ゴロゴロゴロ…………

 お腹に響くような重い音が空から降ってくる。
 下校途中の女子高生、三郷 杏(みさと あんず)は自転車を漕ぐ脚をとめて天を仰いだ。
 不気味なほどに真っ黒い、低い雲が空を覆っている。その中で青白い閃光が瞬く。
 冷たい、湿った雨が吹きはじめている。
 これは――来る。
 そう直感する。
 夕方から一時雨、ところにより激しい雷雨――そんな天気予報は朝のうちに見ていたが、自分の通学路がその「ところにより」に当てはまるとは考えない楽天的な性格である。たとえ今が梅雨時であっても、朝、家を出る時に降っていなければ「自転車でGo!」だ。
 学校を出た時には既にかなり切羽詰まった空模様ではあったが、寄り道せずに急げば降りはじめる前に帰り着けるだろうという目論見だった。今、その読みが甘かったことを思い知らされようとしている。
 天を震わせる激しい雷鳴の合間に、さぁぁ……とせせらぎのような音が混じる。
 振り返ると、背後の景色が白く霞んでいた。
 慌てて視線を前に戻す。
 愛用のロードレーサーのペダルを踏む足に力を込める。ハンドルの肩に手を乗せてリラックスした姿勢から、ドロップハンドルを握ったスプリント体勢に変える。
 ミニスカートがひるがえるのもお構いなし。どうせ周囲には田んぼと雑木林しかない田舎町はずれ、この天候では見ている者は田んぼの案山子だけだろうし、万が一、生身の人間に見られたとしてもスカートの下はスパッツだ。

 ザァァ……

 にわか雨が背後から迫ってくる。
 速度を上げて逃げるが、それでも雨雲の方が速い。追いつかれるのは時間の問題だ。
 顔を上げる。
 杏の進路上を横切っている高速道路が視界に入った。いま走っている広域農道はその下をくぐっている。
 あと二百メートル。
 全速のスプリント。
 耳元で風が轟々と鳴る。それでも大粒の雨が路面を叩く音がはっきりと聞こえてくる。
 額に、雨粒の最初のひとつが当たる。
 同時に、杏は高速道路の下に飛び込んだ。
 ブレーキレバーをいっぱいに握りしめる。
 高架下の乾いたアスファルトに、一直線にタイヤの痕が残る。
 雨が頭上を追い越していく。
 高架を抜けた先の景色が白く霞み、路面が黒く濡れていく。
 かなり本格的な降りだ。危ないところだった。
 ふぅ、っと大きく息を吐き出す。
「……セーフ?」
 耳に飛び込んできたのは、心の声と同じ台詞。だけどもちろん杏の声ではなく、その口調にはどこかからかうような雰囲気があった。
 突然の声にびっくりして飛びあがる。慌てていたし薄暗いので、先客がいるなんて気づかなかった。
 激しく脈打つ心臓を押さえて声のした方に顔を向けると、高架下の薄暗がりの中にひとつの人影があった。
 コンクリート製の橋脚に寄りかかるようにして、歩道に座っている同世代の女の子。杏と同じ高校の制服を着ている。傍らにはペットボトルとお菓子の入ったコンビニの袋と、彼女のものと思しきママチャリがあった。
 からかうような、あるいは先刻の杏の行動を面白がっているような、そんな表情を浮かべている。笑いを堪えているように見えなくもない。
 二、三度瞬きして、ようやくそれが見知った顔だと気づいた。
「…………中川?」
 名前を呼ぶ杏の口調は、無意識のうちに語尾が疑問形になる。よく知っている相手のはずなのに、いまいち確信が持てなかった。
 中川 由起。
 特に親しいわけではないがクラスメイトだ。学区が同じで、小中学校でも何度か同じクラスになったこともあるはずだ。
 なのに今日は、その名がすぐに出てこなかった。
 理由のひとつは、この中川由起というクラスメイトが、非常に印象の薄い、目立たない存在であるためだった。
 まず外見が地味だ。
 カビの生えたような校則をきっちり守り、まったく短くしていない膝下スカートに、髪は三つ編みのお下げ。
