いつの間にか、外はすっかり暗くなっていた。
二人はぐったりとした様子で、ベッドの上で寄り添っていた。ちょうど、杏が由起に腕枕してあげているような体勢で、全裸のままの二人の身体が密着している。
汗ばんだ肌の温もりが伝わってくる。
全身が心地よい気怠さに包まれている。
時々、お互いの身体に軽く触れたり、ちゅっと唇を重ねたりする。
激しかった行為の余韻に浸りながら、もうかなり長い時間そうしていた。
「なんか……今日……すごかったね」
「…………そうね」
疲れた。
だけどそれは、妙に充実感のある心地よい疲労だった。
「……で、さ」
落ち着いたところで、杏はずっと引っかかっていた疑問をぶつけることにした。行為の最中は忘れていたが、冷静さを取り戻すと気になって仕方がない。
「なあに?」
「……ホントに、どうして、あたしとこーゆーコトしようと思ったわけ?」
「……」
黙り込んで、考え込んでいるような表情になる由起。しばらく間をおいて口を開く。
「……あの日、たまたま三郷さんが通りがかっただけ、とは思わない? たまたまヒマだったから誘っただけ、と」
「思わないね」
杏は即答する。
あの日以来ずっと考えていて、もっともありそうと思いつつも否定した可能性だ。
「あんたが、特に理由もなく通りすがりの相手を気安く誘うような尻軽のヤリマンだったら、あたしとするまでバージンだったわけないじゃん。相応の動機があるはずだよ。違う?」
「…………」
頭を少し持ち上げるようにして、由起がこちらを見る。
少し驚いたような。
そして少し困ったような。
そんな表情だ。
「…………私、ね」
ゆっくりと口を開く。
「近いうちに、転校するかもしれないの」
「……え?」
まったく予想外の台詞に、一瞬、意味が理解できなかった。
ゆっくりと由起の言葉を反芻する。
「転……校……って言った?」
「ええ」
「な……なんでっ? いつ? どこへ?」
「父の転勤で。多分、二学期から。横浜」
混乱した杏の矢継ぎ早の質問に、律儀にひとつひとつ答える。
「そ……そんな……、受験を控えた高三のこんな時期に? 卒業まではこっちに残るとかできないの? どうせ中川、大学は関東のつもりだったんでしょ?」
なんの特徴もない田舎の高校。都会に憧れている生徒は多く、成績の良い者は首都圏の大学を目指すのが普通だ。常に学年上位の成績をキープしている由起ならば、選択肢はいくらでもあるだろう。
突然のことに頭が混乱していた。
こんな展開、まったく予想もしていなかった。
特に親しくもないのに行きずりでセックスして。
今日、また身体を重ねて。
これから少しずつ由起のことを知って、自分のことを知ってもらって、仲良くなっていくものだと思っていた。
既にセックスまでしているのに今さら、という感もなくはないが、セックスから始まる付き合いというのもそれはそれで面白いかもしれない。普通の恋愛ではない、だけどかぎりなく恋愛に近い関係になるのかも――と。
そう、思っていた。
その相手が突然いなくなるなんて、考えもしなかった。
「両親も同じこと言ってる。来年の春までは、父が単身で行ってもいいって」
「だったら……」
「どうせ大学は東京のつもりだったんだもの。半年以上早くに上京するチャンスが来た、という考え方もできるわ」
「……中川がそんなに東京に憧れていたとは、意外だね」
やや皮肉めいた口調になってしまう。なんだか裏切られたような気分だった。
「そうね。ずっと都会への憧れはあったわ。でも、あなたがたにとっては意外でしょう? だからこそ、よ」
「……なにが言いたいのか、わかんないよ」
どんどん、口調が怒気をはらんでくる。
「三郷さんの目には、私ってどんな風に映ってた?」
「え?」
「私に対する、印象」
「……それは……」
言い淀む。いきなりの質問でもあるし、正直に答えるのも躊躇われた。
