一章 最果ての地へ 「……っくしゅん!」  シェルシィ・リースリングは、自分のくしゃみで目を覚ました。  凍えそうなほどに寒い。  なにしろ北極圏に近い北の空の上である。これが民間の旅客機であれば、暖房の入った客室で温かいコーヒーも飲めるだろうが、必要最低限の装備しかない軍の輸送機ではそうもいかない。  毛布にくるまって、手足を縮めてがたがたと震える。また、くしゃみが出た。 「そろそろ起きなよ、嬢ちゃん。そんな薄着で居眠りしてたら風邪ひくぞ」  操縦席の機長が振り返って笑う。  この航路を毎週飛んでいる機長も、隣の副操縦士も、そのまま極地探検でも行けそうな重装備で操縦桿を握っている。離陸前、北国の寒さを知らないシェルシィの薄着を見かねて毛布を貸してくれたのだが、それも「ないよりはマシ」という程度にしか役に立っていなかった。 「嬢ちゃんじゃありません。あたしの名前はシェルシィ・リースリング。これでも少尉です」  からかうような口調が癇に障って、シェルシィは寒さで紫色になった唇を尖らせた。確かにまだ十代だし、小柄で童顔のためにいつも実年齢より幼く見られるのは事実だが、一応はマイカラス王国空軍の士官なのだ。たとえ、士官学校を卒業したばかりの新米だとしても。  毛布にくるまったまま立ち上がって、身体を伸ばす。  寒い中、貨物の隙間に不自然な姿勢で長時間座っていたために、全身が強張っていた。ずっと、ワインの木箱を椅子代わりにしていたのだ。陸路が整備されていない辺境の基地に補給物資を運ぶ輸送機に、余分なスペースなど存在しない。彼女自身、今は貨物同然の扱いである。 「どうして、こんな僻地に基地を建設したのかしら。敵だって来ないでしょうし。あーあ、暖かい南方戦線に行きたかったな」  毛布の中から手を出して、以前のくせで髪をかき上げる仕草をする。辺境の基地では長い髪なんて邪魔になるだけと思い、背中まであった髪をばっさり切ったのは三日前のこと。まだ、短い髪に慣れていない。  こんなことなら切るのではなかったと、今さらのように後悔した。長い髪は意外と暖かいものだ。首筋の防寒に少しは役立ったことだろう。 「あたし、寒いのって苦手なんですよ」 「だったら、嬢ちゃんはどうしてここに来たんだ? クリューカ基地に配属になるパイロットは、志願した者だけだと聞いていたが」 「それは……もう、意地悪ですね」  シェルシィは拗ねたように言った。たとえ輸送機に乗っていても、空軍のパイロットなら知っていることだろうに。  いくら女性の社会進出が進んでいるマイカラス王国とはいえ、女性パイロットが戦闘機に乗れる部隊などそういくつもあるものではない。それが最新鋭機となればなおさらのこと。数少ない例外がこの北の地だ。 「女だてらに戦闘機乗りか。嬢ちゃんも物好きだね。ほら、物好きのお仲間が来たぞ」  厚い手袋をはめた手で、機長が前を指差した。隣に立って目を凝らす。  目に映るのは、北国特有の薄い雲がかかった水色の空と、もう春だというのに雪が残っている部分の方が多い平原。  そして――  水平線の上、淡い色の空に、小さな灰色の点が三つ浮かんでいた。  針の先ほどの大きさにに見えたそれは、たちまち大きさを増してくる。相当な速度で近づいてきているのだ。もう、小型の飛行機であることがはっきりとわかる。  同時に、おんぼろ輸送機の咳き込むようなエンジン音に慣れた耳に、別の音が聞こえてきた。下腹に響く低い呻りと、金属の笛のような甲高い音。それが耳を塞ぐほどの轟音になり、明るい灰色の影が視界を塞いだ瞬間。  ドンッ!  機首になにかが叩きつけられたような衝撃だった。続けてもう一度、二度。そろそろガタが来はじめている機体が激しく揺れて、ぎしぎしと軋む。  シェルシィは操縦席横の窓に張りついて、すれ違ったばかりの相手を目で追った。それは強引な斜め宙返りで反転、減速して、後方から近づいてくる。二番機、三番機がその後に続く。  まるでこちらを攻撃してくるかのような乱暴な機動だったが、友軍機だ。機体側面に、翼を広げた青い竜の姿を模したマイカラス空軍のマークが描かれている。  それは、一般常識からすれば奇妙な形の飛行機だった。  まず目を疑うのは、どこにもプロペラがないことだ。胴体は槍の穂先のように鋭く、その両側に不自然に大きな空気取り入れ口がある。  主翼は前後の幅が広く直線的で、上から見れば台形に近い。その後ろには大きな水平尾翼と、やや外側に傾いた二枚の垂直尾翼。  尾部はすぱっと切り落としたような形状で、二つ並んだ大きな排気口からは薄い灰色の煙が真っ直ぐ後ろに伸びている。陽炎でひどく揺らめいて見えることから、排気が相当な高温であることがわかる。  シェルシィが今まで見てきた、どんな飛行機とも違う。  ジェット、だった。  ジェット戦闘機だ。  五年も続いているこの大戦で、もっとも進化した兵器は航空機だった。ほんの十数年前には布張りの複葉機だけがのろのろと飛んでいたこの大空を、今では超ジュラルミン製の戦闘機が時速七○○キロ近い速度で駆けめぐっている。  航空機の進化は、もう行き着くところまで来てしまったと考える者もいるほどだ。この先はもう、過去十年間のようなの大きな進歩は望めない、と。  しかしそれは、ガソリンエンジンとプロペラを動力とする伝統的なレシプロ機に限ってのこと。とどまるところを知らない技術の進歩は、まったく新しい航空機を生み出そうとしていた。  それが、ジェットだった。  高温高圧の燃焼ガスを噴き出す反動で推力を得るジェットエンジンは、理論的にはガソリンの爆発力でピストンを動かすレシプロエンジンよりも高速に達することができる。目の前を飛んでいるのは、まだ実戦配備されていない最新鋭機。マイカラス空軍がようやく実用化したばかりの、世界初のジェット戦闘機なのだ。  食い入るように見つめていたシェルシィは、ふと思いついて予備のヘッドセットを手に取った。パイロットと話をしてみたい。 『はぁーい、ごきげんよう!』  通信機のレシーバーを耳に当てるのと同時に、ハスキーな女性の声が飛び込んできた。同時に先頭の一機が輸送機の前に出て、大きく翼を振る。どうやらこの機のパイロットが声の主らしい。 「相変わらず乱暴な奴だな」  苦笑しながら機長が応える。その態度から察するに、先ほどの乱暴な出迎えは今日に限ったことではないらしい。あるいは輸送機を敵の爆撃機に見立てて、迎撃訓練の標的にしていたのかもしれない。 『あら、普段のわたくしはもっとお淑やかでしてよ。でも、それでは戦闘機パイロットなんて務まりませんもの』  そう言った後で、わざとらしい口調で『おほほ……』と笑う。これはどう考えても、乱暴な方が地だろう。 「お前さんの大事な荷物が割れても知らないぞ」 『えっ? あれ、届いたの?』 「ソーウシベツ産の白ワイン、それも上質のリースリングが二ケースだ」 『わぁお、すごいじゃない!』  レシーバーから聞こえてくる声が、一オクターブ高くなった。シェルシィは一瞬、自分の名前を呼ばれたのかと思ったが、機長が言った『リースリング』は、ワインの原料である葡萄の品種名だ。 『もうワインが底をついちゃって、一昨日からビールしか飲んでないのよ。ほら、もっと速度上げて。さっさと着陸しなさい!』  催促するように、激しく翼を振る。 「無茶言うな、こっちはおんぼろなんだから。それと、もう一つ掘り出し物があるぞ」 『なになに?』 「一本だけだがな。リースリングの最高級品、しかも一八年ものの古酒だ」  機長の台詞が終わらないうちに、甲高い口笛が響いた。目の前の戦闘機の排気口から、朱い炎が伸びる。 『エンジンが焼き切れるまで、全速で回しなさい! 待ってるからね』  戦闘機がみるみる小さくなっていく。わずかに遅れて他の二機が続く。三機はあっという間に彼方の小さな点となり、視界から消えていった。すごい加速力だ。  シェルシィはちらりと計器盤に視線を落とした。この機の速度はおよそ時速三五○キロ。簡単な暗算をすると、向こうは八五○キロを超えていたはずという結果になった。  時速八五○キロ!? 慌てて検算をする。  これまでの常識からは考えられない速度だった。現在、世界最高速の戦闘機や高速偵察機でも七○○キロちょっとが限界、八○○キロですら夢のような速度なのに。  これが、ジェットの性能だった。 「すごい……すごい!」  シェルシィは熱っぽい瞳で、三機が飛び去った方角を見つめた。 「どうだい、すごいだろ」  機長の言葉に無言でうなずく。感動のあまり言葉が出てこなかった。  すごい。  本当にすごい。  最新技術の結晶である、零式ジェット戦闘機〈竜姫〉。  シェルシィは、あれに乗るためにこんな辺境まで来たのだ。この先に、新型機の試験を行う実験飛行隊のための基地がある。  そのクリューカ基地こそ、新米でしかも女子のシェルシィが最新鋭機に乗ることのできる、世界で唯一の場所だった。 * * *  クリューカは、ツンドラの原野に築かれた小さな空軍基地だった。  二本の滑走路といくつかの建物以外、周囲に人工物は見当たらない。新兵器の機密保持のために僻地に建設したのだと聞いていたが、いくらなんでもやりすぎという気がする。一番近い街まで二○○キロもあるのだ。 「降りるんなら、それ、ひとつ持ってってくれ」  自分の鞄をかついで輸送機を降りようとしたところで、機長に言われた。指差しているのは、シェルシィが椅子代わりにしていたワインの木箱だ。  箱に刻印されている生産者名を見て、小さく苦笑する。リースリング社――シェルシィの父が経営する、国内最大のワインメーカーだ。彼女の家は代々、マイカラス王国でワイン造りをしてきたのだ。  生産年は一昨年。天候に恵まれ、葡萄の出来がすばらしく良かった年だ。しかもかなりの高級品。こんな辺境の基地には少々不釣り合いな気がする。最新鋭機のパイロットというのは、飲物まで優遇されているのだろうか。 「いや、それは先刻のねーちゃんの個人的な注文なんだ」  疑問が顔に出ていたのか、機長が笑って教えてくれる。 「なんだ。ずいぶん贅沢な人なのね」  別に、残念というわけではない。家に戻ればいくらでも飲める。もっとも、次に帰れるのがいつになるかはわからないけれど。  シェルシィは両手で木箱を持ち上げた。一二本分のワインの重みがずっしりと腕にかかる。 「そういえば、先刻話していた一八年ものとやらは? ずいぶん楽しみにしていたみたいだし、それを真っ先に持っていてあげるべきでは」  なにしろ、訓練を途中で放り出して基地に戻ったほどなのだから。 「そこにあるだろ」  機長がこちらを指差す。人差し指は腕の中の木箱ではなく、シェルシィの顔に向けられている。  小さく首を傾げて、すぐに「あっ」と声を上げた。 「……あたし?」 「嬢ちゃんはそのくらいの歳だろ。なあ、シェルシィ・リースリング少尉?」  にやにやとからかうように笑う。シェルシィの姓が有名な葡萄品種と同じであることに引っ掛けた洒落なのだ。リースリングの最高級品――そう、シェルシィはマイカラス王国でも有数の名家、リースリング家の一人娘だ。  だけど。 「古酒なんて失礼だわ」  シェルシィはぷぅっと頬を膨らませた。 「ワインならともかく、女の子の一八歳はまだ新酒ですよぉ、だ」  機長に向かって子供っぽく舌を出してから、狭いタラップを降りる。靴が滑走路のコンクリートに触れるのと同時に、 「待ってました!」 「きゃっ!」  いきなり、抱えていた木箱を奪い取られた。  一人の女性が、輸送機の下で待ちかまえていたのだ。肩に軽くかかるくらいの鮮やかな朱い髪が、原野と基地の地味な色彩の中でひときわ鮮やかに映った。  ややきつい顔立ちの、なかなかの美人だった。シェルシィよりは長身だが、それでもどちらかといえば小柄な方だろう。歳は二十台前半くらい。階級章は大尉。 「今日の便でこれが届かなかったら、アタシは燃料切れで墜落するところだったね」  無線で聞いたのと同じ声だった。舌なめずりしながら木箱に頬ずりしている。  よほどワインが恋しかったのだろう。重い荷物を抱えているとは思えない、スキップするような軽い足取りで宿舎と思しき建物へ戻っていった。 「あ、あの……」  女性の姿はあっという間に視界から消えた。呆気にとられて「司令官はどちらにいらっしゃいますか」と訊ねる隙すらなかった。まずは基地司令に着任の報告に行かなければならないのに。  寒々とした滑走路の上に、シェルシィ一人がぽつんと取り残される。 「ああ、無駄無駄」  ハッチから顔を出した機長が笑う。 「アルコール切れの時のあいつは、他人の話なんか聞いちゃいない。基地司令なら向こうの建物だ」  指差す先は、司令室というにはずいぶん簡素な建物だった。鞄をかついで歩き出したシェルシィは、滑走路を横断しながら周囲を見回す。  本当に、何もない原野だった。基地から少し離れればまだあちこちに残雪があり、茶色い地面とまだら模様を描いている。ところどころ、ようやく芽吹いたばかりの草の緑が、モノトーンの風景にわずかなアクセントを与えている。  視線を遠くに移すと、北極を環状に取り巻く長大な山脈の白い峰々が、蜃気楼のように空に浮かんで見えた。思わず足が止まる。  自分が最果ての地に来たことを、嫌でも実感させられてしまう。頬を撫でる風はまだ冷たい。  小さく溜息をついて、また歩き出した。今度は基地内の様子を観察する。  一番大きな三棟の建物は、航空機の格納庫だろう。その前には、先ほどの機体だろうか、三機の零式ジェット戦闘機が駐機していて、数人の整備員が忙しそうに働いている。  近くで見てみたかったが、まずは着任報告が先だ。零式の方は、これから好きなだけ見ることができる。  格納庫の次に大きいのが、おそらくは隊員の宿舎と思われる建物だった。飛行隊員はシェルシィを含めても一二人しかいないはずだが、地上勤務の整備員や管制要員がいるので、基地の人員の総数は、パイロットの数より何倍も多い。  いま向かっている司令部の建物は、格納庫や宿舎よりもずっと小さかった。その隣の管制塔も、鉄骨が剥き出しの簡素な造りだ。  正直に言って、初めて見るクリューカ基地の第一印象は、 「……安普請」  だった。  うっかり声に出してつぶやいてしまい、慌てて周囲を見回した。大丈夫、誰にも聞かれていない。  それにしても、高価なジェット戦闘機を擁している割には、ずいぶんと金のかかっていなさそうな基地だ。あるいは飛行機に金がかかりすぎて、地上施設に回す予算がなかったのかもしれない。  五年に及ぶ大戦で、国の経済は疲弊している。軍需景気の恩恵を受けて潤っている企業など一握り。本来はエリートである戦闘機パイロットの給料だって、以前より安くなっているような状況だ。堅牢でなければならない前線の要塞と違い、後方の実験飛行隊の基地に金はかけられないのだろう。 「……いいけどね。飛行機さえ最高のものなら、地上にはベッドとお風呂だけあればいいんだもの」  小さな溜息を残して、司令部の建物へと歩いていった。入口には衛兵すらいない。不用心な気もするが、そんな必要はないのかもしれない。なにしろ周囲は何もない原野である。近づく不審者がいれば、一○キロ先からでも見つけられそうだった。 * * * 「よく来たね、リースリング少尉。基地指令のリーヴ・アーシェンだ」  右手を差し出した四十代の男性は、線が細く穏和な雰囲気で、あまり軍人らしくは見えなかった。軍服を着て中佐の階級章を付けていなければ、人の好い教師か学者と思ったかもしれない。生徒に恐れられていた士官学校の教官の方が、よほど貫禄があった。 「待っていたよ。士官学校での成績は見せてもらった。実に優秀だね」 「いえ、それほどでも」  これは謙遜である。卒業時のシェルシィの成績は、総合で上位五指に入っており、操縦及び空戦技術については文句なしのトップだった。親の猛反対を押し切って士官学校へ入学したのだから、悪い成績など取れるはずがない。 「知っていると思うが、少尉が配属される第九○七飛行隊は、零式ジェット戦闘機の運用試験を行う実験飛行隊だ。なにしろジェットなんて誰も実戦で使ったことはない。新型機の問題の洗い出し、ジェットならではの運用・整備方法のチェック、そしてジェットの性能を活かした新戦術の研究、やることはたくさんある。当面は朝から晩まで飛ぶだけの生活になるだろうが、頑張ってくれ」 「それこそ、望んでいたことです」  シェルシィは瞳を輝かせた。  まったく夢のようだ。一日中飛んでお給料をもらえる生活なんて。しかも乗るのは最新鋭機。 「期待しているよ、リースリング少尉。この後の詳しいスケジュールとか、基地での生活のことについては、飛行隊長のソニア・ハイダー大尉に聞きたまえ」  司令官はそこで一旦言葉を切って、壁に掛かっている時計を見た。 「今なら多分、彼女は食堂にいるだろう。午後の訓練に出る前に挨拶しておくといい」 「はい、それでは失礼します」  背筋を伸ばして敬礼し、シェルシィはその場から退出した。そのまま、宿舎へ通じる廊下へと向かう。  建物はプレハブのような安っぽい造りだが、新しいので隙間風が入ってくることはない。蒸気式の暖房が入っていて、外観から想像していたよりも屋内は暖かかった。  食堂はすぐに見つかった。初めての基地とはいえ、迷うほど広い建物ではない。昼食の時刻は過ぎていたから、食堂はがらんとしていた。入ってすぐのところに一人、奥の方に二人、いずれも二十台の若い女性だ。 「あの……」  シェルシィは、入り口近くに座ってグラスを傾けていた女性に声をかけた。燃えるような朱い髪は忘れようがない。先刻、滑走路で出会った人だ。  テーブルの上には、あの木箱の中身が一本置かれている。まだそんなに時間は経っていないはずなのに、瓶は空になっていて、微かに金色がかった液体は、グラスの中にほんの少し残っているだけだった。  足音に気付いた女性が顔を上げた。シェルシィは慌てて敬礼をする。 「あ、あたし、今日からこの基地に配属になりました、シェルシィ・リースリング少尉です。あの、飛行隊長のハイダー大尉はどちらにいらっしゃいますか?」 「シェルシィ? ああ、例の一八年物のリースリングね。いいところに来た」  納得顔でうなずくと、グラスの中身を飲み干して立ち上がる。 「ちょうど、一本空になったところなんだ。味見させてもらうか」 「え?」  いきなり、顎に手をかけられた。何が起こったのか理解する前に、しっかりと唇が重ねられていた。 「――っっっ!?」 「ふうん、けっこう美味しいじゃない。かなり甘口だね」 「な、な……いきなり何するんですかっ!」  服の袖で口を拭いながらシェルシィは叫んだ。  士官学校に入る前は女学校の寄宿舎にいたから、こうした百合的なノリは知らないわけではない。とはいえ、初対面でいきなり唇を奪うだなんて。 (きっと、酔っぱらっているのね)  口の中にほんの少し、甘いワインの味が残っている。 「さ、行くよ」  まだ動揺醒めやらぬうちに肩を抱かれ、耳元でささやかれた。シェルシィはさらに狼狽える。 「い、行くって、どこへっ?」 「なに慌ててんの? 寝室にでも連れ込まれると思った?」  その通りです、とは口には出さなかった。いくら酔っぱらいでも相手は上官。新米少尉としては、大尉様に失礼な口をきくわけにはいかない。 「サラーナが戻ったら、格納庫に来るように言っといて」  朱毛の女性はシェルシィの肩を抱いたまま、奥の二人に声をかける。こちらを面白そうに観察していた二人は、片手を上げて応えた。まだ狼狽えたままのシェルシィは、強引に引きずられていく。 「あ、あのっ、ちょっとっ、そんなっ?」 「いいから、ここまで来てじたばたするなって。痛くしないから」 「わぁぁん、やっぱりぃぃっ? だめっ、あたし、そっちの趣味はっ」 「……うぶな奴からかうと面白いね。すぐ本気にするんだから」 「え?」  気がつくと、がらんとした格納庫に連れてこられていた。乱暴な扱いに文句を言うより先に、シェルシィの視線は格納庫の中央に釘付けになった。  そこには、一機の戦闘機があった。  鋭い刃を思わせるスマートな機体。微妙に濃さの違う二種類の明灰色で塗装された機体はぴかぴかで、油汚れの染みひとつ見当たらない。 「零式……」 「零式ジェット戦闘機〈竜姫〉だ。昨日組み上がったばかりの新品だぞ」  コクピットの下と垂直尾翼に、907‐12という機体ナンバーが書かれている。第九○七飛行隊の一二番機。マイカラス空軍の戦闘機隊は一二機編成が普通だから、その末番。  それが意味するところはひとつ。 「お前の機だよ」 「あ、あたしのっ?」  思わず、声が裏返ってしまった。 「大切に使えよ。高いんだからな、このお姫様は」  それはそうだろう。最新鋭のジェット戦闘機の、まだ量産されていない試作機だ。しかも最新技術が山のように盛り込まれている機体。どう考えても安いはずがない。  クリューカ基地に来る前に小耳にはさんだ噂では、零式は技術的には十分実用レベルに達しているのに、その製造・運用コストの異常なほどの高さ故に実戦配備されないのだという。 「……すてき」  間近で見る竜姫は、溜息が出るほどに格好よかった。美しさと猛々しさが、これ以上はないというくらいに絶妙のバランスでブレンドされている。 「もっと近くで見ていいですか?」 「ああ、好きにしな」  シェルシィは機体に歩み寄った。  手を伸ばして、恐る恐る触れてみる。暖房の入っていない格納庫で冷えきった、金属の冷たさが伝わってくる。ナイフのような、あるいは槍の穂先のような鋭さを持った機体。子供の頃に読んだ空想科学小説に出てくる、未来のロケット戦闘機のようだ。 「すごい……すごいわ」  機体の周りを一周しながら、何度も感嘆の声を漏らした。これを自分が飛ばすのかと思うと、興奮のあまり心臓が破裂しそうになる。  滑らかな曲線を描く機首部分に頬ずりし、撫で回すことに夢中になっていたシェルシィは、近づいてくる足音を聞き逃していた。 「ソニア、呼んだ?」  突然の声に驚いて、ばねが弾けるような動作で振り返る。  一人の女性が、ゆっくりと近づいてくる。長い銀髪をなびかせた、美しい人だった。 「ああ、コイツの面倒を見てやってくれ。アタシはこれから訓練だから」  シェルシィをここまで連れてきた女性が、こちらを親指で指して言う。 「あなたは昼の訓練、途中でさぼったものね」 「サボリとは失礼な。燃料補給に戻っただけさ」 「人体用アルコール燃料の補給に、ね。……初めまして、リースリング少尉」  二人を交互に見ていたシェルシィに向かって、手を差し伸べてくる。軍人だということが信じられないような美人なので、間近で真っ直ぐに見つめられると、同性なのに頬が朱くなってしまう。  遠慮がちに手を握り返しながら、さりげなく相手を観察した。階級は大尉だった。 「私はサラーナ・オルディカ。九○七飛行隊の副隊長よ」 「あ、は、はい! シェルシィ・リースリング少尉です。よ、よろしくお願いします」 「じゃ、後は任せた」 「はい、任されました。じゃあソニア、気をつけてね」  サラーナの声を背中に受けて、朱毛の女性が引き上げていく。その後ろ姿を見送っていたシェルシィは、あることに気づいて大声を上げた。 「え……えぇぇぇっ?」  このサラーナ・オルディカ大尉は、あの人のことをなんと呼んでいた?  ソニア、と。  そして、九○七飛行隊の隊長の名は?  ソニア・ハイダー大尉。 「あ、あ、あの人がっ? 飛行隊長なんですかっ?」 「そうよ? ソニアってば自己紹介もしてなかったの? 相変わらずね」 「で、でもでもっ。あの人ってば食堂で浴びるようにワインを飲んでいて、あたしにいきなりキ……キスしたんですよっ?」 「まあ、いつものことだから。早く慣れることね」 「い、いいんですか、それで?」  いつものこと、なんて軽く流してしまっていいのだろうか。あんな人が、戦闘機隊の隊長だなんて。  大空の騎士たる戦闘機パイロットとは、もっと規律正しく厳格なものではなかったか。  なんだか、大変なところへ来てしまった気がする。 「今さら言っても治らないし。それよりもシェルちゃん、乗ってご覧なさい。一通り、操縦の練習をしてみましょう。操縦マニュアルには目を通してきた?」 「あ、はい」  ここへ来るまでの長い道中で、暗唱できるほどに何度も読み返している。 「頭ではわかっていても、操縦は身体で憶えないとね。今日中に、目を閉じていてもすべての機器を操作できるようになさい。そうしたら、明日は飛ばせてあげる」 「と、飛べるんですかっ?」 「もちろん。そのためにここへ来たのでしょう?」 「それはそうですけど」  空軍士官学校に入学した当時、初めて飛行機に乗せてもらうまでの地上訓練の長さを経験しているだけに、すぐに最新鋭機に乗れるなんて夢のようだった。 「一日も早く、一人前のパイロットになってもらわなきゃ困るの。のんびりやっている余裕はないわ」 「頑張ります!」  飛べると聞いて、俄然やる気になった。  竜姫の操縦機器の配置は、これまでの戦闘機とは大きく異なっている。明日飛ぶためには、急いで身体に憶えこませなければならない。サラーナに教えてもらった更衣室ですぐさま飛行服に着替え、竜姫のコクピットに飛び込んだ。 「これは……」  そこでようやく、竜姫の異質さを身をもって実感する。 「ずいぶんと狭いですねぇ」  話には聞いていたが、竜姫のコクピットはひどく狭い。もともと戦闘機のコクピットというのは広いものではないが、女子としても小柄なシェルシィでさえ窮屈な印象を受ける。これではサラーナやソニアはともかく、男性パイロットでは操縦席に座ることさえできないのではないだろうか。 「性能を限界まで追求したら乗員スペースが足りなくなったって、竜姫の設計主任が言ってたわね」  タラップに立ったサラーナが笑う。 「はぁ……いいんですか。それで?」 「リカード・ブロック大佐っていうんだけど、けっこうな変わり者なのよ。ただし、航空機設計に関しては紛れもなく天才」  竜姫誕生の経緯を、サラーナが説明してくれる。  リカード・ブロックは以前、この大戦には参戦していない中立国テンナの技術者だったのだそうだ。  彼もまた、パイロットとは違った形で飛行機に魅入られた男だった。  まだジェットエンジンが実験室の中だけの存在だった時代、戦闘云々以前にジェット機の模型を飛ばすことに苦心していた時代に、世界最強の戦闘機を生み出すことを夢見て、独力で斬新なジェット戦闘機を設計したのだ。  ブロックはやがて、その設計図を手にマイカラスへ亡命してきた。政治的な理由でない。テンナ空軍がジェット機の開発に乗り気ではなかったことと、彼の設計を実現するにはテンナの技術力が不足していたためだ。  この大戦で、敵国アルキアの強力な空軍力に手を焼いていたマイカラスは、すぐさまブロックを軍の航空機設計局の技術主任として雇い入れた。  そうして試作された零式ジェット戦闘機は素晴らしい性能を見せたものの、製造・運用コストのあまりの高さと操縦の難しさ、そしてコクピットの狭さが問題となって量産を見送られた。代わりに、その斬新で優れたアイディアの数々を、マイカラスが開発していたジェット機に盛り込んで、制式採用の四式ジェット戦闘機〈飛竜〉が生まれた。  それでも零式の性能は四式を凌駕していたため、次代のジェット戦闘機を生み出すために試験を続けることとなった。こうして、第九○七飛行隊が生まれたのである。 「それにしても、多少性能を犠牲にしても、せめてコクピットくらいはもう少し広くできなかったんでしょうか?」 「使いやすさよりもとことんまで性能にこだわるあたりが、天才と呼ばれる所以なんでしょうね。でも、私たちは彼に感謝するべきよ。この狭いコクピットのおかげで、最新鋭機に乗ることができるのだから。わかるでしょう?」 「男性パイロットの体格では、とてもこの操縦席には収まらないというわけですね?」  シェルシィはシートの上で姿勢を正し、ベルトを締めた。  狭さに驚いた竜姫のコクピットだが、乗り慣れた練習機と違う点はそれだけではない。  まず操縦桿。  普通の戦闘機では両脚の間にある操縦桿が右手の位置にあって、しかもひどく短い。右手で操縦桿、左手でスロットルレバーを握ると、ちょうど、肘掛けつきの椅子に座っているような姿勢になった。違和感はあるが、慣れれば意外と楽かもしれない。  操縦桿を小さく動かしてみる。すごく軽い。てこの原理を利用した機械式の操縦桿と違い、竜姫の操縦装置は電機式なのだそうだ。操縦桿は単なるスイッチでしかなく、機体に組み込まれた強力なモーターがエレベータやエルロンを動かす仕組みだ。  これは、シェルシィにとっては嬉しいことだった。高速での機動時、空気抵抗を受けて操縦桿はひどく重くなる。華奢なシェルシィでは両手で渾身の力を込めなければならないほどだ。電機式ならばその問題がなくなるだろう。  操縦桿には、人差し指の位置に機関砲のトリガー、親指の位置に外部タンクやロケット弾、爆弾の投下スイッチがある。これらもすべて電機式だ。  左手のスロットルレバーは太く、照準器の調整つまみや無線送信ボタン、フラップとエアブレーキのスイッチ等がある。そして、計器盤にも憶えきれないほどのスイッチ類が並んでいる。  これらの機器を、すべて反射的に操作できなければならない。空を飛んでいる時、敵機と交戦している時、ゆっくりと考えて手元を確認する余裕などない。コンマ一秒の反応の遅れが生死を分ける世界なのだ。  サラーナの指導で、シェルシィは操作手順を一から練習していった。  エンジン始動、離陸、水平飛行、旋回、曲技飛行、空戦そして着陸。  何度も何度も同じ手順を繰り返す。頭で考えるのではなく、身体に憶えさせるのだ。計器類も、一瞥しただけですべて状況が読み通れるようにならなければならない。  いったい何十回、同じことを繰り返しただろう。サラーナの指示で目を閉じたままの着陸手順を終えて息をついたところで、外の轟音が格納庫の薄い壁を震わせた。戦闘機のエンジン音、それもレシプロではない。 「零式ですね?」 「ええ、ソニアたちが訓練飛行から戻ったようね」 「そういえば、ワインのために訓練を途中で切り上げたって言ってましたっけ……って、えぇっ?」  今さらながら、大変なことに気がついた。 「じゃあ今の、ハイダー大尉ですか?」 「そうよ?」 「だってだって、隊長ってば先刻、ワインを一本空にしてましたよ?」  パイロットには、飛行前にやってはいけないことがいくつもある。  睡眠不足、腸内でガスが発生しやすい豆や芋の食事、過剰なカフェインの摂取、等々。飲酒はその最たるものだ。自動車でさえ飲酒運転は禁止されているというのに、最新鋭戦闘機を酔ったまま飛ばすなんて。 「いつものことよ」  サラーナは平然と笑っている。 「いつもの、って……」 「まあ、慣れることね。ソニアはいつもあんな調子だから」 「い、いいんですか、それで……」 「いいんじゃない? あれでもちゃんと飛ばせてるみたいだし、司令官も黙認してるから」 「はぁ……」  シェルシィは、二の句を継げずに曖昧な返事をした。  ここが、鳥も通わないような辺境であることや、基地の建物が安普請であることはそれほど気にはならない。なんといっても、擁する機体は革新的な最新鋭機なのだ。  だけど、それを指揮する飛行隊長は、同性の新入りの唇をいきなり奪い、酔っぱらって戦闘機を飛ばすような人だなんて。  本当に、とんでもないところに来てしまったのかもしれない。  少しだけ不安になるシェルシィだった。 二章 ヒヨコ対撃墜王  その夜、シェルシィはなかなか寝つけなかった。  クリューカ基地で初めての夜、というのは理由にならない。枕が変わっても平気で眠れる体質だし、こんな北の地でもベッドの中は暖かだった。  しかし今夜ばかりは駄目だ。神経が昂って、とても眠れそうにない。なにしろ明日の朝には竜姫で空を飛べるのだ。  今日の訓練の最後に、サラーナが言ってくれた。明日は実際に飛ぶことになる、と。それで眠れるはずがない。遠足前の子供と同じ精神状態だ。  ようやくうとうとしたかな……と思った頃には朝になっていた。それでも眠気なんて少しも感じなかった。  サラーナからは、午前七時三○分までに集合と言われていたが、シェルシィは七時前には完璧に装備を整えて、格納庫へとやってきた。  廊下から格納庫へ通じる扉を開けると、どっと寒気が流れ込んでくる。格納庫正面の大扉が開け放たれ、三機の竜姫が外に引き出されていた。  周囲では整備員が動き回っている。そのうちの約半数が女性だ。この基地はパイロットが全員女性のためだろうか、他の部署も女性の比率が高い。  女性軍人――これもまた、長く厳しい戦争の副産物だった。  この大戦のそもそものきっかけは、アルキアの新皇帝の即位だった。以前から強大な軍事力を有していたアルキア帝国だったが、新皇帝はさらに軍備を強化し、拡大政策を進めていったのだ。  マイカラスやハレイトンといった古い歴史を持つ大国は、最初それを静観していたが、自国の植民地にまで侵略の手が及ぶに至って重い腰を上げ、同盟を結んでアルキアに宣戦布告した。  三大国の戦いは利害の絡む他の国々を巻き込み、世界規模の大戦へと拡大していった。それから五年、激しい戦闘が続いてきたが、いまだに戦争の行方は見えてきていない。  しかし現代の戦争は膨大なエネルギーと資源を消費する。両陣営の疲弊は限界に近づきつつあった。  以前から軍備を強化していたアルキアと異なり、マイカラスでは軍人の数が不足していた。戦闘で消耗した兵員を補うには、民間人を徴兵するしかない。しかし働き盛りの社会人や、未来を担う学生を戦場へ送り出すことは、国の工業生産力の低下を意味する。それでは戦争には勝てない。局地的な戦闘ならともかく、長期的かつ全面的な大戦となれば、国力の差がそのまま勝敗に直結するといっても過言ではない。  そこでマイカラス政府は、まず女性の社会進出を推し進めた。男性の徴兵によって不足した労働力を、女性で補おうと考えたのだ。  しかしやがて、女性を直接戦場へ送るという考えが生まれてきた。既に職に就いている男性に軍事訓練を施して戦場へ送り出し、女性に一から職業訓練を施すのでは二度手間だ。ならば女性を軍人にしてしまった方が効率的ではないか、と。  確かに、銃を手に前線で戦うのは男性の方が適している。しかし高度に機械化され、部署ごとの役割分担が進んだ現代の戦争では、女性にできる仕事も少なくない。  もちろん、こうした考えは世界的に見れば少数派だ。しかしこの国には、古代、王と共に剣を取って戦場に立った勇敢な王妃の伝説があり、中世までは女性騎士も珍しい存在ではなく、女性が戦場に出ることへの抵抗が少なかった。大戦初期に痛手を被ったマイカラスは、そうしなければならないところまで追いつめられていたという現実的な問題もあった。そうしてマイカラスは、軍における女性の比率が世界でもっとも高い国となったのである。  今では女性士官もそれほど珍しくはない。シェルシィは、空軍士官学校が女子に門戸を開くようになって三期目の卒業生だった。 「おはようございます!」  シェルシィは自分の機の傍へ行くと、整備員たちに向かって明るく挨拶した。 「おはよう、リースリング少尉。ずいぶん早いのね」 「そりゃあ、初飛行に遅刻したら大変ですもん」 「でも、隊長はぎりぎりにならなきゃ来ませんよ」 「あの人なら、まだ寝てる方に賭ける」 「それは賭けにならないって」  笑い声が上がる。どうやらソニアの素行の悪さは、飲酒だけに限ったことではないらしい。 「どうせなら、何分遅刻するか賭けない?」 「何時間、の間違いじゃなくて?」  整備員たちは楽しそうに笑っているが、シェルシィは不安になってきた。  そんないい加減な人が、最新鋭機を擁するこの飛行隊の隊長だなんて。しかも今日は、一緒に飛ばなきゃならないなんて。  編隊長が信頼できない飛行ほど不安なものはない。それならば単独飛行の方がよほどましだ。 「私は、時間までに来る方に賭けるわ」  背後から、新たな声が加わった。サラーナが格納庫に入ってくる。 「おはよう、シェルちゃん。昨夜はよく眠れなかったんじゃない?」  完璧な装備で現れたサラーナは、おしゃれとはまるで縁のない飛行服姿でも美しかった。知らない人が見たら本物のパイロットではなく、空軍の広報用モデルだと思うことだろう。いや、並のモデルよりもよほど美人だ。 「ぜんぜん、大丈夫です!」 「今日は天気もいいし、風もないし、絶好の飛行日和ね」  整備のチェックリストを受け取りながら、サラーナが微笑む。 