序章 iramkarapte  後になって思えば、あまり美しい出会いではなかったかもしれない。  なにしろ私はその時、トイレットペーパーを買いに行くところだったのだ。  六月のある土曜日の午後。  急な引っ越しだった。  父の転勤で、中学三年まで暮らしてきた仙台から東京に引っ越したのが、三月の末のこと。まだ三ヶ月と経っていない。  なのに今は札幌にいるのだから、慌ただしいことこの上ない。  父が勤める会社の札幌支店で急な欠員が出て、その穴を埋められるのが他にいないと白羽の矢が立ったらしい。転勤したばかりで、まだ東京では引き継ぎ困難な仕事を抱えていなかったのは、会社にとっては幸運だった。私たち家族にとっては微妙なところだけれど。  普通なら、単身赴任とするところだろう。一人娘の私は、この春高校に進学したばかりの大事な時期だ。  最初は、そのつもりだったらしい。ところが、父が住むアパートを探しに札幌へ行った両親が、いきなり家を買って帰ってきて私を驚かせた。  すごくいい街で、一目で気に入ったから――と。  いったい、何を考えているのだろう。  家なんて、安くても数千万円の買い物だろう。それを衝動買いだなんて。  うちはあくまでも中流家庭、ひいき目に見ても中のやや上というところで、どう考えても経済力に相応しくない。  父と母、どちらが言い出したことなのかはわからないが、今では二人ともすっかり乗り気のようだ。あるいは似たもの夫婦なのかもしれない。  こんな、思いつきだけで生きてるような両親の血が流れているのかと思うと、自分の将来が不安になってしまう。  とはいえ、一戸建てのマイホームというのは、確かに魅力的な言葉ではある。あのまま東京都内に住んでいたら、庶民にはそうそう買えるものではなかっただろう。ましてや、父の通勤に片道四十分弱などという条件ではなおさらだ。  二人とも、山に囲まれた緑の多いこの新興住宅地をいたく気に入ったらしい。急な転勤を受け入れる代わりに、当分は北海道から異動させないという条件を会社に呑ませて、たまたま目に留まった手頃な建て売り住宅を契約してしまったのだという。  こんな勝手な話、多感な年頃の一人娘としては反対してもいいところだった。私に一言の相談もなく、知らされた時にはすべてが決められた後だったのだから。  当然、反発を覚えた。  強引に、一人ででも東京に残ると言い張ろうかと思ったほどだ。そのくらいのわがままを言うくらいの権利はあるはずだ。  しかし、その新しい家と街と、近くにある高校の写真を見せられて、ぐらりと心が動いてしまった。  仙台にいた頃もマンション住まいだったので、庭つき一戸建てというのはやっぱり憧れてしまう。  庭に花壇を作って、花やハーブを植えよう。  自然が多いところだというから、バードテーブルを置くのもいいかもしれない。北海道にはどんな鳥がいるのだろう。  そんなことを考えると、心が躍ってしまう。  正直なところ、強く反対する理由はなかった。親友との涙の別れは、仙台を発つ時、中学卒業の時に済ませているのだ。東京ではまだ、どうしても別れたくないというほどの友達はいない。そして仙台からの距離なら、東京も札幌もそれほど大きな違いはないだろう。  そうした事情で、私はこの街にやってきた。  奏珠別(そうしゅべつ)――どこか不思議で美しい響きを持つ名の、この街へ。 * * *  新しい家。  新しい畳や木材の匂いを楽しみながら部屋を片付けていた時、人としてごく当たり前の生理的欲求に襲われた。  しかし、トイレットペーパーが見当たらなかった。軽い割にかさばり、しかもどこでも買えるものだから、荷物を減らすために持ってこなかったのかもしれない。  段ボールの山をひとつひとつ調べることを考えたら、買いに行った方が早そうだ。どうせ、この先もずっと必要となる物である。母にこの周辺の地図のコピーを渡され、ついでにいくつかの買い物を頼まれる。  家を出た私は、初めての街を地図を頼りに歩きはじめた。  どうやら、家の近くに公園があって、その向こうに比較的大きなスーパーがあるらしい。  公園といっても、小さな児童公園ではない。少なく見積もっても学校のグラウンドの数倍くらいの広さはありそうだ。  たくさんの樹々が植えられているので、足を踏み入れると森の中にいるような気がした。ここらがまだ新しい住宅地であることと樹木の大きさを考えれば、「植えられている」のではなく、「以前からここに生えていたものを残してある」可能性が高い。  公園の中はきちんと手入れはされているが、無粋なコンクリートやアスファルトはほとんど目に留まらなかった。歩道の舗装は石か木で、小川が流れていて小さな池もあり、まるで森の中の散策路といった雰囲気だ。  気持ちいい。  森の香りを胸一杯に吸い込む。  排気ガスの匂いなんてしない、自然な空気だ。  天気のいい休日は、ここでお弁当を食べたら楽しいかもしれない――そんなことを考えながら歩いている時に、その人を見つけた。  公園の中でもひときわ大きな樹の根元に、一人の女の子が寄りかかるように座っている。  高校生か大学生。私と同世代か、あるいは少し年上だろうか。  瞼を閉じて、静かにたたずんでいる。  綺麗な人だった。  今どき珍しい、漆黒の長い髪。  白い肌。  どことなく日本人ぽくない彫りの深い顔に、濃い眉。  流行の顔ではないかもしれないが、逆に、流行に左右されずにいつの時代でも美人で通用するような美しさがある。  そんな美人が木の根元に寄りかかって瞼を閉じている姿は、まるで一枚の絵のようだ。そこだけ、時間の流れが止まっているようにすら見えた。  いつの間にか、私は立ち止まっていた。思わず見とれていたらしい。  近くの梢から飛び立った鳥の羽音で我に返ると、徐々に切羽詰まってくる生理的欲求を思い出して、小走りにその場を立ち去った。 * * *  帰りは、急ぐ必要はなかった。  なにも家に帰るまで我慢する必要はない。スーパーのお手洗いで用を足して、トイレットペーパーと、母に頼まれたこまごまとした品と、お菓子と飲み物を買って帰る。  手にビニール袋を提げて来た道を戻る途中、あの樹のところで自然と足が止まった。  しかし、そこには誰もいない。  何故だろう、少しがっかりした。その不思議な感情に思わず苦笑して、また歩き出そうとしたその時。 「ねえ、そこのあなた」  不意に、背後から声をかけられた。傍に人がいるなんて思っていなかったから、びっくりした。  それが自分に向けられた言葉かどうかもわからないまま、反射的に振り返ってしまう。  今の今まで、そんなところに人がいるとは気づかなかった。けれど、数メートルほど後ろに立っていたのは紛れもなくあの人だった。  静かな笑みを浮かべている。すごく大人びているような、それでいてどこか無垢な子供のような、不思議な笑顔だ。 「あなた、この街に越してきたばかりなのね?」 「え?」  突然の言葉に、飛び上がるほど驚いた。 「ど、どうして……」  どうしてわかるのだろう。  この人とは、間違いなく初対面だ。こんな美人、前に一度でも会っていたら忘れるはずがない。  そもそもここは、生まれて初めて訪れる土地。顔見知りに会う可能性もない。 「見ればわかるわ」  その人は言った。 「私はよくここにいるけど、あなたを見たことはない。それに、物珍しそうにきょろきょろしながら歩いている。この辺りに不慣れな証拠ね」 「それは……そう、ですけど」 「だけど着ているものはよそ行きではなく、汚れても構わないような普段着。つまり遠くから遊びに来たのではなく、近所に住んでいるはず」  一本ずつ指を折りながら、理路整然と説明していく。私は言葉の内容よりも、むしろ声の美しさに気を取られていた。 「そして、買物袋の中身。トイレットペーパー、ゴミ袋、荷造り紐、ガムテープ、ハンドソープに台所用洗剤、紙コップにジュースにお菓子……引っ越しの荷物を整理している時に、必要になりそうなものばかりね」  お見事。感心するしかない。  じっくりと観察していたわけでもないだろうに、ちらりと見ただけでよくも買物の内容まで見抜いたものだ。 「……あなた、推理小説マニア?」  思わず、そう訊ねてしまう。 「なに、簡単な推理だよ、ワトソンくん」  芝居がかった口調で言って、くすくすと笑う。すごい美人なのに、そんな表情はむしろ「可愛らしい」という表現が似合った。なんだか不思議な人だ。 「じゃあ、これ。引っ越しのお祝い」  彼女は、手にふたつの缶を持っていた。そのうちのひとつ、カフェ・オ・レの缶を差し出してくる。見ると、彼女の背後には自動販売機がある。 「喉、乾いているでしょう?」 「それは、まあ……」  確かに、喉は渇いている。  引っ越しの荷物を整理していて、今は荷物を抱えて歩いていて、ついでに言えば体内の水分をいくらか排出した直後でもある。 「ひと休みしていったら?」  私の返答を待たずに缶を押しつけると、彼女は先刻の樹の根元に腰を下ろした。そして、もう一方の手に持っていた缶を開ける。見覚えのある黒い缶は、無糖のブラックコーヒーだ。  そのまま立ち去るわけにもいかないので、私も少し距離を空けて腰を下ろし、荷物を置いた。  さて。  どう対応すればいいものだろう。  この人はいったい、どういうつもりなのだろう。  見ず知らずの相手にいきなり声をかけて、飲み物をご馳走してくれて。  その意図が読めない。  この人が男の子であれば、ナンパの一種と思わなくもない。だけど彼女は間違いなく、ロン毛の男の子ではなく綺麗な女の子だ。  もちろん、世の中には同性が好きという人もいる。だけどそれはあくまでも少数派、引っ越してきたばかりの街でいきなり出会う確率は宝くじ以下だろう。  そもそも私は、同性にもてるタイプではない。いや、どういうタイプがもてるのかもよくわからないけれど、少なくとも十六年弱の私の人生で、特に同性にもてた記憶はない。ついでに言えば、異性にもさほどもてた経験はないのだけれど。  本当に、どういうつもりなのだろう。  多少、警戒心が働く。  だけど相手は綺麗な女性だし、缶は細工をした様子もない。恐る恐る一口飲んでみるが、普段からよく飲んでいるお気に入りのアイス・カフェ・オ・レに間違いない。 「あの……」  三分の一くらいを喉に流し込んだところで、はっきりと意図を訊ねてみようと思った。  しかし口から出かけた言葉は、車のクラクションと甲高いブレーキの音、そして激しい衝突音でかき消されてしまった。  びっくりして顔を上げる。  公園の前の交差点で、乗用車と小型トラックが衝突していた。白煙か水蒸気かはわからないが、もうもうと立ち昇って視界の一部を遮っている。 「交通事故ね」  慌てて立ち上がった私の後ろで、彼女は驚いた様子もなく、淡々とした口調で見たままの事実を述べた。 「怪我人はいないようね。車はどちらも、エアバッグが付いているみたいだし」 「……そ、そうですね」  車はひどく壊れて、割れたガラスの破片が広く飛び散っている。しかし運転手は二人とも、自力で車から降りて来たようだ。少なくとも、大きな怪我はしていないらしい。 「歩行者が巻き込まれなかったのが、不幸中の幸いだわ」  そんな台詞で、はたと気づいた。  考えてみれば、あの交差点は私の帰り道だ。ここで道草を喰っていなければ、ちょうど今頃、横断歩道を渡っていたのではないだろうか。  もしも、この人が声をかけてくれなければ、事故に巻き込まれていたかもしれない。  運命の悪戯。奇妙な偶然に感謝した。  しかし――  それは決して、偶然などではない――私がそのこと知ったのは、もう少し後のことだった。 一章 rayochi  転校から一週間が過ぎ、新しい環境にもようやく慣れてきた頃の話だ。  その日は母が寝坊してお弁当を作ってくれず、私は転校後初めて、昼休みに学校の購買を利用することになった。  一階の、玄関に近いところにある売店で、サンドイッチとコーヒー牛乳を買った。これから四階の教室まで戻るのも面倒だな……と考えて、いいことを思いついた。  今日は天気もいいし、外で昼食を食べようか。  どうせこれから教室に戻っても、普段一緒にお弁当を食べているクラスメイトたちは、半ば食事を終えている頃だろう。一人で教室で食事をするよりも、外の木陰の方が気持ちいいに決まっている。  この、私立聖陵女学園高等部は、山の麓に建てられている。奏珠別はほんの十数年前まで自然そのままの山林だったところに拓かれた住宅地で、学校があるのはその西端だ。そのため校舎の背後にまで山の斜面が迫って、深い森が広がっている。気持ちのいい木陰には事欠かない。  思いついたら即行動。私はそのまま玄関を出て、校舎を振り返った。  比較的新しい学校なのに、なんとなくレトロな印象を受ける建物だった。レンガ風の外装のためか、外壁に蔦が伸び始めているせいか、どこか中世のお城を思わせる雰囲気が漂っている。  この校舎も、この学校を選んだ理由のひとつだった。  実は、家から一番近いのは、白岩学園という私立の共学校だった。だけど学校案内のパンフレットの写真を見比べた私は、次の瞬間迷わずこちらに決めてしまった。  深い森をバックにした、お城のような校舎。  そしてなにより、制服が素敵だった。  ただ可愛いだけではない。リボンのついた純白のブラウスと、漆黒の上着と長めのスカートの組み合わせは上品で、まるで古き良き時代のヨーロッパを思わせる貴族的なデザインだ。なんだか自分が上流階級のお嬢様にでもなったみたいで、思わず「ごきげんよう」なんて挨拶をしてしまいそうになる。実際には、通っているのはごく普通の現代日本の女子高生なのだけれど。  とにかくこの学校は、味気ない鉄筋コンクリートの校舎とありきたりなブレザーの制服の白岩学園よりも、第一印象としてはずっと素敵だった。  女子校ということは、特に問題とは思わなかった。東京で二ヶ月だけ通った高校もそうだったし、別に、どうしても今すぐ彼氏とかが欲しいというわけではないから、共学にこだわりはない。  そもそも今の時代、他校との合コンとか、友達の紹介とか、ネットの出会い系サイトとか、その気になりさえすれば、女子校にいても男の子と知り合う機会はいくらでもあるのだ。  今のところ、特にその気もなかったけれど。  外に出た私は、裏庭に回った。  大きく枝を広げた樹々が立ち並んでいて、家の近くの公園と雰囲気が似ている。ちょうど、大きな樹の木陰になる位置にベンチが置いてあって、お弁当を食べるにはもってこいだ。  しかし。  そこに、先客がいた。  私がそうしようと思っていたのと同じように、一人でお弁当を食べている。  どうしたものだろう。  ベンチは三〜四人が腰掛けても十分な幅がある。とはいえ、見知らぬ人と同じベンチで食事というのも抵抗がある。  どこか他に適当な場所はないだろうかと考えていると、ベンチに座っていた人が顔を上げてこちらを見た。  目が合ってしまう。  思わず、「あっ」と短い声を上げていた。  見覚えのある顔だった。  一度見たら忘れるはずがない。この、彫りの深い美しい顔。くっきりとした眉。漆黒の長い髪。  あの、引っ越しの日に会った人だ。  向こうも私を憶えているのだろうか。優しく微笑んで手招きする。 「あなたも、これからお昼? よかったら隣にいらっしゃい」  そう言って、お弁当を包んでいたらしいナプキンを、ベンチの上に敷いてくれる。私はもちろん、その言葉に甘えることにした。 「すごい偶然。同じ学校だったんですね。えっと……」  そこでようやく、この人の名前も知らないことに気がついた。襟の級章は二年A組となっている。 「美杜、神原美杜よ」  疑問が顔に出ていたのだろうか。訊ねるより先に自己紹介してくれる。 「……樹本幸恵です」  私も名乗りながら、自分の無礼さを恥じていた。先輩に先に名乗らせるとは、転校してきたばかりの下級生としてなんたる失態。まず自分からきちんと名乗って、それから相手の名を訊ねるべきだったのに。 「ミトさんって、どんな字を書くんですか? 美しい都?」 「惜しい。美しい杜、よ」 「うわぁ、綺麗な名前ですねぇ」  この美しい人にはぴったりの名だと思った。  神原 美杜。  かみはら みと。  美しくて、どこか神々しさを感じさせる響きがある。 「幸恵ちゃんだって、素敵な名前じゃない」 「どこが。ありきたりだし、なんだかちょっと古くさくないですか?」  自分の名前、嫌いっていうほどではないけれど、それほど気に入ってもいない。時々、もっと今風の格好いい名前だったらよかったのにって思うことがある。 「幸せに恵まれる、あるいは、幸せを恵む。素敵な意味を持つ名前じゃない?」  美杜さんは思わず見とれてしまうような笑みで言った。  この美しい人に言われると、聞き慣れた自分の名前が、本当に素敵なものに思えてきた。美人って得だ。 「それに、私が尊敬する人と同じ名前だわ」 「尊敬する人? どなたですか?」 「知里幸惠さんっていうの。だけど、あなたは知らないでしょうね」 「……ごめんなさい、知りません」  知里幸惠……聞いたことはない。そのことをなんだか申し訳なく感じてしまう。 「いいのよ。多分、知らない人の方が多数派でしょうし」 「はあ……」  サンドイッチを包んでいるビニールを破きながら、曖昧に返事をする。ここで知里幸惠という人について説明してくれるものと思っていたのだけれど、美杜さんはそのまま黙ってしまった。  三十秒ほど沈黙が続いて、こっちからなにか言った方がいいのかな、と思い始めた頃。 