 しゃれっ気のない古いデザインの眼鏡。
 顔の造形はまあまあ整っているとは思うが、いまどき高校三年生にもなってまったく化粧っけがないのも珍しい。
 身長はやや小柄で、どちらかといえばぽっちゃり系だろうか。
 あまり感情を表に出さず、校則をきっちり守って常に品行方正、教室で友達と騒ぐこともない。休み時間は本を読んでいるか、次の時間の予習をしていることが多い。
 成績は常に学年上位だけれど、かといってずば抜けた秀才というほどでもない。
 部活や生徒会で目立つ活躍をすることもない。
 お付き合いしている男子もいない、はず。
 ひと言でいえば、面白味のない真面目ちゃん。存在感が薄く、いてもいなくても、杏が教室でその存在を認識することはほとんどない。
 それが中川由起だった。
 しかし、目立たない地味な存在だからといって、何度も同じクラスになった子の名前がすぐに出てこないなどということはない。
 ――普通なら。
 今回、由起の名を疑問形で呼んだもうひとつの理由は、目の前の人物の外見が間違いなく中川由起であるにもかかわらず、その雰囲気が普段とまるで違っていたためだった。
 トレードマークといってもいい三つ編みお下げは解かれて、肩胛骨の下あたりまである髪は編み癖のために柔らかなウェーブがかかっていた。眼鏡もかけていない。
 そしてなにより、これまで一度も見たことのない、皮肉っぽい笑みを浮かべている。
「さすがね、三郷さん。夕立と競争して勝つなんて」
 それはけっして賞賛の言葉ではない。表情通り、口調にもからかうようなイントネーションがある。
 あれはちょっとバカっぽかったという自覚がある杏は、むっとした口調で応えた。
「中川はなにしてンの、こんなトコで?」
「ご覧の通り、雨宿り」
「……らしくないね」
 アスファルトの上に直に座ってジュースやお菓子をつまんでいるなんて、今の表情と同じくらい、普段の由起からは考えられない。
 そもそも、ここで雨宿りしていること自体がらしくない。真面目な彼女のこと、今朝の天気予報であれば傘を持ってくる慎重さがお似合いだ。
「そう? 三郷さんは、とっても『らしい』わね。こんな日に自転車で来るなんて」
 その口調、やっぱり馬鹿にされているような気がする。杏はどちらかといえば、慎重に考えるより先に行動を起こしてしまう猪突猛進系だ。朝、家を出る時に雨が降っていなければ傘を持ってきたりしない。
「……座ったら?」
 由起が、自分の隣のスペースをぺたぺたと叩く。確かに、通り雨とはいえ一、二時間は足止めされることだろう。いつまでもこうして自転車にまたがったままでいるのは馬鹿らしい。
 自転車を降り、高速道路の橋脚に立てかける。背負っていた鞄をその横に置く。
 少し距離を空けて隣に座ると、由起はコンビニの袋の中から新しいペットボトルを取り出した。
「よかったら、どうぞ」
「……ども」
 断る理由はない。ありがたく受け取って、甘いカフェ・オ・レで喉を潤した。
「食べる?」
 食べかけのポッキーの箱が差し出される。由起がつまんでいたものだ。
「……ありがと」
 数本を抜き取り、そのまま口にくわえる。
 由起は二人の間にビニール袋を敷き、その上にポッキーの箱を置いた。まだ封を切っていないアーモンドチョコの箱も横に置く。
 いちいち勧めなくても杏が遠慮なく取れるように、という配慮だろう。
 この好意はありがたかった。
 しばらくはここから動けないだろうが、なにしろ育ち盛りの十七歳、昼にお弁当をしっかり食べても夕方になればお腹はぺこぺこだ。雨がやむまで飲まず食わずで我慢するのは辛すぎる。
 それにしても用意のいいことだ。学校からここまで、コンビニは学校前の一軒だけしかない。こうした事態を想定して買っておいたのか、それとも単に帰宅後に食べるつもりだったおやつなのだろうか。
