大晦日の夜ともなれば、家族揃ってご馳走を食べてテレビでも観て……というのが、ごくありきたりな一般家庭の光景だろう。お正月を海外で過ごす、などという場合を除けば。
しかしここ月城家は、その「一般的な」例には当てはまらない。それは別に、かなり珍しいさおりの体質のためではなくて、ちょっと珍しい母親の職業のためだ。
さおりは居間でテレビを観ている。テーブルにはご馳走が並んでいて、年越し蕎麦の用意も整っている。
そこまではいい。だが、そこにいるべき人がいない。お正月だというのに、たった二人の家族が揃わないことには不満を感じるが、仕事となればそれも仕方がないことだろう。
年明け早々に締切を抱えている人気作家の娘に生まれたことを、不幸に思うしかない。もっとも、さおりが生まれた頃の月城みさとは、まだそれほど売れっ子ではなかったのだが。
生まれた時からの母子家庭だから、一人でいるのには慣れている。それでもお正月とかクリスマスのような特別なイベントの日には、少し寂しさを覚えてしまう。
だから、夜十一時少し前にやって来た予想外の来客に、さおりは素直に喜んだ。
「ママ? あたし、初詣に行ってくるね」
母親の仕事部屋の扉をノックして、さおりは言った。返事は期待していなかったが、少し遅れて扉が開き、目の下に濃いくまを作ったみさとが顔を出す。
「初詣? こんな遅くに?」
「うん。友達が誘いに来たから」
「友達……ね」
悪戯な笑みを浮かべたみさとは、階段から身を乗り出して、階下に向かって叫ぶ。
「徹くーん、夜中に二人きりだからって、襲っちゃダメよー!」
階段の上と下で、二人の健全中学生が同時にコケていた。
「……まったく。ママってばなに考えてるのかな」
さおりがぶつぶつと文句を言う。頬が朱いのは、必ずしも凍てついた外気のためだけではなさそうだ。
「いや、まあ……。一応、年頃の娘を持つ親としては、当然の心配かと……」
そう言うクラスメイト、神山徹の顔も朱かった。なんとなく気まずいのか、さおりと目を合わせようとしない。
今のところ友達以上恋人未満の、微妙な関係の二人である。
「ママのあれは心配してるんじゃなくて、単に面白がってるだけよ。娘をからかって遊ぶ親なんて、信じらンない」
「ほら、仕事が忙しい時だから、月城をからかって息抜きしてるんじゃ……」
「息抜きの道具に使われる方はたまんないよ」
月城みさとの小説のファンである徹は、どうしてもみさとを弁護する側に回ってしまう。そして徹が母親の味方をすればそれだけ、さおりは不機嫌になるのだった。
「……でも、誘いに来てくれて嬉しかった。退屈してたんだもん」
「まあ……、俺もヒマだったから」
「ヒマだったから?」
その台詞に、一度緩みかけたさおりの表情が、また険しくなった。
「なーんだ。単なる暇つぶしだったの。あたしを誘いに来たのは」
「え? あ、いや……」
照れ隠しの台詞の揚げ足をとられて、徹は狼狽した。さおりの罠にはまってしまったことを悟る。「許して欲しければ、ちゃんと言って」と、さおりの目が訴えていた。
「いや……その……。つ、月城に、会いたかったから……一緒に、新年を迎えたかったから」
真っ赤になってなんとかそこまで言うと、徹は照れ隠しにそっぽを向く。自分が言わせたくせに、さおりも耳まで真っ赤になって、うつむいてしまった。
会話が途切れると、二人の足の下で踏みしめられた雪がぎゅっぎゅと鳴っているのがはっきりと聞こえる。夕方まで激しく降っていた雪も今は止んで、頭上には雲ひとつない星空が広がっていた。
そして、丸い月が明るく輝いている。
「……そっか。今日は満月なんだ」
さおりは話題を変えた。
この満月ためだったのか。先刻からなんとなく落ち着かないのは。
金色の円盤のような月を見上げていると、背中がむずむずする。
「ね、神山。神社に行く前に、ちょっと寄り道しない?」
「え? ああ、いいよ」
なにも訊き返さずに、徹はうなずいた。秘密を共有しているから、さおりの目的がなにか、訊かなくても分かっている。
二人は街はずれの公園へ向かった。夜はまったく人気のない場所で、冬ともなればなおさらだ。踏み固められた細い道を踏み外すと腰まで雪に埋まってしまうようなところに、好き好んで夜中にやってくる者はいない。
だから、好都合だった。
深い雪に覆われた広い公園の中に入れば、人目にはつかない。
念のため周囲を見回して、他に誰もいないことを確認して。
さおりは月を見上げるような姿勢で、軽く腕を広げて目を閉じた。