「そういえば、昔、アイヌの人たちは、子供が生まれてもすぐには名前を付けなかったそうよ」 「へ?」  いきなり話題が変化したので、素っ頓狂な返事をしてしまった。突然だったし、聞き慣れない単語が混じっている。  二、三秒遅れて、それが北海道の先住民族の名だと思い出した。言葉としては知っていても、普段馴染みがないだけに、意味を理解するのにタイムラグが生じてしまう。 「子供に名前を付けないって……じゃあ、どうやって呼ぶんですか? 不便じゃないですか」 「そうね、きっと『おい、そこのクソガキ』って感じじゃないかしら」  冗談めかした口調で言う。  美しい美杜さんの口から発せられた、汚い言葉。そのギャップが可笑しくて、つい笑ってしまう。 「あはは……。そんな、まさか」 「本当の話」  美杜さんは笑みを浮かべているが、ふざけているという雰囲気ではない。 「そうやって汚い言葉で呼ぶことで、疫病などの悪霊が子供に寄りつかないようにしたんですって。悪霊も、汚いものは嫌なのね。そして、子供がある程度成長してそれぞれの個性が出てきたところで、その子に合った名前を付けたの。だから名前は単なる記号ではなく、本当にその人を表していたわけ」 「へぇ……」  博識な人だな、と思った。それとも北海道では、アイヌに関するこうした知識は常識なのだろうか。 「そう考えれば、幸恵ちゃんって素敵な名前じゃない?」 「うーん……でも、この名前は私が生まれる前から決めていたそうですから、本人の個性とは無関係ですよ」 「名前によって、個性が作られていくってこともあるかもよ。日本には言霊って考え方があるでしょう」 「……でもやっぱり、美杜さんの方が素敵ですよ」 「別に、名前の優劣を比べる気はないけれど。でも確かに、自分の名前は好きよ」 「私も、今までよりは少し好きになりました」 「そうね。姓と違って一生変わらないものなんだし、嫌うよりは好きでいる方がいいと思うわ」 「ですね」  名前の話は、そこで終わりになった。私はサンドイッチを口に運ぶことに専念し、美杜さんも、私の出現で中断したお弁当を再開する。  気持ちのいいそよ風が吹いている木陰での昼食は、思った通り楽しかった。  サンドイッチの最後の一切れを、コーヒー牛乳で流し込む。  その時、青い空が目に入った。  雲もほとんどない、よく晴れた空。灰色がかった東京の空とは青さが違う。  澄みきった、美しい青空。本来ならば喜ぶべきものだけれど、今日に限っては少し憂鬱だ。  思わず、ため息が出た。美杜さんが怪訝そうな顔をする。 「どうしたの?」 「いえ、いい天気だなぁ……って」 「それが憂鬱なの? 普通に考えれば、気持ちのいい天気だけど」 「そうですね、でも」  昨日から何度、今日が雨になることを祈っただろう。だけどその願いは届かなかったようだ。  ところどころに小さな雲が浮かんでいる程度のいい天気。雨なんて期待できそうもない。 「今日の午後の体育、晴れだったら外でマラソンなんですよ」  私の顔を見ていた美杜さんは、二、三度瞬きして「なるほど」とうなずいた。 「長距離は苦手?」 「どちらかといえば短距離型です。それに、ただだらだら走るのって退屈じゃないですか」 「ちなみに雨だったら?」 「体育館でバスケ」 「バスケは好きなの?」 「球技はたいてい好きだし、得意ですよ」 「ふぅん」  そんな、なんでもない話を興味深そうに聞いていた美杜さんは、お弁当箱に蓋をして、おもむろに立ち上がった。 「なんとか、してあげましょうか?」 「は?」 「転校してきたばかりの幸恵ちゃんのために、特別サービス」 「なんとかって……どうするの?」  わけがわからず戸惑っている私に構わず、美杜さんはベンチに置いてあった小さなバッグに手を入れた。  取り出したのは、直径数センチほどの、金属製の輪が三つだった。短い鎖でいくつかの鈴が下がっていて、ちりちりと澄んだ音を立てている。  二つはどうやらブレスレットらしい。両方の手首にひとつずつ填める。  右手首には、金色の輪に銀色の鈴。  左手首には、銀色の輪に金色の鈴。  そしてやや大きめのもう一つはアンクレットで、右の足首に填めた。これは金銀を組み合わせたやや幅広の輪に、金と銀の鈴が交互に下がっている。  いったいなにが始まるのだろう。私は呆気にとられて見守っていた。  数メートル離れたところに背筋を伸ばして立った美杜さんが、腕を上げる。  リーン  鈴が鳴る。  腕を振り下ろしながら、脚が地面を蹴る。  一メートルくらい後ろに着地する。その衝撃でいくつもの鈴の音が重なり、美しい和音を奏でる。  そのまま左脚を軸に一回転して、右足をとんと地面に下ろす。  金の鈴が鳴る。  銀の鈴が鳴る。  上体を屈めながら後ろに下がり、また伸び上がって腕を上げる。  腕の鈴が鳴る。  リズミカルな動作が繰り返される。  私が見ている前で、美杜さんはいきなり踊り始めたのだ。  腕を振る。脚を振る。  その度に、透き通った鈴の音が響く。  くるりと一回転する。  スカートが翻り、すらりと長い脚が露わになる。  長い黒髪がふわりと広がる。  また、鈴が鳴る。  踊りのことなんてよくわからないけれど、静かな笑みを浮かべて踊る美杜さんは美しかった。  微かなメロディが耳をくすぐる。歌を口ずさんでいるようだ。  歌詞ははっきりとは聴き取れない。どうも、日本語ではないような気がする。  素朴な、そしてなんとなく懐かしい旋律。どこか外国の民族音楽だろうか。  私の存在など忘れたかのように、美杜さんは踊っている。私はただ呆然と、美杜さんに見とれていた。  実際のところ、それほど長い時間ではなかったのだろう。やがて美杜さんの動きが止まり、最後の鈴の音とともに、大きく深呼吸をした。ベンチに戻ってきて、ブレスレットとアンクレットを外す。 「えっと……あの、素敵な踊りですね」 「ありがとう」  上気して、うっすらと汗ばんだ顔で美杜さんが笑う。 「でも、あの……」  午後の体育のことと、今の踊りと、いったいなんの関連があるのだろう。  私がそのことを訊ねる前に、美杜さんが口を開いた。 「雨が降って欲しいんでしょう?」 「え? ええ……」 「だから、ちょっと雨乞いの踊りを」 「あ……?」  雨乞い?  あまりにも突拍子のない単語に、返す言葉がなかった。二十一世紀の日本に住む女子高生の台詞とは思えない。  からかわれているのだろうか。それともやっぱり、美杜さんってどこか変な人なのだろうか。 「あ、あの、美杜さん……」  危うく、「頭は大丈夫ですか?」なんて失礼な台詞を口にするところだった。一瞬早く、微かな遠雷の音が私の鼓膜を震わせなければ。 「……え?」  遠くからゴロゴロと響いてくる、重い音。間違いなく雷の音だ。  私は空を見上げた。  気のせいか、先刻よりも雲が増えているように見えなくもない。 「え……? まさか」  今朝の朝刊で見た天気予報を思い出す。石狩地方の今日の天候は晴れ、降水確率は十パーセント未満。  空と、美杜さんの顔を交互に見る。  そんな私の様子を、美杜さんは面白そうに見ている。  見上げるたびに、空には雲が広がっていた。  もう、間違いない。  昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴って校舎に戻る時、雨の最初の一粒が私の頬に当たった。 * * *  予定通り、体育はバスケになった。  どちらかといえば小柄な私だけど、ドリブルの速さとランニングシュートの正確さには自信がある。  試合で得点王になって、チームメイトの賞賛の声にいい気になっていたけれど、授業が終わって下校する時になって、困ったことに気がついた。  傘を持ってきていない。  当然だ。降水確率十パーセント未満でわざわざ傘を用意する物好きはいない。  雨は、一時よりはやや小降りになったようだが、まだ傘なしで外を歩けるほどではなかった。 「……幸恵ちゃん?」  玄関で立ち往生していると、背後から声をかけられた。もう、振り返って確認するまでもない。美杜さんだ。 「傘、持っていないの?」 「普通、持ってきませんよ」  しかし美杜さんは、ちゃんと傘を持っていた。折り畳みではない、大きな長い傘。生地は深いグリーン、森の色だ。  ひょっとして美杜さんは、今日、雨が降ることを知っていたのではないだろうか。地元の人間だから、ちょっとした予兆から天気予報ではわからない局地的な気象の変化を知ることができたのかもしれない。  午後から雨になることを知っていて、雨乞いだなんて言って私をからかった……その可能性が高そうだ。 「入っていく?」 「わ、いいんですか?」 「いいわよ。近所なんだし」 「じゃあ、お言葉に甘えて……」  喜んでその申し出を受け入れようとして、しかし、ひとつ困ったことに気がついた。  ここで立ち往生しているのは、私ひとりではない。  今日は、傘など持ってきていない者が大多数だった。数少ない例外は、鞄の奥に折り畳み傘を常備している用意のいい人か、たまたま学校に傘を置いてあった人くらいだ。  もちろん信じていたわけではないけれど、この雨が美杜さんの『雨乞い』の結果なのだとしたら、私のわがままで大勢に迷惑をかけたことになる。 「あの……美杜さん?」  玄関を出かけたところで、私は立ち止まった。 「はい?」 「この雨って……あの、昼休みの雨乞いの成果なんですか?」 「そうかもしれないわね」  美杜さんは何故か、とぼけるような口調で応えた。 「逆に、雨を止ませることもできるんですか?」 「そうね。できるかもしれないわね」 「じゃあ、お願いしますよ。私が頼んで雨になったのに、一人でのうのうと傘に入って帰れません」 「……確かに、ね」  美杜さんもうなずいて首を巡らす。  恨めしそうに空を見上げている者。携帯電話で家に連絡している者。諦めて鞄を頭に乗せて走り出す者。  自分の責任なのに、その中を傘に入って堂々と帰れるほど、図太い神経はしていない。 「屋上へ行きましょう。ここでは目立ちすぎるわ」  私の手を引いて、美杜さんは回れ右をした。  放課後の屋上。  天気が天気だから、もちろん人の姿はない。  美杜さんは昼休みと同じように、ふたつのブレスレットとひとつのアンクレットを着けて、雨の下で踊っている。  雨音を伴奏に、鈴の音が響く。  身体が一回転した時、下着が見えそうなほどにスカートが翻って、思わず赤面してしまった。美杜さんの脚って長くて綺麗だなぁ……なんて、つい見とれてしまう。  正直なところ、まだ信じていたわけではない。  雨を自由に降らせたり止ませたりできるだなんて。  こんなの、たまたま偶然に決まっている。  私の常識からすれば、そうだ。  だけど美杜さんは、それが当たり前のように踊っている。  そして、踊りを終えた美杜さんが私の傍に戻ってきた時には、雨は目に見えて小降りになり、空を覆っていた雲には切れ間が生じていた。 「……す、ごい……ホントに、止んじゃった」  信じられない。  だけど、現実だ。  黒い雲の隙間から、金色の光が射し込んでくる。天使の通り道、とかいっただろうか。  それが、どんどん広がっていく。 「み、美杜さんって……超能力者?」 「単なる偶然かもしれないわよ?」  制服や髪の水滴をハンカチで拭いながら、美杜さんが笑う。 「そんなこと、あるわけないじゃないですか!」  雨が降ったことだけなら、偶然かもしれない。むしろ、その可能性の方が高い。だけど、こんな偶然が二度も続くはずがない。  私は確信していた。雨が降ったのも、止んだのも、美杜さんがやったことなのだと。  超能力。霊能力。具体的になんなのかはわからないが、美杜さんはきっと、そうした不思議な力を持っているのだ。 「だとしたら、幸恵ちゃんがどんなお礼をしてくれるのかが楽しみね」 「え?」  突然の言葉に、戸惑いの声を上げる。  しかし考えてみれば、雨を降らせたのも止ませたのも、私の願いだった。美杜さんは傘を持っているのに、私の願いを聞いて雨の中で踊ってくれたのだ。髪も制服も、ずぶ濡れとまではいかないまでも、それなりに湿っている。  依頼主としては当然、その労力に対してお礼をしなければならないのではないだろうか。  そこで、困ってしまった。  雨乞いに対する報酬なんて、いったいどのくらいが相場なのだろう。そんなの、わかるわけがない。  かといって、美杜さん本人に訊くのも躊躇われた。それでとんでもなく高いことを言われたら、困ってしまう。  今日、財布の中身は少々寂しいのだ。小遣い日の直前だし、引っ越したばかりでまだアルバイトも見つけていない。  そしてなにより、この神秘的な力に対する報酬が現金というのは、あまりにも俗っぽくていただけない。美杜さんだって、そんなものを望んでいるのではないような気がする。  そうだ、例えば。  先日、家の近くでケーキとパイの美味しい喫茶店を見つけた。あそこのケーキセットをご馳走するというのはどうだろう。内容的にも金額的にも、女子高生には相応しいのではないだろうか。  しかし、それにも先立つものが必要だ。ケーキセットの価格と財布の中身を思い出すと、気分が重くなってしまう。  もっと、他になにかないだろうか。懐を痛めずに、それでもちゃんと感謝の意を表す方法が。  不意に、いいことを思いついた。  思いつくと同時に、行動に移してしまっていた。  美杜さんに近づいて、軽く背伸びをする。  そして、唇を重ねる。  一秒ちょっと、そうしていて。  唇を離して、一歩下がった。  目を丸くしている美杜さんの顔が目に入る。こんな表情を見るのは初めてだった。 「ぴちぴちの女子高生のファーストキスです。これじゃお礼にはなりませんか?」  言いながら、急に自信がなくなってきた。  実はそれほどいい思いつきではなかったような気がしてくる。  いつも、それで失敗している。衝動的に行動してしまう性格なのだ。  中学時代の担任にも言われたことがある。「思いついた瞬間に行動するのではなく、一呼吸間をおいて、もう一度よく考えてみるように」と。結局のところ私は、あの、一軒家を衝動買いしてしまう両親の娘なのだ。  考えれば考えるほど、目を丸くしている美杜さんの顔を見れば見るほど、とんでもないことをしてしまったという思いが強くなってくる。  相手が男の子であれば、問題はなかったろう。私のしたことは、十分にお礼としての価値はあったと思う。しかし同性となれば、お礼どころが嫌がらせと感じたかもしれない。 「あの……美杜、さん……?」  恐る恐る、顔色を窺う。  ここは、さっさと謝ってしまった方がいいだろうか。 「幸恵ちゃんって、いきなりすごいことするのね。びっくりしたぁ」  目を丸くして頬を赤らめていた美杜さんが、突然ぷっと吹き出した。 「……でも、素敵なお礼ね。確かにいただいたわ、幸恵ちゃんのファースト・キ・ス」  耳元でささやかれて、今度はこっちが赤面する番だった。  自分がなにをしでかしたのか、改めて思い知らされてしまう。  初めてだった。  正真正銘、ファーストキスだった。  それを、いくら素敵な人とはいえ、恋人でもなんでもない、しかも同性にあげてしまったのだ。  本当によかったのだろうか。  柔らかな唇の感触の記憶が、今さらのように甦ってくる。 「でも、少し貰いすぎじゃないかしら。半分、お返ししましょうか?」  いきなり、頬に手を当てられた。目を閉じた美杜さんの顔が近づいてくる。  私は慌てて飛び退いた。 「いっ、いえっ、遠慮なさらずに、全部取っておいてください!」  もう一度、なんて。  冷静になった頭では、恥ずかしくてできるはずがない。  慌てふためいている私を見て、美杜さんがくすくすと笑っている。それで、からかわれたんだってわかった。いきなり唇を奪った私に対する仕返しのつもりなのかもしれない。  そういえば。  私にとってはファーストキスだけれど、美杜さんはどうなのだろう。  すごい美人だけれど、恋人とかはいるのだろうか。昼休みには、そんな話題は出なかった。  いない方が不思議な気もするし、どんな男の子が隣にいても相応しくない気もする。  気になったけれど、訊けなかった。  恥ずかしかったし、それに、美杜さんの口から恋人の話題なんて聞きたくない気がした。どうしてなのか、その理由は自分でもよくわからないけれど。 「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」  美杜さんが手を差し伸べてくる。反射的にその手を取って、一瞬遅れて赤面した。  女の子同士手をつないで歩くなんて珍しいことじゃないのに、妙に意識してしまう。  柔らかくて、温かくて、すべすべしている手。  美杜さんと手をつないで歩くという行為が、恥ずかしくて、くすぐったくて。  そして、少し嬉しい。  私たちが学校を出た時には、雨はもうすっかり上がって、鮮やかな虹が空に架かっていた。 二章 sirokanipe  その日、私は熾烈な戦いの渦中にあった。  目の前には、強大な敵が立ちはだかっている。  私は死にものぐるいでそれに立ち向かっていた。この敵を倒さない限り、平穏な日々が訪れることはないのだから。 * * * 「幸恵? 珍しいところで会うわね」 「あ……」  すっかり馴染みとなった声に顔を上げると、いつものように美しく微笑む美杜さんの姿があった。  あの雨の日以来、美杜さんとは親しく友達付き合いするようになっていた。親しくといっても、もちろんプラトニックな友情、同じ高校の先輩後輩の間柄である。キスなんて、あの時一度きりの気の迷いだ。  