あの雨の日以前に抱いていた由起に対する印象は、あまり良い評価とはいえない。
「地味でおしゃれに興味なくて、流行に疎くて、人付き合いが悪くて、一人で勉強ばかりしてる暗い子?」
杏が躊躇していると、由起の方からからかうような口調で言ってきた。
それがほぼ正解だっただけに、なおさら返答に困ってしまう。たぶん、クラスメイトの多くが似たような答えを返すはずだ。
「別に、気にしなくてもいいわ。そう思われてるいるって自覚はあるから」
「いや、あの……」
「でもね、実際のところ、好きでそうしているわけじゃないのよ?」
そう言った由起は、自嘲めいた苦笑を浮かべていた。
「自分ではそれほど極端な性格とは思ってないわ。少しだけ内気。少しだけ人付き合いが下手。少しだけおとなしい。大人が眉をひそめるような派手なおしゃれをする勇気が、少しだけ足りない。本当に、どれもほんの少し足りないだけなの。だけどそれが積み重なって、十七年とちょっと生きてきて、こうなってしまった。本人の意識よりも、まず、周囲の評価がそう固まってしまった。そして、固まってしまったイメージをいきなり叩き壊すだけの勇気が、私には少し足りないの」
「中川……」
「わかる? 今の私は、自分が望んだ姿じゃないの」
「自分を変えたい……変わりたいってこと?」
「ええ。もともと、大学へ行ったら……って思っていた。実家から遠く離れた東京の大学。まったく新しい環境、過去の私を知らない人たち。そこでなら変わることができる。入学式から最新流行のファッションで決めて、うんと積極的に振る舞えば、周囲の人たちはそれが私だと思ってくれる」
「だ、だったら……予定通り、大学からでいいじゃない! なにも、いま慌てて転校しなくても」
「言ったでしょう。現状は、私が望んだ形じゃない。そして、予定よりも半年以上早くチャンスがやってきたんだもの、乗らない手はないでしょう?」
「それは……」
そうかもしれない。
だけど。
なにか、納得できない。杏としては受け入れられない。
「……で、でも、で、最初の質問の答えは? 今の話は、答えになってないよ?」
「え? ああ、そうね」
自分を変えるきっかけとしてあんな唐突な行為に出たのだとしたら、これまでの話と矛盾する。
「……答えの前にまず最初に言っておくと、相手は、別に三郷さんである必要はなかった。……いえ、むしろ、三郷さんであったことはまったくの想定外だったと言ってもいいわ」
「……そう」
それはなかば予想していたこと。だけどどういうわけか、少しショックだった。
「理由のひとつは、単に、転校前に経験しておきたかったから」
由起はあっさりと言う。
「……な、なんで?」
「だって考えてもみて。横浜の高校に転校するのよ? しかも高三。きっと向こうじゃ、まだバージンの子なんて皆無に決まってる。恥ずかしくて言えるわけがないじゃない」
「いや……それは……たぶん、いい加減な雑誌の記事とかに踊らされてると思うよ」
杏もバージンだった。クラスメイト全体を見ても、まだ未経験者が多数派のはずだ。
「こんな時期に転校。それだけで注目を集めるでしょう? そこが勝負よ。転校直後で印象が決まってしまう。女の子同士だもの、きっと訊かれるわ。『前の学校でカレシはいた?』『経験はある?』って。そこでなにもないなんて答えたら、単なる『田舎から来たつまらない子』で終わってしまう。うんとおしゃれしてたって『田舎者が無理してる』って思われるだけよ」
「いや、さすがにそれは被害妄想というか……でも……だからって……」
由起ってば意外と、かなりぶっ飛んだ性格かもしれない。それだけの理由で通りすがりの同性をナンパするなんて。
「もうひとつの理由は、なにも残さずに消えたくなかったから」
「え?」
「今のまま私が転校しても、学校のみんなは『ふーん』で終わりでしょう? 私のことなんてすぐに忘れ去られてしまう。ここで暮らしてきた十七年間が消えてしまうのも同じよ。でも、たった一人でも、私のことを忘れずにいてくれる人がいたら……」