心を、解き放つ。
次の瞬間、さおりの背中に一対の翼が出現していた。
朱鷺か白鷺のような、純白の翼。
月明かりを反射して、真珠色の光沢をまとっている。
翼を広げたさおりは、もう、雪の上に足跡を残してはいなかった。
これが、さおりの「かなり珍しい体質」である。月が満ちる数日間だけ、この、不思議な翼が現れるのだ。もちろんそれはただの飾りではなく、ちゃんと翼としての機能を果たすことができる。
自分に翼が生えている理由とか、翼の正体とか。それは本人にも分からない。さおりはただ素直に、その事実だけを受け入れていた。今では「ちょっと好ましい自分の個性のひとつ」と思っている。
本人以外では、徹だけがこの秘密を知っている。さおりの翼についての彼の意見は「可愛いからいいんじゃない?」だった。そのお気楽さが、さおりにとって救いである。
このことは、母親にも話していない。もしもみさとに打ち明けたら、きっと驚くよりも先に小説のネタにされることだろう。だから、内緒にしている。
「んー、気持ちいい」
いっぱいに翼を広げる。
純白の翼に降り注ぐ月光を、さおりは春の暖かな陽射しと同じくらいに気持ちよく感じていた。やはりこの翼と月とは、なんらかの関連があるのだろう。
月明かりの下で空を飛ぶことは、一番の楽しみだ。
それは楽しくて、気持ちよくて。
他人に見られないように気を付けなければならないことだけが煩わしかったが、それでもさおりは満月のたびに空中散歩を楽しんでいた。
微かに翼を動かすと、身体がふわりと宙に浮かぶ。大きく羽ばたく必要はなかった。この翼は、広げているだけで浮力が得られるのだ。
さおりはそのまま、高度を上げていく。
空には、冬の星たちが瞬いていた。
雄大なオリオン座。
おおいぬ座のシリウス。
こいぬ座のプロキオン。
おうし座のアルデバランに、すばる。
冬の夜空はとても賑やかで、美しい。
空気が澄み切っているため、月が明るい割に星はよく見えた。
今夜は空よりもむしろ、地面の方が明るい。
日中積もった雪が月明かりを反射して、街をぼんやりと白く照らしている。
「……きれい」
空から見下ろす雪に覆われた街は、月の色の光に包まれている。
幻想的な眺めだった。
さおりは、その眺望を独り占めしていた。
他の誰も、この位置からこの街並みを見下ろすことはできない。
しんと静まり返ったこの光景は、飛行機やヘリコプターでは決して味わうことのできないものだった。
大気が、凍てついている。
高く昇ると、余計に寒さが身にしみた。
風はまったくない。凍り付いて、結晶化したような空気に包まれている。
「寒……」
さおりは自分の身体をぎゅっと抱いた。
徹が一緒にいれば寒さも気にならないかな、と。ふと思った。
下を見ると、徹がこちらを見上げている。
さおりはちょっとだけ考えて、それから公園に戻っていった。
「お帰り。楽しかった?」
「うん。……それで、ね」
下に降りても、翼は広げたままでいた。足が雪に埋まらないので、徹よりも少しだけ背が高くなる。
「その……久しぶりに、神山も一緒に……飛ぶ?」
さおりは朱い顔をして言った。なんとなく恥ずかしくて、徹の顔をまともに見られなかった。
一緒に飛ぶということは、さおりが徹を抱きかかえるようにして、身体を密着させなければならないということだ。
初めて一緒に飛んだのは、さおりに翼が現れたばかりの頃。その時は自分の身に起こった異常事態に気を取られていたから気にもしなかったが、一度相手を意識しだしてからは恥ずかしくて仕方がない。
それでも今夜は、一緒にあの幻想的な風景を楽しみたいと思った。
「……でもね、変なトコ触ったりしないでよ。エッチなことしたら、そのまま落とすからね」
「しねーよ!」
徹は真っ赤になって言い返すが、その声にはあまり力がこもっていなかった。『前科』があるので強いことが言えないのだ。
「じゃあ……」
さおりは徹の背後に回ると、身体に腕を回した。手が触れた時に一瞬だけ躊躇したが、そのまま徹の腹の前で手を組んだ。
多分、薄着の季節だったらできなかっただろう。冬だから、厚いコートを着ているから、くっついていてもあまり恥ずかしくない。
厚いウールの生地を通して、そんなに簡単に体温が伝わるはずはないのに、気温の低さはまるで気にならなくなって、むしろぽかぽかと暖かいくらいだった。それはどちらかといえば、身体の中からの熱なのだろう。
「じゃ、行くよ」
そう言うと同時に、また翼を大きく広げる。
二人の身体は、ふわりと浮かび上がった。
