電車を降りたのは、新橋駅。
最初に連れて行かれたのは、銀座のブティックだった。
「その格好じゃ、ちょっとまずいでしょう?」
「どうして? 学校の制服って、冠婚葬祭どんな公式の場でもOKでしょ?」
「パンツが見えそうなミニスカートの場合はどうかなぁ。私は、その方が好きだけど。でも、制服じゃお酒は飲めないし。せっかくのフレンチだもの、美味しいワインを楽しみたいじゃない?」
「……まあ、あんたが服を買ってくれるっていうんなら、断る理由はないけど」
そうして、ちょっと自分のお金で買う気にはなれないような金額の、素敵なミニのワンピースを買ってもらった。
新しい服に着替えて。
次に連れて行かれたのは、某一流ホテルの最上階にあるフレンチレストラン。
ふかふかの絨毯。
いかにも高級そうな内装。
他の客も、見るからに上流っぽい人ばかり。
店に入ると、ぴしっとした身なりの中年男性が、うやうやしく頭を下げた。
あたしはちょっと脚が震えていた。
なのに公美さんは、まったく平然としているみたい。
こんなところ慣れてます、って雰囲気で。
公美さんて、お金持ちなんだろうか。
最初に会った時はTシャツとジーンズだったはずだけど、そういえば今日はブランドもののスーツを着ている。
席は、街の夜景が見渡せる窓際だった。
料理は、公美さんに任せることにした。フランス語のメニューなんて見てもちんぷんかんぷんだろうし、たとえカタカナで書いてあったとしても、今の緊張した頭では、舌を噛みそうな料理の名前なんて読めるはずがない。
「美鳩ちゃん、鴨は好き?」
「え? ええ、まあ……」
「それじゃあ……」
その後の単語はよく聞き取れなかったけれど、どうやら鴨をメインにしたコースを頼んだらしい。
続けて、別なメニューを持った男の人がやってくる。「お飲物はいかが致しますか」という台詞で、それがソムリエというものだと気がついた。
マンガで見たのと同じ格好をしている。実際にソムリエがいる店で食事をするなんて、初めてだった。
「アペリティフはシャンパーニュで。キュヴェ・ドン・ペリニョンがいいかな。ワインは……私、シャンボル・ミュジニーが好きなんだけど、八五年でなにかお薦めはあるかしら?」
何故かこの時、公美さんは一瞬あたしを見た。
「八五年でしたら、コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエのボンヌ・マールなどはいかがでしょう? 評価の高い作り手ですし、ちょうど飲み頃を迎えております」
「ヴォギュエのボンヌ・マール? いいわね。気分的にはレザムルーズなんだけど、味はボンヌ・マールの方が好きだし。ええ、それにするわ」
「かしこまりました」
あたしには意味不明の会話が交わされている。ワインを頼んだらしい、ということだけはわかるけれど。
ソムリエの男性が去った後で、小さな声で訊いた。
「……このお店、すごく高そうなんだけど?」
「まあ、安くはないわね」
「具体的に言うと?」
「料理が三万ちょっと。シャンパーニュはも少し安くて、ワインはもうちょっと高いってところかな」
「そ、そんなにっ?」
「今さらなにを驚いてるの? 君のリクエストでしょ?」
「でも、だって……」
その時、ソムリエがシャンパンを持ってきて、細長いグラスに注いでくれた。
公美さんはグラスを軽く掲げて、乾杯の仕草をする。あたしも同じようにしたけれど、手が震えていた。
だって。
料理が三万円以上。
このシャンパンはそれより安いとしても、ワインがもっと高いらしいから、合計するとすごい金額。
信じられない。
確かに、高級なフランス料理って言ったのはあたしだけど。
ちょっと、考えていたのとはレベルが違う。
あたしは、二人で合計一、二万円くらいのつもりでリクエストしたのに。
それに公美さんは、この他にあたしの服も買ってくれたんだ。これだって、安いものじゃない。
今日一日で、すごい出費のはず。
ちゃんとした恰好をした公美さんは、一流企業のOLのようにも見えるけど、でも歳は見たところ二十五歳前後。高給取りといっても限度があるだろう。
それとも、風俗嬢とか?
