原作:北原樹恒/作:やまねたかゆき
1
さて、この状況はいったいどうしたことだろう?
八月のある朝。私、進藤沙紀は頭を抱えていた。
頭がズキズキと痛む。考えがまとまらない。
ふつか酔いだ。
昨日の夜は、大学の友達に誘われて飲みに行った。一応、合コンということだったらしい。最近彼氏と別れたばかりの私のために企画したとかなんとか、そんなことを言っていたような気がする。
だけど私は男なんかそっちのけでヤケ酒のように飲みまくって……。
途中から、記憶がない。
で、問題はこの状況だ。
例えば「昨日知り合ったばかりの男とホテルのベッドの中」とかいうのであれば、それはそれで問題であるが納得はできる。
しかしこれは……。
今いるのは、自分の部屋だ。大学に近い、アパートの一室。
そして、自分のベッドで寝ている。
そこまではいい。
問題は、私が一人きりではないということと、二人とも服を着ていないということだ。
昨日初めて会った男と、ホテルじゃなくて自分の部屋へ来てやっちゃった? それならこんなに悩みはしない。というか、悩みのベクトルはまったく違ったものになる。
私の隣で、全裸のまま静かな寝息を立てているのは……女の子なのだ。
それも、高校生になるかならないかくらいの。
どちらかといえば小柄で、華奢な身体つきだろうか。
今どき珍しい、腰まで届きそうな長いストレートの黒髪が綺麗だ。
『烏の濡れ羽色』といった古くさい表現が似合いそうな黒髪と、白い肌のコントラストが印象的だった。
伏せられた睫毛は羨ましいくらい長い。
あと何年かしたら、すれ違う男たちがことごとく振り返るような美女になるだろう。今だって、すれ違う男たちがことごとく振り返るような美少女なのは間違いない。
しかし、いったいこの子は誰だろう。
私の知り合いではない。
少なくとも、昨夜より前に会ったことはないはずだ。これほどの美少女、一度会ったら忘れるはずがない。
ベッドの脇に、この子のものと思しきセーラー服が落ちていた。
見覚えのないデザインだ。
レトロな雰囲気で、それでいて品がある。まるで、コバルト文庫の『マリア様がみてる』を彷彿とさせるようなセーラー服は、この少女の雰囲気にぴったりだった。
私が知る限り、札幌市内にこんな制服の学校はない。
それにしても、この子とはどこで知り合ったのだろう。
セーラー服の美少女と居酒屋でお近づきになれるとは思えないから、帰り道のどこかだろうか。
何かのきっかけで知り合って、意気投合して部屋へ連れてきた……。オーケイ、そこまではいい。
一つのベッドで二人が寝ていることも良しとしよう。私の部屋には他に予備の布団なんてないから、友達が泊まっていくときも同じベッドで寝るか、三人以上なら床に雑魚寝するしかない。
それにしても、二人して裸というのはどういうことだろう。下着すら着けていないのだ。
そして何より、シーツについた、この、小さな赤い染みは何だろう。私の指にも、赤褐色の汚れが残っている。……まるで、乾いた血の痕のような。
思いつく可能性は、二つ。
仮説一。昨夜は暑かったので二人とも裸で寝た。たまたまこの子が生理だった。
仮説二。私はこの子とエッチした。この子はバージンだった。
……どちらが説得力あるか、考えるまでもない。
(うう……)
頭が痛いのは、ふつか酔いのためだけではない気がする。
念のため言っておくけれど、私はレズビアンではない。そういう趣味の知り合いがいないわけではないが、私は違う。
ついこの間までちゃんと彼氏もいた。……先刻も言ったとおり、別れたばっかりだけど。
(……まさか)
たらりと冷や汗が落ちる。
彼氏と別れた原因は、向こうが二股をかけていたからだ。それで男というものに幻滅して、酔った勢いで同性に走ったなんてことは……いやいや、まさか。
だけど、他にどう説明のしようがあるだろう。
「う……ん……」
女の子の睫毛が震える。ゆっくりと目が開かれる。
まだ、ぼんやりとした様子だ。
薄く開いた目で私を見る。
「……おはようございます」
ちょっとはにかんだ表情が可愛らしい。
「あ、えっと……おはよう」
私もとりあえず、朝の挨拶を返す。他に対応のしようもない。
女の子は一度起き上がろうとしたようだったが、自分が裸でいることに気がついて、恥ずかしそうにまたタオルケットにくるまった。
「……ところで、あなた誰?」
とりあえずそう訊ねる。すると、女の子の表情が一変した。
傷ついたような、悲しそうな、そして少しだけ怒ったような。
「まさか、覚えていないんですか? あんなことしておいて……」
――っ!
