――って、祐巳が紅薔薇さまに連れて行かれたのはミルクホールだった。
「さあ、遠慮しないで飲んで飲んで」
「はぁ……」
勧められても、ホットミルクはそうぐびぐびとはいかないわけで。おまけに、瓶から直接飲まなきゃいけないシステムだし。祐巳がぐずぐずいっていると、紅薔薇さまは声をひそめて言った。
「じゃあ、猫舌の祐巳ちゃんのために、冷ましてあげましょう」
「……って、何しているんですか!」
「何、って。見ればわかるでしょ」
紅薔薇さまったら、祐巳がフーフーしながらやっとこさ三分の一飲んだあっため牛乳の空いたスペースに、先刻自販機で買ってきたペットボトルの中身を注いでいたのだった。
「ド、ド、ド、ド」
「どうして、って言いたいわけ?」
そうじゃなくて。いや、それもあるけど。
なんで、なんで、よりにもよって……。
「ド、ドク○ーペッパーで割るんですかっ!」
せめてコカ○ーラだったら……って、あまり変わらないような気もするけど、単体でなら美味しいコ○コーラと、ストレートで飲んでもアレなドクター○ッパーとでは、やっぱり事情が違う。
「嫌だ、そんな顔しないでよ。ドクタ○ペッパーくらいで死にはしないから」
「そんなのわからないじゃないですか。死んだらどうするんですか」
「大丈夫大丈夫。祐巳ちゃんだけに辛い思いはさせないわ」
自分の牛乳にも、トックントックンと注ぐ。
「これを飲ませるために、私を誘ったんですか……?」
すると、「違うわよ」と紅薔薇さまは首を横に振る。艶々の黒い髪が、左右の頬を一回だけ撫でて落ち着いた。
「祥子の保護者」
「はぁ?」
「祐巳ちゃん」
紅薔薇さまは目を細めて小さく言った。
「祥子のことをよろしくね」
「……は……い」
「可愛げがないけれど、あれでも私にとってはかけがえのない妹なのよ」
そんな『遺言』を言い終えた紅薔薇さまは、手にした(ぬるい)ドクターペ○パー牛乳を一気に口に流し込んだ。
そして――
『遺言』は本当の遺言になってしまった。
後かたづけを終えた祐巳と由乃さんは、一階のつぼみたちと合流した。部屋に入った瞬間、肩を丸めた三人の姿を見て泣いているのかとびっくりした。が、そうではなかった。
「ほら、見て。紅薔薇さまの私物がたくさん」
二人に気づいた祥子さまは、笑いながら紙袋を掲げた。
「荒縄、ロウソク、バラ鞭……? あ、これ以前ないないって騒いでいた手錠だ!」
「祐巳さん、一つ一つ取り出さないでよ」
由乃さんが、顔を赤らめる。紙袋の中には他にもいろいろと、コバルト検閲で詳しく書けない物まで入っていた。
「それにしても、名前が描いていないのに、どなたのかよくおわかりですね」
祐巳が素朴な疑問を口にすると、祥子さまは鞭を手の平にのせて頬ずりした。
「もちろん、わかるわよ。だって、いつもこれで打たれていたんですもの」
「……てゆーか、薔薇の館でこんなもの使う人、他にいないでしょ」
令さまが小声でつっこみを入れる。
一階のこの部屋は、紅薔薇さま専用の『調教ルーム』だったのだ。
「これからは、私が祐巳を調教していく番ね」
何かに言い聞かせるように、祥子さまはつぶやいた。祐巳は真っ青になる。
(紅薔薇さまっ! 「祥子のことををよろしく」って、そーゆー意味だったんですかっ?)
祥子さまのことは大好きだけど、ちょっと興味もあるけれど……。
「わ、私、痛いのはちょっと……」
「大丈夫。すぐに気持ちよくなるわ。私もそうだったもの」
(ひえぇぇぇっ!)
