「お姉さま、本当にいいんですか?」
とある建物の入口で、祐巳は前に立っている祥子さまのコートの袖を引っ張って尋ねた。
「何が『本当にいい』なの?」
「十七年間守り続けてきた純潔が、今日をもって破られるという……」
「大げさね。予定通りの行動に、一々文句言わないでちょうだい」
「でも、……っ」
祐巳がそのコースを了承したのは、まさか『初体験』だなんて知らなかったからだ。
「いいから、あなたは作法を教えてくれればいいの。私が戸惑ったら、ちゃんとリードしてくれないとだめよ」
「はあ」
これは何の会話だろう、としゃべっている祐巳自身が思った。作法って、リードって。こーゆー場合は普通、年上のお姉さまがリードしてくれるものではないだろうか。第一、祐巳だってもちろん初体験だ。
そう。
実は二人、現在ラブホテルの前にいるのだ。
驚くべきことに、何と祥子さま、今日が初体験であるという。生まれながらのお嬢様だから、と片付けてしまえばそれまでなんだけれど、平成の時代の東京に住んでいる女子高生としては、それはかなり希少な存在である。(※註・筆者の偏見である)
紅薔薇さまという見るからにサドな姉がいるのにこの年まで未経験であるのには、ご家庭の方針とかこだわりとかが関係しているかもしれないわけで。だったらせめてお家に電話して、許可もらってからチャレンジしてもいいんじゃないかと、そんなこと絶対に許可するはずがない父親の心理が今ひとつのみ込めていない祐巳なんかは、気を回してしまうのだ。
「何なの」
「いえ」
お嬢様道というものがこの世に存在しているのならば、大きく踏み外してやしないだろうか。しかし、そんなこと口にしたら不快な顔するだろう、ってわかっているからあえて言わない。
いつまでもラブホテルの入口で言い争っているのもなんなので、二人は中に入った。
「いいですか、ごく普通の部屋でいいんですよ」
「何度も言わなくたってわかっているわよ。産婦人科用の椅子や三角木馬があったり、壁に手枷がついているような部屋はなし、でしょ」
「そうです。最初からそれでは、アブノーマルすぎますからね」
「はいはい」
物事には順序というものがある。マゾっ気のある祐巳としては、祥子さまに鞭でぶたれたりするというのも興奮するけれど、いざとなると「やっぱり痛いのはちょっとな」とか思ってしまう。
「あら、誰もいないわ。お昼休みなのかしら?」
無人のフロントで、祥子さまは戸惑ったようにきょろきょろと周囲を見回した。真顔ということは、本気で言っているんだろうな、祥子さまは。
「このホテルは全自動化されていて、お客が好きな部屋の鍵をここから持っていって、部屋の中にある支払機で精算する、そういうシステムなんです」
これは、祐巳が昨夜お母さんから聞いた話の受け売り。フロントにあるキーケースから鍵を一本抜き取ると、廊下の奥で、ドアの上のプレートが点滅を始めた。あそこがこのキーの部屋だ。
「あなた教えてくれなかったじゃない」
部屋の中に入るなり、祥子さまは声をひそめて言った。
「でも、普通は見ればわかるものじゃないですか」
「祐巳が後ろでごちゃごちゃ言っているから、観察なんてできなかったのよ」
「あくまで私のせい、なんですね?」
「どこか違って?」
負けず嫌いであまのじゃくの祥子さまは、自分の失敗を妹になすり付けて平然と笑った。その笑顔が楽しそうだったので、祐巳は「ま、いいか」と思った。
祥子さまに失敗は似合わない。赤面してうなだれている顔より、偉そうに笑っている顔の方が見ていて嬉しい。
「ラブホテルの部屋の中って、こうなっているのね」
ゆっくり奥に向かって進みながら、興奮気味に祥子さまがつぶやく。
(本当に初体験なんだなぁ……)
でも近頃はティーン向けの雑誌でもお洒落なホテルの紹介記事とかがあるし、ラブホテルがどんなものか知らない人って珍しいと思う。
「この鏡はいいわね。祐巳の姿を全方向から見ることができて」
祥子さまはベッドの周囲の壁や天井に張り巡らされた鏡を見て感心する。祐巳としては少し恥ずかしいんだけれど。
そう思って頬を赤らめていると、祥子さまがこちらを振り返って祐巳の頬に手を当てた。
「なんだか興奮してきたわ。醒めないうちに、祐巳、食べてもいい?」
「……はい」
しかし、祥子さまはそう言ったものの、なかなか祐巳に手を出さない。ダッフルコートとセーターを脱がせるまでは順調だったのだが、そこでなにやら考え込んでしまった。