あんなことって、やっぱり、アレ?
したの? やっぱり?
「ひどい! わたしのバージン奪ったくせに」
「え、ちょ……ちょっと……」
「親切なふりして、行きずりの女の子を弄ぶのが目的だったんですね。沙紀さんってひどい!」
「ちょ、ちょっと待って! いま思い出すから……。二日酔いで頭が痛くて、考えがまとまらないんだ」
なんだか、ただならぬ雰囲気だ。
もう一度、最初から思い出してみよう。
夕方、友達と待ち合わせして、居酒屋へ行って……。
友達とどこで別れたのか、帰りは一人だったはずだ。
この女の子、この制服。どこで目にしたんだっけ。
少しずつ、少しずつ、記憶が甦ってくる。
「あ」
……思い出した。
地下鉄駅に向かう途中、この子が、見るからに柄の悪そうな若い男たちに囲まれていたんだ。
困っていたみたいだから、いつものクセでそれを助けて。
なんとなく成りゆきで、そのまま部屋に連れてきて。
その先はよく覚えていないけど、困ったことに、微かな記憶の断片がある。
さらさらの髪、滑らかな肌の感触。
柔らかな舌。
熱く濡れた粘膜の感触。
可愛らしく、切なげな吐息。
……夢じゃ、なかったんだ。
「……少し、思い出した。名前は……、えっと。斐川……笙子ちゃん、だっけ?」
「はい」
「えっと……部屋に戻ってからの記憶が曖昧なんだけど……」
「……沙紀さんがいきなりわたしに抱きついてきて、唇を奪ってベッドに押し倒したんです」
女の子――斐川笙子――は淡々と説明する。私は思わず両手で頭を抱えた。
「あぁぁぁ〜、やっぱりっ?」
頭痛が、よりいっそうひどくなる。
まったく、なんてことだろう。
生まれてから二十一年間、まっとうに生きてきたというのに。
よりにもよって、年下の女の子を襲ってしまうだなんて。それも、こんな美少女を。
……いやいや、美少女だからこそかもしれない。同性の私が見ても、思わず見とれてしまうほどだ。
どこか儚げな微笑が魅力的だった。
「でもあなた、どうしてあんな遅い時刻にあんな場所にいたの?」
夜遊びをするようなタイプには見えないのに。
「あれじゃあ、襲ってくれと言ってるようなものじゃない」
「実際、襲われてしまいましたしね」
「う!」
笙子の何気ない一言が、ぐさりと胸に突き刺さる。
そう、夜の盛り場を一人で歩いていた彼女を襲ったのは、スケベな男どもではなくてこの私なのだ。
「ゴメン! ほんっとーにゴメン!」
私はシーツに頭を擦り付けるようにして謝った。
謝って済むことではないかもしれないけれど。
「……済んだことだから、いいですけど」
笙子はぽつりと言った。
「その代わり、しばらく沙紀さんの家に置いて貰えませんか?」
「え?」
私は顔を上げる。
「どうして? あんた、家はどこ?」
口ごもって顔を逸らす、その様子でピンと来た。
「さては……家出?」
笙子の表情が、一瞬強張る。図星らしい。
「ダメダメ。未成年の家出少女を匿うなんて、できるわけないじゃない。下手したら誘拐犯扱いされちゃう」
「駄目ですか?」
「ダメ! ちゃんと家に帰りなさい」
「……わたしのこと、レイプしたくせに」
上目遣いに、恨めしそうに私を見上げる。
「う……」
私は、窮地に追い込まれていた。なにしろ、決定的な弱みを握られているのだ。
いったいどうしたものだろう。考えがまとまらない。
ふつか酔いによる頭痛が、思考の邪魔をしている。
「しばらく、ここにいさせてください」
「ええっと……。今、ふつか酔いで頭が痛いから……その話は後でってことで……。とりあえず私は寝る! 起きるまではいていいから」
これも一種の逃避。身体を丸めてタオルケットにくるまる。
……と、頭の上で「ぐぅ」という音がした。
私は頭だけを外に出す。
「もしかして、お腹減ったの?」
笙子は恥ずかしそうに、こくりとうなずいた。やれやれ。
「だったら、冷蔵庫の中のもの、好きに料理して食べていいから」
「……でも、あの……」
「何? そのくらい、遠慮しなくていいよ」
「いえ、そうではなくて……その……、わたし……」
言いにくそうに、頬を赤らめている。
