雨の中を歩くこと十数分、由起の家に着いた。
 もちろん、訪れるのは初めてだ。
「少し、濡れちゃったわね」
 玄関で傘をたたみながらそう言った由起は、はっと気づいたような表情で頬を赤らめ、慌てて付け足した。
「え、エッチな意味じゃないわよっ?」
 一瞬、なにを言っているのか理解できなかった。
 きょとんとした表情で、由起の顔を見る。
 二度、三度、瞬きする。
 どんどん赤みを増していく由起の顔。耳たぶまで真っ赤になっている。
 そんな様子を見ながら考えて、ようやく気がついた。
 ああ、なるほど――とうなずくと、由起の顔の赤みがさらに増す。
「……ごめんなさい、嘘。本当は、少し、そういう意味でも濡れてるかもしれない」
「え……?」
「だって……これからするんだなって思ったら、どきどきして……。この前した時、すごく気持ちよかったことを想い出しちゃって……。三郷さんが悪いのよ、「するの?」なんて訊くんだもの。ただでさえ緊張していたのに、あれで余計に意識しちゃった」
 杏の目にはずいぶん落ち着いているように見えていたが、あれでも緊張していたのだろうか。
 それにしても、
「中川って……濡れやすい体質?」
 苦笑しながら訊く。
「し、知らないわ。そんなの、人と比べたことなんてないもの」
 さらに真っ赤になる。そんな様子が面白くて可愛くて、つい、もっとからかいたくなってしまう。
「感じやすいもんねー、中川ってば。この前も、めっちゃ感じてたしぃ?」
「そ、それこそ三郷さんが悪いと思う。三郷さんの指が気持ちよすぎるから……」
 声がどんどん小さくなって、由起は恥ずかしそうにうつむいた。その時のことを想い出したのだろう。
 すごく激しく、いやらしく、そして可愛らしく悶えていた由起。杏が彼女の立場だったら、その時の光景を冷静に想い出すことはできないだろう。
「……こ、こ、こんなとこで立ち話もなんだから、早く上がって」
「ん」
 顔から湯気が立ち上りそうな由起の顔を見て、少し嬉しくなる。前回は一方的に振り回された感があったけれど、これでいくらかは仕返しできた気分だ。
 用意してくれた来客用のスリッパを履いて由起の後に続き、リビングに通される。
「なにか、冷たいものでも飲む?」
 杏にソファを勧めると、由起はエアコンのスイッチを入れながら訊いてくる。今日は特に気温が高いわけではないが、とにかく湿度が高いので、エアコンの乾いた涼しい風が心地よい。
「あ、ありがと」
「烏龍茶、麦茶、オレンジジュース、カルピス、どれがいい?」
「ん……じゃあオレンジジュースがいいな」
 キッチンへと消える由起。
 冷蔵庫を開ける音。
 氷とグラスがぶつかる澄んだ音。
 そして、スリッパが立てる独特の足音。
 グラスをふたつ載せたトレイを手に、由起が戻ってくる。ご丁寧にもコースターを敷いた上にグラスを置き、ストローを添えてくれる。
 こうした几帳面さは普段の由起らしい。
 ストローの袋を破いて氷の浮いたオレンジジュースを軽くかき混ぜ、グラスを口に運ぶ。ストローを通して口に流れ込んでくる冷えた液体。ほどよい酸味の混じった甘さがたまらなく美味しい。
 しかし、ジュースを飲むために一度会話が途切れてしまうと、あとが続かなくなった。
 なにを話せばいいのかわからない。そもそも、普段から言葉を交わすことなどほとんどない相手である。学校の用事以外のこととなればなおさらだ。
 まして、この後に待ち受けていることを考えると、緊張して、他のことには頭が回らない。
 恐らくは由起も同様だろう。二人の間に、なんとなくそわそわした雰囲気の緊張感が漂っている。それを誤魔化して間を持たせるために、二人とも頻繁にグラスを口に運ぶ。
 お互いになにか言いたげで、だけど言い出せずにいる。
 改まって「さあ、エッチしよう」なんて言えるわけがない。いくら、そのために来たのだとはいっても。
 これが普通の恋人同士であれば、仲良く寄り添っているうちになんとなくそういった雰囲気になるのかもしれないが、そもそも二人は恋人ではない。いや、正確にいえば友達ですらない。つい数日前までは、単なるクラスメイトでしかなかった。
 なのに身体を重ねたことがあり、お互いの初体験の相手であり、そしてこれからまたセックスしようとしている。