「はいっ、よろしくお願いします!」  シェルシィも自分の機のチェックを始める。しっかり整備された機体とはいえ、搭乗前に自分の目で最後のチェックを行うのが戦闘機パイロットの鉄則だ。  もちろん機体に問題があるはずがない。機体もパイロットも、準備はすっかり整っている。足りないものは飛行隊長だけだ。  時計の針はそろそろ七時半を指そうとしている。あとどのくらい待たなければならないのかと心配していると、意外なことに、飛行服を身に着けたソニアが現れた。時刻はぴったり七時三○分。  整備員たちは不安げに空を見上げた。この好天が一転して嵐にでもなるのではないかといった表情だ。ソニアとは長い付き合いらしい整備班長のラウナが、遠慮のない口調で訊く。 「隊長が朝の訓練に遅れないなんて、昨夜はなにか悪いものでも食べましたか?」 「今日は新入りがいるからな、ビシッとしたところを見せないと」  ソニアは笑って応える。しかし、どこら辺が「ビシッと」なのだろう。ブラシも通していないぼさぼさの髪で大欠伸をし、ボタンを留めていない飛行服姿で、パラシュートをずるずると引きずっている。よく見ればソニアもかなりの美人なのに、これでは台無しだ。  そして極めつけに、手はしっかりとワインの瓶を持って、あまつさえそれをラッパ飲みしている。 「た、隊長! 飛行前ですよっ?」  シェルシィは慌てて止めようとした。飛行前の飲酒は御法度だ。昨日もやっていたこととはいえ、せめて自分と一緒の時はやめて欲しい。 「これがアタシの朝飯。飛行前にはしっかりエネルギーを補給しないとな」 「そんなぁ」 「東方のどこかの国には、酔えば酔うほど強くなる拳法ってのがあるらしいじゃないか。それと同じこと」 「戦闘機の操縦とは違います!」 「違うかどうかは、空の上で確かめな」  ソニアはぽんとシェルシィの頭を叩くと、自分の機体に乗り込もうとした。搭乗前にやらなければならない機体のチェックもしていない。 「あ、隊長、待ってください!」 「なんだ、トイレか? 集合前に済ませとけよ」 「違います。訓練前のブリーフィングをしてませんよ」  本来、訓練飛行の前には、使用する空域や航路、訓練内容、帰投燃料といったことを打ち合わせておくものだ。 「ンなもんいらねーよ。ヒヨコは黙ってアタシの後をついてきな」 「そんな、いい加減な……」  ここは、新型機のデータを取るための実験飛行隊ではないのか。なのにこんないい加減なことでいいのだろうか。  しかし整備員たちはそれが当たり前のような態度でいるし、サラーナも何も言わずに自分の機に乗り込んでしまう。シェルシィも仕方なくそれに倣った。 「こーゆーところだからね、ここは。早く慣れた方がいいよ」  タラップを昇るシェルシィに手を貸しながら、ラウナが笑う。 「あまり軍隊らしくなくて、気楽でしょ?」 「気楽っていうか、ここまでくるとかえって不安ですよ」  規律という面では、士官学校の方がよほど厳しかった。そして教官から「前線の基地はこんな甘いものじゃない」と脅されていたというのに。  女性が多いためか、むしろ女学校の寄宿舎時代を彷彿とさせる。いや、口うるさい教師や寮監がいない分、女学校よりも呑気だろう。 「大丈夫。ソニア大尉は腕だけは確かだから」 「ホントに?」 「信じられないかもしれないけれど、あれでも撃墜王だから」 「ホントにぃぃ?」  からかっているのではないか、という目でラウナを見る。にわかには信じられない。 「この目で確かめるまでは信じませんよ」  そう言って、コクピットに乗り込んだ。  計器盤を一通り見渡す。エンジン始動用の電力が外部から供給されていて、電流、電圧ともに正常。一切の警告は出ていない。  高度計の針が、今日の気圧に合わせてリセットされていることを確認。無線が通じることを確認。それから高空服の電源ケーブルと、酸素マスクのホースを機体に接続した。軽く深呼吸して、楽に呼吸ができることを確かめる。  ここまでは問題なし。  外にいるラウナに、手でエンジン始動の合図を送った。吸気口に取りつけられたコンプレッサーから圧縮空気が送り込まれ、タービンが回転を始める。回転数が始動位置まで上がったところで点火スイッチを押し、燃料バルブを開く。  ドンッ!  小さな爆発音とともに、機体が震える。甲高い笛のようなタービンの回転音に、低い呻りが加わる。排気温度計と圧力計が上昇して、アイドリング位置で安定した。エンジン始動成功。  計器をチェック。すべて問題なし。もう一度外に合図を送る。  ラウナが、車輪止めを外したことを知らせてくる。目の前のソニアの機が、ゆっくりと動き出す。斜め前にいたサラーナの機も続く。  一呼吸の間をおいて、シェルシィはつま先で踏み込んでいたブレーキペダルを戻した。動きを妨げるものがなくなった機体は、ゆっくりと進んでいく。  滑走路の端で一旦停止。前にいるソニアの機の排気を受けて機体が揺れる。 『リリィ01、離陸準備よし』  無線機から、ソニアの声が聞こえてくる。  急に、鼓動が激しくなるのを感じた。離陸の瞬間が迫っている。いよいよ竜姫で飛ぶことができるのだ。 『リリィ02、よし』 『リリィ12、よし』  サラーナに続いて、シェルシィも自分のコールサインを伝える。管制塔からの応答が返ってくる。 『クリューカ・コントロールよりリリィ01、離陸よし』 『リリィ01、了解』  ソニアの機の排気口から朱色の炎が伸びる。サラーナも、そしてシェルシィも、ブレーキペダルを放してスロットルレバーをいっぱいに押し込んだ。  コクピット内がエンジンの轟音に包まれる。身体がシートに押しつけられる。  左右の風景が、加速しながら後ろへ流れていく。  興奮に胸を震わせながらも、素速く計器をチェックした。タービン回転計、温度計、圧力計、すべて異常なし。  速度計の針が上がっていく。機首が浮きはじめる。操縦桿をわずかに前に押して、急激に角度を上げようとする機首を抑える。  さらに速度が上がり、身体がシートに沈むような感覚を覚えた。離陸したのだ。  それでも慌てて上昇することはせず、シェルシィはすぐに降着装置を格納した。空気抵抗が減って一気に加速する。そこでようやく操縦桿を軽く引いた。  地平線が傾き、地面がみるみる遠ざかっていく。高度計の針が踊っている。  他の計器はいたって正常。不自然な騒音や振動もない。 「すごい……すごい!」  叫び出したい気分だった。最高だ。  眼前には青い空だけが広がっていた。薄い雲を突き抜けて、さらなる高空を目指していく。 『このまま一二○○○メートルまで上がるぞ。遅れずについて来い』 「一二○○○っ?」  ソニアの言葉に、思わず叫び声を上げた。現用機の上昇限界に近い高度を、そんなあっさりとした口調で。  資料は目にしていたはずだが、もう一度確認せずにはいられなかった。 「竜姫って、どのくらいまで上昇できるんですか?」 『実用上昇限度は一四五○○メートルとなっているわね』  サラーナが応える。 『アタシは、テストで一七○○○近くまで上がったことがあるよ。武装も塗装もしてない試験機で、ホントにただ上がるだけだったけど。そこまで行くと空戦機動は無理だな』 『そもそも、その高度に敵機もいないけど』 「いちまんななせんっ?」  信じられない。それはもう、空ではなくて宇宙の領域ではないのか。  訓練飛行で一○○○○メートルまでは上がったことがある。旧式の戦闘機を改造した練習機では、八○○○メートルから上はずいぶん苦労したものだ。  それに比べて、竜姫の上昇力はどうだろう。高度はすでに七○○○メートルを超えているが、まだまだ余力が感じられる。  八○○○……九○○○……そして一○○○○メートル。  もう、これより上に雲はない。一年中快晴の空間だ。周囲には空だけが広がっていた。視界を遮るものは何もない。  基地からも見える北極山脈の峰々が、ずいぶん近くに迫っていた。九○○○メートルを超える最高峰の頂すら、遙か下にあった。  上を見ると、空が怖いくらいに青い。一二○○○メートルに達すると、それはもう青というよりも群青に近い暗い色だった。星さえ見えそうな気がする。 『んじゃ、いくぞ。ぴったりついて来いよ』  シェルシィが暗い空に見とれていると、ソニアはそれだけ言っていきなり急降下を開始した。慌てて後を追う。  高度計の針が狂ったように回転し、速度計ぐんぐん上がっていく。  八○○……八五○……九○○……九五○!  機体が激しく振動する。空中分解してしまいそうだ。  もうこれ以上は無理、と思ったところで、ソニアがいきなり機首を起こした。  そのまま宙返り。  遠心力で強いGがかかり、身体が何倍にも重くなったように感じた。体内の血液が足の方に下がり、視界が暗くなる。脳貧血で意識を保つのさえ困難だ。  周囲の風景がめまぐるしく変わる。天地が逆さになって、頭の上に白い大地が広がっている。それが正面に来て、また正常な位置に戻る。  水平飛行に戻ることなく、二回目の宙返りに入った。その頂点で機体を横転させる。インメルマンターンと呼ばれる空戦機動だ。  姿勢が水平に戻ったところで、右の急旋回。一八○度反転したところで左旋回。  旋回で失われた速度を急降下で補い、もう一度宙返り。その上昇中、機体が真上を向いたところで横転。同じ機動を四回繰り返すと、九○度ずつ向きを変えた宙返りの軌跡が四つ重なる。クローバーリーフだ。  息つく暇もない曲技飛行の連続。それも事前の打ち合わせなしで。シェルシィは全神経を集中してソニアの後をついていった。  個々の技術は士官学校でもさんざん練習させられたものだが、これほど連続で、しかもこれほどの高速で行った経験はない。これも竜姫だからこそできることだった。エンジン出力の低いレシプロの練習機では、その前に曲技飛行に必要な最低速度を割り込んでしまう。  Gで血液が下がって、意識が遠くなる。横転の連続で平衡感覚を失いそうになる。  操縦に関しては士官学校でトップの成績だったシェルシィでも、引き離されずについていくのがやっとだった。それでも弱音を吐くことはできない。一流のパイロットになるためには、酔っぱらいなんかに負けてはいられない。  今度は機体を横転させながらの宙返り、バレルロールだ。その途中で、いきなりソニアの機が視界から消えた。  頭で考えるより先に、身体が動いていた。ラダーペダルを蹴飛ばすと同時に、操縦桿を倒して自機を横転させる。横倒しになって失速した機体は横滑りして、一瞬で高度を下げる。  機体を水平に戻すと、目の前にソニアの姿があった。格闘戦で敵機に後ろにつかれた時に、強引に振り切るための技だ。 『ふぅん、意外とやるじゃん』  推力を絞って水平飛行に戻ると、無線からソニアの笑い声が聞こえてきた。 『ヒヨコにどうやって飛び方を教えようかと考えてたけど、一応、翼はあるようだな』  失礼なことを言う。これでもシェルシィは、同期の中ではナンバーワンの成績なのだ。 「このくらい、簡単なものですよ」  実際には、神経をすり減らすような曲技の連続で息が上がっていたが、それを気取られないように努めて平静を装った。別にシェルシィに限らず、戦闘機パイロットには自尊心の強い見栄っ張りが多い。 『シェルちゃん、機体の方はどう?』 「最高ですね」  竜姫はアクの強い機体で操縦が難しいと聞いていたが、全然そんなことはない。電機式の操縦装置に独特のくせがあるのは事実だが、むしろそれがぴったりくる。軽い操縦桿は華奢なシェルシィにこそ相応しかった。 『じゃあ、ウォーミングアップはこのくらいで、次は少し難しいのをやってみるか』 「え?」  ウォーミングアップ?  あの、失神しそうな曲技の連続が?  訊き返すより先に、ソニアの機が加速を始めていた。遅れないようにスロットルレバーを押し込む。  ソニアは徐々に高度を下げていった。前方に、聳え立つ白い山肌が迫ってくる。  北極冠状山脈――この星で最高、最長の山脈。  何千万年も昔、巨大な隕石の衝突による地殻変動で生まれたといわれる冠状の大山脈は、地図ではまるで北極を護る城壁のように見えた。最高峰は九○○○メートルに達し、その内部への人間の侵入を拒んでいる。  ソニアはさらに高度を下げながら、入り組んだ峡谷の中へと入っていった。進むに従って谷はどんどん狭くなり、左右の岩壁は垂直に近い角度で聳えている。  シェルシィは全身から冷や汗が噴き出すのを感じていた。 『シェル、遅れてるぞ』  前を行くソニアの台詞。冗談じゃない。  谷を縫うように飛ぶことは士官学校でも練習させられたが、その時はもっと低速で飛行していた。  ちらりと速度計を見る。六三○キロ。レシプロ戦闘機の最高速度に近い高速で狭い峡谷を縦断するなんて、正気の沙汰ではない。一瞬でも操作を誤れば、たちまち岩壁に激突するだろう。  雪に覆われた斜面は白一色で、距離感がつかめなかった。普通ならばできるだけ速度を落とし、慎重に操縦しなければならない場面だ。時折、雪をかぶっていない岩肌が、黒い線となって後ろに飛び去っていく。その度に全身に鳥肌が立つ。  機体が不規則に揺れる。迷路のような峡谷の中では、予測不可能な突風が吹き荒れていた。真っ直ぐに飛んでいるつもりでも、実際には強風でかなり機体が流されてしまう。運が悪ければ岩壁に叩きつけられるかもしれない。  おまけに、強風が巻き上げる雪煙に、しばしば視界を遮られてしまう。まったく、ここまで無事に飛んでこられたのが奇蹟のようだ。 『もっと速度を上げろ、シェル。速度こそがジェットの生命。世界一速い戦闘機でノロノロ飛ぶような奴は、旧式の三式戦にでも乗ってりゃいいんだ』  ソニアの口調からは、恐怖は微塵も感じられなかった。きっと、酔っているせいで恐怖心が麻痺しているのだろう。  それでもシェルシィはスロットルレバーを押し込んだ。山脈に激突して死ぬのはもちろん嫌だが、臆病者の下手くそと嘲られるのも我慢がならない。  左右の斜面を見るのをやめた。ただ、前を飛ぶソニアだけに意識を集中する。斜面を気にしてしまえば、恐怖感がいや増すばかりだと気がついた。  士官学校時代に、編隊飛行について耳にタコができるほど繰り返し言われたことを思い出す。曰く「編隊飛行では、隊長機についていくことだけを考えろ。隊長機がミスして地面に激突したなら、そのまま一緒に突っ込め」と。  その教えを実践することにした。経験の浅いシェルシィでは、自分の判断だけでこの峡谷を飛ぶことは難しい。だったらソニアに任せてしまってもいいだろう。いくら酔っているとはいえ、まさか進んで激突死したがっていることもあるまい。  ソニアだけを見るようにすると、いくらか気が楽になった。斜面を見ていないので恐怖を感じない。ソニアが速度を上げても、ただそれについていくだけだ。  速度が上がっていく。峡谷の出口が見えた時、速度計は時速八○○キロを指していた。 『どうだ、怖くてちびったんじゃないか?』  谷を抜けたところでソニアが訊いてくる。相変わらず、品のない物言いだ。 「このくらい、全然平気ですよ」  強がって応える。失禁しそうなほどに怖かったのは事実だし、実際、下着が冷たい気もするが、それを認めるような真似は絶対にしない。 『まあ、一応は度胸もあるか』 『初飛行でこれだけ飛べれば、たいしたものよ』 「たとえ、今すぐ実戦だって平気ですよ」  小馬鹿にしたようなソニアの態度が癇に障って、強い口調で言い返した。無線の向こうから、微かに笑ったような声が聞こえた。 『じゃ、模擬空戦でもやってみるか?』 「え?」 『今日は、一六ミリは空砲だからな。どうだ? アタシと一騎打ち』 「そんな、いきなり……」 『怖いのか?』 「怖くなんかないです!」  シェルシィはきっぱりと言った。たとえベテランパイロットとの空戦だって、迷路のような峡谷を時速八○○キロで飛ぶのに比べればなんということはない。  新米であっても、空戦には自信があった。士官学校での最後の一年間、学生同士の模擬空戦では負けなしだったし、教官とだって五分に近い戦いができていた。  竜姫は初めての機体だが、シェルシィとの相性は抜群だ。むしろ、乗り慣れた三式練習機よりもよほどしっくりくる。これならいつでも思い通りに飛ぶことができる。 『サラーナが審判な。このまま互いに背を向けて十秒間飛んで、そこでスタート』 「いいですよ。本気でやりますからね、ヒヨコだなんて舐めてたら痛い目みますよ」  ソニアはベテランで大尉で、しかも撃墜王だそうだから、そう簡単には勝てないだろう。ここまでの飛行で、かなりの腕前であることもわかった。それでも、ボロ負けするとも思わない。  こちらは今日が初飛行なのだ。例えば十戦中三回も勝ってみせれば、もうヒヨコ扱いされることもあるまい。そもそも相手は酔っぱらいである。勝てなくてどうする。  竜姫に四門搭載されている一六ミリ機関砲のうち、二門の安全装置を解除すると、シェルシィは唇を舐めて操縦桿を握り直した。 * * *  シェルシィが「安普請」と評したクリューカ基地だが、ひとつだけ自慢できる設備がある。  それは浴場だ。  基地建設時、地下浅いところに温泉の湯脈が通っているのが見つかり、それを利用して二四時間入浴可能な大浴場が造られたのだ。  これは、寒い北の地ではありがたい施設だった。凍てつくような高空での激しい訓練を終えたパイロットたちにとって、熱い湯の中で手足を伸ばして身体の芯まで温まるのは、なによりも心地良いことだった。  しかし。 「えぅぅ……」  シェルシィは今にも泣き出しそうな表情で、口元まで湯に浸かって呻き声を上げていた。それはどう見ても、訓練後の休息を楽しんでいる者の姿ではない。 「……あたしって、実はものすごく才能ないんでしょうか?」  一度頭まで湯の中に潜ってから、隣で気持ちよさそうに湯に浸かっているサラーナの顔を見た。濡れた髪にそっと手が置かれる。柔らかな手のひらの感触が伝わってくる。 「悪くなかったわ。シェルちゃんは、空士を卒業したばかりの新米パイロットとしては、間違いなくトップの腕前よ」 「……でも、勝てませんでした」  そう。  先刻の模擬空戦はシェルシィの負けだった。それも、これ以上はないというくらい徹底的に負かされたのだ。  ソニアの機の弾倉が空になって模擬空戦が終わるまでに、実戦であれば十数回は撃墜されていただろう。なのにこちらはろくに発砲もしていない。ソニアの姿を、まともに照準器に捉えることすらできなかったのだ。  相手が視界に入ったと思った次の瞬間には見失っていて、気がつくと後ろ上方の絶好の射撃位置につかれている。Gで意識が遠くなるほどの急旋回を繰り返しても、空中分解ぎりぎりの速度で急降下しても、ソニアを振り切ることはできなかった。  新米とはいえ、士官学校でトップの成績だったのだ。実戦のエースが相手だって、五分とはいかないまでもそれなりにいい戦いができるものと思っていた。  とんでもない自惚れだった。きっと、空軍士官学校の七期生は、とびっきりの下手くそ揃いだったに違いない。その中でトップだなんていい気になって、まるっきり井の中の蛙だった。最新鋭のジェット戦闘機に乗っても十分に働けるだなんて、思い上がりもいいところだ。  恥ずかしくて仕方がない。このまま、次の連絡便に乗って帰ってしまいたい。 「もう一度言う。シェルちゃんは、すごく上手よ。そんなに気を落とさないで」 「だって……」  あまりにも一方的な敗北に、サラーナの慰めも素直に受け入れることはできなかった。 「相手が悪いもの。ソニアに勝てるパイロットなんて、空軍中を捜してもそうそういない。あの子の撃墜数を知ってる?」  シェルシィは首を左右に振った。撃墜王だということは訓練前にラウナから聞かされたが、正式な撃墜数までは知らない。 「公式記録で二八機」 「にじゅっ……」  びっくりして、思わずお湯を飲み込んでしまった。咳き込みながら立ち上がる。  とんでもない数字だ。  撃墜王どころの話ではない。マイカラス空軍では、二○機を超えていれば文句なしの超一流だ。シェルシィが知る限り、男性パイロットでもそれ以上の撃墜数を持つ者はそう多くはない。  もちろん世界は広い。アルキア軍には一○○機以上の撃墜数を誇る強者も存在する。しかしそれは、出撃回数が殺人的に多かった三年前の西部戦線のような激戦を、運良く生き延びた者たちだけだ。当時はまだ、アルキアとマイカラスの機体の性能差も大きかった。 「間違いなく、女性パイロットの世界記録でしょうね。今日初めて飛んだ新米パイロットが勝てなくたって、なんの不思議もないでしょう?」 「そんな……信じられない。だって、ソニア・ハイダー大尉なんて名前、ニュースでも聞いたことないですよ?」  今の時代、空戦のエースは全国的な英雄だ。その活躍を伝える記事が新聞の一面を飾り、ブロマイドやポスターが飛ぶように売れる。 「あの子は、ほら、素行が悪いもの」  サラーナが苦笑する。 「空軍としては、あまり公にしたくないのよ。上官の命令は聞かない、部下には手を出す、飛行前の飲酒は日常茶飯事。そんなエースなんて、ちょっと外聞が悪いでしょう?」 「まあ、それは確かに」  あまり褒められた話ではない。歴史の浅い空軍は、陸軍や海軍につけいられる隙を作りたくないために、醜聞には特に神経質だ。 「それに……あの子は、白百合飛行隊の生き残りだから」 「えっ!?」  シェルシィはまた大声を上げ、浴槽の水面に大きな波を立てた。  懐かしい単語に、遠い記憶が甦る。まだ開戦前のことだから、シェルシィが十一、二歳の頃だ。  それは、空への憧れをはっきりと自覚した日。  蒼空に咲く、大きな百合の花を見上げた日。  白百合飛行隊――それは世界初の、女性パイロットのみで構成された戦闘機隊だった。可憐な百合の花になぞらえて、部隊番号ではなく通称の『白百合飛行隊』と呼ばれていた。  設立されたばかりで陸海軍に対して立場の弱い空軍という組織を、国内外に広く宣伝する意図も多分にあったのだろう。若く美しい女性ばかりの飛行隊はたちまち人気者となり、各地で開催される空軍の航空ショーには、彼女たちの曲技飛行を目当てに大勢の人々が集まった。  胸をときめかせて空を見上げる少年少女たち。その中に、子供の頃のシェルシィ・リースリングがいた。いつも仕事に追われている父親が、珍しく休暇を取って連れていってくれた航空ショーに、シェルシィは一目で魅せられてしまった。  大空に白煙で絵を描きながら、華麗な曲技飛行を見せる純白の編隊。瞬きをすることすら忘れて見入っていた。  そして、大空への憧れを抱くようになった。あんな風に、自由に空を飛んでみたい。  その想いは時間が経っても薄れることはなく、女学校を卒業すると、父親の猛反対を押し切って、勘当同然で空軍士官学校へ入学したのだ。そして今、夢にまで見た戦闘機パイロットとしてここにいる。  しかし白百合飛行隊の名は、いつしか歴史の表舞台から消えていた。アルキアとの戦争が始まり、白百合飛行隊も前線の基地に配属されたはずで、最初の頃は戦果を上げるたびに大きく報道されていた記憶もあるのだが。 「隊長が白百合飛行隊の出身? 信じられない。だってあたし、飛行ショーは何度も観たし、ポスターとかブロマイドとかいっぱい持ってますけど、ソニア・ハイダーなんて聞いたことないですよ?」 「私たちは開戦後の入隊だから、ショーの曲技飛行には参加していないのよ」 「私たちって、サラーナ大尉も?」 「ええ。私の方がひとつ年上だけど、ソニアとは同期の入隊なの。私たちの時代は、まだ士官学校に女子はいなかったから、民間の飛行クラブからスカウトされてね」 「ふぅん……で、あの、飛行隊はその後どうなったんですか?」  何気ない気持ちで訊いた。ファンとしては当然の疑問だった。サラーナは一瞬、長い睫毛を伏せた。 「白百合飛行隊は、もう存在しないわ」  悲しそうな、寂しそうな表情だった。それでピンと来た。これは、気軽に訊いてはいけないことだったかもしれない。 「退役して結婚した者もいる。怪我で一線を退いた者もいる。だけど……死んでいった仲間たちが一番多い。現役で飛んでいるのは、ソニアと私の二人だけ」 「そんな……」 「女性エース集団なんてもてはやされていたのは、あくまでも宣伝のため。当時の私たちの技量は、男性パイロットの平均的な水準でしかなかった。なのに目立つ部隊でしょう? 敵にも目をつけられやすくて。当時の三式戦闘機は、性能的には明らかに敵より劣っていたし、苦しい戦いが続いたわ。一人また一人と仲間が減っていく。女性の戦闘機パイロットなんて、そうそう補充もできない」  どことなく自嘲めいた儚い笑みを浮かべ、サラーナは遠くを見つめていた。 「白百合飛行隊としての最後の作戦では、残っていた六機で出撃して、自力で基地に戻れたのは私一人だけ。飛行隊長は戦死。ソニアも被弾して、不時着して負傷したところを運良く味方に救出されたの」  シェルシィはなにも言えなかった。ちゃらんぽらんに見えるソニアにも、そんな厳しい過去があったなんて。 「その中で二八機もの撃墜数を挙げたソニアは、本当にすごいパイロットよ。怪我やなんかでその後一年以上も飛行機から離れていたけれど、体格的に零式ジェット戦闘機に相応しいということで白羽の矢が立って、テストパイロットとして復帰したの」 「……実は、すごい人だったんですね」  単なる酔っぱらいと思っていた隊長のことを、ずいぶん見直した。激戦をくぐり抜けてきた撃墜王、ただ者ではないのだ。それを言ったら最初から、違う意味でただ者ではないとは思っていたが。  それでも尊敬してしまう。地上にいる時にどれほど問題のある性格だろうと、空戦で強い者が無条件に尊敬を集めるのが空軍パイロットの世界なのだ。 「今日が初飛行のシェルちゃんが勝てなくたって無理はないわ。私だって十回のうち二回も勝てればいい方なんだから」 「ちなみに、サラーナ大尉の撃墜数は?」 「一二機」 「それもすごいじゃないですか!」  正真正銘の撃墜王として、胸を張れる立派な数字だ。それなのにソニアには圧倒されるのだとしたら、ヒヨコに毛が生えた程度のシェルシィが一度も勝てなかったからといって、落ち込むことの方が自惚れている。 「まあ、私の戦果は、ソニアや白百合時代の隊長にずいぶん助けられての数字だけど」  その台詞は謙遜だろう、と思った。考えてみれば、シェルシィが必死の思いで飛んでいたあの峡谷でも、サラーナは平然とついてきていたのだ。 「こうなったらもう、あたしもがんがん飛びますよ。少しでも隊長に近づけるように」 「そうね、シェルちゃんならきっと撃墜王になれるわ。そう遠くない将来」 「実戦に出れば、の話ですけどね」  九○七飛行隊は、あくまでも新型機の試験が任務だ。このクリューカ基地にいる限り、敵と交戦することはない。 「ところでシェルちゃん、今日はもう一度飛ぶのでしょう?」 「はい。今度はルチア中尉と一緒に」 「それまでに、朝の訓練の疲れを癒さなきゃならないわね。マッサージしてあげる。そこに横になって」 「え?」  見ると浴槽の外に、小さなベッドくらいの大きさのゴム製のマットが敷いてあった。有無を言わさず、その上に俯せに寝かされる。 「あ、あの、サラーナ大尉?」 「じっとしてて。こーゆーの得意なのよ」  背中を押さえつけられる。少し間があって、背中に冷たいものが触れた。 「ひゃんっ! な、なんですかっ?」 「香草から抽出したマッサージ用のオイル」  鼻先で、淡い緑色の液体が入った小さなガラス瓶が振られる。ミントに似た、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。 「この香りが精神をリラックスさせると同時に、皮膚から浸透する成分が血行をよくして、筋肉の疲労を解消し、凝りをほぐす効果があるの」  背後に回ったサラーナが、両手でオイルを塗ってくれる。まるで、夏の海岸で日焼け止めでも塗ってもらっているような体勢だ。  ぬるぬるとした感触が、少し心地よい。だんだん、背中がぽかぽかと温かくなってきた。オイルを塗り広げながら、サラーナは手のひらや指先で背中のつぼを軽く圧迫している。確かに、激しい訓練で疲れた身体が楽になってくるような気がする。 「うひゃあ!」  指先が脇腹に触れる。くすぐったくてシェルシィは身体を捩った。 「こら、暴れないの」 「でもっ! そこっ、だめっ! くすぐったくて……」 「我慢しなさい」  暴れるシェルシィを押さえつけるようにして、サラーナはマッサージを続ける。  最初のうちは、肩とか背中とか上腕といった穏便な部分に触れていた手が、徐々に腋の下とか脇腹とか、お尻とか太腿に移動してきた。 「や……やぁんっ!」  くすぐったい。だけど少し気持ちいい。内腿の、かなりきわどい部分を指が滑っていく。 「あ、あのっ、サラーナ大尉、そこはっ……んっ!」  一瞬、女の子の部分に触れられてしまった。身体を貫かれるような快感に息が止まった。 「シェルちゃんて、可愛いわね」  くすくすと笑うサラーナの声に、妙な下心を感じた。 「た、隊長もアレですけどっ! サラーナ大尉までっ?」  女子校の寄宿舎でもこんなじゃれ合いはあったけれど、単なるおふざけだった当時と違い、なんだかアダルトな雰囲気だ。 「あのっ、もう充分ですから!」  サラーナの手から逃れようともがく。しかし、しっかりと体重を乗せられていて身動きがとれない。 「だめだめ、しっかりとマッサージしておかないと、訓練は毎日続くのよ。筋肉痛が残ったら困るでしょう」 「ホントにそんな理由なんですかぁっ?」  じたばたと暴れるシェルシィが、本気で貞操の危機を感じはじめた頃、浴場のドアが開いた。 「あー、副長ってば、またやってる」 「昨日の今日で、もう新入りに手を出すなんて、手が早いんだから」  入ってきた二人が、浴場内の光景を目にして笑った。  同じ九○七飛行隊の隊員たち。  先に入ってきた陽に焼けた肌の女性が、ルチア・アイアルトン中尉。この基地に来る前は、西部戦線で六式戦闘機〈旋風〉に乗っていた、飛行隊ではソニアとサラーナに次ぐ経歴の持ち主だ。  二人目はもっと年下で、シェルシィにとっては士官学校の一年先輩のエシール・シード少尉。 「手を出すだなんて人聞きの悪い。訓練後のマッサージでしょう」  サラーナが平然と言う。しかしシェルシィは耳まで真っ赤だ。 「ま、そゆことにしておきましょ。軍では、上官の言うことは絶対ですからね」 「そうそう。それが賢明だわ」  サラーナとルチアが顔を見合わせて笑った。実際のところ、クリューカ基地の雰囲気は、一般に思われている『軍隊』からはほど遠い。若い女性の比率が多いせいもあって、むしろ女学校のようなノリだ。 「それよりも、隊長が呼んでましたよ」 「そうなの? じゃあシェルちゃん、続きはまた今度ね」  意味深な笑みとウィンクを残して、サラーナが浴場から出ていく。まだ赤い顔をしているシェルシィは、身体を洗いはじめた二人に訊いた。 「あ、あの、サラーナ大尉って……その、やっぱり、そーゆー趣味の人なんですか?」 「そーゆー趣味?」 「つまり、その……同性が……」  語尾がゴニョゴニョと小さくなる。はっきりと口に出すのは妙に恥ずかしい。 「ああ」  ルチアとエシールは引きつった笑みを浮かべた。 「微妙なところだよね」 「なにかと口実を作っては、誰彼構わず『アレ』やってますもんね」 「やっぱり……」 「でも、マッサージとしての効果があるのは事実だから、一概にセクハラとも決めつけられないし」 「あまり深く考えない方がいいよ。悪気はないんだし、好きにさせておけば? 気持ちいいんだから、楽しんじゃえばいいんだって」 「それでいいんですかっ?」  いくらなんでも、そう簡単に開き直ることはできない。確かに、いろいろな意味で気持ちよかったのは事実だが、「気持ちよければなんでもOK」と言えるほどにはすれていない。 「新入りが来れば、しばらくはそっちにかかりっきりになるからね」 「私たちが標的にされる確率は下がるし」 「それってつまり、あたしが生贄ってことですかぁっ?」  やっぱり、とんでもないところに来てしまったのかもしれない。  さらに不安になってしまうシェルシィだった。 三章 北極航路  シェルシィがクリューカ基地に来てから十日が過ぎた。  毎日の訓練は厳しかった。朝から晩まで、寝ている時と機体の整備中以外はずっと飛んでいたような気がする。  それでも、少しも辛いとは感じなかった。飛行時間が増えるに従い、操縦が上手くなっていくのがはっきりと自覚できていたから。  今では本当に、竜姫が自分の身体の延長のようにさえ思える。もっとも、それでもまだソニアには一度も勝てていないのだが。  今日こそは……と思っていたが、今日の訓練メニューに模擬空戦はなかった。戦闘機隊の訓練飛行といっても空戦ばかりしているわけではない。今日は、味方偵察機との協調飛行だ。 「……竜姫は文句なしに格好いいけれど、〈白鳥〉も綺麗な機体だよね」  視線を横に向けると、一○○メートルほどの距離を空けて、白に近い明るい灰色の塗装を施したスマートなレシプロ機が並んで飛行している。その向こうにはソニアの竜姫がいる。  こうして見ると名前の通り、猛々しい竜と、華麗な白鳥のようだ。  七式防空管制機〈白鳥〉。クリューカ基地に所属するもう一つの実験飛行隊、九一一飛行隊に所属する新型機だ。  スマートで主翼が長いその姿は、一見、海軍の艦上戦闘機のようにも見える。しかしコクピットは複座だし、その後方には平たいキノコに似た奇妙な構造物がある。  白鳥は、強力なレーダーを搭載した哨戒機だった。  この戦争、特に空の戦いでは、レーダーが重要な役目を担うようになっていた。接近する敵機を遠距離から探知できれば、それだけ余裕をもって迎撃できる。開戦間もない頃に、空からの奇襲の怖さを思い知らされた両陣営は、どちらもレーダーの開発とその性能向上に力を注いできた。  現在では、敵編隊を二○○キロも離れたところから探知することができる。そうなると必然的に、今度はレーダー施設そのものが攻撃目標とされるようになった。もしも真っ先にレーダー基地を破壊されれば、防御側はろくに反撃もできないまま一方的な攻撃にさらされることになる。  そこで開発されたのが〈白鳥〉だった。  強力なレーダーを搭載した哨戒機を複数飛ばしていれば、移動できない地上施設と違い、すべてが同時に破壊される可能性は低い。たとえ帰るべき滑走路を破壊されたとしても他の基地に避難することもできる。そしてなにより、高い位置にあるレーダーは探知可能距離が大幅に伸びる。  これまでにもレーダーを搭載した哨戒機は存在したが、それは運用に長い滑走路と多くの人手が必要な大型機で、しかもレーダーの性能は地上基地に大きく劣っていた。  白鳥は新開発の高性能レーダーを搭載した単発の小型機で、乗員は二名。これなら前線の小さな基地でも運用が可能だ。実戦配備されれば、空軍のレーダー網は大幅に強化されることになる。  そして竜姫にとって、白鳥との連係は不可欠だった。  世界最高の速度と上昇能力、強力な火力、そして優れた運動性能を誇る竜姫にも欠点はある。  製造・運用コストが極めて高いこと。独特のくせがあって慣れない者には操縦が難しいこと。そしてなにより、滞空時間の短さだ。  ジェットエンジンは、レシプロエンジンに比べてひどく燃費が悪い。航続距離は決して短くはない竜姫だが、それはコクピットのスペースを犠牲にしてまで燃料タンクを大型化した結果だ。そして巡航速度が速いジェット機は、航続距離は同じでも、飛んでいられる時間はレシプロ機よりもずっと短い。  海軍の艦載機なら、戦闘機であっても八時間以上の飛行が可能な機種もある。しかし竜姫がどんなに燃料消費を抑えても、その半分の時間も空にいられない。そして燃料切れで一度帰還すれば、燃料と弾薬の搭載量の多さが災いして、再出撃までに要する補給時間は長い。  つまり竜姫は、空中で待機して敵を待ち伏せるような任務にはまるで不向きな機体なのだ。だから、敵機を発見してから出撃することになる。それでも後手に回らないためには、敵機が少しでも遠くにいるうちに探知することが重要だ。  そこで白鳥の出番だった。最高の性能を誇るレーダー基地でも、探知可能距離は半径約二○○キロ。しかし白鳥なら、基地から五○○キロ以上を自力で飛行し、その先二○○キロの索敵を行える。  敵の爆撃機を七○○キロ先で探知できれば、全速であっても基地上空に来るまで一時間以上かかる。迎撃するための時間的余裕は十分だ。