徹を抱えて一緒に飛ぶのに、腕の力はほとんど必要なかった。ぴったりと寄り添っていれば、翼がもたらす浮力は徹にも作用する。
さおりはゆっくりと高度を上げていった。急上昇して、うっかり徹を落としたりしたら大変だ。
地面と街の灯りがだんだん遠くなり、空が近付いてくる。
徹と二人きりでの空中散歩。
なんだか、幸せだった。
先刻までのような寒さは、まったく感じなくなっていた。
手に、徹の鼓動を感じる。
そのことが少し恥ずかしい。
自分の鼓動も、同じように徹に伝わっているのだろうか。
胸がドキドキする。でも、そのドキドキだって楽しい。
(あたしってやっぱり、神山のこと好きなんだな……)
いまさらのように、実感する。
そういえば、まだ、ちゃんと言ってなかった。
徹からは、半年前に告白されていたけれど。
それに対する正式な回答は、ずっと保留にしたままだった。
せっかくだから、この機会に言うのもいいかもしれない。
これから新年を迎えようとしている時。
美しい星たちに囲まれた夜空の上で二人きり。
ムードは満点だ。
それに、この体勢だと徹からは顔を見られないから、そんなに恥ずかしくないかもしれない。
(……よし)
さおりは心を決めた。
「……ね、神山」
徹の肩にあごを乗せるようにして、耳元でささやく。
「なに?」
当たり前の反応として、徹はこちらを振り返った。
その結果――。
唇が、触れた。
さおりの頬の、それも唇のすぐ横に。
「きゃあっ!」
考える間もなく。
条件反射で、さおりは徹を突き飛ばしてしまっていた。
「うわぁぁぁぁぁ――――っっっ!」
「あ」
ドップラー効果を起こして遠ざかってゆく悲鳴で、我に返る。
見ると、公園の真ん中の足跡ひとつない新雪の上に、きれいな大の字が描かれていた。
「…………だいじょうぶ?」
穴の縁にそうっと降りたさおりは、恐る恐る中をのぞき込んだ。
「……し、死ぬかと思った。マジで」
全身雪まみれで真っ白になった徹が、青い顔をしてよじ登ってくる。どうやら怪我はなさそうだ。
深く積もった雪の上だったのと、高度が少し下がっている時だったのが幸いだった。
「……ごめんなさい」
「いきなりなにするんだよ! 怖かったじゃねーか!」
「でも、だって……あんなコト、するんだもん」
さおりは蚊の鳴くような声で応える。
「あれは事故だろっ? 不可抗力だよ! 月城の顔が、あんなすぐ横にあるなんて思わなかったんだから」
「それは分かってるけど……つい、びっくりして……」
「これが夏だったら、洒落ンなんねーぞ」
「だから、ごめんなさいって」
顔の前で手を合わせて、拝むような動作をする。しかし徹は雪の上に座ると、ぷいと横を向いた。
「いーや、許さん」
「そんなぁ……意地悪ぅ」
さおりは泣きそうな顔になって懇願する。
「……ね、許して?」
「許して欲しかったら…………」
徹は相変わらず仏頂面のまま、さおりを見た。
「……キス、させろよ。今度はちゃんと」
「え……」
一瞬で、さおりは耳まで真っ赤になった。湯気の立ちそうな顔をしてうつむく。
「えっと……、その……」
徹とはこれまで何度か、いい雰囲気になったことはある。だけどそんな時に限って、あとちょっとのところで邪魔が入ったりして、二人はまだキスもしていなかった。
だけど――。
イヤじゃない。
徹とキスするのは、全然イヤじゃない。
ただ、すごく恥ずかしいだけ。
「えっと……あの……。…………い、いいよ」
その一言で、徹の表情がぱっと明るくなった。一瞬前までの不機嫌そうな顔は、どうやら演技だったようだ。
「で、でもっ! キスだけだからね! 胸触ったりとか、押し倒したりとかしたら、許さないから!」
「分かってるって」
「…………なら、いい」
さおりは翼をしまうと、自分も徹の前に座った。
目を閉じて、顔を少しだけ上に向ける。
徹の気配が少しずつ近付いてくる。
相手の体温を感じる。吐き出された息が顔にかかる。
ドキドキ、ドキドキ。
胸が破裂しそう。
(男の子とキスするのって、初めて……)
だけど実は、ファーストキスではない。「男の子と」キスするのが初めてなだけ。
さおりのファーストキスの相手は、同性が好きな女性だった。とは言っても、さおりに同性愛の趣味があるわけではない。一瞬の隙に唇を奪われたのだ。
(美里さんとはキスしたことあるのに、神山としないのは不公平だもんね)
だから、OKした。
徹とだって、キスしてみたい。
あとほんの数ミリで、唇が触れる。
そう感じた瞬間。
ゴン!