そーゆー雰囲気ではない。
じゃあ、大企業の社長の愛人かな? すごい美人だし。
でも、この人が男を相手にするとは思えない。
資産家の一人娘とか。
ジャンボ宝くじで一等が当たったとか。
実は普通のOLだけど、浪費癖があってサラ金にものすごい借金があるとか。
あたしは頭をひねった。
どれもありそうな気もするし、まったく見当はずれのような気もする。
公美さんには何度もひどいことされたんだし、二、三万円なら払わせたっていいと思う。だけど十万円以上なんて、あたしの金銭感覚からはかけ離れていた。なんだか、罪悪感を覚えてしまう。
「どうしたの? シャンパーニュくらい飲めるんでしょう?」
グラスを持ったまま考え込んでいたあたしに、公美さんが声をかける。
あたしは慌てて、グラスに口をつけた。
シャンパーニュ……要するにシャンパンよね。
あたしだって今どきの女子高生。友達と遊びに行って、お酒を飲むことだってある。ほとんどが安くて甘い、カクテルとかドイツワインとかだけど。
モスカートっていったっけ? あーゆー甘口のスパークリングワインなら好き。
あれはイタリアだったかな。確か、フランスのもの以外はシャンパンとは呼ばないんだよね。
そんなことを考えながら、おそるおそる口に含んでみた。
(……!)
全然、甘くはない。
以前ビールを飲んでみた時、甘くないお酒なんて全然美味しくないって思ったのに。
でも……。
「美味……しい、のかな?」
甘くないんだけど。でも、ビールとは違ってすんなりと喉を通っていく。
なんて言ったらいいんだろう。
滑らかなのに、きりっと硬く引き締まったような。
うーん。
ひとことで言うと、高級っぽい味……かなぁ。大人の味、って言ってもいいかもしれない。
口の中で弾ける無数の泡が、舌に心地よい刺激を与えてくれる。
「このシャンパン、なんて言ったっけ?」
せっかくだから、名前を憶えておこう。
「キュヴェ・ドン・ペリニョン。気に入った?」
「キュヴェ……ドン・ペリニョン?」
舌を噛みそうな名前を、口の中で反芻する。
キュヴェ・ドン・ペリニョン……ドン・ペリニョン……え?
「ひょっとして……これがあの有名な、ドン・ペリ?」
「ええ、そうよ」
公美さんは平然とうなずいたけれど、あたしはびっくりした。
高校生のあたしだって、名前くらいは聞いたことがある。
有名な、高級シャンパン。
ドン・ペリをご馳走してもらったなんて、友達に自慢できるかもしれない。
治まりかけていた手の震えが、先刻よりも激しくなった。
それに目ざとく気付いた公美さんが笑う。
「そんな、びっくりすることじゃないわ。世の中にはサロンとかクリスタルとか、もっと高いシャンパンだってあるんだから」
「もっと?」
なんだか、信じられない世界。
「それより、料理が来たわよ」
って言われても。
こんなに手が震えてて、フォークとナイフをうまく使えるか不安。
でも、出された前菜は見た目にも可愛らしくて美味しそうで、早く食べたいって思ってしまう。
お腹も空いてきたことだし、多少震えてたって構うもんかって。開き直って食べ始めた。
ああ、もう。
どう表現すればいいんだろう。
どんな味、って言い表すことなんてできない。
ただ一つ言えるのは、感動。
舌がとろけてしまいそうだった。
前菜も、スープも。
不覚にも一瞬、「こんな美味しいものが食べられるなら、ちょっとくらい痴漢されるのもいいかな」って思ってしまった。でもそれって、一種の援助交際かもしれない。
そして、もう一つの感動はワイン。
ドン・ペリにもすごく感動したけれど。
大きなグラスに注がれた深紅の液体は、見ただけでその美しさに心惹かれた。
純白のテーブルクロスに、鮮やかなルビー色の影を落としている。
グラスを顔に近づけると、芳醇な香りが立ち上ってきた。
あたし、赤ワインって渋みとか酸味が気になって、あまり好きじゃないんだけど。
でもこれは、色と香りだけで「飲んでみたい」って思えてきた。
最初は、おそるおそる一口だけ。
「……っ!」
たちまち、これまで抱いていた赤ワインのイメージが一変した。
全然、渋くなくて。
柔らかな心地よい酸味があって。
すごく滑らかな舌触りで。
でも、とても豊かな、深い味。
「す……ごい……高級なワインって、こんなに美味しいの?」
「そ。ワイン一本に何万円なんて、興味ない人には馬鹿らしいかもしれないけどね。でも、それだけの対価を支払わなければ体験できない味というのは、確かに存在するのよ」
「すごい、すごい。これなら、いくらでも飲めちゃいそう」
「飲み過ぎには気を付けて。いいワインは一般に、アルコール度数も高めだから」
「で、これはなんてワインだっけ?」
「コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエという生産者の、ボンヌ・マール。フランスのブルゴーニュ地方のワインね。ヴィンテージは一九八五年……わかる?」