美杜さんはいつの間にか、私の名前を呼び捨てにするようになっていたが、私はそのことをむしろ心地よく感じていた。 「こんなところで何してるの……って、そうか、試験勉強ね」 「……うん」  私たちがいるのは、放課後の学校の図書室だった。家ではCDとかテレビとかマンガといった誘惑が多すぎて、落ち着いて勉強ができる環境ではない。追いつめられた人間は、ついつい他のことに逃避しがちにもなる。  そう。  明後日に迫った恐るべき敵の名は、『期末試験』という。日本の学生の多くにとって、もっとも忌むべき敵だ。  しかし美杜さんにとっては、試験なんて事件でもなんでもないのだろうか。隣の席に着いて開いた本は、学校の勉強とはまるで関係のない、珊瑚礁に棲む生物の色彩鮮やかな写真集だった。  試験勉強もせずに趣味の読書とは、たいした余裕だ。これで成績は常に学年上位をキープしているというのだから、平均点を維持するにも睡眠時間を削っての試験勉強が必要な私とは、生まれついての頭の作りが違うのかもしれない。  数学の問題集に痛めつけられている私の隣で、優雅に写真集のページを繰っている美杜さん。その姿は、この殺気立った試験前の図書室で、一人だけ違う時間の流れに身を置いているようだ。  なんだか、悔しくなってしまう。私は美杜さんの制服の袖を引っ張るようにして縋りついた。 「美杜さぁん、そんな余裕ぶっこいてないで、協力してくださいよぉ」 「勉強を教えて欲しいの? いいわよ」  美杜さんは顔を上げて、読んでいた本を閉じた。 「そうじゃなくて」  私は首を左右に振る。よりによって数学は試験初日なのだ。今さら普通に勉強を教えてもらっても焼け石に水、間に合わない。 「出題される問題の予想とか、できませんか?」  そこまで言って、続きは美杜さんにだけ聞こえるように声を落とした。あまり、他の人に聞かれて都合のいい話ではない。 「……ほら、例の力で」  その一言で、美杜さんが微かに眉を上げた。静かな笑みを浮かべていた表情が、微妙に変化する。  美杜さんは、なにか不思議な力を持っている。私はそう信じていた。  具体的になんなのかはわからないが、超能力というか、霊能力というか、とにかくそんな力だ。  本人に訊いても、はっきりと認めることはないのだけれど、かといってきっぱり否定もしない。  雨を降らせたり止ませたり……というのはあの後も二、三度経験していたし、土埃で目も開けていられないほどの強風を止ませてくれたこともある。  そして、妙に鋭いというか、勘がいい。  今にして思えば、初めて会った日だってそうだ。  私が引っ越してきたばかりだと見抜いたのは、シャーロックホームズばりの推理ではなくて、テレパシーかなにかではないだろうか。あの時ご馳走してくれたのが、私が愛飲しているアイス・カフェ・オ・レだったのも、偶然ではないのかもしれない。  なんの面識もない私に声をかけたのも、直後に事故が起きることと、そのまま行けば巻き込まれることを、予知能力で知っていたからではないだろうか。  私は、そう思っていた。学校内でも、一部の生徒から霊能力者だと思われているらしく、奇異の目で見られているふしがある。  だから美杜さんなら、試験問題を当てるくらい朝飯前に違いない。  完全犯罪のカンニング。その申し出に、しかし美杜さんは小さな溜息で応えた。 「あのね、幸恵。試験っていうのは、点数を取ることが目的ではないのよ? 学んだことがどれだけ身についているかを確認するためのものなんだから、ズルしちゃ意味ないでしょ。そもそも試験前の一夜漬けだって不毛よ。普段から普通に勉強していれば……」 「そんな綺麗事を言ってる場合じゃないんです!」  美杜さんの言うことはもっともだけれど、今の私は、それどころではないところまで追いつめられていた。  ここでひどい点を取ってしまったら、夏休みを目前にして、お小遣い減額などという最悪の事態もあり得る。追試や補習で休みが潰れることも勘弁して欲しい。  そんな窮状を訴えたのだが、「自業自得よね」と取り合ってくれない。いつも優しく微笑んでいる美杜さんだが、言うことはけっこうきつい。だけどここで引き下がるわけにはいかない。 「今回は不可抗力だもん。転校のせいで慌ただしかったし、習ってないところも範囲に入ってるんだもの」 「それにしても……」 「お願い、ね? 可愛い後輩の頼みを聞いてください!」  顔の前で手を合わせる。美杜さんは溜息をついて肩をすくめた。 「仕方ないわね。今回だけよ」 「ありがとっ、だから美杜さんって大好き」  思わず抱きついてしまってから、その身体の思わぬ柔らかさに赤面してしまった。 「でも、必要最低限の協力しかしないわよ?」  美杜さんは私の教科書と問題集を手にとって、パラパラとページを繰った。  小さく首を傾げながら、オレンジの蛍光ペンで印を付けていく。  なんだか拍子抜けした。こんな簡単なことだなんて。  力を行使するのに、あの踊りは不可欠のものではないのだろうか。それとも、天候のような自然現象に干渉する時だけのものなのだろうか。  本音を言うと、少し残念でもある。美杜さんの美しい踊りを見られないのは。 「チェックを付けた公式と例題の解法を、きちんと憶えておきなさい。赤点は避けられるはずだから。それで、補習とお小遣い減額は免れるんでしょう?」 「感謝!」  私はもう一度手を合わせた。 「それ以上の点が取りたければ、自分で努力することね」 「いやもう、それで十分。今回は贅沢言いません」 「……私は先に帰るわ。勉強の邪魔をしちゃ悪いし」  美杜さんは読んでいた本を持って立ち上がった。ちょっと不自然な、性急な行動である。  これ以上ここにいると、私が頼りすぎると思ったのか。  それとも、『力』に頼ったことに気を悪くしたのか。  美杜さん自身は、『力』について否定はしないものの、公に認めてもいない。人と違う特別な力を持つことで周囲に騒がれるのが、嫌なのかもしれない。  私も無神経だったかもしれない。とはいえ、今回ばかりは背に腹は替えられない。  試験を無事に終えたらちゃんとお詫びとお礼をするとして、今はまず勉強だ。  美杜さんが立ち去った後、教えてもらった公式と例題を、徹底的に頭に叩き込んだ。それ以外の勉強は一切しない。美杜さんの予想が外れる可能性なんて、これっぽっちも考えなかった。  下校時刻まで図書館で粘って、なんとか数学の試験を乗り越える手応えを感じたところで、帰り支度を始めた。参考書とノートを鞄に詰めて立ち上がり、図書室の出口に向かう。  その途中、ふと足が止まった。なにやら、視界の隅に引っ掛かるものがあった。  横にあった書架に視線を向ける。微かな既視感を覚える。なにか、気になるものがある。  そこは、北海道に関する本のコーナーだった。  歴史、地理、自然、そして北海道の先住民族であるアイヌについての本などが並んでいる。  背表紙を目で追っていて、私は小さく声を上げた。数冊の本のタイトルや著者名に、見過ごせない名前があった。 『アイヌ神謡集 知里幸惠 編訳』  知里幸惠。  知り合って間もない頃、美杜さんの口から聞いた名だ。私と同じ名前で、美杜さんが尊敬していると言っていた人の名。  私は、その本を手に取った。 『梟の神の自ら歌った謡 「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」  という歌を私は歌いながら流れに沿って下り、  人間の村の上を通りながら下を眺めると、  昔の貧乏人が今お金持ちになっていて、  昔のお金持ちが今の貧乏人になっているようです。  海辺に人間の子供たちが  おもちゃの小弓におもちゃの小矢をもって遊んで居ります。 「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」  という歌を歌いながら子供等の上を通りますと、  子供等は私の下を走りながら云うことには、 「美しい鳥! 神様の鳥!  さあ、矢を射てあの鳥  神様の鳥を射当てたものは、  一番先に取ったものは  本当の勇者、本当の強者だぞ」  云いながら、昔貧乏人で今お金持ちになっている者の子供等は、  金の小弓に金の小矢を番えて私を射ますと、  金の小矢を私は下を通したり上を通したりしました。  その中に、子供等の中に、  一人の子供がただの小弓にただの小矢を持って仲間にはいっています。  私はそれを見ると貧乏人の子らしく、着物でもそれがわかります。  けれどもその眼色をよく見ると、えらい人の子孫らしく、  一人変わり者になって仲間入りをしています。  自分もただの小弓にただの小矢を番えて私をねらいますと、  昔貧乏人で今お金持の子供等は大笑いをして云うには、 「あらおかしや貧乏人の子  あの鳥、神様の鳥は私たちの金の小矢でもお取りにならないものを、  お前の様な貧乏な子のただの矢腐れ木の矢を  あの鳥、神様の鳥がよくよく取るだろうよ」  と云って、貧しい子を足蹴にしたりたたいたりします。  けれども貧乏な子はちっとも構わず私をねらっています。  私はそのさまを見ると、大層不憫に思いました。 「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」  という歌を歌いながらゆっくりと大空に私は輪をえがいていました。  貧乏な子は片足を遠く立て片足を近くたてて、  下唇をグッと噛みしめて、ねらっていてひょうと射放しました。  小さい矢は美しく飛んで私の方へ来ました。  それで私は手を差しのべてその小さい矢を取りました。』 (※岩波文庫『アイヌ神謡集』より抜粋)  知里幸惠さんは、明治の末期に生まれたアイヌの女性だ。  語学に堪能で、文字を持たないアイヌの神謡をローマ字で書き綴り、日本語の口語訳を施した。そうした神謡十三編を収めたのが、この本『アイヌ神謡集』だ。  しかし彼女は生まれつき身体が弱く、愛し合っていた青年との結婚も叶わずに十九歳の若さでこの世を去ったという。  私は、ようやく理解することができた。  どうして美杜さんが、この人を尊敬しているのか。  どうして美杜さんの容姿が、どことなく日本人ぽくないのか。  別の本に載っていた知里幸惠さんの古い写真には、どこか、美杜さんと似た面影があった。 * * *  美杜さんの『力』は、間違いなく現実のものだ。まったく疑いようはない。  返ってきたテストの答案を見て、私はそう確信した。  美杜さんは「赤点は避けられる」なんて言っていたけれど、教えられた問題だけを解いた数学のテストは、ちょうどぴったり平均点だったのだ。  これはさすがに驚いた。  その日の学校帰り、お礼として、家の近くにある喫茶店『みそさざい』でケーキセットをご馳走することにした。この店のチョコレートケーキと洋梨のパイが、素晴らしく美味しいのだ。 「別に、お金のかからないお礼でも構わなかったのに」  洋梨のパイを口に運びながら、冗談めかした口調で美杜さんが言う。私は慌てて首を振った。  あの、雨の日のことを言ってるのは間違いない。あれは本当に、一時の気の迷いだ。あんなこと、恥ずかしくて二度とできるはずがない。 「そ、それにしてもすごいですよね」  私は話題を変えて、それ以上『お礼』のことには触れないようにした。フォークをくわえた美杜さんが、可愛らしく首を傾げる。 「美杜さんの予知能力ですよ」 「予知?」 「数学の試験、本当に言った通りの問題が出ましたよ。おかげでいい点を取れました」 「それが、どうして予知能力だと?」  からかうような、悪戯な笑みを浮かべて美杜さんが言う。なにやら意味深な表情だ。 「え、だって……」 「予知じゃなくて予想、日本語は正しくね。一年生の数学は、遠藤先生でしょ? 私も一年生の頃、あの先生に習ってたから、どんな問題を出すかはだいたい見当がつくのよ。少なくとも、平均点分くらいはね」 「えっ?」  意外な台詞に驚いた。普通ならば「予知能力で問題を当てる」ことの方に驚くべきかもしれないが、私は美杜さんの超能力を信じ切っていたのだ。 「じゃあじゃあ、あの予想問題に、超常能力は関係なし?」 「言ったでしょう? 普段からちゃんと勉強していれば、特別な試験勉強だって必要ないって」 「でも……」  私はまだ疑っていた。探るような目で美杜さんを見る。  いくら頭がよくて、試験問題を作ったのがよく知っている先生だからといって、ちょうど平均点ぴったりの予想なんてできるものだろうか。それとも、平均点だったのは偶然だというのだろうか。  訊いてみてもいいことなのかどうか、ちょっと躊躇してしまう。だけど、この機会にはっきりさせておいた方がいいのかもしれない。  美杜さんとは、この先も長く友達付き合いしていきたいのだ。変な遠慮や気遣いはしたくない。 「でも、美杜さんがなにか不思議な力を持っているのは、事実なんですよね?」  今回の試験のことが偶然だとしても、他のことは説明がつかない。  しかし、 「さあ、どうかしら」  美杜さんは否定も肯定もせず、ただ悪戯っ子のような笑みを浮かべているだけだ。  あまつさえ、 「チョコレートケーキも美味しそうね。一口ちょうだい」  と、私のお皿に手を伸ばしてくる。  そんな様子はまったく普通の女子高生で、私は、また、美杜さんという人がわからなくなってしまうのだった。 三章 atuy  海で泳ぐのなんて、何年ぶりだろう。  私の目の前には、穏やかに凪いでる夏の日本海が広がっていた。  どこまでも青い空と海。その上に浮かぶ真白い雲。鮮やかな対比が美しい。どこからかカモメの鳴き声が聞こえてくる。  海岸は砂浜ではなく大きな玉石で、海の中にはごつごつした黒い岩がいくつも顔を出している。しかし波が穏やかなので、磯であっても泳ぐのに危険はない。  そういえば、日本海で泳ぐというのも初めてだった。宮城育ちだから、これまで太平洋とプールでしか泳いだことがない。  正直なところ、海は好きではない。五年前の夏から、海なんて見るのも嫌だ。なのに海水浴に来ているのは、他でもない美杜さんのせいだった。 「幸恵、泳ぎは得意?」  夏休みに入る直前、そう訊かれて素直にうなずいた。たいていのスポーツはこなすが、中でも水泳は球技と並んで得意種目である。  ここで「海は好き?」と訊かれていたのなら、即座に否定していただろう。美杜さんの作戦勝ちだ。あるいは何もかもわかった上でこんな訪ね方をしたのではないかと勘ぐってしまう。  泳ぎは得意だ。正直にそう答えると、美杜さんは嬉しそうに手を叩いて言った。 「じゃあ、夏休みになったら、一緒に海へ行きましょう」  ――と。  既に決定事項である。「海へ行かない?」ではなく「行きましょう」と。  これでは断る隙もない。  そうして私は、美杜さんと一緒に海へ遊びに来ているというわけだ。  札幌から電車とバスを乗り継いでやって来たのは、積丹半島の先端に近い漁村。ここで美杜さんの親戚が、民宿を経営しているのだという。  美杜さんと二人きりでの旅行。少し、緊張してしまう。  女の子だけでの旅行も、両親は簡単に許してくれた。容姿端麗、頭脳明晰、そしていかにも真面目そうで清純派の美杜さんは、私の親に受けがいい。  泊まるのが美杜さんの親戚の家ということもあって、なにも心配はしていなかったようだ。多分、変に意識しているのは私だけだろう。  水面に顔を出している岩の上に座っていた私は、隣にいる美杜さんに羨望のまなざしを向けた。  すらりと伸びた長い手脚に、折れそうなほど細いウェスト。なのに胸のふくらみだけは、素晴らしい大きさと形を誇っている。  スタイルがいい方だとは思っていたけれど、まさかこれほどとは。レトロなデザインの聖陵女学園の制服は、身体のラインがわかりにくい。私服の時もロングスカートが多く、肌の露出は少ない。  なのに今日は、いったいどういう心境の変化だろうか。身に着けている水着は、明るい朱色を基調とした、布の使用量がかなり少なそうなビキニだった。まるで男性向け雑誌のモデルみたいな露出の多さで、しかしスタイルがいいのでそれがすごく似合っている。  魅惑的な胸の谷間に、つい目が吸い寄せられてしまう。続いて自分の身体を見おろして、無意識に溜息が漏れた。  百五十センチ台半ばの身長は、美杜さんよりも約十センチ低い。決して太ってはいない、むしろ痩せている方だが、その分、女性として出るべきところもあまり出ていない。スリーサイズのうち少なくともひとつは、美杜さんとは比べること自体が間違っているような差があった。 「どうしたの? 浮かない顔して」  そう訊いてくる美杜さんは、今年初めての海を心底楽しんでいるようだ。 「プロのモデルでもない限り、水着の美杜さんの隣に立った女の子はこうなります」  それは事実ではあるが、事実のすべてではない。むしろ余録である。しかしせっかくの旅行、美杜さんが楽しそうにしているのに、本当の理由を話すことはない。 「幸恵の水着姿だって可愛いじゃない」  美杜さんがふざけて、背後から抱きついてくる。背中に当たる弾力に、頬が赤らんでしまう。 「清純派っぽくていいじゃない。その……あまり胸が大きいのも、ちょっとエッチっぽくない?」  だったらどうして、そんな露出の多い水着を着るんですか。 「その水着でそんなこと言っても、説得力ないですよ」 「でも、お店で試着した時、幸恵も似合ってるって言ってくれたじゃない。だから、たまにはこんなのもいいかなって」  そりゃあ、似合ってはいます。それは間違いないです。  でも。 