祐巳は、祥子さまがボンテージに身を包んで、手に鞭を持っている姿を想像する。
あまりにも、似合いすぎていた。
「えっ……!?」
驚いたのは、祐巳の方だった。
ほんの少し背伸びして、白薔薇さまの唇からちょっとずれたところにあるほっぺに、こちらからチュッとやった……はずだったのに。
突然迫ってきた祐巳に驚いて、白薔薇さまが顔を少し動かしたものだから、唇と唇がもろに重なってしまった。
「……祐巳ちゃん!」
予想外の展開にパニックに陥って、とんぼ返りしようとした祐巳の腕を、白薔薇さまは掴まえて乱暴に抱き寄せた。
「祐巳ちゃんの方からキスしてくれるなんて……、ようやく私の想いが届いたのね!」
「ち、違いますよ! これは事故……」
しかし言い訳しようと開きかけた口は、再び白薔薇さまの唇にふさがれ、祐巳はそのまま机の上に押し倒されてしまった。
(唇の危機どころか、これじゃ貞操の危機だよー。お姉さま、助けてー!)
しかしその光景を見守っていたのは、祥子さま以外の人物だった。
(な……何やってるのよ!)
蓉子はその光景に目を見張った。
六年間通ったリリアンにお別れを言うために、放課後の校舎をぶらぶらと一周していたときのこと。
最後に足を向けたのは、大切な親友のいる教室。
扉が閉まっていたので、誰か中にいるのかと近付いたところ、突然中から「カーット!」という叫び声がした。一瞬、映研か放送部がビデオ撮影でもしているのかと思ったが、聞き覚えのあるその声の主は、どちらの部にも所属していない。
ほんの少し扉を開けて、中を覗いてみる。
予想通り。祐巳ちゃんが真っ赤な顔をして、扉の前に立っていた。窓際に立って笑っている聖の姿も見える。
誰もいない教室に二人きりで、しかも扉まで閉めて、いったい何をしていたのだろう。
扉の前でしばらくぶつぶつとなにやらつぶやいていた祐巳ちゃんは、両手の拳を握ると、いきなり聖の方へと駆け戻っていった。
そして――
(ま……まさか!)
確かに聖と仲がいいとはいえ、あの祥子一筋の祐巳ちゃんが、自分から進んで聖にキスするなんて。聖が無理やり、というのなら話はわかるが。
いったい、何があったというのだろう。
パシャッ。
すぐ後ろで、軽いシャッター音がした。
はっと振り向くと、いつの間に忍び寄ったのか、カメラちゃんこと武嶋蔦子ちゃんが立っている。もちろん、カメラを構えて。
「……蔦子ちゃん」
「ごきげんよう、紅薔薇さま。病院に運ばれたしたとお聞きしましたが、無事に復活なさったようで」
一瞬だけカメラを顔の前から離し、蔦子ちゃんがにこっと笑う。さすがに早耳だ。あのミルクホールでの事件も知っているらしい。祐巳ちゃんと仲がいいから当然か。
「当然でしょ。○クターペッパーくらいで死んでたまりますか。七歳の頃には、サ○ケで試してみたこともあるのよ。それより、今の問題はこっちの方よ」
「ですね。先刻、祐巳さんの様子が少し変だったので、気になって後をつけてきたのですが」
話しながら、ぱしゃぱしゃとシャッターを切り続ける蔦子ちゃん。蓉子も教室の中の光景から目をそらせない。
中からは、サド心をくすぐる祐巳ちゃんの悶え泣く声が聞こえている。
「ああっ。聖ってば、そんなところまで……」
「おお、これは……」
二人はごくりと生唾を飲み込む。
「ねえ。その写真を祥子に見せたら、どうなると思う?」
「それは……考えるのも恐ろしいことになるでしょうね。あのやきもち妬きの祥子さまですから」
「じゃあ、写真を祥子に見せると祐巳ちゃんを脅したら?」
にやり、と笑って蓉子は言った。シャッターを切る手を止めて、蔦子ちゃんがこちらを向く。
「……紅薔薇さまの大好きな『調教』だろうと、私の夢であるヌード撮影会だろうと、言いなりでしょうね」
「でしょ?」
「ふっふっふ……」
「うふふふふ……」
二人は揃って、危険な笑みを浮かべた。
明けて卒業式の朝。
晴れの日に相応しく晴天に恵まれ、娘の門出を見守ろうというPTAも着物の裾を気にすることなく体育館にぼちぼち集合し始めているという、まさにその時間。
どうしよう、
どうしよう、
どうしよう――!