ソニアに言わせれば、「一杯ひっかけてから出撃しても間に合う」ということになる。  白鳥は、空に浮かぶレーダー基地だった。そのため、低速で長時間飛行できるように設計されている。巡航速度では八時間以上の飛行が可能だ。  シェルシィは速度計に目を落とした。現在の速度は時速三○○キロ。竜姫の巡航速度よりもずっと遅いが、これでも白鳥の巡航速度を上回っている。 『シェルちゃん、退屈じゃない?』  無線機に、一緒に飛んでいる白鳥の機長兼レーダー手、そして九一一飛行隊の隊長でもあるエリコ・ハーリック大尉の声が入ってくる。 『普段、こんなにゆっくり飛んだことないでしょ』 「別に、退屈ではないですけど。でも、なんだか燃料の無駄遣いをしているような気がしますねぇ」  竜姫は燃費が悪い。全速飛行時には特に顕著だが、速度を落としても劇的に燃費が改善するわけではない。だから巡航速度よりも遅く飛ぶことは、燃料ばかり消費して、なのにさっぱり前に進んでいないことになる。燃料をただ垂れ流しているような気分だ。 『それは仕方ないな。竜姫の巡航速度は、この子にとっては全速とほとんど同じだもの』 「それと引き替えの飛行時間の長さですもんね。でも、八時間も飛びっぱなしっていうのは疲れません?」  航空機の操縦というのは、心身ともにひどく消耗するものだ。二、三時間の竜姫の飛行でも地上に降りた時はほっとするのだから、八時間も飛ばなければならない白鳥のパイロットは大変だろう。いま一緒に飛んでいる白鳥のパイロット、ユーキ・ウェルコーン少尉は、シェルシィと同期の新米だからなおさらだ。 『竜姫で二時間飛ぶより、白鳥で八時間飛ぶ方が楽かもよ?』  エリコが笑って言う。ユーキがその後を継いだ。 『もともと、長時間飛ぶために設計された機体だからね。絞め殺されそうな竜姫のコクピットに比べれば、こっちはリムジンみたいなものだよ』 「あ、それは羨ましいなぁ」  竜姫とは相性のいいシェルシィだが、それでもやっぱり乗り心地がいいとは思わない。なにしろ、ぎりぎりのサイズに詰め込めるだけの最新装備を詰め込んだ機体だ。コクピットのスペースも最小限に抑えられている。そのため竜姫のパイロットは、今のところ小柄な女性に限定されていた。 『ま、竜姫はいろんな意味で長時間飛行には向かないよな』  ソニアの声が割り込んでくる。 『だからこそ、白鳥が必要なのさ。敵が接近していて、迎撃が必要と判断されたその時だけ飛び立って、お客さんを片付けたらさっさと帰ればいいんだから』 「まあ、実戦ならそうでしょうね」  しかしクリューカは実験飛行隊のための基地。実際に敵機を迎撃する機会などあるはずもない。  それが、シェルシィには少し不満だった。竜姫の素晴らしい能力を知れば知るほど、その力を実戦で試してみたくなる。戦闘機パイロットとしては当然の思いだ。 「ここまで準備が整っているなら、前線に出してくれればいいのになぁ。こんな、間違っても敵なんか来ないような辺境じゃなくて。新型機の試験なら、もう充分じゃないですか。竜姫は実戦でも立派に戦えますよ」 『……そうだな』  応えるソニアの声は、気のせいかやや不機嫌そうに聞こえた。 『戦えるよ。竜姫は、な』 『……そうね、どうやら、シェルちゃんのご期待に添えそうよ』 「え?」 『レーダーに反応。機影二○。方位三三五、距離一八○、高度一○三○○、進路一九○、速度……およそ四五○。目的地はカランティ市かしら』  先ほどまでの楽しげな声ではない、事務的な口調でエリコが言う。シェルシィは、すぐにはその意味が理解できなかった。 『友軍機じゃないんですか?』  ユーキの声で、ようやく状況を理解した。白鳥のレーダーがなにかを捉えたのだ。しかし敵機ではないだろう。前線から遠く離れたこんな辺境で敵襲なんて、現実的な話ではない。 「ティアサーク基地の飛行隊ですよね?」 『アタシら以外、味方にこんなところを高度一○○○○で飛ぶ酔狂な奴はいねーよ』 「でも」 『今、クリューカで飛んでいるのはアタシらだけだ。ティアサークの飛行隊は旧式の三式戦、切羽詰まった用もなしに一○○○○メートルなんて上がらない。重い外部タンクをつけたら一○○○○は無理な機体だぞ?』 「だって、そんな……敵機が? どうしてこんな場所に、いったいどこから?」 『北極航路だ』  ソニアが断定的な口調で言った。 『北極航路だよ。アルキア本土から、北極圏を横断してきたんだ』 「……まさか!」 『よく考えてみろ。ここは激戦地の西部戦線よりも、距離だけならよほどアルキア本国に近いんだぜ?』  確かに。  赤道を中心とした平面の地図ばかりを見ていると失念しがちだが、北半球の高緯度の二点間を結ぶ最短ルートは北回りになる。地球儀を見れば一目瞭然だ。  マイカラスの北端に近いこの地方と、アルキアの最北端。距離だけなら航空機で往復は可能だった。 「それは……そう、ですけど。でも」  北極航路。  それは言葉としては存在していても、現実的な戦略ルートとは思えなかった。厳しすぎる極地の気象が、長年に渡って人間と、人間が生み出した機械の侵入を阻んでいるのだ。  エンジンオイルも凍りつく極寒。  上空では、対地速度にして時速数百キロに達する暴風。  そして、難攻不落の壁として聳える長大な北極冠状山脈。  人間が極地に達してからこれまで、マイカラス〜アルキア間の北極航路は探検家だけの領域だった。少なくとも、世間一般ではそう思われていた。 『ここ数年の航空機の進歩はめざましい。これまで不可能といわれていた低温や荒天の下でも安定して飛べる機はいくらでもある。高度一二○○○以上まで上がれば、北極山脈の乱気流も無関係だ。アルキアの重爆ペリュトンなら、ちょっと改造して耐寒装備とエンジンの潤滑系を充実させれば十分だろうな』 「ペリュトン……」  シェルシィは呻くような声でその名をつぶやいた。それはマイカラスのパイロットにとって、いくら憎んでも足りない忌むべき名だった。  アルキア空軍が誇る世界最大、最強の重爆撃機。四発の強力なエンジンで一○○○○メートル以上の高々度を飛行し、八トンを超える爆弾を搭載できる。一○門以上の機銃でハリネズミのように武装しており、戦闘機による迎撃も困難。一年前に実戦投入されて以来、マイカラス西部の都市や港湾に爆弾の雨を降らせ続けてきた空飛ぶ要塞だった。 「ペリュトン……なんですか?」 『反応はかなりの大型機。十中八九そうでしょうね』 「じゃあ、すぐに迎撃しないと!」 『慌てるな。まず、基地に連絡だ』  慌て興奮しているシェルシィとは対照的に、ソニアの口調は妙に醒めていた。 『リリィ01よりクリューカ・コントロール。エリアA‐11にて敵味方不明機発見。高度一○三○○、進路一九○、機数二○。アルキアの重爆の可能性が大』 『クリューカ・コントロールよりリリィ01。ハイダー大尉、間違いないかね?』  驚いたことに、応答した声は基地司令リーヴのものだった。それが、事の重大さをうかがわせた。しかしソニアは意外そうな素振りも見せずに平然と応える。相手が司令官でも乱暴な口調は変わらない。 『間違いない。スワン01のレーダーが捉えている』 『一応訊くが、迎撃できるかね?』 『……残念だけど、燃料が足りない。クリューカからの行動範囲を少し超えているし、これから迎撃隊を発進させても間に合わない。今回は発見が遅れたな』 「隊長!」  シェルシィは思わず大声を上げた。しかしソレアもリーヴも構わずに話を続ける。 『仕方ないか。こんなところに敵が現れるとは思っていなかったからな。では、すぐにティアサークへ連絡して迎撃させよう。君らはもう少し情報収集に努めてくれ』 『リリィ01、了解』  通信が切れる。シェルシィはもう一度大きな声で言った。 「隊長、迎撃しましょう! ぎりぎりだけど、なんとか行けますよ」  応答はない。 「隊長!」  ソレアは嘘をついている。そう思った。  残燃料にあまり余裕がないのは事実だが、それでもこの距離なら敵機を捕捉することはできる。クリューカに戻る燃料が足りないのであれば、会敵予想地点に近いティアサーク基地に降りればいい。  もちろんソニアとシェルシィの二機だけで、二○機の敵をすべて撃墜できるはずはない。しかし少しでも敵機を減らせば、それだけティアサーク基地の負担も、カランティ市の被害も減る。  ソニアの態度に不自然なものを感じた。迎撃は可能なのに、嘘をついて戦いを避けたのではないか、と。  もう一度、念を押してみる。 「隊長、まだ間に合います。迎撃しましょう。せっかくの実戦の機会ですよ。スコア増やしたくないんですか?」 『……リースリング少尉、アタシたちの今の任務は、スワン01を護衛して情報収集することだ。それを忘れるな』  やっぱり変だ。ソニアは普段、シェルシィのことを「シェル」と呼び捨てにする。「リースリング少尉」なんて格式張った呼び方、司令官の前でもしない。  どうしてだろう。侵攻してきた敵機を前にして黙って見ているなんて、戦闘機乗りのやることとは思えない。ましてやソニアは、二八機のスコアを誇る撃墜王ではないか。  いや。  そこで、ふと思い当たった。 「怖いんですか?」  考える間もなく、その台詞を口に出していた。 『……なんだと?』  低い、剣呑な声が返ってくる。 「白百合時代の最後の空戦で撃墜されたそうですね。その後は実戦には出ていないんでしょう? 実戦が怖いんじゃないんですか?」  言いすぎだ、と自分でも思う。こんな暴言、この隊でなければ処罰されてもおかしくない。だけど言葉が止まらない。  無線に入った微かな呻き声は、ソニアではなくてエリコのもののように思えた。ソニアの反応はない。プライドを傷つけられて激怒しているだろうに。  やっぱり、怖じ気づいたのだろうか。  幻滅だった。女子最高のスコアを持つ撃墜王として、一応は尊敬もしていたのに。 (いっそのこと……)  ソニアがあてにならないなら、自分一人だけでも行ってしまおうか――そんなことを考えた。たとえ命令違反だとしても、ちゃんと戦果を挙げてみせれば文句は言えまい。  スロットルレバーを握る手に力が入る。 『ふざけたことを考えてんじゃないだろうな?』  不意に、ソニアの声が聞こえた。しかし先刻までいたはずの場所にその姿は見当たらない。慌てて周囲を見回して驚いた。いつの間にか、ソニアの機はシェルシィの真後ろについていた。 『最新鋭機を初陣で撃墜される恥をさらすくらいなら、訓練中の事故で墜落という方を選ぶぞ』  殺気のこもった声だった。  全身の血が下がるような感覚を覚える。命令に従わず勝手な行動をとるなら撃墜する、と言っているのだ。  操縦桿を握る手がグローブの中で汗ばんでいる。万が一ソニアと空中戦などということになったら勝てるはずがない。 『文句があるなら地上で言え。空にいる時は、何があっても編隊長の命令は絶対だ』 「……わかってます」  吐き捨てるように言って、ゆっくりと進路を変えた。敵に向かうのではなく、一定の距離を保って平行に飛ぶように。単独行動は諦めたものの、やっぱり気が収まらない。憎まれ口を叩かずにはいられなかった。 「敵は撃てなくても味方は撃てるんですね」 『シェル、言いすぎだよ!』  見るに見かねたのか、ユーキが金切り声で叫んだ。 * * * 「せっかく実戦のチャンスだったのに! 隊長のバカ! バカバカバカッ!」  クリューカ基地が唯一誇ることのできる施設である大浴場のタイルに、シェルシィの声が反響する。基地に戻ってきてもまだ機嫌は直っておらず、浴槽の中でキャンキャンと吠え続けている。 「敵を目の前にして黙って引き下がるだなんて、なに考えてるのよ! せっかく、竜姫の力を見せつけるチャンスじゃない」 「そうだよねー。せっかくの最新鋭機も、訓練飛行ばかりじゃ宝の持ち腐れだよね」 「でも、ソニア大尉相手によくあそこまで言えるね。後ろで見ててはらはらしたよ。本気で撃たれるかと思っちゃった。ま、シェルの気持ちもわかるけど」  エシールやユーキなどの若手は、どちらかといえばシェルシィに同情的だった。実戦を経験していないだけに、腕試しをしてみたくて仕方がないのだ。ベテランのルチアやエリコは、どちらの味方をすることもなく苦笑している。ソニアの姿はない。彼女はいつも、夜中に一人で入浴しているようで、浴場で会ったことはない。 「迎撃した飛行隊や、空襲を受けたカランティ市では、死者も出たらしいじゃない。あたしたちが少しでも敵を減らしていれば、違った結果になったかもしれないのに」  実際の被害はそれほど大きなものではなかったが、これまで戦火にさらされたことのない北部の都市が空襲されたとあって、国内の精神的衝撃は大きかった。ラジオのニュースでも大々的に取り上げている。  ティアサーク基地から発進した迎撃機は旧式の三式戦闘機で、わずか一機の戦果に対して五機の損害を出していた。カランティ市周辺の高射砲陣地も、配備されているのが旧式砲のため、高々度を飛行するペリュトンに対しては有効な防衛手段とはならなかった。 「あー、もう! どうせ隊長は、敵に襲われる心配のないこの基地でワインでも飲んでれば幸せなんでしょ。カランティが空襲を受けようと、知ったこっちゃないんだわ!」  シェルシィの怒りは収まる気配がない。湯の中でじたばたと暴れている。その頭に、そっと触れる手があった。振り返ると、女神のように微笑むサラーナの顔が目に入った。 「副長……」 「シェルちゃん、お湯の中でそんなに興奮していたら、のぼせて倒れるわよ」 「だって!」 「そこへ横になりなさいな。落ち着くようにマッサージしてあげるから」 「え……」  一瞬、たじろいでしまう。周囲の隊員たちが意味深な笑みを浮かべる。  入浴中のマッサージはサラーナの特技のひとつである。精神を落ち着けたり疲労を回復する効果はてきめんなのだが、しかし手の動きが微妙にいやらしく、その実態はセクハラと紙一重だ。 「いや、でも、あの……」 「いいから、いらっしゃい」  仮にも相手は上官である。強く出られると逆らうことはできない。強引に、マットの上に俯せにされた。  背中に香草のオイルが垂らされ、サラーナの手がそれを塗り込んでいく。いい香りだ。確かに心が落ち着いてくる。しかし、偶然を装って女の子の敏感な部分に触れるのはやめて欲しい。しかもそれが気持ちいいので、くせになってしまいそうで怖い。 「ねえシェルちゃん。ソニアだって、本当は戦いたかったのよ。アルキアには白百合時代の借りがあるもの」 「だったら、何故」 「それが命令だから、よ」 「えっ?」  驚いて身体を起こそうとして、サラーナに背中を押さえつけられた。 「みんなも聞きなさい。でも、お風呂から上がったら一切オフレコよ?」  浴場にいた全員の視線が、サラーナ一人に集中する。 「北極航路を経由した敵襲は、以前から一部の人間が警告していた。だけど、空軍内ではそれを否定する意見の方が優勢だった。当然といえば当然ね。北極圏を飛び越えての爆撃なんて、これまで誰もやったことがないもの。そしてアルキアは西部戦線に戦力を集中しているし、昔から南進志向が強い」  そうだ。そもそもこの戦争は、北の大国アルキアが、南方の温暖な地を求めて起こしたものなのだ。 「だから、カランティ市周辺の飛行隊を増強するという意見は退けられたわ。総力を挙げて西部戦線をなんとか五分の戦いに持ち込んでいる空軍に、北に回す余剰戦力がないのも事実だし」 「でも、それでもし敵襲があったら……」  もし、ではない。実際に空襲はあり、旧式の装備しか持たないティアサーク基地は満足な反撃を行えなかった。  それでシェルシィも、他の隊員たちも、状況が飲み込めてきた。どうしてソニアが敵編隊を見逃したのか。 「警告……なんですか?」  その問いに、サラーナがうなずく。 「上層部の頭の固い連中は、一度痛い目に遭わなきゃわからないのよ。これまで一度も戦火にさらされたことのない内陸の都市が攻撃されれば、大変な騒ぎになるでしょう? 誰もが、北極航路の脅威を思い知ることになる。そうなれば、北に強力な迎撃部隊を配備することに反対する者はいないわ。かといって、万が一最初の空襲でカランティ市が壊滅したら一大事。だから……」 「だから、あたしたちがここにいる?」 「そう。実際に敵襲があって、目を覚ましたお偉方がティアサークに新鋭機を配備するまで、私たちが北の空を護るの。北極航路の危険性を強く主張していたグレイザック中将が秘かに手を回して、北極山脈に近いクリューカを竜姫の実験基地にしたのよ」 「でも、だったら!」  シェルシィはまだ納得がいかない。 「今日の敵は二○機以上もいたんですよ。少しくらい迎撃してもよかったじゃないですか。警告の意味なら、カランティに爆弾が一発落ちれば十分でしょう? 一機でも二機でも敵を減らせば、それだけ味方の被害も減らせたのに」 「そうね。確かにそうよ」 「じゃあ、何故?」  シェルシィは強引に起き上がって、真っ直ぐにサラーナを見た。目を見ていないと、うまく誤魔化されそうな気がした。サラーナが気まずそうに苦笑する。 「それは、ソニアに訊くべきでしょうね」  その言葉が終わる前に、シェルシィは浴場から飛び出していた。 * * *  食堂に、ソニアの姿はなかった。  だとすると自室だろうか。いずれにしても、また飲んでいることは間違いあるまい。ソニアの生活は「飛ぶ」「飲む」「寝る」の三語でほぼ言い尽くせる。  シェルシィは一人、ソニアの部屋の前まで来た。手を上げかけて、一度止めて、それから躊躇いがちにドアをノックする。 「開いてる。入れよ」  誰何されることもなく、そんな返事があった。細かいことを気にしないソニアらしい。  小さく息を吸って、ドアを開ける。  ソニアはベッドに腰掛けて、手にはグラスを持っていた。テーブルの上にはワインの瓶が二本、うち一本は既に空らしい。予想通りの光景だ。顔を上げて、一瞬だけこちらを見る。 「遅かったな」 「え?」  今の台詞。まるで、シェルシィを待っていたみたいではないか。衝動的にここへ来たのに、そのことを予想していたのだろうか。  そうかもしれない。空の上であれだけの剣幕だったシェルシィが、基地に戻ってから文句を言いに来ることは十分に予想できる。 「ほら、お前も飲めよ」  ソニアはテーブルの上にあったもうひとつのグラスに、なみなみとワインを注いで差し出してきた。 「飲めるんだろ? リースリング家のお嬢様なら」 「それは……まあ」  シェルシィの家は、国内最大のワインメーカーだ。今ソニアが飲んでいるワインだって、リースリング社の製品である。  だから、ワインには子供の頃から慣れ親しんでいた。故郷のソーウシベツ地方はワイン生産が盛んなところで、子供にも水で薄めたワインを飲ませるのが普通だった。 「あの、でも」  上官が勧める酒を断るのも失礼だ。そう思ってグラスを受け取ってから、それどころではないと思い出した。この部屋を訪れたのは酒盛りのためではない。 「いいから飲めって。素面のヤツと話すのは嫌いなんだよ」 「……隊長って、根っからの飲んべですね」  呆れながらも、グラスの中身を喉に流し込んだ。飲まなきゃ話を聞かないというのであれば、いくらでも飲んでみせる。  空になったグラスに、ソニアがお代わりを注いでくる。それも飲み干す。空腹時ということもあって、三杯目には胃と顔が熱くなってきた。 「……で?」  ソニアがそう訊いてきたのは、三杯目が空になった頃だった。アルコールによって理性のたがが緩んでいたので、一切の搦め手なしで本音をぶつけた。 「あたし、足手まといですか?」  それが、シェルシィが出した結論だった。  状況やソニアの性格を考えれば、今日の敵は迎撃してもよかったはずだ。こちらは二機、必ず撃ち洩らしが出る。北極航路の脅威を示すだけならそれで十分だ。  それに、ここで少しでも力を見せておけば、上層部も方針を撤回して竜姫を量産するかもしれない。マイカラスの戦闘機で、重爆撃機に対する迎撃能力で竜姫に勝る機種はない。今後のことを考えれば、コスト高には目をつぶっても量産した方がいいに決まっている。  それだけ条件が揃っていながら交戦を回避した理由は、ひとつしか考えられなかった。  僚機がシェルシィだったから。  実戦経験のない、新米のシェルシィだったから。  これがベテランのサラーナやルチアと一緒だったなら、展開は変わっていたに違いない。 「今日、お前が敵と交戦していたら……」  ソニアは低い声で言った。 「十中八九、死んでたな」  その言葉には異議を唱えたかった。  確かに自分は新米だ。それでも腕には自信がある。しかも最高性能の戦闘機を駆って、護衛戦闘機のいない鈍重な爆撃機を迎撃するのだ。極めて勝率の高い戦いではないか。十中八九死んでいたなんて、いくらなんでも大げさだ。 「自分の腕ならそうそうやられはしない、なんて考えてるだろ?」  ソニアが笑う。シェルシィの心を見透かしたように。 「確かに、ガキにしては飛べる方だけどな。だけど、実戦ってのはそんな甘いものじゃない。空士じゃ教えてないのか? 撃墜されるパイロットの大半は、初陣か、それに近い新米なんだよ」  空になったグラスを持ったまま話すソニア。部下としては、ここはお代わりを注ぐのが礼儀だろうか。少し迷って、結局そのままにしておいた。話を中断させたくなかったし、これ以上は飲み過ぎだ。 「操縦がどんなに上手くたって、初めての実戦はびびるんだ。訓練通りに飛べる奴なんていやしない。初陣のパイロットなんて、敵のエースのスコアを増やすためにいるようなもんだよ。補充されては死んでいく無数の新米パイロットと、ほんの一握りのベテラン。それが戦闘機隊の実態さ。マイカラスでもハレイトンでも、そしてアルキアでもそれは変わらない」  さすがにソニアも酔っているのだろうか、いつになく饒舌だ。その割に話の内容は理路整然としているが、だからといってすべてが納得できるというわけではない。 「……でも。それでもやっぱり、いつかは実戦を経験しなきゃならないんですから。それが今日であっても仕方がないと思います」 「まだ、駄目だ」  ソニアの目が真っ直ぐにシェルシィを捉える。かなり酔っているはずなのに、その瞳は濁ってはいない。鋭い視線だ。 「シェル、お前はこれまでに何時間飛んできた? 一○○時間飛んだ奴よりも二○○時間飛んだ奴、二○○時間よりも五○○時間、五○○時間よりも一○○○時間飛んだ奴の方が強い。初陣で実力を発揮できないのは同じとしても、経験の長い奴の方がその差は小さい。本来の力の一○パーセントしか出せない奴と五○パーセント出せる奴なら、生き残るのは後者だ」  シェルシィはざっと暗算してみた。自分の飛行時間はどのくらいになるだろう。  以前は戦闘機パイロットの養成には約八○○時間の訓練飛行が必要といわれていたらしいが、現在ではもっと短くなっている。戦火の拡大に伴ってパイロットが不足し、訓練に時間をかける余裕がなくなってきたからだ。 「お前がこの基地に来て十日か。……全然足りない!」  叩きつけるような動作で、ソニアは乱暴にグラスを置いた。底に残っていた液体が飛び散る。 「本当は、最低でも一ヶ月は欲しかったんだ。なのに猶予は、せいぜいあと二、三日しかない」 「え?」 「今日の空襲が成功したんだ。アルキアの連中、すぐ次を寄越してくるぞ。今度はもっと大編隊でな。なのにこっちにあるのは、ペリュトンに歯が立たない三式戦と小口径の高射砲、そしてたった一二機の竜姫だけだ」 「……」  思わず、唾を呑み込んだ。  二、三日以内に、次の敵襲がある。その時こそ自分たちが迎撃しなければならない。  全身に鳥肌が立った。ほんの一時間前まで、実戦に出られないことに文句を言っていたはずなのに、今は怖じ気づいていた。 「た……隊長」  なんとか声を絞り出す。それは、ひどく震えた声だった。 「あ、あたし、明日からもっと訓練時間を延ばします。それこそ、朝から晩まで一日中」 「そうだな、そうしろ」  ソニアは、ベッドにごろりと横になって言った。 「アタシの機も使っていいぞ。二機を交互に乗り換えれば、整備を待たずに飛び続けられる」 「でも、それでは隊長が」 「サラーナの訓練時間を半分もらうさ。アタシらはそれで十分。実戦なら嫌というほど戦ってきた。西部戦線で、な」  涙が出そうになった。  ソニアは大酒飲みでいい加減な性格だけど、こんなにも部下のことを考えてくれているのだ。そうと知らずに暴言を吐いてしまった自分が恥ずかしい。 「あ、あのっ……今日は、本当に申し訳ありませんでした! あたしってば、なんにもわかってなくて……ホント、新米でまだまだ子供ですね。ごめんなさい!」  素直に謝ることができた。少しだけ、アルコールの助けを借りてのことだけれど。 「別に、お前のためじゃないさ」  ソニアはベッドの上で寝返りをうって、こちらに背中を向けた。そんな態度が照れ隠しのようにも思える。 「お前のためじゃない、自分のためさ。アタシは決めたんだ」 「え?」 「アタシがパイロットでいる間は、もう二度と僚機を失いはしないってな」  背中を向けたまま、小さな声で言う。  ソニアはそれきり黙ってしまい、やがて、静かな寝息が聞こえてきた。  それが狸寝入りだとはわかっていたけれど、シェルシィは何も言わずに、ソニアの身体にそっと毛布を掛けてその場を立ち去った。 四章 初陣  与えられた猶予は、二日間だけだった。  最初の空襲から三日目の未明、交代で二四時間の哨戒任務に就いていた九一一飛行隊の白鳥が、北極山脈の上空を飛来する敵編隊を捉えた。そのうち三○機ほどが、クリューカ基地の防衛圏に進入するコースをとっていた。  九○七飛行隊の全機に出撃命令が下る。訓練ではない。実戦、本物の戦闘だ。  滑走路にずらりと並んだ一二機の竜姫は壮観だった。訓練でも、全機そろっての出撃なんて片手で数えるほどしかやったことがない。普段の訓練は二〜六機単位で行っている。  いま思うと、それも突然の敵襲に備えてのことだったのだろう。基地が空っぽになることはほとんどなかったし、模擬空戦のために空砲を積んでいる時でも、最低二門の機関砲には実弾が込められていた。  出撃を控えたシェルシィの目の前で、一機の白鳥が飛び立っていく。普段は一機ずつ交代で北極航路を警戒している白鳥だが、戦闘時には最低でも二機が空に上がって、戦場全域をくまなく監視下に置くことになっている。  竜姫の発進準備もすべて整っていた。いつでも離陸できる。シェルシィはもちろん、他の隊員たちも興奮しているようだ。  飛行隊員全員が整列し、基地司令のリーヴ・アーシェン中佐が前に立った。普段はあまり存在感のない司令官だが、やはり実戦ともなれば、出撃前に士気を鼓舞しようというのだろうか。 「みんな、楽にして聞いてくれ」  穏和な外見に似合わず、意外と大きな声だった。 「君らの多くにとっては、今日が初陣となる。当然、緊張しているだろう。かく言う私も基地司令として初めての実戦で、ひどく緊張している」  しかし口調は落ち着いていて、穏和なその表情はとても緊張しているようには見えなかった。 「だが、軍人としては君らの何倍かの経験がある。だから司令官ではなく先輩として、ひとつふたつアドバイスしておこう。  まず第一に、信じること、信頼することだ。零式は優れた戦闘機であり、特に、今回のような大型機の迎撃にその真価を発揮する。そして君らは、期間はいくぶん短かったものの、そのための厳しい訓練をこなしてきた。機体の性能と、自分と僚機の技量を信じることだ。これに疑いを持ってしまったら、本来の実力が出せなくなる」  そこで一呼吸の間をとって、全員の顔を見渡してから言葉を続ける。 「そしてもうひとつ。戦いでは、達成すべき目的を明確にして、そのために最善の行動をとることが重要だ。たまたま目についた敵を攻撃するのに夢中になって、本来の目標を逃してしまうなどというのは愚の骨頂。作戦の目的を忘れてはいけない。目的が明確ではない作戦は、そもそも立案段階から間違っているといってもいい。その点、今回の作戦は単純そのもの。我々の第一の任務は、零式の運用データを収集することだ」  シェルシィを含む数人が、怪訝そうな表情を浮かべた。それは平時の任務であり、今回は違うだろう、と。 「忘れてはならない。零式の性能を活かして敵と交戦し、データを持ち帰ること。それが最優先だ。データを収集しても、撃墜されて帰還できなければ意味がない。  そして第二の任務は、第一の任務に支障が出ない範囲内で、敵に最大限の打撃を与えること。いいか、このふたつの優先順位を間違えてはいけない」  念を押されて、ようやく理解した。要するに「敵を撃墜できなくてもいいから、必ず生還しろ」と言っているのだ。司令官という立場を意識してか、やや遠回しな表現になっているが。  外見通り、軍人らしくない人だ。戦果が二の次だなんて、普通の司令官は言わないだろう。むしろ「死んでも敵をくい止めろ」の方がありそうな台詞である。よくもこれで中佐まで出世できたものだ。  古参の隊員たちは、遠慮なく意地の悪い笑みを浮かべている。それに気づいてリーヴも苦笑した。 「……まあ、なんだ、自分の娘とそう変わらない年齢の女の子たちが戦場で死ぬところなど見たくはない……そういうことだ」  照れているのか、やや早口になる。 「心配すんなって。誰が飛行隊を指揮してると思ってンだ」  ソニアの軽口に、リーヴが小さくうなずいた。 「そうだな。ハイダー大尉が撃墜王と胸を張っていられるのも、生きていればこそだ。どんなに戦果を挙げても、生き残らなきゃ意味がない。生きてさえいれば、勲章はもらえるし昇進もするし、バーで自慢話をして女の子にももてる……と。最後のは、君たちにはあまり関係ないか」  他愛もないジョークに、くすくすと笑い声が起こった。確かに、戦闘機パイロットは若い娘たちに人気がある。若くてハンサムでしかも撃墜王ともなれば、その扱いはアイドル並みだ。  しかし女性の撃墜王が男性にもてるかどうかを確かめた者はいないだろう。そもそも女性の戦闘機パイロットなんて統計が取れるほどの数もいない。シェルシィが知っている女性の撃墜王はソニアとサラーナの二人だけだが、どちらも男性にはあまり興味がなさそうだった。  司令官のおかげで、隊員たちの張りつめていた空気がいくぶん和らいだ。先ほどよりはリラックスした表情で、それぞれの機に乗り込んでいく。  一番機から順にエンジンを始動。二四基のジェットエンジンの轟音が基地を包み込む。  一二機の竜姫は、三機ずつ四つの編隊に別れて離陸位置に着いた。シェルシィはエシールと並んで、先頭を行くソニアの斜め後ろにいた。今日は、もっとも若い二人をソニアが率いることになっている。 『リリィ01、離陸準備よし』  レシーバーに、聞き慣れた声が入ってくる。 『リリィ11、よし』 「リリィ12、よし」 『クリューカ・コントロールよりリリィ01、離陸よし』 『了解』  エンジンの出力を全開にする。  左右の風景が後方へ流れていく。機首が上がり、青い空が視界いっぱいに広がる。  いつもと変わらぬ美しい空。しかし今日は、その彼方に戦いが待っているのだ。 * * * 『スワン02よりリリィ01。敵編隊三二機、エリアA‐14よりB‐13へ侵入。進路一八五、高度九○○○、速度四八○変わらず』  敵編隊を捕捉している白鳥からの無線連絡が入る。 『迎撃隊は進路二八五、速度八六○へ。会敵予想エリアはB‐32』 『リリィ01、了解』  指示に従って、ソニアは進路を修正して速度を上げた。  九一一飛行隊の役目は単なる索敵だけではない。敵の状況を逐次知らせると同時に、味方の戦闘機隊がもっとも効率よく敵を迎撃できるように指示を出す。いわば戦場の指揮者だ。白鳥の強力なレーダーは、戦場全域を監視下に置いている。 『よーし、もうじき目視距離に入るぞ。機体や体調に問題はないな?』 『リリィ11、すべて正常』 「リリィ12、すべて正常」  他の編隊からも同様の報告が来る。 『外部タンク投下。火器安全装置解除』  胴体下に吊り下げていた外部タンクを切り離す。燃費の悪い竜姫にとって大型の外部タンクは必需品だが、余分な重量と空気抵抗が空戦機動の妨げになるので、普通は戦闘前に投棄する。  軽くなった機体を一○○○○メートルまで上昇させる。敵より高い位置をとるのは空戦の基本中の基本だ。 『目標、目視』  ソニアの声と同時に、視界の彼方に砂粒よりも小さな点が映った。最初は針先で突いた点にしか見えなかったそれが、距離が縮まるにつれて爆撃機の姿に変化していく。  間違いない。アルキア空軍が誇る重爆撃機ペリュトンだ。その形は、写真や模型で嫌というほど見せられている。  敵もこちらに気がついたのか、散開していた編隊を密集させていく。  この判断は正しい。戦闘機と爆撃機では機動性に天地の差があるのだから、慌てて勝手な回避行動などを取れば、一機ずつ餌食になるのが目に見えている。ペリュトンの最大の武器は一○門を超える対空機銃だ。編隊を密集させて対空砲火を集中させれば、戦闘機は容易に近づけない。 『まず、敵を分散させるぞ。四式ロケット弾一斉射撃用意。タイマーは八秒セット』  カチ、カチ。  シェルシィは左手で調整つまみを回した。右手の親指を、操縦桿上部の発射ボタンに置く。照準器は敵編隊を捉えている。 『三……二……一……発射』  ボタンを押す。小さな衝撃とともに、主翼の下から二発のロケット弾が飛び出していく。他の機からも同時にロケット弾が発射された。飛行機雲のような白煙を引いて、計二四発のロケット弾が敵編隊に襲いかかる。  航空機からロケット弾を発射するというアイディア自体は、それほど新しいものではない。当初、対地攻撃用に搭載されたロケット弾は、爆撃機の大型化、重装甲・重武装化に伴って、機銃の火力不足を補うために対空用に転用されるようになっていた。しかし対地ロケット弾は精度が低く、航空機にはそうそう命中するものではない。そんな問題点を改良したのがマイカラス空軍の新兵器、四式対空ロケット弾だ。  弾体を細長くすることで速度と精度を向上させ、発射前に調整可能な時限信管を組み込んだ。目標を直撃すればもちろん、命中しなかった場合も一定時間が過ぎると信管が作動し、内部に詰め込まれた焼夷榴弾が前方一○○メートルあまりの範囲にばらまかれる。  直撃でなければ重装甲のペリュトンを撃墜するのは難しいが、それでもエンジンや対空砲に当たれば相当の損害を与えることはできる。なにより、自分に迫ってくるロケット弾を目にすれば、大抵のパイロットは慌てふためいて編隊を乱すものだ。  その目論見通りだった。敵編隊の手前で光が瞬き、白煙が広がる。距離があるのでさすがに直撃はしなかったようだが、密集していた敵編隊がばらばらに散っていく。エンジンを損傷したのか、主翼から煙を噴いているものも二、三機いる。 『さあ、狩りの時間の始まりだ。行け、シェル』 「は、はいっ!」  ソニアの声を合図に、シェルシィは一番近いペリュトンに全速で向かっていった。斜め後ろにエシールが、そして真後ろにソニアがいる。  照準器の中で、敵機がぐんぐん大きさを増していく。スロットルレバーと一体になっている調節つまみを回して、照準器に投影されているオレンジ色の照準環の大きさを変化させる。環の大きさと敵機の見た目の大きさが一致した時に横のメーターを見ると、目標までの正確な距離がわかる仕組みだ。  三二ミリ機関砲の安全装置を解除。人差し指が機関砲のトリガーにかかる。敵機が射程に入るまで、あと三秒……二秒……。 「――っ!」  一瞬早く、巨大な重爆から数条のオレンジ色の光が飛び出してきた。対空機銃の曳光弾が、流星のように飛び去っていく。 (う、撃たれるっ)  身体が強張る。  実弾で撃たれるなんて初めてのことだった。  回避行動を取らなければならない。ただ真っ直ぐ飛んでいては射撃の的も同然だ。  頭ではわかっているのに、手が動かなかった。狼狽のあまり、操縦桿を握る手に、ラダーペダルを踏む足に、必要以上の力を込めてしまう。  これは大きな誤りだった。急に機首の向きが変わって、敵の姿が視界から消える。それではこちらも攻撃できない。正しくは最小限の動きで対空砲火をかわし、射撃を行わなければならないのだ。  慌てて逆方向に旋回。再び視界に飛び込んできたペリュトンの巨体は、もう衝突しそうなほどの至近距離に迫っていた。  反射的に操縦桿を手前に引きながら、機関砲を発射した。竜姫は敵機の上ぎりぎりをすり抜けたが、射撃のタイミングはわずかに遅かった。