 冷静に考えてみればおかしな話だ。
 杏は何度も自問してきた。「二人の関係はいったいなに?」と。
 恋人ではない。少なくとも今の時点では。
 友達、というのも微妙だ。友達になる前にセックスしてしまった関係なのだ。
 これが男女のことであれば『セフレ』ということになるのかもしれないが、同性ということを抜きにしても、それも少し違う気がする。
 ここに来るまで、何度も繰り返した問い。「あたしはいったい、中川のことをどう思っている?」
 よくわからない。
 いくら考えても答えが出ない。
 由起のことは「ほとんど言葉も交わしたことのないクラスメイト」という以上のことはよく知らない。
 大人しくて、地味で目立たなくて、真面目な優等生――それは彼女のほんの一面でしかなく、それだけでは本質を知っていることにはならない。
 目に見えない内面はもちろん、外見的なことでさえ知らなかったことだらけだ。
 よく見るとかなりの美人だとか。
 巨乳でスタイルがいいとか。
 内面的なことでは、実はけっこうエッチだとか。
 これだけではまだまだ足りない。
 由起のことを知らなすぎる。
 いちばんの謎は、彼女はいったいなにを考えて杏とあんなことをしたのか、ということだった。
 いろいろと仮説は考えてみた。
 たとえば、由起は実は同性愛者で、以前から杏のことが好きで、あの日あの場所で待ち伏せしていたということは考えられないだろうか。
 ……あり得ない。
 自分で考えた可能性を即座に否定する。
 杏の自転車通学は、本来、帰りに寄り道するためのもの。学校から自宅への最短ルートであるあの道を通る保証はないし、たとえ通ったとしても、雨が降り出すタイミングがほんの少しずれていれば、もっと手前で雨宿りしていたか、あるいは声をかける隙もないほどの速度であの場所を通り過ぎていたことだろう。
 あの日、雨の予報が出ていたとはいえ、いつ降り出すかわからない通り雨だ。五分ずれていれば状況はまったく変わっていた。
 つまり、あの日あの場所で一緒に雨宿りをすることになったのは、まったくの偶然なのだ。
 なのにいきなりセックスしようと誘ってきた理由はなんだろう。
 実は見境のないすごい淫乱で、男女問わず誰でも誘うのが日常なのだろうか。
 それも考えられない。
 この田舎町で、誰にも知られず密かに男遊びを繰り返すなんてできっこない。それに、由起もあの日が「初めて」だった。
 つまり彼女は、特に親しくもない通りすがりの同性と、暇つぶしでロストバージンしようと思い立ったということになる。
 そんなこと、あり得るだろうか。
 たとえば自分ならどうだろう。
 雨宿りが退屈だからといって、顔見知りとはいえほとんど話したこともない同性を相手に、セックスしようなどと考えるだろうか。
 ありえない。たとえその時点で既にバージンでなかったとしても考えられない。
 杏に限らず、大抵の人はそうだろう。
 そう考えたところで、はたと気がついた。
 自分は現実に、その、ありえないようなことをしてしまったではないか。
 ……いやいや。
 あれは由起に挑発されたからだ。間違ってもあの状況で自分から誘ったりはしない。
 由起はいったいどういうつもりだったのだろう。
 どうしてあんなことをしたのだろう。
 杏のことをどう思っているのだろう。
 頭の中で何度も何度も繰り返した問い。
 しかし答えは見つからない。考えれば考えるほどわからなくなってしまう。
 だから、もうひとつの問いにも答えが出せずにいる。
 自分は、由起のことをどう思っているのだろう。
 それもわからない。
 わからないまま、こうして由起の家を訪れ、セックスしようとしている。
 いったいどうしてしまったのだろう。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 しかも、この状況を決して嫌がってはいないのだ。杏も、由起も。
「…………」
 会話が途切れたまま、時間が過ぎていく。
 気まずい緊張感が漂っている。
 他にすることもなくて、二人とも頻繁にグラスを口に運んでいる。
 同世代の女の子同士、普段ならさほど親しくない相手であっても適当な話題で間を持たせることはできる。
 だけど今日に限っては無理だ。