あんなことがあったら、杏じゃなくても忘れられるわけがない。
「そうはいっても、きっかけは難しいわ。あの日の朝、天気予報を見て、下校時に夕立になりそうな空を見て、これはチャンスだって閃いたの。だから、誰でもいいから、もしもここで一緒に雨宿りする相手がいたら、その人と……ってね」
「……」
どう反応していいのかわからない。あまりにも大胆というか、衝動的というか。
あの由起が、実はそんな性格だったなんて。
「でも、バカな話よね。私も緊張していて頭が回っていなかったんだわ。その『誰か』が女の子である可能性をまったく考えていなかったんだもの」
由起が苦笑する。
「三郷さんがやってきたのを見た時、自分の迂闊さに気づいてびっくりして、思わず笑い出しそうになったわ。でも、すぐに、それでもいいかって思い直した」
「……いや、もう少し真剣に考えようよ」
しかし由起は首を左右に振る。
「あの日、一大決心をしてあそこにいたのよ? 身体中の勇気を振り絞って。また別の日に仕切なおしなんて無理だわ」
「だからって……」
「もういっそ、女の子が相手でもいいかって。むしろその方が、より強く相手の記憶に残るかも……なんてね」
そこで言葉を切った由起は、杏を見て静かに微笑んだ。
「三郷さん、私のこと、忘れずにいてくれる?」
とても綺麗な、思わず見とれてしまう笑顔だった。
だけど。
だからこそ。
素直に首を縦に振ることはできなかった。
「……ヤダ」
なんとか声を絞り出す。
由起の目が丸く見開かれる。
「あ……あんたのことなんか憶えていてやらない! な、なによ! 自分勝手なことばかり言って!」
堰を切ったように溢れ出す言葉。もう止まらない。
「人にいきなりあんなことして。あたしのこといいようにかき回しておいて、なのにあたしを放って転校? そんなの許さないっ!」
杏はひどく傷ついていた。勝手な言い分かもしれないけれど、裏切られたような気がしていた。
「あ……あんたのことなんか、すぐに記憶から消し去ってやる!」
そうしなければ、自分が辛い。
はっきりと恋愛感情ということはできない。しかし、なんらかの特別な感情を抱きはじめていた相手。なのにその相手は、自分の都合だけで、杏を置き去りにしていなくなろうとしている。杏の気持ちなど、これっぽちも考えずに。
そんなの、許せない。
我慢がならない。
このまま由起がいなくなってしまうなんて、そんなこと受け入れられない。
「変わりたいから転校? 変わりたければ、ここで変わればいいじゃない! 勇気がない? だったら転校したってなにも変わらないね。賭けてもいい。あんた、ずっとそのままだよ!」
「三郷さん……」
杏のあまりの剣幕に、由起は目を白黒させている。
「変わりたいなら、あたしが変えてやる。有無をいわさず、ね」
「きゃっ……」
由起の肩を鷲づかみにして、強引に押し倒した。
体格的には杏の方が有利だ。腕を押さえて身動きできないようにして、仰向けにされてもなおふくらみを失わない大きな胸に唇を押しつける。
「ちょっ……やっ!」
抗議の声を無視して、強く吸う。それこそ、力いっぱいに。
「んんっ……や……い、た……」
痛がっているのかもしれないが、それも無視。
その上体を数秒間続けて唇を離す。唇を押しつけていた部分には、紅い痕が残っていた。
もう一度、少し位置をずらして由起の胸に吸いつく。
さらにもう一度、二度、三度。
その度に、小さな紅い楕円の痕が増えていく。
反対側の胸にも、同じことをする。
「ちょ……っ! ねぇ、……三郷さ……あぁっ!」
ふたつのふくらみに残る、無数のキスマーク。
そこから下へ唇を滑らせていく。
柔らかなお腹。
そして下腹部。
ところどころで止まってキスマークを残す。