「……もしかして、料理ができないとか?」
そう訊ねると、笙子は小柄な身体をよりいっそう小さくした。
やれやれ、今どきの若い連中は……などと、年寄りじみたことを考えた私だったが、すぐに思い直した。
笙子のこの丁寧な口調。世間ズレしていない様子。あのクラシックなセーラー服。そして、料理もできないというのは……。
「笙子ってさぁ……、ひょっとして、お金持ちのお嬢様? 家にはお手伝いさんやコックがいて、家事は全部やってくれるとか?」
そして私の予想通り、笙子は小さく頷いたのだ。
仕方なく、ベッドから出て朝食を作ってあげた。
「美味しい。沙紀さんって、お料理お上手なんですね」
笙子が嬉しそうに言う。しかし別に感心するほどのものではない。食パンが余っていたので、フレンチトーストを作っただけだ。
パンと、卵と、生クリーム。甘みと香りを付けるためにオレンジキュラソーをひとさじ。
それだけだ。まずく作る方が難しいというもの。しかし笙子は素直に感心している。
「沙紀さんってすごいですね。お料理も上手で、そしてあんなに強くて……」
そう言うと、笙子は隣の部屋に目をやった。
視線の先には、壁に掛かった何枚かの賞状と、タンスの上に置いた盾。
いずれも、空手の大会のものだった。
そう。私は空手の黒帯を持っていて、昨夜笙子に絡んでいた男たちを全員KOしたのだった。
「いや、まあ……そんな大したものじゃないよ」
「すごいですよ。男の人よりも強いなんて。こんな素敵な人、初めてです。だから、ここにいさせてくださいね」
「お世辞言ってもダメ。それとこれとは話が別」
「でも……」
「私も一応大人なんだから、未成年の家出に手を貸せるわけないでしょ」
「ずっと、っていう訳じゃないんです。しばらくの間……」
私は小さく溜息をついた。
「どうして……って、聞いていい?」
「……」
しばらく黙っていた笙子だったが、やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。
笙子の家は、やはり相当な名家だった。会社名は伏せるが、毎年『企業ランキング』の上位に名前が載るような大会社を経営していて、お祖父さんが会長、父親が社長なのだそうだ。
父親も、そしてお祖父さんも厳しい人のようで、笙子は幼稚園から私立の名門校に入って、純粋培養のお嬢様として育てられてきた。
それが当たり前のことだから、親に逆らうなんてこれまで考えたこともなくて。
しかしそんな生活に疑問を感じたのが、親が決めた「婚約者」を紹介された時だったという。
十五歳で婚約者とはまたずいぶんと早い気もするが、上流社会ではそういうこともあるのかもしれない。ごくごく平凡な地方公務員の家に生まれた私には縁のない話だが。
「ヤな奴だったの? 取引先のバカ息子とか」
それまで黙って聞いていた私は、つい口を挟んだ。笙子は首を左右に振る。
「いいえ。確かに取引先のご子息ですけど、とっても素敵な方でした。ちょうど、沙紀さんと同じくらいの歳の大学生で、背が高くて、とっても優しくて」
「じゃあ、どうして」
「さあ、どうしてなんでしょう?」
笙子は自嘲めいた笑みを浮かべて首を傾げた。
「きっと、高浜さんが素敵な方だったからではないでしょうか」
「は?」
今度は私が首を傾げる番だった。。労せずして素敵な婚約者が手に入るなんて、いまいち男運のない私にしてみれば、羨ましい話だと思うのだけど。
「高浜さんは素敵な男性で……。だけど、父が決めた婚約者です。わたしが自分で好きになって、選んだわけではありません」
「……」
「父も祖父も厳しい人ですけど、すべてわたしのためを思ってのことだと思います。口では煩いことを言っても、本当はわたしのことを可愛がってくれています。父なんて、実は親バカな方かもしれません」
「いいことじゃん」
ますます、私にはわからない。仕事が忙しかったり外に愛人がいたりで家庭や子供を顧みない父親、というのならよく聞く話だけど。
「父の言う通りにしていれば、なにも間違いはないんです。これまでそう生きてきたし、それでわたしは幸せだったと思います。だけど……」