「よりによって、私と一緒の時に」  そんな、見せつけるようなお洒落をしなくても。  周囲には家族連れが数組いるだけの人の少ない海岸だから、のんびりと泳いでいられるのだ。これが同世代の男の子がいる海水浴場だったら、美杜さんの周囲はナンパ男たちがひしめいていたことだろう。 「幸恵が一緒だから、お洒落したのにな」 「……え?」  微妙に、意味深な台詞に聞こえなくもない。また、頬の赤みが増してしまう。  ずっと女子校育ちだったせいだろうか、美杜さんって少し百合っぽいところがあるような気がする。はっきりとした根拠はないけれど、なんとなく。  とはいえ、それが嫌なわけではないし、具体的になにか変なことをされるわけでもないから、別に気にしてはいない。 「ね、幸恵」  いきなり、肩を押された。バランスを崩して海に転げ落ちてしまう。水音とともに、無数の泡が私を取り囲んだ。  水中で一回転する。どこまでも澄んだエメラルドグリーンの水。白く輝く海面。  水面に顔を出すと、美杜さんが隣に飛び込んできた。 「せっかく札幌を離れて綺麗な海に来たんだから、もっと楽しみましょう」  目にかかる濡れた前髪を、長い指でかき分けてくれる。  私は美杜さんの顔を見た。  いつもと同じ、邪気のない優しい笑顔だ。  だけど美杜さんは、知っているのではないだろうか。  海が嫌いなことを知っていて、私を連れてきたのではないだろうか。  あの不思議な「力」についての結論は出ていないけれど、美杜さんに隠しごとができるなんて思ってはいない。  だとしたら、お節介なことだ。  だけど、美杜さんらしくもある。 「……えーい、仕返し」  私は美杜さんの肩に手を置くと、水面から飛び上がって体重を預けた。いきなり水中に沈められた美杜さんが、私の下でじたばたと暴れていた。 * * *  昼食後、民宿の畳の上でごろごろと一時間ほど休憩してから、また海岸へ出た。  相変わらずの、よく晴れた空と澄みきった海。  だけど午前中とはなにか様子が違う。  妙に人が多くて、だけどその多くは海水浴客という雰囲気ではなく、服を着たまま海岸に立って、沖の方を不安げに見つめている。  海上には、午前中はなかった小舟やゴムボートが何艘も浮かんでいた。乗っている人は皆一様に真剣な表情で、海の中を覗き込んでいる。 「何かあったんですか?」  近くにいた、地元の人らしい初老の女性に訊いてみる。その人は眉間に皺を寄せて言った。 「なんでも、子供が溺れて行方不明なんだってさ」 「えっ?」  驚いて、もう一度海に視線を向ける。  そう言われてみれば、あのたくさんの小舟は、行方不明になった人を捜しているようだ。 「美杜さん!」  私は慌てて振り返った。 「捜して! できるんでしょ?」 「え? あ……そ、そうね」  美杜さんなら、美杜さんの不思議な『力』なら、行方不明の子供を見つけることができるに違いない。  非常事態に、美杜さんもさすがにとぼけたりはしなかった。サンダルを脱いで、膝の下あたりまで海に入る。微かに俯いて、真剣な表情で水面を見つめる。  時間はかからなかった。五秒ほどで回れ右して、波打ち際の私のところに戻ってくる。  今まで見たことのない、固く強ばった表情をしていた。 「戻りましょう」 「……美杜さん?」 「私たちがここにいても、役に立つことはないわ」  手を取って、海を背に歩き出そうとする。私はその手を乱暴に振りほどいた。 「どうして!」  そのまま、サンダルとTシャツを脱ぎ捨て海に入る。 「一人でも多い方が、早く見つかるかもしれないじゃない! 私も手伝う!」  海面に点在する無数の岩。入り組んだ根。舟で探すのが難しい場所も多い海岸だ。私はあてもなく泳ぎだそうとした。 「幸恵、待って!」  追ってきた美杜さんが、私の腕を掴まえる。もう一度振りほどこうとしたが、その手には痛いほどに力が込められていた。 「だめ。……行っちゃだめよ」 「美杜さん……」  涙は流していないけれど、まるで泣いているような表情。  それで、わかってしまった。  美杜さんは、「もう間に合わない」と言いたいのだ。水に触れただけで、そのことがわかってしまったのだ。 「それでもっ!」  それでも、私は納得しなかった。 「もしかしたら、まだ蘇生できるかもしれない。そうじゃなくたって、いつまでもこのままにしておいていいはずがない! ねえ、どこにいるの?」 「……」  答えはない。しかし美杜さんは知っているはずだ。表情がそう言っている。 「もういいよ! 勝手に捜すから!」  力ずくで、掴まれていた腕を振りほどいた。美杜さんの爪が、腕に赤い筋を残した。 「幸恵!」 「すぐ助けないと! 助けなきゃいけないの!」  金切り声で叫ぶ。涙が溢れ出す。  固い表情で唇を噛んでいた美杜さんが、ゆっくりと腕を上げた。数十メートル沖に顔を出している、ひとつの岩を指差す。  次の瞬間、私はその岩に向かって泳ぎだしていた。  慌てていたので腕の振りと息継ぎのタイミングがばらばらで、ずいぶん水を飲んだけれど、そんなことに構ってはいられなかった。  一秒でも早く、あの岩に辿り着きたい。  一秒でも早く、助けてあげたい。  目的の岩の手前で、私は水中に潜った。  水中のぼんやりとした視界の中、岩の陰に引っかかるようにして漂っている、白っぽい塊を見つけた。 「……っ!」  必死に手を伸ばす。  その感触は、人間のものとは思えなかった。  なんとか抱えて岩の上に持ち上げたそれは、ぐったりとしていて、ぐにゃぐにゃで、中に重い液体が詰まったゴムの袋のようで。  眠っている人間を抱き上げるのとは、根本的になにかが違っていた。 * * *  その夜は、なかなか寝つけなかった。  カーテンの隙間から明るい月光が射し込んで、室内をぼんやりと照らしている。  私は目を開けたまま、天井を見つめていた。  目を閉じると、血の気のない、不気味な白さの子供の顔が浮かんでくる。  腕にはまだ、あの子を抱き上げた時の感触が残っている。  布団に入ってから何十度めかの溜息をついた。  聞こえてくるのは潮騒の音と、隣で眠っている美杜さんの静かな寝息だけ。あんなことがあったというのに、普通に眠れる美杜さんが恨めしかった。  上体を起こして、美杜さんを見おろす。  月明かりの下、胸が静かに上下しているのがわかる。  それは、生きている証。  やっぱり違う。  生きている者と死んでいる者は、同じように横たわっていても、根本にあるなにかが違う。  いや、違うというか、足りないのだ。  生きている人間にば存在するはずのなにかが、命を持たない者には欠けている。  心臓が動いているとか、呼吸をしているとか、脳波があるとか、そういう問題じゃない。もっともっと根本的ななにか。  また、溜息が出た。  やっぱり、海になんて来るんじゃなかった。  つい、私を誘った美杜さんを恨みそうになる。別に悪気があったわけではないのだから、八つ当たり以外のなにものでもないのだけれど。  海なんて、海水浴なんて、もう二度と行かないと決めていたはずなのに。  美杜さんに誘われたから、来てしまった。  来て、また人の死に遭遇してしまった。  目に、涙が滲んでくる。美杜さんの寝顔がぼやける。  泣き出してしまいそうだ。  その時、ある物音が耳に届かなければ、本当に大声で泣いていただろう。  最初は、空耳かと思った。  だけど違う。  美杜さんの寝息よりも微かな音。それでも、私の耳にははっきりと届いている。  息を止めて、耳を澄ました。  それは、潮騒に混じって外から聞こえてくる。  声。  人の声。  子供の声。  誰かを呼んでいるようでもあるが、なにを言っているのかまでは聴き取れない。  私は、パジャマ代わりのTシャツ一枚という姿のまま、美杜さんを起こさないように足音を殺して外に出た。  外に出ると、思っていたよりもずっと明るかった。  丸い月が頭上にあって、群青の混じった真珠色の光が降り注いでいる。月明かりを反射する暗い海も、まるで淡い燐光を放っているように見えた。  水平線上に、明るい光の点がいくつも並んでいる。イカ釣り漁船の漁火だと、寝る前に美杜さんが教えてくれた。  下着の上にTシャツ一枚という無防備な姿で、私は海岸を歩いていた。  だんだん、声が大きくなってくる。  少しずつ、声の出所に近づいているのがわかる。  だけど、それは本当に、実際に耳に聞こえている音なのだろうか。  あるいは私の頭が勝手に作り出した、幻聴ではないだろうか。  その声には、聞き覚えがあるような気がした。  波打ち際に近づくにつれて、声がだんだんはっきりしてくる。  海の中から聞こえてくるようだ。 『……ちゃん』  いくぶん不明瞭ながらも、言葉が聞き取れるようになってきた。 『……お姉ちゃん』  懐かしい声がする。私を呼んでいる。 『お姉ちゃん……お姉ちゃん……』  その声に誘われるように、私は水の中に入った。声の元へ行くこと、それしか考えていなかった。  岩場の海は深く、波打ち際から数メートルで足が届かなくなる。私はTシャツのまま泳ぎだした。  沖に向かって。  声のする方に向かって。  私を呼ぶ声の方に向かって。 『お姉ちゃん……お姉ちゃん……』  その声はどことなく苦しそうで、泣き声のように聞こえた。  水をかく手に力を込める。  早く行かなきゃならない。  助けなきゃならない。  それだけを思って泳いでいった。  波間に、白い影が見える。  少し近づくと、月明かりの下でもそれが子供の身体であることがわかる。  精一杯に手を伸ばす。指先が触れる。  その瞬間。  細い腕が、身体に絡みついてきた。  腕を、脚を押さえつけられる。  急に、身体が重くなった。  水中に沈んでいく。絡みついた手に引きずり込まれる。  驚いて、叫び声を上げそうになった。口から溢れた空気が無数の泡となって、水面へ昇っていく。  肺が空っぽになる。身体が沈んでいく。水面を通して見える満月が揺れている。  その月に向かって伸ばそうとした手に、また青白い腕が絡みつく。  動けない。  身体が動かない。  身動ぎすらできないまま、暗い海の底へと沈んでいく。 『お姉ちゃん……お姉ちゃん……』  水の中だというのに、声が聞こえた。 『冷たいよ……苦しいよ……』 『どうして……助けてくれないの』 『一人は怖いよ……お姉ちゃんも一緒に来て』  細い腕が首に巻き付いてくる。私の腕よりも細い小さな子供の腕だというのに、ふりほどくことができない。  息ができない。  苦しい。  酸素を求めて開いた口に、冷たい海水が流れ込んでくる。  視界が暗くなっていく。  そうして、私は意識を失った。 * * *  激しく咳き込む耳障りな音が、私の意識を現実に引き戻した。  咳き込んでいるのが自分自身だと、すぐには気づかないくらい朦朧としていた。  苦しい。  肺は新鮮な空気を貪ろうとしているのに、激しい咳に邪魔されて、なかなかそれが叶わない。  かなりの量の海水を飲んだのだろう。胃がむかついて、咳き込むたびに塩辛い水が食道を逆流してきた。喉が灼けるようで、頭も痛い。  私は波打ち際にうずくまって、発作のような咳を繰り返していた。濡れたTシャツが身体にぴったり張付いて気持ち悪い。  そんな状態がしばらく続いて、ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、自分が一人ではないことに気がついた。隣に座って、背中をさすってくれている人がいる。 「……美杜、さん?」  不安げな表情を浮かべていた美杜さんはなぜか裸で、身に着けているものは濡れたショーツ一枚だけだった。  肌が濡れていて、月明かりを浴びた水滴がきらきらと光っている。傍らに、パジャマとサンダルが脱ぎ捨ててあるのが目に留まった。  私も美杜さんも、なぜ濡れ鼠なのだろう。  海で泳いでいたというのだろうか。こんな夜中に。それもTシャツを着たまま。  そもそも、なぜ私は海岸にいるのだろう。部屋で寝ていたはずではないのか。 「美杜さん、あの……?」 「よかった、幸恵が無事で」  美杜さんが笑みを浮かべる。なんとなく泣き笑いのような表情だった。  ぎゅっと抱きしめられる。  痛いくらいに、力強く。 「美杜さん……私……?」 「ふと目を覚ましたら、布団が空なんだもの。お手洗いにもいないし……びっくりした」 「私、溺れてたんですか? どうして? どうしてこんな時間に海に……」  どうやらこの状況、溺れていた私を、美杜さんが助けてくれたところらしい。だけど、その間の記憶はほとんど残っていない。 「呼ばれた……のね」 「呼ばれた?」 「今日、死んだ子供に」 「……っ!」  美杜さんの口調は静かなものだったけれど、私は息を呑んで真っ青になった。  それは、つまり。 「ゆ、ゆ、幽霊……?」  その単語を口にすることには、かなり抵抗があった。声に出してしまうと、存在しない、してはいけないはずのものが、実在してしまうような気がした。 「そんなに、大げさに怖がる必要はないわ」  美杜さんの口元が微かにほころぶ。 「人が死んだ直後は、意識がその場に止まっていることが多いの。でも、それはほんの一時的なもの。煙突から出た煙が拡散して見えなくなるように、すぐに消えてしまう。わかりやすくいえば、成仏するっていうのかな」 「そ、そ、そんなっ! でもっ! あ、あたし、殺されかけたんですよ!」  少しずつ、記憶が戻ってきていた。  私を呼ぶ声。  冷たい夜の海。  そして、絡みついてくる細い腕。  そこには間違いなく、殺意があったはずだ。なのに、怖がる必要はないだなんて。 「普通はね、そんなに害のあるものではないの。だから私もびっくりした。……でも、殺されるっていうのはどうかしら。他殺か自殺か、判断に困るところね」 「じ、自殺?」  美杜さんってば、なにを言っているのだろう。  相手が幽霊だか悪霊だか知らないけれど、私は海に引きずり込まれそうになったのだ。  なのに美杜さんは、怒っているような視線をこちらに向けていた。 「幸恵、どうして呼びかけに応えたの? あの声は、普通は聞こえないものよ。私だって、意識して聞こうとしない限りは聞こえない。なのにあなたには聞こえて、それに応えてしまった。応えて海に入り、子供に引き込まれる幻影を見た。……どうして?」  責めるような口調だった。まるで、私に非があるとでも言うかのように。 「どうして、って……」  そんなの、私の方が聞きたい。  そう言いかけたところで、はっと気がついた。  急に、すべての記憶が鮮明に甦ってきた。  それで思い出した。  あの声。  私を連れて行こうとしていたのは、今日溺れ死んだ子供ではないのだ。  あれは。  聞き覚えのある、懐かしいあの声は。 「宏昭……だったんだ……あれは……」 「……誰?」 「私、弟がいたんです。……五年前まで」  そのことを、自分から話すのは初めてだった。今の学校ではもちろん、中学でさえ知らない友達の方が多かった。それでも、美杜さんになら話してもいいと思った。  小学生の頃、私には弟がいた。  三つ年下で、多分、仲のいい姉弟だったはずだ。  五年前の夏、母に連れられて三人で海水浴に行った。その年初めての海。宏昭はすごく喜んでいたし、私はそれ以上にはしゃいでいた。  飲物を買いに行った母が戻るまで、宏昭を見ているのは私の役目だったのに。  波打ち際で見つけた、小さな魚に気を取られて。  ほんの、ほんのちょっと目を離しただけのつもりだったのに。  気がついた時には、すぐ傍にいたはずの弟の姿はなくて。  宏昭が変わり果てた姿で見つかったのは、一時間以上も後のことだった。  いつの間にか、美杜さんの腕が身体に回されていた。私は美杜さんにしがみつくようにして泣いていた。  かなり長い時間泣いていて。  たくさん涙を流して、喉や肺の痛みがなくなる頃には、いくらか気持ちも楽になって。  その時になってようやく、人に見られたら大変な格好で抱き合っていることに気づいて、今さらのように赤面してしまうのだった。 * * * 「……で、なんですか、これ?」  泊まっていた部屋に戻って、身体を拭いて、髪を乾かして。  ようやく落ち着いて、さて寝直そうと布団に入ったところで私は訊いた。  すぐ隣に、美杜さんがいる。  文字通りにすぐ隣、同じ布団の中である。  それだけでも平常心を保つのは難しいのに、しかも美杜さんは、私をしっかりと抱きしめているのだ。 「念のため。幸恵が、また連れていかれないように」 「そんな……」 「今夜一晩だけ、ね。今度も間に合う保証はないし、もしも幸恵に万が一のことがあったら、私はどうしていいのかわからない」 「でも……」  これって少しばかり、いやかなり、悩ましげな雰囲気ではないだろうか。私を心配してのことだとはわかるけれど、女の子同士とはいえ、こんなに密着した状態で眠るのは難しい。  心臓が激しく脈打っている。部屋の明かりは消した後なので、真っ赤になった顔を見られずにすむのは幸いだった。美杜さんはなにも気にしていない様子なのに、私ばかりが変に意識しているというのも恥ずかしい。  だけど。  部屋が暗くて視力が役に立たない分、他の感覚が敏感になってしまう。  美杜さんの静かな息。  体温。  柔らかな肌と、独特の弾力のある胸の膨らみの感触。  そして、微かなシャンプーの匂い。  そのひとつひとつが、私の心をかき乱してしまう。どうしても平静でいられない。  身体は疲れ切っているのでなんとか眠ろうとしても、脈拍も血圧もレッドゾーンまで上昇しているみたいで、とても眠れそうにない。 