祐巳は三年生の教室が並ぶ廊下を、おろおろと歩いていた。
まさか昨日のあのシーンを、見られていたなんて。
しかも、写真に撮られてさえいたなんて――。
今朝、蔦子さんから聞かされて、顔から火が出そうになった。
『写真とネガが欲しければ、あげてもいいけど……』
蔦子さんは笑って言った。その隣に何故か、紅薔薇さまが立っていた。
『いいけど。ちょっとばかり条件が』
『条件?』
それは前々から蔦子さんに頼まれていて祐巳が断り続けている、ある写真を撮らせること――と。
そんな条件、飲めるはずがない。
かといって断れば、この写真は祥子さまの手に渡ってしまう。
福沢祐巳、人生最大の危機だった。
「どうしたの?」
前に並んでいる佐々木克美さんが訊いてくる。
聖は小さく肩をすくめた。
「ん? いや。あまりクラスに貢献しなかったな、と思ってね」
「仕方ないわよ。聖さんは、高等部みんなのお姉さまだったんだもの」
可愛いことを言ってくれる。思わず押し倒したくなったが、ここは人目があるので慎んだ。
式の後で、人気のないところに呼び出そう。
(そして、あ〜んなことやこ〜んなことを……。昨日の祐巳ちゃんは結局キスだけで、ちょっと欲求不満だもんなぁ。やっぱりキスだけじゃなくてその先の……)
「聖さん、前空いてるわよ」
聖の後ろ、もう一人の佐藤さんである信子さんが小声で指摘する。妄想に浸っている間に、行列は進んで前には五メートルほどの隙間ができてしまっていた。
「悪い」
聖は後ろに声をかけて、小走りで詰める。
(本番か)
……いいかも。
ここでいう『本番』は、もちろん卒業式のことではない。
(そうそう。柏木さんも卒業か……)
江利子はふと、祥子の婚約者を思い出した。
あんな素敵な王子様は滅多にいない。
美形で頭が良くて、花寺学園の生徒会長。しかも同性愛者。
まるで、ボーイズラブ小説の登場人物そのものではないか。そんな人物が、身近に実在するなんて。
そうだ、たとえば――
強面の外見に似合わずウブで純情な非常勤講師と、美形でやり手の生徒会長のカップリング(もちろん年下攻)というのはどうだろう。
なんともそそられるシチュエーションではないか。
少し前までは柏木×ユキチのカップリングこそ最高と思っていたが、人間の気持ちなんてそんなものである。
代わりにのめり込んだのが、似ても似つかない熊男。だから人生は面白い。
(それにしても)
江利子はパイプ椅子に座りながら、自分自身で呆れていた。式の途中だというのに、執筆意欲がむくむくと湧いてくる。
ここにワープロがないのが残念だった。
緊張し始めたのは、卒業式もそろそろ終盤にさしかかった頃である。
参った、と蓉子は思った。顔にこそ出さないが、胸はドキドキしている。そして自分の動悸を意識し、ますます焦ってしまうのだ。
視線の先には、送辞を読むために前に立った祥子の姿がある。
蓉子の可愛いネコ。
りりしく美しく、そしてガラスのような透明で儚い心を持った少女。
しかも、上流階級のお嬢様。
(こーゆー子を苛めるのが興奮するのよねー)
と、蓉子のサド心をくすぐってやまない少女。
その祥子が、涙を溢れさせている。
こんな祥子の姿を見たのは、蓉子も初めてだった。
気丈な子なのに。他人に弱い部分を見せることが大嫌いな、天の邪鬼の意地っ張りなくせに。
蓉子が鞭やロウソクで苛めても、きゅっと唇を噛みしめて耐えるのが常なのに。
新鮮な光景だった。すごく興奮して、動悸が治まらない。
今すぐ側に行ってやりたい、と蓉子は思った。
そして――
(くぅぅ、もっと泣かしてぇー)
しかし送辞を受ける側の人間には、「ほらほら、もっといい声でお泣き!」と鞭で打つこともできない。
それに、ここで姉に苛められたりしたら、祥子は生徒会を率いていく自信をなくしてしまうだろう。「強がっているくせに、お姉さまの前ではマゾな子猫ちゃん」というイメージは、プライドの高い祥子にとってあまりに屈辱的だ。
いや、待てよ。
(屈辱的……いいかも。祥子のプライドを、全校生徒の前でズタズタに……。ああ、考えただけで興奮するわ!)