 飲み物とお菓子をお腹に入れて、少し落ち着いた。ふぅっと息を吐き出す。
「三郷さんの自転車、かっこいいわね」
 不意に由起がそんなことを言う。
「これって、ロードレーサーっていうんでしょ? レースで使うような」
「……そうらしいね」
 適当に相づちを打つ。
 そうした自転車に乗ってはいても、杏自身は詳しいことは知らない。
「レースとかやっているの?」
「まさか。この自転車は、街へ遊びに行くために使ってンの」
 なにしろ家と学校の往復だけでは、イマドキの女子高生が遊ぶ場所もオシャレな店もない田舎だ。大きな街に出るにはバスに揺られて三十分はかかる。しかし頻繁にバスを利用していては、交通費だけでも馬鹿にならない。
 そこで、この自転車だ。
「街って……バスで三十分以上かかるわよ?」
 由起の反応は予想通りのものだった。初めて聞いた人間は、たいてい同じことを言う。
「自転車でも一時間もかかんないよ。バスと違って渋滞もお構いなしだし、バス停まで歩く時間を考えたら、自転車でもほとんどかわんない。特に、ママチャリならともかくこの自転車ならね」
 バス停や駅の制約を受ける公共交通機関と違い、自転車には目的地まで直行できるという強みがある。徒歩移動の分を計算に入れれば、バスと自転車でかかる時間はさほど変わらない。
「でも、こうした自転車って高いんでしょう? 高校三年間、バスの定期買った方が安いんじゃない?」
 そう。それがこのアイディアの致命的な欠点。
 しかし、
「自分のお金で買うんならね」
「ご両親も同じこと言わなかった?」
「親の金でもないし」
 この自転車に関しては、自分のお小遣いはもちろん、三郷家の家計にも負担はかけていない。
「アルバイトで簡単に変える額でもないわよね。まさか………………、援助交際とか?」
 かなり躊躇して、誰も聞いている者などいるはずないのに声をひそめる由起。杏は鼻で笑い飛ばす。
「まさか」
 いくらなんでもそれはない。考えすぎだ。
「これは叔父さん……母さんの弟にもらったの。叔父さんはけっこう本格的にレースとかやってる人でね」
「もらったって……こんな高いものを?」
「ちょうど新車を買ったところだったんで、お古をもらったっつーか、かなり強引に奪い取ったというか。そこはホラ、可愛い姪っ子の頼みだから。叔父さんつってもけっこう若いからさ、ちょっと歳の離れた従兄みたいな感じで、小さい頃から仲いいんだ」
 今でもたまに「ネットオークションで売ればけっこうな金になったのに」とかぶつくさ言っているが、そんな台詞は聞こえないふり。もちろん、購入時の価格も聞かないことにしている。原付バイクよりもずっと高価らしいその金額を聞いてしまえば、さらに恩に着せられてしまうから。
「……もしかして、その叔父さんとイケナイ関係とか?」
「ンなわけないっしょっ!」
 苦笑しつつも強く否定した杏は、内心首を傾げる。
 これも「らしく」ない気がする。
 こうした、ちょっと際どいエッチな話題も、真面目でおとなしい普段の由起の印象と合わない。
 いったい今日はどうしたのだろう。実は、瓜ふたつの他人ではないかとすら思えてしまう。もちろん、そんなはずはないのだが。
 あまりに強く否定したためか、会話が途切れた。
 なにを考えているのだろう。由起は無言で降る雨を見つめている。
 外はひどい土砂降りだ。
 雨音が『ザァァ……』ではなくて『ドォォ……』と響いてくる。よく「バケツをひっくり返したような」という形容が用いられるが、さしずめこれは「プールをひっくり返したような」とでもいえばいいだろうか。百メートルちょっと向こうの雑木林も霞んで見えない。
 やっぱり、早々に雨宿りして正解だった。雨の中を無理に走って帰ろうとしていたら、今ごろ大変なことになっていただろう。