「……ねえ、美杜さん」  黙っていると、かえって緊張してしまう。少し話でもすれば、かえってリラックスできるかもしれない。 「どうして、私を連れてきたんですか?」 「どうして、って?」 「美杜さんなら、わかっていたんじゃないですか? 私のこと」  答えが返ってくるまでに、少しだけ間があった。 「幸恵が思っているほど、なんでもお見通しってわけじゃないわ。海に、なにかトラウマがあるらしいのは気づいていたけれど」 「だったら、どうして……」  どうして、私を誘ったのだろう。海が嫌いなことを知っていながら。 「ねえ、幸恵?」  美杜さんは、私を抱きしめていた腕を解いて身体を起こした。 「……眠れないのなら、ちょっと散歩に行きましょうか?」 「散歩?」  突然のことに戸惑っている私を、半ば強引に布団から引きずり出して、そのまま外に引っ張っていく。物腰柔らかそうに見える美杜さんだけれど、時々、妙に強引なところがある。  建物の外に出ると、東の空が少しだけ白みはじめていた。丸い月は、西の水平線に沈みかけている。  私の手を引いて、美杜さんは波打ち際までやってきた。 「声、まだ聞こえる?」  その問いに、首を左右に振って応える。  いま耳に届いているのは、静かな潮騒の音だけだ。 「じゃあ、もう大丈夫ね」  美杜さん手を離すと、サンダルを脱いでくるぶしまで水に入った。 「私はね、海が好きよ」  真っ直ぐに沖を向いて言う。それから、ゆっくりとこちらを振り返る。 「山や杜も大好きだけど、同じように海も好き。だから、幸恵と一緒に来たかった」 「え……」  海が大好きだから。  だから、私と一緒に来たかった。  やっぱり、意味深な台詞に聞こえなくもない。  頬が朱くなる。 「幸恵が考えているような、難しい理由なんかない。海が好きだから、仲のいい、大好きな友達と一緒に来たかった。ただそれだけだって言ったら、怒る?」 「……別に」  私は素っ気なく応えた。  美杜さんのようには海を楽しめないけれど。  やっぱり、辛い思いをしたけれど。  それでも、来てよかったのかもしれない。このまま一生、海を避けて生きていくよりは。 「ね、泳ごうか?」  突然、美杜さんが言う。  夜の海で泳ぐなんて危ないことこの上ないけれど、周囲は少しずつ明るさを増しているし、深いところに行かなければ大丈夫かもしれない。  それにしても突然だ。そんなつもりなら最初から言ってくれれば、水着を持ってきたのに。また、部屋まで取りに戻らなければならない。 「必要ないわ。こんな時間に、誰も見てないでしょ」 「え、えぇっ?」  こともあろうに、美杜さんは着ていたTシャツと短パンを脱ぎはじめた。下着一枚になって、それさえも脱ぎ捨てて海に入っていく。  全裸の美杜さん。あまり凝視しちゃいけないと思いつつも、視線が吸い寄せられて離れない。 「ちょっ、ちょっと、美杜さん!」 「幸恵もいらっしゃい」  お臍の上あたりまで水に入って、私を手招きする。下半身は水の中に隠れたけれど、その見事なバストを隠すものは何もない。薄暗がりの中で映える白い肌は、妙な艶めかしさが感じられる。 「あ、あの、でも……」 「いらっしゃい」  美杜さんの言葉には、力がある。  いろいろと葛藤を感じつつも、Tシャツの裾に手をかけた。  昨夜だって、一緒にお風呂に入ったんだし、今さら恥ずかしがらなくても。  でもやっぱり、お風呂と海はぜんぜん違う。いくら夜明け前で人がいないからといって、屋外で全裸になるなんて、女の子としては恥ずかしすぎる。  ――だけど。  普通ならしないこと、しちゃいけないこと。だからこそ、好奇心を揺さぶられてしまうのも事実だった。子供が、禁じられている煙草やお酒を悪戯してみたくなるのと似た心境かもしれない。  さすがに面と向かっては恥ずかしかったので、美杜さんに背を向けてTシャツと下着を脱いだ。美杜さんが脱ぎ捨てた服をたたんで、その横に自分の服を置く。それからようやく海に入る。  恥ずかしかったけれど、胸も、下半身も隠さなかった。そんなことをしたら、かえって恥ずかしさが増すように思えた。こんなことなんでもない、という態度でいた方がいい。  それでもやっぱり、美杜さんの隣に立った時には、恥ずかしさのあまり顔も身体もかぁっと熱くなっていた。おかげで、夜明け前の海の冷たさも気にならなかった。 「そんなに恥ずかしがらなくてもいいでしょう。私しかいないんだし」  水の中で、美杜さんが手をつないでくる。  美杜さんがいるから恥ずかしいんです、とはさすがに言えなかった。 「露天風呂みたいなものと思えばいいじゃない」 「大きすぎますよ」  日本海サイズの露天風呂なんて。 「もっとリラックスして、目を閉じて」  二人の距離がさらに縮まる。それでリラックスするのはかなり困難ではあるが、言われた通りに目を閉じた。  美杜さんの呼吸の、ゆっくりとしたリズムを感じる。  自分の呼吸を、それに合わせる。  だんだん緊張が解けてきて、今まで気づかなかったものを感じ取れるようになってくる。  静かな潮騒。  鼻腔をくすぐる潮の香り。  早起きな鳥のさえずり。  脚を撫でる海藻。  全身を洗う冷たい海水。  波で、身体が微かに揺れている。  美杜さんの身体も、同じように揺れている。  初めてのことだった。まったく衣類で隔てられることなく、全身で直に海を感じるなんて。  美杜さんが、露出の多い水着を選んだ理由、水着がいらないと言った理由が、少しわかったような気がする。  この方が、気持ちいい。  なににも邪魔されず、大海原と接することができる。小さな水着でさえ、邪魔な存在だった。  普段、人間は視覚に頼りすぎている。本人に受け取る意志さえあれば、他の器官だって、こんなにも様々な情景を伝えてくれるというのに。  身体全体で、海を感じることができる。  そういえば。  遙かな昔、生命は海から生まれた。  だから今でも、人間の血液の塩分濃度は、海水に近いのだと聞いたことがある。  だから、なのだろうか。こうしていると、「還ってきた」という気がする。  まるで、身体が少しずつ海に溶け込んでいくようだ。右手の、美杜さんとつながる手の感触がなければ、本当に海に溶け込んで、消えてなくなってしまいそうだった。 「ね? この方が、海を「感じる」ことができるでしょう?」  美杜さんの声に、溶けかかっていた意識が戻ってくる。 「……ですね。ちょっと、気持ちいいですね」  ちらりと、美杜さんを見る。美杜さんもこちらを見ていて、小さく微笑んだ。  ひょっとして……  ふと、妙な考えが浮かんだ。  水着を着ていない方が、裸の方が、海をより深く感じることができるのなら。  今、裸のまま美杜さんに抱きついたら……と。  人間同士も、直に肌を触れ合わせた方が、より深く、より強く、お互いを感じることができるのかもしれない。  そんなことを考えて。  それが意味するところに気がついて。  私はまた真っ赤になった。  これこそが、恋人同士がセックスする時、裸になる理由ではないだろうか。 四章 tokkoni  学校には、怪談がつきものだ。  以前誰かが冗談半分に話していたことだが、全国の小学校の実に九割以上に「学校の敷地は昔、墓地だった」という話があるそうだ。墓地でなければ刑場である。  もちろん、実際にはそこまで墓地跡ばかりを選んで学校を建てるはずはない。トイレの花子さん同様、学校の怪談の定番なのだ。事実、私が通っていた小学校にも、中学で一緒になったクラスメイトが通っていた小学校にも、そんな話があった。  中学、高校と年齢が上がるにつれて、そうした子供だましは減っていく。それでもやっぱり、学校には怪談がつきまとう。  夜の音楽室、鏡、トイレ、誰もいない更衣室。怪談のネタには事欠かない。  学校というのは、日中は大勢の生徒で賑わっているのに、夜になると誰もいなくなる場所だ。昼間の喧噪と、夜の静寂のギャップがもっとも大きな場所のひとつ。学校の多くは周囲が住宅地であるが、大勢の人が暮らす中に、ぽっかりと無人の空間が出現することになる。  日常の中の非日常。だからこそ、怪談の舞台にはもってこいなのだろう。  もちろん、私が通うこの聖陵女学園にも、怪談話はある。  そのひとつを知ったのは、夏休みも終わりに近いある日のことだった。 * * *  その日は、夏休み中だというのにクラスメイトと学校に来ていた。  この街の好きな風景を写生するという、美術の課題を片付けるためだ。  学校であれば水はふんだんに使えるし、イーゼルも美術室から持ち出せばいいし、緑が多くて美しい風景には事欠かない。なにより、友達と一緒に絵を描くには一番気楽な場所だった。人様に見せられるような腕も才能も持ち合わせていないのに、人の多い公園などで絵を描くのは恥ずかしい。  この学校では、芸術科目として美術、音楽、書道から一科目を選択することになっている。こんなことなら、室内でできる書道を選択しておけばよかったかもしれない。しかし、習字なんて絵を描く以上に苦手だ。音楽も、歌は嫌いではないが楽器に関してはまるで駄目。それよりは絵の方がいくらかましという、消去法で選んだ美術だった。  一緒に来ているクラスメイトの山川は、仲のいいクラスメイトの中では唯一の美術選択者である。もっとも、絵の才能については私とドングリの背比べでしかない。こんな二人が写生をする場所として、一部の運動部員以外に人気のない、夏休みの学校に勝る選択肢があるだろうか。  校舎裏の花壇の前に半日座って、お世辞にも上手とはいえないものの、とりあえず再提出だけは免れそうな絵を描き上げた。絵の具やイーゼルを片付けるために校舎に戻ろうとして、途中、ふと私の足が止まった。  裏庭の、普段からあまり人の通らないその一角は、以前からなんとなく気になっていた場所だった。裏山に続く斜面には大きな樹が茂り、真夏の陽射しを浴びた雑草が、好き放題に伸びている。山の麓にあるこの学校では珍しくもない、なんの変哲もない風景。  だけど、なにかが引っ掛かる。不穏な気配を感じる。  なんと言ったらいいのだろう。  空気の色が違う。重苦しい雰囲気が漂っている。  真夏の強い陽射しの下で、ここだけ陰になっているように感じる。  なんとなく息苦しくて、胃がむかむかするようでもある。  どうしてだろう。以前からこの場所を通るたびに、いつも同じように感じるのだ。  立ち止まって、そこに生えている樹を見た。  大きな樹だが、びっくりするほどでもない。自然そのままの山の麓に建つこの学校の敷地内では珍しくもない、つまりはなんの変哲もない樹だ。  なのに、すごく嫌な印象を受ける。木陰の空気が澱んでいるように感じる。 「樹本、どしたの?」  先を歩いていた山川が、立ち止まった私に気づいて振り返った。 「ん……いや、なんだろうな。なんか、変な感じがして」 「……早く行こ」  樹に顔を向けたまま応えると、戻ってきた山川は乱暴に私の腕を引っ張った。 「こんなとこ、長居する場所じゃないよ」  おや、と思った。声に、怯えたような気配がある。見ると、心なしか顔色も蒼醒めている。  気のせいではない。山川は、ここにいることを嫌がっている。この場所から早く離れたがっている。 「なにかあるの? こんなとこ、って言ったよね?」 「樹本ってば、知ってて立ち止まったんじゃないの?」 「なにも」  私はなにも知らない。転校してきて二ヶ月、まだ、学校の敷地内で足を踏み入れたことのない場所もあるくらいだ。 「早く行こ。あたしホントは、ここ通るのも嫌なんだから」  腕を抱えるようにして、山川は私を強引に引っ張っていく。まるで、この場所から逃げ出すように。  腕を引かれながら、もう一度樹の方を見た。木陰で、なにかが動いたような気がしたのだ。しかし目の錯覚だったらしい。いくら注意して見ても、風で揺れる木の葉以外に動くものは視界に入らない。 「通るのも嫌って、あそこ、何かあるの?」  山川の怯えようはただ事ではない。確かに嫌な印象を受ける場所だったが、それだけでは説明にならない。 「ホントに、何も知らないの?」 「知らない。なんなの?」 「まさか樹本って、霊感少女?」 「え? いや、別に」  美杜さんじゃあるまいし。私には特別な能力なんてない。心霊体験らしきものも、十六年生きてきた中で、あの海での一件しかない。 「……二年くらい前のことだから、あたしも自分で見たわけじゃないんだけどさ」  一刻も早くその場を離れようとする山川が説明をはじめたのは、校舎に入ってからだった。 「あの樹で、首を吊って自殺した先輩がいたんだって」 「え?」 「で、それ以来……出るんだって、あそこ。見たって人は何人もいるよ」  なにが出るのか、とは訊くまでもない。山川が身体の前で、両手をぶらぶらさせていた。 * * *  美術室で荷物を片付けた後、私は一人であの場所に戻ってみた。  特に深い考えがあったわけではない。単に、怖いもの見たさとでもいうのだろうか。女の子って基本的に、怪談が好きだと思う。  一応山川も誘ってみたけれど、即座に断られた。本気で怯えている。自分では見たことないと言っていたのに、この怯えようは普通ではない。  やっぱり、本当になにかいるのだろうか。  正直なところ、私はそれほど気にしてはいなかった。真夏の炎天下なんて、怪談にはもっとも不釣り合いな舞台である。たとえそこが、普通に授業のある日でも人気のない校舎裏だとしても。  平らに整地された学校の敷地が終わり、裏山の斜面へと境界線もなく続いていく場所。雑草が伸び放題で、そこかしこから聞こえてくるバッタの鳴き声は、私の足音が近づくと急に止み、通り過ぎるとまたすぐに再開する。  ところが。  そこだけは、あの樹の周囲だけは、不自然に静まりかえっていた。バッタやキリギリスの声はなく、山全体が鳴いているようなやかましいセミの合唱すら、遙か遠くから聞こえてくるように感じる。  確かに、ここにはなにかがある。  なにかを感じる。  どろどろとした、嫌な空気が漂っている。  木陰に黒い霧のようなものが溜まっているように思えるのは、目の錯覚だろうか。  微かに漂う嫌な臭いは、腐臭のようでもある。  今日は雲ひとつない快晴なのに、この一角だけ、陽の光が当たっていないように感じる。  いけない。  この場所に近づいてはいけない。  心の奥で警鐘が鳴る。  それでも好奇心が勝っているのか、私はゆっくりと脚を進めていく。  樹に近づくほどに、気分が悪くなってくる。  間違いない。ここには確かに、現代科学では説明できないなにかが存在する。  カメラを持ってくればよかったと、今さらのように思った。目には見えなくても、写真を撮ればなにか写っているかもしれない。カメラ付きの携帯電話は鞄に入れたまま、美術室に置きっぱなしだ。  しかし、幽霊はディジタルカメラに写るのだろうか? ディジタルの心霊写真というのはあまり聞いたことがない。美術室まで携帯を取りに戻るくらいなら、学校の前のコンビニで使い捨てカメラを買ってきた方が早いかもしれない。  そんなことを考えていて、ふと気がついた。  私は、この場所を離れたがっている。ここから立ち去る口実を欲しがっている。写真なんて言い訳に過ぎない。これ以上、この場にいたくないだけなのだ。  確かに、ここにはなにかが存在する。それも、人にとってよくないなにかが。  こんなところ、一人でいてはいけない。心霊現象なんて、興味半分で首を突っ込んでいいものじゃない。  もっと用心深くなるべきだった。海ではそれで死にかけているのだから。  あの時は美杜さんが一緒だったから助かったけれど、今は一人だ。万が一なにかがあったら、私ひとりでなにができるだろう。  そうだ、美杜さんを呼ぼう。  それは、カメラ以上にいい思いつきだった。美杜さんと一緒なら怖くはないし、きっと、こうしたものへの対処も知っているに違いない。  回れ右して、美術室に戻ろうとする。  しかし、脚が動かなかった。顔を真っ直ぐにあの樹に向けたまま、身体を動かせずにいた。  私の目は、樹上にいるものに釘付けになっている。  それは、一匹の蛇だった。  いつからそこにいたのだろう。気がついた時には、太い枝に絡みつくようにしていた。  ただの蛇ではない。どろどろとした黒い気をまとった、巨大な蛇だ。  身体を伸ばしたら、おそらく十メートル近くになるのではないだろうか。胴回りは電柱よりも太い。  こんなの、現実のはずがない。日本に、北海道に、こんな大蛇がいるはずがない。爬虫類は変温動物なので、一般に熱帯地方の方が大きく成長できる――それは美杜さんから教わった知識だ。  現実ではない、巨大な蛇。  それが、真っ直ぐに私を見つめている。金色をした、爬虫類特有の冷たい瞳で。  人間を丸呑みにできそうな口には鋭い牙がびっしりと並び、先が二股に分かれた青い舌がちろちろと蠢いている。  蛇に睨まれた蛙。その時の私は、まさにそんな状態だった。  動けない。  身体が、脚が、動かない。  蛇は少しずつ身体を伸ばして、樹上からこちらへ近づいて来るというのに。  大きな口を開けて。  黒い気をまとわりつかせて。  ずる……ずる……  近づいてくる。  逃げなきゃいけない。ここから逃げなきゃいけない。  化物のような蛇が近づいてくる。あいつに捕まったら――好ましい結果にならないことだけは確信できる。  しかし、身体は動かなかった。  蛇が近づいてくる。五メートル……三メートル……。  私の脚は微かに震えるだけで、根が生えたようにその場に固まっている。 「幸恵、そこを離れなさい」  なんの前触れもなく、背後から声がした。  