運がよければ一、二発は命中しているかもしれないが、おそらくは一○発ほどの砲弾を無駄にばらまいただけだろう。 (そうだ! 回避、回避しなきゃ!)  敵機と交差して離れる時こそ、対空砲火に気をつけなければならない。ハリネズミのようなペリュトンの機銃には、ほとんど死角がないのだ。  しかし操縦桿を握る手は、相変わらず言うことをきかなかった。後ろを振り向く余裕もない。心臓の鼓動は早鐘のようだ。いつ撃たれるか……とびくびくしながら、ただ真っ直ぐに飛んでいた。なのに対空砲火が追ってくる様子はない。 『シェル、ぼけっとすんな!』  鼓膜を震わせるソニアの声に、はっと我に返った。ばねが弾けるように背後を振り返る。  数秒前までそこにいたはずの、ペリュトンの姿がなくなっていた。大きな火の玉と広がる黒煙を突き抜けて、一機の竜姫が飛び出してくる。  後ろにいたソニアが、至近距離からロケット弾を撃ち込んだのだろう。いくら防弾性能の高いペリュトンといえど、ロケット弾の直撃を受けてはひとたまりもない。 『左後方、次の獲物だ』 「え……? は、はいっ!」  シェルシィは赤面しながら急旋回した。続けざまになんたる失態。敵の対空砲火に怯えて攻撃に失敗したばかりか、前衛機の役目をすっかり失念してしまうなんて。  敵を仕留められずに後衛にとどめを任せる場合、前衛はその間、周囲を警戒し、新たな攻撃目標を捕捉しなければならない。なのにそれを忘れて、ソニアに教えられてしまった。  最初の対空砲火を受けた瞬間から、身体が思うように動かなくなっていた。手が、脚が、自分のものではないように感じる。頭の中も真っ白で、まるで冷静な判断ができていない。  これが、実戦だった。  そこには、訓練とはまるで違う緊張感があった。決定的な違いだ。模擬空戦では、たとえ撃たれても死ぬことはない。しかしペリュトンの一二ミリ機銃は、一発でもシェルシィの命を奪うことができる。 (……これか)  最初の空襲の日、ソニアが言っていたことを思い出す。  十分な心の準備をしていたはずの今日でさえ、こんな調子なのだ。もしもあの時たった二機で迎撃に向かっていれば、シェルシィはなにもできずに撃墜されていたことだろう。今日は飛行隊の全機がそろっているからこそ、多少のミスもカバーしてもらえるのだ。  もっと、しっかりしなければならない。  司令官はなんと言っていた?  まず第一に、信じること。機体の性能を、自分の腕を、そしてなにより僚機を。  竜姫は素晴らしい戦闘機だ。敵の機銃手だって、時速八○○キロ以上で飛行する戦闘機など見たことあるまい。対空機銃など、高速飛行する戦闘機にはそうそう当たるものではないのだ。  そして、ソニアの技量も素晴らしい。シェルシィとエシールのミスをカバーして目標を一撃で撃破しながら、周囲の敵機の位置まで正確に把握している。  最高の機体に、最高の味方。  これ以上、なにを望むものがあるだろう。なにも心配しなくていい。自分はただ、目の前の敵機に集中すればいいのだ。  今度は失敗しない。その決意を胸に深呼吸する。酸素マスクから送られてくる無味乾燥な空気でも、いくらか頭がすっきりした。  新たな敵を視界に捉える。 『シェル、次はロケット弾を使え。重い荷物はさっさと捨てるに限る』 「了解」  その指示はありがたかった。四式ロケット弾はペリュトンの機銃よりも射程が長い。今度は撃たれる前に撃つことができる。  それを言ったら、竜姫の六門の機関砲はどれも敵の一二ミリ機銃より射程が長いのだ。なのに先刻は敵が先に撃ってきた。見たこともない速度で迫ってくる迎撃機に狼狽したのだろう。有効射程に入る前に、でたらめに発砲しただけだったのだ。 (相手だって怖いんだ)  怯えているのは自分だけではない。そう考えると気が楽になった。  敵機との距離が詰まっていく。攻撃を避けようと左に急旋回しながら降下しているが、竜姫に比べればその動きは鈍重そのものだ。  敵機のやや左前方を狙う。一瞬だけ機体を水平に安定させ、ロケット弾の発射ボタンを押した。  二発のロケット弾が、白煙を残して一直線に飛び去っていく。シェルシィは旋回しながら、首を巡らしてその行方を追った。  一発はわずかに目標の下に外れた。しかしもう一発は、ものの見事に主翼の付け根に吸い込まれていった。  小さな爆発。一瞬後、ペリュトンの巨体が火の玉となって飛散した。搭載していた爆弾が誘爆したのだ。 「やった!」  思わず、操縦桿を放して手を叩く。 『はしゃぐな、次だ。方位○五八、高度八二○○。エシールがやれ』  ソニアの声は、これ以上はないというくらいに冷静だった。この状況下で、一○○○メートルも下にいる敵機を把握していたとは驚きだ。  三機は降下しながら隊形を変化させる。今度はエシールが先頭、ソニアがやや遅れて、ロケット弾を使い果たしたシェルシィが後衛につく。  急降下で加速した竜姫は、高度を下げて迎撃隊をやり過ごそうとしていた敵機にたちまち追いついた。エシールがロケット弾を発射する。回避しようとした相手が機体を大きく傾けたので直撃はしなかったが、時限信管が作動してペリュトンの左翼半分を吹き飛ばした。  頑丈な機体で高い生存性を誇るペリュトンのこと、片翼の半分とエンジン一基を失っても飛行を続けることはできる。しかしそれは、戦闘中でなければの話だ。  手負いになった獲物にソニアが襲いかかる。二門の三二ミリ機関砲が火を噴く。  それは、対大型機専用の武装だった。戦闘機の主流となっている二○ミリ機関砲の四倍以上の炸薬を詰め込んだ機関砲弾は、戦車の上部装甲すら撃ち抜くことができる。いくらペリュトンの防弾性能が優れているとはいえ所詮は航空機、薄いジュラルミン外板など紙同然だ。  ソニアの射撃は完璧だった。照準の難しい大口径弾が、吸い込まれるように敵機の中心部に命中する。その内部は爆弾倉だ。  爆発、炎上する敵機。  その鮮やかさに、シェルシィは周囲の警戒という後衛の役割も忘れて見とれていた。 * * *  戦闘は長くは続かなかった。  空戦時はほとんどの時間エンジンを全開にしているため、竜姫の燃料があっという間に底をついてしまうのだ。しかしその頃には、周囲に敵機の姿も見当たらなくなっていた。 『スワン02よりリリィ01、ゲームは終わりよ。残敵は七、全機が反転して帰路についた。司令から、これ以上の追撃は無用と言ってきたわ』  レーダーと無線で戦闘の様子を監視していた白鳥からの通信が入る。  シェルシィは思わず歓声を上げた。エシールの弾んだ声も聞こえてくる。  生き延びたのだ。  生き延びて、しかも戦果を挙げたのだ。  一二機の竜姫で、二五機のペリュトンを撃破。大勝利だ。  中でも圧巻はソニアだった。なんと一人で四機撃墜だ。女性では世界最高のエースという言葉も、今なら素直に信じられる。地上ではだらしない大酒飲みでも、空にいる時は紛れもない撃墜王だった。  ソニアが機首を巡らして帰路につく。シェルシィとエシールが後に続く。  やがて、他の編隊も合流してくる。総勢一二機、一機の損失もない。  出撃した全員が、そろって還ってゆく。  無事に帰還できるというのは素晴らしいことだ。  初めて撃たれた時の恐怖は忘れていない。きっと、一生忘れないだろうとシェルシィは思った。 五章 ジェット・ボーイ 『スワン04よりリリィ01、敵編隊は進路そのまま、高度一二○○○からさらに上昇中』 『上昇中?』  わずかに語尾を上げた、怪訝そうな声が聞こえてくる。シェルシィも首を傾げた。  アルキアが誇る重爆撃機ペリュトンは、優れた高々度性能が売り物だが、それでも一二○○○メートル以上というのは実用上昇限度を超えている。しかも、さらに上昇中とは。 『……ふぅん、いよいよ来たか』  ソニアの声音が変化する。どこか楽しそうな声。舌なめずりしている顔が目に浮かぶようだ。 『自慢の空の要塞がぽろぽろ墜とされるんで、堪忍袋の緒が切れたようだな』  初陣以来、クリューカ基地は三度の実戦を経験していた。北極航路から襲来するアルキアの爆撃機隊に壊滅的な損害を与え、これまで味方の被害はない。  もちろん、北の空を護っているのは九○七飛行隊の一二機だけではない。初空襲の後、近隣のティアサーク、カランティ両基地の飛行隊は大幅に増強され、六式戦闘機〈旋風〉や七式戦闘機〈颶風〉、四式ジェット戦闘機〈飛竜〉といった最新鋭機が配備されている。  度重なる敵爆撃機の侵入を、迎撃隊はよく食い止めていた。これまでのところ、カランティ市を中心とする北部工業地帯は大きな被害を被ることなく、マイカラスの工業生産を支え続けている。  アルキア軍にとっては、これは大きな誤算だったはずだ。しかし、そろそろ竜姫の実力を思い知ったことだろう。実戦経験豊富なソニアやサラーナにしてみれば、アルキアの新戦術は十分に予想の範囲内だった。 『敵編隊、高度一三○○○メートル』 「いちまんさんぜんっ?」  爆装したペリュトンには不可能な数字だ。 『ケツァルコアトルス、だな』 「――っ」  独り言のようにつぶやいたソニアの言葉に、思わず息を呑んだ。  名前だけは聞いたことがある。  ケツァルコアトルス。  古代の巨大な翼竜の名を持つ、アルキア空軍の新型爆撃機。  ペリュトンを超える超重爆撃機が開発中だという噂は聞いていたが、まさか、こんなに早くに実戦投入されるとは予想していなかった。なにしろ、六発のエンジンを装備して航続距離は八○○○キロ以上、最大一二トン以上の爆弾を搭載して長距離爆撃を行えるという、これまで常識を遙かに超えた大型機なのだ。 『いいねぇ。初物と聞くとわくわくするな』  想像を絶する巨大な敵を前に、ソニアの声にはまるで緊張感がない。 『スワン04よりリリィ01、それだけじゃありません。護衛戦闘機がいます。一○〜一五機、爆撃隊から離れてそちらに接近中』 「戦闘機?」  これまで北極航路からの爆撃は、護衛戦闘機を伴わずに爆撃機のみで行われていた。戦闘機では航続距離が足りないことが一番の理由だろうが、アルキアがマイカラスの防空能力を過小評価していたこともある。  それで爆撃機隊の損害が膨らんでいる以上、護衛戦闘機を同行させてくることは新型機の投入以上に当然のことだった。 「でも、どこから?」  アルキアの最北にある基地からでも、戦闘機ではわずかに航続距離が足りない。まさか、自殺覚悟の片道飛行ではあるまい。 『これまでよりも北に、新たな基地でも建設したかな? 戦闘機だけの小さな基地なら、どこにでも造れるからな』 「もっと北って……海に出ちゃいますよ。それに、一年中雪と氷の世界ですよ?」 『極端な話、上面が平らな大きな氷山にちょっと手を加えただけでも、滑走路代わりに使えるさ。あるいはアルキア空軍も、空中給油を実用化させたのかもしれない』  なんにせよ、敵戦闘機が迫っているというのは事実だ。それが迎撃隊の進路上に立ち塞がっている以上、交戦しなければならない。  白鳥が、刻々と変化する敵編隊との距離を伝えてくる。やがて、肉眼でもその姿を捉えられるところまで近づいた。 『各機、一撃喰らわしたらさっさと離脱して本命に向かえ。シェル、ついてこい。空戦の真髄ってもんを見せてやる』  編隊の先頭を切って、ソニアが敵戦闘機に襲いかかった。指示通り、シェルシィはぴったりと後についていく。  敵は、アルキア空軍の単座戦闘機〈ハーピー〉だった。長い主翼が特徴の、高々度性能と航続距離に優れた機種で、長距離爆撃の護衛には最適だ。  敵編隊との距離が詰まると、ソニアは機を急上昇させた。敵も追ってこようとするが、竜姫とハーピーでは上昇力に天地の差がある。距離が開いたところでいきなり反転降下。たちまち敵の背後についた。機関砲が火を噴く。最後尾のハーピーが火だるまになって四散する。  そのまま加速して、再び距離を取る。速度で劣るハーピーは追いつけない。速度を保ったまま大きく旋回して敵の側面を衝く。敵も急旋回してくるが、うち一機の反応が遅れた。横腹をさらしている。  発砲、命中。  訓練でもこれほど上手くはいかないだろうと思うほどの、完璧な射撃だった。 『シェル、後ろは任せた』 「え?」  離脱するソニアを追って旋回する敵機が視界に入ってきた。後方のシェルシィには気づいていないのか、無防備に背中を見せている。絶好の射撃位置だ。敵機を照準器の中心に収め、トリガーを引く。四門の一六ミリ機関砲が火を噴く。  シェルシィが放った砲弾は、狙い違わず敵機のエンジンを撃ち抜いた。たちまち炎に包まれる。一機撃墜。  戦闘機を撃墜したのは初めてだった。あまりにも簡単なことに拍子抜けしてしまう。  しかし、それが空戦というものだった。エースパイロット同士が死力を尽くして背後を取り合うような格闘戦は、戦争映画の題材にはいいかもしれないが、実際には滅多にあることではない。戦闘機同士の空戦の大半は、死角から迫ってきた敵に、気づかないうちに撃たれて決着がつく。  今回は、ソニアが手柄を立てさせてくれたのだろう。自分を追ってくる敵がいることを知っていて、ちょうど自分とシェルシィの間に来るように誘導したのだ。  それがソニアの才能だった。めまぐるしい空戦機動の最中でも、どこに敵がいて、どのように動くのかを完全に把握している。並はずれた空間認識能力の持ち主なのだ。 『よーし、これ以上雑魚にかまうな』  敵の戦闘機隊は、たちまちのうちに半数以下に撃ち減らされていた。穴の開いた防衛線を、竜姫が次々と突破していく。  圧倒的優位にあるにも関わらず、ソニアは目の前の獲物には固執しなかった。迎撃任務の妨げにならない限り、敵戦闘機など放っておいても構わない。アルキアの重爆撃機こそが九○七飛行隊の目標なのだ。  いい加減に見えるソニアだが、戦闘時には恐ろしく冷静だった。戦いに夢中になって自分のするべき事の優先順位を違えることなど絶対にない。今の最優先の任務は、敵爆撃機を迎撃してカランティ市を護ることだ。  敵の爆撃機隊が迫ってくる。  それは、信じられないくらいに巨大な機体だった。  空の要塞といわれたペリュトンのものよりも大きなエンジンが、両翼に計六機。そして太い胴体。あの中に収められた爆弾は、いったい地上にどれだけの損害を与えられるのだろう。 『まずはロケット弾だ。今日の敵はデカブツだからな。遠慮なしにぶっといのをケツからぶち込んでヒィヒィ言わせてやれ』 「隊長ってば、相変わらず下品ですねぇ」  いつものこととはいえ、思わず溜息が出る。シェルシィは一応仮にも良家の一人娘であり、士官学校に入学する前はずっとお嬢様学校の寄宿舎にいたのだ。こうした、男性的な乱暴な言葉遣いには慣れていない。 『お上品で戦闘機パイロットが務まるかよ』 「憧れの白百合飛行隊の実態がこれとは……ショック」 『なにか言ったか?』 「なにも。無線のノイズでは?」  シェルシィは白々しくとぼけた。部下の暴言くらいで本気で怒るソニアではないが、後で、それを口実に苛められてしまう。先の発言についてこれ以上突っ込まれないうちに、てきぱきと作業を進めた。 「ロケット弾、安全装置解除。敵機捕捉……発射!」  敵機のやや前方を狙って、ロケット弾の発射スイッチを押す。もう慣れたものだ。矢のように飛んでいくロケット弾は、巨大な敵機を直撃する――はずだった。  しかし。  シェルシィが放った二発のロケット弾は、目標の遙か下で時限信管が作動して爆発する。 「な、なんでぇ? 不良品?」 『下手くそ、なにやってんだバカ! 照準設定を間違えたな』 「あっ!」  ロケット弾も機関砲も、あるいは地上の野砲や軍艦の艦砲も、正確な射撃のためには目標までの正確な距離を求めることがなによりも重要だ。これまでの戦闘機ではパイロットの経験と勘に依存する部分が大きかったが、竜姫の照準器は違う。調整つまみを回して、照準器に映し出される環と目標の大きさとを一致させると、横のメーターに正確な距離が表示される仕組みだった。  しかしそれには、目標の実際の大きさがわかっていることが前提である。竜姫の照準器には、アルキア軍の主要な機種の大きさが登録されていて、交戦中でも簡単に切り替えられるようになっていた。  シェルシィは照準器を確認した。なんということだろう。ペリュトンの設定になっている。ハーピーとの空戦で照準器の設定を変更した後、いつもの癖でペリュトン用の設定に戻してしまったのだ。これでは、ペリュトンより一回り以上も大きなケツァルコアトルスを狙っても当たるはずがない。 「いっけない!」  慌てて照準器の調整つまみに手を伸ばす。そこに一瞬の隙が生じた。 『バカッ!』  容赦ない罵声に、はっと顔を上げる。思っていた以上に敵機との距離が詰まっていた。  機体上部の旋回銃座がこちらを向いている。朱色の閃光が走る。 「――っ!」  ハンマーでガンガンと叩かれたような衝撃。  機体が震える。  灼けるような痛みが身体を貫く。  視界が一回転し、上下の感覚が失われる。  計器盤にいくつか赤いランプが灯り、別ないくつかのランプがふっと消える。  薄れていく意識の中で、撃たれたのだと気づいた。 * * * 『……バカ野郎っ! 寝てるのか? 起きろ、操縦桿を引け!』  遠くから声が聞こえてくる。  毎日毎日、シェルシィを怒鳴っている声。だけどどこか憎めない声。  今日はどうして、こんなにひどく怒っているのだろう。なにか、へまをしでかしただろうか。ちゃんと、敵の戦闘機だって撃墜したはずなのに。  考えがまとまらない。頭が痛い。 『こら! 返事しろ! 死んでんのかっ!』  声が一段と大きくなる。そこでようやく目が開いた。  機体が不気味に振動している。  身体に染みついた習性で、瞬時にいくつかの計器を読み取る。高度計、速度計、水平儀。かなりの速度で降下中だった。このままでは地面に激突するか、あるいはその前に空中分解してしまう。  まだ意識がはっきりしない。夢を見ていたような気がする。どうしてこんな状況になっているのだろう。  計器盤に、見慣れない赤いランプが灯っていた。逆に、普段は灯っているはずのランプで消えているものがある。燃料計の他、いくつかの計器が割れている。 (……っ!)  不意に、記憶が甦ってきた。  そうだ、撃たれたのだ。  一瞬、意識を失っていたのだろう。危ないところだった。ソニアの声で目を覚まさなければ、このまま墜落していたかもしれない。早く機の姿勢を立て直さなければ。  右手に力を込め、操縦桿を握った。  ズキン!  骨に響くような痛みが走る。一瞬、力が抜ける。  もう一度しっかりと握り直し、機体に負担をかけないようにゆっくりと引いた。急降下していた機体が徐々に水平に戻り、速度が下がっていく。  それでもまだ、機体はがたがたと震えていた。頭の後ろから、耳障りなノイズが響いてくる。  意識がはっきりしてきたところで、もう一度計器盤を確認した。いくつかの計器が壊れているようだが、致命的な問題ではない。  一番大きな問題は、右エンジンだった。回転数と圧力が下がっているのに、温度が危険なレベルまで上昇している。右後方を見ると、不気味な黒煙が上がっていた。エンジンに被弾して火災が発生しているらしい。  出力を絞り、右エンジンへの燃料供給を停止。手動で緊急消火装置を作動させる。ボンベから炭酸ガスが噴き出す音を聞いて、ほっと安堵の息を漏らした。回転計と温度計の針が急激に下がっていく。消火成功だ。 『シェル、無事か?』  機の姿勢を立て直したので、ソニアの声もいくぶんボリュームが下がっている。すぐ横の、手を伸ばせば届きそうな距離に並んで飛行していた。 「はい、えーと……」  もう一度、現状を確認する。  まだ飛べるか? それは大丈夫。  怪我はないか? それが問題だ。  右腕と脇腹、そして右脚に鋭い痛みがあった。怖くて見ないようにしていたのだが、いつまでも放っておくわけにはいかない。恐る恐る自分の身体を見おろして、息を呑んだ。  飛行服の右半身が真っ赤に染まっていた。右肘の少し上あたり、右の脇腹、そして太腿。血の染みがどんどん広がっている。 (撃たれた……!)  一瞬、視界が暗くなった。機体が損傷しただけではなく、かなりひどい怪我を負ってしまったようだ。  ズキン、ズキン。  心臓の鼓動が傷に響く。どのくらいの傷なのだろう。このまま死んでしまうのだろうか。 『シェル?』 「あ、……えーと。右エンジンに被弾、火災が発生したので緊急停止しました。左は正常です。あと、機首にも被弾したのか、計器がいくつか破損していますが、飛ぶだけなら大きな支障はありません」 『怪我は?』 「……かすり傷が二、三カ所」  嘘をついた。レシーバーに、微かな安堵の声が入ってくる。 「すみません。戦闘の継続は不可能です。単独で基地に戻ります」 『そうだな。だったらティアサーク基地へ向かえ。進路二○五。ここからなら、クリューカへ戻るよりも一○○キロ以上近い』 「了解」  コンパスを見ながら進路を修正する。幸い、操縦装置にこれといった損傷はないようだ。 『一人で大丈夫か?』 「……はい」  また、嘘をついた。 『危ないと思ったら無理するな。機体を捨てて脱出していいぞ』 「後で弁償しろ、なんて言いません?」 『機体とパイロットの両方を失うくらいなら、機体だけの方がまだましだ。減俸で許してやるから安心しろ』 「そんなぁ! ただでさえお給料安いのに」 『それはアタシのせいじゃない。文句は政治家に言いな。じゃ、気をつけろよ』  ソニアの機が旋回、上昇して離れていく。  これで、一人きりになった。  急に心細くなる。  寒い。  ひどく寒く感じる。高空服のヒーターが切れているのだろうか。  高度を下げて雲の下に出る。見渡す限りのツンドラの大地には、これといった目標物もない。もう一度コンパスを確認。進路は間違いない。 (大丈夫……だよね)  右エンジンが停まっている以外は、機体に大きな問題はない。燃料計が壊れていたが、ティアサークへ向かうだけの量は充分残っているはずだ。  むしろ問題は、シェルシィの側にあった。  出血はまだ止まっていない。被弾した直後に比べると痛みは鈍くなっていたが、それは必ずしもいい兆候とは限らなかった。神経が麻痺するほどの大怪我の可能性もある。  なんとなく、頭がぼんやりする。右手が思うように動かない。  右腕を負傷すると、竜姫はひどく操縦しにくくなると気がついた。普通の戦闘機は両脚の間に操縦桿があるから、いざという時には左手でも操縦できるし、短い時間ならば太腿で固定して手を離すこともできる。しかしコクピット右端にある竜姫の操縦桿は、左手で操作するのは困難だ。  基地に戻ったら、報告書に書かなければならない。九○七飛行隊の本来の任務は、竜姫という新型機の様々な試験だ。訓練飛行で不具合や気がついたことがあれば、どんな些細なことでも開発局へ報告書を提出することになっている。 (ま、それは無事に帰れたらの話……か)  ふと、そんなことを思った。  果たして帰れるのだろうか。ティアサーク基地に辿り着く前に、失血で死んでしまうのではないだろうか。考えたくもないことだが、嫌な考えが頭を離れない。  どうして嘘をついたのだろう。怪我はないかと訊くソニアに対して「かすり傷だ」なんて。  知られたくないと思ったのだ、あの時は。  今、そのことを少し後悔していた。  一人でいるのが心細い。ソニアかサラーナが傍にいてくれたらいいのに。傍にいて「大丈夫だ」と励ましてくれたらいいのに。  ひどく静かだった。そのことが孤独感をいや増していた。  竜姫のコクピットは普段、エンジンの轟音で耳が痛いほどなのに。  エンジンが一基停止しているだけで、こんなにも変わるものなのだろうか。それとも怪我の影響で、聴覚まで鈍くなっているのだろうか。 「戦闘機パイロットが死ぬ時は一人……か」  新米のシェルシィであっても、そのことを本能的に知っていたのだろう。  だから嘘をついた。  ソニアが見ている前では死にたくなかった。「もう二度と僚機を失いはしない」と言っていたソニアの前では。  ソニアと別れてから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。そういえば、地図の確認を忘れていた。自機の正確な位置がわからない。  不安になってきた。  本当に進路は正しいのだろうか。それにしては時間がかかりすぎてはいないだろうか。もう、ティアサーク基地に着いてもいい頃ではないのか。  下を見ても、だだっ広い荒野しか目に入らなかった。靄がかかっていて視界もよくない。  ティアサーク基地へは訓練で何度も飛んだことがあるが、その時はソニアやサラーナの後をついていっただけだし、白鳥の誘導もあった。まったくの単独飛行は初めてだ。 (そうだ、白鳥)  スワン04が、レーダーで戦場を監視しているはず。当然、離脱したシェルシィも捉えていることだろう。 (……いや、だめか)  ここがティアサーク基地の近くであれば、もうスワン04のレーダーの有効範囲からは外れている。溜息混じりに首を振ったところで、あることに気づいて苦笑した。  そう、レーダーだ。白鳥に頼るまでもない。ティアサーク基地のレーダーが、接近するシェルシィを捉えているだろう。今ごろ、何者かと首を傾げているに違いない。  無線の送信ボタンを押す。 「リリィ12よりティアサーク・コントロール、緊急事態」  応答はない。数秒待って、もう一度繰り返す。 「リリィ12より、ティアサーク・コントロール。こちらリリィ12、ティアサーク基地応答願います!」  不安のあまり、最後は金切り声になっていた。  レシーバーから聞こえてくる微かなホワイトノイズ。永遠に続くかと思われたそれが、不意に変化する。 『……ティアサーク・コントロールより、リリィ12』  ノイズ混じりに聞こえてくる、落ち着いた声。何度も聞いたことのあるティアサークの管制官の声が、これほど頼もしく感じたことはなかった。  大きく安堵の息をつく。自然と、口元がほころんでいた。 「こちらリリィ12。被弾してエンジンを損傷しています。緊急着陸を許可願います」  今度はすぐに応答があった。 『……ティアサーク・コントロールよりリリィ12、緊急着陸を許可する。現在の進路を維持し、二番滑走路へ着陸せよ』 「リリィ12、了解」  とりあえず、これでひと安心。どうやら助かりそうだ。  ところが―― 「……あれ?」  安心して緊張の糸が切れたのか、身体から力が抜けていく。また、意識がぼやけてきた。 「あ……まずい」  視界が暗くなってきた。意識が途切れそうになる。  血が滲むほどに強く唇を噛みしめて、その痛みで意識を保とうとする。しかし少しでも気を抜くと、顎の力を維持することさえ困難だった。 『ティアサーク・コントロールよりリリィ12、火災は発生しているか? ……リリィ12?』  管制官の声で意識が戻る。 「……リリィ12。被弾直後は火が出ましたが、現在は消火しています」 『負傷しているか? 医療班の用意はいるか?』 「あ、えーと……一応、お願いします」  一応どころではない。今もっとも必要なのは医師の治療だ。しかしそれは、無事に着陸した後のこと。  自信がなくなってきた。この朦朧とした頭で、うまく動かない右腕で、浅からぬ傷を受けた機体を無事に着陸させることができるのだろうか。  航空機の操縦で、もっとも難しくて微妙な操作が要求されるのが着陸なのだ。ティアサーク基地の滑走路に大穴を開けることになる可能性もある。  機体を捨てて、パラシュートで脱出した方がいいだろうか。その方が、万が一にも基地の施設に被害を与えずにすむかもしれない。  いいや、駄目だ。  少し考えて、その考えを却下した。脱出も、相当に神経を使う作業なのだ。竜姫の狭いコクピットからの脱出はなおさらのこと。今の体調では、コクピットから飛び出した直後に垂直尾翼に激突する危険が大きい。 (……機を捨てる時って、自分も負傷していることが多いはずだから……うまく動かない身体でも安全に脱出できるようなコクピット……これも報告書に書いておこう。今度の報告書は長くなるなぁ……ユーウツ。ああ、きっと隊長に始末書も書かせられるに決まってる。やだなぁ……)  また、思考が迷走しはじめていた。ほんの数分の距離のはずなのに、いつまで経っても着かないように感じる。世界一速い飛行機である竜姫が、どうしてこんなにのろのろとしか進まないのだろう。  また不安が頭をもたげようとする頃、ようやく原野の中に人工物が見えてきた。この戦区では最大の空軍基地ティアサークと、その近くの村だ。  ぎりぎりまで速度を落とし、ゆっくりと高度を下げていく。  危険な着陸になりそうだった。被弾した衝撃のためだろうか、高度計が狂っているような気がする。計器の数字と、自分の目で判断した高度が一致しない。今は視力の方もあてにならないので、どちらか一方だけを信用することはできなかった。  機を早めに降下させ、本来の進入コースよりもかなり浅い角度で滑走路へと向かった。これなら地面で反射するエンジン音でおおよその高度が判断できるし、万が一地面に激突しても、少しは衝撃を減らすことができるだろう。  じりじりと高度を下げていく。  一○メートル……五メートル……。  滑走路手前に設置された誘導灯の上をかすめるように過ぎたところで、出力をぎりぎりまで絞って機首を水平に戻す。  接地の衝撃は、ほとんど感じなかった。ただ、タイヤが鳴る甲高い音で着陸したのだとわかった。  エンジンを停止。エアブレーキを全開にしてドラッグシュートを展開。機体尾部から大きなパラシュートが飛び出す。  急な減速で、シートベルトが身体に喰い込む。ドラッグシュートが切り離されたところで、フットブレーキを踏み込んだ。頭で考えるまでもなく、身体は訓練で何百回と繰り返した操作を勝手に行っていた。  しばらくのろのろと動いていた機体が静止すると、一瞬、意識が遠くなった。  気がつくと、視界が真っ白になっていた。雲の中を飛行している時のように、白一色でなにも見えない。 (あれぇ、確かに着陸したと思ったのに……夢? まだ雲の中?)  そんなはずはない。エンジンの轟音は止んでいる。 (てことは、あたしはやっぱり死んで、雲の中にある天国に着陸しちゃったのかなぁ。天国ってどのくらいの高度にあるんだろう)  ぼんやりとそんなことを考える。竜姫が到達できる高度だったら、ソニアが「高い機体を弁償しろ」とか言って追ってくるかもしれない。  眠たくて仕方がない。面倒なことになりそうだから、今のうちに眠っておこう。  目を閉じてうとうとしかけたところで、はっと気がついた。ここは間違いなくティアサーク基地の滑走路だ。キャノピーを覆っているのは、白い泡状の消火剤なのだ。着陸時に炎上した場合に備えて、地上要員が待機していたのだろう。  そのことに気づいて安心したシェルシィは、今度こそ眠るように意識を失った。 * * * 「よぉ、調子はどうだい?」  アルキア空軍の士官用バーでグラスを傾けていたランディ・コンコード少佐は、声をかけられても顔を上げもしなかった。  素っ気ない態度に気を悪くした様子もなく、声の主は隣の席に腰を下ろした。その男、ニックル・カードとは士官学校以来十数年の付き合いだ。お互いに遠慮はない。 「駄目だな、俺も歳を取ったよ」 「狼王ともあろう者が、なにを弱気な」 「いや、本当に。この程度の怪我が、こんなに長引くとは思わなかった」  ランディは一八○機以上の撃墜数を誇り、『天空の狼王』の異名を持つエースパイロットだった。世界最高の戦闘機パイロットは誰か――そんな話題で真っ先に名前の挙がる一人である。しかし現在は負傷のために療養中だ。  これまで数え切れないほどの戦闘に参加した。負傷したことも一度や二度ではないが、三十代も後半となると、二十代の頃に比べて、明らかに怪我の治りが遅くなっていることを自覚せずにはいられなかった。 「それでも復帰は近いんだろ?」 「当たり前だ。これ以上時間がかかるようなら、医者を締め上げてでも前線に戻る」 「そうしてもらえると助かるな」  ランディは微かに眉を動かした。どうやら、単なる無駄話をしに来たのではなさそうだ。 「なにか、あったのか?」  参謀本部に所属するニックルは、現場には知らされていない情報にも通じている。どこかの戦線で戦況に変化があったのだろうとランディは推測した。 「戦略爆撃軍団の連中が痛い目に遭わされてる」 「戦爆が? どこで?」 「北、さ」 「北?」 「北極航路だよ」 「……なんと、まあ」  驚くよりも先に呆れてしまった。北極航路を横断してマイカラス北部の工業地帯を直接攻撃――その構想は以前にも聞いたことがあるが、途方もない与太話と笑い飛ばしたものだ。 「笑うなよ。防御が手薄なところを衝いて敵の生命線を叩く。戦略としては間違っちゃいない」 「だが、実現可能かどうかとなると別問題だ。飛行距離の長い北極航路爆撃を護衛するには、主力戦闘機では航続距離が足りない。戦爆のお偉いさん連中は、まさかいまだに戦闘機不要論を信奉してるわけじゃないだろうな?」 「いや、さすがに今回のことで目を覚ましたようだ」  ニックルが苦笑する。  迎撃不可能な高性能爆撃機があれば、戦闘機など不要――以前、空軍の上層部にはそうした考えがあった。  当時は連合軍戦闘機の性能が低く、アルキアの爆撃隊は大きな戦果を挙げていたので、その意見は広く受けいれられた。重爆撃機の開発・生産の予算は倍増され、当然の反動で新型戦闘機の開発と量産は後回しにされた。そのため現在でも、戦闘機隊と戦略爆撃軍団の間には確執が残っている。  ランディもニックルも、戦闘機不要論など信じてはいなかった。航空機開発に関してはアルキアが先行していたが、本来アルキアとマイカラスの技術力に大きな差はない。アルキアが高性能の重爆撃機を開発できるのであれば、マイカラスはそれを迎撃可能な戦闘機を開発できるはずだった。爆撃機の性能がどれほど向上しようとも、大空の戦いにおいては戦闘機こそが最強の存在なのだ。  そして事実、マイカラスはアルキアの主力戦闘機にも劣らない性能の六式戦闘機〈旋風〉や七式戦闘機〈颶風〉といった新型機を生み出してきた。空の要塞といわれたペリュトンですら、今日では無敵の存在ではなくなっている。 「さすがに、マイカラスの戦闘機は手強いと認める気になったようだ。ペリュトンだけならまだしも、絶対の自信を持って送り出したケツァルコアトルスがやられたからな」 「ケツァルコアトルスを実戦投入したのか?」 「で、四分の三が未帰還だ。ついでに護衛機の半数も」 「……おいおい」  さすがに驚きの声を上げた。開発中のケツァルコアトルスはランディも見たことがある。目を見張るような巨人機だった。こんな化物の相手をしなければならないマイカラスのパイロットたちに、少しばかり同情したくなったものだ。 「気にくわんが、ケツァルコアトルスがすごい機であることは俺も認める。機銃に死角はないし防弾性能も高い。いくらなんでも、マイカラスの六式戦や七式戦にぽろぽろ墜とされることはないはずだぞ?」 「ずっと病院にいて、ニュースにまで疎くなったか?」 「……新型機か?」 「マイカラスは、すげぇ戦闘機を北極航路の出口に配備したんだ」 「もったいつけるなよ」 「零式、ジェットだよ」 「ジェット、だって?」  プロペラを使わない、まったく新しい推進装置。アルキアで開発中のジェット戦闘機の試作機には、ランディも乗ったことがある。しかしジェット機の開発競争では、どうやらマイカラスが先行したらしい。 「高度一三○○○メートルを我が物顔で飛び回り、最高速度は時速九○○キロ以上。三二ミリ砲と恐ろしく精度の高いロケット弾で武装した、対重爆用のとんでもないヤツだ」 「時速九○○キロ?」 「運良く生き残った連中の話ではな。眉唾だが」  それでは、動きの鈍い爆撃機などひとたまりもない。どれだけ対空機銃を増やしたところで、人間の反射神経で捉えられる速度には限界がある。 「コードネームは〈リュウキ〉、プリンセス・オブ・ドラゴンという意味だ」 「プリンセス? プリンスじゃなく?」 「プリンセスでいいだろう。パイロットが女だからな」 「女?」  世界初のジェット戦闘機よりも、こちらの方が驚いた。女性軍人が比較的多いマイカラスと違い、アルキア空軍には女性パイロットなど存在しない。ましてや最新鋭機に乗せるだなんて、冗談のような話だ。しかし現実に、ケツァルコアトルスが手ひどい損害を受けているという。  ふと、ひとつの名前を思い出した。 「ソニア・ハイダー……とかいったか」 「さすがに知ってるか。