だけどその下の、茂みの奥の一番敏感な部分は素通りする。今は目的が違う。これは、由起を気持ちよくするためにやっているわけではない。
由起の太腿、股関節のすぐ下から膝の上まで、内腿を中心にしてあちこちに吸いつく。それは最終的に、両脚合わせて軽く十を超える数になった。
力いっぱい吸いすぎて、唇が痛い。
だけど目的は達成できた。
「三郷……さん?」
満足げな杏と、突然の行動にわけがわからないといった表情を浮かべている由起。
「明日は体育あるから、着替える時に、これ、絶対に見られちゃうよね」
「え……」
「さぁ、どうする?」
由起は慌てて自分の身体を見おろした。そこがどんな状況になっているかに気づいて青ざめる。
誰でも一目で気づくほどの、キスマークの群れ。
「ちょ……ど、ど、どうしよう。三郷さんったらこんなにキスマークつけて……、なにか訊かれたら、なんて答えればいいの?」
「さあね。自分で考えたら?」
心底困った様子で縋ってくる由起を、意地悪くつっぱねる。
ちょっとした仕返しだ。
「そんな…………」
今にも泣き出しそうな由起。
しかしすぐに、きっと睨むような表情になる。
「……い、いいわ、本当のこと言っちゃうから。三郷さんに無理やり押し倒されてつけられたって」
「う……」
予想外の反撃だった。
杏は一瞬怯んだが、ここで弱みは見せられない。きゅっと唇を噛む。
「……い、いいよ、言えば?」
こうした争いは、強気を貫いた者が優位なのだ。
「い、いいの? 私とのこと、ばれちゃうのよ?」
「い……いいじゃん別に。隠したって、エッチしたのは本当のことなんだし。自分の意志でしたことだよ。人のせいにしたり、嘘をついて隠したりしない」
もうヤケだ。
知られたっていい。
レズのレッテルを貼られたっていい。
このまま、由起がいなくなってしまうことに比べれば。
――そう、思った。
「マジな話、キスマークだらけで登校すれば、突然のイメチェンだってぜんぜん不自然じゃないよ。初体験した女の子が、それをきっかけにがらりと印象が変わったっておかしくないっしょ? みんな納得するよ」
「そ、それは……そう、かも、しれないけど……」
「レズって言われたくない? だったら『相手は?』って訊かれても『ナ・イ・ショ(はぁと)』でいいんだよ」
「そ……そういうもの……なの、かな」
由起はまだ不安げというか、半信半疑の表情だ。
「そういうもの。じゃ、裁縫道具を用意して」
「え?」
「オシャレな女子高生になりたいんでしょ? だったら外見から変えなきゃ。まず、あの膝下スカートを直さなきゃね。パンツが見えそうなミニに。中川、綺麗な脚してるんだし」
「え……、そ、そんなの恥ずかしすぎる! 三郷さん、太腿にもキスマークつけたじゃない!」
自分の太腿を指さす由起。そこには紅い楕円形の印が、ぱっと目につくだけでも五、六カ所は残っていた。
どこかにぶつけた痣とか、虫刺されの痕とか、そんな言い訳でごまかすのは難しいだろう。知っている者が見たらキスマークであることは一目瞭然だ。
「当然でしょ、見せるためにつけたんだから。さ、あたしがやってあげるから、用意して。急がないと明日に間に合わないよ」
「そんな……無理に急がなくても」
「思い立ったら吉日。じゃないと、ずるずると引き延ばすだけだよ。こーゆーのは勢いで行かないと」
そう言っても、由起は行動を起こさない。
困ったような表情で、なにか言いかけてはやめるという動作を繰り返す。
「……なに?」
「…………直さなくても、あるわ」
「え?」
今度は杏が訊き返す番だった。
「短くしたスカート……あるわ。下着が見えそうな、ってほどじゃないけれど、普通に短くしたのが。だけど着ていく勇気がなかったの」
「ははぁん」
にぃっと笑う杏。
「中川って、実はコンタクトレンズも持ってない? いつもの地味なメガネだけじゃなく」
「ど、どうしてっ?」
狼狽したその反応が答えを物語っている。
