「一本っ!」
審判の腕が頭上にまっすぐ掲げられる。
一瞬遅れて、試合場の周囲からわっと歓声が上がった。
どよめきの中、すらりとした長身の少女が立ち上がる。大きく息を吐き出して乱れた道着を直すと、まだ半ば呆然としている対戦相手と審判に礼をして試合場から出た。
と同時に、同じ柔道部の仲間たちにもみくちゃにされてしまう。
ここは、柔道の市民大会が開かれている体育館。
女子52kg級の決勝では、私立聖陵女学園高等部の一年生・佐伯聖美が、見事な一本勝ちを決めたところだった。試合開始からわずか二十秒、目の覚めるような内股だった。
この春に入部したばかりの一年生の大活躍に、柔道部の仲間たちはきゃあきゃあと大騒ぎしている。顧問の先生も嬉しそうに拍手をしている。
その中で一人だけ、歓喜の輪に加わらずに不機嫌そうな表情で腕組みをして立っている人物がいることを、聖美は視界の端に捉えていた。
小柄で、化粧っ気はないが整った顔立ちで、まっすぐな黒髪をぎりぎり肩に掛からないくらいの長さに切りそろえたその姿は、まるで日本人形のよう。
同じ柔道部の三年生、安曇凉子先輩。
一瞬だけ目が合う。
鋭い、まるで聖美を責めているような視線。
一抹の寂しさに胸が痛む。
いちばん喜んで欲しい人、いちばん褒めて欲しい人に認めてもらえないことが悲しかった。
市民大会からの帰り道、駅で、バス停で、部員たちと別れて最後は聖美と凉子の二人きりになる。柔道部ではこの二人だけが学校の敷地内にある寄宿舎住まいだ。
体育館からずっと、凉子は無言だった。気まずい沈黙が二人を包み込んでいる。
どうしてだろう。
高校生になって初めての大会で、みごと優勝したというのに。しかも決勝戦で一本勝ちだ。
「……わかってンだろ?」
まもなく寄宿舎に着く頃になって、不意に凉子が言った。
人形のような美しい外見に不釣り合いな乱暴な口調。それが凉子のくせだ。
聖美は躊躇いがちに、ゆっくりとうなずいた。
おおよそ、見当はついている。
ただ勝てばいいというものではない。
高校女子48kg級では最強の選手で、完璧主義者である凉子の目から見れば、聖美の今日の試合内容は不満だらけなのだ。
どこが悪かったのか、聖美自身もわかっていた――その原因も含めて。
「投げ技は見事だったな。あの決勝の内股なんて高一のレベルじゃない、今すぐ、全国でも通用する。でも……わかってンだろ?」
わかっている。
立ち技には問題ない。しかし寝技が下手なのだ。
「なンだよ、あの三回戦。あんな下手くそな袈裟固めに捕まって。準決勝だって、小内で倒したところを寝技で攻めれば簡単に仕留められたのに、立ち技勝負にこだわったろ?」
そう。
寝技が苦手だから。
寝技の攻防をしたくなかったから。
対照的に、凉子は寝技の名手だった。現在、高校女子48kg級では敵なし。昨年末の福岡国際では、海外の強豪選手も破って準優勝している。立ち技のキレも相当なものだが、寝技に関しては間違いなくこの階級のトップ選手だ。
そんな凉子にとっては、聖美の拙い寝技など見られたものではないのだろう。
「今日の優勝で、先生はアンタも金鷲旗のメンバーに入れるつもりらしいぞ」
「ほ、本当ですかっ?」
思わず声が裏返る。
七月に行われる金鷲旗高校柔道大会――それは高校の柔道選手にとって、インターハイや全国高校選手権と並ぶ重要な大会だ。そのメンバーに選ばれるなんて、新一年生にとっては名誉なことこの上ない。
しかし、凉子の言葉は厳しかった。
「……あたしは反対。アンタの寝技じゃ全国ではまるで通じない。こんな、立ち技だけで勝てる市民大会の優勝くらいで浮かれてもらっちゃ困るんだ」
「……はい」
「出たい?」
「…………はい!」
一瞬躊躇したが、凉子は力強くうなずいた。柔道を志す者として、より大きな大会で自分の力を試したいと思うのは当然だった。
「金鷲旗までには、寝技ももっと……なんとかします!」
「じゃ明日から、部活の後であたしと寝技の特訓な」
「え?」
「二人とも寄宿舎住まいだし、いくら遅くなっても平気だろ? 門限ギリギリまでやるぞ」
「あの、それって、凉子先輩が指導してくれるってことですか?」
「他に誰がいると? アタシの指導は先生みたいに甘くないぞ。覚悟しときな」
「は……はいっ!」
溢れる喜びを隠して聖美はうなずいた。厳しい台詞なのに頬が緩んでしまう。
聖美にとって、凉子は憧れの柔道選手だった。
小柄で細身で、艶やかな黒髪に大きな瞳。まるで日本人形のような繊細な容姿なのに、柔道は大胆そのもの。男子顔負けの激しい攻めで相手を翻弄したかと思うと、一転して精密機械のように隙のない寝技で仕留めてしまう。
柔道に関してはまったく容赦のない厳しさも、外見とまるで釣り合わない男の子のような口調も、すべてが魅力的だった。
「……いや、明日からなんてヌルいか。これから柔道場へ行くぞ」
「は、はいっ!」
憧れの凉子が、マンツーマンで稽古をつけてくれる。
どんなに疲れていても、それは夢のような状況だった。
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