しかしリリアンで過ごした六年間、薔薇の館の外では隠し通してきた蓉子の性癖を、今さら暴露するわけにもいかない。
(うぅ……。こんなに悔しいことは、生まれて初めてだわ!)
血が滲むほど強く唇を噛んで、蓉子は悔し涙を流していた。
(ああ、泣いているお顔も美しい……)
祐巳は思わず、送辞を読みながら泣き出した祥子さまに見とれてしまった。
が、すぐにそれどころではないことを思い出す。
(うぅ……どうしよう)
あんな写真を、祥子さまに見られてしまったら。
大変なことになる。
祥子さまはあれで、相当なやきもち妬きだ。
もちろん、祐巳のことで妬いてくれるのは嬉しいんだけど、雷が落ちるのはやっぱり怖い。
ふと、先月のバレンタインデーのことを思い出した。
今回はあのくらいではすまないだろう。今度こそ本当に、愛想を尽かされてしまうかも。
なんとか、その前に説明しなければならない。あれは事故で、一番好きなのは祥子さまなんだ、って。
かくなる上は――由乃さんじゃないけれど。
先手必勝!
紅薔薇さまと蔦子さんが、写真を祥子さまに見せる前になんとかしなければ。
祐巳は椅子に座ったまま、ぎゅっと両手の拳を握った。
陽射しが、温かい。
昇降口から外に出た瞬間、蓉子は思わず目を細めた。太陽がほぼ真上で、降り注ぐ光線を遮る雲はほとんどない。
昇降口を出たところには、山百合会の仲間達が揃っていた。
祥子、令、由乃ちゃん、志摩子、そしてどことなく青い顔をした祐巳ちゃんと、楽しそうな武嶋蔦子ちゃん。
これから山百合会のメンバーで、卒業記念写真を撮ることになっているのだ。
天候に恵まれて、よかった。傘をさしての記念写真は、シチュエーションとしては面白いけれど大変だ。
「どこで撮る?」
蔦子ちゃんを加えて相談を始めると、祐巳ちゃんがこそこそと祥子を輪の中から連れだした。
(どうするつもりかしら)
非常に興味深かったので、蓉子はその場で輪の外の二人に意識を集中した。蔦子ちゃんも気付かないふりをしながら、その実いつでもカメラを構えられるように胸の前に持っている。
「お……お姉さま!」
祐巳ちゃんが、いきなり祥子にキスをした。
(ほう)
けっこう度胸あるじゃないか、と蓉子は感心した。
「な、なによいきなり!」
山百合会の仲間たちと蔦子ちゃん、そして新聞部長とその妹の前でいきなりキスされた祥子は、ばつが悪いのだろう、妹に対して攻撃的な受け答えをした。
「お姉さま! 私、お姉さまのことが大好きです!」
「あなたね――」
なにやら文句を言いかけた祥子は、真っ赤になった祐巳ちゃんの迫力に圧倒されて黙った。
「……今さら言われなくても、わかっているわ」
祥子も真っ赤になって、照れ隠しにちょっと怒ったように答える。けれど、すぐに表情を崩した。
「わかっているから、こんな人前ではおやめなさい」
うれしさを隠しきれずにそう言った祥子は、とてもいい表情をしていた。
「……脅すとか調教とか言って、実は可愛い妹のために一肌脱いだってわけですか?」
他のメンバーが祥子と祐巳ちゃんを取り囲んで冷やかしている間に、蔦子ちゃんが側に来てそっと言った。決定的瞬間を逃さずカメラに収めた彼女も、嬉しそうにしている。
「まあ、ね。こうでもしないと、あの子たちなかなか進展しないんですもの」
悪戯な笑みを浮かべて答えた。これで最後なのだから、置きみやげのひとつくらいは残していきたい。
それに――
「それに、私の夢のためでもあるわね」
「夢?」
蔦子ちゃんが聞く。
「祥子に祐巳ちゃんも交えて、3P……よ」
ふふふっと、蓉子は妖しげな笑みを浮かべた。
―終わり―
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