「いかにも、だね。エッチもおしゃれも頭でっかちの知識先行、準備万端整えても実践できない臆病な耳年増ってワケだ」
わざときつい口調で挑発的に言ってやる。自分でも気にしているところなのだろう、由起は無言でうつむいた。
「じゃあ、明日からコンタクトにして、ミニスカの制服で学校に行くとして……髪型も変えなきゃね。三つ編みお下げなんて、いつの時代の女学生ですかって」
「で、でも……」
「つべこべ言わない! さっさとブラシとドライヤーと整髪料持ってきて!」
怒鳴るように言うと、その大声に気圧されたのか、慌てて立ち上がって言われたものを用意する。
必要なものが揃ったところで、由起を姿見の前に座らせた。
長いストレートの黒髪。きちんと手入れされた綺麗な髪だけれど、少しカットして整えないと、このままでは少々野暮ったい。しかし今から美容院も間に合わない。とりあえず今日のところはおしゃれに編み込んでみよう、と考える。
ドライヤーとブラシを手に、由起の長い髪と格闘する。いくつかの髪型を試して、由起がいちばん可愛く見えるスタイルを見つける。
そのままミニスカートの制服に着替えさせ、軽くお化粧をする。
「……どぉ? あたしの力作」
姿見の前に立った由起の背後から、肩に手を置いて胸を張る。
正面の大きな鏡の中で、とびっきりの巨乳美少女が目を丸くしていた。
「可愛いでしょー……って、変わりすぎじゃね?」
内心、杏自身も少し驚いていた。予想以上に可愛い。
しかし考えてみれば、由起は素材としてはかなり上質なのだ。顔は可愛いし、肌は綺麗だし、やや小柄ながらスタイルも良くて胸は大きい。
そうした美点がこれまで隠されていただけに、さらけ出された時のギャップは相当なものだ。
クラスメイトたちも、今の由起を見たら「誰?」と思うことだろう。
「え、え、ええ? これ……私? 三郷さん、すごい!」
由起もすっかり可愛くなった自分に見とれている。
「中川の素材がいいんだよ」
これなら、誰も由起を馬鹿にできまい。突然イメチェンした由起を笑うどころか、同性だって見とれてしまうはずだ。
ましてや異性ならば……
背後から腕を回して、由起の身体を抱きしめる。
うなじや耳に唇を押しつける。
「み、三郷さんったら……」
頬を赤らめる由起。
可愛い。
本当に可愛い。
だけど……
どうしてだろう。
なにか、すっきりしない。
胸の奥に引っかかるものがある。
もやもやとした感情が膨らんでくる。
対照的に、由起は弾けんばかりに満面の笑みを浮かべている。
なんだか面白くない。
可愛らしい由起を見ていると、だんだん、不愉快な気持ちになってきた。
「……やっぱり、元に戻そうか?」
「え?」
「……うん、無理にイメチェンなんかしなくてもいいんじゃない?」
「どうして? せっかく三郷さんが、こんなに素敵にしてくれたのに」
明日から、由起の周囲は一変するだろう。
それが問題だった。
今、由起の可愛さを知っているのは杏ひとりだ。明日にはそれが万人の知るところとなる。
なんだか面白くない。気に入らない。
抱きしめていた腕を解いて唇を尖らせる。
「中川ってば、可愛すぎだもん。これで学校行ったら、男子が放っておかないよ、きっと」
急に可愛くなって、クラスの男子にちやほやされる由起。そんな光景は見たくなかった。
「……それが、どうしていけないの?」
由起も唇を尖らせる。
「え?」
「可愛くなって人気者になって……それがどうしていけないの?」
「そ、それは……」
確かに。
由起の言うことが正しい。
おしゃれな可愛い女の子になって、人気者になって。
それこそが由起の望んでいたもので、それを不快に思うのは杏のエゴでしかない。
だけど……
だけど……
それまで姿見を見ていた由起が振り返る。
まっすぐに杏の顔を見つめる。
真剣な表情で。力のこもった瞳で。
「どうしていけないの? ねえ」
「…………」