振り向くことはできなかったけれど、見なくてもわかる。  一番身近な声。美杜さんの声。  しかし、いま一番嬉しいはずのその声も、私を解放してはくれなかった。 「そこにいては駄目よ。そんなもの、見てはいけないわ」  声が近づいてくる。この状況下で、不思議なくらいに落ち着いている。そのことは私をいくらか勇気づけたが、根本的な解決にはならない。 「そ……んなこといっても、む、無理です」  見るなと言われても、はいそうですかとうなずくことはできない。今にも襲いかかってきそうな全長十メートルの大蛇を無視できるほど、太い神経は持ち合わせていない。目は大蛇に吸い寄せられたまま、視線をわずかに動かすことすらできなかった。  足音が近づいてくる。すぐ背後で止まる。 「見ては駄目よ。無視しなさい」  後ろから肩を掴まれ、いきなり回れ右させられた。  怒っているような、あるいは緊張しているような、やや硬い表情の美杜さんの顔が、びっくりするくらいに近くにあった。 「み……」  名前を呼ぶ余裕すら、与えてもらえなかった。いきなり抱き寄せられたかと思うと同時に、柔らかな感触が口を塞いでいた。 「――っっ?」  なにが起こったのかを理解するには、いくらかの時間が必要だった。しかし、この感触には憶えがあった。  唇が押しつけられている。美杜さんが、いきなり私の唇を奪ったのだ。  びっくりして、慌てて逃れようとしたけれど、身体に腕を回されて身動きが取れなかった。 「……っ! んっ……んんっ?」  美杜さんってば、どういうつもりなのだろう。化け物のような蛇が襲ってこようとしている時に、なにを考えているのだろう。  キスされたことだけでも、頭の中はパニックになりかけていた。しかし美杜さんは、さらにとんでもないことをしてくれた。  身体に回されていた腕が解かれたかと思うと、その手がブラウスのボタンを外しはじめたのだ。  上から順に。  ひとつ、ふたつ、みっつ。  四つめのボタンが外された時には、私の頭はすっかり沸騰してしまっていた。なのに美杜さんの狼藉は、それだけにとどまらなかった。  ブラウスの中に手が滑り込んできたかと思うと、ブラのフロントホックを外されてしまった。露わにされた胸の膨らみを、美杜さんの手が直に包み込んだ。  それはまるで、恋人にされるような行為。実際にそんな経験があるわけではないけれど、知識としては知っている。  服の上から触ったりするくらいなら、女子校では珍しくもないおふざけだ。だけどこれは冗談では済まされない。  美杜さんの手が、私の胸を優しく揉んでいる。さほど大きくもない胸を、愛おしそうに愛撫している。  やがて、胸に触れていた手が移動をはじめた。  下の方へと。 「みっ、美杜……さんっ!」  一度太腿まで下りた手は、こともあろうかスカートの中にもぐり込んできた。  長い指が、下着の上で蠢いている。  女の子の、一番恥ずかしい部分に触れている。  ゆっくりと前後に動いたり、小刻みに震えたり。  もちろん、初めての体験だった。私はバージンだし、そもそもこれまで男の子とちゃんとお付き合いしたこともない。もちろん、女の子とお付き合いしたことだってあるはずがない。  美杜さんってどこか百合っぽいと、前々から感じてはいたけれど。  本人、口では否定していたけれど。  やっぱり本物だったのだ。そして、私のことを秘かに愛していたのだ。  不思議と、触れられることは嫌ではなかった。ただものすごく驚いて、それ以上に恥ずかしかっただけだ。  こんな、いきなりなんて。  それも、夏休みで人気がないとはいえ、学校で、しかも野外で。  やっぱり初めてはちゃんとベッドの上で……って、私ってば、なにを考えているんだろう。問題はそこじゃない。  だけど。 「あっ……」  認めることには、抵抗があったけれど。  気持ち、よかった。  だんだん、触れられることが気持ちよくなってきていた。  彼氏イナイ歴十六年とはいえ、私だって今どきの女子高生。そこに触れるのが気持ちいいってことは知っている。自慰の経験くらいある。  知らなかったのは、他人の指に触れられることが、気が遠くなるくらいに恥ずかしいということ。なのに、自分で触れるより何倍も何十倍も気持ちいいということ。  顔が熱くなる。  頭がぼぅっとして、なにも考えられなくなってしまう。  身体中の神経が、美杜さんが与えてくれる快い刺激に集中している。  脚に力が入らなくなって、いつの間にか美杜さんにしがみつくような体勢になっていた。  脚の間では、美杜さんの手が動き続けている。  私に、いけないことをしている。 「あ……み、と……さぁんっ! あっ……ぁんっ!」  気持ち、いい。  すごく、気持ちイイ。  今まで経験したことのない、快感。  もう、他のことはなにも考えられなかった。ただ、いつまでもこの快楽に身を委ねていたかった。  だけど、至福の時間はあまり長くは続かなかった。  緊張のせいか、興奮のせいか、それとも気の遠くなるような快感のせいか。  頭の中が真っ白になって、私はそのまま気を失ってしまった。 * * *  気がついた時には、近くにあった木製のベンチに座らされていた。  夢だったのだろうか。朦朧とした意識の中で、美杜さんの鈴の音を聞いていたような気がする。  美杜さんは隣にいた。私は、美杜さんに寄りかかるようにして座っていたのだ。  まだ、頭がはっきりしない。  私はどうしてここにいるのだろう。  こんなところで、なにをしていたのだろう。 「……あ」 「あ、気がついた? はい」  見慣れた優しい笑みを浮かべた美杜さんが、校内の自販機で売っている烏龍茶を渡してくれる。反射的にそれを受け取って、冷たく濡れたアルミ缶の感触に、少しだけ意識がはっきりしてきた。  急に、顔が熱くなった。私は烏龍茶の缶を握りしめて、そのままうつむいてしまった。  スカートの中で、下着が冷たく湿っている。妙に風通しがいいと思ったら、ブラウスのボタンがいくつか外れて、念入りに寄せて上げて着けたはずのブラジャーが乱れている。  それで、記憶が甦ってきた。何故ここにいるのか。ここで、なにをされたのか。  美杜さんに、エッチなことをされてしまったのだ。恋人同士がするようなエッチなことをされて、それが気持ちよすぎて気を失ってしまったのだ。  やっぱり美杜さんは女の子が好きな人で、私のことが好きだったのだ。  あまり意外には思わなかったし、不思議と嫌悪感とかも感じなかった。むしろ、美杜さんに好かれていたという事実に、漠然とした喜びさえ感じていた。  だけど、ちゃんと告白もしないうちに、いきなり、しかも真っ昼間の野外であんなことをするのはよくないと思う。その点では文句のひとつも言いたい。女の子としては、やっぱりムードを大切にして欲しい。  そうしてくれれば、美杜さんがどうしてもと言うのなら、お付き合いだって……真剣に考えてみてもいいのに。 「……あ、あのね、美杜さん?」 「幸恵、あなたちょっと無防備すぎる。もう少し用心しなきゃ」  責めるような口調で美杜さんは言った。  自分で襲っておいて、「無防備すぎる」とはひどい言いぐさだ。いくら年頃の女の子とはいえ、誰が、同性の親友にいきなり襲われることを用心するというのだろう。 「よくないものがあるのはわかっていたんでしょう? 私が来なかったら危なかったわ。あなたは、ああいったものに影響されやすいんだから」 「……え?」  なにを言われているのか理解できず、二度、三度と瞬きを繰り返した。 「そりゃあ、今まで放置していた私も悪いかもしれない。でも、まさかあなたが、あそこまで無防備だなんて思わなかったもの。たいした力もない相手だけど、さすがに先刻は危なかったわ」  そこでようやく、美杜さんの言わんとしていることが理解できた。今の今まですっかり忘れていた。あの、怪物の存在を思い出した。 「あ、あの……それって、あの蛇の怪物のことですか?」 「他になにがあると?」 「それよりも今の問題は、美杜さんが私を襲ったことです!」  十六才のバージンの女の子にとっては、こちらの方が大問題だ。今は見当たらない、気配もしない蛇なんかどうでもいい。それに結局、私を襲ったのは怪物ではなくて美杜さんなのだ。  今となっては、あの蛇は幻覚なんじゃないかとすら思えてくる。真夏の炎天下で、熱射病にでもなりかけていたのかもしれない。だけど、美杜さんにされたことは紛れもなく現実だ。物的証拠がある。下着が湿っぽいし、ブラウスのボタンも外されている。 「お、襲ったって……人聞きの悪いこと言わないでよ!」  何故か美杜さんは、真っ赤になって反論してきた。狼狽している美杜さんというのも珍しい光景だ。 「でも、事実だもん。エッチなこといっぱいされたもん!」  今さら、なかったことにしようたって許さない。 「エッチって……あ、あれは、あなたを助けようとしたの。あなたの意識を他に逸らすために……」 「え?」  なんだか、様子が変だ。いまいち話が噛み合っていない気がする。  期待していた……じゃない、予想していたのとはちょっと違う展開だ。 「あの蛇が幸恵に悪さしようとしていたから、それで……」 「……あれって、なんだったんですか?」  あの、正体不明の蛇の怪物。それが美杜さんの狼藉とどんな関係があるのか、さっぱり理解できない。 「ウェンカムィの一種。わかりやすく言うと、邪神……いや、悪霊という方が近いかな」 「あ、悪霊っ?」  私は大声を上げた。美杜さんってば、とんでもないことをさらっと言う。 「ああいった連中はね、本当はたいした力はないのよ。普通の人間には悪さなんかできない。ただ、たまに幸恵のように、波長が合って影響を受けやすい人間がいるのよね」 「え? それって……」 「もっとも原始的な宗教では、身の回りのあらゆるものに神が宿っているというのはごく普通の考え方よ。ハルニレの木の神、ハシドイの樹の神、カツラの樹の神。大地には大地の、川には川の、風には風の神がいる。自然のものだけじゃないわ。家の神、かまどの神、トイレの神、なんでもありね。神様っていうより、精霊って表現の方がイメージが掴みやすいかしら? 彼らはどこにでもいる。特別な存在なんかじゃない。それに、所詮は実体を持たない存在。物理的に人間をどうこうする力なんてない。それでも、実体を持たないものに働きかけることはできる。例えば、人間の心とか」 「……もしも、あのまま美杜さんが現われなかったら、私はどうなっていたんですか?」  訊ねると、美杜さんは一瞬口ごもった。 「……クラスの友達とかから聞いたことない? 二年前、あそこでなにがあったのか」 「――っ」  先刻、山川から聞いたばかりだ。あの樹で首を吊って自殺した先輩がいる、と。  心に働きかけるとは、つまり、そういうことなのだろうか。 「精霊たちはどこにでもいる、なんにでも宿っている。その中に時々、人間に悪影響を与えるものがいる。でもね、普通はなんの問題もないの。海で、幸恵を呼んでいた声と同じ。こちらから意識を向けない限り、見ることも感じることもできない。なにも影響を与えることはできないから、それは存在しないも同然」 「はあ、そういうものですか」 「だからね、先刻の幸恵みたいに凝視しちゃ駄目よ。見えてないふりをしないとからまれてしまう。その点では人間の不良や野良犬と同じことかな」 「だからって無理ですよ! あんなもの、見ないようにしろなんて」  どんな図太い神経を持った人間だって、無理だと思う。美杜さんのように、こうした超常現象に慣れっこでない限りは。  いや、美杜さんにとっては超常現象ではないのだろう。彼女にとっては、「どこにでも存在する」ものなのだ。しかし私のような凡人にとってはそうはいかない。 「だから、無理やり意識を他に向けさせたわけ。ちょっと強引な手段だったけど」 「ご、強引って……」  また、赤面してしまう。美杜さんにされたことの記憶が、鮮明に甦ってくる。  美杜さんは私をびっくりさせて、目の前の蛇から意識を逸らすためにあんなことをしたのだ。  確かに、効果的ではあった。私は蛇のことなんかすっかり失念していたのだから。  ちょっと強引なキス。胸や、もっとエッチな部分への愛撫。  だけどそれは私に対する恋愛感情によって行われた行為ではない。そのことがわかって、美杜さんの同性愛者疑惑が晴れて、どうしてか私は落胆していた。 「だ、だからって、いきなりあんなエッチなことしなくてもいいじゃないですか! あれじゃまるで痴漢ですよ」 「ち、痴漢って……でもそれをいったら、幸恵だって同じことしたじゃない」 「え? ……あ」  そういえば。  知り合って間もない頃、私の方からいきなりキスしたことがあった。美杜さんのファーストキスを奪ってしまった。私のファーストキスをあげてしまった。 「あ、あれはっ、……感謝の気持ちを態度で表しただけです! それに、キスだけじゃないですか」 「でも、私はびっくりしたわ。一瞬、他のことがなにも考えられなくなるくらいに。だから、あなたの意識を蛇から逸らすのにもこの手が使えるかなって」 「だ、だったらキスでいいじゃないですか! あ、あんなっ、え、エッチなこと……」  美杜さんにいきなりキスされたりしたら、それだけですごく驚くと思う。それ以上のエッチなことなんて、する必要はない。 「そうなの? 知り合ったばかりの相手にいきなりキスするくらいだから、幸恵にとってはキスなんて挨拶がわりなのかと思ってた。だから、もっとびっくりさせるようなことをしなきゃ駄目かと思って」 「だ、だ、だからってあんなこと……私、初めてだったんですよ!」 「私も、ああいうことしたのは初めて。だからおあいこね」 「それはなにか違います! ひとつ間違えば、あれってレイプですよ!」 「あら、人助けでしょう? 危ないところを助けてあげたんだもの、お礼を言ってもらってもいいくらいだわ」  私が文句を言い続けているので、美杜さんも開き直って尊大な態度になる。 「どこの世界に、襲われてお礼を言う女の子がいますかっ! 美杜さん、人助けとかなんとか言って、実は楽しんでたんじゃないですかっ?」 「それを言ったら幸恵だって、実は楽しんでいたんじゃないの?  なんだか、可愛い声を出していたみたいだけど?」 「――――っ!! な、なによっ、このスケベ――っ!!」  本当は――  本音を言えば――  ぜんぜん、嫌じゃなかった。  エッチなことをされて驚いたのは事実だけど、嫌悪感はまったくなかった。  それどころか、すごく気持ちよくて。  美杜さんが同性愛者で、私に好意を抱いていたのだと思った時、むしろ嬉しかった。それが誤解だとわかって、がっかりした。  そのことがなにを意味するのか、この時にはもう気がついていた。だけど、十六年間平凡に生きてきた女の子にとって、それを素直に受け入れることには少々抵抗もある。  だから私は照れ隠しのために、不機嫌な仔犬のように、いつまでもきゃんきゃんと喚き続けていた。 五章 ahunpar 「樹本って、神原先輩と仲いいの?」  たまに、クラスメイトから訊かれることがある。 「うん。こっちに引っ越してきて、最初に知り合った人だしね」  そう答えると、決まって、不思議なものを見るような表情が返ってくる。 「あの人って、ちょっと気持ち悪くない?」 「なんてゆーか、電波系の雰囲気あるよね」 「霊能者って噂もあるけど」 「そうそう。よく、校舎裏の『首吊りの樹』の近くで見かけんの」 「降霊とか悪魔召喚でもやってんじゃないの?」 「公園にもよくいるよね。木の根元に座って、なにもせずにぼーっとしてるの」 「ウチュー人とでも交信してるんでしょ」  かように、校内での美杜さんの評判はよろしくない。  実際のところ、単に噂ばかりがひとり歩きしている部分も多い。確かに変わった人ではあるけれど、親しく付き合ってみれば、意外と普通の女子高生っぽいところもあるとわかる。  例えば。  甘いものに目がない。  だけどあの素晴らしいスタイルを維持するために、普段はブラックコーヒーを愛飲している。  携帯電話は高画素カメラ付きの最新機種。  マンガや女の子向けの雑誌のような、俗っぽい本も多少は読んでいる。  普段のファッションはやや地味だけれど、下着と水着はオシャレで色っぽい。  もちろん、今どきの女子高生として普通じゃない部分も多々ある。  流行のドラマとかアイドルにはまったく興味がない。  よく観るテレビは、自然や歴史が題材のドキュメンタリーもの。  なんらかの不思議な力を持っているのは事実。  合コンとか、男の子にはあまり興味がないみたいで、もっといえば、ちょっと百合っぽい。  一度、美杜さんとこんな会話を交わしたことがある。あの、蛇の件の少し後のことだ。 「美杜さんって……その、経験はあるの?」 「経験? なんの?」 「……だから、その……えっと」  言い淀んでいる私の態度で、美杜さんも察したようだ。かすかに頬を赤らめ、小さな声で訊いてくる。 「ひょっとして……えっちのこと?」  ほら。  こうした話題が通じる程度には、美杜さんは普通の女の子なのだ。  真っ赤になってうなずくと、美杜さんはくすくすと笑って首を左右に振った。 「前に言わなかったっけ? 幸恵とのあれがファーストキスだって」 「彼氏とか、いないんですか?」 「ご覧の通り」 「カッコイイ彼氏がいたらいいなぁ……とか、思いません?」 「そうねぇ……」  黒い大きな瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。