意味深な笑みを浮かべて公美さんが言う。
一九八五年。
それは、あたしにとってちょっと特別な年だった。
「あたし、が……生まれた年?」
「そう」
驚いた。
今から、十六年も前のワイン。
自分の生まれ年のワインなんて、飲むのはもちろん見るのも初めて。
公美さんはあたしの歳を知っていて、わざわざこの年のワインを頼んだのだろうか。生徒手帳を見られたのなら、生年月日は知られているはず。
そういえば、このワインを頼む時、ちらっとあたしの顔を見ていた。
「ちょうど、八五年のブルゴーニュってすごくいい年なのよね」
「いい年って?」
「雨が少なくて、日照時間が長くて、霜や雹の被害がないこと……かな。そうすると、よく熟した質のいい葡萄が収穫できて、そこから作られるワインも上質のものになるわけ」
「……そっか。あたしの生まれた年って、ワインの出来のいい年なんだ」
ちょっと、得した気分。
「そういえば、公美さんって何年生まれ?」
なんの気なしに聞いたら、公美さんは珍しく少しうろたえた。
「……年上の女性に、歳を訊かないの」
とゆーことは、そろそろ自分の歳が気になる年齢ってことに違いない。
きっと、二十五歳にはなっているのだろう。四捨五入して三十になるか二十になるかは、気分的に大きな違いって気がする。
でも、公美さんくらい綺麗な人だったら、歳なんかどうでもいいようにも思えるんだけど。
二十五歳の女性の心理は、十六歳になったばかりの女子高生にはよくわからない。
「じゃあさ、公美さんの生まれ年のワインってどうなの?」
「そうねぇ。まあ、並……かな。特別いい年ってわけじゃないな」
「ふぅん」
また、手の中のグラスに視線を戻す。
とても深い、赤。
今まで見てきたどんな赤よりも、深くて綺麗な色。
「コント・ジョルジュ……なんだっけ?」
「コント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエ」
「ヴォギュエ……ね」
絶対に憶えておこう。
こんな、素敵な味のワイン。
「そして、畑の名前がボンヌ・マール」
「畑?」
「そう。ブルゴーニュの上級ワインは、葡萄畑の名前がそのワインの名前になるの」
「ボンヌ・マール……ね。これ一本が三万円以上か。すごいなぁ」
「でもブルゴーニュには、もっと高いワインもたくさんあるわよ」
「もっと? これ以上?」
「たとえばロマネ・コンティなんて、一本三十万円以上はざらね」
「三十万!」
思わず、大きな声を出してしまった。
だって、ワイン一本が三十万円なんて。
でも、ロマネ・コンティって名前は知ってる。すごく高いワインとは聞いた覚えがあるけれど、まさかそんな値段とは。
「……で、それ、美味しいの?」
「美味しい……っていうか。あれはもう……なんて言えばいいのかな。他に喩えようのない、唯一無二の存在だわ」
公美さんがうっとりした表情で言う。
そんなにすごいんだ。
ちょっと、飲んでみたいかも。
「……飲んでみたい?」
あたしの表情に気付いたのか、くすっと笑って訊いてくる。
ここで「うん」って言えば、三十万円をご馳走してくれるつもりなんだろうか。
「君が飲みたいって言うなら、ご馳走してあげてもいいけど。でも、さすがにロマコンとなると、ただで……とはいかないわよ? それでもいい?」
「う……」
ご馳走してあげてもいいけど……のところで目を輝かしたあたしだけど、すぐに思い直した。
ただではない。となると、言いたいことは想像がつく。
多分、公美さんが求める交換条件は――
あたし、だろう。
もう少し正確に言うと、あたしの身体。
慌てて、ぶるぶると首を振った。
「い、いいです。将来、宝くじでも当たったら自分で買いますから」
「なんだ、残念」
どこまで本気だったのか、公美さんがぺろっと舌を出した。
そんな話をしながら、ワインと鴨のローストに舌鼓を打って。
もちろん、その後のデザートも素晴らしい味で。
こんなに美味しいものばかり食べてしまったら、当分、コンビニ弁当なんて不味くて食べられないかも。
「で、この後どうする?」
そろそろデザートも食べ終わるという頃、公美さんが訊いてきた。
「え?」
「カラオケ? ゲームセンター? それともクラブ? なんならホテルでも。ここのスイートでも取る?」
「え、あ、……じゃあカラオケ」
よくよく考えてみれば、この後公美さんに付き合う義理はないんだけど。
ホテル云々って台詞にうろたえて、つい無難な選択肢を答えてしまった、というわけ。
「……でも、エッチなことしないでよね。約束してくれるんなら、もう少し付き合ってあげてもいいよ」
シャンパンとワインで気持ちよく酔っていたせいか、あたしはいつもより寛大になっていた。
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