 緊張して、この後にするであろうことで頭がいっぱいで、他の話題なんて思い浮かばない。無理に他の話題を持ち出したとしても、わざとらしく感じられるだけだろう。
 かといって、この後のことを話題にするには羞恥心が邪魔をする。
「…………」
 ほとんど同時に、ふたつのグラスが空になる。
 杏は手持ちぶさたにストローを回す。溶け残った氷がぶつかってカラカラと音を立てる。
 ちらりと、由起の顔を見る。
 ちょうど由起もこちらを見ていて、目が合ってしまった。
 ふたり揃ってかぁっと頬を赤らめ、うつむいてしまう。
 もう、するべきことはひとつだけなのに、きっかけが掴めない。言い出せない。どう言えばいいのかわからない。
 無限に繰り返すかと思われた葛藤。
 沈黙を先に破ったのは、やっぱり由起だった。
「えっと……お、おかわり、いる?」
「え? あ……えっと……」
 緊張で喉が渇いているようにも感じる。だけど飲物を摂りすぎて、肝心な時にトイレに行きたくなったりしたら恥ずかしい。
 飲み物があればもうしばらく間を持たせられるかもしれないが、それは問題を先送りにするだけで、結局のところなんの解決にもなっていない。
 まっすぐに由起の顔を見る。
 困惑したような、いろいろと思い悩んでいるような表情。おそらく、杏と同じ想いなのだ。
 心を決める。
 ここへ来た時から、いちおう覚悟はしているのだ。
「……そ、そろそろ、……本題に入らない?」
「え?」
 きょとんとした表情で杏を見て、次の瞬間、まるで茹で蛸のようになる。
「……い、いいの?」
 頭から湯気を立てながら由起が訊いてくる。
「…………ん」
 杏も恥ずかしかったけれど、それでも由起から視線を逸らさずに小さくうなずいた。
 もう逃げられない。もう逃げない。
 死ぬほど恥ずかしいのは事実だけれど、自分がそれを望んでいるかいないかといえば、確かに望んでいるのだから。
「あ……でも、その前に、……できれば、シャワー貸してもらえないかな?」
 女の子としてのたしなみ。やっぱりエッチの前には自分の身体をすみずみまで清潔にしておきたい。特に、今日は体育があったし。
「……そうね、その通りだわ。ちょっと待ってて」
 由起もうなずいて立ち上がる。向かった先がおそらくバスルームなのだろう。やがて給湯器のボイラーの音と、シャワーの水音が聞こえてきた。
 由起の姿が視界から消えたところで、杏は大きく息を吐き出した。
 かなり緊張していたようで、肩から腕にかけて、筋肉が強張っていた。
 だけど、まだまだ。これからが本番。
 落ち着け……と自分に言い聞かせる。
 なにも緊張することはない、初めてじゃないんだから――と。
 しかし鼓動はどんどん速くなっていく。
 由起が戻ってきた時には、心臓が痛いくらいに大きく脈打った。
「ねえ、いいこと思いついたわ」
 妙に楽しそうに由起が言う。
「……一緒に、入らない?」
「……え?」
 なにを言っているのか、すぐには理解できなかった。由起の発言が脳に届くまで、何秒かの時間を要したかのように感じた。
「え……、ええぇっ?」
 一緒に、シャワーを浴びる。
 由起とふたりで。
 もちろん、全裸で。
 考えただけで頭が沸騰しそうだった。
 シャワーを浴びた後のセックスに関してはなんとか覚悟を決めたつもりだったけれど、その前に裸で接することになるなんて。
 別に、旅行でホテルの大浴場に入ることは恥ずかしがらない性格だ。しかしこれは事情が違う。
「え……っと……」
 やっぱり恥ずかしい。
 ひとりの方が気が楽だ。
 だけど、断わるのも悪い気がする。
 そもそも一緒に入浴もできないような相手と、裸で抱き合うことができるのだろうか。
 よくよく考えてみたら、一緒にシャワーというのは悪い考えではないようにも思う。
 いきなりセックスするよりも、まずはただシャワーを浴びるだけのシチュエーションから、裸で接することに少しずつ慣れていった方がいいかもしれない。今の調子でいきなりセックスでは、心臓がもたない気がする。
「そ……う、だね。それも、いいかもね」
「ね、楽しそうでしょう?」
 朗らかに笑みを浮かべる由起に誘われるように、杏もソファから腰をあげた。


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