こんな質問をする私の真意を、すべて見通しているかのようだ。 「そりゃあ、私だって年頃の女の子だし、素敵な恋人は欲しいわ。でも、こればっかりは縁だもの、欲しいと思っただけで手に入るわけではないでしょう?」  意図的なものだったのだろうか、私がわざと「彼氏」という単語を使ったのに対して、美杜さんは「恋人」と答えた。思わず「同性同士の恋愛ってどう思います?」なんて訊きそうになってしまう。  もちろん、本当に訊くことはできない。答えを聞くのが怖いし、そもそも自分の気持ちもまだ固まっていない。 「幸恵は?」 「えっ?」  不意をついた反撃に、声が裏返る。 「幸恵はどうなの? 好きな人とかいないの?」 「そ、そ、それは……」  こんなに狼狽えて、こんなに赤い顔で、「いません」なんて言っても説得力はない。照れくさくて、ぷいと視線を逸らした。 「な、ナイショです!」  まだ、言えない。  もう少し時間が必要だ。考える時間。自分の心を客観的に見つめる時間。  そうしなければ、言えるわけがない。私が好きなのは美杜さんです、なんて。  まだわからない。美杜さんに対する気持ちが、いったいなんなのか。  恋愛、友情、それ以外のなにか。恋愛経験皆無の私には、どうにも判断がつかない。  わかっているのは、美杜さんのことが気になって仕方がないということ。一緒にいると楽しいということ。それだけだ。  いずれにせよ、美杜さんが他の人にあまり人気がないということは、私にとっては悔しくもあり、また嬉しくもあった。  美杜さんの魅力をみんなに知ってもらいたいという気持ち。  美杜さんを独り占めしたいという気持ち。  どちらの気持ちがより強いのかは、自分でもわからなかった。 * * *  学校帰り、他に用事がなくて天気がよければ、私は家の近くの公園に立ち寄ることにしている。  あの、美杜さんと初めて出会った公園。  ここに来れば、大抵、美杜さんと会える。  もちろん、時間が合えば学校から一緒に下校することも少なくない。だけど学年も違うし、美杜さんに比べれば私はクラスメイトとの付き合いも多いから、必ずしも毎日というわけにはいかない。  だけど、ここに来れば美杜さんに会える。  ほら。  いた。  公園で一番大きな樹の根元、初めて美杜さんの姿を見たその場所に、あの時と同じように座っている。  幹に寄りかかって瞼を閉じて、静かな笑みを浮かべて、遠目には眠っているようにも見える。  だけど、そこは美杜さんのこと。驚かしてやろうと足音を殺して近づいたにも関わらず、すぐに気がついて目を開けた。こちらを見てにこっと微笑むと、隣に座るようにと手振りで促す。  言われるままに腰を下ろす。ほとんど、腕が触れ合うほどの至近距離だ。  美杜さんが、私の手を軽く握ってくる。問いかけるような表情で顔を覗き込む。  私も手を握り返して、小さくうなずいた。美杜さんがしていたように、幹に寄りかかって瞼を閉じる。  腕に、美杜さんの体温の、心地よい温もりを感じる。  静かな風が、頬をなでていくのを感じる。  土の匂い、木の匂い、草の匂いを感じる。  近くを流れている小川のせせらぎが、いやにはっきりと聞こえる。水の匂いさえ感じることができる。  鳥の声が聞こえる。この公園に、あるいは奏珠別の周囲の山々に、無数に棲んでいる小鳥たちの声。  啄木鳥が木を叩く音が遠くから響いてくる。  虫の音も聞こえる。まだ夕暮れ前だというのに、気の早いエンマコオロギが土鈴を転がすような声で鳴いている。  時折、キリギリスのやかましい声が混じる。  こうして目を閉じていると、視覚以外のすべての感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。  見ることができなくても、むしろ目を開いている時よりもよほどはっきりと、周囲の世界を感じることができる。  そのうちに、感覚は私の身体を離れていくようになる。  心が、周囲の空気に溶け出していく。樹本幸恵という小さな殻を離れて、周囲に広がっていく。  美杜さんの心を感じる。コーヒーにクリームを入れたように、私の心と絡み合い、やがて混じり合ってひとつになっていく。  今、私は美杜さんであり、美杜さんは私であり、あるいはまったく別の存在でもあった。  感じることができる。周囲の樹々も、草も、鳥も、虫も、流れる水やこの大地でさえも、同じように心を持っている。そのすべてが混じり合い、重なり合って、この世界を創り上げている。  私の意識は今、寄りかかっている樹の中にいた。  地中深く張り巡らせた根に、滋養に満ちた水が染み込んでくるのを感じる。  幹の中を昇り、枝々の末端まで、葉の一枚一枚にまで広がっていくのを感じる。  風が、茂った葉を揺らしている。  広がった葉の表面に、暖かな夕陽が降り注いでいる。  この上ない悦びを感じる。それは生きていること、生そのものに対する原初の悦びだ。  気持ちいい。  生きていることが気持ちいい。  この先何十年、何百年。こうして、この樹とともに大地に根を下ろして生きていたい。大地に溶け込んでしまいたい。  いったい、人間というちっぽけな形に、どれほどの意味があるのだろう。  私がいるのは、目に見える形など無意味な世界だった。  どのくらいの時間、そうしていたのだろう。  鈴の音でふと我に返った。漂っていた心が、樹本幸恵という小さな身体の中に戻ってくる。  血の通った肉体を持つことに違和感すら覚えながら、私はゆっくりと目を開けた。  山の陰に半分隠れた夕陽を背景に、美杜さんが踊っている。全身を朱に染めて、透き通った鈴の音を響かせている。  いつも、楽しそうに、嬉しそうに踊っている。  美杜さんが踊っているところを見るのは好きだ。水の流れのように、どんなに長い時間見ていても飽きることがない。  だけど今日の美杜さんは、いつもとどこか様子が違うような気がした。  はっきりとはわからない。漠然とした違和感。どことなく哀しそうな表情に見えるのは気のせいだろうか。単に、夕陽で逆光になっているから、光の加減でそう見えるだけだろうか。  ほんの数メートル先で踊っている美杜さんが、ひどく遠くに感じた。つい先刻まで、心が溶け合うくらいに近くにいたはずなのに。 「……ねえ、美杜さん」  踊っている美杜さんの耳に届くように、少し大きな声で言った。 「もしよかったら、今夜、うちに泊まりにきません?」  鈴の音が止む。 「いいの? 迷惑じゃない?」 「今夜、両親が旅行でいないんですよ。明日は休日だし、美杜さんさえよかったら」  そう言ってから赤面してしまった。  十六歳の女の子が「親がいないから、泊まりに来ない?」だなんて。まるで、そろそろ一線を越えたいと思っている彼氏を誘うような台詞ではないか。  もちろん、そんなつもりじゃない。美杜さんのことは好きだし、それはひょっとしたら恋愛感情かもしれないけれど、別に、セックスしたいとかいうんじゃない。ただ一緒に、一番近い場所にいたいだけなのだ。 「もちろん、手料理をご馳走してくれるのよね? そうね、今夜はローストチキンって気分」  時々ずうずうしいこともある美杜さん。だけど、そんな風に甘えてくれることが嬉しくもある。美杜さんのために料理を作ることも、それを喜んで食べてくれることも、とても嬉しいことだった。 * * *  美杜さんは一度家に帰って、着替えてお泊まりの用意をしてから遊びに来た。  手料理をご馳走して、一緒にお風呂に入って、髪を乾かしながら他愛もない話をして。  お風呂上がりの、パジャマになった美杜さんがすごく色っぽくて、それが嬉しくて楽しくて、ちょっと恥ずかしい。  夏物のパジャマの薄い生地を持ち上げている、ふたつの大きなふくらみ。その先端の突起まではっきりとわかってしまう。ちょっと前屈みになっただけで、深い谷間が目に入ってしまう。  美杜さんが私の髪にドライヤーを当ててくれる時、背中に当たる弾力に、鼓動が速くなるのを感じた。  どきどき、どきどき。  顔が熱くなる。お風呂上がりだから、少しくらい火照った顔でも不審に思われないのが幸いだった。  そして。  もちろん、寝るのも一緒である。セミダブルのベッドに二人並んで、美杜さんの体温を感じ、寝息を聞きながら眠る。  一緒に寝るのは初めてではないけれど、いまだに慣れない。鼓動が速くなって、顔が熱くなってしまう。  こんな状態で眠るのはとても無理そうに思うのだが、美杜さんと一緒だと不思議とよく眠れる。すぐに眠ってしまうのはなんだかもったいなくて、灯りを消してベッドに入ってからもいろいろと話をしているのだけれど、自分でも気づかないうちに眠りに落ちてしまっている。そのまま熟睡して、翌朝早い時刻に二人一緒に目を覚ますのが常だ。  だけど、この夜は例外だった。  ふと目を覚ますと、部屋の中はまだ真っ暗だった。カーテンの隙間から、街灯の明かりが微かに漏れているだけ。時計を見ると、午前二時を回ったところだ。  どうして、こんな変な時刻に目を覚ましたのだろう。  寝ぼけた頭でぼんやりと考えていて、ふと違和感を覚えた。  あるべきものがない。  美智さんの体温、寝息、気配。  私は、ベッドに一人で寝ていた。隣に寝ていたはずの美杜さんの姿がない。トイレにでも行ったのかと思ったが、シーツに温もりは残っていなかった。  身体を起こし、灯りを点けて室内を見回す。  なにも、なかった。  美杜さんの衣類、鞄、ジュースのペットボトルや、お菓子の袋。  昨夜、美杜さんがここにいたことの痕跡が、なにもなかった。  慌ててベッドから降りる。言葉では説明できない衝動に駆られて、パジャマのままで家を飛び出した。  月のない夜。  街灯の青白い光だけが、寝静まった住宅地をぼんやりと照らしている。  私は人気のない道を走った。無意識のうちに、脚は公園へと向かっていた。なんの根拠もなく、美杜さんがそこにいると確信していた。  あの樹。  いつも美杜さんが寄り添っている、あの大きな老木。  そこにいるはずだ。他に考えられない。  公園の樹々は水銀灯の冷たい灯りを浴びて、幹や葉は銀色に輝いて見えた。美しい光景といってもいいはずだが、今はなぜか不気味に映った。  全身に鳥肌が立つ。それは、夜の冷気のためではない。  あの樹に近づくにつれて、不安になってきた。美杜さんは本当にここにいるのだろうか。私はなにか、根本的に間違えているのではないか。  しんと静まりかえった深夜の公園。普段ならば虫たちの声でやかましい場所なのに、今は本当に静まりかえっている。  なんの音もない。  虫の声。  梟やキタキツネの声。  遠くを走る車の音。  何もなかった。自分の足音すら、耳に届いてこなかった。そしてもちろん、美杜さんの息づかいも。  不安は的中した。嫌な予感ほど、よく当たるものだ。  樹の根元に、美杜さんの姿はなかった。その代わりというか、幹に大きな穴が空いている。大人ひとりが屈んでもぐり込めそうな大きさの洞だ。  これはなんだろう。昨日までは、こんなものはなかった。今夜できたばかりにしては、周辺の幹が朽ちかけている。  躊躇することなく、その中にもぐり込んだ。外から見る幹の直径はせいぜい一メートル半というところだけれど、不思議なことに穴に行き止まりはなく、どこまでも続いているようだった。しかし私はそのことを当然のように受けとめ、手探りで奥へと進んでいった。  光はまったくない。  文字通り、一寸先も見えない闇。指先の感覚だけが頼りだった。  地面は、緩やかな下りになっているようだ。湿った、冷たい空気が周囲を満たしている。土と、木の匂いがする。  少し身を屈めた大人ひとりがようやく通れるくらいの狭い洞窟、だけど奥行きだけが計り知れない。  どのくらい進んだのだろう。距離の感覚も、時間の感覚もまるでない。  何時間も歩いたような気もするし、ほんの二、三分のような気もする。なにも見えない闇の中を手探りで進んでいるのだから、実はたいした距離は歩いていないのかもしれない。  ただ、どこまでも進んでいく。  やがて、漆黒の視界の彼方にぽつんと、ひとつの人影が浮かび上がった。一筋の光もない闇の中なのに、そこだけスポットライトが当たっているように見えた。  腰まで届く長い髪。間違いない、美杜さんだ。こちらに背を向けて、奥へと歩いていく。 「美杜さん!」  大きな声で呼びかける。しかし美杜さんの耳には届かなかったのか、立ち止まりも振り返りもしてくれない。 「美杜さんっ!」  もう一度、あらん限りの声を絞り出す。狭い洞窟に反響するはずの声は、まるで周囲の闇に吸い込まれたかのようにはかなく消えてしまった。そして、美杜さんの姿も闇に溶け込んでいく。 「美杜さんっ!」  何度も、何度も叫ぶ。叫びながら美杜さんを追う。足を速めようにも、気持ちばかりが急いてさっぱり進まない。慌てたせいで、ごつごつした石に足を取られて転んでしまった。 「……美杜さん」  膝と手を擦りむいた私が顔を上げた時には、周囲は完全な闇に包まれ、なにも見えなくなっていた。 * * * 「……夢?」  気がつくと、自分のベッドの中だった。  時計は午前二時を回ったところ。まだ真夜中だ。  自分のものではない、静かな寝息が聞こえてくる。隣に美杜さんが眠っている。私は身体を起こして、美杜さんの寝顔を見おろした。  薄いカーテンを通して射し込む街灯の光の下で、白い顔が浮かび上がる。  夢、だったのだろう。嫌な夢を見た。全身汗ばんで、パジャマはじっとりと湿っている。  そっと、美杜さんの頬に触れてみる。滑らかな肌を、指先で軽く押す。確かな感触が伝わってくる。  間違いなく、美杜さんはここにいる。  馬鹿みたいだ。そんなこと、いちいち確かめなくてもわかることなのに。  それでも、確かめずにはいられなかった。  美杜さんは、ここにいる。  隣で眠っている。  なにも心配することはない。  少しだけ安心して、私はまた横になった。  そぅっと、起こさないようにそぅっと、美杜さんの身体に腕を回す。  夏休みに一緒に海に行った時、美杜さんが私にしたように。 『幸恵が、また連れていかれないように』  あの時、美杜さんはそう言っていた。私も今、同じことを心配している。  掴まえていなければ、美杜さんがいなくなってしまうような気がした。ただの夢で済ますには、あまりにも意味ありげな夢だった。夕方の美杜さんの様子も、忘れることはできなかった。  私は美杜さんを抱きしめて、美杜さんの胸に顔を埋めるようにして眠りについた。  今度は、いやな夢は見なかった。 六章 tus‐kur  数日後の学校帰り。  美杜さんと一緒に、いつものように公園へ寄った。  しかし、なにやら普段と様子が違う。あの樹の周囲には黄と黒の縞模様のロープが張られ、作業服姿の男性数人が動き回っている。 「なにか、あったんですか?」  とりあえず、いちばん近くにいた人に訊いてみる。 「ん? ああ。この木、二、三日中に切り倒すことになったんだよ」 「え、えぇっ?」 「幹の内部が腐っているのが見つかってね。放っておくと危ないから、今のうちに切り倒すんだ」 「そんなっ、なんとかならないんですか? ……こんな、立派な樹なのに」 「なにしろ年寄りだからなぁ。これからの季節、台風でも来たら折れて怪我人が出るかもしれないし、仕方ないだろうな」 「そんな……」  突然のことに、どう反応していいものやらわからなかった。  美杜さんは、なんの表情も浮かべていなかった。ただ黙って、無表情に前を見つめている。特に驚いた様子はない。  もしかしたら、以前から知っていたのかもしれない。この樹の生命が、もう残り少ないことに。 「……仕方ないわ」  私にだけ聞こえる小さな声で、そうつぶやいた。 * * *  明日にはあの樹が切られてしまうという夜。  私は夜中にそっと家を抜け出して、公園へ向かった。  予感があった。きっと、美杜さんが来ているはず、という。  ほら。  公園に入る前から、その予感が正しいことはわかっっていた。  音が、聞こえる。  遠くから、透きとおった鈴の音が響いてくる。  立ち入り禁止のロープの中で、美杜さんが踊っている。月明かりの下、銀色のスポットライトを浴びている。  長い髪が風になびき、スカートが翻る。  身体が弾む。鈴の音が響く。今夜は、ひどく哀しい音に聞こえる。  私が来ていることには気づいているはずなのに、こちらを見ようともせず、ただ一心不乱に踊っている。  涙は流していないが、遠目には泣いているようにも見えた。あの樹の、切り倒される運命を悼んでいるのだろうか。  いつも美杜さんはこの場所にいた。この樹に寄り添っていた。いったい、どれほど大切な存在だったのだろう。  美杜さんは、この街で生まれ育ったと聞いた覚えがある。家から公園まで、子供だって一人で来られる距離だ。おそらく、物心ついた頃からこの樹と一緒にいたのだろう。  この街に越してきて三ヶ月の私だって寂しいのだから、美杜さんの悲しみの大きさは、言葉では言い表せまい。  だから美杜さんはなにも言わない。  ただ黙って、踊っている。  いつまでもいつまでも踊り続けている。 * * *  そして翌日。  学校をさぼって、樹が切り倒される現場に立ち会おうと提案したところ、やんわりと断られた。  意外に思ったが、少し考えて私が間違っていると気がついた。自分の親友が殺されるところを見たいと思う人間がいるだろうか。  だから、普段通りに登校した。だけど授業を受ける気にはなれず、教室を抜け出して屋上でさぼることにした。  そこで、一足先に来ていた美杜さんと鉢合わせしたのだ。 