晴れた日の夕方、その河川敷の公園は、私にとって天国のような場所だった。
いつ来ても、飼い犬を散歩させる人たちで賑わっている。だから、学校から家までの最短ルートからは少し外れているけれど、学校帰りにはできるだけそこを通ることにしていた。
私――長浜梨花は、大の犬好きだ。
犬はどれでも好きだけれど、特に大型犬が好み。首に腕を回して、しっかりと抱きかかえられるサイズが理想。
さらに欲をいえば長毛種がいい。あの、ふかふかの毛皮に頬ずりする時の幸福感は、どう言葉にすればいいのだろう。
大きな舌で顔を舐められたりするのも堪らない。
自分で大きなゴールデン・レトリーバーを飼うことができればどんなにいいだろう。だけど両親はふたりとも犬を苦手としているので、それは叶わぬ夢だった。犬嫌いなら説得のしようもあるかもしれないけれど、アレルギーではわがままは言えない。
だから、こうして散歩している余所の犬たちを眺めることで満足するしかない。
――そんな、初夏のある日のこと。
いつものように公園の中をのんびりと歩きつつ、芝生の上を楽しそうに駆け回る犬たちの姿を堪能していたところ、突然、背後からすごい力で突き飛ばされた。
身長一四五センチ強、体重三五キロ弱と、高校二年生の女子としてはかなり小柄な私の身体は、簡単に芝生の上に転がされた。そこへ、大きな影が覆いかぶさってくる。
「きゃ……」
悲鳴を上げようと開きかけていた唇に、いきなり舌が――それも、妙に大きくて長い舌が押しつけられた。
「……え?」
大きな舌が、口の周りを中心として、私の顔をペロペロと舐め回している。
まるで状況が飲み込めずに混乱している私の目に、つぶらな黒い瞳と、その周りを覆う山吹色の毛皮が映った。
これって……
ひょっとして、ゴールデン・レトリーバー?
間違いない。
落ち着いて見てみれば、私を押し倒したのは痴漢でも強盗でもなく、一頭の大きなゴールデン・レトリーバーだった。
視界の隅に映る紅い首輪。当然、飼い犬だろう。ふさふさの羽箒のような尻尾をちぎれそうなほどに振りながら、私の顔を舐めている。
「こら、ラッキー!」
不意に、頭の上から男の人の低い声が聞こえた。
「すみません。うちのバカ犬が……、こら!」
声の主がリードを引っぱったのだろう。そのゴールデンは渋々といった様子で私の上から降りた。
聞き覚えのある声に軽い驚きを覚えながら上体を起こし、鼻の上にずり落ちていた眼鏡を直す。それから、目の前に立った男性を見あげた。
背が高い。一八○センチ近くはあるだろう。顔だちは整ってはいるけれど、やや険しいというか、凄みのある雰囲気。
だけど、知っている人物だった。
「上村……くん?」
同じ高校、同じクラスの、上村くん――フルネームは確か、上村利雄くん。
中学は別で、今年初めて同じクラスになった。クラスメイトの中では特に親しいわけではなく、個人的な会話をしたこともほとんどないけれど、席は比較的近くだし、向こうは目立つ容姿だからすぐにわかった。
長身で、顔はハンサムといえばハンサムなんだけれど、なんというか、冷たく、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さが感じられる。サスペンスものの映画やドラマで、冷酷な二枚目暗殺者役をやらせたら似合いそうなタイプ。
「え……、委員長?」
上村くんも驚いたような声を出す。
去年、今年と続けてクラス委員をしているために、一部の親しい友達以外からは「委員長」と呼ばれることが多い。真面目で成績がよくて眼鏡をかけているという、いかにもな「委員長キャラ」だから、と言う人もいる。
クラス替え直後、一年生の時からのクラスメイトが「委員長」と呼んでいたせいで、今のクラスでも「委員長」が定着してしまった。あまり親しくないクラスメイトの中には、私の本名を知らない人もいるのではないかと不安になってしまう。
「……なにやってんだ、こんなとこで?」
教室で聞くのと同じ、ややぶっきらぼうな口調。
「それって私の台詞……。なに、この子?」
一度引き離されたゴールデン・レトリーバーはまた近くに寄ってきて、私の口の周りを舐めはじめた。もしかしたら、ここに来る前にアイスクリームを食べていたせいかもしれない。
山吹色の毛皮にアクセントを与えている紅い首輪に、小さな金属製のメダルが下がっているのに気がついた。古風な装飾が施された美しい字体で『Lucky』と彫られている。
「この子、上村くんの飼い犬?」
そう訊くために口を開くと、長い舌が口の中にまで入ってきた。人間相手だったら、まるでディープキス。相手が可愛い犬だから、ぜんぜん嫌ではないけれど。
「ああ」
「ラッキーって、この子の名前?」
「ああ」
ラッキー、ね。なるほど。
名前に相応しい、陽気なはしゃぎっぷりだ。もともとゴールデン・レトリーバーは陽気な性格の子が多い印象だけれど、この子は特にそう。飼い主にはあまり似ていないように思える。
そして、素晴らしく可愛い顔をしている。ゴールデンとしてはトップクラスのハンサムだろう。毛並みも美しく、四肢のバランスも完璧。
およそ、理想的といってもいいゴールデン・レトリーバーだ。
初対面の相手に人見知りする様子もなく陽気にじゃれついてくるラッキーの首筋を、そっと撫でてやる。
ラッキーは嬉しそうに目を細めると、お返しとばかりにさらに激しく私の顔を舐めてきた。
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