している」 「緊張しているヤツが、そんな冷静な分析をするかっ!」 「問題ない。さあ、始めてくれ」 * * *  ……なんて感じでしょうか?(笑)  さらに、初めて二人で迎えた朝、目を覚ますと枕元にフィフィールさんが怖い顔で立っていたりして。  ちなみにマウンマン王国の世継ぎは、早苗とシルラートの子供です。二人の間に生まれた第一子を、アリアーナが養子にして王位を継がせることになります。ま、それはまだまだ先の話ですけど。  さて、ようやく『たた少』も完結(?)して、古いシリーズであと残っているのは『月羽根の少女』だけですね。こちらの最終話はただいま準備中です。比較的正統派の、第一話の続編みたいな形になるかと思います。早ければ年内に公開できるでしょうか。  それではまた、次の作品(何を書くかは未定)でお会いしましょう。 二○○二年三月 北原樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/