「……美杜さんも、サボリですか?」 「まあ……ね」  真面目な美杜さんにしては珍しい。試験勉強とかはさほど熱心ではないが、それも普段の授業態度が真面目だからこそ。そんな美杜さんがサボリだなんて。  微かに、ばつの悪そうな表情を浮かべている。鞄を持ってきているところを見ると、今日はもう授業に戻るつもりはないらしい。  私は屋上の隅に腰を下ろした。これ以上、美杜さんになにを言えばいいのかわからなかった。美杜さんもなにも言わず、ゆっくりとした動きで踊り始める。  授業中の静かな学校に、鈴の音が鎮魂歌のように響く。  嬉しい時、悲しい時、美杜さんは踊る。それが、彼女の感情表現の手段なのだと、最近気がついた。  いつも静かに微笑んでいて、表情の変化は少ない美杜さん。代わりに、身体全体でその想いを表している。  黙って、美杜さんを見つめている私。  ゆっくりと踊り続ける美杜さん。  そのまま、どのくらいの時間が過ぎただろう。  そろそろ、だろうか。  予定では、そろそろのはず。  そう思って、時計を見ようとした時。  突然、心臓がぎゅうっと締めつけられるような感覚を覚えた。  痛い。  苦しい。  胸を押さえ、短い呻き声を漏らす。  幸い、それほど長くは続かなかった。鋭い痛みは、始まった時と同じくらい唐突に去り、私は息を吐きながら顔を上げる。  そして――  屋上に倒れている美杜さんに気がついた。 * * * 「あ、幸恵ちゃん。今日もお見舞いに来てくれたの? ありがとう」  病院のロビーで、美杜さんのお母さんと会った。  以前にも何度か会ったことがある。美杜さんとよく似た、綺麗な人だ。歳よりもずっと若く見えて、知らなければ、ちょっと歳の離れた姉妹と言われても信じたかもしれない。 「それで、あの……美杜さんの様子は?」 「相変わらず」  お母さんは苦笑しながら、小さく首を振った。  あれから一週間。  美杜さんは眠り続けている。  あの日、樹が切り倒されるのと同時に意識を失って倒れ、そのまま眠り続けている。  外傷はない。脳波も正常。精密検査をしても、身体にはなんの異常も見つからない。医学的には、ただ眠っているのとなにも変わらない。  なのに、意識が戻らないのだ。 「もう、一週間になるのにねぇ。友達をこんなに心配させて、あの子ってば、もう」  その口調は、愛娘のことを心配しているというよりも、むしろ怒っているようだった。 「深くつながりすぎてしまったのね。注意してたのに。もっと早くに幸恵ちゃんみたいな友達ができていれば、こんなことにはならなかったでしょうに」  お医者さんは首を傾げている、美杜さんが目覚めない理由。お母さんはわかっているらしい。私も漠然とではあるが、言っていることの意味は理解できた。  美杜さんと一緒に、あの樹の下にいた時のことが思い出される。  自分の意識が身体を離れ、樹の中に広がっていくような感覚。  美杜さんはずっと以前から、あの樹と「つながって」いたのだ。きっと今も、あそこにいるに違いない。  もちろん、お母さんは美杜さんの『力』のことを知っている。お母さん、お祖母さん、そしてひいお祖母さん、代々受け継がれてきたものなのだ。特にひいお祖母さんは強い力を持ち、名の知られたトゥス・クルだったのだそうだ。  しかし、北海道がアイヌの土地だった時代とは違う。現代日本は、こうした超常の力が受け入れられる世界ではない。  お母さんよりもずっと強い力を持っていた美杜さんは、小さな頃から奇異の目で見られていたという。自然と『力』を隠すようになり、親しい友人を作ることもなくなった。  美杜さんにとって、この世界は決して住みやすいところではなかったのだろう。そして彼女には、もっと居心地のいい場所があった。  一番大切なものがこの世界から失われる時、美杜さんは一緒に行くことを選んだのだ。 「以前にもこんなことがあったの。あの子が小学生の頃、可愛がっていた犬が死んでしまった時に……」  その時、身体を離れて異なる世界をさまよっていた美杜さんの魂を連れ戻したのは、お祖母さんだったそうだ。だけどそのお祖母さんも、美杜さんが中学生の時に亡くなっている。お母さんの力は美杜さんよりもずっと弱く、同じことはできないという。 「なにか、きっかけがあれば戻って来られると思うの。ただ、それがいつになるか……」  お母さんの様子は、あまり深刻そうではない。いつかは目覚めると、信じているようだ。だけど私としては、一日でも、一分一秒でも早く目覚めてほしい。 「時間があるのなら、しばらく傍にいてあげて。幸恵ちゃんがなにかのきっかけになるんじゃないかって、ちょっと期待してるのよね」  そう言って、お母さんは家事を片付けるために家へ帰っていった。私は一人、美杜さんの病室に入る。  個室のベッドの上で、美杜さんが眠っている。静かな表情で。  ここが病院で、腕に点滴の管が入っていなければ、本当にただ眠っているとしか思えない。  ベッド脇の椅子に腰を下ろし、美杜さんの寝顔を見おろす。  伏せられた長い睫毛。やっぱり、寝顔も綺麗だ。  じっくりと観察しても、昨日となにも変わっていない。目覚める気配はない。  美杜さんの身体はここで眠っているけれど、本当はここにはいない。この身体は抜け殻でしかない。  その魂は、いったいどこを彷徨っているのだろう。  どうしたら、還ってきてくれるのだろう。  寝顔を見つめているうちに、涙が滲んできた。  美杜さんのいない毎日が、すごく寂しかった。  この街に引っ越してきて、初めて出会った人。  まだたった三ヶ月ほどの付き合いなのに、心の中でいちばん大きな位置を占めるようになった人。  いちばん、大好きな人。  なのに美杜さんは、私の気持ちも知らずに眠り続けている。まるで、童話の眠り姫のように。  眠り続けるお姫様は、王子様の口づけで目を覚ますものだ。  衝動的に、私は美杜さんと唇を重ねていた。柔らかな感触が伝わってくる。  だけど、もちろんなんの反応もない。美杜さんは目を覚まさない。私は王子様じゃないのだ。  悲しくて。  悔しくて。  涙が頬を伝い落ちた。  もう一度、今度は少し乱暴に唇を重ねる。美杜さんの唇の間に、強引に舌を割り込ませる。  唇を重ねたまま、手を、パジャマの中に滑り込ませる。大きな乳房を手のひらで包み込む。  こんなこと、初めてだった。女子校だから、友達と、服の上から触ったりするくらいのおふざけは珍しくないけれど、直に他人の胸に触れるのは初めてだった。  美杜さんの胸は柔らかくて、手に吸いつくくらいに滑らかで、ゴムボールのような弾力がある。  その先端を、指先でつつく。軽くつまむ。そして、眠っている美杜さんの耳元でささやいた。 「美杜さん、起きないと襲っちゃいますよ。いいんですか? うんとエッチなこと、しちゃいますよ?」  パジャマのボタンを外す。  ゆっくりと。  ひとつ。ふたつ。  艶めかしい、胸の谷間が露わになる。  それでももちろん、目覚める気配はない。私の声は、美杜さんの耳には届いていないのだろうか。  涙がこぼれ落ちる。一滴、二滴。  胸の膨らみの上で弾ける。 「ずるいじゃないですか、私を放って……。私、美杜さんのこと大好きなのに。美杜さんの傍にいたいのに。……美杜さんは、私がいなくても平気なんですね」  悲しくて、それ以上に悔しくて。  美杜さんの上に突っ伏すようにして、胸に顔を埋めて私は泣いた。  私のことなんか、どうでもいいのだろうか。美杜さんは、私よりもあの樹の方が大切なのだろうか。  好意を持たれていると、思っていた。  なのに……。  そうだ。  美杜さんだって、私のことは好きなはずだ。絶対に、自惚れなんかじゃない。  私は、やり方を間違えたのだ。  違う。美杜さんに対する呼びかけは、こうじゃない。  手の甲で涙をぬぐうと、三たび唇を重ねた。舌を伸ばして、舌先で美杜さんの舌をくすぐる。  手は、胸への愛撫を再開する。先端の敏感な部分を重点的に、指先で優しく刺激する。  そんな行為をしばらく続けてから、手を下半身へと移動させた。  パジャマの中に滑り込ませ、ショーツの上で指を動かす。  以前、蛇の怪物の事件の時に、美杜さんが私にしたように。  指を強く押しつけたり。微かに、触れるか触れないかという微妙な位置でくすぐったり。  自分が同じことをされたら、気持ちよくてエッチな気分になってしまうくらいに。  もしかしたら、ひどく異常な行為かもしれない。  同性で、しかも恋人ではない、意識のない相手に、病院のベッドの上でエッチなことをしているのだ。ひとつ間違えば痴漢行為、いや、むしろレイプといってもいい。  それでも私は、愛撫を続けた。もう、他に思いつくことはなかった。  パジャマのボタンをもうひとつ外して、全体が露わになった胸にキスをした。唇を押しつける。乳首を口に含んで軽く吸う。  その間も、指はショーツの上で動かし続ける。  これが自慰であれば、そろそろ達してしまうくらいの時間、そうしていて。  そして、不意に愛撫をやめる。  唇を離し、美杜さんの顔を覗き込んでささやいた。 「気持ち……イイですよね? 目を覚ましてくれたら、続きをしてあげますよ?」 終章 kamuy‐mintar  原始の姿を遺した深い森に、鈴の音が響く。  美杜さんが踊っている。  紅葉もピークを過ぎた地味な色彩の森の中に、ぽっかりと開いた小さな草原で。  吐く息はもう白い。澄んだ鈴の音が、冷たい空気を震わせる。  美杜さんが踊っている。  長い髪を秋風になびかせ、スカートを翻して。  楽しそうに、嬉しそうに。  その姿に見入っていた私は、遠くで、大きな黒い獣がこちらを見つめているのに気がついた。  羆だ。冬眠を控えた秋の羆は危険なものをされているけれど、不安は感じなかった。  私は確信していた。この地の獣が、美杜さんを襲うはずがない。事実、敵意は感じられない。ただ、興味ありげな顔でこちらを見ているだけだ。  知床の原始の森。遠い昔のアイヌモシリの姿を遺す地。  私は苔むした倒木に腰掛けて、美杜さんを見つめていた。  こうしていることが嬉しくて仕方がない。  美杜さんの踊りを見ているのが好き。  美杜さんと一緒にいることが好き。  涙が出そうなほどに嬉しかった。  あの翌日、美杜さんは何事もなかったかのように目を覚ました。  ちょうどお見舞いに来ていた私の顔を見て、普段と変わらぬ口調で「おはよう」と微笑んだ。  精密検査でもなんの異常も見つからず、すぐ退院することになった。  それから間もない九月の連休に、私の方から美杜さんを旅行に誘ったのだ。  元気づけたかった。  一見、普段と変わらぬように見えるけれど、やっぱりどこか元気がなかったから。  あの公園の傍を通る時、一瞬立ち止まって、寂しそうな表情を浮かべていたから。  そんな美杜さんを、少しでも元気づけたかった。  いろいろと考えて選んだ目的地は、知床半島。自然の多い北海道でも、もっとも豊かな自然が、原初の森が遺っている土地。  こうした場所に来ると、美杜さんは本当に生き生きとしている。この旅行がよほど楽しみだったのか、札幌を出発した時から、すごく嬉しそうだった。 「……ありがとう、幸恵」  踊りを終えた美杜さんが、隣に座る。  うっすらと汗ばんだ身体の温もりが伝わってくる。 「この時期の知床は私も初めて。一度、来てみたかったのよね」  頭を私の肩に乗せて、甘えるように言う。  心拍数が跳ね上がる。体温も、いきなり何度か上昇したように感じる。  最近、ずっとこうだ。  あの病院での一件以来、美杜さんが五十センチ以内に近づくと、平常心ではいられない体質になってしまった。  白い、滑らかな肌。艶めかしい曲線を描く胸のふくらみ。先端の、小さなピンク色の突起。  そうした記憶が一気に甦ってきて、恥ずかしさのあまり死にそうになってしまう。  なのに美杜さんってば私の気持ちも知らず、退院してからというもの、以前よりも頻繁にすり寄ってくるようになっていた。 「誘ってくれて、嬉しかった」 「……美杜さん、こーゆーところ好きかと思って」  どきどき、どきどき。  速い、大きな鼓動。顔が赤くなる。意識していることを気づかれてしまうのではないかと不安になって、そっぽを向いてわざと素っ気なく答えた。  なのに。 「うん、大好き」  美杜さんは私の両頬に手を当てて、強引に自分の方を向かせて、私の理性がとろけてしまうような笑顔で言うのだ。 「そして、あなたのことも大好き」  ……反則だ。  こんな、ど真ん中の直球勝負なんて。 「だから……」  腕が回される。身体が密着して、美杜さんの顔が近づいてくる。唇が耳たぶをくすぐる。  心臓が破裂しそうだ。じゃなければ、脳の血管が百本くらいまとめて切れてしまいそう。 「だから……、あの時の続き、してね?」 「――っ!」  驚きのあまり、硬直してしまう。  まさか。  あれを、聞かれていた?  あの時、なにをしていたのか知っている?  あんな変態的な行為を知られていたなんて。  目覚めてから今日まで、なにも言わなかったくせに。  ああ、もう。穴があったら……ううん、自分で穴を掘って、化石になるまで百万年くらい埋まってしまいたい。  私は顔も耳も、紅葉よりも真っ赤になって固まっていた。そこへ、美杜さんの顔が近づいてくる。 「眠っている十八歳の乙女にあんなことをしたんだもの、責任とってくれるよね?」  唇が押しつけられる。体重を預けるようにして、押し倒されてしまう。  りん、りん。  衝撃で、美杜さんの腕の鈴が鳴る。私が暴れても放してはくれず、ただ、鈴の音だけが大きくなる。  しかしその音はやがて、美杜さんの甘い吐息にかき消されていった。 あとがき  たいへん長らくお待たせいたしました。  ようやく完結です。  連載開始が二月末ですから、約八ヶ月強……当初の予定では半年で終わらせる予定だったんですけどねぇ。何がいけなかったんでしょう?  ラグナとか。  未公開の秘密の長編とか。  まあ、いろいろあるわけですが、そろそろ、ちょっと心を入れ替えたいところです。……って、以前も言ったような記憶がありますが、今度こそ(笑)。  この作品は、これまでのキタハラ作品とはちょっと違っています。  一括書き下ろしではなく連載だったり、長編なのに一人称だったり。  それでもやっぱり、百合でしたね〜。予定では、ここまで百合度が濃くなるはずではなかったのですが、書き進めるほどにどんどん百合になっていくあたりはやっぱりキタハラ作品でした(笑)。  それでは完結記念に、読者からの質問がもっとも多かった「タイトルの意味」を簡単に説明しておきましょう。  まずは作品タイトルの『tus(トゥス)』。  一般には「呪術」などと訳されますが、占いとか予言とか、神託とか、そういった能力の総称、またはその能力を持った人。言うまでもなく、美杜と、彼女の力のことです。  序章『iramkarapte(イランカラプテ)』。  目上の人や、初対面の人に対する丁寧な挨拶の言葉です。『ふれ・ちせ』のトップページにも書かれていますが「初めまして」の意味もあるので、序章のタイトルとしました。  ちなみに私は最近、iramkarapteは「ごきげんよう」と訳すのがもっともふさわしいと思っています(笑)。  一章『rayochi(ラヨチ)』。  虹です。これはもう、説明するまでもないでしょう。  二章『sirokanipe(シロカニペ)』。  作中でも紹介されている『アイヌ神謡集』に収められている『梟の神の自ら歌った謡』の冒頭の一節です。  三章『atuy(アトゥイ)』。  海です。海を表す語としては「rep‐un(レプン)」が有名ですが、これは「沖合」を指す言葉で、「海」を指す一般名詞はatuyを用いるようです。  ちなみに三章は、多分全編でもっとも暗いエピソードの章。キタハラ作品には欠かせない「暗い過去」です(笑)。  四章『tokkoni(トッコニ)』。  (※『kinasutun‐kamuy』から改題)  マムシです。そのまんま。  実はこのエピソードが、一番最初に思いついた『トゥス』の物語だったりします。その原案では美杜の方が転校生で、二人はクラスメイトでしたが。  その小ネタにいろいろと前後のエピソードを付け足したものが、この連載版『トゥス』です。  五章『ahunpar(アフンパル)』。  異世界(一般には「黄泉の国」)へ通じる穴・道。山奥とか海中にある洞窟が、この名で呼ばれることが多かったようです。  六章『tus‐kur(トゥス‐クル)』。  意味は作品タイトルの項参照。  トゥスは守護神から授かる力とされていますが、一般には遺伝するもののようで、作中に書いた通り、美杜の母方は代々トゥスの家系です。  終章『kamuy‐mintar(カムィ‐ミンタラ)』。  直訳すると、「神々の庭」。一般には、山中の深い森の向こうに現れる、樹木の少ない草原・花畑がこう呼ばれたようです。神々がこうした場所に集まって宴を開くと考えられていたのでしょう。  それでは最後に、恒例の次回予告ですが……。  未定、です。  短編は『光』や『たた少』のカーテンコールを考えていますが、はっきりとした時期は未定。  長編は『一番街』か、まったくの新作か……。新作だとして、ファンタジーか現代女子校百合モノか……。  これから考えますので、気長にお待ちください。 二○○三年一○月 北原樹恒(Kitsune Kitahara) kitsune@nifty.com 創作館ふれ・ちせ http://hure-chise.atnifty.com/