次の日も。
また次の日も。
あの女の人は、あたしに触ってきた。
近くに立たないように気をつけていても、向こうは服装や髪型、お化粧の仕方を毎日変えてくるので、混んだ電車の中をちらっと見渡したくらいでは見つけられないのだ。
それに、ちょっとくらい離れたところにいても、器用に人混みをすり抜けてあたしの横に来てしまう。
すっかり、目を付けられてしまったらしい。
心底楽しそうに、あたしの身体を弄んでいる。
さすがに、二日目の「お尻」ほどハードなことはされなかったけれど。
最初に会ったのが今週の月曜日で、木曜日まで毎日痴漢されて。
いい加減なんとかしなきゃいけないなぁ、と思い始めた金曜日のこと。
電車に乗ったあたしは、おやっと思った。
あの人の姿がない。
いやいや。油断させておいて背後から襲ってくるつもりかも、と注意深く周囲を見渡したが、それらしき人は見当たらなかった。いくら服装や髪型を変えて変装したところで、年齢と性別はごまかせまい。
なんだか拍子抜けした。
もちろん、痴漢に遭わないのはいいことなんだけれど。あれだけ執拗にあたしを狙っていたのに、急にいなくなるというのも不思議な気分だった。
それに、これでもう触られずに済む、と喜ぶのはまだ早い。たまたま今日だけ、なにか用事があってこの電車に乗れなかっただけかもしれない。
あるいは、他に可愛い女の子を見つけて標的を変えたのかもしれないが、だとしたら他に犠牲になっている女の子がどこかにいるわけで、自分が触られないからといって素直には喜べない。
しばらく、そんなことをぼんやり考えていると。
「……あ」
お尻のあたりで、もぞもぞと動く手があった。
(あーあ、やっぱり来たよ)
でも、どこから? どこに隠れていたんだろう。
そこで、はっと気付いた。
なにか、感触が違う。
あの人はいつも、なんの躊躇いもなしに図々しく触ってくる。だけどこの手は、あたしの反応をうかがうように、こそこそと動いている。
(……! あの人じゃない!)
急に、身体が強張った。
痴漢、だ。いや、あの人も痴漢なんだけど、そうじゃなくて。
普通の……というか、男の人の痴漢。
迂闊だった。
ここ数日、あの人にばかり気を取られていて。
電車に乗る時は女の人の横に立つ、とか。
鞄で胸やお尻をガードする、とか。
そういった痴漢対策の基本を忘れていた。
なにしろあの人は、そんな防御策などお構いなしに触ってくるから。
(……やだ)
気持ち悪い。
ごつごつした男の人の手の感触に、全身に鳥肌が立っていた。
こそこそとした、いやらしい動き。
それでいて、優しさや繊細さなど微塵も感じられない。
あの人も痴漢には違いないけれど、触られた感じは全然違った。正直に言ってしまえば、あの人の指は気持ちがいい。
下着の中まで触られるのは、恥ずかしいんだけれど。
もちろん嫌なんだけれど。
それでも、身体は反応してしまう。
だけど、今日の痴漢はまったく違う。
これっぽちも気持ちよくなんかない。
気持ち悪くて、鳥肌が立って。
触られるほどに、具合が悪くなってくる。
(や……ヤダ!)
内股に、なにかが押しつけられた。手とは違う感触。柔らかくて、熱くて。
それが何か、わからないほどには子供じゃない。
(この……調子に乗って……)
吐き気がしてくる。
汚れた欲望で膨らんだ器官が、あたしの内股を擦っている。
その動きが、どんどん速くなっていく。
荒い息が、うなじにかかる。
(な、なに考えてンのよ。この変態……)
嫌悪感と共に、怒りが込み上げてくる。
いったいどうしてくれよう、と考えていると、電車が途中の駅に止まった。
(――っっっ!)
内股に、なにか熱い液体が飛び散ったのはその時だった。
瞬間、あたしはキレていた。
「なにすんのよっ! この変態っっ!」
数人の乗客が降りて生じたわずかなスペースを利用して、鞄を痴漢の顔面に叩きつける。
今日の鞄は、六時間分の教科書と英語と古文の辞書、そして聖さんに貸す約束をしていたマンガとお弁当が詰まったスーパーヘビー級。それが、あまり背の高くない中年男の顔面を完璧に捉えた。痴漢は股間の汚らしいものをさらけ出したまま、鼻血を噴き出してその場に崩れる。
まだ降りる駅ではなかったけれど、あたしはホームに飛び降りた。そのまま無我夢中で改札を突っ切り、駅のトイレに駆け込む。
個室の一つに入って鍵をかけ、ようやく息をついた。荒い呼吸を繰り返す。
内股を流れ落ちる液体の感触に、はっと我に返った。白濁した粘液が、肌の上をゆっくりと流れている。
あたしはトイレットペーパーを山ほど掴み取り、その汚液を拭き取った。
むっとした、生臭い臭いが鼻をつく。
青臭い、栗の花にも似た異臭。
拭き取ったトイレットペーパーをトイレに流し、さらに持っていたウェットティッシュで拭く。その上で、臭い消しに香水を振りかける。
それでも、あの臭いが残っているように感じた。
また、胃の底から突き上げてくるような吐き気が起こる。
手で押さえる隙もなく、あたしは朝食を戻していた。
いつも朝食はほんの少ししか食べないから、胃はすぐに空っぽになる。それでも吐き気は治まる気配を見せず、胃液が逆流してくる。
口中に苦酸っぱい味が広がる。
いつまでもいつまでも。
何度も何度も。
あたしは、トイレの中で吐き続けていた。
<< | 前章に戻る | |
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 2000-2002 Takayuki Yamane All Rights Reserved.