しばらく様子を見ていたものの祐巳はだんだん不安になってきた。ひょっとして、お色気のかけらもない祐巳の身体に、呆れてしまったのではないだろうか、と。
今日の祐巳は、愛用のコットンの下着。お姉さまとお出かけだと知ると、お母さんはセクシーな下着でもガーターベルトでも何でも買ってあげるって言ってくれたけれど、お子様体型の祐巳には本当にどうしようもなく似合わないものなのだ。
「あの、お姉さま?」
「こういう場合、祐巳を裸にしてから私が脱ぐべきなのかしら。それとも、交互に一枚ずつ脱いでいった方がいいのかしら」
「え?」
なにかと思ったら、ここから先の手順について悩んでいるらしい。そんなの、祥子さまの好きなようにすればいいと思うんだけど。
「昨夜、ちゃんとイメージトレーニングしたはずなのに……思い出せないわ」
不安げに、祥子さまは辺りを見回した。
(まずい)
祐巳は気づいた。祥子さまは落ち込みかけている。初体験でうまくできなかったりしたら、今後の人生に大きく響くのではないだろうか。トラウマ、っていうの? それは困る。
「しっかりしてください、お姉さま。私がついていますから」
祐巳は祥子さまの両手を自分の両手で握って、励ました。ここは妹の自分がなんとかしましょう、と。
初めてなのは祐巳も同じだけれど、昨日お母さんにいろいろとアドバイスを受けてきたから。だけど、祥子さまが清子小母さまにこんな相談をするところは想像できないし、きっと独学なのだろう。
「……祐巳」
「こういったことに決まった手順はありません。好きなようにすればいいんです。私、お姉さまになら何をされてもいいですから」
それを聞いて、祥子さまは少しホッとしたような顔をした。よかった。さっきは、乗り物酔いした人みたいな顔色していたから。
「……ありがとう、祐巳」
祥子さまの顔がゆっくりと近付いてくる。祐巳は顔を少し上に向けて、目を閉じた。
唇が重なる。
憧れのお姉さまとの、ファーストキス。
そして、祐巳の唇を割って口の中に入ってくる、柔らかな感触。
「……っ! あのっ、お姉さまっ?」
「え?」
呼ばれて顔を離した祥子さまは、奇妙な表情で祐巳を見た。
「お姉さま。ファーストキスでは普通、舌は入れません」
「……のようね」
祥子さまは苦笑いし、それからもう一度、優しく触れるキスをしてくれた。
「うわぁぁぁー。お姉さまっ、ごめんなさい!」
祐巳は自分のベッドの上で、恥ずかしさのあまり頭から毛布をかぶって悶えた。
なんというはしたない夢を見てしまったのだろう。
明日は祥子さまとのファーストデート。絶対に遅刻はできない、と普段より一時間も早くベッドに入ったのはいいけれど、やっぱり興奮してなかなか寝付けなくて。ようやくウトウトしたと思ったらこの夢だ。
ああもう、恥ずかしくて祥子さまに会わせる顔がない。
(……これもみんな、祐麒のせいだ)
昨日、本を借りに祐麒の部屋に入ったとき、ベッドの下に隠してあった怪しげな雑誌を見つけてしまったのが、あんな夢を見た原因だろう。
健全な男子高校生が、そういうことに興味を持つというのはわからなくもない。しかしそれならそれで、絶対に家族に見つからないように隠しておくべきではないだろうか。
(くそー、あいつめ)
完全に八つ当たりである。が、誰かに八つ当たりでもしなければ気が収まらない。
「……殺ス」
祐巳は、十分凶器になりうる重量を持ったソバガラの枕を手に取ると、今ごろは安らかな眠りを貪っているであろう祐麒の部屋へと向かっていった。
〈終わり〉
久々の『ばみゅ』シリーズです。
前回の『ボーイズラブ小説初体験編』よりもちょっと大人の雰囲気(笑)の『ラブホテル初体験編』。
このシリーズにはさらに過激な『アダルトショップ初体験編』とゆ〜のがあるのですが、あまりにも内容がお下劣すぎて、さすがの私にも書けません(笑)。
「ここにはたくさんありますけど、でもお姉さまにぴったりのサイズのものは限られています」って台詞も、舞台を変えるだけでひどくアブナイものに……(爆)。
なお、この作品はヒビキさんのサイトの『おひろめ会場(笑)』に投稿したものの再録です。
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