 こんな激しい降り、そう長くは続くまい。とはいえ少なくとも数十分、場合によっては二、三時間はここで足止めをくらうことになる。真っ黒い空を見る限り、すぐに止む様子はなさそうだった。
「……ヒマだね」
 ぽつりと言う。
 仲のいい友達と一緒ならいざ知らず、隣にいるのは普段ほとんど言葉を交わすこともない、しかもけっして饒舌ではない相手。
 当然、あまり話題もない。自転車の話題の後は、向こうから積極的に話しかけてくる様子もない。
「……私は、こうして雨を見ているだけでも退屈はしないけど」
「中川って、やっぱりちょっとヘン」
「じゃあ、今のうちに予習復習とか」
「とてもそんな気にはなれないね」
 もとより、家でも宿題とテスト勉強以外で教科書や問題集を開くことなどほとんどない。ましてやこんな状況で勉強をする気など起きようはずもない。
 義務ではない勉強など、暇つぶしにすらならない。それこそ、降る雨をぼんやりと見つめている方がましというものだ。
 由起が無言でこちらを見つめている。なにか考えているような表情にも見える。
 やがて、ひとつ小さく深呼吸して言った。
「じゃあ…………暇つぶしに、セックスでも、する?」
 ちょうど、ペットボトルを口に運んだところだった。気管に入りそうになったカフェ・オ・レを思い切り吹き出して激しく咳き込む。
「なっ……いきなりなにを言い出すのっ!」
 もちろん、軽い冗談のつもりなのだろう。それにしても、由起がこんなふざけた冗談を言うような性格だったとは知らなかった。先刻の叔父との関係の件といい、実は見かけによらず下ネタが好きなのだろうか。
 ……いや。
 そもそも冗談なのだろうか。それすらも確信が持てない。
 由起は真顔だった。ちょっとでも冗談めかした笑みを浮かべていれば、ふざけているのだと断言できるのだけれど。
 口調も、まるで授業中に先生に指されて答えているかのように淡々としたものだった。
「人間が二人、他に誰も見ていない場所にいて、道具もなにもなしに、狭い場所でもできて、一、二時間の時間つぶしになって楽しいコトって、他にある?」
 由起は真面目そのもの。それはまさに『理路整然』という四字熟語の見本のような態度だった。
「だ、だ、だからって、そんないきなり! 第一、恋人でもなんでもないただのクラスメイトで、しかも女同士!」
 杏は、行きずりの相手といきなり肉体関係を持つような性格ではないし、そもそも行きずりの相手でなくとも、まだそうした関係を持った経験はない。
 もちろん由起だってそう見えるのに、その発言はあまりにも突拍子がない。
 夢でも見ているのか、あるいは自分の頭がおかしくなったのか。
 ここにいるのは、杏の知っている中川由起という人間ではない。
 本当に、夢でも見ているのではないだろうか。いったいどこの世界に、たまたま一緒に雨宿りすることになった同性のクラスメイトに「セックスしよう」などと誘う人間がいるだろう。
「三郷さんって、意外と普通の考え方をする常識人なのね。けっこう遊んでる方って印象があったけれど、実はオクテ? 結婚するまでキレイなカラダでいたいの、って?」
 考えすぎだろうか、由起の口調には杏をからかうような、あるいは挑発するような雰囲気があった。
 なんだか見くだされているようにすら感じる。
 先刻は無表情に淡々とした口調だったのに、今は皮肉な笑みを浮かべてからかうような口調。そのギャップが癇に障る。
 杏はどちらかといえば負けず嫌いな性格だった。
 そして、考えるより先に勢いで行動してしまうところもある。
 だから、
「……い、いいよ、やろうじゃん。別にこんなこと、なんでもないんだから」
 後先考えずにそう答えてしまったことは、むしろ必然といえた。


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