なんと、その女が世界初のジェット戦闘機隊の隊長だというぞ」 「旧式の三式戦に乗っていたって、油断できない相手だ」 「空戦の神様がそこまで褒めるってことは、本物か」 「本物中の本物だ。とんでもなくホットでタフな奴だよ。本物のファイターパイロットと呼べる奴は世界中捜しても一握りしかいないが、間違いなくその一人だ」  熱のこもった口調で語りながら、ランディは昔を思い出していた。彼も参加していた、ソニア・ハイダーの最後の空戦の光景を。  戦闘そのものは、アルキア軍の圧勝だった。数でも機体の性能でも、連合軍を圧倒していた。その中でソニア・ハイダーは、七対一という絶望的な劣勢の中で戦い続け、三機を撃墜し、二機に損害を与えたところで自身も被弾して墜ちていったのだ。 「あの小娘が飛行隊を率いてるというのなら、手強いのは当然だな。それがジェットならなおさらだ」 「手強いどころじゃない。たかが一個飛行隊相手に、重爆だけでも一○○機の損害を出している」 「で、向こうの損害は?」 「軽微な損害を与えたのが一機。撃墜には至ってない」 「話にならんな」 「だから、早くお前が復帰してくれないと困るのさ」  ニックルは子供っぽい笑みを浮かべてグラスを掲げた。ランディの口元にも笑みが浮かぶ。 「お前に、特効薬を持ってきてやった。これを聞けば、怪我の治りが三倍くらい早くなるぞ」 「聞くまでもなさそうだな」  もう、なにを言わんとしているのか見当はつく。 「北に、新しい基地が建設中だ。怪我が治ったら、お前は新しい飛行隊を率いて、新しい機体で飛ぶことになる。隊員は空軍中から集めた精鋭揃い。そして機体は……」 「ジェット、だな?」  それしか考えられない。相手は時速九○○キロを超えるという超高速機。七○○キロが精一杯のレシプロ機では戦いにならない。 「そうだ、ワイバーンを急遽実戦配備することになった。ジェット対ジェットの戦いが始まる。新しい時代の幕開けだ」  その言葉を聞くランディの瞳に、子供のような輝きが戻っていた。 * * *  目を覚ましたシェルシィは、まず違和感を覚えた。  ここはどこだろう。  クリューカ基地の自分の寝室ではない。雰囲気は似ているが、なにかが違う。  室内の匂い。天井の微妙な色合い。空調や暖房の雑音。なにもかもが少しずつ違っていた。 (……そっか、ティアサーク基地だっけ)  しばらく考えて、ようやく答えに辿り着いた。昨日の戦闘で被弾して、ティアサーク基地に緊急着陸したのだ。  ベッドから身体を起こし、大きく伸びをする。同時に、微かな痛みに顔をしかめた。  右腕に巻かれた包帯に、うっすらと血が滲んでいた。包帯の上から触れてみる。痛みはごく小さなものだ。  シェルシィの怪我は、自分で思っていたよりもはるかに軽傷だった。機銃弾の直撃を受けたわけではなく、被弾の衝撃で割れた計器盤の破片が、いくつか刺さっただけだったのだ。  気圧の低い高空だったから、傷の大きさの割に出血が多く見えたに過ぎない。基地の医務室で傷口を消毒し、ほんの数針縫って治療は終わりだった。  昨日のことを思い出すと、赤面してしまう。被弾直後の狼狽えぶりが恥ずかしい。負傷したことをソニアに言わなくて本当によかった。こんなかすり傷で大騒ぎしていたら、後で思いっきり馬鹿にされていたことだろう。  ベッドから出て服を着る。血で汚れた自分の飛行服の代わりに貸してもらった、空軍の標準的な女性用制服だ。スカートなんて久しぶりで戸惑ってしまう。ティアサーク基地の女性は数名のレーダー員や通信員や調理師、看護婦だけで、パイロットはいない。  着替えて簡単に顔を洗うと、朝食の前に格納庫へ向かった。そこで愛機が修理中なのだ。  機体の方は、その主よりも遙かに重傷だった。右エンジンのタービンが大破していて、交換しなければ飛ぶことはできない。  幸いこの基地には、四式ジェット戦闘機〈飛竜〉が配備されていた。竜姫のエンジンは飛竜のそれの改良型で、タービン部分はほぼ共通である。竜姫専用の部品はないものの、この基地でも一応の修理は可能だ。機体を分解して運んだり、部品が届くのを待っているよりも、なんとか飛べる程度に修理して自力でクリューカ基地に戻った方が早い。  昨日シェルシィが急かしておいたせいか、整備員たちは朝から作業を始めてくれていた。コクピット前部の被弾孔は既に塞がれ、今はエンジンを機体から降ろしているところだ。 「おはよう、リースリング少尉」  整備員たちにねぎらいの言葉をかけようとしたところで、背後から名前を呼ばれた。振り返ると、シェルシィよりも少し年上の青年が笑みを浮かべている。この基地に所属する五一八飛行隊の記章をつけた中尉だ。 「あ、おはようございます……えっと」 「アルケイド、アルケイド・ダイアン」 「おはようございます、ダイアン中尉」  思い出した。アルケイド・ダイアン中尉。  五一八飛行隊のパイロットで、昨日もいろいろと世話を焼いてくれた人だ。明るく人懐っこい笑みが印象的だった。 「食堂で待っていたんだけど来ないから、こっちかなって。朝食よりも先に機体の様子を見に来るなんて、よっぽど大切にしてるんだね。ま、貴重な最新鋭機だし」 「あたしのミスでこの子を傷つけちゃったんだもの。やっぱり気になりますよ」 「ミス?」 「あ……いえ、なんでもありません」  恥ずかしくて、他の隊のパイロットに話せることではない。敵機の大きさに距離判断を誤り、慌てたところを撃たれたなんて。自分のみならず、九○七飛行隊の恥になってしまう。 「そんなに卑下することはないだろう? ケツァルコアトルスの武装は、ペリュトン以上のハリネズミだっていうじゃないか。一発や二発、喰らっても不可抗力だよ」 「あ、はは……そ、そうかもしれませんね」  笑って誤魔化そうとするが、やや引きつった笑顔になるのはいかんともしがたい。 「それにしても零式は格好いいな。比べると、僕の四式が一世代前の旧式機に見える。あれだって、実戦配備が始まったばかりの最新鋭機なのに」 「そうですね」 「でも、実際は逆なんだよな。零式が、一世代も二世代も進んだ機体なんだ」  マイカラスの技術で開発された四式ジェット戦闘機〈飛竜〉に対し、竜姫はリカード・ブロックという一人の天才が生みだした機だ。その設計思想は、マイカラスはもちろん、アルキアの最新鋭機と比べても五年から十年は進んでいるといわれている。 「まったく。男に生まれたことを、これほど悔やんだことはないね」 「はは……」  アルケイドが竜姫に乗ることはできない。彼の体格は成人男性としては平均的なものだが、竜姫のコクピットは小柄なシェルシィにとっても窮屈なのだ。  二人で話をしていると、整備員の一人が近づいてきた。シェルシィが機体の状況を訊ねるよりも先に、向こうから話しかけてくる。 「リースリング少尉、お願いがあるのですが……」 「はい?」 「写真を撮らせていただけませんか?」 「え?」  見ると、手には大きなカメラを持っている。 「写真、って?」 「せっかく、評判の九○七飛行隊のパイロットがこの基地にいるんですから。ブロマイドを手に入れるチャンスは今しかないな、と」 「は? あの、いったい……?」  わけがわからない。助けを求めるように隣を見ると、アルケイドが苦笑していた。 「君、新聞はあまり読まない方?」 「え?」  シェルシィが首を傾げる。アルケイドはズボンの尻ポケットから、折り畳んだ新聞を取り出した。受け取って広げてみると、一面を飾る大きな見出しが目に入った。 『天翔る乙女たち、アルキアの飛行要塞を一蹴!』  必要以上に大きな活字で、そう印刷されている。記事は、昨日の九○七飛行隊とケツァルコアトルスとの戦闘についてのものだった。 「君たちの活躍は、いつもトップ記事で載ってるよ。そのくせ隊員の写真はほとんど表に出ないから、噂ばかりが一人歩きしてる」  確かに。記事の大きさに比べて、望遠レンズで撮影したと思われるソニアの写真は不鮮明だ。それも、最近のものではなさそうである。  仕方がないだろう。クリューカ基地は表向き、開発中の試作機の実験場だ。記者の立ち入りは厳しく制限されているし、間近で竜姫や白鳥の写真を撮ることも禁じられている。空軍のエースといえば普通は国の英雄だが、九○七飛行隊の写真が少ないのはそのためだ。 「今じゃ巷では、クリューカの九○七飛行隊といえば、謎の美女エース軍団として大評判だよ」 「……全然、知りませんでした」  クリューカ基地に来てからは訓練が忙しくて、ゆっくり新聞など読む暇はなかった。それに、辺境のクリューカ基地には新聞も遅れて届くことが多いので、あまり熱心に読む気も起こらないのだ。 「でも……美女軍団? えへへ、照れちゃうなぁ」  容姿を褒められて嬉しくない女の子はいない。マスコミはこうしたことを大げさに書き立てるのだとわかっていても、つい頬が緩んでしまう。 「君たちは訓練でこの基地に降りても、あまり長居しないからね。この機会にブロマイドの一枚でも欲しいと思う彼らの気持ちもわかってやってくれないか?」 「ええ、いいですよ、写真くらい何枚でも。ちょっと照れますけどね」 「やった!」  すかさず、整備員がカメラを構える。 「じゃ、まず一枚撮ってもらおうか」 「え?」  いきなり、アルケイドに肩を抱かれた。カメラに向かってVサインを出している。しかし、整備員はしかめっ面でカメラを下ろした。 「中尉、邪魔しないでくださいよ」 「邪魔ってことはないだろう?」 「オレらは別に、中尉のブロマイドは欲しくないですから」 「ちぇ、わかったよ」  アルケイドは渋い顔で、カメラのフレームに入らない程度にシェルシィから離れた。すかさず、シャッターが続けて切られる。シェルシィは笑顔を作ろうとしたが、カメラを向けられることに慣れていないので、どうしてもぎこちない表情になってしまう。 「後で、ちゃんと二人一緒の写真も撮ってくれよ」 「抜け駆けすると、他のパイロットたちに恨まれますよ」 「獲物は、先に捕捉したパイロットのものさ。もたもたしてる奴らが悪い」 「獲物って……なんですか?」  二人の会話の意味がつかめずに、シェルシィは首を傾げた。そんな表情が気に入ったのか、またシャッターが切られる。 「ところでリースリング少尉、君、肉料理は好きかな?」 「え? ええ……」 「カランティ市はトナカイ料理が名物なんだよ。郊外に美味い店があってね」 「トナカイ? 美味しそうですねぇ」  戦闘機パイロットとはいえ女の子、美味しいものには目がない。 「じゃ、決まりだ。次の休暇はいつだい?」 「え?」  ここに至ってようやく、状況が見えてきた。どうやらアルケイドは、シェルシィを誘っているらしい。 「朝食も食べずに朝早くからナンパかね? 熱心なことだな、ジェットボーイ」  背後からの声に、アルケイドの身体が強張った。ぴんと背筋を伸ばし、気をつけの姿勢を取る。  シェルシィが振り返ると、三十代半ばくらいの落ち着いた雰囲気の男性が、皮肉っぽい笑みを浮かべて近づいてくる。アルケイドが所属する五一八飛行隊の隊長、エリック・エスカータ少佐だ。 「ジェットボーイ?」 「その坊やのあだ名さ」  エリックはアルケイドを指差して笑った。 「ちょっと前までは、毒にも薬にもならない並のパイロットだったのに、うちの隊が四式ジェットに乗り換えてから突然スコアを稼ぎ出してね。それで、ついたあだ名がジェットの申し子、ジェットボーイってわけだ」 「毒にも薬にもならないってのはひどいなぁ。要するに、旧式機の性能では僕の才能を引き出せなかっただけのことですよ」 「単に、相性の問題だと思うがな」  エリックはにべもなく切り捨てる。  高性能の新型機だからといって、必ずしも自分にとって最高の機体とは限らない。パイロットにはパイロットの、機体には機体の個性というものがあり、その相性がぴったり合ってこそ、パイロットにとって最高の機体といえる。  運良く、シェルシィにとっては竜姫がそれだった。士官学校時代に訓練で乗ったどんな機種よりも身体に馴染む。乗る前はかなりくせの強い機体と聞かされていたが、それがシェルシィにはぴったりだった。そしてアルケイドにとっては、四式ジェット戦闘機〈飛竜〉がそんな機体だったのだろう。 「で、ジェットボーイ。君の小隊は今日、朝食後すぐに会議を行うと言ってなかったかな? ヒロ大尉が捜していたが」 「いや、……まあ、あれですよ。今日の議題はケツアルコアトルスへの対抗策でしょう? 実際に奴らと闘ったパイロットと、情報交換をしようかと……」 「カランティ名物のトナカイを食べながら、か?」 「いや……それは……まぁ、ねぇ?」 「言い訳はいいから、さっさと行ったらどうかね? ヒロ大尉の堪忍袋の緒が切れないうちに」 「……はっ!」  姿勢を正して敬礼をし、そそくさと退散するアルケイド。シェルシィの横を通る時に、小さな声で「今度、手紙書くからね」とささやいていった。 「それにしても人気者だね、リースリング少尉」  エリックは周囲を見回して言った。いつの間にか三人に増えていたカメラマンが、エリックに睨まれて視線を逸らす。 「……あの、エスカータ少佐。ひょっとしてあたし、ダイアン中尉に口説かれていたんでしょうか?」 「気づいてなかったのかい?」 「はあ、慣れてませんので」  士官学校では学生同士の恋愛なんて御法度だったし、そもそも限られた時間で一人前のパイロットになることに夢中で、男子学生はすべて、腕を競うライバルとしか映らなかった。  士官学校に入学する前はお嬢様学校の寄宿舎暮らしだから、これまでの人生で身近に同世代の異性がいたことはほとんどない。  男性と交際したことがまったくないわけではないが、慣れていないのは事実だ。 「そういえば、少尉はリースリング家のお嬢様だったな。箱入り娘ってわけだ」 「いえ、箱入りってほどでは」 「考えてみれば、よくご両親が軍人になることを許したものだ。息子ならそれもありだろうが、一人娘が戦闘機パイロットとは……」 「それが……」  シェルシィは言いにくそうに苦笑した。あまり外聞のいい話ではない。 「実は、父には許してもらってないんです。今は勘当同然の身でして」 「おやおや」  エリックも苦笑する。 「だが、父親としては無理もない。俺も、自分の娘が戦闘機パイロットになりたいなんて言い出したら、素直に賛成はできないだろうな」 「娘さんがいらっしゃるんですか?」 「ああ。まあ、まだ五歳だから、当分そんな心配はないのが救いか。この戦争は長くてもせいぜいあと二、三年だろう」 「ですね。私もつくづく思いました。やっぱり、撃たれる心配なしに飛ぶ方が好きです」  うなずきながら、シェルシィは両親のことを思い出していた。  最後までパイロットになることに反対していた父は、どうしているだろう。母親には士官学校時代にも手紙を書いていたし、当然その内容は父にも伝わっているだろうが、直に連絡を取ったことはない。  ふと、手の中の新聞のことを思い出した。  シェルシィがクリューカ基地の戦闘機隊に配属されていることは、両親も知っている。こうした、九○七飛行隊の活躍を伝える記事を読んでくれているだろうか。「女が戦闘機パイロットになどなれるわけがない」と頑固に言い続けていた父も、少しはシェルシィのことを見直してくれているだろうか。  先刻のアルケイドの言葉で、いいことを思いついた。  クリューカ基地に戻ったら、一度、家に手紙を書いてみよう。 六章 クリューカ急襲 「……で、ラブレターをもらってにやけているわけか」 「に、にやけてなんかいません! それにラブレターじゃなくて、ただの手紙です!」  敵襲に備えての待機中、他にすることもないので、今朝届いたアルケイドからの手紙を読み返していたところをソニアにからかわれた。  手紙には、先日の戦闘で挙げた戦果の自慢話が、嫌味にならない程度に書かれている。頻繁に届く手紙に親愛の情は感じられるが、決して、甘い言葉を連ねたラブレターなどではない。 「機体を壊して不時着して、アタシらに心配かけて。なのに本人はお気楽に、オトコ引っかけて遊んでたとはね」 「遊んでたわけじゃありません! ダイアン中尉はただ、ティアサーク基地でいろいろとお世話してくれただけです」 「なんの世話なんだか。着替えとか、入浴とかか?」  ちくちくとねちっこい皮肉の連発に、シェルシィもつい言い返してしまう。 「隊長、自分がもてないからってやきもちですか? 欲求不満なんじゃないですか?」 「ほぉ、そーゆーことを言うのはこの口か?」  危険な目つきになったソニアが、シェルシィの頬をつねって力いっぱい左右に引っ張った。 「い……いひゃい、いひゃいれふ、ひゃいひょう!」 「ああーん? 聞こえんなぁ」  いじめっ子の表情でつねり続けるソニアと、涙目でじたばたと暴れるシェルシィ。それを笑って見ている他の隊員たち。普段と変わらぬクリューカ基地の光景だ。  そんな日常を、突然のサイレンが吹き飛ばした。 『スワン01より入電。敵編隊、警戒区域に接近中』  管制室からの指示。  一瞬で真顔に戻った隊員たちは、ヘルメットを掴んで談話室を飛び出した。シェルシィも、赤くなった頬を両手で擦りながら格納庫へ走る。  いいタイミングで敵襲があったものだ。今なら、九○七飛行隊の一二機すべてが出撃可能だ。戦闘機隊を一個しか保有しないクリューカ基地では、訓練や機体の整備のため、いつでも全機がそろって出撃できるわけではない。急な敵襲にしては運がいい。  この運が、戦闘の間も続きますように――声に出さずに願う。  そして、アルケイドへの手紙で自慢できるくらいの戦果を挙げられますように、と。 * * *  シェルシィの願いが聞き届けられたのだろうか。  今日、クリューカの防衛圏に侵入してきた敵編隊は比較的小規模だった。あるいは敵も、竜姫との対決を避けたのかもしれない。もっと多くの敵機を相手にしているティアサーク基地では、多少の被害も出ているらしい。  シェルシィとしては少し残念だった。アルケイドの活躍に刺激されたのか、今日は絶好調だったのだ。敵の数が多ければ、もっと戦果を挙げられたに違いない。多大な被害を受けながらも抵抗を続けていた敵が撤退をはじめた時、燃料も弾薬もまだ十分に残っていた。  物足りなく感じながら、逃げ遅れた敵を追撃する。そこへソニアからの通信が入った。 『シェル、深追いしすぎだ』 「あ」  ふと気がつくと、周囲に機影がなくなっていた。いつの間にか、味方からずいぶん離れてしまったらしい。今日は圧勝だったからいいが、これは本来やってはいけないことだ。調子に乗りすぎた、と反省する。  もう、戦意を残した敵はいない。シェルシィはちらりとコンパスを見て、クリューカ基地の方角へと進路を変える。しかし間もなく、ソニアから容赦ない罵声を浴びせられた。 『このバカ! どこへ行く気だ?』 『スワン01よりリリィ12、進路が違うわ』 「え?」  慌てて、周囲の景色をよく見る。気がつくと、ずいぶん北極山脈に近づいていた。確かにこれはクリューカへ戻るコースではない。  太陽の位置を確かめ、腕時計を見る。そしてもう一度コンパスに目をやる。 「……あぅ」  コンパスが狂っていた。被弾した覚えはないのに、故障だろうか。 「えーと、コンパスの故障みたいです」 『そのくらいで帰り道を間違えるなんて、たるんでる証拠だな。男なんかにうつつを抜かしてるから』  欲求不満云々の台詞を根に持っているのか、今日のソニアはしつこい。しかし今度ばかりは自分に非があるので反論もできない。  ここは頭上に雲のない高空。時刻と太陽の位置を見れば、おおよその方位はわかって当然だ。コンパスが故障しているからといって見当違いの方角に向かうなんて、まともなパイロットならやらないミスである。  自覚はないが、やはり少し浮かれていたのかもしれない。 『まあいいや。帰りが遅れるついでに、ちょっと寄り道していくか』 「寄り道?」  近づいてきたソニアの機が、シェルシィを追い越して前に出た。基地に戻るコースではない。かなり北回りで、これでは北極山脈の上空に出てしまう。 「あの、どこに行くんですか?」 『黙ってついて来い。エリコも来てるな?』 『もちろん』  振り返ると、遙か後方、夕暮れの空に浮かぶ白い点が目に入った。九一一飛行隊の白鳥だ。 「……隊長?」  いったい、どういうつもりなのだろう。 『今日の敵、歯応えがなさ過ぎたと思わないか?』 「え?」 『あっさりしすぎてる。前回こてんぱんにやられたのに、機数も増やしてないし戦術にも工夫がない。やられたら尻尾を巻いて逃げ出すだけだ。アタシが知ってるアルキア空軍は、こんなボンクラじゃないはずだぞ』 「戦況が苦しくなって、アルキアのパイロットも質が低下しているのでは?」  軍用機パイロットの育成には時間がかかる。戦争が長引いたことにより、今はマイカラスもアルキアも、常にパイロット不足に悩まされている状態だ。 『だったら嬉しいけど、どうかな。それより、周囲の警戒を怠るなよ』  二機は並んで、険峻な峰々が連なる北極冠状山脈の上空に出た。少し遅れてエリコとユーキの乗る白鳥、スワン01がついてきている。  山々の西側の斜面は、夕陽を浴びて朱色に染まっていた。まるで、山脈全体が燃えているような光景だ。とても、真夏でも氷点下の極寒の地とは思えない。  しかし時計を見れば、自分がいる緯度の高さが実感できた。まもなく午後十時になるのに、太陽は地平線の上にあるのだ。 「……で、ここになにがあるんですか?」 『何があると思う?』  逆に訊き返されて、シェルシィは先刻までの会話の内容を反芻した。  今日の敵は、不自然なほどに歯応えがなかった。アルキア空軍は、こんなボンクラじゃないはず。  そして、この寄り道。ソニアは言った。「警戒を怠るな」と。  ひとつだけ、思い当たることがあった。 「まさか、先刻の編隊は囮だと?」 『お前が敵の司令官ならどうする? 有能かつ美人の隊長が率いるクリューカの迎撃隊は極めて優秀で、最新の重爆ですら歯が立たない。しかし、なんとかしてカランティ市の工業地帯にダメージを与えない限り、戦況はアルキアに不利になる一方だ』 「隊長の容姿についてのコメントは差し控えますけど……」  シェルシィは慎重に言葉を選んだ。実際のところソニアはかなりの美人なのだが、一緒にいることの多いサラーナが絶世の美女であることと、立ち振る舞いや言葉遣いが粗雑なために、その容姿に注意を払う者は少ない。それに、今の問題はそこではない。 「やっぱり、なんとかクリューカ基地を無力化する方法を考えるでしょうね。九○七飛行隊がいなければ、この戦区のパワーバランスは大きく変わります」 『そうだ。じゃあ、クリューカの最大の弱点は?』 「保有機数が少ないことです。竜姫の数は限られてますし、そもそもクリューカには大部隊を運用するだけの設備がありません」  クリューカ基地で戦闘能力を有する機体は、一二機の竜姫と六機の白鳥だけ。それでも大きな戦果を挙げてこられたのは、竜姫の性能が圧倒的であることと、白鳥による索敵で効率的に敵編隊を迎撃できたこと、そしてなによりクリューカ基地そのものが攻撃目標とされたことがないためだ。  少数精鋭の部隊を叩く戦術の基本は、大兵力で波状攻撃をかけるか、囮で誘い出してその隙を衝くか。  空にある時は無敵の竜姫でも、地上ではただの金属の塊でしかない。そして戦闘を終えた竜姫は、レシプロ機に比べて数倍もの燃料を補給し終えるまで、再び飛び立つことはできない。囮部隊で九○七飛行隊を誘い出し、クリューカに帰還したところを別働隊が急襲すればひとたまりもない。  それにクリューカには、奇襲にさらされうる地理的条件が整っていた。  北極山脈だ。  山脈の稜線よりも低く飛ぶ敵機は、基地のレーダーはもちろん、白鳥からも探知することは困難だ。ペリュトンやケツァルコアトルスの巨体には不可能なことだが、クリューカのような小基地を破壊するのに重爆撃機は必要ない。爆装した攻撃機が二○機もあればことは足りる。  小型の攻撃機で峡谷の中を飛べば、レーダーに探知されずにクリューカ基地に接近することができる。最南端のファウルト峰を越えれば基地まではほんの一○○キロほどしかない。最新鋭の戦闘機や攻撃機であれば一○分たらずで飛べる距離だ。補給を終えて出撃態勢を整えている機体でなければ迎撃する余裕もない。 「まさか、本当にいるんですか? 敵が」 『勘、さ。アタシの勘がささやくんだ。ここになにか、たちの悪いものがいるぞって』 「まさか……」 『なにもなければそれでいい。燃料を少し無駄にするだけだ。だけど、悪い予感ほどよく当たる……』 『ソニア!』  エリコの声が会話を遮った。 『一○時方向、五○キロ。一瞬だけ反応があったわ』 『……ほらな』  無線の声には、自嘲めいた溜息が混じっていた。 『行くぞ、シェル』 「は、はい!」  ソニアに続いて方向転換し、スロットルレバーを押し込む。機関砲の安全装置を外す。 『スワン01よりクリューカ・コントロール。エリアD‐08に反応。クリューカを目標とする敵の攻撃機と思われる。迎撃隊の緊急発進を要請』 『クリューカ・コントロールよりスワン01、了解。現状を維持し、敵編隊のさらなる情報を収集せよ』 『リリィ01よりリリィ02、聞いてるか?』 『もちろん』  呼びかけに対して、すぐにサラーナの応答が返ってきた。時間的にはもう基地に着陸した後のはずだが、機体を離れずにいたのだろうか。 『全機、機体内タンクと機関砲弾だけ補給して離陸させろ。大至急だ』 『今、給油を開始したところよ。一○分だけ持ちこたえて』 『スワン01より九一一飛行隊全機』  続いてエリコが部下に呼びかける。 『全機、戦闘装備で出撃。いいですね、司令?』 『……仕方ないな』  クリューカ基地司令官リーヴ・アーシェン中佐の声も、いつになく重々しい。 『しかし、決して無理はするなよ』 『たとえ白鳥だって、腹ぺこの竜よりはマシですよ』 「……エリコ大尉」  白鳥は偵察機という建前だが、機首に一六ミリ機関砲二門を装備している。速度は遅いものの、長い主翼のおかげで旋回性能はよく、一昔前なら第一線の戦闘機として通用する性能を持っていた。  スワン01はもう三時間以上飛行しているが、大喰らいの竜姫と違ってまだまだ燃料には余裕があるし、もちろん機関砲弾は一発も消費していない。そして基地にいる白鳥も、燃料と弾薬を満載した状態で待機していた。 「……偵察機で戦闘を挑むなんて」 『白鳥でも、時間稼ぎくらいはできるわ。こんな状況だもの、なりふり構っていられない。ティアサークは敵の大部隊を相手にしていて、こっちに増援を送る余裕はないし』 『大丈夫』  スワン01のパイロット、シェルシィと同期のユーキが後を続ける。 『私たちだって、ちゃんと戦技訓練は受けてるんだから』 「ホントに、無理はしないでよ」  三機は剃刀の刃のように鋭い稜線を越えた。その向こうには、遙か地の底まで落ち込んでいるような深い谷が続いている。もう、どこから敵機が現れてもおかしくない空域だ。 『目を凝らして探せよ』 「わかってます」  高度を下げ、周囲を警戒する。曲がりくねった深い峡谷の中では、竜姫の短距離レーダーはもちろん、白鳥自慢の高性能レーダーも役に立たない。自分の目だけが頼りだ。しばしば、岩の影を敵機と間違えてしまう。こちらが高速で飛行しているので、動いているように錯覚してしまうのだ。  右、左。  絶え間なく首を巡らす。全神経を視力に集中する。 「いた!」  思わず大声を上げた。  見間違いなどではない。四機からなる小編隊が、谷底を一列になって飛んでいる。 「八時方向、敵機四。双発の攻撃機です」 『そっちはシェルに任せた。こっちに戦闘機がいる。これはアタシが抑えておくから』 「了解」  鼓動が速くなる。  こんな峡谷の中での実戦は初めてだ。それも単独で。敵機だけではなく、岩壁にも注意を払わなければならない。訓練では何度も飛んでいる場所だが、実戦となると勝手が違う。今日が好天でよかった。山脈上空の風もいつになく安定している。  敵はまだ、こちらに気づいていないようだ。シェルシィは太陽を背にして、斜め後方から接近していく。  四機とも同じ機種。ややずんぐりとした機体が特徴の双発機、複座の対地攻撃機〈グリフォン〉だった。  戦車の装甲も撃ち抜く四○ミリ砲と、大量の爆弾やロケット弾で武装した強力な攻撃機だ。速度は遅いが、重武装重装甲が自慢で、対地攻撃を極めて高い精度でこなす。戦車や小規模な地上基地にとって天敵ともいえるグリフォンは、目の前の四機だけでも、クリューカ基地の貧弱な施設に致命的な損害を与えるのに十分な火力を持っていた。  本来、北極航路を越えて攻撃ができるほどの航続距離はないはずだが、接近してみて謎が解けた。両翼の下に不自然なほど大きな外部タンクを吊り下げている。  十分に接近したところで、シェルシィはスロットルを全開にして進路を変えた。敵編隊の側面上方から襲いかかる。グリフォンは後席に防御用の旋回機銃を備えているから、後方から攻撃を仕掛けるのはかえって危険だ。側面あるいはやや前方からの攻撃が鉄則である。  接近するまで太陽を背にしていたので、敵はこちらに気づくのが遅れた。先頭の機が回避行動を始めた時には、シェルシィの指が機関砲のトリガーを引いていた。  四門の一六ミリ機関砲が一斉に火を噴く。  四本の火線が先頭の機に突き刺さる。  対地攻撃専門のグリフォンは下面装甲が強化されており、小銃弾程度は軽く跳ね返すといわれているが、上部は並の航空機でしかない。高初速を誇る竜姫の一六ミリ機関砲弾は、グリフォンのジュラルミン外板を紙のように突き破り、燃料を満載していたタンクを破壊した。  敵機は一瞬で大きな火球に変わる。その上をかすめるように飛び越えて宙返り。次の敵を真上から狙う。対地攻撃の性能を突き詰めたグリフォンは、空中戦での機動性に特筆すべき点はない。空戦のためだけに生まれた竜姫の敵ではない。  二機目の敵も、たちまち大空に散った。残った二機が、慌てて回避行動を取っている。よほど狼狽していたのか、あるいは突風に煽られたのか、一機は狭い峡谷内で操縦を誤り、岩肌に激突して炎上した。  残った一機が反転して逃走する。しかしグリフォンの速度は遅い。シェルシィは追撃してとどめを刺そうとした。 『シェルちゃん、逃げた敵は追わないで。まだいるわ』 「え?」  シェルシィの後方で周囲を警戒していたスワン01からの通信だ。 『四時方向下方、攻撃機六。これもグリフォンよ』  言われた方向へ視線を向ける。  いた。谷底を這うように飛ぶグリフォンの編隊。 「これもあたしがやります。エリコ大尉は、他に敵がいないか警戒してください」  これで終わりのはずがない。小規模とはいえ航空基地をひとつ潰すつもりなら、攻撃機が一○機だけということはあるまい。  スロットル全開のまま敵編隊に追いすがる。向こうも気づいて速度を上げる。  慌てる必要はない。竜姫とグリフォンでは速度が違いすぎる。それにシェルシィは訓練で慣れているが、向こうはこんな迷路のような峡谷を飛ぶのは初めてだろう。いくら低高度での操縦性に優れるグリフォンとはいえ、慣れない者が狭い谷底で全速飛行できるはずもない。事故を避けるためには高度を上げるしかない。  シェルシィは無理に追わず、敵機が上昇してくるのを余裕を持って待ちかまえた。また側面に回り込み、発砲しながら敵編隊の真ん中を突っ切る。グリフォンの旋回機銃も竜姫の速度には追いつけない。  強引な攻撃に編隊が乱れた。散らばった敵を、シェルシィは一機ずつ狙っていく。鈍重なグリフォンのこと、怖いのは密集編隊で火力を集中されることだけだ。ばらばらになったグリフォンは、身軽な戦闘機にとっては狩りの獲物でしかない。  瞬く間に二機撃墜。残った敵機の動きに戸惑いが感じられる。初めて見る竜姫の性能に恐れをなして、強引に突破するか尻尾を巻いて逃げ出すか、迷っているのだろう。  先頭を飛ぶのが編隊長だろうと見当をつけた。他の三機を無視して襲いかかる。尾翼を吹き飛ばされたグリフォンは、きりもみ状態で墜ちていった。  そのまま、敵編隊の進路を塞ぐように前に出る。それで諦めたのか、残された三機は反転していった。シェルシィは内心、ほっと安堵の息を漏らした。こちらは燃料も弾薬も残り少ない。この戦闘の目的はクリューカ基地を護ることなのだから、戦わずに敵が引き返してくれるならそれに越したことはない。 『シェルちゃん、手が空いたらこちらを手伝って。そこから三時方向に六キロ』  エリコの声に、即座に転進する。  乱戦になっているようだった。ざっと見たところグリフォンが六機。そして、アルキア空軍の主力戦闘機〈ガーゴイル〉が四機。  ソニアが一機で、四機のガーゴイルの相手をしていた。その隙をついてスワン01がグリフォンを攻撃している。白鳥の機関砲が火を噴き、グリフォンのエンジンが炎に包まれる。シェルシィは短く口笛を吹いた。 「やるじゃん。ユーキは初スコアだね、おめでとう」 『ま、私もその気になればこのくらいはね』  グリフォンが相手なら、身軽な白鳥は十分に戦闘機としての役を果たすことができた。白鳥の速度が遅いとはいえ、グリフォンはさらに鈍重なのだ。運動性能、火力ともに優れた主力戦闘機ガーゴイルを相手にするのは辛いだろうが、無理はせず、そちらはソニアに任せている。そしてソニアは、たった一機で四機のガーゴイルを翻弄していた。 『シェル、エリコたちを手伝ってやれ』 「了解」  背後の不安はなかった。数では劣勢とはいえ、ソニアに任せていれば間違いはない。シェルシィは目の前の敵にだけ集中した。戦闘機はどうでもいい、攻撃機は一機たりとも山脈を越えさせてはならない。  それにしても増援はまだだろうか。竜姫の速度なら、基地からここまではあっという間の距離なのに。  ちらりと時計を見る。交戦を開始してから三分と経っていない。体感では、もう三○分は戦っているような気がする。  時計の針は遅々として進まないのに、残燃料と弾薬は目に見えて減っていく。機関砲弾は全門合わせても五○発も残っていない。燃料だって、基地に帰還できるぎりぎりのところだ。  もう、限界かもしれない。そんな思いが強くなってきた頃、ようやく待ち望んでいた声が届いた。 『リリィ02よりリリィ01、これより離陸します』  補給を終えたサラーナの声だ。  シェルシィは大きく息を吐きだした。もう大丈夫。空にいる限り竜姫は無敵だ。グリフォンが何十機いようと敵ではない。 『アタシらの仕事は終わりだな。燃料も少ないし、引き上げるか』 『じゃあ、このグリフォンを仕留めて終わりかな』  尾根を越えようとしていた二機のグリフォンに、スワン01が向かっていく。シェルシィもそれに続いた。  速度で勝る竜姫は、あっという間に白鳥を追い越した。敵機を照準に収め、トリガーを引く。機首にある二門の一六ミリ機関砲が弾切れになった。しかし目標は主翼を撃ち抜かれて墜落していく。 「ユーキもうまくやったかな?」  背後を振り返る。白鳥はちょうど、もう一機のグリフォンを射程に捉えたところだった。機関砲が火を噴く。  その瞬間―― 「ユーキ! 後ろっ!」  白鳥の背後に、灰色の影が迫る。  いったいどこに潜んでいたのだろう。ガーゴイルだ。  水メタノール噴射で瞬間的に出力を増したガーゴイルは、小鳥を狙う隼のような速度でスワン01に襲いかかった。 「ユーキっ!」  四門の二○ミリ機関砲から放たれる火線が、白鳥の胴体を貫く。  沈むことのない夕陽に照らされた山肌に、白い破片が雪のように降り注いでいった。 七章 戦う理由  深夜のクリューカ基地の、食堂の片隅で。  ソニアはいつものように、ワインを満たしたグラスを傾けていた。  他に人の姿はない。起きている者は他にもいるのだろうが、みんな自室に戻っている。今のクリューカ基地には「女学校の休み時間のよう」と評された賑やかさはなかった。聞こえてくるのは、暖房用の熱い蒸気を通すパイプが軋む音だけだ。  居心地の悪い静けさの中を近づいてくる足音に、ソニアは顔を上げた。 「……どうしてる?」  相手が口を開く前に、それだけを訊く。サラーナは小さく肩をすくめた。 「相変わらず、ひどい落ち込みよう。目も当てられないわ」 「……だろうな」  エリコとユーキは、クリューカ基地の最初の犠牲者となった。これまでの戦果を考えれば戦死二名という数字は奇跡といってよいほどに少ないが、だからといって戦友を失った悲しみが和らげられるものではない。  隊員たちの多くが衝撃を受けていた。特に顕著なのはシェルシィで、見ていて痛々しいほどだった。ユーキとは同期で仲がよかったのだから無理もない。