笙子はどことなく悲しそうな目をしていた。
「親に言われた通りに勉強して、親が決めた学校へ通い、そして親が選んだ男性と結婚する……それで幸せな生活を送れるのかもしれません。だけど人から与えられた幸せって、本当の意味での幸せなのでしょうか?」
「……なるほど、ね」
ここまで説明されれば、なんとなくわかる。これまでずっと親の言う通りに生きてきて、その上結婚相手まで親が選ぶとあっては、一生「親から与えられた幸せ」の中で生きていくことになってしまう。
学校なら、そこに通うのはせいぜい数年間。しかし配偶者となると、離婚しない限りは一生の付き合いになる。
おそらく笙子は、漠然と思っていたはずだ。今は親が敷いたレールの上を歩いていても、いずれ学校を卒業して社会人になれば、嫌でも自立しなければならないのだ、と。
しかし、事情が変わってきた。まだ中学生のうちに、結婚相手まで親が決めてしまったことで、一生「与えられた幸せ」の中で生きる自分の姿が見えてしまった。
「昨日は学校の登校日で、帰り道にそんなことを考えていたら急にいたたまれなくなって……。一度くらい自分で道を決めて、自分の思う通りに歩いてみよう、って思ったんです。夏休みなんだし、少しくらい親に心配かけてもいいかなって」
「……で、そのまま家出? 家にも帰らずに?」
これには少し呆れてしまった。私は家出なんてしたことないからよくわからないが、普通、学校帰りにそう思ったら、一度家へ帰って荷物をまとめたりするものではないだろうか。
笙子は着替えも持たず、学校の制服のまま家出してきたのだ。しかも――。
「しかも、いきなり北海道まで来る? 東京から」
「どうせなら遠いところの方がいいかな、と。パスポートを持っていませんでしたから、海外というわけにはいきませんし、沖縄は暑そうですし。それにわたし、北海道は初めてなんですよ」
あっけらかんと言う。さすがお金持ち、庶民と感覚が違う。……というか、かなり天然かもしれない。
私は溜息をついた。
「あんたさぁ、もうちょっと考えて行動した方がいいんじゃない? 何の準備もなしに一人で見知らぬ土地へ来て、危ないとか思わない? その軽率な行動のせいで、……その、……バージン失くしたんだよ? いや、私が悪いんだけどさ」
「でも、自分で決めた行動の結果ですから」
笙子はむしろ、満足げに微笑んでいる。
「これも一つの人生経験です」
「でも、その婚約者に怒られない?」
「怒られるのは、どちらかといえば沙紀さんかと」
「うっ」
「もちろん、父にも高浜さんにも秘密にするつもりですけど……。でも、沙紀さん次第でしょうか」
「うぅっ……」
こいつってば天然ボケのふりして、実は意外と性格悪いかも。
「……わかったよ! ここにいてもいい。でも、夏休みが終わるまでだからね」
「ありがとうございます」
にっこりと笑って微笑む。この顔だけ見ていたら、まるで天使の微笑みなんだけど。
「……でも、電話でも手紙でもいいけど、元気にしてるって家に知らせること。警察に捜索願いとか出されちゃたまんないからね。いい?」
「はい」
「それともう一つ」
私にとってはある意味、こちらの方が大きな問題だ。
「お金は持ってるの? 自分の食費分くらいは出しなさいよ。私は貧乏学生なんだし、世の中そんなに甘くないんだからね」
私も一応、今時の女子大生。オシャレなどにはそれほど興味ないとはいっても、やっぱりそれなりに出費は多い。親からの仕送りとささやかなバイト代だけでは、ほとんど余裕のない生活だ。扶養家族なんて養えるわけがない。
……しかし。
世の中、意外と甘いものらしい。少なくともお金持ちにとっては。
考えてみたら、笙子は気楽に東京から北海道へ来られるだけのお金を持っているはずだ。
「お金でしたら、これがありますから」
そう言って笙子が取り出したのは、私には一生縁がないと思われる物。かの世界一有名なクレジット会社の、ゴールドカードだった。
〈続く〉
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