なにか、固い物がぶつかる音がした。
「え?」
驚いて目を開ける。と、徹の身体がぐらりと傾いて、先刻自分が作った穴にまた落ちていくところだった。
悲鳴も上がらなかったということは、既に気を失っていたのだろうか。
一瞬前まで徹が座っていた場所に、雪玉が落ちている。いや、固く握られたそれは、限りなく氷玉に近いものだった。どうやらこれが、徹のこめかみを直撃したようだ。
さおりは、氷玉が飛んできたと思われる方向を向いた。
雪原の上を、こちらへ走ってくる人影がある。
背の高い、髪の短い女性。もちろん、よく見知った顔だ。
「……美里さん」
東野美里、近所に住む高校三年生。今年の夏にひょんなきっかけで知り合った。友達というには歳が離れているけれど、以来親しく付き合っている。
さおりのファーストキスの相手でもある。しかし、みさとが同性愛者なのは事実だが、さおりに対して恋愛感情を持っているのかどうかはよくわからない。
「美里さん……どうしてここに?」
「一緒に初詣に行こうと思ってさおりの家に行ったら、男と出かけたっていうからね。慌てて追ってきたの。ホント、危ないところだったわ」
美里は小さく笑って言った。徹をKOした氷玉を拾い上げ、手の中で転がして遊ぶ。
「まったく、この万年発情少年は油断も隙もない。人がちょっと目を離すと」
「だからって、氷ってのは……」
さおりは徹が落ちた穴を覗き込んだ。徹は穴の底で伸びているが、危険なほどの深さではないし、これだけ雪が積もっていれば怪我はないだろう。
「……キスくらい、してもよかったのに」
「なに言ってんの。男なんてみんなケダモノなんだからね」
美里はさおりの両肩に手を置くと、諭すように言った。
「こんな誰も見てないところでキスなんかさせてごらん。次の瞬間には押し倒されて、あーんなことやこーんなことをされることになるんだから。もっと自分を大事にしなきゃダメよ」
「……ケダモノという点では、美里さんも人のこと言えないかと」
さおりは小さな声でつぶやいた。
美里にはファーストキスを奪われたし、しょっちゅう抱きつかれているし、一緒にお風呂に入ろうと誘われるし。
(なんだかなぁ……)
そのどこまでが本気で、どこからが冗談なのかよくわからない。最近は、さおりを取り合ってよく徹と喧嘩しているが、それもどこまでが本気なのやら。
「私はいいの。女同士なんだから。それとも、さおりは嫌だった?」
「別に、嫌じゃないですけど……」
美里にキスされた時、別に嫌悪感はなかった。ただ、ノーマルな恋愛観の持ち主であるさおりには、それを素直に受け入れるのはちょっと抵抗がある、というだけのこと。
美里のことは好きだけれど、その「好き」が徹に対する感情と同じものなのか違うものなのか。違うとしたらどう違うのか。
恋愛経験の少ないさおりにはよくわからなかった。
「……それはそうと、そろそろだっけ」
美里はふと思い出したようにつぶやくと、コートのポケットから懐中時計を取り出して蓋を開けた。口元に笑みが浮かぶ。
「なにがですか?」
「年が明けるのが、さ。……四、三、二、一、ハッピーニューイヤー!」
パチンと時計の蓋を閉めると同時に、美里はさおりに抱きついた。
「新年を迎えた時には、隣にいる人にキスしてもいいんだよね」
顔が近付いてくる。
「そ、それって日本の風習じゃないです」
「固いこと言わないの」
逃げる隙も与えられず、唇が重ねられた。
初めての時はちょんと軽く触れるだけのキスだったけれど、今回はしっかりと抱きしめられて。
女の子同士なのに、やっぱりドキドキした。
(……えー、と……。ゴメンね、神山……)
とりあえず、心の中で徹に謝って。
申し訳なく思いつつも、なんとなく、唇のとろける感触に酔ってしまう。
雪穴の底で気を失っている徹にとっては、この光景を見ずに済んだことが唯一、不幸中の幸いだろう。
長いキスを続ける二人を見守っているのは、南の空に明るく輝く満月だけだった。
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