しかも同時にもう一人、友人を亡くしている。  あの戦闘の翌日、ティアサーク基地から届いた報せ。それは、アルケイド・ダイアン中尉の戦死を伝えるものだった。  親しい二人の相次ぐ死は、シェルシィをとことんまで打ちのめしていた。以来、すっかり鬱ぎ込んでしまっている。  仕方ないのだろう。初めてのことなのだ。  軍歴の長いソニアやサラーナは、戦友の死など数え切れないほど経験してきた。二人は「戦闘のあった日は紅い雨が降る」とまでいわれた、もっとも戦闘が激しかった時期の西部戦線の生き残りだ。当時の飛行隊員で、現在でも生きている者の方が少ない。  仲間の死には慣れている。今さら、周囲の者が見てわかるほどに落ち込むこともない。ただ、胸がちくりと痛む想い出がひとつ増えるだけだ。  人の死を悲しむという感覚が、麻痺してしまっていた。おそらくシェルシィの方が正常なのだろう。スワン01が撃墜された夜、ソニアはいつもよりほんの少し酒量が増えていた。ただそれだけで、翌朝には普段通りに任務に就いていた。  自分たちは、悲しみも痛みも感じずに戦う機械のようなものだ、と思う。人間としては、シェルシィの反応の方が正しい。  しかし戦場は、まともな感性を持つ人間にとって、ひどく辛い場所でしかないのだ。 * * *  なにも、わかっていなかった。  ここが、どこなのか。  自分が、なにをしているのか。  戦闘機とはその名の通り、戦うための機体だ。兵器、戦争の道具である。  敵機を撃墜するため、つまりは敵のパイロットを殺すための存在。  人を殺す者は、いずれ、自分が殺される番が来る。敵を殺し続け、いつかは自分が殺される。  それが戦争だった。  なにも、わかっていなかった。  ただ、飛ぶことに夢中になっていた。  しかし戦闘機にとっては、飛ぶことは目的ではない。それは敵機を撃墜するための手段なのだ。  飛ぶのは、敵と戦うため、敵を殺すため。いつか自分が殺されるその瞬間まで、戦い続けるため。  それなのに―― 『バカ野郎! ぼけっとすんなっ!』  耳が痛くなるほどの罵声で我に返った。ケツァルコアトルスの巨体が視界を塞いでいる。二連装の対空機銃がまっすぐにこちらを向いている。  シェルシィは慌てて操縦桿を引く。  一瞬、白い影が視界を横切る。  オレンジ色に輝く曳光弾。  飛び散る金属片。  そして炎と煙。 「隊長っ!」  被弾したのはソニアの機だった。敵が発砲する瞬間、シェルシィの前に割り込んで盾になったのだ。  砕けたタービンの破片を排気口から撒き散らして、ソニアの機が降下していく。機体後部が炎に包まれ、黒い煙の尾を引いている。エンジンに致命的なダメージを受けているのは一目瞭然だった。飛行を続けることは不可能だ。 「隊長っ! 大丈夫ですかっ?」  シェルシィは急いで後を追った。 『あー、ダメだな。こりゃ墜ちるわ』  台詞の内容とはかけ離れた、呑気な声が返ってくる。 「ごめんなさい! あたし……あたし」  なんということだろう。戦闘中に、他のことに気を取られるなんて。そのためにソニアが犠牲になるなんて。 『謝るのは後だ。シェル、先導して不時着できる場所を見つけろ』 「は、はいっ」  死にかけている機体を、ソニアはうまく安定させていた。どうやら怪我はしていないらしい。外から見る限り、コクピット周辺に被弾した様子はない。  シェルシィは急いで高度を下げると、安全に不時着できそうな平地を探した。機体のダメージを考えれば、あまり時間はかけられない。  幸い、すぐに適当な場所が見つかった。十分な広さのあるなだらかな斜面は、過去に氷河で削り取られてできた地形だろうか。不時着の障害となる大きな岩や樹木は見あたらないし、積もった雪は衝撃を和らげてくれるだろう。  しかし、ひとつだけ問題があった。  先客がいる。  斜面の端に、被弾して不時着したケツァルコアトルスの姿があった。主翼が根元から折れているが、爆発も炎上もしていない。 「……隊長、どうしましょう」 『仕方ない、あそこに降りるさ。他の場所を探してる余裕はなさそうだ。反対側から進入すりゃ大丈夫だろ』  緩やかに旋回しながら、傷ついた竜姫が降りていく。着地した瞬間、雪が舞い上がって機体を隠した。まるで小規模な雪崩のような雪煙は、数百メートル進んだところで止まった。 「隊長! 無事ですか?」 『……ああ、アタシはね』  普段と変わらない口調。シェルシィは大きく息を吐いた。 『でも、機体ははもうダメだな。ここじゃ回収もできねーだろうし、シェル、アタシが離れたらこいつを破壊しろ』 「え? ……あ、はい!」  竜姫はマイカラス空軍の最新兵器、最高機密の塊だ。不時着した機体は可能な限り回収するし、それが不可能なら破壊しなければならない。 『じゃ、後のことは任せ……』  一発の銃声が、ソニアの台詞を遮った。続けてもう一発、二発。 『……短気な奴がいるな。こりゃあやばそうだ、アタシは逃げるよ。後はよろしく』  先に不時着していたケツァルコアトルスの乗員が、ソニアに向けて発砲したらしい。機体を離れて森の方へと走るソニアが、雪の上に点となって見えた。そこから数百メートル離れた敵の重爆の周囲に、いくつかの人影がある。不時着した竜姫へと向かっているようだ。 「隊長!」  シェルシィは急いで高度を下げた。黒い点のように見えた敵兵が、人の形になる。ソニアを狙って小銃を構えている。  重爆撃機ならば一○名前後の乗員がいるし、小銃や短機関銃も積んでいるだろう。しかしソニアは一人で、拳銃すら持っていない。  他の飛行隊ではパイロットも護身用の拳銃を持つのが普通だが、ただでさえ狭い竜姫のコクピットに余計な荷物を積み込むのをソニアが嫌ったのだ。九○七飛行隊の作戦空域は自国の領空に限られていたので、これまで護身用武器を携行する必要はなかった。  それにしても、敵の乗員たちはどうしてさっさと降伏しないのだろう。ここは辺境とはいえマイカラス領内であり、アルキアとの間には北極山脈が聳えていて、徒歩で逃げられるはずはない。  竜姫の機体を調べようというのだろうか。それとも、これまでソニアに撃墜された多くの戦友たちの仇討ちのつもりだろうか。 「……っ、冗談じゃない!」  自分の想像に鳥肌が立った。  そんなこと、させるわけにはいかない。ソニアが殺されるだなんて。  シェルシィは機を急旋回させると、ぎりぎりまで高度を下げた。  不時着したケツァルコアトルスの巨体を照準器に捉えて距離を測り、わずかに操縦桿を動かす。小銃を構えた敵兵の姿が照準環の中心に収まり、ぐんぐん大きくなる。  敵兵がこちらを向く。一瞬の驚愕の後、その顔は恐怖に凍りついた。 『シェルちゃんっ! やめなさい!』  サラーナの声は、少しだけ遅かった。その時にはもう、指は機関砲のトリガーを引いていた。 * * *  シェルシィはベッドに横になっていたが、眠ってはいなかった。  あの日以来、ほとんど眠ってはいない。眠ることができない。眠れば、決まって同じ夢を見た。  紅一色の夢。  鮮血に染まった雪原。  飛び散った肉片。  一瞬前まで人の形をしていたそれは、今は原形をとどめない肉の塊だった。  してはならないことを、してしまった。  竜姫の大口径の機関砲は、敵機を撃墜するためのものだ。生身の人間を撃つためのものではない。  直前までケツァルコアトルスと交戦していたので、シェルシィはそのまま三二ミリ砲を発砲した。巨大な重爆撃機を数発で撃墜し、戦車の上部装甲すら破壊する大口径弾が生身の人間を標的とすれば、それは凄惨としかいいようのない結果をもたらす。  後に残ったのは、紅く染まった雪原だけだった。一瞬前まで恐怖に凍りついていた敵兵は、ただの肉片と化していた。  やっていいことではなかった。戦闘機パイロットとして、絶対にやってはいけないことだった。  乗機を失って地上に降りた敵は、もう攻撃対象ではない。戦場は空の上だけ、それが戦闘機乗りの誇りなのだ。  次第に激しさを増し、罪もない民間人の犠牲が増えるこの大戦において、正々堂々の一騎打ちとか騎士道とか、そんな言葉がわずかなりとも残っている最後の戦場が大空だったはずだ。  なのに、撃ってしまった。  この手で、生身の人間を殺してしまった。  だから、眠れなかった。自分が殺した人間の顔が、目に焼きついていた。  そして、気づいてしまった。これまで自分がしてきたことに。  敵機を撃墜するということは、その乗員を殺すことなのだ。  初戦闘からこれまでに、いったい何人を殺してきたのだろう。ペリュトンの乗員は九人、ケツァルコアトルスなら一二人、グリフォンが二人でガーゴイルが一人。その全員が死んだわけではないだろうが、死者の数が一人二人ということもあるまい。北極山脈上空で撃墜されれば、無事に脱出できたとしても生きたまま救出される可能性は限りなく低い。  今まで、そんなことを考えもしなかった。撃墜数が増える毎に、撃墜王に一歩近づいたとただ無邪気に喜んでいた。しかし撃墜数とは、自分が殺した――殺した可能性のある――人間の数なのだ。  ベッドに仰向けになったまま、シェルシィは自分の右手を見た。  操縦桿を握り、機関砲のトリガーを引くこの手は、いったい何人の人間を殺してきたのだろう。沈むことのない太陽の光がカーテンの隙間から射し込んでいる。朱い光の中で見る手は、血で真っ赤に染まっているような気がした。  自分はどうしようもない馬鹿だ、と思った。  なにも、わかっていなかった。  ここは戦場なのだ。  敵を殺すために空を飛ぶ場所。戦友が、自分が、殺されるかもしれない場所。敵を殺さなければならない場所。  戦闘機は、戦うために生まれた存在だ。  本当に、なにもわかっていなかった。ただ飛びたいという想いのためだけに空軍に入った。最新鋭機に乗っていい気になって、飛ぶことに夢中になっていた。その間、白い自分の手が、竜姫の翼が、血で紅く染まっていることにも気づかずにいた。 「あたし……バカだ……どうしようもない」  涙が溢れてくる。  シェルシィは枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。しんとした部屋に、静かな嗚咽だけが響いていた。  そのまま、どのくらいの時間が過ぎただろう。眠っていたという自覚はなかったが、あるいはうとうとしていたのかもしれない。突然のサイレンにはっと我に返った。  深夜の基地に響き渡るサイレン。敵襲を知らせる警報だ。三交代、二四時間態勢で哨戒飛行を続けている白鳥のレーダーが、接近する敵編隊を捉えたのだろう。  スピーカーから流れる声が出撃を命じている。シェルシィは反射的に起き上がって部屋を飛び出した。  格納庫に隣接した更衣室で飛行服に着替え、愛機へと向かう。整備員たちが慌ただしく出撃の準備をしている。  チェックリストを受け取り、機体に立て掛けたタラップを掴んだ。  その瞬間。  手が、真っ赤に染まって見えた。明るい白灰色で塗装された竜姫の機体が、血まみれの肉片にべっとりと覆われていた。  吐き気が込み上げてくる。シェルシィは口を押さえてその場にうずくまった。  口中に、苦酸っぱい味が広がる。溢れ出た胃液が、指の隙間から滴り落ちる。  固形物は含まれていなかった。ここ数日、食事らしい食事はしていない。胃の中は空っぽだ。それでも吐き気は治まらない。  視界が真っ赤になる。  うずくまって吐き続けるシェルシィの肩に、手が置かれる。下を向いていたので相手の足しか見えなかった。 「お前は無理だ。医務室で休んでろ」  口を押さえたまま顔を上げる。ソニアが、首を小さく左右に振っていた。 * * *  弱々しいノックの音に、ソニアは小さく溜息をついた。  誰何するまでもない。ドアの向こうにいるのは一人しかあり得ない。昨夜の出撃から二四時間弱。思ったよりも時間がかかったな、というのが正直な感想だった。 「開いてる、入れよ」  そういえば、前にも一度同じ台詞を口にしたことがある。しかし、状況はさらに深刻だ。  ドアの向こうで、躊躇している気配が感じられる。ソニアは空になったグラスをテーブルに置くと、立ち上がって新しいグラスを持ってきた。  今夜は多分、酔い潰れるまで飲むことになるだろう。飲まずにはいられない。ソニアにとっては毎晩のことだが、今夜は特にそうだ。  ようやく、ドアが開かれた。予想していた通りの人物が、やつれた、泣きそうな表情で入ってくる。  シェルシィ・リースリング。  この春に空軍士官学校を卒業したばかりの新米少尉。ソニアにとっては鍛え甲斐のある可愛い部下。まるで戦闘機に乗るために生まれてきたかのような才能の持ち主。しかし、惜しむらくは心が優しすぎる。  部屋にひとつしかない椅子はソニアが使っているので、ベッドに座るように促した。その手にグラスを押しつけて、ワインを注いだ。 「あの、隊長……」 「いいから、まず飲めよ」  しばらく俯いて手の中のグラスを見おろしていたシェルシィは、やがて意を決したようにそれを飲み干した。  それでいい。素面で、こんな話をしたくない。  空になったグラスに、再び淡い金色の液体を満たす。それがまた空になる。  シェルシィは何度か、大きく息を吸い込んで口を開きかけるという動作を繰り返した。しかし、なかなか言葉が出てこない。彼女が口にしようとしているのは、それくらい重大な決心が必要な言葉だった。 「辞めるのか?」  ソニアの方から先回りして訊いた。あるいは、シェルシィの口からその台詞を聞きたくなかったのかもしれない。  驚いたようにシェルシィが顔を上げる。目が合うと、また俯いて手の中のグラスに視線を落とした。 「あ……あたし、もう……、飛べません」  涙が一滴、グラスの中に落ちる。金色の環が揺れる。 「あたし……、人を殺すことはできません」  そう。戦争とは、命を懸けた戦い。敵兵を、敵国民を殺すことだ。  口で言うのは簡単だが、人を殺すというのは、それほど容易なことではない。正気を保ったまま人を殺すのは難しい。  人を殺すということは、人間の一生、この先送るはずだった何十年かの人生を一瞬にして奪うことだ。  その何十年かの間に、その人はどんなことを成し遂げるのだろう。どんな人たちと関わり合うのだろう。  そう考えれば、一人の人間から何十年の時間を奪うことが、どれほど重大なことかわかる。生命を奪うことの重みに気づくと、トリガーが重く感じるようになる。空軍の戦闘機乗りだろうと陸軍の歩兵だろうと、それは変わらない。  地上で銃や大砲を撃ち合う陸軍に比べると、戦闘機の空中戦は航空機同士、機械同士の戦いだ。普段はあまり、人間を標的にしているという実感はないし、実際に死体を目にする機会も多くはない。しかし照準器の向こう、敵機のコクピットの中には、生きた人間が確かに存在するのだ。  ソニアはしばらく黙っていた。  なにを言えばいいのかわからなかった。シェルシィが訪ねてくることは予想できていても、どう対応するべきかは考えていなかった。  こんな時、普通の飛行隊長ならどうするのだろう。  空戦技術に関しては空軍でもトップクラスの腕前だと自負しているが、自分に指揮官としての資質があると思ったことはない。シェルシィが新米パイロットであるのと同様、ソニアも飛行隊長としては新米だ。しかも、空の上のこと以外の仕事の大半は、几帳面なサラーナに押しつけてきた。  どうすればいいのだろう。なんて言えばいいのだろう。  わからない。  そもそも、自分はどうしたいのだろう。シェルシィが辞めた方がいいと思っているのか、それとも隊に残ってほしいのか。  飛行隊長という立場でいえば、考えるまでもなく後者だ。定数ぎりぎり、一二人のパイロットしかいない飛行隊にとって、シェルシィは貴重な戦力だ。竜姫を乗りこなせるパイロットの後釜など、おいそれと見つかるものではない。  しかし、本人のためを思えばどうだろう。  世の中には、二種類の人間がいる。人を傷つけることができる者と、できない者。そしてシェルシィはおそらく後者だった。  戦時に戦闘機パイロットでいる以上は、敵を殺さなければならない。そうしなければ自分が殺される。しかし敵を殺し続けることは、シェルシィの繊細な心を蝕んでいくだろう。そしていつか、彼女が殺される番が来る。人を殺すということは、自分が殺される可能性を享受するということなのだ。  北方空域の戦闘は、今後さらに激しさを増すと予想されている。クリューカ基地と九○七飛行隊の危険も高まる。  シェルシィには死んでほしくない――それが本音だった。  軍を辞めれば死ぬこともない。なにしろ大富豪の一人娘だ。空軍に入ったのは空を飛びたいからであって、生活のためではない。家に戻れば平和な生活が保障されている。  いずれ、リースリング家とつり合う名家の子息と結婚し、子供を産み、なんの不自由もない生活を送ることができる。  しかし――  果たしてそれが、彼女にとって幸せなことなのだろうか。  いま軍を辞めたら、きっと、二度と操縦桿を握ることはないだろう。  そんな生活が幸せだろうか。空を捨てられるというのだろうか。  できっこない。そんなこと、できるわけがない。  誰よりも、飛ぶことに魅せられている存在。  その背に翼を持たずに生まれてきたことが、なにかの間違いではないかと思えるくらいに、空に在ることが当たり前の存在。  シェルシィ・リースリングとは、そうした人間なのだ。自分も同類だからわかる。  飛ぶことを捨てられるわけがない。事実、ソニアは今でもこうして飛び続けている。  こんな時、なんて言ってあげればよいのだろう。  ソニアは心の中で舌打ちした。これが映画や小説であれば、ベテランが新兵に対して、気の利いた台詞のひとつも口にする場面だろう。なのに自分はなにも思いつかない。  そもそも、まだ自分の気持ちも決まっていない。辞めさせたいのか、引き留めたいのか。  わからない。  決められない。  だとしたら――  決めるのは、やっぱり本人しかいない。自分はただ手持ちのカードをすべてさらして見せて、その上でシェルシィ自身に判断させるしかないだろう。 「……アタシは別に、無理に引き留める気はないよ。決めるのはお前だ。ただ、今までしてきたことを否定してほしくはない。マイカラス空軍のエースパイロットであることを、誇りに思ってほしい。自分を否定する生き方なんて哀しすぎる」 「でも……」  シェルシィは蚊の泣くような声で応えた。 「やっぱり、誇りなんて持てません。あたしは、パイロットとしてやってはいけないことをしてしまったんです」 「そうだな」  ソニアも否定はしなかった。口先だけの慰めなんて、なんの役にも立ちはしない。 「確かに、あれはあまり褒められたことじゃない。やるべきじゃなかったかもしれない。それでも、忘れちゃいけないことがひとつだけある」  それはおそらく、一番大切なことだ。だから、ソニアはこれまで軍人でいられた。 「シェル、お前は敵兵一人と引き替えに、アタシの命と、そして一人の女の子の未来を救ったんだ」  シェルシィが無言で顔を上げる。泣き顔に、不思議そうな表情を浮かべてこちらを見ている。 「アタシは別に、死ぬことは怖くない。自分が戦死しても、それ以上の敵を道連れにできればそれでいい……白百合飛行隊では、ずっとそう思ってきた。でも今は、死ぬわけにはいかないんだ。なにがあっても、絶対に生きて帰らなきゃならない。実は……」  一瞬、そこで口ごもった。他人に話すことなど滅多にないから、いまだに慣れていない。どうしても気恥ずかしさを覚えてしまう。 「娘が……いるんだ」 「え?」  きょとんとした表情になったシェルシィは、数秒後、ただでさえ大きな目を真ん丸に見開いた。鼓膜が痛くなるほどの声が、狭い寝室に反響する。 「え……え、えぇぇぇっっ? む、娘って……た、隊長、結婚してたんですかっ?」 「いいや」  その慌てぶりが可笑しくて、失笑が漏れた。まったく予想通りの反応だ。 「別に、結婚なんかしなくても、子供を持つことはできるだろ」 「そ、それは……そう、ですけど。養女……じゃ、ないですよね?」 「正真正銘、アタシがお腹を痛めて産んだ子」  そう答えても、まだ納得できないという表情だ。無理もない。  らしくない、と自分でも思う。未婚の母だなんて。  だけど、普通に結婚して家事に明け暮れている生活は、きっとそれ以上に似合わないだろう。 「今は、アタシの母親に面倒みてもらってるけどね」 「いつの間に……。子供ってことは、その……相手の男性がいるんですよね?」 「もちろん? いくらアタシでも、処女受胎なんて無理だぞ」  心底意外そうに訊かれて、初対面の時のことを反省した。  いきなり唇を奪ったのはやり過ぎだったろうか。もしかすると、ずっと同性愛者だと思われていたのかもしれない。その気がまったくないわけではないが、あれは名家の箱入り娘をからかってやろうという、軽い悪戯のつもりだったのだが。 「えと、あの……」  シェルシィは口ごもって、手の中のグラスをもてあそんでいる。いろいろと訊きたいことはあるのだろうが、プライバシーに関わることなので、質問を口にしてもいいのかどうか躊躇しているようだ。  いつの間にか空になっていたグラスに、ソニアはおかわりを注いでやった。もっと酔っていてほしい。素面の相手に話すのは、やっぱり照れてしまう。朝になって目を覚ましたら、なにも覚えていないくらいに酔っていてほしい。  ソニアは立ち上がると、シャツのボタンをひとつずつ外していった。ズボンを下ろし、シャツを脱ぎ捨て、そして、なんの躊躇いもなくブラジャーを外す。 「た、隊長、いきなりなにを……」  アルコールのせいだけではなく真っ赤になった顔を、両手で覆い隠そうとするシェルシィ。その手が途中で止まった。驚愕を露わにして、目の前にさらけ出されたソニアの肢体に視線を向けている。  驚くのは無理もないだろう。この姿を見せたことがあるのは、医者と看護婦、家族とサラーナ、そしてたった一人の男性だけだ。この基地では、隊員たちと入浴時間が重ならないようにしてきた。  服の上からはかなりグラマーに見えるソニアだが、裸になると左の乳房がなかった。ブラジャーの中にはクッション状の詰め物がしてあり、胸の膨らみがあるべき部分には、ケロイド状に引きつった醜い傷痕が残されていた。それはまるで、肉を剔り取られた痕を、無理やり溶接してくっつけたようだった。右の太腿にも、同様の大きな傷痕がある。 「隊長……」 「昔、撃墜された時の傷だよ」  自嘲めいた、引きつった笑みが口元に浮かぶ。この傷は、自分と、戦争というものの愚かさの証だ。 「旋回中に左上方から撃たれたんだ。ほとんどがエンジンに当たったけどな。逸れた一発が胸をかすめて、太腿を貫通したってわけだ。もう何センチかずれてたら、あるいは一二ミリじゃなくて二○ミリだったら、吹き飛ばされたのは胸じゃなくて心臓だったな」 「……」  シェルシィは言葉を失っている。かなりショックを受けているようだ。確かに、年頃の女性の身体にあるには、あまりにも大きすぎる傷痕だった。 「報い……かな」 「え?」 「アタシも、やったんだ。お前と同じこと。生身の人間を撃ったことがある。それも、機体を捨ててパラシュートで脱出した相手を」  小さく、息を呑む音が聞こえた。  それはシェルシィがやったこと以上に、パイロットとしてやってはならない行為だった。白旗を掲げた相手を撃つのにも等しい。戦いは空の上だけ、愛機のコクピットに収まっている時だけ――それが、戦闘機パイロット同士の暗黙の了解なのだ。 「白百合飛行隊が事実上消滅した日だ。何倍もの敵に囲まれての激しい戦闘の中、炎に包まれて墜ちていく僚機が目に入った。アタシは頭に血が昇って、回りも見ずに相棒の仇に突っ込んだんだ。最初の斉射が命中して、敵パイロットは脱出した。だけど、それだけじゃ許せなかった。アタシの親友は死んだのに、それを殺した敵が生きているなんて……だから、撃った」  今でもはっきりと覚えている。目を閉じれば、恐怖に凍りついた敵パイロットの顔が瞼の裏に浮かぶ。 「敵に包囲されている中で、我を忘れてそんなことやってたからな。仇を討った、と思った瞬間にコレさ」  ソニアは左胸を指差して笑った。もう、笑うしかない心境だった。 「それでも高度が低かったおかげで、死にはしなかった。不時着時に骨を何本か折ったけど、運良く味方に回収されて病院送りってわけだ」  ソニア本人は、撃たれた直後から病院のベッドで目覚めるまでの記憶はほとんどなかった。瀕死の重態だったのだ。命が助かっただけでも奇蹟だと、後から医者に言われた。 「で、いくらか回復してきた頃、隣の病室に入院していた男と親しくなったんだ」  ソニアよりいくつか年上のその男性は、陸軍のお偉いさんの息子で、精鋭として名高い空挺部隊の中隊長だった。同じように、戦場で負傷して入院していた。  他に同世代の患者がいなかったこともあって、暇を持て余した入院生活の間、よく話をした。  当時は、さすがのソニアもひどく落ち込んでいた。  白百合飛行隊の壊滅。尊敬していた隊長や、親友の戦死。親友の仇とはいえ、やってはならないことをした自責の念。そして、身体に残った大きな傷痕。  一応は年頃の女性である。歩くこともままならない大きな傷は、さすがに堪えた。そんなソニアに彼は言ったのだ。「こんなかすり傷じゃ、君の魅力は少しも傷つかないよ」と。  今にして思えば、歯の浮くような気障な台詞だ。しかし当時は今よりもうぶだったし、落ち込んでいた時に優しくされたことで、その男に心惹かれるようになっていった。 「笑っちゃうよな。医者や看護婦の目を盗んで、深夜の病院で男といちゃついてたんだぜ?」 「その人が……その、娘さんのお父さん?」 「ああ」  ソニアはうなずいた。同時に、胸が締めつけられるように感じた。次に訊かれるであろうことは容易に想像できる。その答えを口にすることは、今でも少し辛かった。 「それで、あの……」  シェルシィも、訊きにくそうにしている。薄々、予想がついているのかもしれない。先手を取って自分から言った。 「向こうの方が軽傷だったから、先に退院して前線に戻っていった。それからしばらくして、陸軍から一通の手紙が届いた。内容は……言うまでもないよな?」  それは、空挺部隊の一隊が全滅したことを知らせる内容だった。輸送機が、アルキアの戦闘機に撃墜されたのだ。  その後しばらく、毎日泣きながら浴びるように酒を飲んでいたソニアだったが、やがて自分の身体に起きた変化に気がついた。産婦人科の医師に事実を告げられた瞬間、少しも悩むことなく生むことを決めていた。  空軍の設計局からの訪問者を迎えたのは、出産後まもなくのことだった。リカード・ブロックと名乗った男は、見たこともない斬新な新型機の設計図を手に、なんの前置きもなしに言った。『新型機を乗りこなせるテストパイロットを探している』と。  最初は、引き受ける気はなかった。もう、戦争も空軍もうんざりだった。それでもソニアが今ここにいるのは、まだ、護るべきものがあるからだ。 『母親や子供、大切な家族の頭上に爆弾が投下されるのを、あなたは黙って見ているつもりですか?』  リカードの言葉は簡潔だったが、的確に急所を突いていた。 『もう一度、飛びたくはありませんか? 大切なものを奪っていったこの空に、復讐したくはありませんか? 私は、あなたに新たな翼を持ってきました。それは紛れもなく世界最強の翼、大空の支配者です。あなたが操れば、の話ですけど』  結局、ソニアは空に還ってきた。  正直なところ、すべての迷いが吹っ切れたわけではない。リカードと出会ってから二年以上経った今でも、それは変わらない。  それでも、大勢の仲間たちが空で命を落としていったのに、自分だけが地上でのうのうと生きていくことはできなかった。自分は、この空を飛ぶために生まれてきた。それに、戦いはまだ終わってはいないのだ。 「なあ。戦争すること、争うことは間違っている。平和こそが正しい……そう思うか?」  自分でもまだ結論の出ていない疑問を、シェルシィにぶつけてみた。予想通りの答えが返ってくる。 「もちろんです」 「まあ、確かに。戦争がなけりゃ、軍人なんて仕事せずに給料もらえるようなもんだからな。アタシもその方がいいといえばいい」  軽い口調で言うと、シェルシィは眉間に皺を寄せた。こんな話題で笑うソニアを、責めているような表情だった。 「でも……平和こそが正しいという、その大前提が間違っているとしたら?」 「え?」 「規模の大小を問わなければ、人間の社会は必ずどこかで争いが起こっている。個人の喧嘩をもっとも小規模な戦争と考えれば、なんの争いもない平和な時代なんてものは、有史以来一瞬たりとも存在したことはない。争いは、存在することが当たり前。なのに、それは間違っているのか?」 「でも、だって……」 「そもそも、動物ってのは争わなければならない生物なんだそうだ。何億年も昔、この星に最初に誕生した生命は、周囲の海水から有機物を取り込んで生命活動を維持していた。やがて、無機物から有機物を作り出す光合成の能力を持った植物が生まれた。しかし、その後誕生した動物は、他の生物を捕食する存在だ」 「で、でも、それと人間同士の戦争は……」 「同じことなんだよ」  それは、ソニア自身の意見ではない。リカードからの受け売りだ。感情的に納得できない部分は多々あるが、しかし理屈としては間違っていない。 「人間同士が争うのは、それぞれの欲望がぶつかり合うからだ。それは動物として、生命としての本能なんだよ。生きようとすること、子孫を残そうとすることは、すべての生命に備わった本能で、それが争いのきっかけになる。よりよい餌や住処を得るため、より多くの子孫を残すため、そのためには競争相手と争わなければならない。人間の欲望だって、突き詰めればすべてそこに行き着くんだ」  容姿や能力に優れた配偶者や、より多くの金銭を求めることも、それが人間社会において生存と繁栄に有利になるからだ。  国家が領土を拡げようとするのも、野生動物の縄張り争いを大規模にしたものに過ぎない。より豊かな、より広い縄張りを持つことは、やはり生存競争で有利に働く。  争いは、肉食動物だけに限ったことではない。普段はおとなしい草食動物だって、繁殖期には配偶者を巡って激しい争いを繰り広げる。それも、自分の子孫を残す上で有利になるからだ。  動物とは、他の生物と争う存在だ。  いや、植物でさえ争いと無関係ではない。昆虫を狩る食虫植物がある。根から分泌する化学物質で、他の植物を枯らす植物もある。  それが、進化という長い歴史の結果だった。相手にうち勝つにしろ、うまく逃げ延びるにしろ、戦いを生き残ったものだけが次の時代にも存在を許される。 「口先だけで平和を唱えるのは、そうした生物の本質を見過ごしていると思わないか?」  確かに、家族や親しい友人が死ぬのは辛い。しかしどんな生物であれ、いつかは必ず死ぬのだ。自然界においては、一年で枯れる植物を除けば、寿命をまっとうする個体の方が少数派だろう。 「アタシは別に、戦争を礼賛する気はないし、戦争せずに済むなら越したことはないとは思う。でも、現実に今は戦争中なんだ。シェルが空軍を辞めても、戦争は続く」  さすがに酔いが回ってきたのだろうか。ソニアはいつになく饒舌になっていた。 「だけど、戦争で民間人が犠牲になるのは間違っているとは思う。そうだろ? そのための軍じゃないのか? 軍人ってのは、民間人に代わって、国を代表して戦うために給料をもらっているんじゃないのか?  戦争も、スポーツの世界選手権みたいにすりゃいいんだよな。民間人の被害が出ない場所に各国の代表を集めて、決められたルールで戦わせて、その勝敗で戦争の決着をつけるんだ」  未来の戦争は、徐々にではあってもそうした形になっていくだろうとリカードは語っていた。確かにそうかもしれない。中世に比べれば、現代の戦争は捕虜や民間人の扱いについて、国際法でいろいろと制限されている。必ずしも守られているとは限らないが、それでも一種のルールといえる。 「戦うことが生物の本質で、根本的になくすのが現実的ではないのなら、せめて理不尽な犠牲はなくなって欲しいよな……、と」  気がつくと、シェルシィはベッドに横になって目を閉じていた。空になったグラスが転がっている。長話をしすぎただろうか。素面でいられると気恥ずかしいからと、速いペースで飲ませすぎたかもしれない。  ソニアもグラスを置くと、シェルシィの身体に毛布を掛けてやった。そして、肩の上にそっと手を置く。 「最終的に決めるのは、シェル、お前自身だ。だけど、結論を急ぐ必要はない。ゆっくりと考えろ。自分で納得のできる答えが出るまで。……でも」  普段なら、絶対にこんな台詞は吐かないだろう。酔っているから、相手が眠っているから、今だけは本音を言うことができた。 「飛行隊長としてじゃなく、アタシ個人のわがままとして言わせてもらえば、辞めてほしくないな。お前と一緒に飛ぶのは楽しいよ」 「あたしも……隊長と一緒に飛ぶのは好きですよぉ……」  眠っていると思い込んでいたから、シェルシィの唇が小さく動いた時にはひどく驚いた。自分でも恥ずかしいような台詞を聞かれていたなんて。  しかしよくよく見れば、意識があるわけではないらしい。半分寝ぼけた状態なのだろう。朝になって目を覚ました時には憶えていまい。 「でも……せめて実戦の時くらいはお酒飲まずに飛んでくれたら……もっと安心できるん……」 「それは仕方ないさ」  シェルシィの頭に手を乗せる。柔らかな髪を乱暴に撫でてくしゃくしゃにする。 「アタシも……さ、素面で人を殺せるほどには強くないんだ」 八章 空へ還る  頭が痛い。  頭が痛い。  脳幹にまでがんがんと響く痛み。まるで、頭の中で電話のベルが鳴っているようだ。 「うぅ……」  シェルシィが呻き声を上げて目を開けたところで、不意に不快なノイズが消えた。ベッド脇に置いた電話に手を伸ばしているソニアの姿が目に入って、本当に電話が鳴っていたのだと気がついた。 「ふぁい、ソニアっす……」  半分、寝ぼけたような声。時計を見ると、朝というにはいくらなんでも早すぎる時刻だった。それでも白夜のこの季節、外だけは明るい。  シェルシィは、ゆっくりと首を巡らした。ソニアの私室だ。昨夜はソニアの話を聞きながら浴びるようにワインを飲んで、そのまま酔い潰れて眠ってしまったらしい。アルコールには強い体質だが、さすがに二日酔いになっていた。頭が痛いし、胃がむかむかして今にも胃液が逆流してきそうだ。 「なんすか、司令。こんな時間に……え?」  受話器を耳に当てたソニアの声が、一瞬大きくなる。顔を見ると、眉間に皺が寄っていた。 「はい……はい……わかりました、すぐ行きます」  受話器を置いたソニアは、テーブルの上にあったワインの瓶に手を伸ばしかけたが、途中で思い直して隣にある水差しを取った。グラスに注いだ水を一気に飲み干してから、水差しごとシェルシィに差し出してくる。  ひどく喉が渇いていたので、ぬるくなった水でも美味しかった。二杯続けて喉に流し込んでから、今さらのように訊いた。 「出撃ですか?」 「ああ、ちょっとな。お前は寝てていいよ。どうせまだ飛べないだろ」  ソニアの言う通りだ。昨日は竜姫に近づいただけで具合が悪くなったのだ。今の体調で飛べるはずもない。 「でも……」 「今いちばん大切なのは、ゆっくり休むことだ。無理する必要はない。結論を急ぐ必要もない。……今夜、もう一度話そうか」 「……はい」  シェルシィの頭に手を置いて髪をくしゃくしゃにしてから、ソニアは部屋を出ていった。行先は司令室だろうか。先刻の電話は司令官からのようだった。  ソニアの心遣いに感謝しながら、毛布にくるまってベッドに横になった。起きているには体調が悪いし、まだまだ眠い。  だから、横になればすぐに眠れるものと思っていた。眠ってしまえば、胃のむかつきも頭痛も気にならなくなるはず、と。  しかし、どうしてだろう。  眠ることができなかった。身体は睡眠を欲しているのに、頭が、眠ることを拒否していた。  気になることがあって眠ることができない。なのに、それがなにかわからなくてもどかしい。ベッドの中で、何度も何度も寝返りを繰り返す。  どのくらいの時間そうしていただろう。また、喉の渇きを覚えた。起き上がって水差しに手を伸ばす。  昨夜摂取したアルコールの量を考えれば、まだまだ水を飲まなければならない。飛ぶことができない精神状態とはいえ、いつでも出撃できるように体調は整えておかなければならない。