答えられなかった。その感情は、自分でもちゃんと言葉にすることができない。
由起の真剣な表情で正面から見つめられると、妙に恥ずかしい。鼓動が速くなって、顔が熱くなってくる。
「ねえ、どうして?」
一歩、距離を詰めてくる。すぐに触れてしまいそうな距離だ。今に限っては、そんなに近づかないで欲しい。
「どうして?」
由起の表情が微妙に変化する。
よく見なければわからない、ほんの微かな変化。
真剣な表情のふりをして、実は含み笑いを堪えているような。
これは、もしかして。
わかっていて、訊いているのだろうか。
もしかしたら、杏自身よりもよくわかっているのではないだろうか。
わかっていて、杏の口から言わせようとしているのではないだろうか。
「……な、中川って、意外と性格悪いね」
「三郷さんは、意外とやきもち妬きなのね」
由起がにっこりと微笑む。
「なっ……」
自分でもはっきりと自覚していなかった本音を指摘され、言葉に詰まる。
反論しようと開きかけた口が、いきなりのキスで塞がれる。
由起とのキスは、今日、何度もしている。だけど、このキスはなにかが違う。
伝わってくる、由起の想い。
単なるセックスの前戯としてのキスではない。
これは、愛情表現のキス。
激しくて、だけどとても優しいキス。
唇が触れているだけで、純粋な想いが伝わってくるキスだった。
「だ……、男子にちやほやされるようになっても、あたしと仲良くしてくれる?」
「それは私の台詞だわ。……学校でも、私と仲良くしてくれる?」
「あ、当たり前じゃん。この可愛い中川はあたしが作ったんだ。あたしのものだよ」
「あなたが好きよ」
直球。ど真ん中のストレート。
それ故に反応できない勝負球。
なにか応えなければ、と思いつつも言葉が出てこない。
代わりに、由起の身体を抱きしめた。今度は杏からキスをする。
愛情のこもったキス。
今の自分の気持ちを素直に表現したキス。
「好きよ」に対する答えのキス。
そのまま長い時間、唇を重ねていた。
セックスと同じくらい、気持ちのいいキスだった。
身体をすり寄せてくる由起の呼吸が荒くなっている。顔が紅く火照っている。目が潤んでいる。
やがてどちらからともなく名残惜しげに唇を離したものの、身体はそのまま密着させていた。鼻先が触れ合うほどの距離で見つめ合う。
由起が目を細めて言う。
「ねえ、いいこと思いついちゃった」
「なに?」
「当分の間、雨の日は、帰りにあそこで待ち合わせしない?」
あそこ、がどこかなんて考えるまでもない。なんのために、ということも。
でも。
「当分って……雨の日って……、……いま、梅雨入りしたばかりなんだけど?」
「……だから、よ」
にっこりと笑う由起。
可愛くて、なのに艶っぽい、とろけてしまうような笑み。
その笑顔が杏を誘っている。
「中川って、意外とエッチっていうか……これはもう性欲魔神だよね」
「三郷さんは意外とテクニシャンだわ。……いえ、意外じゃないわね。見た目通り?」
「……あんたが私のことどう見ていたのか、一度、詳しく問いつめる必要がありそうだね」
そのまま数秒間見つめ合って、同時にぷっと吹き出した。
まだまだ、お互いのことをなにも知らない。
だけど。
そんなの、これから知ればいい。
そのための時間は、まだまだたっぷりとあるはずだから。
「……転校なんて、しないよね?」
「っていうか、一緒の大学に行かない?」
「……あたしの頭で中川と同じ大学なんて行けるわけないでしょ」
学年上位の由起に対し、杏の成績は真ん中より少し上という程度だ。
「一緒に勉強しましょ。教えてあげる」
「あんたとあたしが二人で部屋にいて、…………勉強なんてできると思う?」
「………………死ぬ気で我慢する」
その表情があまりにも真剣で、杏はまた吹き出してしまった。
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