自分はまだ、マイカラス空軍のパイロットなのだ。  そういえば、司令官からの電話はなんだったのだろう。こんな時刻に連絡してきたからにはよほどの急用なのだろうが、敵襲に対する緊急発進であれば、基地全体にサイレンが鳴り響く。ソニアだけを呼び出すというのはあまり例がない。  そこでふと、自分が持っている水差しに気がついた。  ソニアは先刻、一度ワインに手を伸ばしていながら、思い直したように水差しを取った。水だけを飲んで、部屋を出ていった。  不自然ではないだろうか。  テーブルの上を見る。瓶の中身はまだ三分の一ほど残っていた。  遅摘み葡萄から造られた高級ワインで、ソニアのとっておきの一本だ。こんないいワインが残っているのに水だけを飲んでいくなんて、ソニアらしくない。  昨夜飲み過ぎたから、というのは理由にならない。二日酔い知らずの丈夫な肝臓の持ち主で、どんなに飲んだ翌日でも、朝食代わりと言ってワイン片手に竜姫に乗り込むのが、シェルシィが知っているソニアだった。 「あたしが知っている隊長……か」  そういえば昨夜は、いろいろな話を聞いた。酔っていたせいで憶えていない部分もあるが、これまで知らなかったソニアの一面を見たのは確かだ。普段あれだけ脳天気で、お酒のこととと飛ぶことしか考えていないように見えても、決してそれだけの人間ではないのだ。  そういえば。  最後に、なんて言っていただろう。  二日酔いで痛む頭を精一杯働かせて、曖昧な記憶をたどる。半分意識を失いかけた頃に、すごく重要な言葉を聞いたはずなのだ。  ……そうだ。 『素面で人を殺せるほどには強くないんだ』  そう言っていた。それが、お酒を飲んで出撃する理由だと。  本来、飲酒した直後に飛行機を操縦するなんて言語道断である。体内に入ったアルコールは、操縦に一番大切な判断力、反射神経、平衡感覚を鈍らせる。地上を走る自動車でさえ飲酒運転は禁じられているのに、酔って戦闘機を飛ばしているなんて上層部に知られたら懲罰どころの騒ぎではない。  基地司令が穏和で細かいことを気にしない性格だから、そしてソニアは酔っていてさえも空軍トップクラスのパイロットだから、大目に見られているのだ。あるいはアーシェン中佐は知っていたのかもしれない。ソニアが、人を殺す痛みから逃れるために飲んだくれているということを。  そんなソニアが、ワインに手をつけずに出ていった。それはなにを意味しているのだろう。  考えられることはふたつ。  ひとつは、戦闘にならない簡単な任務だという可能性。しかしソニアは普段の訓練飛行でも素面でいることなどほとんどない。  もうひとつの可能性は――  それに気がついたシェルシィは、慌てて立ち上がった。同時に、二日酔いのひどい頭痛に襲われて、頭を抱えてうずくまる。込み上げてくる胃液を必死に押し戻す。  もうひとつの可能性、それは――  酔っていてもシェルシィを圧倒できるソニアでさえ、素面で全力を出さなければならない困難な任務。  そうとしか考えられなかった。 * * * 「時間がねーから、簡潔に済ますぞ」  クリューカ基地の会議室で、シェルシィを除く一○人の部下を前にソニアは言った。  ここにいるのは九○七飛行隊の隊員だけ。司令官をはじめとする基地幹部たちは空軍の総司令部や周辺基地との打ち合わせに追われているし、白鳥を擁する九一一飛行隊は既に格納庫で出撃準備に取りかかっている。  基地の全員が忙しく動き回っていた。普段なら、当直の者以外はまだ眠りについている時刻だが、今日は事情が違う。 「つい先刻、情報局からの緊急連絡があった。数時間以内に、カランティ市および周辺工業地域に対して大規模な空襲が行われる。敵のγ暗号を解読した情報だそうだから、まず間違いない。第一波はもう出撃している頃だ」 「大規模って、具体的にいうと?」  飛行隊ではソニア、サラーナに次ぐ地位にいるルチアが、他の隊員たちを代表して訊ねる。もっともな質問だ。 「情報局の推測では、総数一○○○機を超えるということだ。北部戦線ではかつてない規模の作戦だな」  隊員たちの間でざわめきが起こる。平然としているのは、ソニアと一緒に司令官から話を聞いていたサラーナだけだ。 「それは……いくらなんでも、私たちだけでは手に負えないのでは?」  カランティ市を囲むように存在する、カランティ、ティアサーク、クリューカの三基地が擁する戦闘機は、総数二○○機に満たない。これでも以前に比べれば倍以上に増強されているのだが、一○○○機の敵を迎え撃つにははなはだ心許ないといわざるをえない。後方のいくつかの小基地にも戦闘機は配備されているが、その大半はアルキアの重爆には太刀打ちできない旧式機だ。 「司令部の話だと、現在、他の基地から大急ぎで部隊を移動させているところだそうだ。西部戦線の戦力は動かせないとしても、中央航空団から六個飛行隊、カイザス航空団から四個飛行隊……とにかく、敵と対峙していない部隊は片っ端から援軍として送るとさ。数の上の不利は、かなり解消されそうだな」 「それなら、まあ、なんとかなりますね」  ルチアの言葉に、他の隊員たちもうなずいた。一瞬前までの緊張が解けてくる。  なにしろ敵は、空の難所である北極航路を越えてくるのだ。基地からの距離が近いことと、戦域をくまなく覆うレーダーが利用できることを考えれば、地の利はこちらにある。多少の数の差を覆すのは不可能ではない。 「西部戦線の戦況が思わしくない上に、北極戦線では虎の子の重爆がぽろぽろと墜とされて、アルキアも一か八かの賭に出たんでしょうか? これまでの損害率を考えれば、アルキア空軍が誇る戦略爆撃軍団は、この作戦で壊滅的な打撃を受けることになります。こっちの迎撃部隊やカランティ市の損害も皆無とは言えないでしょうけど、どう考えても差し引きこっちの勝ちです」 「いや、そんな簡単な話じゃないんだ」  楽観的な意見にソニアは首を振った。これから伝えなくてはならない任務を考えると、正直なところ気が重い。指揮官としてまだ未熟なのだろうが、部下に無理を強いることには慣れていなかった。  初出撃時のアーシェン中佐の言葉ではないが、九○七飛行隊ではこれまで、無事に帰還することを最優先にしてきたのだ。 「大局的に見れば、この大戦は徐々に連合軍有利に傾きつつある。アルキアが一か八かの捨て身の作戦に出てくるのもわかる。しかし今回に限っていえば、こっちがかなり不利なんだ」 「何故ですか?」 「今日、アタシらに課せられる任務はたったひとつ。敵の重爆を、一機残らず撃退すること。ただの一機も、カランティ市および周辺工業地帯への進入を許してはならない。一発の爆弾も投下させてはならない」  一斉に不満の声が上がる。 「アタシに言うなよ。お偉いさんがそう言ってきてるんだから」 「納得できる理由があっての命令なんでしょうね?」 「残念ながら、そうだ」  文句を言いたい気持ちは痛いほどよくわかる。一○○○機の敵機、護衛戦闘機も含めた数とはいえ、爆撃機を一機も目標上空へ進入させないなどというのは統計学的に見て不可能だ。地上戦なら話は別だが、三次元空間の大空が戦場では、どれほど鉄壁の防御陣を敷いたところで必ず撃ち漏らしが出る。  しかし今回だけは、その不可能に挑戦しなければならない。そうしなければならない理由がある。 「敵の重爆のうちどれか一機、どれかはわからんが一機だけが、新型の特殊爆弾を積んでいるらしい。アルキアが極秘で開発していた新兵器だそうだ」 「どんな新兵器か知らないけど、たかが爆弾一発、いいじゃないですか。それでカランティ市が壊滅するわけじゃあるまいし」 「壊滅する、と言ったら?」  隊員たちの多くは冗談だと受けとったようだ。普段の態度が不真面目だとこういう時に信用されなくなるのだと、少しだけ反省した。 「その新兵器、外観は四トン級の大型爆弾だが、一発で通常爆弾数万トンに匹敵する破壊力がある」 「――っ」  全員が同時に息を呑んだ。 「……あの、なにかの間違いじゃ?」 「アタシも何度も念を押した。残念ながら事実だ。TNT火薬じゃなくて、プルトニウムとかいう特殊な物質を使うらしい。詳しい原理は物理学者に訊けとさ。今度、ブロック大佐が来た時にでも訊いてみろよ」  今度があれば……という台詞は、あえて口にしなかった。  会議室が、重苦しい沈黙に覆われる。通常爆弾数万トン、その数字の持つ重さを理解できない者はここにはいない。  アルキアの爆撃機ペリュトンの最大搭載量は約八トン、ケツァルコアトルスなら一ニトンを超えるが、北極航路を越えるような長距離爆撃任務では、速度と航続距離を稼ぐため、実際に搭載する爆弾はもっと少ない。  通常爆弾数万トンとはすなわち、重爆撃機一万機近くの搭載量に相当する。大都市ひとつを完膚なきまでに破壊し尽くすのに、十分すぎる火力だ。 「こんな爆弾がカランティ市の人口密集地に投下されれば、死者一○万人、負傷者は三○万人以上に達する。そしてなにより、マイカラスはこの戦争に負ける」  ソニアはそこで一呼吸の間を置いた。全員が台詞の最後の部分を理解するのを待つ。 「開戦当初に西部戦線や赤道戦線で大打撃を受けた連合軍が、その後も戦争を継続し、ついには五分以上の戦いに持ち込めるようになったのも、北部の豊富な資源と、それを利用するカランティの工業地帯が無傷だからだ。この戦争は工業力が勝敗を分ける消耗戦だ。カランティを失えば、マイカラスはこれ以上戦い続けることはできない」  重い沈黙。  ソニア以外の誰も口を開かない。言葉が途切れると、呼吸音すら聞こえなかった。 「幸い、新型爆弾は製造や取り扱いが極めて難しく、完成しているのは一発だけらしい。だが、どの機体がそれを搭載しているかはわからない。ペリュトンとケツァルコアトルスならどれでも搭載できるからな。いいか、今日は戦闘機や攻撃機は可能な限り無視しろ。その代わり、重爆は徹底的に叩き墜とせ!」  声が震えないようにするには、少なからぬ精神力を必要とした。言っていることは単純だが、単純だからこそ忠実に実行するのは難しい。 「作戦は簡単だ。いつものように二機編隊を組み、常にこの二機単位で行動する。捕捉した重爆はすべて撃退しろ。燃料や弾薬が尽きたら、カランティでもティアサークでもいい、一番近い基地に着陸して補給を受け、白鳥の指示で次の目標に向かえ。おそらく今日は一日中、戦闘が続くことになる。その間、一機でも多くの敵重爆を墜とすこと。作戦概要は以上だ。すぐに出撃準備にかかれ」  初めてだった。生き残ることよりも敵を撃墜することを優先して命じたのは。  短い命令が、こんなにも苦い味がするとは知らなかった。 「シェルちゃんはどうするの? あなたの僚機でしょう?」  隊員たちが立ち上がろうとする中、サラーナが座ったままで言った。一瞬、他の隊員たちの動きも止まる。 「シェルは……まだ飛べる状態じゃない。アタシは一人で行くよ、編隊数を減らしたくないからな」 「そりゃあ、あなたの腕なら一人でも大丈夫でしょう。でも……いいの?」 「アタシは一人で行く。話は以上だ。ぐずぐずしないで出撃準備に……」  強引に話を打ち切ろうとした。これ以上、シェルシィの話題を続けたくはなかった。しかしその言葉は途中で途切れ、ソニアの視線は会議室の入口に釘付けになった。サラーナが、ルチアが、そして他の隊員たちが、視線を追って振り返る。  そこには飛行隊の一二番目の隊員が、青い顔をして立っていた。  見るからに具合が悪そうである。しかし意外としっかりした足取りで、真っ直ぐにソニアを見据えて進んできた。  ソニアも一歩、二歩、近づいて立ち止まる。泣いているような、笑いを堪えているような、複雑な表情になった。  大きな瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。寝不足と二日酔いのせいでいくぶん充血気味ではあるけれど、昨日とは違う瞳だ。初めて会った時と同じ、強い光を持っている。 「……飛べるのか?」  言いたいことはたくさんあったけれど、口から出てきた言葉はそれだけだった。その答えさえ聞けば十分だ。  ゆっくりと、しかし力強く、シェルシィはうなずいた。 「飛べます。……あたしは、飛びます」 「……そうか」  叫びだしたい気持ちを、ぐっと堪える。胸の奥から込み上げてくるこの感情は、なんなのだろう。 「機体に近づいただけで、吐きそうになるくせに」 「今日の吐き気は二日酔いのせいですから」 「飛行中に、マスクの中で吐いたら死ぬぞ」 「ここに来る前に、すっかり吐いてきました。もう、胃液も残ってませんよ」  疲れたような表情はそのためか。それでも、微かな笑みを浮かべている。 「あたしは飛びます。あたしは、戦闘機パイロットです」  決して大きくはないけれど、しっかりとした言葉。飛ぶために生まれてきた者が、空へ還ることを決意した言葉。  気がついた時には、ソニアは目の前の華奢な身体を抱きしめていた。  愛おしくて仕方がない。  この子は鳥だ。こんなに小さな身体で、鷹よりも隼よりも巧みに空を翔る。 「……そうだな。アタシらのいるべき場所は地上じゃない、あの空の上だ。行こう、一緒に」  腕の中の頭が、小さくうなずく。その頭に手を乗せて、髪をくしゃくしゃにする。  涙が出そうだった。シェルシィが還ってきたことが、一緒に飛べることが嬉しくて、泣き出してしまいそうだった。それを堪えることができたのは、二人を囲んでいる視線の存在に気づいたからだ。  慌ててシェルシィの身体を放す。 「……お、お前ら、なに見てんだよ! さっさと格納庫へ行け! 三十分以内に離陸するぞ、急げっ!」  照れ隠しのために、必要以上に大きな声になってしまう。サラーナをはじめとする一○人の隊員たちは、笑いを噛み殺しながら格納庫へと駆け出していく。  二人きりになったところで、ソニアはもう一度シェルシィを抱きしめた。 * * *  ほんの数日離れていただけなのに、ひどく懐かしかった。  窮屈な竜姫のコクピットにいられることに、悦びを感じる。  体調は決してよくはなかったが、込み上げてくる吐き気を二日酔いのせいだと自分に言い聞かせた。どうせ胃の中には、吐くようなものはなにも残ってはいない。  飛べるはずだ。  いや、飛ばなければならない。  主電源を入れ、酸素マスクを接続する。計器をひとつひとつチェックしていく。この基地に来てから何百回と繰り返してきた手順は、シェルシィの身体にすっかり染みついていた。頭で考えなくても発進準備は進んでいく。  ここが、自分のいるべき場所なのだ。たとえなにがあっても、ここから逃げてはいけない。父親に勘当されてまで、自分で選んだ道ではないか。  この大空以上に相応しい場所はない。自分は「鋼の翼を持つ鳥」なのだ。命ある限り飛び続けなければならない。 『リリィ01、離陸準備よし』  無線機から声が聞こえてくる。一番頼りになる声。一番大切な声。この声が聞こえる限りは、自分は大丈夫だ。 『リリィ12、よし』  今は、ソニアの僚機として飛べることが誇りだった。ソニアと共に飛び、共に戦うことが悦びだった。  ソニアは子供のために戦う。ならば自分はソニアのために戦おう。敵を殺すためではない。自分の大切なものを護るために戦うのだ。ソニアを無事に家族の許へ帰すために。  斜め前にいるソニアの機が、エンジンの出力を上げる。同時にシェルシィもスロットルレバーを押し込む。  身体がシートに押しつけられる。周囲の風景が後ろへ流れていく。  心が躍る。  大空こそがシェルシィの居場所だった。たとえ、この先に戦いが待ち受けているとしても。 九章 天空の狼王  その日――  マイカラス王国最北部の空は、無数の航空機で埋め尽くされていた。  爆音が大気を震わし、ガソリンと硝煙の臭いが一面に満ちている。  激しい闘いだった。  アルキア帝国から北極航路を越えて、何百機という重爆撃機と護衛戦闘機が絶え間なく来襲する。マイカラス空軍の戦闘機隊がそれを迎え撃つために飛び立っていく。  数の上では、世界一の空軍力を誇るアルキアが圧倒していた。マイカラスの迎撃隊は、ホームチームの地の利で数の不利を補っていた。  基地が近いから、燃料を満載する必要がない。その分、余分に弾薬を積むことができる。弾薬を節約することなど考えずに激しい攻撃を見舞い、地上の高射砲陣地が作り出す濃密な弾幕の中へ敵を追い立てていく。  カランティ市を護る三つの空軍基地はフル稼働だった。地上の整備員たちは片時も休むことなく働き続けている。迎撃隊は補給と再出撃を繰り返し、雲霞のごとく群がる敵機を鉄屑へと変えていく。  もちろん、九○七飛行隊の一二機も例外ではない。敵を圧倒する速度と引き替えに燃費の悪い竜姫は、他の隊よりも頻繁に基地に戻って補給を受けなければならない。  ソニアとシェルシィも既に三度の補給を受けて、四度目の出撃の最中だった。  いったい、今日だけでどれだけの敵機を撃墜したことだろう。いちいち数えてもいない。戦闘が終わってガン・カメラのフィルムを現像すればわかるだろうが、数字には興味がなかった。  撃墜数なんてどうでもいい。マイカラスの領空に敵機がいる限りは戦い続ける。それだけだ。  幸い、今までのところは問題の新型爆弾が投下されたという報告はない。しかし、敵の攻撃の手も緩んではいない。  戦いは、まだ終わってはいなかった。 * * * 「隊長、そろそろ最低帰投燃料です」  燃料計の針をちらりと見て、シェルシィは溜息混じりに報告した。現在位置から一番近いティアサーク基地に戻るのは余裕だが、その前にもう一戦交えるには心許ない残量だ。  四度目の補給を受けなければならない。心身の疲労は頂点に達している。なのに敵機は次から次へと襲来してくる。  いったい、アルキア空軍はどれだけの戦力を投入しているのだろう。地理的に不利な分、相当の損害を出しているはずだが、半日以上も空襲を続けていられるとは。  世界最強の空軍力は伊達ではないということか。機体の性能ではマイカラスもひけを取らなくなったが、数ではまるで太刀打ちできない。もともとマイカラス軍は、少数精鋭が中世の騎士団から変わらぬ伝統だ。 『敵さんは諦める様子はない、か。なら早めに補給を受けた方がいいな』  ソニアの声も、幾分うんざりしているように聞こえる。 『リリィ01よりスワン02、補給のためティアサーク基地に向かう。進路上に敵は?』 『スワン02よりリリィ01、了解。敵の戦闘機隊と進路が交差する可能性大、注意されたし』 『捕捉されるかな?』  できれば無駄な戦闘は避けたい。今日の目的はカランティ市への爆撃を防ぐこと。戦闘機と戦ってもこちらにメリットはない。 『向こうはやる気満々です。五一八飛行隊に三機の損害を与えている強敵です』 『……了解』  ソニアの溜息が無線機に入ってきた。 『やりたくはないが、他の基地に向かうヒマはないし、素通りして尻から撃たれるのも嫌だな。すれ違いざまに一撃喰らわして離脱するぞ。シェル、深追いはするなよ』 「了解」  二機は、ティアサーク基地へ向けて進路を変更する。  太陽が西に傾きつつある空に目を凝らしても、まだ敵機の姿は見当たらなかった。これなら捕捉されずに通過できるかもしれない――そんな期待を抱いた時、白鳥から通信が入った。 『スワン02よりリリィ01。二時方向から敵戦闘機六接近中。進路一七五、高度七二○○、速度……八○○からさらに加速中』 「八○○キロ?」  シェルシィは思わず声を上げた。アルキアの主力戦闘機ガーゴイルに可能な速度ではない。 『敵もジェット、ワイバーンよ。気をつけて』  かすかな舌打ちはソニアのものだろうか。  ワイバーンはアルキア空軍初のジェット戦闘機だ。最高速度は八五○キロ超、武装は三○ミリ機関砲一門、二○ミリ機関砲四門。竜姫には及ばないとしても、マイカラスの四式ジェット戦闘機〈飛竜〉とほぼ互角の性能を持つ優れた戦闘機である。 『よりによってワイバーンか』  相手がレシプロ機なら、速度にものをいわせて逃げることもできるし、優れた上昇力を生かして有利な位置取りもできる。しかしジェット同士となれば、いくら竜姫といえどもそこまで圧倒的なアドバンテージはない。 『気をつけろよ。六機全部を相手にする必要はない。一発喰らわして即離脱だ』 「了解、隊長も気をつけて」  敵と正対するために、進路を右に変える。やがて、朱色に染まりはじめた空に浮かぶ、六つの点が視界に入ってきた。  敵はゆっくりと散開していく。こちらを包囲しようというつもりらしい。ソニアに三機、シェルシィに三機。九○七飛行隊でも初期の戦闘で多用した、いびつな逆三角形の編隊を組んで迫ってくる。先頭の機がまず攻撃を仕掛け、それを回避することを見越して二機目、三機目が攻撃するという戦法だ。  さて、どうしたものだろう。一瞬だけ思案する。ソニアならこんな時どうするのか。 『決まってるだろ、正面から突っ込むんだ』  そんな声が聞こえたような気がした。確かにその通りだ。三対一というこの状況下で、もっともあり得ない戦法。だからこそ敵の裏をかける。  真っ直ぐ、先頭の敵に機首を向ける。予想外の動きに、相手が一瞬躊躇したように感じた。  同時に機関砲のトリガーを引く。竜姫の機関砲は長砲身型で、初速が速く射程が長い。それでもぎりぎり射程外なのだが、敵にはそこまでわからないだろう。  先頭の敵が慌てて回避行動を取る。その動きを予想していたシェルシィは、回避する敵を追わずに二機目に機首を向けた。  これも敵の思惑の範囲外だったようだ。こちらは絶好の位置で敵機を照準に収めているが、向こうはまだ旋回しきっていない。 「まず、ひとつ」  トリガーを引こうとした、その瞬間。  ぞくり、と寒気を感じた。腕に鳥肌が立つ。その正体を確かめる前に、シェルシィは機体を横転降下させていた。  一瞬前までいた空間を、曳光弾の軌跡が貫いていく。  編隊の最後尾にいた三機目の敵だ。いつの間に射撃位置に来ていたのだろう。予想以上に速い動きだった。速いだけではない、こちらの意図を読んでいなければ、あれほど絶好のタイミングで正確な射撃は行えない。  一気に数百メートル降下したシェルシィは、すぐに体勢を立て直して右旋回した。一機、後ろから追ってくる。急いで残り二機の位置を確認する。 (……巧い)  冷や汗が流れた。思っていた以上に手強い相手だ。ほんの数秒だけ見失った敵機が、こちらの動きを先回りするように旋回してきている。  慌てて左旋回。その先にもう一機の敵影を認め、仕方なくさらに降下する。  完璧な連係だった。シェルシィがどう動いても、常に一機が先回りしてくる。これでは逃げ道がない。かといって反撃しようにも、どれか一機を狙っている間に他の二機に背後を取られる。  相手がレシプロ機であれば、急降下で全速まで加速して一気に引き離すこともできる。しかしワイバーンは仮にもジェット、一対一での性能ならば竜姫が勝っているとはいえ、一瞬で引き離せるほどの速度差はない。  シェルシィは反撃を諦めた。三対一で勝てるほど生やさしい相手ではない。全力で回避に専念しなければ、たちまち撃墜されてしまうだろう。  今は耐えるしかない。敵の連係に一瞬の隙が生じるまで、こちらがミスを犯さずに逃げ続けるしかない。  しかし、間に合うだろうか。  回避に専念するとはいっても、永遠に逃げ切れるわけではない。回避運動を繰り返すたびに、速度と高度が失われていく。 「……っ!」  敵の一機が正面に来る。慌てて回避する。ほんの数メートルの距離ですれ違う一瞬、相手の尾翼が目に入った。  描かれていたのは、数え切れないほどの撃墜マークと、牙を剥いた灰色狼。  こんな機体を駆るパイロットは一人しかない。一八○機以上の撃墜数を誇る、アルキア空軍のエース中のエース。人呼んで『天空の狼王』。 「隊長っ! こいつ、ランディ・コンコードですっ!」  台詞の最後は悲鳴になっていた。 * * *  ランディ・コンコードは、歓喜に震えていた。  ついに竜姫と戦うことができる。  ここまで、六式や七式といった主力戦闘機や、四式ジェット戦闘機〈飛竜〉も撃墜してきた。残す敵はこの竜姫だけだ。  一対一での機体性能ではやや及ばないだろうが、三対一という数の利がある。腕前に関していえば、彼を凌駕するパイロットなど世界中探したところで見つかるものではない。勝利は確実だ。  目の前の敵が、お目当てのソニア・ハイダーでなかったことだけが残念だった。隊長機はもうひとつの編隊と交戦中だ。さっさとこいつを片付けて、向こうを援護しよう。部下は腕利き揃いだが、それでもあの女だけは油断ができない。  まずは目の前の敵に全力を向ける。三対一ということに後ろめたさは感じなかった。それが戦争というものだ。  初期の戦闘機の戦いが、中世の騎士の一騎打ちの伝統を受け継いでいたのは事実だ。しかし現代の空戦は、フットボールのように高度な連係が要求されるチームプレーなのだ。  それがランディの持論だった。並のパイロットがこんなことを言えば単なる負け惜しみと思われたかもしれない。しかし一騎打ちでも負け知らずの撃墜王の言葉だから重みがある。  ランディは優れたパイロットであると同時に、優れた指揮官でもあった。そして、誰もが自分のような空戦の才に恵まれているわけではないこともよく理解していた。二機、三機の連係による新たな戦術を次々と編み出し、個人の技量ばかりが重視されていた空戦の世界にチームプレーの概念を持ち込んだ。  その基本が、いま行っている『トナカイ狩り』と呼ばれる戦法だった。狼の群がトナカイを狩るように、複数の機が入れ替わり立ち替わり敵を攻撃する。攻撃を仕掛けていない機は、常に敵の逃げ道を塞ぐように先回りする。決して無理はしない。少しずつ少しずつ袋小路に追いつめて、最後に喉笛に牙を突き立てる。  この戦法を突きつめて、ランディは『狼王』の称号を得たのだ。  共に戦っているのは、新兵の頃から彼自身が鍛えてきた精鋭ばかり。負ける要素はない。たとえ相手がソニア・ハイダーだとしても。  しかし、この相手も悪くはなかった。機体ナンバーは907‐12。九○七飛行隊の一二番機だ。情報部から入手した資料が正しければ、一二番機のパイロットは士官学校を卒業したばかりの新米だそうだが、それにしてはずいぶんいい腕をしている。  いくら性能のいい機体とはいえ、トナカイ狩りの術中に完全にはまりながら、紙一重で攻撃をかわし続けているのは称賛に値する。無謀な反撃を試みず、回避に専念するその判断は正しい。若者らしくない的確な行動だ。  これが新米だとは驚きだ。経験の浅さを感じさせない技量と判断力だった。天賦の才によるものか、それともソニア・ハイダーの教育の賜物か。おそらくはその両方だろう。いくつもの幸運に恵まれなければエースパイロットは生まれない。  しかし、その幸運もここまでだ。いくらいい腕をしていても、ランディ自身が指揮するトナカイ狩りの輪から逃れる術はない。  相手のパイロットはまだ二○歳になるかならないかの年齢だろう。若いのに気の毒だとは思うが、戦争とはそうしたものだ。理不尽な最期を迎える者は彼女一人ではない。  戦闘機パイロットを生業に選んだ以上、年齢も性別も関係ない。腕と運のいい者が生き延び、そうでない者は敵のスコアとなる。それだけのことだ。  あと十数秒の生命。  激しい空戦機動を繰り返す竜姫は、旋回の度に速度を失っていく。それは、速度を最大の武器とするジェット戦闘機にとっては致命的なことだった。  この状況で失った速度を取り戻すには、降下で加速するしかない。しかし、上と横には無限に広がる空も、下への余裕はほんの数千メートル。いつまでも逃げ続けることはできない。  そろそろ、とどめを刺す頃合いだろう。  ランディは、敵機の側面めがけて一気に間合いを詰めた。機関砲のトリガーを引く。気づいた敵パイロットが、狼狽して回避行動をとる。  やはりここで経験不足が出た。三対一で追い立てられ、精神的にも限界だったのだろう。こちらの急な仕掛けに身の危険を感じて、一瞬、この機以外が見えなくなっていた。部下はこの隙を見逃すようなぼんくらではない。  無茶な回避行動で生じた死角から、一機が襲いかかる。  チェックメイトだ、と――そう確信した。 * * * (やられる――)  シェルシィは確信した。  これ以上は逃げ切れないと思ったところにランディ・コンコードからの射撃を受けて、一瞬、周囲への気配りを忘れた。  狼王の必殺の一撃は辛うじてかわした。しかしその時には、後ろ上方の最高の射撃位置に別な敵機の姿があった。操縦桿を傾け、ラダーペダルをいっぱいに踏む。しかし手遅れだ。現在の速度、高度、間合い。かわしきれない。 (あたし、死ぬのかな……)  時間の流れが、ひどく遅いように感じた。  愛機がゆっくりと旋回していく。敵機がのろのろと近づいてくる。すべてが映画のスローモーションのようだ。なのに思考だけがいつもと同じ速度で動いている。 (ごめんなさい、隊長。やっぱりあたし、最初に撃墜される竜姫になっちゃいました)  これまで、たくさんの敵を墜としてきた。そして、ついに自分の番が来た。ソニアの怒っている顔が目に浮かぶ。絶対に僚機を失いたくない、そう言っていたのに。 (……ごめんなさい)  視界の隅を、曳光弾の光がかすめていく。あと一、二秒で、機体は炎に包まれるのだろう。  しかし――  次の瞬間、火だるまになっていたのはシェルシィを狙っていた敵機の方だった。 「え?」  何が起こったのだろう。一瞬、自分の目を疑う。そこへ、聞き慣れた轟音が耳に飛び込んでくる。  竜姫のエンジン音。スマートな機体が矢のように視界を横切った。機体ナンバーは907‐02。続いてもう一機、907‐11。 『大丈夫? シェルちゃん』  場違いにすら思える、おっとりと優しい声。戦闘中にこんな声で話すのは一人しかない、サラーナだ。 「副長! それにエシール先輩!」  二機の竜姫は大きく宙返りして、ランディの機に攻撃を仕掛ける。 『後は私たちに任せて、今のうちに離脱しなさい』 「でも副長。こいつ、ランディ・コンコードです。アルキアの狼王ですよ!」 『知ってる。無線で聞いてたわ。だから来たのよ。あなたたちは燃料がないんでしょう? 早くティアサークへ戻りなさい』 「でも、二人だけじゃ……」 『大丈夫。ソニアが三対二まで差を縮めてくれたから』 「え?」  慌てて視界を巡らすと、黒煙を引いて墜ちていく敵機の姿があった。六機いた敵のうち、いま残っているのは三機だけ。シェルシィが回避に専念している間に、ソニアは三対一という圧倒的不利な状況下で二機を撃墜したことになる。さすがだ。 『シェル、戻るぞ。燃料切れで墜ちたいのか? 後はサラーナに任せろ、大丈夫だから』 「は、はい!」  サラーナの腕はよく知っているが、なにしろ相手は狼王。手助けしたいのは山々だったが、燃料に余裕がないのも事実だった。今の戦闘で無茶な回避行動を繰り返したせいで、かなりの燃料を消費してしまった。もう、ティアサーク基地までたどり着けるかどうかも怪しい。 『行くぞ』  有無を言わさず、ソニアが離脱していく。シェルシィも続く。  サラーナとエシールは、狼王に挑むべく反転していった。 * * *  燃料は、本当にぎりぎりだった。  最後はエンジンが停まった状態で、滑空して着陸する羽目になった。それでもなんとか機体を壊さずに着陸できたのは幸いだった。  整備員が大急ぎで燃料と弾薬を補給している間に、シェルシィはハチミツを塗ったビスケットとミルクで、軽い食事を摂っていた。緊張と、昨夜の二日酔いのせいで食欲はまるでなかったが、エネルギーを補給する必要があった。空戦は見た目以上に体力を消耗するのだ。十分な栄養を摂らなければ戦闘機は飛ばせない。  甘いビスケットをミルクで無理やり流し込んでいると、困惑した表情の整備員が近づいてきた。 「あの、少尉。四式弾が二発しか残っていないのですが、どちらの機に搭載しましょうか?」 「え?」  ビスケットをくわえたまま、驚いて顔を上げる。 「ロケット弾がもうないの?」  四式対空ロケット弾は、対重爆撃機用の主力武装だ。竜姫の三二ミリ機関砲はケツァルコアトルスを撃墜するのに十分な威力があるが、射程の長いロケット弾で先手を取った方が楽なのは間違いない。今日のように効率が最優先の戦闘では、ロケット弾なしというのは正直言ってきつい。 「道路が爆撃されて、補給のトラックが遅れてるんです。もうじき到着する予定ですが……待ってる時間はないですよね?」 「……そうね」  敵襲はまだ続いている。一分一秒でも早く離陸したい。いつ到着するかわからない補給トラックを待つ余裕はない。 「すみません。なにしろ、これだけの規模の出撃は初めてですから。急なことでしたし、基地の備蓄だけじゃ長くは保ちません」  申し訳なさそうに頭を下げる整備員に責任はない。今日は、普段の三倍以上の機がこの空域で戦闘を行っているのだ。それも、休む間もない全力出撃の繰り返しである。今朝急に決まった作戦だから、補給や整備が追いつかないのも無理はない。 「うーん……」  シェルシィは、ちらりとソニアの機を見た。ソニアは無線で誰かと話している。基地司令か近くの白鳥と、作戦の打ち合わせをしているのだろう。 「そうね、ロケット弾はあたしの機に積んで。隊長機にはその分、機関砲弾を満載してちょうだい」  重爆撃機が相手の戦闘は、やはりロケット弾が使えた方が楽だ。格闘戦の腕前はソニアの方が格段に上なのだから、シェルシィがロケット弾で爆撃機を攻撃し、その間ソニアがシェルシィを護るという役割分担が適切だろう。シェルシィが護衛役では、万が一またランディ・コンコードのような凄腕の敵と当たった時にソニアを護りきれない。 「三式弾ならまだ少し残ってますけど、どうします?」 「いえ、それはいらないわ」  命中精度も威力も四式弾には遠く及ばない旧式のロケット弾。対地攻撃に用いるならともかく、対空戦闘に関しては三二ミリ砲の方がよほど頼りになる。無駄な重量を増やすだけだ。 「燃料や機関砲弾の在庫は大丈夫よね?」  整備員に確認する。それさえも心許ないようでは、これ以上戦闘を続けることはできない。 「ええ、今のところは」 「今のところは……ね」  もう長くはないな、と思った。  補給が追いつかなくなってきている。なにしろ朝から続いている総力戦だ。クリューカ、ティアサーク、カランティの三基地は、定数の三倍以上の戦闘機をフル回転で運用している。基地の物資が不足するのは時間の問題だった。  いくら戦闘機があったところで、燃料と弾薬が尽きてしまえばただの金属の塊でしかない。いや、機体だって撃墜されたり損害を受けたり、朝に比べればずいぶんと減っている。  マイカラスとアルキア、どちらが先に力尽きるのだろう。こちらはそろそろ限界が見えてきたようだ。アルキア軍だって苦しんでいると思いたいが、今のところ攻撃の手がゆるむ様子はない。本当に、今のうちになんとか手を打たなければ、困ったことになりそうだ。  整備員に指示を出した後で、シェルシィはソニアのところへ向かった。ちょうど通信を終えたソニアが顔を上げた。 「あれ、サラーナか?」 「え?」  視線を追って振り返る。  二つの機影が滑走路に降りてくる。うち一機はもうもうと黒煙を上げていた。かなりの損害を受けているらしい。耳慣れたジェットの爆音は、紛れもなく竜姫のものだ。  ソニアとシェルシィは同時に走り出した。消火器を抱えた整備員たちも集まってくる。  先に着陸したのはエシールの機だった。こちらは機首付近に二、三発被弾していたが、それほど大きな損害は受けていないようだ。  しかし、後に続いたサラーナの機はひどい有様だった。  いったい何十発撃たれたのだろう。機体全体が穴だらけといってもいい。二枚ある垂直尾翼の一枚と、右主翼の三分の一が失われていて、エンジンは両方とも炎と黒煙を上げていた。  その割には安定した姿勢で着陸した機体に、一斉に消火剤が吹きつけられる。火災が鎮火したところで、シェルシィは急いでコクピットに駆け寄った。これだけ撃たれていては、きっとサラーナは大怪我をしているに違いない。すぐに助け出さなければならない。 「誰か、タラップを……」  その声に応える者が現われるより先に、キャノピーが内側から開かれた。 「出迎えありがとう、シェルちゃん」  やたらと明るいサラーナの笑顔に、シェルシィは呆気にとられて立ちつくした。 「副長……お元気そうですね?」 「もちろん?」  ふわり。  優雅な動作で地上に降り立つサラーナは、どこにも怪我をしている様子はなかった。飛行服は綺麗なままで、破れたところも血の汚れも見当たらない。  消火剤にまみれた機体を見る。機関砲弾で撃たれた痕だらけ、コクピット周辺も例外ではない。  もう一度サラーナを見る。怪我ひとつなく、いつもと変わらず美しい。 「あの……お怪我は?」 「ないわよ」  首を傾げる。  謎だった。これだけ被弾して、どうして無傷でいられるのだろう。 「なにか、コツとかあります?」  訊かずにはいられない。 「そうねぇ、強いて言えば信念かしら」 「信念?」 「私の美貌に傷をつけさせてたまりますか――って」  信念で弾に当たらないのなら、それほど楽なことはない。戦争で死ぬ者などいないだろう。しかし、サラーナが言うと妙な説得力があった。思わず納得してしまいそうになる。 「それより、エシールの容態は?」 「ああ、エシール先輩は大丈夫ですよ。副長に比べたら被弾も二、三カ所しか……」  そう答えながら振り返って絶句する。整備員に肩を借りて機体から降りたエシールの右脚、太腿から下が真っ赤に染まっていた。 「精進が足りなかったかなぁ。あれだけ撃たれた副長が無傷なのに、たった一発の被弾で怪我するなんて……」  自嘲の笑みも苦痛に歪んでいる。ひどい出血だ。飛行服のズボンの裾から、鮮血が滴り落ちている。整備員が両側からエシールを支え、衛生兵が止血帯を巻く。太腿をきつく縛り上げられて、その痛みにまた顔を歪める。 「すみません、隊長」 「……いや、お前はよく頑張ったよ。ご苦労さん、あとは任せてゆっくり休んでな」  エシールの頭を乱暴に撫でたソニアは、サラーナを振り返ると態度を豹変させた。 「で、お前はなにやってんだよ。貴重な機体を穴だらけにしやがって!」 「でも、狼王には勝ったわよ」  渋面のソニアとは対照的に、サラーナは満面の笑みを浮かべている。 「今日は戦闘機相手に勝ったって意味ねーだろ!」 「あなたにとってはそうかもしれないけれど、私はこのために飛び続けてきたのよ。これまであなたのわがままに付き合ってきたのだから、今日くらいは好きにさせてもらうわ」 「――っ」  小さく舌うちしたソニアは、さも不快そうに回れ右すると、愛機の方へ早足で歩き出した。シェルシィはその後を追う。 「あ、あの、隊長?」 「ま、仕方ねーよな。狼王は、サラーナにとって何年も追い続けてきた仇敵だから」  独り言のようにつぶやく。 「え?」 「昔の話さ。白百合飛行隊としての最後の出撃で、隊長機を撃墜したのが狼王なんだ。そして、隊長の僚機を務めていたのが……」 「副長だった?」  よく見なければわからないくらい、かすかにうなずくソニア。それで理解できた。あの真面目なサラーナが「護衛戦闘機の相手はせずに爆撃機を狙う」という指示を無視して、ランディとの戦闘を優先させた理由が。  そのために飛び続けてきた、と言っていた。白百合飛行隊の隊員で、今でも現役のパイロットはソニアとサラーナの二人しかいない。戦死した者、怪我で引退した者、身体は無傷でも心に深い傷を負って飛べなくなった者。その中でサラーナは、復讐のために飛び続けてきたのだという。 「本当は、いいことじゃない。憎しみで人を殺すなんて、殺す相手が誰かわかっているなんて、それは戦争じゃなくて殺人だ。でも……」  ソニアが苦笑する。立ち止まって、空を見上げる。 「アタシが飛び続けているのも、復讐のためみたいなものか」 「復讐? 誰にですか?」  訊ねると、人差し指を上に向けた。 「この空、さ。戦友も、先輩も、恋人も、みんな空で死んだ。アタシ自身、大怪我を負った。小さい頃から空が好きで、飛ぶことに憧れて、アタシくらい空を愛している人間もいないのに、空はアタシの大切なものを奪っていくだけだ。アタシを裏切った大空に復讐するためさ。そのために、この翼を手に入れた」  自分の愛機に軽く拳をぶつける。  どこか切なげな苦笑。その表情で、ソニアがどれほど空を愛しているかがわかる。どれほど辛い目にあっても、やっぱり空へ戻ってきてしまうのだ。 「ところで、ロケット弾が補充できなかったのか?」 「ああ、そのことですけど……」  サラーナたちの帰還のごたごたで伝えられずにいた、先ほどの整備員とのやりとりを説明する。話を聞いたソニアが肩をすくめる。 「そろそろ限界だな。うちの隊もこれで四機が脱落だ。他の飛行隊の損害はもっとひどい。アルキアはそれ以上のダメージを受けているはずなのに、攻撃はまだ続いている。防衛線が綻びはじめてるぞ」 「ヤバイですか?」 「ヤバイな。綻びが大きくなって、そこを突破されて新型爆弾を投下されたら、それで終わりだ。ここまで根比べを続けてきたが、どうもこっちに分が悪そうだ」 「そんな……」 「ここらで一発、思い切った手を打たなきゃならない。一応、上の許可はもらってきたんだが……。ちょっときつい作戦になるけど、ついてくるか?」 「もちろん。で、なにをやるんですか?」 「ん? ちょっとした引っ掛けさ。向こうだって焦ってないはずがないんだ。案外、簡単に引っ掛かるかもしれないぞ」  悪戯っ子のような笑みを浮かべて、作戦を説明してくれる。シェルシィは目を丸くした。 「あたしたちだけで……ですか?」 「大勢でやると、それだけばれる危険が高くなる」 「それは……そうですけど」  大胆なことを考えたものだ。考えた人間も大胆だが、それを許可した上層部もかなり大胆だ。ひとつ間違えば致命傷になりかねない。 「さて、戦場に戻るか」  自機のタラップに手をかけたソニアが、その手を離してシェルシィの頭に置いた。 「……悪いな。こんなことに付き合わせて」 「いいえ」  首を左右に振る。 「あたしは、自分の意志でここにいるんです。隊長と一緒に行きたいんです」 「可愛いこと言うなって。惚れちゃうじゃねーか」  ソニアが笑う。シェルシィもつられて笑みをこぼした。 十章 大空の支配者  カランティ市を護る防衛線の各所に、小さな綻びが生じつつあった。  迎撃隊の損害は徐々に増えているし、最後の頼みである高射砲陣地も敵の空襲にさらされ、少なからぬ被害を出している。司令部は編隊を再編して防衛線の穴を塞ぐものの、その分、優先度の低い地域の護りがさらに手薄になってしまうことは避けられなかった。  ソニアとシェルシィが飛んでいるのは、そんな、手薄になった空域のひとつだった。ここにいるのは二機だけ、他の編隊はすべて、別空域で敵と交戦中だ。  高度八○○○メートルを巡航。今のところ、周囲に敵影はない。  護りが手薄な部分を攻めるのは戦術の基本だが、敵も、ここにいるのがマイカラス空軍最強の二機であることを知っているのだろう。アルキア軍もこちらの無線を傍受しているだろうし、高性能のレーダーを装備した偵察型のペリュトンが、後方で戦場を監視している。  二人は、それを逆手に取るつもりだった。  そろそろ頃合いだろうか。シェルシィは隣を飛ぶソニアをちらりと見た。ソニアもこちらに顔を向けると、無線を使わず片手を上げて合図を送ってくる。  小さく深呼吸。左手のスロットルレバーを握り直し、一気に手前に引いた。  回転計と速度計の針が下がっていく。機体は徐々に失速し、ゆっくりと高度を下げていく。  シェルシィは無線の送信ボタンを押すと、できるだけ慌てた様子を装って叫んだ。 「リリィ12、緊急事態。エンジントラブル発生!」 * * *  空は、どこまでも青い。  この空は、どこまで続いているのだろう。  子供の頃、空を見上げるたびに思った。大空を渡る鳥が羨ましかった。自分も空を飛んで、空の彼方へ旅してみたいと夢みていた。  ある意味、幸運だったのかもしれない。生まれてきたのがもう少し早ければ、その夢は夢のまま終わっていただろう。しかしランディは偶然にも、世界初の動力飛行機が空に舞ったその日、この世に生を受けたのだ。  物心ついた頃から飛行機に憧れ続け、前の戦争の末期に初めて戦闘機に乗った。それから二十年近く飛び続け、アルキア空軍最高のエース、天空の狼王とまで称される身になった。 「……それが、この様か」  大破した機体のコクピットで苦笑する。今のランディは翼を折られ、飛ぶ力を失った鳥だった。  気化したジェット燃料の臭いが鼻をつく。主翼のタンクが破損したのだろう。不時着時に爆発炎上しなかったのが奇跡のようだ。被弾して失神したものの墜落寸前に意識を取り戻したランディは、かろうじて機の姿勢を立て直し、残燃料を投棄して不時着したのだった。  下が、大きな障害物のない原野であることが幸いした。うっすらと積もった雪も、衝撃を和らげるのにいくらか役に立った。  もっとも、それは彼の死を何十分か先に延ばしたに過ぎない。腹の傷から流れ出る血は止まる気配もなく、シートを真っ赤に染めていく。 「……ったく、いい度胸してやがるぜ、あの女」  彼に勝負を挑んできた竜姫のパイロット、機体ナンバーから推測するに飛行隊の副隊長だろう。さすがにいい腕をしていた。そして、それ以上に度胸が据わっていた。  最初から相打ち覚悟で、ランディの攻撃を避けようともせずに突っ込んできた。予想外の行動だった。  相当数の命中弾を与えたはずだが、こちらも深手を負った。機関砲弾が腹部を直撃していたし、不時着時の衝撃であちこち骨折もしている。  致命傷だった。  痛みはほとんど感じなかった。既に痛みも感じないくらい、彼の肉体は死にかけていた。  不思議と、死に対する恐怖も、自分を撃墜した敵パイロットに対する憎悪も感じなかった。  いつか訪れるはずの時が、ついに来ただけのことだ。  これまで、数え切れないほどの死を見てきた。新米の頃にしごかれた上官。同期の仲間たち。自分が鍛えた部下。  大勢の人間が死んだ。そしてようやく彼の番が来た。早いか遅いかの違いでしかない。  もう、十分だ。  飛行機の誕生とともに生まれ、飛行機が戦争に使われるようになって間もない頃から飛び続けてきた。世界最高の撃墜王とさえ言われるようになった。  先に死んでいった戦友たちのことを考えれば、十分すぎるくらいに幸せな人生だった。最高の機体を駆って、最高の敵と正面から戦ったのだ。その結果敗北して死ぬとしても、もう悔しくはない。 「リュウキ……か」  アルキア空軍の最新鋭機ワイバーンは、素晴らしい機体だった。竜姫はそれをさらに凌駕していた。彼が初めて空を飛んだ当時の複葉機と比べれば、その性能はトンボと鷹ほども違う。  飛行機はどんどん進化していく。進化の速度は緩むどころか、むしろ加速してさえいる。  この先、たとえば十年後、いったいどんな戦闘機が大空を支配しているのだろう。  死ぬのは怖くなかったが、ひとつ残念なことがあるとしたら、そうした今後生まれてくる素晴らしい機体を、この手で操縦できないことだった。いくつになっても、新しい機体、優れた機体は放っておくことができない。  しかし、欲を出したらきりがない。これからの機体は、これからの世代に任せればいい。  ずっと飛び続けてきて、さすがに少し疲れたかもしれない。  眠くなってきた。意識が朦朧としてくる。  煙草が吸いたいと思ったが、もう、手を動かすのも億劫だった。  薄れゆく意識。それを現実に引き戻したのは、近づいてくるジェットのエンジン音だった。  ワイバーンのものではない。  目を開ける。薄暗い視界を、二つの影が横切っていく。  竜姫だ。  ずいぶんと低空飛行をしている。不自然なほどだ。連なる山々の尾根よりも低く、山脈の陰に隠れるようにしてゆっくりと飛んでいる。高々度性能と高速が自慢の竜姫とは思えない。なにをしているのだろう。  不審に思っていると、まだ生きている無線機に友軍機の声が飛び込んできた。後方にいる管制機だ。 『チーム・オメガ、突入せよ。ルート二○五に道が開いた、お姫様はエンジントラブルで帰還』  混濁しかけていた意識が、一瞬はっきりする。新型爆弾を搭載した爆撃機と、その護衛機への指示だ。ルート二○五、この近くではないか。  お姫様はエンジントラブルで帰還、と言っていた。おそらくはあの竜姫だろう。それで、あんなに低空飛行をしていたのだ。  この大事な時に、よりによってエンジントラブルとは。  しかし、新技術とはえてしてそうしたものだ。ワイバーンも、試作段階の不安定なエンジンにはずいぶん泣かされた。最新技術の粋を集めた竜姫でアルキア空軍を翻弄してきたマイカラスも、その新技術ゆえに敗北する。  ……いや。  そこで、おかしなことに気がついた。  まだ遠くに聞こえる竜姫のエンジン音。出力は最低限まで絞っているようだが、どこも不自然なところはない。飛行姿勢も安定していた。 「……そういうことか。やるじゃないか、ハイダー大尉」  無意識のうちに笑みが浮かぶ。  擬態だ。  どこから来るかわからない敵を待つのではなく、わざと防衛線に穴を開けて、そこに敵をおびき寄せようというのだ。本当に、いい度胸をしている。  味方にこのことを知らせられないだろうか。このままでは、爆撃隊は待ち伏せの中に飛び込むことになる。  最後の力を振り絞って手を動かした。指先が、無線機の送信ボタンに触れる。  しかし。  結局、ボタンは押さなかった。押せなかったのではなく、自分の意志で押すことをやめた。  このまま、ハイダーにやらせよう。その方がいい。  ランディは戦闘機パイロットだった。アルキア軍人である以前に、戦闘機乗りだった。  空中戦でパイロットが死ぬのはいい。敵も味方も、お互いに覚悟の上で飛んでいるのだ。  しかし、非戦闘員であるカランティ市民の頭上に、一発で何万人も殺せるような爆弾を落とすことは間違っている。どれだけの理由を並べても、そのような行為が正当化できるとは思えない。  戦争で死ぬのは、軍人だけであるべきだ。職業軍人とは、一般市民を戦争に巻き込まないために存在するのではないか。そのために給料をもらっているのではないか。 「……頑張れよ、ハイダー」  送信ボタンから手を離して、ランディは瞼を閉じた。 * * * 『敵編隊接近。進路二二五、速度七○○、高度一○○○○から上昇中。内訳は重爆一、護衛戦闘機が一○〜一二』  白鳥からの連絡を受けたシェルシィの手が、微かに強張った。ついに、獲物が網にかかったのだ。 「でも、速度が速すぎません? なにかの間違いじゃ」  時速七○○キロなんて、最速のレシプロ戦闘機並みだ。重爆撃機の速度とは思えない。 『いや、本物だろう。噂には聞いたことがある。エンジンを換装した、ペリュトンの高速型が開発中だってな』 「すると、最新鋭機?」 『だろうな。間違いない、本物だ。迎撃される確率を少しでも減らそうと思ったら、機体の速度を上げるのが近道だ』  まるで舌なめずりしているようなソニアの声。 『行くぞ、シェル。とどめはお前にやらせてやるから、ぴったり後ろについてこい』  ソニアの機が速度を上げる。シェルシィも続く。  まだ高度は下げたままだ。敵に発見されないよう、周囲の山々よりも低く飛ぶ。エンジンは全開。外部タンクを投棄したので、速度はみるみる上がっていく。尾根が高さを増していくのに合わせて、ゆっくりと高度を上げる。  白鳥が伝えてくる敵との距離が、瞬く間に縮まっていく。ぎりぎりまで接近して、一気に山脈の陰から飛び出した。  同時に、敵の護衛戦闘機が反応する。爆撃機一機だけが高度を上げていく。 『シェル、射撃位置まで連れてってやる。遅れるなよ、ぶつけるくらいに間を詰めろ』  その言葉に従い、ソニアの機の後流に巻き込まれないぎりぎりの位置に自機を持っていった。  敵編隊が散開して、こちらを包囲しようとしている。  敵の護衛機は一二機。その防御をかいくぐって目標を撃破することは容易ではない。しかし、シェルシィはその事実を無視した。ソニアが任せろと言うのであれば、その言葉を信じるだけだ。彼女こそ、シェルシィが知る中で最高の戦闘機パイロットなのだ。ただ後をついていくことだけに集中していればいい。  ソニアは不規則な機動を繰り返す。一瞬たりとも真っ直ぐに飛ぶことはない。こちらの進路を妨害しようと動く敵の裏をかいていく。  先頭の敵機が発砲する。その火線は遠く外れた。続いてもう一機、二機。こちらの進路を塞ぐように次々と発砲してくる。しかし一瞬早くソニアが旋回しているため、大半は見当違いの方向への射撃になっていた。  ソニアは常に、敵の先手を取っていた。まるで、未来が見えているようだ。  一度だけ、機銃弾がソニアの主翼をかすめていった。シェルシィは息を呑んだが、それは致命的な二○ミリ砲ではなく、威力の低い一二ミリ砲だったのだろう。わずかにジュラルミンの破片が飛び散っただけで火は出ていない。飛行に支障はなさそうだ。  三機、四機。次々と襲いかかる敵機を嘲笑うようにかわし、あるいは撃墜していく。まるで、一流のバレリーナの舞踊のように華麗な動きだった。  後をついていくうちに、シェルシィにもだんだんわかってきた。敵が次にどう動くのか。それをかわすためにソニアがどんな機動を行うのか。  今までにない一体感を感じる。これまでは、ただソニアについていっていただけだ。しかし今は違う。ソニアが見ている道が、シェルシィにも見えていた。一二機の敵の中を複雑に縫って目標に向かう、一本の曲がりくねった道が。 「これが……隊長が見ていた光景?」  敵機の未来の進路まで、手に取るようにわかる。一見して突破は不可能に思える敵編隊の中に、一筋の道が浮かび上がっている。  三次元空間の中での、時間軸まで含めた完璧な空間認識。周囲の敵機がどの位置にいるのかを認識し、次の瞬間にどんな機動を行うのかを正確に予測する能力。  これこそが、ソニアを最高のエースたらしめた才能だった。空中戦においては、単なる操縦技術の優劣よりも重要な要素だ。  人間は、地上を歩く猿から進化した。空を飛ぶ能力を手に入れたのはつい最近のことだ。そのため、普通の人間には三次元の空間認識能力が欠けているのだという。彼我の位置や動きというものを、平面的に考えてしまうのだ。その点が、飛ぶ能力とともに何百万年もの進化を遂げてきた鳥やコウモリとの決定的な違いだった。  科学の力で飛ぶ力は手に入れても、人間の脳は空を自由に飛び回るようにはできていない。しかしごく希に、完璧な空間認識能力を持つ人間が存在する。それは生まれながらにしてのパイロット、人間の姿をした鳥だ。ソニアはまさしく、大空を支配する猛禽そのものだった。 『よし、今だ。やれ!』  突然、ソニアが高度を下げる。視界が開けると、目の前にはペリュトンの姿があった。ちょうどロケット弾の射程ぴったりの距離だ。  自分に迫ってきているであろう護衛戦闘機の存在は無視して、慎重に照準を合わせる。敵機はなんとか逃れようと旋回しているが、もう遅い。  発射。  小さな振動に続いて、二本のロケット弾が矢のように飛び出していく。夕陽を浴びて朱く染まった白煙が、その進路を教えてくれる。  訓練でもなかなかできないような、完璧な射撃だった。これも、ソニアが絶好の射撃位置まで先導してくれたおかげだ。シェルシィはソニアを信頼しきっていたから、射撃だけに専念することができた。  旋回する敵機の進路上に、ロケット弾が向かっていく。間違いない、必中コースだ。  あと三秒、二秒……。  しかし次の瞬間、シェルシィは信じられない光景を見た。  灰色の影が視界をかすめるのと同時に、ペリュトンのはるか手前で大きな火の玉が生まれたのだ。  ロケット弾が、敵の戦闘機を直撃していた。偶然の事故ではない。意図的な動きだった。爆撃機を護るために、護衛戦闘機がロケット弾に対する盾となったのだ。  シェルシィはそれで確信を深めた。こうまでして護らなければならない目の前のペリュトンは、間違いなく新型爆弾を搭載した機だ。  間一髪で危機を脱したペリュトンが、さらに高度を上げていく。 「隊長、やっぱりこいつが目標です。機関砲で左右から挟撃しましょう!」  興奮して叫ぶ。言うまでもなく、ソニアはわかっていることだろう。もう、二次攻撃の態勢を整えているはずだ。  そう思っていた。しかし応答がない。  訝んで周囲を見回す。ソニアの姿がない。慌てて、大きなSの字を描くように旋回した。機体を傾けて下を見る。  そして、短い悲鳴を上げた。  煙を引いて墜ちていく戦闘機の姿。  一つ、二つ、三つ、四つ。  一機は、たった今シェルシィのロケット弾に体当たりしたガーゴイル。その下に三つの機影。  二機のシルエットはワイバーンのもの。そして残る一機は、紛れもなく竜姫だった。 「隊長っ!」  ソニアの身になにが起こったのか、考えるまでもない。ロケット弾の照準に全神経を集中していたシェルシィを護るために、敵機と相撃ちになったに違いない。 「隊長っ! 応答してください!」  返事はない。考えたくはないが、どうしても最悪の事態を想像してしまう。  目の前が真っ暗になる。  頭の中が真っ白になる。  どうしたらいいのだろう。これから、どうしたらいいのだろう。  ソニアを追うべきか?  そんなことをしても意味はない。ソニアの意識が戻らない限り、外部から救う術はない。  理性ではわかっている。今、何をしなければならないのか。  ソニアを無視し、一人で敵爆撃機を追ってとどめを刺さなければならない。それこそが、シェルシィが今ここにいる理由なのだから。  わかっている。頭ではわかっている。  しかし、身体は凍りついたように動かなかった。  どうすればいい。一人でなにができる?  いつも、ソニアが一緒だった。  いつでもソニアが傍にいて、シェルシィを導き、護ってくれていた。だから安心して飛ぶことができた。  今は一人きりだ。この戦争の行方を左右するような重大な局面に、たった一人で取り残されてしまった。  シェルシィは動けないまま、ただ惰性で水平飛行を続けていた。やらなければならないことはわかっていても、身体が動かない。こんなの、新米パイロットには荷がかちすぎる。  残った敵戦闘機が、こちらに旋回してくる。  それでも動けなかった。  どうすればいい? いったいどうすればいい?  その言葉だけが、頭の中で反響している。  このままでは敵の射程に入ってしまう。回避しなければならない。だけど、身体は動かない。 『シェルちゃんっ!』  突然、甲高い声が無線機に飛び込んできた。同時に、今まさにシェルシィを撃墜しようとしていた敵機が四散する。  明るい灰色の影が視界に入ってくる。 『シェルちゃん、なにをぼんやりしているの! 敵を追撃なさい!』 「……副長?」  間違いない、サラーナの声だ。思考を停止していた頭が、少しずつ動きはじめる。  何故、サラーナがここにいるのだろう。彼女の機は、狼王との戦闘で大破したはずではないか。  通り過ぎた竜姫を目で追った。機体ナンバーは907‐11、機首下に被弾した痕。エシールの機だ。怪我を負ったエシールに代わって、サラーナが乗っているのだ。 「副長……た、隊長が、隊長が……」 『知ってる。だから、あなたが目標を追いなさい』  泣きそうなシェルシィとは対照的な、凛とした声。シェルシィは大きく頭を振った。 「できません、あたしにはできません! 副長がやってください」 『この機は三二ミリ砲が故障しているの。シェルちゃんがやりなさい。あなたにしかできないのよ』 「……!」  言われて気がついた。機首下の弾痕、あれは三二ミリ砲の機関部の位置だ。 『行きなさい。これは命令よ』  強い口調でサラーナは言った。 『もし、あなたがソニアの犠牲を無駄にするというのなら、私は絶対に許さない』  普段のサラーナからは考えられない、強く、鋭い口調だった。  考えてみれば当然のことだ。ソニアとサラーナは、開戦直後からずっと共に戦ってきた戦友だ。ソニアが戦死したとしたら、サラーナの悲しみはシェルシィの比ではあるまい。  それでも、悲しい素振りなど見せていない。隊長不在の際に飛行隊を率いる者として、厳しい口調で指揮を続けている。 「……はい」  シェルシィは、操縦桿をしっかりと握り直した。スロットルレバーをいっぱいに押し込む。  愛機が加速を始める。身体がシートに押しつけられる。  進路を塞ごうとする敵機を、サラーナが撃ち墜とす。飛び散る破片の中を突っ切って、シェルシィは高度を上げていった。  追撃をかわすためか、それとも新型爆弾で自身が被害を受けるのを避けるためか、ペリュトンはかなり高度を上げていた。一五○○○メートル近くに達しているだろう。さすがにエンジンを換装した改良型だけのことはある。速度だけではなく、上昇性能も量産型のペリュトンとは別物だ。  それでもシェルシィは追う。  一四五○○メートル。  竜姫の実用上昇限度に達する。しかし目標はさらに上空にいる。シェルシィも昇り続ける。実用上昇限度はあくまで設計値であり、本当の限界を意味しない。  もう、敵戦闘機は追って来ることができない。ガーゴイルもワイバーンも、この高度まで到達することは不可能だ。  一五○○○メートル。  まだ目標に追いつけない。  これ以上の上昇は無理かもしれない、そんな気になる。ソニアは試験飛行で一七○○○メートルまで上がったことがあると言っていたが、それは武装を搭載せず、塗装すら削ぎ落としたマキシマム・スリック状態での成績だ。実戦装備の性能限界は、常にそれより低くなる。  一五五○○メートル。  空気が薄い。地上の十分の一に満たない希薄な大気を、二基のコンプレッサーが必死に圧縮している。しかしエンジン出力が上がらない。  新型ペリュトンの過給器の性能には驚かされる。優れた上昇速度を誇る竜姫も、この高度では目標の上に位置することができずにいた。  一六○○○メートル。  もう時間がない。間もなくカランティ市の上空に出てしまう。重爆撃機に対しては上からの攻撃が基本だが、一か八か、下から攻撃するべきだろうか。  いや、それはできない。斜め銃を搭載した夜間戦闘機ならともかく、ロケット弾が尽きた竜姫が重爆を一撃で仕留めようと思ったら、やはり上方から攻撃しなければならない。  時間がないからこそ、確実に一撃で仕留めなければならなかった。これほどの高空で発砲すれば、反動で失速してしまう。一度高度を失えば、敵が爆弾を投下する前に再攻撃を仕掛けることは不可能だ。  一六五○○メートル。  もうひと息で敵を射程に捉えられるのに、そのわずかな距離がなかなか縮まらない。まるで、カタツムリが這うような速度で飛んでいるように感じる。  もっと、もっと高く。  シェルシィは念じる。  もっと、誰よりも高く、世界中の誰よりも。  その強い想いが、竜姫の機体を少しでも持ち上げてくれると信じているかのように。  もう、周囲には誰もいない。  有史以来、誰もこんな高度で戦ったことはないだろう。人間も、鳥も、到達できない高度。自分と敵機の他に、なにも存在しない。  限りなく純粋な世界だった。こんな時でなければ、その美しさに見とれただろう。  しかし今、ここは戦場だった。  一六六五○メートル。  もう限界だった。しかしシェルシィは、ついに目標を射程に捉えていた。  躊躇せずに仕掛けなければならない。カランティ市はすぐそこだ。  機関砲の射撃モードを選択。六門一斉発射。反動が大きすぎて普段は使うことがないが、今はこれしかない。  この高度では、たとえ一六ミリ砲の反動でも間違いなく失速する。チャンスは一度きり。そのわずかな時間に、最大の火力をぶつけなければならない。  徐々に、距離が詰まっていく。  敵機の後部銃座が動き出す。朱色の火線が向かってくる。それでも構わずに全速で接近する。  敵影を照準器の中心に捉える。トリガーに置いた指に力を込める。  そこで、一瞬だけ躊躇った。  あの機には、おそらく一○名前後の乗員がいる。その命をこの手で奪おうとしている。  鮮血に染まった雪原の記憶が蘇り、指が震えた。涙が滲んでくる。  それでも。  それでも、やらなければならない。  今、シェルシィの手には、何十万というカランティ市民の命が懸かっていた。カランティを護ることができるのは、自分だけなのだ。  逃げることはできない。誰も代わってはくれない。シェルシィがやらなければならない。自分の意志で。自分の責任で。 「憎くて殺すんじゃない。だけど、あたしはカランティを護らなきゃならない。……あなたたちの命を奪ったことは一生忘れない。だから……」  対空機銃から撃ち出された曳光弾が機体をかすめていく。構わずにまっすぐ距離を詰める。ペリュトンの巨体が照準器の中いっぱいに広がる。 「だから……ごめんなさい」  シェルシィは泣きながら、機関砲のトリガーを引いた。 終章 未来の空へ  小さな女の子が、空を見上げている。  晴れていても冬の訪れを感じさせる、冷たい水色の空を。  南へ向かう渡り鳥の最後の群れが、北風に乗って羽ばたいている。カランティの街を歩く人々も、厚いコートに身を包んでいる。 「ねえ、シェルお姉ちゃん!」  子供らしい唐突な動きで、女の子がこちらを振り返った。母親似の朱い髪が揺れる。 「あたしも空をとびたいな。ねえ、シェルお姉ちゃんのひこうきにのせてよ」  どことなく挑発的で、強い光を放つ瞳。これも母親譲りだ。 「……いいわよ」  渡り鳥の群れをぼんやりと見ていたシェルシィは、少し遅れてうなずいた。 「でも、どうしてママに頼まないの? あたしよりもママの方が、飛行機の操縦はずっと上手よ」 「だってママ、いつたいいんするかわかんないもん。昨日もりはびりをさぼって、おいしゃさまにおこられてたんだよ」  思わず苦笑してしまう。ソニアらしいといえばらしい話だ。  リハビリを怠けるだけではない。先日は病室に大量のワインを持ち込んでいたのが見つかって怒られていた。もっとも、ソニアに命令されてそのワインを調達したのはシェルシィなのだが。  どんな状況でも、ソニアはやっぱりソニアだった。そんなソニアがたまらなく好きだった。 「じゃあ、急いで病院に行こう。ママがリハビリをさぼらないように見張ってなくちゃ」 「うん!」  差し出した手に、女の子がぶらさがるようにしがみついてくる。二人は並んで歩き出した。 「もうちょっと大きくなったら、飛行機の操縦を教えてあげようか? 自分で操縦して飛ぶ方が、ずっと楽しいよ」 「ホントに? ぜったい、やくそくだよ!」  しがみつく手に力が込められる。空いている方の手で、その頭を撫でてやる。ソニアがシェルシィにするように、髪をくしゃくしゃにする乱暴な撫で方で。母親の癖だからだろう、この子はそれがお気に入りだった。  歩き出してすぐに、シェルシィはふと背後を振り返った。  先刻の小鳥の群れが遠ざかっていく。そこへ灰色の矢が上から襲いかかり、群れが散らばる。  隼だ。  乱れた群れは、すぐにまた集まって南を目指していく。一羽減っていることなど誰も気づきはしない。獲物を得た隼も、ゆっくりと引き上げていく。  そう。  空は決して平和な場所ではない。遠い昔から、最初に空を飛ぶ生命が生まれた瞬間から、空には戦いがあった。人間が空に戦いを持ち込んだなんて、自惚れでしかない。  それでも。  それでもやっぱり、願わずにはいられなかった。  この子が飛べるようになる頃には、大空が、もう少しだけ平和な場所になっていますように―― あとがき 『一番街の魔法屋』が『光の王国』の人物と物語を受け継ぐ作品だとしたら、本作『竜姫の翼』はその精神を受け継ぐ作品といえるでしょう。  久々に(?)真っ向から、戦うこと、人が人を殺すこと、を描いた作品になりました。  キタハラ初の近代戦争物ということで戸惑った読者もいるかもしれませんが、書いてる本人は、ジャンルの違いによる違和感はありませんでしたね。  読者の多くはキタハラ作品といえば、百合ファンタジーとか、学園百合とかが思い浮かぶでしょうけど、私は本来こーゆージャンルも好きなんですよ。『ふれ・ちせ』開設以前に、初めて書いたまともな(?)小説は、近未来が舞台の仮想戦記物でしたから。    ところでこの作品、もともとはパロディとして考えたネタでした。  何年か前に、当時の掲示板で「空軍もので『猫耳戦車隊』のパロディをやりたい」などと書いたことがあるのを憶えている方はいるでしょうか? ところがプロットを練っていくと、思っていた以上に面白くなりそうだったので、単なるお遊びの短編パロディで終わらせるのはもったいないと思い、オリジナルの長編にしてみたというわけ。それを踏まえて読むと、シェルシィ=栞里、ソニア=ミントという類似性が見えてくるかと思います。  だけど『竜姫の翼』は、単なる思いつきの猫耳パロディというわけではありません。  この作品を書くことになったそもそものきっかけは、初出が二十年以上前のとある短編マンガにあります。その作品に出てくる、日本人の女の子が操縦するMe262(のコピー機)がめちゃくちゃ格好よくて、その時、幼い(?)私の心に「初期のジェット戦闘機+女の子のパイロット+山岳地での空戦」が擦りこまれたのです。  ……ということですっごく久しぶりのあとがきクイズ。 【問題】  前述の「とある短編マンガ」のタイトルと作者は?  正解者の中から抽選で一名に、甘口のドイツワイン(もちろんリースリング種)をプレゼント!  ……ま、予算が限られているので、それほど高いものではありませんが(苦笑)。  読者の声の投稿フォームに、メールアドレスとクイズの答え、作品の感想をご記入の上ご応募ください。締切りは二○○四年十月三一日とします。  当選者は『ふれ・ちせ』で発表の上、ご本人にメールで連絡して景品の送り先を確認します。なお、景品の都合上、二十歳未満の方の応募はご遠慮ください。  ……しかしこのクイズ、正解者は出るんでしょうか?  自分で出題しておいてなんですが、かなり難易度は高そうです。試しに主要なキーワードでググってみましたが、作品名、作者名、あるいは収録単行本名がわかっていなければ正解にたどり着けませんでした。  ということで、正解者ナシではつまらないので、ヒントを出しましょう。  ヒント「正解は『ジェットストリームミッション』ではありません」  これで、ちょっと調べれば正解にたどり着けると思いますので、多数のご応募をお待ちしています。  続いて、ちょこっと設定の話を。  この作品、懐かしい人名や地名が並んでいますが、『光』や『一番街』の直接の未来の話ではありません。 『よく似た、だけどちょっと違うパラレルワールドの話』  とご理解ください。  ヒロインは『一番街』同様、リースリング家のお嬢様です。アイサール王家に次ぐ権勢を持ち「肉弾戦最強で女たらし」なマツミヤ家の娘よりも、「ほどほどに名家で、小柄で華奢で生意気」なリースリング家の娘の方が、キャラとして扱いやすいということで。  だけど『一番街』同様、この世界にもマツミヤ家は存在します。マツミヤ家の娘は、(竜姫も一番街も)本編第二話で登場する予定です。  で、『竜姫の翼』シリーズは、今の構想では、本編三話+外編二〜三話になります。そして気になる次回は本編第二話ではなく外編1。  外編ということで、空軍じゃなくて海軍の話です。  赤毛の美人艦長が指揮する最新鋭駆逐艦の、極海での戦い……って、そこ、「どこかで読んだような話」とか言わない。あ、それでもヒロインはシェルシィですよ、一応……というか、多分。  それではまた、次回作でお会いしましょう。  ……と、最後にひとつ重要なお知らせ。  ふれ・ちせのサーバ移転にともない、アドレスが変わります。   http://hure-chise.atnifty.com/  にリンクしている場合はそのままでOKですが、   http://www.sx.sakura.ne.jp/~mosir/chiron/   http://sx.sakura.ne.jp/~mosir/chiron/   http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/  にリンクしている方はご注意下さい。  新しいアドレスは   http://hure-chise.atnifty.com/  が公式です。バナーへの直リンクは   http://kitsune.sakura.ne.jp/HureChise/hurebnr02.gif  または   http://lily.x0.com/HureChise/hurebnr02.gif  です。よろしくお願いします。 二○○四年七月 北原樹恒 kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://hure-chise.atnifty.com/